日本の映画館の総合データベースです。



舞鶴市

舞鶴市の映画館
1941年9月時点の東舞鶴市には5館の常設映画館がある。9月の各館の入場者数は、「東舞鶴新興」が39,554人、「東舞鶴映画劇場」が25,815人、「旭座」が20,005人、「八千代館」が13,091人、「旭キネマ」11,124人であり、合わせて10万人を突破している。*1

選挙区が悪化した1944年頃からは映画館が相次いで閉鎖や廃業に追いこまれた。戦後には映画が大衆娯楽の中心となり、1959年4月1日時点の舞鶴市には7館の映画館があった。1958年の入場者数は7館計118万9968人を数え、市民1人当たり年間11.6回入場したことになる。しかし、その後はテレビの普及が目覚ましく、1958年をピークに映画館入場者数は減少した。1972年の入場者数は4館計18万1663人であり、1979年には東舞鶴の2館を残すのみとなった。*2
帝国館
所在地 : 京都府加佐郡新舞鶴町(1925年)【西舞鶴】
開館年 : 1922年以前
閉館年 : 1925年以後1927年以前
1925年の映画館名簿では「帝国館」。1927年の映画館名簿には掲載されていない。

1922年時点の新舞鶴町には、常設映画館として「帝国館」と「新舞鶴座」の2館がある。1938年時点の舞鶴町には、常設映画館として「旭館」と「八千代館」がある。旭館は197坪、定員607、個人経営。八千代館は77坪、定員360、個人経営。舞鶴町には映画館ではなく劇場として「舞鶴座」もある。舞鶴座は270坪、定員825、個人経営。*3
新舞鶴座
所在地 : 京都府加佐郡新舞鶴町(1925年)【西舞鶴】
開館年 : 1905年
閉館年 : 1925年以後1927年以前
1925年の映画館名簿では「新舞鶴座」。1927年の映画館名簿には掲載されていない。

1922年時点の新舞鶴町には、常設映画館として「帝国館」と「新舞鶴座」の2館がある。1938年時点の舞鶴町には、常設映画館として「旭館」と「八千代館」がある。旭館は197坪、定員607、個人経営。八千代館は77坪、定員360、個人経営。舞鶴町には映画館ではなく劇場として「舞鶴座」もある。舞鶴座は270坪、定員825、個人経営。*4

1902年には東舞鶴町の八島通六条に「稲荷座」が新築された。また1905年には八島通八条角に「新舞鶴座」が落成した。三条海岸の「群鶴座」では、1911年9月16日と17日に琵琶同好会が開催され、衣川美由幾、山岡薩南などが出演した。1911年11月30日から12月1日には舞鶴町の「縦楽座」において、今様能狂言の名優といわれた泉祐三郎一座が舞鶴紫泉会に招かれて来演した。1912年6月には東舞鶴の稲荷座で翠香園一座の壮士芝居が、また1912年9月には劇場は不明ながら静間小次郎劇団の新派劇が興行された。1913年5月26日には鳥取巡業から大阪に帰る途中の市川斎入、右団次、嵐巌、実川八百歳、浅尾関十郎、嵐村右衛門などの大歌舞伎一行が舞鶴町の「舞鶴座」で公演した。福知山町や綾部町や新舞鶴町からの観劇者には片道の汽車賃を割り戻し、余部町(中舞鶴)や宮津町からの観劇者にも汽車賃を割り戻すなどし、高い評判を得た。*5
舞鶴座
所在地 : 京都府加佐郡舞鶴町(1927年・1930年)【西舞鶴】
開館年 : 1898年
閉館年 : 1930年以後1934年以前
1925年の映画館名簿には掲載されていない。1927年・1930年の映画館名簿では「舞鶴座」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。

1898年には東舞鶴の鎮守府街道に「舞鶴座」が新築された。1901年には東舞鶴の朝代新地にある「縦楽座」が改築された。*6
八千代館(西舞鶴)
所在地 : 京都府加佐郡舞鶴町字浜(1927年)、京都府加佐郡舞鶴町(1930年)、京都府加佐郡舞鶴町魚屋町(1934年・1936年)【西舞鶴】
開館年 : 1927年以前
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1927年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「八千代館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
東まいづる新興/東舞鶴大映劇場
所在地 : 京都府東舞鶴市八島通り六条(1941年)、京都府舞鶴市八島通(1943年)【東舞鶴】
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「東まいづる新興」。1943年の映画館名簿では「東舞鶴大映劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

