日本の映画館の総合データベースです。



桐生市

桐生キネマ
所在地 : 群馬県桐生市
開館年 : 1922年5月
閉館年 : 1926年12月5日
各年版の映画館名簿には掲載されていない。

桐生市浜松町の「桐生キネマ」。1922年4月1日に藤掛庄太郎によって創業し、総額5000円の株式を募った。1926年12月5日夜、映画の上映中に出火して建物が焼失し、廃館となった。*1

1922年5月、桐生市に映画館「桐生キネマ」が開館した。1926年12月5日、桐生キネマが焼失した。*2
常盤館
所在地 : 群馬県桐生市
開館年 : 1921年10月
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。

桐生市宮本町の「桐生常盤館」。1921年10月に創業した。*3

1921年には桐生町宮本町に「常盤館」が開館し、1922年には旭町の「活動館」と浜松町の「桐生キネマ」が開館した。活動館は「桐生松竹館」の前身である。1926年には桐生キネマが火災で焼失した。「常盤館」の建物、「松竹映画劇場」の建物の写真あり。*4

1921年10月、桐生市に映画館「常盤館」が開館した。*5
帝国座
所在地 : 群馬県桐生市浜松町1-833(1941年)、群馬県桐生市浜松町(1943年)
開館年 : 1911年
閉館年 : 1945年12月31日
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年の映画館名簿では「帝国座」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

桐生市浜松町2丁目の「桐生帝国座」。1900年3月22日、芝居小屋「新松座」が開館し、1911年には建物を改築して「帝国座」に改称した。1915年7月には活動写真専門館に転向したが、約3年後には再び芝居小屋に転向し、芝居の公演と映画の上映を半分ずつ行った。1945年12月31日に出火し、1947年に閉館した。。*6

1915年7月、桐生町浜松町の芝居小屋「桐生帝国座」が活動写真専門館に転向した。約3年後には再び芝居小屋に戻り、活動写真と芝居を半々で興行する形を取った。*7

1945年4月2日、桐生市の「帝国座」で井上正夫の劇団公演が催された。*8
桐生セントラル映画劇場/桐生セントラル/桐生セントラル劇場/ニュー東映
所在地 : 群馬県桐生市高砂町(1947年・1950年)、群馬県桐生市高砂町289(1953年・1955年・1958年・1960年)、群馬県桐生市高砂町28(1963年)
開館年 : 1946年12月5日
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年12月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「桐生セントラル」。1950年・1953年の映画館名簿では「桐生セントラル劇場」。1955年の映画館名簿では「桐生セントラル映画劇場」。1958年の映画館名簿では「桐生セントラル」。1960年の映画館名簿では「桐生セントラル劇場」。1963年の映画館名簿では「ニュー東映」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の住宅明細図では跡地に「セントラルホール」。1984年の住宅地図では跡地に「大桐倉庫株式会社 有限会社東毛運輸」。跡地はドラッグストア「クスリのアオキ桐生仲町店」駐車場北側。最寄駅はJR両毛線桐生駅。

1946年12月5日、桐生市に「セントラル洋画劇場」が開館した。*9

桐生市高砂町289の「セントラル劇場」。1946年12月5日に創業して新東宝の作品を上映し、1947年12月には「セントラル洋画劇場」に改称した。1948年3月にはセントラルダンスホールを設けた。昭和40年代にはセントラルダンスホールと事務所があったが、1970年に廃館となった。*10

桐生市高砂町289の洋画館「セントラル劇場」。1946年12月5日開館。1960年1月現在の代表者は吉田徹であり、株式会社である。収容人員は1300人。*11

1960年春のこのほど、桐生市高砂町の「桐生セントラル劇場」は田辺志代が所有者となって「桐生第二東映」に改称した。*12
活動館/桐生活動館/桐生映画劇場(旧)/桐生松竹映画劇場/桐生松竹
所在地 : 群馬県桐生市安栄土町(1930年)、群馬県桐生市旭町(1934年)、群馬県桐生市旭町212(1936年・1941年)、群馬県桐生市旭町(1943年)、群馬県桐生市旭町212(1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年)、群馬県桐生市旭町213(1963年)、群馬県桐生市旭町212(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1922年3月4日
閉館年 : 1971年1月26日
『全国映画館総覧 1955』によると1930年7月開館。1930年の映画館名簿では「桐生活動館」。1934年の映画館名簿では「活動館」。1936年・1941年の映画館名簿では「桐生活動館」。1943年の映画館名簿では「桐生映画劇場」。1947年の映画館名簿では「桐生映画劇場」と「桐生松竹映劇」。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「桐生松竹映画劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「桐生松竹」。1966年の住宅明細図では「桐生松竹映画館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1984年の住宅地図では跡地に「パチンコニューライオン無料駐車場」。跡地は青果店「岩上商店」南東40mの「アサヒパーキング」。最寄駅はJR両毛線桐生駅。

