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旭川市の映画館を参照。
所在地 : 北海道上川郡上士別村
開館年 : 不明
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。
作家の徳冨蘆花は1910年9月に北海道旅行を行い、『みみずのたはごと』に「士別では共楽座など看板を上げた木葉葺の劇場が見えた」と書いている。番外地1丁目に共同出資で建てられた「共楽座」は士別初の劇場である。間口10.9m、奥行21.8m、800人収容。1969年現在の大野土建の北側である。*1
開館年 : 不明
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。
作家の徳冨蘆花は1910年9月に北海道旅行を行い、『みみずのたはごと』に「士別では共楽座など看板を上げた木葉葺の劇場が見えた」と書いている。番外地1丁目に共同出資で建てられた「共楽座」は士別初の劇場である。間口10.9m、奥行21.8m、800人収容。1969年現在の大野土建の北側である。*1
所在地 : 北海道上川郡上士別村(1954年)、北海道士別市上士別(1955年)、北海道士別市上士別町南2(1956年・1958年)、北海道士別市上士別町(1959年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1959年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年・1956年・1958年・1959年の映画館名簿では「新栄劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1959年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年・1956年・1958年・1959年の映画館名簿では「新栄劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道上川郡士別町西二条通7(1936年)、北海道上川郡士別町西二条7(1947年)、北海道上川郡士別町西1丁目(1950年)、北海道上川郡士別町(1953年)、北海道士別市西2条7丁目(1955年・1957年・1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1920年
閉館年 : 1964年8月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年・1947年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「国勢座」。1957年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「士別劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「市立士別図書館」北北西120mの建物。最寄駅はJR宗谷本線士別駅。
1920年、士別町に西条武平によって「国勢座」が開館した。同年に実施された第1回国勢調査を記念して名付けられた。国勢座の写真あり。*2
大正末期の士別町西2条6丁目にあった「国勢座」の写真あり。西条武平によって西洋建築で建てられ、1920年の第1回国勢調査を記念して名付けられた。村芝居や時局講演なども行われた。*3
1937年の『大日本職業別明細図』「士別町市街図」には「長盛座」「国勢座」が描かれている。*4
1954年の士別市にあった「士別劇場」の写真あり。1920年、第1回国勢調査を記念して西條武平によって「国勢座」が建てられた。芝居、浪花節、活動写真などの興行に加えて、講演会や集会などにも用いられた。国勢座の前に約20軒の青空マーケットが店を構えていた時期もあった。昭和30年代に経営者が交代し、士別劇場に改称した。*5
1964年8月、士別市の「士別劇場」が閉館した。*6
開館年 : 1920年
閉館年 : 1964年8月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年・1947年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「国勢座」。1957年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「士別劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「市立士別図書館」北北西120mの建物。最寄駅はJR宗谷本線士別駅。
1920年、士別町に西条武平によって「国勢座」が開館した。同年に実施された第1回国勢調査を記念して名付けられた。国勢座の写真あり。*2
大正末期の士別町西2条6丁目にあった「国勢座」の写真あり。西条武平によって西洋建築で建てられ、1920年の第1回国勢調査を記念して名付けられた。村芝居や時局講演なども行われた。*3
1937年の『大日本職業別明細図』「士別町市街図」には「長盛座」「国勢座」が描かれている。*4
1954年の士別市にあった「士別劇場」の写真あり。1920年、第1回国勢調査を記念して西條武平によって「国勢座」が建てられた。芝居、浪花節、活動写真などの興行に加えて、講演会や集会などにも用いられた。国勢座の前に約20軒の青空マーケットが店を構えていた時期もあった。昭和30年代に経営者が交代し、士別劇場に改称した。*5
1964年8月、士別市の「士別劇場」が閉館した。*6
所在地 : 北海道士別市多寄町(1957年・1958年・1959年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1964年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1959年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「多寄劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1964年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1959年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「多寄劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道上川郡朝日村似峡(1957年・1958年・1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「似峡座」。1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「似峡劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「似峡座」。1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「似峡劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道士別市温根別町(1959年・1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1965年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「栄座」。1960年の映画館名簿では「温根別栄座」。1963年・1965年の映画館名簿では「温根別劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1965年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「栄座」。1960年の映画館名簿では「温根別栄座」。1963年・1965年の映画館名簿では「温根別劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道士別市上士別町南2(1957年・1958年)、北海道士別市上士別町(1959年・1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「栄座」。1963年の映画館名簿では経営者が栄座、支配人が北村清、木造2階暖房付、定員500、電話が上士別68。1965年の映画館名簿では「上士別栄座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「栄座」。1963年の映画館名簿では経営者が栄座、支配人が北村清、木造2階暖房付、定員500、電話が上士別68。1965年の映画館名簿では「上士別栄座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道士別市上士別町(1959年)、北海道士別市上士別町南二番(1960年・1963年)、北海道士別市上士別町(1966年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1964年3月
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「栄座」。1960年の映画館名簿では「上士別劇場」。1963年の映画館名簿では「上士別栄座」。1963年の映画館名簿では経営者が北村留吉、支配人が北村清、木造2階暖房付、定員500、電話が上士別68甲。1966年の映画館名簿では「上士別劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
1904年頃の上士別16線には3戸から4戸しかなかったが、1913年4月に上士別村役場が設置されると人口が増加し、400人に達して市街地を形成した。1910年9月には中井松太郎、小野鶴松、谷口善六、宮脇助次郎の共同出資で劇場「栄座」が開場している。間口は12.7m、奥行は18mであり、600人を収容した。*7
戦後まもなく士別町に移転新築された「栄座」の写真あり。花輪が見える。1910年、有志の共同出資によって初代「栄座」が建てられた。間口は12.7m、奥行は18mであり、600人を収容できた。旅芝居、青年団や婦人会の催しに用いられた。*8
1964年3月、士別市の「栄座」が閉館した。*9
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1964年3月
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「栄座」。1960年の映画館名簿では「上士別劇場」。1963年の映画館名簿では「上士別栄座」。1963年の映画館名簿では経営者が北村留吉、支配人が北村清、木造2階暖房付、定員500、電話が上士別68甲。1966年の映画館名簿では「上士別劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
1904年頃の上士別16線には3戸から4戸しかなかったが、1913年4月に上士別村役場が設置されると人口が増加し、400人に達して市街地を形成した。1910年9月には中井松太郎、小野鶴松、谷口善六、宮脇助次郎の共同出資で劇場「栄座」が開場している。間口は12.7m、奥行は18mであり、600人を収容した。*7
戦後まもなく士別町に移転新築された「栄座」の写真あり。花輪が見える。1910年、有志の共同出資によって初代「栄座」が建てられた。間口は12.7m、奥行は18mであり、600人を収容できた。旅芝居、青年団や婦人会の催しに用いられた。*8
1964年3月、士別市の「栄座」が閉館した。*9
所在地 : 北海道上川郡朝日村(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、北海道上川郡朝日町(1966年)
開館年 : 1938年
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「鈴木座」。1966年の映画館名簿では「朝日鈴木座」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
1938年に鈴木新吉によって創業した劇場「鈴木座」。*10
開館年 : 1938年
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「鈴木座」。1966年の映画館名簿では「朝日鈴木座」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
1938年に鈴木新吉によって創業した劇場「鈴木座」。*10
所在地 : 北海道士別市大通東5丁目(1964年・1966年)
開館年 : 1960年7月
閉館年 : 1966年11月
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1966年の映画館名簿では「士別中央映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
1960年7月、士別市に「中央映画劇場」が開館した。1966年11月に閉館した。*11
開館年 : 1960年7月
閉館年 : 1966年11月
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1966年の映画館名簿では「士別中央映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
1960年7月、士別市に「中央映画劇場」が開館した。1966年11月に閉館した。*11
所在地 : 北海道上川郡士別町東一条通(1936年)、北海道上川郡士別町東一条(1947年)、北海道上川郡士別町東1(1950年)、北海道上川郡士別町(1953年)、北海道士別市士別町(1955年)、北海道士別市東1条4丁目(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年)
開館年 : 1921年
閉館年 : 1978年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年の映画館名簿では「長盛座」。1947年の映画館名簿では「長盛館」。1950年の映画館名簿では「士別長盛座」。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「士別映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「士別映劇」。1966年の映画館名簿では「三愛劇場」。1969年の映画館名簿では「士別三愛劇場」。1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「三愛劇場」。1978年の映画館名簿では経営会社が松本組、経営者が松本利明、支配人が前川真一、木造2階暖房付、400席、邦画・洋画を上映。1979年の映画館名簿には掲載されていない。1982年の住宅地図では跡地に「三愛プラザ」。跡地は「大阿寺」西40mの「三愛プラザ」。映画館の建物が現存している可能性あり。最寄駅はJR宗谷本線士別駅。
1937年の『大日本職業別明細図』「士別町市街図」には「長盛座」「国勢座」が描かれている。*12
士別町にあった「士別劇場」の写真あり。1921年に建てられ、外観は洋風であるが、館内は畳敷きで下足番がいた。活動写真が最も人気があり、その他には芝居や浪花節などの興行が行われた。1981年現在の東2条6丁目のグリーンベルト付近にあった。*13
戦後まもなくの士別町にあった「長勢座」の写真あり。1921年、士別町東2条6丁目に「士別劇場」として建てられた。その後経営者や館名が変わり、東1条4丁目に新築された。芝居、浪花節、活動写真、政談演説会、講演会などに用いられた。*14
1965年8月、士別市の「映劇」が閉館した。*15
開館年 : 1921年
閉館年 : 1978年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年の映画館名簿では「長盛座」。1947年の映画館名簿では「長盛館」。1950年の映画館名簿では「士別長盛座」。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「士別映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「士別映劇」。1966年の映画館名簿では「三愛劇場」。1969年の映画館名簿では「士別三愛劇場」。1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「三愛劇場」。1978年の映画館名簿では経営会社が松本組、経営者が松本利明、支配人が前川真一、木造2階暖房付、400席、邦画・洋画を上映。1979年の映画館名簿には掲載されていない。1982年の住宅地図では跡地に「三愛プラザ」。跡地は「大阿寺」西40mの「三愛プラザ」。映画館の建物が現存している可能性あり。最寄駅はJR宗谷本線士別駅。
1937年の『大日本職業別明細図』「士別町市街図」には「長盛座」「国勢座」が描かれている。*12
士別町にあった「士別劇場」の写真あり。1921年に建てられ、外観は洋風であるが、館内は畳敷きで下足番がいた。活動写真が最も人気があり、その他には芝居や浪花節などの興行が行われた。1981年現在の東2条6丁目のグリーンベルト付近にあった。*13
戦後まもなくの士別町にあった「長勢座」の写真あり。1921年、士別町東2条6丁目に「士別劇場」として建てられた。その後経営者や館名が変わり、東1条4丁目に新築された。芝居、浪花節、活動写真、政談演説会、講演会などに用いられた。*14
1965年8月、士別市の「映劇」が閉館した。*15
所在地 : 北海道士別市東3条8丁目(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1984年)
開館年 : 1959年7月
閉館年 : 1983年
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1984年の映画館名簿では「テアトル銀映」。1982年の映画館名簿では経営者・支配人ともに田渕貞儀、木造1階、230席、邦画・洋画を上映。1982年の住宅地図では「銀映劇場(渡辺仁)」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はドラッグストア「サツドラ士別南大通店」北50mのアパート「ハイツ田渕」など3軒分の敷地。最寄駅はJR宗谷本線士別駅。
