最終更新: hekikaicinema 2024年06月19日(水) 13:42:47履歴
『商工名鑑 1958』には「映画」を営業品目とする企業として「株式会社松竹座」、「株式会社福知山映画」、「株式会社福知山第一映画」、「株式会社松竹座駅前東映」が掲載されている。松竹座の代表者は上野利明、所在地は東中ノ27、電話は2217。福知山映画の代表者は斉藤定蔵、所在地は東中ノ44、電話は2328。福知山第一映画の代表者は奥田慶三、所在地は東中ノ28、電話は2374。松竹座駅前東映の代表者は上野利明、所在地は駅前216、電話は4232。*1
福知山市の広小路は娯楽面での繁華街であり、明治時代には「常盤館」(1976年現在の「福知山第一映画」)が歌舞伎や新派劇などの興行を行った。また常盤館(当時は東向き)の左側の道路(御霊神社高台の下)を西へ行くと、「福知館」という芝居小屋もあった。*2
1994年、京都府北部の映画情報誌『FAMM』が創刊15周年を迎えた。地元の映画館の上映スケジュール、スタッフによる映画批評を掲載。B5版、8ページ。1994年時点で1000部を発行。1979年7月創刊。1982年頃からは毎月発行している。*3
福知山市の広小路は娯楽面での繁華街であり、明治時代には「常盤館」(1976年現在の「福知山第一映画」)が歌舞伎や新派劇などの興行を行った。また常盤館(当時は東向き)の左側の道路(御霊神社高台の下)を西へ行くと、「福知館」という芝居小屋もあった。*2
1994年、京都府北部の映画情報誌『FAMM』が創刊15周年を迎えた。地元の映画館の上映スケジュール、スタッフによる映画批評を掲載。B5版、8ページ。1994年時点で1000部を発行。1979年7月創刊。1982年頃からは毎月発行している。*3
所在地 : 京都府加佐郡大江町佛性寺
開館年 : 1959年11月3日
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。1969年操業停止/1973年閉山の河守鉱山にあった。閉館後は酒呑童子の里 体育館として建物が存続。跡地は「日本の鬼の交流博物館」西南西110mの芝生広場。最寄駅は京都丹後鉄道宮福線大江山口内宮駅。
1959年11月3日、大江町の河守鉱山に「河守会館」が完成した。*4
1959年11月3日、大江町の河守鉱山に「河守会館」が完成した。*5
1959年11月3日、大江町の河守鉱山に「河守会館」が開館した。*6
大江町の河守鉱山にあった「河守会館」の内部の写真あり。*7
2007年現在も河守鉱山の坑口が残っているほか、選鉱所や乾燥所のコンクリート、映画館の建物が残っている。かつて映画館には2台の映写機が置かれ、1週間に1回の頻度で比較的新しい映画が上映された。600人を収容できる大きさだった。映画館の建物はミニ体育館となっており、合宿で訪れる学生らが使用している。座席の一部は現在も据え付けられている。*8
1956年以降、河守、白滝、豊羽、花輪などの各事業所に会館が建設され、映画や演劇などが行われたり、従業員の集会場として使用された。1961年から1962年頃には従業員の家庭のほとんどにテレビが入ったことで、各会館で行われていた映画の観客数が大幅に減少した。1965年2月には日立鉱山の共楽館と本山劇場における映画の上映が取りやめられ、その他の事業所でも同様の状態となった。*9
2024年のこのほど、京都丹後鉄道大江駅の待合室に旧河守鉱山の映画館「河守会館」で使われていた椅子が置かれた。河守鉱山は京都府最大の銅鉱山であり、1959年に鉱員や家族向けの娯楽施設として河守会館が建てられた。1973年には河守鉱山が閉山となり、河守会館は酒呑童子の里自然環境活用センターという施設名となったが、老朽化によって2023年12月に解体された。跡地には芝生広場が整備されている。2023年4月から9月まで、東京都港区の森美術館で開催さた企画展「ワールド・クラスルーム現代アートの国語・算数・理科・社会」では、展示を鑑賞するための椅子として使われた。森美術館から2023年末に返却されると、福知山市はこのほど大江駅に椅子を設置した。*10
開館年 : 1959年11月3日
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。1969年操業停止/1973年閉山の河守鉱山にあった。閉館後は酒呑童子の里 体育館として建物が存続。跡地は「日本の鬼の交流博物館」西南西110mの芝生広場。最寄駅は京都丹後鉄道宮福線大江山口内宮駅。
1959年11月3日、大江町の河守鉱山に「河守会館」が完成した。*4
1959年11月3日、大江町の河守鉱山に「河守会館」が完成した。*5
1959年11月3日、大江町の河守鉱山に「河守会館」が開館した。*6
大江町の河守鉱山にあった「河守会館」の内部の写真あり。*7
2007年現在も河守鉱山の坑口が残っているほか、選鉱所や乾燥所のコンクリート、映画館の建物が残っている。かつて映画館には2台の映写機が置かれ、1週間に1回の頻度で比較的新しい映画が上映された。600人を収容できる大きさだった。映画館の建物はミニ体育館となっており、合宿で訪れる学生らが使用している。座席の一部は現在も据え付けられている。*8
1956年以降、河守、白滝、豊羽、花輪などの各事業所に会館が建設され、映画や演劇などが行われたり、従業員の集会場として使用された。1961年から1962年頃には従業員の家庭のほとんどにテレビが入ったことで、各会館で行われていた映画の観客数が大幅に減少した。1965年2月には日立鉱山の共楽館と本山劇場における映画の上映が取りやめられ、その他の事業所でも同様の状態となった。*9
