日本の映画館の総合データベースです。



米子市

米子市の映画館
1888年の米子町西倉吉町に、後に映画館となる芝居小屋「朝日座」が開館した。開館時の朝日座周辺に歓楽街や繁華街と言えるものはなかったが、1912年には国鉄山陰線が全通し、鳥取県立米子高等女学校(現在のふれあいの里)で全国特産品博覧会が開催された。西倉吉町から博覧会会場に向かう道が整備され、飲食店や土産物店が立ち並ぶようになったため、同年には西倉吉町から朝日町が分離独立した。この道が現在の朝日町通りである。朝日町という名称は朝日座に由来する可能性がある。1915年には角盤町も誕生し、1916年には角盤町2丁目に米子初の映画館である「米子館」が開館した。山陰線全通後には米子駅前が発展し、1918年には駅前通りに芝居小屋「御幸座」が開館した。1936年には御幸座が映画館となり、戦後には「米子東宝」に改称している。*1

1946年末時点で、米子市には「米子館」、「みずほ劇場」、「米子セントラル劇場」、「米子東宝」の4館が営業していた。「民衆映画劇場」が改称した映画館が米子セントラル劇場であり、改称と同時に洋画専門館に転向、初日には二十世紀フォックスの『銀嶺セレナーデ』を上映した。1946年3月には米子館と「キネマ館」で『愛染かつら』が同時上映され、満員の観客が連日続いた。1946年4月には「朝日座」で愛染かつらの実演が行われた。1949年の初め、米子セントラル劇場で『ターザンの凱歌』が上映された。1954年8月、米子市で初めて米子セントラル劇場に冷暖房設備が設置された。1955年1月、朝日座に横40尺(約12.1m)×縦15尺(約4.5m)の大スクリーンが設置され、シネマスコープ作品『コマンド』が上映されたが、これは山陰初のシネマスコープ上映だった。1954年に米子市に編入された地域には「美保映劇」があり、1957年には「リツリン映劇」が開館したことで、1957年から1964年までの米子市には7館の映画館があった。1964年には米子東宝が閉館した。1976年9月6日には朝日座が焼失した。1976年9月1日からは米子松竹が改築のための長期休館に入り、12月25日に1階の「米子ピカデリー」と2階の「米子松竹」を有するビルが開館した。米子ピカデリーのオープニングは『キングコング』、米子松竹のオープニングは『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』と『嗚呼花の応援団役者やノオ』の二本立。1976年9月6日から12月25日までの短期間、米子市の映画館は「リツリン映劇」のみとなっている。1981年8月にはリツリン映劇が閉館し、1983年6月には松竹系洋画館「米子ロキシー」として復活したが、約1年半後に閉館した。その後米子ピカデリー・米子松竹の経営者が米子ロキシーを引き継ぎ、松竹米子ロキシーと改称して松竹封切館となった。これにともなって米子松竹は成人映画専門館になっている。1977年12月、米子市公会堂の脇に米子東宝会館が開館した。2階には「米子東宝」と「米子シネマ」、3階には「米子国際プラザ」の計3館があったが、駐車場がないという欠点があった。米子サティが開業する際に移転して「米子サティ東宝1・2・3」となった。2008年現在は米子サティ東宝が米子市唯一の映画館である。1990年4月、日吉津村の国道431号沿いに6スクリーンを有する「MOVIX日吉津」が開館した。*2
昭和劇場/電気館/大劇
所在地 : 鳥取県米子市角盤町3丁目
開館年 : 1926年
閉館年 : 昭和40年代
1928年頃の米子市角盤町3丁目にあった劇場兼映画館「昭和劇場」の写真あり。1926年に新設された。名称は「電気館」「大劇」と変わり、昭和40年代に廃止された。*3

1928年頃の米子市角盤町にあった「昭和劇場」の写真あり。*4
美保映劇
所在地 : 鳥取県米子市大篠津(1955年・1958年)、鳥取県米子市大篠津810(1960年・1961年)、鳥取県米子市大篠津655(1962年)
開館年 : 1953年1月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年1月開館。1955年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「美保映劇」。1960年の米子市詳細図典では「美保映劇」。1962年の映画館名簿では経営者が佐々木久健、支配人が記載なし、木造1階、定員350、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「米子空港」敷地東端部。最寄駅はJR境線大篠津駅または米子空港駅。

