日本の映画館の総合データベースです。


神戸市

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姫路市

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尼崎市

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西宮市

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明石市

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加古川市

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宝塚市

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伊丹市

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豊岡市

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阪神間

芦屋市

芦屋会館
所在地 : 兵庫県芦屋市茶屋町56(1953年・1955年)、兵庫県芦屋市茶屋之町56(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1950年4月15日
閉館年 : 1970年11月30日
『全国映画館総覧 1955』によると1949年4月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「芦屋会館」。1957年の全産業住宅案内図帳では「芦屋会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は美容院「アトリエクロエ」。最寄駅はJR神戸線芦屋駅。

映画監督の大森和樹と小説家の村上春樹は芦屋市で生まれ育った。村上春樹は芦屋会館でジェームズ・ボンドの3本立を観たことがあるという。*1

芦屋市茶屋之町には芦屋市唯一の映画館「芦屋会館」があった。1950年当時の芦屋市には娯楽施設がなかったことから、愛市会と近隣商店街の協力で同年4月15日に開館した。1951年に『細雪』を上映した際には、一日に3000人もの観客が集まって長い行列を作った。1952年に株式会社化したが、1959年頃から経営難となり、1970年11月30日に閉館した。「アシカン」と呼ばれて親しまれた。*2

1950年には芦屋市茶屋之町に映画館「芦屋会館」が開館した。写真あり。*3

川西市

新町映劇/新町シネマ/川西新町映劇
所在地 : 兵庫県川西市小花大畑(1958年)、兵庫県川西市小花大畑28(1960年)、兵庫県川西市小花大畑(1963年)、兵庫県川西市小花大畑28(1966年・1967年・1968年・1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1971年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「新町映劇」。1958年の映画館名簿では経営者が阪神土地興業、支配人が山内一、鉄筋造2階冷暖房付、定員452、上映系統が記載なし。1963年の映画館名簿では「新町シネマ」。1966年・1967年・1968年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「川西新町映劇」。1968年の映画館名簿では経営者が近畿興業、支配人が清水武一、木造1階冷暖房付、定員360、洋画を上映。1972年の映画館名簿には掲載されていない。
川西東映/池田川西座/川西座
所在地 : 兵庫県川辺郡川西村字行人塚(1927年)、兵庫県川辺郡川西町字行人塚(1930年)、兵庫県川辺郡川西町行人塚(1934年)、兵庫県川辺郡川西町(1936年)、兵庫県川辺郡川西町行人塚(1941年)、兵庫県川辺郡川西町(1943年)、兵庫県川辺郡川西町行人塚(1947年)、兵庫県川辺郡川西町(1950年・1953年)、兵庫県川西市(1955年)、兵庫県川西市小戸町17(1958年)、兵庫県川西市小戸(1960年・1963年)、兵庫県川西市小戸行人塚17(1966年・1967年)、兵庫県川西市小戸(1980年・1985年・1986年)
開館年 : 1927年以前
閉館年 : 1986年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「川西座」。1930年の映画館名簿では経営者が井上梅松、支配人が福岡正雄、定員468、帝国キネマを上映。1950年の映画館名簿では経営者が池方テツ、木造2階、定員160、松竹を上映。1958年・1960年の映画館名簿では「川西東映」。1958年の映画館名簿では経営者が池方てつ、支配人が水野次郎、木造3階冷暖房付、定員400、東映を上映。1963年の映画館名簿では「川西座」。1966年・1967年の映画館名簿では「池田川西座」。1967年の映画館名簿では経営者が近畿興業、支配人が水野次朗、木造2階冷暖房付、定員300、松竹・東宝・大映を上映。1968年・1969年・1971年・1973年・1976年・1978年・1979年の映画館名簿には掲載されていない。1980年・1985年・1986年の映画館名簿では「川西座」。1986年の映画館名簿では経営会社が近畿興業、経営者が池方司郎、支配人が清水武栄、木造1階、定員130、にっかつ・成人映画を上映。1987年の映画館名簿には掲載されていない。閉館後に「阪神高速11号池田線」の道路用地となった。最寄駅は阪急電鉄・能勢電鉄川西能勢口駅。

1910年現在の池田町には箕面有馬電鉄池田停留所がある。池田町周辺の劇場として「川西座」、「呉服座」、「明治座」がある。*4

1914年には箕面有馬電気軌道能勢口駅の駅前で、池田町の北田栄太郎によって鶴之荘住宅地の開発が始まった。これを機に呉服橋の西詰から能勢口駅にかけて市街地が形成され、北田が新築した劇場「川西座」もあった。川西座の定員は700人であり、猪名川対岸の池田町にあった「呉服座」に次ぐ規模だった。川西座の開館年は判然としない。*5

池方精機工業KK社長の池方福市。住所は兵庫県川西市花屋敷。第一商事KK社長として「第一映画劇場」(大阪府池田市)、「中央映劇」(大阪府池田市)、「豊中松竹」(大阪府豊中市)、「川西東映」(兵庫県川西市)を経営。*6

三田市

布袋座
所在地 : 兵庫県有馬郡三田町
開館年 : 不明
閉館年 : 不明
映画館ではなく演劇場。跡地は「神戸地方法務局三田出張所」東北東70mの民家。最寄駅はJR宝塚線・神戸電鉄三田線三田駅。

三田町の桜の馬場から東に向かって突き当たった武庫川河畔に、大衆娯楽の殿堂「布袋座」があった。播州歌舞伎、浪花節、新派劇、柔道や剣道の試合、舞踏会などが開催された。建物は木造2階建てであり、廻り舞台や花道や桝席、警官詰所や中茶屋などがあった。北摂では池田町の「呉服座」とともに知られていた。やがて布袋座は氷上郡成松町に移築され、「成松劇場」として営業を再開したとされるが、成松劇場も1965年頃に閉鎖されて取り壊された。*7

1981年に刊行された『明治末期の三田』には「明治末期の三田町市街図」が掲載されており、桜の馬場と武庫川の間の道路西側に「ほてい座」が描かれている。*8
三輪映画劇場/三輪映劇/三映劇場
所在地 : 兵庫県有馬郡三輪町(1955年)、兵庫県有馬郡三田町(1958年)、兵庫県三田市三田町(1959年・1960年)、兵庫県三田市三田町(1961年※三輪映劇)三田町高次48(1961年※三映劇場)、兵庫県三田市三田町高次48(1962年)
開館年 : 1950年7月
閉館年 : 1959年12月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1955年の映画館名簿では「三輪映劇」。1958年の映画館名簿では「三輪映画劇場」。1959年・1960年の映画館名簿では「三輪映劇」。1961年の映画館名簿には「三輪映劇」と「三映劇場」が重複して掲載されている。1961年の映画館名簿における三輪映劇は経営者が辻成晃、支配人が池田茂一郎、木造1階、定員300、邦画・洋画を上映、電話が三田237。1961年の映画館名簿における三映劇場は経営者・支配人ともに南中健治、構造が記載なし、定員が記載なし、上映系統が記載なし。1962年の映画館名簿では「三映劇場」。1962年の映画館名簿では経営者・支配人ともに南中健治、構造が記載なし、定員が記載なし、上映系統が記載なし、電話が三田237。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では跡地に「三栄会館 三栄デパート」。跡地はマンション「ルネ三田駅前ハートシティ」建物南東端部。最寄駅はJR宝塚線・神戸電鉄三田線三田駅。

1947年11月28日に三田町の「三田劇場」が焼失した後、三輪町の駅前工業会所有会館に仮劇場が置かれていた。1949年8月1日には三田町に三田劇場が再建されたが、1950年7月には三輪町の仮劇場も改装されて「三映劇場」が開館した。定員は200人。これによって三田町と三輪町それぞれに映画館ができた。*9

1947年11月28日に三田町の「三田劇場」が被災したことで、三輪町の駅前工業会所有会館(工業会館か)に仮劇場が置かれた。広野村会議長の南中健治が尼崎信用金庫の依頼で買収し、1950年7月に定員200人の「三映劇場」が開館した。三映劇場は新東宝・日活・洋画を上映した。1959年12月には三映劇場が閉館し、跡地に鉄筋コンクリート造3階建ての三栄会館が建設された。1階には食品スーパーのサンエー、2階には洋食店・理髪店・美容室・耳鼻科・スポーツ店が入った。1964年2月には隣接地を買収し、1967年には5階建ての増築が完了した。1階と2階には衣料品店が、3階にホテル三栄が、4階に結婚式場が入っていた。三田市初の5階建てビルであり、エレベーターや水洗トイレも三田市初だった。1階に入っていた食品スーパーのサンエーが移転するなどし、1977年には三栄会館の全館が閉店した。建物は不動産会社に売却されたが、2014年現在も現存して再開発を待っている。*10

1957年の三田市の都市計画図。「三田劇場」と「三映劇場」の場所に「映」の字が描かれている。*11
三田劇場/三田映劇/三田映画劇場
所在地 : 兵庫県有馬郡三田町川添三田(1930年)、兵庫県有馬郡三田町川添(1934年)、兵庫県有馬郡三田町(1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1955年)、兵庫県有馬郡三田町462-1(1958年)、兵庫県三田市三田町462-1(1960年・1961年・1962年・1963年)、兵庫県三田市三田町4162-1(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1925年、1949年8月1日(再建)
閉館年 : 1947年11月27日(焼失)、1972年1月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1955年・1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「三田劇場」。1962年の映画館名簿では「三田映劇」。1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「三田映画劇場」。1970年の映画館名簿では経営者・支配人ともに竹山雅庸、木造2階冷房付、定員550、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では跡地に「竹山産業パーキング」。跡地は「さんだサンライズホテル」北北東20mの立体駐車場「相生スカイパーク」。最寄駅は神戸電鉄三田線三田本町駅。

1947年11月28日、三田町相生町の有馬木製品工業が全焼し、「三田劇場」など7軒も類焼した。死傷者はいなかったが、建物には相当な損害が出た。*12

1949年の三田市にあった「三田劇場」の写真あり。改築された際の写真であり、劇場の2階まで花束が並べられた。正月には行列が相生橋まで続いたこともあった。*13

1947年11月28日未明、有馬木製品工業の火災が延焼して、三田町相生の相生橋のたもとにあった「三田劇場」が全焼した。1925年に有馬郡唯一の常設娯楽文化施設として建てられた。三田劇場の焼失後、三輪町の駅前工業会所有会館に仮設劇場が置かれていたが、三輪町と三田町の間で劇場の再建場所を巡る争いが起こった。1948年10月23日には三田町議会に三田劇場を再建する件が上程され、町を挙げて復興に協力することを満場一致で可決した。兵庫県が三田町の申し出を認可したことで、1949年8月1日には三田劇場が再建された。工費は750万円。定員は600人。*14

1925年には三田町の相生通に「三田劇場」が開館し、岡田新吉郎が経営していた。1947年11月28日に被災したが、1953年8月1日、三田劇場が再建されて開館した。*15

1957年の三田市の都市計画図。「三田劇場」と「三映劇場」の場所に「映」の字が描かれている。*16

『目で見る 三田・丹波の100年』郷土出版社、1994年は「三田劇場」に言及している。現物は未確認。*17
三田フローラシアター
所在地 : 兵庫県三田市弥生ケ丘1-1-1(1989年)、兵庫県三田市弥生ケ丘1-1-1 フローラ88ショッピングセンター(1990年)、兵庫県三田市弥生ケ丘1-1-1(1992年・1995年・2000年・2002年)
開館年 : 1988年3月18日
閉館年 : 2002年頃
1988年の映画館名簿には掲載されていない。1989年・1990年・1992年・1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「三田フローラシアター」。2002年の映画館名簿では鉄筋造3階、80席、経営会社が株式会社北摂コミュニティ開発センター、経営者が高津幹男、支配人が畑中文博、邦画・洋画を上映。2003年の映画館名簿には掲載されていない。1スクリーン80席のビデオシアター。建物のフローラ88ショッピングセンターは現存。最寄駅は神戸電鉄公園都市線フラワータウン駅。
ワーナー・マイカル・シネマズ三田ウッディタウン/イオンシネマ三田ウッディタウン
所在地 : 兵庫県三田市けやき台1-6-4 三田ウッディタウンサティ二番街(2002年・2005年・2010年)、兵庫県三田市けやき台1-6-4 イオン三田ウッディタウン店2番街2階(2012年・2015年・2020年)
開館年 : 2000年11月
閉館年 : 営業中
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2002年・2005年・2010年・2012年の映画館名簿では「ワーナー・マイカル・シネマズ三田ウッディタウン1-7」(7館)。2015年・2020年の映画館名簿では「イオンシネマ三田ウッディタウン1-7」(7館)。最寄駅は神戸電鉄公園都市線ウッディタウン中央駅。

川辺郡猪名川町

映画館名簿によると猪名川町に映画館はなかったと思われる。

東播磨地域

高砂市

文化クラブ/曽根太陽劇場
所在地 : 兵庫県印南郡曽根町2284(1952年・1953年)、兵庫県印南郡曽根町(1954年・1955年)、兵庫県高砂市曽根町2284(1958年・1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1954年の映画館名簿では「文化クラブ」。1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「曽根太陽劇場」。1965年の映画館名簿では経営者が吉岡興行、支配人が加納三次、木造1階冷暖房付、定員270、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
清栄館
所在地 : 兵庫県加古郡高砂町清水町(1936年)、兵庫県加古郡高砂町清水町1484(1941年)、兵庫県加古郡高砂町清水町(1943年)、兵庫県加古郡高砂町(1947年・1950年)、兵庫県加古郡高砂町高砂(1953年)、兵庫県高砂市高砂(1955年)、兵庫県高砂市高砂清水町(1958年)、兵庫県高砂市高砂町清水(1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1934年以後1936年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「清栄館」。1965年の映画館名簿では経営者が吉岡興行、支配人が野道幸春、鉄筋造2階冷暖房付、定員387、洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に「高砂ししゅう学院 (株)ユニセブン 三井生命」「茶房スマイル」。1983年の住宅地図では跡地に「スタンドバースマイル」「(株)ユニセブン」「今津重孝」。1992年の住宅地図では跡地に「シモカワファッションガーメント第3工場」。建物は有限会社明石屋不動産が所有する焼酎バー「セイエイカン」として現存。最寄駅は山陽電鉄本線高砂駅。

このほど、高砂市にある旧映画館「清栄館」の建物が、事務所兼住宅として生まれ変わった。約100年前に建築され、1960年代まで映画館として営業していたという。ブラウス工場だった時期もあったが、この10年ほどは廃墟となっていた。高砂市高砂町清水町1484-1。鉄骨鉄筋コンクリート造、3階建(一部地下室)。延床面積約590m2。*18

このほど、高砂市高砂町清水町にロケ設備「エミュ・カシェット」がオープンした。運営は写真館を経営するエミュ。建物はかつての映画館「清栄館」であり、戦前に竣工した鉄骨鉄筋コンクリート造3階建ての建物である。*19
高砂座/東照館/高砂東照館
所在地 : 兵庫県加古郡高砂町(1930年)、兵庫県加古郡高砂町南町(1934年)、兵庫県加古郡高砂町南本町(1936年)、兵庫県加古郡高砂町(1941年・1950年)、兵庫県加古郡高砂町南本町(1953年)、兵庫県高砂市南本町(1955年)、兵庫県高砂市南本町877(1958年)、兵庫県高砂市高砂町南本町(1960年・1963年・1965年)、兵庫県高砂市南本町877(1966年・1969年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿では「高砂座」。1934年の映画館名簿では「日の出館」。1936年・1941年の映画館名簿では「高砂座」。1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「東照館」。1965年の映画館名簿では経営者が吉岡興行、支配人が寺尾重範、木造2階冷暖房付、定員470、日活・松竹を上映。1966年・1969年の映画館名簿では「高砂東照館」。1969年の住宅地図では「東照館」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。1983年・1992年の住宅地図では跡地に「駐車場」。跡地は「シャーメゾン桔梗」。最寄駅は山陽電鉄本線高砂駅。
高砂東映/高砂相生座/相生座
所在地 : 兵庫県加古郡高砂町(1925年・1927年)、兵庫県加古郡高砂町南町(1934年)、兵庫県加古郡高砂町細工町(1936年・1943年・1947年・1950年・1953年)、兵庫県高砂市細工町(1955年)、兵庫県高砂市細工町1343(1958年・1960年)、兵庫県高砂市高砂町細工(1963年)、兵庫県高砂市高砂町細工1343-1(1966年・1969年)、兵庫県高砂市高砂町細工1343(1973年・1975年)、兵庫県高砂市高砂町細工町1348(1978年・1980年・1981年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1981年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1925年の映画館名簿では「相生館」。1927年の映画館名簿では「相生座」。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「相生座」。1960年の映画館名簿では「高砂東映」。1963年の映画館名簿では「相生座」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「高砂相生座」。1969年・1974年の住宅地図では「相生座東映」。1970年の映画館名簿では経営者・支配人ともに岡田圭右、鉄筋造2階冷暖房付、定員286、大映・東映を上映。1975年・1978年・1980年・1981年の映画館名簿では「相生座」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。1983年・1992年の住宅地図では跡地に「駐車場」。跡地は「善立寺」北西60mにある居酒屋「千尋」とその東の民家。最寄駅は山陽電鉄本線高砂駅。

