日本の映画館の総合データベースです。



中央区

そごう映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市南区心斎橋筋1(1956年・1958年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1958年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年の映画館名簿では「そごう映画劇場」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
インターナショナルニュースハウス/インターナショナルニュース劇場
所在地 : 大阪府大阪市南区鰻谷西ノ町41(1953年)、大阪府大阪市南区鰻谷西之町3(1955年・1958年・1960年・1961年)
開館年 : 1952年7月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年7月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「インターナショナル・ニュース・ハウス」。1955年の映画館名簿では経営者が池田喜一郎、支配人が島田浩治、鉄筋造1階冷暖房付、定員210、ニュース映画を上映。1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「インターナショナルニュース劇場」。1959年の住宅地図では「心斎橋ビル インターナショナルニュース劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2004年竣工の商業ビル「エトワール心斎橋」。最寄駅は大阪メトロ御堂筋線・長堀鶴見緑地線心斎橋駅。
上六キャピトル劇場/上六東映
所在地 : 大阪府大阪市南区東平野町3-6(1955年)、大阪府大阪市南区東平野3-6(1960年)、大阪府大阪市南区東平野町3-6(1962年)
開館年 : 1947年6月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年6月開館。1955年の映画館名簿では「上六キャピトル劇場」。1960年・1961年の映画館名簿では「上六東映」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三菱UFJ銀行上六支店」南の道路用地。最寄駅は近鉄大阪上本町駅。
常盤座
所在地 : 大阪府大阪市南区(1950年・1953年)、大阪府大阪市南区河原町1-1537(1955年・1958年・1960年)
開館年 : 1931年12月
閉館年 : 1961年12月17日
『全国映画館総覧 1955』によると1931年12月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「常盤座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1961年12月17日、大阪市南区で吉本興業が経営していた「常盤座」は娯楽センターに転向した。1階はパチンコ店とガンコーナーとなった。*1
京阪松竹/京阪日活
所在地 : 大阪府大阪市東区京橋1-29(1955年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1951年4月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年4月開館。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「京阪日活」。1963年の住宅地図では「京阪日活」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ホテル京阪天満橋」東にある「大手前ハイツ」。最寄駅は京阪電鉄京阪本線・大阪メトロ谷町線天満橋駅。
道頓堀劇場/日活道劇/道頓堀大映/道頓堀日活/道頓堀スター座
所在地 : 大阪府大阪市南区東櫓町8(1950年・1956年・1958年・1963年・1964年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1964年頃
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「道頓堀劇場」。1953年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「日活道劇」。1957年・1958年の映画館名簿では「道頓堀大映」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「道頓堀日活」。1964年の映画館名簿では「道頓堀スター座」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

1958年8月10日、大阪市南区の大映封切館「道頓堀大映」は「道頓堀日活」に改称して日活封切館に転向した。オープニングは『風速40米』と『星は何でも知っている』。経営は近畿映画。*2
千日前グランド劇場
所在地 : 大阪府大阪市南区(1950年・1953年)、大阪府大阪市南区河原町1-1516(1955年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1945年9月、1953年12月25日
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1945年9月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「千日前グランド劇場」。1959年の住宅地図では「グランド劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「SWINGヨシモトビル」建物北東部。最寄駅は南海電鉄・大阪メトロ難波駅。

1953年12月25日、大阪市に「千日前グランド」が開館した。披露番組はワーナー映画『男の叫び』。吉本興業系。*3
アシベ劇場
所在地 : 大阪府大阪市南区河原町1-1537(1955年・1958年・1960年)、大阪府大阪市南区河原町1-5557(1963年)、大阪府大阪市南区河原町1-153(1966年・1969年)
開館年 : 1954年9月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年9月開館。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「アシベ劇場」。1959年の住宅地図では「アシベビル アシベ劇場」。1966年の映画館名簿では「千日前アシベ劇場」。1969年の映画館名簿では「アシベ劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「サウナ&カプセル アムザ」。最寄駅は南海電鉄・大阪メトロ難波駅。
大阪スバル座/スバル座(旧)
所在地 : 大阪府大阪市南区難波新地2-1(1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1947年7月
閉館年 : 1970年
Wikipedia : 千日前OSスバル座
『全国映画館総覧 1955』によると1947年7月開館。1955年の映画館名簿では「大阪スバル座」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「スバル座」。1964年の住宅地図では「スバル座」。1968年の住宅地図では「スバル座」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。後継館は千日前スバル座。跡地は「ラウンドワンスタジアム千日前店」。最寄駅は近鉄・阪神難波駅。
中央シネマ劇場/南中央シネマ劇場
所在地 : 大阪府大阪市南区西賑町2-4(1958年)、大阪府大阪市南区西賑町2(1960年・1963年)、大阪府大阪市南区西賑町2-4(1966年・1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1971年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央シネマ劇場」。1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「南中央シネマ劇場」。1968年の住宅地図では「中央シネマ」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「株式会社久宝堂」。最寄駅は大阪メトロ長堀鶴見緑地線松屋町駅。
大映なんば邦映/なんば邦映
所在地 : 大阪府大阪市南区難波新地6番町(1958年)、大阪府大阪市南区難波新地6-12(1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1971年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「なんば邦映」。1963年の映画館名簿では「大映なんば邦映」。1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「なんば邦映」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「なんばCITY本館」建物北西部。最寄駅は南海電鉄・大阪メトロ難波駅。

1958年10月18日、大阪市の松竹封切館「なんば邦映」は大映封切館に転向した。オープニングは『夜の素顔』と『別れたっていいじゃないか』。「ロキシー」が松竹封切館に転向したため。*4
城東館/城東劇場/城南東映劇場/城南東映
所在地 : 大阪府大阪市東区黒門町213(1936年・1941年)、大阪府大阪市東区黒門町(1943年)、大阪府大阪市東区黒門町213(1946年・1947年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1936年以前
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1936年の映画館名簿では「城東館」。1941年・1943年・1946年・1947年・1950年・1955年・1958年の映画館名簿では「城東劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「城南東映」。1966年の映画館名簿では「城南東映劇場」。1969年・1973年の映画館名簿では「城南東映」。1972年の住宅地図では「城南東映」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「清光ビル」など。