舞鶴軍港の影響で東舞鶴の人口が増加し、1941年10月時点では東舞鶴に「東舞鶴新興」、「東舞鶴映画劇場」、「旭座」、「八千代館」、「旭キネマ」の5館の常設館が存在した。1941年9月の入場者数は、東舞鶴新興が3万9554人、東舞鶴映画劇場が2万5815人、旭座が2万5人、八千代館が1万3091人、旭キネマが1万1124人である。しかし、戦争が敗色濃厚となった1944年頃から東舞鶴の常設館は相次いで閉鎖された。*7
東舞鶴映劇
所在地 : 京都府舞鶴市七条通り敷島角(1943年)【東舞鶴】
開館年 : 1941年以後1943年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「東舞鶴映劇」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

舞鶴軍港の影響で東舞鶴の人口が増加し、1941年10月時点では東舞鶴に「東舞鶴新興」、「東舞鶴映画劇場」、「旭座」、「八千代館」、「旭キネマ」の5館の常設館が存在した。1941年9月の入場者数は、東舞鶴新興が3万9554人、東舞鶴映画劇場が2万5815人、旭座が2万5人、八千代館が1万3091人、旭キネマが1万1124人である。しかし、戦争が敗色濃厚となった1944年頃から東舞鶴の常設館は相次いで閉鎖された。*8
キネマ旭館/寿座/八千代館(中舞鶴)/旭キネマ
所在地 : 京都府加佐郡舞鶴町(1934年)、京都府加佐郡舞鶴町旭通(1936年)、京都府東舞鶴市余部上花木通(1941年)、京都府舞鶴市中舞鶴(1943年)、京都府舞鶴市中舞鶴上2丁目(1947年)、京都府舞鶴市余部上3丁目(1949年)、京都府舞鶴市中舞鶴余部(1950年)、京都府舞鶴市余部上3(1953年)、京都府舞鶴市余部上本町3丁目(1955年)、京都府舞鶴市余部上本町3-1215(1958年)、京都府舞鶴市余部上3丁目(1960年・1961年)【中舞鶴】
開館年 : 1930年以後1934年以前
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年の映画館名簿では「キネマ旭館」。1941年の映画館名簿では「寿座」。1943年・1947年・1949年の映画館名簿では「旭キネマ」。1950年の映画館名簿では「中舞鶴旭キネマ」。1953年の映画館名簿では「八千代館」。1955年・1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「旭キネマ」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。

1948年11月、舞鶴市の「舞鶴旭座」と「八千代館」と「旭館」と「旭キネマ」が松竹との契約を解約した。*9
松竹旭館/旭館(西舞鶴)
所在地 : 京都府加佐郡舞鶴町八幡通(1930年)、京都府舞鶴市八幡通り(1941年)、京都府舞鶴市円満寺町(1943年・1947年)、京都府舞鶴市円満寺(1949年)、京都府舞鶴市西舞鶴(1950年)、京都府舞鶴市円満寺165(1953年・1955年・1958年・1960年・1961年)【西舞鶴】
開館年 : 1927年以後1930年以前
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1927年の映画館名簿には掲載されていない。1930年の映画館名簿では「旭館」。1934年・1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年の映画館名簿では「旭館」。1947年の映画館名簿では「西舞鶴旭館」。1949年の映画館名簿では「旭館」。1950年の映画館名簿では「西舞鶴旭館」。1953年の映画館名簿では「松竹旭館」。1955年の映画館名簿では「松竹旭座」。1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「旭館」。1962年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。東舞鶴の「松竹旭座」との混同に注意。開館時の運営者は舞鶴八千代館と同じく野村鎌太郎。跡地はアパート「プラティーク」。最寄駅はJR舞鶴線西舞鶴駅。

