日本の映画館の総合データベースです。


仙台市

青葉区

仙台座
所在地 : 宮城県仙台市東四番丁
開館年 : 1890年11月22日
閉館年 : 1945年7月10日
仙台で初めて活動写真を上映した劇場。

1890年の仙台市にあった劇場「仙台座」の写真あり。1890年11月、仙台駅に近い南町通り東四番丁に開館した。収容人員は1400人であり、当時の仙台市で最大の劇場だった。思想家の吉野作造は中学高校時代には仙台座に通い詰めた。*1

1897年4月28日から5月8日にかけて、仙台市の「仙台座」で仙台初の活動写真の上映が行われた。フランスのリュミエール兄弟が発明したシネマトグラフである。東一番丁にある白崎写真店の白崎民治が主催した。同年8月4日から8月10日にかけて、アメリカのエジソン社が商品化したヴァイタスコープの上映会も行われた。*2
仙台松竹劇場(旧)/仙台松竹映画劇場
所在地 : 宮城県仙台市南町通12(1953年・1955年・1958年)
開館年 : 1946年4月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年4月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「仙台松竹映画劇場」。1955年の映画館名簿では「仙台松竹劇場」。1958年の映画館名簿では「仙台松竹映画劇場」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。

1946年4月、「郡山松竹」、「仙台南松竹」、「仙台中央劇場」、「熊谷松竹」、「室蘭大国館」、「函館松竹」が松竹の直営館として開館した。*3

1948年2月、「仙台南松竹」が焼失した。1948年8月、「仙台松竹」が焼失した。*4

1958年3月、「仙台松竹映画劇場」が「仙台ピカデリー」に改称した。*5
第一映画劇場
所在地 : 宮城県仙台市東五番町(1947年・1950年)、宮城県仙台市東五番丁5(1953年・1955年・1958年・1960年)
開館年 : 1946年12月
閉館年 : 1960年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「第一映画劇場」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。

1946年頃の仙台市東五番丁にあった洋画専門館「第一映画劇場」の写真あり。「DAI-ICHI MOVIE THEATRE」の文字が見える。1946年に開館し、戦時中は観られなかった洋画に観客が押し寄せた。隣接地には富国生命のビルがあった。*6

昭和20年代の仙台市にあった「第一映画劇場」の写真あり。隣接地には日本通運の荷物一時預かり所があった。向かいは仙台駅の貨物停車場構内だった。*7

1949年頃の仙台市にあった「第一映画劇場」の女性従業員の集合写真あり。背後にはアメリカの野球映画『春の珍事』の看板が見える。*8

1950年頃の仙台市にあった「第一映画劇場」で上映される『ジャンヌ・ダルク』の手書き看板の写真あり。市電の停留所の前にあった。*9
銀映劇場/仙台銀映劇場/仙台銀映
所在地 : 宮城県仙台市旅籠町33-8(1953年)、宮城県仙台市旅籠町33(1955年)、宮城県仙台市小田原北二番丁33(1958年)、宮城県仙台市小田原北二番丁通(1960年)、宮城県仙台市小田原北二番丁通33(1962年)
開館年 : 1950年12月
閉館年 : 1962年10月1日
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「銀映劇場」。1958年の映画館名簿では「仙台銀映劇場」。1960年・1962年の映画館名簿では「仙台銀映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1962年10月1日をもって、仙台市の東映再映館「仙台銀映劇場」が閉館し、スーパーマーケットに賃借した。経営不振のため。仙台市の映画館は24館となった。経営は宮崎長吉。*10
北映劇場
所在地 : 宮城県仙台市宮町92(1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1957年7月21日
閉館年 : 1964年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「北映劇場」。1964年の仙台市大鑑では「北映劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は宮町3丁目交差点内北西の道路上。最寄駅はJR仙山線東照宮駅。

1957年7月21日、仙台市北4番丁に「北映劇場」が開館した。オープニングは『紳士はブルーネット娘と結婚する』と『坊ちゃんの特ダネ記者』の二本立て。系統は洋邦二番線の二本立。大人70円、学生50円、小人40円。総工費1500万円。建坪150坪。全面鉄筋モルタル造。客席320。シネスコ劇場である。経営は北日本映画株式会社。仙台市の映画館は28館となった。*11
錦映画館
所在地 : 宮城県仙台市錦町21(1947年)、宮城県仙台市錦町(1950年)、宮城県仙台市錦町21(1953年)、宮城県仙台市錦丁21(1955年・1958年・1960年)、宮城県仙台市錦町21(1963年・1965年)
開館年 : 1945年12月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1945年12月開館。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「錦映画館」。1964年の仙台市大鑑では「錦映画館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「パークホームズ仙台定禅寺通り」。最寄駅は仙台市地下鉄南北線勾当台公園駅。

1950年の仙台市錦町にあった「錦映画館」の写真あり。『一粒の麦』『濡れた瞳』『天竜の鴉』『青蛇風呂』『さようなら●日は』『遊太郎巷談』などの看板が見える。1945年12月、市電錦町停留所の前に洋画専門館として新築開館し、1945年12月27日公開の邦画『犯罪者は誰か』を上映した。やがて大映の二本立を上映するようになった。*12

昭和30年代の仙台市にあった「錦映画館」の写真あり。『一粒の麦』『濡れた瞳』などの看板が見える。1945年12月、市電錦町停留所の前に開館した。当初は洋画が中心だったが、やがて大映の二本立を上映するようになった。1980年まで営業していた。*13
仙台有楽座
所在地 : 宮城県仙台市東一番丁(1958年・1960年)、宮城県仙台市東一番丁69(1963年)、宮城県仙台市東一番丁65(1965年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1965年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「仙台有楽座」。1964年の仙台市大鑑では「有楽座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では跡地に「パチンコ有楽会館」。最寄駅は仙台市地下鉄南北線広瀬通駅。

1960年5月3日、仙台市の洋画館「仙台有楽座」が第二東映封切館に転向した。定員400人。経営は宮城宗男。*14

1960年5月3日、仙台市東一番丁28の東宝再映館「仙台有楽座」が第二東映封切館に転向した。館主は宮城宗男。*15
仙都劇場/大映仙都劇場/仙台大映仙都劇場
所在地 : 宮城県仙台市東三番丁40(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1950年以後1952年以前、1953年5月、1957年11月1日
閉館年 : 1967年
『全国映画館総覧 1955』によると1953年5月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「仙都劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「大映仙都劇場」。1964年の仙台市大鑑では「仙都劇場」。1966年の映画館名簿では「仙台大映仙都劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では跡地に「仙都会館ビル 岩手銀行仙台支店 住友信託銀行」。跡地は「仙都会館」。最寄駅はJR仙石線あおば通駅。