大阪市東区における常設映画館としては、1911年に淡路町5丁目に「御霊俱楽部」が設立され、1934年に転業してカフェーとなった。1940年6月現在、内本町2丁目の「本町倶楽部」(日活・新興系)、南玉造町の「玉造座」(日活・新興系)、川西町の「城東劇場」(松竹系)、黒門町の「玉造東宝映画劇場」(東宝系)、木野町の「日之出館」(大都・極東系)、唐居町の「ヤマト館」(外国物)、船橋町の「東邦ニュース館」(外国物)の7館がある。*5
オリオン座/千日前新オリオン座・千日前オリオン座/新オリオン座・オリオン座
所在地 : 大阪府大阪市南区河原町2-1500(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1946年12月
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1955年の映画館名簿では「オリオン座」。1960年の映画館名簿では「新オリオン座・オリオン座」(2館)。1963年の映画館名簿では「新オリオン座」。1966年の映画館名簿では「千日前新オリオン座・千日前オリオン座」(2館)。1969年・1973年の映画館名簿では「新オリオン座・オリオン座」(2館)。1970年の住宅地図では「オリオン座 新オリオン座」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ビジネスホテルニッセイ」。最寄駅は南海電鉄・大阪メトロ難波駅。

1955年6月23日、大阪市南区河原町2-1500の「オリオン座」隣接地に「新オリオン座」が開館した。オープニングは『やぶにらみの暴君』と『黄金のかも鹿』。オリオン興業が経営し、オリオン座の林尚右支配人が兼任する。定員800。*6

1961年2月25日午後2時50分頃、大阪市南区河原町2の「オリオン座」2階映写室付近から出火し、木造2階建ての劇場が全焼した。観客150人のうち2人が軽傷。隣接する「新オリオン座」は類焼を免れた。*7
なんば大劇場・ロキシー/なんば大劇場・松竹なんばロキシー/なんば大劇場・なんばロキシー
所在地 : 大阪府大阪市南区難波新地6-12(1960年・1963年)、大阪府大阪市南区難波新地6-13(1966年・1969年)、大阪府大阪市南区難波新地6-12(1973年)
開館年 : 1957年10月22日
閉館年 : 1973年頃
1960年の映画館名簿では「なんば大劇場・ロキシー」(2館)。1963年の映画館名簿では「なんば大劇場・松竹なんばロキシー」(2館)。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「なんば大劇場・なんばロキシー」(2館)。1970年の住宅地図では「南海会館 ナンバロキシー ナンバ大劇場 ナンバ邦映」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「なんばCITY本館」建物中央西側。最寄駅は南海電鉄・大阪メトロ難波駅。

1957年10月21日、大阪市南区難波新地六番丁に南海電鉄によって「南海会館」が開館した。10月21日には『八十日間世界一周』を披露上映した。10月22日には南海電鉄70周年記念式を開催し、10月22日午後6時から3劇場が一斉に開館した。長期ロードショー館「なんば大劇場」(1285席)、洋画ロードショー館「ロキシー」(902席)、松竹邦画封切館「なんば邦映」(600席)が入る。*8

1957年10月21日、大阪市の難波駅に隣接して「南海会館」が開館した。南海電鉄株式会社の創業70周年記念事業のひとつ。南海電車の起点である難波駅は乗降客数20万人といわれる一大ターミナルである。地下2階・地上8階・塔屋3階建。延床面積約11500坪。シネステージ「なんば大劇場」、洋画ロードショー館「ロキシー」、松竹封切館「なんば邦映」の3館がある。*9
大阪ピカデリー
所在地 : 大阪府大阪市南区西櫓町12(1974年・1976年・1980年)
開館年 : 1973年頃
閉館年 : 1980年頃
1973年の映画館名簿には掲載されていない。1974年・1976年・1980年の映画館名簿では「大阪ピカデリー」。1975年の住宅地図では「道頓堀ピカデリー」。1981年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「道頓堀ゼロゲート」建物北東端。最寄駅は近鉄大坂難波駅。
道頓堀にっかつ劇場
所在地 : 大阪府大阪市南区西櫓町2-7(1982年)、大阪府大阪市南区道頓堀1-6-6(1985年)
開館年 : 1981年頃
閉館年 : 1986年3月頃
1981年の映画館名簿には掲載されていない。1984年の住宅地図では「赤玉ビル2階道頓堀にっかつ」。1982年・1985年の映画館名簿では「道頓堀にっかつ劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「太左衛門橋」南西40mで道頓堀商店街北側にあるビル。最寄駅は近鉄大坂難波駅。
戎橋劇場
所在地 : 大阪府大阪市南区難波新地四番町1(1955年)、大阪府大阪市南区心斎橋筋2-46(1959年)、大阪府大阪市南区心斎橋町2-46(1960年)、大阪府大阪市南区心斎橋筋2-46(1963年)、大阪府大阪市南区心斎橋筋2-41 キリン会館内(1966年)、大阪府大阪市南区心斎橋筋2-46 キリン会館内(1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区心斎橋筋2-46(1985年)
開館年 : 1937年4月、1958年5月9日
閉館年 : 1986年3月
『全国映画館総覧 1955』によると1937年4月開館。1955年の映画館名簿では鉄筋造1階、定員154、洋画・混合を上映。1955年の映画館名簿では「戎橋劇場」。1956年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年の映画館名簿では「戎橋劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1987年竣工の「KPOキリンプラザ大阪」(2008年取り壊し)となった後、現在は2010年竣工の「クリサス心斎橋」。最寄駅は近鉄大坂難波駅。

