日本の映画館の総合データベースです。



中津川市

中央座
所在地 : 岐阜県恵那郡中津町大正町(1936年)
開館年 : 1911年-1912年頃
閉館年 : 1932年7月
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「中央座」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。

大正初期の中央座の写真あり。中津川の下町にあった。坂下・馬籠・福岡辺りからも芝居見物に人が訪れたという。建物は1932年7月に全焼した。*1

1911年6月頃、下町の水田の中に建築中の芝居小屋「中央座」の写真あり。中津町を中心に近隣地域唯一の娯楽施設だったが、21年後に焼失した。*2

中津川の下町にある間酒造店から西へ数10歩、左へ曲ると「中央座」があった。遠く坂下・馬籠・福岡あたりからも、村民が芝居見物に来たという。建物は1932年7月に全焼した。大正初期の写真あり。*3
菅原座
所在地 : 岐阜県恵那郡福岡村
開館年 : 1891年頃
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。1964年解体。跡地は「榊山神社」社殿南南東70mの「旧福岡保育園」廃墟。最寄駅はJR中央本線中津川駅。

高山に常盤座ができた1891年頃、福岡にも「菅原座」が建てられた。戦後には福岡区が菅原座を管理し、入札で興行を行っていた。豊地弘子、市川少女歌舞伎、前進座、三波春夫、野村雪子、曽根史郎らが来演し、映画も上映された。老朽化したことで1964年に取り壊され、跡地には福岡保育所が建てられた。解体工事中の菅原座の写真あり。巨大な梁が見える。*4

1963年の福岡村にあった「菅原座」の写真あり。福岡村の舞台としては最も大きな建物だった。榊山神社の南、1993年現在の保育所の場所にあった。1932年の菅原座における素人歌舞伎の写真あり。1951年頃に福岡青年団が菅原座で行った演芸会の記念写真あり。*5

1963年10月、福岡区事務所の階下を用いて保育所が開設され、1965年1月1日に福岡村立福岡保育所が認可された。1966年4月、菅原座の跡地に菅原座の資材を利用して木造平屋建の園舎が建った。1991年3月、福岡町福岡699-1に鉄筋造平屋建の福岡町立福岡保育所が竣工した。*6
寿座
所在地 : 岐阜県恵那郡阿木村
開館年 : 1892年
閉館年 : 1956年
映画館ではなく芝居小屋。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。

1891年、阿木村川上の「竹の腰の観音堂」横に舞台を建設する工事を開始し、1892年10月に萱葺きの舞台「寿座」が完成した。1928年の歌舞伎の上演中の写真あり。1956年の公演を最後に閉館した。*7

1956年に「寿座」で行われた最後の歌舞伎上演の写真あり。1891年、寄付金を基に阿木川上の竹の腰観音堂続きの土地に舞台の新築が始まり、翌1892年に茅葺きの舞台「寿座」が完成した。1956年の公演を最後に閉館した。*8
安岐座/阿木公会堂
所在地 : 岐阜県中津川市阿木(1964年・1965年)
開館年 : 1860年
閉館年 : 昭和30年代?
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1965年の映画館名簿では「阿木劇場」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに森井政次郎、木造2階、邦画を上映。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに森井政次郎、木造2階、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年・1972年の住宅地図では「公会堂」。跡地は「中津川市立阿木保育園」。最寄駅は明知鉄道明知線阿木駅。

1859年(安政6年)に「安岐座」が建てられた。建物は舞台のみであり、客席は野天の芝生席だったが、廻り舞台・両花道・すっぽんなどを備えていた。戦時中には軍需工場となったが、1946年12月に復興完成公演が行われた。1982年に取り壊され、跡地には保育園が建てられた。*9

1859年(安政6年)に取り壊した見沢舞台の跡地に、1860年(万延元年)3月に「安岐座」が完成した。1914年には改修工事が行われ、板葺きを瓦葺きに、天井を張り替え、名称を安岐座から阿木公会堂に改称した。戦時中の1944年には名古屋の陸軍造兵廠が阿木村に疎開し、阿木公会堂の床を取り除いて兵器の建設機械を設置したが、翌年には終戦を迎えたためあまり用をなさずに運び出された。1946年2月には公会堂として復興し、1950年には劇場化されて映画も上映されるようになった。テレビが普及すると次第に使われなくなり、やがて貸し倉庫となった。阿木公会堂は1982年に取り壊され、跡地には1983年3月に阿木保育園が建設された。*10

