日本の映画館の総合データベースです。



彦根市

彦根市の映画館
1964年現在の彦根市には、「彦根映画劇場」、「真盛座」、「第一劇場」、「セントラル劇場」、「彦根大劇」の5館がある。*1

東近江市立八日市図書館には、個人や団体が地域限定で自主発行する「リトルプレス」のコーナー「筏川」(いかだがわ)がある。2013年春に設置され、全国から集めた250冊が並んでいる。リトルプレスコーナーは全国の図書館でも珍しいという。"彦根市の閉館した映画館" を振り返る自主製作雑誌『かぜがたみ』、長野県の高齢者を追う『鶴と亀』、大阪府のビルの魅力を語る『月刊ビル』などがある。*2
聚楽座/帝国館
所在地 : 滋賀県犬上郡彦根町川原町(1930年)、滋賀県犬上郡彦根町川原(1934年)、滋賀県犬上郡彦根町川原町(1936年)、滋賀県彦根市川原町67(1941年)、滋賀県彦根市川原町(1943年)
開館年 : 1923年
閉館年 : 1943年以後1945年以前
1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「帝国館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

1872年、彦根の川原町にある長光寺の東隣に芝居小屋「星河園」が開設された。1880年、秋山泉三が星河園を買収し、「聚楽座」と改称して個人経営とした。1913年1月には改築し、こけら落とし公演として新派活動写真連鎖劇の川上一郎一座を招いた。1923年、秋山泉三の子である秋山重佳が聚楽座を「帝国館」に改称し、活動写真の上映館となった。*3

1935年頃の「帝国館」の写真あり。1923年、秋山泉三の子が元・聚楽座を引き継ぎ、帝国座と改称して映画館とした。「洋画 自由 選択 大衆映画 帝国座」の看板が見える。*4

1945年11月30日、彦根土地興業株式会社が設立され、彦根市川原町の「帝国館」跡地に直営館を建設した。その後、「彦根東映」、「彦根協映」と改称した。*5

1955年頃の「真盛座」の写真あり。1945年11月30日に彦根土地興業株式会社が設立され、川原町の帝国館跡地に直営館の真盛館を開館させた。その後、彦根東映や彦根協映に改称している。*6

1955年頃の「真盛座」の写真あり。1923年、「聚楽座」が「帝国館」に改称して映画館となった。1945年、帝国館の跡地に建てられた。*7

1945年11月30日に設立された彦根土地興行株式会社は、河原町の帝国館跡地に直営館として真盛座を開館させた。やがて彦根東映に改称し、さらに彦根協映に改称した。1959年の写真あり。*8

サイレント映画時代の彦根市には、「帝国館」と「金城館」があった。当初はむしろに座って観ていたが、1921年頃には椅子に座って観るようになり、1927年にはトーキー映画が出現した。金城館はやがて「彦根映画劇場」に改称し、1941年11月には経営者が黒岩信行から大橋鈴二に交代した。太平洋戦争が激化すると、1945年の建物疎開の際に帝国館は取り壊された。*9
中村座
所在地 : 滋賀県彦根市高宮町2123(1960年・1961年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1961年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年の映画館名簿では「中村座」。1961年の映画館名簿では経営者が中村利七、支配人が北川三郎、木造2階冷暖房付、定員400、東映を上映。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
彦根大劇
所在地 : 滋賀県彦根市餌指町7(1958年)、滋賀県彦根市餌指町5117(1960年)、滋賀県彦根市餌指町17-5(1963年・1964年)
開館年 : 1956年11月7日
閉館年 : 1964年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「彦根大劇」。1958年の全産業住宅案内図帳では「彦根大劇」。1960年の映画館名簿では経営者が寿興行、支配人が鈴木八郎、鉄筋2階冷暖房付、定員750、洋画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「日本生命保険彦根営業部」。最寄駅はJR琵琶湖線・近江鉄道彦根駅。