2024年のこのほど、京都丹後鉄道大江駅の待合室に旧河守鉱山の映画館「河守会館」で使われていた椅子が置かれた。河守鉱山は京都府最大の銅鉱山であり、1959年に鉱員や家族向けの娯楽施設として河守会館が建てられた。1973年には河守鉱山が閉山となり、河守会館は酒呑童子の里自然環境活用センターという施設名となったが、老朽化によって2023年12月に解体された。跡地には芝生広場が整備されている。2023年4月から9月まで、東京都港区の森美術館で開催さた企画展「ワールド・クラスルーム現代アートの国語・算数・理科・社会」では、展示を鑑賞するための椅子として使われた。森美術館から2023年末に返却されると、福知山市はこのほど大江駅に椅子を設置した。*10
所在地 : 京都府天田郡福知山町
開館年 : 1903年
閉館年 : 1932年
映画館ではなく芝居小屋。
福知座の写真あり。1903年9月1日には御霊神社の裏手に「福知座」が落成した。座主は木崎末吉。当初は半席の芝居小屋だった。1918年に広小路が拡張されると、立派な建物に変わったが、1932年に焼失した。*11
開館年 : 1903年
閉館年 : 1932年
映画館ではなく芝居小屋。
福知座の写真あり。1903年9月1日には御霊神社の裏手に「福知座」が落成した。座主は木崎末吉。当初は半席の芝居小屋だった。1918年に広小路が拡張されると、立派な建物に変わったが、1932年に焼失した。*11
所在地 : 京都府天田郡福知山町内田町(1936年)
開館年 : 1934年以後1936年以前
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「南座」。1936年の映画館名簿では経営者・支配人ともに市川好三、上映系統は記載なし、電話591。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1934年以後1936年以前
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「南座」。1936年の映画館名簿では経営者・支配人ともに市川好三、上映系統は記載なし、電話591。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 京都府加佐郡河守町(1941年)、京都府加佐郡大江町字関(1954年・1955年)
開館年 : 1920年(八千代座)、1955年12月23日(八千代映劇)
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「八千代座」。1943年・1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「八千代座」。1955年の映画館名簿では経営者・支配人ともに上野寿明、250席、上映作品は邦画混合。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
1897年頃、蓼原に常設の芝居小屋「永楽座」が建てられたが、1907年の洪水後に閉館した。1909年頃、河守の金比羅の下に永楽座を移築して「日吉座」が開館した。1918年3月の河守大火では日吉座も焼失した。1920年10月、河守の清園寺の下に「八千代座」が建てられた。後の大江病院の隣である。1954年9月の台風の際には八千代座が倒壊した。1955年、河守駅の横に「八千代映劇」が開館した。*12
1955年12月23日、大江町河守に「八千代映劇」が開館した。開館後には連日大入りが続いたが、テレビの普及によって盛況は長続きせず、すぐに経営不振になったという。1970年3月26日、八千代映劇だった建物が公売に掛けられた。八千代映劇の跡地は大江町営駐車場となった。*13
1954年9月26日、大江町は台風15号による被害を受け、建物の全半壊は37戸を数えた。この台風では河守の「八千代座」が倒壊した。1955年12月23日、大江町河守に「八千代映劇」が開館した。開館後には連日大入りが続いた。1970年3月26日、八千代映劇だった建物が公売に掛けられた。八千代映劇の跡地は大江町営駐車場となった。*14
1955年、八千代映劇が開館した。1956年6月には大江町の児童が八千代映劇で『宇宙人東京に現る』の映画鑑賞会を行い、1957年9月には『南極大陸』の映画鑑賞会を行い、1958年2月には『ピカソ』の映画鑑賞会を行った。*15
1951年5月、大江町関区にあった旧演劇場「八千代座」で大江町商工会の設立総会が開催された。1953年4月には仲町区(現・中央区)に商工会館が落成している。*16
1955年12月23日、大江町河守に「八千代映劇」ができ、連日大入りが続いた。*17
開館年 : 1920年(八千代座)、1955年12月23日(八千代映劇)
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「八千代座」。1943年・1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「八千代座」。1955年の映画館名簿では経営者・支配人ともに上野寿明、250席、上映作品は邦画混合。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
1897年頃、蓼原に常設の芝居小屋「永楽座」が建てられたが、1907年の洪水後に閉館した。1909年頃、河守の金比羅の下に永楽座を移築して「日吉座」が開館した。1918年3月の河守大火では日吉座も焼失した。1920年10月、河守の清園寺の下に「八千代座」が建てられた。後の大江病院の隣である。1954年9月の台風の際には八千代座が倒壊した。1955年、河守駅の横に「八千代映劇」が開館した。*12
1955年12月23日、大江町河守に「八千代映劇」が開館した。開館後には連日大入りが続いたが、テレビの普及によって盛況は長続きせず、すぐに経営不振になったという。1970年3月26日、八千代映劇だった建物が公売に掛けられた。八千代映劇の跡地は大江町営駐車場となった。*13