1933年には安岐座にて、国鉄明知線の開通を記念した祝宴の写真あり。明治時代中期には恵那郡各地で舞台の改築や新築が行われ、阿木村では安岐座が新築された。*11

昭和初期の阿木の舞台(公会堂)の写真あり。*12
ロビン映画劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡福岡村(1959年・1960年・1962年)
開館年 : 1957年4月
閉館年 : 1961年9月
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1962年の映画館名簿では「ロビン映画劇場」。1962年の映画館名簿では経営者が深谷恵治、支配人が深谷史子、木造1階、定員195、邦画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では跡地に「深谷恵治」。跡地は「福岡区民会館」建物東側。最寄駅はJR中央本線中津川駅。

恵那郡福岡町唯一の映画館は「ロビン劇場」である。1957年4月、深谷恵治によって野尻地内に開館した。開館当日の「ロビン映画劇場」の写真あり。花輪が見える。開館日は客席160を上回る観客でにぎわった。テレビの普及などが理由で、1961年9月に閉館した。*13

1957年の開館当日の「ロビン映画劇場」の写真あり。恵那郡福岡町野尻にあった映画館。開館を待ちきれない人でにぎわった。*14
蛭川村公民館
所在地 : 岐阜県恵那郡蛭川村(1960年)
開館年 : 1901年9月28日(竣工)、1949年(移築)
閉館年 : 1960年頃
Wikipedia : 蛭子座
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「蛭川村公民館」。1960年の映画館名簿では経営者が永治茂、支配人が渡辺康平、木造2階、定員1200、上映系統が記載なし。1961年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は中津川市指定有形民俗文化財の芝居小屋「蛭子座」として現存。最寄駅はJR中央本線恵那駅。

1900年6月11日、恵那郡蛭川村で「蛭子座」の上棟式が行われた。1901年9月28日から10月1日にこけら落とし興行が行われ、中村伝五郎一座が招かれた。*15
明治座
所在地 : 岐阜県恵那郡加子母村(1956年・1958年・1960年・1962年・1963年)
開館年 : 1894年
閉館年 : 1963年頃
Wikipedia : かしも明治座
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1962年・1963年の映画館名簿では「明治座」。1962年の映画館名簿では経営者・支配人ともに安江巳郎、木造2階、定員800。1964年の映画館名簿には掲載されていない。建物は岐阜県指定有形民俗文化財の芝居小屋「かしも明治座」として現存。最寄駅はJR中央本線中津川駅。

明治中期には東濃の各地に農村舞台が建てられている。1894年11月には加子母村に「明治座」が竣工し、12月10日から13日までこけら落とし興行が行われた。1944年には軍に徴用されて軍需品の倉庫となったが、1945年の終戦後には再び演芸や会合が行われるようになった。1946年には荒廃箇所の修理などが行われ、演劇・浪曲・レビュー・歌舞伎・映画などの各種興行が行われた。昭和30年代後半にはテレビの普及で観客が激減し、また小中学校に講堂ができたこともあって、明治座は廃業した。*16

1995年に小学館から刊行された『全国「芝居小屋」巡り』には、岐阜県加子母村の「明治座」が掲載されている。*17
豊国座
所在地 : 岐阜県中津川市中津町(1953年)、岐阜県中津川市苗木(1963年)
開館年 : 1895年以前
閉館年 : 1963年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「豊国座」。1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の中津川市全居住者明細図帳では「豊国座」。1963年の映画館名簿では「豊国座」。1964年の東濃版住宅案内図では跡地に「恵北紙工」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。実質的には映画館ではなく歌舞伎芝居小屋。跡地は「V・drug 苗木店」南東80mにある空き地。最寄駅はJR中央本線中津川駅。

1895年9月17日と11月22日の『岐阜日日新聞』には「豊国座」の地芝居関連記事が掲載されている。*18
松竹館/中津松竹館/松竹座/中津川東映劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡中津町(1930年・1934年)、岐阜県恵那郡中津町東太田町(1936年)、岐阜県恵那郡中津町大字中津川(1941年)、岐阜県恵那郡中津町(1943年・1947年・1950年・1953年)、岐阜県中津川市中津川町(1955年)、岐阜県中津川市(1958年)、岐阜県中津川市東太田町(1960年・1963年)
開館年 : 1937年
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧1955』によると1937年開館。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「松竹館」。1950年の映画館名簿では「中津松竹館」。1953年・1955年の映画館名簿では「松竹座」。1955年の映画館名簿では経営者が篠田興行社、支配人が篠田初太郎、木造2階、定員513、映写機がローヤル、発声器がウェスタン。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中津川東映劇場」。1958年の中津川市全居住者明細図帳では「東映劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が篠田興行社、支配人が市川好夫、木造2階、定員415、映写機がローヤル、発声器がウェスタン、東映を上映。1964年の東濃版住宅案内図では「東映劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1967年・1968年のゼンリン住宅地図では「東映劇場」。1970年のゼンリン住宅地図では跡地に空白。跡地は「三菱UFJ銀行中津川支店」北30mにある「スマイルパーキング月極駐車場」。最寄駅はJR中央本線中津川駅。