1952年8月1週、仙台市の各社洋画封切館「仙都劇場」はメトロ東北封切館に転向した。社長は内田佐一郎、支配人は佐藤弁吉。*16

1954年の仙台市にあった「大映仙都劇場」の写真あり。ナショナル電球の特徴的な看板が見える。青葉通と東三番丁の角にあった。1950年に開館した大映系映画館である。1967年に取り壊され、跡地には1969年に仙都会館ビルが建った。*17

1957年11月1日、仙台市の「仙台仙都劇場」が「大映仙都劇場」に改称して営業再開した。11月1日と11月2日には大映スターが舞台挨拶を行った。第一週目の上映作品は『雪の渡り鳥』『冥土の顔役』の二本立。工費4000万円で改築中だった。経営は大映興行。定員1000人(椅子席840)となり、大映専門館となった。*18

1957年11月1日、仙台市東三番丁40の「仙台仙都劇場」が「大映仙都劇場」に改称して営業再開した。かねてから改装中であり、シルバーウィークに先駆けて面目を一新した。市川雷蔵や若尾文子らのスターが舞台挨拶を行った。鉄筋造3階建。座席定員829人。大映興行の直営。大映興行の直営館は22館となった。*19
中央劇場/仙台中央劇場
所在地 : 宮城県仙台市東一番町(1947年・1950年)、宮城県仙台市東一番丁84(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年)
開館年 : 1948年11月
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年11月開館。1947年の映画館名簿では「中央劇場」。1950年の映画館名簿では「仙台中央劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「中央劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「仙台中央劇場」。1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1966年・1967年の映画館名簿では「仙台中央劇場」。1964年の仙台市大鑑では「仙台中央劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では跡地に「中央ビル」。跡地は「東一中央ビル」。最寄駅は仙台市地下鉄東西線青葉通一番町駅。

1946年4月、「郡山松竹」、「仙台南松竹」、「仙台中央劇場」、「熊谷松竹」、「室蘭大国館」、「函館松竹」が松竹の直営館として開館した。*20

1958年12月20日、仙台市の「仙台中央劇場」は一部に飲酒場や写真スタジオを設けた。*21

1959年4月24日、仙台市東一番丁28の新東宝封切館「仙台中央劇場」(仙台中劇)が洋画封切館に転向した。支配人は小川昭博。*22

1960年3月第1週、仙台市東一番丁の「仙台中央劇場」は第二東映上映館に転向した。経営は昭和興行。*23

1961年3月第1週から、仙台市東一番丁84の「中央劇場」は新東宝封切館から東宝二番館に系統変更した。*24

1963年3月4日、仙台市の東宝系映画館「仙台中央劇場」が突然閉館した。3月27日、建物所有者の阿部来太郎が経営者となって営業を再開した。『ハイハイ3人娘』と『女に強くなる』*25
ロマンス座映画劇場/仙台ロマンス座映画劇場/仙台ロマンス座
所在地 : 宮城県仙台市堤町土手下3-1(1958年・1960年)、宮城県仙台市堤町土手下3(1963年)、宮城県仙台市堤土手下3-1(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「ロマンス座映画劇場」。1963年の映画館名簿では「仙台ロマンス座映画劇場」。1964年の仙台市大鑑では「ロマンス座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「仙台ロマンス座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「サンシティ23」。最寄駅はJR仙山線・仙台市地下鉄南北線北仙台駅。
仙台日活映画劇場/日活映画劇場/仙台日活劇場
所在地 : 宮城県仙台市東一番丁(1947年・1950年)、宮城県仙台市東一番丁27(1955年)、宮城県仙台市東一番丁28(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1946年1月
閉館年 : 1971年
『全国映画館総覧 1955』によると1946年1月開館。1947年・1950年の映画館名簿では「仙台日活映画劇場」。1955年の映画館名簿では「日活映画劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「仙台日活劇場」。1964年の仙台市大鑑では「日活劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では跡地に「ジャスコ仙台店」。跡地は商業施設「仙台フォーラス」建物北西端部。最寄駅は仙台市地下鉄南北線広瀬通駅。

昭和40年代の仙台市一番町にあった「仙台日活劇場」の写真あり。戦前にあった「仙台日活館」が戦災で焼失した後、1946年に仙台日活劇場として再建された。石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子などのスターによる日活のアクション映画が人気を集めた。映画産業の斜陽化によって1971年に閉館した。2015年現在の跡地には仙台フォーラスなどが建っている。*26
仙台青葉劇場(旧)
所在地 : 宮城県仙台市南光院丁8-6(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)、宮城県仙台市南光院丁8-5(1973年)、宮城県仙台市南光院8-5(1974年)
開館年 : 1957年7月
閉館年 : 1974年頃(移転)
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1974年の映画館名簿では「仙台青葉劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が高橋弘夫、支配人が高山尚禧、鉄筋造1階冷暖房付、224席、洋画を上映、電話が4853。1963年の映画館名簿では経営者が高橋弘夫、支配人が高山尚禧、鉄筋造2階冷暖房付、316席、洋画を上映、電話が4853。1964年の仙台市大鑑では「青葉劇場」。1966年の映画館名簿では経営者が仙都国際観光、支配人が鈴木庄吉、鉄筋造2階冷暖房付、316席、電話が4853。跡地は立体駐車場「青葉通一番町パーキング」。最寄駅は仙台市地下鉄東西線青葉通一番町駅。
東北劇場/仙台東北劇場
所在地 : 宮城県仙台市本櫓丁15(1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、宮城県仙台市立町1丁目23(1975年・1976年・1977年)
開館年 : 1945年12月
閉館年 : 1979年4月13日
『全国映画館総覧 1955』によると1945年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「東北劇場」。1964年の仙台市大鑑では「東北劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1977年の映画館名簿では「仙台東北劇場」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では「東北劇場」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は立体駐車場「大仙台駐車場」。最寄駅は仙台市営地下鉄南北線広瀬通駅。

1957年頃の仙台市細横町にあった映画館「東北劇場」の写真あり。「東北劇場」「東劇」「THEATRE TOHOKU」などの文字が見える。*27

1955年の仙台市の晩翠通りにあった「東北劇場」の写真あり。「東北劇場」「東劇」「THEATRE TOHOKU」などの文字が見える。「トンペイ」の名前で親しまれた。戦後に実演劇場として開館し、その後は邦画封切館、洋画館、1959年から洋画封切専門館となった。シネマスコープや70ミリ作品も上映できた。*28

