日本の映画館の総合データベースです。



鹿児島市

鹿児島市中心部

イロハ館
所在地 : 鹿児島県鹿児島市(1925年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1925年以後1930年以前
1925年の映画館名簿では「イロハ館」。1930年の映画館名簿には掲載されていない。
世界館
所在地 : 鹿児島県鹿児島市東千石町65(1925年)
開館年 : 1925年
閉館年 : 1925年以後1930年以前
大正時代開館。1925年の映画館名簿では「世界館」。1930年の映画館名簿には掲載されていない。
メリー館/喜楽館
所在地 : 鹿児島県鹿児島市山口町4(1925年)、鹿児島県鹿児島市山之口町新天地通鹿1629(1930年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1930年以後1936年以前
1925年・1930年の映画館名簿では「喜楽館」。1936年の映画館名簿には掲載されていない。鹿児島市初の常設活動写真館。
高島座/高島館
所在地 : 鹿児島県鹿児島市天文館通り(1930年)、鹿児島県鹿児島市山之口町4(1936年)
開館年 : 1925年以後1930年以前
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1925年の映画館名簿には掲載されていない。1930年の映画館名簿では「高島座」。1936年の映画館名簿では「高島館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
太陽館/昭和館
所在地 : 鹿児島県鹿児島市天文館通り(1925年)、鹿児島県鹿児島市天文館通り(1930年)、鹿児島県鹿児島市山之口町天文館通(1936年)、鹿児島県鹿児島市山之口町(1941年)
開館年 : 1920年
閉館年 : 1941年以後1943年以前
1925年の映画館名簿では「太陽館」。1930年・1936年・1941年の映画館名簿では「昭和館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。
帝国館
所在地 : 鹿児島県鹿児島市(1925年)、鹿児島県鹿児島市山之口町(1930年)、鹿児島県鹿児島市山之口町6(1936年)、鹿児島県鹿児島市山之口町(1941年・1943年)
開館年 : 1917年
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1925年・1930年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「帝国館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
富士館
所在地 : 鹿児島県鹿児島市山之口町6(1936年)、鹿児島県鹿児島市山之口町天文館通(1941年)、鹿児島県鹿児島市山之口町(1943年)
開館年 : 1931年
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「富士館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
鹿児島東宝映画劇場/東宝映画劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市山之口町4(1941年)、鹿児島県鹿児島市山之口町(1943年)
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「鹿児島東宝映画劇場」。1943年の映画館名簿では「東宝映画劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
第一山形屋劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市駅前通(1950年)
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1947年以後1950年以前
1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「第一山形屋劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。
大統館/南陽映画劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市武町526(1936年)、鹿児島県鹿児島市武町西鹿児島駅前(1941年)、鹿児島県鹿児島市武町(1943年)、鹿児島県鹿児島市武町526(1947年)
開館年 : 1930年以後1936年以前
閉館年 : 1947年以後1950年以前
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年の映画館名簿では「大統館」。1943年・1947年の映画館名簿では「南陽映画劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。
銀河映画劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市山下町(1950年)
開館年 : 1946年
閉館年 : 1949年7月
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「銀河映画劇場」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。
大劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市東千石町(1950年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1950年以後1953年以前
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「大劇場」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。
公楽劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市下荒田町153(1960年・1961年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1961年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年の映画館名簿では「公楽劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
大松映劇/名山映劇
所在地 : 鹿児島県鹿児島市易居町45(1959年・1960年・1962年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1962年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「大松映劇」。1962年の映画館名簿では「名山映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
朝日映劇
所在地 : 鹿児島県鹿児島市草牟田町448(1960年・1962年)
開館年 : 1958年3月1日
閉館年 : 1962年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1962年の映画館名簿では「朝日映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1958年3月1日、鹿児島市草牟田町に「朝日映劇」が開館した。オープニングは『雪の渡り鳥』と『抱かれた花嫁』。松竹と大映の二番館。建坪140坪。定員320人。支配人は湯地秀雄。*1
日東映画劇場/日東映劇
所在地 : 鹿児島県鹿児島市山之口町(1947年)、鹿児島県鹿児島市天文館通(1950年)、鹿児島県鹿児島市山之口町4(1953年・1955年・1958年・1960年)
開館年 : 1941年以後1943年以前、1947年7月
閉館年 : 1961年3月23日
『全国映画館総覧 1955』によると1947年7月開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「日東映画劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「日東映画劇場」。1953年の映画館名簿では「日東映劇」。1955年・1958年の映画館名簿では「日東映画劇場」。1960年の映画館名簿では「日東映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1961年3月23日午後6時20分頃、鹿児島市山之口町5の「日活銀座」から出火し、「日東映画劇場」など3棟が全焼した。観客に怪我人はなかった。*2
新世界映画劇場/新世界映劇
所在地 : 鹿児島県鹿児島市武町570(1955年・1958年・1960年・1962年)
開館年 : 1953年8月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年8月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年の映画館名簿では「新世界映画劇場」。1960年・1962年の映画館名簿では「新世界映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
上町東映(旧)/鹿児島上町東映(旧)/上町映劇
所在地 : 鹿児島県鹿児島市恵美須町46(1957年・1958年)、鹿児島県鹿児島市恵美須町48(1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1962年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「上町東映」。1958年の映画館名簿では「鹿児島上町東映」。1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「上町映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1960年3月1日、鹿児島市恵美須町の「上町映画劇場」は第二東映上映館に転向した。経営は永田一平。*3
日南映画劇場/国際映画劇場/国際映劇/東洋映画劇場/富士館/文化劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市山之口町(1950年)、鹿児島県鹿児島市山之口町6(1953年)、鹿児島県鹿児島市山之口町(1955年)、鹿児島県鹿児島市山之口町6(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1953年9月5日
閉館年 : 1963年9月14日
『全国映画館総覧 1955』によると1953年11月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「国際映画劇場」。1953年の映画館名簿では「国際映劇」。1955年の映画館名簿では「富士館」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「文化劇場」。後継館は鹿児島文化劇場。跡地はネットカフェ「快活CLUB天文館通り店」などが入る「シネシティ文化ビル」。