1956年11月7日、彦根市の駅前通りに有限会社寿興行が「彦根大劇」を新築した。こけら落としとして歌手の田畑義夫が出演している。彦根市唯一の洋画封切館である。*10
東宝劇場/第一劇場/彦根第一劇場/彦根第一会館
所在地 : 滋賀県彦根市(1950年)、滋賀県彦根市川原町甲72(1953年・1955年)、滋賀県彦根市川原町甲75(1958年)、滋賀県彦根市川原町甲(1960年・1961年・1962年)、滋賀県彦根市川原町甲72(1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1946年10月10日、1961年4月(ビル化)
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年10月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「第一劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「彦根第一劇場」。1958年の映画館名簿では「第一劇場」。1958年の全産業住宅案内図帳では「第一劇場」。1960年・1961年の映画館名簿では「彦根第一劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が寿興行、支配人が西村寿、木造2階暖房付、定員550、大映・日活を上映。1961年の映画館名簿では経営者が寿興行、支配人が鈴木八郎、木造2階冷暖房付、定員550。1962年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「彦根第一会館」。1962年の映画館名簿では経営者が寿興行、支配人が鈴木八郎、鉄筋造3階冷暖房付、定員575、日活・大映を上映。1969年の映画館名簿では経営者が娯楽観光、支配人が水野史郎、鉄筋造3階冷暖房付、定員462、日活・洋画を上映。1970年の映画館名簿には掲載されていない。1970年弘報社住宅地図では発見できず。跡地は「滋賀銀行彦根支店」西のパチンコ店「銀座会館」廃墟。映画館時代の建物が現存。最寄駅はJR琵琶湖線・近江鉄道彦根駅。

1946年10月10日、有限会社新興劇場が彦根市の川原町に「東宝劇場」を開館させ、すぐに「第一劇場」に改称した。1954年6月、寿興行有限会社が第一劇場を買収し、1961年4月に改築して第一会館とした。食堂や喫茶店が併設され、2階が映画館となった。*11

1946年10月10日には彦根市の河原町に「東宝劇場」が開館し、すぐに「第一劇場」に改称した。1961年に改築を行い、食堂と喫茶店が併設された。1950年頃の写真あり。*12

1955年頃の彦根市にあった「第一劇場」の写真あり。1946年10月10日、有限会社新興劇場が彦根市川原町(現・銀座町)に「東宝劇場」として開館させた。1954年には寿興行有限会社が買収し、1961年4月に「第一会館」に改装した。食堂や喫茶店が併設され、2階が映画館だった。*13

1947年の「第一劇場」の写真あり。1946年10月10日に「東宝劇場」として開館し、間もなく「第一劇場」に改称した。1961年に食堂や喫茶店を併設した「第一会館」が建ち、2階が映画館となった。*14

1955年頃の彦根市河原町の第一劇場付近の写真。第一劇場が開館した頃であり、アーケードはまだなかった。閉館後の一時期は「厚生会スーパー」となり、2004年現在はパチンコ店「銀座会館」となっている。*15

銀座商店街にある太田書店の男性店主。「正面の建物の2階は昔映画館だった。建物は映画館があった頃から変わっていない。1階はゲームセンターからパチンコ店に変わった。小学生の時に入ったことがある」

1972年12月20日の新聞記事によると、12月19日に彦根市に第一ビルが竣工した。*16
真盛座/彦根東映真盛座/彦根協映劇場/彦根協映
所在地 : 滋賀県彦根市川原町(1949年)、滋賀県彦根市川原町甲67(1950年・1953年)、滋賀県彦根市川原町甲66(1955年)、滋賀県彦根市川原町甲67(1958年・1960年)、滋賀県彦根市川原町甲72(1963年)、滋賀県彦根市川原町甲67(1966年・1969年)、滋賀県彦根市錦町1-24(1973年・1976年・1980年・1985年・1988年)
開館年 : 1946年11月
閉館年 : 1988年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年11月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「真盛座」。1958年の映画館名簿では「彦根東映」。1958年の全産業住宅案内図帳では「彦根東映」。1960年・1963年の映画館名簿では「彦根東映真盛座」。1966年・1969年・1973年・1977年の映画館名簿では「彦根協映劇場」。1970年・1979年弘報社住宅地図では「彦根協映」。1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「彦根協映」。1985年・1988年ゼンリン住宅地図では「彦根協映」。1988年の映画館名簿では経営会社が永和興業、経営者が杉藤靖美、支配人が加納広明、木造1階、410席、邦画を上映。1989年の映画館名簿には掲載されていない。1992年ゼンリン住宅地図では跡地に空き地。1995年ゼンリン住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「滋賀銀行彦根支店」北東30mの「滋賀銀行彦根支店第2駐車場」。最寄駅はJR琵琶湖線・近江鉄道彦根駅。