1948年11月、舞鶴市の「舞鶴旭座」と「八千代館」と「旭館」と「旭キネマ」が松竹との契約を解約した。*10
南東映館
所在地 : 京都府舞鶴市倉梯町20(1961年)、京都府舞鶴市倉梯町20-10(1963年・1964年・1965年)【東舞鶴】
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1965年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「南東映館」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに渡辺勲、木造1階、定員355、東映を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
舞鶴日活映画劇場/舞鶴映画劇場
所在地 : 京都府舞鶴市駅通り横(1941年)、京都府舞鶴市円満寺町(1943年・1947年)、京都府舞鶴市円満寺(1949年)、京都府舞鶴市円満寺町(1950年)、京都府舞鶴市円満寺151(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1971年)
開館年 : 1937年4月
閉館年 : 1971年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1937年4月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年・1947年・1949年・1950年の映画館名簿では「舞鶴映画劇場」。1953年の映画館名簿では「舞鶴日活映画劇場」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「舞鶴映画劇場」。1969年の映画館名簿では「西舞鶴映画劇場」。1970年・1971年の映画館名簿では「西舞鶴舞鶴映画劇場」。1971年の映画館名簿では経営会社が日産映興、経営者が桑畑十郎、支配人が伊東優吉、木造2階冷暖房付、500席、邦画を上映。1972年の映画館名簿には掲載されていない。1978年・1982年・1986年のゼンリン住宅地図では跡地に「舞鶴信用金庫」。跡地は「京都北都信用金庫舞鶴中央支店」。最寄駅はJR舞鶴線西舞鶴駅。

昭和中期の「舞鶴映画劇場」の開館記念写真。現在の真名井千日通、北都信用金庫の場所にあった。*11

1955年頃の「舞鶴日活劇場」の写真あり。「舞鶴日活●●」(※●は読めない)の文字が見える。*12
舞鶴日本劇場/日本劇場
所在地 : 京都府舞鶴市広小路(1953年・1955年)、京都府舞鶴市広小路町(1958年)、京都府舞鶴市広小路(1960年・1966年・1969年)、京都府舞鶴市字北田辺120(1973年・1976年・1978年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1978年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「日本劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「西舞鶴舞鶴日本劇場」。1969年の映画館名簿では「西舞鶴日本劇場」。1973年・1976年の映画館名簿では「日本劇場」。1978年の映画館名簿では経営者が岡本礼子、支配人が岡本正義、東舞鶴の浮島劇場と同じ、成人映画を上映。1978年のゼンリン住宅地図では「日本劇場」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。1982年・1986年のゼンリン住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「カレーハウスCoco壱番屋西舞鶴国道27号店」。最寄駅はJR舞鶴線西舞鶴駅。
新舞鶴座/豊栄座/松竹旭座/舞鶴旭座/旭座
所在地 : 京都府加佐郡新舞鶴町(1925年・1927年)、京都府加佐郡新舞鶴町永代橋際(1930年)、京都府加佐郡新舞鶴町(1934年)、京都府加佐郡新舞鶴町八島通(1936年)、京都府東舞鶴市八島通八条(1941年)、京都府舞鶴市八島通八条(1943年・1947年)、京都府舞鶴市八島通り(1949年)、京都府舞鶴市東舞鶴八島通八条(1950年)、京都府舞鶴市八島通八条(1953年)、京都府舞鶴市浜435(1955年・1958年・1960年・1963年)、京都府舞鶴市字浜436(1969年・1973年・1976年・1979年)
開館年 : 1907年3月、1940年頃
閉館年 : 1979年頃
『全国映画館総覧1955』によると1907年3月開館。1925年の映画館名簿では「新舞鶴座」。1927年の映画館名簿では「豊栄座」。1930年・1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「旭座」。1943年の映画館名簿では「松竹旭座」。1947年の映画館名簿では「松竹旭館」。1949年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「松竹旭座」。1969年の映画館名簿では「東舞鶴旭座」。1973年・1976年・1979年の映画館名簿では「旭座」。1978年のゼンリン住宅地図では「東映旭座映画館」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。1982年・1986年のゼンリン住宅地図では跡地に「ファミリースーパーニューさとう八島店」。跡地はレストラン「Restaurant+Bar M.ILK」などが入る商業ビル「JB21ビル」。最寄駅はJR舞鶴線・小浜線東舞鶴駅。