中津川市東太田町には東映劇場があった。1957年の写真あり。『喧嘩笠』の看板が見える。*19
万歳座/坂下劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡坂下町747(1956年)、岐阜県恵那郡坂下町(1960年)、岐阜県恵那郡坂下町747(1963年)、岐阜県恵那郡坂下町(1964年)
開館年 : 1919年1月15日
閉館年 : 1964年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「坂下劇場」。1964年の映画館名簿では経営者が篠田初太郎、支配人が林孝、木造2階、定員448、邦画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図には掲載されておらず跡地も判然としない。跡地は「伊藤歯科医院」西30mの敷地。最寄駅はJR中央本線坂下駅。

かつて坂下町の八幡神社境内には舞台「萬歳座」があり、芝居や浪曲の興行が行われたほか、選挙の演説や会合などにも用いられた。明治40年代、糸魚川兼太郎は寄席の明治館を新築し、電気のない時代にはガスによって活動写真も上映されたが、1918年の本町の火災で焼失した。糸魚川は萬歳座の建物を購入して移築したが、落成を迎えることなく糸魚川が死去したため、萬歳座は株式組織として発足した。戦時中には工場や軍事物資の倉庫などとなって荒れていたが、戦後には再び興行に用いられた。1957年頃には常設映画館の形態となり、1963年現在の権益代表者は原幹人であり、経営は篠田興業社である。*20

1890年、坂下町の「万才座」で落成披露の地芝居が行われた。戦時中の万才座は軍需品の倉庫となった。1966年には坂下町に歌舞伎保存会が発足したが、万才座は記念講演後に火災で焼失した。*21

明治中頃のこの地域では村狂言が盛んであり、1889年には坂下八幡神社の境内に舞台「万歳座」が設置された。1993年現在の直会殿の場所である。その後、1993年現在のお宮の記念碑の場所に移築された。大正時代には万歳座が糸魚川兼太に買い受けられて移築され、1919年1月15日には本町で落成式が行われたが、糸魚川は落成式の前に死去している。1993年現在のたつみや商店の場所である。万歳座は株式組織で経営され、浪曲の雲月、春日井梅鶯、広沢虎造、鈴木米若、三門博、木村若衛、歌舞伎の市川団升、市川牡丹、市川海老蔵、市川寿海の各一座、新派劇の杉浦一郎などが来演している。また、敬老会、青年団の演劇会、選挙演説会、商工会各団体の集会場、菊花大会、展示会などとしても用いられた。戦時中の不況下で個人経営となり、やがて軍需品物資の倉庫となった。戦後には1946年に復旧し、1957年頃に「坂下劇場」に改称した。1966年4月22日午前3時頃、万歳座は本町の大火の際に焼失した。*22
大山座/大山劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡付知町(1953年・1955年)、岐阜県恵那郡付知町大門町(1958年)、岐阜県恵那郡付知町(1960年)、岐阜県恵那郡付知町大門町(1963年)、岐阜県恵那郡付知町(1964年)
開館年 : 1908年1月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「大山劇場」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに北原慶造、木造2階、定員590、邦画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では「大山劇場」。跡地は「ベル・ケイホク電器」北東30mの駐車場。最寄駅はJR中央本線中津川駅。

1855年(安政2年)3月には庄屋の田口慶郷が万人講を募り、護山神社の境内に籠所一宇を建立して、祭礼時には舞台として利用していた。1879年頃、倉屋神社の裏に移築されて「森本座」に改称された。1908年1月、三区大門町に移築されて「大山座」に改称された。戦後には「大山劇場」として1974年現在に至っている。大山劇場の写真あり。上部が半円形の特徴的なファサードが見える。*23