1958年5月9日、大阪市南区心斎橋筋4丁目の戎橋北詰に外画特選専門館「戎橋劇場」が開館する。キリン会館の5階。オープニングはパラマウントの『シェーン』と『知りすぎていた男』。定員365人。新設される株式会社戎橋劇場が経営。*10
吉本花月シネマ/花月シネマ
所在地 : 大阪府大阪市南区河原町1-1516(1977年・1982年)、大阪府大阪市南区難波千日前12-35(1984年・1985年・1988年)
開館年 : 1976年頃
閉館年 : 1988年
1975年の住宅地図では「なんば花月劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。1977年の映画館名簿では「吉本花月シネマ」。1978年・1979年・1980年の映画館名簿には掲載されていない。1982年・1984年・1985年・1988年の映画館名簿では「花月シネマ」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「SWINGヨシモトビル」建物北東部。最寄駅は南海電鉄・大阪メトロ難波駅。
大阪劇場/大阪劇場・大劇名画座/大劇シネマ・大劇名画座
所在地 : 大阪府大阪市南区(1950年・1953年)、大阪府大阪市南区河原町1-1550(1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区千日前2-8-23(1985年)
開館年 : 1932年7月、1967年以後1969年以前(ビル化)
閉館年 : 1967年6月4日、1991年
Wikipedia : 大阪劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1932年7月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「大阪劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「大阪劇場・大劇名画座」(2館)。1964年の住宅地図では「大劇 大劇名画座 アルサロ大劇」。1966年の映画館名簿では「千日前大阪劇場・千日前大劇名画座」(2館)。1969年・1973年・1980年・1985年の映画館名簿では「大劇シネマ・大劇名画座」(2館)。1975年の住宅地図では「大劇ビル 4階大劇名画座5階大劇シネマ」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「なんばオリエンタルホテル」。最寄駅は南海電鉄・大阪メトロ難波駅。

1967年6月の大阪市にあった「大阪劇場」(大劇)の写真あり。「実演と映画の大劇」の文字が見える。大阪劇場は1967年6月4日に閉館した。2012年現在は跡地になんばオリエンタルホテルがある。*11

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1988年2月号には「第14回 大劇名画座」が掲載されている。*12
松竹座/大阪松竹座
所在地 : 大阪府大阪市南区九郎右衛門町2(1936年・1941年)、大阪府大阪市南区九郎右衛門町(1943年・1947年)、大阪府大阪市南区九郎右衛門町1(1950年)、大阪府大阪市南区九郎右衛門町2(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区道頓堀1-9-19(1985年)、大阪府大阪市中央区道頓堀1-9-19(1990年)
開館年 : 1923年5月17日
閉館年 : 1994年5月8日
Wikipedia : 大阪松竹座
『全国映画館総覧 1955』によると1923年5月開館。1936年・1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「松竹座」。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「大阪松竹座」。1968年・1975年の住宅地図では「松竹座」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。「日本初の鉄骨鉄筋コンクリート造映画館」。建物は演劇場として現存。最寄駅は近鉄大坂難波駅。

1954年正月の大阪市道頓堀にあった「道頓堀松竹座」の写真あり。ルネ・クレール監督作でジェラール・フィリップ主演の『夜ごとの美女』の看板が見える。*13

1966年11月の「大阪松竹座」の写真あり。「SHOCHIKUZA」の文字が見える。1923年、関西初の洋式劇場として開館した。松竹楽劇部(後のOSK)の本拠地にもなった。戦前は洋画中心、戦中と戦後すぐは邦画封切館、1952年7月からは洋画封切館だった。1994年5月に映画館としての幕を閉じた。*14

1975年12月の大阪市道頓堀にあった「松竹座」の写真あり。『ジョーズ』の公開初日に長蛇の列ができている。スティーブン・スピルバーグ監督の同作品は1976年にかけて映画界を席巻した。*15

1982年12月の大阪市の難波にあった「松竹座」の写真あり。スティーブン・スピルバーグ監督作『E.T.』に長蛇の列ができている。配給収入は94億円を記録し、1975年公開で50億円を記録した『ジョーズ』を超えた。*16

「大阪松竹座」に言及している書籍として、伊藤隆之『看板建築・モダンビル・レトロアパート』グラフィック社、2014年がある。*17

「大阪松竹座」に言及している雑誌記事として、重政隆文「おおさか映画館主義 第23回 大阪松竹座」『月刊せんば/月刊SEMBA』1988年12月号がある。*18
三越劇場
所在地 : 大阪府大阪市東区高麗橋2-63(1981年・1982年・1985年)、大阪府大阪市中央区高麗橋1-7-5(1990年・1995年)
開館年 : 1980年頃
閉館年 : 1995年1月17日
1980年の映画館名簿には掲載されていない。1981年・1982年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「三越劇場」。1989年に東区と南区が統合されて中央区が発足。1995年1月17日の阪神淡路大震災で被災して閉館。2000年の映画館名簿には掲載されていない。三越大阪店旧館。跡地は「北浜プラザ」。最寄駅は京阪電鉄京阪本線・大阪メトロ堺筋線北浜駅。

1995年1月17日に発生した阪神大震災後、大阪市・北浜の三越大阪店旧館8階にあった「三越劇場」が休館に追い込まれ、地震の被害によって旧館の取り壊しが決定した。移転などを行って存続する可能性は低い。1935年頃に歌舞伎や落語などを行う多目的ホールとして開館し、1970年代後半以降は映画の上映を主要事業としていた。『髪結いの亭主』『仕立て屋の恋』などのフランス映画、中国映画などの単関係作品を上映し、大阪におけるミニシアターの草分けとして親しまれていた。ホールが412席と大きいこともあり、年間観客数は14万人近かった。*19
ナンバキネマ・ナンバ新東宝/ナンバキネマ・難波ジョイシネマ
所在地 : 大阪府大阪市南区千日前2-11-14(1985年)、大阪府大阪市中央区千日前2-11-14(1990年)
開館年 : 1988年8月
閉館年 : 1993年7月25日
1985年の映画館名簿では「ナンバキネマ・ナンバ新東宝」。1990年の映画館名簿では「ナンバキネマ・難波ジョイシネマ」(2館)。1991年の住宅地図では「2階難波ジョイシネマ ナンバキネマ」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はなんば南海通沿いの「難波第一ビル」。最寄駅は南海電鉄・大阪メトロ難波駅。

