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hekikaicinema 2026年01月27日(火) 17:15:27履歴
所在地 : 東京市本郷区
開館年 : 1909年4月
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。
1909年4月、本郷に「大幸館」(※浅草と同名)が、浅草に「大幸館」(※本郷と同名)が開館した。*1
開館年 : 1909年4月
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。
1909年4月、本郷に「大幸館」(※浅草と同名)が、浅草に「大幸館」(※本郷と同名)が開館した。*1
所在地 : 東京市小石川区
開館年 : 1909年8月
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。
1909年8月、芝に「神明館」が、本所に「江東館」が、浅草に「鳥越電気館」が、小石川に「博松館」が、渋谷に「渋谷館」が開館した。*2
開館年 : 1909年8月
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。
1909年8月、芝に「神明館」が、本所に「江東館」が、浅草に「鳥越電気館」が、小石川に「博松館」が、渋谷に「渋谷館」が開館した。*2
所在地 : 東京市本郷区
開館年 : 1909年10月
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。
1909年10月、京橋に「八丁堀電気館」が、新宿に「福寿館」が、深川に「寿館」が、神田に「敷島館」が、本郷に「真砂館」が、深川に「深川桜木館」が、神田に「天下座」が、浅草公園に「日進館」が開館した。*3
開館年 : 1909年10月
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。
1909年10月、京橋に「八丁堀電気館」が、新宿に「福寿館」が、深川に「寿館」が、神田に「敷島館」が、本郷に「真砂館」が、深川に「深川桜木館」が、神田に「天下座」が、浅草公園に「日進館」が開館した。*3
所在地 : 東京市小石川区
開館年 : 1910年7月
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。
1910年7月、小石川に「喜楽館」が、四谷区に「第四福宝館」が、下谷区に「第六福宝館」が開館した。*5
開館年 : 1910年7月
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。
1910年7月、小石川に「喜楽館」が、四谷区に「第四福宝館」が、下谷区に「第六福宝館」が開館した。*5
所在地 : 東京市本郷区
開館年 : 1911年1月
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。
1911年1月、本郷に「第八福宝館」が、芝に「第二福宝館」が、赤坂に「万歳館」が開館した。3月、浅草公園に「金竜館」が、丸ノ内に「帝劇」が開館した。*7
開館年 : 1911年1月
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。
1911年1月、本郷に「第八福宝館」が、芝に「第二福宝館」が、赤坂に「万歳館」が開館した。3月、浅草公園に「金竜館」が、丸ノ内に「帝劇」が開館した。*7
所在地 : 東京市小石川区小日向水道町394(1941年)、東京市小石川区小日向水道町(1943年)
開館年 : 1941年以後1943年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「江戸川松竹ニュース劇場」。1943年の映画館名簿では「江戸川松竹映劇」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1941年以後1943年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「江戸川松竹ニュース劇場」。1943年の映画館名簿では「江戸川松竹映劇」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 東京市小石川区伝通院(1925年)、東京市小石川区表町64(1930年)、東京市小石川区表町63(1934年・1936年)、東京市小石川区表町6(1941年)、東京市小石川区表町(1943年)
開館年 : 1922年12月31日
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1925年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「伝通館」。1941年の映画館名簿では「小石川松竹劇場」。1943年の映画館名簿では「小石川松竹映劇」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
小石川区表町63の「伝通館」。1922年12月31日開館。収容人員450人。*8
1922年12月30日、小石川区表町63に株式会社で活動常設館「伝通館」が創設された。その後経営難で閉館していたが、1933年12月17日に荒牧福吉によって営業再開した。収容人員500人。*9
昭和初期にかけて、後の文京区域では「動坂松竹館」、「進明館」、「伝通館」、「白山キネマ」、「後楽園スポーツシネマ」が開館した。太平洋戦争中には相次いで休館し、大半の映画館は1945年の東京大空襲で焼失した。*10
開館年 : 1922年12月31日
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1925年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「伝通館」。1941年の映画館名簿では「小石川松竹劇場」。1943年の映画館名簿では「小石川松竹映劇」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
小石川区表町63の「伝通館」。1922年12月31日開館。収容人員450人。*8
1922年12月30日、小石川区表町63に株式会社で活動常設館「伝通館」が創設された。その後経営難で閉館していたが、1933年12月17日に荒牧福吉によって営業再開した。収容人員500人。*9
昭和初期にかけて、後の文京区域では「動坂松竹館」、「進明館」、「伝通館」、「白山キネマ」、「後楽園スポーツシネマ」が開館した。太平洋戦争中には相次いで休館し、大半の映画館は1945年の東京大空襲で焼失した。*10
所在地 : 東京市小石川区指ヶ谷町130(1930年・1934年・1936年・1941年)、東京市小石川区指ケ谷町(1943年)
開館年 : 1928年1月10日