安政2年(1855年)、現在の中津川市付知町に芝居小屋「大山座」が成立した。岐阜県の地歌舞伎小屋としては成立年代が極めて古いとされる。*24
落合公会堂
所在地 : 岐阜県中津川市落合949(1963年)、岐阜県中津川市落合(1964年)
開館年 : 1935年
閉館年 : 1964年頃
1935年竣工。1959年映写機設置。1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1964年の映画館名簿では「落合公会堂」。1964年の映画館名簿では経営者が伊藤義助、支配人が上田卓郎、木造2階、定員300、邦画・洋画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1972年の住宅地図では跡地に「公民館 落合支所」。1984年3月解体。1986年の住宅地図では跡地に「中部電力」。跡地は「NTT西日本美濃落合電話交換所」。最寄駅はJR中央本線落合川駅。

1935年には落合村に落合公会堂が竣工した。同年8月頃の写真あり。1階と2階に畳敷きの客席があり、2階には映写室も設けられていた。芝居や映画の興行のほかには、敬老会・戦没者慰霊祭・成人式・森林組合総会・土地改良区竣工式・婦人会・文化祭・舞踊大会・歌謡大会・青年団芸能大会など、様々な用途に用いられた。1951年には2台の35ミリ映写機が設置され、1958年には畳敷きの大広間が椅子席に改修された。1958年には公会堂の前には公民館が新築された。嵐寛寿郎主演の『鞍馬天狗』、三船敏郎主演の『宮本武蔵』、志村喬主演の『生きる』などが上映された。台風で屋根に被害があったことなどが理由で、1981年10月に建物が取り壊された。1984年3月、跡地に日本電信電話公社落合電話交換局が建てられた。*25
旭座/旭映画劇場/中津川旭映画劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡中津町大字中津川(1941年)、岐阜県中津川市中津町(1953年)、岐阜県中津川市中津川町(1955年)、岐阜県中津川市1740(1958年)、岐阜県中津川市花木町(1960年)、岐阜県中津川市中津町1740(1963年)、岐阜県中津川市新町3-21(1966年)
開館年 : 1840年(劇場)、1951年6月(映画館)
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧1955』によると1951年6月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「旭座」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「旭映画劇場」。1958年の中津川市全居住者明細図帳では「旭映画劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が篠田興業社、支配人が篠田英也、木造2階暖房付、定員788、日活・洋画を上映。1964年の東濃版住宅案内図では「旭映画劇場 篠田興行社」。1966年の映画館名簿では「中津川旭映画劇場」。1967年・1968年のゼンリン住宅地図では「旭映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のゼンリン住宅地図では跡地に「アキヤ」。跡地は「ふるさとにぎわい広場」北西にある2009年竣工のマンション「ポレスター中津川新町」。最寄駅はJR中央本線中津川駅。

中津川の「旭座」で行われた賎の手振第1回発表会の写真あり。旭座で芝居を見物する女工の写真あり。*26

1951年頃の旭座の写真あり。1840年(天保11年)に開館した歴史ある劇場である。大正時代には映画と芝居の双方を興行するようになり、戦後には本格的な映画館に改修された。*27

1904年から1905年頃の出征家族慰問会の公演中の「旭座」の舞台の写真あり。天保11年(1849年)5月、現在の中津川市花木町に旭座が竣工した。この地方の唯一の劇場として栄えた。舞台では中津名物の川上文楽の演出であろうか。観客も女性が多いようである。*28

1917年4月22日と23日の午後5時から、東京芸術座の松井須磨子が「旭座」で当時流行の「復活」カチューシャを演じた。入場料50銭。その時の中津町役場宛に「今度御地におうかがい申し上げますについては首尾よく演じ了せますやう御ひゐき御見物のほどひとへにお願い申し上げます。東京芸術座すま子」と肖像入りのエハガキが届いた。1918年11月に島村抱月が急死すると、松井須磨子は1919年1月に自殺した。1917年4月の写真あり。*29

1950年-1951年頃に映画館「旭座」が開館した際の写真あり。戦後になると芝居劇場の旭座の観客数が減少したため、映画館に改修された。まだテレビが一般化しておらず、娯楽に飢えた観客で毎日のように満員となった。*30

