日本の映画館の総合データベースです。



伊東市

伊東市の映画館
1892年に作られた『伊東案内図』には「東座」や「寄席」やキネマホールの前身である「末広亭」などが描かれている。戦後の伊東市街地には「伊東劇場」、「ロキシー」、「松竹館」(旧住吉館)、「演舞場」、「銀映」という5館の映画館があった。伊東市街地以外では、八幡野には丸万経営の「テアトル」と相良太郎経営の「サガラ座」の2館、宇佐美には城宿長屋店の場所に「宇佐美館」の1館、富戸には富戸上町に「文化劇場」の1館の映画館があった。伊東劇場は伊東市の映画館の中心的存在である。大和館の山本惣吉が劇場経営に携わり、その後の丸万の山田喜太郎の時代が全盛期だった。*1

1951年に再建された伊東劇場は、収容人数1200人で静岡県最大の大きさだった。伊東劇場の隣には洋画専門館のロキシーがあり、さらに松竹館、演舞場、銀映と、伊東市街地には5館の映画館があった。郡部には相良劇場、テアトル(八幡野)、文化館(富戸)、宇佐美座(宇佐美)があった。大衆娯楽のうち最初に衰退したのは映画館であり、1963年10月の5館の入館者数計2万7326人は、前年同月に比べて1万310人も減少した。1館あたりでは1日平均182人という少なさだった。伊東劇場も1970年に閉館。最後まで残ったのは銀映だったが、1987年に32年の歴史の幕を閉じた。*2

1963年10月の伊東市街地の映画館5館の入場者数は計2万7326人であり、売上高は計482万1700円だった。1962年10月は計3万7636人であり、売上高は539万7000円だったため、入場者数は27%減少、売上高は11%減少となった。1963年の5館の1日平均入場者数は910人であり、1館当たりでは1日平均182人だった。テレビが普及したことや、レジャーブームで娯楽施設が豊富になったことが要因に挙げられる。*3*4

1936住吉館(伊東町猪戸)
1941伊東演芸館(伊東町松原1-1)、住吉館(伊東町松原501)
1943伊東演芸館(伊東町松原)、住吉館(伊東町松原)
キネマホール
所在地 : 静岡県賀茂郡伊東町(1925年)、静岡県賀茂郡伊東町猪戸(1930年)
開館年 : 1920年8月14日
閉館年 : 1945年以前
1925年・1930年の映画館名簿では「キネマホール」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。

1922年現在の伊東町における活動常設館は猪戸の「キネマ」と栄町の「演芸館」である。キネマの筋向いには芝居の「伊東劇場」があり、しばしば東京の俳優も訪れる。*5

伊東市有数の商店街であるキネマ通りの名前の由来になったのはキネマホールである。1920年8月14日に開館式を行い、まだ映画が「活動写真」と呼ばれていた時代にキネマホールというハイカラな館名を付けた。キネマホールは火災に遭って短命に終わった。*6

1920年8月14日、伊東に活動常設館「キネマホール」が開館したが、開館日に上映された映画の題名などは不明である。キネマホールの経営者は西山隆作氏であり、その娘は全員が着物だった時代に洋服を着て小学校に通っていたため、児童のあこがれの的だった。昭和初期には楠山伝や藤屋の主人らが話し合ってキネマ通りと命名した。1930年11月26日には北伊豆地震が起こり、キネマ通りではキネマホールを含む約30戸が焼失した。跡地は長らく空き地になっていたが、楠山伝とダルマ不動産が土地を購入して店を開いた。キネマホールは2000年現在の小田原屋支店付近にあったとされる。*7