1917年に発行された『新舞鶴市街地図』には、戦後の旭座の位置に「新舞鶴座」が、現在の八島公園南東角に「稲荷座」が掲載されている。新舞鶴座の写真が掲載されている。*13

1948年11月、舞鶴市の「舞鶴旭座」と「八千代館」と「旭館」と「旭キネマ」が松竹との契約を解約した。*14

右端には映画館の「旭座」が映った写真あり。1905年、八島通八条角に演劇場の「新舞鶴座」が落成した。開館時の運営者は舞鶴八千代館と同じく野村鎌太郎。大正時代になると映画が流行したため、舞鶴でも活動写真を上映する劇場が増え、新舞鶴座も映画館となった。大正末期から昭和初期には新舞鶴町民の投票で「豊栄座」に改称し、昭和10年代半ば頃に旭座に改称した。1959年の舞鶴市には7館の映画館があったが、テレビに押されて旭座も閉館した。1996年現在では舞鶴市に2館の映画館がある。*15

八島通八条角にあった旭座の内部の写真。ルーツは1905年開館の演劇場「新舞鶴座」であり、「豊栄座」を経て昭和10年代半ばに「旭座」となった。壁面には映画スターの肖像画がかかっている。1953年の写真あり。*16

東宝関西興行の前田幸恒は、1975年から1978年まで「舞鶴旭座」と「舞鶴八千代館」の支配人を務めた。前田幸常『映画興行師』徳間書店、1997年には舞鶴旭座と舞鶴八千代館に関する随筆が掲載されている。((前田幸恒『映画興行師』徳間書店、1997年))
海仁会/浮島東宝/東宝浮島劇場/浮島映画劇場/舞鶴浮島劇場/浮島劇場
所在地 : 京都府舞鶴市浮島(1943年・1947年)、京都府舞鶴市字溝尻(1949年)、京都府舞鶴市溝尻150(1950年・1953年・1955年)、京都府舞鶴市溝尻町150(1958年)、京都府舞鶴市溝尻150(1960年・1963年)、京都府舞鶴市溝尻250-15(1966年)、京都府舞鶴市溝尻250(1969年)、京都府舞鶴市字溝尻150-15(1973年)、京都府舞鶴市溝尻150(1976年・1980年)、京都府舞鶴市字溝尻150-15(1985年・1990年・1995年)
開館年 : 1940年、1952年
閉館年 : 1997年2月9日
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「海仁会(休館中)」。1947年の映画館名簿では「浮島東宝」。1949年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「東宝浮島劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「浮島映画劇場」。1969年の映画館名簿では「東舞鶴浮島劇場」。1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「浮島劇場」。1978年・1982年・1986年のゼンリン住宅地図では「浮島映画劇場」。1980年の映画館名簿では木造1階部分384席、経営会社は誕宝、経営者は岡本礼子、支配人は岡本正義、洋画を上映。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はドラッグストア「佐々木薬局本店」。最寄駅はJR舞鶴線・小浜線東舞鶴駅。

1986年3月15日から5週間の上映作品は、『エクスプローラーズ』『ヤングシャーロック』『ピラミッドの謎』の3作品。*17

1997年2月9日をもって閉館する舞鶴浮島劇場で、2月8日・2月9日の2日間にわたって4本立てさよなら上映会が開催される。57年間の歴史に幕を閉じる。1940年に旧日本国海軍の慰安施設として開館し、戦時中は水兵たちでにぎわった。建物は旧海軍の共済組織「海仁会」が建てた木造3階建てである。戦後は「東宝浮島劇場」となり、洋画封切館となり、1952年に「舞鶴浮島劇場」に改称した。客席は500席で2階は畳席である。京都府北部でもっとも大きなスクリーンでシネマスコープを上映し、一般の映画ファンや海上自衛隊員らの客の人気を呼んだが、レンタルビデオやパチンコなどの普及で客足が落ちた。また、1995年に経営者の岡本勢平が死去したこともあり、支配人の加藤とし子(67)が閉館を決定した。加藤とし子は「亡くなった経営者の岡本勢平さん、徳ゑさん夫妻が映画好きだったので映画ファンの映画館だった」と語る。さよなら上映会には2階の畳席も開放する。2月8日午前11時に『ショーシャンクの空に』、午後2時に『男はつらいよ』(第一作)、午後3時32分に『新・喜びも悲しみも幾歳月』、午後6時15分に『マディソン郡の橋』を上映。2月9日午前11時に『マディソン郡の橋』、午後1時45分に『男はつらいよ』(第一作)、午後3時17分に『ボディガード』、午後5時45分に『ニュー・シネマ・パラダイス』を上映する。*18

