日本の映画館の総合データベースです。



鶴岡市

鶴岡劇場
所在地 : 山形県西田川郡鶴岡町
開館年 : 1917年
閉館年 : 1935年
各年版の映画館名簿には掲載されていない。

1917年の鶴岡町にあった「鶴岡劇場」の写真あり。大地主の諏訪尚太郎によって建てられた。1918年に活動常設館となった。建物の間には常念寺に入る小路があり、1988年現在も残っている。*1

1917年の鶴岡町の南町にあった「鶴岡劇場」の写真あり。同年に諏訪尚太郎によって創設された。*2

大正中期の鶴岡町にあった「鶴岡劇場」の写真あり。1917年に建設され、東京などから相次いで芸能人が来演した。鶴岡で初めて歌劇やレビューダンスが公演された劇場である。*3

1917年には鶴岡町の南町に「鶴岡劇場」が創設され、8月3日から沢村宗十郎を招いてこけら落としを行った。創立者は西田川郡上郷村の地主である諏訪尚太郎であり、1912年に早稲田大学を卒業後、帰郷して肥料店の丸八商店を経営していた人物である。1918年時点の鶴岡町における劇場は、鶴岡劇場、鶴岡座、千歳座の3館があった。鶴岡劇場の写真あり。*4

1931年の『大日本職業別明細図 鶴岡市』には「鶴岡座」「鶴岡劇場」が描かれている。*5

1935年の鶴岡町において火災で炎上する「鶴岡劇場」の写真あり。1917年に開設されたが、1935年に併設のレストラン千代田から出火して焼失した。*6
大泉映画劇場
所在地 : 山形県東田川郡朝日村(1955年)、山形県東田川郡朝日村上田沢(1958年)
開館年 : 1954年4月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年4月開館。1955年・1958年の映画館名簿では「大泉映画劇場」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
大山会館
所在地 : 山形県西田川郡大山町(1955年・1958年)、山形県西田川郡大山町大工町(1960年・1963年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「大山会館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
湯野浜映画劇場/湯野浜会館
所在地 : 山形県鶴岡市湯野浜町57-3(1958年)、山形県鶴岡市大字湯野浜57-3(1960年)、山形県鶴岡市湯野浜57-3(1963年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「湯野浜映画劇場」。1963年の映画館名簿では「湯野浜会館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
藤島映画劇場
所在地 : 山形県東田川郡藤島町(1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1964年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「藤島映画劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
海洋会館/鼠ヶ関海洋会館
所在地 : 山形県西田川郡温海町鼠ヶ関乙82(1959年・1960年・1963年)、山形県西田川郡温海町鼠ヶ関(1964年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1964年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「鼠ヶ関海洋会館」。1960年の映画館名簿では「海洋会館」。1963年・1964年の映画館名簿では「鼠ヶ関海洋会館」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
温海会館
所在地 : 山形県西田川郡温海町(1955年)、山形県西田川郡温海町温海温泉(1958年)、山形県西田川郡温海町(1960年・1963年)、山形県西田川郡温海町大字湯温海(1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「温海会館」。1958年・の映画館名簿では「映劇温海会館」。1960年・1963年・1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「温海会館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
文化映画劇場/鶴岡文化映画劇場/鶴岡文化劇場
所在地 : 山形県鶴岡市三日市町16(1953年)、山形県鶴岡市三日町16(1955年・1958年・1960年・1963年)、山形県鶴岡市三日町(1966年・1968年)
開館年 : 1949年5月
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1949年5月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「文化映画劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「鶴岡文化映画劇場」。1966年・1968年の映画館名簿では「鶴岡文化劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

1956年1月2日午前2時50分頃、鶴岡市三日町の「鶴岡文化映画劇場」ボイラー室付近から出火して同館が全焼した。ボイラーの不始末が原因とみられる。損害額は約2000万円。上映中だった『帰らざる河』と『いらっしゃいませ』のフィルムは焼失前に搬出された。経営はシバタ興行。支配人は宮腰富次。*7

