日本の映画館の総合データベースです。



中津市

蓬莱観
所在地 : 大分県中津市三ノ丁
開館年 : 1882年
閉館年 : 1945年頃(解体)
映画館ではなく芝居小屋。各年版の映画館名簿には掲載されていない。蓬莱館とも表記される。跡地は戦後に整備された庭園「蓬莱園」。最寄駅はJR日豊本線中津駅。

1882年、中津町の材木商である山中某は道楽で三ノ丁に「蓬莱観」を建設した。廻り舞台を有する珍しい劇場であり、尾上菊五郎や水谷八重子なども来演した。「西日本有数の大劇場」「芝居は博多か中津で」と称された。戦時中に建物疎開で取り壊された。1979年現在は櫓太鼓が往時の繁栄を偲ぶ唯一の遺物である。*1

1923年発行の「中津市全図」には「蓬莱」と「常春座」が描かれている。*2

1930年5月、中津市に水谷八重子の芸術座一行が中津駅を訪れた際の写真あり。5月14日に「蓬莱観劇場」で公演が行われた。*3

1936年1月に中津市の「蓬莱観劇場」で行われた栗島すみ子主演の舞台公演『永久の愛』の館内の写真あり。「大入満員」の幕が見える。*4

1937年11月に中津市の「蓬莱観劇場」で行われた皇軍慰問三曲演奏会の際の館内の写真あり。収益で兵士に慰問品を贈るという演奏会であり、尺八や琴の演奏が行われた。*5

中津市にあった「蓬莱観」の舞台案内の写真あり。蓬莱観は中津公園地にあり、糸園某、辛島某、井上某、未貞某らの株式組織だった。九州では「西の博多、東の中津蓬莱観」と称された劇場であり、九州を訪れた一座は必ずこの2劇場を巡業すると言われた。*6
松竹館
所在地 : 大分県中津市船町(1930年・1936年)、大分県中津市仲町(1943年)
開館年 : 1922年10月1日
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1930年・1936年・1943年の映画館名簿では「松竹館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

1922年10月、中津町船町に活動写真館「松竹館」が開館した。*7

1922年10月1日の中津町船町にあった活動写真館「松竹館」のこけら落としの際の館内の写真あり。御祝儀金を出した人物の名前が貼り出されている。1927年には松竹女優の五月信子が松竹館を訪れ、『茶を作る家』の舞台挨拶を行った。*8

1929年の中津市の市制施行時点で、興業場としては「蓬莱館」「常春座」「宝館」「松竹館」があった。*9
今津大師館
所在地 : 大分県中津市今津区(1957年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1957年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「今津大師館」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。
富士館
所在地 : 大分県中津市八幡前町342-1(1957年・1958年)、大分県中津市八幡前町(1959年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1959年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1959年の映画館名簿では「富士館」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。
大博映画劇場/大師松竹
所在地 : 大分県中津市新博多町(1957年・1958年・1960年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1961年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「大博映画劇場」。1960年・1961年の映画館名簿では「大師松竹」。1960年の映画館名簿では経営者が大堀紋二、支配人が大堀善造、木造1階、定員281、松竹を上映。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
タイガー映画劇場/タイガー映劇/中津映劇/中津東映
所在地 : 大分県中津市蛭子町(1951年・1952年・1953年・1955年)、大分県中津市蛭子町128(1958年)、大分県中津市蛭子町(1960年・1961年)
開館年 : 1950年頃
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1951年の映画館名簿では「タイガー映画劇場」。1952年・1953年の映画館名簿では「タイガー映劇」。1955年の映画館名簿では「中津映劇」。1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「中津東映」。1960年の映画館名簿では経営者が大堀紋二、支配人が大堀善造、木造1階、定員600、東映を上映。1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の住宅地図では「中津東映」。1966年の住宅地図では跡地に「中津東映跡」。1969年の住宅地図では跡地に「駅前バッティングセンター」。1973年の住宅地図では跡地に「アキチ」。跡地は「光善寺」南西60mのアパート「エスパジオ日進」。最寄駅はJR日豊本線中津駅。
中津東宝/宝館
所在地 : 大分県中津市駅前(1930年)、大分県中津市日ノ出町(1936年・1943年)、大分県中津市日之出町(1947年・1950年・1953年・1955年)、大分県中津市日ノ出町367(1958年)、大分県中津市日ノ出町(1960年・1961年)
開館年 : 1918年頃
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年・1936年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「宝館」。1958年の映画館名簿では「中津東宝」。1960年・1961年の映画館名簿では「宝館」。1960年の映画館名簿では経営者が大堀紋二、支配人が大堀善造、木造2階、定員450、洋画を上映。1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の住宅地図では「中津東宝」。1966年・1969年の住宅地図では跡地に「宝パチンコ会館」。1973年・1983年の住宅地図では跡地に「宝会館パチンコ」。跡地は「東横INN大分中津駅前」北西140mの駐車場など。最寄駅はJR日豊本線中津駅。

