日本の映画館の総合データベースです。



岐阜市

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中津川市

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岐阜地方

各務原市

ツバサ館
所在地 : 岐阜県稲葉郡那加町(1943年・1947年)
開館年 : 1937年2月1日
閉館年 : 1947年以後1949年以前
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年の映画館名簿では「ツバサ館」。1949年の映画館名簿には掲載されていない。

1937年2月1日、那加駅前の吾妻町に「ツバサ館」が開館し、岐阜警察署長、那加村長、蘇原村長らが列席した大規模な開館式を挙行した。発起人は那加村役場の助役だった安藤翁。1935年9月10日に岐阜県知事から観物場の建設許可を得て、1937年1月2日に観物場の使用許可を得ている。中国大陸での戦闘が激しくなって観客が減少したことで解散した。*1
日の丸劇場
所在地 : 岐阜県稲葉郡鵜沼町(1962年)
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 1962年頃
1960年・1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の映画館名簿では「日の丸劇場」。1962年の映画館名簿では木造1階、定員388、経営者が鵜沼土地興業、支配人が長縄知明、大映・松竹・東映を上映。1962年の映画館名簿では「日の丸劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
大一映画館/大一映画劇場
所在地 : 岐阜県稲葉郡蘇原町(1959年・1960年・1962年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1962年頃
1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「大一映画館」。1960年の映画館名簿では木造1階、定員350、経営者が川島一三二、支配人が高井銑一、大映・松竹・東映を上映。1962年の映画館名簿では「大一映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の松笠書房各務原市住宅明細地図では確認できず。
那加映画劇場/那加劇場
所在地 : 岐阜県稲葉郡那加町(1943年)、岐阜県稲葉郡那加町新加納(1947年)、岐阜県稲葉郡那加町(1949年・1950年・1953年・1955年)、岐阜県稲葉郡那加町15(1958年)、岐阜県稲葉郡那加町吾妻町(1960年)、岐阜県稲葉郡那加町(1963年)、岐阜県各務原市那加吾妻町(1966年・1967年)
開館年 : 1930年5月
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧1955』によると1930年5月開館。1943年・1947年の映画館名簿では「那加劇場」。1949年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「那加映画劇場」。1960年の映画館名簿では「那加劇場」。1960年の映画館名簿では木造2階冷暖房付、定員400、経営者が岐阜土地興業、支配人が村瀬省次、東映を上映。1963年の映画館名簿では「那加映画劇場」。1964年の松笠書房各務原市住宅明細地図では「那加東映」。1966年・1967年の映画館名簿では「那加劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅地図では跡地に「主婦の店」。1981年の住宅地図では跡地に「主婦の店那加東栄店」。1987年の住宅地図では跡地に「フラワーショップ花竜」と空白。跡地は花屋「フラワーショップ那加花竜」と理容店「バーバーアズマ」。最寄駅は名鉄各務原線新那加駅・JR高山本線那加駅。

那加駅前の楽天地には「那加劇場」があった。那加町制施行記念パンフレットによれば、那加町には劇場1、映画館2、遊技場28があり、那加劇場では芝居や催しなどが行われた。昭和初期の写真あり。*2

JR高山本線那加駅前の吾妻通には「那加東映」があり、映画の上映や歌謡ショーなどを行っていた。昭和30-40年代の写真あり。1960年公開の『やくざの詩』や『あらくれ●』(●部分は見えない)の看板が見える。*3

1918年、那加元町の中山道沿いに劇場「大笑座」が設立された。経営者は今尾貞臣。1920年には国鉄高山本線那加駅が開業している。まもなく大笑座は売却され、より発展していた那加楽天地に「那加劇場」が開設された。内部には舞台やコの字型の桟敷席があった。約500人を収容できた。那加、稲羽、蘇原などから観客を集めた。芝居の興行のほかに無声映画も上映された。1931年7月22日には岐阜県会議員選挙候補演説会に、1938年8月13日には物価問題に関する講演会に、1940年11月8日には軍務公用者慰安会に使用されている。1940年に発行された『那加町制施行記念』には劇場として掲載されている。那加劇場は1940年以降に閉館したが、その理由は定かでない。*4

戦前の那加駅前には娯楽施設が急増した。那加日之出町には「那加劇場」があり、蘇原村大島出身の歌舞伎役者である市川百十郎一座などが興行を行った。*5
川島劇場
所在地 : 岐阜県羽島郡川島村(1958年)、岐阜県羽島郡川島町(1960年・1963年)、岐阜県羽島郡川島町阿田島(1966年・1967年・1968年・1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1971年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「川島劇場」。1960年の映画館名簿では経営者は恩田正雄、支配人は後藤正照、木造1階、定員350、洋画・邦画を上映。1961年・1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「川島劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1967年・1968年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「川島劇場」。1969年の映画館名簿では経営者は恩田正雄、木造1階、定員150、邦画・洋画を上映。1972年の映画館名簿には掲載されていない。1972年の住宅地図では跡地に「スーパーくみあい」があると思われる。
中央劇場/那加中央劇場
所在地 : 岐阜県稲葉郡那加町(1957年・1960年・1963年)、岐阜県各務原市那加栄町15(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1981年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1981年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1963年の住宅地図では「中央劇場」。1964年の松笠書房各務原市住宅明細地図では「中央劇場」。1966年・1969年・1976年・1980年・1981年の映画館名簿では「那加中央劇場」。1968年・1969年の住宅地図では「中央劇場」。1980年の映画館名簿では経営者・支配人ともに横山義視、木造1階、248席、にっかつと成人映画を上映。1981年の住宅地図では「那加中央劇場」。1982年・1985年の映画館名簿には掲載されていない。1987年の住宅地図では跡地に「横山ビル 1階リビエール 3階中日本映像各務原営業所」。各務原市最後の従来型映画館。跡地は「松原文具店」東側にある「行政書士長澤肇事務所」が入る建物。最寄駅は名鉄各務原線新那加駅・JR高山本線那加駅。
ナビシアター
所在地 : 岐阜県各務原市蘇原六軒町4-10(1986年・1988年)
開館年 : 1985年頃
閉館年 : 1988年頃
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1986年・1988年の映画館名簿では「ナビシアター」。1987年の住宅地図では「レストラン・シアター あさくま各務原店」。1988年の映画館名簿では経営会社がシンコーホーム、鉄筋造1階、84席、洋画・邦画を上映。1989年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ファミリーマート各務原六軒店」やドラッグストア「ゲンキー 六軒町店」。最寄駅は名鉄各務原線六軒駅。
ワーナー・マイカル・シネマズ各務原/イオンシネマ各務原
所在地 : 岐阜県各務原市那加萱場町3-8 イオン各務原ショッピングセンター3階(2010年)、岐阜県各務原市那加萱場町3-8 イオンモール各務原3階(2015年・2020年)
開館年 : 2007年7月28日
閉館年 : 営業中
2010年の映画館名簿では「ワーナー・マイカル・シネマズ各務原1-10」(10館)。2015年・2020年の映画館名簿では「イオンシネマ各務原1-10」(10館)。

2007年末には大阪府の「ワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田」が閉館を発表。経営不振によるシネマコンプレックス(シネコン)の閉館は国内初とされる。シネコンが各地に開館したことで、この10年でスクリーン数は70%も増加した。岐阜県内では現在6施設あり、そのほとんどがショッピングセンターとの併設である。2007年7月、イオン各務原ショッピングセンター内に10スクリーンの「ワーナー・マイカル・シネマズ各務原」が開館。東海地区で初めて3Dデジタルシステムを導入した。特に2005年からの3年間は開館ラッシュであり、岐阜県内のシネコンスクリーン数は66に達した。各務原のほかには「大垣コロナシネマワールド」(大垣市)と「TOHOシネマズモレラ岐阜」(本巣市)が開館しており、3施設で32スクリーンが上積みされた。6館のうち5館は商業施設内にある。2007年3月には先駆者の「シネマ・ジャングル」(羽島郡岐南町)が休館した。2008年4月に増床オープンを控える商業施設「マーサ21」(岐阜市)は、あえてシネコンの導入を避けた。「シネックスマーゴ」(関市)が入る商業施設サンサンシティマーゴを運営するサン・ストラッセの広瀬武男社長は、「シネコン自体は赤字。商業施設への集客や広告効果を考えて運営している」と、シネコン経営の厳しさを明かす。*6

2007年7月28日、各務原市那加萱場町にイオン各務原ショッピングセンターがオープンする。シネマコンプレックスなども入る。各務原市を中心に岐阜市なども含めた商圏人口は58万人。*7

羽島市

松竹館
所在地 : 岐阜県羽島郡竹ヶ鼻町(1930年)、岐阜県羽島郡竹ヶ鼻町新天地(1936年)
開館年 : 1923年
閉館年 : 1934年
1927年の映画館名簿には掲載されていない。1930年・1936年の映画館名簿では「松竹館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。
八千代館/八千代劇場
所在地 : 岐阜県羽島郡竹ヶ鼻町下町(1936年)、岐阜県羽島郡竹ヶ鼻町(1949年・1950年)、岐阜県羽島郡竹鼻町(1953年)、岐阜県羽島市竹鼻町(1955年・1958年・1960年・1962年)
開館年 : 1920年
閉館年 : 1964年
『全国映画館総覧1955』によると1943年11月開館。1936年の映画館名簿では「八千代劇場」。1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年の映画館名簿では「八千代劇場」。1950年の映画館名簿では「八千代館」。1953年・1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「八千代劇場」。1960年の住宅案内図帳(羽島市立図書館所蔵)では「八千代劇場」。1962年の映画館名簿では経営者が篠田健吉、支配人が篠田千代子、木造2階、定員511、東宝・松竹を上映。1963年・1964年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の羽島市住宅明細地図では跡地に「主婦の店」。1969年・1972年のゼンリン住宅地図では跡地に「主婦の店八千代店」。跡地は「聞得寺」東北東180mにある空き地。最寄駅は名鉄竹鼻線羽島市役所前駅または竹鼻駅。

1993年3月20日から、羽島市竹鼻町の旧映画館「竹鼻八千代劇場」で展示会が開催される。主催は「朝日館を守る会」。収集家から借りた坂東妻三郎や高田浩吉のサイン色紙、ブロマイド、映画ポスター、舞台セットなど百数十点が展示される。竹鼻八千代劇場は1922年に開館し、映画館や芝居小屋として使用され、1964年に閉館した。1993年現在は倉庫として使われているが、保存状態は良好である。*8
朝日館/竹鼻朝日東映/竹鼻東映劇場/竹鼻朝日東映劇場
所在地 : 岐阜県羽島郡竹ヶ鼻町別院通(1936年)、岐阜県羽島郡竹ヶ鼻町(1943年・1947年・1949年)、岐阜県羽島郡竹ヶ鼻町上城2624-1(1950年)、岐阜県羽島郡竹ヶ鼻町(1953年)、岐阜県羽島市竹鼻町(1955年)、岐阜県羽島市竹鼻町上城2624-1(1958年)、岐阜県羽島市竹鼻町(1960年)、岐阜県羽島市竹鼻町上城(1964年)、岐阜県羽島市竹鼻町上2624(1966年・1969年)
開館年 : 1934年
閉館年 : 1971年
Wikipedia : 羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館
『全国映画館総覧1955』によると1933年開館。1936年・1943年・1947年・1949年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「朝日館」。1960年の住宅案内図帳(羽島市立図書館所蔵)では「竹鼻東映」。1960年・1963年の映画館名簿では「竹鼻朝日東映」。1964年の映画館名簿では「竹鼻東映」。1965年の羽島市住宅明細地図では「竹鼻朝日東映」。1966年の映画館名簿では「竹鼻東映劇場」。1969年の映画館名簿では「竹鼻朝日東映劇場」。1969年の住宅地図では「朝日劇場(篠田兼吉)」。1972年の住宅地図では「竹鼻朝日劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館」。最寄駅は名鉄竹鼻線羽島市役所前駅または竹鼻駅。

1941年頃の「朝日館」の写真あり。1934年に開館し、戦後には「東映朝日」に改称した。*9

1944年と1957年の「竹ケ鼻朝日館」の写真あり。前者の壁面には防空用の迷彩としてコールタールが塗られており、上原謙や田中絹代の似顔絵も見える。後者には「竹鼻東映」の文字が見え、1958年1月3日公開の東映映画『任侠東海道』の看板が見える。1934年、御坊瀬戸の上城町に映画館が開館した。当時は無声映画の時代であり、極東シネマや大都の作品が上映された。経営者は井上周吉であり、館主は藤野一夫だった。2階の一部は畳敷きであり、観客席は358席だった。その後トーキー映画の時代となり、東宝や松竹の作品が上映された。館主は1941年に伏屋義信に、1944年に篠田兼吉に代わった。1953年に松竹映画『君の名は』を上映した際には立ち見が出るほどだった。小中学生は保護者同伴でないと鑑賞を禁止されており、そのかわりに学校行事として団体鑑賞が行われた。1957年には増改築されてシネスコが設置され、映写室は3階になった。映画はカラー上映となり、総天然色と喧伝された。この際に「竹鼻東映朝日」に改称され、東映や東宝の作品が上映されるようになった。*10

1991年11月のこのほど、羽島市に「竹鼻朝日館」を守る会が発足した。「竹鼻朝日館」の建物の保存を求めている。11月17日から12月2日まで、竹鼻朝日館の建物で「懐かしの朝日館展」が開催される。竹鼻朝日館は1934年に開館し、昭和20〜30年代の映画黄金時代にはにぎわった。テレビの普及などで観客数が減少し、1971年に閉館した。その後は建設会社の事務所などとして使用されていた。1990年には館内から、昭和30〜40年代の映画ポスターやスチル写真などが発見され、保存に向けた動きが出てきた。*11

羽島市竹鼻町の元映画館「竹鼻朝日館」の建物保存運動が続いている。羽島市は竹鼻朝日館の移転復元を唱えているが、市民側は修復保存を求めている。竹鼻朝日館は1934年に建てられた木造建築であり、建築様式は大正ロマンをほうふつとさせる。1990年12月、館内から戦前戦後の映画ポスター、スチル写真、照明器具など約3000点が発見された。1991年11月には有志らが「竹鼻朝日館を守る会」を結成し、具体的な保存運動を開始した。*12

2013年現在の羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館がある場所には、1934年に映画館「竹鼻朝日館」が開館し、1958年には「竹鼻朝日東映」に改称した。戦前・戦後を通じて竹鼻地域の代表的な映画館だった。1971年の閉館後も建物はそのままになっていたが、1996年開館の資料館は映画館時代の建物の外観をイメージしている。*13

羽島市歴史民俗資料館・映画資料館の調査によると、岐阜県内の映画館は2000年と比べて約半分の8軒にまで減少した。ここ10年間では飛騨地域など映画館のない空白地帯もできており、新作映画を楽しめる環境に地域格差が生じている。2016年12月18日まで、映画資料館では県内の映画館を伝える企画展を開催。映画館が県内各地に点在していたことを地図や年表で紹介している。岐阜新聞の広告欄や業界誌などを基に調べた。東映や日活などの製作会社ができた1950年代に急増し、1960年代には150軒以上があったという。1980年代までに30軒ほどに激減する。*14
羽島劇場
所在地 : 岐阜県羽島市竹鼻町(1960年)、岐阜県羽島市竹鼻町狐穴(1964年)、岐阜県羽島市竹鼻町共栄町(1966年・1969年)
開館年 : 1956年4月15日
閉館年 : 1972年
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「羽島劇場」。1960年の住宅案内図帳(羽島市立図書館所蔵)では「羽島劇場」。1965年の羽島市住宅明細地図では「羽島劇場」。1969年の住宅地図では「羽島劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「メゾン大島」。最寄駅は名鉄竹鼻線羽島市役所前駅または竹鼻駅。

1956年4月15日、羽島市狐穴共栄町の「羽島劇場」で完成式が行われ、大橋忠一代議士、堀順一市長、古田好県議、渡辺市議会議長らが列席した。工費800万円。3階建、130坪。収容人員は階下が500人、階上が350人。羽島市の常設映画館は3館となった。経営者は不破周一。*15

1956年4月15日、羽島市竹鼻町に「羽島劇場」が開館した。社長は不破周一、支配人は川崎礼二。モルタル木造2階建て。定員300人。*16

本巣市

AMCリバーサイドモール真正16/ユナイテッド・シネマ真正16
所在地 : 岐阜県本巣市政田字下西浦1939 リバーサイドモール本館
開館年 : 2000年3月25日
閉館年 : 2011年2月27日
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2005年の映画館名簿では「AMCリバーサイドモール16 1-16」(16館)。2010年の映画館名簿では「ユナイテッド・シネマ真正16 1-16」(16館)。2015年の映画館名簿には掲載されていない。

16スクリーン計3108席のシネコン。2000年にAMCリバーサイドモール真正16として開館し、2004年にユナイテッド・シネマ真正16に改称。リバーサイドモール全体の閉鎖直前の2011年2月27日に閉館した。リバーサイドモールの建物は2017年に解体され、跡地には2017年にイオンタウン本巣が開業している。

2000年3月25日、AMCによって本巣郡真正町政田下西浦1939 リバーサイドモールに「リバーサイドモール16シンセイ」が開館した。*17
TOHOシネマズモレラ岐阜
所在地 : 岐阜県本巣市本巣市三橋1100 モレラ岐阜2階(2010年・2015年)
開館年 : 2006年4月29日
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年・2015年の映画館名簿では「TOHOシネマズモレラ岐阜1-12」(12館)。

岐阜県映画協会事務局長の磯谷貴彦(CINEX総支配人)は、「県南部から愛知県北部にかけての地域は全国屈指の映画館激戦区」と語る。2000年3月には本巣市に「AMCリバーサイドモール16」(現・ユナイテッド・シネマ真正16)が開館し、同年11月には岐阜市に「TOHOシネマズ岐阜」が開館し、2003年には関市に「シネックスマーゴ」が開館し、2005年12月には大垣市に「大垣コロナシネマワールド」が開館した。この2006年4月29日には本巣市に12スクリーンの「TOHOシネマズモレラ岐阜」が開館する。中部東宝の標準スクリーン数は10スクリーンであるが、16スクリーンのユナイテッド・シネマ真正16を意識したという。TOHOシネマズモレラ岐阜はTOHOシネマズ岐阜と商圏が重なるが、他社に先を越される前に自社で出店するという防衛出店の意味合いもある。シネコンは「収益面では他のビジネスより厳しく、家賃収入は面積のわりによくない」とされるが、大型商業施設全体への集客効果が期待されている。今後の岐阜県では、イオンの出店計画がある各務原市や、2年前に映画館がなくなった東濃地方が新たなシネコンの出店候補地となっている。2006年4月10日には岐阜市の老舗映画館「衆楽」が閉館した。岐阜県でシネコン以外の映画館は、柳ケ瀬の2館と高山旭座のみとなっている。*18

2006年4月29日、本巣市三橋のモレラ岐阜にTOHOシネマズモレラ岐阜がグランドオープンする。TOHOシネマズとしては岐阜県内2番目。12スクリーンと2504席はいずれもTOHOシネマズの既存店最大級である。興行収入6億円を見込む。*19

山県市

美山劇場
所在地 : 岐阜県山県郡美山村岩佐(1966年)、岐阜県山県郡美山町岩佐(1969年・1970年)
開館年 : 1963年
閉館年 : 1966年
1963年・1964年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「美山劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が恩田政雄、木造1階、定員150、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「吉祥寺」の東90mの民家。メインストリートの東側。

映画館。「吉祥寺」の前。うめむら商店の主人70代、客の女性70代。映画館跡地の隣に住んでおり、嫁に来てから映画を観に行ったことがあるという。

美山町岩佐には常設劇場として「美山劇場」があった。岐阜教映社の直営映画館であり、1963年にこけら落としを行った。美山劇場は1966年に閉鎖された。*20
美山玉豊座
所在地 : 岐阜県山県郡美山村岩佐(1966年)、岐阜県山県郡美山町岩佐(1969年・1970年)
開館年 : 1935年10月
閉館年 : 1974年4月
1963年・1964年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「美山玉豊座」。1970年の映画館名簿では経営者が小森田重郎、木造2階、定員120、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「JAぎふ美山南支店」のブロック南東部の民家。

芝居小屋。中洞交差点から橋を渡ってすぐ左側。跡地は民家。読みは「たまとよざ」。

美山町岩佐には常設劇場として「玉豊座」があった。谷合の美園座が岩佐に移転する形で、1935年10月にこけら落としを行った。玉豊座は1974年4月に閉鎖され、1975年現在は取り壊されている。*21

瑞穂市

映画館名簿によると瑞穂市に映画館は存在しなかったと思われる。

羽島郡岐南町

シネマジャングル
所在地 : 岐阜県羽島郡岐南町印食9-50 APパラディア内(1998年・2000年・2005年)
開館年 : 1996年12月14日
閉館年 : 2007年3月
1995年の映画館名簿には掲載されていない。1998年・2000年・2005年の映画館名簿では「シネマジャングル1-6」(6館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。

1996年10月上旬、羽島郡岐南町に岐阜県初の郊外型映画館が開館する予定。名称は未定。岐阜市柳ケ瀬で「シアター・ペルル」と「シネアール・イマージュ」を経営する辻英二社長が経営する。1995年10月から第1期工事を行っている。1階はレストランとアミューズメントフロアであり、2階に映画館6館が、3階に映写室などが入る。岐阜県で初めてデジタルサウンドシステムを導入する予定である。*22

1996年9月4日の『毎日新聞』朝刊には岐南町に新タイプの映画館(※見出しでは館名は不明)が1996年11月に開館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*23