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「白山キネマ」。1941年の映画館名簿では「白山東宝映画劇場」。1943年の映画館名簿では「白山東宝映劇」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
小石川区指ヶ谷町130の「白山キネマ」。1928年1月10日開館。収容人員350人。*11
1928年10月、小石川区指ヶ谷町130に資本金8万5000円で活動常設館「白山キネマ」が創設された。紅梅亭という寄席跡地を買収したものである。収容人員は階上が180人、階下が200人。*12
1935年頃の小石川区指ヶ谷町130にあった松竹系映画館「白山キネマ」前で撮られた経営者の田中春吉らの写真あり。1935年公開の『お琴と佐助』の看板が見える。1997年現在の文京区白山1丁目である。*13
昭和初期にかけて、後の文京区域では「動坂松竹館」、「進明館」、「伝通館」、「白山キネマ」、「後楽園スポーツシネマ」が開館した。太平洋戦争中には相次いで休館し、大半の映画館は1945年の東京大空襲で焼失した。*14
開館年 : 1928年1月10日
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「白山キネマ」。1941年の映画館名簿では「白山東宝映画劇場」。1943年の映画館名簿では「白山東宝映劇」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
小石川区指ヶ谷町130の「白山キネマ」。1928年1月10日開館。収容人員350人。*11
1928年10月、小石川区指ヶ谷町130に資本金8万5000円で活動常設館「白山キネマ」が創設された。紅梅亭という寄席跡地を買収したものである。収容人員は階上が180人、階下が200人。*12
1935年頃の小石川区指ヶ谷町130にあった松竹系映画館「白山キネマ」前で撮られた経営者の田中春吉らの写真あり。1935年公開の『お琴と佐助』の看板が見える。1997年現在の文京区白山1丁目である。*13
昭和初期にかけて、後の文京区域では「動坂松竹館」、「進明館」、「伝通館」、「白山キネマ」、「後楽園スポーツシネマ」が開館した。太平洋戦争中には相次いで休館し、大半の映画館は1945年の東京大空襲で焼失した。*14
所在地 : 東京市小石川区柳町(1925年)、東京市小石川区柳町22(1930年・1934年・1936年・1941年)、東京市小石川区柳町(1943年)
開館年 : 1911年9月8日
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1925年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「喜楽館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
小石川区柳町23の「喜楽館」。1911年9月8日開館。収容人員361人。*15
小石川区柳町22の「喜楽館」は小石川区最古の活動常設館である。1934年現在から約20年前、小山金太郎によって資本金6万5000円で創立され、その後下部好き会社となった。収容人員400人。*16
開館年 : 1911年9月8日
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1925年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「喜楽館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
小石川区柳町23の「喜楽館」。1911年9月8日開館。収容人員361人。*15
小石川区柳町22の「喜楽館」は小石川区最古の活動常設館である。1934年現在から約20年前、小山金太郎によって資本金6万5000円で創立され、その後下部好き会社となった。収容人員400人。*16
所在地 : 東京市本郷区駒込肴町(1925年)、東京市本郷区浅嘉町3(1927年)、東京市本郷区駒込浅嘉町3(1930年)、東京市本郷区駒込浅嘉町1(1934年)、東京市本郷区駒込浅嘉町3(1936年)、東京市本郷区駒込浅嘉町(1941年)、東京市本郷区浅嘉町(1943年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「駒込館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「駒込館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 東京市本郷区駒込神明町161(1925年)、東京市本郷区神明町161(1927年)、東京市本郷区動坂神明町(1930年)、東京市本郷区神明町161(1934年)、東京市本郷区駒込神明町161(1936年・1941年)、東京市本郷区駒込神明町(1943年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1945年頃
1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「進明館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
1930年の本郷区駒込神明町161にあった日活系映画館「進明館」の写真あり。1930年公開の『母』と『風雲天満双紙』の看板が見える。1945年に戦災で焼失した。1997年現在の文京区本駒込4丁目である。*17
昭和初期にかけて、後の文京区域では「動坂松竹館」、「進明館」、「伝通館」、「白山キネマ」、「後楽園スポーツシネマ」が開館した。太平洋戦争中には相次いで休館し、大半の映画館は1945年の東京大空襲で焼失した。*18
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1945年頃
1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「進明館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
1930年の本郷区駒込神明町161にあった日活系映画館「進明館」の写真あり。1930年公開の『母』と『風雲天満双紙』の看板が見える。1945年に戦災で焼失した。1997年現在の文京区本駒込4丁目である。*17
昭和初期にかけて、後の文京区域では「動坂松竹館」、「進明館」、「伝通館」、「白山キネマ」、「後楽園スポーツシネマ」が開館した。太平洋戦争中には相次いで休館し、大半の映画館は1945年の東京大空襲で焼失した。*18
所在地 : 東京市本郷区春木町(1930年)、東京市本郷区春木町1-4(1934年)、東京市本郷区春木町1-19(1936年)、東京市本郷区春木町1-7(1941年)、東京市本郷区春木町1(1943年)
開館年 : 1873年、1902年頃(再建)、1924年(再建)