1963年9月14日から、鹿児島市の「鹿児島文化映劇」が休館する。全面改築を行い、12月下旬に新装開館する予定。*4

1963年12月20日、鹿児島市の「鹿児島文化劇場」が全面改築を終えて再発足した。鉄筋造4階建て。1階はパチンコ店、2階と3階は定員500人の映画館、4階は映写室と従業員休憩室。ロビーはテレビとステレオを備えている。経営は福岡市の有楽興行。*5

福岡県の有楽興行は鹿児島県に進出し、1957年9月に富士館を文化劇場と改称して鹿児島の拠点とした。1959年に劇場を新築し、鹿児島市の洋画館として初めて冷房設備を設置した。文化劇場・銀座シネマ・銀座劇場の洋画上映館3館は提携して番組編成を行っており、文化劇場はその要となった。1988年9月には約10億円を投じた地上7階・地下1階のシネシティビルが千日町天文館通りに完成し、4スクリーンの複合映画館「シネシティ文化」が開館。厳密にはシネコンの定義には当てはまらない。1990年6月には5スクリーンに増やし、2003年12月には6スクリーンに増やした。2004年にミッテ10が開館したことなどが理由で、2006年6月5日から休館し、10月7日には営業再開の断念を決定した。*6
鹿児島市中央公民館
所在地 : 鹿児島県鹿児島市山下町(1961年・1962年・1963年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1964年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1962年・1963年・1964年の映画館名簿では「鹿児島市中央公民館」。1964年の映画館名簿では経営者が鹿児島市教育委員会、支配人が池松良雄、鉄筋造2階、定員1350、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
オリオン映画劇場/第二文化映劇/第二文化劇場/鹿児島第二文化劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市山之口町21(1958年・1960年・1963年・1964年)、鹿児島県鹿児島市山之口町1-16(1965年)
開館年 : 1955年7月15日
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「オリオン映画劇場」。1960年の映画館名簿では「第二文化映劇」。1963年・1964年の映画館名簿では「第二文化劇場」。1965年の映画館名簿では「鹿児島第二文化劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「鹿児島中央ビル」建物南東部。

1955年7月15日、鹿児島市山之口に「鹿児島オリオン」が開館した。館主は原田敬次郎。映写機はセントラル、発声器はRCAビクター400型。*7

1958年10月1日、鹿児島市の「オリオン映劇」を有楽興行が買収し、「第二文化映劇」に改称して営業を再開した。特選名画番組館であり、再映物を55円で上映する。*8
伊敷映劇
所在地 : 鹿児島県鹿児島市伊敷町(1963年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1963年頃
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「伊敷映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
鴨池東映
所在地 : 鹿児島県鹿児島市郡元町(1957年)、鹿児島県鹿児島市郡元町248-1(1958年)、鹿児島県鹿児島市郡元町2481(1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「鴨池東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
西駅東映/鹿児島西駅日活劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市武町315(1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1957年12月27日
閉館年 : 1966年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「西駅東映」。1966年の映画館名簿では「鹿児島西駅日活劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。

1957年12月27日、鹿児島市に「西鹿児島東映」が開館した。オープニングは『謎の蛇姫屋敷』と『花吹雪鉄火纏』。経営者は永田宗義。工費1000万円。定員600人。*9
みなみ東映/鹿児島みなみ東映劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市塩屋町214(1963年・1966年・1967年)
開館年 : 1959年12月26日
閉館年 : 1967年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「みなみ東映」。1966年・1967年の映画館名簿では「鹿児島みなみ東映劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。

1959年12月26日、鹿児島市塩屋町に「みなみ東映」が開館した。木造2階建て。定員300人。系統は東映と日活の二番。経営は鹿児島興行。支配人は吉井義照。*10
銀座映劇/日活銀座/鹿児島日活劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市山之口町5(1956年・1957年・1958年・1960年・1963年)、鹿児島県鹿児島市千日町15-15(1966年・1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1971年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「銀座映劇」。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「日活銀座」。1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「鹿児島日活劇場」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。

1961年3月23日午後6時20分頃、鹿児島市山之口町5の「日活銀座」から出火し、「日東映画劇場」など3棟が全焼した。観客に怪我人はなかった。*11

1961年4月22日、鹿児島市山之口町5の「日活銀座」が仮劇場で営業を再開した。3月23日に焼失していた。5月には本劇場の工事に着工し、秋に完成予定。館主は宇都ソメ。同じく宇都ソメが経営する「新東宝銀座」はニュー東映封切館に転向して「銀座劇場」に改称した。*12

