日本の映画館の総合データベースです。



宝塚市

ルナパーク/宝塚ルナパーク/宝塚キネマ館/宝塚映画館/宝塚映画劇場(初代)/宝塚小劇場
所在地 : 兵庫県川辺郡小浜村(1925年・1927年)、兵庫県川辺郡小浜村新温泉(1930年・1936年)、兵庫県川辺郡小浜村(1943年)
開館年 : 1924年
閉館年 : 1945年12月7日
1925年の映画館名簿では「ルナパーク」。1927年・1930年の映画館名簿では「宝塚ルナパーク」。1936年の映画館名簿では「宝塚キネマ館」。1943年の映画館名簿では「宝塚映画館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は商業施設「花のみちセルカ2番館」。

戦前の宝塚の新温泉通りにあった「キネマ映画館」の写真あり。戦前の宝塚には国鉄宝塚駅前に芝居小屋「蓬莱館」もあったが、キネマ映画館は唯一の映画館だった。*1

宝塚市の旧宝塚ファミリーランド中央ゲート横には、東宝系の映画館「パークシネマ」があった。2016年現在の宝塚歌劇チケット予約センター付近である。パークシネマは戦後すぐに焼失した。*2

宝塚市の旧宝塚ファミリーランド立体動物園付近には「キネマ館」(宝塚映画劇場)があった。キネマ館は戦後すぐに焼失した。*3

宝塚市にあった「宝塚キネマ館」と文芸図書館の写真あり。1935年に宝塚キネマ館が設置された。終戦後には進駐軍が大劇場を接収したため、1945年5月から12月には宝塚キネマ館で宝塚歌劇の公演が行われた。やがて「宝塚映画劇場」に改称した。*4
宝塚銀映劇場
所在地 : 兵庫県宝塚市川面山ノ上52-1(1958年)、兵庫県宝塚市川面山ノ上52(1959年・1960年)
開館年 : 1955年8月
閉館年 : 1960年2月
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1959年・1960年の映画館名簿では「宝塚銀映劇場」。1959年の映画館名簿では経営者が三武勉、支配人が小島力、木造1階冷暖房付、定員250、新東宝を上映。1961年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では跡地に「ソーコ」。跡地は「宝塚市西消防署栄町出張所」東南東60mの道路上付近。最寄駅は阪急宝塚本線・今津線宝塚駅。

宝塚市の阪急宝塚駅南側、高架下にある消防署栄町出張所の東側には「銀映」があり、新東宝の作品を上映していた。2016年現在は道路となっている。*5
宝塚駅前劇場/宝塚駅前映画劇場/宝塚中央劇場/中央劇場
所在地 : 兵庫県川辺郡小浜村川面字武庫川通2-5(1952年)、兵庫県川辺郡宝塚町川面字武庫川通2-5(1953年)、兵庫県宝塚市(1955年)、兵庫県宝塚市川面五反田18-1(1956年・1957年・1958年・1959年・1960年)、兵庫県宝塚市川面五反田(1961年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1961年後半
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1955年の映画館名簿では「宝塚駅前劇場」。1956年・1957年・1958年の映画館名簿では「宝塚駅前映画劇場」。1959年の映画館名簿では「宝塚駅前劇場」。1960年の映画館名簿では「宝塚中央劇場」。1961年の映画館名簿では「中央劇場」。1961年の映画館名簿では経営者・支配人ともに石橋健治、鉄筋造2階冷暖房付、定員230、邦画を上映。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「阪急バス宝塚駅バス停」付近。最寄駅は阪急宝塚本線・今津線宝塚駅。
宝塚中劇場/宝塚映画劇場(2代)/新芸座
所在地 : 兵庫県川辺郡小浜村(1947年)、兵庫県川辺郡小浜村宝塚(1950年)、兵庫県川辺郡小浜村川面(1951年)、兵庫県宝塚市川面武庫川通2(1959年・1960年・1961年)
開館年 : 1946年12月31日
閉館年 : 1961年頃
1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1951年の映画館名簿では「宝塚中劇場」。1951年の映画館名簿では経営者が京阪神急行、支配人が梅田健一、木造2階、定員1053、東宝を上映。1952年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「新芸座」。1961年の映画館名簿では経営者が京阪神急行宝塚経営部、支配人が須藤進、鉄筋造2階冷暖房付、定員1000、演劇を上映。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「宝塚大劇場西駐車場」。最寄駅は阪急宝塚本線・今津線宝塚駅。

