日本の映画館の総合データベースです。



半田市

半田市の映画館

半田市が1952年に刊行した『半田の大観』によると、知多半島に映画館が増え始めたのは1935年頃。1898年に劇場として開館した葉住座は、1946年に映画館に転換して住吉会館に改称するなど、劇場から映画館に転換する施設が相次いだ。戦後の半田市では醸造業や紡績業が栄え、昭和30年代には映画館数がピークに達した。時事通信社の『映画年鑑』によると、1959年10月1日時点の半田市には9館があった。半田東映(中町)、半田日活(中町)、半田映画劇場(新栄町)、知多キネマ(南末広町)、住吉会館(住吉町)、あいおい座(亀崎町)、ロマン(西広小路)、知多東宝(西広小路)、半田松竹(泉町)である。ロマンでは『荒野の七人』などが上映された。知多キネマは前方が畳張りで、嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』やチャンバラ映画などが上映された。1960年にはテレビのカラー放送が始まり、娯楽の主役が映画からテレビに変わった。1966年の住宅地図によると、1959年にあった9館のうち半田映画劇場、住吉会館、半田松竹、あいおい座の4館がなくなった。半田東映、知多キネマ、ロマン、知多東宝の4館は1990年頃に閉館したとされる。最後まで残っていた半田日活は、晩年はポルノ映画が中心となり、1998年頃に閉館した。*1

喜楽座/帝国館/帝国映画劇場/半田劇場/半田映画劇場/半田ミュージックホール

所在地 : 愛知県半田市山方新田(1943年)、愛知県半田市山方新田219(1947年)、愛知県半田市山方新田216(1950年・1953年・1955年・1956年・1957年)、愛知県半田市新栄町19(1958年・1960年・1961年)
開館年 : 1911年(喜楽座)、1949年10月(半田映画劇場)
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1949年10月開館。1927年・1930年・1936年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年の映画館名簿では「帝国映画劇場」。1950年の映画館名簿では「半田劇場」。1953年・1955年・1956年・1957年・1958年・1960年の映画館名簿では「半田映画劇場」。1961年の映画館名簿では「半田ミュージックホール」。1961年の映画館名簿では経営者が吉田顕秀、支配人が根岸健次、鉄筋造2階暖房付、定員450、邦画を上映。1962年の住宅地図では「メトロ劇場」。1962年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の住宅地図では跡地に河村松太郎氏の民家。1985年の住宅地図では跡地に佐々木功雨氏の民家。近隣の「理容ハマダ」や「たまがわ酒店」は1962年以前から存在する。跡地は「半田市役所」近くにある「半田教育会館」南側の民家。最寄駅はJR武豊線半田駅。

1932年の『大日本職業別明細図 愛知県 第295号』には「知多キネマ」「葉住座」「喜楽座」が描かれている。(※葉住座と喜楽座の場所があべこべだと思われる)*2

1898年に半田市山方新田に紡績工場が設立されると、ほとんど人家のなかったこの地域にも市街地が形成され、1911年に劇場の喜楽座が開館した。1936年には帝国館に改称し、映画常設館に転換した。太平洋戦争後には半田映画劇場に改称した。*3

あいおい座/相生座

所在地 : 愛知県知多郡亀崎町池狭間(1947年)、愛知県半田市亀崎町(1950年・1953年)、愛知県半田市亀崎町大池38-1(1955年・1956年・1957年)、愛知県半田市亀崎町相生2(1960年・1961年・1962年)、愛知県半田市亀崎町(1963年)
開館年 : 1903年3月27日
閉館年 : 1961年? 1963年頃?
『全国映画館総覧 1955』によると1905年開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1956年の映画館名簿では「相生座」。1957年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「あいおい座」。1961年の映画館名簿では経営者が間瀬貞子、支配人が亀山豊次、木造2階、定員400、邦画・洋画を上映。1962年の住宅地図では跡地に「(相生座)」。1963年の映画館名簿では「相生座」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「並松工業」。最寄駅はJR武豊線亀崎駅。