1918年頃、中津町日の出町に活動写真館「宝館」が開館した。*10

1923年頃の中津町にあった「宝館」の写真あり。1918年頃に中津初の常設映画館として開館した。*11

1923年頃の中津町にあった「宝館」の写真あり。手前には金剛川が見える。1918年頃、中津駅前の日の出町の田んぼの中に建った、中津初の活動写真館である。開館時の社長は小田安次、建物の施工は中山組である。*12

1923年頃の中津町にあった「宝館」の写真あり。手前を流れるのは金剛川である。1918年頃に中津駅前の日の出町の蓮田を埋め立て、中津町初の活動専門館として開館した。1965年にはパチンコ店「宝会館」となった。*13

1929年の中津市の市制施行時点で、興業場としては「蓬莱館」「常春座」「宝館」「松竹館」があった。*14

昭和初期の中津市にあった洋画封切館「宝館」の写真あり。1938年にはデアナ・ダービン主演作『オーケストラの少女』を上映して満員が続いた。戦前の中津市には「大師館」、「松竹館」、宝館の3館の映画館があった。*15

1950年頃の中津市にあった「宝館」入口の写真あり。『アラスカ珍道中』を上映中である。1980年現在の跡地はパチンコ店となっている。*16
下郷会館
所在地 : 大分県下毛郡耶馬渓村下郷(1956年・1958年)、大分県下毛郡耶馬渓村(1960年・1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「下郷会館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
守実映劇
所在地 : 大分県下毛郡山国村守実(1956年)、大分県下毛郡山国村(1958年)、大分県下毛郡山国町(1960年・1963年)、大分県下毛郡山国町守実(1964年)
開館年 : 1949年8月18日
閉館年 : 1964年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「守実映劇」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

1949年8月18日、山国村守実(もりざね)に映画専門館「守実映劇」が開館した。新野三孝、矢野春之助、矢野常美、山下一正、中島武夫、溝口真寿美の6人の出資である。封切館より数か月遅れで上映された。*17
公園劇場
所在地 : 大分県中津市八幡前町(1957年・1958年・1960年)、大分県中津市八幡町(1963年)、大分県中津市大幡区八幡町(1964年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1964年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「公園劇場」。1963年の住宅地図では「公園劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大分銀行大貞支店」東北東170mの更地。最寄駅はJR日豊本線東中津駅。
第二大師映画劇場/大師館(南)
所在地 : 大分県中津市大師町(1934年・1936年・1941年・1943年・1950年・1953年・1955年)、大分県中津市大師町819(1956年)、大分県中津市大師町918(1957年・1958年)、大分県中津市島田町(1960年)、大分県中津市大師町(1963年・1964年)
開館年 : 1931年12月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年・1941年・1943年・1950年・1953年・1955年・1956年の映画館名簿では「大師館」。1955年の映画館名簿では木造2階、定員600、松竹・大映を上映、電話が中津905。1957年・1958年の映画館名簿では「第二大師映画劇場」。1958年の映画館名簿では経営者が大堀素治、支配人が中村中、木造2階暖房付、定員650、大映・東宝を上映、電話が中津905。1960年・1963年の映画館名簿では「大師館」。1960年の映画館名簿では経営者が大堀紋二、支配人が大堀善造、木造2階冷暖房付、定員603、大映・東宝を上映、電話が中津905。1963年の映画館名簿では経営者が大師文化興業、支配人が大堀善造、鉄筋造2階冷暖房付、定員603、大映・東宝を上映、電話が中津905。1963年の住宅地図では「映劇大師館」。1966年の住宅地図では跡地に「丸和デパート」。1969年の住宅地図では跡地に「丸和中津店」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「和田歯科医院」西40mの駐車場。最寄駅はJR日豊本線中津駅。

