日本の映画館の総合データベースです。



萩市

萩市の映画館
1955年5月18日、萩市西田町に洋画二番館「スバル座」が開館した。建坪50坪、木造平屋モルタル。定員は120、収容能力は約300。代表者は藤井重光。*1
寿座
所在地 : 山口県阿武郡萩町
開館年 : 1907年以前
閉館年 : 不明
映画館ではなく芝居小屋だと思われる。映画館名簿には掲載されていない。

1907年5月15日、阿武郡萩町の唐樋町にある「寿座」で、萩町で初めて活動写真会が開催された。*2

1907年5月15日、阿武郡萩町の唐樋町にある「寿座」でキング・オブ・バイタスコープ会の活動写真上映会が開催された。萩で初めて活動写真会である。浜田町から汽船で萩町に上陸し、萩町の後は下関に向かう予定。*3

1933年の「萩町全図」には「永楽座」と「寿座」が描かれている。*4
黄金館/松竹館/共楽館
所在地 : 山口県阿武郡萩町
開館年 : 1924年11月
閉館年 : 1929年頃
映画館名簿には掲載されていない。

1924年11月、江向に「黄金館」が新築され、マキノ映画が上映された。黄金館は長らく休館していたが、1927年7月17日には山下湖一が譲り受け、松竹上映館「松竹館」に改称して営業を再開した。1929年には松竹館が経営難となり、萩興業株式会社に合併されると、7月17日には「共楽館」に改称したが、間もなく閉鎖された。*5
赤葉館
所在地 : 山口県阿武郡萩町(1930年)
開館年 : 1927年以後1930年以前
閉館年 : 1930年以後1934年以前
1927年の映画館名簿には掲載されていない。1930年の映画館名簿では「赤葉館」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。
千歳座
所在地 : 山口県阿武郡田万川町江崎(1956年)、山口県阿武郡田万川町(1957年・1958年)、山口県阿武郡田万川町江崎(1960年)、山口県阿武郡田万川町須佐(1962年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「千歳座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
朝日座
所在地 : 山口県阿武郡田万川町須佐4547(1960年)、山口県阿武郡田万川町須佐(1962年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1962年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1962年の映画館名簿では「朝日座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
住吉座/萩セントラル住吉座/萩セントラル
所在地 : 山口県萩市浜崎町(1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年)、山口県萩市浜崎65(1955年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1916年5月1日、1946年6月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1916年5月開館。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年・1947年・1950年の映画館名簿では「住吉座」。1953年の映画館名簿では「萩セントラル住吉座」。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「萩セントラル」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

1916年5月1日、阿武郡萩町に「住吉座」が設立された。こけら落としとして中村福円と嵐佳笑が招かれた。*6

1924年2月、萩町吉田町に映画専門館「巴城館」が新築され、松竹作品が上映された。同年には萩町浜崎の芝居小屋「住吉座」も映画館となり、東亜映画とマキノ映画が上映されたが、1年も経たないうちに芝居小屋に戻った。同年11月、江向に「黄金館」が新築され、マキノ映画が上映された。*7

1931年10月4日から6日、萩町の住吉座で東京・浅草の萩原レビュー団やOKジャズバンドらの公演が行われた。*8

1936年現在の萩市の劇場として、浜崎町の「住吉座」(経営者は中村則輔)、吉田町の「喜楽館」(経営者は田中清二)、上五間町の「永楽座」(経営者は田中清二)がある。*9

萩市の「萩スカイシネマ」は萩市唯一の洋画専門館である。1917年には中村政の父親によって劇場が開館し、演劇や演芸の上演、マキノ映画や東亜キネマなどの映画の上映を行っていた。1946年6月には洋画専門館「萩セントラル」が開館し、1959年4月から萩セントラルが改築工事に入ると、10月12日に萩スカイシネマが開館した。オープニング作品は『テンペスト』『決斗! 一対三』である。1974年現在の社長は中村政、支配人は息子の中村友雄。*10