1954年9月26日、大江町は台風15号による被害を受け、建物の全半壊は37戸を数えた。この台風では河守の「八千代座」が倒壊した。1955年12月23日、大江町河守に「八千代映劇」が開館した。開館後には連日大入りが続いた。1970年3月26日、八千代映劇だった建物が公売に掛けられた。八千代映劇の跡地は大江町営駐車場となった。*14
1955年、八千代映劇が開館した。1956年6月には大江町の児童が八千代映劇で『宇宙人東京に現る』の映画鑑賞会を行い、1957年9月には『南極大陸』の映画鑑賞会を行い、1958年2月には『ピカソ』の映画鑑賞会を行った。*15
1951年5月、大江町関区にあった旧演劇場「八千代座」で大江町商工会の設立総会が開催された。1953年4月には仲町区(現・中央区)に商工会館が落成している。*16
1955年12月23日、大江町河守に「八千代映劇」ができ、連日大入りが続いた。*17
所在地 : 京都府天田郡福知山町(1927年)、京都府天田郡福知山町広小路(1930年・1934年・1936年)、京都府福知山市(1941年)、京都府福知山市広小路(1943年・1947年・1950年)、京都府福知山市東中之町44(1953年・1955年・1958年・1960年)、京都府福知山市東東中之町37(1963年)
開館年 : 1938年頃
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1927年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「松竹館」。1936年の映画館名簿では経営者が桑畑完治、支配人が小谷虎之助、松竹・新・洋画を上映、電話310。1941年・1943年の映画館名簿では「松竹座」。1943年の映画館名簿では経営者が桑畑完治、定員680、電話328。1947年・1950年の映画館名簿では「福知山映画劇場」。1947年の映画館名簿では経営者が日活、定員680、日活を上映、電話328。1950年の映画館名簿では経営者が日活、木造2階、定員573、電話528。1953年の映画館名簿では「福知山第二日活館」。1953年の映画館名簿では経営者が日活、支配人が山田隆一、鉄筋造2階、アメリカ映画を上映、電話328。1955年の映画館名簿では「福知山第二日活」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「福知山外映劇場」。1964年の映画館名簿では「福知山外画劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1975年・1978年・1979年・1983年・1985年のゼンリン住宅地図では跡地に「有料広小路モータープール」。1989年のゼンリン住宅地図では「フレッシュさとう駐車場」。跡地は「広小路パーキング」。最寄駅はJR山陰本線・京都丹後鉄道宮福線福知山駅。
福知座の跡地には、1938年頃に桑畑完治の経営による「松竹座」が建ち、『愛染かつら』が封切られて大ヒットした。戦後には「福知山第二日活」や「福知山外映」などに改称したが、1976年現在は取り壊されて駐車場になっている。*18
1918年には広小路が西に延長され、「福知座」は改築されて堂々とした芝居小屋となった。後に「松竹座」という映画館に転換し、1995年現在はモータープールとなっている。大正末期の福知座の写真あり。*19
1940年の福知山市にあった「松竹座映画館」の写真あり。1903年に開館した劇場「福知座」は、昭和初期に映画館に転換して「松竹座」に改称し、1934年に建て替えられた。右隣は「カフェー・みやこ」である。*20
1957年頃の「第二日活館」の写真あり。「福知山第二日活」の文字が見える。『リオ・グランデの砦』の看板が見える。*21
開館年 : 1938年頃
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1927年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「松竹館」。1936年の映画館名簿では経営者が桑畑完治、支配人が小谷虎之助、松竹・新・洋画を上映、電話310。1941年・1943年の映画館名簿では「松竹座」。1943年の映画館名簿では経営者が桑畑完治、定員680、電話328。1947年・1950年の映画館名簿では「福知山映画劇場」。1947年の映画館名簿では経営者が日活、定員680、日活を上映、電話328。1950年の映画館名簿では経営者が日活、木造2階、定員573、電話528。1953年の映画館名簿では「福知山第二日活館」。1953年の映画館名簿では経営者が日活、支配人が山田隆一、鉄筋造2階、アメリカ映画を上映、電話328。1955年の映画館名簿では「福知山第二日活」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「福知山外映劇場」。1964年の映画館名簿では「福知山外画劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1975年・1978年・1979年・1983年・1985年のゼンリン住宅地図では跡地に「有料広小路モータープール」。1989年のゼンリン住宅地図では「フレッシュさとう駐車場」。跡地は「広小路パーキング」。最寄駅はJR山陰本線・京都丹後鉄道宮福線福知山駅。
福知座の跡地には、1938年頃に桑畑完治の経営による「松竹座」が建ち、『愛染かつら』が封切られて大ヒットした。戦後には「福知山第二日活」や「福知山外映」などに改称したが、1976年現在は取り壊されて駐車場になっている。*18