閉館年 : 1945年
1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「本郷座」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に「日本ビクター東京機器営業所」。1977年の住宅地図では跡地に「日本ビクター」。跡地は「NF本郷ビル」(旧:ビクター本郷ビル)。最寄駅は東京メトロ丸ノ内線・都営地下鉄大江戸線本郷三丁目駅。
1910年には本郷区の「本郷座」が松竹合名会社の傘下となり、1911年には劇場の大改修が行われたが、1923年の関東大震災で焼失した。1930年には松竹の映画館となった。*19
1923年9月10日頃の本郷区春木町1丁目にあった、関東大震災直後の「本郷座」の写真あり。それまでに2度焼失しており、1923年の関東大震災が3度目の焼失となった。その後再建され、1930年には常設映画館に転向すると、主として洋画を上映した。1997年現在の文京区本郷3丁目である。*20
1925年の本郷区春木町1丁目にあった「本郷座」の写真あり。1923年9月の関東大震災で焼失した後、半年後には早くも復興興行を催した。1997年現在の文京区本郷3丁目である。*21
1873年には本郷に「奥田座」が開場し、1875年から1876年頃には「春木座」に改称した。その後、市川團十郎や尾上菊五郎など最高峰の役者が出演する劇場となった。1890年と1898年に火災で類焼したが、煉瓦造で1500人収容の劇場として再建された。1902年には「本郷座」に改称すると、1910年には松竹合名社の直営となった。1923年の関東大震災で焼失したが、1924年にはバラック建築で営業を再開し、昭和初期には映画館に転向した。1945年の東京大空襲で焼失し、戦後に再建されることはなかった。*22
文京区春木町の「本郷座」跡。本郷3丁目から上野方面に向かって歩くと、左側に本郷座跡地がある。1873年に「奥田屋」(座ではなく屋は原文ママ)として発足し、1875年に地名に因んだ「春木座」に改称し、1877年には市川團十郎、坂東家橘、中村時蔵、市川小伝次らが来演した。1888年6月に全焼し、1891年にはドイツ風建築で再建されたが、1898年にふたたび全焼した。1899年には本郷座として再建されたが、1923年9月の関東大震災で焼失した。バラック建築で再建され、1930年には松竹系映画館に縁こうした。1945年には空襲で被災した。*23
1873年7月、本郷の地主である奥田登一郎は春木町に芝居小屋「奥田座」を開場させた。1876年10月には町名から「春木座」に改称し、この時代には「東都十大劇場」に数えられた。1902年3月には「本郷座」に改称すると、1903年には新派劇を上演するようになった。川上音二郎と貞奴の一派による「ハムレット」、高田実や河合武雄らによる「フランチェスカ」や「高野聖」や「ホトトギス」や「金色夜又」などである。1910年には松竹合名会社が経営者となり、大正時代には新歌舞伎、新派、新劇などが上演された。1923年の関東大震災後には「東京劇場」や「明治座」に人気が移り、1930年には松竹系洋画の専門映画館となった。1945年には戦災で焼失した。1993年現在の本郷3丁目14番地であり、日本ビクターのビルが建つ辺りである。*24
文京区本郷3-14の「本郷座跡」。地下鉄本郷三丁目駅の南東にあり、ビクター本郷ビルの角に記念碑が建っている。1873年、地主の奥田氏によって「奥田座」として開場し、「春木座」、本郷座と改称した。川上音二郎と貞奴による「ハムレット」、高田実・河合武雄らの「フランチェスカ」や「高野聖」などがヒットした。1923年の関東大震災後は「東京劇場」や「明治座」が主流となった。*25
文京区本郷3-14の「本郷座跡」。1873年に地主の奥田氏が芝居小屋「奥田座」を開場させた。その後「春日座」に改称すると、1902年には本郷座に改称した。1923年の関東大震災で焼失し、震災後に本郷座は再建されたものの、新設された「明治座」などに観客が流れ、1930年には松竹作品を上映する映画館に転向した。1945年に戦災で焼失した。2017年現在の跡地はビクター社。*26
開館年 : 1873年、1902年頃(再建)、1924年(再建)
閉館年 : 1945年
1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「本郷座」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に「日本ビクター東京機器営業所」。1977年の住宅地図では跡地に「日本ビクター」。跡地は「NF本郷ビル」(旧:ビクター本郷ビル)。最寄駅は東京メトロ丸ノ内線・都営地下鉄大江戸線本郷三丁目駅。
1910年には本郷区の「本郷座」が松竹合名会社の傘下となり、1911年には劇場の大改修が行われたが、1923年の関東大震災で焼失した。1930年には松竹の映画館となった。*19
1923年9月10日頃の本郷区春木町1丁目にあった、関東大震災直後の「本郷座」の写真あり。それまでに2度焼失しており、1923年の関東大震災が3度目の焼失となった。その後再建され、1930年には常設映画館に転向すると、主として洋画を上映した。1997年現在の文京区本郷3丁目である。*20
1925年の本郷区春木町1丁目にあった「本郷座」の写真あり。1923年9月の関東大震災で焼失した後、半年後には早くも復興興行を催した。1997年現在の文京区本郷3丁目である。*21
1873年には本郷に「奥田座」が開場し、1875年から1876年頃には「春木座」に改称した。その後、市川團十郎や尾上菊五郎など最高峰の役者が出演する劇場となった。1890年と1898年に火災で類焼したが、煉瓦造で1500人収容の劇場として再建された。1902年には「本郷座」に改称すると、1910年には松竹合名社の直営となった。1923年の関東大震災で焼失したが、1924年にはバラック建築で営業を再開し、昭和初期には映画館に転向した。1945年の東京大空襲で焼失し、戦後に再建されることはなかった。*22
文京区春木町の「本郷座」跡。本郷3丁目から上野方面に向かって歩くと、左側に本郷座跡地がある。1873年に「奥田屋」(座ではなく屋は原文ママ)として発足し、1875年に地名に因んだ「春木座」に改称し、1877年には市川團十郎、坂東家橘、中村時蔵、市川小伝次らが来演した。1888年6月に全焼し、1891年にはドイツ風建築で再建されたが、1898年にふたたび全焼した。1899年には本郷座として再建されたが、1923年9月の関東大震災で焼失した。バラック建築で再建され、1930年には松竹系映画館に縁こうした。1945年には空襲で被災した。*23