1963年9月1日、鹿児島市の日活系封切館「鹿児島日活銀座」を日活が賃借契約し、直営として「鹿児島日活」に改称した。経営は傍系の太陽企業。*13
日本劇場(武町)/鹿児島日劇東映劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市武町299(1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1971年・1972年)
開館年 : 1959年2月28日
閉館年 : 1972年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「日本劇場」。1966年・1969年・1970年・1971年・1972年の映画館名簿では「鹿児島日劇東映劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1959年2月28日、鹿児島市武町に「日本劇場」が開館した。西鹿児島駅前にあり、鹿児島興行の直営。工費1500万円。オープニング作品は『嵐を呼ぶ友情』と『雪女の足跡』。建坪3960平方メートル、木造2階建て、客席定員350。系統は邦画および洋画の再映。*14
ナポリ座/鹿児島ナポリ座
所在地 : 鹿児島県鹿児島市山之口町121(1959年・1960年・1963年)、鹿児島県鹿児島市山之口町8-20(1966年・1969年・1970年)、鹿児島県鹿児島市山之口町7-40(1971年・1972年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1972年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「ナポリ座」。1966年・1969年・1970年・1971年・1972年の映画館名簿では「鹿児島ナポリ座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1961年5月3日、鹿児島市山之口町121の洋画再映館「ナポリ座」が洋画封切館に転向した。鹿児島市の洋画封切館はナポリ座と「文化劇場」の2館となった。経営は塩津富士男。*15
セントラル映劇/セントラル映画劇場/東映センター/鹿児島東映センター劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市東千石町(1947年)、鹿児島県鹿児島市東千石町65(1953年・1955年)、鹿児島県鹿児島市東千石町63(1958年)、鹿児島県鹿児島市東千石町65(1960年・1963年)、鹿児島県鹿児島市東千石町9-2(1966年・1969年)
開館年 : 1946年10月17日
閉館年 : 1970年7月26日
『全国映画館総覧 1955』によると1946年11月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「セントラル映画劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「セントラル映劇」。1955年・1958年の映画館名簿では「セントラル映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「東映センター」。1966年・1969年の映画館名簿では「鹿児島東映センター劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「セントラルビル」。
天文館劇場/鹿児島天文館劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市船津町52(1960年・1963年)、鹿児島県鹿児島市千日町12-23(1966年・1969年)
開館年 : 1959年9月1日
閉館年 : 1971年1月31日
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「天文館劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「鹿児島天文館劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
日本劇場/鹿児島東映/鹿児島東映劇場(旧)
所在地 : 鹿児島県鹿児島市山之口町6(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、鹿児島県鹿児島市千日町7-4(1966年・1969年)
開館年 : 1950年3月31日(日本劇場)、1955年1月1日(鹿児島東映)、1962年3月15日(ビル化)
閉館年 : 1972年7月13日(移転)
『全国映画館総覧 1955』によると1950年4月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「日本劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「鹿児島東映」。1966年・1969年の映画館名簿では「鹿児島東映劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「がちゃぽん天文館千日店」建物北東部。

東映は直営館を50館まで増やす積極方針を掲げている。1957年4月下旬現在、東映の直営館は北海道2館、関東16館、中部4館、関西6館、九州4館の32館だった。その後、1957年5月1日には「福島東映」が、7月23日には「琴似東映」が、8月14日には「松江東映」が、9月30日には「迫川東映」が、10月1日には「松山東映」が、10月28日には「鹿児島東映」が開館した。12月3日には「静岡東映」「静岡東映パラス」が、12月27日には「函館東映」が開館予定であり、1957年内に40館を超える。*16

1961年のこのほど、鹿児島興行株式会社は既存の「鹿児島東映劇場」を取り壊して「東映会館」を新築する工事に着手した。1961年12月完成予定。東映会館は地下1階・地上3階建て、鉄筋コンクリート造、延面積2000平方メートル。総工費は1億円。地下と1階が650席を有するワンスロープ式の劇場となり、2階と3階はキャバレーや名店街が入る。南九州一の総合娯楽センターとなる。*17

1961年11月18日、東映の直営館「鹿児島東映」が改築された。*18

東映の直営館を見ると、1972年12月に「金沢東映パラス」と「横浜東映」と「盛岡東映パラス」が開館し、1973年3月に「小倉東映パラス」と「黒崎東映パラス」が開館し、5月に「新宿名画座」が開館し、6月に「福岡グランド」と「浅草名画座」が開館し、7月に「富山東映パラス」が開館した。1972年7月には「鹿児島東映」が閉館し、1973年1月には「岩見沢東映」が閉館し、2月には「八幡東映」が閉館し、3月には「関西東映・関西小劇場」が閉館した。*19
銀映座/銀映座・銀座劇場/東宝銀映座・新東宝銀座/鹿児島東宝銀映座・鹿児島銀座劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市天文館通り(1947年)、鹿児島県鹿児島市山之口町(1950年)、鹿児島県鹿児島市山之口町5(1953年・1955年)、鹿児島県鹿児島市山之口町5、山之口町5-1(1958年)、鹿児島県鹿児島市山之口町5(1960年・1963年)、鹿児島県鹿児島市千日町14-28(1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1946年10月15日
閉館年 : 1974年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年9月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「東宝銀映座」。1950年の映画館名簿では「東宝銀映座・銀座屋映画劇場」(2館)。1953年の映画館名簿では「銀映座・銀座映劇」(2館)。1955年の映画館名簿では「銀映座・銀座劇場」(2館)。1958年・1960年の映画館名簿では「東宝銀映座・新東宝銀座」(2館)。1963年の映画館名簿では「銀映座・銀座シネマ・銀座劇場」(3館)。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「鹿児島東宝銀映座・鹿児島銀座劇場」(2館)。後継館は鹿児島銀座劇場・鹿児島東宝銀映・鹿児島スカラ座。跡地は「リッチモンドホテル鹿児島天文館」。最寄駅は鹿児島市電天文館通駅。