1931年12月、中津市に「中津大師館」が開館した。*18

1935年の中津市に新発足した際の「中津大師館」の写真あり。マキノトーキーと提携して新築した。*19

1935年頃の中津市にあった「大師館」の写真あり。「中津大師館直営」「優秀映画 大封切場」の文字が見える。*20

昭和初期の中津市にあった「大師館」の写真あり。戦時中の映画館は紅系と白系に分かれ、戦後には松竹系封切館となった。2001年現在のスーパー「寿屋」が大師館の跡地であり、大師館の外にあった稲荷神社は現在も残っている。*21

1955年頃の中津市にあった「大師館」の写真あり。『地球防衛軍』や『愛情の都』などの看板が見える。1955年頃の映画黄金期、中津市には大師館や「宝館」など約5館の映画館があった。*22

1958年頃の中津市島田仲町にあった映画館「大師館」の写真あり。大映作品『忠臣蔵』や『天竜しぶき笠』などの看板が見える。主として大映作品を上映していた。閉館後の跡地には丸和中津店が建ち、その後中津寿屋百貨店の別館となった。*23
常春座/中津劇場/中津大映劇場/大映劇場/東映/東洋映画劇場/東洋映劇/中津東洋映画劇場
所在地 : 大分県中津市寺町(1947年・1950年・1953年・1955年)、大分県中津市寺町988(1958年)、大分県中津市寺町(1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 明治時代以前
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「中津大映劇場」。1950年の映画館名簿では「大映劇場」。1953年の映画館名簿では「東映」。1955年の映画館名簿では「東洋映劇」。1958年の映画館名簿では「東洋映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「東洋映劇」。1960年の映画館名簿では経営者が大堀紋二、支配人が大堀善造、木造2階、定員830、邦画を上映。1963年の住宅地図では「東洋映劇」。1966年・1969年の映画館名簿では「中津東洋映画劇場」。1966年・1969年の住宅地図では「東洋映画劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「桜町天満宮」東10mの「寺町クリニック」。最寄駅はJR日豊本線中津駅。

1882年8月、中津町公園地に「蓬莱館」が完成した。寺町の「常春座」は既に存在していた。*24

1923年発行の「中津市全図」には「蓬莱」と「常春座」が描かれている。*25

1929年の中津市の市制施行時点で、興業場としては「蓬莱館」「常春座」「宝館」「松竹館」があった。*26

1942年頃の中津市寺町にあった「大映」入口の写真あり。もとは「常春座」であり、昭和に入ると「中津劇場」に改称し、その後も何度か名称が変更されて大映となった。*27
銀座金星/中津金星映画劇場/中津金星映劇
所在地 : 大分県中津市新博多町(1963年・1964年・1965年)、大分県中津市新博多1722-4(1966年)、大分県中津市新博多町173-4(1969年)、大分県中津市新博多町1728-4(1970年・1971年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1971年頃
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「銀座金星」。1963年・1966年・1969年の住宅地図では「銀座金星」。1966年・1969年の映画館名簿では「中津金星映画劇場」。1970年・1971年の映画館名簿では「中津金星映劇」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「西日本シティ銀行中津支店」駐車場北西部。最寄駅はJR日豊本線中津駅。
ローズ映劇/中津ローズ映画劇場
所在地 : 大分県中津市蛭子町65-5(1958年)、大分県中津市蛭子町(1960年・1963年)、大分県中津市大字島田65-6(1966年・1969年)、大分県中津市蛭子町(1970年・1971年)
開館年 : 1955年3月26日
閉館年 : 1971年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「ローズ映劇」。1960年の映画館名簿では経営者が多川直彦、支配人が山口行雄、木造1階、定員300、日活・洋画を上映。1963年・1966年・1969年の住宅地図では「ローズ映劇」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「中津ローズ映画劇場」。1971年の映画館名簿では「中津ローズ映劇」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「TSUTAYA中津店」南西60mの「ステーキレストランもみのき」など。最寄駅はJR日豊本線中津駅。