1873年7月、本郷の地主である奥田登一郎は春木町に芝居小屋「奥田座」を開場させた。1876年10月には町名から「春木座」に改称し、この時代には「東都十大劇場」に数えられた。1902年3月には「本郷座」に改称すると、1903年には新派劇を上演するようになった。川上音二郎と貞奴の一派による「ハムレット」、高田実や河合武雄らによる「フランチェスカ」や「高野聖」や「ホトトギス」や「金色夜又」などである。1910年には松竹合名会社が経営者となり、大正時代には新歌舞伎、新派、新劇などが上演された。1923年の関東大震災後には「東京劇場」や「明治座」に人気が移り、1930年には松竹系洋画の専門映画館となった。1945年には戦災で焼失した。1993年現在の本郷3丁目14番地であり、日本ビクターのビルが建つ辺りである。*24
文京区本郷3-14の「本郷座跡」。地下鉄本郷三丁目駅の南東にあり、ビクター本郷ビルの角に記念碑が建っている。1873年、地主の奥田氏によって「奥田座」として開場し、「春木座」、本郷座と改称した。川上音二郎と貞奴による「ハムレット」、高田実・河合武雄らの「フランチェスカ」や「高野聖」などがヒットした。1923年の関東大震災後は「東京劇場」や「明治座」が主流となった。*25
文京区本郷3-14の「本郷座跡」。1873年に地主の奥田氏が芝居小屋「奥田座」を開場させた。その後「春日座」に改称すると、1902年には本郷座に改称した。1923年の関東大震災で焼失し、震災後に本郷座は再建されたものの、新設された「明治座」などに観客が流れ、1930年には松竹作品を上映する映画館に転向した。1945年に戦災で焼失した。2017年現在の跡地はビクター社。*26
所在地 : 東京市小石川区大塚町(1925年)、東京市小石川区大塚上町24(1930年・1934年・1936年・1941年)、東京市小石川区大塚上町(1943年)、東京都小石川区大塚上町24(1947年)、東京都文京区上町24(1950年)、東京都文京区大塚上町24(1953年・1955年・1958年・1959年・1960年・1961年)
開館年 : 1920年11月18日、1953年2月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年2月開館。1925年の映画館名簿では「大塚電気館」。1930年・1934年の映画館名簿では「大塚富士館」。1936年・1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「大塚日活館」。1950年・1953年・1955年・1958年・1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「大塚映画劇場」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「大塚映画劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に「東邦音楽大学第二講堂」。跡地は「東邦音楽短期大学創立50周年記念館」。最寄駅は東京メトロ丸の内線新大塚駅。
小石川区大塚上町24の「大塚富士館」。1920年11月18日開館。収容人員384人。*27
1913年、小石川区大塚上町24に資本金8000円の株式会社で活動常設館「大塚電気館」が創設された。発起人は四谷警察署の藤見定晴署長。1930年には日本興業株式会社によって買収されて「大塚富士館」に改称した。収容人員600人。*28
1956年頃の文京区大塚にあった「大塚映画劇場」の写真あり。1913年、小石川区大塚上町に「大塚電気館」として開館し、「大塚富士館」、「大塚日活館」に改称すると、1947年には大塚映画劇場となった。1961年に閉館した。*29
開館年 : 1920年11月18日、1953年2月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年2月開館。1925年の映画館名簿では「大塚電気館」。1930年・1934年の映画館名簿では「大塚富士館」。1936年・1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「大塚日活館」。1950年・1953年・1955年・1958年・1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「大塚映画劇場」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「大塚映画劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に「東邦音楽大学第二講堂」。跡地は「東邦音楽短期大学創立50周年記念館」。最寄駅は東京メトロ丸の内線新大塚駅。
小石川区大塚上町24の「大塚富士館」。1920年11月18日開館。収容人員384人。*27
1913年、小石川区大塚上町24に資本金8000円の株式会社で活動常設館「大塚電気館」が創設された。発起人は四谷警察署の藤見定晴署長。1930年には日本興業株式会社によって買収されて「大塚富士館」に改称した。収容人員600人。*28
1956年頃の文京区大塚にあった「大塚映画劇場」の写真あり。1913年、小石川区大塚上町に「大塚電気館」として開館し、「大塚富士館」、「大塚日活館」に改称すると、1947年には大塚映画劇場となった。1961年に閉館した。*29
所在地 : 東京都小石川区音羽町7-1(1947年)、東京都文京区音羽町7-1(1950年)、東京都文京区音羽7-1(1953年)、東京都文京区音羽町7-1(1955年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1947年2月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年2月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「光音映画劇場」。1950年の映画館名簿では「光音劇場」。1953年の映画館名簿では「音羽光音劇場」。1955年・1958年・1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「音羽名画座」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「音羽名画座」。1962年の映画館名簿では「音羽東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に「パイオニアKK倉庫」。跡地は「文京区立音羽地域活動センター」建物北西部。最寄駅は東京メトロ有楽町線護国寺駅。
開館年 : 1947年2月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年2月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「光音映画劇場」。1950年の映画館名簿では「光音劇場」。1953年の映画館名簿では「音羽光音劇場」。1955年・1958年・1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「音羽名画座」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「音羽名画座」。1962年の映画館名簿では「音羽東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に「パイオニアKK倉庫」。跡地は「文京区立音羽地域活動センター」建物北西部。最寄駅は東京メトロ有楽町線護国寺駅。