1968年6月7日に撮影された萩市の「萩セントラル映画劇場」の写真あり。すでに閉館していた。1916年5月1日、浜崎町の須子五郎らによって芝居小屋「住吉座」として開館した。戦時中に映画専門館となり、萩セントラル映画劇場に改称した。1959年10月、西田町に「スカイシネマ」を新築したことで萩セントラル映画劇場は閉館した。*11
須佐会館
所在地 : 山口県阿武郡田万川町須佐(1961年・1963年)、山口県阿武郡須佐町(1966年・1968年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1968年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「須佐会館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
萩映画劇場/萩東宝/萩東宝劇場
所在地 : 山口県萩市東田町64(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1953年11月
閉館年 : 1971年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1916年4月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「萩映画劇場」。1963年の映画館名簿では「萩東宝」。1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「萩東宝劇場」。1970年塔文社発行「萩市街地図」では「映画館」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は衣料品店「ヴェルセ・サカマキ」。最寄駅はJR山陰本線東萩駅。

1953年11月、萩市東田町64番地に「萩映画劇場」が開館した。経営は萩興業株式会社。1961年3月1日、萩映画劇場は「萩東宝」に改称した。経営は。川辺興業有限会社。*12
巴城館/喜楽館/萩喜楽館
所在地 : 山口県阿武郡萩町大字吉田町(1925年・1927年)、山口県萩市吉田町(1934年・1936年・1941年・1943年・1947年)、山口県萩市吉田町15(1950年)、山口県萩市吉田町(1953年)、山口県萩市吉田町15(1955年・1958年・1960年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年)
開館年 : 1924年2月、1939年12月
閉館年 : 1980年12月13日
『全国映画館総覧 1955』によると1939年12月開館。1925年・1927年の映画館名簿では「巴城館」。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年の映画館名簿では「喜楽館」。1953年の映画館名簿では「喜楽座」。1955年・1958年・1960年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「萩喜楽館」。1975年の住宅地図では「喜楽館」。1980年の映画館名簿では経営者が西林直輝、支配人が記載なし、木造1階、396席、松竹・東宝・洋画・成人映画を上映。1990年の住宅地図では跡地に「COOP萩吉田町マンション」。後継館は異なる地点にある「萩キラク1・2」。跡地は「東進衛星予備校萩田町店」。最寄駅はJR山陰本線東萩駅。

1924年2月、萩町吉田町に映画専門館「巴城館」が新築され、松竹作品が上映された。同年には萩町浜崎の芝居小屋「住吉座」も映画館となり、東亜映画とマキノ映画が上映されたが、1年も経たないうちに芝居小屋に戻った。同年11月、江向に「黄金館」が新築され、マキノ映画が上映された。1927年4月20日、巴城館は永楽座と合併する前提で「喜楽館」に改称し、帝国キネマ系の上映館となった。*13

1936年現在の萩市の劇場として、浜崎町の「住吉座」(経営者は中村則輔)、吉田町の「喜楽館」(経営者は田中清二)、上五間町の「永楽座」(経営者は田中清二)がある。*14

1952年の萩市吉田町にあった映画館「喜楽館」の写真あり。1952年の松竹作品『旗本退屈男 江戸城罷り通る』の看板が見える。最盛期の萩には5館があったが、1998年現在は1館のみである。*15

1951年11月の萩市に新装されたばかりの「喜楽館」の写真あり。『旗本退屈男 江戸城罷り通る』の看板が見える。1981年11月の萩市にあった「喜楽館」旧館跡地の写真あり。吉田町商店街の通りにぽっかり穴が開いた。*16

1980年12月14日には萩市東田町にヤングプラザ萩が完成し、3階に映画館「キラク1」「キラク2」が開館した。これに伴って、12月13日には吉田町の「喜楽館」と上五間町の「萩東映」の2館が閉館した。*17
永楽座/萩東映/萩東映劇場
所在地 : 山口県阿武郡萩町(1925年・1927年・1930年)、山口県萩市上之間町(1934年)、山口県萩市上五間町(1936年)、山口県萩市五間町(1953年)、山口県萩市上五間町1(1955年)、山口県萩市上五間町(1958年)、山口県萩市上五間町1(1960年)、山口県萩市上五間1(1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年)
開館年 : 1919年1月、1950年1月
閉館年 : 1980年12月13日
『全国映画館総覧 1955』によると1950年1月開館。1925年・1927年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「永楽座」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「永楽座」。1958年・1960年の映画館名簿では「萩東映」。1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「萩東映劇場」。1975年の住宅地図では「東映」。1980年の映画館名簿では経営者が西林直輝、支配人が記載なし、木造1階、250席、東映・にっかつを上映。1981年の映画館名簿には掲載されていない。1990年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「清光寺」北東50mにある「田町商店街有料駐車場」。最寄駅はJR山陰本線東萩駅。