1932年の『大日本職業別明細図 愛知県 第295号』には「相生座」が描かれている。*4

昭和初期の亀崎町の亀崎4区・5区の地図あり。現在の並松工業の場所に「相生座」とある。相生座の写真もあり、現在の並松工業が相生座跡地にあったことを示す記述もある。*5

1902年12月24日付『知多新聞』には、1903年1月早々に「相生劇場」が舞台開きを行う予定という記事が掲載されている。1903年の開館時には間瀬作右衛門を中心に株式会社を設立し、侠客の間瀬元四郎が座主となった。沢村訥子一座を招いて新築興行を行ったが、木戸賃が高すぎて不入りだった。1911年12月9日付『知多新聞』には、米価が高騰したことで農家の懐事情が良く、近年の相生座は大入り状態であるという記事が掲載されている。1925年3月3日付『知多新聞』には、3月2日から東京歌舞伎の市川左平治・尾上菊三郎・市川右昇を招いて3日間の花興行を行うという記事が掲載されている。*6

明治時代の亀崎町には博打打ちなどの渡世人である間瀬元四郎という親分がいた。間瀬作右衛門は間瀬元四郎を憂い、数人の出資者による亀崎劇場株式会社を設立、「相生座」を建設して間瀬元四郎に任せることとした。なお、間瀬作右衛門と間瀬元四郎に血縁関係はない。棟梁は梶川信蔵(ダイノブ)であり、名古屋・大須の「歌舞伎座」を模して建築した。相生座は迫り上げのスッポン、2本の花道などを有する立派な劇場だった。同時期には半田町にも「葉住座」が開館しているが、葉住座は酒蔵を改造した劇場であるため設備が異なっている。1903年3月27日、間瀬元四郎を座主として相生座が開館した。劇場開きには沢村訥子一座を招き、「高野長英 開国美談夢物語」の出し物を行った。一座が亀崎駅に到着した際には芸者をはじめとして多くの町民が出迎え、亀崎駅の開業以来最大の人出だったとされる。木戸銭が高すぎたために開館興行はうまくいかなかったが、その後は半世紀にわたって亀崎の文化の中心となった。*7

相生座に来演した著名人としては、歌舞伎役者の四代目坂東鶴之助(後の五代目中村富十郎)、浪曲師の二代目玉川勝太郎などがいる。二代目玉川勝太郎の名が売れなかった時代には、よく相生座が面倒を見ていたことで、二代目玉川勝太郎は有名になってからもよく相生座を訪れている。*8

間瀬元四郎の子どもは貞子しかいなかったが、亀崎では評判の高い美女であり、女学校を優秀な成績で卒業した。名古屋市長を務めた加藤重三郎の息子、加藤八郎はNHK職員として亀崎にやってきて、間瀬貞子と結ばれたことで間瀬元四郎の婿養子となった。加藤八郎は間瀬八郎となって2代目座主に就任したが、やがて2人は別れることとなり、間瀬貞子が3代目座主となった。1954年に名古屋テレビ塔が竣工すると、加藤八郎はテレビ塔会社の社長に就任している。*9

1903年3月27日、亀崎に相生座が開業した。名古屋の御園座で高評価を得た沢村訥子(さわむらとっし)一座を迎えて、『高野長英開国美談夢物語』という題材で劇場開き公演を行った。3月26日12時38分には一座が亀崎駅に着いたため、見物する町民で亀崎駅周辺が混雑した。翌年の1904年2月19日には、相生座を運営する亀崎劇場株式会社が半田区裁判所に設立登記されている。相生座では、芝居・講談・浪花節・各種講演会・催事などが行われた。大正時代に入ると活動写真も行われ、昭和時代にも映画が行われた。太平洋戦争末期には空襲や地震の影響で一時的に営業を休止し、日本軍の倉庫に転用された。戦後には再び営業を再開。1959年の伊勢湾台風では屋根が破損したが、修復して営業を再開している。1961年には亀崎常磐町4丁目に移転し、プリンス劇場に改称した。*10