所在地 : 東京都文京区柳町23(1953年・1955年・1958年・1959年)、東京都文京区柳町22(1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1950年5月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年5月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「文京映画劇場」。1958年の映画館名簿では「文京東映」。1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「文京映画」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「文京映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では後の文化シヤッターの場所に「最高裁判所柳町宿舎」。1977年の住宅地図では後の文化シヤッターの場所に「株式会社ラブリー」。跡地は「文化シヤッター」西側の道路上。最寄駅は都営地下鉄三田線春日駅。
戦後の本郷界隈には「文京映画」と「文京東映」の2館の映画館があった。文京映画は白山通りに面した旧柳町(現・西片1丁目)にあり、定員324人で大映系の映画館だった。文京東映は旧田町(現・西片1丁目)にあり、東映系の映画館だった。*30
開館年 : 1950年5月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年5月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「文京映画劇場」。1958年の映画館名簿では「文京東映」。1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「文京映画」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「文京映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では後の文化シヤッターの場所に「最高裁判所柳町宿舎」。1977年の住宅地図では後の文化シヤッターの場所に「株式会社ラブリー」。跡地は「文化シヤッター」西側の道路上。最寄駅は都営地下鉄三田線春日駅。
戦後の本郷界隈には「文京映画」と「文京東映」の2館の映画館があった。文京映画は白山通りに面した旧柳町(現・西片1丁目)にあり、定員324人で大映系の映画館だった。文京東映は旧田町(現・西片1丁目)にあり、東映系の映画館だった。*30
所在地 : 東京都文京区西丸町19(1957年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年・1963年・1966年・1967年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1967年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「駕籠町映画」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「駕籠町映劇」。1963年の映画館名簿では「駕籠町映劇」。1966年・1967年の映画館名簿では「駕籠町映画劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に空白。跡地は「デニーズ千石店」が入る「千石ビル」。最寄駅は都営地下鉄三田線千石駅。
昭和30年代の映画館ブームでは、文京区に「駕籠町映画劇場」、「根津アカデミー劇場」、「文京東映劇場」、「動坂シネマ」などが開館した。*31
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1967年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「駕籠町映画」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「駕籠町映劇」。1963年の映画館名簿では「駕籠町映劇」。1966年・1967年の映画館名簿では「駕籠町映画劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に空白。跡地は「デニーズ千石店」が入る「千石ビル」。最寄駅は都営地下鉄三田線千石駅。
昭和30年代の映画館ブームでは、文京区に「駕籠町映画劇場」、「根津アカデミー劇場」、「文京東映劇場」、「動坂シネマ」などが開館した。*31
所在地 : 東京都文京区駒込千駄木町194(1958年)、東京都文京区千駄木町194(1959年・1960年・1963年)、東京都文京区千駄木町2-44-3(1966年・1967年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1967年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「根津アカデミー劇場」。1959年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「根津アカデミー」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「根津アカデミー」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では「根津アカデミー」。1977年の住宅地図では跡地に「ゼネラル石油千駄木給油所」。跡地は「朝日信用金庫根津支店」。最寄駅は東京メトロ千代田線千駄木駅。
昭和30年代の映画館ブームでは、文京区に「駕籠町映画劇場」、「根津アカデミー劇場」、「文京東映劇場」、「動坂シネマ」などが開館した。*32
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1967年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「根津アカデミー劇場」。1959年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「根津アカデミー」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「根津アカデミー」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では「根津アカデミー」。1977年の住宅地図では跡地に「ゼネラル石油千駄木給油所」。跡地は「朝日信用金庫根津支店」。最寄駅は東京メトロ千代田線千駄木駅。