1956年1月13日午前2時50分頃、高砂市の「相生座」から出火して建物・映写設備・プリントなどを焼いた。経営者は吉岡興行、支配人は大島清一。木造2階建て、78坪。漏電が原因とみられ、損害は約1000万円。*20

活弁士の井上陽一は兵庫県姫路市神屋町出身であり、高砂市の「相生座」で映写技師を務めた後、活弁士の浜星波(せいは)に師事して1979年5月に独立した。*21

加古郡稲美町

映画館名簿によると稲美町に映画館は存在しなかったと思われる。

加古郡播磨町

映画館名簿によると稲美町に映画館は存在しなかったと思われる。

北播磨地域

西脇市

蓬莱座/西脇東宝蓬莱座
所在地 : 兵庫県多可郡西脇町(1947年)、兵庫県多可郡西脇町114(1950年)、兵庫県多可郡西脇町西脇(1953年)、兵庫県西脇市西脇(1955年)、兵庫県西脇市西脇町(1958年)、兵庫県西脇市西脇町銀座通(1960年)、兵庫県西脇市銀座通114(1963年)、兵庫県西脇市西脇114(1966年)
開館年 : 1919年2月、1932年12月(建て替え)
閉館年 : 1967年9月11日
『全国映画館総覧 1955』によると1932年開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「蓬莱座」。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「蓬莱座」。1959年の全産業住宅案内図帳では「蓬莱座」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「西脇東宝蓬莱座」。1963年の住宅案内図帳では「蓬莱座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「兵庫県信用組合西脇支店」南東200mの集合住宅「コートグレース2番館」。最寄駅はJR加古川線新西脇駅。

1919年2月、株式会社蓬莱座が落成した。1931年3月、蓬莱座が全焼した。1932年12月、蓬莱座が再建落成した。1967年9月、蓬莱座が閉館した。*22

1919年2月1日、蓬莱座の落成式とこけら落とし公演が行われた。午前11時半から落成式を行い、正午12時から演劇公演が行われた。大正初期の蓬莱座の写真あり。1931年3月には蓬莱座が全焼したが、1万5000円を投じて再建された。1932年12月22日、細田兵庫県議会議員や衣川西脇警察署長など300余人を招待して落成式が行われた。落成式の日から5日間、関西歌舞伎の片岡秀郎・嵐橘香・片岡門童・嵐佳笑などの一座を招待し、すべて新調した舞台道具で華々しくこけら落とし公演を行った。周辺住民は巨大建築物の火事にこりて再建に反対していたが、建物の周囲にコンクリートの防火塀を立てることで協議が決着した。1967年9月11日、蓬莱座が閉館した。西脇区が中心となって開館させた劇場であり、半世紀近くに渡って西脇の町に娯楽を提供した。*23

1931年に「蓬莱座」が火災に遭う前、西脇婦人会による敬老会の記念写真あり。「大歌舞伎」の看板が見える。蓬莱座の1階と2階では座席料金が異なっていた。ざぶとんや火鉢は別料金を払って借りることができた。*24

1967年頃の映画館「蓬莱座」の写真あり。「西脇東宝HORAIZA」「蓬莱座」の文字が見える。1995年現在も蓬莱座のコンクリート防火塀の一部が残存。*25
西脇東映/西脇銀映
所在地 : 兵庫県西脇市戎町179(1958年・1960年)、兵庫県西脇市戎町(1963年・1966年・1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1960年3月
閉館年 : 1971年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「西脇東映」。1959年の全産業住宅案内図帳では「銀映」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「西脇銀映」。1963年の住宅案内図帳では「西脇銀映」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「皇太神宮社」北東180mの駐車場。最寄駅はJR加古川線新西脇駅。

1960年3月、西脇で5番目の映画館として「銀映」が開館した。*26
寿座/西脇寿座
所在地 : 兵庫県多可郡西脇町(1941年・1943年・1947年)、兵庫県多可郡西脇町950(1950年)、兵庫県多可郡西脇町西脇(1953年)、兵庫県西脇市西脇(1955年)、兵庫県西脇市北本町947(1958年)、兵庫県西脇市北本町(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年)
開館年 : 1926年2月
閉館年 : 1984年6月1日
『全国映画館総覧 1955』によると1925年10月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「寿座」。1959年の全産業住宅案内図帳では「寿座」。1963年の住宅案内図帳では「寿座」。1966年・1969年・1973年・1980年の映画館名簿では「西脇寿座」。1973年・1980年の住宅地図では「寿座」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「北本町公民館」北東40mの「第一不動産月極駐車場」。最寄駅はJR加古川線新西脇駅。

1926年2月、株式会社寿座が落成した。1984年6月、寿座が閉館した。*27

1922年1月28日、西脇町の駅前に西脇館が竣工した。午後1時から開館式が行われ、西村兵庫県議会議員・橋本多可郡長・来住西脇町長・松町西脇駅長などが祝辞を述べた。午後2時からは来賓や株主などによる大宴会が催された。1925年に寿座に組織替えしてから、半世紀以上に渡って西脇の町に娯楽を提供した。1984年6月1日、寿座が閉館した。*28

1935年頃の寿座の館内の写真あり。1階の観覧席は枡席であり、弁当・料理・一升瓶持参の観客が見える。*29

西脇市北本町890の「寿座」。設計者や施工者は記載なし。構造は木造1階建。竣工年は1926年。解体済。*30
西脇映画劇場/西脇映劇
所在地 : 兵庫県多可郡西脇町西脇1086(1950年)、兵庫県多可郡西脇町西脇(1953年)、兵庫県西脇市西脇(1955年)、兵庫県西脇市西本町3丁目(1958年)、兵庫県西脇市南本町2(1960年)、兵庫県西脇市南本町2(1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1982年)
開館年 : 1946年8月1日
閉館年 : 1982年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「西脇映画劇場」。1953年の映画館名簿では「西脇映劇」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「西脇映画劇場」。1959年の全産業住宅案内図帳では「西脇映画劇場」。1963年の住宅案内図帳では「西脇映画劇場」。1973年・1980年の住宅地図では「西脇映画劇場」。1980年・1982年の映画館名簿では「西脇映劇」。1982年の映画館名簿では経営者が高尾常松、支配人が神子田徳太郎、木造1階、470席、にっかつ・成人映画を上映。1983年の映画館名簿には掲載されていない。「西映」とも。跡地は「ファミリーマート西脇南本町店」の北150mの「レオパレスユニコム弐番館」。最寄駅はJR加古川線新西脇駅。

1946年8月、西脇映画劇場が開館した。蓬莱座と寿座に次いで西脇で3番目の映画館である。*31

1946年8月1日、西脇映画劇場が開館した。蓬莱座と寿座に次いで西脇で3番目の劇場である。当初は12人の出資者によって運営されていたが、やがて実権は中心人物の高尾常松に移行していった。1958年4月18日、高尾は隣接地に鉄骨造3階建ての西脇大劇を開館させた。1960年3月1日、高尾は西脇銀映を買収し、西脇において映画館3館の経営者となった。テレビの普及で映画業界が下火になったため、西脇映画劇場と西脇銀映は閉館して取り壊され、現在は西脇大劇のみが残っている。*32
西脇大劇東映/西脇大劇/西脇大劇1・2
所在地 : 兵庫県西脇市西脇町(1960年)、兵庫県西脇市南本町2(1963年)、兵庫県西脇市南本町2-1034(1966年・1969年)、兵庫県西脇市南本町2(1973年・1980年・1985年・1990年)、兵庫県西脇市西脇1034(1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1958年
閉館年 : 2007年10月28日
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「西脇大劇東映」。1959年の全産業住宅案内図帳では「西脇大劇」。1963年の住宅案内図帳では「西脇大劇」。1973年の住宅地図では「西脇大劇」。1980年の映画館名簿では「西脇大劇」。1980年の住宅地図では「西脇大劇 2階西脇時報社・ハリマトラベルセンター」。1985年・1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「西脇大劇1・2」(2館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。西脇市初の鉄筋コンクリート造映画館。西脇市・北播地方最後の映画館。跡地は「西脇中本町郵便局」南南西140mの更地。最寄駅はJR加古川線新西脇駅。

1958年4月、西映の北側に鉄筋コンクリート造3階建ての西脇大劇が開館した。*33

西脇市にあった映画館の写真あり。手前に「西脇映画劇場」、奥に「西脇大劇」と並んでいる。*34

フリーペーパーの『へそまち文化新聞』第4号、2018年10月5日には、「特集 織都と銀幕 織物の都の映画館全盛時代とその映画文化」という記事が掲載されている。現物は未確認。*35

三木市

吉川文化会館
所在地 : 兵庫県美嚢郡吉川町渡瀬42-1(1960年)、兵庫県美嚢郡吉川町渡瀬(1963年)、兵庫県美嚢郡吉川町渡瀬42-1(1966年・1968年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1968年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「吉川文化会館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
昭和キネマ/三木昭映/三木昭映館
所在地 : 兵庫県美嚢郡三木町(1930年・1934年)、兵庫県美嚢郡三木町福井(1936年)、兵庫県美嚢郡三木町(1941年)、兵庫県美嚢郡三木町福井(1943年・1947年)、兵庫県美嚢郡三木町(1950年)、兵庫県美嚢郡三木町福井(1953年)、兵庫県三木市福井(1955年)、兵庫県三木市三木町福井(1958年・1960年)、兵庫県三木市三木町清水町(1963年)、兵庫県三木市本町3-7-26(1966年・1969年)
開館年 : 1929年
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1929年開館。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「昭和キネマ」。1955年の映画館名簿では経営者が高田朝次、支配人が高田政孝、木造2階、定員550、松竹・東宝を上映。1960年・1963年の映画館名簿では「三木昭映」。1966年・1969年の映画館名簿では「三木昭映館」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「尾上流日本舞踊稽古場」。最寄駅は神戸電鉄粟生線三木駅。

1938年の『三木』(播州三木要覧)には鳥観図「播磨三木要覧」が掲載されており、「大正館劇場と「昭和キネマ」が描かれている。*36

三木市にあった映画館「昭和キネマ」のチラシあり。『新しき天』などが描かれている。昭和初期に映画専門館として開館し、「大正館」や「銀映」よりも早かったとされる。時代の流れに押されて閉館し、三木市から劇場や映画館が消えた。*37

1928年、三木町の丸一町に映画専門館「昭和キネマ」が開館した。不便な場所ではあったが、戦後に「三木映劇」が開館するまでは三木町で唯一の映画館だったためにぎわった。1階は椅子席、2階は階段式の座敷であり、2階は料金が高かった。戦後に『愛染かつら』が再映された際には、階段の手すりの上まで観客がいるほどの超満員だった。*38

善福寺の西の路地を抜けると三木ネツレンの工場跡地に出る。工場跡地西側の宝来湯にはさらに路地が通じており、右に曲がると清水の洗濯場からの流れに蓋をした路地となる。ここは映画館「昭和キネマ」に通じており、路地を通るものも多かった。昭和キネマの一部はスーパーとなったが、1983年現在は閉店している。*39

『三木商工名鑑 1951年版』には映画館として「昭和キネマ」が掲載されており、経営者は高田朝次、住所は三木町丸一、電話は270と440である。映画劇場として「三木映画劇場」が掲載されており、経営者は岡田新吉郎、住所は三木町宮前、電話は463である。*40
三木銀映/三木日活銀映
所在地 : 兵庫県三木市三木町福井(1958年・1960年・1963年)、兵庫県三木市本町3-7-26(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1970年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「三木銀映」。1969年・1970年の映画館名簿では「三木日活銀映」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「旧小河家別邸」北北東60mにある民家。最寄駅は神戸電鉄粟生線三木駅。
大正館/三木映劇/三木映画劇場/三木東映/三木東映劇場
所在地 : 兵庫県美嚢郡三木町(1950年)、兵庫県美嚢郡三木町宮前町(1953年)、兵庫県三木市宮前町(1955年)、兵庫県三木市三木町福井1332(1958年)、兵庫県三木市三木町福井(1960年・1963年)、兵庫県三木市本町3-7-26(1966年・1969年・1970年・1972年)
開館年 : 1915年、1947年5月
閉館年 : 1972年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年5月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「三木映画劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「三木映劇」。1955年の映画館名簿では経営者が岡田新吉郎、支配人が神子田徳太郎、木造2階、定員500、混合を上映。1957年・1958年の映画館名簿では「三木映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「三木東映」。1966年・1969年・1970年・1972年の映画館名簿では「三木東映劇場」。1972年の映画館名簿では経営者・支配人ともに岡田圭介、木造2階冷暖房付、定員650、邦画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「旧小河家別邸」北東80mにある10軒分の民家。最寄駅は神戸電鉄粟生線三木駅。

1938年の『三木』(播州三木要覧)には鳥観図「播磨三木要覧」が掲載されており、「大正館劇場と「昭和キネマ」が描かれている。*41

『三木商工名鑑 1951年版』には映画館として「昭和キネマ」が掲載されており、経営者は高田朝次、住所は三木町丸一、電話は270と440である。映画劇場として「三木映画劇場」が掲載されており、経営者は岡田新吉郎、住所は三木町宮前、電話は463である。*42

大宮神社の参道西側にある宮前町は歓楽街であり、核として「大正館」がある。かつて三木町には栄町の「福助座」、明石町の「戎座」などの芝居小屋があったが、戦後まで残ったのは大正館のみである。正月興行には鈴木澄子らの有名劇団が訪れ、その他の時期には女剣劇、ドサ周りの一座、漫才、浪曲などの興行が行われた。1949年から1950年頃には館主が変わって映画館「三木映劇」となり、丸一町の「昭和キネマ」と競合関係にあった。やがて東映の時代劇の全盛期を迎え、「三木東映」に改称した。東映を上映するようになって勢いを得て、隣接地に「三木銀映」を建てた。1983年現在の大正館跡地はモータープールとなっている。*43

1915年の美嚢郡三木町の明石町にあった「大正館」の写真あり。創設者のひとりである三宅貫太郎が神戸から嵐岩笑一座を招いてこけら落としを行った際の写真である。やがて映画館化して邦画専門館となり、隣接する洋画専門館の「銀映」と並んで賑わった。テレビの普及とともに閉館し、1981年現在はガレージとなっている。*44

1913年に播州鉄道が開業すると、同年には芝居小屋「大正館」の建設に着工し、1914年には完成した。地元有志の三宅貫太郎らが呼びかけ、久米要蔵と岸本磯次郎と進藤元次郎の三木町会議員3氏が世話人や株主となった。こけら落としには神戸から嵐岩笑一座が招かれた。建物は木造瓦葺き3階建て。1階は畳敷きの桝席であり、2階と3階にも客席があった。大宮八幡宮の参道に面する本町にあり、歌舞伎、人形浄瑠璃、芝居などの興行が行われた。地元はもちろん、東北播や西神などからも観客が訪れた。1928年には近くに「福介座」も開館したが、福介座は1932年に閉鎖されている。戦後には大正館が「三木東映」と洋画館「銀映」に変身し、昭和30年代初頭まで営業した。その後建物が取り壊され、2002年現在の跡地は住宅地となっている。*45

三木には「福介座」、「大正館」、「昭和キネマ」の3館の映画館があった。福介座と大正館は座敷席であり、昭和キネマは椅子席だった。昭和キネマではジョニー・ワイズミュラー主演の『類猿人ターザン』(1932年)などが上映された。1915年の大正館のこけら落としの際の写真あり。*46

戦前の三木にあった映画館のうち、「福介座」と「大正館」は座敷席であり、「昭和キネマ」は椅子席だった。戦後には淡路島から岡田某が大正館に来て「三木東映」に改称し、椅子席に変更して映画館とした。昭和30年代には三木東映の脇に「三木銀映」も開館した。戦後の三木には三木東映、三木銀映、「三木昭映」の3映画館があった。1959年4月10日付『神戸新聞』明美版「本日の映画案内」には三木東映、三木銀映、三木昭映の3館が掲載されている。*47

