日本の映画館の総合データベースです。


松阪市

松阪市の映画館
1938年の松阪には、映画館として「アサヒ館」(湊町)、「トモエ座」(日野町2丁目)、「神楽座」(愛宕町)の3館、劇場として「松阪劇場」(本町)の1館があった。*1

近頃は松阪市内にある3つの常設映画館の観客数が増加しており、1940年の松阪市内の映画館欄人員は80万人となった。*2

1973年の商工名鑑には、「アサヒ興業」、「近代興業劇場/近代興業近劇コニー」、「巴映画」が掲載されている。アサヒ興業の所在地は湊町158。近代興業劇場/近代興業近劇コニーの所在地は日野町697。巴映画の所在地は京町9。*3

1981年の商工名鑑には、「アサヒ興業」、「近代興業」、「巴映画」が掲載されている。アサヒ興業の所在地は湊町158、資本金は100万円、従業員は4人、1948年設立。近代興業劇場/近代興業近劇コニーの所在地は日野町14 ベルタウン2階、資本金は300万円、従業員は8人、1955年設立。巴映画の所在地は京町9、資本金は80万円、従業員は7人、1954年設立。*4

1986年の商工名鑑には、「アサヒ興業」、「近代興業」、「巴映画」が掲載されている。アサヒ興業の所在地は湊町153、資本金は100万円、従業員は4人、1935年設立。近代興業劇場/近代興業近劇コニーの所在地は日野町14 ベルタウン2階、資本金は300万円、従業員は6人、1955年設立。巴映画の所在地は京町9、資本金は80万円、従業員は7人、1954年設立。*5
神楽座
所在地 : 三重県飯高郡松阪町(1925年)、三重県飯高郡松阪町愛宕町(1927年)、三重県飯高郡松阪町(1930年)、三重県松阪市愛宕町(1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1949年・1950年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1950年以後1953年以前
1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1949年・1950年の映画館名簿では「神楽座」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。

1950富田劇場(東富田町)、中央劇場(日野町)
松阪中央劇場/中央劇場
所在地 : 三重県松阪市駅前通り(1949年)、三重県松阪市日野町松信ビル3階(1950年)、三重県松阪市日野町(1953年)
開館年 : 1947年1月
閉館年 : 1954年
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年の映画館名簿では「中央劇場」。1950年の映画館名簿では「松阪中央劇場」。1953年の映画館名簿では「中央劇場」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。

1947年1月、松阪市日野町の角の松信ビル3階に洋画専門館「中央劇場」が開館した。松阪信用組合の直営であり、社員の田中正之が支配人となった。アメリカ映画ブームの時期であり、津市や伊勢市からも観客がやって来た。文化評論家の春山行夫を招いて「アメリカ映画 話の泉」を開催したり、庄司桂一松阪市長を賛助会員として松阪アメリカ映画文化協会を設立するなどしている。松阪信用組合がビルを改築することとなり、中央劇場は1954年に閉館した。*6
粥見劇場
所在地 : 三重県飯南郡飯南町粥見(1957年・1958年・1960年・1961年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1961年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年の映画館名簿では「粥見劇場」。1961年の映画館名簿では経営者が飯南町、支配人が町長、木造2階、定員が記載なし、邦画を上映。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
松阪座/松阪東映松阪劇場/松阪劇場
所在地 : 三重県松阪市本町(1953年)、三重県松阪市本町60(1955年)、三重県松阪市本町2107(1958年)、三重県松阪市本町(1960年・1963年)
開館年 : 1914年(松阪座)、1952年7月(松阪劇場)
閉館年 : 1963年1月末
『全国映画館総覧 1955』によると1952年7月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「松阪劇場」。1958年の映画館名簿では「松阪東映松阪劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「松阪劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1975年のゼンリン住宅地図では跡地に「新日本工業駐車場」。跡地は「ローソン松阪本町店」。最寄駅はJR紀勢本線・近鉄山田線松阪駅。

1963年1月末をもって、松阪市本町の東映封切館「松阪劇場」が閉館した。スーパーマーケットに転業するため。経営は後藤修。2月中旬から改装に入り、3月中旬にスーパーマーケットが開店する予定。東映作品は日活再映館「松劇スバル」で併映される。松阪劇場の閉館によって松阪市の映画館は8館となった。*7