1962年の「美保映劇」の写真あり。「松竹 大映 東宝 東映 いつも明るく楽しい美保」の文字が見える。*5

1954年に米子市に編入された地域には「美保映劇」があり、1957年には「リツリン映劇」が開館したことで、1957年から1964年までの米子市には7館の映画館があった。美保映劇の開館年は不明である。*6
寿劇場
所在地 : 鳥取県西伯郡淀江町(1960年)、鳥取県西伯郡淀江町淀江(1963年)、鳥取県西伯郡淀江町(1964年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1964年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「寿劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
御幸座/米子東宝/米子東宝映画劇場/米子東宝劇場(旧)
所在地 : 鳥取県米子市明治町(1936年)、鳥取県米子市明治町33(1941年)、鳥取県米子市明治町(1943年・1947年)、鳥取県米子市明治町33(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、鳥取県米子市明治町(1964年)
開館年 : 1916年
閉館年 : 1964年8月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「御幸座」。1947年の映画館名簿では「米子東宝」。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「米子東宝映画劇場」。1960年の映画館名簿では「米子東宝劇場」。1960年の米子市詳細図典では「米子東宝」。1963年・1964年の映画館名簿では「米子東宝映画劇場」。1963年のゼンリン住宅地図では「米子東宝映画館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はビジネスホテル「アルファ-ワン米子」。最寄駅はJR山陰本線米子駅。

1919年現在の米子市万能町には劇場「御幸座」がある。*7

1928年頃の米子市の駅前通りにあった「御幸座」の写真あり。1916年に新設された劇場である。やがて活動写真常設館となり、戦後には「米子東宝」に改称した。*8

1928年頃の米子市万能町にあった「御幸座」の写真あり。*9

1946年末時点で、米子市には「米子館」、「みずほ劇場」、「米子セントラル劇場」、「米子東宝」の4館が営業していた。1964年には米子東宝が閉館した。*10

1955年の米子市の駅前通りにあった「米子東宝」映画館の写真あり。美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ主演の『ジャンケン娘』、アメリカのミュージカル映画『艦隊は踊る』の看板が見える。前身は1916年にできた「御幸座」であり、1948年に米子東宝が創業した。*11

1958年の米子市明治町にあった映画館「米子東宝」の写真あり。『母三人』の看板が見える。1916年に駅前通り(後の明治町)に開館した劇場「御幸座」(みゆきざ)が前身であり、御幸座は後に映画館となった。戦後には御幸座の跡地に東宝直営館の米子東宝が建てられたが、昭和40年代に閉館した。*12

1959年の米子市の駅前通りにあった映画館「米子東宝」の写真あり。『日本誕生』や『若旦那大いに頑張る』や『青春を賭けろ』の看板が見える。もとは「御幸座劇場」であり、1946年に米子東宝となった。1964年に閉館した。*13

1928年頃の米子市にあった劇場「御幸座」の写真あり。1916年、駅前通り(現在の明治町)に新設された。後に活動写真常設館になった。1937年3月17日、御幸座は内部の一部を焼失した。時期不明の米子市にあった映画館「米子東宝」の写真あり。『母三人』の看板が見える。戦後、駅前通りに「御幸座」の跡に米子東宝が建てられた。東宝の直営館だったが、昭和40年代に閉館した。1981年現在の跡地はパチンコ店となっている。*14