1978年の住宅地図では、猪戸通りと湯の花通りの交差点西側に「キネマ会館」が描かれている。「文寿堂菓子店」の2軒北東。
富戸文化劇場
所在地 : 静岡県伊東市対島(1956年)、静岡県伊東市富戸町710(1957年)、静岡県伊東市富戸町701(1958年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1958年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年の映画館名簿では「富戸文化劇場」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
宇佐美劇場
所在地 : 静岡県田方郡宇佐美村(1953年・1955年)、静岡県伊東市宇佐美区宇佐美(1958年)、静岡県伊東市宇佐美城宿(1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1945年12月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1945年12月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「宇佐美劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
八幡野テアトル/テアトル八幡野
所在地 : 静岡県田方郡対馬村八幡野(1953年・1955年)、静岡県伊東市対島区八幡野(1958年・1960年)、静岡県伊東市八幡野(1963年・1964年)
開館年 : 1951年9月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年9月開館。1953年の映画館名簿では「八幡野テアトル」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「テアトル八幡野」。1963年の映画館名簿では「八幡野テアトル」。1964年の映画館名簿では「テアトル八幡野」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「伊東市八幡野コミュニティセンター」南西130mの民家。最寄駅は伊豆急行線伊豆高原駅。
ロキシー劇場/伊東東映ロキシー/東映ロキシー/伊東ロキシー
所在地 : 静岡県田方郡伊東町1-1(1947年)、静岡県伊東市(1950年)、静岡県伊東市松原(1953年・1955年)、静岡県伊東市松原町501(1958年)、静岡県伊東市松原猪戸町(1960年)、静岡県伊東市松原501(1963年)、静岡県伊東市松原猪戸町(1964年)、静岡県伊東市松原猪戸町501(1965年)
開館年 : 1941年4月
閉館年 : 1965年1月19日
『全国映画館総覧 1955』によると1941年4月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「ロキシー映画劇場」。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「ロキシー劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「伊東ロキシー」。1960年の伊東市明細図・1963年の伊東市住宅明細図では「映画劇場ロキシー(山田)」。1960年の映画館名簿では経営者が丸万興行社、支配人が尾関久寿男、木造2階冷暖房付、定員320、洋画を上映。1963年の映画館名簿では「伊東東映ロキシー」。1964年の映画館名簿では「東映ロキシー」。1965年の映画館名簿では「伊東ロキシー」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の映画館名簿では跡地に「ロキシー駐車場」。跡地は定食屋「椿や」やガールズバー「ミラージュ」などが入るアーケード南端部の「セントラルビル」。最寄駅はJR伊東線伊東駅。

1952年、伊東市に鉄筋造3階建ての「伊東劇場」が開館した。経営者は伊東市で伊東劇場、「ロキシー劇場」、「松竹館」を経営している山田寿。1953年にはロキシー劇場の改築に入り、その完成を待って松竹館の改築に入る。すべての改築が完成した暁には、伊東劇場が邦画・洋画の大作上映劇場、ロキシー劇場が洋画専門館、松竹館が邦画専門館となる。*8

1965年1月19日午後9時20分頃、伊東市松原町猪戸4-501のアパートから出火し、木造3階建てのアパートと「伊東ロキシー」が全焼した。*9
松竹館/伊東松竹館/テアトルマルマン劇場/テアトル丸万
所在地 : 静岡県田方郡伊東町杉原(1930年)、静岡県田方郡伊東町(1934年)、静岡県田方郡伊東町栄町(1936年)、静岡県田方郡伊東町(1947年)、静岡県伊東市松原栄町(1950年)、静岡県伊東市松原(1953年)、静岡県伊東市栄町(1955年・1958年)、静岡県伊東市松原栄町1(1960年・1963年・1966年)、静岡県伊東市松原1-1(1969年・1970年)
開館年 : 1930年以前、1941年8月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1941年8月開館。1930年・1934年の映画館名簿では「伊東松竹館」。1936年の映画館名簿では「松竹館」。1941年・1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年の映画館名簿では「伊東松竹館」。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「松竹館」。1953年の映画館名簿では経営者が山田寿、支配人が小関久寿男、鉄筋造3階、定員800、松竹・SYを上映。1960年の映画館名簿では経営者が丸万興行社、支配人が尾関久寿男、木造2階、定員315、新東宝・松竹・東宝を上映。1960年の映画館名簿では「伊東松竹館」。1960年の映画館名簿では経営者が丸万興行社、支配人が尾関久寿男、木造2階、定員315、新東宝・松竹・東宝を上映。1960年の伊東市明細図では「映画劇場 第二東映」。1963年の伊東市住宅明細図では「テアトルマルマン」。1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「テアトル丸万」。1970年の映画館名簿では経営者が関東共栄興行、支配人が福田寿一、木造2階冷暖房付、定員244、東映を上映。1970年のゼンリン住宅地図では「テアトルマルマン」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「静岡銀行伊東支店」西北西60mの駐車場。最寄駅はJR伊東線伊東駅。