1958年の宝塚市にあった劇場「宝塚新芸座」入口の写真あり。1950年、新温泉の第二劇場を用いて劇団の新芸座が活動を開始した。1953年には拠点を旧「宝塚映画劇場」に移した。*6
宝塚大劇場
所在地 : 兵庫県川辺郡小浜村宝塚(1943年)、兵庫県宝塚市川面武庫川通2(1959年・1960年・1961年)
開館年 : 1935年4月
閉館年 : 1961年頃
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「宝塚大劇場」。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「宝塚大劇場」。1961年の映画館名簿では経営者が京阪神急行宝塚経営部、支配人が須藤進、鉄筋造3階冷暖房付、定員3300、宝塚歌劇を上映。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1993年1月1日開館の2代目「宝塚大劇場」建物西端部。最寄駅は阪急宝塚本線・今津線宝塚駅。

他の映画館が復興するまで戦後しばらく、宝塚市の「宝塚歌劇大劇場」では土曜と日曜の夜に封切前の洋画を上映していた。*7
宝塚映画劇場(3代)/宝塚映劇
所在地 : 兵庫県川辺郡小浜村川面字武庫川通2-5(1952年)、兵庫県川辺郡宝塚町川面字武庫川通2-5(1953年)、兵庫県宝塚市(1955年)、兵庫県宝塚市川面字武庫川通2(1956年・1957年・1958年・1959年・1960年・1961年)
開館年 : 1952年
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年の映画館名簿では「宝塚映画劇場」。1953年の映画館名簿では「宝塚映劇」。1955年・1956年・1957年・1958年・1959年・1960年の映画館名簿では「宝塚映画劇場」。1961年の映画館名簿では「宝塚映劇」。1961年の映画館名簿では経営者が宝塚映劇、支配人が松崎勲、鉄筋造1階、定員200、東宝・日活を上映。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「宝塚バウホール」北20mの建物前広場部分。最寄駅は阪急宝塚本線・今津線宝塚駅。

戦後の1952年、宝塚ファミリーランドの一角、入場口左手に開業した。収容人員200人。この頃の宝塚市には、宝塚駅、宝塚南口駅、逆瀬川駅付近に数館の映画館があった。*8
宝塚東映
所在地 : 兵庫県宝塚市伊子志字木瀬開地(1962年)
開館年 : 1957年12月末
閉館年 : 1963年1月末
1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の映画館名簿では「宝塚東映」。1962年の映画館名簿では経営者が大宝興業、支配人が吉田吉太郎、木造2階冷暖房付、定員400、大映・松竹を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では跡地に「宝塚大宝デパート」。跡地は「アピア2」建物西端部。最寄駅は阪急宝塚本線・今津線逆瀬川駅。

宝塚市の阪急逆瀬川駅前には「宝塚東映」があった。2016年現在の跡地はカルチェヌーボとなっている。*9
新花月劇場/宝塚新花月劇場
所在地 : 兵庫県宝塚市伊子志亥谷220(1959年・1960年・1961年)、兵庫県宝塚市伊孑志亥ノ谷220(1965年)、兵庫県宝塚市伊孑志亥の谷230(1966年)、兵庫県宝塚市南口町2-4-19(1969年・1973年)
開館年 : 1957年7月
閉館年 : 1972年8月29日
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「新花月劇場」。1961年の映画館名簿では経営者が大同産業、支配人が片山富定、木造2階冷暖房付、定員400、大映・松竹を上映。1962年・1963年・1964年の映画館名簿には掲載されていない。1965年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「宝塚新花月劇場」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに片山富正、木造2階冷暖房付、定員400、邦画を上映。1973年の映画館名簿では経営会社が片山興行、経営者が片山亀吉、支配人が片山富正、木造2階冷暖房付、250席、邦画・洋画を上映。1973年の住宅地図では「新花月劇場(川村)」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では跡地に「サンビオラモータープール」。跡地は有料駐車場「サンビオラ第1駐車場」。宝塚市最後の従来型映画館。最寄駅は阪急今津線宝塚南口駅。