1918年には広小路が西に延長され、「福知座」は改築されて堂々とした芝居小屋となった。後に「松竹座」という映画館に転換し、1995年現在はモータープールとなっている。大正末期の福知座の写真あり。*19
1940年の福知山市にあった「松竹座映画館」の写真あり。1903年に開館した劇場「福知座」は、昭和初期に映画館に転換して「松竹座」に改称し、1934年に建て替えられた。右隣は「カフェー・みやこ」である。*20
1957年頃の「第二日活館」の写真あり。「福知山第二日活」の文字が見える。『リオ・グランデの砦』の看板が見える。*21
所在地 : 京都府福知山市広小路(1950年)、京都府福知山市東中之町27(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、京都府福知山市本中の町27(1966年)、京都府福知山市東中の町27(1969年)、京都府福知山市東中の27(1973年)
開館年 : 1947年
閉館年 : 1973年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「福知山松竹座」。1950年の映画館名簿では経営者が松竹座と上野寿雄、木造2階、定員550、電話293と193。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「松竹座」。1953年の映画館名簿では経営者が松竹座、支配人が足立京暉、木造2階、松竹・東映を上映、電話293。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「福知山松竹座」。1966年の関西図書出版社福知山市住宅地図では「松竹座」。1975年のゼンリン住宅地図では「松竹座」。1977年・1980年の映画館名簿には掲載されていない。1978年のゼンリン住宅地図では「福知山商工会館」。1985年・1989年のゼンリン住宅地図では「福知山市商工会館 商工会議所」。跡地は「福知山商工会議所」。最寄駅はJR山陰本線・京都丹後鉄道宮福線福知山駅。
1958年12月30日、福知山市の株式会社松竹座の従業員14人が組合を結成し、労働基準法の順守や有給休暇の確立などを要求した。株式会社松竹座は14人全員の解雇を通知し、新規採用者によって興行を強行した。福知山地方労働協議会は争議を問題視し。1959年1月5日には株式会社松竹座から斡旋案が出されたが組合は拒否し、2月14日には京都地方裁判所に対して身分保全の仮処分申請を提出した。*22
1969年1月、福知山市にある「福知山松竹座」と「福知山駅前東映」の経営権委譲契約が終了し、松竹の直営館は34館から32館に減少した。*23
平尾吉三が経営し、その後経営を上野寿雄に引継いだ。1947年には上野寿雄の長男の上野利明が映画館の「松竹座」に改称し、1973年まで営業した。1976年現在は福知山商工会館として種々の団体が利用している。*24
昭和30年代の福知山市にあった映画館「松竹座」の写真あり。1961年公開の松竹映画『暗黒街の静かな男』の看板が見える。右端には映画館「福知山外映」も見える。2019年現在の松竹座の跡地には商工会館が建っている。映画だけではなく芝居の興行も行われた。広小路商店街のアーケードは1958年に完成したが、老朽化が進んだため2012年に撤去された。*25
開館年 : 1947年
閉館年 : 1973年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「福知山松竹座」。1950年の映画館名簿では経営者が松竹座と上野寿雄、木造2階、定員550、電話293と193。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「松竹座」。1953年の映画館名簿では経営者が松竹座、支配人が足立京暉、木造2階、松竹・東映を上映、電話293。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「福知山松竹座」。1966年の関西図書出版社福知山市住宅地図では「松竹座」。1975年のゼンリン住宅地図では「松竹座」。1977年・1980年の映画館名簿には掲載されていない。1978年のゼンリン住宅地図では「福知山商工会館」。1985年・1989年のゼンリン住宅地図では「福知山市商工会館 商工会議所」。跡地は「福知山商工会議所」。最寄駅はJR山陰本線・京都丹後鉄道宮福線福知山駅。
1958年12月30日、福知山市の株式会社松竹座の従業員14人が組合を結成し、労働基準法の順守や有給休暇の確立などを要求した。株式会社松竹座は14人全員の解雇を通知し、新規採用者によって興行を強行した。福知山地方労働協議会は争議を問題視し。1959年1月5日には株式会社松竹座から斡旋案が出されたが組合は拒否し、2月14日には京都地方裁判所に対して身分保全の仮処分申請を提出した。*22
1969年1月、福知山市にある「福知山松竹座」と「福知山駅前東映」の経営権委譲契約が終了し、松竹の直営館は34館から32館に減少した。*23
平尾吉三が経営し、その後経営を上野寿雄に引継いだ。1947年には上野寿雄の長男の上野利明が映画館の「松竹座」に改称し、1973年まで営業した。1976年現在は福知山商工会館として種々の団体が利用している。*24
昭和30年代の福知山市にあった映画館「松竹座」の写真あり。1961年公開の松竹映画『暗黒街の静かな男』の看板が見える。右端には映画館「福知山外映」も見える。2019年現在の松竹座の跡地には商工会館が建っている。映画だけではなく芝居の興行も行われた。広小路商店街のアーケードは1958年に完成したが、老朽化が進んだため2012年に撤去された。*25