1993年7月25日、大阪市・なんばの南海通りにある映画館「難波ジョイシネマ」が閉館する。1988年8月に開館し、アーノルド・シュワルツェネッガーの初期作品などB級アクション映画が観られる映画館として知られた。1992年末からは、ジャック・リヴェット監督の『美しき諍い女』などアート系作品を上映していた。*20

1993年7月24日の『朝日新聞』大阪版朝刊には「難波ジョイシネマ」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*21
敷島倶楽部/千日前東宝敷島劇場/千日前東宝敷島劇場・千日前敷島シネマ
所在地 : 大阪府大阪市南区河原町1-1553(1955年)、大阪府大阪市南区河原町1-1553-2(1958年)、大阪府大阪市南区河原町1-1553(1960年)、大阪府大阪市南区河原町1-1553-2(1963年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区千日前2-11-5(1985年)、大阪府大阪市中央区千日前2-11-5(1990年・1995年)
開館年 : 1911年(敷島倶楽部)、1935年(東宝敷島劇場)、1956年(東宝敷島劇場・敷島シネマ)
閉館年 : 1999年
Wikipedia : TOHOシネマズなんば・別館
『全国映画館総覧 1955』によると1946年11月開館。1955年の映画館名簿では「千日前東宝敷島劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「東宝敷島劇場・敷島シネマ」(2館)。1966年の映画館名簿では「千日前東宝敷島劇場・千日前敷島シネマ」(2館)。1969年・1973年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「東宝敷島劇場・敷島シネマ」(2館)。1975年の住宅地図では「東宝敷島劇場」。1991年の住宅地図では「東宝敷島シネマ」。後継館はTOHOシネマズなんば。跡地は「TOHOシネマズなんば別館」。最寄駅は南海電鉄・大阪メトロ難波駅。
浪花座/浪花座1・2/浪花座2/松竹浪花座
所在地 : 大阪府大阪市南区(1950年・1953年)、大阪府大阪市南区西櫓町12(1955年・1958年・1960年・1963年)、大阪府大阪市南区西櫓町3-12(1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市南区西櫓町12(1980年)、大阪府大阪市南区道頓堀1-8-22(1985年)、大阪府大阪市中央区道頓堀1-8-22(1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1952年7月、1987年
閉館年 : 2002年1月
『全国映画館総覧 1955』によると1952年7月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「浪花座」。1963年・1966年の映画館名簿では「松竹浪花座」。1968年・1975年の住宅地図では「松竹浪花座」。1969年・1973年・1980年の映画館名簿では「浪花座」。1984年の住宅地図では「浪花座1 浪花座2」。1985年の映画館名簿では「浪花座1・2」(2館)。1990年の映画館名簿では「浪花座2」。1995年・2000年の映画館名簿では「松竹浪花座」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「道頓堀ゼロゲート」建物北西端。最寄駅は近鉄大坂難波駅。

1963年4月の大阪市にあった「浪花座」の写真あり。岩下志麻主演作『あの波の果てまで』のポスターが見える。「16日 岩下志麻来る」とある。*22

大阪市の難波にあった「浪花座」の写真あり。「浪花座1 浪花座2」の文字が見える。*23
南街劇場・なんば東宝・南町ミュウジックホール/南街劇場・なんば東宝・南街スカラ座・南街シネマ・南街ニュース劇場/南街劇場・南街東宝・南街スカラ座・南街文化劇場・南街シネマ
所在地 : 大阪府大阪市南区難波新地5番町51(1955年)、大阪府大阪市南区難波新地5-44(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区難波3-8-11(1985年)、大阪府大阪市中央区難波3-8-11(1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1938年6月、1953年12月18日
閉館年 : 2004年2月1日
Wikipedia : 南街会館
『全国映画館総覧 1955』によると1938年6月開館。1955年の映画館名簿では「南街劇場・なんば東宝・南町ミュウジックホール」(3館)。1960年の映画館名簿では「南街劇場・なんば東宝・南街スカラ座・南街シネマ・南街ニュース劇場」(5館)。1969年・1973年の映画館名簿では「南街劇場・なんば東宝・南街スカラ座・南街文化劇場・南街シネマ・南街名画座」(6館)。1980年の映画館名簿では「南街劇場・なんば東宝・南街スカラ座・南街文化劇場・南街シネマ」(5館)。1985年・1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「南街劇場・南街東宝・南街スカラ座・南街文化劇場・南街シネマ」(5館)。1991年の住宅地図では「東宝南街会館 1階南街劇場 南街東宝 3階南街シネマ 6階南街文化劇場 南街スカラ座」。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「TOHOシネマズなんば」などが入る「なんばマルイ」。最寄駅は南海電鉄・大阪メトロ難波駅。

1953年の大阪市の難波駅前にあった「南街映画劇場」の写真あり。『アパッチ砦』の看板が見える。1945年、東宝は旧南街映画劇場を所有していた(会社としての)南街映画劇場を併合した。1953年12月にはこの場所に「南街ビル」(南街会館)が開館する。2012年現在のこの場所には東宝南街ビルが建っており、「TOHOシネマズなんば」が入っている。*24

1957年12月21日、大阪市の南街会館・なんば東宝前の地下街に「南街ニュース劇場」が開館した。東宝が経営する。定員180人。ニュース5本、短編、マンガ作品を上映。入場料30円。*25