1952年、伊東市に鉄筋造3階建ての「伊東劇場」が開館した。経営者は伊東市で伊東劇場、「ロキシー劇場」、「松竹館」を経営している山田寿。1953年にはロキシー劇場の改築に入り、その完成を待って松竹館の改築に入る。すべての改築が完成した暁には、伊東劇場が邦画・洋画の大作上映劇場、ロキシー劇場が洋画専門館、松竹館が邦画専門館となる。*10

1965年頃(※誤りだと思われる)の伊東市にあった映画館「テアトルマルマン劇場」の写真あり。劇場通り(現・中央町通り)にあり、伊東市を代表する映画館だった。『日本侠客伝 白刃の盃』(1967年)や『博奕打ち』(1967年)などの看板が見える。「テアトルマルマン」「THEATRE MARUMAN」などの看板が見える。*11
伊東演舞場/伊東東映演舞場/伊東日活演舞場
所在地 : 静岡県伊東市松原町602(1957年・1958年)、静岡県伊東市松原602(1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)、静岡県伊東市松原湯端町3-11(1971年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1971年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「伊東演舞場」。1958年・1960年の映画館名簿では「伊東東映演舞場」。1960年の映画館名簿では経営者が福田行芳、支配人が野崎誠一郎、鉄筋造2階、定員400、東映を上映。1963年・1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「伊東日活演舞場」。1970年の映画館名簿では経営者がMS興業、支配人が滝本康喜、木造2階冷暖房付、定員248、松竹・日活・成人映画を上映。1970年のゼンリン住宅地図では「伊東日活」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「手打庵松原店」。最寄駅はJR伊東線伊東駅。

1960年10月5日、伊東市松原602の「伊東東映演舞場」は「伊東日活演舞場」に改称して日活専門館に転向した。経営は柴田光之助。*12
伊東劇場
所在地 : 静岡県田方郡伊東町(1930年・1934年)、静岡県田方郡伊東町猪戸(1936年)、静岡県田方郡伊東町(1941年)、静岡県田方郡伊東町松原(1943年)、静岡県田方郡伊東町松原500(1947年)、静岡県伊東市松原猪戸501(1952年)、静岡県伊東市松原(1953年・1955年)、静岡県伊東市松原507(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)、静岡県伊東市中央町7-2(1973年・1976年・1978年・1979年)
開館年 : 1918年5月15日、1950年12月
閉館年 : 1979年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月開館。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「伊東劇場」。1950年・1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1978年・1979年の映画館名簿では「伊東劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が丸万興行社、支配人が尾関久寿男、鉄筋造3階、定員618、松竹・東宝を上映。1960年の伊東市明細図・1963年の伊東市住宅明細図では「伊東劇場」であり小さな「喫茶マルマン」という建物が併設されている。1970年のゼンリン住宅地図では「伊東劇場」であり小さな「マルマン」という建物が併設されている。1978年の映画館名簿では経営会社が関東共栄興行、経営者が浮島好之、支配人が庄内行雄、鉄筋造3階冷暖房付、432席、東宝・東映・日活を上映。1978年の住宅地図では「伊東劇場」であり小さな「マルマン」という建物が併設されている。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「フリーマーケットベル」の西側の立体駐車場。2006年6月24日から2009年12月10日には敷地北側に「キネマカフェ伊東劇場」があった。最寄駅はJR伊東線伊東駅。

吉田初三郎『湯の街海の街山の街観光伊東市鳥瞰図』伊東市役所、出版年不明には伊東劇場が「劇場」として描かれている。*13

1918年5月15日、再築中の伊東劇場が完成し、盛大に舞台開きが開催された。*14

1922年現在の伊東町における活動常設館は猪戸の「キネマ」と栄町の「演芸館」である。キネマの筋向いには芝居の「伊東劇場」があり、しばしば東京の俳優も訪れる。*15