半田松竹

所在地 : 愛知県半田市泉町5(1960年・1961年・1963年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1963年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年・1963年の映画館名簿では「半田松竹」。1961年の映画館名簿では経営者が山田耕市、支配人が稲葉賢三、木造1階冷暖房付、定員280、松竹を上映。1962年の住宅地図では「半田松竹映画館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の住宅地図では跡地に「西川屋チエン」。1985年・1989年の住宅地図では跡地に「ユニー半田ショッピングセンター」。跡地はショッピングセンター「ピアゴ半田店」。土地区画整理事業で道路割が大きく変化してるので参考程度に。最寄駅は名鉄河和線知多半田駅。

葉住座/住吉劇場/半田第二東映/住吉会館

所在地 : 愛知県知多郡半田町(1936年)、愛知県半田市西勘内町(1950年)、愛知県半田市住吉町33(1953年・1955年・1956年)、愛知県半田市北荒古178(1957年・1958年)、愛知県半田市住吉町7(1960年・1961年・1962年)、愛知県半田市住吉町7-77(1963年・1964年)
開館年 : 1898年
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「葉住座」。1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1956年・1957年・1958年・1960年の映画館名簿では「住吉会館」。1961年・1962年の映画館名簿では「半田第二東映」。1961年の映画館名簿では経営者が南知多興業、支配人が太田周二、木造2階、定員573、邦画・洋画を上映。1962年の住宅地図では「住吉会館映画館」。1963年・1964年の映画館名簿では「住吉会館」。1964年の映画館名簿では経営者が浦山長一、支配人が伊藤正男、木造2階建、定員410、邦画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の住宅地図では跡地に「辰巳屋うどん店」。1985年の住宅地図では跡地に「食事処辰巳屋」。跡地は弁当・仕出し屋「辰巳屋」。最寄駅はJR武豊線半田駅。

1932年の『大日本職業別明細図 愛知県 第295号』には「知多キネマ」「葉住座」「喜楽座」が描かれている。(※葉住座と喜楽座の場所があべこべだと思われる)*11

1898年5月、加登屋の榊原健一によって葉住座が建てられた。業葉神社の「葉」、住吉神社の「住」をとって名付けられた。当時は知多半島一の娯楽の殿堂であった。1916年11月、吉田奈良丸の興行の際に撮影された写真である。戦後には住吉会館と改称して映画館となった。1980年現在は建物は残っていない。*12

1940年6月28日と29日に葉住座で上演された片岡松之助の歌舞伎「元禄忠臣蔵」のポスターである。二代目座主の追善興業で、普段の入場料が1円5銭のところを、20銭で見せたという。*13

昭和30年代前半の半田には、「半田日活」「東宝」「東映」「キネマ」「ロマン」「半田劇場」「住吉劇場」の7館の映画館があった。住吉劇場のこの写真は、2階の窓に掲げられた看板の映画「暁の非常線」(1957年封切)に主演した俳優、天地茂の実兄が撮影した。かつて映画館があった踏切脇の一角には、電気工事店や住宅などが建ち並び、敷地の広さがうかがえる。*14

1898年には字西勘内に劇場の葉住座が開館し、地の利が奏功して既存の妙見座の客を奪った。葉住座は知多半島屈指の劇場とされ、新旧の演劇の興行地、巡回映画の上映地、演説会場などとなった。1926年には映写設備も備え、戦後の1946年には映画館に転換した。1947年には建物内外を大改装し、住吉会館に改称した。*15