1952年現在、鶴岡市の映画館として「鶴岡演芸株式会社鶴岡座」「鶴岡東宝映画劇場」「株式会社中央劇場」「シバタ文化興業株式会社 鶴岡文化映画劇場」がある。鶴岡文化映画劇場の所在地は三日町16、代表者は宮越富治、定員は550人、上映系統は東宝・東映・洋画。*8
鶴岡東宝映劇/鶴岡東宝映画劇場/鶴岡東宝/鶴岡東宝劇場/鶴岡スカラ座
所在地 : 山形県鶴岡市与力町(1943年・1947年)、山形県鶴岡市与力町甲5(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、山形県鶴岡市山王町15-54(1966年・1969年・1973年・1975年・1977年)
開館年 : 1928年
閉館年 : 1977年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1928年開館。1943年・1947年の映画館名簿では「鶴岡東宝映劇」。1950年の映画館名簿では「鶴岡東宝映画劇場」。1953年の映画館名簿では「鶴岡東宝」。1955年の映画館名簿では「鶴岡東宝劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1977年の映画館名簿では「鶴岡スカラ座」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。2009年12月23日倒壊。

1952年現在、鶴岡市の映画館として「鶴岡演芸株式会社鶴岡座」「鶴岡東宝映画劇場」「株式会社中央劇場」「シバタ文化興業株式会社 鶴岡文化映画劇場」がある。鶴岡東宝映画劇場の所在地は与力町甲5、代表者は村山恒治、定員は750人、上映系統は新東宝・洋画。*9
鶴岡松竹館/千歳座/中央劇場/鶴岡中央劇場
所在地 : 山形県西田川郡鶴岡町(1925年)、山形県鶴岡市十日町(1930年)、山形県鶴岡市五日町(1936年・1941年)、山形県鶴岡市(1947年)、山形県鶴岡市五日市(1950年)、山形県鶴岡市五日市98(1953年)、山形県鶴岡市与力町甲5(1955年)、山形県鶴岡市五日市98(1958年・1960年)、山形県鶴岡市音町98番地(1963年)、山形県鶴岡市五日市98(1966年・1969年)、山形県鶴岡市昭和町23-3(1973年・1975年・1978年・1979年)
開館年 : 1916年以前、1947年2月
閉館年 : 1979年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年2月開館。1925年の映画館名簿では「千歳館」。1930年の映画館名簿では「千歳座」。1936年の映画館名簿では「鶴岡松竹館」。1941年の映画館名簿では「千歳座」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「中央劇場」。1950年の映画館名簿では「鶴岡中央劇場」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1979年の映画館名簿では「鶴岡中央劇場」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。

大正時代頃、鶴岡町には活動写真館として「千歳座」(現在の中劇)と「鶴岡座」の2館があった。1922年6月14日から16日まで、鶴岡座では『電話の声』全15編30巻すべてを上映する活劇大会が開催された。*10

1952年現在、鶴岡市の映画館として「鶴岡演芸株式会社鶴岡座」「鶴岡東宝映画劇場」「株式会社中央劇場」「シバタ文化興業株式会社 鶴岡文化映画劇場」がある。中央劇場の所在地は五日町98、代表者は石川省吾、定員は400人、上映系統は大映・洋画。*11
鶴岡東映劇場
所在地 : 山形県鶴岡市本町1-7-18(1973年・1975年・1978年・1979年)
開館年 : 1970年以後1973年以前
閉館年 : 1979年頃
1970年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1975年・1978年・1979年の映画館名簿では「鶴岡東映劇場」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。
鶴岡銀映/鶴岡銀座映画劇場/鶴岡銀座劇場/鶴岡銀映劇場
所在地 : 山形県鶴岡市三日市(1957年)、山形県鶴岡市三日市16(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)、山形県鶴岡市本町1-7-32(1973年・1975年・1978年・1980年・1982年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1982年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「鶴岡銀映」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「鶴岡銀座映画劇場」。1973年の映画館名簿では「鶴岡銀座劇場」。1975年・1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「鶴岡銀映劇場」。1982年の映画館名簿では経営会社が株式会社文興、経営者が長谷川文清、支配人が後藤正巳、鉄筋造2階、70席、成人映画を上映。1983年の映画館名簿には掲載されていない。
鶴岡座/鶴岡座大劇場・鶴岡座名画劇場・鶴岡中央劇場
所在地 : 山形県西田川郡鶴岡町(1925年)、山形県鶴岡市十日町(1930年・1936年・1943年)、山形県鶴岡市七日町(1947年)、山形県鶴岡市十日町(1950年)、山形県鶴岡市十日町27(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)、山形県鶴岡市昭和町12-49(1973年)、山形県鶴岡市昭和町12-48(1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・1996年・1997年)
開館年 : 1922年1月
閉館年 : 1997年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1922年1月開館。1925年・1930年・1936年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「鶴岡座」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「鶴岡座大劇場・鶴岡座名画劇場・鶴岡中央劇場」(3館)。1990年の住宅地図では「鶴岡座」。1995年・1996年・1997年の映画館名簿では「鶴岡座大劇場・鶴岡座名画劇場・鶴岡座中央劇場」(3館)。1996年の映画館名簿では経営会社が株式会社鶴岡座、経営者・支配人ともに佐藤孝二郎、いずれも鉄筋造1階、大劇場が208席、名画劇場が124席、中央劇場が72席、いずれも邦画・洋画を上映。1998年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「洞泉院」東隣の駐車場。最寄駅はJR羽越本線鶴岡駅。