士別市東2-8の「テアトル銀映」(銀映劇場)。300席。昭和30年代の士別市中心部には5館の映画館があった。大正時代には「国勢座」が開館し、やがて「士別劇場」となった。これを源流として1959年にテアトル銀映が開館した。1982年には館主の田淵貞儀が死去し、1983年1月には妻の田淵紀久子が閉館を決意した。最終週の上映作品は『追憶』と『アメリカン・グラフティ』。2010年には田淵紀久子も死去し、2014年には映写機が北の映像ミュージアムに寄贈された。この映写機は1963年製のカーボン・アーク式映写機であり、現在のキセノン・ランプ式とは異なる。*16
1959年の旭川市(※士別市の誤りと思われる)にあった「テアトル銀映」の写真あり。建物正面に「THEATREGINEI」の文字が見える。花輪が見える。建物正面の外壁はスチールで覆われていた。*17
1959年7月、士別市に「テアトル銀映」が開館した。*18
開館年 : 1959年7月
閉館年 : 1983年
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1984年の映画館名簿では「テアトル銀映」。1982年の映画館名簿では経営者・支配人ともに田渕貞儀、木造1階、230席、邦画・洋画を上映。1982年の住宅地図では「銀映劇場(渡辺仁)」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はドラッグストア「サツドラ士別南大通店」北50mのアパート「ハイツ田渕」など3軒分の敷地。最寄駅はJR宗谷本線士別駅。
士別市東2-8の「テアトル銀映」(銀映劇場)。300席。昭和30年代の士別市中心部には5館の映画館があった。大正時代には「国勢座」が開館し、やがて「士別劇場」となった。これを源流として1959年にテアトル銀映が開館した。1982年には館主の田淵貞儀が死去し、1983年1月には妻の田淵紀久子が閉館を決意した。最終週の上映作品は『追憶』と『アメリカン・グラフティ』。2010年には田淵紀久子も死去し、2014年には映写機が北の映像ミュージアムに寄贈された。この映写機は1963年製のカーボン・アーク式映写機であり、現在のキセノン・ランプ式とは異なる。*16
1959年の旭川市(※士別市の誤りと思われる)にあった「テアトル銀映」の写真あり。建物正面に「THEATREGINEI」の文字が見える。花輪が見える。建物正面の外壁はスチールで覆われていた。*17
1959年7月、士別市に「テアトル銀映」が開館した。*18
所在地 : 北海道中川郡智恵文村(1953年・1955年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「駅前座」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「駅前座」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道名寄市大通南6丁目(1963年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1964年
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「日活劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
戦後の名寄町には西3南5の「第一電気館」、西4南5の「東映劇場」、大通り南6の「北映館」、西1南4の「日劇」の映画館4館が相次いで開館した。1964年には日劇が閉館した。日劇の写真あり。*21
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1964年
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「日活劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
戦後の名寄町には西3南5の「第一電気館」、西4南5の「東映劇場」、大通り南6の「北映館」、西1南4の「日劇」の映画館4館が相次いで開館した。1964年には日劇が閉館した。日劇の写真あり。*21
所在地 : 北海道上川郡風連村(1953年)、北海道上川郡風連町(1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「朝日座」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「風連劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「朝日座」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「風連劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道上川郡名寄町5条通4(1936年)、北海道上川郡名寄町南544(1950年)、北海道上川郡名寄町(1953年)、北海道名寄市西5条南4丁目(1958年・1960年・1963年)、北海道名寄市西5条南5丁目(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1913年
閉館年 : 1969年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「名寄劇場」。1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「名寄劇場」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「名寄劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1980年の住宅地図では跡地に「ホテル藤花」。跡地は「グランドホテル藤花」。最寄駅はJR宗谷本線名寄駅。
1913年に沢井芳郎によって新築開館した「名寄劇場」。所在地は名寄市西5南4。1969年に閉館した。*22
かつて名寄町の娯楽機関として小松良太夫が経営する「小松座」があり、芝居や浪花節の興行を行っていた。1956年現在の「名寄劇場」である。*23
名寄町最古の劇場だった「名寄座」は、戦後に「名寄劇場」に改称した。*24
1954年6月、名寄町の「名寄劇場」が改装竣工した。*25
戦前の名寄町の映画館としては、西5南4の「名寄劇場」と西3南5の「電気館」があった。1969年には小松座以来の歴史を有する名寄劇場が閉館した。時期不明の名寄町の名寄劇場の写真あり。*26
澤井芳郎。1927年6月28日、名寄町に生まれた。米沢工業専門学校を卒業し、1947年から1954年まで北海道名寄高校に勤務した。その後は家業の映画館経営を継ぎ、「名劇」と「東映」を経営したが、映画館は1978年に廃業した。*27
開館年 : 1913年
閉館年 : 1969年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「名寄劇場」。1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「名寄劇場」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「名寄劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1980年の住宅地図では跡地に「ホテル藤花」。跡地は「グランドホテル藤花」。最寄駅はJR宗谷本線名寄駅。
1913年に沢井芳郎によって新築開館した「名寄劇場」。所在地は名寄市西5南4。1969年に閉館した。*22
かつて名寄町の娯楽機関として小松良太夫が経営する「小松座」があり、芝居や浪花節の興行を行っていた。1956年現在の「名寄劇場」である。*23
名寄町最古の劇場だった「名寄座」は、戦後に「名寄劇場」に改称した。*24
1954年6月、名寄町の「名寄劇場」が改装竣工した。*25
戦前の名寄町の映画館としては、西5南4の「名寄劇場」と西3南5の「電気館」があった。1969年には小松座以来の歴史を有する名寄劇場が閉館した。時期不明の名寄町の名寄劇場の写真あり。*26
澤井芳郎。1927年6月28日、名寄町に生まれた。米沢工業専門学校を卒業し、1947年から1954年まで北海道名寄高校に勤務した。その後は家業の映画館経営を継ぎ、「名劇」と「東映」を経営したが、映画館は1978年に廃業した。*27
所在地 : 北海道上川郡名寄町西3南5(1950年)、北海道上川郡名寄町(1953年)、北海道名寄市西3条南5丁目(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1975年
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「名寄電気館」。1953年の映画館名簿では「電気館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「電気館」。1966年・1969年の映画館名簿では「名寄電気館」。1973年・1975年の映画館名簿では「電気館」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。
戦前の名寄町の映画館としては、西5南4の「名寄劇場」と西3南5の「電気館」があった。時期不明の名寄町の電気館の写真あり。*28
戦後まもなく、名寄町の「電気館」が新築され、冬季にはスチーム暖房が導入された。旧電気館は第一電気館に改称している。*29
1954年には名寄町の電気館で『君の名は』が上映され、音威子府や朱鞠内などからも観客を集めた。*30
高橋啓二郎。1940年7月15日、名寄町に生まれた。日本大学法学部法律学科を卒業し、1963年に電気館を設立し、1977年に高橋興業を設立した。*31
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1975年
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「名寄電気館」。1953年の映画館名簿では「電気館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「電気館」。1966年・1969年の映画館名簿では「名寄電気館」。1973年・1975年の映画館名簿では「電気館」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。
戦前の名寄町の映画館としては、西5南4の「名寄劇場」と西3南5の「電気館」があった。時期不明の名寄町の電気館の写真あり。*28
戦後まもなく、名寄町の「電気館」が新築され、冬季にはスチーム暖房が導入された。旧電気館は第一電気館に改称している。*29
1954年には名寄町の電気館で『君の名は』が上映され、音威子府や朱鞠内などからも観客を集めた。*30
高橋啓二郎。1940年7月15日、名寄町に生まれた。日本大学法学部法律学科を卒業し、1963年に電気館を設立し、1977年に高橋興業を設立した。*31
所在地 : 北海道名寄市西4条南5丁目(1961年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年)、北海道名寄市西5条南5丁目(1978年・1980年・1982年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1982年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「名寄東映劇場」。1973年・1975年・1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「東映劇場」。1980年の住宅地図では「東映劇場」。1983年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ホテルマイステイズ名寄」南西80mの「グランドホテル藤花駐車場」。最寄駅はJR宗谷本線名寄駅。
戦後の名寄町には西3南5の「第一電気館」、西4南5の「東映劇場」、大通り南6の「北映館」、西1南4の「日劇」の映画館4館が相次いで開館した。時期不明の名寄町の東映劇場の写真あり。*32
澤井芳郎。1927年6月28日、名寄町に生まれた。米沢工業専門学校を卒業し、1947年から1954年まで名寄高校に勤務した。その後は家業の映画館経営を継ぎ、「名劇」と「東映」を経営したが、映画館は1978年に廃業した。*33
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1982年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「名寄東映劇場」。1973年・1975年・1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「東映劇場」。1980年の住宅地図では「東映劇場」。1983年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ホテルマイステイズ名寄」南西80mの「グランドホテル藤花駐車場」。最寄駅はJR宗谷本線名寄駅。
戦後の名寄町には西3南5の「第一電気館」、西4南5の「東映劇場」、大通り南6の「北映館」、西1南4の「日劇」の映画館4館が相次いで開館した。時期不明の名寄町の東映劇場の写真あり。*32
澤井芳郎。1927年6月28日、名寄町に生まれた。米沢工業専門学校を卒業し、1947年から1954年まで名寄高校に勤務した。その後は家業の映画館経営を継ぎ、「名劇」と「東映」を経営したが、映画館は1978年に廃業した。*33
所在地 : 北海道上川郡名寄町(1925年・1930年)、北海道上川郡名寄町3条通5(1936年)、北海道上川郡名寄町(1943年)、北海道上川郡名寄町西3条南5丁目(1947年)、北海道上川郡名寄町(1950年・1953年)、北海道名寄市西3条南5丁目(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)、北海道名寄市西4条南5丁目(1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年)、北海道名寄市西3条南5丁目(1995年・2000年・2005年・2010年)
開館年 : 1916年、1973年(ビル化)
閉館年 : 2014年10月20日
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1925年・1930年・1936年・1943年・1947年の映画館名簿では「電気館」。1950年の映画館名簿では「第ニ電気館」。1953年の映画館名簿では「第一電気館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「第一電気館」。1980年の住宅地図では「第一電気館」。1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2014年の映画館名簿では「名寄第一電気館」。2014年の映画館名簿では経営会社が有限会社電気館、経営者・支配人ともに高橋啓二郎、168席。2015年の映画館名簿には掲載されていない。建物の「第一電気館ビル」は「ホテルマイステイズ名寄」南南西50mに現存。最寄駅はJR宗谷本線名寄駅。
1917年に高橋トキによって新築開館した映画館「電気館」。所在地は名寄市西3南5。*34
戦後の名寄町には西3南5の「第一電気館」、西4南5の「東映劇場」、大通り南6の「北映館」、西1南4の「日劇」の映画館4館が相次いで開館した。1954年8月には第一電気館が改装した。第一電気館の写真あり。*35
1954年8月、名寄町の「第一電気館」が改装した。*36
1970年の名寄市にあった「第一電気館」の写真あり。1916年に「電気館」として開館し、1946年に第一電気館に改称した。昭和30年代の名寄町には7館もの映画館があった。1973年にはビルに建て替えられ、2014年まで営業していた。*37
「名寄第一電気館」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*38
開館年 : 1916年、1973年(ビル化)
閉館年 : 2014年10月20日
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1925年・1930年・1936年・1943年・1947年の映画館名簿では「電気館」。1950年の映画館名簿では「第ニ電気館」。1953年の映画館名簿では「第一電気館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「第一電気館」。1980年の住宅地図では「第一電気館」。1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2014年の映画館名簿では「名寄第一電気館」。2014年の映画館名簿では経営会社が有限会社電気館、経営者・支配人ともに高橋啓二郎、168席。2015年の映画館名簿には掲載されていない。建物の「第一電気館ビル」は「ホテルマイステイズ名寄」南南西50mに現存。最寄駅はJR宗谷本線名寄駅。
1917年に高橋トキによって新築開館した映画館「電気館」。所在地は名寄市西3南5。*34
戦後の名寄町には西3南5の「第一電気館」、西4南5の「東映劇場」、大通り南6の「北映館」、西1南4の「日劇」の映画館4館が相次いで開館した。1954年8月には第一電気館が改装した。第一電気館の写真あり。*35
1954年8月、名寄町の「第一電気館」が改装した。*36
1970年の名寄市にあった「第一電気館」の写真あり。1916年に「電気館」として開館し、1946年に第一電気館に改称した。昭和30年代の名寄町には7館もの映画館があった。1973年にはビルに建て替えられ、2014年まで営業していた。*37
「名寄第一電気館」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*38
所在地 : 北海道空知郡富良野町(1953年)、北海道空知郡富良野町東2南1(1955年)、北海道空知郡富良野町(1958年)、北海道空知郡富良野町東2南1(1960年・1961年)
開館年 : 1952年11月
閉館年 : 1958年? 1961年頃?
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「第一劇場」。1955年の映画館名簿では「富良野第一劇場」。1958年の映画館名簿では「富良野第一映画劇場」。1960年・1961年の映画館名簿では「シネマセンター」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
1952年11月、富良野町東2条南1丁目に石船虎一によって「第一劇場」が開館した。1958年、テレビが普及すると閉館した。第一劇場の写真あり。*39
開館年 : 1952年11月
閉館年 : 1958年? 1961年頃?