1961年12月1日、東宝の直営館「鹿児島銀映」が直営契約を解約された。*20
鹿児島南国ショー劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市山之口町7-3(1973年)
開館年 : 1970年8月1日
閉館年 : 1974年11月20日
1969年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の映画館名簿では「鹿児島南国ショー劇場」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。
上町東映(新)/鹿児島上町東映劇場(新)
所在地 : 鹿児島県鹿児島市恵美須町48(1959年)、鹿児島県鹿児島市小川町72(1960年)、鹿児島県鹿児島市小川町73(1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1977年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1977年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「上町東映」。1966年・1969年・1973年・1975年・1977年の映画館名簿では「鹿児島上町東映劇場」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。
鹿児島大劇/鹿児島大劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市山之口町87(1958年・1960年・1963年)、鹿児島県鹿児島市山之口町8-30(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年)
開館年 : 1956年10月8日
閉館年 : 1979年6月27日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「鹿児島大劇」。1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「鹿児島大劇場」。1975年の映画館名簿では「鹿児島大劇」。1978年の映画館名簿では「鹿児島大劇場」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。
南映劇場/鹿児島南映劇場/鹿児島日活南映劇場/鹿児島にっかつ南映/鹿児島南映(旧)
所在地 : 鹿児島県鹿児島市山之口町99(1958年・1960年・1963年)、鹿児島県鹿児島市山之口町7-13(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1984年・1985年)
開館年 : 1956年7月3日
閉館年 : 1984年2月29日(移転)
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「南映劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「鹿児島南映劇場」。1978年の映画館名簿では「鹿児島日活南映」。1980年の映画館名簿では「鹿児島日活南映劇場」。1982年の映画館名簿では「鹿児島にっかつ南映」。1984年・1985年の映画館名簿では「鹿児島南映」。1984年の映画館名簿では経営会社が記載なし、経営者が宮内政一、支配人が政池五男、鉄筋造2階、200席、成人映画を上映。後継館は鹿児島南映キネマ。跡地は「南映ビル」。最寄駅は鹿児島市電天文館通駅。
鹿児島南映キネマ(新)
所在地 : 鹿児島県鹿児島市千日町13-16(1986年)、鹿児島県鹿児島市千日町3-16(1987年)
開館年 : 1984年3月1日(移転)
閉館年 : 1987年9月30日
前身館は鹿児島南映。1986年・1987年の映画館名簿では「鹿児島南映キネマ」。1986年の映画館名簿では経営会社が宮内商事、経営者が宮内政一、支配人が記載なし、鉄筋造2階、30席、成人映画を上映。1987年の映画館名簿では経営会社が宮内商事、経営者が宮内政一、支配人が記載なし、鉄筋造地下、27席、成人映画を上映。1988年の映画館名簿には掲載されていない。
第一映画劇場/松竹第一映画劇場/松竹第一映劇/鹿児島松竹第一映劇(旧)
所在地 : 鹿児島県鹿児島市東千石町(1943年・1947年・1950年)、鹿児島県鹿児島市東千石町66(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、鹿児島県鹿児島市東千石町1-24(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年)
開館年 : 1946年9月
閉館年 : 1978年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年9月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「第一映画劇場」。1947年の映画館名簿では「鹿児島第一映画劇場」。1950年の映画館名簿では「第一映画劇場」。1953年の映画館名簿では「第一映劇」。1955年の映画館名簿では「第一映画劇場」。1958年の映画館名簿では「松竹第一映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「松竹第一映劇」。1966年の映画館名簿では「鹿児島松竹第一映画劇場」。1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「鹿児島松竹第一映劇」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「セイワ文化ビル」。
高島映画劇場/大映高島映劇/高島映劇/鹿児島大映高島劇場/鹿児島松竹高島劇場
所在地 : 鹿児島県鹿児島市山之口町16(1950年)、鹿児島県鹿児島市山之口町4(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、鹿児島県鹿児島市千日町15-24(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年)
開館年 : 1947年7月
閉館年 : 1987年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年7月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「高島映画劇場」。1953年の映画館名簿では「高島映劇」。1955年の映画館名簿では「高島映画劇場」。1958年の映画館名簿では「大映高島映画劇場」。1960年の映画館名簿では「大映高島映劇」。1963年の映画館名簿では「高島映劇」。1966年・1969年の映画館名簿では「鹿児島大映高島劇場」。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「鹿児島松竹高島劇場」。後継館は鹿児島ピカデリー・鹿児島松竹高島。跡地はカラオケ店「コロッケ倶楽部鹿児島天文館店」などが入る「高島ビル」。最寄駅は鹿児島市電天文館通駅。

1954年の鹿児島市にあった「高島劇場」の写真あり。『続々十代の性典』の看板が見える。*21

1956年の鹿児島市にあった「大映高島映画劇場」の写真あり。「大映封切劇場」の文字が見える。同年の大映作品『滝の白糸』を上映している。*22

1963年2月2日、鹿児島市山之口町の「大映高島映劇」は大映興行の直営館となった。オープニングは『温泉芸者』と『陽気な殿様』の二本立。大映興行と館主の上原三郎が賃借契約を結んだ。*23

1963年2月3日、「大映高島」が契約開館した。*24
鹿児島文化劇場/鹿児島文化劇場・鹿児島文化シネマ
所在地 : 鹿児島県鹿児島市千日町5-6(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1988年)
開館年 : 1963年12月20日
閉館年 : 1988年頃
前身館は文化劇場。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「鹿児島文化劇場」。1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「鹿児島文化劇場・鹿児島文化シネマ」(2館)。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はネットカフェ「快活CLUB天文館通り店」などが入る「シネシティ文化ビル」。最寄駅は鹿児島市電天文館通駅。

1963年12月20日、鹿児島市の「鹿児島文化劇場」が全面改築を終えて再発足した。鉄筋造4階建て。1階はパチンコ店、2階と3階は定員500人の映画館、4階は映写室と従業員休憩室。ロビーはテレビとステレオを備えている。経営は福岡市の有楽興行。*25