1964年8月、米子駅前の「米子東宝」が閉館。戦前からの芝居小屋である「御幸座」を井上清蔵が買収し、東宝作品を上映した映画館である。井上は大阪市の「九条第一劇場」と兵庫県姫路市の「新星映画劇場」も経営していた。*15
昭和劇場/電気館/米子大劇場/米子グランド映画劇場/米子グラン映画劇場
所在地 : 鳥取県米子市(1930年)、鳥取県米子市角盤町(1934年)、鳥取県米子市角盤町3(1936年・1941年・1943年)、鳥取県米子市角盤町3-84(1950年)、鳥取県米子市角盤町3-48(1953年)、鳥取県米子市角盤町3-84(1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1927年以後1930年以前
閉館年 : 1972年10月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1927年の映画館名簿には掲載されていない。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「電気館」。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「米子大劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「米子グラン映画劇場」。1960年の米子市詳細図典では「米子グランド映劇」。1963年の映画館名簿では「米子グランド映画劇場」。1963年のゼンリン住宅地図では「グランド映劇」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「米子グラン映画劇場」。1967年・1969年の住宅地図では「グランド映劇」。1973年・1980年・1992年の住宅地図では跡地に「角三駐車場」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はドラッグストア「ウェルネス角盤店」建物北側角。最寄駅はJR境線富士見町駅。

時期不明の米子市にあった「昭和劇場」の写真あり。昭和初期の角盤町3丁目に新設され、劇場兼映画館として親しまれた。やがて「電気館」、次いで「大劇」に改称し、昭和40年代に閉館した。1981年現在の跡地は駐車場となっている。*16

昭和初期の「昭和劇場」の写真あり。昭和初期に開館し、「電気館」、「大劇」と改称した。昭和40年代に閉館した。*17

1972年10月には支配人の死去が理由で、米子市の映画館「グラン映劇」が閉館した。*18
キネマ館/民衆映画劇場/米子セントラル劇場/米子東映/米子東宝劇場(新)
所在地 : 鳥取県米子市角盤町(1927年)、鳥取県米子市朝日町(1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年)、鳥取県米子市朝日町33(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、鳥取県米子市朝日町(1964年)、鳥取県米子市朝日町33(1966年・1969年・1973年・1975年)
開館年 : 1923年、1953年
閉館年 : 1975年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年開館。1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「キネマ館」。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「米子セントラル劇場」。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「米子東映」。1960年の米子市詳細図典では「米子東映」。1963年のゼンリン住宅地図では「米子東映館」。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「米子東宝劇場」。1967年・1969年・1973年の住宅地図では「米子東宝」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。1980年・1992年の住宅地図では跡地に「朝日町ビル」。跡地は「鳥取中央銀行米子中央支店」西南西80mの「朝日町ビル」。最寄駅はJR境線富士見町駅。

1928年頃の米子市朝日町にあった活動写真常設館「キネマ館」の写真あり。1923年に新設されたが、翌年の1924年に焼失し、昭和初期に再建された。名称は「民衆映画劇場」、「米子セントラル」、「米子東映」と変わり、昭和40年代まで存続した。*19

1928年の米子市朝日町にあった活動写真常設館「キネマ館」の写真あり。「KINEMA」の文字が見える。1923年に開館したが、翌年の1924年4月17日に焼失し、その後再建された。「民衆映画劇場」、「米子セントラル」、「米子東映」と改称し、昭和40年代まで営業した。1981年現在の跡地はバーや飲食店が入るビルとなっている。*20

1928年頃の米子市朝日町にあった「キネマ館」の写真あり。*21

1946年末時点で、米子市には「米子館」、「みずほ劇場」、「米子セントラル劇場」、「米子東宝」の4館が営業していた。「民衆映画劇場」が改称した映画館が米子セントラル劇場であり、改称と同時に洋画専門館に転向、初日には二十世紀フォックスの『銀嶺セレナーデ』を上映した。1949年の初め、米子セントラル劇場で『ターザンの凱歌』が上映された。1954年8月、米子市で初めて米子セントラル劇場に冷暖房設備が設置された。*22

1965年には米子市の朝日町通り沿いの「米子東映」が「米子東宝」に改称した。1972年には「米子トーホ」に改称して成人映画館化したが、1975年5月に閉館した。*23
朝日座/米子朝日座/米子東映朝日座
所在地 : 鳥取県米子市朝日町(1953年)、鳥取県米子市朝日町65(1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1966年・1969年・1973年・1976年)
開館年 : 1888年、1915年(再建)、1947年
閉館年 : 1976年9月6日
『全国映画館総覧 1955』によると1947年開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「朝日座」。1960年の米子市詳細図典では「朝日座」。1963年のゼンリン住宅地図では「朝日座」。1966年の映画館名簿では「米子朝日座」。1967年・1969年・1973年の住宅地図では「朝日座」。1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「米子東映朝日座」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。1980年の住宅地図では跡地に「駐車場」。1992年の住宅地図では跡地に「朝日町駐車場」。跡地は「福厳院」南東130mの有料駐車場。最寄駅はJR境線富士見町駅。