1955年の仙台市にあった「東北劇場」の写真あり。「東北劇場」「東劇」「THEATRE TOHOKU」などの文字が見える。細横丁と呼ばれた晩翠通にあった。1947年に開館した当初は歌舞伎の公演に用いられたが、1948年には映画を上映するようになった。昭和30年代から40年代には青少年向けの人気作を多く上映した。1979年に火災で焼失して閉館した。*29
仙台コニー劇場
所在地 : 宮城県仙台市支倉町58(1956年)、宮城県仙台市支倉町59(1958年)、宮城県仙台市支倉町58(1960年・1963年・1966年)、宮城県仙台市支倉通り58(1969年)、宮城県仙台市支倉町58(1973年・1975年・1978年)、宮城県仙台市支倉町4-39(1980年・1985年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1985年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「仙台コニー劇場」。1964年の仙台市大鑑では「コニー映画劇場」。1979年の住宅地図では「仙台コニー劇場」。1986年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1987年竣工のマンション「チサンマンション支倉」。最寄駅は仙台市地下鉄南北線北四番丁駅。

1962年11月1日、仙台市の邦画再映館「仙台コニー劇場」が東日本興行の経営となり、洋画再映館に転向した。オープニングは『駅馬車』と『荒野の決闘』。経営は島田きくの東宝巡映興行。*30

1963年5月1日、仙台市の洋画再映館「仙台コニー劇場」は邦画再映館となった。オープニングは『青い山脈』と『ニッポン無責任時代』と『続・新悪名』の三本立。東宝・日活・大映。料金は120円。これまでの経営は木下悟郎。*31
仙台名掛丁地下劇場/名掛丁地下劇場
所在地 : 宮城県仙台市名掛丁48(1970年)、宮城県仙台市中央1-7-12(1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年・1987年)
開館年 : 1969年頃
閉館年 : 1987年頃
1969年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の映画館名簿では「仙台名掛地下劇場」。1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「仙台名掛丁地下劇場」。1979年の住宅地図では「名掛丁地下劇場」。1980年・1985年・1986年・1987年の映画館名簿では「名掛丁地下劇場」。1988年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はカラオケ店「カラオケ館名掛丁店」が入る「CSビル」。最寄駅はJR仙石線あおば通駅。
仙台ニュース劇場/仙台名画座
所在地 : 宮城県仙台市東一番丁83(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、宮城県仙台市一番町2-5-1(1975年・1978年・1980年・1985年)、宮城県仙台市青葉区一番町2-5-1(1990年)
開館年 : 1955年11月5日
閉館年 : 1991年3月3日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「仙台名画座」。1964年の仙台市大鑑では「名画座」。1979年の住宅地図では跡地に「第2中央ビル」。1992年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三井住友海上仙台ビル」建物南東部。最寄駅は仙台市地下鉄東西線青葉通一番町駅。

1955年11月5日、仙台市東一番丁に「仙台ニュース劇場」が開館した。キャバレーを改造した。経営者は仙都国際株式会社社長の高橋弘夫。定員170。*32
仙台青葉劇場(新)
所在地 : 宮城県仙台市中央4-1-3(1975年)、宮城県仙台市中央4-1-3 仙台プレイビル内(1978年・1980年)、宮城県仙台市中央4-1-3(1985年)、宮城県仙台市青葉区中央4-1-3(1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1974年頃(移転)
閉館年 : 2001年8月29日
1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「仙台青葉劇場」。1978年の映画館名簿では経営会社が仙都国際観光、経営者が高橋征太郎、支配人が鈴木庄吉、鉄筋造2階冷暖房付、316席、洋画特選を上映、電話が4853。1979年の住宅地図では「プレイビル 6階青葉劇場」。1980年の映画館名簿では経営会社が仙都国際観光、経営者が高橋征太郎、支配人が鈴木庄吉、鉄筋造2階、240席、洋画特選を上映、電話が4853。2005年の映画館名簿には掲載されていない。仙台プレイビルは現存。最寄駅はJR仙台駅。

1957年7月のこのほど、仙台市の青葉通りに「青葉劇場」が開館した。オープニングは『壮烈カイバー銃隊』。総工費1000万円。鉄筋コンクリート造、客席224。外画二番線の一本建。大人50円、学生40円、小人30円。経営は仙都観光株式会社。仙台市の映画館は27館となった。*33

1961年6月27日、仙台市南光院丁8-6の「青葉劇場」が洋画封切館に転向した。従来の洋画封切館である「東映パラス」がニュー東映上映館に転向したため。経営は高橋弘夫。*34

1991年7月、仙台駅前に「青葉劇場」が開館した。*35

2001年8月29日をもって、JR仙台駅近くのビルにある松竹系映画館「仙台青葉劇場」が28年の歴史に幕を閉じた。2000年末から2001年2月にかけて、松竹の関連会社がザ・モール仙台長町とジャスコ利府店に相次いでシネコンを開館させた。この影響で仙台青葉劇場の観客は半分以下に落ち込んでいた。*36

2001年8月31日をもって、東日本松竹興行による「仙台松竹・仙台ピカデリー」と「仙台青葉劇場」が閉館した。*37
文化劇場/仙台松竹文化劇場/仙台松竹劇場(新)/仙台松竹劇場・仙台ピカデリー
所在地 : 宮城県仙台市東一番丁88(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、宮城県仙台市一番町2-6-1(1975年・1978年・1980年・1985年)、宮城県仙台市青葉区一番町2-6-1(1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1925年、1950年12月、1967年、1989年6月3日
閉館年 : 2001年8月31日
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「文化劇場」。1958年の映画館名簿では「仙台松竹文化劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「仙台松竹映画劇場」。1964年の仙台市大鑑では「仙台松竹」。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「仙台松竹劇場」。1979年の住宅地図では「松竹ビル 5階仙台松竹劇場」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「シティハウス一番町中央」。最寄駅は仙台市地下鉄東西線青葉通一番町駅。

1935年の仙台市東一番丁にあった「文化キネマ」の写真あり。1925年に活動写真館として開館し、北側の路地は文化横丁と呼ばれるようになった。文化キネマがなくなった後も、文化横丁は「ぶんよこ」の名前で親しまれている。*38

1938年頃の仙台市東一番丁にあった「仙台松竹」の写真あり。「優秀映画松竹SY新●選抜封切」などの文字が見える。1925年に「文化キネマ」として開館し、1936年に建て替えられて「文化映画劇場」となった。松竹作品の拠点劇場だった。*39