桐生市旭町212-4の「桐生活動館」。1922年3月4日に土澤亀三郎によって開館し、1932年には木造モルタル2階建てに改築した。『君の名は』や『喜びも悲しみも幾年月』では一日に2000人以上の観客を集めた。「桐生松竹館」の前身である。*13

桐生市仲町3丁目7-18の「桐生松竹映画劇場」。1922年3月4日に桐生活動館として開館した。土澤亀三郎社長の土澤興業社が経営し、大映・松竹の作品を上映した。1970年5月には松竹の上映権が桐生東映劇場に移行し、東日本松竹によって洋画再映館に転向したものの、1971年1月26日に閉館した。*14

1921年には桐生町宮本町に「常盤館」が開館し、1922年には旭町の「活動館」と浜松町の「桐生キネマ」が開館した。活動館は「桐生松竹館」の前身である。1926年には桐生キネマが火災で焼失した。「常盤館」の建物、「松竹映画劇場」の建物の写真あり。*15

1922年3月31日、桐生市に「活動館」が開館した。1971年1月26日に閉館した。*16

1949年12月、桐生市に寄席「旭座」(桐生映画劇場)が開館した。*17

桐生市旭町212の松竹上映館「松竹劇場」。1931年開館。1960年1月現在の代表者は土沢弘であり、合資会社である。収容人員は1500人。*18

1971年1月26日をもって、桐生市仲町3丁目の「桐生松竹」が閉館する。「能楽館」と並んで長い歴史を有する映画館である。1970年5月には松竹作品の上映権が「桐生東映」に移ったが、東日本松竹が洋画の再映を上映していた。1922年3月4日に「桐生活動館」として登記され、間もなく49年となる。*19
桐生映画劇場(新)
所在地 : 群馬県桐生市旭町132(1957年)、群馬県桐生市旭町213(1960年・1963年)、群馬県桐生市旭町212(1966年・1969年・1970年)、群馬県桐生市旭町22(1971年・1972年)
開館年 : 1954年11月
閉館年 : 1972年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1971年・1972年の映画館名簿では「桐生映画劇場」。1966年の住宅明細図では「桐生映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1984年の住宅地図では跡地に「いせや専用駐車場」。跡地は青果店「岩上商店」。最寄駅はJR両毛線桐生駅。

桐生市旭町213の「桐生映画劇場」。1954年11月に創業し、大映・東映・新東宝の作品を上映した。収容人員500人。晩年は成人映画などを上映し、1972年頃に廃業した。*20

桐生市旭町213の大映・東映・新東宝上映館「桐生映画劇場」。1954年11月開館。1960年1月現在の代表者は石川治三郎である。収容人員は500人。*21
電気館/桐生電気館
所在地 : 群馬県桐生市末広町402(1930年)、群馬県桐生市末広町(1934年・1936年)、群馬県桐生市末広町1-1168(1941年)、群馬県桐生市末広町(1943年)、群馬県桐生市泉町(1947年・1950年)、群馬県桐生市泉町252(1953年)、群馬県桐生市泉町252(1955年)、群馬県桐生市泉町251(1958年・1960年・1963年・1966年)、群馬県桐生市仲町2-2-4(1969年・1973年・1975年・1978年・1979年)
開館年 : 1913年1月1日、1946年10月29日(移転)
閉館年 : 1979年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年10月開館。1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「電気館」。1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「桐生電気館」。1950年の映画館名簿では「電気館」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1979年の映画館名簿では「桐生電気館」。1966年の住宅明細図では「電気館」。1970年の住宅地図では「桐生電気館」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。1984年の住宅地図では跡地に「吉野パーキング仲町駐車場」。跡地は「泉町教会」北西40mにある駐車場。最寄駅はJR両毛線桐生駅。

1913年1月1日、桐生町に活動写真館「電気館」が開館した。*22

1913年1月1日、桐生町初の活動常設館「電気館」が開館した。12月31日から客入れが行われ、開館日には超満員となった。大正時代の桐生町では活動専門館が相次いで開館し、電気館のほかに「常磐館」「活動館」「桐生キネマ」もできた。電気館は終戦間際に取り壊されたが、1946年10月29日には仲町2丁目に移転して再開館した。昭和30年代前半の桐生市には7館もの映画館があった。*23

