日本の映画館の総合データベースです。

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文京区

江戸川松竹ニュース劇場/江戸川松竹映劇
所在地 : 東京市小石川区小日向水道町394(1941年)、東京市小石川区小日向水道町(1943年)
開館年 : 1941年以後1943年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「江戸川松竹ニュース劇場」。1943年の映画館名簿では「江戸川松竹映劇」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
伝通館/小石川松竹劇場/小石川松竹映劇
所在地 : 東京市小石川区伝通院(1925年)、東京市小石川区表町64(1930年)、東京市小石川区表町63(1934年・1936年)、東京市小石川区表町6(1941年)、東京市小石川区表町(1943年)
開館年 : 1922年12月31日
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1925年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「伝通館」。1941年の映画館名簿では「小石川松竹劇場」。1943年の映画館名簿では「小石川松竹映劇」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

小石川区表町63の「伝通館」。1922年12月31日開館。収容人員450人。*1

1922年12月30日、小石川区表町63に株式会社で活動常設館「伝通館」が創設された。その後経営難で閉館していたが、1933年12月17日に荒牧福吉によって営業再開した。収容人員500人。*2

昭和初期にかけて、後の文京区域では「動坂松竹館」、「進明館」、「伝通館」、「白山キネマ」、「後楽園スポーツシネマ」が開館した。太平洋戦争中には相次いで休館し、大半の映画館は1945年の東京大空襲で焼失した。*3
白山キネマ/白山東宝映画劇場/白山東宝映劇
所在地 : 東京市小石川区指ヶ谷町130(1930年・1934年・1936年・1941年)、東京市小石川区指ケ谷町(1943年)
開館年 : 1928年1月10日
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「白山キネマ」。1941年の映画館名簿では「白山東宝映画劇場」。1943年の映画館名簿では「白山東宝映劇」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

小石川区指ヶ谷町130の「白山キネマ」。1928年1月10日開館。収容人員350人。*4

1928年10月、小石川区指ヶ谷町130に資本金8万5000円で活動常設館「白山キネマ」が創設された。紅梅亭という寄席跡地を買収したものである。収容人員は階上が180人、階下が200人。*5

昭和初期にかけて、後の文京区域では「動坂松竹館」、「進明館」、「伝通館」、「白山キネマ」、「後楽園スポーツシネマ」が開館した。太平洋戦争中には相次いで休館し、大半の映画館は1945年の東京大空襲で焼失した。*6
喜楽館
所在地 : 東京市小石川区柳町(1925年)、東京市小石川区柳町22(1930年・1934年・1936年・1941年)、東京市小石川区柳町(1943年)
開館年 : 1911年9月8日
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1925年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「喜楽館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

小石川区柳町23の「喜楽館」。1911年9月8日開館。収容人員361人。*7

小石川区柳町22の「喜楽館」は小石川区最古の活動常設館である。1934年現在から約20年前、小山金太郎によって資本金6万5000円で創立され、その後下部好き会社となった。収容人員400人。*8
駒込館
所在地 : 東京市本郷区駒込肴町(1925年)、東京市本郷区浅嘉町3(1927年)、東京市本郷区駒込浅嘉町3(1930年)、東京市本郷区駒込浅嘉町1(1934年)、東京市本郷区駒込浅嘉町3(1936年)、東京市本郷区駒込浅嘉町(1941年)、東京市本郷区浅嘉町(1943年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「駒込館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
進明館
所在地 : 東京市本郷区駒込神明町161(1925年)、東京市本郷区神明町161(1927年)、東京市本郷区動坂神明町(1930年)、東京市本郷区神明町161(1934年)、東京市本郷区駒込神明町161(1936年・1941年)、東京市本郷区駒込神明町(1943年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「進明館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

昭和初期にかけて、後の文京区域では「動坂松竹館」、「進明館」、「伝通館」、「白山キネマ」、「後楽園スポーツシネマ」が開館した。太平洋戦争中には相次いで休館し、大半の映画館は1945年の東京大空襲で焼失した。*9
本郷座
所在地 : 東京市本郷区春木町(1930年)、東京市本郷区春木町1-4(1934年)、東京市本郷区春木町1-19(1936年)、東京市本郷区春木町1-7(1941年)、東京市本郷区春木町1(1943年)
開館年 : 1924年
閉館年 : 1945年頃
1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「本郷座」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