1940年に海軍関係者の共済組織である海仁会が、海軍の娯楽施設として舞鶴浮島劇場を開館させた。戦前には東海林太郎なども公演して大変なにぎわいだった。ロビーの丸い石柱は海軍時代の雰囲気を伝えており、畳席もある。1997年のこのほど閉館した。*19

3階建ての建物の外観とロビーの写真あり。もともとは1940年頃に建てられた海軍関係の娯楽施設であり、1952年に東宝浮島劇場となった。後に舞鶴浮島劇場に改称している。回り舞台や花道もあった洋画上映館である。現在は跡地にマンションが建っている。*20

日本国海軍の軍事施設だった建物を劇場に転用。1952年に東宝浮島劇場として開館し、舞鶴浮島劇場に改称して洋画専門館に。浮島映画館と呼ぶ人もいた。1階席は普通の椅子席だったが、2階席の最前部は畳が敷いてあった。1997年に閉館した。建物は取り壊され、現在はマンションが建っている。*21

東舞鶴の与保呂川と志楽川の河口近く、京都府立東舞鶴高校浮島分校のすぐ西側には、木々が生い茂る小高い丘「浮島」がある。山上には嶋満神社(しまみつるじんじゃ)があり、1977年7月に浮島劇場の創立50周年記念で寄進された赤い鳥居がある。*22

京都府立東舞鶴高校浮島分校の南側、現在の佐々木薬局本店付近に浮島劇場という映画館があった。かつて東舞鶴には2軒の映画館があり、浮島劇場は洋画メイン、現在も営業中の舞鶴八千代館が邦画メインだった。*23

1978年時点で経営者は岡本礼子、支配人は岡本正義。西舞鶴の日本劇場と同じだった。*24
八千代館(東舞鶴)/舞鶴八千代館/舞鶴八千代1・2/舞鶴八千代1・2・3
所在地 : 京都市加佐郡新舞鶴町三条通(1934年)、京都市加佐郡新舞鶴町三条通229(1936年)、京都市東舞鶴市三条通海岸(1941年)、京都市舞鶴市三条通(1943年・1947年)、京都市舞鶴市三条(1949年)、京都府舞鶴市三条通(1950年)、京都府舞鶴市余部上3(1953年)、京都府舞鶴市三条大門地(1955年)、京都府舞鶴市字浜229(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、京都府舞鶴市字浜239(1976年・1980年・1985年・1990年・1995年)、京都府舞鶴市浜229(2000年・2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1930年以後1934年以前、1981年(ビル化)
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 舞鶴八千代館
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1949年の映画館名簿では「八千代館」。1950年の映画館名簿では「東舞鶴八千代館」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「八千代館」。1966年の映画館名簿では「東舞鶴舞鶴八千代館」。1969年の映画館名簿では「東舞鶴八千代館」。1973年・1976年の映画館名簿では「八千代館」。1978年のゼンリン住宅地図では「劇場八千代館」。1980年の映画館名簿では「舞鶴八千代館」。1980年の映画館名簿では木造1階部分219席、経営会社は東宝関西興行、経営者は松岡功、支配人は細田良介、邦画・洋画を上映。1982年・1986年のゼンリン住宅地図では「1階アトムボーイ、2階八千代劇場、4階アトムボーイ事務所」。1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「舞鶴八千代1・2」(2館)。2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「舞鶴八千代1・2・3」(3館)。最寄駅はJR舞鶴線・小浜線東舞鶴駅。