三木市の大宮八幡宮の参道に面した本町には、大正から昭和にかけて「大正館」があった。人形浄瑠璃や芝居が行われ、東北播や西神などからも観客が訪れた。1913年の播州鉄道開業を記念し、地元有志の三宅貫太郎らが建設を呼び掛けた。三木町会議員の久米要蔵、岸本磯次郎、進藤元次郎らが世話人や株主となって資金を集め、1913年に着工し、1914年に竣工した。1914年に開館した際の写真あり。こけら落としには神戸から嵐岩笑一座が招かれた。市川右団次の関西歌舞伎、人形浄瑠璃、喜劇芝居などの定期公演が行われた。1931年には第1回三木金物祭りのアトラクションである舞踊大会も行われた。建物は木造瓦葺の本格的な劇場であり、内部は3階までの吹き抜けとなっていた。1階は畳敷きで約100席の枡席であり、2階と3階にも一般客席があった。興行日以外には、敬老会、婦人会行事、村芝居などにも使用された。1928年には近くに芝居小屋「福介座」が開館したが、1932年には閉鎖されている。「戎座」は火災で焼失した。戦後の大正館は「三木東映」や洋画の「銀映」となり、昭和30年代初頭まで営業した。建物は取り壊され、2002年現在の跡地は住宅街となっている。*48

1914年、三木町に「大正館」が建てられた。三木町会議員の久米要蔵、明石町の岸本磯次郎、新藤元次郎らが株主となっている。昭和になると「三木東映」や「銀映」に改称して映画館となった。「昭和キネマ」という映画館も開館した。*49

小野市

福栄座
所在地 : 兵庫県加東郡小野町(1950年)、兵庫県加東郡小野町小野(1953年・1955年)、兵庫県小野市小野町(1958年・1960年)
開館年 : 江戸時代
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「福栄座」。1963年の全産業住宅案内図帳では「福栄座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「小野上本町郵便局」西80mにある民家。最寄駅は神戸電鉄粟生線小野駅。

1954年頃の映画館「福栄座」の写真あり。1963年頃に閉館した。1996年現在の上本町のスーパー付近にあった。*50

1954年頃の映画館「福栄座」の写真あり。*51
朝日館/小野朝日館
所在地 : 兵庫県加東郡小野町(1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年)、兵庫県加東郡小野町垂井(1953年・1955年)、兵庫県小野市神明町(1958年・1960年)、兵庫県小野市神明町82-7(1966年・1969年)
開館年 : 1928年
閉館年 : 1975年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1928年開館。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「朝日館」。1959年の全産業住宅案内図帳では「朝日館」。1966年・1969年の映画館名簿では「小野朝日館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図では確認できず。跡地はアパート「フェリシアガーデン」。最寄駅は神戸電鉄粟生線小野駅。

1954年頃の映画館「朝日館」の写真あり。神明町にあった。1975年頃に閉館した。*52

1954年頃の映画館「朝日館」の写真あり。*53

加西市

北条映画劇場
所在地 : 兵庫県加西郡北条町(1956年)、兵庫県加西郡北条町北条(1957年・1958年)、兵庫県加西郡北条町北条819-1(1960年)、兵庫県加西郡北条町北条(1963年)、兵庫県加西郡北条町(1964年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1964年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「北条映画劇場」。1961年の住宅案内図帳では「北映映画館」。1964年の映画館名簿では経営者が岡田守、支配人が田中義和、木造1階暖房付、定員270、松竹・洋画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「天理教加西分教会」東30mの駐車場。最寄駅は北条鉄道北条町駅。
住吉座/北条住吉座
所在地 : 兵庫県加西郡北条町(1943年・1947年・1950年)、兵庫県加西郡北条町北条(1953年)、兵庫県加西郡北条町(1955年)、兵庫県加西郡北条町北条(1958年)、兵庫県加西郡北条町(1960年・1963年)、兵庫県加西郡北条町北条2448(1966年)、兵庫県加西市北条町北条2448(1969年・1970年)
開館年 : 1919年
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「住吉劇場」。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「住吉座」。1950年の映画館名簿では経営者が北条劇場・川西清太郎、木造1階、定員350を上映。1955年の映画館名簿では経営者が吉岡興行、支配人が寺尾重範、木造2階、定員670、混合を上映。1961年の住宅案内図帳では「東宝映画館 住吉座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「北条住吉座」。1970年の映画館名簿では経営者が共和映画社、支配人が上野重盛、木造1階冷房付、定員435、邦画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「円融会研修センター」。最寄駅は北条鉄道北条町駅。

時期不明だが北条町にあった「住吉座」の写真あり。大正期の住吉座の館内の写真あり。1階席と2階席が見える。閉館間際の外観の写真あり。1919年に開館した加西郡唯一の常小屋だった。「北条劇場」と称していた時期もある。阪神間の新派劇や軽演劇などを上演し、戦後には映画館としてもにぎわった。1970年頃に閉館した。*54

加東市

滝野寿座
所在地 : 兵庫県加東郡滝野町(1956年・1958年・1960年)、兵庫県加東郡滝野町上滝野(1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「滝野寿座」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は兵庫県道17号滝野駅前交差点南東60mの「中華そば大橋専用駐車場」。最寄駅はJR加古川線滝野駅。
東条映画劇場
所在地 : 兵庫県加東郡東条町天神(1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1964年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「東条映画劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
佐保座/社大劇/社劇場
所在地 : 兵庫県加東郡社町(1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年)、兵庫県加東郡社町社(1966年・1969年)
開館年 : 1912年以前
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「佐保座」。1955年の映画館名簿では経営者が林忠夫、支配人が丸山幸一、木造2階、定員200。1960年の映画館名簿では「社大劇」。1960年の映画館名簿では経営者が林忠夫、支配人が丸山幸一、鉄筋2階暖房付、定員450、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年の映画館名簿では「社劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「兵庫県信用組合社支店」。最寄駅はJR加古川線社町駅。

1912年4月4日、加東郡の「社劇場佐保座」で東播電気株式会社の開業式が挙行され、数百人の来賓が出席した。社劇場佐保座は現在の社町の銀座通りにあった。

『保存版 北播磨今昔写真帖』郷土出版社、2007年、p.90に「佐保座から大劇へ」が掲載されている。現物は未確認。*55

多可郡多可町

中町映画劇場/中町映劇
所在地 : 兵庫県多可郡中村町(1953年・1955年)、兵庫県多可郡中町(1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1929年3月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1929年3月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「中町映劇」。1958年・1960年の映画館名簿では「中町映画劇場」。1963年・1964年の映画館名簿では「中町映劇」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
鍛冶屋劇場
所在地 : 兵庫県多可郡中町鍛冶屋(1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1965年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「鍛冶屋劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

中播磨地域

神崎郡福崎町

福崎劇場/福崎東洋劇場/福崎東洋映画劇場/福崎東洋映劇
所在地 : 兵庫県神崎郡福崎町(1951年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、兵庫県神崎郡福崎町福田411-1(1966年・1969年)、兵庫県神崎郡福崎町(1973年)、兵庫県神崎郡福崎町福田(1974年)
開館年 : 1950年頃
閉館年 : 1974年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1951年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「福崎劇場」。1963年の映画館名簿では「福崎東洋劇場」。1963年の住宅案内図帳では「東洋映画劇場 藤田洋行」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「福崎東洋映画劇場」。1973年の住宅地図では「東洋映劇」。1974年の映画館名簿では「福崎東洋映劇」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「福崎町立福崎小学校」北校舎の北120mの住宅地。最寄駅はJR播但線福崎駅。

神崎郡神河町

映画館名簿によると神河町に映画館は存在しなかったと思われる。

神崎郡市川町

映画館名簿によると神河町に映画館は存在しなかったと思われる。

西播磨地域

相生市

播磨劇場/播磨映画劇場/相生東映/相生東映播磨映画劇場
所在地 : 兵庫県相生市松ノ浦町(1950年)、兵庫県相生市松ノ浦(1953年)、兵庫県相生市松の浦(1955年)、兵庫県相生市相生松浦1829(1960年)、兵庫県相生市相生松ノ浦町(1963年)、兵庫県相生市旭1184(1966年)、兵庫県相生市相生1-2-27(1969年・1970年)
開館年 : 1918年5月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「播磨劇場」。1958年の映画館名簿では「播磨映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「相生東映」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「相生東映播磨映画劇場」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。

1942年の相生市にあった映画館「播磨劇場」の写真あり。相生港地区にあり、松浦氏が経営していた。造船所を訪れた軍艦の水兵などが見える。*56

1942年の「播磨劇場」の写真あり。1918年、造船所が厚生施設として播磨劇場を建設した。1926年8月7日に播磨劇場で行われた陪審法の模擬裁判の写真あり。映画館に転用されて「播磨映劇」となり、昭和30年代は東映の専門館だった。*57

1940年頃の相生市相生にあった「播磨劇場」で開催された出征軍人遺家族慰安会の写真あり。大正時代に造船所が播磨劇場を建設し、戦後には映画館「相生東映」に改称した。*58
相生館
所在地 : 兵庫県赤穂郡相生町相生(1936年・1941年)、兵庫県赤穂郡相生町(1943年)、兵庫県相生市2955(1950年)、兵庫県相生市955(1953年)、兵庫県相生市相生3955(1955年)、兵庫県相生市相生(1958年・1960年・1963年)、兵庫県相生市旭1184(1966年)、兵庫県相生市相生5-1-26(1969年・1972年)
開館年 : 1930年
閉館年 : 1972年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「相生館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1972年の映画館名簿では「相生館」。1972年の映画館名簿では経営会社が相生興行、経営者が小西喜代治、支配人が前田守、木造2階冷暖房付、400席、松竹・東映を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1973年のゼンリン住宅地図では相生5-1-26に「播●生協上町支部建設中」。1981年の住宅地図では跡地に「CO-OP相生支部」。跡地は「相生公民館」南東30mにある駐車場「相生公民館滴水庵専用駐車場」。最寄駅はJR山陽本線・赤穂線相生駅。

1942年3月の相生市にあった「相生館」の写真あり。*59

1942年3月25日の相生市にあった「相生館」の写真あり。1930年に建てられた。映画全盛期の相生市には「相生館」「播磨映劇」「旭館」の3映画館があった。1956年には3館すべてが相生興行の傘下に入り、旭館は邦画、播磨映劇は東映、相生館は洋画と邦画を上映した。*60

1930年の「相生館」開業の日の写真あり。1972年の相生館閉館前の写真あり。最盛期の相生市には3館の映画館があり、相生館は1930年から1972年まで営業した。閉館後の建物は播磨生協の店舗として使用され、コープこうべとなった後も店舗として使用された。2013年には耐震の問題でコープミニ相生みなと店が閉店し、取り壊されてからは相生公民館の駐車場となっている。*61
旭館/相生旭館
所在地 : 兵庫県相生市相生1184(1956年・1958年)、兵庫県相生市相生(1960年・1963年)、兵庫県相生市旭1184(1966年)、兵庫県相生市旭5-14-1(1969年・1973年・1976年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1975年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「旭館」。1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「相生旭館」。1973年のゼンリン住宅地図では「旭館」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。1981年の住宅地図では跡地に「旭館 西播運輸」。跡地は「播州信用金庫相生支店」東の「西播運輸」駐車場。最寄駅はJR山陽本線・赤穂線相生駅。

1975年頃の相生市にあった「旭館」の写真あり。旭商店街入口の旭本町5丁目にあった。相生市で最後まで営業していたが、1975年に閉館した。商店街はあとに入る企業を誘致し、1977年に西播通運の本社が移転してきた。2006年現在の跡地の写真あり。映画館の建物は長らく西播通運の本社として使用されたが、2003年に取り壊された。跡地には暫定的に播州信用金庫相生支店の仮店舗が建っていたが、2006年現在は駐車場となっている。*62

時期不明の相生市にあった「旭館」の写真あり。1954年に本町商店街の北側に開館した。1962年に『キューポラのある町』が上映された際、本作品を監督した浦山桐郎(相生出身)は旭館の最後尾で観客の反応を確かめた。*63

赤穂市

振興会館
所在地 : 兵庫県赤穂市坂越町(1956年・1958年・1960年・1961年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1961年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「振興会館」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の赤穂市全産業住宅案内図帳では発見できず。
みかさ館
所在地 : 兵庫県赤穂市有年横尾(1960年)、兵庫県赤穂市有年町(1961年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1961年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年の映画館名簿では「みかさ館」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
赤穂宝塚劇場
所在地 : 兵庫県赤穂市加里屋町60-4(1954年)、兵庫県赤穂市加里屋町62-4(1955年)、兵庫県赤穂市加里屋町60(1958年)、兵庫県赤穂市加里屋町(1960年・1963年)、兵庫県赤穂市加里屋53-2(1966年・1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1953年9月
閉館年 : 1971年頃
『全国映画館総覧 1954』によると1953年9月開館。『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「赤穂宝塚劇場」。1964年の赤穂市全産業住宅案内図帳では「宝塚劇場」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。1974年の住宅地図では跡地に空白。跡地は「メガネの中西」。最寄駅はJR赤穂線播州赤穂駅。

1961年10月1日、赤穂市の「赤穂宝塚劇場」が東宝に買収され、東宝関西興行の直営館となった。*64

1961年10月1日、東宝は赤穂市の「赤穂宝塚劇場」を買収し、傍系の東宝関西興行の直営館となった。赤穂宝塚劇場の社員は赤穂宝塚株式会社のままである。*65
満寿廼館/赤穂マスノ館/マスノ館
所在地 : 兵庫県赤穂郡赤穂町(1927年)、兵庫県赤穂郡赤穂町加里屋(1930年・1934年)、兵庫県赤穂郡赤穂町寺町(1936年)、兵庫県赤穂郡赤穂町加里屋(1941年)、兵庫県赤穂郡赤穂町(1943年)、兵庫県赤穂郡赤穂町加里屋(1947年)、兵庫県赤穂郡赤穂町(1950年)、兵庫県赤穂市(1953年)、兵庫県赤穂市加里屋寺町(1955年)、兵庫県赤穂市加里屋町(1960年・1963年)、兵庫県赤穂市加里屋2194(1966年・1969年・1973年)
開館年 : 明治末期、1939年
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1927年の映画館名簿では「増の家館」。1930年の映画館名簿では「満寿廼館」。1934年・1936年の映画館名簿では「増廼家館」。1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「満寿廼館」。1960年・1963年の映画館名簿では「マスノ館」。1964年の赤穂市全産業住宅案内図帳では「マスノ映画館」。1966年・1969年の映画館名簿では「赤穂マスノ館」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の映画館名簿では「マスノ館」。1974年の住宅地図では「マスノ映画館」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。1980年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「赤穂市加里屋駐車場」。最寄駅はJR赤穂線播州赤穂駅。

後の「満寿廼館」(ますのかん)は明治時代末期に寄席として建てられ、まもなく映画専門館に転換した。1939年頃に改築され、「映画の殿堂マスノ館」として親しまれた。1973年頃に閉館した。花輪が見える写真あり(※1939年頃)。*66
福栄座/赤穂東映/赤穂東映劇場/赤穂あかいトーエー/あかいトーエー
所在地 : 兵庫県赤穂郡赤穂町(1950年)、兵庫県赤穂市(1953年)、兵庫県赤穂市加里屋町(1955年)、兵庫県赤穂市加里屋町2250(1958年)、兵庫県赤穂市加里屋町(1960年)、兵庫県赤穂市加里屋町2250(1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年)
開館年 : 1886年3月(演劇場)、1952年(映画館化)
閉館年 : 1981年4月5日
『全国映画館総覧 1955』によると1886年3月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「福栄座」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「赤穂東映」。1964年の赤穂市全産業住宅案内図帳では「赤穂東映」。1966年の映画館名簿では「赤穂東映劇場」。1969年・1973年の映画館名簿では「赤穂あかいトーエー」。1974年の住宅地図では「あかいトーエー」。1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「あかいトーエー」。1980年の住宅地図では「あかいトーエー(キッサセレナ)」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「主婦の店赤穂店」西50mにある旧「主婦の店赤穂店」建物中央部。最寄駅はJR赤穂線播州赤穂駅。