1910年には本郷区の「本郷座」が松竹合名会社の傘下となり、1911年には劇場の大改修が行われたが、1923年の関東大震災で焼失した。1930年には松竹の映画館となった。*10

1873年には本郷に「奥田座」が開場し、1875年から1876年頃には「春木座」に改称した。その後、市川團十郎や尾上菊五郎など最高峰の役者が出演する劇場となった。1890年と1898年に火災で類焼したが、煉瓦造で1500人収容の劇場として再建された。1902年には「本郷座」に改称すると、1910年には松竹合名社の直営となった。1923年の関東大震災で焼失したが、1924年にはバラック建築で営業を再開し、昭和初期には映画館に転向した。1945年の東京大空襲で焼失し、戦後に再建されることはなかった。*11
大塚電気館/大塚富士館/大塚日活館/大塚映画劇場
所在地 : 東京市小石川区大塚町(1925年)、東京市小石川区大塚上町24(1930年・1934年・1936年・1941年)、東京市小石川区大塚上町(1943年)、東京都小石川区大塚上町24(1947年)、東京都文京区上町24(1950年)、東京都文京区大塚上町24(1953年・1955年・1958年・1959年・1960年・1961年)
開館年 : 1920年11月18日、1953年2月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年2月開館。1925年の映画館名簿では「大塚電気館」。1930年・1934年の映画館名簿では「大塚富士館」。1936年・1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「大塚日活館」。1950年・1953年・1955年・1958年・1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「大塚映画劇場」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「大塚映画劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東邦音楽短期大学創立50周年記念館」。最寄駅は東京メトロ丸の内線新大塚駅。

小石川区大塚上町24の「大塚富士館」。1920年11月18日開館。収容人員384人。*12

1913年、小石川区大塚上町24に資本金8000円の株式会社で活動常設館「大塚電気館」が創設された。発起人は四谷警察署の藤見定晴署長。1930年には日本興業株式会社によって買収されて「大塚富士館」に改称した。収容人員600人。*13

1956年頃の文京区大塚にあった「大塚映画劇場」の写真あり。1913年、小石川区大塚上町に「大塚電気館」として開館し、「大塚富士館」、「大塚日活館」に改称すると、1947年には大塚映画劇場となった。1961年に閉館した。*14
光音映画劇場/光音劇場/音羽光音劇場/音羽名画座/音羽東映
所在地 : 東京都小石川区音羽町7-1(1947年)、東京都文京区音羽町7-1(1950年)、東京都文京区音羽7-1(1953年)、東京都文京区音羽町7-1(1955年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1947年2月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年2月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「光音映画劇場」。1950年の映画館名簿では「光音劇場」。1953年の映画館名簿では「音羽光音劇場」。1955年・1958年・1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「音羽名画座」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「音羽名画座」。1962年の映画館名簿では「音羽東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「文京区立音羽地域活動センター」建物北西部。最寄駅は東京メトロ有楽町線護国寺駅。
文京映画劇場/文京東映(旧)/文京映画
所在地 : 東京都文京区柳町23(1953年・1955年・1958年・1959年)、東京都文京区柳町22(1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1950年5月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年5月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「文京映画劇場」。1958年の映画館名簿では「文京東映」。1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「文京映画」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「文京映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「文化シヤッター」西側の道路上。最寄駅は都営地下鉄三田線春日駅。
駕籠町映画/駕籠町映劇/駕籠町映画劇場
所在地 : 東京都文京区西丸町19(1957年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年・1963年・1966年・1967年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1967年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「駕籠町映画」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「駕籠町映劇」。1963年の映画館名簿では「駕籠町映劇」。1966年・1967年の映画館名簿では「駕籠町映画劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「デニーズ千石店」が入る「千石ビル」。最寄駅は都営地下鉄三田線千石駅。