所在地 : 京都府福知山市駅前下川216(1958年・1959年・1960年)、京都府福知山市下川田21(1963年)、京都府福知山市布下川田21(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1982年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1982年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1959年・1960年の映画館名簿では「福知山駅前東映」。1963年・1966年の映画館名簿では「福知山駅前東映劇場」。1966年の関西図書出版社福知山市住宅地図では「駅前東映」。1969年の映画館名簿では「福知山駅前東映劇場」。1973年・1980年・1982年の映画館名簿では「福知山駅前東映」。1975年・1978年・1979年のゼンリン住宅地図では「駅前東映」。1980年の映画館名簿では経営会社は福知山松竹座、経営者・支配人ともに上野利明、木造1階、400席、松竹と東映と洋画を上映。1983年・1985年・1989年のゼンリン住宅地図では跡地に「駅前新明和ビル」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「駅前新明和ビル」。最寄駅はJR山陰本線・京都丹後鉄道宮福線福知山駅。
1969年1月、福知山市にある「福知山松竹座」と「福知山駅前東映」の経営権委譲契約が終了し、松竹の直営館は34館から32館に減少した。*26
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1982年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1959年・1960年の映画館名簿では「福知山駅前東映」。1963年・1966年の映画館名簿では「福知山駅前東映劇場」。1966年の関西図書出版社福知山市住宅地図では「駅前東映」。1969年の映画館名簿では「福知山駅前東映劇場」。1973年・1980年・1982年の映画館名簿では「福知山駅前東映」。1975年・1978年・1979年のゼンリン住宅地図では「駅前東映」。1980年の映画館名簿では経営会社は福知山松竹座、経営者・支配人ともに上野利明、木造1階、400席、松竹と東映と洋画を上映。1983年・1985年・1989年のゼンリン住宅地図では跡地に「駅前新明和ビル」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「駅前新明和ビル」。最寄駅はJR山陰本線・京都丹後鉄道宮福線福知山駅。
1969年1月、福知山市にある「福知山松竹座」と「福知山駅前東映」の経営権委譲契約が終了し、松竹の直営館は34館から32館に減少した。*26
所在地 : 京都府天田郡福知山町(1925年)、京都府天田郡福知山町広小路(1927年・1930年・1934年・1936年)、京都府福知山市広小路(1941年・1943年・1947年・1950年)、京都府福知山市東中之町28(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、京都府福知山市本中の町字東中28(1966年)、京都府福知山市東中の町字東中28(1969年)、京都府福知山市東中の281(1973年・1976年)、京都府福知山市東中ノ28(1980年)、京都府福知山市東中ノ町28(1985年)、京都府福知山市東中の28(1990年)、京都府福知山市東中の町28(1995年)、京都府福知山市東中ノ28(2000年・2005年)
開館年 : 1925年以前(電気館)、1953年(福知山東宝劇場)、1986年(福知山スカラ座)
閉館年 : 2006年2月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1925年・1927年の映画館名簿では「電気館」。1930年の映画館名簿では「福知山電気館」。1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「電気館」。1936年の映画館名簿では経営者が京都土地、支配人が細川源次郎、日活を上映、電話374。1943年の映画館名簿では経営者が京都土地、定員736、電話374。1947年の映画館名簿では「福知山日活」。1947年の映画館名簿では経営者が日活、定員736、各社を上映、電話374。1950年の映画館名簿では「福知山日活館」。1950年の映画館名簿では経営者が日活、木造2階、定員629、電話374。1953年の映画館名簿では「福知山第一日活館」。1953年の映画館名簿では経営者が日活、支配人が日高好男、木造2階、東宝・大映・新東宝を上映、電話374。1955年・1958年の映画館名簿では「福知山第一日活」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「福知山第一映画」。1966年の関西図書出版社福知山市住宅地図では「福知山第一映画」。1969年の映画館名簿では「福知山第一映画劇場」。1975年のゼンリン住宅地図では「福知山第一映画」。1978年・1979年のゼンリン住宅地図では「福知山第一映画劇場」。1980年の映画館名簿では「福知山東宝第一映画劇場」。1980年の映画館名簿では木造2階部分425席、経営会社は関西共栄興行、経営者は友重安功、支配人は中野繁、東宝とにっかつと洋画を上映。1983年のゼンリン住宅地図では「福知山東宝第一映画劇場」。1985年・1989年のゼンリン住宅地図では「福知山第一ビル 2階福知山スカラ座・東宝劇場」。1985年・1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「福知山東宝劇場・福知山スカラ座」(2館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅はJR山陰本線・京都丹後鉄道宮福線福知山駅。