1955年3月26日、中津市蛭子町に洋画専門館「ローズ劇場」(ローズ映劇)が開館した。オープニングは『幌馬車』。木造平屋建て、定員300人。*28
第一大師映画劇場/大師東映/大師文化/中津大師文化/中津大師館(北)
所在地 : 大分県中津市新博多町1517(1957年・1958年)、大分県中津市新博多町(1960年・1963年・1964年)、大分県中津市新博多町1715(1966年)、大分県中津市新博多町173-4(1969年・1970年・1973年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1973年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「第一大師映画劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「大師東映」。1960年の映画館名簿では経営者が大堀紋二、支配人が大堀善造、鉄筋造2階冷暖房付、定員640、東映を上映。1963年・1964年の映画館名簿では「大師文化」。1963年の映画館名簿では経営者が大師文化興業、支配人が大堀善造、鉄筋造2階冷暖房付、定員640、東映を上映、電話が中津133。1963年・1966年・1969年の住宅地図ではこの場所に「大師文化劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「中津大師館」。1969年の映画館名簿では「中津大師文化」。1969年の映画館名簿では経営者が文化興業、支配人が小野楯雄、鉄筋造2階冷暖房付、定員600、洋画を上映、電話が中津133。1970年・1973年の映画館名簿では「中津大師館」。1973年の住宅地図では「大師館」。1973年の映画館名簿では経営者が大堀善造、支配人が小野楯雄、鉄筋造2階冷暖房付、600席、洋画を上映、電話が2-0133。1974年の映画館名簿には掲載されていない。1983年の住宅地図では跡地に「寿屋百貨店中津店」。跡地は「福岡銀行中津支店」南南西30mの「ドラッグセイムス中津新博多店」敷地。最寄駅はJR日豊本線中津駅。

1931年12月、中津市に「中津大師館」が開館した。*29

1935年頃の中津市にあった「大師館」の写真あり。「中津大師館直営」「優秀映画 大封切場」の文字が見える。*30

昭和初期の中津市にあった「大師館」の写真あり。戦時中の映画館は紅系と白系に分かれ、戦後には松竹系封切館となった。2001年現在のスーパー「寿屋」が大師館の跡地であり、大師館の外にあった稲荷神社は現在も残っている。*31

中津市にあった洋画上映館「大師館」の閉館間際の写真あり。入口前に閉館を告知する看板が出ている。1972年公開のロジャー・コーマン製作映画『残酷女刑務所』、1971年公開のヨーロッパ製西部劇『華麗なる対決』の看板が見える。寿屋百貨店が進出する際に取り壊された。*32

1977年頃の中津市の寿屋百貨店に並ぶ自転車の写真あり。1975年に開店した大分県北地域初の百貨店である。劇場「大師館」に開店した1館のみだったが、平成になって増築したことで3館体制となった。郊外型商業施設の勢いに押されて2002年に閉店し、2012年までに建物が取り壊された。*33