1912年の『米子商工案内』「米子町全図」には「朝日座」の場所に劇場の記号が描かれている。*24

1914年の米子市朝日町にあった「朝日座」の写真あり。*25

1919年現在の米子市朝日町には劇場「朝日座」がある。1914年9月に火災で焼失し、1915年に再建された。*26

朝日座の場所にはそれまでも芝居小屋があり、大阪の中村時蔵が公演した時には大入りとなった。当初の朝日座の経営者は野沢氏であり、朝日座の前左側には野沢氏の製麺所があった。境町長や米子市長を務めた野坂寛治は、朝日座の土間で芝居を見せてもらったことがあると改装している。やがて森山清太郎が経営を引き継いだ。森山清太郎は安来節を日本各地に広めた功労者である。*27

1946年4月には米子市の「朝日座」で愛染かつらの実演が行われた。1955年1月、朝日座に横40尺(約12.1m)×縦15尺(約4.5m)の大スクリーンが設置され、シネマスコープ作品『コマンド』が上映されたが、これは山陰初のシネマスコープ上映だった。1976年9月6日には朝日座が焼失した。*28

1976年9月6日には米子市の「朝日座」が火災で焼失して閉館した。*29

1888年、米子市に芝居小屋の「朝日座」が開館した。戦後の1950年に映画館となったが、1976年に焼失して閉館した。1888年の開館当時の朝日座は西倉吉町にあったが、朝日座の影響で朝日町という通称ができ、1912年には朝日町という町名が生まれた。*30

2004年9月27日、米子市錦町のふれあいの里で芝居小屋「朝日座」について語る会が開催される。朝日座は1888年に芝居小屋として開館し、1914年の火災で焼失したが再建された。やがて芝居小屋から映画館となり、1976年の火災で焼失して閉館した。鳥取県西部の文化活動の中心としてにぎわった。10月16日・17日には米子コンベンションセンターで第2回鳥取県総合芸術文化祭「明治の芝居小屋『朝日座』復活事業」が公演される。*31
米子館/米子松竹/米子松竹・米子ピカデリー/米子松竹・米子松竹ピカデリー
所在地 : 鳥取県米子市角盤町2丁目(1927年・1930年)、鳥取県米子市角盤町(1934年)、鳥取県米子市角盤町2-77(1936年・1941年)、鳥取県米子市角盤町2(1943年)、鳥取県米子市角盤町(1947年)、鳥取県米子市角盤町2-77(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年)
開館年 : 大正時代、1943年
閉館年 : 1989年8月
『全国映画館総覧 1955』によると1943年開館。1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「米子館」。1960年の米子市詳細図典では「米子舗」(館ではなく舗は原文ママ)。1963年のゼンリン住宅地図では「米子館」。1969年・1973年の住宅地図では「米子館」。1975年・1976年の映画館名簿では「米子松竹」。1978年・1980年の映画館名簿では「米子松竹・米子ピカデリー」(2館)。1980年の住宅地図では「1階米子ピカデリー 2階米子松竹」。1985年の映画館名簿では「米子松竹・米子松竹ピカデリー」(2館)。1990年の映画館名簿には掲載されていない。1992年の住宅地図では跡地に「マロンビル」と「フェイスビル」。跡地は「米子市公会堂」北西120mの雑居ビル「マロンビル」と「フェイスビル」。最寄駅はJR境線富士見町駅。

1919年現在の米子市角盤町2丁目には常設活動写真館「米子館」がある。*32

1927年の「米子館」の写真あり。大正時代、角盤町2丁目に活動写真常設館として建てられた。1981年現在は改称して同じ場所に「米子松竹」が建っており、「米子ピカデリー」とともに若い観客でにぎわっている。「米子国際プラザ」・「米子東宝」・「米子シネマ」(いずれも角盤町2丁目)、「リツリン映画劇場」(角盤町3丁目)も含めて、1981年現在の米子市では角盤町2丁目・3丁目に6館の映画館が集中している。*33