1963年の福知山市にあった映画館「東宝映画館」の写真あり。戦前から福知山には「常盤館」や「福知座」などの芝居小屋があった。戦後の広小路には「松竹座」や「東宝」や「外映」などの映画館があり、福知山駅前には「東映」があった。東宝は「電気館」、「第一映画館」、「東宝」というふうに名称が変わった。2004年現在の跡地の写真あり。「福知山 スカラ座 東宝劇場」の文字が見える。建物1階はスーパーになっているが、2階は福知山市唯一の映画館「福知山東宝スカラ座」が営業している。また、松竹座跡地は商工会議所に、外映や東映の跡地は駐車場になっている。*27
1954年の福知山市にあった広小路の写真あり。一井靴店の店先から、2019年現在の映画館「福知山シネマ」や「まちのば」の方向を写している。*28
福知山東宝劇場では、1986年3月20日-31日は『ドラえもん』『オバケのQ太郎』『プロゴルファー猿』、4月1日-4月12日は『キン肉マン』『フラッシュマン』、4月12日-5月2日は『タッチ』『テイク・イット・イージー』、5月3日-は『キャバレー』『彼のオートバイ 彼女の島』を上映予定。福知山スカラ座では、1986年3月15日-4月11日は『アリオン』『うる星やつら』、4月12日-5月2日は『阿修羅』『ドン松五郎の生涯』、5月3日-は『北斗の拳』を上映予定。*29
映画最盛期の福知山市内には5館の映画館があり、うち3館が広小路にあった。2005年現在では福知山東宝劇場・スカラ座のみが残っている。*30
開館年 : 1925年以前(電気館)、1953年(福知山東宝劇場)、1986年(福知山スカラ座)
閉館年 : 2006年2月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1925年・1927年の映画館名簿では「電気館」。1930年の映画館名簿では「福知山電気館」。1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「電気館」。1936年の映画館名簿では経営者が京都土地、支配人が細川源次郎、日活を上映、電話374。1943年の映画館名簿では経営者が京都土地、定員736、電話374。1947年の映画館名簿では「福知山日活」。1947年の映画館名簿では経営者が日活、定員736、各社を上映、電話374。1950年の映画館名簿では「福知山日活館」。1950年の映画館名簿では経営者が日活、木造2階、定員629、電話374。1953年の映画館名簿では「福知山第一日活館」。1953年の映画館名簿では経営者が日活、支配人が日高好男、木造2階、東宝・大映・新東宝を上映、電話374。1955年・1958年の映画館名簿では「福知山第一日活」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「福知山第一映画」。1966年の関西図書出版社福知山市住宅地図では「福知山第一映画」。1969年の映画館名簿では「福知山第一映画劇場」。1975年のゼンリン住宅地図では「福知山第一映画」。1978年・1979年のゼンリン住宅地図では「福知山第一映画劇場」。1980年の映画館名簿では「福知山東宝第一映画劇場」。1980年の映画館名簿では木造2階部分425席、経営会社は関西共栄興行、経営者は友重安功、支配人は中野繁、東宝とにっかつと洋画を上映。1983年のゼンリン住宅地図では「福知山東宝第一映画劇場」。1985年・1989年のゼンリン住宅地図では「福知山第一ビル 2階福知山スカラ座・東宝劇場」。1985年・1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「福知山東宝劇場・福知山スカラ座」(2館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅はJR山陰本線・京都丹後鉄道宮福線福知山駅。
1963年の福知山市にあった映画館「東宝映画館」の写真あり。戦前から福知山には「常盤館」や「福知座」などの芝居小屋があった。戦後の広小路には「松竹座」や「東宝」や「外映」などの映画館があり、福知山駅前には「東映」があった。東宝は「電気館」、「第一映画館」、「東宝」というふうに名称が変わった。2004年現在の跡地の写真あり。「福知山 スカラ座 東宝劇場」の文字が見える。建物1階はスーパーになっているが、2階は福知山市唯一の映画館「福知山東宝スカラ座」が営業している。また、松竹座跡地は商工会議所に、外映や東映の跡地は駐車場になっている。*27
1954年の福知山市にあった広小路の写真あり。一井靴店の店先から、2019年現在の映画館「福知山シネマ」や「まちのば」の方向を写している。*28
福知山東宝劇場では、1986年3月20日-31日は『ドラえもん』『オバケのQ太郎』『プロゴルファー猿』、4月1日-4月12日は『キン肉マン』『フラッシュマン』、4月12日-5月2日は『タッチ』『テイク・イット・イージー』、5月3日-は『キャバレー』『彼のオートバイ 彼女の島』を上映予定。福知山スカラ座では、1986年3月15日-4月11日は『アリオン』『うる星やつら』、4月12日-5月2日は『阿修羅』『ドン松五郎の生涯』、5月3日-は『北斗の拳』を上映予定。*29
映画最盛期の福知山市内には5館の映画館があり、うち3館が広小路にあった。2005年現在では福知山東宝劇場・スカラ座のみが残っている。*30
所在地 : 京都府福知山市東中ノ町28-1(2010年・2015年・2016年・2018年・2020年・2022年)
開館年 : 2007年8月4日