1919年1月、萩町上五間町の芝居小屋「永楽座」で日活映画が上映されるようになった。これが萩町初の活動常設館とされる。1934年4月26日、永楽座にトーキー映写機が設置され、萩で初の常設トーキー映画館となった。永楽座は1968年現在の萩東映である。*18

1933年の「萩町全図」には「永楽座」と「寿座」が描かれている。*19

1934年4月26日、萩市の「永楽座」にトーキー映写機が設置され、萩で初の常設トーキー映画館となった。*20

1936年現在の萩市の劇場として、浜崎町の「住吉座」(経営者は中村則輔)、吉田町の「喜楽館」(経営者は田中清二)、上五間町の「永楽座」(経営者は田中清二)がある。*21

1951年11月の萩市にあった「永楽座」の写真あり。『暁の急襲』の看板が見える。長らく芝居小屋として営業していた。後に東映の映画館となった。*22

時期不明の萩市にあった「永楽座」(萩東映)の写真あり。明治末期には既に上五間町にあった芝居小屋である。1919年1月に活動写真も上映するようになり、1950年に「萩東映」に改称した。1980年12月13日、萩東映は「喜楽館」と同時に閉館した。*23

1980年12月14日には萩市東田町にヤングプラザ萩が完成し、3階に映画館「キラク1」「キラク2」が開館した。これに伴って、12月13日には吉田町の「喜楽館」と上五間町の「萩東映」の2館が閉館した。*24
スカイシネマ/萩スカイシネマ
所在地 : 山口県萩市西田15(1963年)、山口県萩市西田町15(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1959年10月20日
閉館年 : 1992年秋
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「スカイシネマ」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1992年の映画館名簿では「萩スカイシネマ」。1975年の住宅地図では「スカイシネマ 最上晴雄」。1990年の住宅地図では「スカイシネマ ビデオショップF」。1992年の映画館名簿では経営者が中村政、支配人が中村亨、鉄筋造1階、278席、洋画を上映。1993年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「清光寺」南隣の空き地。映画館の建物は近年に取り壊された。最寄駅はJR山陰本線東萩駅。

1959年10月20日、萩市西田町15番地に洋画専門館「スカイシネマ」が開館した。経営者は中村政。*25

萩市の「萩スカイシネマ」は萩市唯一の洋画専門館である。1917年には中村政の父親によって劇場が開館し、演劇や演芸の上演、マキノ映画や東亜キネマなどの映画の上映を行っていた。1946年6月には洋画専門館「萩セントラル」が開館し、1959年4月から萩セントラルが改築工事に入ると、10月12日に萩スカイシネマが開館した。オープニング作品は『テンペスト』『決斗! 一対三』である。1974年現在の社長は中村政、支配人は息子の中村友雄。*26 
萩キラク1・2/萩ツインシネマ1・2
所在地 : 山口県萩市東田町18(1981年・1982年・1985年・1990年・1995年・1996年・1997年)、山口県萩市東田町18-4(2000年・2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1980年12月14日(萩キラク)、1996年7月19日(萩ツインシネマ)
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 萩ツインシネマ
前身館は異なる地点にあった「萩喜楽館」。1975年の住宅地図では後の映画館の場所に「駐車場」。1981年の映画館名簿では「喜楽キラク1・2」(2館)。1982年・1985年・1990年・1995年・1996年の映画館名簿では「萩キラク1・2」(2館)。1982年の映画館名簿では経営者が西林直輝、支配人が山本満喜、鉄筋造3階、1が195席、2が150席、いずれも邦画・洋画を上映。1990年の住宅地図では「ヤングプラザ萩 3階キラク1 キラク2」。1996年の映画館名簿では経営会社が有限会社山萩企画、経営者・支配人ともに山本萬喜、鉄筋造3階、1が150席、2が195席、いずれも邦画・洋画を上映。1997年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「萩ツインシネマ1・2」(2館)。1997年の映画館名簿では経営会社が株式会社ムービーボラトピア、経営者が都志見久令男、支配人が宮田幸司、鉄筋造3階、1が150席、2が195席、いずれも邦画・洋画を上映。2020年の映画館名簿では経営会社がNPO法人萩コミュニティシネマ、経営者が高雄一寿、支配人が柴田寿美子、1が35席、2が120席。ヤングプラザビル3階。最寄駅はJR山陰本線東萩駅。