1927年の米子市にあった「米子館」の写真あり。「館子米」の文字が見える。大正時代に活動写真常設館として開館し、1989年現在も松竹系映画館として営業している。*34

1927年頃の米子市角盤町2丁目にあった「米子館」の写真あり。「館子米」の文字が見える。大正時代に活動写真常設館として開館した。戦後には「米子松竹」に改称した。*35

1927年頃の米子市角盤町にあった「米子館」の写真あり。*36

1946年末時点で、米子市には「米子館」、「みずほ劇場」、「米子セントラル劇場」、「米子東宝」の4館が営業していた。1946年3月には米子館と「キネマ館」で『愛染かつら』が同時上映され、満員の観客が連日続いた。1976年9月1日からは米子松竹が改築のための長期休館に入り、12月25日に1階の「米子ピカデリー」と2階の「米子松竹」を有するビルが開館した。米子ピカデリーのオープニングは『キングコング』、米子松竹のオープニングは『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』と『嗚呼花の応援団役者やノオ』の二本立。その後米子ピカデリー・米子松竹の経営者が「米子ロキシー」を引き継ぎ、松竹米子ロキシーと改称して松竹封切館となった。これにともなって米子松竹は成人映画専門館になっている。*37

米子市の「米子松竹」は1976年12月、1階を「米子ピカデリー」、2階を「米子松竹」として再出発した。*38

1989年8月には「米子松竹」や「米子ピカデリー」が閉館した。*39
米子東宝・米子国際プラザ・米子シネマ/米子松竹1・2
所在地 : 鳥取県米子市角盤町2-105-5(1980年・1985年・1990年・1992年・1995年)
開館年 : 1977年12月(米子東宝・米子国際プラザ・米子シネマ)、1990年12月(米子松竹1・2)
閉館年 : 1990年(米子東宝・米子国際プラザ・米子シネマ)、1997年8月31日(米子松竹1・2)
1978年の映画館名簿には掲載されていない。1980年の住宅地図では「米子東宝会館ビル 2階米子東宝 米子シネマ 3階米子国際プラザ」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「米子東宝・米子国際プラザ・米子シネマ」(3館)。1990年に米子サティに移転して米子ビブレ東宝が開館。1992年の住宅地図では「米子東宝会館ビル 2階松竹1 松竹2 3階空白」。1992年・1995年の映画館名簿では「米子松竹1・2」(2館)。1998年の映画館名簿には掲載されていない。建物名は米子東宝会館。映画館の建物は「旧東宝会館ビル」として現存。最寄駅はJR境線富士見町駅。

1977年12月、米子市公会堂の脇に「米子東宝会館」が開館した。2階には「米子東宝」と「米子シネマ」、3階には「米子国際プラザ」の計3館があったが、駐車場がないという欠点があった。米子サティが開業する際に移転して「米子サティ東宝1・2・3」となった。2008年現在は米子サティ東宝が米子市唯一の映画館である。1990年4月、日吉津村の国道431号沿いに6スクリーンを有する「MOVIX日吉津」が開館した。*40

1997年8月いっぱいをもって、米子市角盤町2丁目の映画館「米子松竹1・2」が閉館する。1970年代後半から1980年代初頭の米子市には6館の映画館があり、中国地方でも映画ファンが多い都市とされていた。米子松竹は松竹の子会社である松竹関西興行の直営館である。米子松竹1は196席、米子松竹2は96席。1990年12月22日に現在地に移転し、『寅さんシリーズ』『釣りバカ日誌シリーズ』『ロッキー』などを上映した。自前の駐車場がないことなどから客足が遠のき、最近の観客数は土日でも2館合わせて数十人程度だった。お別れ興行として8月上旬から『バットマン&ロビン』を上映する。*41