閉館年 : 営業中
Wikipedia
公式サイト
前身館は福知山東宝劇場。2010年・2015年・2016年の映画館名簿では「福知山シネマ1・2」(2館)。2018年・2020年・2022年の映画館名簿では「福知山シネマ1・2・3」(3館)。2022年の映画館名簿では経営会社がシマフィルム、経営者が志摩敏樹、支配人が新城出、1が134席、2が120席、3が66席。最寄駅はJR山陰本線・京都丹後鉄道宮福線福知山駅。
2007年7月中をめどに、福知山市の広小路通りに映画館「福知山シネマ」(仮称)が開館する。2006年2月に休館した映画館を利用する。120席の2スクリーンを有する。運営は舞鶴市の映画制作会社であるシマフィルムであり、映画プロデューサーの志摩敏樹が代表を務める。東宝系の新作やアート系話題作を上映し、地域に関連した企画上映なども行う。亀岡市以北の一般常設館は舞鶴市の1施設のみである。*31
2007年8月4日、福知山市東中ノ町に映画館「福知山シネマ」が開館する予定。2006年2月に休館した映画館を改装した。運営は映画制作会社のシマフィルムであり、映画館の経営は初となる。2スクリーンがあり、それぞれ130席を有する。*32
2007年7月27日、福知山市東中ノ町の映画館「福知山シネマ」で上映会と懇親会が開催された。地元の商工会議所、興行・配給関係者ら約50人が招かれ、映画館を運営するシマフィルムの新作『かぞくのひけつ』が上映された。8月4日に開館する予定であり、初日には『ドラえもん』と『名探偵コナン』の旧作、『選挙』と『かぞくのひけつ』を上映する。京都府北部では久々の映画館となる。*33
2007年8月4日、福知山市東中ノ町の広小路通りに映画館「福知山シネマ」が開館する。市内最後の映画館である福知山東宝劇場・スカラ座の休館から約1年半ぶりの劇場復活。運営者は「シマフィルム」(代表は志摩敏樹)。福知山シネマにはそれぞれ約140席の2スクリーンがあり、スタッフは地元の若者ら7人。独立系作品も上映する。*34
2012年3月末には兵庫県豊岡市の豊岡劇場が閉館し、北近畿の映画館はシマフィルムが運営する福知山シネマと舞鶴八千代館の2館のみとなった。福知山シネマは2012年5月21日から5月24日まで休館し、洋式トイレの整備、2館それぞれのデジタル化、スクリーン交換などを行う。5月25日からは『メン・イン・ブラック3』を3Dで上映する。*35
2012年5月25日には福知山シネマが上映再開。館内に多目的スペース「シネマ・プラス」を設置した。*36
2014年5月10日、福知山市中ノの映画館「福知山シネマ」の隣に空き店舗を改装した複合施設「まちのば」がオープンする。福知山シネマなどを運営する「シマフィルム」(舞鶴市)が金融機関が使っていた店舗を改修した。鉄筋コンクリート造3階建て、延床面積約390平方メートルの施設は国の助成を受け、総額約9000万円で新たに生まれ変わった。1階はコミュニティースペースとして有料で貸し出す。舞台や35ミリフィルム映写機などを備え、上映会や演劇、公園、展示会などに使える。2階にはブックカフェがあり、国内や海外の文学作品や画集などの古本約3500冊をそろえている。コーヒーなどを呑みながら読書ができ、また本の購入もできる。シマフィルムの西村優作(29)が東京都内の古書店などで半年かけてそろえたという。*37
2014年5月10日には「まちのば」がオープン。1階のコミュニティスペース、2階のブックカフェからなる。ブックカフェには、東京の一箱古本市でグランプリ受賞経験のある、ブックキュレーターの西村優作が収集した3000冊以上の古本を設置。キャラクター「モジカちゃん」は漫画家の西島大介によるデザイン。まちのばのオープニングイベントとして、1階では「福知山名作劇場 日活映画の青春」と題した名画の特集上映を開催。5月24日から6月1日には『嵐を呼ぶ男』『伊豆の踊子』『キューポラのある街』『紅の拳銃』『さすらい』『夜霧よ今夜も有難う』の6作品を、8月23日から8月31日の会期2には『幕末太陽傳』『拳銃は俺のパスポート』『憎いあンちくしょう』『狂った果実』『愛と死をみつめて』『豚と軍艦』の6作品を上映した。*38
2017年8月、福知山市唯一の映画館「福知山シネマ」が開館10周年を迎える。記念イベントとして福知山市在住の漫画家であるこうの史代が原作で話題のアニメ映画「この世界の片隅に」のパネル展を開催し、2月4日から同作品を上映。2月20日にはこうのが福知山シネマを訪れた。パネル展には無料で入場でき、原画の複製など約50点を展示した。2月4日には、こうのと片渕須直監督のトークショーも開催する。こうのは2016年2月、夫の実家がある福知山市に転居。福知山シネマ支配人の細川龍作(34)が10周年イベント企画中にこれを知り、参加を依頼した。かつて福知山市には複数の映画館があったが、人口減少の影響もあって2006年までに全て姿を消した。しかし、舞鶴市の映画製作会社シマフィルムの志摩敏樹代表が、閉館した映画館を活用して2007年8月4日に福知山シネマを開館させた。中心部の広小路商店街にある同シネマは客足が伸び悩んだ時期もあったが、2012年に立体映像(3D)に対応するためデジタル上映設備を導入。2014年には隣の空き店舗を改修して多目的スペース「まちのば」をオープンするなど、「街の映画館」として市民に受け入れられてきた。*39
「福知山シネマ」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*40
「福知山シネマ」に言及している書籍として、大屋尚浩『日本懐かし映画館大全』辰巳出版、2017年がある。*41
2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
開館年 : 2007年8月4日
閉館年 : 営業中
Wikipedia