1938年頃の仙台市東一番丁にあった「仙台松竹」の写真あり。「優秀映画松竹SY新●選抜封切」などの文字が見える。戦前には活動写真館「文化キネマ」があり、ブンヨコとも呼ばれた文化横丁の由来となった。1936年には「文化映画劇場」として建て替えられたが、文化映画劇場は戦災で焼失した。1950年に再建され、1958年に「仙台松竹映画劇場」に改称した。松竹作品の封切館として2001年まで営業していた。*40

1958年4月、「仙台松竹文化劇場」が「仙台松竹映画劇場」に改称した。*41

1962年11月10日、仙台市の「仙台松竹劇場」の一角に純喫茶店が開館した。*42

1989年6月3日、仙台市青葉区一番町2-6に165席の「仙台松竹」と226席の「仙台ピカデリー」が開館した。経営は東日本松竹。*43

1989年6月、「仙台松竹」が2館に分割されて開館した。*44

2001年1月17日の『河北新報』には「仙台松竹」が夏までに閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*45

2001年8月21日の『河北新報』には「仙台松竹」「ピカデリー」「青葉劇場」の3館が8月中に閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*46

2001年8月31日をもって、仙台市の中心商店街にある松竹系映画館「仙台松竹」と「仙台ピカデリー」が閉館する。2000年末から2001年2月にかけて、松竹の関連会社がザ・モール仙台長町とジャスコ利府店に相次いでシネコンを開館させていた。*47

2001年8月31日をもって、東日本松竹興行による「仙台松竹・仙台ピカデリー」と「仙台青葉劇場」が閉館した。*48
日乃出会館
所在地 : 宮城県仙台市東五番丁17(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)、宮城県仙台市中央1-10-23(1975年・1978年・1980年・1985年)、宮城県仙台市青葉区中央1-10-23(1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1950年12月、1957年4月14日、1974年(日乃出会館)
閉館年 : 2002年9月17日
Wikipedia : 日乃出会館
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月開館。1953年の映画館名簿では「日の出劇場・日の出地下映画劇場」(2館)。1955年の映画館名簿では「日の出劇場・日の出地下劇場」(2館)。1958年の映画館名簿では「日の出劇場・日の出五階劇場・日の出地下劇場・日の出ニュース劇場」(4館)。1960年の映画館名簿では「日乃出劇場・日乃出五階劇場・日乃出地下劇場・日乃出ニュース劇場」(4館)。1963年の映画館名簿では「日乃出劇場・日乃出五階劇場・日乃出地下劇場・日乃出地下小劇場」(4館)。1964年の仙台市大鑑では「日の出ビル」。1966年・1969年の映画館名簿では「仙台日乃出劇場・仙台日乃出五階劇場・仙台日乃出地下劇場・仙台日乃出地下小劇場」(4館)。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1975年の映画館名簿では「仙台日ノ出劇場・シネマ仙台・日の出スカラ座」(3館)。1978年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「日乃出スカラ座・日乃出プラザ劇場・仙台日乃出劇場・シネマ仙台」(4館)。2000年の映画館名簿では「日乃出スカラ座・日乃出プラザ劇場・日乃出劇場・シネマ仙台」(4館)。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は有料駐車場「オリックスパーキングスポット仙台駅前」。最寄駅はJR仙石線あおば通駅。

1951年の仙台市東五番丁にあった「日乃出劇場」前の道路の写真あり。右手に日乃出劇場が見え、左手奥に岩崎呉服店や日吉百貨店が見える。*49

1954年の仙台市にあった「日乃出映画劇場」などの写真あり。青葉通と東五番丁の交差点を見ている。この後の1957年には8階建ての日乃出会館ビルに生まれ変わる。日乃出会館ビルは2002年に閉館した。*50

1956年12月28日、仙台市東五番丁の日乃出会館に洋画系「日乃出劇場」、東宝系「日乃出地下劇場」、「日乃出ニュース劇場」の3館が開館する。1956年2月5日に焼失して休館していた。日乃出会館は地上8階建てであり、最終的には4館を収容する。経営は三和興行。*51

1956年8月から仙台市の仙台駅前に「日の出会館」が建設中であり、1957年3月下旬に落成する。これに先立って1956年12月28日には洋画封切館の「日の出劇場」、邦画各社特選の「日の出地下劇場」、各社ニュース映画・漫画・短編映画の「日の出ニュース劇場」が開館している。1957年2月28日、シネマスコープ劇場「五階劇場」が開館する。経営は三和興行。*52

1957年頃の仙台市にあった「日乃出会館ビル」などの写真あり。青葉通と東五番丁の交差点を見ており、右奥には仙台駅が見える。1957年に日乃出会館が完成した。当時の高層建築は日乃出会館と向かいの丸光デパートくらいだった。*53

1962年の仙台市にあった「日乃出会館ビル」などの写真あり。1957年に8階建のビルとして完成した。*54

1966年の仙台市にあった「日乃出会館」などの写真あり。まだ高層ビルが少ない時代だった。奥には仙台駅が見える。*55

2002年8月末までに、JR仙台駅前の日乃出興業ビル内にある「日乃出劇場」「シネマ仙台」「日乃出スカラ座」「日乃出プラザ」が閉館する。前者2館は地下1階、後者2館は3階と4階。総座席数は995席であり、仙台市の中心街では最大規模である。1974年に同ビルで上映を開始した。経営は東宝の子会社である三和興行。2000年から仙台市郊外に「MOVIX仙台」(10スクリーン)などのシネコンが増加し、反動で観客数が落ち込んでいた。2001年8月にも仙台松竹ビルの2館が閉館している。2002年7月には「仙台コロナシネマワールド」(12スクリーン)も開館する予定である。*56

2002年8月末までに、JR仙台駅前の日乃出興業ビル内にある「日乃出劇場」「シネマ仙台」「日乃出スカラ座」「日乃出プラザ」が閉館する。東宝の子会社である三和興行が決定してビルの所有者に伝えた。仙台市郊外にシネコンの進出が相次いで来客数の減少に歯止めがかからず、また施設の老朽化も目立つため。いずれの館も1974年に開館し、計1000席近くを有している。仙台市では2001年度にも3館が閉館している。*57