昭和30年代の映画館ブームでは、文京区に「駕籠町映画劇場」、「根津アカデミー劇場」、「文京東映劇場」、「動坂シネマ」などが開館した。*15
根津アカデミー劇場/根津アカデミー
所在地 : 東京都文京区駒込千駄木町194(1958年)、東京都文京区千駄木町194(1959年・1960年・1963年)、東京都文京区千駄木町2-44-3(1966年・1967年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1967年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「根津アカデミー劇場」。1959年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「根津アカデミー」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「根津アカデミー」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「朝日信用金庫根津支店」。最寄駅は東京メトロ千代田線千駄木駅。

昭和30年代の映画館ブームでは、文京区に「駕籠町映画劇場」、「根津アカデミー劇場」、「文京東映劇場」、「動坂シネマ」などが開館した。*16
根津芙蓉館/芙蓉館/根津東宝館/根津東宝映画劇場/根津映画劇場/根津東映/根津東映劇場
所在地 : 東京市本郷区根津(1925年)、東京市本郷区千駄木町134(1927年・1930年・1934年)、東京市本郷区駒込千駄木町134(1936年)、東京市本郷区駒込千駄木町134(1941年)、東京市本郷区駒込千駄木町(1943年)、東京都本郷区千駄木町134(1947年)、東京都文京区千駄木町134(1950年)、東京都文京区駒込千駄木町134(1953年)、東京都文京区千駄木町134(1955年・1958年・1959年・1960年・1963年)、東京都文京区千駄木町2-1-11(1966年・1968年)
開館年 : 1913年1月
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1913年1月開館。1925年・1927年・1930年の映画館名簿では「芙蓉館」。1934年の映画館名簿では「根津芙蓉館」。1936年の映画館名簿では「芙蓉館」。1941年の映画館名簿では「根津東宝映画劇場」。1943年の映画館名簿では「根津東宝館」。1947年の映画館名簿では「根津東宝映画劇場」。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「根津映画劇場」。1958年・1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「根津東映」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「根津東映」。1966年・1968年の映画館名簿では「根津東映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「プラウド文京千駄木」。最寄駅は東京メトロ千代田線千駄木駅。

1967年7月の文京区にあった「根津東映」の写真あり。手前は都電の線路である。根津の通りは千駄木町で大きくカーブしており、左側には洋画や時代劇の三番館「芙蓉館」があった。戦時中には「根津東宝」に改称し、「白山東宝」をフィルムを共有する姉妹館としていた。戦後には根津東映に改称した。*17

1967年の文京区不忍通りにあった映画館(旧芙蓉館)の写真あり。手前は都電の線路である。1913年に開館し、1941年には「根津東宝映画劇場」に、1943年には「根津東宝館」に、1949年には「根津映画劇場」に、1958年には「根津東映」に改称した。1968年に閉館した。*18
動坂映画劇場/動坂松竹劇場・動坂シネマ/動坂映画劇場・動坂シネマ
所在地 : 東京市本郷区動坂神明町(1925年)、東京市本郷区動坂神明町157(1930年・1934年)、東京市本郷区駒込神明町157(1936年)、東京市本郷区動坂神明町157(1941年)、東京市本郷区動坂神明町(1943年)、東京都文京区駒込神明町157(1953年・1955年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年・1963年・1966年)、東京都文京区本駒込4-37-6(1969年・1973年)
開館年 : 1925年以前、1950年11月
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年11月開館。1925年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「動坂松竹館」。1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1959年の映画館名簿では「動坂映画劇場」。1960年の映画館名簿では「動坂松竹劇場・動坂シネマ」(2館)。1961年・1962年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「動坂映画劇場・動坂シネマ」(2館)。1969年の住宅地図では「動坂映画・動坂シネマ」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ライオンズマンション駒込第2」。最寄駅はJR山手線・京浜東北線田端駅。

昭和初期にかけて、後の文京区域では「動坂松竹館」、「進明館」、「伝通館」、「白山キネマ」、「後楽園スポーツシネマ」が開館した。太平洋戦争中には相次いで休館し、大半の映画館は1945年の東京大空襲で焼失した。*19