1950年-1951年頃に映画館「旭座」が開館した際の写真あり。戦後になると芝居劇場の旭座の観客数が減少したため、映画館に改修された。まだテレビが一般化しておらず、娯楽に飢えた観客で毎日のように満員となった。*31
中津劇場
所在地 : 岐阜県中津川市栄町437(1957年・1958年)、岐阜県中津川市栄町(1960年)、岐阜県中津川市437(1963年)、岐阜県中津川市栄町5-18(1966年・1967年)
開館年 : 1912年11月
閉館年 : 1967年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「中津劇場」。1958年の中津川市全居住者明細図帳では「中津劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が栄土地興業、支配人が安江誠吾、木造2階暖房付、定員604、大映・洋画を上映。1964年の東濃版住宅案内図では「中津劇場 栄土地興業」。1967年の映画館名簿では経営者が栄土地興業、支配人が安江誠吾、木造2階暖房付、286席、大映・洋画を上映。1967年・1968年のゼンリン住宅地図では跡地に「主婦の店」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は駐車場「恵那漁協管理有料月極駐車場」。最寄駅はJR中央本線中津川駅。

恵那郡中津町の中津劇場株式会社。1912年11月設立。内容は劇場賃貸。*32
付知映画劇場/付知劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡付知町(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年)、岐阜県恵那郡付知町広野林(1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1923年、1945年
閉館年 : 1969年
『全国映画館総覧1955』によると1945年開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「付知劇場」。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「付知映画劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が広瀬稔、支配人が広瀬幸雄、木造2階、定員935、邦画を上映。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに曽我盛彦、木造2階、定員935、邦画を上映。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「付知劇場」。1968年の映画館名簿では経営者・支配人ともに曽我成彦、木造2階、定員100、邦画を上映。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では跡地に「豊演堂医院」。跡地は「割烹旅館上見屋」北北東90mの「加地工務店社員寮」。最寄駅はJR中央本線中津川駅。

1937年4月15日には、前年に文楽座から独立した劇団の新義座が付知町の「付知劇場」で公演を行っている。*33

下付知字大新田にあった「永徳座」はやがて「大新座」に改称し、郡下最高の舞台と称された。1898年頃に大新座で付知初の映画の上映が行われている。大新座が1919年に漏電で焼失すると、1923年3月に再建されて「付知劇場」となった。1969年12月1日の「浪曲名人会」の興行を最後に閉館した。付知劇場の跡地には近代建築の豊演堂医院が建っている。1969年の最後の演芸の際の写真あり。*34

恵那郡付知町にあった「付知劇場」の閉館直前の1968年の写真あり。付知劇場は大正時代に開館し、素人歌舞伎などが行われた。1968年に閉館となった。*35

1969年の恵那郡付知町にあった劇場「付知劇場」の写真あり。もともと下付知には明治時代に建てられた「永徳座」があり、後に「大新座」に改称した。大新座は恵那郡で最高の舞台と称されたが、1919年に焼失した。1923年には大新座の跡地に「付知劇場」が建てられ、村芝居(素人歌舞伎)の公演が行われた。建物の老朽化や公演数の減少などが理由で、1969年が最終公演となった。*36
グリン映画劇場/グリーン映画劇場/中津川グリーン劇場
所在地 : 岐阜県中津川市中津川町(1956年・1957年)、岐阜県中津川市緑町(1960年・1963年)、岐阜県中津川市太田町2-6-34(1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1973年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年の映画館名簿では「グリーン劇場」。1958年の映画館名簿では「グリン映画劇場」。1958年の中津川市全居住者明細図帳では「グリン劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「グリーン映画劇場」。1964年の東濃版住宅案内図では「グリーン劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「中津川グリーン劇場」。1967年・1968年・1970年の住宅地図では「グリーン劇場 2階喫茶緑園」。1973年の映画館名簿では経営会社が篠田興業社、経営者が篠田初太郎、支配人が篠田敏雄、鉄筋造2階冷暖房付、353席、邦画・洋画を上映。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「中津川グリーンホテル」。最寄駅はJR中央本線中津川駅。

1957年公開の映画『青い山脈』は松林宗恵が監督を務めた。中津川市で3つの映画館を経営していた篠田初太郎が東宝に対してロケ地としての使用を働きかけ、国鉄中央本線で視察に訪れた松林監督が恵那山を背後にした街を見て「イメージにぴったり」と即決した。撮影は1957年8月に行われている。雪村いづみ、久保明、司葉子、宝田明、淡路恵子、志村喬、草笛光子などが出演した。*37

2002年10月3日付『読売新聞』岐阜版には中津川市の映画館に関する記事が掲載されており、「中津川グリーン劇場」の写真が掲載されている。現物は未確認。*38

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