1896年には本町に「相生座」が開館したが、1912年に焼失した。その跡地には1914年に松阪劇場株式会社が設立されて、芝居小屋の「松阪座」が開館した。芝居小屋でありながら映写室の設備もあった。1929年1月15日の夜には映写技師の不始末によって出火したが、観覧中の消防士らによって消火され、被害は劇映画のフィルム3巻を焼いただけだった。帝国キネマの直営館だった時代もあり、1935年7月には帝国キネマの新派悲劇『真珠婦人』や『海の彼方へ』を上映した。その後「松阪劇場」に改称し、戦後の1953年頃は大映専門館としてにぎわっていた。後に松阪市議会議長となる久保賢が支配人を務めた。*8

昭和30年代の松阪市にあった映画館「松劇」の前に並ぶ子供たちの写真あり。先生に引率された多気町立津田小学校の児童である。ディズニー製作のドキュメンタリー『砂漠は生きている』を鑑賞する。中村錦之助主演の『青春航路 海の若人』の看板も見える。*9
中映会館/中央会館/飯南中映会館
所在地 : 三重県飯南郡飯南町(1959年・1960年・1963年・1964年)、三重県飯南郡飯南町横野(1966年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1964年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「中映会館」。1963年・1964年の映画館名簿では「中央会館」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「飯南中映会館(休館)」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
紅葉座
所在地 : 三重県松阪市大字小片野(1957年・1958年)、三重県松阪市小片野町(1960年)、三重県松阪市小片野741(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年・1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「紅葉座」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに高橋平次、木造2階冷暖房付、定員418、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
マルキ会館
所在地 : 三重県松阪市東黒部580(1957年・1958年)、三重県松阪市東黒部(1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年・1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「マルキ会館」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに鈴木進、木造1階、定員300、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
スバル座/松阪スバル
所在地 : 三重県松阪市新町1(1953年)、三重県松阪市新町879(1955年・1958年)、三重県松阪市新町(1960年・1963年)、三重県松阪市新町879(1966年)
開館年 : 1952年7月? 1953年?
閉館年 : 1966年3月4日
『全国映画館総覧 1955』によると1952年7月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「スバル座」。1966年の映画館名簿では「松阪スバル」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1975年のゼンリン住宅地図では跡地に「ダイカイ配送センター」。跡地は「樹敬寺参拝者用駐車場」。最寄駅はJR紀勢本線・近鉄山田線松阪駅。

1953年、松阪市新町に「スバル座」が開館した。阪倉松二郎、後藤次郎らが出資し、「松阪劇場」の支配人である久保賢が移動して支配人となった。洋画・新東宝・東映などの作品を上映した。1966年3月4日に閉館した。*10

藤原無線電機の主人(70代?)。「スバル座は樹敬寺の参拝者用駐車場の場所にあった。木造平屋建ての小さな映画館であり、駐車場の新町通り側1/3くらいの面積しかなかった。私が小学生くらいまで営業していた。かつては理容モリシタ萬平の建物の場所がスバル座に向かう通路となっており、両側に上映作品の看板などがあった。現在の新町通りは2車線の道路だが、昔は1車線で一方通行の道路だった。拡幅工事を行ったため通路も短くなった」
いすず会館/いすず開館南劇場・いすず会館東劇場/松阪松竹映画劇場・いすず会館東劇/いすゞ会館松阪松竹
所在地 : 三重県松阪市湊町298(1953年)、三重県松阪市五十鈴町1(1955年・1958年)、三重県松阪市五十鈴町(1960年・1963年・1966年)、三重県松阪市五十鈴町1(1969年)
開館年 : 1952年9月18日、1964年(建て替え)
閉館年 : 1972年5月19日
『全国映画館総覧 1955』によると1952年9月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「いすず会館」。1958年の映画館名簿では「いすず開館南劇場・いすず会館東劇場」(2館)。1960年・1963年の映画館名簿では「松阪松竹映画劇場・いすず会館東劇」(2館)。1966年・1969年の映画館名簿では「いすゞ会館松阪松竹」。1970年の住宅地図では「松阪松竹 いすず会館 東劇」。1971年の住宅地図協会住宅地図では「松阪松竹 いすず会館 東劇」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1975年のゼンリン住宅地図では跡地に「貸ガレージ」。1984年のゼンリン住宅地図では跡地に空き地。跡地は「林ビル」西隣の空き地。最寄駅はJR紀勢本線・近鉄山田線松阪駅。