プリンス劇場/亀崎プリンス

所在地 : 愛知県半田市亀崎常盤町4-30(1961年・1962年)、愛知県半田市常盤町4-30(1963年・1964年)、愛知県半田市常盤町4-120(1965年)、愛知県半田市亀崎常盤町4-120(1966年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1966年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1962年の映画館名簿では「亀崎プリンス劇場」。1961年の映画館名簿では経営者が間瀬貞子、支配人が亀山豊次、木造1階、定員記載なし、上映系統記載なし。1962年の住宅地図では「プリンス会館 映画」。1963年・1964年・1965年・1966年の映画館名簿では「亀崎プリンス」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに間瀬貞子、木造2階、定員400、上映系統記載なし。1966年の半田市住宅地図では「プリンス東映」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1980年代末時点でも建物が残っていたと思われる。跡地は「知多信用金庫亀崎支店」北西130mの民家。最寄駅はJR武豊線亀崎駅。

1903年3月27日、亀崎に相生座が開業した。名古屋の御園座で高評価を得た沢村訥子(さわむらとっし)一座を迎えて、『高野長英開国美談夢物語』という題材で劇場開き公演を行った。3月26日12時38分には一座が亀崎駅に着いたため、見物する町民で亀崎駅周辺が混雑した。翌年の1904年2月19日には、相生座を運営する亀崎劇場株式会社が半田区裁判所に設立登記されている。相生座では、芝居・講談・浪花節・各種講演会・催事などが行われた。大正時代に入ると活動写真も行われ、昭和時代にも映画が行われた。太平洋戦争末期には空襲や地震の影響で一時的に営業を休止し、日本軍の倉庫に転用された。戦後には再び営業を再開。1959年の伊勢湾台風では屋根が破損したが、修復して営業を再開している。1961年には亀崎常磐町4丁目に移転し、プリンス劇場に改称した。*16

1902年には亀崎劇場株式会社によって、火葬場跡地の亀崎町有地に芝居小屋「相生座」が設立された。半田の葉住座と並ぶ劇場である。1940年9月25日に撮影された写真あり。亀崎芸妓連が日の丸の旗を持って「紀元2600年」と題した踊理を行っている。*17

1939年頃の相生座の舞台の写真である。亀崎芸妓連による「春をどり」の舞台だとされる。相生座の経営者は間瀬信四郎で、芸人の面倒見がよかった。浪曲師の玉川勝太郎は、不遇時代にここで足をとめていたこともあったという。*18

1902年には資本金2000円の亀崎劇場株式会社が設立され、かつて火葬場だった町有地を利用して相生座が新築された。1903年3月27日には沢村訥子一座によってこけら落とし公演が行われた。経営者は親分と呼ばれてこの地域で名を知られた間瀬信四郎であり、浪曲師の玉川勝太郎は不遇時代に間瀬信四郎の下で足を止めていたことがあった。*19

半田東映/半田東映劇場

所在地 : 愛知県半田市中町通(1958年)、愛知県半田市中町1-76(1960年)、愛知県半田市中町1-67(1963年)、愛知県半田市中町1-64(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1988年・1989年)
開館年 : 1956年7月10日
閉館年 : 1989年頃
1955年・1956年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「半田東映」。1962年の住宅地図では「東映」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1988年・1989年の映画館名簿では「半田東映劇場」。1967年・1976年・1985年・1989年の住宅地図では「半田東映」。1988年の映画館名簿では経営会社がシネマ興行、経営者が浦山長一、支配人が太田周二、鉄筋造1階、205席、東映を上映。1990年の映画館名簿には掲載されていない。1995年・1997年の住宅地図では跡地に空き地。跡地は「名鉄知多タクシー本社」建物南側。最寄駅はJR武豊線半田駅。

1956年7月10日、半田市138番地に「半田東映」が開館した。「知多シネマ」の隣接地。総工費1000万円。建坪120坪。鉄筋ブロック建。椅子席350。冷暖房装置完備。スクリーンは柳屋サウンド・シネスコ用ワイド。*20