公式サイト
前身館は福知山東宝劇場。2010年・2015年・2016年の映画館名簿では「福知山シネマ1・2」(2館)。2018年・2020年・2022年の映画館名簿では「福知山シネマ1・2・3」(3館)。2022年の映画館名簿では経営会社がシマフィルム、経営者が志摩敏樹、支配人が新城出、1が134席、2が120席、3が66席。最寄駅はJR山陰本線・京都丹後鉄道宮福線福知山駅。
2007年7月中をめどに、福知山市の広小路通りに映画館「福知山シネマ」(仮称)が開館する。2006年2月に休館した映画館を利用する。120席の2スクリーンを有する。運営は舞鶴市の映画制作会社であるシマフィルムであり、映画プロデューサーの志摩敏樹が代表を務める。東宝系の新作やアート系話題作を上映し、地域に関連した企画上映なども行う。亀岡市以北の一般常設館は舞鶴市の1施設のみである。*31
2007年8月4日、福知山市東中ノ町に映画館「福知山シネマ」が開館する予定。2006年2月に休館した映画館を改装した。運営は映画制作会社のシマフィルムであり、映画館の経営は初となる。2スクリーンがあり、それぞれ130席を有する。*32
2007年7月27日、福知山市東中ノ町の映画館「福知山シネマ」で上映会と懇親会が開催された。地元の商工会議所、興行・配給関係者ら約50人が招かれ、映画館を運営するシマフィルムの新作『かぞくのひけつ』が上映された。8月4日に開館する予定であり、初日には『ドラえもん』と『名探偵コナン』の旧作、『選挙』と『かぞくのひけつ』を上映する。京都府北部では久々の映画館となる。*33
2007年8月4日、福知山市東中ノ町の広小路通りに映画館「福知山シネマ」が開館する。市内最後の映画館である福知山東宝劇場・スカラ座の休館から約1年半ぶりの劇場復活。運営者は「シマフィルム」(代表は志摩敏樹)。福知山シネマにはそれぞれ約140席の2スクリーンがあり、スタッフは地元の若者ら7人。独立系作品も上映する。*34
2012年3月末には兵庫県豊岡市の豊岡劇場が閉館し、北近畿の映画館はシマフィルムが運営する福知山シネマと舞鶴八千代館の2館のみとなった。福知山シネマは2012年5月21日から5月24日まで休館し、洋式トイレの整備、2館それぞれのデジタル化、スクリーン交換などを行う。5月25日からは『メン・イン・ブラック3』を3Dで上映する。*35
2012年5月25日には福知山シネマが上映再開。館内に多目的スペース「シネマ・プラス」を設置した。*36
2014年5月10日、福知山市中ノの映画館「福知山シネマ」の隣に空き店舗を改装した複合施設「まちのば」がオープンする。福知山シネマなどを運営する「シマフィルム」(舞鶴市)が金融機関が使っていた店舗を改修した。鉄筋コンクリート造3階建て、延床面積約390平方メートルの施設は国の助成を受け、総額約9000万円で新たに生まれ変わった。1階はコミュニティースペースとして有料で貸し出す。舞台や35ミリフィルム映写機などを備え、上映会や演劇、公園、展示会などに使える。2階にはブックカフェがあり、国内や海外の文学作品や画集などの古本約3500冊をそろえている。コーヒーなどを呑みながら読書ができ、また本の購入もできる。シマフィルムの西村優作(29)が東京都内の古書店などで半年かけてそろえたという。*37
2014年5月10日には「まちのば」がオープン。1階のコミュニティスペース、2階のブックカフェからなる。ブックカフェには、東京の一箱古本市でグランプリ受賞経験のある、ブックキュレーターの西村優作が収集した3000冊以上の古本を設置。キャラクター「モジカちゃん」は漫画家の西島大介によるデザイン。まちのばのオープニングイベントとして、1階では「福知山名作劇場 日活映画の青春」と題した名画の特集上映を開催。5月24日から6月1日には『嵐を呼ぶ男』『伊豆の踊子』『キューポラのある街』『紅の拳銃』『さすらい』『夜霧よ今夜も有難う』の6作品を、8月23日から8月31日の会期2には『幕末太陽傳』『拳銃は俺のパスポート』『憎いあンちくしょう』『狂った果実』『愛と死をみつめて』『豚と軍艦』の6作品を上映した。*38
2017年8月、福知山市唯一の映画館「福知山シネマ」が開館10周年を迎える。記念イベントとして福知山市在住の漫画家であるこうの史代が原作で話題のアニメ映画「この世界の片隅に」のパネル展を開催し、2月4日から同作品を上映。2月20日にはこうのが福知山シネマを訪れた。パネル展には無料で入場でき、原画の複製など約50点を展示した。2月4日には、こうのと片渕須直監督のトークショーも開催する。こうのは2016年2月、夫の実家がある福知山市に転居。福知山シネマ支配人の細川龍作(34)が10周年イベント企画中にこれを知り、参加を依頼した。かつて福知山市には複数の映画館があったが、人口減少の影響もあって2006年までに全て姿を消した。しかし、舞鶴市の映画製作会社シマフィルムの志摩敏樹代表が、閉館した映画館を活用して2007年8月4日に福知山シネマを開館させた。中心部の広小路商店街にある同シネマは客足が伸び悩んだ時期もあったが、2012年に立体映像(3D)に対応するためデジタル上映設備を導入。2014年には隣の空き店舗を改修して多目的スペース「まちのば」をオープンするなど、「街の映画館」として市民に受け入れられてきた。*39
「福知山シネマ」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*40
「福知山シネマ」に言及している書籍として、大屋尚浩『日本懐かし映画館大全』辰巳出版、2017年がある。*41
2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
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