1952年9月18日、松阪市に「いすず劇場」が開館した。オープニングは松竹『現代人』。鉄筋コンクリート造、2階建て。面積218坪。設計から開館まで名古屋市の「アロハ会館」の指導を受けた。経営はいすず興業株式会社。*11

1958年3月、「松阪松竹」と「豊橋松竹」が松竹の直営館として発足した。*12

1963年12月7日昼、松阪市五十鈴町の「五十鈴会館」スクリーン付近から出火し、木造モルタル塗り一部2階建ての五十鈴会館が全焼し、棟続きの木造モルタル塗り2階建ての「いすず東劇」も半焼した。小原茂社長。両館とも10時30分から上映中だったが、23人の観客は無事。スクリーンを巻き上げるモーターの過熱が原因とみられる。損害は約1200万円。*13

1963年12月7日正午すぎ、松阪市五十鈴町の「五十鈴会館」スクリーン付近から出火し、木造モルタル塗り一部2階建ての劇場660m2が全焼し、棟続きの木造モルタル塗り2階建ての「いすず東劇」も半焼した。いすず東劇は小原茂社長が所有する貸し館である。観客は無事だった。スクリーンを巻き上げるモーターの過熱が原因とみられる。損害は約1200万円。*14

1951年の松阪大火では五十鈴町の松阪市立第二小学校が焼失した。1953年にはその跡地に、「いすず松竹」と「東劇」の2館体制のいすず会館が開館した。社長の小原茂は後に三重県教育長に就任する人物である。1963年12月7日にはいすず松竹のスクリーン脇から出火し、東劇の一部も焼いている。1964年に営業を再開したが、1972年5月19日に閉館した。*15
国際劇場/松阪日活劇場
所在地 : 三重県松阪市日野町778(1955年・1958年)、三重県松阪市日野町(1960年)、三重県松阪市日野町778(1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1954年12月
閉館年 : 1971年9月
『全国映画館総覧 1955』によると1954年12月開館。1955年の映画館名簿では「国際劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「松阪日活劇場」。1970年の住宅地図では「松阪日活国際劇場」。1971年の住宅地図協会住宅地図では「松阪日活国際劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1975年のゼンリン住宅地図では跡地に「日野町パーキング有料駐車場」。1984年のゼンリン住宅地図では跡地に「日野パーキング」。跡地は「鯛屋旅館」南東隣の鯛屋旅館駐車場。最寄駅はJR紀勢本線・近鉄山田線松阪駅。

1954年、日野町に「国際劇場」が開館した。松阪紡績の専務である山本弘が開館させた。当時としては珍しい鉄筋コンクリート造の2階建てだった。洋画上映館としてスタートし、短期間だが久保賢が支配人を務めた。1956年に日活の直営館となり、1971年9月まで営業した。鉄筋コンクリート造の建物は取り壊され、エレベーター付きの駐車場となった。*16
松阪近劇コニー/近劇コニー
所在地 : 三重県松阪市日野町698(1958年)、三重県松阪市日野町(1960年)、三重県松阪市日野町698(1963年)、三重県松阪市日野町697(1966年・1969年・1973年・1976年・1978年・1979年)
開館年 : 1958年9月
閉館年 : 1979年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「近劇コニー」。1966年・1969年の映画館名簿では「松阪近劇コニー」。1969年の映画館名簿では「近劇コニー」。1971年の住宅地図協会住宅地図では「近劇コニー」。1973年の映画館名簿では「松阪近劇コニー」。1975年のゼンリン住宅地図では「近劇コニー」。1976年・1978年・1979年の映画館名簿では「近劇コニー」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。1984年・1992年のゼンリン住宅地図では跡地に山口洋品や光喫茶など。跡地は「善福寺」本堂北西30mの駐車場。最寄駅はJR紀勢本線・近鉄山田線松阪駅。