1886年には赤穂に「福栄座」が建てられ、漫才・芝居・浪曲など演劇の殿堂だった。1952年に映画専門館となって「赤穂東映」に改称した。1981年4月5日をもって閉館した。昭和初期の福栄座の写真あり。*67

1968年5月の赤穂市に建設中の「アカイ東映」の写真あり。1991年現在のこの建物は主婦の店赤穂店になっている。アカイ東映で使用されていた映写機の写真あり。*68
プラット赤穂シネマ1・2・3
所在地 : 兵庫県赤穂市加里屋70-1(2002年)、兵庫県赤穂市加里屋70-1 プラット赤穂2階(2005年・2010年・2015年)、兵庫県赤穂市加里屋290-10 プラット赤穂2階(2020年)
開館年 : 2000年12月1日
閉館年 : 営業中
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2002年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「プラット赤穂シネマ1・2・3」(3館)。2002年の映画館名簿では経営会社が有限会社大饗興業、経営者が大饗良一、支配人が大饗英品、鉄筋造2階、1が125席、2が95席、3が125席。最寄駅はJR赤穂線播州赤穂駅。

宍粟市

日盛館
所在地 : 兵庫県宍粟郡一宮町(1959年・1960年・1961年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1961年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「日盛館」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
旭座
所在地 : 兵庫県宍粟郡山崎町寺町(1963年)
開館年 : 1881年、1925年
閉館年 : 1963年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「旭座」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

山崎町寺町にあった劇場「旭座」の写真あり。旭座は1881年に開館し、1924年に焼失したが、1925年に再建された。1925年には中村福助が、1949年には市川九団次が山崎町を訪れている(※旭座を訪れたかどうか曖昧な表現がなされている)。*69
上野劇場
所在地 : 兵庫県宍粟郡西谷村(1952年・1953年・1955年)、兵庫県宍粟郡波賀町上野(1958年・1960年・1963年)、兵庫県宍粟郡波賀町(1964年・1965年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「上野劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
昭和座
所在地 : 兵庫県宍粟郡一宮町(1957年・1958年・1960年)、兵庫県宍粟郡一宮町三方下垣内359(1963年・1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「昭和座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
新富座/山崎新富座
所在地 : 兵庫県宍粟郡山崎町(1943年・1947年・1950年・1953年・1955年)、兵庫県宍粟郡山崎町庄能15(1958年)、兵庫県宍粟郡山崎町(1960年)、兵庫県宍粟郡山崎町庄能(1963年)、兵庫県宍粟郡山崎町山崎(1966年・1967年)
開館年 : 1926年以前
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「新富座」。1966年・1967年の映画館名簿では「山崎新富座」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。

大正時代の山崎町にあった「新富劇場」の内部の写真あり。1階席と2階席があり、「場劇富新」の文字が見える。山崎町の鴻ノ口には「新富座」が、寺町には「旭座」があった。新富座はのちに新富劇場に改称し、芝居・映画・演説会などに使われた。昭和40年代に閉館し、2002年現在の跡地は魚菜市場となっている。*70

1946年の山崎町にあった「新富座」の写真あり。開演前の光景である。毎日映画を上映していたが、しばしば著名な芸能人が来館し、芝居・歌・ショーなどの興行が行われた。2008年現在の新富座跡地の写真あり。現在は野菜などの市場になっている。*71
神戸劇場
所在地 : 兵庫県宍粟郡神戸村(1955年)、兵庫県宍粟郡一宮町神戸(1960年)、兵庫県宍粟郡一宮町曲里(1963年)、兵庫県宍粟郡一宮町神戸(1968年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「神戸劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「神戸劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
一宮劇場
所在地 : 兵庫県宍粟郡神戸村(1955年)、兵庫県宍粟郡一宮町東市場(1960年・1963年・1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「一の宮劇場」。1960年の映画館名簿では「一ノ宮劇場」。1963年の映画館名簿では「一の宮劇場」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「一宮劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
三方劇場/三方映劇/三方映画
所在地 : 兵庫県宍粟郡一宮町三方(1960年)、兵庫県宍粟郡一宮町三方420(1963年)、兵庫県宍粟郡一宮町梅ケ坪247-7(1966年・1968年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1968年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「三方劇場」。1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「三方映劇」。1968年の映画館名簿では「三方映画」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
千種劇場
所在地 : 兵庫県宍粟郡千種村(1955年)、兵庫県宍粟郡千種村千草(1960年)、兵庫県宍粟郡千種村千草162(1963年)、兵庫県宍粟郡千種町162(1966年・1969年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「千種劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「千種劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
山映館/山映劇場/山崎山映館
所在地 : 兵庫県宍粟郡山崎町(1955年)、兵庫県宍粟郡山崎町271(1958年)、兵庫県宍粟郡山崎町(1960年)、兵庫県宍粟郡山崎町山崎(1963年・1966年・1969年)、兵庫県宍粟郡山崎町(1973年・1974年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1974年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「山映劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「山映館」。1963年の映画館名簿では「山映劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「山崎山映館」。1974年の映画館名簿では「山映劇場」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。

たつの市

揖玉座
所在地 : 兵庫県揖保郡龍野町(1936年)
開館年 : 1898年以前
閉館年 : 1935年2月5日
1933年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「揖玉館」(※座ではなく館)。1941年の映画館名簿には掲載されていない。

1898年、龍野町の「揖玉座」で活動写真が上映された。龍野における活動写真の初上映とされる。*72

1913年から1914年頃の龍野にあった芝居小屋「揖玉座」の写真あり。手前に朝日橋が見えている。龍野は芸妓の多い街であり、揖玉座も繁盛した。1935年に火災で焼失し、その後「龍野劇場」となった。*73

大正時代の龍野にあった劇場「揖玉座」を揖保川越しに見た写真あり。蔵造りの揖玉座(龍野劇場)で演説会があると、新聞は聴衆千数百人と報じた。*74

昭和初期の龍野にあった劇場「揖玉座」の写真あり。素麺組合の従業員慰労会が開催されており、舞台では三味線に合わせて踊りが披露されている。*75

昭和初期の龍野にあった芝居小屋「揖玉座」の写真あり。手前に朝日橋が、背後に城山が見えている。月に一度、明石や加古川から岩崎メトロや中村錦峯が地方巡業にやってきた。*76

1935年2月5日夜、龍野町唯一の娯楽の殿堂「揖玉座」が焼失した。1936年4月のこのほど、有志が資本金4万円の株式会社を設立して、龍野劇場(揖玉座から改称)再建の計画が立てられている。*77
中富座/平和館/竜野銀映
所在地 : 兵庫県揖保郡龍野町川東(1941年)、兵庫県揖保郡龍野町(1943年・1947年・1950年)、兵庫県龍野市(1953年)、兵庫県龍野市龍野(1955年)、兵庫県龍野市龍野町(1957年)、兵庫県龍野市龍野町堂本34(1960年)、兵庫県龍野市龍野町堂本(1961年)
開館年 : 1902年
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年の映画館名簿では「中富座」。1947年・1950年・1953年・1955年・1957年の映画館名簿では「平和館」。1957年の映画館名簿では経営者が森辰蔵、支配人が森弘、鉄筋造1階、定員500、邦画・洋画を上映。1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「竜野銀映」。1959年の映画館名簿では経営者が森辰蔵、支配人が森弘、鉄筋造1階冷暖房付、定員560、邦画を上映。1960年の日本特殊地図協会住宅案内図帳では跡地に「中富座跡」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「たばこセンター平松」など。最寄駅はJR姫新線本竜野駅。

龍野町の常小屋としては「揖玉館」が最も古い。その後1902年、川東の富永に「中富座」が建てられた。中富座は2階建てであり、畳の桟敷席を有していた。*78

昭和初期の播電鉄道播電龍野駅周辺の地図。「中富座」が描かれている。*79

『龍野市勢要覧 1953年版』の映画館の欄には「龍野劇場」と「平和館」が掲載されている。龍野劇場の所在地は龍野市龍野町龍野、代表者は佐野安治、電話は412。平和館の所在地は龍野市龍野町富永、代表者は森弘、電話は404。*80

『龍野地区商工名鑑 1957年版』の映画・演劇の欄には「平和館」が掲載されている。経営者は森辰蔵、所在地は龍野市富永3丁目313-5。*81
龍野劇場
所在地 : 兵庫県揖保郡龍野町(1941年・1943年・1947年・1950年)、兵庫県龍野市(1953年)、兵庫県龍野市龍野(1955年)、兵庫県龍野市龍野町旭町155(1958年・1960年)、兵庫県龍野市龍野町旭町(1962年・1963年・1964年)
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1962年・1963年・1964年の映画館名簿では「龍野劇場」。1960年の日本特殊地図協会住宅案内図帳では「龍劇映画館」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1971年の京洛出版住宅案内図では「神姫バス龍野営業所」。1978年の住宅地図では「神姫バス龍野営業所」。跡地は「神姫バス龍野案内所」。最寄駅はJR姫新線本竜野駅。

1913年から1914年頃の龍野にあった芝居小屋「揖玉座」の写真あり。手前に朝日橋が見えている。龍野は芸妓の多い街であり、揖玉座も繁盛した。1935年に火災で焼失し、その後「龍野劇場」となった。*82

1935年2月5日夜、龍野町唯一の娯楽の殿堂「揖玉座」が焼失した。1936年4月のこのほど、有志が資本金4万円の株式会社を設立して、龍野劇場(揖玉座から改称)再建の計画が立てられている。*83

『龍野市勢要覧 1953年版』の映画館の欄には「龍野劇場」と「平和館」が掲載されている。龍野劇場の所在地は龍野市龍野町龍野、代表者は佐野安治、電話は412。平和館の所在地は龍野市龍野町富永、代表者は森弘、電話は404。*84

『龍野地区商工名鑑 1957年版』の映画・演劇の欄には「龍野劇場」が掲載されている。経営者は佐野安治、所在地は龍野市龍野町旭町155。*85
新宮劇場
所在地 : 兵庫県揖保郡新宮町(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、兵庫県揖保郡新宮町立町821(1966年・1967年)
開館年 : 1935年7月21日
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「新宮劇場」。1962年の住宅案内図帳では「新宮劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「西兵庫信用金庫新宮支店」。最寄駅はJR姫新線播磨新宮駅。

1932年のこのほど、揖保郡新宿村に「新宿劇場」を新設する認可が下りる見込みとなった。新宿村西町天理教分所の裏に建設される予定である。*86

1935年7月21日、揖保郡新宮町で「新富劇場」の開場式が行われた。丸山税務署長、玉岡県税吏員、土井播電自動車会社長、辻井新宮町長、村田東栗栖村長、栗本西栗栖村長、尾崎越部村長などが列席した。県道の脇に工費3万5000円で建設中だった。*87

1937年頃の新宮劇場の写真あり。*88

1957年の『龍野地区商工名鑑 1957年版』の映画・演劇の欄には「新宮劇場」が掲載されている。経営者は船引徳二、所在地は揖保郡新宮町新宮783。*89
龍野有楽館/有楽館
所在地 : 兵庫県龍野市龍野町富永(1962年)、兵庫県龍野市龍野町富永224(1963年)、兵庫県龍野市龍野町富永214-1(1966年・1969年)、兵庫県龍野市富永214-1(1973年)、兵庫県龍野市龍野町富永214-1(1980年・1982年・1984年)
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 1984年頃
1961年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の日本特殊地図協会住宅案内図帳では「龍野東映」。1962年・1963年の映画館名簿では「有楽館」。1962年〜1971年の旭地図商会龍野市住宅地図では「東映有楽館」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「龍野有楽館」。1974年・1978年・1979年のゼンリン住宅地図では「映画有楽館」。1980年・1982年・1984年の映画館名簿では「有楽館」。1982年の映画館名簿では経営者・支配人ともに香川たか、鉄筋造1階、500席、にっかつ・東映を上映。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ローソン本竜野店」西北西140mの「ふれあ専用駐車場」と「西村不動産月極駐車場」。最寄駅はJR姫新線本竜野駅。

揖保郡太子町

新興映劇
所在地 : 兵庫県揖保郡太子町(1958年・1960年・1961年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1961年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「新興映劇」。1961年の住宅案内図帳では発見できず。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
太子映画劇場
所在地 : 兵庫県揖保郡太子町466(1957年)、兵庫県揖保郡太子町466(1958年・1960年・1963年)、兵庫県揖保郡太子町鵤466(1966年・1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1971年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「太子映画劇場」。1961年の住宅案内図帳では「太子映劇」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の刊広社住宅明細図では跡地に「倉庫」。映画館の建物は「はりま十水堂」工場だったが2010年代末以降に取り壊された。跡地は「佐久間耳鼻咽喉科」西60mの駐車場。最寄駅はJR山陽本線網干駅。

『竜野地区商工名鑑 1957年版』の映画・演劇の欄には「太子映画劇場」が掲載されている。経営者は船引栄、所在地は揖保郡太子町鵤466-1。*90

赤穂郡上郡町

中野クラブ
所在地 : 兵庫県赤穂郡上郡町中野(1960年)、兵庫県赤穂郡上郡町高田(1963年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1963年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「中野クラブ」。1964年以前の住宅案内図帳では発見できず。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
上郡劇場
所在地 : 兵庫県赤穂郡上郡町(1950年・1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1937年、1945年12月25日
閉館年 : 1965年
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「上郡劇場」。1953年・1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「上郡劇場」。1964年以前の住宅案内図帳では「上郡映劇」。1965年の映画館名簿では経営者が秋田治郎市、支配人が秋田昭子、木造1階、定員244、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「安藤歯科医院」北北東100mの駐車場。最寄駅はJR山陽本線・智頭急行線上郡駅。

1904年、日露戦争の戦勝を記念して上郡駅前に「日勝座」が創設された。1973年現在の酒店の長安商店付近である。日勝座からやや遅れて、旭町に「旭座」が創設された。1973年現在の野村指物店の屋敷である。1913年頃には旭座が山本惣吉の経営で「やまき座」となった。やがてやまき座の営業権が秋田氏に移り、1937年には千種川の河畔に「上郡劇場」が発足した。戦前の上郡劇場では芝居やトーキー映画の興行が行われた。1944年には鉄工所に改造され、劇場としての営業を休止した。1945年12月25日、秋田氏と姫路の興行業者の共同出資によって上郡劇場のこけら落としが行われた。戦後の上郡劇場は映画の上映が多く、その他にも様々な演劇が行われた。上郡劇場は1965年に廃業し、建物は播州繊維工業株式会社となった。*91

1913年、上郡町旭町に劇場「やまき座」が開かれた。1937年にはやまき座が閉鎖され、「上郡劇場」が開かれた。*92

1937年、上郡郡上郡町に「上郡劇場」が開かれた。1945年、段町に上郡劇場が再建された。*93

1942年の上郡町上郡町にあった「上郡劇場」で開催された出征軍人家族慰安会の写真あり。1937年に前身の劇場を引き継いで開館し、千種川の河畔にあった。戦後には移転して営業を再開したが、1965年に閉館した。*94

佐用郡佐用町

佐用第一劇場
所在地 : 兵庫県佐用郡佐用町(1958年・1960年・1961年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1961年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「佐用第一劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
寿劇場
所在地 : 兵庫県佐用郡佐用町136(1958年・1960年)、兵庫県佐用郡佐用町(1961年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1961年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「寿劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
佐用劇場/佐用映劇/佐用映画劇場
所在地 : 兵庫県佐用郡佐用町(1952年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1955年の映画館名簿では「佐用劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「佐用映劇」。1963年の映画館名簿では「佐用映画劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。佐用町最後の映画館。
上月映画劇場/上月映劇/上月劇場
所在地 : 兵庫県佐用郡西庄村(1955年)、兵庫県佐用郡上月町530(1958年・1960年)、兵庫県佐用郡上月町上月(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「上月劇場」。1958年の映画館名簿では「上月映画劇場」。1960年の映画館名簿では「上月映劇」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「上月劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
徳久劇場
所在地 : 兵庫県佐用郡南光町下徳久(1957年・1958年・1960年)、兵庫県佐用郡南光町徳久(1963年・1966年・1967年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1967年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「徳久劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。
三日月劇場
所在地 : 兵庫県佐用郡三日月町(1958年・1960年・1963年)、兵庫県佐用郡三日月町三日月1117(1966年・1967年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1967年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「三日月劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。