1959年12月18日、大阪市南区難波新地5丁目の東宝直営館「南街劇場」が70ミリ劇場となった。11月から改装工事中だった。*26

1974年8月、東宝が「南街名画座」を閉館させた。*27
千日前千日会館/千日会館
所在地 : 大阪府大阪市南区河原町1-1550(1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区千日前2-8-23(1985年)、大阪府大阪市中央区千日前2-8-23(1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1949年10月、1972年
閉館年 : 2004年5月28日
港町キネマ通り : 千日会館
『全国映画館総覧 1955』によると1949年10月開館。1955年の映画館名簿では「千日会館」。1958年・1960年の映画館名簿では「千日前千日会館」。1963年の映画館名簿では「千日会館」。1964年の住宅地図では「千日会館」。1966年・1969年の映画館名簿では「千日前千日会館」。1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「千日会館」。1991年の住宅地図では「千日会館 地下1階名画座千日会館」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「マクドナルド千日前店」が入る「パレ逢阪ビル」。最寄駅は南海電鉄・大阪メトロ難波駅。
弥生座/千日前弥生座
所在地 : 大阪府大阪市南区河原町1-1514(1960年・1969年・1973年)、大阪府大阪市南区難波千日前12-3(1985年)、大阪府大阪市中央区難波千日前12-3(1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1951年1月、1964年
閉館年 : 2004年5月28日
港町キネマ通り : 千日前弥生座
『全国映画館総覧 1955』によると1951年1月開館。1969年・1973年の映画館名簿では「弥生座」。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「千日前弥生座」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。

1960年3月第1週、大阪市南区河原町1丁目の洋画上映館「弥生座」が新東宝封切館に転向した。経営は逢坂興業。*28

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1987年5月号には「第5回 千日前弥生座」が掲載されている。*29
セントラル会館/千日前セントラル会館/千日前セントラル
所在地 : 大阪府大阪市南区河原町2-1505(1950年・1953年・1955年)、大阪府大阪市南区河原町2-1514(1958年)、大阪府大阪市南区河原町2-1505(1960年)、大阪府大阪市南区河原町2-1505(1963年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年)、大阪府大阪市南区難波千日前9-11(1985年)、大阪府大阪市中央区難波千日前9-11(1990年・1995年・2000年・2005年・2006年)
開館年 : 1946年12月
閉館年 : 2006年9月15日
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「セントラル会館」。1958年の映画館名簿では「千日前セントラル会館」。1958年の映画館名簿では経営者が松本進、支配人が遠藤啓二、木造1階冷暖房付、定員675、洋画を上映。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2006年の映画館名簿では「千日前セントラル」。1964年・1991年の住宅地図では「千日前セントラル映画館」。1969年の映画館名簿では経営者が松本興業、支配人が遠藤啓二、鉄筋造1階冷暖房付、定員670、洋画ロードショーを上映。1980年の映画館名簿では経営会社が松本興業、経営者が松本進、支配人が遠藤啓二、鉄筋造1階、573席、洋画ロードショーを上映。2006年の映画館名簿では経営会社が松本興業、経営者が松本進也、支配人が蔵橋敏夫、鉄筋造1階、452席、洋画ロードショーを上映。2010年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物はスーパーマーケット「Aプライス難波千日前店」が入る「千日前セントラル第1ビル」として現存。最寄駅は南海電鉄・大阪メトロ難波駅。

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1989年2月号には「第25回 千日前セントラル」が掲載されている。*30

大阪市中央区の千日前道具屋筋にある映画館「千日前セントラル」は異色な存在である。2階にはコーヒー豆の焙煎工場とケーキ厨房がある。松本進也(57)は23店舗を構える喫茶店チェーン「キーフェル」の経営者でもあり、喫茶店の利益で映画館を維持しているという。*31

「千日前セントラル」に言及している書籍として、大屋尚浩『日本懐かし映画館大全』辰巳出版、2017年がある。*32
シネマ ドゥ
所在地 : 大阪府大阪市中央区心斎橋筋1-1-10 ソニータワー地下1階(2000年)
開館年 : 1997年5月
閉館年 : 2004年10月24日
港町キネマ通り : 心斎橋シネマドゥ
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年の映画館名簿では「シネマ ドゥ」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。74席の1スクリーン。跡地は2007年竣工の商業ビル「ラ・ポルト心斎橋」。

2004年10月24日、大阪市中央区の映画館「心斎橋シネマ・ドゥ」が閉館する。1997年5月に開館した。全席ペアシートの導入、1日最高6作品の上映など、先進的な運営を行ってきた。経営的には黒字だったが、入居するソニータワーの売却で閉館が決まった。閉館までには現在上映中の『キッチン・ストーリー』ほか5本を上映する。*33
千日前スバル座/千日前OSスバル座
所在地 : 大阪府大阪市南区難波新地2-1(1976年・1978年・1980年)、大阪府大阪市南区難波1-3-1(1985年)、大阪府大阪市中央区難波1-3-1 南OSプラザ5階(1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1975年4月9日(ビル化)
閉館年 : 2006年9月24日
Wikipedia : 千日前OSスバル座
前身館は大阪スバル座。1975年の映画館名簿には掲載されていない。1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「千日前スバル座」。2000年・2005年の映画館名簿では「千日前OSスバル座」。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ラウンドワンスタジアム千日前店」。最寄駅は近鉄・阪神難波駅。

1975年4月の大阪市にあった「千日前OSスバル座」の写真あり。「祝 スバル座 4月9日OPEN」の横断幕が見える。1970年にはスバル座がいったん閉館したが、跡地に建った南OSビル内に再開館した。2006年に閉館した。*34

2006年9月24日、大阪・ミナミの「千日前OSスバル座」が閉館する。「スバル座さようならフェスティバル」として、9月22日には『2001年宇宙の旅』、9月23日には『タイタニック』、9月24日には『風と共に去りぬ』を上映した。1947年に開館し、1975年4月に再開館した。1スクリーンであり、ミナミ最大級の505席を有している。再開館後だけで435万人を集めたが、9月22日にはミナミに大型シネコンが開館することから、千日前OSスバル座の閉館が決定した。*35