1957年9月に日野町に「近代劇場」が開館すると、1年後の1958年9月には近代劇場の前に「近劇コニー」という小劇場も開館した。椅子席100であり、当時としては異例のミニ劇場だった。1980年3月1日、駅前都市開発によって商店街に新築した。*17
巴座/松阪東宝映劇/松阪東宝映画劇場/松阪東宝劇場/巴劇場/松阪巴映画劇場/巴映画劇場
所在地 : 三重県松阪市日野町2丁目(1936年)、三重県松阪市平生町駅前(1941年)、三重県松阪市平生町2(1943年)、三重県松阪市日野町(1947年・1949年・1950年・1953年)、三重県松阪市京町2-9(1955年)、三重県松阪市京町(1958年・1960年)、三重県松阪市京町9(1963年)、三重県松阪市五十鈴町(1966年)、三重県松阪市京町9(1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1933年(映画館化)、1954年10月(巴映画劇場)、1973年8月(ビル化)
閉館年 : 1992年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年10月開館。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年の映画館名簿では「巴座」。1943年の映画館名簿では「松阪東宝映劇」。1947年・1949年・1950年の映画館名簿では「松阪東宝映画劇場」。1953年の映画館名簿では「松阪東宝劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「巴映画劇場」。1960年の映画館名簿では「巴劇場」。1963年の映画館名簿では「巴映画劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「松阪巴映画劇場」。1970年の住宅地図では「巴劇場」。1971年の住宅地図協会住宅地図では「巴劇場」。1975年のゼンリン住宅地図では「1階松阪生協 2階巴映画劇場」。1976年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「巴映画劇場」。1978年のゼンリン住宅地図では「2階映画劇場」。1980年の映画館名簿では経営会社が巴工業、経営者が堀盛達、支配人が加藤大亮、鉄筋造1階、132席、洋画を上映。1984年のゼンリン住宅地図では「トモエビル 1階生協ストアーやスナックなど6軒 2階巴映画劇場」。1992年のゼンリン住宅地図では「トモエビル 1階生協ストアーやスナックなど5軒 2階巴映画劇場」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は有料駐車場「TOKAI パーク24 京町愛宕コインパーキング」。南東の「鳴門寿司」は当時から存在する。最寄駅はJR紀勢本線・近鉄山田線松阪駅。

1923年、日野町の「中座」は「松竹館」に改称して活動写真常設館となったが、1925年3月8日に焼失した。時期不明だが跡地には浪曲師の巴うの子によって「巴座」が開館し、1933年には映画館となった。1943年には東宝が巴座を借りて「松阪東宝劇場」となり、終戦前の劇場統合によって一時的に閉鎖、1945年11月に営業を再開した。1954年には館主の堀又市が直接経営するようになり、「巴映画劇場」に改称して東宝作品や洋画などを上映した。1960年には巴うの子の息子である堀盛達の時代となった。1973年8月、多角経営のビルに建て替えた。*18
近代劇場/松阪近代劇場
所在地 : 三重県松阪市日野町697(1958年)、三重県松阪市日野町(1960年)、三重県松阪市日野町697(1963年)、三重県松阪市日野町697(1966年・1969年・1973年・1976年)、三重県松阪市日野町(1980年)、三重県松阪市日野町14(1985年・1990年)
開館年 : 1957年9月、1980年3月1日(駅前開発で移転)
閉館年 : 1998年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「近代劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「松阪近代劇場」。1969年の映画館名簿では「近代劇場」。1971年の住宅地図協会住宅地図では「近代劇場」。1973年の映画館名簿では「松阪近代劇場」。1975年のゼンリン住宅地図では「近代劇場」。1976年の映画館名簿では「近代劇場」。1980年の映画館名簿では「松阪近代劇場(建築中)」。1980年の映画館名簿では経営会社が近代興業、経営者が岡山繁雄、支配人が岡山喜久、鉄筋造2階、168席。1985年・1990年の映画館名簿では「松阪近代劇場」。1984年・1992年のゼンリン住宅地図では「近代劇場」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。2007年に建物が解体された。跡地は「善福寺」本堂北北西30mの駐車場。最寄駅はJR紀勢本線・近鉄山田線松阪駅。