福岡県の有楽興行は鹿児島県に進出し、1957年9月に富士館を文化劇場と改称して鹿児島の拠点とした。1959年に劇場を新築し、鹿児島市の洋画館として初めて冷房設備を設置した。文化劇場・銀座シネマ・銀座劇場の洋画上映館3館は提携して番組編成を行っており、文化劇場はその要となった。1988年9月には約10億円を投じた地上7階・地下1階のシネシティビルが千日町天文館通りに完成し、4スクリーンの複合映画館「シネシティ文化」が開館。厳密にはシネコンの定義には当てはまらない。1990年6月には5スクリーンに増やし、2003年12月には6スクリーンに増やした。2004年にミッテ10が開館したことなどが理由で、2006年6月5日から休館し、10月7日には営業再開の断念を決定した。*26
第一小劇/第一小劇場/鹿児島第一小劇場/鹿児島松竹第一映劇(新)
所在地 : 鹿児島県鹿児島市千石町(1950年)、鹿児島県鹿児島市東千石町65(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年)、鹿児島県鹿児島市東千石町10-10(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年)
開館年 : 1948年9月、1959年12月26日(建て替え)
閉館年 : 1988年9月5日
『全国映画館総覧 1955』によると1948年9月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「第一小劇場」。1953年の映画館名簿では「第一小劇」。1955年・1958年の映画館名簿では「第一小劇場」。1959年10月焼失。1960年・1963年の映画館名簿では「第一小劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「鹿児島第一小劇場」。1980年・1985年の映画館名簿では「鹿児島松竹第一映劇」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。

1959年10月18日午後7時頃、鹿児島市東千石町の「鹿児島第一小劇場」舞台付近から出火し、同館413平方メートルが全焼した。2人から3人の軽症者が出た。損害額と原因は調査中。定員600人。経営は上原三郎。*27

1959年10月18日、鹿児島市東千石町の「第一小劇場」が全焼した。原因は漏電。*28

1959年12月26日、鹿児島市東千石町65に「第一小劇場が再建されて開館した。松竹と大映の再映館。10月18日に焼失していた。館主は上原三郎。*29
鹿児島有楽座/鹿児島有楽座・鹿児島ロマン劇場/鹿児島有楽座・鹿児島にっかつ/鹿児島有楽座・ロッポニカ鹿児島
所在地 : 鹿児島県鹿児島市山之口町11-1(1969年・1973年)、鹿児島県鹿児島市山之口町1-16(1975年)、鹿児島県鹿児島市山之口町11-1(1978年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1965年8月7日(有楽座)、1972年4月29日(地下館)
閉館年 : 1990年5月31日(地下館)、1990年8月31日(完全閉館)
1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の映画館名簿では「鹿児島有楽座」。1973年・1975年の映画館名簿では「鹿児島有楽座・鹿児島ロマン劇場」(2館)。1978年の映画館名簿では「鹿児島有楽座・鹿児島ロマン映劇」(2館)。1980年の映画館名簿では「鹿児島有楽座・鹿児島ロマン劇場」(2館)。1985年の映画館名簿では「鹿児島有楽座・鹿児島にっかつ」(2館)。1990年の映画館名簿では「鹿児島有楽座・鹿児島ロマン」(2館)。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「有楽ビル」。最寄駅は鹿児島市電天文館通駅。
鹿児島文化プラザ120・鹿児島文化プラザ80
所在地 : 鹿児島県鹿児島市東千石町2-12(1986年・1988年・1990年・1992年)、鹿児島県鹿児島市千石町2-12(1993年)
開館年 : 1985年頃
閉館年 : 1993年頃
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1986年・1988年・1990年・1992年・1993年の映画館名簿では「鹿児島文化プラザ120・鹿児島文化プラザ80」(2館)。1993年の映画館名簿では経営会社が有楽興行、経営者が野中康宏、支配人が梶川福弥也、いずれも鉄筋造1階、120席で洋画を上映、80席で洋画を上映。1994年の映画館名簿には掲載されていない。
名画座/鹿児島名画座・鹿児島第二名画座/鹿児島名画座
所在地 : 鹿児島県鹿児島市上荒田町(1958年)、鹿児島県鹿児島市上荒田町2134(1960年)、鹿児島県鹿児島市上荒町2124(1963年)、鹿児島県鹿児島市上荒田町2134(1966年・1969年・1973年・1975年)、鹿児島県鹿児島市下荒田町3-27-20(1978年・1980年)、鹿児島県鹿児島市下荒田町(1985年)、鹿児島県鹿児島市下荒田3-27-20(1990年・1995年・1996年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1996年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「鹿児島名画座」。1960年・1963年の映画館名簿では「名画座」。1966年の映画館名簿では「鹿児島名画座」。1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「鹿児島名画座・鹿児島第二名画座」(2館)。1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・1996年の映画館名簿では「鹿児島名画座」。1997年の映画館名簿には掲載されていない。
鹿児島東映劇場(新)
所在地 : 鹿児島県鹿児島市千日町13-24(1975年・1978年・1980年・1990年・1995年・2000年・2002年・2004年)
開館年 : 1973年8月3日(移転)
閉館年 : 2004年9月16日
1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年・2004年の映画館名簿では「鹿児島東映劇場」。2002年の映画館名簿では経営会社が東映、経営者が高岩淡、支配人が日下部保雄、鉄筋造2階、238席、東映を上映。2004年の映画館名簿では経営会社が東映映画興行、経営者が長谷川貞雄、支配人が奥田宏、鉄筋造2階、238席、東映を上映。2005年の映画館名簿には掲載されていない。ホテルニューニシノ1階。建物の「ホテルニューニシノ」は現存。最寄駅は鹿児島市電天文館通駅。