岐阜県では初の郊外型劇場として、1996年11月30日には羽島郡岐南町に6スクリーンの「シネマ・ジャングル」が開館する。1500台分の駐車場を持つ。岐阜市柳ケ瀬で「シアターペルル」を経営するペルルグループによる。シネマコンプレックスと呼ばれるこのような劇場は、近年には日本国内にも進出が続いている。最も大きなスクリーンは201席であり、最も小さなスクリーンは80席。6スクリーンで736人席がある。スタジアム式傾斜型シート配列を採用し、車いす用スロープも設けられる。平日でも夜間上映を実施する。3階建の建物の2階以上が映画館であり、1階には書店・CDショップ・レストランが入居する。国道21号と国道22号が交差する岐南インターのすぐ北側。運営するペルルグループは「岐阜市やその周辺部はもろちん、北は郡上郡まで、南は名古屋市まで商圏にしたい」と話す。*24

1996年11月30日、羽島郡岐南町上印食9に映画館「シネマ・ジャングル」が開館する予定。ショッピング施設、ゲームセンター、飲食店などがあるアミューズメントパーク「APパラディア」の隣接地に複数の上映館(シネマ・コンプレックス)を建設する。国道22号と国道21号が交差する場所にあり、アクセスが便利である。1995年3月には岐阜土地興業が岐阜県で初めてシネ・コン「シネックス」を開館させており、入館者数が3割増加する好結果を得ている。経営は柳ケ瀬でシアターペルルを経営するペルルグループ。*25

1996年11月、羽島郡岐南町印食9-50 APパラディアに「シネマジャングル」が開館した。6スクリーンを有する。経営は有限会社シネマジャングル。*26

1996年12月14日、岐阜県羽島郡岐南町にシネコンの「シネマジャングル」が開館した。座席数は80席から201席までの6スクリーンであり、東宝系の邦画と洋画を上映する。岐阜市でシアターペルルなど2館を運営する中嶋屋、名古屋市の中部興行の共同経営である。国道21号の岐南インターチェンジからすぐの場所にあり、書店・パチンコ店・ボウリング場などがある総合娯楽施設の一角にある。これまで岐南町や各務原市は映画館がなかった。開館日からは『インデペンデンス・デイ』や『モスラ』などが上映されている。*27

1996年12月14日、羽島郡岐南町上印食9に映画館「シネマジャングル」が開館した。ワンフロアに6つの劇場を備えた新型の映画館であり、一日最大10本の映画を上映する。「シアターペルル」を経営するペルルグループが経営する。周辺はAPパラディアという集合体であり、CD&ブックショップ、スーパー銭湯、パチンコ店、飲食店など10の娯楽施設・店舗が集まっている。*28

2007年末には大阪府の「ワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田」が閉館を発表。経営不振によるシネマコンプレックス(シネコン)の閉館は国内初とされる。シネコンが各地に開館したことで、この10年でスクリーン数は70%も増加した。岐阜県内では現在6施設あり、そのほとんどがショッピングセンターとの併設である。2007年7月、イオン各務原ショッピングセンター内に10スクリーンの「ワーナー・マイカル・シネマズ各務原」が開館。東海地区で初めて3Dデジタルシステムを導入した。特に2005年からの3年間は開館ラッシュであり、岐阜県内のシネコンスクリーン数は66に達した。各務原のほかには「大垣コロナシネマワールド」(大垣市)と「TOHOシネマズモレラ岐阜」(本巣市)が開館しており、3施設で32スクリーンが上積みされた。6館のうち5館は商業施設内にある。2007年3月には先駆者の「シネマ・ジャングル」(羽島郡岐南町)が休館した。2008年4月に増床オープンを控える商業施設「マーサ21」(岐阜市)は、あえてシネコンの導入を避けた。「シネックスマーゴ」(関市)が入る商業施設サンサンシティマーゴを運営するサン・ストラッセの広瀬武男社長は、「シネコン自体は赤字。商業施設への集客や広告効果を考えて運営している」と、シネコン経営の厳しさを明かす。*29

羽島郡笠松町

大和座
所在地 : 岐阜県羽島郡笠松町
開館年 : 1913年
閉館年 : 1945年以前
1913年羽島郡笠松町の県町の北東角、堤防の下に芝居小屋「大和座」が建設された。大和座では住民の発表会、旅回りの一座の芝居などが行われたが、火災で焼失した。*30

笠松町の県町には劇場「大和座」があり、無声映画を弁士付きで上映したりした。活動写真が上映される際にはのぼりを持ったパレードが町を巡回した。大和座は火災で焼失した。*31

昭和初期の笠松町には100人もの芸者がいたとされ、県町界隈には検番や芸者置屋があった。周辺には劇場「大和座」、ビリヤード場、10軒ものカフェなどもあった。*32
常盤劇場
所在地 : 岐阜県羽島郡笠松町大池町
開館年 : 1915年以前
閉館年 : 1945年以前
羽島郡笠松町の大池町には活動写真を主とする「常盤劇場」が開館したが、短期間で閉館となった。*33

1901年または1902年生まれの小川春人(1995年に93歳で死去)の幼少期、2010年代現在の笠松小学校の運動場の中央部には劇場があった。この劇場で芝居の興行が行われる日には、昼間から役者が人力車に乗って町を巡った。*34
笠松銀映劇場(旧)
所在地 : 岐阜県羽島郡笠松町西宮町(1961年)、岐阜県羽島郡笠松町(1962年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1962年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1962年の映画館名簿では「笠松東映劇場」。1961年の映画館名簿では経営者が銀映、支配人が小鹿彦三、鉄筋造1階冷暖房付、定員322。1962年の映画館名簿では経営者が広瀬進次、支配人が小鹿彦三、鉄筋造2階冷房付、定員300、松竹・東宝・大映を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
笠松劇場/笠松映画劇場
所在地 : 岐阜県羽島郡笠松町八幡(1954年・1955年)、岐阜県羽島郡笠松町八幡町2(1958年)、岐阜県羽島郡笠松町(1959年・1960年・1961年・1962年・1963年)、岐阜県羽島郡笠松町八幡町(1964年)
開館年 : 1935年以前、1952年10月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧1955』によると1952年10月開館。1953年・1954年・1955年の映画館名簿では「笠松劇場」。1954年の映画館名簿では経営者・支配人ともに森良温、木造2階、定員400、邦画・混合を上映。1956年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1959年・1960年・1962年・1963年・1964年の映画館名簿では「笠松映画劇場」。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「笠松映画劇場」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに春日井一美、木造2階、定員324。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「八幡神社」の北東130mにある戸建て住宅地。最寄駅は名鉄名古屋本線・竹鼻線笠松駅。

吉田初三郎『笠松町鳥観図』発行者不明、1935年には「笠松劇場」が描かれている。*35

羽島郡笠松町の八幡町の北端、奈良津堤の西下に「笠松劇場」が新築開館した。株主は木札を持っていたため無料で入場できた。一般の観客は木戸銭を払い、木札を持って木戸で渡した。下足を預けた後、控え札を持って館内に入場した。笠松劇場の中には売店もあり、また幕間には売り子が客席を回って煎餅・キャラメル・あんぱん・菓子などを売った。座布団や火鉢も有料で借りることができた。坂東好太郎や猫八なども笠松劇場に来演した。後方には警察官の見張席があった。太平洋戦争時には休業し、戦後に閉館した。1990年現在の跡地はアパートやガレージになっている。*36
銀座東映劇場/笠松東映劇場/笠松銀映/銀映劇場/笠松銀映劇場(新)
所在地 : 岐阜県羽島郡笠松町西宮町(1959年・1960年・1961年)、岐阜県羽島郡笠松町(1963年)、岐阜県羽島郡笠松町西宮町(1964年・1965年)、岐阜県羽島郡笠松町西宮町7(1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1955年12月29日
閉館年 : 1968年頃
1955年・1956年・1957年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「笠松銀映劇場」。1960年の映画館名簿では「銀座東映劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が広瀬進次、支配人が小鹿彦三、木造1階冷暖房付、定員350、東映・松竹・洋画を上映。1961年・1962年の映画館名簿では「笠松東映劇場」。1963年の映画館名簿では「笠松銀映」。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「銀映会館」。1964年・1965年の映画館名簿では「銀映劇場」。1965年の羽島市住宅明細地図では「銀映」。1965年の映画館名簿では経営者が広瀬進次、支配人が小鹿靖博、鉄筋造1階、定員300、邦画・洋画を上映。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「笠松銀映劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が銀映、支配人が高橋孝太郎、木造1階冷房付、定員238、邦画・洋画を上映。1969年のゼンリン住宅地図では「銀映」と「銀映会館 パチンコ」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では「銀映」と「パチンコ 銀映会館」。跡地は「産霊神社」の道路を挟んで東側にある駐車場。南側の「飯田電機店」や、北側の「広喜園」や「青木自転車」は現存。最寄駅は名鉄名古屋本線・竹鼻線笠松駅。

1955年12月29日午前10時、羽島郡笠松町西宮町に映画館「笠松銀映」が開館する。経営者は村瀬進次。10月に着工していた。木造瓦葺、平屋建、約150坪。椅子席が300ある。外壁は耐火建築であり、モルタルが塗られている。映写拡声器はビクターの最新型。松竹と東映の封切館となる。写真あり。*37

本巣郡北方町

北方町の映画館
1912年頃には、吉祥寺前の吉田医院のあたりで活動写真の露天上映会があった。大正初期から中期には本町の常磐座で映画が上映されたが、1921年2月の連鎖劇の後に焼失した。*38
北方劇場(初代)
所在地 : 岐阜県本巣郡北方町
開館年 : 1924年
閉館年 : 1926年11月
1924年には北方劇場が設立された。岐阜市弥八の美殿座を新町の揖斐線南側に移築したものである。この頃には映画が芝居などと肩を並べるまでに成長していた。関東大震災以前には単純な豪傑の尾上松之助が人気だったが、関東大震災以後には人間像豊かな役者が人気を集め、阪東妻三郎、月形龍之介、大河内伝次郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵、栗島すみ子、五月信子、川田芳子などのスターが登場してきた。*39

1924年、新町に北方劇場が設立された。棚橋五三郎の個人経営。岐阜市にあった美殿座を移築して改築したものである。1926年11月に焼失した。*40

1924年には新町に北方劇場が新設された。*41
北方劇場(2代)
所在地 : 岐阜県本巣郡北方町
開館年 : 1927年
閉館年 : 1940年
映画館ではなく劇場。

北方町では古くから演芸が盛んであり、円鏡寺の境内などで演芸の興行が催されていた。1927年には北方劇場が建てられたが、1940年に焼失した。1927年の写真あり。北方劇場の跡地には1948年に北方北保育園が建てられ、1981年には児童館(※現在の北方町立北方きたこども館)が建てられた。*42

1927年、2代目の北方劇場が戸羽町の幼稚園敷地に西向きで建てられた。入口の2階部分には絵看板がかかり、2階席はコの字型に舞台を囲んでいた。芝居が多く上演され、幕間には落花生やキャラメルが売られた。1940年の寒い夜に焼失した。*43

1927年1月、株式会社組織で戸羽町に北方劇場が設立された。1928年1月21日に完成した。料金は約50銭。1940年に火災で焼失した。*44
新富座
所在地 : 岐阜県本巣郡北方町
開館年 : 1927年12月16日
閉館年 : 1943年11月22日
1926年に北方劇場(初代)が焼失すると、その東側に和風劇場の新富座が設立された。太平洋戦争終戦まで芝居や映画の興行を行っていたが、芝居は同じ年に新設された北方劇場(2代)のほうが多く、映画は新富座のほうが多かった。トーキー映画の初公演の際には、北方小学校の児童が全員で見学し、切れたフィルムを学校に持ち帰って発生原理を説明する社会科教育も行われた。1943年には北方町が新富座を買収し、町立の公会堂として用いた。その後は徴用され、航空廠の発動機修理工場となった。*45

1926年5月5日には新富座が設立許可を受けた。1927年12月16日に町裏に落成し、12月21日に落成興行を行った。木造亜鉛葺、2階建て。建坪108坪。当初は組合員120人の株式会社組織であり、資本金は1万2000円であったが、経営不振のために岐阜市の柴田光治郎が買収して経営していた。収容人員529人。料金は約30銭。1943年11月22日には北方警察署長の斡旋により、柴田光治郎から北方町に対して8000円で売却された。ただし同時に、北方町が使用優先権を得たまま、年1000円の賃貸料で柴田光治郎に貸与された。北方町は公会堂として使用したが、1945年2月には陸軍航空廠の依頼で発動機修理工場として徴用された。戦後の1945年10月には補償をして返還されたが、1946年には電気設備などが大垣に移された。*46
北方映画劇場
所在地 : 岐阜県本巣郡北方町(1955年・1958年・1960年)、岐阜県本巣郡北方町北方(1964年)
開館年 : 1953年10月
閉館年 : 1957年頃? 1964年頃?
『全国映画館総覧1955』によると1953年10月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「北方映画劇場」。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図には掲載されていないと思われる。1964年の映画館名簿では経営者が渡辺晋作、支配人が寺井尚美、木造1階、定員250。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では跡地に「北方会館」。跡地は喫茶店/麻雀店「サンパール」。最寄駅は樽見鉄道線北方真桑駅。

明治初期の北方町では、円鏡寺の境内で小屋掛け芝居が行われていた。その後、千歳町に「千歳座」が開館したが、1891年の濃尾地震で倒壊した。本町の中ほど東側に「常磐座」ができたが、大正期の火災後には新町の北裏に移転し、本町が寂れることとなった。*47

終戦後から1957年頃まで、北方町の増屋町には北方映画館があった。*48

戦後には北方町の増屋町にある三枡屋跡地に映画館が開館したが、1982年現在はパチンコ屋となっている。*49

西濃地方

海津市

石津劇場
所在地 : 岐阜県海津郡南濃町石津27(1956年・1957年)、岐阜県海津郡南濃町石津(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「石津劇場」。1963年の映画館名簿では経営者が佐藤浜吉、支配人が佐藤新吉、鉄筋造1階、定員600、上映系統記載なし。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は和菓子屋「ひさごや」北北西50mにある民家。最寄駅は養老鉄道養老線石津駅。
野寺劇場
所在地 : 岐阜県海津郡平田町野寺(1956年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「野寺劇場」。1963年の映画館名簿では経営者が棚橋文樹、支配人が宇野幸男、木造1階、定員600、上映系統記載なし。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
駒野劇場
所在地 : 岐阜県海津郡南濃町駒野(1956年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「駒野劇場」。1963年の映画館名簿では経営者が田中繁一、支配人が記載なし、木造1階、定員200、上映系統記載なし。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1975年のゼンリン住宅地図には掲載されていない。40代と思われる「尾張屋昌常」の主人によると、跡地は「南濃郵便局」南東60mにある駐車場。「千代乃食堂」の南東すぐ。この主人が生まれたことにはもう映画館が存在しなかったが、父親から場所を聞かされたという。最寄駅は養老鉄道養老線駒野駅。
高須劇場
所在地 : 岐阜県海津郡高須町(1951年・1953年・1955年)、岐阜県海津郡海津町高須(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館名簿1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1951年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「高須劇場」。1963年の映画館名簿では経営者が高山吉太郎、支配人が記載なし、木造2階、定員500、邦画・洋画を上映。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1975年のゼンリン住宅地図では跡地に「臨海木工岐阜事務所」や「渡辺忠夫」邸。跡地は「大垣共立銀行海津支店」南東80mにある駐車場。最寄駅は養老鉄道養老線駒野駅。

1925年8月、海津郡高須町の「高須劇場」で中村歌蔵の「ほまれの千本松」が上演された。これを鑑賞した金廻青年団有志によって、薩摩義士の功績を顕彰する目的の劇団として青美団が結成された。

海津市海津図書館に本の返却に来ていた60代と思われる女性によると、跡地は「大垣共立銀行海津支店」南東80mにある駐車場。殿町通り沿い。この女性は高須劇場に芝居を観に行ったことがあり、映画館ではなく劇場と認識していた。海津市立高須小学校の前で出会った80代の男性によると、この劇場では芝居も演劇も興行していた。
マルイ劇場
所在地 : 岐阜県海津郡海津町高須(1961年・1964年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1964年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年の映画館名簿では「マルイ劇場」。1962年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の映画館名簿では「マルイ劇場」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに伊藤三二、木造2階建、定員500。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1975年のゼンリン住宅地図では跡地に「丸井石油」。跡地は「出光興産ユートピア高須SS」(マルイ石油店)。場所は海津市立高須小学校の前で出会った80代の男性に聞いた。最寄駅は養老鉄道養老線駒野駅。
今尾劇場
所在地 : 岐阜県海津郡今尾町(1951年・1953年・1955年)、岐阜県海津郡平田町今尾(1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1920年11月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館名簿1955』には開館年が記載されていない。1930年・1936年・1943年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1951年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「今尾劇場」。1964年の映画館名簿では経営者が近藤喜三、支配人が大橋山治、木造2階建、定員500。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「辻中医院」。最寄駅は養老鉄道養老線駒野駅。

海津郡今尾町今尾にある合資会社の「今尾劇場」。1920年11月創立。資本金6000円。*50

1930年の『大日本職業別明細図 第222号』には「今尾劇場」が描かれている。*51

養老郡養老町

文化劇場
所在地 : 岐阜県養老郡高田町(1952年・1953年・1955年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館名簿1955』には開館年が記載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1955年の映画館名簿では「文化劇場」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。1968年のゼンリン住宅地図では跡地に「西脇藁工品店」。1972年のゼンリン住宅地図では跡地に「西脇産業株式会社」。高田劇場跡地にある食料雑貨店「りんごや」の常連客の話では、跡地は高田商店街の南東部にある「川瀬新聞舗」。「養老町国際学習会館」の南。最寄駅は養老鉄道養老線美濃高田駅。
高田劇場
所在地 : 岐阜県養老郡高田町常盤町26(1953年)、岐阜県養老郡高田町常盤町(1955年)、岐阜県養老郡養老町高田(1958年・1960年・1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1951年1月30日
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧1955』によると1950年1月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「高田劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が高田興業、支配人が渡辺晃、木造1階、邦画を上映。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1968年のゼンリン住宅地図では跡地に「(建)」。1972年のゼンリン住宅地図では跡地に「スーパーヨーロー」。1980年の『航空住宅地図帳』では跡地に「ヨーロースーパー」。現在の跡地は食料雑貨店「りんごや」とその北側の駐車場。「大晃堂内科医院」から道路を挟んで正面。最寄駅は養老鉄道養老線美濃高田駅。

1951年1月30日の『東海夕刊』には「高田劇場」の開館広告が掲載されている。「西濃第一を誇る 高田劇場新築落成」「祝 愈々1月30日、31日開場」「日本一の女剣士 五拾余名来演 大江美智子大一座」などと書かれている。*52

1951年1月、1978年現在のヨーロースーパーの場所に高田劇場が開館した。映画・芝居・浪曲などの興行を行ったが、10年ほどで閉館した。*53

1951年1月、高田興業株式会社によって高田劇場が竣工し、盛大なこけら落としが行われた。敷地坪251坪、総建坪242坪。収容人数800人。映画や演劇の興行を行っている。*54

太平洋戦争後、高田のスーパー養老の前に映画館が開館した。大晃堂の前である。*55

不破郡垂井町

八重垣劇場
所在地 : 岐阜県不破郡垂井町垂井駅前(1956年・1957年・1958年)、岐阜県不破郡垂井町(1960年・1961年)、岐阜県不破郡垂井町本町(1962年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「八重垣劇場」。1962年の住宅地図では経営者が田中印刷興業、支配人が松波秀次、木造2階、定員300、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の映画館名簿では跡地に「正村会館」。現在の跡地は駐車場。最寄駅はJR東海道本線垂井駅。
垂井劇場
所在地 : 岐阜県不破郡垂井町(1955年・1958年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1936年
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「垂井劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の映画館名簿では跡地に北から「中村小間物」「安田」「児玉畳店」。現在の跡地は「紫雲閣格納庫」東向かいにある3軒分の民家と空地。最寄駅はJR東海道本線垂井駅。

1936年の不破郡垂井町にあった「垂井劇場」の写真あり。「柳原商事株式会社垂井工場 産業報●厚●大会 従業員家族慰安会」の看板が見える。垂井の泉町には「泉座」という芝居小屋があったが、老朽化によって閉館した。1936年9月、北横町の東側に「垂井劇場」が開館した。こけら落としには市川段士郎の一座の歌舞伎が興行された。歌舞伎・浪花節・講演会の会場として、後には常設映画館として利用された。小中学生の映画鑑賞会なども行われた。*56

1914年に不破郡役所が発行した『不破郡案内』には、「劇場 垂井町 泉座」と「劇場 赤坂町 新栄座」の広告が掲載されている。*57

1994年に垂井町が発行した『新修垂井町史 史料編』には、年不明の「垂井劇場」の紀の国屋大一座の公演の広告が掲載されている。*58

1937年4月7日には、前年に文楽座から独立した劇団の新義座が垂井町の「垂井劇場」で公演を行っている。*59

不破郡垂井町のタルイピアセンター内にある垂井町歴史民俗資料館には、壁面の一角に「垂井劇場」の広告が常設展示されている。年末超特別大興行として12月10日(年不明)に五色会による京都名物の舞踊が行われた。*60

不破郡関ケ原町

関ケ原劇場
所在地 : 岐阜県不破郡関ケ原町(1956年・1960年・1963年)、岐阜県不破郡関ケ原町3211-3(1966年・1969年・1970年・1971年・1972年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1972年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1971年・1972年の映画館名簿では「関ケ原劇場」。1968年・1969年の住宅地図では「関ケ原劇場」。1971年の住宅地図協会住宅地図では「関ケ原劇場」。1972年のゼンリン住宅地図では「関ケ原劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「関ヶ原駅前観光交流館」の東80mにある月極駐車場。最寄駅はJR東海道本線関ケ原駅。

安八郡神戸町

神戸シネマ
所在地 : 岐阜県安八郡神戸町(1956年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「神戸シネマ」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1974年の住宅地図では跡地に「パチンコ神戸センター」。1993年の住宅地図では跡地に「タシロ薬局」。跡地は「唐崎神社」から宮町通りを挟んで東側の民家。最寄駅は養老鉄道養老線広神戸駅。