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「第一劇場」。1955年の映画館名簿では「富良野第一劇場」。1958年の映画館名簿では「富良野第一映画劇場」。1960年・1961年の映画館名簿では「シネマセンター」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
1952年11月、富良野町東2条南1丁目に石船虎一によって「第一劇場」が開館した。1958年、テレビが普及すると閉館した。第一劇場の写真あり。*39
所在地 : 北海道空知郡富良野町(1957年・1958年・1960年)
開館年 : 1955年8月
閉館年 : 1959年
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年の映画館名簿では「富良野銀映劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
1955年8月、富良野町に石船虎一によって「銀映劇場」が開館した。全盛期の富良野町には4館もの映画館があり、テレビが普及したこともあって、1959年に閉館した。1969年現在のすずらん通りのくにい呉服店の場所である。*40
開館年 : 1955年8月
閉館年 : 1959年
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年の映画館名簿では「富良野銀映劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
1955年8月、富良野町に石船虎一によって「銀映劇場」が開館した。全盛期の富良野町には4館もの映画館があり、テレビが普及したこともあって、1959年に閉館した。1969年現在のすずらん通りのくにい呉服店の場所である。*40
所在地 : 北海道空知郡富良野町(1958年)、北海道空知郡富良野町麓郷(1960年)
開館年 : 1956年
閉館年 : 1959年
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「公映劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
1956年、富良野町麓郷に「麓郷劇場」が開館した。当初の経営者は富良野市街地で「銀映劇場」や「第一劇場」を経営していた石船虎一であるが、1957年には津山倉吉が管理者となり、1959年に閉館した。*41
開館年 : 1956年
閉館年 : 1959年
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「公映劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
1956年、富良野町麓郷に「麓郷劇場」が開館した。当初の経営者は富良野市街地で「銀映劇場」や「第一劇場」を経営していた石船虎一であるが、1957年には津山倉吉が管理者となり、1959年に閉館した。*41
所在地 : 北海道空知郡山部村(1959年・1960年・1963年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1963年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「山部文化劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1963年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「山部文化劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道空知郡富良野町東3条2丁目(1957年・1958年)、北海道空知郡富良野町(1960年・1963年)
開館年 : 1956年8月7日
閉館年 : 1964年12月8日
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「富良野公楽映画劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「公楽映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1956年8月7日、富良野町東3条南2丁目に「公楽劇場」が開館した。経営者は山本恵三であり、東宝・日活・大映の作品を上映した。全盛期の富良野町には4館の映画館があったが、やがて「富良野劇場」と行楽劇場の2館となった。1964年12月8日、公楽劇場は火災で焼失した。公楽劇場の写真あり。*42
1964年12月8日午後5時すぎ、空知郡富良野町東3南2の「公楽映画劇場」暖房用ボイラー室付近から出火し、木造モルタル2階建て約400m2が全焼した。*43
開館年 : 1956年8月7日
閉館年 : 1964年12月8日
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「富良野公楽映画劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「公楽映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1956年8月7日、富良野町東3条南2丁目に「公楽劇場」が開館した。経営者は山本恵三であり、東宝・日活・大映の作品を上映した。全盛期の富良野町には4館の映画館があったが、やがて「富良野劇場」と行楽劇場の2館となった。1964年12月8日、公楽劇場は火災で焼失した。公楽劇場の写真あり。*42
1964年12月8日午後5時すぎ、空知郡富良野町東3南2の「公楽映画劇場」暖房用ボイラー室付近から出火し、木造モルタル2階建て約400m2が全焼した。*43
所在地 : 北海道空知郡山部村(1954年・1955年)、北海道空知郡山部村1(1958年・1960年)、北海道空知郡山部村(1963年・1964年)、北海道空知郡山部町(1966年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年・1958年の映画館名簿では「山部映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「山部映劇」。1964年・1966年の映画館名簿では「山部劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年・1958年の映画館名簿では「山部映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「山部映劇」。1964年・1966年の映画館名簿では「山部劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道空知郡富良野町(1959年)、北海道空知郡富良野町東山(1960年・1963年)、北海道空知郡富良野町字東山(1966年)、北海道富良野市富良野町字東山(1967年・1968年)
開館年 : 1957年
閉館年 : 1968年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「東山劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
1957年、富良野町東山に河合賢治が「東山劇場」を建て、山部市街地の劇場と合わせて経営した。*44
開館年 : 1957年
閉館年 : 1968年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「東山劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
1957年、富良野町東山に河合賢治が「東山劇場」を建て、山部市街地の劇場と合わせて経営した。*44
所在地 : 北海道空知郡富良野町(1930年・1936年・1941年)、北海道空知郡富良野町411北1(1947年)、北海道空知郡富良野町西2条北1丁目(1950年)、北海道空知郡富良野町(1953年)、北海道空知郡富良野町西2北2(1955年)、北海道空知郡富良野町西2条北2(1958年)、北海道空知郡富良野町(1960年・1963年・1966年)、北海道富良野市富良野町(1969年・1970年)
開館年 : 1913年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年・1936年・1941年の映画館名簿では「富良野座」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「富良野劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1913年頃、富良野町の本通南1丁目に、出版印刷業や運送業を営んでいた金崎巴によって芝居小屋「富良野館」が開館した。当初は歌舞伎芝居の公演などを行い、やがて新派劇も上演するようになった。大正後期には経営者が交代し、「富良野座」と呼ばれるようになった。1930年から1931年頃、荒木惣三郎が経営者となって「富良野劇場」に改称し、1943年に改築した。戦後の1958年には株式会社組織とし、沢昭二が社長に就任した。1969年現在のカタイ呉服店の場所である。富良野劇場の写真あり。*45
開館年 : 1913年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年・1936年・1941年の映画館名簿では「富良野座」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「富良野劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1913年頃、富良野町の本通南1丁目に、出版印刷業や運送業を営んでいた金崎巴によって芝居小屋「富良野館」が開館した。当初は歌舞伎芝居の公演などを行い、やがて新派劇も上演するようになった。大正後期には経営者が交代し、「富良野座」と呼ばれるようになった。1930年から1931年頃、荒木惣三郎が経営者となって「富良野劇場」に改称し、1943年に改築した。戦後の1958年には株式会社組織とし、沢昭二が社長に就任した。1969年現在のカタイ呉服店の場所である。富良野劇場の写真あり。*45
所在地 : 北海道富良野市本町2(1967年・1968年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年)、北海道富良野市本町2-8(1985年)、北海道富良野市本町2(1986年)
開館年 : 1966年7月26日
閉館年 : 1986年頃
1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年・1968年の映画館名簿では「富良野有楽館」。1969年の映画館名簿では「富良野有楽座」。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年の映画館名簿では「有楽館」。1987年の住宅地図では「富良野有楽館」。1987年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ツルハドラッグ富良野店」。最寄駅はJR根室本線・富良野線富良野駅。
1966年7月26日、富良野市に「富良野劇場」の経営者が「有楽館」を開館させ、富良野市の映画館は2館となった。*46
開館年 : 1966年7月26日
閉館年 : 1986年頃
1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年・1968年の映画館名簿では「富良野有楽館」。1969年の映画館名簿では「富良野有楽座」。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年の映画館名簿では「有楽館」。1987年の住宅地図では「富良野有楽館」。1987年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ツルハドラッグ富良野店」。最寄駅はJR根室本線・富良野線富良野駅。
1966年7月26日、富良野市に「富良野劇場」の経営者が「有楽館」を開館させ、富良野市の映画館は2館となった。*46
所在地 : 北海道富良野市中御料(2004年・2005年・2010年・2012年・2014年)
開館年 : 2003年頃
閉館年 : 2014年頃
2003年の映画館名簿には掲載されていない。2004年・2005年・2010年・2012年・2014年の映画館名簿では「富良野演劇工場」。2014年の映画館名簿では経営会社がふらの演劇工房、経営者が瀬川謙二郎、支配人が大田竜介、302席。2015年の映画館名簿には掲載されていない。建物の「富良野演劇工場」は現存。最寄駅はJR根室本線・富良野線富良野駅。
開館年 : 2003年頃
閉館年 : 2014年頃
2003年の映画館名簿には掲載されていない。2004年・2005年・2010年・2012年・2014年の映画館名簿では「富良野演劇工場」。2014年の映画館名簿では経営会社がふらの演劇工房、経営者が瀬川謙二郎、支配人が大田竜介、302席。2015年の映画館名簿には掲載されていない。建物の「富良野演劇工場」は現存。最寄駅はJR根室本線・富良野線富良野駅。
所在地 : 北海道上川郡当麻村市街(1950年)、北海道上川郡当麻村市街地(1953年)、北海道上川郡当麻村(1955年)、北海道上川郡当麻町166(1958年・1960年・1963年)、北海道上川郡当麻町市街二区(1964年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「当麻劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
1956年の当麻町にあった「当麻劇場」の写真あり。1955年の東映作品『母水仙』の看板が見える。高い屋根の上にはスピーカーが設置され、上映案内が放送されていた。*47
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「当麻劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
1956年の当麻町にあった「当麻劇場」の写真あり。1955年の東映作品『母水仙』の看板が見える。高い屋根の上にはスピーカーが設置され、上映案内が放送されていた。*47
所在地 : 北海道上川郡比布村市街地(1953年)、北海道上川郡比布村(1955年)、北海道上川郡比布村北町(1958年・1960年)、北海道上川郡比布村(1963年)、北海道上川郡比布町南一線(1965年)
開館年 : 1930年11月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「末広劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1930年4月2日、比布村の「比布座」で映画上映中、フィルムに引火して51戸63棟が焼失する比布大火が起こった。*48*49
1930年11月、比布村に後藤末吉によって「末広劇場」が開館した。戦前・戦後を通じて比布町唯一の娯楽施設だったが、テレビの普及や社会環境の変化によっていつしか閉館となり、1977年に建物が取り壊された。場所は1985年現在の児童遊園地入口付近である。*50
開館年 : 1930年11月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「末広劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1930年4月2日、比布村の「比布座」で映画上映中、フィルムに引火して51戸63棟が焼失する比布大火が起こった。*48*49
1930年11月、比布村に後藤末吉によって「末広劇場」が開館した。戦前・戦後を通じて比布町唯一の娯楽施設だったが、テレビの普及や社会環境の変化によっていつしか閉館となり、1977年に建物が取り壊された。場所は1985年現在の児童遊園地入口付近である。*50
所在地 : 北海道上川郡愛別村(1950年)、北海道上川郡愛別村本村(1953年)、北海道上川郡愛別村(1955年)、北海道上川郡愛別村95(1956年)
開館年 : 1918年? 1920年?
閉館年 : 1956年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1920年開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1956年の映画館名簿では「大黒座」。1957年の映画館名簿には掲載されていない。
1918年に篠原氏によって新築開場した劇場「大黒座」。数年後には閉鎖され、自彊青年会館に用いられた後、産業組合醸造倉庫となった。所在地は愛別市街。*51
1918年、愛別市街地に「大黒座」が開館し、映画、浪曲、芝居の興行が行われていた。大黒座は数年で解散し、建物は青年会館に転用されたが、演芸会の会場などにもなった。その後商業組合が建物の所有者となり、醸造会社の倉庫に転用された。1950年頃、安住某が劇場を設立して映画を常映した。愛別劇場は1965年2月に廃業した。*52
戦後、愛別村本町には篠原豊三郎が経営する「大黒座」があり、月に数回の頻度で映画、浪曲、芝居の興行が行われていた。1950年頃、安住一雄は商業組合の煉瓦倉庫を改造し、椅子席を置いて常設映画館「愛別劇場」とした。愛別劇場は1965年2月に廃業した。*53
開館年 : 1918年? 1920年?
閉館年 : 1956年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1920年開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1956年の映画館名簿では「大黒座」。1957年の映画館名簿には掲載されていない。
1918年に篠原氏によって新築開場した劇場「大黒座」。数年後には閉鎖され、自彊青年会館に用いられた後、産業組合醸造倉庫となった。所在地は愛別市街。*51
1918年、愛別市街地に「大黒座」が開館し、映画、浪曲、芝居の興行が行われていた。大黒座は数年で解散し、建物は青年会館に転用されたが、演芸会の会場などにもなった。その後商業組合が建物の所有者となり、醸造会社の倉庫に転用された。1950年頃、安住某が劇場を設立して映画を常映した。愛別劇場は1965年2月に廃業した。*52
戦後、愛別村本町には篠原豊三郎が経営する「大黒座」があり、月に数回の頻度で映画、浪曲、芝居の興行が行われていた。1950年頃、安住一雄は商業組合の煉瓦倉庫を改造し、椅子席を置いて常設映画館「愛別劇場」とした。愛別劇場は1965年2月に廃業した。*53
所在地 : 北海道上川郡愛別村(1957年・1958年)、北海道上川郡愛別村198(1960年)、北海道上川郡愛別町本町198(1963年)、北海道上川郡愛別町本町(1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「愛別劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1918年、愛別市街地に「大黒座」が開館し、映画、浪曲、芝居の興行が行われていた。大黒座は数年で解散し、建物は青年会館に転用されたが、演芸会の会場などにもなった。その後商業組合が建物の所有者となり、醸造会社の倉庫に転用された。1950年頃、安住某が劇場を設立して映画を常映した。愛別劇場は1965年2月に廃業した。*54
戦後、愛別村本町には篠原豊三郎が経営する「大黒座」があり、月に数回の頻度で映画、浪曲、芝居の興行が行われていた。1950年頃、安住一雄は商業組合の煉瓦倉庫を改造し、椅子席を置いて常設映画館「愛別劇場」とした。愛別劇場は1965年2月に廃業した。*55
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「愛別劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1918年、愛別市街地に「大黒座」が開館し、映画、浪曲、芝居の興行が行われていた。大黒座は数年で解散し、建物は青年会館に転用されたが、演芸会の会場などにもなった。その後商業組合が建物の所有者となり、醸造会社の倉庫に転用された。1950年頃、安住某が劇場を設立して映画を常映した。愛別劇場は1965年2月に廃業した。*54
戦後、愛別村本町には篠原豊三郎が経営する「大黒座」があり、月に数回の頻度で映画、浪曲、芝居の興行が行われていた。1950年頃、安住一雄は商業組合の煉瓦倉庫を改造し、椅子席を置いて常設映画館「愛別劇場」とした。愛別劇場は1965年2月に廃業した。*55
所在地 : 北海道上川郡上川村(1950年)、北海道上川郡上川村北町(1953年)、北海道上川郡上川村(1955年)、北海道上川郡上川町125(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1926年
閉館年 : 1964年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「上川座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「上川劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1926年に新栄社によって創立した劇場「上川座」。管理者は明石幸輔と畑野代三郎。所在地は上川駅前。*56
1926年、上川村に新栄社によって株式組織の「上川座」が建てられ、明石幸輔と畑野代三郎が管理者となった。1928年には三十六線市街地に藤田弥太郎によって「近江座」も開館しれた。1933年、上川座が明石と畑野に譲渡され、劇場としての許可を受け、芝居や映画の興行、諸会合の会場などに利用された。これによって近江座は廃業した。1962年には上川座が元田栄作に譲渡され、1964年をもって休館した。*57
開館年 : 1926年
閉館年 : 1964年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「上川座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「上川劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1926年に新栄社によって創立した劇場「上川座」。管理者は明石幸輔と畑野代三郎。所在地は上川駅前。*56
1926年、上川村に新栄社によって株式組織の「上川座」が建てられ、明石幸輔と畑野代三郎が管理者となった。1928年には三十六線市街地に藤田弥太郎によって「近江座」も開館しれた。1933年、上川座が明石と畑野に譲渡され、劇場としての許可を受け、芝居や映画の興行、諸会合の会場などに利用された。これによって近江座は廃業した。1962年には上川座が元田栄作に譲渡され、1964年をもって休館した。*57
所在地 : 北海道上川郡上川町(1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1958年
閉館年 : 1973年以後1975年以前
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「上川東映劇場」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。
1958年、株式会社三梄組が上川町役場裏に「東映劇場」を開館させ、主として映画を上映した。1959年5月、東映劇場が三世興業有限会社に譲渡され、角田ハルエが社長を務めている。*58
開館年 : 1958年
閉館年 : 1973年以後1975年以前
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「上川東映劇場」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。
1958年、株式会社三梄組が上川町役場裏に「東映劇場」を開館させ、主として映画を上映した。1959年5月、東映劇場が三世興業有限会社に譲渡され、角田ハルエが社長を務めている。*58
所在地 : 北海道上川郡美瑛町(1960年・1963年)、北海道上川郡美瑛町栄町(1965年)
開館年 : 1956年6月
閉館年 : 1962年9月? 1965年頃?