1962年3月15日に東映会館が開館。鉄筋コンクリート造1790m2。地上3階・地下1階建。地下1階と1階が映画館。2階と3階はキャバレーエンパイア。2004年9月16日には閉館。東映九州最後の直営館だった。翌日の9月17日には西鹿児島駅前に鹿児島ミッテ10が開館している。
鹿児島松竹高島・鹿児島ピカデリー/鹿児島松竹タカシマ1・2・3
所在地 : 鹿児島県鹿児島市千日町15-24(1990年・1995年・2000年・2002年・2005年)
開館年 : 1987年4月25日
閉館年 : 2005年5月5日
前身館は鹿児島松竹高島劇場。1988年の映画館名簿では「鹿児島ピカデリー・鹿児島松竹高島劇場」(2館)。1988年の映画館名簿では経営会社が西日本松竹興行、経営者が佐原信一、支配人が藤貴久男、鹿児島ピカデリーが鉄筋造1階で300席で洋画を上映、鹿児島松竹高島劇場が鉄筋造3階で250席で松竹を上映。1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「鹿児島ピカデリー・鹿児島松竹高島」(2館)。2002年・2005年の映画館名簿では「鹿児島松竹タカシマ1・2・3」(3館)。2002年の映画館名簿では経営会社が西日本松竹興行、経営者が野田助嗣、支配人が佐藤光一、1が鉄筋造2階で280席、2が鉄筋造4階で238席、3が鉄筋造3階で45席、いずれも洋画を上映。2006年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はカラオケ店「コロッケ倶楽部鹿児島天文館店」などが入る「高島ビル」。最寄駅は鹿児島市電天文館通駅。

2000年8月12日、「鹿児島ピカデリー」と「鹿児島松竹高島」を「鹿児島松竹タカシマ1・2」に改称し、新たに「鹿児島松竹タカシマ3」が開館した。*30

1987年4月25日に開館。2階がピカデリー、4階が松竹高島劇場。2000年8月には松竹高島劇場が3スクリーンの鹿児島松竹タカシマに。2005年5月5日に閉館した。*31
鹿児島シネシティ文化
所在地 : 鹿児島県鹿児島市千日町5-6(1989年・1990年・1992年・1995年・2000年・2005年・2006年)
開館年 : 1988年7月23日(建て替え)
閉館年 : 2006年6月5日
前身館は鹿児島文化劇場・鹿児島文化シネマ。1989年・1990年の映画館名簿では「鹿児島シネシティ文化1-4」(4館)。1992年・1995年・2000年の映画館名簿では「鹿児島シネシティ文化1-5」(5館)。2005年・2006年の映画館名簿では「鹿児島シネシティ文化1-6」(6館)。2006年の映画館名簿では経営会社が有楽興行、経営者が野中康宏、支配人が石橋正則。2007年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はネットカフェ「快活CLUB天文館通り店」などが入る「シネシティ文化ビル」。最寄駅は鹿児島市電天文館通駅。

1963年9月14日から、鹿児島市の「鹿児島文化映劇」が休館する。全面改築を行い、12月下旬に新装開館する予定。*32

1963年12月20日、鹿児島市の「鹿児島文化劇場」が全面改築を終えて再発足した。鉄筋造4階建て。1階はパチンコ店、2階と3階は定員500人の映画館、4階は映写室と従業員休憩室。ロビーはテレビとステレオを備えている。経営は福岡市の有楽興行。*33

2006年6月5日をもって、鹿児島市の天文館地区にある映画館「シネシティ文化」が休館する。6スクリーン計約830席を有し、2004年にシネコン「鹿児島ミッテ10」が開館するまでは鹿児島県最大の映画館だった。6月5日にはさようなら興行を開催し、1作品のみ1000円で上映した。7月から8月にも特別興行が予定されている。天文館地区で唯一となる「鹿児島東宝」も10月の閉館が決定している。*34

2006年6月5日をもって、鹿児島市の天文館地区にある映画館「シネシティ文化」が休館した。2004年9月に鹿児島市中央町のアミュプラザに開館したシネコン「鹿児島ミッテ10」の影響で観客数が減少したため。シネシティ文化や鹿児島ミッテ10を経営する有楽興業によると、7月か8月に特別興行を行う予定。1957年に「鹿児島文化劇場」として開館した。6スクリーン計833席を有し、鹿児島ミッテ10が開館するまで鹿児島県最大の映画館だった。*35

2006年8月26日、鹿児島市千日町の映画館「シネシティ文化」跡地でフォーラム「鹿児島の映画文化を考える」が開催された。鹿児島市芸術文化協会とNPO法人かごしまアートネットワークが主催した。6月にはシネシティ文化が休館しており、10月には千日町の「鹿児島東宝」が閉館する予定。*36