但馬地域

養父市

広谷座
所在地 : 兵庫県養父郡広谷町(1953年・1955年)、兵庫県養父郡八鹿町広谷(1960年・1961年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「広谷座」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年の映画館名簿では「広谷座」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
平木映画/平木映画劇場/平木八鹿東映
所在地 : 兵庫県養父郡八鹿町1634(1950年)、兵庫県養父郡八鹿町京町(1953年)、兵庫県養父郡八鹿町(1955年)、兵庫県養父郡八鹿町1634(1958年)、兵庫県養父郡八鹿町(1960年・1963年)、兵庫県養父郡八鹿町八鹿(1964年・1965年)
開館年 : 1949年8月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1949年8月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「平木映画劇場」。1953年の映画館名簿では「平木映劇」。1955年の映画館名簿では「平木映画」。1958年・1960年の映画館名簿では「平木映画劇場」。1953年の映画館名簿では「平木映劇」。1955年の映画館名簿では「平木映画」。1960年の映画館名簿では「平木映画劇場」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「平木八鹿東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

八鹿町の「平木映劇」が焼失した後だったか、京口の兵庫蚕種の近くには「文化会館」があり、一週間に一度くらい映画を上映していた。*95

時期不明の「平木映劇」の外観と内部の写真あり。洋風のファサードが見える。内部には2階桟敷席がみえる。活弁士の席もあった。*96
大屋会館
所在地 : 兵庫県養父郡大屋町(1966年・1969年・1970年・1972年)
開館年 : 1965年頃
閉館年 : 1972年頃
1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1970年・1972年の映画館名簿では「大屋会館」。1972年の映画館名簿では経営者が寺田孝一、支配人が記載なし、木造2階、250席、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
関宮会館
所在地 : 兵庫県養父郡関宮町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1965年頃
閉館年 : 1972年頃
1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1970年・1972年の映画館名簿では「関宮会館」。1972年の映画館名簿では経営者が寺田孝一、支配人が記載なし、木造2階、250席、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。現在ある関宮会館という公民館との関係は不明。
明延会館/明延協和会館
所在地 : 兵庫県養父郡南谷村和田(1955年)、兵庫県養父郡大屋町和田東側(1958年)、兵庫県養父郡大屋町(1960年)、兵庫県養父郡大屋町和田1085(1963年)、兵庫県養父郡大屋町(1969年・1970年・1971年・1972年)
開館年 : 1931年12月、1957年
閉館年 : 1972年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1931年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「明延会館」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1971年・1972年の映画館名簿では「明延協和会館」。1972年の映画館名簿では経営会社が三菱金属、経営者が松家浩一、支配人が平松幹雄、鉄筋造2階、700席、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「南谷郵便局」の北北東90m。「明延一円電車」南すぐ。映画館の建物が現存。

1931年末、娯楽及び集会のために「協和会館」が建てられた。建坪216坪、定員1800人。しばしば演芸会や映画会が催された。1955年頃の大屋町にあった協和会館の写真あり。合併申請書より。*97

旧協和会館は、1957年に建設された福利厚生のための劇場。鉄筋コンクリート造、2階建て、亜鉛渡鉄板葺である。建坪は257坪であり、延坪は340坪である。軒高は8間。2006年現在は明延精工の倉庫として使用されているが、映写室には当時の映写機などが残っている。当時の建物配置図があり、協和会館、小学校、公会堂、病院、共同浴場、テニスコートなどが掲載されている。*98

1935年頃の大屋町明延にあった「協和会館」の写真あり。大きな行事や映画上映などに用いられた。*99

明延鉱山跡地には映画館「協和会館」があった。協和会館は1150人収容の大規模な建物である。2020年現在は工場の施設として使用されており、2階の映写室には映写機が残されている。三菱の他の鉱山にも協和会館という名称の娯楽施設があり、近隣の生野鉱山や神子畑鉱山、長崎県の軍艦島にもあった。*100
ルート9劇場
所在地 : 兵庫県養父郡養父町谷間地1675-1(1984年・1985年)、兵庫県養父郡養父町上野1675-1(1990年・1995年・1996年・1997年)
開館年 : 1983年頃
閉館年 : 1997年頃
1983年の映画館名簿には掲載されていない。1984年・1985年・1990年・1995年・1996年・1997年の映画館名簿では「ルート9劇場」。1984年の映画館名簿では経営者・支配人ともに秋山慎次、鉄筋造1階、56席、にっかつを上映。1993年の住宅地図では「ルート9劇場」。1997年の映画館名簿では経営者・支配人ともに秋山成、鉄筋造1階、56席、成人映画を上映。1998年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は「宿院商店」から兵庫県道271号を挟んで反対側付近に現存。最寄駅はJR山陰本線養父駅。
八鹿映劇/八鹿映画劇場/八鹿第一映劇・八鹿第二映劇/八鹿第一映画・八鹿第二映画
所在地 : 兵庫県養父郡八鹿町(1955年)、兵庫県養父郡八鹿町京口(1958年)、兵庫県養父郡八鹿町(1960年・1963年)、兵庫県養父郡八鹿町8(1966年・1969年・1973年)、兵庫県養父郡八鹿町1795(1974年・1975年)、兵庫県養父郡八鹿町八鹿1795(1976年)、兵庫県養父郡八鹿町鹿町(1980年)、兵庫県養父郡八鹿町八鹿1795-1(1990年・2000年)、兵庫県養父市八鹿1795-1(2005年)、兵庫県養父市八鹿町八鹿1795-1(2006年)
開館年 : 1953年8月、1974年頃(建て替え)
閉館年 : 2006年
『全国映画館総覧 1955』によると1953年8月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「八鹿映劇」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1974年の映画館名簿では「八鹿映画劇場」。1974年の映画館名簿では経営者・支配人ともに寺田孝一、木造2階冷暖房付、定員420、邦画・洋画を上映。1975年・1976年の映画館名簿では「八鹿第一映画劇場・八鹿第二映画劇場」(2館)。1975年の映画館名簿では経営者・支配人ともに寺田孝一、いずれも鉄筋造2階冷暖房付、第一映画が132席で邦画を上映、第二映画が118席で洋画を上映。1980年の住宅地図では「八鹿映画」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「八鹿第一映劇・八鹿第二映劇」(2館)。1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「八鹿第一映画・八鹿第二映画」(2館)。2003年の住宅地図では「八鹿映画劇場」。2006年の映画館名簿では経営会社が八鹿映画、経営者・支配人ともに寺田英雄、いずれも鉄筋造1階、第一映画が132席で邦画・洋画を上映、第二映画が112席で成人映画を上映。2007年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は「八鹿郵便局」北東70mのフィットネスクラブ「にこにこ元気クラブ」として現存。最寄駅はJR山陰本線八鹿駅。

1965年頃の八鹿町八鹿にあった映画館「八鹿映劇」の写真あり。「八鹿映劇」や「映画と演劇」の文字が見える。八鹿町の中心市街地に位置し、屋岡橋南側の川沿いにあった。平成に入ってから閉館した。*101

1966年の八鹿町八鹿にあった「八鹿映劇」で行われた尺八演奏会の写真あり。八木川沿いの屋岡橋の南にあった。八鹿町には音楽ファンが多く、1971年には八鹿町文化協会が発足している。*102

朝来市

朝来映画劇場/朝来映劇
所在地 : 兵庫県朝来郡朝来町(1960年・1963年)、兵庫県朝来郡朝来町新井541-1(1966年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1966年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「朝来映画劇場」。1966年の映画館名簿では「朝来映劇」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
南座/和田山南座
所在地 : 兵庫県朝来郡和田山町(1943年・1947年)、兵庫県朝来郡和田山町135(1950年)、兵庫県朝来郡和田山町(1955年・1958年・1960年)、兵庫県朝来郡和田山町和田山135-1(1966年・1967年)
開館年 : 1941年以後1943年以前
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1950年の映画館名簿では「南座」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「南座」。1958年・1960年・1966年・1967年の映画館名簿では「和田山南座」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。
協和会館/生野協和会館
所在地 : 兵庫県朝来郡生野町(1955年・1958年・1960年)、兵庫県朝来郡生野町口銀谷985-1(1966年・1969年・1970年)、兵庫県朝来郡生野町口銀谷98501(1972年)
開館年 : 1917年12月
閉館年 : 1972年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1917年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「協和会館」。1958年・1960年の映画館名簿では「生野協和会館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1970年・1972年の映画館名簿では「生野協和会館」。1972年の映画館名簿では経営会社が三菱金属、経営者が松家浩一、支配人が記載なし、鉄筋造2階、600席、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

『日本とともに歩んだ銀山の町 いくの』生野町中央公民館、1994年には生野協和会館の写真が掲載されている。*103

1953年の生野町口銀谷にあった「協和会館」で行われたダンスパーティの写真あり。1929年に建てられた木造洋風の建物である。生野鉱山の従業員や家族が諸行事の会場として利用した。*104
ヤナセ映劇/ヤナセ映画劇場/山東ヤナセ映劇
所在地 : 兵庫県朝来郡梁瀬町(1955年)、兵庫県朝来郡山東町古市場(1958年)、兵庫県朝来郡山東町(1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1972年)
開館年 : 1952年
閉館年 : 1972年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「ヤナセ映劇」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「ヤナセ映画劇場」。1966年・1969年・1970年・1972年の映画館名簿では「山東ヤナセ映劇」。1972年の映画館名簿では経営者が谷本俊一、支配人が吉本敬逸、鉄筋造2階、350席、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1970年代の航空写真を見ると現在の川原町公民館の場所に巨大な建物がある。

1952年、朝来郡梁瀬町の川原町に映画館が開館した。*105

1963年頃の山東町楽音寺(梁瀬)にあった洋画専門の映画館「梁瀬映劇」の写真あり。1959年に封切られた『レ・ミゼラブル』、『海底探検世界一周』などのフランス映画のポスターが見える。*106
神子畑協和会館
所在地 : 兵庫県朝来郡山口村(1955年)、兵庫県朝来郡朝来町(1960年・1963年)、兵庫県朝来郡朝来町佐嚢1842(1966年・1969年・1970年)、兵庫県朝来郡朝来町(1972年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1972年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「神子畑協和会館」。1970年の映画館名簿では経営者が三菱金属鉱業、支配人が成田秀一、木造2階暖房付、定員690、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ムーセ旧居」(ムーセハウス写真館)北東240mの森林。国道429号と神子畑川に挟まれている。デビュー間もない島倉千代子が公演を行ったことがある。最寄駅はJR播但線新井駅。

1955年頃の神子畑選鉱場周辺の人口は約1300人であり、映画を上映した「協和会館」、卓球・柔道・ビリヤードなどができた文化会館などの福利厚生施設があった。*107

2020年6月29日、朝来市の神子畑選鉱場跡に観光施設「朝来市鉱石の道神子畑交流館」がオープンした。神子畑選鉱場には昭和末期まで福利厚生施設「協和会館」があり、協和会館で使用されていた映写機も交流館に展示されている。*108

美方郡香美町

香住映画劇場/香住映劇
所在地 : 兵庫県城崎郡香住町(1951年・1952年・1953年・1958年・1960年・1961年)
開館年 : 1950年頃
閉館年 : 1961年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1951年・1952年の映画館名簿では「香住映画劇場」。1953年の映画館名簿では「香住映劇」。1954年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「香住映画劇場」。1960年・1961年の映画館名簿では「香住映劇」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
あずま館
所在地 : 兵庫県城崎郡香住町(1960年・1963年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1963年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「あずま館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
香住大黒座/大黒座
所在地 : 兵庫県城崎郡香住町(1950年・1953年)、兵庫県城崎郡香住町若松(1955年)、兵庫県城崎郡香住町182(1958年)、兵庫県城崎郡香住町(1963年・1966年・1969年・1973年・1974年)
開館年 : 1943年
閉館年 : 1974年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1943年開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「大黒座」。1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「香住大黒座」。1974年の映画館名簿では「大黒座」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。1960年代・1970年代の航空写真では現在の若松コミュニティセンターの場所に巨大な建物がある。

美方郡新温泉町

末広座/大富座
所在地 : 兵庫県美方郡浜坂町(1943年・1947年・1951年・1952年・1953年・1955年・1958年・1959年・1960年・1961年)
開館年 : 1901年以前、1942年1月
閉館年 : 1939年12月20日、1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1942年1月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「末広座」。1947年の映画館名簿では「大富座」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1951年・1952年・1953年・1955年・1958年・1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「大富座」。1955年の映画館名簿では経営者が井上つね、支配人が井上二三男、木造2階、定員280、混合を上映、映写機はローラー、発声器はローラー、電話は浜坂103。1958年の映画館名簿では経営者が東史郎、支配人が小谷秀史、木造2階、定員500、邦画を上映、映写機は東亜、発声器は東亜、電話は浜坂245。1960年の映画館名簿では経営者が東史郎、支配人が小谷秀史、木造2階、定員500、邦画を上映、映写機はトーア、発声器はトーア、電話は浜坂245。1962年の映画館名簿には掲載されていない。

1923年11月20日、浜坂町の「末広座」で浜坂・大庭・西浜3ヵ町村処女連合会が開催された。12月1日、末広座で四支部音楽会が開催された。12月22日、末広座で浜坂町婦人会の発会式が開催された。*109

1901年4月26日、浜坂町字御屋敷町の劇場で浜坂町町会議員の定期改選が行われた。1939年12月20日、浜坂町浜岡町の「大富座」が火災で焼失した。*110

浜坂町の御屋敷町には「大富座」(おおとみざ)があった。1901年の記録に登場することからこの時にはすでに開館していた。芝居・映画・集会などに使用されたが、1939年12月に焼失した。*111
温泉座
所在地 : 兵庫県美方郡温泉町(1953年)、兵庫県美方郡温泉町湯(1955年)、兵庫県美方郡温泉町153-2(1958年)、兵庫県美方郡温泉町(1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「温泉座」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。同じ町ではストリップ劇場の湯村温泉劇場の建物が現存している。
浜坂映画劇場/浜坂映劇
所在地 : 兵庫県美方郡浜坂町1144(1960年)、兵庫県美方郡浜坂町(1961年・1962年)、兵庫県美方郡浜坂町新町(1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1972年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年の映画館名簿では「浜坂映劇」。1960年の映画館名簿では経営者が池田四郎、支配人が藤田博、木造2階冷暖房付、定員386、邦画・洋画を上映、映写機はトーワ、発声器はトーワ、電話は浜坂58呼。1962年・1963年の映画館名簿では「浜坂映画劇場」。1963年の映画館名簿では経営者が池田四郎、支配人が前田博、木造2階冷暖房付、定員400、邦画・洋画を上映、映写機はセントラル、発声器はセントラル、電話は浜坂370。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「浜坂映劇」。1973年の映画館名簿では経営者が谷本俊一、支配人は記載なし、木造2階、300席、邦画を上映、電話は浜坂370。1975年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では確認できず。跡地は「宝宣寺」本堂北西20mにある複数の敷地。最寄駅はJR山陰本線浜坂駅。

1923年には浜坂町に「末広座」が建築された。その後、末広座は「大富座」に改称し、1960年頃には大富座が「浜坂映劇」に改称した。1972年頃まで営業していた。大富座が浜坂映劇に改称した際の祝賀写真あり。*112

丹波地域

丹波市

戎映画館/戎シネマ
所在地 : 兵庫県氷上郡成松町(1951年)、兵庫県氷上郡成松町宮前町(1953年)、兵庫県氷上郡成松町宮前(1955年)、兵庫県氷上郡氷上町成松(1958年・1960年・1961年)
開館年 : 1948年
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1951年の映画館名簿では「戎映画館」。1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「戎シネマ」。1961年の映画館名簿では経営者が小南松太郎、支配人が前田慶一、木造2階、定員500、邦画・洋画を上映。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「エビスシネマ」南東40mにある建物。最寄駅はJR福知山線石生駅。