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「美瑛国民劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1956年6月、美瑛町に株式組織の「美瑛国民劇場」が開館した。「旭川国民劇場」の連鎖館であることが名称の由来である。社長は三浦伝内。美瑛国民劇場が東宝・松竹・新東宝を、「美瑛劇場」が東宝・日活・大映を上映している。総坪数は121坪、収容人員292人。*59
1956年6月、美瑛町に株式組織の「美瑛国民劇場」が開館した。「旭川国民劇場」のチェーン館であることが名称の由来である。社長は三浦伝内。総坪数は121坪、収容人員292人であり、開館当初から全席椅子席でスチーム暖房を有していた。1962年9月には美瑛国民劇場が閉館した。*60
1959年の美瑛町にあった「美瑛国劇」の写真あり。昭和30年代の美瑛町には複数の映画館があり、駅前には飲食店や土産物店が建ち並んでいた。*61
開館年 : 1956年6月
閉館年 : 1962年9月? 1965年頃?
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「美瑛国民劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1956年6月、美瑛町に株式組織の「美瑛国民劇場」が開館した。「旭川国民劇場」の連鎖館であることが名称の由来である。社長は三浦伝内。美瑛国民劇場が東宝・松竹・新東宝を、「美瑛劇場」が東宝・日活・大映を上映している。総坪数は121坪、収容人員292人。*59
1956年6月、美瑛町に株式組織の「美瑛国民劇場」が開館した。「旭川国民劇場」のチェーン館であることが名称の由来である。社長は三浦伝内。総坪数は121坪、収容人員292人であり、開館当初から全席椅子席でスチーム暖房を有していた。1962年9月には美瑛国民劇場が閉館した。*60
1959年の美瑛町にあった「美瑛国劇」の写真あり。昭和30年代の美瑛町には複数の映画館があり、駅前には飲食店や土産物店が建ち並んでいた。*61
所在地 : 北海道上川郡美瑛村(1941年・1950年)、北海道上川郡美瑛町(1953年)、北海道上川郡美瑛町4区(1955年・1958年・1960年・1963年)、北海道上川郡美瑛町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1929年12月
閉館年 : 1969年秋
『全国映画館総覧 1955』によると1929年12月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「美瑛館」。1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「美瑛館」。1955年の映画館名簿では「美瑛映劇」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「美瑛劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1930年7月3日に新築され、8月に水上善四郎によって開館した劇場「美瑛館」。1950年には小知井利作の経営となって「美瑛劇場」に改称した。1969年に廃館となった。*62
1930年には美瑛村に「美瑛劇場」が設立された。1950年からは小知井利作が経営者であり、1954年に改築された。美瑛劇場が東宝・日活・大映を、「美瑛国民劇場」が東宝・松竹・新東宝を上映している。総坪数は140坪5、収容人員375人。*63
1930年7月3日、美瑛村に株式組織で「美瑛館」が竣工した。1950年には小知井利作が「美瑛劇場」に改称し、1954年にはモルタル塗りで全席椅子席の建物となった。観客数のピークは1958年であり、昭和40年代には不振が続いた。1969年秋には常設館としての営業を取りやめた。閉館間際の美瑛劇場の写真あり。*64
1964年の美瑛町にあった「美瑛劇場」の写真あり。「楽しい日活映画」の文字が見える。平入の正面上部に半円形の屋根があり、劇場名が取り付けられている。*65
開館年 : 1929年12月
閉館年 : 1969年秋
『全国映画館総覧 1955』によると1929年12月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「美瑛館」。1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「美瑛館」。1955年の映画館名簿では「美瑛映劇」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「美瑛劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1930年7月3日に新築され、8月に水上善四郎によって開館した劇場「美瑛館」。1950年には小知井利作の経営となって「美瑛劇場」に改称した。1969年に廃館となった。*62
1930年には美瑛村に「美瑛劇場」が設立された。1950年からは小知井利作が経営者であり、1954年に改築された。美瑛劇場が東宝・日活・大映を、「美瑛国民劇場」が東宝・松竹・新東宝を上映している。総坪数は140坪5、収容人員375人。*63
1930年7月3日、美瑛村に株式組織で「美瑛館」が竣工した。1950年には小知井利作が「美瑛劇場」に改称し、1954年にはモルタル塗りで全席椅子席の建物となった。観客数のピークは1958年であり、昭和40年代には不振が続いた。1969年秋には常設館としての営業を取りやめた。閉館間際の美瑛劇場の写真あり。*64
1964年の美瑛町にあった「美瑛劇場」の写真あり。「楽しい日活映画」の文字が見える。平入の正面上部に半円形の屋根があり、劇場名が取り付けられている。*65
所在地 : 北海道上川郡和寒村(1953年・1955年)、北海道上川郡和寒町(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1921年6g多雨
閉館年 : 1973年以後1975年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「和寒会館」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「和寒劇場」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。
1915年に新築された劇場「和寒座」。経営者は吉岡与七。1921年6月には吉岡与七によって「末広座」が新築開場し、1923年には和寒座が閉鎖された。1941年には芝崎良助が末広座を買収して和寒座に改称した。*66
1913年6月、和寒市街地の国道筋に吉岡与七らによって仮劇場「和寒座」が開館した。1975年現在の菅野自転車店の裏手である。1915年には和寒村役場が建設中に倒壊したため、建設中の資材を譲り受けて和寒座が新築された。1975年現在の大石英雄宅の場所である。1941年、芝崎良助が和寒座を買収して「和寒劇場」に改称し、長椅子やストーブを導入した。1949年の和寒会館(和寒劇場)の写真あり。1959年12月には横山義雄が「和寒映劇」を開館させ、和寒劇場と和寒映劇が競合しあが、和寒映劇は1960年4月にはもう閉館した。和寒劇場は1965年頃から観客数が低迷し、1975年現在は不定期営業である。1975年現在の和寒劇場の写真あり。*67
1960年の和寒町にあった「和寒劇場」の写真あり。1921年に建てられた「末広座劇場」が前身であり、1941年に和寒劇場に改称した。戦後には内外装を一新し、映画を主とした営業となった。昭和40年代には祭典や正月のみの営業となった。*68
開館年 : 1921年6g多雨
閉館年 : 1973年以後1975年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「和寒会館」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「和寒劇場」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。
1915年に新築された劇場「和寒座」。経営者は吉岡与七。1921年6月には吉岡与七によって「末広座」が新築開場し、1923年には和寒座が閉鎖された。1941年には芝崎良助が末広座を買収して和寒座に改称した。*66
1913年6月、和寒市街地の国道筋に吉岡与七らによって仮劇場「和寒座」が開館した。1975年現在の菅野自転車店の裏手である。1915年には和寒村役場が建設中に倒壊したため、建設中の資材を譲り受けて和寒座が新築された。1975年現在の大石英雄宅の場所である。1941年、芝崎良助が和寒座を買収して「和寒劇場」に改称し、長椅子やストーブを導入した。1949年の和寒会館(和寒劇場)の写真あり。1959年12月には横山義雄が「和寒映劇」を開館させ、和寒劇場と和寒映劇が競合しあが、和寒映劇は1960年4月にはもう閉館した。和寒劇場は1965年頃から観客数が低迷し、1975年現在は不定期営業である。1975年現在の和寒劇場の写真あり。*67
1960年の和寒町にあった「和寒劇場」の写真あり。1921年に建てられた「末広座劇場」が前身であり、1941年に和寒劇場に改称した。戦後には内外装を一新し、映画を主とした営業となった。昭和40年代には祭典や正月のみの営業となった。*68
所在地 : 北海道上川郡剣淵村(1954年・1955年)、北海道上川郡剣淵村栄町(1958年・1960年・1963年)、北海道上川郡剣淵町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1942年
閉館年 : 1976年5月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「剣淵会館」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「剣淵劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1942年に田畑忠雄によって創業した劇場「剣淵劇場」。所在地は剣淵町市街。*69
1961年の剣淵町にあった「剣淵劇場」の写真あり。1942年、現在の栄町にあった倉庫を劇場とした。1958年に改築して本格的な映画館兼劇場となった。1976年5月に閉館した。*70
開館年 : 1942年
閉館年 : 1976年5月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「剣淵会館」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「剣淵劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1942年に田畑忠雄によって創業した劇場「剣淵劇場」。所在地は剣淵町市街。*69
1961年の剣淵町にあった「剣淵劇場」の写真あり。1942年、現在の栄町にあった倉庫を劇場とした。1958年に改築して本格的な映画館兼劇場となった。1976年5月に閉館した。*70
所在地 : 北海道上川郡下川町(1954年・1955年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「一ノ橋劇場」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「一ノ橋劇場」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道上川郡下川町字ペンケ(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1965年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「下川鉱会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1956年には三菱下川鉱業所に「鉱業所会館」が建てられ、本社からフィルムが直接送られてくる。*71
開館年 : 1965年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「下川鉱会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1956年には三菱下川鉱業所に「鉱業所会館」が建てられ、本社からフィルムが直接送られてくる。*71
所在地 : 北海道上川郡下川村市街地(1941年)、北海道上川郡下川村市街(1950年)、北海道上川郡下川町(1953年・1955年)、北海道上川郡下川町花園町(1958年)、北海道上川郡下川町花園通(1960年)、北海道上川郡下川町(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1935年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「昭栄館」。1950年の映画館名簿では「下川昭栄座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「昭栄座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「下川昭栄座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1935年に吉川高次郎によって創業した劇場「昭栄座」。所在地は下川町市街。*72
1935年、下川村に吉川高次郎によって常設映画館「昭栄座」が建てられた。入口には下足番がおり、畳敷きの館内では火鉢や座布団が貸し出された。戦後には館内が畳敷きから椅子席に変わった。1960年には裏通りに佐藤政吉によって「下川セントラル劇場」が開館したが、わずか2〜3年で閉館した。*73
昭和30年代の下川町にあった「昭栄座」の写真あり。昭和10年代、下川村初の常設館として建てられた。開館当初は畳敷きだったが戦後に椅子席となった。昭和30年代の下川町には3館の劇場があり、芝居、歌謡、浪曲などの興行も行われた。昭和40年代に閉館した。*74
開館年 : 1935年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「昭栄館」。1950年の映画館名簿では「下川昭栄座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「昭栄座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「下川昭栄座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1935年に吉川高次郎によって創業した劇場「昭栄座」。所在地は下川町市街。*72
1935年、下川村に吉川高次郎によって常設映画館「昭栄座」が建てられた。入口には下足番がおり、畳敷きの館内では火鉢や座布団が貸し出された。戦後には館内が畳敷きから椅子席に変わった。1960年には裏通りに佐藤政吉によって「下川セントラル劇場」が開館したが、わずか2〜3年で閉館した。*73
昭和30年代の下川町にあった「昭栄座」の写真あり。昭和10年代、下川村初の常設館として建てられた。開館当初は畳敷きだったが戦後に椅子席となった。昭和30年代の下川町には3館の劇場があり、芝居、歌謡、浪曲などの興行も行われた。昭和40年代に閉館した。*74
所在地 : 北海道雨竜郡幌加内町(1963年)、北海道雨竜郡幌加内町添牛内(1965年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1965年頃
1954年の『幌加内村市街明細図』では発見できず。1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1965年の映画館名簿では「添牛内劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1965年頃
1954年の『幌加内村市街明細図』では発見できず。1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1965年の映画館名簿では「添牛内劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道雨竜郡幌加内村朱鞠内(1950年)、北海道雨竜郡幌加内村市街(1953年)、北海道雨竜郡幌加内村朱鞠内(1955年・1958年・1960年)、北海道雨竜郡幌加内町朱鞠内(1963年・1965年)
開館年 : 1940年1月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1940年1月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「共栄座」。1963年・1965年の映画館名簿では「共楽座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「朱鞠内郵便局」北北東60mの空き地。最寄駅はJR宗谷本線士別駅。
1954年の『幌加内村市街明細図』には「共栄座 館主近●金五郎」が描かれている。*75
開館年 : 1940年1月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1940年1月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「共栄座」。1963年・1965年の映画館名簿では「共楽座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「朱鞠内郵便局」北北東60mの空き地。最寄駅はJR宗谷本線士別駅。
1954年の『幌加内村市街明細図』には「共栄座 館主近●金五郎」が描かれている。*75
所在地 : 北海道雨竜郡幌加内村(1953年・1955年・1958年・1960年)、北海道雨竜郡幌加内町(1963年)、北海道雨竜郡幌加内町1(1965年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「幌加内劇場」。1954年の『幌加内村市街明細図』では発見できず。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1954年には幌加内村に美登世舞踊会が設立された。同年11月6日、「幌加内劇場」で発表会を開催した。*76
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「幌加内劇場」。1954年の『幌加内村市街明細図』では発見できず。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1954年には幌加内村に美登世舞踊会が設立された。同年11月6日、「幌加内劇場」で発表会を開催した。*76
所在地 : 北海道空知郡上富良野町(1947年・1950年・1960年・1963年)
開館年 : 1941年11月5日
閉館年 : 1963年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「上富良野劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
1941年11月5日に桐山英一によって新築された「上富良野劇場」。1963年に閉鎖された。*77
1941年11月5日、「永楽座」の経営者だった弁士の桐山英一は、同一地点に「上富良野劇場」を新築開館させた。1950年には「日本劇場」も開館して上富良野劇場と競合したが、上富良野劇場は1963年に閉館した。*78
1951年の上富良野町にあった「上富良野劇場」の写真あり。屋根の棟木にはスピーカーが設置されている。*79
開館年 : 1941年11月5日
閉館年 : 1963年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「上富良野劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
1941年11月5日に桐山英一によって新築された「上富良野劇場」。1963年に閉鎖された。*77
1941年11月5日、「永楽座」の経営者だった弁士の桐山英一は、同一地点に「上富良野劇場」を新築開館させた。1950年には「日本劇場」も開館して上富良野劇場と競合したが、上富良野劇場は1963年に閉館した。*78
1951年の上富良野町にあった「上富良野劇場」の写真あり。屋根の棟木にはスピーカーが設置されている。*79
所在地 : 北海道空知郡上富良野町(1953年・1955年)、北海道空知郡上富良野町市街地(1958年)、北海道空知郡上富良野町(1960年・1963年・1964年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1950年12月25日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「日本劇場」。1964年の映画館名簿では「上富日本劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「上富良野日本劇場」。1970年の映画館名簿では「上富良野日本」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1950年12月25日、上富良野町に「日本劇場」が開館し、「上富良野劇場」と競合した。伊藤七郎右衛門が資金を提供し、穴田裕二が社長に就任したが、後に宇佐見利治が経営者となった。*80