半田知多キネマ/半田大映知多キネマ/半田大映/知多キネマ

所在地 : 愛知県知多郡半田町(1925年・1927年・1930年)、愛知県知多郡半田町末広町(1936年)、愛知県半田市南大殿(1943年)、愛知県半田市南大股511(1947年)、愛知県半田市南末広町(1949年)、愛知県半田市南大股町(1950年)、愛知県半田市南大股51-1(1953年)、愛知県半田市南末広町51(1955年)、愛知県半田市南大股町51(1956年)、愛知県半田市南大股町51-1(1957年)、愛知県半田市南末広町74(1958年・1960年・1963年)、愛知県半田市末広町74(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年)
開館年 : 1925年5月? 1926年4月?
閉館年 : 1989年2月22日
『全国映画館総覧 1955』によると1926年4月開館。1925年・1927年・1930年・1936年・1943年・1946年・1947年・1949年の映画館名簿では「知多キネマ」。1950年の映画館名簿では「半田知多キネマ」。1953年・1955年・1956年・1957年・1958年・1960年の映画館名簿では「知多キネマ」。1962年の住宅地図では「半田大映」。1963年の映画館名簿では「半田大映知多キネマ」。1966年・1967年の映画館名簿では「知多キネマ」。1967年・1976年・1985年・1989年の住宅地図では「知多キネマ」。1969年の映画館では「半田大映」。1973年・1976年・1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「知多キネマ」。1988年の映画館名簿では経営会社が南知多興行、経営者・支配人ともに浦山浩光、木造1階、250席、成人映画・洋画を上映。1990年の映画館名簿には掲載されていない。1995年・1997年の住宅地図では跡地に空き地。跡地は「名鉄知多タクシー本社」。最寄駅はJR武豊線半田駅。

1930年の『知多商工案内』には、劇場の欄に「知多キネマ株式会社」(半田町)と「喜楽座株式会社」(岡田町)が掲載されている。*21

1932年の『大日本職業別明細図 愛知県 第295号』には「知多キネマ」「葉住座」「喜楽座」が描かれている。*22

1935年の『半田案内』には「知多キネマ」の広告が掲載されている。「松竹映画封切上映」「大衆本位 映画殿堂」「経営者 浦山清太郎」「愛知県半田町 電話67番」などとある。*23

1935年現在の半田町には松竹封切館「知多キネマ」がある。知多郡唯一の高級常設館であり、浦山清太郎が経営している。半田町にある「葉住座」や「喜楽座」は映画と実演の双方を行っている。野間村若松に「第二知多キネマ」の建設が計画されており、用地900坪を買収して準備が進められている。*24

1952年現在、半田市において劇場からの転身ではなく映画常設館として開館したのは「知多キネマ」のみである。1919年には国鉄大踏切から神戸橋に至る道路が改修されて成岩新道が完成したが、成岩新道の沿線にはほとんど人家もなかったため、成岩新道の発展策として本映画館の開館が計画された。半田町・成岩町の有力者が発起人となり、両町にまたがるように立地、1925年5月に開館した。開館当時は無声映画だったが、1938年には初めてトーキー映画が登場した。*25

1989年2月22日の『中日新聞』の映画上映案内。「知多キネマ」の欄には「本日無料開放」とあり『子猫物語』を上映。*26

1989年2月22日の『中日新聞』の広告「知多キネマ閉館のご挨拶」。10時から18時まで無料で『子猫物語』を上映。「ファンの皆様ありがとうございました。大正の終り頃、知多郡で初の映画館(当時は活動写真常設館)知多キネマが開館して以来、大正・昭和・平成と三代にわたり皆様に愛されて参りましたが、残念ながら本日をもって閉館する事になりました。黒白の無声映画そして活動写真の時代へと、スクリーンと共に泣きそして笑って親しんでいただき何と70年がすぎました。この時に当って建設当時より今日まで御協力をいただいた方々(個人も含めて)やファンの皆様方に厚くお礼を申し上げると同時に、ご健勝をお祈りしてご挨拶と致します。三代目館主 浦山浩充」。*27