1950年、成松町に小南松太郎が映画常設館「戎シネマ」を新築した。「成松映画劇場」とともに親しまれている。*113
黒井映画劇場/黒井映劇/黒井劇場
所在地 : 兵庫県氷上郡黒井町(1953年・1955年)、兵庫県氷上郡春日町黒井(1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「黒井映画劇場」。1955年の映画館名簿では「黒井映劇」。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「黒井劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
柏原劇場/柏原映画劇場
所在地 : 兵庫県氷上郡柏原町(1947年・1950年・1953年・1955年・1958年)、兵庫県氷上郡柏原町本町(1960年・1963年)、兵庫県氷上郡柏原町本町361(1965年)
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「柏原劇場」。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「柏原映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1952年10月に「柏原劇場」の建物前で撮られた柏原町商工会店員表彰式の写真あり。柏原劇場は1971年に姿を消した。*114
谷川映画劇場/谷川映劇/谷川劇場
所在地 : 兵庫県氷上郡久下村(1953年・1955年)、兵庫県氷上郡山南町谷川(1958年・1960年・1966年・1967年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「谷川映画劇場」。1955年の映画館名簿では「谷川映劇」。1958年の映画館名簿では「谷川映画劇場」。1960年の映画館名簿では「谷川映劇」。1966年・1967年の映画館名簿では「谷川劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。
和田ニコニコ座/和田映劇/和田映画劇場
所在地 : 兵庫県氷上郡和田村(1953年)、兵庫県氷上郡和田村下町(1955年)、兵庫県氷上郡和田村和田(1958年)、兵庫県氷上郡山南町和田(1960年・1966年・1968年)
開館年 : 1933年
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1933年開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「和田ニコニコ座」。1955年の映画館名簿では「和田映劇」。1958年の映画館名簿では「和田映画劇場」。1960年の映画館名簿では「和田映劇」。1966年・1968年の映画館名簿では「和田映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
佐治映画劇場/佐治劇場
所在地 : 兵庫県氷上郡佐治町(1952年・1953年・1955年)、兵庫県氷上郡青垣町佐治(1958年・1960年・1966年・1968年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1955年の映画館名簿では「佐治劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「佐治映画劇場」。1966年・1968年の映画館名簿では「佐治劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
成松映劇/成松映画劇場/成松劇場
所在地 : 兵庫県氷上郡成松町(1943年・1953年・1955年)、兵庫県氷上郡氷上町成松(1958年・1960年・1963年)、兵庫県氷上郡氷上町成松町(1966年・1967年)、兵庫県氷上郡氷上町(1968年)
開館年 : 1913年
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1913年開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「成松劇場」。1947年・1949年・1950年・1951年・1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「成松映画劇場」。1955年の映画館名簿では「成松映劇」。1955年の映画館名簿では経営者が池田四郎、支配人が前田慶一、木造1階、定員450、混合を上映。1958年・1960年の映画館名簿では「成松映画劇場」。1963年・1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「成松劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が池田四郎、支配人が前田慶一、木造2階、定員400、邦画・洋画を上映。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「だいまん」とその北側の道路とその北側の「だいまん駐車場」。最寄駅はJR福知山線石生駅。

三田町の桜の馬場から東に向かって突き当たった武庫川河畔に、大衆娯楽の殿堂「布袋座」があった。建物は木造2階建てであり、廻り舞台や花道や桝席、警官詰所や中茶屋などがあった。やがて布袋座は氷上郡成松町に移築され、「成松劇場」として営業を再開したとされるが、成松劇場も1965年頃に閉鎖されて取り壊された。*115
ヱビスシネマ。
所在地 : 兵庫県丹波市氷上町成松263-3(2022年)
開館年 : 2021年7月30日
閉館年 : 営業中
2021年の映画館名簿には掲載されていない。2022年の映画館名簿では「エビスシネマ」。2022年の映画館名簿では経営会社が株式会社コドルニス、経営者・支配人ともに近兼拓史、50席。正式名称は「ヱビスシネマ。」(一文字目が「エ」ではなく「ヱ」、最後に句点)。最寄駅はJR福知山線石生駅。

兵庫県丹波市氷上町の成松商店街で、映画館の復活を目指す「成松映画館復活プロジェクト(仮)」が住民らによって発足した。2018年3月11日には成松第3公民館で近兼拓史監督の『切り子の詩』の上映会が行われる。上映会は成松商店街で開催される「丹波甲賀の里軽トラ市」の一環。かつて成松地区には「成映」と「エビス座」があったが、昭和40年代までに閉館となった。*116

丹波市が舞台の映画『恐竜の詩』の監督である近兼拓史は、丹波市民が元暴力団事務所の再生を構想する映画『銀幕の詩』の撮影と、元暴力団事務所の建物を映画館に転換させる映画館復活プロジェクトの同時進行に乗り出している。2020年春の開館と『銀幕の詩』のオープニング上映を目指している。元暴力団事務所の建物は、鉄筋コンクリート造2階建て、延床面積約260平方メートル。2階に最大80席、1階に20席のホールを整備し、裏にはカフェを設ける。改装や映写機などに約3000万円が必要だという。『銀幕の詩』は2019年3月に撮影を開始し、2020年3月に完成予定である。映画全盛期には丹波市域にも多くの映画館があったという。*117

2021年7月上旬、丹波市氷上町成松にミニシアター「ヱビスシネマ。」が開館する予定。建物は住民運動の末に退去した元暴力団事務所である。2020年3月に映画監督の近兼拓史が建物を取得し、開館準備が進められている。改装を手掛ける細見工務店が丹波布の座席を発案し、丹波布伝承館の卒業生らが手織りした丹波布を用いた座席が設置された。50の座席で柄がすべて異なっている。*118

2021年7月中に、丹波市氷上町成松にミニシアター「ヱビスシネマ。」が開館する予定である。現在は準備が進められており、丹波布を用いた椅子や音響設備が設置された。一般的なミニシアターには2個から6個のスピーカーが設置されるが、ヱビスシネマ。にはBOSE製の13個のスピーカーが設置され、音響は「日本全国でも屈指」とされる。開館後は作品ごとに音響を調整するという。*119

2021年7月下旬、丹波市の商店街にある元暴力団事務所の建物に、約半世紀ぶりに映画館が開館する。かつて氷上町成松地区には2館の映画館があった。2009年には山口組系の暴力団が進出し、呉服店だった2階建てビルに組員らが出入りしていた。しかし、住民運動で暴力団の追い出しに成功し、2014年には地元自治会連合会が買い戻して「第3公民館」とした。近くには別の公民館があるためほとんど使われなかったが、2018年に丹波市を舞台とする作品を上映した際に近兼拓史監督が改装を提案し、2020年3月には近兼監督自らが建物を取得した。50席のミニシアターの開館を計画し、丹波布を用いた木製座席などを設置した。約50年前まで隣接地にあった「戎シネマ」に因んで「ヱビスシネマ。」と名付けた。近兼監督は映画館開館の経緯を題材とする映画『銀幕の詩』の製作も進めている。*120

2021年7月30日、丹波市氷上町成松にミニシアター「ヱビスシネマ。」が開館する。映画監督の近兼拓史が開館準備を進めている。7月17日のプレオープン日には地域住民が招待され、映画『蒲田行進曲』が上映された。かつて成松には2館の映画館があり、約50年ぶりに映画館が復活する。建物は2014年に住民運動で追放された元暴力団事務所であり、2020年3月に近兼監督が建物を取得している。7月30日のプログラムは未定。*121

2021年7月30日、丹波市氷上町に映画館「ヱビスシネマ」が開館した。記念式典には西宮市出身の映画監督である近兼拓史、丹波市の林時彦市長らが出席した。2014年に住民運動で退去した暴力団事務所を近兼監督が取得。50席の座席は地元の工務店が製作し、丹波布伝承館の職人らが織り上げた丹波布を張っている。初回上映作品は近兼監督による『恐竜の詩』であり、8月12日迄上映される。*122

2021年7月30日、丹波市氷上町成松にミニシアター「ヱビスシネマ。」が開館した。準備を進めてきた映画監督の近兼拓史は「ここ成松を“ナリウッド”として、エンターテインメントの街にしたい」と語る。かつて成松地区には2館の映画館があったが、約50年前に姿を消した。2009年には成松地区の呉服店だった建物に山口組系の暴力団が進出したが、地元住民が追放運動を展開し、2014年には地元自治会が建物を約1200万円で買い戻した。2020年3月には近兼が建物を取得し、映画館への改装を提案。名称は隣接する場所にあった映画館「戎シネマ」に因んでいる。丹波市春日町の細見工務店が改装を担当。「丹波らしさ」をコンセプトとしており、50の座席には丹波布を用いているほか、座席には国産杉の間伐材を使用している。丹波の棚田や山並みを内装で表現するとともに、床面は後方に向かうにつれて緑色が濃くなるようにしている。一般的なミニシアターのスピーカーは2個から6個だが、BOSE製のスピーカー13個をスクリーンの背後や天井などに設置している。1階ではポップコーン、ジュース、ヱビスビールなどを販売している。*123

2021年7月末、丹波市氷上町成松地区に映画館「ヱビスシネマ。」が開館した。8月12日までは『恐竜の詩 ディレクターズカット版』『にしきたショパン』『劇場版ほんとうにあった怖い話 〜事故物件芸人2〜』などを上映する。一般1800円、大学生1500円、高校生以下1000円。かつて成松地区は河川交通の要衝として栄え、映画館もあった。映画監督の近兼拓史は映画『恐竜の詩』の撮影の際に丹波市に惹かれ、元暴力団事務所の建物を購入して映画館に生まれ変わらせた。50ある座席の生地は丹波布である。音響面に力を入れており、スクリーン裏や壁面には13台のスピーカーが設置されている。近兼が製作中の映画『銀幕の詩』は2022年2月に丹波市でプレミア上映される予定。*124

2021年7月30日、丹波市氷上町成松にミニシアター「ヱビスシネマ。」が開館した。かつて暴力団事務所があったビルを改装し、成松地区に約50年ぶりに映画館が復活した。200インチのスクリーンと13台のスピーカーを備え、近兼監督は「音響は国内最高」と語る。館名はビル近くにあった映画館「戎シネマ」に因んでいる。*125

2021年7月30日、丹波市氷上町成松にミニシアター「ヱビスシネマ。」が開館した。経営は映画監督の近兼拓史。丹波市では約50年ぶりの映画館である。2009年には呉服店だった建物が暴力団事務所となったが、2014年に地域住民らが約1200万円で買い取り、その後は集会所として使用された。2017年には近兼が映画ロケでこの建物を使用し、その後近兼が買い取って改修した。木造2階建て、延べ約400平方メートル。2階に50席のホールがあり、200インチのスクリーンを有する。一般的なミニシアターは2個から6個のスピーカーを有するが、この映画館ではスクリーン背後、天井、客席の後部などに13個も設置している。座席には国産杉の間伐材を使用し、座面や背もたれには丹波布を用いている。*126

丹波篠山市

福住会館
所在地 : 兵庫県多紀郡福住町(1955年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「福住会館」。1955年の映画館名簿では経営者・支配人ともに佐野寿一、構造は記載なし、定員は記載なし、上映系統は記載なし。1956年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は喫茶店「マグナムコーヒー」として現存。最寄駅はJR福知山線篠山口駅。

2019年5月19日、丹波篠山市福住地区の喫茶店「マグナムコーヒー」で第1回の映画上映会が開催され、嵐寛寿郎主演の『鞍馬天狗 江戸日記』、『ふるさとの風土記 篠山の夏』が上映される。企画は福住シネマの会。建物はかつて「福住会館」という名前であり、芝居の興行や映画の上映が行われた。その後は機織りの工場などとなっていた。*127
日置劇場
所在地 : 兵庫県多紀郡日置村(1955年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「日置劇場」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
新丹波/新丹波劇場
所在地 : 兵庫県多紀郡篠山町(1947年・1950年・1953年・1955年)、兵庫県多紀郡篠山町乾新町68(1958年)、兵庫県多紀郡篠山町(1960年・1961年)
開館年 : 1947年2月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年2月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年の映画館名簿では「新丹波」。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「新丹波劇場」。1961年の映画館名簿では「新丹波映劇」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「みなと銀行篠山支店」。最寄駅はJR福知山線篠山口駅。

1955年現在と思われる映画館「新丹波」の写真あり。1947年に建築された。*128

『郷友』多紀郷友会、第346号、1982年9月には「ふるさと回顧(1)思い出の楽天座」が掲載されている。*129

『郷友』多紀郷友会、第347号、1982年12月には「前号『楽天座』の記事を読んで」が掲載されており、「新丹波」にも触れられている。*130

1914年9月、新劇場「楽天座」が開館した。建てたのは小東兼蔵であり、工費は1万5000円だった。1922年には篠山土地建物株式会社の経営に移り、1週間に2回から3回の頻度で演劇・演芸・映画の興行を行った。1946年10月には客席を改造して映画常設館となり、松竹・東映・日活などを連日昼夜上映した。連日満員の時期もあったが、1959年の皇太子御成婚を機にテレビが普及し、観客数が減少した。「新丹波」の閉館後も営業を続けていたが、1967年頃からは上映するたびに赤字となり、月に3-4回の休館日を設けていた。1970年4月6日、休館日の深夜に炎上した。*131

1955年頃の多紀郡篠山町にあった映画館「新丹波」の写真あり。「楽天座」と並んで庶民の憩いの場だった。昭和40年代まで営業していた。*132

昭和40年代の篠山市乾新町にあった映画館「新丹波」の写真あり。「Sin Tanba」(※Shinではない)の文字が見える。写真撮影当時にはすでに閉館していたのか、館外にも館内にも大売り出しの旗が見える。篠山市には「楽天座」と「新丹波」の2館の映画館があり、近隣自治体からも観客が訪れた。*133
東雲座/楽天座/篠山楽天座
所在地 : 兵庫県多紀郡篠山町(1943年・1947年)、兵庫県多紀郡篠山町東新町(1950年)、兵庫県多紀郡篠山町東新町(1953年・1955年・1958年)、兵庫県多紀郡篠山町東新町(1960年・1963年)、兵庫県多紀郡篠山町(1966年・1969年)
開館年 : 1914年1月
閉館年 : 1970年4月6日
『全国映画館総覧 1955』によると1914年1月開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「楽天座」。1966年・1969年の映画館名簿では「篠山楽天座」。1970年の火災で焼失して閉館。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「頼尊又四郎稲荷神社」北側の未舗装駐車場。最寄駅はJR福知山線篠山口駅。

1936年時点の篠山町には演劇場として「楽天座」がある。所在地は篠山町東新町、経営者は篠山土地建物株式会社、収容人員は646人、演劇種別は映画・歌舞伎・その他。もともとこの場所には円通寺があった。「千歳座」として竣工し、後に小東兼蔵によって改修されて「兼栄座」に改称したが、1909年12月31日の火災で焼失した。1914年には小東兼蔵によって「楽天座」が建築され、やがて株式組織となった。*134

現在の楽天座の場所にあった「東雲座」の写真あり。1908年に焼失した。1914年に新築された際の劇場「楽天座」の写真あり。1955年現在の改築された楽天座の写真あり。*135

昭和40年代の多紀郡篠山町にあった映画館「楽天座」の写真あり。「座天楽」の文字が見える。焼失後に改装された。*136

1958年の多紀郡篠山町の東新町にあった映画館「楽天座」の写真あり。右書きの「座天楽」の文字が見える。『素晴しき男性』『遠州森の石松』『呪いの笛』のポスターが見える。戦後の篠山には「楽天座」と「新丹波」の2館の映画館があった。*137

淡路地域

洲本市

洲本劇場
所在地 : 兵庫県洲本市物部60(1958年)、兵庫県洲本市常盤町(1960年・1961年)
開館年 : 1928年
閉館年 : 1961年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「洲本劇場」。1961年の映画館名簿では経営者が川井直一、支配人が川井勇、構造は記載なし、定員は記載なし、上映系統は記載なし。1962年の映画館名簿には掲載されていない。1972年の住宅地図では跡地に「三熊モータープール」。跡地はパチンコ店「ホワイトハウス洲本店」。最寄港は洲本港。

洲本町による鳥観図『淡路洲本町案内図』摂陽商船、1929年には洲本劇場が「劇場」として描かれている。*138

洲本町にある「洲本劇場」の写真あり。物部常盤橋の脇にある。1938年5月に起工し、同年9月に竣工すると、10月1日にこけら落とし興行を行った。建坪は240坪。定員は768人であるが、満員の際には1500人以上を収容する。座主は神戸市の柴田某であり、経営者は洲本町の高谷兼五郎である。「玉尾座」と競合し、活動写真や演芸の興行を行っている。*139

昭和初期の洲本町にあった「洲本劇場」の写真あり。君川道治劇団の看板が見える。1928年9月に建てられ、淡路島最古の劇場である「玉尾座」と競合し、1500人以上の観客を入れたこともあった。1947年頃に映画館となった。閉館後に駐車場となった後、1989年にはパチンコ店のホワイトハウスが開店した。*140
玉尾座
所在地 : 兵庫県津名郡洲本町(1936年)、兵庫県洲本市下屋敷町(1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年)、兵庫県洲本市下屋敷町11-1(1958年)、兵庫県洲本市下屋敷町乙10-3(1960年・1961年・1962年)
開館年 : 明治時代初期、1929年
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「玉尾座」。1962年の映画館名簿では経営者が川端政一、支配人が服部芳彦、木造2階暖房付、定員620、邦画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1972年・1980年の住宅地図では跡地に「玉尾モータープール」。現在の跡地は有料駐車場「玉尾モータープール」。最寄港は洲本港。