宝塚市の阪急宝塚南口駅前には「新花月」があり、大映作品を上映していた。2016年現在の跡地はショッピングセンターの立体駐車場となっている。*10
シネ・ピピア1・2
所在地 : 兵庫県宝塚市売布2-5-1 ピピアめふ5階(2000年・2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1999年10月29日
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 宝塚シネ・ピピア
1998年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「シネ・ピピア1・2」。2000年の映画館名簿では経営会社が関西都市再開発株式会社、経営者が山根林、支配人が景山理、鉄筋造5階、1が50席で洋画を上映、2が50席で邦画・洋画を上映。2020年の映画館名簿では経営会社が有限会社宝塚シネマ、経営者・支配人ともに景山理、1が50席、2が50席。最寄駅は阪急宝塚本線売布神社駅。

1999年10月26日、宝塚市の売布神社駅前の再開発事業が完工した。6階建ての再開発ビル「ピピアめふ」には宝塚市に約30年ぶりとなる映画館などが入る。映画館は10月29日に開館し、大森一樹監督による自主製作映画の上映やトークショーが開催される。*11

2005年現在でシネ・ピピアは宝塚市唯一の映画館である。公設民営という点が特徴であり、所有者は宝塚市、運営は民間である。阪急宝塚線売布神社駅からすぐの場所にある。ピピア1とピピア2の2スクリーンがあり、どちらも座席数は50席である。音響設備は日本トップクラスであり、車いす席や補聴システムも導入されている。ピピア1は新作映画を上映するロードショー館であり、ピピア2は観客のリクエスト作の上映、市民企画枠の作品の上映、市民団体への貸しホールなど、独自のプログラムを組んでいる。1999年にシネ・ピピアが開館するまで、約30年間は宝塚市に映画館が存在しなかった。1990年には主婦らによって「宝塚に映画館をつくろう会」が設立され、のちに「宝塚・シネクラブ」に改称して映画上映会や企業との交渉などを行った。1995年の阪神大震災で存続が危ぶまれたが、半年後には上映会を再開した。震災復興再開発ビル「ピピアめふ」にシネ・ピピアが開館したことで10年間の活動が実った。「宝塚・シネクラブ」は「すみれ座」と改称して上映活動を続けている。2000年には「すみれ座」などを中心に宝塚映画祭実行委員会が結成され、2002年11月にはシネ・ピピアをメイン会場として第1回映画祭が開催された。*12

2013年1月8日、宝塚市にある公設民営の映画館「シネ・ピピア」は宝塚市にデジタル上映機器を導入するよう要望した。「『シネ・ピピア』を支える会」も4387人分の署名を添えた嘆願書を提出した。2013年春以降にはフィルムからデジタル素材での配給に切り替わり、デジタル上映機器がないと新作を上映できなくなる。導入に要する費用は10年間で約2000万円。かつて宝塚市には映画製作所があり、「映画のまち」として栄えたことから、市民の声に応えて1999年に開館した。観客数は年間4万人〜5万人。*13

2013年6月から、宝塚市の映画館「シネ・ピピア」でデジタル機器による上映が開始される。2012年末には宝塚映画祭実行委員長の河内厚郎や映画監督の大森一樹などが立ち上がり、「デジタルシネマ機器導入を求める嘆願書」に2週間で4387人の署名を集めた。宝塚市は2013年度にデジタル映写機の導入費を予算化し、リース費用は10年間で約2000万円となる。6月1日からの上映作品はデジタルシネマ革命を探るドキュメンタリー『サイド・バイ・サイド フィルムからデジタルシネマへ』や、『世界に一つだけのプレイブック』、『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』。*14

2017年9月には宝塚市の映画館「シネ・ピピア」で、新しい座席を導入するなどの改修が行われた。9月9日から1週間は『阪急電車 片道15分の奇跡』と『あん』を500円で上映する記念イベントを開催する。シネ・ピピアは2018年に開館18年を迎える。*15

2017年9月9日、宝塚市売布2丁目の映画館「シネ・ピピア」がリニューアル開館する。9月9日から9月15日は市民感謝デーとして、宝塚市民は『パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊』『Tap The Last Show』『海辺のリア』『ゴンドラ』の4本の入場料が1000円となる。ご当地映画『阪急電車片道15分の奇跡』と樹木希林主演の『あん』は市民も市民以外も500円となる。1999年10月、阪神淡路大震災の復興再開発ビル「ピピアめふ」5階に開館した。宝塚市が開設して民間事業者が運営する、全国でも珍しい公設民営の映画館である。*16

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。

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