大正初期頃から神戸町の「信栄座」は、芝居の興行の合間に活動写真も上映し始めた。昭和初期までは無声映画の時代であり、上映時には楽士と弁士がいた。戦後、若い男女は大垣市や岐阜市まで映画を見に行くようになり、どこの映画館も満員だった。*61

安八郡輪之内町

大藪劇場/輪之内劇場/世光劇場
所在地 : 岐阜県安八郡大藪町(1952年・1953年・1955年)、岐阜県安八郡輪之内町20(1958年)、岐阜県安八郡輪之内町(1960年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1955年の映画館名簿では「大藪劇場」。1958年の映画館名簿では「世光劇場」。1960年の映画館名簿では「輪之内劇場」。1963年の映画館名簿では「世光劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1974年のゼンリン住宅地図では跡地に「長縄吉一邸」と「加納屋」。1993年の住宅地図では跡地に「加納屋」と「安田良太郎邸」。跡地は「輪之内町立大藪小学校」北の「善明寺」の北西100mにある民家。最寄駅はJR東海道新幹線岐阜羽島駅。

『輪之内学研究』創刊号には昭和30年代の「大藪本通りお千代保街道沿いの商店街」にあった店舗名が記されており、「世光劇場」も掲載されている。名称として「大藪劇場・世光劇場・輪之内劇場」だったとされ、やがて「丸二自転車商会」になったとされる。劇場時代の代表者は「青木幸助や青年団」だったとされ、丸二自転車商会になってからの代表者は「渡辺與七や渡辺充や渡辺一弘」と記されている。2012年現在でも丸二自転車商会は営業中とされる。*62

安八郡安八町

安八町ドライブインシアター
所在地 : 岐阜県安八郡安八町
開館年 : 1990年9月22日
閉館年 : 1990年9月22日(単発イベント)
1990年9月22日夜、安八郡安八町大森の三洋電機岐阜事業所駐車場でドライブインシアターが開催された。安八町青年のつどい協議会が主催。特設会場に縦9メートル×横15メートルの大スクリーンが設置され、19時から『ドラえもん のび太とアニマル惑星』と『ロボコップ2』が上映された。ヤングカップルら350台の車が集まった。*63

揖斐郡揖斐川町

宝来館
所在地 : 岐阜県揖斐郡揖斐川町市場1445(1958年)、岐阜県揖斐郡揖斐川町(1960年・1963年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1963年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「宝来館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1976年・1987年のゼンリン住宅地図では跡地に「青年の家」。1994年のゼンリン住宅地図では跡地に「下新町公民館」。跡地は「真教寺」西側の「下新町コミュニティセンター」。最寄駅は養老鉄道養老線揖斐駅。
揖斐劇場
所在地 : 岐阜県揖斐郡揖斐町昭和町(1947年)、岐阜県揖斐郡揖斐町(1950年・1953年)、岐阜県揖斐郡揖斐町2(1955年)、岐阜県揖斐郡揖斐川町2(1958年)、岐阜県揖斐郡揖斐川町(1960年・1963年)、岐阜県揖斐郡揖斐川町上新町(1964年)
開館年 : 1945年11月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧1955』によると1945年11月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「揖斐劇場」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに渡部礼平、木造2階建、364席。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「川口屋」。1980年の住宅地図では跡地に「スーパーチェーン川口屋揖斐店」。1987年・1994年の住宅地図では跡地に「スーパー川口屋揖斐店」。現在の跡地は「大垣西濃信用金庫揖斐川支店」南東60mにあるガレージのある駐車場。最寄駅は養老鉄道養老線揖斐駅。

太平洋戦争後にはトーキー映画の人気が高まり、大和の渡辺礼平は下町にあった乾繭倉庫の建物を映画館とし、映画を上映して連日満員の盛況だった。この流れを見た西濃建設の宗宮和久は仲町に「中央劇場」を新築し、次いで渡辺礼平も上新町に「揖斐劇場」を建設して映画を上映した。やがてテレビの普及で客を奪い合うようになり、中央劇場はパチンコ店に、揖斐劇場はスーパーチェーンに業態転換し、揖斐川町から映画館がなくなった。揖斐中町にあった中央劇場と揖斐上新町にあった揖斐劇場の写真あり。*64
揖斐中央劇場
所在地 : 岐阜県揖斐郡揖斐町中町(1955年)、岐阜県揖斐郡揖斐川町676(1958年)、岐阜県揖斐郡揖斐川町(1960年・1963年)、岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪中町(1964年)、岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪(1965年)
開館年 : 1953年10月5日
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧1955』によると1953年10月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「揖斐中央劇場」。1964年の映画館名簿では経営者が森秀一、支配人が森文子、鉄筋造平屋建、定員350。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1976年・1980年の住宅地図では跡地に「駐車場」。跡地は巡礼花街道沿いにある「北野神社」鳥居の西隣。最寄駅は養老鉄道養老線揖斐駅。

太平洋戦争後にはトーキー映画の人気が高まり、大和の渡辺礼平は下町にあった乾繭倉庫の建物を映画館とし、映画を上映して連日満員の盛況だった。この流れを見た西濃建設の宗宮和久は仲町に「中央劇場」を新築し、次いで渡辺礼平も上新町に「揖斐劇場」を建設して映画を上映した。やがてテレビの普及で客を奪い合うようになり、中央劇場はパチンコ店に、揖斐劇場はスーパーチェーンに業態転換し、揖斐川町から映画館がなくなった。揖斐中町にあった中央劇場と揖斐上新町にあった揖斐劇場の写真あり。*65

1958年の揖斐川町にあった「中央劇場」の写真あり。太平洋戦争後にはトーキー映画の人気が高まり、中町に中央劇場が、上新町に揖斐劇場が建てられて映画を上映した。テレビの普及によって観客を奪われて閉館した。右手の鳥居は北野神社である。道路を挟んで正面には「くすり」の看板が見える。*66

1953年10月7日の『岐阜タイムス』には、1953年10月5日から「揖斐中央劇場」が開館するという記事が掲載されているとされるが、岐阜新聞データベースで該当ページを見ても記事を発見できず。*67

揖斐郡大野町

大野町の映画館
2005年には揖斐郡大野町を走る名鉄揖斐線が廃線となった。2015年3月現在、揖斐郡大野町の住民有志は旧黒野駅舎を改装した黒野駅ミュージアムにおいて、黒野駅周辺を1/150で再現するジオラマ製作に取り組んでいる。取り壊された映画館(※大野劇場と昭和劇場のどちらの映画館かは不明)や建て替え前の診療所などを再現した。黒野八幡神社は鳥居や神木まで再現している。*68
大野会館/大野映画劇場/大野劇場
所在地 : 岐阜県揖斐郡大野町(1955年・1958年・1960年・1963年)、岐阜県揖斐郡大野町黒野(1964年)
開館年 : 1947年12月
閉館年 : 1963年
『全国映画館総覧1955』によると1947年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「大野会館」。1960年の映画館名簿では「大野映画劇場」。1963年・1964年の映画館名簿では「大野劇場」。1964年の映画館名簿では経営者が松野民男、支配人が松野茂、木造1階、定員300。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅地図では跡地に「パチンコ大野一番」があると思われる。1976年の住宅地図では跡地に空白。1980年の住宅地図では跡地に駐車場。1987年・1994年の住宅地図では跡地に「ガレージ」。跡地は「十六銀行大野支店」の北東40mにある駐車場。十六銀行大野支店南側には近代建築の「小森医院」がある。最寄駅は樽見鉄道樽見線モレラ岐阜駅。

1954年に大野町商工会が発行した『大野町案内』には「大野会館」の広告と写真が掲載されている。写真には「大野会館」「ONOKAIKAN」の文字が見える。広告には「文化娯楽の殿堂 皆様の映画館」「合名会社ランプ屋百貨店」「電話69番」と記載されている。*69

昭和20年代後半、揖斐郡大野町の黒野四つ辻の北東角に「大野会館」が開館した。衣料品店を経営していた松野民男が建てたのである。昭和劇場とは違って映画専門館であり、土間の館内に長床几(ながしょうぎ)を並べただけだった。ほぼ毎日開館し、『青い山脈』などが上映された際には立ち見も出た。テレビが普及すると入場者数が激減し、1963年に閉館した。(※出典では「1967年」とある。1967年は1963年の誤りだと判断したが、昭和38年が昭和42年の誤りである可能性もある)*70
昭和映画劇場/昭和劇場
所在地 : 岐阜県揖斐郡大野町(1956年)、岐阜県揖斐郡大野町650-4(1957年・1958年)、岐阜県揖斐郡大野町(1960年・1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年の映画館名簿では「昭和劇場」。1960年の映画館名簿では「昭和映画劇場」。1963年の映画館名簿では「昭和劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1968年のゼンリン住宅地図では跡地に「西濃信用金庫」。1976年のゼンリン住宅地図では跡地に「西濃信用金庫本店」。1987年・1994年のゼンリン住宅地図では跡地に「西濃信用金庫」。跡地は「大垣西濃信用金庫大野支店」。最寄駅は樽見鉄道樽見線モレラ岐阜駅。

1954年に大野町商工会が発行した『大野町案内』には「昭和劇場」の広告と写真が掲載されている。写真には洋風のファサードが見える。広告には「児島興行部」「電話大野局11番」と記載されている。*71

時期不明の「昭和劇場」の写真あり。戦後まもなく、興行師の児島丑松が日の丸製糸工場跡地に「昭和劇場」を開館させた。1998年現在の西濃信用金庫本店の場所である。芝居と映画の双方を興行し、女剣劇の大江美智子一座なども出演した。小中学校に近かったことから、先生に引率されて児童の名画鑑賞会が行われた。昭和30年代初頭、西濃信用金庫に買収されて取り壊された。*72

揖斐郡池田町

池野劇場(戦前)
所在地 : 岐阜県揖斐郡恩知村池野
開館年 : 不明
閉館年 : 不明
戦後の同名施設とは場所が異なる。

1926年の池野町の「池野劇場」の広告あり。「池の劇場」(※「の」がひらがな)とある。「大東亜キネマ四大名編突如封切」『戦国時代大会』『顔』などの作品の文字が見える。*73
池野劇場(戦後)/池野映画劇場
所在地 : 岐阜県揖斐郡恩知村池野(1955年)、岐阜県揖斐郡池田町池野(1958年)、岐阜県揖斐郡池田町(1960年)、岐阜県揖斐郡池田町池野(1963年)
開館年 : 1948年6月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧1955』によると1948年6月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年の映画館名簿では「池野映画劇場」。1960年の映画館名簿では「池野劇場」。1963年の映画館名簿では「池野映画劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅地図では「池野東映」。1980年の住宅地図では跡地に「樋口敬之丞 縫製業」。跡地は池田町役場南100mの寿司屋「一休さん」南の民家。戦前の同名施設とは場所が異なる。最寄駅は養老鉄道北池野駅。

1924年、天神町に6600円の建設費で「池野劇場」が建設され、芝居の興行や活動写真の上映を行った。1929年には天神町に3000円の建設費で「浪花館」が建設され、浪花節や演芸の興行を行った。太平洋戦争後には上町に「池野劇場」(※戦前の同名施設とは異なる?)が開館し、ニュース映画・劇映画などが週替わりで上映されたが、テレビの普及などで観客が減少し、1961年頃に閉館した。1972年に撮影された池野劇場の廃墟の写真あり。山形屋根。*74

中濃地方

関市

千歳座(洞戸村)
所在地 : 岐阜県武儀郡洞戸村
開館年 : 1927年2月
閉館年 : 1972年10月
各年版の映画館名簿には掲載されていない。映画も上映する劇場。跡地は「国道256号関市洞戸事務所前交差点」北100mにある空き地。最寄駅は長良川鉄道越美南線湯の洞温泉口駅。

1930年の『大日本職業別明細図 第200号』には「劇場」が描かれている。*75

1927年2月、洞戸村に劇場「千歳座」ができた。1972年10月、千歳座が閉館した。*76

1927年、洞戸村に劇場「千歳座」ができた。1972年、千歳座が閉館した。*77

1927年には板取川の河原で行われた軽業師の興行が大人気を博したことから、洞戸の旦那衆の間で常設小屋を建設する機運が高まった。市場の川甚(篠田甚市)、米寅バザー(武藤松太郎)を発起人の代表として、株式組織の千歳座組合が発足し、吉田銀行洞戸支店長の林米次郎が筆頭株主となった。1株100円で50口を募り、5000円で小屋の建設に着手。総工費はさらに5口加えた5500円となっている。大野の大忠(船戸忠衛門)が工事を行った。御大典で日本中が沸いていた1928年、洞戸村に芝居小屋「千歳座」が竣工した。洞戸村にとって前にも後にも唯一の芝居小屋である。旧正月の3日間にこけら落とし興行を行い、関西歌舞伎の嵐八千代一行が公演した。10歳くらいの嵐八千代が竹駕籠に乗って練り歩いて顔見せし、近在の村からも観客を集めて3日間とも大入り満員だった。街道から千歳座に通じる路地の入口には招きが掲げられた。小屋の正面には矢来格子の戸があり、戸の左手に出札場が、建物の中に下足場があった。桝形に仕切られた客席、左右両側の桟敷席、2階席、花道、仲店、巡査の臨検場があった。廻り舞台はなかった。創業当初は盆、正月、旧正月、祭礼、彼岸などに興行が行われ、株主には優待券が配られた。歌舞伎、新派劇、剣劇、活動写真、浪曲、漫才、奇術などが行われた。1944年には名古屋の軍需工場である小塩製作所が千歳座に疎開し、桝席を取り払って機械を設置したが、操業を開始する前に終戦を迎えた。戦後には洞戸村連合青年団の設立総会、農民組合大会などの各種集会が行われた。1959年の伊勢湾台風では屋根が壊れたが、その後から映画上映専門の小屋となり、毎月1日と15日に定期興行が行われた。昭和40年代になるとテレビが普及して観客が少なくなり、1974年には市場の神山百貨店に身売りした。内部は改装されてホームセンターとなり、洞戸一の店として板取・美山・上牧などからも客を集めている。*78

2002年10月27日から武儀郡洞戸村市場の旧「千歳座」で映画ポスター展が、11月4日には映画上映会が開催される。洞戸村教育委員会によって交流拠点として整備された。千歳座は1928年に芝居小屋として建てられ、活動写真の上映や芝居の公演などに用いられた。当時としては珍しい一部2階建ての建物であり、近郷からも観客を集めた。戦時中には軍需工場として使われたこともある。昭和40年代まで娯楽の殿堂として親しまれたが、1974年には地元の商店に身売りされてホームセンターとなった。2002年5月にはホームセンターも閉鎖され、洞戸村教育委員会が緊急雇用早秋つ特別対策事業の一環で改修した。1階と2階を合わせて約250平方メートルであり、約200人が入場できる。*79

2002年10月27日から武儀郡洞戸村の旧「千歳座」で映画ポスター展が開催され、11月4日には映画上映会が開催される。1928年には洞戸村の旦那衆が資金を出し合い、本格的な芝居小屋として千歳座が開館した。約200人を収容し、当時としては珍しい一部2階建てだった。旅回りの一座の芝居、浪曲、剣劇などの興行が行われ、近隣の町村からも観客を集めた。戦時中は軍事工場となり、戦後には青年団の素人演劇や芸能大会が開催された。1955年頃からは映画館として使用されたが、1965年頃には観客数が激減し、1974年には地元の商店に身売りした。内部はそのままにホームセンターとなったが、2002年5月にはホームセンターも閉店した。洞戸村教育委員会は再整備を検討し、緊急雇用創出特別対策事業で約68万円をかけて改修や清掃を行った。舞台や2階席には芝居小屋の雰囲気が残っており、緞帳も保管されていた。*80

2002年11月4日、武儀郡洞戸村市場の旧「千歳座」で映画上映会が開催され、地元住民ら約100人が楽しんだ。昭和初期に建てられ、芝居の公演や映画の上映が行われた。1974年に売却されてホームセンターとなり、2002年5月にはホームセンターが閉鎖された。洞戸村教育委員会が交流拠点として整備し、天井などを修理した。11月4日の上映会ではアニメ映画、嵐寛寿郎主演の『鞍馬天狗』など5本が上映された。*81
関映画劇場
所在地 : 岐阜県関市大平町(1955年・1958年・1960年)
開館年 : 1945年以前、1948年12月
閉館年 : 1961年12月26日
『全国映画館総覧1955』によると1948年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「関映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅地図では跡地に「関パチンコホール」。跡地は「新長谷寺仁王門」南東150mにある民家数軒と道路。最寄駅は長良川鉄道線関口駅。

1961年12月26日、関市大平町2の映画館「関映画劇場」が火災で全焼した。暖房室付近から出火し、木造モルタル式一部2階建てトタン葺きの劇場を焼いた。観客約50人は避難して無事だった。関市の繁華街で家屋が密集しているが、外壁がモルタルだったことなどが奏功して類焼はなかった。関映画劇場は1945年12月7日にも全焼している。黒煙を上げて燃える映画館の写真あり。*82

一昨年の暮れ(※正確には昨年の暮れ)、関市太平町通り(※大平町通りではない)にあった「関映画劇場」が焼失した。その後の跡地は空き地のままであり、映画館を再建するかどうかが市民の関心ごとだったが、関映画劇場の小林秀社長は跡地にアパートを建てる計画を練っている。327坪の土地に4階建てアパートを建て、1階はマーケット、2階以上を計45部屋のアパートとする予定。工費は約8000万円であり、1963年8月頃までの完成を目指す。*83
栄盛座/跡部劇場
所在地 : 岐阜県武儀郡武芸村跡部(1960年)、岐阜県武儀郡武芸村(1961年)、岐阜県武儀郡武芸村跡部(1964年)、岐阜県武儀郡武芸川町字跡部(1966年・1967年・1968年・1969年・1970年)
開館年 : 1929年
閉館年 : 1970年
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年の映画館名簿では「栄盛座」。1960年の映画館名簿では経営者が武藤留吉、支配人が武藤道郎、木造1階、定員382、映写機はミクニ、発声器はナショナル、邦画を上映。1962年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の映画館名簿では「栄盛座」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1967年・1968年・1969年・1970年の映画館名簿では「跡部劇場」。1966年の映画館名簿では経営者が武藤実、支配人が記載なし、木造2階、定員150、映写機はミクニ、発声器は自家製、松竹・大映・東映・日活・洋画を上映。1970年の映画館名簿では経営者が武藤実、支配人が記載なし、木造2階、定員150、映写機はミクニ、発声器はローラー、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「川北構造改善センター」南西20mにある民家。最寄駅は長良川鉄道関駅。

1988年の『武芸川町ふるさと探訪』には跡部地区の地図が掲載されている。川北地区には「6 栄盛座」「7 川北の地蔵堂」「9 秋葉神社」などが、また「15 南武芸橋」などが描かれている。*84

南武芸橋の東詰を少し下った角には、1929年に建てられた常設劇場「栄盛座」(えいせいざ)があった。木造平屋の巨大な建物である。月に4〜5回、また盆や正月に、歌舞伎、歌謡曲、浪曲などの興行が行われ、歌手の村田英雄や岡晴夫や豆千代、歌舞伎の8代目澤村宗十郎、浪曲の三門博や酒井雲などが来演した。時には政談演説の会場にもなり、永井柳太郎や大野伴睦などが訪れている。栄盛座は戦後に復活したが、テレビや自動車の普及もあって1970年に幕を引いた。*85

武芸川町には芝居小屋「跡部栄盛座」があった。1984年現在の武藤道行の家の場所である。1929年に仮設劇場として誕生し、芝居や映画の興行が行われた。1935年に常設劇場となり、戦前・戦後を通じて著名な劇団や歌手が来演した。テレビが普及したり交通の便がよくなると、都市の娯楽に敗れて廃業した。*86

昭和20年代の南武芸村跡部の街並みの写真あり。左奥の2階建ては酒屋であり、北に進むと薬局・八百屋・銀行などがあった。この付近には1929年開館の「跡部栄盛座」があり、芝居や映画の興行が行われた。*87
千歳座/千年会館/関千年会館/関千年劇場
所在地 : 岐阜県武儀郡関町(1930年)、岐阜県武儀郡関町千年町(1934年・1936年)、関町甲314(1941年)、岐阜県武儀郡関町甲(1943年)、岐阜県武儀郡関町千歳町(1947年)、岐阜県武儀郡関町(1950年)、岐阜県関市千年町(1953年・1955年)、岐阜県関市千年町1-21(1958年)、岐阜県関市千年町2-21(1960年・1961年)、岐阜県関市千年町1(1962年)、岐阜県関市千年町2-21(1963年)、岐阜県関市千年町1-22(1964年・1966年・1969年)
開館年 : 1937年9月、1962年12月15日(建て替え)
閉館年 : 1972年5月頃
『全国映画館総覧1955』によると1937年9月開館。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「千歳座」。1947年の映画館名簿では「千歳劇場」。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「千歳座」。1955年の経営者は関土地興業、支配人は後藤重貞、定員900、日活・松竹・洋画を上映。1958年の映画館名簿では経営者・支配人ともに後藤裕宣、木造2階、定員700、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿では経営者・支配人ともに後藤裕宣、木造2階、定員700、洋画を上映。1964年の映画館名簿では「千年会館」。1964年の映画館名簿では経営者が岸田寿朗、支配人が後藤重貞、鉄筋造2階、定員500、日活・大映を上映。1966年・1969年の映画館名簿では「関千年会館」。1968年・1969年の住宅地図では跡地に「パチンコ千年会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はスーパー「山憲商店関店」。最寄駅は長良川鉄道線刃物会館前駅。

1951年の関市千年町にあった「千歳座」の写真あり。「Chitoseza」の文字や『真珠夫人』の看板が見える。芝居小屋として開館した。1935年に改装され、映画も上映するようになった。*88

1953年の関市千年町にあった「千歳座」で開催された日本舞踊の発表会の写真あり。1890年に開設された芝居小屋であり、1935年に改装されると映画も上映するようになった。*89