1913年1月、桐生町末広町にあった寄席「末広亭」を改築して桐生初の活動写真館「桐生電気館」が開館した。当時の活動写真は無声映画だったため、映画の説明や人物のセリフを話す活動弁士がおり、音楽を演奏する楽士もいた。桐生電気館の弁士と楽士の写真あり。*24

桐生市末広町の「桐生電気館」。1913年1月1日、末広町にあった「末広亭」を吉野喜代松が改築し、桐生市における初の活動常設館「電気館」が開館した。1946年10月29日には泉町251-5に移転し、同年12月に開館した。1978年に閉館し、2012年現在の跡地は駐車場となっている。*25

桐生市宮前町251の東宝上映館「電気館」。1946年12月開館。1960年1月現在の代表者は斎藤源作であり、株式会社である。収容人員は1300人。*26
両毛劇場/桐生両毛劇場/チトセ劇場/桐生東映/桐生東映劇場/桐生東映劇場・桐生東映プラザ劇場
所在地 : 群馬県桐生市宮前(1947年)、群馬県桐生市宮前町(1950年)、群馬県桐生市宮前町2-1783(1953年)、群馬県桐生市宮前町1783(1955年)、群馬県桐生市宮前町2-1783(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年)、群馬県桐生市宮前町2-7-1(1980年・1985年・1986年・1987年)
開館年 : 1946年12月31日
閉館年 : 1987年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「両毛劇場」。1950年の映画館名簿では「桐生両毛劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「チトセ劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「桐生東映」。1966年・1969年の映画館名簿では「桐生東映劇場」。1966年の住宅明細図では「桐生東映」。1970年の住宅地図では「桐生東映」。1973年・1975年の映画館名簿では「桐生東映」。1980年の映画館名簿では「桐生東映劇場・桐生東映プラザ」(2館)。1985年・1986年・1987年の映画館名簿では「桐生東映劇場・桐生東映プラザ劇場」(2館)。1986年の映画館名簿では経営会社が東興映画、経営者が松香修、支配人が影山毅、東映劇場が鉄筋造2階で224席で東映を上映、東映プラザが鉄筋造4階で224席で洋画を上映。1988年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「セブンイレブン西桐生駅前店」。最寄駅は上毛電気鉄道上毛線西桐生駅。

1946年12月31日、桐生市に「両毛劇場」(桐生東映)が開館した。*27

桐生市宮前町2丁目1の「チトセ劇場」。1946年12月31日に「両毛劇場」として開館し、後に「チトセ劇場」に改称した。さらに「桐生東映劇場」に改称し、戦後の第1回桐生市成人式会場にもなった。昭和30年代には時代劇が流行し、その後には渡世ものが受けたが、テレビの普及で衰退した。1981年に閉館してカフェとうえいとなったが、2012年現在の跡地にはセブンイレブンが建っている。*28

桐生市宮前町2-1713の東映上映館「東映映画劇場」。1946年12月31日開館。1960年1月現在の代表者は田辺志加である。収容人員は800人。*29
桐生国際劇場/桐生日活国際劇場/桐生日活国際/桐生国際
所在地 : 群馬県桐生市泉町264(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年)、群馬県桐生市仲町2-529(1980年)、群馬県桐生市仲町2-5-29(1985年・1986年・1987年)
開館年 : 1956年7月13日
閉館年 : 1987年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「桐生国際劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「桐生日活国際劇場」。1966年の住宅明細図では「桐生国際劇場」。1970年の住宅地図では「桐生国際劇場」。1973年・1975年の映画館名簿では「桐生日活国際」。1980年・1985年・1986年・1987年の映画館名簿では「桐生国際」。1984年の住宅地図では「桐生国際劇場」。1986年の映画館名簿では経営者が蜂巣伊佐雄、支配人が蜂巣和彦、木造1階、328席、にっかつ・松竹・洋画を上映。1988年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は有料駐車場「桐生国際駐車場」。最寄駅はJR両毛線桐生駅。

1954年7月13日、桐生市に「国際劇場」が開館した。*30

1956年7月13日、桐生市泉町264に大映封切館「桐生国際劇場」が開館した。総工費1000万円。木造モルタル平屋建て。建坪150坪。座席360。横20尺×縦14尺のワイドスクリーン。館内の壁面は音響効果を上げるために波状となっている。経営は蜂巣伊佐雄社長の桐生蜂巣興業。支配人は蜂巣和彦。*31