1903年には鶴岡町の十日町東に劇場「鶴岡座」が建てられた。収容人数は約800人であり、座主は上田安政だった。*12

大正時代頃、鶴岡町には活動写真館として「千歳座」(現在の中劇)と「鶴岡座」の2館があった。1922年6月14日から16日まで、鶴岡座では『電話の声』全15編30巻すべてを上映する活劇大会が開催された。*13

1931年の『大日本職業別明細図 鶴岡市』には「鶴岡座」「鶴岡劇場」が描かれている。*14

1952年現在、鶴岡市の映画館として「鶴岡演芸株式会社鶴岡座」「鶴岡東宝映画劇場」「株式会社中央劇場」「シバタ文化興業株式会社 鶴岡文化映画劇場」がある。鶴岡座の所在地は十日町27、代表者は諏訪尚太郎、定員は460人、上映系統は松竹・洋画。*15
鶴岡シネマ旭/鶴岡シネマ旭1・2/鶴岡シネマ旭1・2・3
所在地 : 山形県鶴岡市本町2-1-6(1978年・1980年・1982年・1985年・1988年・1990年・1992年・1993年・1994年・1995年・2000年・2002年)
開館年 : 1974年
閉館年 : 2002年4月14日
1975年の映画館名簿には掲載されていない。1978年・1980年・1982年・1985年・1988年・1990年・1992年の映画館名簿では「鶴岡シネマ旭」。1990年の住宅地図では「鶴岡ボウリング シネマ旭」。1993年の映画館名簿では「鶴岡シネマ旭・鶴岡シネマ旭2」(2館)。1994年の映画館名簿では「鶴岡シネマ旭1・2」(2館)。1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「鶴岡シネマ旭1・2・3」(3館)。2002年の映画館名簿では経営会社がライジングサンエンタープライズ、経営者が宮崎互、支配人が大友章、鉄筋造2階、1が158席、2が77席、3が56席、いずれも邦画・洋画を上映。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「山形銀行鶴岡支店」北北東60mの駐車場。最寄駅はJR羽越本線鶴岡駅。

2002年4月14日、鶴岡市の映画館「鶴岡シネマ旭」と酒田市の映画館「酒田シネマ旭」が揃って閉館する。両館の経営は山形市の宮崎合名社。2001年8月に三川町に開館したシネコンに観客が流れたため。宮崎合名社は2002年1月に酒田市の「酒田港座」も閉館させている。2館の閉館によって山形県庄内地方の従来型映画館は姿を消す。2館とも1974年に開館しており、鶴岡シネマ旭はボウリング場を併設していた。*16
鶴岡まちなかキネマ1-4/鶴岡まちなかキネマ3・4
所在地 : 山形県鶴岡市山王町13-36(2012年・2015年・2020年・2024年)
開館年 : 2010年5月
閉館年 : 営業中
2010年の映画館名簿には掲載されていない。2012年・2015年・2020年の映画館名簿では「鶴岡まちなかキネマ1-4」(4館)。2012年の映画館名簿では経営会社が株式会社まちづくり鶴岡、経営者が小林好雄、支配人が畠山将司、166席と153席と81席と41席。2020年の映画館名簿では経営会社が株式会社まちづくり鶴岡、経営者が木戸祐、支配人が畠山将司、166席と153席と81席と41席。2020年5月休館。2022年の映画館名簿には掲載されていない。2023年3月25日営業再開。2024年の映画館名簿では「鶴岡まちなかキネマ3・4」(2館)。2024年の映画館名簿では経営会社が山王まちづくり株式会社、経営者が三浦新、支配人が齋藤卓也、3が80席、4が40席。最寄駅はJR羽越本線鶴岡駅。