1962年の関市千年町にあった「千歳座」で開催された成人式の写真あり。入口の上部には女優・俳優の看板が並んでいる。*90
自由劇場/関東映/関東映劇場
所在地 : 岐阜県武儀郡関町(1947年・1950年)、岐阜県関市東栄町(1953年・1955年・1958年)、岐阜県関市栄町1-53(1960年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年)
開館年 : 1946年3月(自由劇場)、1958年7月30日(関東映)
閉館年 : 1981年9月23日
『全国映画館総覧1955』によると1946年3月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「自由劇場」。1958年7月30日関東映改称。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「関東映」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「関東映劇場」。1968年・1969年の住宅地図では「関東映」。1980年の映画館名簿では木造1階、350席、経営会社は中外興業、経営者は篠田軍治、支配人は高橋昭、邦画と洋画を上映。1982年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「関栄町郵便局」北東110mにある関川西岸の分譲住宅地。北側の道路が名鉄美濃町線の廃線跡であり北西すぐの場所に新関駅があった。最寄駅は長良川鉄道線関駅。

1958年7月30日より、関市栄町1丁目の映画館「自由劇場」が関東映に改称した。岐阜土地興行株式会社の篠田軍治社長が、自由劇場株式会社の高橋照社長から一切の施設を借り受けて、個人で経営することになった。高橋は支配人として経営に参加する。東映・東宝の上映館であり、連日昼夜三本立ての興行を行う。7月30日から8月5日までの上映作品は、東映スコープの『花笠若衆』、東映スコープの『陽気な靴みがき』、東宝スコープの『美女と液体人間』の3本立て。*91

このほど、関市唯一の映画館だった「関東映」が23年の歴史に幕を閉じて閉館することが決定した。建物の老朽化が理由。ひとまず駐車場として生まれ変わる。中濃路から映画館がなくなる。関市にはかつて「千年会館」「関映画劇場」「関東映」の3館があり、休日や夜間には特ににぎわったが、娯楽の多様化やテレビの普及で斜陽化産業となった。車社会が観客の減少に拍車をかけ、関東映だけが残っていた。1958年に中外興業が「自由劇場」を引き継ぎ、大改装して関東映が開館した。木造モルタル、660m2、350席であり、当時としては立派な劇場だった。再改築して150席に縮小する計画もあったが、建築防災法の関係で叶わなかった。ひとまず9月23日に休館とし、10月には建物を撤去して駐車場とする。建物の再建は白紙である。*92

1981年10月7日付『中部読売新聞』岐阜版朝刊には「関東映」が閉館する際の記事が掲載されている。現物は未確認。*93

1981年10月13日付『朝日新聞』岐阜版朝刊には「関東映」が閉館する際の記事が掲載されている。現物は未確認。*94
関シネックスマーゴ
所在地 : 岐阜県関市倉知516(2005年・2010年)、岐阜県関市倉知516 サンサンシティマーゴシネマ館(2015年・2018年・2020年・2022年)
開館年 : 2003年11月21日
閉館年 : 営業中
2002年の映画館名簿には掲載されていない。2005年の映画館名簿では「CINEX-MAGO 1-8」(8館)。2010年・2015年・2018年・2020年・2022年の映画館名簿では「関シネックスマーゴ1-8」(8館)。2022年の映画館名簿では経営会社が岐阜土地興業、経営者が大塚聖司、支配人が西村麻里。中濃地方初のシネコン。最寄駅は長良川鉄道線せきてらす前駅。

2003年11月21日、関市倉知に「マーゴシネマ館」が開館する。岐阜県では岐阜市・岐南町・真正町・柳津町に続いて5施設目のシネコンであり、中濃地区では初のシネコンである。8スクリーン計1389席。*95

2003年11月21日、関市倉知に「マーゴシネマ館」が開館する。複合映画館(シネマコンプレックス)とゲームコーナーや飲食店などがある一大アミューズメント施設。中濃地域初のシネコンであり、東濃地域や飛騨地域からの集客も期待される。映画館「シネックス マーゴ」は8スクリーンからなり、最大スクリーンは313席の広さ。シートはスタジアム形式で見やすい。シート最前列とスクリーンの間が広いため、ゆったりと観賞できる。岐阜県内の映画館では初となるペアシートが設けられており、2人で鑑賞したいカップルにお勧め。*96

関市倉知のマーゴ本館北隣に建設途中だった「マーゴシネマ館」が完成。大型ショッピングセンター「サンサンシティマーゴ」を運営するサン・ストラッセが建設していた。2003年11月21日のグランドオープンを前に、11月19日には地元関係者や取引先関係者ら約230人を招いて完成式と内覧会が行われた。中濃地区初のシネマコンプレックスと岐阜県内最大級のアミューズメントを併設している。鉄骨2階建てであり、延床面積は約8500平方メートル。1階は岐阜土地興行が運営する映画館「シネックスマーゴ」であり、8スクリーン計1389席(全指定席)を持つ。*97

2003年12月5日の記事。関市の商業施設「サンサンシティマーゴ」に、岐阜市の名鉄新岐阜駅前に次いで岐阜県2店目のスターバックスがオープンする。2003年11月21日に「マーゴシネマ館」が開館したことで商業施設全体の集客力がアップし、安定した利用が見込めると判断した。*98

2003年11月19日付『朝日新聞』にはシネックスマーゴが開館する際の掲載されている。現物は未確認。*99

美濃加茂市

盛栄座
所在地 : 岐阜県加茂郡太田町
開館年 : 明治20年代末
閉館年 : 不明
明治20年代末頃、太田町で初の芝居小屋として新町に「盛栄座」が開館した。渡辺権次郎(梅本)、佐合秀年(髪結のこうりさの主人)が経営した。建物は舞台の部分だけであり、興業の際には見物席にはむしろが敷かれ、天幕が張られ、周囲はむしろで囲まれた。廻り舞台の設備を有し、子どもらはよく奈落で遊んだ。盛栄座の定員は約200人だった。*100
河内座
所在地 : 岐阜県加茂郡太田町
開館年 : 明治30年代
閉館年 : 不明
明治30年代、太田町の中町にある郵便局裏に「河内座」が開館した。小屋主は河内屋の林啓次郎であり、林は1898年に太田郵便局長となって新庁舎を建設した人物である。劇場は南向きであり、西の路地に入口があった。河内座の定員は約800人だった。*101
古井劇場
所在地 : 岐阜県加茂郡古井町(1952年・1953年)、岐阜県美濃加茂市古井町(1955年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1955年の映画館名簿では「古井劇場」。1955年の映画館名簿では経営者が金子友二、木造2階、定員600。1956年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の全商工住宅案内図帳では「古井劇場」。跡地は「若尾助産院」付近。最寄駅はJR高山本線古井駅。

『全国映画館名簿』全国映画館新聞社、1958年では「古井劇場」。
福助座/若嶋座/前進座/日活キネマ/太田日活シネマ
所在地 : 岐阜県加茂郡太田町(1950年・1953年)、岐阜県美濃加茂市太田町(1955年・1956年・1957年・1958年・1960年・1963年・1964年)、岐阜県美濃加茂市太田町3768(1966年)
開館年 : 明治末期(福助座)、1945年(映画館化)、1950年10月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧1955』によると1950年10月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1956年・1957年・1958年・1960年の映画館名簿では「前進座」。1955年の映画館名簿では経営者・支配人ともに野田義親、定員800、混合を上映。1961年・1963年・1964年の映画館名簿では「日活キネマ」。1962年の全商工住宅案内図帳では「前進座」。1966年の映画館名簿では「太田日活シネマ」。1966年の映画館名簿では経営者が堀口興行、支配人が渡辺泰吉、木造2階、定員317、洋画を上映。1967年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「太田宿中山道会館」西にある「太田宿中山道会館駐車場」。最寄駅はJR・長良川鉄道美濃加茂駅。

明治40年代、太田町の中町にある「河内座」の南に「福助座」が開館した。小屋主は今井金次郎、渡辺鶴次郎、兼松国輔であり、定員は600人だった。大正末期、下古井の日比野鎌三郎が経営を引き継ぎ、「若嶋座」に改称した。1932年には浅井利一が経営者となり、1941年には渡辺栄三郎・仙田猶次・磯貝勝貞・野田義信・加藤弥一・渡辺照一が経営者となった。1945年には若嶋座が「前進座」に改称して映画館となった。*102

昭和初期の美濃加茂市太田本町にあった「若嶋座」の写真あり。明治末期、太田中町(現在の太田宿中山道会館の西)に芝居小屋の「河内座」が開館した。その後河内座の南に「福助座」が開館し、大正末期には若嶋座に改称した。昭和初期の不況時、商店街はロンドン街というハイカラな愛称を名乗り、若嶋座に太田ロンドン街発展会と書かれた緞帳を寄贈している。若嶋座は1945年に「前進座」に改称した。*103

1950年に美濃加茂市太田本町の劇場「前進座」に訪れた歌舞伎劇団「前進座」の写真あり。1931年に旗揚げされた東京の劇団であり、創立20周年公演として東海道中膝栗毛などの演目を行った。(※劇場名と劇団名が同一だが関連はない)*104

1955年頃の美濃加茂市太田本町にあった「前進座」の写真あり。土田の渡し場からすぐの場所にあった。大正末期に開館した「若嶋座」が前身である。土田に住む者は渡し舟を使って訪れた。*105
OS劇場/太田ニューOS劇場/太田ニューOS
所在地 : 岐阜県美濃加茂市太田町3563(1957年・1958年)、岐阜県美濃加茂市太田町(1960年)、岐阜県美濃加茂市太田町3563(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1988年・1989年)
開館年 : 1956年
閉館年 : 1989年頃
1955年・1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「OS映画劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「OS劇場」。1962年の全商工住宅案内図帳では「OS映画劇場」。1963年の映画館名簿では経営者が岩本重雄、支配人が山田八十八、鉄筋造冷暖房付、定員500、邦画を上映。1964年の映画館名簿では経営者が岩木重雄、支配人が山田八十八、木造3階冷暖房付、定員500、邦画・洋画を上映。1965年の映画館名簿では経営者が岩本重雄、支配人が山田八十八、鉄筋造4階冷暖房付、定員500、邦画・洋画を上映。1966年・1969年の映画館名簿では「太田ニューOS劇場」。1966年の映画館名簿では経営者がニューOS、支配人が山川与雄、鉄筋造2階冷暖房付、定員300、松竹・大映・日活・洋画を上映。1971年のゼンリン住宅地図では「ニューO・S」。1973年・1976年・1980年・1985年・1988年・1989年の映画館名簿では「太田ニューOS」。1980年の映画館名簿では経営会社はニューOS、経営者は岩本重雄、支配人は名古路裕史、鉄筋造2階、297席、東映・にっかつ・洋画を上映。1984年のゼンリン住宅地図では「株式会社ニューOS 1階パチンコニューOS 2階映画館ニューOS」。1989年の映画館名簿では経営会社は株式会社ニューOS、経営者・支配人ともに岩本重雄、鉄筋造2階、297席、東映・にっかつ・洋画を上映。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2015年以前閉店のパチンコ店「ニューOS美濃加茂店」廃墟。最寄駅はJR・長良川鉄道美濃加茂駅。

加茂郡太田町にあった映画館としては「太田館」と「OS劇場」がある。1931年から1932年頃、美濃太田駅の駅前通東に建築に2年ほどかかった太田館(現・太田会館)が開館した。戦後の1956年、OS劇場が開館した。*106
太田座/太田館/太田東映/太田東映劇場/太田会館
所在地 : 岐阜県加茂郡太田町(1936年・1943年・1947年・1950年)、岐阜県美濃加茂市太田町(1955年・1956年・1957年・1958年・1960年)、岐阜県美濃加茂市太田町銀座3530(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年)、岐阜県美濃加茂市太田町4296(1995年・2000年・2002年)
開館年 : 1932年頃、1941年1月
閉館年 : 2002年頃
『全国映画館総覧1955』によると1941年1月開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1943年・1947年・1950年の映画館名簿では「太田館」。1953年・1955年の映画館名簿では「太田座」。1955年の映画館名簿では経営者が亘竜三、定員700、混合・演を上映。1956年・1957年の映画館名簿では「太田館」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「太田東映」。1962年の全商工住宅案内図帳では「太田東映」。1966年の映画館名簿では「太田東映劇場」。1966年の映画館名簿では経営者が亘竜三、支配人が加藤敬一、木造2階冷暖房付、定員324、東宝・東映・混合を上映。1969年・1973年・1976年・1980年・1990年・2000年・2002年の映画館名簿では「太田会館」。1971年のゼンリン住宅地図では「太田会館」。1980年の映画館名簿では木造1階、240席、経営者・支配人ともに亘泰弘、東宝と松竹と洋画を上映。1984年のゼンリン住宅地図では「太田会館 2階タカケンクリーニング スナックダンダン」。2000年の映画館名簿では経営者・支配人ともに亘泰弘、木造1階、200席、邦画・洋画を上映。2003年・2004年・2005年の映画館名簿には掲載されていない。美濃加茂市最後の映画館。跡地は「シンコー薬局美濃太田店」。最寄駅はJR・長良川鉄道美濃加茂駅。

加茂郡太田町にあった映画館としては「太田館」と「OS劇場」がある。1931年から1932年頃、美濃太田駅の駅前通東に建築に2年ほどかかった太田館(現・太田会館)が開館した。戦後の1956年、OS劇場が開館した。*107

美濃市

美濃市の映画館
1902年8月23日に竣工した「小倉座」は、近隣では随一の大劇場だった。歌舞伎・新派劇・剣劇・活動写真と多様な興行を行い、講演会や選挙演説の会場にもなった。昭和30年代には建物の老朽化などで工業も減少し、1965年頃に取り壊された。泉町の北裏通り国道と並行した道の中ほどにあった。大正末年に国鉄が開業して広岡町筋ができると、中ほどに「錦館」が開館した。1928年には常設映画館となって毎日上映を行い、小倉座は劇場、錦館は映画館として並列していた。戦後には経営者が後退し、「文映」に改称した。昭和30年代にはパチンコ店となり、近くに「赤玉会館」が新築された。赤玉会館は娯楽の変遷やテレビの普及とともに姿を消した。*108
錦館/美ノ町文化映劇/美濃文化劇場/美濃劇場
所在地 : 岐阜県武儀郡美濃町(1950年・1953年・1955年)、岐阜県美濃市広岡町(1958年・1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1928年、1948年12月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧1955』によると1948年12月開館。1950年の映画館名簿では「美ノ町文化映劇」。1953年・1955年の映画館名簿では「美濃文化劇場」。1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「美濃劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が吉田栄次郎、支配人が小森伊右衛門、木造2階暖房付、定員450、邦画を上映。1968年の住宅地図では跡地に「パチンコモナミ会館」。跡地は岐阜県道80号・岐阜県道281号広岡町交差点東角にある月極駐車場「プラザ貸駐車場」。最寄駅は長良川鉄道美濃市駅。

『保存版 関・美濃・郡上の今昔』郷土出版社、2010年、p.149では「文映」について言及されている。現物は未確認。*109

『美濃市史 通史編 下巻』美濃市、1980年、pp.378-380では「小倉座」や「錦館」について言及されている。現物は未確認。*110

1930年の『大日本職業別明細図 第200号』には「小倉座」と「錦館」が描かれている。*111

1928年、武儀郡美濃町の広岡町の一角に、常設映画館として「錦館」が開館した。にしきやの主人が建てたので錦館という名称になった。太平洋戦争後には経営者が変わって「文映」に改称したが、昭和30年代にパチンコ店に転換された。*112
牧谷映画劇場/牧谷座
所在地 : 岐阜県美濃市御手洗町957(1956年・1958年)、岐阜県美濃市御手洗(1960年・1961年)、岐阜県美濃市御手洗町(1962年)、岐阜県美濃市御手洗957(1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年の映画館名簿では「牧谷座」。1960年の映画館名簿では経営者が家田重五郎、支配人が家田酉三、木造2階、定員255、松竹・東映・大映を上映。1961年・1962年の映画館名簿では「牧谷映画劇場」。1963年の映画館名簿では「牧谷座」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
小倉座
所在地 : 岐阜県武儀郡美濃町(1953年)、岐阜県美濃市美濃町(1955年)、岐阜県美濃市美濃町1891(1958年)、岐阜県美濃市泉町(1960年・1963年)
開館年 : 1902年8月23日、1947年1月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧1955』によると1947年1月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「小倉座」。1960年の映画館名簿では経営者が酒井好次、支配人が堀小市、木造3階、定員800、大映・洋画を上映。1964年の映画館名簿には掲載されていない。映画館ではなく演劇場だったとされる。1968年の住宅地図では跡地に空白。1969年の住宅地図では「小倉座」。跡地は「美濃市文化会館」の東100mにある月極駐車場「小倉座駐車場」。最寄駅は長良川鉄道梅山駅。

吉田初三郎『美濃町鳥観図絵』村井酒造店、出版年不明には「小倉座」が描かれている。*113

1930年の『大日本職業別明細図 第200号』には「小倉座」と「錦館」が描かれている。*114

1937年4月8日には、前年に文楽座から独立した劇団の新義座が、美濃町の「小倉座」で公演を行っている。*115

『美濃市史 通史編 下巻』美濃市、1980年、pp.378-380では「小倉座」や「錦館」について言及されている。現物は未確認。*116

1914年の小倉座の写真あり。1902年8月23日、美濃市の劇場「小倉座」(おぐらざ)が竣工して開場興行を行った。開場興行には初代中村雁治郎、中村福助、中村芝雀などの著名な歌舞伎役者が出演し、「本朝廿四孝」や「鎌倉三代記」などが演じられた。明治大正期には近郷随一の立派な劇場であり、岐阜市や名古屋市の劇場と比べても恥ずかしくないものだった。美濃市における娯楽の殿堂であり、歌舞伎・新派劇・映画・奇術・選挙演説会など様々に利用された。現在は1981年であるが、小倉座の建物はつい先年まで存在した。*117

1902年、美濃町の御嶽新道の中ほどから東に入った横町に劇場「小倉座」が新築された。加治屋町の願念寺の坂の下にあった「富元座」が閉館してから、美濃町に久々に登場した興行を行える芝居小屋だった。8月23日、関西大歌舞伎を招いて「小倉座」のこけら落とし公演が行われ、「本朝二十四孝」や「鎌倉三代記」などが演じられた。こけら落とし公演は大入り満員であり、下足が山積みにされていたとされる。小倉座は近郷随一の劇場であり、明治末期の小倉公園近代化整備もあって周辺はさらに発展した。1965年、老朽化が理由で取り壊された。*118

1923年には"憲政の神様" 尾崎行雄が、1924年には"弁論の雄" 永井柳太郎が「小倉座」で講演会を開催した。いずれも美濃町の町民が押し寄せて盛況であり、小倉座の木戸が壊れるほどだった。*119
昭和会館
所在地 : 岐阜県美濃市大矢田町(1960年)、岐阜県美濃市大矢田(1964年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1964年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「昭和会館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の映画館名簿では「昭和会館」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
赤玉会館/美濃赤玉映画劇場/美濃赤玉映劇
所在地 : 岐阜県美濃市広岡町(1964年)、岐阜県美濃市車市場(1965年)、岐阜県美濃市2631(1966年・1969年)、岐阜県美濃市広岡町2631-2(1973年)
開館年 : 1963年頃
閉館年 : 1973年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1965年の映画館名簿では「赤玉会館」。1966年・1969年の映画館名簿では「美濃赤玉映画劇場」。1968年・1969年の住宅地図では「赤玉会館 映画 喫茶 パチンコ ビリヤード」。1973年の映画館名簿では「美濃赤玉映劇」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は広岡町交差点北北西50mにお好み焼き店「美名美」が入る雑居ビル「ニューアカダマ」として現存。「喫茶赤玉」の公式サイトがある。最寄駅は長良川鉄道美濃市駅。

可児市

東雲座/ひかり映画劇場/ひかり劇場
所在地 : 岐阜県可児郡広見町(1949年・1950年・1953年・1955年)、岐阜県可児郡可児町広見(1958年・1960年・1961年・1962年・1963年・1965年)
開館年 : 1887年(劇場として)、1955年? 1960年?(映画専門館として)
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「東雲座」。1953年の映画館名簿では経営者が日比野光雄、木造2階、定員650、混合・演劇を上映。1960年の映画館名簿では経営者・支配人ともに日比野光雄、木造2階冷暖房付、定員720、邦画・洋画を上映。1961年の映画館名簿では「ひかり映画劇場」。1962年の可児町全商工住宅案内図帳では「東雲座」。1962年の映画館名簿では「ひかり劇場」。1963年の映画館名簿では「ひかり映画劇場」。1965年の映画館名簿では「ひかり劇場」。1965年の映画館名簿では経営者が日比野光雄、支配人が佐藤つきゑ、木造2階冷暖房付、定員600、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1971年のゼンリン住宅地図では「ひかり劇場」。跡地は「西福寺」の南西90mにある2010年代前半に竣工した分譲住宅地。最寄駅は名鉄広見線新可児駅・JR太多線可児駅。

1887年頃、可児郡伊香村(後の広見本町)に渡辺善十郎が経営する「東雲座」が開設された。廻り舞台を有する劇場であり、約300人を収容する客席は土間にむしろを敷いたものだった。月に2回ほど芝居の興行が行われ、ひとり3銭から5銭の木戸銭、祝儀(花代)によって経営されていた。1911年には板葺きだった屋根を瓦葺きとし、客席を桝席に改造した。大正時代には芝居と活動写真を組み合わせた連鎖劇が人気となった。1935年12月には1階に映写室が設けられた。昭和初期の東雲座の写真あり。1955年3月には桝席が長椅子席に変えられ、映写室は2階に移された。1960年には常設映画館として大改築され、「ひかり劇場」に改称した。この頃には映画産業が衰退に向かっており、1965年頃には年2回程度の上映頻度となり、その後廃館となった。*120