桐生市泉町264の「桐生国際劇場」。1954年7月13日に創業して大映作品を上映した。1987年に廃館となり、2012年現在の跡地は国際パーキングとなっている。*32

桐生市泉町264の大映上映館「国際劇場」。1954年7月13日開館。1960年1月現在の代表者は蜂巣伊佐雄である。収容人員は500人。*33
桐生東宝映画劇場/桐生オリオン座/桐生オリオン
所在地 : 群馬県桐生市宮本町(1947年)、群馬県桐生市宮本町1316(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年)、群馬県桐生市宮本町1-6-14(1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年)
開館年 : 1947年
閉館年 : 2003年4月29日
『全国映画館総覧 1955』によると1952年8月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「桐生東宝映劇」。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「桐生東宝映画劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「桐生オリオン座」。1966年の住宅明細図では「桐生オリオン座」。1970年の住宅地図では「桐生オリオン座」。1973年の映画館名簿では「桐生オリオン」。1975年の映画館名簿では「桐生オリオン座」。1980年の映画館名簿では「桐生オリオン」。1984年の住宅地図では「桐生オリオン座」。1985年・1990年の映画館名簿では「桐生オリオン座」。1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「桐生オリオン」。2002年の映画館名簿では木造1階、402席、野中興業株式会社、洋画を上映。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「桐生第一高等学校職員専用駐車場」。最寄駅はJR両毛線桐生駅。

1889年11月25日、桐生町に芝居小屋「桐座」(オリオン座)が開館した。*34

桐生市宮本町1316の日活上映館「オリオン座」。1947年開館。1960年1月現在の代表者は蜂巣伊佐雄である。収容人員は1500人。*35

2003年4月21日の『上毛新聞』には「桐生オリオン」が4月29日をもって閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*36
能楽館/桐生能楽館/桐生能楽館1・2/桐生能楽館1・2・3
所在地 : 群馬県桐生市泉町(1930年・1934年)、群馬県桐生市泉町806(1936年・1941年)、群馬県桐生市泉町(1943年)、群馬県桐生市泉町806(1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年)、群馬県桐生市仲町1-12-40(1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年)
開館年 : 1911年2月
閉館年 : 2003年5月
『全国映画館総覧 1955』によると1912年8月開館。1930年・1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「能楽館」。1943年・1947年の映画館名簿では「桐生能楽館」。1950年・1953年の映画館名簿では「能楽館」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「桐生能楽館」。1966年の住宅明細図では「能楽館」。1970年の住宅地図では「桐生能楽館」。1980年・1985年の映画館名簿では「桐生能楽館1・2」(2館)。1984年の住宅地図では「能楽館」。1990年・1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「桐生能楽館1・2・3」(3館)。2002年の映画館名簿では鉄筋造1階と木造2階、200席と140席と110席、野中興業株式会社、邦画・洋画を上映。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はアパート「レオパレスアルファ&ベーターコート」。最寄駅はJR両毛線桐生駅。

1907年8月4日、桐生町に能舞台「能楽館」が開館した。*37

桐生町初の活動写真館「電気館」の成績がよかったため、1915年2月には「能楽館」(のうらくかん)が開館した。当初は能楽(のうがく)や能狂言などに用いられた貸席だったが、一部を改築して映画館となった。当時の桐生町では1日と15日と日曜が送電休止日であり、電気ではなくアセチレンガスを用いて映写を行ったため、ガス映写の際には画面が暗かった。1日と15日には工場が休業するため、職工慰安の為に入場料が割引となった。*38

桐生市仲町1丁目12-40の「能楽館」(のうらくかん)。能楽が盛んだったことで能楽館が建てられ、能楽や謡曲会の合間に興行を行った。斎藤庄平、森晋一郎、塚本武平、高橋準太郎、島田安太郎、松井仙太郎、前原良太郎らが出資した合資会社である。1915年2月5日に館内を改装して活動上映館となり、主として洋画を上映した。1996年には3館の映画館となったが、2003年に閉館した。2012年現在の跡地にはレオパレスが建っている。*39

桐生市泉町806の洋画館「能楽館」。1911年2月開館。1960年1月現在の代表者は福田猛であり、株式会社である。収容人員は800人。*40

明治期の桐生は織物業で好景気となり、江戸時代には武家が専有していた能の人気が高まった。1907年8月4日には能専用劇場「能楽館」の舞台開きが行われ、東京から小鼓幸清次郎が来演した。桐生の能楽は小樽・函館・金沢・東京・横浜などと並ぶ地盤を有するようになった。*41

2003年3月30日の『上毛新聞』には「能楽館」が5月限りで閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*42

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