2002年9月17日をもって、仙台市の日乃出興業ビルにある映画館4館が閉館する。施設の老朽化や観客数の減少が理由。「日乃出スカラ座」や「日乃出プラザ」の2館は一足早く9月10日に最後の上映を終えている。東宝系の三和興行が運営していた。1973年以前は木造2階建の建物の「日乃出劇場」があったが、1973年に日乃出興業ビルに入居した。邦画中心の「シネマ仙台」、洋画の「日乃出スカラ座」や「日乃出プラザ」を相次いで開館させ、計約1000席の映画館となった。*58
公共会館/国際劇場/仙台新東宝劇場/仙台東映劇場・仙台東映パラス劇場/仙台東映・仙台東映2/仙台東映・仙台メルローズ
所在地 : 宮城県仙台市東一番町(1950年)、宮城県仙台市東一番丁29(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、宮城県仙台市一番町4-2-10(1980年・1985年)、宮城県仙台市青葉区一番町4-2-10(1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1948年7月3日(公共会館)、1954年2月3日(新東宝劇場)、1956年9月(仙台東映劇場)、1994年6月18日(仙台東映プラザ)
閉館年 : 2005年4月15日
Wikipedia : 仙台東映
『全国映画館総覧 1955』によると1954年2月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「仙台国際劇場」。1953年の映画館名簿では「国際劇場」。1955年の映画館名簿では「新東宝劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「仙台東映劇場・仙台東映パラス」(2館)。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「仙台東映劇場・仙台東映パラス劇場」(2館)。1964年の仙台市大鑑では「東映ミューズ 東映パラス」。1973年の映画館名簿では「仙台東映・仙台東映パラス劇場」(2館)。1979年の住宅地図では「東映 東映パラス」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「仙台東映劇場・仙台東映パラス」(2館)。1995年の映画館名簿では「仙台東映・仙台東映2」(2館)。2000年・2005年の映画館名簿では「仙台東映・仙台メルローズ」(2館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「仙台東映プラザビル」。最寄駅は仙台市営地下鉄南北線広瀬通駅。

1954年4月25日、仙台市の「仙台新東宝劇場」が新装開館した。オープニングは『東京シンデレラ娘』と『大阪の宿』の二本立て。3月15日から改装のために休館していた。*59

1961年11月22日、仙台市の「ニュー東映劇場」は「仙台東映パラス劇場」に改称した。オープニングは『六年目の疑惑』と『荒馬と女』。*60

1956年の仙台市にあった「仙台東映」の写真あり。『ふり袖太平記』などの看板が見える。広瀬通と東一番丁の角にあった。かつては「国際劇場」という名前であり、1954年に仙台東映となった。昭和30年代の仙台市には33館の映画館があった。仙台東映は2005年に閉館した。*61

1992年7月から1994年6月の工期で、東映が経営する「仙台東映劇場」跡地に仙台東映プラザが建設される。総事業費は約33億円。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階・地上7階建て。地下1階から5階が貸店舗であり、6階と7階に2館の映画館が入る。300席の東映封切館「仙台東映劇場」、154席の洋画ロードショー館「仙台東映2」。*62

1994年6月18日、仙台市青葉区一番町4丁目の仙台東映プラザビルに「仙台東映」が新装開館する。約2年前に休館して建て替えを行っていた。鉄筋コンクリート造、地上7階・地下1階建であり、6階と7階が映画館である。298席の「東映1」は東映系邦画、154席の「東映2」は洋画中心。休館前の「東映」は722席であり、「東映パラス」は350席だった。*63

1994年6月、東映によって福岡東映プラザと仙台東映プラザが開館した。6月2日に開館した福岡東映プラザには、288席の「福岡東映」が入る。6月17日に開館した仙台東映プラザには、298席の「仙台東映」と154席の「仙台東映2」が入る。*64

2005年3月16日の『河北新報』には「東映」が4月15日に閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*65

2005年4月15日をもって、仙台市青葉区一番町の仙台東映プラザビル6階にある東栄直営館「仙台東映劇場」と「東映メルローズ」が閉館する予定。1956年9月にそろって開館した。仙台市郊外にシネコンが進出した影響で観客数が減少していた。*66

2005年4月15日をもって、仙台市青葉区一番町の東映プラザビル6階にある東映封切館「仙台東映」と「メルローズ」の2館が閉館した。同日には青森市の「青森東映」も閉館しており、東北地方から東映の直営館がなくなった。2000年12月には仙台市長町に10スクリーンを有する「MOVIX仙台」が開館し、仙台市や利府町などにはシネコン4施設が進出している。2001年8月には仙台松竹や青葉劇場も閉館している。*67
東宝劇場/東宝映画劇場/仙台東宝/仙台東宝劇場/仙台東宝劇場・仙台東宝劇場2
所在地 : 宮城県仙台市東五番町(1950年)、宮城県仙台市東五番丁17(1953年・1955年)、宮城県仙台市東五番丁27(1960年)、宮城県仙台市東五番丁17(1963年)、宮城県仙台市東五番丁19(1966年・1969年・1973年)、宮城県仙台市中央2-1-1(1980年・1985年)、宮城県仙台市青葉区中央2-1-1(1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1949年7月、1954年10月、1963年3月15日(ビル化)、1986年3月(2館化)
閉館年 : 2006年2月26日
Wikipedia : 仙台東宝劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1949年7月開館。1950年・1953年の映画館名簿では「東宝劇場」。1955年の映画館名簿では「東宝映画劇場」。1960年の映画館名簿では「仙台東宝」。1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年の映画館名簿では「仙台東宝劇場」。1979年の住宅地図では「仙台東宝劇場」。1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「仙台東宝劇場・仙台東宝劇場2」(2館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。東宝仙台ビル6階・8階。跡地は「リッチモンドホテルプレミア仙台駅前」が入る「仙台東宝ビル」。最寄駅はJR仙石線あおば通駅。

1961年9月2日、仙台市青葉通り五番町16で「東宝仙台ビル」の起工式が行われた。地上8階・地下2階。総工費約8億円。6階・7階・8階に東宝の映画館が入る。地下1階がビヤホールか遊技場、1階の一部がレストラン、1階から5階が野村證券。1963年3月に完成予定。施工は竹中工務店。*68

1962年9月14日、仙台市の仙台駅前に建設中の「仙台東宝ビル」の上棟式が行われた。地上8階・地下2階。*69

1963年3月15日、仙台市の仙台駅前に「仙台東宝劇場」が開館する。地上8階・地下2階建ての東宝ビル内にあり、6回から8階が映画館である。東北唯一の70ミリ劇場となる。総工費7億円。経営は関東興行。*70

1978年の仙台市中央2丁目にあった「仙台東宝劇場」の写真あり。『スター・ウォーズ』の垂れ幕が見える。1963年に開館した。2006年の閉館後にはビルが解体され、2015年現在の跡地にはリッチモンドホテルプレミア仙台駅前や野村證券が入る仙台東宝ビルが建っている。*71

2005年9月2日の『河北新報』には「仙台東宝」が2006年2月に閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*72