2008年、絹織物製造の松文産業は工場を郊外の櫛引地区に移転させた。2007年には株式会社まちづくり鶴岡が設立されており、つぼみ保育園に次ぐ第2のプロジェクトとして映画館の開館が計画された。工場の建物を取り壊さずに活用し、高谷時彦の設計で映画館にリノベされた。経済産業省の戦略的中心市街地商業等活性化支援事業の補助を受け、総事業費10億円でプロジェクトが実現し、2010年5月に「鶴岡まちなかキネマ」が開館した。*17

鶴岡まちなかキネマに用いられているのは1932年に建てられた絹織物工場である。明治時代以後に鶴岡町では絹織物産業が栄え、全国の半分の絹織物に鶴岡が関わっていると謳われるほどだった。1913年には福井県大野郡勝山町(現・勝山市)で松文産業が創業し、鶴岡町の平田米吉が発明した力織機を用いていたが、1932年に鶴岡町に進出して鶴岡工場を建てた。最盛期には400人もの従業員がおり、戦時中には日本国陸海軍の落下傘用の羽二重を製造した。屋根はトラス構造になっており、工場時代には直接見ることができなかったが、映画館化に際してトラス構造を活かした設計がなされた。建物の内部では約6間(10.8m)の杉材の梁が目を引く。長編70mの建物に40本、2棟合わせて80本の梁が使われている。*18

2009年11月13日、経済産業省は鶴岡市の「まちづくり鶴岡」によるまちなか映画館整備事業に対して補助事業採択を決定した。松文産業鶴岡工場の跡地の一部を取得し、大正末期から昭和初期に建築された木造平屋建ての2棟を映画館に改修する。*19

2010年5月22日をもって、鶴岡市の映画館「鶴岡まちなかキネマ」が閉館する。新型コロナウイルスの影響による営業自粛などが響いた。4スクリーン計437席を有する。年間入場者数は平均7万8000人にとどまり赤字経営だった。*20

2020年5月には鶴岡市山王町の映画館「鶴岡まちなかキネマ」が閉館したが、映画の上映ができる交流スペースとして活用する方針がまとまり、2022年12月頃に再オープンする予定である。鶴岡市社会福祉協議会が鶴岡まちなかキネマの土地と建物を取得予定であり、鶴岡市社会福祉協議会、交流スペースの運営を担う「山王まちづくり」、鶴岡市の3者が協定を結んだ。鶴岡市社会福祉協議会は4スクリーンのうち2スクリーンを残し、山王まちづくりが無償で借り受けて映画を上映する。鶴岡市は国の地方創生交付金を活用して改修費など計3300万円を支援する。*21

かつて鶴岡市には複数の映画館があったが、2002年に「鶴岡シネマ旭」が閉館して映画館がなくなった。鶴岡商工会議所に加盟する32社が出資して「まちづくり鶴岡」が設立され、2010年5月に絹織物工場跡地に「鶴岡まちなかキネマ」が開館した。映画上映のみならず、落語会、ミニコンサート、シンポジウムなども開催された。隣町に大型商業施設併設の映画館が開館し、新型コロナウイルスの影響下で休館したことも響き、2020年5月に閉館した。閉館翌月には山形大学農学部の菊池俊一准教授が発起人になり、鶴岡まちなかキネマを存続させるための署名活動が行われると、1か月半で1万筆以上の署名が集まった。「山王まちづくり会社」が運営に名乗り出て、2023年春の営業再開を目指して改築中である。*22

2023年3月25日、鶴岡市の映画館「鶴岡まちなかキネマ」が映画上映のできる交流スペースとして再オープンする予定。2020年5月に閉館していた。建物に移転する鶴岡市社会福祉協議会に対して、鶴岡市が改修費などを補助して交流スペースを整備する。*23

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