1928年の伊東市街地の航空写真あり。中央左の巨大な建物は「伊東劇場」である。*16

1947年2月25日5時50分、伊東町松原区の「伊東劇場」から出火して42戸が焼失した。焼失面積は2000坪、建物焼失延坪数は1543坪。原因は焚火の不始末。*17

1947年、伊東町と小室村が合併して伊東市が発足した。同年には「伊東劇場」から出火して47戸が焼失した。*18

1952年、伊東市に鉄筋造3階建ての「伊東劇場」が開館した。経営者は伊東市で伊東劇場、「ロキシー劇場」、「松竹館」を経営している山田寿。1953年にはロキシー劇場の改築に入り、その完成を待って松竹館の改築に入る。すべての改築が完成した暁には、伊東劇場が邦画・洋画の大作上映劇場、ロキシー劇場が洋画専門館、松竹館が邦画専門館となる。*19

伊東劇場は1970年まで営業を続けた。(※映画館名簿とは閉館時期に10年近くずれが生じるが理由は不明)*20

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
伊東銀座映画劇場/伊東銀映オリオン
所在地 : 静岡県伊東市玖須美町(1956年)、静岡県伊東市玖須美之内125(1958年)、静岡県伊東市玖須美元竹之内(1960年・1963年)、静岡県伊東市玖須美元竹之内125(1966年・1969年・1970年・1973年)、静岡県伊東市銀座元町6-10(1976年・1980年)、静岡県伊東市銀座元町6-11(1985年・1987年)
開館年 : 1954年10月1日
閉館年 : 1987年4月5日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「伊東銀座映画劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が柴田光之助、支配人が浅倉房吉、木造1階暖房付、定員355、大映・日活を上映。1960年の伊東市明細図・1963年の伊東市住宅明細図では「映画劇場 伊東銀映」。1970年の映画館名簿では経営者が太洋興行、支配人が青木幸一、木造1階冷暖房付、定員270、大映・洋画を上映。1970年のゼンリン住宅地図では「伊東銀座映画劇場」。1973年・1976年・1980年・1985年・1987年の映画館名簿では「伊東銀映オリオン」。1978年の住宅地図では「銀映オリオン」。1980年の映画館名簿では経営者が荻野庄司、支配人が矢田文之、木造1階、410席、松竹・東宝・洋画を上映。1987年の映画館名簿では経営会社が有限会社熱海国際劇場、経営者が荻野庄司、支配人が荻野琢実、木造1階、410席、邦画・洋画を上映。1988年の映画館名簿には掲載されていない。伊東市最後の映画館。跡地は「伊東市商工会議所」。

1954年10月1日、伊東市玖須美125番地に伊東銀座興行による新館が開館する。邦画・洋画の二番館。伊東銀座興行の資本金は1500万円であり、社長は伊東バスの増田万吉。伊東市の映画館は4館となる。*21

1956年頃の伊東市にあった「銀映」で撮られた記念写真あり。「銀映」「東映」の文字が見える。中央には俳優の大友柳太郎が映っており、その周りには伊東銀座興業株式会社の役員などがいる。銀映の開館間もない頃には東映と大映を上映し、上映作品は時代劇が多かった。*22

1987年4月5日、伊東銀映オリオンが32年間の歴史に幕を閉じて閉館する。映画全盛期の1955年、伊東劇場・ロキシー・松竹館・演舞場に次ぐ市内5番目の映画館として、伊東市銀座元町に創業した。1986年8月、伊東銀座興業株式会社の株主総会において、映画人口の減少、建物の老朽化、幼稚園児への環境問題などを理由に閉館を決定。セブンイレブンやスーパーの誘致なども検討されたが、建物は取り壊すことが決定し、726m2の敷地を商工会館の建設地とする案が有力である。増田郁雄社長、資本金1200万円。*23*24

伊東市に最後まで残った映画館は銀映であるが、1987年に32年の歴史の幕を閉じた。*25

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