1980年12月14日には萩市東田町にヤングプラザ萩が完成し、3階に映画館「キラク1」「キラク2」が開館した。これに伴って、12月13日には吉田町の「喜楽館」と上五間町の「萩東映」の2館が閉館した。*27

1981年に映画館「萩キラク」が開館し、キラク1(150席)とキラク2(195席)の2スクリーンからなっていた。1985年の観客数は約6万人だったが、1994年9月以降の一年間では約6000人にまで減少していた。赤字額は年間200万円となり、経営者の山萩企画は閉館を検討していた。山口県日本海側の北浦地方では唯一の映画館である。1995年には「萩の映画館を守る会」などが募金活動を開始した。1996年4月には元市長の林秀宣が発起人となって出資を募り、約50人が応じて資本金1000万円が集まったことから、1996年6月22日には新会社の設立総会が行われた。映画ファンの陶芸家・医師・市議会議員などが出資した株式会社が運営を引き継ぎ、1996年7月19日に『スーパーの女』でこけら落としとなる。*28

1996年7月19日、萩市東田町の閉館した映画館「萩キラク」がムービーボラトピアに引き継がれて営業を再開する予定であり、新しい館名を募集している。萩キラクは北浦地方唯一の映画館だった。映画好きの病院長、企業経営者、陶芸家ら55人が出資し、資本金1000万円でムービーボラトピアを設立した。1981年には萩市内の2映画館をビルに統合して萩キラクが開館し、150席のキラク1は邦画、190席のキラク2は洋画を上映していた。萩キラクは数年前から赤字が続いており、6月末でいったん閉館するが、改装工事を行って7月19日に営業再開する。*29

昭和30年代の山口県には100館を超える映画館があったが、1997年現在は20スクリーンを切っている。一方で、1996年7月下旬には萩市で閉館した「萩キラク」の施設を引き継いで、市民出資の株式会社が運営する「ツインシネマ」が開館した。最盛期の萩市には5館の映画館があったが、「萩東宝」、「萩東映」、「スカイシネマ」が相次いで閉館し、萩キラクは北浦地域唯一の映画館だった。*30

2004年3月13日、防府市の小学校であった実話に基づく映画『ほたるの星』の先行上映が行われ、ツインシネマでも菅原浩志監督・原作者の宗田理・俳優の北見敏之・女優の小柳友貴美による舞台挨拶が行われた。*31

2004年5月9日、萩市の映画館「ツインシネマ」が閉館する。北浦地方では唯一の映画館だった。宇部市や防府市のシネコンに観客を奪われ、駐車場がないことなどもあって観客が伸び悩んでいた。かつて萩市には2館の映画館があったが、ツインシネマの前身となる映画館が閉館する際に、市民有志が株式会社「ムービー・ボラトピア」を設立して運営を引き継いだ。資本金は1000万円であり、萩市で歯科医院を経営する高雄一寿が社長に就任。館名は公募でツインシネマに決定し、1996年7月に2スクリーンのツインシネマを開館させた。1997年度の観客数は4万4000人だったが、1998年度は3万4000人、2000年度は1万7000人と減少した。2001年度には萩市が舞台となった『釣りバカ日誌12』もあって3万4000人と盛り返したが、近年は再び1万人台に低迷していた。*32

2004年5月9日をもって、萩市東田町の映画館「萩ツインシネマ」が閉館した。観客数の減少が原因。北浦地区で唯一の映画館だった。1996年7月、市内の映画愛好家ら62人が株主となって新会社を設立し、前身の映画館の経営を引き継いだ。観客数は1997年度の4万4000人がピークであり、2002年度には1万8000人にまで落ち込んだ。駐車場がないことなどから、防府市や宇部市のシネコンに観客が流れたとされる。5月8日と9日には『ほたるの星』や『クイール』を上映し、2日間で約200人を集めた。*33

2004年5月9日には萩市の映画館「ツインシネマ」が閉館したが、同年夏には「萩コミュニティシネマ」が設立され、現在はNPO法人の申請中である。理事長はツインシネマの運営会社で社長を務めていた高雄一寿。8月7日から上映を再開する。*34

2005年7月30日と31日、萩市の映画館「ツインシネマ」は上映再開1周年記念イベントとして、入場者200人に萩市産のトマトをプレゼントした。両日とも定員200人は予約で満席。*35

2006年

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