『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 中津』国書刊行会、1979年に掲載されている。現物は未確認。*34
第一劇場/第一映劇/松竹映劇/中津銀映映画劇場/中津銀映劇場/中津銀映(旧)/中津ロマン
所在地 : 大分県中津市仲町(1947年)、大分県中津市島田(1950年・1953年)、大分県中津市島田町(1955年)、大分県中津市仲町(1958年)、大分県中津市島田町(1960年・1963年)、大分県中津市大字島田363-2(1966年・1969年・1973年・1975年)、大分県中津市大字島田町363-2(1978年・1980年・1981年)
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1981年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年の映画館名簿では「第一劇場」。1953年の映画館名簿では「第一映劇」。1955年の映画館名簿では「松竹映劇」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中津銀映」。1963年・1966年・1969年の住宅地図では「中津銀映」。1966年・1969年の映画館名簿では「中津銀映映画劇場」。1973年の映画館名簿では「中津銀映劇場」。1973年の住宅地図では「銀映」。1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「中津銀映」。1981年の映画館名簿では「中津ロマン」。1981年の映画館名簿では経営会社が多川興行、経営者が多川信子、支配人が中谷文応、木造1階、500席、邦画・成人映画を上映。1983年の住宅地図では跡地に「休館(アキ)」。後継館は中津銀映1・2。跡地は明照寺管理の月極駐車場「味道筋駐車場」。最寄駅はJR日豊本線中津駅。
中津銀映1・2/中津シネマ1・2
所在地 : 大分県中津市東本町458-1(1981年)、大分県中津市駅前東本町レンガ館(1982年)、大分県中津市駅前東本町レンガ館4階(1985年・1990年)、大分県中津市東本町458-1 大蔵ビル4階(1995年)、大分県中津市東本町458-1 レンガ館4階(2000年・2002年)、大分県中津市東本町1-1 ビッグパレスビル4階(2003年・2005年・2010年・2011年)
開館年 : 1981年(中津銀映移転)、2002年7月(中津シネマ)
閉館年 : 2002年4月21日(中津銀映)、2011年3月(中津シネマ)
前身館は別地点の中津銀映。1981年・1982年・1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「中津銀映1・2」。1981年の映画館名簿では経営会社が多川興行、経営者が多川信子、支配人が中谷文応、鉄筋造1階、1が144席で洋画を上映、2が120席で邦画を上映。1982年の映画館名簿では経営会社が多川興行、経営者が多川信子、支配人が杉本賢治、鉄筋造4階、1が230席で邦画・洋画を上映、2が120席で邦画を上映。1983年の住宅地図では「れんが館 4階中津銀映1・2」。2002年の映画館名簿では経営会社がセントラルプラザ、経営者が力武英五郎、支配人が力武太郎、鉄筋造2階、1が207席、2が108席、いずれも邦画・洋画を上映。2003年・2005年・2010年・2011年の映画館名簿では「中津シネマ1・2」(2館)。2003年の映画館名簿では経営会社が西日本産業、経営者が岩田進、支配人が佐藤洋一郎、鉄筋造2階、1が207席、2が108席、いずれも邦画・洋画を上映。2011年の映画館名簿では経営会社が西日本産業、経営者が岩田進、支配人が佐藤洋一郎、鉄筋造4階、1が178席、2が98席、いずれも邦画・洋画を上映。2012年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「中津駅北口」北東50mの駐車場。最寄駅はJR日豊本線中津駅。

2002年4月20日の『大分合同新聞』には、大分県北地域最後の映画館「中津銀映」が4月21日をもって閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*35

2002年4月には中津市東本町の映画館「中津銀映」が閉館した。大分県北部と福岡県京築地区で唯一の映画館だったことから惜しむ声が多かったため、7月にはビルを所有する興行会社の西日本産業が一部改装してリニューアルオープンする。1981年にJR中津駅前のビル4階に中津銀映が開館。200席の銀映1と90席の銀映2があったが、シネコンの進出で観客数が伸び悩んだことで閉館していた。*36

2002年7月20日、中津市の映画館「中津銀映1・2」が「中津シネマ1・2」に名を変えて営業を再開する。大分県北部唯一の映画館である。大分市のセントラルプラザが経営していた中津銀映は4月に閉館していた。すべての座席を新しくする。*37
セントラルシネマ三光
所在地 : 大分県中津市三光佐知962-2(2022年)
開館年 : 2020年3月7日
閉館年 : 営業中
2020年の映画館名簿には掲載されていない。2022年の映画館名簿では「セントラルシネマ三光1-8」(8館)。2022年の映画館名簿では経営会社がセントラル観光、経営者が力武嘉壽子、支配人が石川沙和。イオンモール三光内。最寄駅はJR日豊本線中津駅。

2019年度中に、中津市のイオンモール三光にシネコン「セントラルシネマ三光」が開館する予定。8スクリーンであり、114席から270席までの計1178席。運営は宮崎市のセントラル観光。イオンモール三光の西側の駐車場に、鉄骨平屋建てのシネマ等が建設される。1960年代の中津市には9館の映画館があったが、2011年に「中津シネマ」が閉館して映画館がなくなり、大分市や福岡県北九州市まで行く必要があった。*38

2019年度中に、中津市三光佐知にあるイオンモール三光の駐車場の一部にシネマ棟が開館する予定。8スクリーン計1178席。県北地域と隣接する福岡県京筑地域では初のシネコンとなる。1960年代の中津市には9館の映画館があったが、2011年3月に「中津シネマ」が閉館したことで映画館が亡くなった。中津市の映画ファンは大分市や福岡県北九州市まで行く必要があり、市民や経済界や議会などから映画館の復活を求める声があった。経営は宮崎市のセントラル観光であり、同社にとっては宮崎市と大牟田市に次いで3サイト目の複合型映画館となる。中津市・宇佐市・豊後高田市などの県北地域に福岡県京筑地域を合わせた人口は約33万人であり、年間30万人の入場者数を見込んでいる。*39

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