洲本町による鳥観図『淡路洲本町案内図』摂陽商船、1929年には玉尾座が「劇場」として描かれている。*141

洲本町にある「玉尾座」の写真あり。淡路島で最も歴史の長い劇場である。池田屋佐兵衛が船場町(現在の第二小学校前)に創設し、江戸時代中頃に改築すると、1903年頃に弁天社の西側に移転した。1927年1月には敷地を拡張して大改築に着手し、1928年5月に竣工した。経営者は浜岡寅太郎だったが現在は合資である。*142

洲本市にあった劇場「玉尾座」の写真あり。淡路島で最も古い歴史を持つ劇場であり、洲本唯一の娯楽施設として様々な興行を行った。玉尾座は1903年頃に現在地に移転し、昭和初期に改築を行った。1979年現在の跡地にはモータープールとビルが建っており、劇場があったころの面影はない。*143

淡路島で最も古い劇場は洲本市の「玉尾座」であり、明治時代初期には既に存在していたという。1928年に大改築を行い、舞台の間口は7間、奥行は6間、観客席は1500人以上を収容した。洲本市では「昭和館」や「洲本劇場」などもこの頃に建てられた。*144
洲本タイガー(旧)
所在地 : 兵庫県洲本市下屋敷町(1958年・1960年・1961年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1961年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「洲本タイガー」。1961年の映画館名簿では経営者が岡田斐二郎、支配人が原下新次、木造1階冷暖房付、定員350、邦画を上映、電話が洲本甲685。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
旭座/旭座劇場
所在地 : 兵庫県津名郡由良町(1953年・1955年)、兵庫県洲本市由良町(1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1930年
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「旭座」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「旭座劇場」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに島瀬繁三郎、木造2階、定員は記載なし、邦画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1972年の住宅地図では「KK旭座劇場」。1980年の住宅地図では跡地に「貸ガレージ」。跡地は「淡路信用金庫由良支店」北北西70mの建物。最寄港は由良港。

由良町にある「旭座」。山中幸三郎が経営していた旧旭座は火災で全焼した。1929年秋、山中らが発起人となって資本金5000円で株式会社旭座劇場を創立し、1930年1月に竣工落成した。木造平屋建て、建坪は130坪、定員は500人。外観は洋館を模造している。由良町の中央に近い湊橋の脇にある。*145

洲本市由良3丁目(紺屋町)の「旭座劇場」前で撮影されたチンコ芝居(賃児芝居)の集団の記念写真あり。*146

1971年9月の洲本市由良町にあった「旭座劇場」建物前で開催されたバザーの写真あり。1930年に湊橋のそばに建てられ、定員は500人だった。戦前には演芸場として、やがて映画館として営業した。半円形の屋根が特徴だった。1922年に開館した「湊座」と競合していた。閉館後にはタクシー乗り場として用いられ、2006年現在は駐車場となっている。半円形屋根の建物は取り壊されてプレハブ倉庫となっている。*147

浜松鮮魚店の店主(60代)。「浜松鮮魚店から北に見える、駐車場となっている建物の場所が映画館だった。映画館時代から建物は変わっている。塀に囲まれた部分が映画館の敷地であり、建物の大きさは今と一緒くらいだったのではないか。自身がすごく小さい(こんまい)時には東映まんがまつりが開催されていたのを覚えている。」
洲本映画劇場/弁天座/洲本弁天座/洲本東映/トーエイ洲本
所在地 : 兵庫県津名郡洲本町(1925年・1927年・1930年・1934年)、兵庫県津名郡洲本町弁天境内(1936年)、兵庫県洲本市弁天境内(1941年・1943年・1947年・1950年・1953年)、兵庫県洲本市下屋敷町(1955年)、兵庫県洲本市内通町565(1958年・1960年)、兵庫県洲本市内通町(1963年)、兵庫県洲本市内通町甲565(1966年・1969年・1973年)、兵庫県洲本市内通甲565(1975年)、兵庫県洲本市本町4-2-18(1978年・1980年・1985年・1990年・1992年)
開館年 : 大正初期、1978年(ビル化)
閉館年 : 1992年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「弁天座」。1947年の映画館名簿では「洲本映画劇場」。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「弁天座」。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「洲本弁天座」。1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「洲本東映」。1969年の映画館名簿では経営者が大田光雄、支配人が太田利弘、木造1階、定員480、東映・成人映画を上映。1972年のゼンリン住宅地図では「淡路東映 弁天座」。1979年の映画館名簿では経営者・支配人ともに太田光雄、木造1階冷暖房付、480席、東映を上映。1980年のゼンリン住宅地図では「トーエイ洲本ビル 3階 トーエイ洲本」。1980年・1985年・1990年・1992年の映画館名簿では「トーエイ洲本」。1980年の映画館名簿では経営会社がミツオ、経営者が太田正和、支配人が太田勝敏、鉄筋造2階、198席、東映を上映。1992年の映画館名簿では経営会社がミツオ株式会社、経営者・支配人ともに太田勝敏、鉄筋造2階、198席、東映を上映。1993年の映画館名簿には掲載されていない。建物名はJOYプラザビル。JOYプラザビルは現存し、3階は「カラオケ喫茶同窓会」。最寄港は洲本港。

洲本町による鳥観図『淡路洲本町案内図』摂陽商船、1929年には弁天座が「劇場」として描かれている。*148

洲本町にある「弁天座」の写真あり。厳島神社の境内近くにあり、淡路島における最高の活動常設館とされる。当初は寄席だったが、大正初期に改造して活動常設館となった。建物の所有者は洲本町の先田熊吉らであり、経営は大阪市の中野商会である。日活と松竹を特約上映している。鐘淵紡績会社の工手交代日には満員となり、周辺の村落からも観客が訪れる。*149

大正初期には寄席の「弁天座」が改造されて常設映画館となった。弁天座は「玉尾座」の近くにあった。*150

1953年正月の洲本市にあった映画館「弁天座」の写真あり。松竹や日活の常設館だった。*151

昭和初期の洲本町にあった「弁天座」の写真あり。花輪が見える。厳島神社の近くにあった。大正初期に映画館となり、日活や松竹の作品を上映していた。昭和40年代の弁天座の写真あり。鐘紡洲本工場の女工の交代日には満員となった。1978年には3階建てのビルに建て替えられ、1階と2階に複数の飲み屋が、3階が映画館が入っていた。2006年現在のJOYプラザであり、3階の映画館跡地にはカラオケ店が入っている。現在の跡地の写真あり。*152

昭和初期の洲本市本町4丁目にあった「弁天座」の写真あり。厳島神社に近い繁華街にあり、主として寄席の興行を行っていた。大正初期には日活や松竹を上映する映画館となり、鐘紡洲本工場の女工の交代日には超満員となった。昭和40年代の弁天座の写真あり。「東映」「弁天座」の文字が見える。1978年には3階建てビルに改築され、1階と2階は飲食店街、3階に映画館があった。2006年現在の建物名はJOYプラザであり、3階の映画館跡地はカラオケ店となっている。*153
洲本銀映/洲本銀映・タイガー/洲本銀映・洲本タイガー劇場/洲本銀映
所在地 : 兵庫県洲本市紺屋町(1958年・1960年・1961年・1962年)、兵庫県洲本市紺屋町2-129(1966年・1969年・1973年)、兵庫県洲本市紺屋町2129(1976年)、兵庫県洲本市本町5-1-33(1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 2002年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「洲本銀映」。1961年の映画館名簿では経営者が岡田斐二郎、支配人が原下新次、木造1階冷暖房付、定員400、邦画を上映、電話が洲本685。1962年・1963年の映画館名簿では「洲本銀映・タイガー」(2館)。1962年の映画館名簿では経営者が岡田斐二郎、支配人が原下新次、木造1階冷暖房付、洲本銀映が定員350で邦画を上映、タイガーが定員400で邦画を上映、電話が洲本685甲。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「洲本銀映・洲本タイガー劇場」(2館)。1972年のゼンリン住宅地図では「1階銀映映画劇場 Tiger映画劇場 マージャン荘、2階淡路ボウリング 食堂ミキ」。1976年の映画館名簿では「洲本銀映・タイガー」(2館)。1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「洲本銀映」。1980年のゼンリン住宅地図では「銀映ボウル ロマンタイガー 銀映ゲームコーナー」など。2002年の映画館名簿では木造1階、200席、経営会社が岡田興業、経営者が坂本佳子、支配人が柴田祐一、邦画を上映。2003年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ザ・クラシック駐車場」。最寄港は洲本港。
オリオン座/洲本オリオン座/洲本オリオン
所在地 : 兵庫県洲本市幸町2(1953年)、兵庫県洲本市幸町乙344(1955年・1958年)、兵庫県洲本市幸町2-344(1960年・1963年)、兵庫県洲本市幸町2344(1966年・1969年・1973年)、兵庫県洲本市本町5-4-8(1975年)、兵庫県洲本市本町5(1978年・1980年)、兵庫県洲本市本町5-4-8(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2012年・2013年・2018年・2020年・2022年)
開館年 : 1951年、1975年(建て替え)
閉館年 : 2014年(定期上映)、営業中(不定期上映)
Wikipedia : 洲本オリオン
『全国映画館総覧 1955』によると1950年開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「オリオン座」。1962年の映画館名簿では経営者が野口ため、支配人が小島一誠、木造2階、定員250、洋画を上映。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「洲本オリオン座」。1972年の住宅地図では「洋画オリオン(野口)」。1976年の映画館名簿では経営者が野口ため、支配人が野口貞巳、木造2階冷暖房付、278席、洋画を上映。1977年の映画館名簿では経営者が野口ため、支配人が野口貞巳、鉄筋造1階冷暖房付、120席、洋画を上映。1980年の住宅地図では「洋画オリオン(日興商工協同組合)」。1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2012年・2013年の映画館名簿では「洲本オリオン」。2014年定期上映終了&不定期上映館化。2014年・2015年・2016年・2017年の映画館名簿には掲載されていない。2018年・2020年・2022年の映画館名簿では「洲本オリオン」。2022年の映画館名簿では経営会社が有限会社オリオン、経営者・支配人ともに野口仁、99席。最寄港は洲本港。

洲本町による鳥観図『淡路洲本町案内図』摂陽商船、1929年では後の洲本オリオンの場所に「定席」が描かれている。*154

1951年3月のこのほど、洲本市の「福助座」は洋画専門の映画常設館に転向し、新たな館名を一般公募することになった。締切は3月31日、発表は4月8日。商品は1人の1等が6か月分の優待券、2人の2等が1か月分の優待券、10人の3等が一日分招待券。*155

洲本市の「福助座」は改称する館名の一般公募を行っており、500余通の応募が殺到している。1951年3月18日には中間発表を行った。候補は洲本オリオン座、洲本ロマン座、洲本シネマ、洲本スバル座、洲本銀映座、洲本名画座、AS映画劇場、洲本ABC、第一映画劇場。*156

1951年4月のこのほど、洲本市の「福助座」は一般公募で「オリオン」に改称することに決定した。*157

2003年5月9日付『日本経済新聞』に掲載された「私の履歴書 阿久悠」では、阿久悠は高校時代に映画館に通ったとする記事が掲載されている。現物は未確認。*158

2010年夏のサッカーワールドカップの際には、洲本市中心部のコモード56商店街でパブリックビューイングが開催されたが、洲本オリオンが横4.5m×縦3.5mのスクリーンを用意した。*159

洲本オリオンの初代は野口宇一。浄瑠璃小屋が前身であり、芝居小屋の「福助座」となった。洋画を上映する映画館に転換する際には名称を公募し、1951年5月に「オリオン」が開館した。映画全盛期の淡路島に16の映画館があったとされるが、現在は洲本オリオンのみである。『不都合な真実』を上映しようとした際には、集客面での不安から配給会社に難色を示されたが、地元住民らを中心に「上映する会」が開催されて試写会まで開かれ、配給会社から上映を許可された。*160

2011年6月27日付『神戸新聞』夕刊には、「洲本オリオン」が3D上映設備を導入するという記事が掲載されている。現物は未確認。*161

2011年夏、淡路島の映画館「洲本オリオン」は3D対応のデジタル上映設備を導入した。支配人は野口仁(45)。浄瑠璃小屋だった場所を野口の祖父が買い取り、1951年には洋画専門の映画館となった。淡路島出身の阿久悠や笹野高史は学生時代に洲本オリオンに通ったという。かつて淡路島には10数館の映画館があったが、10年前には洲本オリオンのみとなった。2011年春にはテレビのロケで笑福亭鶴瓶が洲本オリオンを訪れ、「島で唯一の映画館。これからも頑張ってやりよ」と声をかけられた。独立映画館としての自由さを活かして、プロポーズのメッセージを映写したことや、結婚式のビデオ撮影に場所を貸したこともある。*162

2013年7月16日、淡路島がロケ地となった『夏の終り』が洲本市の映画館「洲本オリオン」で先行上映され、熊切和嘉監督のトークショーが開催される。神戸市などのほかに、淡路島の洲本市と淡路市で撮影が行われた。洲本オリオン西側の洲本レトロこみち沿いの古民家、旧洲本市民会館、由良地区の民家などが撮影場所となっている。全国ロードショーは8月31日。*163

2013年8月2日付『神戸新聞』夕刊には、2013年秋に淡路島唯一の映画館「洲本オリオン」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*164

2013年8月31日から上映する『夏の終り』を最後に、洲本市本町5丁目の映画館「洲本オリオン」が閉館する。9月末から10月上旬ころの予定。淡路島で唯一の映画館である。戦前に大衆演劇の一座が滞在する芝居小屋として開館し、その後常設映画館に転換した。転換当初は「福助座」という名称だったが、1951年には公募によって「オリオン」に改称した。オリオンという映画館は他地域にもあるため、後に「洲本オリオン」とした。洋画専門館だった。作詞家の阿久悠(洲本市五色町出身)や俳優の笹野高史(淡路市出身)は、洲本高校時代に洲本オリオンに足しげく通って西部劇などを楽しんだ。最盛期の淡路島には10数館の映画館があったが、約10年前には洲本市の「銀映」が閉館し、洲本オリオンのみとなった。2011年には1000万円以上を投じてデジタルシネマ上映設備を導入したが、観客の減少に歯止めがかからなかった。1951年頃の洲本オリオンの写真あり。*165

2013年10月5日、洲本市本町5丁目の映画館「洲本オリオン」が閉館した。最終上映作品は10月4日夜に上映した『夏の終り』。閉館理由は観客数の減少など。淡路島で唯一の映画館だった。閉館後も不定期の映画上映やイベント開催などを検討しているという。*166

2015年5月21日付『神戸新聞』夕刊には、淡路島が舞台の映画公開に合わせて5月30日から「洲本オリオン」が一時的に復活するという記事が掲載されている。現物は未確認。*167

2018年5月13日、洲本市本町5丁目の映画館「洲本オリオン」で「淡路島短編映画祭 2018 トランカミランカ」が開催された。淡路島出身者が製作・出演した作品、淡路島がロケ地となった作品などを中心に約40作品を上映し、洲本市出身の映画監督である大継康高もゲスト出演した。*168

2020年12月21日付『神戸新聞』には、2021年1月から「洲本オリオン」で定期上映が開始されるという記事が掲載されている。現物は未確認。*169

「洲本オリオン」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*170

「洲本オリオン」に言及している書籍として、大屋尚浩『日本懐かし映画館大全』辰巳出版、2017年がある。*171

「洲本オリオン」に言及している雑誌記事として、重松清「星をつくった男 阿久悠と、その時代 第3回 石原慎太郎と美空ひばり」『週刊現代』2009年3月21日がある。現物は未確認。*172

淡路市

生穂劇場
所在地 : 兵庫県津名郡生穂町(1955年)、兵庫県津名郡津名町生穂1796(1958年)、兵庫県津名郡津名町生穂(1960年)、兵庫県津名郡津名町生穂町(1961年)
開館年 : 1928年12月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1929年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「生穂劇場」。1961年の映画館名簿では経営者が堀田文太、支配人が堀田好和、木造2階、定員550、邦画を上映。1962年の映画館名簿には掲載されていない。