昭和30年代の映画館ブームでは、文京区に「駕籠町映画劇場」、「根津アカデミー劇場」、「文京東映劇場」、「動坂シネマ」などが開館した。*20
文京東映(新)/文京東映劇場
所在地 : 東京都文京区田町12(1959年・1960年・1961年・1962年・1963年)、東京都文京区西片15-5(1966年)、東京都文京区西片1-15-5(1969年・1973年・1974年・1975年・1978年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1978年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1961年・1962年・1963年の映画館名簿では「文京東映」。1961年の東京都全住宅案内図帳では「文京東映」。1966年・1969年・1973年・1974年・1975年・1978年の映画館名簿では「文京東映劇場」。1969年の住宅地図では「文京東映」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「パラシオン本郷」。最寄駅は都営地下鉄三田線春日駅。

昭和30年代の映画館ブームでは、文京区に「駕籠町映画劇場」、「根津アカデミー劇場」、「文京東映劇場」、「動坂シネマ」などが開館した。*21
スポーツシネマ/後楽園スポーツシネマ/後楽園映画劇場/後楽園アートシアター/後楽園シネマ/シネドーム
所在地 : 東京市小石川区春日町1-1 後楽園スタジアム玄関脇(1941年)、東京市小石川区春日町1(1943年)、東京都小石川区春日町1-1(1947年)、東京都文京区小石川春日町1-1(1950年)、東京都文京区春日町1-1(1963年)、東京都文京区後楽1-3(1966年・1969年)、東京都文京区後楽1-3-62(1973年・1974年・1975年)、東京都文京区後楽1-3(1978年・1980年)、東京都文京区後楽1-3-61(1985年・1988年・1990年・1992年)
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1992年
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「スポーツ・シネマ」。1943年の映画館名簿では「後楽園スポーツ・シネマ」。1947年の映画館名簿では「後楽園映画劇場」。1950年の映画館名簿では「後楽園シネマ」。1953年・1955年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「後楽園アートシアター」。1966年・1969年・1973年・1974年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「後楽園シネマ」。1969年の住宅地図では「1階アートシアター 2階後楽園飯店 3階スチームバス マッサージ 4階後楽園スタジアム本社事務所 5階ジムナジアム」。1989年12月1日シネドーム改称。1990年・1992年の映画館名簿では「シネドーム」。1992年の映画館名簿では経営会社が株式会社東京ドーム、経営者が保坂誠、支配人が大高克民、鉄筋造1階、252席、洋画ロードショーを上映。1994年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「後楽園ホール」西側の建物。最寄駅はJR中央本線水道橋駅。

戦時体制によって外来語が日本語化された結果、1942年12月には「スポーツ・シネマ」が「後楽園映画館」に改称した。1944年には後楽園スタヂアムが後楽園運動場となっている。*22

1963年12月、「後楽園アートシアター」は営業不振を理由にアート・シアターチェーン(ATG)を脱退し、「後楽園シネマ」に改称した。4月に新宿文化や日劇文化とともにアート・シアター劇場として発足したが、立地条件から営業成績が伸びなかった。*23

1989年12月1日、「後楽園シネマ」は3か月の場内改装を終え、「シネドーム」に改称して再開館した。一本立てのロードショー劇場となった。*24
三百人劇場
所在地 : 東京都文京区本駒込2-29-10(1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2006年)
開館年 : 1974年
閉館年 : 2006年12月31日
Wikipedia : 三百人劇場
1978年の映画館名簿には掲載されていない。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2006年の映画館名簿では「三百人劇場」。2006年の映画館名簿では経営会社が財団法人現代演劇協会、経営者が福田逸、支配人が福島治夫、鉄筋造1階、302席、邦画・洋画を上映。2008年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「パークリュクス本駒込」。最寄駅は都営地下鉄三田線千石駅。

2006年の文京区本駒込2丁目にあった「三百人劇場」の写真あり。1974年に開館し、文京区唯一の劇場として演劇、映画、落語などの興行が行われた。建物の老朽化に伴って2006年に閉館した。*25

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