「スバル座」に言及している書籍として、大屋尚浩『日本懐かし映画館大全』辰巳出版、2017年がある。*36
大阪東映劇場・大阪東映地下劇場/大阪東映劇場・大阪東映パラス/大阪東映劇場・大阪パラス/道頓堀東映劇場・道頓堀東映パラス
所在地 : 大阪府大阪市南区西櫓町1-1(1955年)、大阪府大阪市南区西櫓町1(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区道頓堀1-4-27(1985年)、大阪府大阪市中央区道頓堀1-4-27(1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1955年3月28日
閉館年 : 2007年4月18日
Wikipedia : 道頓堀東映
『全国映画館総覧 1955』によると1954年12月開館。1955年の映画館名簿では「大阪東映劇場・東映地下劇場」(2館)。1960年・1963年の映画館名簿では「大阪東映劇場・大阪東映地下劇場」(2館)。1966年・1969年の映画館名簿では「大阪東映劇場・大阪東映パラス」(2館)。1968年の住宅地図では「大阪東映劇場」。1973年の映画館名簿では「大阪東映劇場・大阪パラス」(2館)。1975年の住宅地図では「大坂東映劇場・東映パラス」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「道頓堀東映劇場・道頓堀東映パラス」(2館)。1984年の住宅地図では「道頓堀東映・東映パラス」。1995年・2000年の映画館名簿では「道頓堀東映・道頓堀東映パラス」(2館)。2005年の映画館名簿では「道頓堀東映劇場・道頓堀東映パラス」(2館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「マツモトキヨシ道頓堀1丁目店」や「エディオン道頓堀店」が入る「道頓堀ベニスビル1」。最寄駅は近鉄難波線近鉄日本橋駅・大阪メトロ日本橋駅。

1955年3月28日、大阪市南区道頓堀に東映封切館「大阪東映劇場」が開館した。午前10時から会館披露式が開催され、大川博東映社長、片岡千恵蔵や市川右太衛門をはじめとする東映スターが列席した。式典の後には菊次郎・仁左衛門・猿二郎による『寿三番叟』が、12時から『喧嘩奉行』『百面童子』で開館披露が行われた。建坪250坪、定員830。*37

1984年7月の大阪市にあった「道頓堀東映パラス」の写真あり。夏目雅子が主演した『瀬戸内少年野球団』の公開時。*38

2007年4月18日、大阪市の道頓堀にある4館の映画館が閉館する。1955年に開館した東映直営館「道頓堀東映」と「道頓堀東映パラス」、1948年に開館した松竹直営館「角座1」「角座2」である。4月19日には南海電鉄難波駅近くに「なんばパークスシネマ」が開館するため。4月19日と20日、道頓堀東映ではさよなら上映会が開催され、俳優の北大路欣也が来館してトークショーが開催される。角座は演芸場に生まれ変わるが、道頓堀東映の跡地の今後は未定。道頓堀は江戸時代から芝居小屋が並んでいた町である。1897年に難波駅近くの南地演舞場(現在はシネコン)で日本初となる有料の活動写真上映会が開催されると、同年には「道頓堀五座」のひとつである角座でも活動写真が上映された。道頓堀東映は名画の老舗として知られ、市川右太衛門、片岡千恵蔵、高倉健、吉永小百合らのスターが舞台挨拶に訪れたことがある。1950年代から1970年代頃には、浪花座(2館)、松竹座も含めて、かつては通りに7館がある関西屈指の映画街だったが、道頓堀から映画館が消滅する。*39
SY角座/SY角座・松竹角座/角座1・2
所在地 : 大阪府大阪市南区(1950年・1953年)、大阪府大阪市南区西櫓町3(1955年)、大阪府大阪市中央区道頓堀1-4-20(1990年・1995年)、大阪府大阪市中央区道頓堀1-4-20 KADOZAビル3階(2000年・2005年)
開館年 : 1948年、1986年(映画館化)
閉館年 : 2007年4月18日
『全国映画館総覧 1955』によると1947年11月開館。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「SY角座」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「SY角座・松竹角座」(2館)。2000年の映画館名簿では「角座1・2」(2館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅は大阪メトロ御堂筋線・長堀鶴見緑地線心斎橋駅。

2002年5月1日、「SY角座」と「松竹角座」が「角座1・2」に改称した。*40

2007年4月18日、大阪市の道頓堀にある4館の映画館が閉館する。1955年に開館した東映直営館「道頓堀東映」と「道頓堀東映パラス」、1948年に開館した松竹直営館「角座1」「角座2」である。4月19日には南海電鉄難波駅近くに「なんばパークスシネマ」が開館するため。4月19日と20日、道頓堀東映ではさよなら上映会が開催され、俳優の北大路欣也が来館してトークショーが開催される。角座は演芸場に生まれ変わるが、道頓堀東映の跡地の今後は未定。道頓堀は江戸時代から芝居小屋が並んでいた町である。1897年に難波駅近くの南地演舞場(現在はシネコン)で日本初となる有料の活動写真上映会が開催されると、同年には「道頓堀五座」のひとつである角座でも活動写真が上映された。道頓堀東映は名画の老舗として知られ、市川右太衛門、片岡千恵蔵、高倉健、吉永小百合らのスターが舞台挨拶に訪れたことがある。1950年代から1970年代頃には、浪花座(2館)、松竹座も含めて、かつては通りに7館がある関西屈指の映画街だったが、道頓堀から映画館が消滅する。*41
南地日活・国際シネマ/国際日活劇場・国際地下劇場・国際シネマ/千日前国際劇場・千日前国際地下劇場・千日前国際シネマ
所在地 : 大阪府大阪市南区難波新地5-24(1955年・1958年・1960年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区難波3-1-36(1985年)、大阪府大阪市中央区難波3-1-36(1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1946年夏(千日前国際シネマ)、1956年10月30日(千日前国際劇場・千日前国際地下劇場)
閉館年 : 2008年3月31日
Wikipedia : 千日前国際劇場
1950年・1953年の映画館名簿では「南地映画劇場・国際シネマ」(2館)。1955年の映画館名簿では「南地日活・国際シネマ」(2館)。1958年・1960年・1969年・1973年の映画館名簿では「国際日活劇場・国際地下劇場・国際シネマ」(3館)。1975年の住宅地図では「国際シネマ 国際地下劇場 国際日活劇場」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「国際劇場・国際シネマ・国際地下劇場」(3館)。1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「千日前国際劇場・千日前国際シネマ・千日前国際地下劇場」(3館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「マルハンなんば新館」。最寄駅は南海電鉄・大阪メトロ難波駅。