1989年2月23日・2月24日の『中日新聞』の映画上映案内。「知多キネマ」の欄には「閉館」とある。なお2月24日は昭和天皇の大喪の礼であり、コロナグループを除く大多数の映画館が休館している。*28

半田ロマン座/ロマン・知多東宝/半田ロマン・知多東宝劇場/知多東宝

所在地 : 愛知県半田市駅前(1955年・1956年・1957年)、愛知県半田市広小路54(1958年)、愛知県半田市西広小路54-1と西広小路54(1960年)、愛知県半田市広小路町(1963年)、愛知県半田市広小路54(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・1998年)
開館年 : 1954年10月
閉館年 : 1998年8月31日
『全国映画館総覧 1955』によると1954年10月開館。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1956年の映画館名簿では「半田ロマン座」。1957年の映画館名簿では「ロマン」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「ロマン・知多東宝」(2館)。1967年・1976年の住宅地図では「ロマン・知多東宝」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「半田ロマン・知多東宝劇場」(2館)。1985年・1989年・1995年・1997年の住宅地図では「映画ロマン・知多東宝」。1988年の映画館名簿では経営者・支配人ともに蟹本新一、木造1階、209席、東宝・松竹を上映。1990年・1995年の映画館名簿では「半田ロマン・知多東宝」(2館)。1997年・1998年の映画館名簿では「知多東宝」。1998年の映画館名簿では経営者が山一興行社、経営者が蟹本新一、支配人が蟹本房彦、木造1階、209席、東宝を上映。1999年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は洋菓子店「カレット半田店」。土地区画整理事業で道路割が完全に変化してるので参考程度に。最寄駅は名鉄河和線知半田駅。

1998年8月31日の『中日新聞』の映画上映案内。「知多東宝」では『ポケットモンスター ミュウツウの逆襲』と『ピカチュウのなつやすみ』を上映。9月1日以降の映画上映案内に知多東宝は掲載されていない。*29

元緑座/半田日活/半田日活映画劇場

所在地 : 愛知県半田市南荒石36(1954年・1955年)、愛知県半田市南荒石126(1957年)、愛知県半田市中町3-15(1958年)、愛知県半田市中町15(1960年)、愛知県半田市中町3-15(1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1988年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年)
開館年 : 1949年12月、1956年頃(半田日活)
閉館年 : 2008年10月? 2011年頃?
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「元禄座」。1955年の映画館名簿では経営者が阪本勝巳、支配人が阪本英治と根本健二、構造が記載なし、定員が記載なし、上映系統が記載なし、電話番号が半田384。1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「半田日活」。1957年の映画館名簿では経営者が阪本勝巳、支配人が阪本喜治、木造2階、定員300、日活を上映、電話番号が半田1284。1962年・1967年・1976年・1985年・1989年・1995年・1997年の住宅地図では「半田日活」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「半田日活映画劇場」。1985年・1988年の映画館名簿では「半田日活劇場」。1988年の映画館名簿では経営者・支配人ともに阪本嘉治、木造1階、117席、にっかつを上映。1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2011年の映画館名簿では「半田日活映画劇場」。2010年・2011年の映画館名簿では経営会社が新日本映像株式会社、経営者・支配人ともに阪本嘉治、鉄筋造2階、108席、成人映画を上映。2012年の映画館名簿には掲載されていない。半田市最後の従来型映画館。跡地は歯科医院「おかいデンタルクリニック」北10mの建物。中町通りと裏通り双方から映画館に向かう路地があった。最寄駅は名鉄河和線知半田駅。

戦前には半田市内の劇場が相次いで映画館に転身したが、戦後の演劇復興の兆しとともに常設演劇場を求める声が高まり、また成岩方面の発展策も期待された。1949年12月、旧「人の道教会」の建物を利用して、劇場の「元禄座」が開館した。1951年には建物内外の大改装を行った。*30