1957年9月には日野町に「近代劇場」が開館し、東宝作品は「巴映画劇場」から移動した。経営者は鉄屑商から進出した岡山繁雄。1年後の1958年9月には近代劇場の前に「近劇コニー」という小劇場も開館した。1980年3月1日、駅前都市開発によって商店街に新築した。入口は商店街の2階にあり、168席の小規模劇場だった。事務室にはテレビモニター装置がある先端的な劇場だった。*19

2003年には松阪市観光協会が、松阪駅前の中心商店街であるベルタウン2階にある映画館跡地を多目的ホールとして、市民に対する貸し出しを始めた。映画館跡地は近くの寺院が所有しており、松阪市は年間70万円で借りる契約を結んでいる。入口は商店街の2階にあり、168席の小規模劇場だった。事務室にはテレビモニター装置がある先端的な劇場だった。*20
松阪パールシネマ1・2
所在地 : 三重県松阪市塚本町荒木81-5(1990年・1995年・2000年・2002年・2003年)
開館年 : 1986年3月25日
閉館年 : 2003年頃
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1995年・2000年・2002年・2003年の映画館名簿では「松阪パールシネマ1・2」(2館)。1992年のゼンリン住宅地図では「松阪パールシネマ1・2」。2002年の映画館名簿では経営者は松井克己、支配人は岡田義広、鉄筋造1階、1が110席、2が88席、邦画と洋画を上映。2004年の映画館名簿には掲載されていない。建物は2013年以後に取り壊され、跡地は2017年竣工のアパート「ニシルカウ」。最寄駅は近鉄山田線松ヶ崎駅。

1986年3月25日、塚本町の国道23号から脇に入った場所に、広い駐車場を有する「松阪パールシネマ1・2」が開館した。経営者は伊勢市の「伊勢パール劇場」の松井克己であり、深夜興行を行ってマイカー族の取り込みを図った。アーノルド・シュワルツェネガー主演の『コマンドー』とケヴィン・コスナー主演の『ファンタンゴ』がオープニング作品である。松阪パールシネマは時代に流れを読んだ経営方針が一定の成功を収めた。*21
アサヒ館/松阪大映/松阪大映劇場
所在地 : 三重県松阪市油屋町158(1936年)、三重県松阪市油屋町(1941年)、三重県松阪市湊町(1943年)、三重県松阪市油屋町(1947年)、三重県松阪市湊町(1949年)、三重県松阪市油屋町(1950年)、三重県松阪市湊町152(1953年)、三重県松阪市湊町1532(1955年)、三重県松阪市湊町152(1958年)、三重県松阪市湊町(1960年)、三重県松阪市湊町152(1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年)、三重県松阪市湊町158(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年)
開館年 : 1940年頃
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 松阪大映劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1946年11月開館。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「アサヒ館」。1960年頃に松阪大映劇場に改称。1960年・1963年の映画館名簿では「松阪大映」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「松阪大映劇場」。1970年の住宅地図では「大映 アサヒ館」。1971年の住宅地図協会住宅地図では「大映 アサヒ館」。1975年のゼンリン住宅地図では「松阪大映」。1980年の映画館名簿では木造1階部分300席、経営会社はアサヒ興業、経営者・支配人ともに大久保克己、にっかつと成人映画を上映。1984年のゼンリン住宅地図では「松阪大映」。1992年のゼンリン住宅地図では「松阪大映」。2000年の映画館名簿では木造2階部分250席、経営会社はアサヒ興業、経営者・支配人ともに大久保克己、成人映画を上映。最寄駅はJR紀勢本線・近鉄山田線松阪駅。

1935年10月、松阪市油屋町に「アサヒ館」が開館した。海外航路の船舶理髪師である的場信一が工費1万円で建てた。1階席と2階席があるモダンな劇場だった。無声映画の解説者だった大槻二郎が支配人を務めていたが、戦後には大槻が的場から劇場を買い取り、「松阪大映」に改称した。*22

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