福岡県の有楽興行は鹿児島県に進出し、1957年9月に富士館を文化劇場と改称して鹿児島の拠点とした。1959年に劇場を新築し、鹿児島市の洋画館として初めて冷房設備を設置した。文化劇場・銀座シネマ・銀座劇場の洋画上映館3館は提携して番組編成を行っており、文化劇場はその要となった。1988年9月には約10億円を投じた地上7階・地下1階のシネシティビルが千日町天文館通りに完成し、4スクリーンの複合映画館「シネシティ文化」が開館。厳密にはシネコンの定義には当てはまらない。1990年6月には5スクリーンに増やし、2003年12月には6スクリーンに増やした。2004年にミッテ10が開館したことなどが理由で、2006年6月5日から休館し、10月7日には営業再開の断念を決定した。*37
鹿児島銀座劇場・鹿児島東宝銀映・鹿児島東宝スカラ座/鹿児島東宝1・2・3
所在地 : 鹿児島県鹿児島市千日町14-28(1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2006年)
開館年 : 1974年8月3日(建て替え)、1995年7月1日(鹿児島東宝)
閉館年 : 2006年10月11日
前身館は鹿児島東宝銀映座・鹿児島銀座劇場。1975年・1978年の映画館名簿では「鹿児島銀座劇場・鹿児島東宝銀映・鹿児島スカラ座」(3館)。1980年・1985年の映画館名簿では「鹿児島銀座劇場・鹿児島東宝銀映・鹿児島東宝スカラ座」(3館)。1990年の映画館名簿では「鹿児島銀座劇場・鹿児島東宝銀座・鹿児島東宝スカラ座」(3館)。1995年の映画館名簿では「鹿児島銀座劇場・鹿児島東宝銀映・鹿児島東宝スカラ座」(3館)。2000年・2005年・2006年の映画館名簿では「鹿児島東宝1・2・3」(3館)。2006年の映画館名簿では経営会社が九州東宝、経営者が倉知英一、支配人が徳永伸一、1が鉄筋造地下で300席で洋画を上映、2が鉄筋造4階で249席で東宝を上映、3が鉄筋造3階で101席で洋画を上映。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「リッチモンドホテル鹿児島天文館」。最寄駅は鹿児島市電天文館通駅。

1960年3月1日、鹿児島市山之口町の「新東宝銀座」は新東宝封切館と第二東映上映館に転向した。経営は宇都そめ。*38

1995年7月15日、鹿児島市千日町14-28に101席の「鹿児島東宝3」が開館した。オープニングは『ダイ・ハード3』。これまでの鹿児島銀映座が300席の「鹿児島東宝1」に改称し、鹿児島スカラ座が249席の「鹿児島東宝2」に改称した。*39

鹿児島市千日町にある映画館「鹿児島東宝」は3スクリーン計650席を有する。1974年に建物が完成した。受付にはスナック菓子・ポップコーン・パンフレットが並ぶガラスケースがある。*40

2006年10月、鹿児島市の天文館地区にある映画館「鹿児島東宝」が閉館する予定である。10月には与次郎地区のジャングルパーク跡地に10スクリーンの複合映画館が開館する予定であり、移転という形になる。3スクリーン計650席を有している。*41

2006年10月11日には鹿児島市の映画館「鹿児島東宝」が閉館し、南九州随一の繁華街である天文館から映画館が姿を消す。天文館には1911年に常設映画館が開館し、最盛期には16の映画館がひしめいていた。2年前の時点ではシネシティ(6スクリーン)、鹿児島東映、松竹タカシマ(3スクリーン)、鹿児島東宝(3スクリーン)の4館計13スクリーンが営業していたが、JR鹿児島中央駅前のアミュプラザに開館したシネコン「鹿児島ミッテ10」の影響は大きく、まずは鹿児島東映と松竹タカシマが閉館し、2006年6月には天文館にある6スクリーンの映画館「シネシティ文化」も閉館していた。2006年10月14日には郊外に10スクリーンのTOHOシネマズ与次郎が開館するため、鹿児島東宝の閉館が決定した。*42

2006年10月11日の『南日本新聞』には「鹿児島東宝」がこの日限りで閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*43

2006年10月11日をもって、鹿児島市の天文館地区にある映画館「鹿児島東宝」が休館した。天文館で最後の映画館だった。*44

2006年10月11日をもって鹿児島市最大の繁華街である天文館地区にある映画館「鹿児島東宝」が閉館した。特別なセレモニーなどは行われなかった。1960年代初頭の鹿児島市には26館の映画館があり、うち16館が天文館地区に集中していた。1974年には「銀映座」から改称して鹿児島東宝が開館し、3スクリーンを有していた。2004年に鹿児島中央駅の駅ビルにシネコンが開館すると、「シネシティ文化」などが相次いで閉館し、鹿児島東宝が唯一の映画館となっていた。10月14日には与次郎地区に九州東宝のシネコンが開館するため、これに合わせて閉館が決定した。*45

2006年10月12日の『南日本新聞』には「鹿児島東宝」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*46

1995年には東宝銀座が3スクリーンの鹿児島東宝に。鹿児島東宝は2004年10月14日をもって閉館。翌日には鹿児島市郊外にTOHOシネマズ与次郎が開館している。*47
鹿児島旭シネマ
所在地 : 鹿児島県鹿児島市中央町20-12(1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2016年・2017年)
開館年 : 1977年2月
閉館年 : 2017年9月30日
1975年の映画館名簿には掲載されていない。1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2016年・2017年の映画館名簿では「鹿児島旭シネマ」。2017年の映画館名簿では経営会社が有限会社永田商会、経営者・支配人ともに永田清、34席。2018年の映画館名簿には掲載されていない。晩年は鹿児島県唯一の成人映画館。最寄駅はJR鹿児島中央駅。

1977年2月、上町東映の経営者は西鹿児島駅周辺の平和通り(ベル通り)に西駅旭シネマを開館させた。西鹿児島駅周辺では久々の映画館だった。*48
鹿児島ミッテ10
所在地 : 鹿児島県鹿児島市中央町1-1 アミュプラザ鹿児島6階(2005年・2008年・2010年・2012年・2015年・2020年)
開館年 : 2004年9月17日
閉館年 : 営業中
2004年の映画館名簿には掲載されていない。2005年・2008年・2010年の映画館名簿では「鹿児島ミッテ10 1-10」(10館)。2008年の映画館名簿では経営会社がティ・ジョイシネシティ鹿児島、経営者が野中康弘、支配人が石橋正則、鉄筋造6階。2012年・2015年・2020年の映画館名簿では「鹿児島ミッテ10 シアター1-10」(10館)。最寄駅はJR鹿児島中央駅。