1963年4月25日、彦根市川原町甲67の「彦根東映真盛座」が「協映劇場」に改称して営業を再開する。休館して改装中だった。経営は布施市の永和興業。*17

1945年11月30日、彦根土地興業株式会社が設立され、彦根市川原町の「帝国館」跡地に直営館を建設した。その後、「彦根東映」、「彦根協映」と改称した。*18

1955年頃の彦根市にあった「真盛座」の写真あり。1945年11月30日に彦根土地興業株式会社が設立され、川原町の帝国館跡地に直営館の真盛館を開館させた。その後、彦根東映や彦根協映に改称している。*19

1955年頃の彦根市にあった「真盛座」の写真あり。1923年、「聚楽座」が「帝国館」に改称して映画館となった。1945年、帝国館の跡地に建てられた。*20

1945年11月30日に設立された彦根土地興行株式会社は、河原町の帝国館跡地に直営館として真盛座を開館させた。やがて彦根東映に改称し、さらに彦根協映に改称した。1959年の写真あり。*21
彦根大映セントラル劇場/セントラル劇場/彦根セントラル劇場
所在地 : 滋賀県彦根市一番町(1955年)、滋賀県彦根市一番町15(1958年)、滋賀県彦根市一番町8(1959年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1977年)、滋賀県彦根市本町一番町8(1980年)、滋賀県彦根市中央町4-4(1985年・1988年・1990年)
開館年 : 1952年12月30日
閉館年 : 1990年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年の映画館名簿では「セントラル劇場」。1958年の全産業住宅案内図帳では「彦根大映」。1959年の映画館名簿では「彦根大映セントラル劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1977年・1980年・1985年・1988年・1990年の映画館名簿では「彦根セントラル劇場」。1970年・1979年弘報社住宅地図では「セントラル映劇」。1985年・1988年ゼンリン住宅地図では「セントラル映劇」。1988年の映画館名簿では経営会社が寿興業、経営者が川上郁夫、支配人が西村寿志、木造1階、180席、にっかつ・成人映画を上映。1991年の映画館名簿には掲載されていない。1992年・1995年ゼンリン住宅地図では跡地に「ガレージ」。跡地は「蓮華寺」本堂北西50mの月極駐車場。最寄駅はJR琵琶湖線・近江鉄道彦根駅。

1952年11月28日、彦根振興土地建物株式会社が設立され、12月30日には彦根市一番町の蓮華寺前に「セントラル劇場」が創設された。1958年7月1日には「大映劇場」に改称したが、1959年7月1日には再び「セントラル劇場」に改称した。*22

1952年12月30日には彦根市中央町の蓮華寺前に「セントラル劇場」が開館。1958年7月1日には「大映劇場」に改称したが、翌年の1959年7月1日には「セントラル劇場」に戻した。1957年頃の写真あり。『白昼の対決』(1955年、アメリカ)の看板が見える。「どれでも面白ろいセントラルのお正月映画」〈面白ろいは原文ママ〉の文字も見える。*23
金城館/彦根映劇/彦根映画劇場
所在地 : 滋賀県犬神郡彦根町大工町(1930年)、滋賀県犬神郡彦根町川原(1934年)、滋賀県犬神郡彦根町大工町(1936年)、滋賀県彦根市大工町(1941年)、滋賀県彦根市四番町(1943年)、滋賀県彦根市川原町4(1947年)、滋賀県彦根市四番町(1949年)、滋賀県彦根市川原町4(1950年)、滋賀県彦根市四番町(1953年)、滋賀県彦根市四番町92-2(1955年・1958年)、滋賀県彦根市四番町(1960年)、滋賀県彦根市四番町92(1963年)、滋賀県彦根市四番町92-2(1966年・1969年・1973年)、滋賀県彦根市本町4-92-2(1977年)、滋賀県彦根市本町四番町92-2(1980年)、滋賀県彦根市本町1-10-6(1985年・1988年・1990年・1995年・1996年)
開館年 : 1927年頃、1953年
閉館年 : 1996年4月
『全国映画館総覧 1955』によると1941年11月開館。1930年・1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「金城館」。1943年・1947年・1949年・1950年の映画館名簿では「彦根映画劇場」。1953年の映画館名簿では「彦根映劇」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1977年の映画館名簿では「彦根映画劇場」。1958年の全産業住宅案内図帳では「彦根映画劇場」。1970年・1979年弘報社住宅地図では「彦根映画劇場」。1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「彦根映劇」。1985年・1988年・1992年・1995年ゼンリン住宅地図では「彦根映画劇場」。1988年の映画館名簿では経営会社が自由映画、経営者が牧田義昌、支配人が竹村春由、木造1階、360席、洋画を上映。1990年・1995年・1996年の映画館名簿では「彦根映画劇場」。1996年の映画館名簿では経営会社が自由映画社、経営者が長井幸雄、支配人が竹村春由、木造2階、250席、邦画・洋画を上映。1998年の映画館名簿には掲載されていない。彦劇とも。実質的な後継館は彦根ビバシティシネマ。跡地は「りそな銀行彦根支店」西北西60mの月極駐車場。最寄駅はJR琵琶湖線・近江鉄道彦根駅。