2008年7月11日から、名古屋南映、刈谷大黒座2、半田日活で常本琢招監督作『制服本番 おしえて!』(『不毛な制服 恥ずかしい半熟』)が上映される。*31

2008年11月情報作成の住宅地図には「半田日活」が描かれており、2009年11月情報作成の住宅地図には描かれていない。2008年4月情報作成のタウンページには「半田日活」が載っており、2009年4月情報作成のタウンページには載っていない。2008年11月以後2009年4月以前に閉館したと推測される。

半田シネマ1・2・3・半田コロナ1・2・3/半田コロナシネマワールド

所在地 : 愛知県半田市旭町3-11-1(1988年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2018年)
開館年 : 1986年8月(6館)、1998年7月11日(11館化)
閉館年 : 2019年5月12日
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1988年・1990年・1995年の映画館名簿では「半田シネマ1・2・3・半田コロナ1・2・3」(6館)。2000年・2005年の映画館名簿では「半田コロナワールド1-11」(11館)。2010年・2015年・2018年の映画館名簿では「半田コロナシネマワールド1-11」(11館)。2018年の映画館名簿では経営会社がコロナワールド、経営者が室橋義隆、支配人が木原浩之。2020年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅はJR武豊線東成岩駅。

1998年7月11日、半田市旭町にあるコロナグループのアミューズメントパーク「半田コロナワールド」がリニューアルオープンする。映画館は従来の6スクリーンから11スクリーンにほぼ倍増し、関係者によると「中部地方最大級」だという。1997年12月に改装工事に着工し、1998年7月3日に完成したばかり。半田コロナワールドの敷地面積は13640平方メートルで、建物は3階建て延べ22065平方メートル。1階はパチンコ屋と回転ずし。2階はカラオケ店と天然温泉とゲームセンターとレストランがあるほか、バッティングセンターのドームに通じるようになっている。3階はボウリング場と映画館。同社によると目玉はコロナグループとして初めての試みという、コンピューターグラフィックスを駆使したドーム型バッティングセンター。*32

1998年7月11日の『中日新聞』の広告。「11の映画館で最新の設備と映画を揃えて 本11日(土)オープン! 半田コロナシネマワールド」とある。同日の映画上映案内。「リニューアルオープン 全11館にて上映中」とあり、「半田シネマ1」では『ゴジラ』(字幕)、「半田シネマ2」では『タイタニック』、「半田シネマ3」では『レインメーカー』、「半田シネマ4」では『ジャッカル』、「半田シネマ5」では『ディープインパクト』、「半田シネマ6」では『ゴジラ』(吹替)、「半田シネマ7」では『大いなる遺産』、「半田シネマ8」では『追跡者』、「半田シネマ9」では『アンドロメディア』、「半田シネマ10」では『エイリアン4』、「半田シネマ11」では『トイレの花子さん』と『ズッコケ三人組』を上映。*33

2000年7月20日の新聞記事。コロナグループ経営のアミューズメントパーク「半田コロナワールド」内には、「半田コロナシネマWORLD」がある。11スクリーンに計1617の座席を有する。建物には飲食店、パチンコ、カラオケ、ゲームセンター、ボウリング場、温泉などがあり、加藤茂GMは「子どもからお年寄りまで一日遊べるのが売り」と話す。半田コロナシネマWORLDの加藤GMは「外資系企業は確かに脅威」としながらも「売りが違うので、競合はあまり考えていない。動員数は作品で決まるため、いい作品が続くことに期待したい」とする。*34

半田コロナシネマは1986年8月に開館した。2019年5月12日をもって閉館する予定。パチンコ店・温浴・ゲームセンター・ボウリング場・カラオケ店は引き続き営業する予定。*35

1986年、複数のスクリーンを持つシネコンの先駆けとして半田コロナシネマワールドが開館。その後、知多半島では阿久比町、東浦町、常滑市にもシネコンが開館した。2019年5月12日、半田コロナシネマワールドが閉館し、半田市から映画館がなくなった。人口に対して映画館が増えすぎたこと、設備の更新時期が来たことなどが閉館の理由。*36

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