昭和30年代の映画館ブームでは、文京区に「駕籠町映画劇場」、「根津アカデミー劇場」、「文京東映劇場」、「動坂シネマ」などが開館した。*32
所在地 : 東京市本郷区根津(1925年)、東京市本郷区千駄木町134(1927年・1930年・1934年)、東京市本郷区駒込千駄木町134(1936年)、東京市本郷区駒込千駄木町134(1941年)、東京市本郷区駒込千駄木町(1943年)、東京都本郷区千駄木町134(1947年)、東京都文京区千駄木町134(1950年)、東京都文京区駒込千駄木町134(1953年)、東京都文京区千駄木町134(1955年・1958年・1959年・1960年・1963年)、東京都文京区千駄木町2-1-11(1966年・1968年)
開館年 : 1913年1月
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1913年1月開館。1925年・1927年・1930年の映画館名簿では「芙蓉館」。1934年の映画館名簿では「根津芙蓉館」。1936年の映画館名簿では「芙蓉館」。1941年の映画館名簿では「根津東宝映画劇場」。1943年の映画館名簿では「根津東宝館」。1947年の映画館名簿では「根津東宝映画劇場」。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「根津映画劇場」。1958年・1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「根津東映」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「根津東映」。1966年・1968年の映画館名簿では「根津東映劇場」。1969年の住宅地図では「根津東映映劇」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1977年の住宅地図では跡地に空白。跡地はマンション「プラウド文京千駄木」。最寄駅は東京メトロ千代田線千駄木駅。
1942年頃の本郷区駒込千駄木にあった映画館「根津東宝映画劇場」の写真あり。「東宝直営」の文字が見え、右側には路面電車が走っている。旧称は「芙蓉館」。根津神社の裏門坂を下ってから不忍通りに出た角にあり、1968年まで営業を続けた。1997年現在の文京区千駄木2丁目である。*33
1967年7月の文京区にあった「根津東映」の写真あり。手前は都電の線路である。根津の通りは千駄木町で大きくカーブしており、左側には洋画や時代劇の三番館「芙蓉館」があった。戦時中には「根津東宝」に改称し、「白山東宝」をフィルムを共有する姉妹館としていた。戦後には根津東映に改称した。*34
1967年の文京区不忍通りにあった映画館(旧芙蓉館)の写真あり。手前は都電の線路である。1913年に開館し、1941年には「根津東宝映画劇場」に、1943年には「根津東宝館」に、1949年には「根津映画劇場」に、1958年には「根津東映」に改称した。1968年に閉館した。*35
開館年 : 1913年1月
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1913年1月開館。1925年・1927年・1930年の映画館名簿では「芙蓉館」。1934年の映画館名簿では「根津芙蓉館」。1936年の映画館名簿では「芙蓉館」。1941年の映画館名簿では「根津東宝映画劇場」。1943年の映画館名簿では「根津東宝館」。1947年の映画館名簿では「根津東宝映画劇場」。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「根津映画劇場」。1958年・1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「根津東映」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「根津東映」。1966年・1968年の映画館名簿では「根津東映劇場」。1969年の住宅地図では「根津東映映劇」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1977年の住宅地図では跡地に空白。跡地はマンション「プラウド文京千駄木」。最寄駅は東京メトロ千代田線千駄木駅。
1942年頃の本郷区駒込千駄木にあった映画館「根津東宝映画劇場」の写真あり。「東宝直営」の文字が見え、右側には路面電車が走っている。旧称は「芙蓉館」。根津神社の裏門坂を下ってから不忍通りに出た角にあり、1968年まで営業を続けた。1997年現在の文京区千駄木2丁目である。*33
1967年7月の文京区にあった「根津東映」の写真あり。手前は都電の線路である。根津の通りは千駄木町で大きくカーブしており、左側には洋画や時代劇の三番館「芙蓉館」があった。戦時中には「根津東宝」に改称し、「白山東宝」をフィルムを共有する姉妹館としていた。戦後には根津東映に改称した。*34
1967年の文京区不忍通りにあった映画館(旧芙蓉館)の写真あり。手前は都電の線路である。1913年に開館し、1941年には「根津東宝映画劇場」に、1943年には「根津東宝館」に、1949年には「根津映画劇場」に、1958年には「根津東映」に改称した。1968年に閉館した。*35
所在地 : 東京市本郷区動坂神明町(1925年)、東京市本郷区動坂神明町157(1930年・1934年)、東京市本郷区駒込神明町157(1936年)、東京市本郷区動坂神明町157(1941年)、東京市本郷区動坂神明町(1943年)、東京都文京区駒込神明町157(1953年・1955年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年・1963年・1966年)、東京都文京区本駒込4-37-6(1969年・1973年)
開館年 : 1923年10月、1950年11月
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年11月開館。1925年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「動坂松竹館」。1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1959年の映画館名簿では「動坂映画劇場」。1960年の映画館名簿では「動坂松竹劇場・動坂シネマ」(2館)。1961年・1962年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「動坂映画劇場・動坂シネマ」(2館)。1969年の住宅地図では「動坂映画 動坂シネマ」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。1977年の住宅地図では跡地に空白。跡地はマンション「ライオンズマンション駒込第2」。最寄駅はJR山手線・京浜東北線田端駅。