昭和初期の広見にある「東雲座」では週2-3回の頻度で映画が上映され、上映のたびに恵那の大井にある配給元から映写機が持ち込まれた。ざぶとんや火鉢が5銭程度で貸し出された。1935年には1階に映写室が設置され、しだいに単なる劇場から映画館としての性格を強めた。1955年には映写室を2階に移動させた。1960年には花道などを撤去して映画専門館に改修され、東雲座からひかり劇場に改称した。しかしテレビが普及するにあたって客足が減り、1965年頃に閉館となった。*121

1887年の広見村には芝居小屋として東雲座が開館。1955年3月には桝席を長椅子席に改修するなどしてリニューアルオープン。1965年以後に閉館した。1955年のリニューアルオープン時の写真あり。*122

郡上市

郡上市の映画館
郡上郡白鳥町の本町通りの南部には、劇場「白鳥劇場」があった。やがて美濃白鳥駅前付近に映画館「スワン」が開館し、2つの映画館が断続的に映画を上映した。1972年には白鳥町から映画館がなくなった。*123

「嵐璃橘之丞」案内板
劇場のこと
日吉町一帯は、かつて裏田と呼ばれ、19世紀末より20世紀前半(明治中期〜昭和前期)にかけて歓楽街として栄えた。20世紀初め(明治35年頃)、その一角に当時県下一の規模を誇る八幡座(やわたざ)が開業し賑わったが、1927年5月、座より出火し、日吉町、大阪町一帯を猛火に包む大火となり、座は全焼した。3年後、この近くに八幡劇場が開業し、後、人間国宝になった2世中村鴈治郎が杮落としの舞台に立った。太平洋戦争末期、軍需工場として移築されたが、戦後再建され、また日吉劇場も開業し、この一帯は映画演劇のメッカとして栄えた。*124

大島座
所在地 : 岐阜県郡上郡白鳥町大島(1960年・1962年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1962年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「大島座」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の映画館名簿では「大島座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
日吉劇場
所在地 : 岐阜県郡上郡八幡町(1953年・1955年)、岐阜県郡上郡八幡町日吉町(1958年)、岐阜県郡上郡八幡町(1960年・1962年)、岐阜県郡上郡八幡町日吉(1963年)
開館年 : 1947年5月
閉館年 : 1964年11月
『全国映画館総覧1955』によると1947年5月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「日吉劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1964年11月初頭、郡上郡八幡町の映画館「日吉劇場」、郡上郡白鳥町の映画館「スワン劇場」が相次いで閉館した。ポスターやスターの写真などが撤去されている。これにより、郡上郡の常設映画館は八幡町と白鳥町の1館ずつとなった。ここ2-3年でテレビが普及し、また青年世代が都会に出てしまったことも影響している。両館ともに今後の利用方法が未決定。日吉劇場の写真あり。*125
スワン劇場
所在地 : 岐阜県郡上郡白鳥町大字白鳥(1956年・1958年)、岐阜県郡上郡白鳥町(1960年・1962年)、岐阜県郡上郡白鳥町大字白鳥(1963年)、岐阜県郡上郡白鳥町121(1964年)、岐阜県郡上郡白鳥町121-2(1965年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1964年11月
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「スワン劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「山田薬局」。最寄駅は長良川鉄道美濃白鳥駅。

1964年11月初頭、郡上郡八幡町の映画館「日吉劇場」、郡上郡白鳥町の映画館「スワン劇場」が相次いで閉館した。ポスターやスターの写真などが撤去されている。これにより、郡上郡の常設映画館は八幡町と白鳥町の1館ずつとなった。ここ2-3年でテレビが普及し、また青年世代が都会に出てしまったことも影響している。両館ともに今後の利用方法が未決定。日吉劇場の写真あり。*126
喜楽座
所在地 : 岐阜県郡上郡和良村沢(1964年・1965年)
開館年 : 1963年頃
閉館年 : 1965年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1965年の映画館名簿では「喜楽館」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに池戸喜一、木造、階数記載なし、定員400、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
八幡劇場/郡上八幡劇場
所在地 : 岐阜県郡上郡八幡町(1950年・1953年・1955年)、岐阜県郡上郡八幡町1066(1958年)、岐阜県郡上郡八幡町(1960年)、岐阜県郡上郡八幡町1066(1963年)、岐阜県郡上郡八幡町日吉町1066(1966年)
開館年 : 1930年、1946年12月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧1955』によると1946年12月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「八幡劇場」。1966年の映画館名簿では「郡上八幡劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「郡上市営日吉駐車場」と国道256号。最寄駅は長良川鉄道線郡上八幡駅。

1902年には郡上郡八幡町日吉町に、岐阜県下最大の規模を持つ劇場「八幡座」が開館した。この頃には女形の嵐璃橘之丞が八幡座で公演を行い、八幡町を挙げて熱狂した。1927年には大火で八幡座が全焼し、1930年に劇場「八幡劇場」が開館した。戦争末期の1944年には軍需工場を建設するために八幡劇場が廃業し、各務原市に移築された。戦後の1948年から1949年頃には八幡劇場が再建され、また劇場「日吉劇場」も開館した。1960年にはバイパス工事のために八幡劇場が閉館した。またこの後には日吉劇場も閉館した。2006年には嵐璃橘之丞の碑が旧八幡劇場前に移築された。*127

新美南果『郡上の八幡名勝案内』岐阜県八幡町、発行年不明には八幡劇場が「劇場」として描かれている。*128

吉田初三郎『美濃郡上八幡』岐阜県八幡町役場、1933年には「八幡劇場」が描かれている。*129

1934年に八幡町橋本町の「八幡劇場」で開催された八幡芸妓舞踊温習大会(おさらい会)の写真あり。下日吉町界隈は郡上八幡唯一の花街であり、上日吉町・稲荷町・大坂町にも芸妓置屋・料理屋・貸席小料理屋・カフェー・遊技場が軒を連ねていた。近くには八幡劇場があり、芸妓はおさらい会で長唄や舞踊を披露していた。*130

1937年4月9日には、前年に文楽座から独立した劇団の新義座が郡上八幡町の八幡劇場で公演を行っている。*131

1950年3月9日、郡上郡八幡町の八幡劇場で劇団「前進座」の公演が行われた。*132

1948年頃まで、郡上八幡の尾崎町に「白雲館」があった。その後、日吉町ラッキーの向かいの駐車場付近には「日吉劇場」(日劇)があり、バイパス通りの日吉駐車場の場所には「八幡劇場」(八劇)があった。日劇は大映・日活・新東宝を、八劇は東映・東宝・松竹を上映しており、当時の六社が線引きされていた。*133
白鳥劇場
所在地 : 岐阜県郡上郡白鳥町(1950年・1958年・1960年・1963年)、岐阜県郡上郡白鳥町1055(1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1951年4月
閉館年 : 1972年
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「白鳥劇場」。1953年・1954年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「白鳥劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が高砂興行、支配人が瀬上章三、木造2階暖房付、定員275、邦画・洋画を上映。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「角忠旅館」西南西30mの「サンテック株式会社」敷地内。最寄駅は長良川鉄道美濃白鳥駅。

1951年4月には郡上郡白鳥町に「白鳥劇場」が完成した。完成時の写真あり。テレビの普及に押され、白鳥劇場は1972年に閉館した。*134
ドライブインシアター白鳥
所在地 : 岐阜県郡上郡白鳥町向小駄良 金剛寺公園広場
開館年 : 1977年5月28日
閉館年 : 不明
1977年5月28日夜、郡上郡白鳥町向小駄良の金剛寺公園広場に東海地方初のドライブインシアター(野外自動車映画劇場)がオープンする。経営は白山観光グループ株式会社。郡上郡には常設映画館が1館もなく、高校生らは岐阜市まで出かけて映画を鑑賞している。スクリーンは5.5m×16m。その他の施設は入場券発売所と売店。トイレは既存のものを使用する。当面は土曜日と日曜日の夜19時30分から22時まで上映する。マイクロバスを映写室に改造。音響はカーラジオで受信する。入場料は乗車人数に関係なく1台1500円。*135

加茂郡八百津町

栄座/八百津栄座
所在地 : 岐阜県加茂郡八百津町(1950年・1953年・1955年)、岐阜県加茂郡八百津町港町(1958年・1960年・1963年)、岐阜県加茂郡八百津町3961(1966年・1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1971年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「栄座」。1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「八百津栄座」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。1976年のゼンリン住宅地図では八百津町八百津3961に「十一屋」であり北側に駐車場。跡地は和菓子屋「梅屋」の南東40mの空き地。最寄駅は名鉄広見線明智駅。

1930年の『大日本職業別明細図 第200号』には「劇場」が描かれている。*136

1933年現在の加茂郡八百津町には、黒瀬下町に劇場「栄座」がある。座主は同地の纐纈久太郎、興行主は錦織村伊岐津志の小倉繁太郎。演劇・義太夫・浪花節・映画など、あらゆる興業に使用されている。*137

八百津市街地には駐車場が少ないことから路上駐車が多かった。そこで、1972年には商工会が中心となり、「栄座」跡地を借用して公共駐車場を整備した。*138

加茂郡富加町

友栄座
所在地 : 岐阜県加茂郡富加村(1956年・1958年・1960年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1961年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「友栄座」。1961年の経営者は各務喜七、支配人は磯野弥三郎、木造2階、定員600。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「富加駅」北150mにある衣料品店「井友」。最寄駅は長良川鉄道線富加駅。

1923年には国鉄越美南線が開通し、松林の原野が広がっていた加茂野駅に人が集まった。1932年から1933年頃にカネ友が建てた倉庫の一部を改造し、劇場「友栄座」が開館した。友栄座は株式経営で盛んに興行を行った。加茂野駅前には料理屋3軒、芸妓置屋、パチンコ店3軒、玉突場もあり、この地域の商業や娯楽の中心となった。*139

加茂郡川辺町

川辺座/飛水会館
所在地 : 岐阜県加茂郡川辺町中川辺(1960年・1961年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1961年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年の映画館名簿では「飛水会館」。1961年の映画館名簿では経営者が佐藤円次郎、支配人が熊沢美利、木造2階、定員700。1962年の映画館名簿には掲載されていない。1971年のゼンリン住宅地図では跡地に「田原医院」や「中央公会堂」。跡地は「田原医院」。最寄駅はJR高山本線中川辺駅。

それまでの「美川座」に変わり、大正から昭和に移ると浦町(現・田原医院)に「川辺座」が開館した。浦町街道によって東西に長い木造建築であり、小屋の西側には木戸銭を払う窓口があった。館内の土間には駄菓子の出店があり、下足を預けて木札を受け取った。収容人員は数百人であり、左端には舞台に直結した花道があった。戦後しばらくの川辺町に劇場はなかったが、やがて川辺座の場所に飛水会館(川辺町公民館)が開館し、芝居の上演場・映画の上映場・選挙投開票場などとして使用された。※建物をそのまま使用したのか新築したのかは不明。「川辺町の芝居小屋の変遷」地図が掲載されており、「豊昇座」「美川座」「川辺座」「飛水会館(町営公民館)」の位置がプロットされている。*140

1956年頃の川辺町中川辺にあった芝居小屋「飛水屋」(飛水会館)で演じられた地芝居の写真あり。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の一場面である。飛水屋は現在の田原医院付近にあった。*141

加茂郡七宗町

神富座
所在地 : 岐阜県加茂郡七宗村神渕(1958年・1960年・1962年)
開館年 : 1912年
閉館年 : 1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「神富座」。1962年の住宅地図では経営者・支配人ともに渡辺康芳、木造2階、定員500、邦画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

七宗町神渕にあった「神富座」の写真あり。撮影年不明だが戦前と思われる。1912年に開館し、戦後には映画館としても使用され、1965年頃に閉館した。2021年現在の上野モータース付近にあった。*142

加茂郡坂祝町

映画館名簿によると坂祝町に映画館は存在しなかったと思われる。

加茂郡白川町

映画館名簿によると白川町に映画館は存在しなかったと思われる。

加茂郡東白川村

映画館名簿によると東白川村に映画館は存在しなかったと思われる。

可児郡御嵩町

伏見劇場
所在地 : 岐阜県可児郡伏見町(1952年・1953年・1954年・1955年)
開館年 : 1925年12月4日
閉館年 : 1959年9月
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1954年・1955年の映画館名簿では「伏見劇場」。1955年の映画館名簿では経営者が佐藤興三郎、定員600、混合・演を上映。1956年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「伏見公民館」北西120mにある空き地。最寄駅は名鉄広見線明智駅。

1956年現在の公衆の娯楽施設としては「伏見劇場」がある。テレビは普及しつつあるが、特定の家庭に限られている。*143

1925年12月4日、可児郡伏見村に「伏見劇場」が開館した。伏見宿本陣跡から街道を挟んで北あたりにあった。1959年9月の伊勢湾台風で建物が倒壊し、そのまま閉館に追い込まれた。*144

『ふるさとの回想』に掲載された升倉みさをさんの話。「伏見劇場」が開館したのは1925年頃だったと思う。現在の伏見中町にある洞谷商会の北100mの場所に新築された。伏見劇場は株式組織であり、西町の桑問屋の後沢万太郎が社長を務めた。伏見劇場は農村の娯楽として繁昌し、各種団体の総会その他にも利用された。テレビの普及によって次第に客足が落ち、1959年9月26日の伊勢湾台風で多大な被害を受けたことで閉館した。伏見劇場だけでなく、広見町の「東雲座」、兼山町の「末広座」、御嵩町の「曙座」も現在では閉館の運命をたどっている。*145
東濃シネマ劇場
所在地 : 岐阜県可児郡御嵩町(1958年・1960年・1961年・1962年・1963年)
開館年 : 1956年
閉館年 : 1963年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1961年・1962年・1963年の映画館名簿では「東濃シネマ劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が早川秀夫、支配人が田中保、木造1階建冷暖房付、定員300、電話が御嵩343、東映・大映・日活を上映。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「名鉄広見線御嵩駅」駅舎の西北西90mにある「御嵩町営月極駐車場」。最寄駅は名鉄広見線御嵩駅。

1956年には御嵩駅のすぐ西側に、映画専門館として「東濃シネマ劇場」が開館した。これによって御嵩町には2つの映画館がある映画ブームの時代があった。御嵩町の亜炭産業の衰微に合わせて、わずか数年後には閉館した。*146

1956年、亜炭景気の影響で映画専門館「日の出劇場」と「東濃シネマ」ができた。1968年、日の出劇場が閉館して工場に変わった。*147
曙座/日之出映画劇場/御嵩日之出映画劇場
所在地 : 岐阜県可児郡御嵩町(1950年・1953年・1955年)、岐阜県可児郡御嵩町1536(1958年)、岐阜県可児郡御嵩町(1960年・1961年・1962年)、岐阜県可児郡御嵩町1536(1963年・1966年・1968年)
開館年 : 1914年8月24日
閉館年 : 1968年
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「曙座」。1958年・1960年の映画館名簿では「曙座」と「日之出映画劇場」が重複して記載されている。1960年の映画館名簿における日之出映画劇場は経営者・支配人ともに小倉充夫、木造2階建冷暖房付、定員550、電話が御嵩358、松竹・東宝・新東宝を上映。1961年・1962年・1963年の映画館名簿では「日之出映画劇場」。1966年・1968年の映画館名簿では「御嵩日之出映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1989年9月取り壊し。跡地は「中山道みたけ館」の南南東100mにあるアパート「リゾームハウスA・リゾームハウスB」。最寄駅は名鉄広見線御嵩駅。

当初の「曙座」は昭和町北部の願興寺北方にあり、明治時代後期には可児郡唯一の劇場だった。1904年12月には可児郡農友会が主催して、曙座で第1回可児郡農産物品評会が開催されている。1914年8月24日には御嵩市街地の中心部である元町の街道筋に新築移転した。新築された曙座には回り舞台、花道、せり、囃場、浄瑠璃場などがあった。1階も2階も畳敷きの桟敷席であり、約700人を収容した。歌舞伎の興行のほかに活動写真の上映も可能な、この地域の大娯楽施設だった。1956年には畳敷きの枡席がコンクリート土間の固定椅子席に改修され、「日之出劇場」に改称されて映画専門館となった。亜炭景気の衰退やテレビの普及が原因で、日之出劇場は1968年に閉館した。建物は電気部品の御嵩シルバー株式会社の工場に転用されたがやがて廃墟となり、1989年9月に解体された。*148

1904年、御嵩町の「曙座」で初の農友会品評会が開催された。1913年、御嵩町の北部にあった曙座劇場が元町に移転した。*149

御嵩町の「曙座」から転換した御嵩シルバー工場の写真あり。曙座は1914年から昭和30年代初頭まであった。*150

1956年、亜炭景気の影響で映画専門館「日の出劇場」と「東濃シネマ」ができた。1968年、日の出劇場が閉館して工場に変わった。*151

東濃地方

土岐市

土岐津座
所在地 : 岐阜県土岐市土岐津町882(1958年)、岐阜県土岐市土岐津町(1960年)
開館年 : 1922年2月18日
閉館年 : 1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「土岐津座」。1960年の映画館名簿では経営者が虎沢健造、木造2階、定員500、大映を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「アキ」。土岐市街地に3館あった映画館のうちの1館。最寄駅はJR中央本線土岐市駅。

1934年現在、土岐津町土岐口字上田には劇場「土岐津座」がある。虎沢亮一が管理する土岐津町唯一の劇場であり、演劇・義太夫・浪花節・活動写真などの興行に用いられている。『土岐津』(土岐津町、1934年)に収録されている「岐阜県土岐郡土岐津町全図」には「劇場」が描かれている。*152

1922年2月18日、土岐津町の上田町に株式会社組織の「土岐津座」が開館した。演劇・義太夫・浪花節・映画などの興行が行われた。1933年頃の管理者は虎沢亮一。土岐津唯一の劇場だった。*153
泉館/トキワ泉館
所在地 : 岐阜県土岐郡泉町(1950年・1953年・1955年)、岐阜県土岐市泉町(1958年・1960年)、岐阜県土岐市泉町久尻468(1964年)
開館年 : 1935年12月1日
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「泉館」。1960年の映画館名簿では経営者が伊藤三三、支配人が青山貞一、木造2階暖房付、定員702、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿では「トキワ泉館」。1964年の映画館名簿では「泉館」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1976年の住宅地図では跡地に「泉館アパート」。土岐市街地に3館あった映画館のうちの1館。最寄駅はJR中央本線土岐市駅。

1935年12月1日、新土岐津に常設館「泉館」が開館した。演劇・義太夫・浪花節・映画などの興行が行われた。土岐津唯一の劇場だった。*154
陶栄座/駄知陶栄座
所在地 : 岐阜県土岐郡駄知町(1949年・1950年・1953年・1955年・1958年)、岐阜県土岐市駄知町栄町(1960年)、岐阜県土岐郡駄知町(1963年)、岐阜県土岐市駄知町栄2196(1966年・1967年)
開館年 : 1905年頃
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「陶栄座」。1958年の映画館名簿では経営者が西尾ふさ、支配人が伊藤三三、木造2階、定員650。1966年・1967年の映画館名簿では「駄知陶栄座」。1967年の映画館名簿では経営者が西尾フサ、支配人が伊藤三三、木造2階冷暖房付、定員499、松竹・東宝・大映・洋画を上映。1968年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では「陶栄座」。跡地は2012年9月に閉店したスーパー「サンマートトーエー」の廃墟。最寄駅はJR中央本線土岐市駅。

1905年頃、駄知町の娯楽機関として劇場「陶栄座」の建設が目論見られた。発起人は佐野助九郎、佐野勘助、水野弥右衛門、水野代次らである。一口20円で3000円を募ったが、建設費は3000円を2000円も超過し、多治見町の北丸屋加藤喜平に借金した。興行では全く利益が出ず、籠橋休兵衛、加藤宇兵衛、塚本六兵衛らが負担返済することになった。北丸屋加藤喜平は彼らに同情し、返済すべき利息を半分とした。*155

土岐郡駄知町の水野代治。1867年4月7日に駄知町に生まれ、駄知町会議員を長年務めた後、1929年現在は「陶栄座」の座主を務めている。*156

1919年3月28日、駄知鉄道株式会社の設立総会が駄知町2199番地の劇場「陶栄座」で開催され、多数の株主が詰めかけた。*157

1924年3月5日、駄知信用組合の創立総会の下準備として、岐阜県産業課主事らを劇場「陶栄座」に招いて、信用組合に関する講演会が開催された。1944年4月15日、駄知信用組合創立20周年記念祝賀会が陶栄座で開催された。*158

1934年現在の駄知町の人口は6150人。駄知町には「陶栄座」などがある。*159

1937年4月18日には、前年に文楽座から独立した劇団の新義座が駄知町の陶栄座で公演を行っている。*160

1955年頃の駄知町に新装開館した映画館「陶栄座」の写真あり。「TOEIZA」の文字や花輪が見える。陶栄座は芝居小屋として開館し、1955年頃に映画館に改装された。映画業界が衰退するとともに、東栄座はスーパーマーケットに着目し、主婦の店の傘下にある「スーパー陶栄」に転換した。1989年現在の写真あり。「主婦の店トーエー」の文字が見える。*161

かつて駄知町には芝居小屋兼映画館として「陶栄座」(とうえいざ)があり、1964年頃までは地歌舞伎を上演していた。*162
中央劇場/中映劇場/下石日活劇場
所在地 : 岐阜県土岐郡下石町(1955年)、岐阜県土岐市下石町1257(1958年)、岐阜県土岐市下石町(1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1953年4月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧1955』によると1953年4月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「中央劇場」。1955年の映画館名簿では経営者が水野美喜造、木造2階、定員500、混合を上映。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「中映劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が梶田源之丞、支配人が林政美、木造1階冷暖房、定員295、邦画を上映。1965年の映画館名簿では「下石日活劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に「マルケイパチンコ」。1976年の住宅地図では跡地に「倉庫」。映画館の建物は「株式会社マルクニ・イトウ」東に現存。最寄駅はJR中央本線土岐市駅。
陶盛座/下石陶盛劇場
所在地 : 岐阜県土岐郡下石町(1950年・1953年・1955年)、岐阜県土岐市下石町(1966年)
開館年 : 1882年5月(陶盛座)、1965年頃(下石陶盛劇場)
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が掲載されていない。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「陶盛座」。1955年の映画館名簿では経営者が水野美喜造、木造2階、定員500、混合・演を上映。1956年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1967年の映画館名簿では「下石陶盛劇場」。1966年の映画館名簿では経営者が中山定吉、支配人が木田静子、木造2階、定員253。松竹・大映・東映・日活・洋画を上映。1968年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に浅野正義邸や中山定春邸。最寄駅はJR中央本線土岐市駅。