2006年2月をもって、仙台市青葉区の東宝仙台ビルにある映画館「仙台東宝劇場」と「仙台東宝2」が閉館する予定。2005年9月2日までに東宝子会社の三和興行が発表した。シネコンの進出や施設の老朽化が理由。1963年3月には地上8階・地下2階建ての東宝仙台ビルが完成し、同時に仙台東宝劇場が営業を開始した。1986年3月には仙台東宝2も営業を開始した。2000年頃からシネコンの影響で観客数が減少し、現在はピーク時の約3割となっていた。*73

2006年2月26日をもって、仙台市青葉区の仙台東宝ビルにある映画館「仙台東宝」(588席)と「仙台東宝2」(70席)が閉館する予定。東宝子会社の三和興行によると、シネコンの進出や施設の老朽化が理由。1963年に仙台東宝ビルが完成し、同時に仙台東宝が開館した。1986年3月には仙台東宝2も開館し、いずれも東宝系邦画を上映してきた。2000年には太白区に松竹系の「MOVIX仙台」が開館し、観客数は2000年以前と比べて約3割減少している。*74

2006年2月27日の『河北新報』には「仙台東宝」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*75

2006年2月26日をもって、JR仙台駅西口にある映画館「仙台東宝」と「仙台東宝2」が閉館した。仙台市郊外に相次いでシネコンが開館したことで、観客数が最盛期の約3割にまで減少し、また施設も老朽化していたことが理由。1963年3月、東宝仙台ビルに仙台東宝が開館した。588席という座席数は当時の東北地方最大だった。1986年には70席の仙台東宝2が開館し、いずれも洋画を中心に上映していた。2001年には仙台市中心部で松竹系の3館が閉館し、2002年には日乃出劇場など4館が閉館し、2005年4月には東映系の2館が閉館している。*76

2006年2月26日をもって、仙台市青葉区中央2丁目の東宝仙台ビルにある映画館「仙台東宝劇場」と「仙台東宝2」が閉館し、43年の歴史に幕を下ろした。1968年の同ビル完成とともに仙台東宝劇場が開館し、1986年3月には仙台東宝2も開館した。『ローマの休日』や『タイタニック』など洋画ロードショー作品を中心に上映していた。2000年頃からシネコンの影響で観客数が減少し、現在はピーク時の約3割となっていた。2005年3月にも投影の直営館2館が閉館しており、中心部の映画館は仙台駅東口の「チネ・ラヴィータ」など3館だけとなる。*77
日乃出セントラル劇場/仙台セントラル劇場/桜井薬局セントラルホール/仙台セントラルホール
所在地 : 宮城県仙台市中央2-5-10(1985年)、宮城県仙台市青葉区中央2-5-10(1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2018年)
開館年 : 1979年12月15日
閉館年 : 2018年6月30日
Wikipedia : 仙台セントラルホール
1980年の映画館名簿には掲載されていない。1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「日乃出セントラル劇場」。2005年の映画館名簿では「仙台セントラル劇場」。2010年・2015年・2018年の映画館名簿では「桜井薬局セントラルホール」。2010年の映画館名簿では経営会社が合同会社仙台セントラル劇場、経営者・支配人ともに小野寺勉、鉄筋造3階、154席、邦画・洋画を上映。2020年の映画館名簿には掲載されていない。桜井薬局ビル3階。桜井薬局ビル3階の映画館跡地は「誰も知らない劇場」として現存。最寄駅は仙台市営地下鉄南北線広瀬通駅。

仙台市青葉区のクリスロード商店街に面したビルの3階には映画館「桜井薬局セントラルホール」がある。1979年の開館時の仙台市には10以上の映画館があったが、2000年に仙台市太白区長町にシネコン「ムービックス仙台」が開館すると、その後は利府町・富谷町・名取市にも相次いでシネコンが開館し、仙台市中心部の映画館はばたばたと閉館した。セントラルホールのオーナーは文化活動に理解があり、赤字でも営業を続けてきた同館だけが残っている。*78

2018年6月末をもって、仙台市中心部のクリスロード商店街にある映画館「仙台セントラルホール」が閉館する。商店街に面したビルの3階にあり、154席の1スクリーンを有する。1979年に開館し、当時の仙台市中心部には10以上の映画館があったが、現在は仙台セントラルホールのみとなっていた。事前に作品名を明らかにしない覆面上映で話題を呼んだことがある。2011年3月11日に発生した東日本大震災後には休館したが、ゴールデンウィークに合わせて営業再開した。その後は被災地を取材したドキュメンタリー作品を多数上映し、2015年には運営会社が宮城県芸術選奨新人賞を受賞した。6月23日から30日までは「セントラル特選さよなら上映」と題したプログラムを組み、山本薩夫監督『真空地帯』、マキノ雅弘監督『弥太郎笠』、家城巳代治監督『ともしび』と『雲ながるる果てに』、関川秀雄監督『ひろしま』、木下恵介監督『楢山節考』、中村登監督『夜の片鱗』、鈴木則文監督『文学賞殺人事件 大いなる助走』の旧作を上映する。*79

2018年6月末をもって、仙台市青葉区の桜井薬局ビル3階・4階にある映画館「仙台セントラルホール」が39年の歴史に幕を下ろして閉館する。仙台市に残る唯一の地元資本の映画館だった。独自色の強い作品選定で知られていた。廊下の壁面には舞台挨拶などで訪れた監督や俳優のサインが書き込まれている。1979年に中央通り(クリスロード商店街)に「日乃出セントラル劇場」として開館した。『シンドラーのリスト』を上映した1994年には年間約10万人が入場し、商店街の中にまで行列を作ったこともあった。2002年にいったん閉館したがその後再開館した。2011年3月の東日本大震災ではスクリーンが破れるなどの被害もあった。2018年2月には仙台セントラルホールに改称していた。近年には年間約1万人にまで減少していた。最後の一週間には特別プログラム「セントラル特選さよなら上映」を行い、木下恵介監督作『楢山節考』など邦画8作品を上映する。*80

2019年、仙台市にあった映画館「仙台セントラルホール」の常連客や劇場スタッフらによるエッセー集『セントラル劇場でみた一本の映画』が完成した。小説家の伊坂幸太郎、前仙台市長の奥山恵美子、俳優の水沢紳吾、漫画家のいがらしみきお、小説家の佐伯一麦らも寄稿している。仙台セントラルホールは1979年に開館した。2011年3月11日の東日本大震災の発生時には『武士の家計簿』を上映中であり、映写機は地震でも無事だった。*81