1923年9月に関東大震災が起こった際、松竹キネマの直営館は「牛込平和館」、「動坂松竹館」、「麻布松竹館」、「品川帝国館」、「赤坂帝国館」の5館のみであり、その他の映画館は歩合または小屋借りだったため、直接の損害額は低かった。*36
1923年9月には関東大震災が起こり、松竹の映画館も大きな被害を受けた。震災後の10月9日にまず「麻布松竹館」が復興し、10月15日には「品川帝国館」、10月16日には「牛込松竹館」、10月19日には「赤坂帝国館」と「動坂松竹館」が営業を再開した。*37
昭和初期にかけて、後の文京区域では「動坂松竹館」、「進明館」、「伝通館」、「白山キネマ」、「後楽園スポーツシネマ」が開館した。太平洋戦争中には相次いで休館し、大半の映画館は1945年の東京大空襲で焼失した。*38
昭和30年代の映画館ブームでは、文京区に「駕籠町映画劇場」、「根津アカデミー劇場」、「文京東映劇場」、「動坂シネマ」などが開館した。*39
開館年 : 1923年10月、1950年11月
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年11月開館。1925年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「動坂松竹館」。1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1959年の映画館名簿では「動坂映画劇場」。1960年の映画館名簿では「動坂松竹劇場・動坂シネマ」(2館)。1961年・1962年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「動坂映画劇場・動坂シネマ」(2館)。1969年の住宅地図では「動坂映画 動坂シネマ」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。1977年の住宅地図では跡地に空白。跡地はマンション「ライオンズマンション駒込第2」。最寄駅はJR山手線・京浜東北線田端駅。
1923年9月に関東大震災が起こった際、松竹キネマの直営館は「牛込平和館」、「動坂松竹館」、「麻布松竹館」、「品川帝国館」、「赤坂帝国館」の5館のみであり、その他の映画館は歩合または小屋借りだったため、直接の損害額は低かった。*36
1923年9月には関東大震災が起こり、松竹の映画館も大きな被害を受けた。震災後の10月9日にまず「麻布松竹館」が復興し、10月15日には「品川帝国館」、10月16日には「牛込松竹館」、10月19日には「赤坂帝国館」と「動坂松竹館」が営業を再開した。*37
昭和初期にかけて、後の文京区域では「動坂松竹館」、「進明館」、「伝通館」、「白山キネマ」、「後楽園スポーツシネマ」が開館した。太平洋戦争中には相次いで休館し、大半の映画館は1945年の東京大空襲で焼失した。*38
昭和30年代の映画館ブームでは、文京区に「駕籠町映画劇場」、「根津アカデミー劇場」、「文京東映劇場」、「動坂シネマ」などが開館した。*39
所在地 : 東京都文京区田町12(1959年・1960年・1961年・1962年・1963年)、東京都文京区西片15-5(1966年)、東京都文京区西片1-15-5(1969年・1973年・1974年・1975年・1978年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1978年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1961年・1962年・1963年の映画館名簿では「文京東映」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「文京東映」。1966年・1969年・1973年・1974年・1975年・1978年の映画館名簿では「文京東映劇場」。1969年・1977年の住宅地図では「文京東映」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「パラシオン本郷」。最寄駅は都営地下鉄三田線春日駅。
昭和30年代の映画館ブームでは、文京区に「駕籠町映画劇場」、「根津アカデミー劇場」、「文京東映劇場」、「動坂シネマ」などが開館した。*40
戦後の本郷界隈には「文京映画」と「文京東映」の2館の映画館があった。文京映画は白山通りに面した旧柳町(現・西片1丁目)にあり、定員324人で大映系の映画館だった。文京東映は旧田町(現・西片1丁目)にあり、東映系の映画館だった。*41
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1978年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1961年・1962年・1963年の映画館名簿では「文京東映」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「文京東映」。1966年・1969年・1973年・1974年・1975年・1978年の映画館名簿では「文京東映劇場」。1969年・1977年の住宅地図では「文京東映」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「パラシオン本郷」。最寄駅は都営地下鉄三田線春日駅。
昭和30年代の映画館ブームでは、文京区に「駕籠町映画劇場」、「根津アカデミー劇場」、「文京東映劇場」、「動坂シネマ」などが開館した。*40
戦後の本郷界隈には「文京映画」と「文京東映」の2館の映画館があった。文京映画は白山通りに面した旧柳町(現・西片1丁目)にあり、定員324人で大映系の映画館だった。文京東映は旧田町(現・西片1丁目)にあり、東映系の映画館だった。*41
所在地 : 東京市小石川区春日町1-1 後楽園スタジアム玄関脇(1941年)、東京市小石川区春日町1(1943年)、東京都小石川区春日町1-1(1947年)、東京都文京区小石川春日町1-1(1950年)、東京都文京区春日町1-1(1963年)、東京都文京区後楽1-3(1966年・1969年)、東京都文京区後楽1-3-62(1973年・1974年・1975年)、東京都文京区後楽1-3(1978年・1980年)、東京都文京区後楽1-3-61(1985年・1988年・1990年・1992年)
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1992年