開館年 : 1950年12月25日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「日本劇場」。1964年の映画館名簿では「上富日本劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「上富良野日本劇場」。1970年の映画館名簿では「上富良野日本」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1950年12月25日、上富良野町に「日本劇場」が開館し、「上富良野劇場」と競合した。伊藤七郎右衛門が資金を提供し、穴田裕二が社長に就任したが、後に宇佐見利治が経営者となった。*80
所在地 : 北海道空知郡中富良野村市街地(1950年)、北海道空知郡中富良野村市街(1953年)、北海道空知郡中富良野村(1955年)、北海道空知郡中富良野村市街地(1958年)、北海道空知郡中富良野村(1960年・1963年)、北海道空知郡中富良野町(1965年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「中富良野劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「中富良野劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道空知郡南富良野村幾寅(1964年)、北海道空知郡南富良野村字幾寅(1966年)
開館年 : 1954年
閉館年 : 1966年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1966年の映画館名簿では「幾寅劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
1954年、南富良野村に鈴木和男が「幾寅劇場」を開館させた。*81
開館年 : 1954年
閉館年 : 1966年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1966年の映画館名簿では「幾寅劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
1954年、南富良野村に鈴木和男が「幾寅劇場」を開館させた。*81
所在地 : 北海道空知郡南富良野村下金山(1957年)、北海道空知郡南富良野村金山(1958年)、北海道空知郡南富良野村金山市街(1960年・1963年)、北海道空知郡南富良野村字金山(1966年)
開館年 : 1956年7月
閉館年 : 1966年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「金山劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「金映劇場」。1966年の映画館名簿では「金山劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
1907年春、金山の黄金町の神社前通りに芝居小屋が開館した。1922年には中原熊市によって移築され、1926年頃まで「金山座」として営業した。富士製紙会社は劇場「ダイヤモンド座」を開館させたが、1931年の富士製紙会社廃業とともにダイヤモンド座も終焉した。1956年7月、磯江茂によって「金映座」が開館した。*82
開館年 : 1956年7月
閉館年 : 1966年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「金山劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「金映劇場」。1966年の映画館名簿では「金山劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
1907年春、金山の黄金町の神社前通りに芝居小屋が開館した。1922年には中原熊市によって移築され、1926年頃まで「金山座」として営業した。富士製紙会社は劇場「ダイヤモンド座」を開館させたが、1931年の富士製紙会社廃業とともにダイヤモンド座も終焉した。1956年7月、磯江茂によって「金映座」が開館した。*82
所在地 : 北海道勇払郡占冠村(1963年)、北海道勇払郡占冠村中央(1964年・1965年)
開館年 : 1920年、1959年(建て替え)
閉館年 : 1965年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「占冠劇場」。1964年・1965年の映画館名簿では「中央館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1920年に堂坂房吉によって倉庫を改修して創業した「占冠劇場」。1946年に「中央劇場」に改称し、1959年に占冠劇場に改称した。*83
1946年、占冠村に堂坂房吉が倉庫を改造して「中央劇場」を開館させた。興行の都度申請を行い、月2回程度映画を上映していた。堂坂は国営木工場から材木の援助を受けて、1959年には常設館「占冠劇場」を開館させた。*84
開館年 : 1920年、1959年(建て替え)
閉館年 : 1965年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「占冠劇場」。1964年・1965年の映画館名簿では「中央館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1920年に堂坂房吉によって倉庫を改修して創業した「占冠劇場」。1946年に「中央劇場」に改称し、1959年に占冠劇場に改称した。*83
1946年、占冠村に堂坂房吉が倉庫を改造して「中央劇場」を開館させた。興行の都度申請を行い、月2回程度映画を上映していた。堂坂は国営木工場から材木の援助を受けて、1959年には常設館「占冠劇場」を開館させた。*84
所在地 : 北海道中川郡美深町(1953年)、北海道中川郡美深町恩根内(1955年)、北海道中川郡美深町恩根内市街(1958年)、北海道中川郡美深町恩根内(1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「笠原劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「笠原劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道中川郡美深町(1936年・1950年・1953年)、北海道中川郡美深町東2北3(1955年)、北海道中川郡美深町(1956年・1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1934年以後1936年以前
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「美中座」。1941年・1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「美中座」。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「美深映劇」。1966年・1969年の映画館名簿では「美深劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「美深町商工会」南南東100mの民家。最寄駅はJR宗谷本線美深駅。
1937年の『大日本職業別明細図』「美深町市街図」には「美中座」が描かれている。*85
1954年3月17日午前0時、中川郡美深町の「美中座」2階映写室付近から出火し、200坪の劇場が全焼した。休館中で被害者はいなかった。原因は調査中。*86
開館年 : 1934年以後1936年以前
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「美中座」。1941年・1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「美中座」。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「美深映劇」。1966年・1969年の映画館名簿では「美深劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「美深町商工会」南南東100mの民家。最寄駅はJR宗谷本線美深駅。
1937年の『大日本職業別明細図』「美深町市街図」には「美中座」が描かれている。*85
1954年3月17日午前0時、中川郡美深町の「美中座」2階映写室付近から出火し、200坪の劇場が全焼した。休館中で被害者はいなかった。原因は調査中。*86
所在地 : 北海道中川郡美深町東2条(1964年)、北海道中川郡美深町(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年)、北海道中川郡美深町東2条北4丁目(1990年・1992年)
開館年 : 1963年頃
閉館年 : 1992年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1992年の映画館名簿では「美深東映劇場」。1992年の映画館名簿では経営者が中山庄蔵、支配人が中山優、木造1階、295席、邦画・洋画を上映。1993年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1963年頃
閉館年 : 1992年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1992年の映画館名簿では「美深東映劇場」。1992年の映画館名簿では経営者が中山庄蔵、支配人が中山優、木造1階、295席、邦画・洋画を上映。1993年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道中川郡中川村佐久(1954年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「昭和座」。1965年の映画館名簿では「佐久劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「昭和座」。1965年の映画館名簿では「佐久劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道中川郡中川村中川(1954年)、北海道中川郡中川村(1955年)、北海道中川郡中川村字中川262(1958年)、北海道中川郡中川村字中川(1960年・1963年)、北海道中川郡中川町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「中川映画劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「中川劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「中川映画劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「中川劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道宗谷郡稚内町浜通(1936年)
開館年 : 1930年
閉館年 : 1931年
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「稚都勢座」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
1930年、稚内町開運通北3に株式組織の「稚都勢座」が建てられた。中心人物は長浦興行の長浦与五郎である。早くも1931年には経営不振で閉鎖され、たまに長浦興行が催し物を行うのみとなった。やがて稚内鉄工場となり、1968年現在は高林デパート寮となっている。*87
開館年 : 1930年
閉館年 : 1931年
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「稚都勢座」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
1930年、稚内町開運通北3に株式組織の「稚都勢座」が建てられた。中心人物は長浦興行の長浦与五郎である。早くも1931年には経営不振で閉鎖され、たまに長浦興行が催し物を行うのみとなった。やがて稚内鉄工場となり、1968年現在は高林デパート寮となっている。*87
所在地 : 北海道稚内市弁天通(1950年・1953年)、北海道稚内市弁天通2丁目(1955年・1958年)
開館年 : 1946年12月、1953年11月
閉館年 : 1957年1月6日
『全国映画館総覧 1955』によると1953年11月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「文化会館」。1953年の映画館名簿では「北都劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「国際劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。
1946年12月、稚内文化振興協会によって「文化会館」が開館した。1968年現在の港町3丁目の弁天仲見世の場所である。1954年には横山儀一郎の横山興行に買収されて「銀映座」に改称した。銀映座は1957年1月6日に焼失し、1958年には道路を挟んだ向かいに「宝映座」として再建された。*91
1947年4月、稚内文化振興協会によって稚内町弁天町(現・港3)に「文化会館」が開館した。映画館としては洋画専門であり、実演の興行も行われた。洋画ファンが少ない時代だったため、定員1000人を超える大劇場が満員となるのは実演の時のみだったが、大映の上映権を獲得して急場をしのいだ。1954年には横山興行に買収された。*92
1957年1月6日、稚内市の劇場「銀映座」が全焼した。*93
1957年1月6日、稚内市弁天通りの「銀映座」が全焼した。原因は不明。*94
開館年 : 1946年12月、1953年11月
閉館年 : 1957年1月6日
『全国映画館総覧 1955』によると1953年11月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「文化会館」。1953年の映画館名簿では「北都劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「国際劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。
1946年12月、稚内文化振興協会によって「文化会館」が開館した。1968年現在の港町3丁目の弁天仲見世の場所である。1954年には横山儀一郎の横山興行に買収されて「銀映座」に改称した。銀映座は1957年1月6日に焼失し、1958年には道路を挟んだ向かいに「宝映座」として再建された。*91
1947年4月、稚内文化振興協会によって稚内町弁天町(現・港3)に「文化会館」が開館した。映画館としては洋画専門であり、実演の興行も行われた。洋画ファンが少ない時代だったため、定員1000人を超える大劇場が満員となるのは実演の時のみだったが、大映の上映権を獲得して急場をしのいだ。1954年には横山興行に買収された。*92
1957年1月6日、稚内市の劇場「銀映座」が全焼した。*93
1957年1月6日、稚内市弁天通りの「銀映座」が全焼した。原因は不明。*94
所在地 : 北海道稚内市弁天通2丁目(1960年・1963年)、北海道稚内市港町3丁目(1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1958年
閉館年 : 1968年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「宝映劇場」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「稚内宝映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
1946年12月、稚内文化振興協会によって「文化会館」が開館した。1968年現在の港町3丁目の弁天仲見世の場所である。1954年には横山儀一郎の横山興行に買収されて「銀映座」に改称した。銀映座は1957年1月6日に焼失し、1958年には道路を挟んだ向かいに「宝映座」として再建された。*95
開館年 : 1958年
閉館年 : 1968年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「宝映劇場」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「稚内宝映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
1946年12月、稚内文化振興協会によって「文化会館」が開館した。1968年現在の港町3丁目の弁天仲見世の場所である。1954年には横山儀一郎の横山興行に買収されて「銀映座」に改称した。銀映座は1957年1月6日に焼失し、1958年には道路を挟んだ向かいに「宝映座」として再建された。*95
所在地 : 北海道稚内市北浜通1丁目(1955年・1960年・1963年)、北海道稚内市北浜通2丁目(1966年・1969年)、北海道稚内市中央3丁目(1973年・1975年・1978年・1980年・1982年)、北海道稚内市中央3丁目16-25(1983年)
開館年 : 1953年11月
閉館年 : 1983年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年11月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「名画座」。1960年・1963年の映画館名簿では「東映名画座」。1966年・1969年の映画館名簿では「稚内名画座」。1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1983年の映画館名簿では「名画座」。1977年の住宅地図では「名画座」。1982年の映画館名簿では経営会社が北海道ヘラルド興業、経営者が赤木滋美、支配人が渡部武治、木造1階、360席、邦画・洋画を上映。1984年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「稚内信用金庫本店」南南東110mの駐車場。最寄駅はJR宗谷本線稚内駅。
1953年、稚内市北浜通1に横山儀一郎の横山興行によって「名画座」が新築された。*96
1957年1月6日午後4時50分頃、稚内市弁天通りの映画館「銀映座」2階映写室付近から出火し、同館と付近の建物が類焼した。損害額は約1200万円。経営者は田中傭助。*97
開館年 : 1953年11月
閉館年 : 1983年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年11月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「名画座」。1960年・1963年の映画館名簿では「東映名画座」。1966年・1969年の映画館名簿では「稚内名画座」。1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1983年の映画館名簿では「名画座」。1977年の住宅地図では「名画座」。1982年の映画館名簿では経営会社が北海道ヘラルド興業、経営者が赤木滋美、支配人が渡部武治、木造1階、360席、邦画・洋画を上映。1984年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「稚内信用金庫本店」南南東110mの駐車場。最寄駅はJR宗谷本線稚内駅。
1953年、稚内市北浜通1に横山儀一郎の横山興行によって「名画座」が新築された。*96
1957年1月6日午後4時50分頃、稚内市弁天通りの映画館「銀映座」2階映写室付近から出火し、同館と付近の建物が類焼した。損害額は約1200万円。経営者は田中傭助。*97
所在地 : 北海道稚内市開運通北3丁目(1955年)、北海道稚内市開運通北2丁目(1960年・1963年)、北海道稚内市開運通2丁目(1966年・1969年)、北海道稚内市中央3丁目(1973年・1975年・1978年)、北海道稚内市大黒3丁目(1982年・1985年・1988年)
開館年 : 1953年10月
閉館年 : 1988年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年10月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「日本映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「日本劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「稚内日本劇場」。1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「日本劇場」。1977年の住宅地図では「日本劇場」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。1982年・1985年の映画館名簿では「日本劇場」。1988年の映画館名簿では「稚内日本劇場」。1988年の映画館名簿では経営会社が北日本ヘラルド興業、経営者が八十河瑞雄、支配人が馬場宣行、木造1階、170席、邦画・洋画を上映。1989年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「道の駅わっかない」南70mの「ふなき旅館」付近。最寄駅はJR宗谷本線稚内駅。
1954年、稚内市開運通北2の辻鉄工所跡地に辻力三によって洋画館「日本劇場」が開館した。1961年には横山儀一郎の横山興行が日本劇場を買収し、「稚内劇場」、「名画座」、「宝映座」を含めた4館すべてが横山儀一郎の経営となった。*98
開館年 : 1953年10月