2019年4月1日、仙台市に劇場「誰も知らない劇場」が開館した。2018年に閉館した映画館「仙台セントラルホール」の跡地であり、大幅に改修して多目的ホールとした。コンサート、寄席、演劇、講演会などに使用できる。*82
仙台フォーラム1・2・3/フォーラム仙台1・2・3
所在地 : 宮城県仙台市青葉区木町通2-1-33 伊澤竹に雀ビル1階(2000年・2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1999年12月23日
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年の映画館名簿では「仙台フォーラム1・2・3」(3館)。2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「フォーラム仙台1・2・3」(3館)。2010年の映画館名簿では経営会社が株式会社フォーラム運営委員会、経営者が長澤裕二、支配人が橋村小由美、鉄筋造1階、40席と55席と98席、いずれも邦画・洋画を上映。最寄駅は仙台市営地下鉄南北線北四番丁駅。

1999年12月23日、仙台市青葉区木町通2丁目に独立系映画館「仙台フォーラム」が開館した。仙台市は東北最大の都市でありながら、アート系作品の上映館に恵まれていなかった。仙台フォーラムは商店街にあり、40席・54席・96席の小劇場3スクリーンを有する。12月23日からはイタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』や高橋栄樹監督作『trancemission』を上映している。運営はフォーラム運営委員会であり、山形、福島、盛岡に次いで4都市目、7館目の映画館である。*83

1999年12月23日、仙台市青葉区にアート系作品専門の映画館「仙台フォーラム」が開館した。山形市の映画興行会社であるフォーラム運営委員会が運営する。山形市の自主上映サークル「えいあいれん」がルーツであり、1983年6月には自前の映画館を建設する志を立てた。長澤裕二(49)を中心とする中核メンバー18人が、1人30万円を出資して株式会社を設立した。1984年7月、市民が設立した全国初の映画館「フォーラム1・2」が開館した。1987年には福島市、1993年には盛岡市に進出し、どの都市でも会員制を採用して企画会議などに参加してもらった。1989年に始まった山形国際ドキュメンタリー映画祭にもフォーラム会員が協力している。1999年10月には第6階映画祭を開催したが、延べ2万1000人を集めて「みちのく映画の都」をアピールした。*84

1999年12月23日、仙台市青葉区木町通2-1-321 井澤竹に雀ビル1階に「仙台フォーラム1・2・3」が開館した。1が40席、2が54席、3が96席。経営は株式会社フォーラム運営委員会。*85
TOHOシネマズ仙台
所在地 : 宮城県仙台市青葉区中央3-7-5 仙台パルコ2 6階(2018年)、宮城県仙台市青葉区中央3-7-5 仙台パルコ6階(2020年)
開館年 : 2016年7月1日
閉館年 : 営業中
2015年の映画館名簿には掲載されていない。2018年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズ仙台1-9」(9館)。最寄駅はJR仙台駅。

2016年春、仙台市のJR仙台駅西口にTOHOシネマズによるシネコンが開館する予定。この時に開業するパルコ新館の6階から9階に出店し、約10スクリーンを予定している。2006年には「仙台東宝劇場」が閉館し、東宝系映画館がなくなっていた。*86

2016年7月1日、仙台市のJR仙台駅西口に地上9階建・地下2階建のファッションビル「パルコ2」が開業する。衣料品店や飲食店など計84店舗が入り、6階から9階には「TOHOシネマズ」が入る。*87

宮城野区

公園劇場/仙台公園劇場
所在地 : 宮城県仙台市鉄砲町15(1947年)、宮城県仙台市鉄砲町5(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年)
開館年 : 1946年10月
閉館年 : 1975年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年10月開館。1947年・1950年の映画館名簿では「仙台公園劇場」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「公園劇場」。1964年の仙台市大鑑では「公園劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「仙台公園劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では跡地に空白。跡地はマンション「ダイアパレス榴ヶ岡公園」。最寄駅はJR仙石線榴ケ岡駅。
仙台東日乃出劇場/東日乃出劇場
所在地 : 宮城県仙台市原町苦竹32-4(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年)
開館年 : 1957年6月9日
閉館年 : 1978年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「東日乃出劇場」。1964年の仙台市大鑑では発見できず。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「仙台東日乃出劇場」。1978年の映画館名簿では「東日乃出劇場」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では発見できず。

1957年6月9日、仙台市原地苦竹に「東日の出劇場」が開館した。オープニングは『雪国』と『危険な関係』。邦画6社を混映するセカンド館。定員300人。社長は杉村多利治。*88

仙台東日之出劇場に言及している雑誌記事として、「われらの映画館 仙台東日之出劇場」『キネマ旬報』1974年12月がある。*89
仙台シネアート1・2/チネラヴィータ1・2(旧)
所在地 : 宮城県仙台市東八番町73-2(1986年)、宮城県仙台市東八幡町73-2(1988年)、宮城県仙台市宮城野区榴岡1-2-15(1990年・1995年・2000年・2002年・2005年・2008年)
開館年 : 1985年
閉館年 : 2009年7月31日(チネ・ラヴィータ)
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1986年・1988年・1990年・1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「仙台シネアート1・2」(2館)。2002年の映画館名簿では経営会社が三和興行、経営者が吉村将夫、支配人が坂修一、1が鉄筋2階で93席で洋画を上映、2が鉄筋4階で93席で洋画を上映。2004年5月仙台シネアート閉館。2004年6月チネ・ラヴィータ開館。2005年・2008年の映画館名簿では「チネ・ラヴィータ1・2」(2館)。2009年7月31日移転閉館。最寄駅はJR仙台駅。
仙台コロナワールド/仙台コロナシネマワールド
所在地 : 宮城県仙台市宮城野区福室字田中前1-53-1(2005年・2008年・2010年)
開館年 : 2002年7月
閉館年 : 2011年3月11日
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2005年・2008年の映画館名簿では「仙台コロナワールド1-12」(12館)。2010年の映画館名簿では「仙台コロナシネマワールド1-12」(12館)。2010年の映画館名簿では経営会社が株式会社コロナ、経営者が大塚勉、支配人が出口大輔、鉄筋造2階、74席から330席。2011年3月11日の東日本大震災で被災して休館。2015年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅はJR仙石線陸前高砂駅。

2002年7月上旬、仙台市宮城野区福室に大型アミューズメント施設「仙台コロナワールド」が開業する。12スクリーン計1852席を備えた東北最大規模のシネコンが中核施設であり、温泉やボウリング場も併設される。2000年12月には仙台市太白区に12スクリーンの「MOVIX仙台」が、2001年3月には利府町に「MOVIX利府」が開館しており、イオンシネマも2002年10月に富宮町にオープンするイオン富谷大清水にシネコンの併設を検討している。この一方で、2001年8月には仙台松竹、仙台ピカデリー、仙台青葉劇場の3館が閉館している。*90