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「スポーツ・シネマ」。1943年の映画館名簿では「後楽園スポーツ・シネマ」。1947年の映画館名簿では「後楽園映画劇場」。1950年の映画館名簿では「後楽園シネマ」。1953年・1955年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「後楽園アートシアター」。1966年・1969年・1973年・1974年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「後楽園シネマ」。1969年の住宅地図では「1階アートシアター 2階後楽園飯店 3階スチームバス マッサージ 4階後楽園スタジアム本社事務所 5階ジムナジアム」。1977年の住宅地図では「1階シネマ フルーツパーラフルフル レストラン 2階後楽園飯店 3階レイシューティング サウナ 4階・5階ホール」。1989年12月1日シネドーム改称。1990年・1992年の映画館名簿では「シネドーム」。1992年の映画館名簿では経営会社が株式会社東京ドーム、経営者が保坂誠、支配人が大高克民、鉄筋造1階、252席、洋画ロードショーを上映。1994年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「後楽園ホール」西側の建物。最寄駅はJR中央本線水道橋駅。
戦時体制によって外来語が日本語化された結果、1942年12月には「スポーツ・シネマ」が「後楽園映画館」に改称した。1944年には後楽園スタヂアムが後楽園運動場となっている。*42
1963年12月、「後楽園アートシアター」は営業不振を理由にアート・シアターチェーン(ATG)を脱退し、「後楽園シネマ」に改称した。4月に新宿文化や日劇文化とともにアート・シアター劇場として発足したが、立地条件から営業成績が伸びなかった。*43
1989年12月1日、「後楽園シネマ」は3か月の場内改装を終え、「シネドーム」に改称して再開館した。一本立てのロードショー劇場となった。*44
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1992年
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「スポーツ・シネマ」。1943年の映画館名簿では「後楽園スポーツ・シネマ」。1947年の映画館名簿では「後楽園映画劇場」。1950年の映画館名簿では「後楽園シネマ」。1953年・1955年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「後楽園アートシアター」。1966年・1969年・1973年・1974年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「後楽園シネマ」。1969年の住宅地図では「1階アートシアター 2階後楽園飯店 3階スチームバス マッサージ 4階後楽園スタジアム本社事務所 5階ジムナジアム」。1977年の住宅地図では「1階シネマ フルーツパーラフルフル レストラン 2階後楽園飯店 3階レイシューティング サウナ 4階・5階ホール」。1989年12月1日シネドーム改称。1990年・1992年の映画館名簿では「シネドーム」。1992年の映画館名簿では経営会社が株式会社東京ドーム、経営者が保坂誠、支配人が大高克民、鉄筋造1階、252席、洋画ロードショーを上映。1994年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「後楽園ホール」西側の建物。最寄駅はJR中央本線水道橋駅。
戦時体制によって外来語が日本語化された結果、1942年12月には「スポーツ・シネマ」が「後楽園映画館」に改称した。1944年には後楽園スタヂアムが後楽園運動場となっている。*42
1963年12月、「後楽園アートシアター」は営業不振を理由にアート・シアターチェーン(ATG)を脱退し、「後楽園シネマ」に改称した。4月に新宿文化や日劇文化とともにアート・シアター劇場として発足したが、立地条件から営業成績が伸びなかった。*43
1989年12月1日、「後楽園シネマ」は3か月の場内改装を終え、「シネドーム」に改称して再開館した。一本立てのロードショー劇場となった。*44
所在地 : 東京都文京区本駒込2-29-10(1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2006年)
開館年 : 1974年2月4日
閉館年 : 2006年12月31日
Wikipedia : 三百人劇場
1969年の住宅地図では後の映画館の場所に「山川医院」。1977年の住宅地図では後の映画館の場所に「現代演劇協会」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2006年の映画館名簿では「三百人劇場」。2006年の映画館名簿では経営会社が財団法人現代演劇協会、経営者が福田逸、支配人が福島治夫、鉄筋造1階、302席、邦画・洋画を上映。2008年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「パークリュクス本駒込」。最寄駅は都営地下鉄三田線千石駅。
1974年2月4日、文京区本駒込2丁目で現代演劇協会の拠点劇場となる「参百人劇場」の完成披露が行われた。定席302席。間口10.8メートル、奥行7.9メートル、高さ5メートルの舞台を有する。
2006年の文京区本駒込2丁目にあった「三百人劇場」の写真あり。1974年に開館し、文京区唯一の劇場として演劇、映画、落語などの興行が行われた。建物の老朽化に伴って2006年に閉館した。*45
開館年 : 1974年2月4日
閉館年 : 2006年12月31日
Wikipedia : 三百人劇場
1969年の住宅地図では後の映画館の場所に「山川医院」。1977年の住宅地図では後の映画館の場所に「現代演劇協会」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2006年の映画館名簿では「三百人劇場」。2006年の映画館名簿では経営会社が財団法人現代演劇協会、経営者が福田逸、支配人が福島治夫、鉄筋造1階、302席、邦画・洋画を上映。2008年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「パークリュクス本駒込」。最寄駅は都営地下鉄三田線千石駅。
1974年2月4日、文京区本駒込2丁目で現代演劇協会の拠点劇場となる「参百人劇場」の完成披露が行われた。定席302席。間口10.8メートル、奥行7.9メートル、高さ5メートルの舞台を有する。
2006年の文京区本駒込2丁目にあった「三百人劇場」の写真あり。1974年に開館し、文京区唯一の劇場として演劇、映画、落語などの興行が行われた。建物の老朽化に伴って2006年に閉館した。*45

このページへのコメント
昭和31年に文京区千石2丁目(旧林町)で生まれ、社会人になって実家を出るまでそこで育ち、暮らしました。駕籠町(現在の地下鉄三田線千石駅)に有った映画館は、小学生の頃若大将シリーズ、怪獣映画、クレージーキャッツもの等を観た記憶が有ります。大学生時代は近所の三百人劇場で、当時登り盛りの志ん朝の独演によく足を運んだ。池袋の名画座、後楽園シネマや大塚の鈴本キネマなんかも時折訪れた。昭和の時代は、町中に沢山映画館が有った。