閉館年 : 1988年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年10月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「日本映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「日本劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「稚内日本劇場」。1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「日本劇場」。1977年の住宅地図では「日本劇場」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。1982年・1985年の映画館名簿では「日本劇場」。1988年の映画館名簿では「稚内日本劇場」。1988年の映画館名簿では経営会社が北日本ヘラルド興業、経営者が八十河瑞雄、支配人が馬場宣行、木造1階、170席、邦画・洋画を上映。1989年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「道の駅わっかない」南70mの「ふなき旅館」付近。最寄駅はJR宗谷本線稚内駅。
1954年、稚内市開運通北2の辻鉄工所跡地に辻力三によって洋画館「日本劇場」が開館した。1961年には横山儀一郎の横山興行が日本劇場を買収し、「稚内劇場」、「名画座」、「宝映座」を含めた4館すべてが横山儀一郎の経営となった。*98
所在地 : 北海道宗谷郡稚内町本通南4丁目(1930年)、北海道宗谷郡稚内町本通(1936年)、北海道宗谷郡稚内町稚内港本通北4(1941年)、北海道宗谷郡稚内町(1943年)、北海道宗谷郡稚内町本通北4(1947年)、北海道稚内市本通り(1950年)、北海道稚内市本通り北4(1953年)、北海道稚内市本通北4丁目(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年)、北海道稚内市中央通2丁目(1973年・1975年)、北海道稚内市中央通2丁目6-18(1978年)、北海道稚内市中央2丁目6-18(1980年・1982年・1985年・1988年)
開館年 : 1931年5月
閉館年 : 1988年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1931年5月開館。1930年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1985年・1988年の映画館名簿では「稚内劇場」。1977年の住宅地図では「稚内劇場」。1988年の映画館名簿では経営会社が北日本ヘラルド興業、経営者が八十河瑞雄、支配人が馬場宣行、木造1階、400席、邦画・洋画を上映。1989年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はビジネスホテル「天然温泉天北の湯ドーミーイン稚内」西南西60mの衣料品店「BOUTIQUE MIKI」。最寄駅はJR宗谷本線稚内駅。
1930年11月1日、稚内町北浜通6丁目の旅館 南館から出火し、稚内町役場、稚内郵便局、拓殖銀行稚内支店、「稚内劇場」など164棟が焼失した。*99
大正初期、稚内町本通北4の稚内座跡地の隣接地に「大正座」が建てられた。芝居、活動写真、浪花節などの興行を行っていたが、1930年11月の大火で焼失した。大火後には劇場の再建運動が起こり、1931年春には本通北4の現在地に「稚内劇場」が建てられた。1935年には横山儀一郎の横山興行が買収した。1953年、横山儀一郎は北浜通1に「名画座」を建てた。*100
開館年 : 1931年5月
閉館年 : 1988年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1931年5月開館。1930年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1985年・1988年の映画館名簿では「稚内劇場」。1977年の住宅地図では「稚内劇場」。1988年の映画館名簿では経営会社が北日本ヘラルド興業、経営者が八十河瑞雄、支配人が馬場宣行、木造1階、400席、邦画・洋画を上映。1989年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はビジネスホテル「天然温泉天北の湯ドーミーイン稚内」西南西60mの衣料品店「BOUTIQUE MIKI」。最寄駅はJR宗谷本線稚内駅。
1930年11月1日、稚内町北浜通6丁目の旅館 南館から出火し、稚内町役場、稚内郵便局、拓殖銀行稚内支店、「稚内劇場」など164棟が焼失した。*99
大正初期、稚内町本通北4の稚内座跡地の隣接地に「大正座」が建てられた。芝居、活動写真、浪花節などの興行を行っていたが、1930年11月の大火で焼失した。大火後には劇場の再建運動が起こり、1931年春には本通北4の現在地に「稚内劇場」が建てられた。1935年には横山儀一郎の横山興行が買収した。1953年、横山儀一郎は北浜通1に「名画座」を建てた。*100
所在地 : 北海道稚内市中央3-6-1(2012年・2015年・2020年)
開館年 : 2010年6月12日
閉館年 : 営業中
2010年の映画館名簿には掲載されていない。2012年・2015年・2020年の映画館名簿では「T・ジョイ稚内」(3館)。2012年の映画館名簿では経営会社が最北シネマ、経営者が高橋一平、支配人が記載なし、鉄筋造2階、1が66席、2が86席、3が98席、いずれも邦画・洋画を上映。最寄駅はJR宗谷本線稚内駅。
2010年6月12日、稚内市のJR稚内駅前に3スクリーン計250席を有する「T・ジョイ稚内」が開館する。オープニング作品は『アリス・イン・ワンダーランド』など6作品。22年ぶりに稚内市に映画館が復活することになり、日本最北の映画館となる。運営は最北シネマ。*101
稚内市中央3の「T・ジョイ稚内」。3スクリーン計250席。1988年には稚内市から映画館がなくなった。2009年には最北シネマ株式会社が設立され、建設会社の藤田幸洋が会長に、レンタルビデオ店の高橋一平が社長に就任した。2010年にはJR稚内駅に隣接する再開発ビル キタカラ2階にT・ジョイ稚内が開館した。一般的にシネコンは5スクリーン以上を有するが、年間入場者数6万人という損益分岐点を踏まえて3スクリーンに抑えた。*102
開館年 : 2010年6月12日
閉館年 : 営業中
2010年の映画館名簿には掲載されていない。2012年・2015年・2020年の映画館名簿では「T・ジョイ稚内」(3館)。2012年の映画館名簿では経営会社が最北シネマ、経営者が高橋一平、支配人が記載なし、鉄筋造2階、1が66席、2が86席、3が98席、いずれも邦画・洋画を上映。最寄駅はJR宗谷本線稚内駅。
2010年6月12日、稚内市のJR稚内駅前に3スクリーン計250席を有する「T・ジョイ稚内」が開館する。オープニング作品は『アリス・イン・ワンダーランド』など6作品。22年ぶりに稚内市に映画館が復活することになり、日本最北の映画館となる。運営は最北シネマ。*101
稚内市中央3の「T・ジョイ稚内」。3スクリーン計250席。1988年には稚内市から映画館がなくなった。2009年には最北シネマ株式会社が設立され、建設会社の藤田幸洋が会長に、レンタルビデオ店の高橋一平が社長に就任した。2010年にはJR稚内駅に隣接する再開発ビル キタカラ2階にT・ジョイ稚内が開館した。一般的にシネコンは5スクリーン以上を有するが、年間入場者数6万人という損益分岐点を踏まえて3スクリーンに抑えた。*102
所在地 : 北海道天塩郡豊富村(1953年)、北海道天塩郡豊富町(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「大和会館」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1964年の映画館名簿では「大和会館」。1965年の映画館名簿では「北光会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「大和会館」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1964年の映画館名簿では「大和会館」。1965年の映画館名簿では「北光会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道天塩郡豊富村(1953年)、北海道天塩郡豊富町(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1931年、1962年6月10日
閉館年 : 1969年5月
『全国映画館総覧 1955』によると1931年開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「豊富劇場」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「豊富劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「豊富友楽映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1934年の『大日本職業別明細図』には「劇場 豊富座」が描かれている。*103
1962年6月の豊富町本通4丁目にあった「友楽映画劇場」の開館初日の写真あり。「開館6月10日近代設備を誇る娯楽の伝道」「いつも楽しい東宝映画」などののぼりが見える。森清二郎によって建てられた。500人収容。1969年5月に廃業となり、2004年現在は木下商店家具センターとなっている。*104
開館年 : 1931年、1962年6月10日
閉館年 : 1969年5月
『全国映画館総覧 1955』によると1931年開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「豊富劇場」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「豊富劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「豊富友楽映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1934年の『大日本職業別明細図』には「劇場 豊富座」が描かれている。*103
1962年6月の豊富町本通4丁目にあった「友楽映画劇場」の開館初日の写真あり。「開館6月10日近代設備を誇る娯楽の伝道」「いつも楽しい東宝映画」などののぼりが見える。森清二郎によって建てられた。500人収容。1969年5月に廃業となり、2004年現在は木下商店家具センターとなっている。*104
所在地 : 北海道枝幸郡浜頓別町下頓別(1957年・1958年・1960年・1963年)、北海道枝幸郡浜頓別町(1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1968年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「下頓別劇場」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「浜頓別中央映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1968年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「下頓別劇場」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「浜頓別中央映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道枝幸郡浜頓別町54(1956年・1957年・1958年)、北海道枝幸郡浜頓別町(1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「浜頓別劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「浜頓別日活劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「浜頓別劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「浜頓別日活劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道枝幸郡中頓別町中頓別(1957年・1958年・1959年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1959年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1959年の映画館名簿では「新映劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1959年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1959年の映画館名簿では「新映劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道枝幸郡中頓別町小頓別(1953年・1955年)、北海道枝幸郡中頓別町小頓別市街(1958年)、北海道枝幸郡中頓別町小頓別(1960年・1963年)、北海道枝幸郡中頓別町字小頓別(1966年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「小頓別座」。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「小頓別劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「小頓別座」。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「小頓別劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道枝幸郡中頓別町(1953年・1955年)、北海道枝幸郡中頓別町67(1958年)、北海道枝幸郡中頓別町(1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「中頓別劇場」。1955年の映画館名簿では「中頓別東宝劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「東宝劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「中頓別東宝劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「中頓別劇場」。1955年の映画館名簿では「中頓別東宝劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「東宝劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「中頓別東宝劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道枝幸郡歌登村(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、北海道枝幸郡歌登町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1930年、1953年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1953年開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「幌別座」。1955年の映画館名簿では「歌登劇場」。1958年の映画館名簿では「歌登映劇」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「歌登劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1930年創業の「幌別座」(歌登劇場)。長谷川助太郎が経営した。1937年に上幌別木工場の経営となった。1966年頃に廃止された。所在地は歌登市街。*105
1934年の『大日本職業別明細図』「上幌別六線市街図」には「幌別座」が描かれている。現在の稚内信用金庫歌登支店付近。*106
開館年 : 1930年、1953年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1953年開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「幌別座」。1955年の映画館名簿では「歌登劇場」。1958年の映画館名簿では「歌登映劇」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「歌登劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1930年創業の「幌別座」(歌登劇場)。長谷川助太郎が経営した。1937年に上幌別木工場の経営となった。1966年頃に廃止された。所在地は歌登市街。*105
1934年の『大日本職業別明細図』「上幌別六線市街図」には「幌別座」が描かれている。現在の稚内信用金庫歌登支店付近。*106
所在地 : 北海道枝幸郡枝幸町(1950年)、北海道枝幸郡枝幸町栄町(1953年)、北海道枝幸郡枝幸町(1955年・1958年・1960年・1963年)、北海道枝幸郡枝幸町幸町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「枝幸劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「枝幸公楽劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「枝幸劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「枝幸公楽劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道枝幸郡枝幸町本町162(1959年・1960年)、北海道枝幸郡枝幸町162(1963年)、北海道枝幸郡枝幸町本町(1966年・1969年)、北海道枝幸郡枝幸町(1973年・1975年)、北海道枝幸郡枝幸町梅ケ枝(1978年・1979年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1979年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「枝幸中央映画館」。1966年の映画館名簿では「枝幸中央映画劇場」。1969年・1973年・1975年・1978年・1979年の映画館名簿では「枝幸中央館」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。
1934の『大日本職業別明細図』「枝幸市街図」には「劇場」が描かれている。*107
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1979年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「枝幸中央映画館」。1966年の映画館名簿では「枝幸中央映画劇場」。1969年・1973年・1975年・1978年・1979年の映画館名簿では「枝幸中央館」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。
1934の『大日本職業別明細図』「枝幸市街図」には「劇場」が描かれている。*107
所在地 : 北海道宗谷郡猿払村鬼士別市街(1950年)、北海道宗谷郡猿払村鬼士別(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「花丸座」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「花丸座」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道宗谷郡猿払村小石(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「小石劇場」。1964年・1965年の映画館名簿では「藤田会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「小石劇場」。1964年・1965年の映画館名簿では「藤田会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道天塩郡幌延村間寒別(1960年・1962年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1962年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1962年の映画館名簿では「問寒別劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1962年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1962年の映画館名簿では「問寒別劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道天塩郡幌延村市街(1953年)、北海道天塩郡幌延村(1955年・1958年・1960年)、北海道天塩郡幌延町(1973年・1975年・1978年・1980年)
開館年 : 1950年7月? 1951年9月?