1877年、薬袋某が四番町に寄席の「星集軒」を建て、後に北側善八が星集軒を買収した。1900年、村田文三が星集軒を買収して「新蓆座」(しんせきざ)に改称した。1922年、若林庄太郎や高山栄之らが資本金5万円で株式会社タチバナ俱楽部を設立し、同年12月24日には常設映画館に改築して「電気館」に改称した。1927年2月には株式会社タチバナ倶楽部が解散し、若林庄太郎らが昭和会を結成、電気館を「金城館」に改称した。1930年、金城館は宮崎辰雄の個人経営となった。*24

1927年2月には株式会社タチバナ倶楽部が解散し、若林庄太郎らが昭和会を結成して「金城館」という映画館を開館させた。1930年には宮崎辰雄が経営した。1935年頃の金城館の写真あり。彦根市土橋町(現・銀座町)にあった。*25

1996年1月25日付『京都新聞』滋賀版には、4月に「彦根映画劇場」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*26

サイレント映画時代の彦根市には、「帝国館」と「金城館」があった。当初はむしろに座って観ていたが、1921年頃には椅子に座って観るようになり、1927年にはトーキー映画が出現した。金城館はやがて「彦根映画劇場」に改称し、1941年11月には経営者が黒岩信行から大橋鈴二に交代した。太平洋戦争が激化すると、1945年の建物疎開の際に帝国館は取り壊された。*27

小説家の団鬼六は彦根市出身であり、父親は1941年まで映画館「金城館」の経営者だった。団鬼六は文藝春秋が発行する『オール讀物』2002年6月号の「湖国の春」で金城館について書いている。現物は未確認。*28
彦根ビバシティシネマ
所在地 : 滋賀県彦根市竹ヶ鼻町43-1(1998年・2000年)、滋賀県彦根市竹ヶ鼻町43-1 ビバシティ彦根3階(2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1996年4月26日
閉館年 : 営業中
実質的な前身館は彦根映画劇場。1996年の映画館名簿には掲載されていない。1998年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「彦根ビバシティシネマ1-4」(4館)。1998年の映画館名簿では経営会社が自由映画社、経営者が長井幸雄、支配人が竹村春由、鉄筋造3階、1が108席、2が109席、3が130席、4が208席、いずれも邦画・洋画を上映。最寄駅はJR琵琶湖線南彦根駅。

1996年4月26日、彦根市のJR南彦根駅近くに大型複合商業施設「ビバシティ彦根」がオープンする。店舗を含めた施設の延床面積は約10万m2であり滋賀県最大規模。核となる店舗はビバシティ平和堂。ボウリング場、カラオケ店、ゲームセンター、スポーツクラブ、4スクリーン計560席を持つ映画館もある。*29

2018年8月31日、彦根市の映画館「ビバシティシネマ」で『カメラを止めるな!』の上映が開始された。同日の上映後、長浜市木之本町出身の上田慎一郎監督と、上田監督の幼馴染で音楽を担当した鈴木伸宏による舞台挨拶が行われた。上田の実家から一番近い映画館はビバシティシネマであり、何度も遠足気分で足を運んだという。同日には近江八幡市の「イオンシネマ近江八幡」と大津市の「大津アレックスシネマ」でも2人の舞台挨拶が行われた。*30

2018年8月31日から、彦根市の映画館「ビバシティシネマ」で『カメラを止めるな!』が公開される。上田慎一郎監督は長浜市木之本町出身だが、長浜市や米原市には映画館がなく、上田監督は自身のSNSで「電車で1時間かけてこの映画館に行った。ドラえもんもドラゴンボールもアルマゲドンもここで見たんや」と記している。*31

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