生穂町にある「生穂劇場」。1928年春、堀川文六が2万5000円の私財を投じて起工し、同年12月中旬に竣工落成した。純和風の2階建てであり、建坪は83坪、定員は330人。*173
仮屋淡路劇場/仮屋劇場
所在地 : 兵庫県津名郡仮屋町(1955年)、兵庫県津名郡淡路町久留麻1964(1958年・1959年)、兵庫県津名郡淡路町仮屋(1960年・1961年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「仮屋淡路劇場」。1958年・1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「仮屋劇場」。1961年の映画館名簿では経営者・支配人ともに春名久夫、木造2階、定員672、邦画を上映。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
東淡銀映
所在地 : 兵庫県津名郡淡路町久留麻(1960年)、兵庫県津名郡淡路町久留麻1964(1963年・1964年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1964年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「東淡銀映」。1961年の映画館名簿では経営者・支配人ともに春名久夫、木造2階冷暖房付、定員530、邦画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
岩屋淡路劇場/淡路劇場
所在地 : 兵庫県津名郡岩屋町(1955年)、兵庫県津名郡淡路町岩屋(1960年・1961年)
開館年 : 1923年8月
閉館年 : 1965年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「岩屋淡路劇場」。1955年の映画館名簿では経営者が岡田あい、支配人が原下新次、構造が記載なし、定員が記載なし、上映系統が記載なし。1956年・1957年・1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年の映画館名簿では「淡路劇場」。1961年の映画館名簿では経営者が岡田斐二郎、支配人が岡田あい、構造が記載なし、定員が記載なし、上映系統が記載なし。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

津名郡岩屋町字給田の浜辺にある「岩屋淡路劇場」。1919年に建設を申請したが許可されず、1923年にようやく建設許可を得て、同年8月に竣工した。工費は3万7000円。岩屋町唯一の娯楽機関として演劇や活動写真の興行を行っていたが、やがて「岩屋倶楽部」が創設されて2館の劇場が競合している。*174

1924年頃、岩屋に木造瓦葺2階建の「淡路劇場」が新築された。1965年には興行主が洲本市に転出し、またその他の理由もあって閉鎖された。淡路劇場の建物は間もなく取り壊された。*175

武田信一(編)『目で見る 淡路島の100年』郷土出版社、1995年には「淡路劇場」の写真が掲載されている。1929年に竣工したという。現物は未確認。*176

1923年8月、岩屋の片浜給田に岡田斐二郎が「淡路劇場」を建てた。1919年に建築申請を出したが、許可が下りるまで4年から5年かかったとされる。木造2階建てであり、2階には桟敷があった。建坪は本館が123坪、附属が40坪。総工費は3万7000円。*177
都志映画劇場
所在地 : 兵庫県津名郡五色町都志(1960年)、兵庫県津名郡五色町(1964年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1964年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「都志映画劇場」。1961年の映画館名簿では「都志映劇」。1961年の映画館名簿では経営者・支配人ともに岡田圭介、構造が記載なし、定員450、邦画を上映。1963年・1964年の映画館名簿では「都志映画劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
郡家会館
所在地 : 兵庫県津名郡郡家町(1955年)、兵庫県津名郡一宮町郡家(1960年・1966年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「郡家会館」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年・1966年の映画館名簿では「郡家会館」。1961年の映画館名簿では経営者が高田定明、支配人が加藤長次郎、木造1階、定員250、邦画を上映。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
富島劇場
所在地 : 兵庫県津名郡富島町(1943年・1947年・1950年・1953年・1955年)、兵庫県津名郡北淡町富島(1958年・1960年・1963年)、兵庫県津名郡北淡町富島847(1966年・1967年)、兵庫県津名郡北淡町富島(1969年)
開館年 : 1924年12月18日
閉館年 : 1967年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年・1969年の映画館名簿では「富島劇場」。1967年の映画館名簿では経営者が井手本勇、支配人が井手本繁男、木造1階、定員367、邦画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図では跡地に巨大な空白の建物。跡地は「住吉神社」南東90mにある民家など。阪神・淡路大震災後の土地区画整理事業によって道路割が変化しているので参考程度に。最寄港は富島港。

富島町の「富島座」。1924年12月18日、有志によって富島座が建設された。建坪111坪5合。経営者は井手本三郎と河合豊助。*178

1958年の北淡町富島東之町にあった劇場「富島座」の館内の写真あり。1913年に建設された500人収容の劇場であり、回り舞台や両側の花道を備え、客席は1階・2階とも桟敷席だった。戦前は大衆演劇場として巡業の芝居などがあり、また映画の上映もあった。沢村貞子、加東大介などが来演している。北淡町では人形浄瑠璃も盛んであり、年に3回は源之丞一座などを招いた人形芝居の公演があった。戦前・戦後の富島地区は漁業で栄え、富島座と「水産クラブ」という2館の劇場があった。時代とともに映画専門館化したが、テレビの普及に押されて1967年2月に閉館した。数年前までは壁面をツタが覆う建物が残っており、色あせた「大衆娯楽場」の看板もかかっていたが、その後取り壊され、1989年現在の跡地は駐車場として使用されている。*179
室津淡路劇場/室津映画劇場/室津映劇
所在地 : 兵庫県津名郡室津町(1955年)、兵庫県津名郡北淡町室津(1958年・1960年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「室津淡路劇場」。1955年の映画館名簿では経営者が岡田斐二郎、支配人が原下新次、木造1階、定員150、混合を上映。1958年・1960年の映画館名簿では「室津映画劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「室津映劇」。1970年の映画館名簿では経営者が岡田一男、支配人が岡田新吉郎、木造1階、定員600、邦画を上映。1971年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「淡陽信用組合室津支店」。最寄港は室津漁港。
三島座/志筑三島座
所在地 : 兵庫県津名郡志筑町(1955年)、兵庫県津名郡津名町志筑(1958年・1960年・1963年)、兵庫県津名郡津名町志筑3029(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1914年
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「三島座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「志筑三島座」。1970年の映画館名簿では経営者が島寿男、支配人が記載なし、木造2階、定員450、邦画・洋画・成人映画を上映。1971年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「高島眼科クリニック」北東90mの「三嶋グリーンハイツ」。最寄港は津名港。

津名郡志筑町にある「三島座」。1899年頃に創設され、1914年に改築された。建坪160坪の和風建築であり、定員は550人。経営者は島秀吉であり、演劇・活動写真・諸演芸の興行を行っている。*180

志筑町の中橋の手前の橋のそばには、島氏が経営していた映画館「三島座」があった。畳席や花道を有しており、両側にも畳の客席があったが、1952年頃には椅子席になった。*181

1929年6月発行の『淡路之誇』によると、淡路島には「洲本玉尾座」「洲本劇場」「由良旭座」「仮屋東陽館」「岩屋倶楽部」「郡家安楽座」「賀集松旭座」「福良桝井座」「志筑三島座」など17の劇場があった。戦前の「志筑三島座」の興行は週1回であり、子供たちは宣伝文句が聞こえるとじっとしていられなかったという。何重にも立ち見ができる超満員の劇場だった。*182
岩屋倶楽部/岩屋クラブ/岩屋映画劇場/岩屋映劇
所在地 : 兵庫県津名郡岩屋町(1943年・1947年・1950年・1953年・1955年)、兵庫県津名郡淡路町岩屋(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1926年8月
閉館年 : 1971年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「岩屋倶楽部」。1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「岩屋クラブ」。1955年・1958年の映画館名簿では「岩屋映劇」。1960年の映画館名簿では「岩屋映画劇場」。1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「岩屋映劇」。1970年の映画館名簿では経営者が岡田興業、支配人が岡田新吉郎、木造1階、定員550、邦画を上映。1972年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図には掲載されていない。跡地は「円徳寺」北北東30mのパチンコ店廃墟。最寄港は岩屋港。

津名郡岩屋町の本通りにある活動常設館「岩屋倶楽部」。1926年8月、工費2万8000円で竣工した洋風のコンクリート造建築である。建坪100坪、定員400人。活動写真、漫才、浪花節、落語などの興行を行っている。*183

1926年8月、岩屋の有志は洋風コンクリート造の「岩屋倶楽部」を建てた。敷地は170坪、建坪は100坪、定員は400人。活動写真・漫才・浪花節・落語などの興行が行われた。*184

1957年の岩屋にあった「岩屋映画館」の入口の写真あり。たくさんの子どもらや自転車が見える。最盛期の淡路島には17館もの映画館があった。*185

岩屋には劇場「淡路劇場」があったが、政争から「岩屋倶楽部」が新築され、主として色物を興行した。岩屋倶楽部は「岩屋映画劇場」に改称し、1971年現在も昼夜興行を続けてかなりの観客を呼んでいる。1971年現在の岩屋映画劇場の写真あり。*186

南あわじ市

都劇場
所在地 : 兵庫県三原郡北阿万村(1955年)、兵庫県三原郡南淡町北阿万(1958年・1960年・1961年)
開館年 : 1950年7月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年7月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「都劇場」。1961年の映画館名簿では経営者・支配人ともに山形松次、木造1階、定員400、邦画を上映。1962年の映画館名簿には掲載されていない。南あわじ市らん・らんバスには都劇場前バス停がある。跡地は「薬王寺」北100mの空き地。最寄港は福良港。
美教劇場
所在地 : 兵庫県三原郡榎列村(1955年)、兵庫県三原郡三原町榎列255(1958年)、兵庫県三原郡三原町榎列(1960年・1961年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「美教劇場」。1961年の映画館名簿では経営者が船越雅志、支配人が記載なし、木造1階、定員400、邦画を上映。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
市村劇場/ワールド/三原ワールド会館
所在地 : 兵庫県三原郡市村(1951年・1952年・1953年・1955年)、兵庫県三原郡三原町市村557(1958年)、兵庫県三原郡三原町市557(1963年・1965年・1966年)
開館年 : 1950年頃
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1951年・1952年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「市村劇場」。1955年の映画館名簿では経営者が市村劇場、支配人が仲田角平、木造2階、定員500、混合を上映。1960年・1961年・1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「ワールド」。1965年・1966年の映画館名簿では「ワールド会館」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに山形松次、木造1階暖房付、定員500、邦画を上映。1967年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「淡路三原郵便局」南東100mの「ワールド会館駐車場」。最寄港は福良港。

昭和20年代の三原町にあった「市村劇場」前で撮影された青年団文化祭の記念写真あり。市村劇場は市村駅前通り商店街の中央にあり、廻り舞台や2階席を有していた。剣劇の道之助、南条美智子、桜たまみらも来演している。市村劇場は学校の文化祭などにも用いられた。その後、昭和30年代後半頃までは「ワールド会館」という名称の映画館だった。2006年現在の跡地は御菓子処みなと屋の向かいの駐車場である。*187
湊劇場
所在地 : 兵庫県三原郡湊町(1955年・1958年)、兵庫県三原郡西淡町湊(1960年・1966年・1967年)
開館年 : 1927年4月
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1966年・1967年の映画館名簿では「湊劇場」。1967年の映画館名簿では経営者が山形昇、支配人が記載なし、木造2階、定員200、邦画・洋画・混合を上映。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「南あわじ警察署湊駐在所」北東70mの「一井食品」。最寄港は湊港。

湊町の「湊劇場」。それまで湊町には娯楽機関がなかったが、資本金2万円で株式会社湊劇場を創立して菊川長五郎が社長に就任した。1926年12月に湊劇場が起工し、1927年4月に竣工落成した。木造2階建て、建坪80余坪、定員296人。こけら落とし興行には神戸から市川海老十郎一座を招いた。*188

1934年現在の湊町会議員。1887年生まれの山形松次は当選3回。昭和タクシーの経営者。「湊劇場」の経営者。*189

大正時代の湊港は大阪-高松航路の寄港地であり、兵庫-明石-湊航路の起点でもあった。湊港は三原郡で産出されたコメの輸出港でもあり、阪神地域では飯米として、徳島県では醸造米として喜ばれた。湊と洲本の間にバス路線ができたのは1922年11月のことである。大正10年代には淡路島にも電灯がともるようになり、1927年には湊劇場株式会社が創立された。*190

湊町商工会は湊劇場期成同盟会を組織し、株式会社湊劇場を設立した。資本金は400株で計2万円。1926年12月に起工し、1927年4月に竣工落成した。木造2階建てであり、建坪は約80坪、定員は296人。こけら落とし公演には神戸から市川海老十郎一座を迎えた。映画では『わが青春に悔いなし』や『ゴジラ』などが上映され、高田浩吉、鶴田浩二、松尾和子らが来館した。いずれも1958年の日活作品『夜の牙』と『東京野郎と女ども』のチラシあり。現在は劇場の痕跡を見つけることも難しい。*191
阿万劇場
所在地 : 兵庫県三原郡阿万町(1950年・1953年・1955年)、兵庫県三原郡南淡町本庄(1958年)、兵庫県三原郡南淡町阿万(1960年)、兵庫県三原郡南淡町阿万上町(1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「阿万劇場」。1969年の映画館名簿では経営者が黒田紳一、支配人が黒田禎子、木造1階、定員150、邦画・洋画を上映。1970年の映画館名簿には掲載されていない。

昭和30年代後半の阿万にあった「阿万劇場」の写真あり。1951年の『馬喰一代』、1962年の『大江戸の鷹』の看板が見える。昭和30年代には三原郡のみで6館の映画館があり、灘や沼島からも観客が訪れた。*192
桝井座/福良劇場
所在地 : 兵庫県三原郡福良町(1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年)、兵庫県三原郡南淡町福良(1958年・1960年・1963年)、兵庫県三原郡南淡町福良乙751(1966年・1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1901年(桝井座)、1947年(福良劇場)
閉館年 : 1971年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「桝井座」。1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「福良劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が桝井光男、支配人が奈木米一、木造2階、定員451、邦画・洋画・成人映画を上映。1972年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図では跡地に「ガレージ」。2004年以後2020年以前に建物が解体。跡地は「真光寺」東北東50mにある駐車場。最寄港は福良港。

福良町の「桝井座」は福良町唯一の娯楽機関である。木造2階建てであり、建坪は120坪、定員は600人。1901年、福良町で酒造業をしていた桝井光太郎が独力で建設して桝井座と命名した。*193

1901年には福良で酒造業をしていた桝井光太郎が私財1万円を投じて、独力で「桝井座」を創業した。建坪は120坪、和風木造2階建、定員600。戦後には福良劇場に改称した。やがて福良劇場は廃業したが、1991年現在も建物が残っている。今考えると構造も造作も立派とは言えない。*194

このページへのコメント

こんにちは。お察しのように(1)玉尾座、(2)弁天座の可能性が高いとは思いますが断言はできません。

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Posted by  hekikaicinema hekikaicinema 2021年12月15日(水) 00:51:10 返信

初めまして、戦前の映写機とフィルムを収集しているはんす(@ ]映画の郷[)と申します。

以前に1933年頃の淡路島でだんじり祭りを撮影した個人撮影動画を手に入れました。手振れがひどい一本なのですが一部に映画館が写りこんでいます。

(1)下屋敷通で撮影されたと思われる場面、2本ののぼりが立っていて、1本に小さくトーキー設備導入の宣伝があり、もう1本に「〇〇座」(おそらく「〇尾座」)の館名があります。玉尾座ではないか…と思うのですがあっているでしょうか。

https://drive.google.com/file/d/12KTsYahPAhPIpqK3h_RZOpg3tZKta6On/view
https://drive.google.com/file/d/1ynieZmGNHmXPZJLe1l_0Goa2kekT7LS9/view

(2)もう一軒、やや広い通りに新興キネマの看板を立てた映画館がありました。洲本本町、弁天座ではないかと思うのですがどうでしょうか。

https://drive.google.com/file/d/1xTySrbLOQVcNTJ2T7_QMtQlV5AnleGRB/view

お忙しい中とは思いますがご教示いただけると幸いです。よろしくおねがいいたします。

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Posted by はんす 2021年10月24日(日) 20:14:22 返信

そうなんですね。
返答ありがとうございました。
もうちょっと探してみます。

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Posted by こまいぬ 2020年12月22日(火) 07:44:44 返信

初めまして。
尼ケ崎名画劇場香月の劇場の名前の読み方が分からず、探しております。
もし、読み方をご存知でしたら教えていただけませんか?
よろしくお願い致します。

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Posted by こまいぬ 2020年12月20日(日) 21:26:05 返信数(1) 返信

こんにちは。正確な読みについては私もよくわからないです。すみません。

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Posted by  hekikaicinema hekikaicinema 2020年12月21日(月) 20:00:22

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