閉館年 : 1980年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年9月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「幌延劇場」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「幌延劇場」。1981年の映画館名簿には掲載されていない。
1924年に開館した劇場「偕楽館」。所在地は幌延市街。*108
1925年、幌延村に村元弥一郎らによって劇場「偕楽」ができた。*109
1934年の『大日本職業別明細図』「幌延市街図」には「偕楽座」が描かれている。*110
1950年7月、幌延村に「幌延劇場」ができた。*111
開館年 : 1950年7月? 1951年9月?
閉館年 : 1980年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年9月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「幌延劇場」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「幌延劇場」。1981年の映画館名簿には掲載されていない。
1924年に開館した劇場「偕楽館」。所在地は幌延市街。*108
1925年、幌延村に村元弥一郎らによって劇場「偕楽」ができた。*109
1934年の『大日本職業別明細図』「幌延市街図」には「偕楽座」が描かれている。*110
1950年7月、幌延村に「幌延劇場」ができた。*111
所在地 : 北海道利尻郡利尻町沓形4(1957年)、北海道利尻郡利尻町沓形日ノ出町4(1958年)、北海道利尻郡利尻町沓形日ノ出町(1960年・1963年)、北海道利尻郡利尻町沓形(1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「利尻映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「利尻映劇」。1965年の映画館名簿では「利尻映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1964年現在の利尻島と礼文島の常設映画館として、「沓形劇場」(沓形)、「利尻劇場」(沓形)、「栄喜座」(仙法志)、「仙法志シネマ」(仙法志)、「大成座」(鬼脇)、「鴛泊劇場」(鴛泊)、「富士見館」(本泊)、「北星劇場」(香深)、「船泊劇場」(船泊)などがある。*112
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「利尻映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「利尻映劇」。1965年の映画館名簿では「利尻映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1964年現在の利尻島と礼文島の常設映画館として、「沓形劇場」(沓形)、「利尻劇場」(沓形)、「栄喜座」(仙法志)、「仙法志シネマ」(仙法志)、「大成座」(鬼脇)、「鴛泊劇場」(鴛泊)、「富士見館」(本泊)、「北星劇場」(香深)、「船泊劇場」(船泊)などがある。*112
所在地 : 北海道利尻郡利尻町仙法志(1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1965年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「仙法志シネマ」。1964年・1965年の映画館名簿では「仙法志映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1964年現在の利尻島と礼文島の常設映画館として、「沓形劇場」(沓形)、「利尻劇場」(沓形)、「栄喜座」(仙法志)、「仙法志シネマ」(仙法志)、「大成座」(鬼脇)、「鴛泊劇場」(鴛泊)、「富士見館」(本泊)、「北星劇場」(香深)、「船泊劇場」(船泊)などがある。*113
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1965年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「仙法志シネマ」。1964年・1965年の映画館名簿では「仙法志映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1964年現在の利尻島と礼文島の常設映画館として、「沓形劇場」(沓形)、「利尻劇場」(沓形)、「栄喜座」(仙法志)、「仙法志シネマ」(仙法志)、「大成座」(鬼脇)、「鴛泊劇場」(鴛泊)、「富士見館」(本泊)、「北星劇場」(香深)、「船泊劇場」(船泊)などがある。*113
所在地 : 北海道利尻郡仙法志村(1953年)、北海道利尻郡利尻町仙法志(1958年・1959年・1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「仙法志劇場」。1958年の映画館名簿では「仙法志映画劇場」。1959年の映画館名簿では「仙法志映劇」。1960年の映画館名簿では「仙法志劇場」。1963年の映画館名簿では「仙法志映劇」。1964年・1965年の映画館名簿では「仙法志劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1934年の『大日本職業別明細図』「仙法志市街図」には「劇場」が描かれている。現在の利尻町仙法志歯科診療所付近。*114
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「仙法志劇場」。1958年の映画館名簿では「仙法志映画劇場」。1959年の映画館名簿では「仙法志映劇」。1960年の映画館名簿では「仙法志劇場」。1963年の映画館名簿では「仙法志映劇」。1964年・1965年の映画館名簿では「仙法志劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1934年の『大日本職業別明細図』「仙法志市街図」には「劇場」が描かれている。現在の利尻町仙法志歯科診療所付近。*114
所在地 : 北海道利尻郡沓形町富士見町(1953年)、北海道利尻郡利尻町沓形(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「沓形劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「利尻沓形劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
1934年の『大日本職業別明細図』「沓形港市街図」には「大黒座」が描かれている。現在の利尻町交流促進施設どんとの南南東160m付近。*115
1964年現在の利尻島と礼文島の常設映画館として、「沓形劇場」(沓形)、「利尻劇場」(沓形)、「栄喜座」(仙法志)、「仙法志シネマ」(仙法志)、「大成座」(鬼脇)、「鴛泊劇場」(鴛泊)、「富士見館」(本泊)、「北星劇場」(香深)、「船泊劇場」(船泊)などがある。*116
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「沓形劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「利尻沓形劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
1934年の『大日本職業別明細図』「沓形港市街図」には「大黒座」が描かれている。現在の利尻町交流促進施設どんとの南南東160m付近。*115
1964年現在の利尻島と礼文島の常設映画館として、「沓形劇場」(沓形)、「利尻劇場」(沓形)、「栄喜座」(仙法志)、「仙法志シネマ」(仙法志)、「大成座」(鬼脇)、「鴛泊劇場」(鴛泊)、「富士見館」(本泊)、「北星劇場」(香深)、「船泊劇場」(船泊)などがある。*116
所在地 : 北海道利尻郡鬼脇村(1954年・1955年)、北海道利尻郡東利尻村鬼脇(1958年・1960年)、北海道利尻郡東利尻町鬼脇(1963年・1965年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「大成座」。1958年の映画館名簿では「鬼脇大成座」。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「大成座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
鬼脇市街地は神社通りのノボリマナイ川を挟んで西と東に分かれている。西側から数丁離れた野原の中には2〜3軒の遊廓があった。遊廓から1丁ほど下った場所に「福助座」があり、旅芝居の公演などが行われた。*117
1934年の『大日本職業別明細図』「鴛泊港市街図」には「福助座」が描かれている。現在の本浄寺の南西110m付近。*118
1964年現在の利尻島と礼文島の常設映画館として、「沓形劇場」(沓形)、「利尻劇場」(沓形)、「栄喜座」(仙法志)、「仙法志シネマ」(仙法志)、「大成座」(鬼脇)、「鴛泊劇場」(鴛泊)、「富士見館」(本泊)、「北星劇場」(香深)、「船泊劇場」(船泊)などがある。*119
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「大成座」。1958年の映画館名簿では「鬼脇大成座」。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「大成座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
鬼脇市街地は神社通りのノボリマナイ川を挟んで西と東に分かれている。西側から数丁離れた野原の中には2〜3軒の遊廓があった。遊廓から1丁ほど下った場所に「福助座」があり、旅芝居の公演などが行われた。*117
1934年の『大日本職業別明細図』「鴛泊港市街図」には「福助座」が描かれている。現在の本浄寺の南西110m付近。*118
1964年現在の利尻島と礼文島の常設映画館として、「沓形劇場」(沓形)、「利尻劇場」(沓形)、「栄喜座」(仙法志)、「仙法志シネマ」(仙法志)、「大成座」(鬼脇)、「鴛泊劇場」(鴛泊)、「富士見館」(本泊)、「北星劇場」(香深)、「船泊劇場」(船泊)などがある。*119
所在地 : 北海道利尻郡東利尻村本泊(1957年・1958年・1960年)、北海道利尻郡東利尻町本泊(1963年・1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「鴛泊富士見館」。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「富士見館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1964年現在の利尻島と礼文島の常設映画館として、「沓形劇場」(沓形)、「利尻劇場」(沓形)、「栄喜座」(仙法志)、「仙法志シネマ」(仙法志)、「大成座」(鬼脇)、「鴛泊劇場」(鴛泊)、「富士見館」(本泊)、「北星劇場」(香深)、「船泊劇場」(船泊)などがある。*120
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「鴛泊富士見館」。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「富士見館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1964年現在の利尻島と礼文島の常設映画館として、「沓形劇場」(沓形)、「利尻劇場」(沓形)、「栄喜座」(仙法志)、「仙法志シネマ」(仙法志)、「大成座」(鬼脇)、「鴛泊劇場」(鴛泊)、「富士見館」(本泊)、「北星劇場」(香深)、「船泊劇場」(船泊)などがある。*120
所在地 : 北海道利尻郡鴛泊村栄町(1954年・1955年)、北海道利尻郡東利尻村鴛泊(1958年・1960年)、北海道利尻郡東利尻町(1963年)、北海道利尻郡東利尻町鴛泊(1966年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「鴛泊劇場」。1958年の映画館名簿では「鴛泊映画劇場」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「鴛泊映劇」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
1934年の『大日本職業別明細図』「沓形港市街図」には「大黒座」が描かれている。現在の利尻町交流促進施設どんとの南南東160m付近。*121
1964年現在の利尻島と礼文島の常設映画館として、「沓形劇場」(沓形)、「利尻劇場」(沓形)、「栄喜座」(仙法志)、「仙法志シネマ」(仙法志)、「大成座」(鬼脇)、「鴛泊劇場」(鴛泊)、「富士見館」(本泊)、「北星劇場」(香深)、「船泊劇場」(船泊)などがある。*122
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「鴛泊劇場」。1958年の映画館名簿では「鴛泊映画劇場」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「鴛泊映劇」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
1934年の『大日本職業別明細図』「沓形港市街図」には「大黒座」が描かれている。現在の利尻町交流促進施設どんとの南南東160m付近。*121
1964年現在の利尻島と礼文島の常設映画館として、「沓形劇場」(沓形)、「利尻劇場」(沓形)、「栄喜座」(仙法志)、「仙法志シネマ」(仙法志)、「大成座」(鬼脇)、「鴛泊劇場」(鴛泊)、「富士見館」(本泊)、「北星劇場」(香深)、「船泊劇場」(船泊)などがある。*122
所在地 : 北海道礼文郡船泊村大備(1953年)、北海道礼文郡船泊村(1955年)、北海道礼文郡礼文村(1958年)、北海道礼文郡礼文村船泊(1960年)、北海道礼文郡礼文町船泊(1963年・1965年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「船泊劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1964年現在の利尻島と礼文島の常設映画館として、「沓形劇場」(沓形)、「利尻劇場」(沓形)、「栄喜座」(仙法志)、「仙法志シネマ」(仙法志)、「大成座」(鬼脇)、「鴛泊劇場」(鴛泊)、「富士見館」(本泊)、「北星劇場」(香深)、「船泊劇場」(船泊)などがある。*123
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「船泊劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1964年現在の利尻島と礼文島の常設映画館として、「沓形劇場」(沓形)、「利尻劇場」(沓形)、「栄喜座」(仙法志)、「仙法志シネマ」(仙法志)、「大成座」(鬼脇)、「鴛泊劇場」(鴛泊)、「富士見館」(本泊)、「北星劇場」(香深)、「船泊劇場」(船泊)などがある。*123
所在地 : 北海道礼文郡香深村会所前(1953年)、北海道礼文郡礼文村(1958年)、北海道礼文郡礼文村香深(1960年)、北海道礼文郡礼文町香深(1963年・1965年)
開館年 : 1934年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「松月座」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「香深松月座」。1965年の映画館名簿では「松月座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1934年の『大日本職業別明細図』「香深港市街図」には「劇場」が描かれている。現在の礼文厳島神社の西70m付近。*124
1939年8月29日、香深村の劇場「松月座」で香深村銃後奉仕会が主催する銃後強化映画会が開催された。*125
開館年 : 1934年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「松月座」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「香深松月座」。1965年の映画館名簿では「松月座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1934年の『大日本職業別明細図』「香深港市街図」には「劇場」が描かれている。現在の礼文厳島神社の西70m付近。*124
1939年8月29日、香深村の劇場「松月座」で香深村銃後奉仕会が主催する銃後強化映画会が開催された。*125