1949年1月3日に大阪歌舞伎座の3階から撮影した「東宝国際シネマ」の写真あり。「マネシ際国」の文字が見える。背後の巨大な建物は大阪劇場である。1946年、千日前に新東宝の封切館として開館した。やがて隣接する南地劇場と統合し、1956年には「国際日活」と「国際地下劇場」の2冠を増設した。2008年に閉館した。*42

1956年10月30日、大阪市の千日前に国際会館が開館した。日活封切館として定員1500人の「国際日活」が、洋画二番館として定員700人の「国際地下劇場」が開館した。大弥株式会社経営。*43

1961年10月14日、大阪市南区難波新地5-24のニュー東映封切館「国際シネマ」が東映封切館となった。同地区の東映封切館だった「常盤座」が改装のために休館するため。*44

2008年3月31日、大阪市中央区のミナミにある映画館「千日前国際劇場」「千日前国際シネマ」「千日前国際地下劇場」の3館が閉館する。ミナミから旧来型の映画館がすべて消えることとなる。676席の国際シネマは1946年夏に開館。809席の国際劇場と286席の国際地下劇場は1956年に開館。映画最盛期には休憩時間にオルガン演奏が行われ、石原裕次郎や吉永小百合らの銀幕スターが舞台挨拶を行ったこともあった。2006年9月以降にはミナミにシネコンが相次いで開館し、国際劇場などでは観客数が激減していた。近隣の「千日前セントラル」、「道頓堀東映」、「角座1・2」など6館が次々に閉館していた。2008年1月には俳優の芦屋小雁らが「千日前シネマ倶楽部」を結成し、京マチ子出演作品の特集上映などが話題となったが、結局は閉館が決定した。跡地の利用方法は未定。「さよなら上映」として『嵐を呼ぶ男』や『明治天皇と日露大戦争』など5作品が500円で上映されている。*45

「千日前国際地下」に言及している書籍として、高瀬進『ピンク映画館の灯 暗闇が恋しい都市の隠れ家』自由国民社、2001年がある。*46

「千日前国際劇場・国際シネマ・国際地下劇場」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*47

「千日前国際シネマ・国際劇場」に言及している書籍として、大屋尚浩『日本懐かし映画館大全』辰巳出版、2017年がある。*48
千日前弥生座/弥生座・テアトルA&P/千日前弥生座・テアトルA&P/テアトルA&P
所在地 : 大阪府大阪市南区河原町1-1514(1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区難波千日前12-3(1985年)、大阪府大阪市中央区難波千日前12-3(1990年・1995年・2000年)、大阪府大阪市中央区千日前2-8-23(2005年・2010年)
開館年 : 1964年
閉館年 : 2013年4月23日
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「千日前テアトルA&P」。1969年・1973年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「テアトルA&P」。1975年の住宅地図では「弥生座とテアトルA&P」。1991年の住宅地図では「2階テアトルA&P 弥生座」。2015年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「パレ逢阪中央ビル」。最寄駅は南海電鉄・大阪メトロ難波駅。

「テアトルA&P」に言及している書籍として、大屋尚浩『日本懐かし映画館大全』辰巳出版、2017年がある。*49
国名小劇
所在地 : 大阪府大阪市中央区日本橋1-5-8(1990年・1995年・2000年・2015年)
開館年 : 1988年4月24日
閉館年 : 2021年12月30日
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「国名小劇」。2005年・2010年の映画館名簿には掲載されていない。2015年の映画館名簿では「国名小劇」。成人映画館。最寄駅は近鉄難波線近鉄日本橋駅。

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1988年8月号には「第20回 国名小劇」が掲載されている。*50

大阪にはレイトショーは根付かないとされてきたが、1992年現在の「国名小劇」はオールナイト上映を行っているし、4年前から「シネマ・ヴェリテ」はレイトショーを実施している。「シネマアルゴ梅田」「テアトル梅田」「扇町ミュージアムスクエア」も常時レイトショーを実施するようになっている。1992年1月から、国名小劇は雰囲気づくりのために、上映前に原語のアナウンスを行っている。フランス映画では「ボンジュール・マダム・エ・ムッシュー...」とフランス語のアナウンスが流れる。*51

1988年以前の大阪市には単館興行の劇場として「三越劇場」があったが、1988年4月24日には黎明期のミニシアターとしてミナミに「国名小劇」が、1989年2月には梅田に「シネマ・ヴェリテ」が、1990年4月には梅田に「テアトル梅田1・2」が開館している。*52

国名小劇に言及している雑誌記事として、「関西かわら版 繁昌珍商売 感動の映画を24時間上映中」『週刊大衆』2000年10月9日がある。現物は未確認。*53
パラダイスシネマ/パラダイス シネマ1・2/パラダイススクエア1・2/シネマート心斎橋1・2
所在地 : 大阪府大阪市中央区西心斎橋1-6-14 ビッグステップ4階(1995年・2000年・2005年)、大阪府大阪市中央区西心斎橋1-6-14 ビッグステップビル4階(2010年・2015年)
開館年 : 1993年3月6日(パラダイスシネマ)、2002年6月(パラダイススクエア)、2006年4月15日(シネマート心斎橋)
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿では「パラダイスシネマ」。2000年の映画館名簿では「パラダイス シネマ1・2」(2館)。2000年の映画館名簿では「シネマート心斎橋1・2」(2館)。2005年の映画館名簿では「パラダイススクエア1・2」(2館)。2010年・2015年の映画館名簿では「シネマート心斎橋1・2」(2館)。