下石町清水には劇場がある。1882年5月に「窯元座」として創設され、後に「陶盛座」に改称した。林理市が管理し、波多野一九三が興行主を務めている。演劇・義太夫・浪曲・映画などの興行を一年中行っている。*163

下石町の劇場としては、清水に1882年創設の「窯元座」があり、後に「陶盛座」に改称した。1936年頃には林理市が管理し、波多野一九三が興行主だった。戦後には中山が興行していた。戦後の下石町には別に映画館が開館し、陶盛座と2館で興行していたが、1984年現在は両館とも閉館した。1984年現在(?)の陶盛座の写真あり。*164
妻木劇場
所在地 : 岐阜県土岐郡妻木町(1950年・1953年・1955年)、岐阜県土岐市妻木町1404-1(1958年)、岐阜県土岐市妻木町(1960年・1963年)、岐阜県土岐市妻木町1404-1(1966年・1969年)、岐阜県土岐市妻木町妻木町14-4-1(1973年)
開館年 : 1931年(劇場)、1942年(映画館化)
閉館年 : 1968年? 1973年頃?
『全国映画館総覧1955』によると1942年開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「妻木劇場」。1969年の住宅地図では「妻劇」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「土岐市立妻木公民館」(しろやま公民館)北140mにある空き地。最寄駅はJR中央本線土岐市駅。

1932年、妻木劇場が設立された。*165

妻木町栄町1405番地には「妻木劇場」があった。1931年、白石仲之丞ら出資者らの努力によって、東濃信用金庫の角を西に10メートルほど行った右路地奥に建設された。一部1階建てであり、畳敷きだった。こけら落とし公演には中村扇雀などの歌舞伎役者が来演した。1941年までは旅回り一座などの芝居が中心であり、しばしば無声映画が上映されて弁士が活躍した。1941年以降は映画が主となり、小中学生は許可映画や引率映画があった。テレビの普及が理由で1968年に閉館し、1975年に取り壊された。妻木劇場の前の路地には、飲食店・ゲーム屋・駄菓子屋など10軒ほどがあった。昭和30年代が全盛期であり、妻木劇場と同じような歩みで消えていった。*166
土岐津大映劇場/大映劇場/トキツ東映/トキツ東映劇場/トキツ大映劇場
所在地 : 岐阜県土岐郡泉町(1950年)、岐阜県土岐郡土岐津町(1953年・1955年)、岐阜県土岐市泉町542(1958年)、岐阜県土岐市泉町久尻(1960年)、岐阜県土岐市泉町542(1963年)、岐阜県土岐市泉町久尻542(1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1946年10月
閉館年 : 1970年6月
『全国映画館総覧1955』によると1946年10月開館。1950年の映画館名簿では「土岐津大映劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「大映劇場」。1960年の映画館名簿では「トキツ東映」。1960年の映画館名簿では経営者が伊藤三三、支配人が青山貞一、木造2階、定員600、邦画を上映。1963年の映画館名簿では「トキワ東映」。1966年の映画館名簿では「トキツ東映劇場」。1969年の映画館名簿では「トキツ大映劇場」。1969年の住宅地図では「土岐津大映」。1976年の住宅地図では「トキツ大映(休館)」。跡地は土岐駅前郵便局南南西100mにある「株式会社アヅマ管理月極駐車場」西側。最寄駅はJR中央本線土岐市駅。

1959年8月30日、土岐市泉町久尻の各社邦画上映館「土岐津東映」は東映専門館に転向した。定員400。経営は伊藤三三。*167

1969年末から1970年5月までに、多治見税務署管内に11館あった映画館のうち3館が閉館し、近いうちにはさらに1館が閉館する。多治見・土岐・瑞浪・笠原・可児のエリアには1966年から11館の映画館があったが、1969年11月に笠原町の「笠原劇場」が閉館し、1970年2月に多治見市の「多治見日活」が閉館し、1970年4月に多治見市の「榎元座」が閉館した。6月には土岐市の「トキツ大映」も閉館する予定。*168
駄知陶宝会館/陶宝会館
所在地 : 岐阜県土岐市駄知町(1956年)、岐阜県土岐市駄知町小川町(1960年)、岐阜県土岐市駄知1868-1(1966年・1969年・1973年)、岐阜県土岐市駄知町小川町(1976年・1977年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1977年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「陶宝会館」。1958年の映画館名簿では経営者が西尾ふさ、支配人が伊藤三三、木造2階、定員600。1966年・1969年の映画館名簿では「駄知陶宝会館」。1969年の住宅地図では「陶宝会館」。1976年・1977年の映画館名簿では「陶宝会館」。1977年の映画館名簿では経営者・支配人ともに市川美代子、木造2階、208席、邦画・成人映画を上映。1978年の映画館名簿には掲載されていない。土岐市最後の映画館。跡地は「駄知陶磁器工業協同組合」の50m北東にある建物。最寄駅はJR中央本線土岐市駅。
イオンシネマ土岐(仮称)
所在地 : 岐阜県土岐市
開館年 : 2022年以降
閉館年 : 開館前
2014年8月26日、土岐市はイオンモールが同市に出店する多機能複合商業施設の店舗計画の概要を発表した。東濃地域唯一となる映画館やスポーツクラブなども入る予定。岐阜県内でイオンモールは大垣市と各務原市の2店があるが、敷地面積では既存2店を上回って県内最大となる見込み。2019年に開業予定。同市の土岐口財産区が所有する中山鉱山(同市土岐津町土岐口)の跡地と周辺地区の利活用事業で、イオンモールが事業予定者として正式に選定された。私設の敷地面積は約20万平方メートル。*169

岐阜県土岐市土岐津町にイオンモール土岐の建設を進めているイオンモールは、投資計画の見直しや建築資材の高騰などが理由で、開業を2019年度から2021年度以降に変更した。延期や撤退ではないことを強調している。イオンモール肺音を中核とする商業施設であり、岐阜県には大垣市と各務原市にある。*170

瑞浪市

寿座/釜戸劇場
所在地 : 岐阜県土岐郡釜戸町(1952年)、岐阜県瑞浪市釜戸町(1953年・1955年)、岐阜県瑞浪市釜戸3636-1(1958年)、岐阜県瑞浪市釜戸(1960年)、岐阜県瑞浪市釜戸町(1963年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1955年の映画館名簿では「寿座」。1955年の経営者は紀国屋、支配人は永島喜助、600席。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「釜戸劇場」。1962年の瑞浪市全商工住宅案内図帳では「釜戸劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は土岐川に架かる大島橋南詰の空き地。最寄駅はJR中央本線釜戸駅。

1955年頃の瑞浪市釜戸町にあった映画館「釜戸館」の写真あり。洋風のファサードが見える。*171

1955年頃の瑞浪市釜戸町にあった映画館「釜戸館」の写真あり。洋風のファサードが見える。1955年公開の松竹作品『あっぱれ腰抜け珍道中』の看板が見える。戦後、土岐川を南に渡った大島橋のたもとに映画専門館「寿座」が開館した。嵐寛寿郎主演の『鞍馬天狗』や東千代之助主演の時代劇などを上映した。2009年現在の跡地は空き地となっている。跡地の写真あり。*172
常盤座/瑞浪映画劇場/瑞浪東映劇場
所在地 : 岐阜県土岐郡瑞浪町(1950年・1953年)、岐阜県瑞浪市瑞浪町(1955年)、岐阜県瑞浪町寺河戸1132(1958年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町(1960年)、岐阜県瑞浪町寺河戸1132(1963年・1964年)
開館年 : 1907年、1943年11月
閉館年 : 1965年
『全国映画館総覧1955』によると1943年11月開館。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「瑞浪映画劇場」。1955年の映画館名簿では経営者・支配人ともに永島久吉、木造2階、定員485、混合を上映。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「瑞浪東映劇場」。1962年の瑞浪市全商工住宅案内図帳では「瑞浪映画劇場」。1963年の映画館名簿では経営者が永島産業、支配人が永島久吉、木造2階冷暖房付、定員909、東映を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1949年の瑞浪市にあった映画館「瑞浪映画劇場」の写真あり。「瑞浪映画劇場」の文字、「松竹東宝セントラル映画封切場」の文字が見える。明治末期開館の「常磐座」(盤ではなく磐)が前身であり、1949年に改装して瑞浪映画劇場となった。後に「瑞浪東映」に改称し、1965年まで営業した。瑞浪市街地には瑞浪映画劇場のほかに、「東濃会館」、「オレンヂ座」、「ブルー劇場」などの映画館があったが、1977年にはすべて閉館した。瑞浪映画劇場の跡地は駐車場となり、2009年現在はときわ交流センターが建っている。*173

1955年頃の瑞浪市寺河戸町にあった「常盤座」における日本舞踊の公演の写真あり。常盤座は1907年に建てられた。1948年には「瑞浪映画劇場」に改称し、その後「瑞浪東映」に改称した。1965年に閉館した。*174

1951年の土岐郡瑞浪町(現・瑞浪市寺河戸町)にあった「瑞浪映画劇場」の写真あり。1951年4月1日にここで瑞浪土岐町合併式典が行われた際の写真であり、中部日本新聞社の車が停まっている。「東宝新東宝セントラル映画封切り場」の文字が見える。『続 佐々木小次郎』の看板が見える。明治時代に開館した「常盤座」が前身。1948年に改称して「瑞浪映画劇場」に改称し、その後「瑞浪東映劇場」に改称した。*175

1961年4月5日に瑞浪市の映画館「瑞浪東映劇場」で開催された公民館合唱団演奏会の写真あり。「TONO KAIKAN」の文字が見える。*176
東濃会館
所在地 : 岐阜県土岐郡瑞浪町(1950年・1953年)、岐阜県瑞浪市瑞浪町(1955年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町1096(1958年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町(1960年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町1096(1963年・1966年)
開館年 : 1946年10月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧1955』によると1946年10月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「東濃劇場」。1962年の瑞浪市全商工住宅案内図帳では「東濃会館 映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に「主婦の店瑞浪店」。

1946年8月24日の『朝日新聞』岐阜版朝刊には「東濃会館」が開館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*177

1964年頃の瑞浪市の竜門通りにあった映画館「東濃会館」の写真あり。「TONO KAIKAN」の文字が見える。*178

1966年の瑞浪市寺河戸町にあった「東濃会館」の写真あり。「TONO KAIKAN」の文字が見える。1946年に開館した。竜門通りの東詰にあり、手前にはコリントゲームやスマートボールを置く遊技場があった。*179
寿座/陶映画劇場
所在地 : 岐阜県瑞浪市陶町(1955年)、岐阜県瑞浪市陶町401(1960年・1963年)、岐阜県瑞浪市陶町猿爪401(1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「寿座」。1955年の映画館名簿では経営者が竹内喜七、支配人は記載なし、定員560、混合を上映。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「陶映画劇場」。1962年の瑞浪市全商工住宅案内図帳では「陶映画劇場」。1969年のゼンリン住宅地図では「陶映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は本町発展会の「新星商店」西側の路地を1軒分入った西側の民家。

恵那郡陶村の陶村劇場株式会社。1914年7月設立。内容は興行または賃貸。*180
瑞浪ブルー劇場/ブルー劇場
所在地 : 岐阜県瑞浪市寺河戸町1131(1966年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町1133(1969年・1973年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町1132(1976年)
開館年 : 1965年
閉館年 : 1977年
1962年の瑞浪市全商工住宅案内図帳には掲載されていない。1966年・1967年の映画館名簿には掲載されていない。1968年・1969年・1973年の映画館名簿では「瑞浪ブルー劇場」。1968年の映画館名簿では経営社が永島産業、支配人が永島喜一郎、鉄筋1階冷暖房付、200席。1969年のゼンリン住宅地図では「ブルー劇場」。1974年の航空住宅地図帳では「ユニー瑞浪店 2階ブルー劇場 3階麻雀東」。1976年の住宅地図では「ブルー劇場」であり西隣の「東海ユニー瑞浪店」とは別施設として描かれている。1976年・1978年の映画館名簿では「ブルー劇場」。1983年の住宅地図では跡地に「駐車場」。瑞浪市最後の映画館。跡地は「瑞浪市地域交流センターときわ」。

1968年の瑞浪市寺河戸町にあった映画館「ブルー劇場」の写真あり。「洋画専門館ブルー劇場」の文字が見える。『拳銃無頼』と『猿の惑星』の看板が見える。1977年の「ブルー劇場」の写真あり。『トラック野郎』やナイトショウ『痴漢連絡船』の看板が見える。ブルー劇場は1965年に開館し、主に洋画を上映した。「オレンジ座」と同じ1977年に閉館した。*181
瑞浪オレンジ座/オレンジ座
所在地 : 岐阜県瑞浪市寺河戸町1132(1958年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町(1960年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町1131(1963年・1966年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町1132(1969年・1973年・1976年)
開館年 : 1957年
閉館年 : 1977年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「オレンジ座」。1962年の瑞浪市全商工住宅案内図帳では「オレンジ座」。1963年の映画館名簿では経営者が永島産業、支配人が永島久吉、木造1階冷暖房付、定員400、松竹・東宝・洋画を上映。1966年の映画館名簿では経営会社が永島産業、木造3階冷暖房付、定員320、邦画を上映。経営会社は恵那郡明智町の明智オレンジ座と同一。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「瑞浪オレンジ座」。1969年のゼンリン住宅地図では「オレンヂ座」。1974年の航空住宅地図帳では「オレンジ座」。1976年の住宅地図では「オレンジ座」。1976年・1978年の映画館名簿では「オレンジ座」。1983年の住宅地図では跡地に「駐車場」。瑞浪市最後の映画館。跡地は「瑞浪市地域交流センターときわ」。

1965年頃の瑞浪市にあった映画館「オレンジ座」の写真あり。*182

1963年頃の瑞浪市にあった映画ポスターを見る子どもたちの写真あり。映画全盛期の国鉄瑞浪駅前には、「瑞浪東映」「オレンジ座」「ブルー劇場」「東濃会館」があった。1977年までにすべて閉館した。*183

1962年の瑞浪市寺河戸町にあった「オレンジ座」の写真あり。「完全冷房」の文字が見える。お盆特別番組『愛染かつら』の看板が見える。1957年に開館した。1977年に閉館した。*184

恵那市

若宮座
所在地 : 岐阜県恵那郡中野方村
開館年 : 明治時代
閉館年 : 戦後
中野方にあった「若宮座」の昭和初期の写真あり。中野方には「曙座」と「若宮座」という常設の劇場がふたつあり、地芝居が盛んにおこなわれた。明治から昭和の初期にかけて、「若宮座」では村人が競って劇を熱演した。太平洋戦争の激化にともなって軍需工場の倉庫となったが、戦後は劇団や地芝居の上演や映画の上映で利用された。*185
万歳座/万才座
所在地 : 岐阜県恵那郡大井町(1952年・1953年)、岐阜県恵那市大井町(1955年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年の映画館名簿では「万歳座」。1955年の映画館名簿では「万才座」。1955年の映画館名簿では経営者が原道次郎、木造2階、定員700。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
熊野会館
所在地 : 岐阜県恵那郡上矢作町(1961年)
開館年 : 1952年
閉館年 : 1961年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年の映画館名簿では「熊野会館」。1961年の経営者は旭興行、支配人は金田強、木造2階暖房付、定員350。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「熊野神社」境内の空き地。最寄駅は明知鉄道岩村駅。

恵那郡上村(かんむら)の下区にある熊野神社境内には、間口7間で奥行8間の舞台「宮本座」があった。露天にむしろなどを敷いて客席とし、興行の際には客席の周囲を板で囲った。宮本座では馬の品評会、牛馬の競り市、牛の種付けなども行われた。1952年には宮本座が解体され、本格的な芝居小屋「熊野会館」が建設された。常設の花道、桟敷、向こう桟敷などを備えていた。*186
常盤座
所在地 : 岐阜県恵那郡明知町(1953年)、岐阜県恵那郡明智町(1955年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1919年
閉館年 : 1974年11月24日(最終興行)
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「常盤座」。1960年の映画館名簿では経営者が近藤新一、支配人が水野三三、木造1階、定員855、大映・新東宝・洋画を上映。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「尾崎医院」東の6軒分の民家とその中央部の道路。最寄駅は明知鉄道明智駅。

恵那郡明知町の株式会社常盤座。1918年12月設立。内容は劇場賃貸。*187

明智町の娯楽施設としては、1919年に芝居小屋の「常盤座」が開館し、近隣の村々から客を集めた。戦後の1954年には「明知映画劇場」が開館し、また1955年初頭には「ハッピー劇場」が開館した。*188

明智町には劇場・芝居小屋として「常盤座」があった。1919年、恵南6ヶ町村民の有志から株式を募り、名古屋市の「明治座」を移築して開館した。歌舞伎・演芸・浪曲・村芝居・演説会などが行われたが、1974年9月の株主総会で解体が決定した。1974年11月24日に明智町歌舞伎保存会が主催して行われた「常盤座最終記念歌舞伎大会」の興行で幕を閉じた。瑞浪市日吉に移築された。*189

1975年3月には明智町にあった「常盤座」が取り壊された。*190

常盤座跡地からすぐの場所にある喫茶天久の常連客の男性(70代?)と店員の女性(70代?)に聞くと、「明智町には常盤座、明映(めいえい)、ハッピーの3軒の映画館があった。常磐座はクリーニング店の近くにあった。建物は瑞浪市に移築されている。明映は南北街道と中馬街道が交わる辻の南東角にあった。ハッピーは明智文化センターの南西、川の西側付近にあった。(常盤座の近くに明智オレンジ座という映画館がなかったか聞くと)オレンジ座という映画館は知らない」
ハッピー劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡明智町457(1956年・1958年)、岐阜県恵那郡明智町(1960年・1963年)
開館年 : 1955年初頭
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「ハッピー劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が山本隆之助、支配人が山本英行、木造2階、定員380、大映・日活・洋画を上映、電話が明智243。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

明智町の娯楽施設としては、1919年に芝居小屋の「常盤座」が開館し、近隣の村々から客を集めた。戦後の1954年には「明知映画劇場」が開館し、また1955年初頭には「ハッピー劇場」が開館した。*191

かつて東濃地方にあった常設映画館としては、中津川の「旭座」「松竹」「中津劇場」、大井の「オリオン座」「大井劇場」、岩村の「三万石」、明智の「明栄」「ハッピー」があった。*192
岩村劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡岩村町(1956年・1958年・1963年)
開館年 : 1909年12月
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年の映画館名簿では「岩村劇場」。1956年の映画館名簿では経営者が大津英三、支配人が記載なし、構造が記載なし、定員897。1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「岩村劇場」。1963年の映画館名簿では経営者が雲井興行社、支配人が山本英行、木造2階、定員318、邦画を上映。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「グループホームいわむらの憩」東側の道路上。最寄駅は明知鉄道岩村駅。

恵那郡岩村町の岩村劇場株式会社。1909年12月設立。内容は劇場賃貸。*193

1924年、岩村町に町立岩村劇場が設立された。*194

往時の柳町通りの地図があり、「岩村劇場」も掲載されている。昭和初期は演劇や映画の盛んな時代であり、岩村町の柳町にはカフェー・ビリヤード・料亭・小料理屋・居酒屋・うどん屋・芸者置屋・西洋料理店などがあった。柳町通りの正面には岩村劇場があり、映画・演劇・歌舞伎などが行われた。興行日には遠山村(後の山岡町)をはじめとする近隣自治体からも観客を集め、若者らは「岩村と言わずに柳町に行こう」といったものである。*195*196

1940年代前半の恵那郡岩村町柳町にあった「岩邑劇場」(岩村ではなく岩邑)における素人歌舞伎の写真あり。歌舞伎や演劇の上演のほかに、映画の上映も行われた。周辺にはカフェー、歌舞伎座、玉突き場などの娯楽施設があった。*197

1937年4月14日には、前年に文楽座から独立した劇団の新義座が岩村町の「岩村劇場」で公演を行っている。*198

1934年に行われた「岩邑劇場」(岩村ではなく岩邑)の祝賀会の写真あり。岩邑劇場は恵那郡岩村町柳町にあった。当時、周辺には歌舞伎座や玉突場などがあり、娯楽施設が建ち並んでいた。*199

2021年10月にグループホームいわむらの憩付近を歩いていた女性(60〜70代)に尋ねたところ、「私が1974年に岩村町にやってきた際、グループホームの場所には『水半』という旅館があった。その前に映画館があったかどうかは知らない」
山岡座/鶴岡座
所在地 : 岐阜県恵那郡鶴岡村(1952年・1953年・1955年)、岐阜県恵那郡山岡町鶴岡(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1916年12月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「鶴岡座」。1960年の映画館名簿では「山岡座」。1963年の映画館名簿では「鶴岡座」。1963年の映画館名簿では経営者が桜井としの、支配人が桜井芳男、木造2階、定員564、邦画を上映。1964年の東濃版住宅案内図では「山岡劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1967年のゼンリン住宅地図では「山岡劇場」。映画館の建物は岐阜県道33号下手向交差点北東170mに現存。最寄駅は明知鉄道明知線山岡駅。