2004年9月17日、鹿児島市の鹿児島中央駅ビル「アミュプラザ鹿児島」6階にシネコン「ミッテ10」が開館する予定。10スクリーン計1922席を有し、鹿児島県では初めて全席指定の映画館となる。経営はティ・ジョイ シネシティ鹿児島。東映系のティ・ジョイと鹿児島市でシネシティ文化を経営する有楽興業が出資している。九州における東映系のシネコンは大分市と北九州市に次いで3サイト目である。最大のスクリーンは縦14m8メートル×横6.1メートル。*49

2004年9月15日、鹿児島市の鹿児島中央駅ビル6階に完成したシネコン「ミッテ10」の内覧会が開催され、父親が鹿児島出身だという女優の吉永小百合が訪れた。10スクリーン計1922席を有し、鹿児島県では初めて全席指定の映画館となる。*50

2004年3月には九州新幹線の新八代駅=鹿児島中央駅間が開業。同年9月には鹿児島中央駅ビルに隣接して複合商業施設「アミュプラザ鹿児島」が開業し、6階にシネコン「鹿児島ミッテ10」が開館。10スクリーン計1922席。東映の子会社と有楽興行の合弁会社が運営。*51
TOHOシネマズ与次郎
所在地 : 鹿児島県鹿児島市与次郎1-11-1(2008年・2010年)、鹿児島県鹿児島市与次郎1-11-1 フレスポジャングルパーク2階(2015年)、鹿児島県鹿児島市与次郎1-11-1(2020年)
開館年 : 2006年10月14日
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2008年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズ与次郎1-10」(10館)。最寄駅は鹿児島市電谷山線荒田八幡停留場。
ガーデンズシネマ
所在地 : 鹿児島県鹿児島市呉服町6-5 マルヤガーデンズ7階(2012年・2015年・2020年)
開館年 : 2010年4月4日
閉館年 : 営業中
Wikipedia : ガーデンズシネマ
2011年の映画館名簿には掲載されていない。2012年・2015年・2020年の映画館名簿では「ガーデンズシネマ」。2012年の映画館名簿では経営会社が一般社団法人鹿児島コミュニティシネマ、経営者・支配人ともに黒岩美智子、鉄筋造7階、39席、邦画・洋画を上映。最寄駅は鹿児島市電いづろ通停留場。
天文館シネマパラダイス
所在地 : 鹿児島県鹿児島市東千石町19-1 LAZO表参道3階(2013年・2015年・2020年)
開館年 : 2012年5月3日
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 天文館シネマパラダイス
2012年の映画館名簿には掲載されていない。2013年・2015年・2020年の映画館名簿では「天文館シネマパラダイス1-7」(7館)。2013年の映画館名簿では経営会社が株式会社天文館、経営者が有馬勝正、支配人が篠原将仁、鉄筋造3階。最寄駅は鹿児島市電いづろ通停留場。

旧谷山市

谷山座/谷山座映画劇場/谷山座映劇
所在地 : 鹿児島県鹿児島郡谷山町上福元4837(1953年)、鹿児島県鹿児島郡谷山町上福元(1955年)、鹿児島県鹿児島郡谷山町(1957年)、鹿児島県鹿児島郡谷山町松崎(1958年)、鹿児島県谷山市上福元4837(1960年)、鹿児島県谷山市上福元町4837(1963年)
開館年 : 1926年2月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1926年2月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「谷山座映劇」。1955年の映画館名簿では「谷山座」。1957年・1958年の映画館名簿では「谷山座映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「谷山座映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
谷山東映
所在地 : 鹿児島県鹿児島郡谷山町(1958年)、鹿児島県谷山市上福元4119(1960年)、鹿児島県谷山市上福元町429(1963年)、鹿児島県谷山市上福元町4119(1965年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1965年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「谷山東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。経営者は俳優の島津雅彦の父。

このページへのコメント

なかなか興味深い題材で、しかも全国津々浦々の映画館を調べられたのには、感服します。
鹿児島市草牟田にあった朝日映劇
所在地 : 鹿児島県鹿児島市草牟田町448(1960年)
ですが、覚えております。私の母は、サザエさんが好きで、「サザエさんを映っている。見に行こう」。と半ば強引に連れて行かれた記憶があります。小学校1年か幼稚園だったので、1960年から63年と、年代は一致しております。

そこで、サザエさんと同時上映していたのが、韓国の戦争映画だったと思います。御HPで朝日映劇を思い出し検索してみると、「赤いマフラー」という空中戦の映画のようです。ところが、「赤いマフラー」は、制作年代が1964年で、日本公開は1966年となっていて、朝日映劇の開館時期1960年から63年とは矛盾します。サザエさんを見たときに、母が「あれは朝鮮の映画だよ」。と言っていたのを覚えていますので、サザエさんと同時に見たのは間違いないと思います。しかも、どちらもカラーでしたから猶更です。

1964年以降は、怪獣映画が主で、見るにしても天文館の映画館で、同時上映も覚えていますから、「赤いマフラー」を見たとは考えにくい。

幼少期の古い記憶なので、記憶違いもありえます。調べる方法がありましたら、教えていただければ幸いです。例えば、朝日映劇の上映一覧が記載された資料とか、教えていただければ幸いです。

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Posted by 植之原 雄二 2022年10月04日(火) 11:21:16 返信

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