1993年3月4日には娯楽ビル「ビッグ・ステップ」がオープンするが、3月6日には4階に映画館「パラダイス・シネマ」が開館する。座席数は110席。若い女性たちが中心となって企画・運営し、「いままで大阪になかった新しい映画館」を目指す。支配人は山川暉雄(54)。帝国キネマ演芸会社(帝キネ)の設立者である山川吉太郎の孫である。*54

2000年4月1日、大阪市西心斎橋の「パラダイスシネマ」がヘラルド・エンタープライズの経営となった。梅田ガーデンシネマ1・2(大阪府)、恵比寿ガーデンシネマ1・2(東京都)、朝日シネマ1・2(京都府)、札幌三越劇場(北海道)、シネスイッチ札幌(北海道)、北見中劇(北海道)、ミリオン座(北海道)、苫小牧日劇1・2(北海道)、シネプレックス8平塚(神奈川県)も経営している。*55

2002年3月末には心斎橋の映画館「パラダイスシネマ」が閉館した。運営はヘラルド・エンタープライズ。1997年には2館体制となったが、観客数が伸びなかった。2002年1月には松竹が「浪花座」を閉館させており、パラダイスシネマ跡地を引き継ぐ方向で活用を検討している。近年にはシネコンが台頭し、ミニシアターバブルが崩壊しているとされる。*56

2003年5月時点で大阪府にシネコンが9施設ある。1993年4月には大阪府初のシネコンとしてワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田が開館。その後、1997年・1998年・1999年に1施設ずつ開館し、2000年には2施設、2001年には1施設、2002年には2施設開館した。この2003年10月には箕面市に大阪府下10か所目のシネコンが開館する予定。この10年には旧来からの映画館やミニシアターの閉館が相次いでおり、この1年だけでも、1985年開館の扇町ミュージアムスクエア(北区)や、1993年開館のパラダイスシネマ(中央区)など10館が閉館した。1993年開館の第七芸術劇場(淀川区)は1999年に閉館したが、映画ファンや商店街の人々が声を上げ、2002年7月に有限会社第七芸術劇場が営業を再開した。*57
敷島シネポップ1・2・3/TOHOシネマズなんば別館
所在地 : 大阪市中央区千日前2-11-5 敷島ビル4階(2010年・2015年・2020年)
開館年 : 2000年7月8日
閉館年 : 営業中
Wikipedia : TOHOシネマズなんば・別館
2000年7月に東宝敷島ビルが竣工して敷島シネポップ開館。2005年・2010年の映画館名簿では「敷島シネポップ1・2・3」(3館)。2011年5月20日にTOHOシネマズなんば別館に改称。2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズなんば10-12」(3館)。最寄駅は南海電鉄・大阪メトロ難波駅。

2000年7月8日、大阪市中央区千日前2-11-5 敷島ビル4階に東宝によって「敷島シネポップ1・2・3」が開館した。3スクリーン計474席。*58
TOHOシネマズなんば本館
所在地 : 大阪府大阪市中央区難波3-8-9 東宝南街ビル8階(2010年・2015年・2020年)
開館年 : 2006年9月24日
閉館年 : 営業中
2006年9月24日にTOHOシネマズなんばとして開館。2011年5月20日にTOHOシネマズなんば本館に改称。2010年・2015年の映画館名簿では「TOHOシネマズなんば1-7・セレクト・プレミア」(9館)。2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズなんば1-9」(9館)。最寄駅は南海電鉄・大阪メトロ難波駅。

2006年9月、大阪市中央区難波に複合映画館「TOHOシネマズなんば」が開館した。開館前に行われたオープニングセレモニーには、9月30日に全国一斉公開を行う『涙そうそう』に主演した妻夫木聡と長澤まさみが駆けつけてテープカットを行った。9スクリーン計1960席を有する大阪市最大級のシネコンである。難波は日本で初めて映画興行が行われた場所とされ、大阪・ミナミのにぎわいにプラス効果をもたらすことが期待される。かつて複数の映画館が入っていた東宝南街会館の跡地に完成したビルの8階から11階部分にある。プレミアスクリーンは約120席分の広さに61席のみを設置しており、ゆったり映画鑑賞ができる。年間120万人の集客を目指している。*59
イオンシネマシアタス心斎橋
所在地 : 大阪府大阪市中央区心斎橋筋1丁目7-1 大丸心斎橋店北館12階
開館年 : 2021年3月16日
閉館年 : 営業中
7スクリーンのシネコン。

2021年1月20日、大阪市中央区の心斎橋パルコに入居するイオンシネマの映画館「THEATUS心斎橋」(シアタス心斎橋」の開館が延期されると発表された。2020年12月時点では2021年1月21日に開館すると発表されていたが、緊急事態宣言の発令を受けて日程が再調整されることになった。*60

2021年3月16日、大阪市の心斎橋パルコに7スクリーンのシネコン「イオンシネマ シアタス心斎橋」が開館した。約30平方メートルに3席×3列の計9席が並ぶスクリーンもある。革張りの電動リクライニングシートであり、入場料はドリンク付きで4000円である。*61

このページへのコメント

今から60年前に、現在の地下鉄松屋町駅のある交差点徒歩1分の北東側に空堀東映だったか空堀東宝、あるいは空堀劇場という映画館がありロードショー劇場での公開終了後に3本立てで話題作を上映していた映画館がありました。
怪獣映画を数回観た記憶があります。

1
Posted by 空堀東映 2023年10月21日(土) 20:05:03 返信

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