恵那郡鶴岡村の鶴岡劇場株式会社。1916年12月設立。内容は興行または賃貸。*200

1916年暮れ、鶴岡村の桜井福太郎は資本金2700円の株式会社を設立し、下手向に劇場「鶴岡座」を建てた。こけら落としは市川海老蔵一座であり、電気が通じていない開館当初はガス燈を用いていた。間口10間・奥行13間半、一部2階建ての劇場であり、廻り舞台・花道・2階席などを有していた。歌舞伎、新派劇、活動写真、連鎖劇、浄瑠璃や浪花節、安来節、奇術などの興行が行われた。昭和初期には映画が主となり、戦時中には軍需工場に転身して工作機械が並べられた。戦後には建物が放置されていたが、1955年の山岡町発足を機に資本金234万円の株式会社山岡劇場が設立され、1956年に劇場として再出発した。テレビの普及によって開店休業状態となり、1984年現在も建物は存在するが、この十数年間は一度も興行が行われていない。*201
上村劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡上矢作町(1961年・1964年)
開館年 : 1963年頃
閉館年 : 1964年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年の映画館名簿では「上村映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の映画館名簿では「上村劇場」。1964年の映画館名簿では経営者が小木曽千秋、支配人は近藤遠一、木造2階建、定員500。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「上矢作病院」。最寄駅は明知鉄道岩村駅。

大正初期、恵那郡上村(かんむら)の本郷に本格的な芝居小屋「上村座」建てられた。それ以前は元吉田屋旅館の裏の山畑に芝居小屋があったとされる。上村座では歌舞伎や連鎖劇などの興行が行われ、戦時中には軍需工場に転用されたが、戦後の1948年には「上村座劇場」として再発足した。上村の下区には「熊野会館」があり、上村座劇場や熊野会館は映画館として運営されていたこともあった。1977年、病院を建設するために解体された。*202
明智劇場/明智映画劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡明智町(1956年・1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1954年
閉館年 : 1964年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「明智映画劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「明智劇場」。1960年の映画館名簿では経営者・支配人ともに佐々木善平、木造1階、定員350、邦画を上映、電話が明智159。1963年の映画館名簿では「明智映画劇場」。1964年の映画館名簿では「明智劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

明智町の娯楽施設としては、1919年に芝居小屋の「常盤座」が開館し、近隣の村々から客を集めた。戦後の1954年には「明知映画劇場」が開館し、また1955年初頭には「ハッピー劇場」が開館した。*203
オレンジ座/明智オレンジ座
所在地 : 岐阜県恵那郡明智町(1964年・1965年)、岐阜県恵那郡明智町876-2(1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1963年頃
閉館年 : 1968年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1965年の映画館名簿では「オレンジ座」。1964年の東濃版住宅案内図では「明智オレンジ座」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに永島久吉、木造2階建、定員650、電話が明智165。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「明智オレンジ座」。1966年の映画館名簿では経営者は永島産業、支配人は時村博幸、木造2階暖房付、定員280、邦画を上映。経営会社は瑞浪市の瑞浪オレンジ座と同一。1967年・1968年・1970年のゼンリン住宅地図では「明智オレンジ座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「尾崎医院」東で「大正時代館」南の「アイセイ薬局明智店」。最寄駅は明知鉄道明智駅。
三万石劇場/三万石会館/恵那三万石会館
所在地 : 岐阜県恵那郡岩村町(1959年・1960年・1961年・1962年・1964年・1965年)、岐阜県恵那郡岩村町269(1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1968年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「三万石劇場」。1960年の映画館名簿では「三万石会館」。1961年の映画館名簿では「三万石劇場」。1962年の映画館名簿では「三万石会館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の東濃版住宅案内図では「三万石会館」。1964年・1965年の映画館名簿では「三万石会館」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「恵那三万石会館」。1967年・1968年のゼンリン住宅地図では「三万石会館」。1968年の映画館名簿では経営者が岩村土地興業、支配人が岩出善次、木造1階、定員200、邦画を上映。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のゼンリン住宅地図では跡地に「日通ソーコ」。跡地は「岩村郵便局」南30mにある公園「本町ポケットパーク」。最寄駅は明知鉄道岩村駅。

岩村町観光協会の方に聞くと、「岩村町には三万石会館と岩村劇場のふたつがあった。三万石会館は映画館であり、岩村劇場は昔ながらの劇場だった。桝形から柳町を南に向かうと、突き当りに岩村劇場があった。現在は老人ホームがある辺りである。岩村劇場は三万石会館よりも早く閉館した。三万石会館には小学生の時に入ったことがある。閉館後の建物は家具屋の倉庫となり、現在は本町ポケットパークとなっている。岩村郵便局の角を南に曲がった先である。昔の岩村郵便局の建物はモルタル造であり、現在の岩村郵便局の1軒南に残っている」
オリオン座
所在地 : 岐阜県恵那市大井町(1955年・1958年・1960年・1963年)、岐阜県恵那市大井町271(1964年)
開館年 : 1951年5月
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧1955』によると1951年5月開館。1953年の映画館名簿に掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「オリオン座」。1955年の映画館名簿では経営者が林高嶺、支配人は中神市三、木造1階、定員300、上映作品は混合。1962年の恵那市全商工住宅案内図帳では「オリオン座」。1964年の東濃版住宅案内図では「オリオン座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1968年のゼンリン住宅地図では「オリオン座」。1970年の住宅地図では「主婦の店バロー」。跡地は文具店「松林堂」などが入る「丸大ビル」とその東側の駐車場。最寄駅はJR中央本線恵那駅。

恵那市には2館の映画館があった。『夜明け前』(1953年公開)の映画看板がかかるオリオン座の写真あり。*204

1951年には恵那市大井町中央通りに映画専門館のオリオン座が開館。通りよりやや奥まった位置にあった。ファサード上部に「ORION」のロゴが入り、その下に大きく「オリオン座」の看板が掲げられた。『夜明け前』の映画看板がかかる写真あり。大井町中央通りの商店街近代化事業によって周囲は様変わりしたが、オリオン座付近にあった松林堂や清進堂は新築の建物で2006年時点でも営業を続けている。*205

1953年の恵那郡大井町にあった専門館「オリオン座」の写真あり。「オリオン座」と「ORION」の文字が見える。島崎藤村原作の『夜明け前』と『黒豹』の2本立てである。1951年、大井町の中央通りに開館した。ファサードは木造モルタル造。1953年時点では入場料は55円だった。*206

1951年に中央通り1の通りの奥に映画館のオリオン座が開館した。『夜明け前』(1953年公開)の映画看板がかかるオリオン座の写真あり。p.712には「1949年頃より1967年頃まで映画館」とある。*207
大栄座/大井劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡大井町(1950年・1953年)、岐阜県恵那市大井町(1955年)、岐阜県恵那市大井町224-3(1958年)、岐阜県恵那市大井町(1960年・1963年)、岐阜県恵那市大井町224-3(1966年・1969年)
開館年 : 1909年
閉館年 : 1972年1月7日
1950年の映画館名簿では「大栄座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「大井劇場」。1962年の恵那市全商工住宅案内図帳では「大井劇場」。1964年の東濃版住宅案内図では「大井東映」。1968年・1970年のゼンリン住宅地図では「大井東映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。恵那市最後の映画館。跡地は「大井プラザ名店街」。最寄駅はJR中央本線恵那駅。

恵那郡大井町の大栄座劇場株式会社。1910年11月設立。内容は劇場賃貸。*208

1972年の新春興行をもって、恵那市唯一の映画館「大井劇場」が閉館する予定。1909年、大井町、長島町、東野などの有志が出資し、名古屋市の御園座をモデルとして「大栄座」が建設された。市川左団次、先代鷹次郎宗十郎らが来演した。戦後には大井劇場に改称し、歌舞伎の興行と映画の上映が行われ、映画全盛期には常設映画館となった。建物は消防法や建築法に適合しておらず、建物の老朽化によって閉館を決定した。1972年初頭に正月映画を上映し、1月7日の営業をもって閉館する。建物を取り壊したうえで、1階に駐車場、2階にボウリング場が入る娯楽施設を建設する予定。経営者は伊藤延秀。*209

1971年12月21日の『朝日新聞』岐阜版朝刊には「大井劇場」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*210

幕末から明治にかけて、2006年現在の恵那市立第一大井小学校の校地には「大栄座」という名前の芝居小屋があった。1909年には現在地に新築移転して「大井劇場」(通称大栄座)となり、戦前は歌舞伎や講演会にも使われた。1936年11月には大同電力笠置発電所の竣工披露式の会場となっている。戦後は映画上映がメインとなった。1971年に閉館。建物は改築され、1階は喫茶店などの入る大井プラザ名店街に、2階はボーリング場となったが、2006年時点で2階は家具展示場である。*211

1960年頃の恵那郡大井町にあった映画館「大井東映」の写真あり。「大井東映」の文字が見える。『水戸黄門』と『お姐ちゃんに任しとキ!』の看板が見える。当時の大井町には2館の映画館があり、大井東映は2018年現在の大井プラザ名店街の場所にあった。戦前に開館し、主に東映の作品を上映して1967年頃まで営業していた。大井東映の裏には銭湯もあった。*212

1990年現在の旭町には「大栄座」(大井劇場)があった。通りの突き当りが大栄座であり、写真の手前で銀座通りと交差している。*213

飛騨地方

飛騨市

旧神岡地区の映画館
昭和20年代の神岡町では映画が流行した。本町に「中央劇場」(現在の飛騨信用組合神岡支店)、千歳に「船津劇場」(現在の福祉会館)があり、それぞれ映画が上映されていた。邦画も上映されたが、西部劇など洋画の上映が圧倒的に多かった。両映画館ともに1か月平均約9本の映画が上映され、1954年から1955年1月までの『週刊町報』(現在の『広報かみおか』)には上映案内が掲載された。1954年の映画館の入場料は40円であり、たばこ1箱、年賀はがき8枚と同じ値段だった。両映画館のほかには、三井金属鉱業株式会社が所有する会館でも鉱山慰安映画が上映され、東町の神岡会館、栃洞の銀嶺会館、東茂住の上平会館、大津山の大津山会館、土会館、跡津集会所、金木戸集会所などがあった。鉱山慰安映画は神岡鉱山の文化活動の一環として週2回上映された。神岡会館では従業員やその家族が1回10円で観ることができ、銀嶺会館・大津山会館・上平会館では会員制で映画を観ることができた。栃洞会館で子供向け作品が上映されると、栃洞小学校や栃洞中学校の児童生徒が先生に引率されて観に行くことがあり、この際の銀嶺会館は貸し切りとなった。戦中や戦後の銀嶺会館では多くの芸能人の公演も行われている。上平会館では月5回から6回の頻度で鉱山慰安映画が上映された。1949年1月からはアメリカ映画も上映され、『凸凹宝島騒動』や『凸凹スパイ騒動』『海賊キッド』などが上映された。*214
古川旭座(旧)
所在地 : 岐阜県吉城郡古川町(1934年)、岐阜県吉城郡古川町旭町通り(1936年)
開館年 : 1887年11月16日
閉館年 : 1936年
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年の映画館名簿では「旭座」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。

1933年の『大日本職業別明細図 第325号』には「旭座」が描かれている。*215

江戸末期から古川町には劇場「旭座」があった。当時の小屋主は吉田清作であり、やがて息子の吉田敏太郎が継いだ。その後息子の吉田敏雄が継ぎ、廃業時の経営者は吉田敏雄だった。旭座は上気多字釜之上(現在の飛騨農業古川支店の売店付近)にあったが、周辺には田畑が広がっていた。1904年の古川大火では焼失を免れたが、1936年には「古川劇場」との競合を避けて廃業した。数年後、所有者は土地と建物を古川産業組合(後の古川町農業協同組合)に売却し、高山市に進出して吉田興行社を名乗り、「京極映画劇場」の経営者となった。*216
共愛館
所在地 : 岐阜県吉城郡船津町栃洞(1949年)
開館年 : 1947年以後1949年以前
閉館年 : 1949年頃
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年の映画館名簿では「共愛館」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。
上手共愛館
所在地 : 岐阜県吉城郡船津町上手(1949年)
開館年 : 1947年以後1949年以前
閉館年 : 1949年頃
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年の映画館名簿では「上手共愛館」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。
茂茂共愛館
所在地 : 岐阜県吉城郡船津町茂茂(1949年)
開館年 : 1947年以後1949年以前
閉館年 : 1949年頃
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年の映画館名簿では「茂茂共愛館」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。
新映会館/古川新映会館
所在地 : 岐阜県吉城郡古川町(1961年・1963年)、岐阜県吉城郡古川町一之町49-1(1966年)
開館年 : 1959年7月13日
閉館年 : 1966年
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年の映画館名簿では「新映会館」。1963年・1966年の映画館名簿では「古川新映会館」。1966年の映画館名簿では経営者が新映会館、支配人が村坂憲吉、木造2階冷暖房付、定員312、松竹・東宝・東映・混合・洋画を上映。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図では跡地に「旭座(吉田栄次)」。1984年の住宅地図では跡地に「旭座」。1987年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「上人塚」がある「まつり広場」。最寄駅はJR高山本線飛騨古川駅。

1959年7月13日、古川町商工会長の吉島勇三が中心となり、壱之町に古川町初の常設映画館「新映会館」が開館した。定員は約240席。1961年以降にテレビが普及すると、映画業界は衰退の兆しを見せ、昭和30年代後半には「古川劇場」と共に経営状態が悪化した。新映会館は1966年に廃業し、古川町が土地と建物を購入したことで、建物の一部は古川町商工会事務所となった。1971年、吉田興行社は古川町から新映会館の建物を購入し、7月には常設映画館「旭座」を開館させた。1984年の廃業後に建物は取り壊され、まつり広場が建設された。*217
大正座/船津劇場
所在地 : 岐阜県吉城郡船津町(1949年・1950年)、岐阜県吉城郡神岡町(1953年)、岐阜県吉城郡神岡町千歳(1955年・1958年)、岐阜県吉城郡神岡町(1960年・1963年)、岐阜県吉城郡神岡町船津1791(1966年・1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1916年9月
閉館年 : 1971年頃
『全国映画館総覧1955』によると1944年8月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年・1950年の映画館名簿では「大正座」。1953年の映画館名簿では「船津劇場」。1955年の映画館名簿では「舟津劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「船津劇場」。1967年の住宅地図では「船津劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が中田長三、支配人が鍋島真平、木造1階暖房付、定員315、東宝・大映・東映を上映。1972年の映画館名簿には掲載されていない。1973年のゼンリン住宅地図では「船津会館」。1987年の住宅地図では跡地に「神岡町福祉会館」。神岡町福祉会館は2015年度に取り壊された。跡地は「大津神社」参道脇の駐車場。最寄駅はJR高山本線猪谷駅。

『ちょっと昔の船津の町』には「明治の頃の船津の町」の手書き地図が掲載されており、「千鳥座」と「大正座」が描かれている。*218

『飛騨之船津』には「船津町市街図」が掲載されており、「大正座」が描かれている。*219

船津町の警察署の咲きには芝居小屋「千鳥座」があり、後発の「大正座」とともに庶民の娯楽場だった。興行がある日には役者が人力車に乗って顔見世した。*220

1921年の『飛騨の船津』(岐阜県吉城郡船津町教育会)には「大正座」が描かれている。国立国会図書館デジタルコレクションで図書館・個人送信資料となっている。*221

1928年の神岡町船津にあった大津神社の大鳥居の竣工時の写真あり。右後ろには「大正座」が写っている。大鳥居は高さ約10メートル、直径70センチの石柱で建てられ、2015年現在も参道の途中にある。*222

1930年の『大日本職業別明細図 第200号』には「大正座」が描かれている。*223

1933年の『大日本職業別明細図 第325号』には「大正座」が描かれている。岐阜県図書館が所蔵。*224

1935年の『大日本職業別明細図 第440号』には「大正座」が描かれている。*225

1946年3月1日に神岡町船津の「大正座」で開催された演芸会の写真あり。「座正大」の文字が見える。*226

昭和30年代に神岡町の西里通りのあった柿下旅館から撮影した写真あり。1955年公開の『二十四時間の恐怖』の看板が見える。当時の神岡町には「船津劇場」(船劇)と「中央劇場」があり、神岡鉱山でも頻繁に映画が上映されていた。*227

昭和20年代から30年代には特に映画が流行し、神岡町には「船津劇場」と「中央劇場」があった。また、神岡鉱業株式会社の東町・栃洞・茂住・大津山などの会館でも盛んに上映された。*228

吉城郡神岡町にあった「大正座」は演芸場だった。後に「船津劇場」に改修し、1989年現在は福祉会館となっている。昭和初期の写真あり。*229

1970年の神岡町にあった「船津劇場」の写真あり。広報ネガ。1948年に「大正座」が船津劇場に改称した。*230

1916年9月、神岡町に劇場「大正座」が開業した。1973年7月、「船津劇場」跡地に福祉会館が竣工した。*231

神岡町「船劇」はこのほど神岡町に売却されることとなった。1916年9月に「大正座」として開館した。同年5月10日には宮下で80戸が焼失する大火があり、花園町の「千鳥座」も焼失した。千鳥座の株主は新富町に再建を決定したため、人口約1万人の船津町には大正座と千鳥座が競争することとなった。大正座の経営者が山口竹次郎であり、地元政財界の牛丸延太郎などが背後にいた。こけら落とし当日には船津町で停電が起こったが、船津町営発電所の水路に巨大な棒が流れ込んだことで出力が低下したため、千鳥座陣営の仕業と邪推する声もあった。*232

船津町の「大正座」と「千鳥座」の争いはエスカレートし、大正末期には千鳥座が閉鎖されて石川県七尾市に身売りされた。大正座は桝席に畳が敷かれ、場内ではせんべいやラムネなどが売られた。戦時中には演劇の興行が行われた。1950年には神岡町本町3丁目に「中劇」が開設され、さらには巨大な「神岡会館」も加わって昭和30年代の映画黄金期を迎えた。1955年には中劇に対抗するために、「船劇」は畳敷きから椅子席とした。1964年の東京オリンピック後にはテレビが普及し、時代の波にのまれて50年あまりの歴史に終止符を打った。*233
神岡鉱業所/銀嶺会館/神岡銀嶺会館
所在地 : 岐阜県吉城郡神岡町(1953年)、岐阜県吉城郡神岡町栃洞(1955年・1958年・1960年)、岐阜県吉城郡神岡町栃洞(1963年)、岐阜県吉城郡神岡町栃洞(1966年・1969年)
開館年 : 1951年12月? 1952年7月?
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧1955』によると1951年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「神岡鉱業所」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「銀嶺会館」。1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「神岡銀嶺会館」。1973年の映画館名簿では経営会社が三井金属工業、経営者・支配人ともに吉田博保、木造2階暖房付、600席、邦画・洋画を上映。1974年の映画館名簿には掲載されていない。山上に築かれた栃洞地区にあった。栃洞地区全体が廃墟となっているが、銀嶺会館の建物は現存している。最寄駅はJR高山本線猪谷駅。

神岡町の神岡鉱山には福利厚生施設として「銀嶺会館」があった。東京で封切された映画が一週間も経たないうちに銀嶺会館で上映されたという。美空ひばり以外のたいていの有名歌手は銀嶺会館を訪れた。最後には千昌夫の庄が開催され、お世辞を振りまきながら「北国の春」を熱唱した。2020年現在の銀嶺会館の写真あり。内部は崩壊が進んでいる。*234

1952年7月20日付『毎日新聞』岐阜版朝刊には、神岡鉱山に「銀嶺会館」が建ったとする記事が掲載されている。現物は未確認。*235

岐阜県神岡町には2001年まで神岡鉱山があり、栃洞集落があった。学校跡の裏手には「銀嶺会館」という福利厚生施設の大きな建物が残っている。*236
神岡会館
所在地 : 岐阜県吉城郡神岡町(1955年・1963年)、岐阜県吉城郡神岡町東町(1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1951年9月
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧1955』によると1951年9月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「神岡会館」。1958年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「神岡会館」。1973年の映画館名簿では経営会社が三井金属工業、経営者・支配人ともに吉田博保、鉄筋造3階冷暖房付、1066席、邦画・洋画を上映。1973年のゼンリン住宅地図では「神岡会館」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。1987年の住宅地図では跡地に「神岡会館」。跡地は「V・drug神岡店」。最寄駅はJR高山本線猪谷駅。

1951年12月28日付『毎日新聞』には、「神岡会館」が竣工したとする記事が掲載されている。現物は未確認。*237

1952年の神岡町船津の街並み。左端には神岡町役場・円城寺、手前には本町の街並みがあり、「中央劇場」も見える。向こうの東町にある白い建物は「神岡会館」である。*238

1952年の神岡町にあった西里橋と「神岡会館」の写真あり。西里橋は船津と東町を結ぶ橋であり、1902年に架橋されると、1951年に鉄橋となった。神岡会館は神岡鉱山の従業員のみならず神岡町民にも親しまれたが、1981年の五六豪雪で被災して撤去された。*239

1955年現在の神岡鉱山には生産設備のほかに、社宅、寄宿舎、共同浴場、理髪所、購買部、鉱山病院、診療所などがある。近年には「神岡会館」が建ち、映画の上映や催し物が行われている。*240

1958年現在の神岡鉱山にある「神岡会館」の写真あり。神岡鉱山の福利施設であり、映画・演劇・講演などが行われている。1951年の施工。工費5070万円。観覧席椅子888個。収容人員最大1200人。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階・地上3階建て。1633.67m2。*241

時期不明の神岡町にあった「神岡会館」の写真あり。1950年の神岡会館の内部の写真あり。対岸から見た体育館と神岡会館の写真あり。1951年12月に竣工した。こけら落としには歌舞伎の片岡仁左衛門が来館した。*242

かつて神岡町には「船劇」「銀嶺会館」「神岡会館」「チュー劇」があり、現在はチュー劇のみが営業中である。まず閉鎖されたのは船劇であり、跡地は福祉会館となった。栃洞にあった銀嶺会館も観客が減少して採算が取れなくなって閉館した。神岡会館では神岡鉱山の文化同好会が主催する十円映画が行われた。会館使用料や電気代などの経費を差し引いても利益があり、積み立てられたかねで歌手の公演などが行われた。花形歌手の中で神岡町に来なかった人物は美空ひばりくらいである。*243