2002年7月、仙台市宮城野区の仙台コロナワールドに仙台市周辺で3番目のシネコンが開館した。12スクリーン計約2000席を有する。8月には施設が全面開業し、見込みより8万人多い28万人が訪れた。パチンコ、回転ずし、天然温泉浴場、ボウリング場なども備え、約2000台分の駐車場がある。*91
チネラヴィータ1・2・3(新)
所在地 : 宮城県仙台市宮城野区榴岡2-1-25 BiVi仙台駅東口2階(2010年・2015年・2020年・2022年)
開館年 : 2009年8月8日
閉館年 : 2024年3月31日
2009年8月8日移転開館。2010年・2015年・2020年・2022年の映画館名簿では「チネ・ラヴィータ1・2・3」(3館)。2022年の映画館名簿では経営会社がフォーラム運営員会、経営者が長澤裕二、支配人が橋村小由美、1が64席、2が64席、3が83席。建物のBiVi仙台駅東口は現存。最寄駅はJR仙台駅。

2003年11月12日の『河北新報』には「シネアート」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*92

2004年3月30日の『河北新報』には「シネアート」跡地に6月に「フォーラム」が開館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*93

2004年6月4日の『河北新報』には仙台駅東口に「チネ・ラヴィータ」が開館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*94

仙台市のJR仙台駅東口にあった映画館「シネ・アート」跡地を山形県の映画興行グループが譲り受け、2004年6月に「チネ・ラヴィータ」が開館した。2009年6月には5周年を迎え、5年間で約450本を上映した。同館の観客数ランキング上位は『誰も知らない』、『ゆれる』、『人のセックスを笑うな』の順であり、観客の7割は女性である。カンヌ国際映画祭などで注目された作品は、年代や男女を問わず観客が増える。『おくりびと』は満員御礼が続き、上映期間の延長に踏み切った。2009年5月に発売された雑誌『仙台学』第8号には菊池雅人による「1970年代仙台映画館散歩」が掲載されている。*95

太白区

ミリオン劇場/ミリオン映画劇場/仙台ミリオン映画劇場
所在地 : 宮城県仙台市長町大道141(1958年)、宮城県仙台市長町大道西1(1960年・1963年・1966年・1967年)
開館年 : 1955年8月20日
閉館年 : 1967年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「ミリオン劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「ミリオン映画劇場」。1964年の仙台市大鑑では「ミリオン劇場」。1966年・1967年の映画館名簿では「仙台ミリオン劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ライオンズタワー仙台長町」北西30mにある有料駐車場「三井のリパーク仙台長町5丁目駐車場」。最寄駅はJR東北本線長町駅。

1955年8月20日、仙台市長町秋保電鉄駅前に「仙台ミリオン劇場」が開館した。邦画自由選択の二番館木造一部2階建て、建坪115坪、定員266人。総工費1000万円。経営者は樋口柳左衛門。*96

1963年4月28日、仙台市の邦画再映館「仙台ミリオン劇場」が日活封切館に転向した。オープニングは『太陽への脱出』と『俺は地獄の部隊長』。支配人は山田全吉。*97
南日乃出劇場/長町劇場
所在地 : 宮城県仙台市長町1-7-39(1976年・1977年・1978年・1980年・1982年・1984年)
開館年 : 1975年頃
閉館年 : 1984年頃
1975年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の映画館名簿では「南日乃出劇場」。1977年・1978年・1980年・1982年・1984年の映画館名簿では「長町劇場」。1979年の住宅地図では「長町劇場 1階パチンコパッピーセンター」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「パシフィックマンション広瀬橋」。最寄駅は仙台市地下鉄南北線長町一丁目駅。
MOVIX仙台
所在地 : 宮城県仙台市太白区長町7-20-15 ザ・モール仙台長町Part2内(2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 2000年12月20日
閉館年 : 営業中
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「MOVIX仙台1-10」(10館)。2010年の映画館名簿では経営会社が松竹マルチプレックスシアターズ、経営者が中島厚、支配人が氏家亨、1から6が鉄筋造4階、7から10が6階、110席から383席。最寄駅は仙台市地下鉄南北線長町南駅。

2000年12月20日、仙台市郊外に大型ショッピングセンター「THE MALL仙台長町 Part2」が開業し、4階から6階には「MOVIX仙台」が開館した。MOVIX仙台は10スクリーン計約1900席を有し、宮城県最大の映画館である。*98

2000年12月20日、仙台市太白区長町7-20-15 ザ・モール仙台長町Part2に「MOVIX仙台」が開館した。10スクリーンを有する。経営は松竹マルチプレックスシアターズ。*99

2000年12月20日、松竹マルチプレックスシアターズによって「MOVIX仙台」が開館した。*100

泉区

泉コロナワールド/泉コロナシネマワールド
所在地 : 宮城県仙台市泉区市名坂字清水端200-3(2008年・2010年)
開館年 : 2007年10月
閉館年 : 2011年3月11日(休館)、2011年10月(閉館)
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2008年の映画館名簿では「泉コロナワールド1-10」。2010年の映画館名簿では「泉コロナシネマワールド1-10」。2010年の映画館名簿では経営会社が株式会社コロナ、経営者が大塚勉、支配人が後藤直也、鉄筋造2階、112席から348席。2015年の映画館名簿には掲載されていない。10スクリーンのシネコン。最寄駅は仙台市地下鉄南北線泉中央駅。

若林区

連坊映画劇場/連坊ロマンス映画劇場
所在地 : 宮城県仙台市連坊小路61(1955年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1952年12月25日
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「連坊映画劇場」。1963年の映画館名簿では「連坊ロマンス映画劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の仙台市大鑑では発見できず。

1952年12月25日、仙台市連坊小路に「連坊映画劇場」が新築されて開館した。木造2階建て。定員230人。系統は東映二番、洋画・邦画特選。*101
仙台南街東映/南街映画劇場/南街東映劇場
所在地 : 宮城県仙台市舟丁64(1950年)、宮城県仙台市舟町64(1953年)、宮城県仙台市舟丁64(1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年・1966年)
開館年 : 1940年2月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1940年2月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「南街映画劇場」。1963年の映画館名簿では「南街東映劇場」。1964年の映画館名簿では「仙台南街東映」。1965年の映画館名簿では「南街映画劇場」。1966年の映画館名簿では「南街東映劇場」。1964年の仙台市大鑑では「南街劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ヴィラマール河原町」。最寄駅は仙台市地下鉄南北線河原町駅。

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