1948年11月、舞鶴市の「舞鶴旭座」と「八千代館」と「旭館」と「旭キネマ」が松竹との契約を解約した。*25

2013年のこのほど、舞鶴市の「舞鶴八千代館」が3台目のデジタル映写機を導入し、2013年3月2日から3スクリーン全てがデジタル上映館となる。今年は開業から75周年の年であり、2月20日から3月8日には映画ポスター展と写真展を開催し、3月1日-から3月3日にはファン感謝デーとして入場料を1000円とする。八千代館は1938年に野村鎌太郎が開館させ、初回上映作品はトーキー映画の『河内山宗俊』だった。当時は1スクリーンであり、2階は畳敷きだった。野村鎌太郎は八千代館のほかにも浜に「旭座」、中地区に「旭キネマ」、西地区に「旭館」を運営していたが、戦後には順次閉館した。1981年に現在の建物に建て替えて2スクリーンとし、2000年からは3スクリーンである。2008年から「シマフィルム」(志摩敏樹代表)の運営に変わり、2010年と2011年にかけて2台の3Dデジタル映写機を導入した。1957年頃には朝6時までのオールナイト上映会も開催し、入館者を京都市内の東映撮影所に招待して俳優との食事会を行うファンサービスも行った。ポスター展は『ゴジラ』『日本沈没』『七人の侍』『戦場のメリークリスマス』」など約50点を展示する。*26

2013年、舞鶴市唯一の映画館「舞鶴八千代館」が開館75周年を迎えた。1938年に現在地に開館したが、当時の建物は木造であり、スクリーン数は1面だった。1981年に現在の鉄骨造の建物に建て替えられ、スクリーン数は2面となった。2000年の増築でスクリーン数は3面となっている。今年2013年3月2日には、上映機材をフィルム映写機からデジタル映写機に入れ替えた。経営者の野村によると昭和30年代の舞鶴市内には8館の映画館があったが、1964年の東京オリンピックを機にテレビが急速に普及し、映画人口は減り続けた。現在の北近畿には八千代館のほかに福知山市に1館あるのみである。もともと八千代館は邦画専門だったが、周囲の映画館が閉館するにつれて洋画も上映するようになった。現在の八千代館の観客数は1日約100人。*27

舞鶴八千代館は昭和初期に芝居小屋として開館し、今日では舞鶴市唯一の映画館である。取締役支配人の野村正男(61)は約30年前に上映した薬師丸ひろ子主演の『セーラー服と機関銃』が思い出深いと語る。この作品には長蛇の列ができ、わざわざスクリーンのある一室を待合室にしたという。2010年4月17日には立体映像(3D)の上映設備を導入し、洋画『アリス・イン・ワンダーランド』を上映中である。*28

1986年3月の上映作品は、『ドラえもん』『おばけのQ太郎』『プロゴルファー猿』『ドン松五郎の生活』『アラハン』『キン肉マン』『キャプテン翼』『フラッシュマン』『ゲゲゲの鬼太郎』『テイク・イット・イージー』『タッチ』『北斗の拳』『ジャッキー・チェンの醒拳』*29

東宝関西興行の前田幸恒は、1975年から1978年まで「舞鶴旭座」と「舞鶴八千代館」の支配人を務めた。前田幸常『映画興行師』徳間書店、1997年には舞鶴旭座と舞鶴八千代館に関する随筆が掲載されている。((前田幸恒『映画興行師』徳間書店、1997年))

女優の片桐はいりは「舞鶴八千代館」を訪れたことがある。片桐はいり『もぎりよ今夜も有難う』幻冬舎、2010年には舞鶴八千代館に関する随筆が掲載されている。*30

「舞鶴八千代館」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*31

「舞鶴八千代館」に言及している書籍として、大屋尚浩『日本懐かし映画館大全』辰巳出版、2017年がある。*32

2020年11月のこのほど、舞鶴市浜の映画館「舞鶴八千代館」では『劇場版鬼滅の刃 無限列車編』の公開に合わせて大江山の鬼伝説の特別展示を行っている。この映画は舞鶴八千代館と福知山シネマで公開されており、長い列ができる日もあるという。新城出(いずる)支配人。*33
セイス-シネ・グルージャ
所在地 : 京都府舞鶴市字竹屋24-2【西舞鶴】
開館年 : 2019年7月
閉館年 : 営業中
映画館名簿には掲載されていない。シネマカフェ。最寄駅はJR舞鶴線西舞鶴駅。

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