1975年頃の神岡町にあった「神岡会館」の写真あり。『神岡鉱山写真史』による。神岡会館は1951年竣工。鉱山慰安映画が上映され、1回10円で観ることができた。*244
中央劇場/神岡中央劇場
所在地 : 岐阜県吉城郡神岡町(1953年)、岐阜県吉城郡神岡町本町(1955年・1958年)、岐阜県吉城郡神岡町(1960年)、岐阜県吉城郡神岡町本町(1963年)、岐阜県吉城郡神岡町本町1926(1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年)
開館年 : 1950年8月
閉館年 : 1978年4月
『全国映画館総覧1955』によると1950年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「中央劇場」。1955年の映画館名簿では「神岡中央劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「中央劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年の映画館名簿では「神岡中央劇場」。1967年の住宅地図では「中央劇場」。神岡町最後の映画館。1967年の住宅地図では「中央劇場」。1973年の映画館名簿では経営会社が神岡土地興行、経営者・支配人ともに大坪政長、鉄筋造2階冷暖房付、260席、邦画・洋画を上映。1973年のゼンリン住宅地図では「中央劇場」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。1987年の住宅地図では跡地に「飛騨信用組合神岡支店」。跡地は「飛騨信用組合神岡支店」駐車場。南側の「小林書店」は1967年からある。最寄駅はJR高山本線猪谷駅。

1950年に本町の「中央劇場」がこけら落とし公演を行った際の写真あり。*245

1952年の神岡町船津の街並み。左端には神岡町役場・円城寺、手前には本町の街並みがあり、「中央劇場」も見える。向こうの東町にある白い建物は「神岡会館」である。*246

昭和20年代から30年代には特に映画が流行し、神岡町には「船津劇場」と「中央劇場」があった。また、神岡鉱業株式会社の東町・栃洞・茂住・大津山などの会館でも盛んに上映された。*247

昭和30年代に西里通りの柿下旅館から撮影した写真あり。1955年公開の『二十四時間の恐怖』の看板が見える。当時の神岡町には「船津劇場」(船劇)と「中央劇場」があり、神岡鉱山でも頻繁に映画が上映されていた。*248

1978年4月いっぱいで、神岡町唯一の映画館「チュー劇」が閉館する。大坪政長社長。神岡町が発足した1950年、中央劇場として開館した。神岡町は鉱山特需に沸き、360席は連日満員となる人気だった。船津劇場、神岡会館と並んで娯楽の殿堂だった。東京の歌舞伎座が訪れたこともあり、岩井半四郎の演劇が上演されたこともある。船津劇場と神岡会館が相次いで閉館し、1965年にはチュー劇のみとなった。しかし、過疎化が急激に進行し、人気映画のフィルムが早期に入手できない条件などもあって、観客数は激減していた。数年間は赤字が続いており、閉館が決定した。写真あり。*249
古川劇場
所在地 : 岐阜県吉城郡古川町(1949年・1950年・1953年・1955年)、岐阜県吉城郡古川町367(1958年)、岐阜県吉城郡古川町(1960年・1963年)、岐阜県吉城郡古川町上気多367(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1935年4月1日
閉館年 : 1971年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「古川劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が古川土地興業社、支配人は吉田栄治、木造2階冷暖房付、定員647、邦画・洋画・成人映画。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「JAひだ古川支店」と餅屋「新名屋」の間。最寄駅はJR高山本線飛騨古川駅。

1934年、古川町の「旭座」に対抗する「公楽館」の建設が計画された。途中で株式会社組織に変更され、1935年4月1日に「古川劇場」として落成した。4月6日と4月7日がこけら落としであり、東京歌舞伎の沢村田之助、市川小太夫、中村歌仙、川田嘉子らが来演した。開業時の祝典の写真あり。同年10月にはやはり東京歌舞伎の松本幸四郎・沢村宗十郎一行が来演しており、地方で大名題役者の演技を見られる貴重な機会だった。資本金は1万円。代表取締役は小瀬友吉。木造2階建て。旭座は「ブタイ」と、古川劇場は「ゲキジョウ」と呼ばれた。2010年現在の飛騨農協古川支店と新名餅店の中間に位置していた。畳敷きの桟敷がある芝居小屋であり、冬季には座布団や火鉢が貸し出された。開館当時の飛騨地方にあった劇場の中では最も広い舞台を持ち、人力の廻り舞台、下座、花道、緞帳、引き幕などを有していた。2階には映写室があり、最新のトーキー映写機が設置されていた。戦後の1959年に開館した「新映会館」に押されたことで、1961年には吉田興行社が経営権を取得した。1971年秋には古川町に対して買上げの陳情があり、古川町議会は買上げを可決しなかったが、1972年に買い手がついたことで土地と建物を売却した。*250

1934年には吉城郡古川町に「古川劇場」が完成し、芝居や映画の興行を行った。1935年頃の写真あり。2階席もあった。座席は桟敷席だったが、映画が主流になると椅子席に代わった。かつては大横町の突き当り付近にも「旭座」という劇場があり、盛んに芝居の興行を行っていたが、古川劇場の開館後には衰退した。昭和30年代後半には古川町に別の映画館が開館し、古川劇場と別の映画館とで観客が分散した。昭和50年代中頃に映画人気が低迷すると、古川劇場の建物は取り壊された。2006年現在の跡地はスナック みちくさとJA飛騨古川支店の駐車場になっている。*251

1935年の吉城郡古川町にあった「古川劇場」の写真あり。1935年に開館した娯楽施設である。客席は畳敷きであり、芝居の上演や映画の上映を行った。昭和30年代には観客数が低迷し、昭和40年代中頃に閉館した。*252
古川旭座(新)
所在地 : 岐阜県吉城郡古川町一之町49-1(1973年・1975年・1976年・1978年)、岐阜県吉城郡古川町一之町12-35(1980年・1984年)
開館年 : 1971年
閉館年 : 1984年6月
1970年の映画館名簿には掲載されていない。1973年のゼンリン住宅地図では「旭座(吉田栄次)」。1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1984年の映画館名簿では「古川旭座」。1984年の映画館名簿では経営者は吉田栄次、支配人は牛丸昭則、木造1階、256席、邦画・洋画・成人映画を上映。1984年の住宅地図では「旭座」。後継館は1984年開館の「高山旭座」(高山市)。1987年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「上人塚」がある「まつり広場」。最寄駅はJR高山本線飛騨古川駅。

1959年7月13日、古川町商工会長の吉島勇三が中心となり、壱之町に古川町初の常設映画館「新映会館」が開館した。定員は約240席。1961年以降にテレビが普及すると、映画業界は衰退の兆しを見せ、昭和30年代後半には「古川劇場」と共に経営状態が悪化した。新映会館は1966年に廃業し、古川町が土地と建物を購入したことで、建物の一部は古川町商工会事務所となった。1971年、吉田興行社は古川町から新映会館の建物を購入し、7月には常設映画館「旭座」を開館させた。1984年の廃業後に建物は取り壊され、まつり広場が建設された。*253

1984年6月6日付『朝日新聞』岐阜版朝刊には古川町唯一の映画館である「古川旭座」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*254

下呂市

下呂ボウリングセンター
2015年3月末、下呂市の下呂温泉街にある下呂ボウリングセンターが閉館する予定。ボウリングブームのさなかの1971年に開業した。14レーンに加えて、ゲームコーナーやビリヤード台などもあり、ブーム中には数時間待ちになることもあった。当時は下呂温泉の旅館内や萩原町にもボウリング場があった。現在は飛騨地方でもっとも古いボウリング場だった。ボウリングのピンを並べる装置はアメリカから輸入したもの。楓の木材で作られたレーンは現在では珍しい。外観は開業当時とさほど変わらない。全国最高齢ボウラーの吉野幸作は亡くなる直前まで下呂ボウリングセンターに通っていたが、2014年4月6日に死去した。*255
楽笑館/ミサト館
所在地 : 岐阜県益田郡萩原町364(1958年)、岐阜県益田郡萩原町(1960年・1963年)
開館年 : 1923年
閉館年 : 1963年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「ミサト館」。1960年の映画館名簿では経営者が吉田敏雄、支配人が田堀一美、木造2階暖房付、定員316、大映・日活・東宝を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1933年の『大日本職業別明細図 第325号』には「楽笑館」が描かれている。*256

1956年3月の『飛騨春秋』創刊号には萩原町にあった「ミサト館」の広告が掲載されている。「皆様のミサト館 萩原町 電話5番」「一番安い娯楽 一番為になる 一番喜ばれる」とある。*257

現在の萩原上区の中田医院の向かい付近。1923年、演芸場「楽笑館」が開館して寄席や演芸の興行を行った。しかし萩原劇場と競合しており、松竹株式会社は解散、1943年12月には富永木製品ガス薪工場となった。1951年4月にはダンスホールに改装された。1953年3月には高山市の京映の経営者が改装し、常設映画館「ミサト館」が開館した。ミサト館は1963年に火災に遭って閉館した。*258

下呂市萩原町の商店街有志が、「大正より昭和初期までの萩原の町並図」を作成した。当時の萩原は高山方面から美濃方面に向かう益田街道などがある交通の要所であり、最盛期の商店街には120軒ほどの商店があった。宿屋、馬車宿、映画館「楽笑館」、呉服屋、生糸屋、髪結屋、銭湯などがあった。地図は星雲会館のロビーに設置される予定。*259

1922年11月、「萩原劇場」ができた。1923年、劇場の「楽笑館」(後のミサト館)ができた。*260

萩原上区の「みさと館」付近で起こった大火の写真あり。*261
相生座
所在地 : 岐阜県益田郡下呂町宮地300(1956年・1958年)、岐阜県益田郡下呂町宮地(1960年)、岐阜県益田郡下呂町宮地300(1963年)、岐阜県益田郡下呂町宮地(1964年)
開館年 : 1895年、1955年頃
閉館年 : 1964年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「相生座」。1960年の映画館名簿では経営者が宮地区管、支配人が各務英一、木造2階、定員600、邦画・洋画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。相生座の客席は瑞浪市の美濃歌舞伎博物館 相生座に移築されている。

1975年の下呂町宮地にあった移築直前の「相生座」の写真あり。*262
大和座
所在地 : 岐阜県益田郡下呂町1597(1958年)、岐阜県益田郡下呂町(1960年)、岐阜県益田郡下呂町1597(1963年)、岐阜県益田郡下呂町中原和佐(1964年)
開館年 : 1919年頃
閉館年 : 1964年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「大和座」。1960年の映画館名簿では経営者が和佐区管、支配人が細江弥五郎、木造2階、定員560、邦画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

昭和20年代の下呂町和佐にあった「大和座」で行われた地芝居の写真あり。1965年に解体された。年代不明の大和座の写真あり。*263

1946年に下呂町和佐地区の芝居小屋「大和座」で行われた音楽工業の写真あり。大和座は1902年に建設され、1919年頃に再建された劇場である。1965年に取り壊された。*264
萩原劇場
所在地 : 岐阜県益田郡萩原町(1953年・1955年)、岐阜県益田郡萩原町803(1958年)、岐阜県益田郡萩原町(1960年・1963年)、岐阜県益田郡萩原町萩原(1964年)、岐阜県益田郡萩原町(1965年)
開館年 : 1922年11月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「萩原劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が尾関庄三郎、支配人が森田正、木造2階暖房付、定員860、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1922年11月、「萩原劇場」ができた。1923年、劇場の「楽笑館」(後のミサト館)ができた。*265

1922年11月、萩原町の有志によって劇場の「萩原劇場」が開館した。演劇や寄席の興行を行い、映画の流行に合わせて映画の上映も行った。萩原劇場は昭和40年代に閉館した。*266

1954年の萩原町にあった「萩原劇場」で行われた萩原歌舞伎の公演の写真あり。1947年に有志によって劇団が結成され、1951年に正式に萩原歌舞伎団として旗揚げされた。*267
金山劇場
所在地 : 岐阜県益田郡金山町(1956年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 大正時代以前
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「金山劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が田口真一郎、支配人が田口亮之助、木造2階建、定員900、邦画を上映。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに田口亮之助、木造2階建、定員671、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1975年時点でも建物が現存。跡地は「金山郵便局」。最寄駅はJR高山本線飛騨金山駅。

大正時代頃の益田郡金山町の金融機関としては、「金山劇場」の前に東濃銀行があった。1913年には濃飛自動車会社によって岐阜と高山を結ぶバスの運行が開始されている。岐阜と高山をそれぞれ朝8時に出発するバスが金山に着くのはどちらも12時だった。鉄道の金山駅が開業したのは1928年のことである。*268

1940年の金山町にあった「金山劇場」の写真あり。「場劇山金」の文字が見える。金山警察署の杭迫部長が防空訓練を講評している。*269

1942年3月21日、金山町昭和町の「金山劇場」が焼失した。火災跡地の写真あり。1945年2月7日、日本軍の命令で「金山劇場」が航空機発動機整備工場として徴用され、名古屋師団所属の第34203部隊片岡隊約50人が作業隊として駐屯した。兵舎として長福寺の本堂や豊川閣なども徴用されている。*270
下呂劇場
所在地 : 岐阜県益田郡下呂町湯之島(1953年・1955年・1958年)、岐阜県益田郡下呂町(1960年)、岐阜県益田郡下呂町湯之島(1963年・1966年)
開館年 : 1950年4月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧1955』によると1950年4月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「下呂劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が下呂劇場、支配人が桑原泰、木造2階冷暖房付、定員600、邦画・洋画を上映。1967年の映画館名簿には掲載されていない。

1962年に下呂町湯之島の劇場で行われた成人式の写真あり。*271
朝六座/小坂朝六座
所在地 : 岐阜県益田郡小坂町(1941年・1949年)、岐阜県益田郡小坂町656(1958年)、岐阜県益田郡小坂町(1960年)、岐阜県益田郡小坂町656(1963年)、岐阜県益田郡小坂町小坂565(1966年・1967年・1968年・1969年)
開館年 : 1921年9月
閉館年 : 1969年頃
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「朝六座」。1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年の映画館名簿では「朝六座」。1950年・1953年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「朝六座」。1960年の映画館名簿では経営者が橋本文平、支配人が橋本博夫、木造2階暖房付、定員694、邦画・洋画を上映。1966年・1967年・1968年・1969年の映画館名簿では「小坂朝六座」。1969年の映画館名簿では経営者が橋本文平、支配人が橋本博夫、木造2階暖房付、定員250、邦画・洋画・成人映画を上映。1970年の映画館名簿には掲載されていない。1989年の住宅地図では跡地に橋本博夫邸。跡地は書店「ツタヤ」東南東120mの民家とガレージ。最寄駅はJR高山本線飛騨小坂駅。

小坂町の津島神社の下にある空き地に芝居小屋「朝六座」があり、年に2回から3回の頻度で旅回りの一座による興行があった。1921年9月には合資会社朝六座が設立され、小坂町川井田に移転して建て替えられた。演劇、浪花節、活動写真などの興行が行われた。昭和に入ると映画の人気が高まり、演劇は人気を失っていった。橋本文平が経営権を譲り受け、「朝六劇場」に改称して常設映画館とした。1958年、大島の駅前に高家重平を代表とする映画館「小坂劇場」が開館したが、狭い小坂町で2館の映画館が営業するのは無理があり、約2年後には小坂劇場が閉館した。*272

1940年、高山音楽連盟は小坂町の「朝六座」で演奏会を開催した。*273

1936年12月11日、高山音楽連盟は益田郡小坂町の「朝六座」で第1回演奏会を開催した。昼間には車で町中をめぐる宣伝が行われた。1940年5月12日、高山音楽連盟は朝六座で第1回演奏会を開催した。銃後奉公会に5円を寄付し、18円あまりの利益金が出た。*274

1967年の小坂町にあった川井田通りの写真あり。劇場「朝六座」(あさむつざ)や飛騨銀行が見える。*275

橋本文平(はしもとぶんぺい、1893年9月5日-1978年8月10日)は、益田郡小坂町出身の小坂町議会議員。1947年から5期に渡って小坂町議会議員を務めた。1965年に小坂町自治功労者に推挙された。1969年に勲六等単光旭日章を受賞した。*276

大野郡白川村

ハッピー劇場(白川村)
所在地 : 岐阜県大野郡白川村平瀬43(1956年・1958年)、岐阜県大野郡白川村平瀬(1960年)、岐阜県大野郡白川村平瀬43(1963年)、岐阜県大野郡白川村平瀬396(1964年)、岐阜県大野郡白川村平瀬(1965年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「ハッピー劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が田口一造、支配人が是森邦夫、木造1階、定員350、邦画・洋画を上映。1965年の映画館名簿では経営者が田口一造、支配人が池崎良一、木造1階、定員246、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
御母衣劇場
所在地 : 岐阜県大野郡白川村牧(1958年)、岐阜県大野郡白川村御母衣(1960年)、岐阜県大野郡白川村牧(1963年)、岐阜県大野郡白川村御母衣字牧(1964年)、岐阜県大野郡白川村御母衣(1965年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1965年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「御母衣劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が田口一造、支配人が池崎良一、木造1階、定員397、邦画・洋画を上映。1965年の映画館名簿では経営者が田口一造、支配人が池崎良一、木造1階、定員340、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1957年6月7日、白川村で総予算355億円の御母衣ダムの建設工事が着工した。御母衣には飲み屋・パチンコ屋・雑貨屋・映画館などが建ち並び、界隈は「御母衣銀座」とも呼ばれた。*277

このページへのコメント

映画館情報と関係はませんが、先日下呂市を観光した折、「スポーツキネマ」なる看板を掲げた店を発見しました。
(場所はGoogleマップで「下呂市 リップスティック」で検索、ストリートビューで表示される向かいの建物)
リフォームされてますが結構古そうな建物で、見ようによっては映画館に見えそうな佇まい・・・・・・・。
また正面の路地の突き当りには、こちらも映画館に見えなくもない木造二階建ての建築物がありました。
この辺りは「本町通り」と呼ばれ、人影はまばらですが、昔の商店や喫茶店がちらほら見受けられます。
もし5~60年前ここが賑わっていたとしたら、映画館があってもおかしくはない。そんな妄想を掻き立てる町並みでした。
長文失礼しました。

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Posted by 名無し(ID:/+VGspmbvg) 2021年04月12日(月) 01:14:20 返信

懐かしい名前を見ました。

いくつか誤変換があるので、修正ください。

(1)榎元座/多治見榎元座/多治見東宝榎元座
最寄駅はJR中央本線・太田線多治見駅。
  ⇒ JR中央本線・太多線多治見駅。


(2)豊岡劇場/多治見文化劇場/多治見日活劇場
最寄駅はJR中央本線・太田線多治見駅。
  ⇒ JR中央本線・太多線多治見駅。


(3)多治見東映劇場/多治見グランド1・2
かつては西側を国鉄笠原線が通っていた。
  ⇒    東濃鉄道笠原線が通っていた。

(4)多治見館/多治見大映劇場/多治見大映/多治見シネマ1・2
最寄駅はJR中央本線・太田線多治見駅。
  ⇒ JR中央本線・太多線多治見駅。

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駄知陶宝会館/陶宝会館 は、よく行っていました。晩年は、映画の割引券を配る車が町中を走り回っていました。

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Posted by kaz 2020年03月29日(日) 14:54:22 返信数(1) 返信

ありがとうございます!
誤字などを修正しました。

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Posted by  hekikaicinema hekikaicinema 2020年04月12日(日) 22:06:58

はじめまして。
いつも興味深く拝見しております。
地元、御嵩町の劇場について、町史(通史編)に記述がありましたので抜粋してコメントさせていただきます。
矢印以降は私の補足です。昔のことは知らないので、家族にも聞いております。

【曙座】
元々は昭和町北部にあった。規模などは定かではないが、明治後期は可児郡唯一の劇場であった。
T.3年8月24日に元町に移転。2階建、畳敷きの桟敷席(700人収容)で、歌舞伎上演のほか活動写真の上映ができた。
S.31年に枡席はコンクリート土間に固定椅子の席に改造され、「日之出劇場」として映画専門館になる。しかし亜炭景気も去り、テレビの普及で経営は困難を増し、S.43年に閉館。
電気部品を組み立てる「御嵩シルバー株式会社」の工場に転用されるが長くは続かず、廃墟となっていた。H.元年9月に解体された。

元々の所在地、昭和町北部というのはおそらく願興寺北側辺りです。
元町へ移転後の位置はみたけ健康館のすぐ南、唐沢川の東側です。町史にはこう書かれていますが、シルバーだった時代はそこそこ(10年くらい?)あったとのことです。現在、跡地にはリゾームハウスA、Bという2棟のアパートが建っています。

【伏見劇場】
T.14年12月4日に伏見劇場が誕生。本陣跡の街道を挟んだ北側あたり。演芸会の写真はあるが、映画を上映したかは不明。S.34年9月の伊勢湾台風で建物が倒壊、閉館。

伏見宿本陣は現在の伏見公民館ですので、国道21号を挟んだ北側の辺りということになります。

【新富座】
明治終わり頃までは西之門に新富座という劇場があったが、いきさつについては不詳。

西之門は御嵩駅前の南北の通り(向陽通り)の西側、可児川の南から小学校の南まで。広くて不明です。映画館ではなさそうです。

【東濃シネマ劇場】
S.31年に映画専門館として開業するが亜炭産業の衰微とともに閉館。わずか数か年の存在だった。

御嵩駅ホーム西端のすぐ北側、現在は町営月極駐車場になっています。母曰く、昭和50年代までは建物の基礎だけ残っていたようです。

わずかですが、wikiや地図に反映いただけますと幸いです。
長文を失礼しました。

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Posted by 泥 2019年11月02日(土) 08:33:21 返信数(1) 返信

貴重な情報をありがとうございます!
文章「岐阜県の映画館」と地図「消えた映画館の記憶(全国版)」に反映させました。

1960年の映画館名簿には「曙座」と「日之出映画劇場」が同時に掲載されており、曙座が日之出劇場になったとする『御嵩町史』の記述と一致しないように思われますが、今後も文献などに言及がないか調べていきます。

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Posted by  hekikaicinema hekikaicinema 2019年11月06日(水) 01:38:24

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