1990年12月、「米子東宝会館」の空きビルに「米子松竹1・2」が開館したが、1997年8月に閉館した。*42

1997年8月31日、松竹関西興行の「米子松竹1・2」と西日本松竹興行の「久留米松竹1・2・3」が閉館した。*43
リツリン映劇/米子リツリン映画劇場/米子松竹リツリン劇場/米子リツリン劇場/松竹米子ロキシー
所在地 : 鳥取県米子市角盤町3-84(1958年・1960年・1963年)、鳥取県米子市角盤町3(1966年)、鳥取県米子市角盤町3-84(1969年・1973年・1976年・1978年・1980年)、鳥取県米子市角盤町3-84-4(1985年・1990年)
開館年 : 1957年頃(リツリン劇場)、1983年(米子ロキシー)
閉館年 : 1981年(リツリン劇場)、1991年1月(米子ロキシー)
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「リツリン映劇」。1960年・1963年の映画館名簿では「リツリン映画劇場」。1960年の米子市詳細図典では「リツリン映劇」。1963年のゼンリン住宅地図では「リツリン映劇」。1966年・1969年の映画館名簿では「米子リツリン映画劇場」。1967年・1969年・1973年の住宅地図では「リツリン映劇」。1973年・1976年の映画館名簿では「米子松竹リツリン劇場」。1978年・1980年の映画館名簿では「米子リツリン劇場」。1980年の住宅地図では「米子リツリン松竹」。1985年の映画館名簿では「米子ロキシー」。1990年の映画館名簿では「松竹米子ロキシー」。1992年の映画館名簿には掲載されていない。1992年の住宅地図では跡地に「駐車場」。跡地はドラッグストア「ウェルネス角盤店」敷地西側角。最寄駅はJR境線富士見町駅。

1981年には米子市の映画館「リツリン映劇」が閉館し、1983年には「米子ロキシー」として再開したが、1991年1月に閉館した。*44
米子ビブレ東宝1・2・3/米子SATY東宝1・2・3/米子駅前SATY東宝1・2・3
所在地 : 鳥取県米子市末広町58(1992年・1995年・1998年・2000年・2005年)、鳥取県米子市末広町311(2010年・2012年)
開館年 : 1990年
閉館年 : 2012年8月31日
1990年に米子東宝会館から移転開館。1992年・1995年の映画館名簿では「米子SATY東宝1・2・3」(3館)。1998年・2000年の映画館名簿では「米子ビブレ東宝1・2・3」(3館)。2005年の映画館名簿では「米子駅前SATY東宝1・2・3」(3館)。2010年の映画館名簿では「米子SATY東宝1・2・3」(3館)。2012年の映画館名簿では「米子駅前SATY東宝1・2・3」(3館)。2015年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「イオン米子駅前店」にある2021年2月28日閉館のレンタルスペース「ガイナックスシアター」。最寄駅はJR山陰本線米子駅。

1977年12月、米子市公会堂の脇に「米子東宝会館」が開館した。2階には「米子東宝」と「米子シネマ」、3階には「米子国際プラザ」の計3館があったが、駐車場がないという欠点があった。米子サティが開業する際に移転して「米子サティ東宝1・2・3」となった。2008年現在は米子サティ東宝が米子市唯一の映画館である。1990年4月、日吉津村の国道431号沿いに6スクリーンを有する「MOVIX日吉津」が開館した。*45

1977年12月、米子市公会堂横の角盤町2丁目に、200席の「米子東宝」・100席の「米子シネマ」・300席の「米子国際プラザ」の3館が入る「米子東宝会館」が開館。1990年には米子駅前の米子サティに移転し、「米子サティ東宝1・2・3」に改称。米子駅前には1964年に「米子東宝」が閉館してから映画館がなかった。*46

2012年8月末、米子市末広町のイオン米子駅前店3階の映画館「サティ東宝」が閉館する。米子の映画館の歴史は大正期に「米子館」が開館して始まったが、サティ東宝の閉館によって市内から映画館が姿を消す。前身は「米子東宝」「米子シネマ」「米子国際プラザ」の3スクリーンを有した米子東宝会館。1990年に米子駅前サティの開業に伴って移転した。運営は関西共栄興業。1998年にはピークの17万6000人を動員したが、1999年に「MOVIX日吉津」が開館した影響により、2011年には6万人を下回った。*47

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