所在地 : 北海道礼文郡礼文村(1957年・1958年)、北海道礼文郡礼文町字香深(1966年)、北海道礼文郡礼文町字香深(1969年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1969年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「香深北星座」。1960年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年の映画館名簿では「香深北星劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
1964年現在の利尻島と礼文島の常設映画館として、「沓形劇場」(沓形)、「利尻劇場」(沓形)、「栄喜座」(仙法志)、「仙法志シネマ」(仙法志)、「大成座」(鬼脇)、「鴛泊劇場」(鴛泊)、「富士見館」(本泊)、「北星劇場」(香深)、「船泊劇場」(船泊)などがある。*126
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1969年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「香深北星座」。1960年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年の映画館名簿では「香深北星劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
1964年現在の利尻島と礼文島の常設映画館として、「沓形劇場」(沓形)、「利尻劇場」(沓形)、「栄喜座」(仙法志)、「仙法志シネマ」(仙法志)、「大成座」(鬼脇)、「鴛泊劇場」(鴛泊)、「富士見館」(本泊)、「北星劇場」(香深)、「船泊劇場」(船泊)などがある。*126
所在地 : 北海道留萌郡留萌町弁天通(1936年)
開館年 : 1934年以後1936年以前
閉館年 : 1941年以後1943年以前
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「松竹座」。1941年の映画館名簿では「港座」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1934年以後1936年以前
閉館年 : 1941年以後1943年以前
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「松竹座」。1941年の映画館名簿では「港座」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道留萌市錦町4丁目(1954年・1955年・1958年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「大一映画劇場」。1958年の映画館名簿では「大一セントラル・シネマ」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「大一映画劇場」。1958年の映画館名簿では「大一セントラル・シネマ」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道留萌市大和田町(1960年)、北海道留萌市大和田町五区(1963年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1963年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「大和田会館」。1963年の映画館名簿では「大和田劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1963年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「大和田会館」。1963年の映画館名簿では「大和田劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道留萌市錦町1丁目(1959年)、北海道留萌市錦町4丁目(1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1964年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「東映映画劇場」。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「東映劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1964年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「東映映画劇場」。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「東映劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道留萌市開運町(1959年・1960年・1963年)、北海道留萌市本町1丁目(1966年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1966年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「北映劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1966年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「北映劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道留萌郡留萌町(1925年・1936年)、北海道留萌市南山手通り(1941年)、北海道留萌郡留萌町(1943年・1947年)、北海道留萌市南山手通り(1950年)、北海道留萌市錦町1(1953年)、北海道留萌市錦町1丁目(1955年・1957年)、北海道留萌市錦町11丁目(1958年)、北海道留萌市錦町1丁目(1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1912年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1925年の映画館名簿では「留萌座」。1930年・1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「日吉座」。1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1957年の映画館名簿では「留萌劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「シネマ・センター」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「シネマセンター」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1912年、留萌町に小坂藤蔵によって劇場「留萌座」が開館した。*127
1941年の留萌町にあった「留萌劇場」における追分節の公演の写真あり。留萌最古の映画館であり、「日吉座」、「留萌座」、「日活館」などと改称した後、1942年には前田留十郎が経営者となって留萌劇場に改称した。*128
1914年の『最近の天塩国便覧』には、娯楽として「亀本座」(留萌町南山手通り)、「留萌座」(留萌町南山手通り)、「遊楽館」(留萌町南大通り)、「美珠倶楽部」(留萌町南大通り)、「無弓軒」、玉突場「対馬倶楽部」、玉突場「娯楽亭」が掲載されている。*129
1915年現在の留萌町には、娯楽場として劇場「留萌座」、寄席「遊楽館」、玉突場「美球倶楽部」がある。*130
1932年12月、留萌共栄信用購買販売組合が「留萌座」(現・シネマセンター)で発会式を上げた。*131
1948年現在の留萌市には、常設映画館として「留萌劇場」と「中央劇場」の2館がある。留萌劇場は留萌最古の劇場であり、興行師の小坂某によって30数年前に「日吉座」として建てられた。その後経営者が交代して「留萌座」や「日活館」という名称だった時期もある。1942年には前田留十郎が経営者となり、留萌劇場に改称して館内も近代化された。1948年現在は大映と東宝の作品を封切上映している。*132
開館年 : 1912年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1925年の映画館名簿では「留萌座」。1930年・1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「日吉座」。1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1957年の映画館名簿では「留萌劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「シネマ・センター」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「シネマセンター」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1912年、留萌町に小坂藤蔵によって劇場「留萌座」が開館した。*127
1941年の留萌町にあった「留萌劇場」における追分節の公演の写真あり。留萌最古の映画館であり、「日吉座」、「留萌座」、「日活館」などと改称した後、1942年には前田留十郎が経営者となって留萌劇場に改称した。*128
1914年の『最近の天塩国便覧』には、娯楽として「亀本座」(留萌町南山手通り)、「留萌座」(留萌町南山手通り)、「遊楽館」(留萌町南大通り)、「美珠倶楽部」(留萌町南大通り)、「無弓軒」、玉突場「対馬倶楽部」、玉突場「娯楽亭」が掲載されている。*129
1915年現在の留萌町には、娯楽場として劇場「留萌座」、寄席「遊楽館」、玉突場「美球倶楽部」がある。*130
1932年12月、留萌共栄信用購買販売組合が「留萌座」(現・シネマセンター)で発会式を上げた。*131
1948年現在の留萌市には、常設映画館として「留萌劇場」と「中央劇場」の2館がある。留萌劇場は留萌最古の劇場であり、興行師の小坂某によって30数年前に「日吉座」として建てられた。その後経営者が交代して「留萌座」や「日活館」という名称だった時期もある。1942年には前田留十郎が経営者となり、留萌劇場に改称して館内も近代化された。1948年現在は大映と東宝の作品を封切上映している。*132
所在地 : 北海道留萌市錦町2-35(1956年・1957年・1958年)、北海道留萌市錦町2丁目(1960年・1963年・1966年)、北海道留萌市錦町3丁目(1969年・1970年)
開館年 : 1955年6月8日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年の映画館名簿では「留萌銀映座」。1960年・1963年の映画館名簿では「銀映座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「留萌銀映座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1955年6月8日、留萌市に「銀映座」が開館した。旭川市の本間興行の直営。収容人員270人。留萌市の映画館は4館となった。*133
開館年 : 1955年6月8日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年の映画館名簿では「留萌銀映座」。1960年・1963年の映画館名簿では「銀映座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「留萌銀映座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
1955年6月8日、留萌市に「銀映座」が開館した。旭川市の本間興行の直営。収容人員270人。留萌市の映画館は4館となった。*133
所在地 : 北海道留萌郡留萌町(1943年)、北海道留萌郡留萌町南山手通り(1947年)、北海道留萌市南山手通り(1950年)、北海道留萌市錦町2(1953年・1955年)、北海道留萌市錦町1丁目(1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1985年・1988年・1990年・1992年・1993年)
開館年 : 1942年7月
閉館年 : 1986年(日本劇場)、1992年(移転)
『全国映画館総覧 1955』によると1942年7月開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「留萌中央劇場」。1955年の映画館名簿では「中央映画劇場」。1957年の映画館名簿では「留萌日劇」。1958年の映画館名簿では「留萌日本劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「日本劇場」。1977年の住宅地図では「日本劇場」。1980年・1982年の映画館名簿では「留萌日劇」。1985年の映画館名簿では「日本劇場」。1988年・1990年・1992年・1993年の映画館名簿では「留萌シネマシアター」。1993年の映画館名簿では経営会社が株式会社シネマシアター、経営者・支配人が工藤征治、鉄筋造3階、81席、邦画・洋画を上映。建物の日劇ビルはホテル「アールイン」南東30mに現存。最寄駅はJR留萌本線石狩沼田駅。
1948年現在の留萌市には、常設映画館として「留萌劇場」と「中央劇場」の2館がある。中央劇場は南山手通りにあり、留萌興業株式会社が経営している。*134
1996年、留萌市の「留萌シネマシアター」が10周年を迎えた。トレーラーコンテナを改造した映画館で上映を行っている。工藤征治代表。戦後まもなく開館した「留萌日劇」が前身であり、工藤は留萌日劇でアルバイト経験がある。1986年に留萌日劇が閉館すると、工藤は4人の友人とともに劇場を借りて営業を引き継いだ。1992年9月には市街地から約5キロ離れた現在地に移転し、ドライブインに併設したトレーラーコンテナを改造して上映を続けた。トレーラーコンテナの定員は11人であり、1996年現在は数か月に1回上映する程度である。*135
開館年 : 1942年7月
閉館年 : 1986年(日本劇場)、1992年(移転)
『全国映画館総覧 1955』によると1942年7月開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「留萌中央劇場」。1955年の映画館名簿では「中央映画劇場」。1957年の映画館名簿では「留萌日劇」。1958年の映画館名簿では「留萌日本劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「日本劇場」。1977年の住宅地図では「日本劇場」。1980年・1982年の映画館名簿では「留萌日劇」。1985年の映画館名簿では「日本劇場」。1988年・1990年・1992年・1993年の映画館名簿では「留萌シネマシアター」。1993年の映画館名簿では経営会社が株式会社シネマシアター、経営者・支配人が工藤征治、鉄筋造3階、81席、邦画・洋画を上映。建物の日劇ビルはホテル「アールイン」南東30mに現存。最寄駅はJR留萌本線石狩沼田駅。
1948年現在の留萌市には、常設映画館として「留萌劇場」と「中央劇場」の2館がある。中央劇場は南山手通りにあり、留萌興業株式会社が経営している。*134
1996年、留萌市の「留萌シネマシアター」が10周年を迎えた。トレーラーコンテナを改造した映画館で上映を行っている。工藤征治代表。戦後まもなく開館した「留萌日劇」が前身であり、工藤は留萌日劇でアルバイト経験がある。1986年に留萌日劇が閉館すると、工藤は4人の友人とともに劇場を借りて営業を引き継いだ。1992年9月には市街地から約5キロ離れた現在地に移転し、ドライブインに併設したトレーラーコンテナを改造して上映を続けた。トレーラーコンテナの定員は11人であり、1996年現在は数か月に1回上映する程度である。*135
所在地 : 北海道留萌市塩見町1丁目(1994年・1995年)、北海道留萌市塩見町1丁目47 大沼ビル1階(1998年)
開館年 : 1992年9月
閉館年 : 1998年頃
1994年・1995年・1998年の映画館名簿では「留萌シネマシアター」。1994年の映画館名簿では経営会社が株式会社ルモイシネマシアター、経営者工藤征治、支配人が関川統生、鉄筋造1階、11席、邦画・洋画を上映。1996年の住宅地図では「塩見シネマシアター」(※住宅地図の精度が低いため正確な跡地は判然とせず)。1998年の映画館名簿では経営会社がルモイシネマシアター、経営者・支配人が工藤征治、鉄筋造2階、16席、邦画・洋画を上映。1999年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「旧留萌港東突堤灯柱(青灯台)」北東80mの「正喜商会」付近。最寄駅はJR留萌本線石狩沼田駅。
1996年、留萌市の「留萌シネマシアター」が10周年を迎えた。トレーラーコンテナを改造した映画館で上映を行っている。工藤征治代表。戦後まもなく開館した「留萌日劇」が前身であり、工藤は留萌日劇でアルバイト経験がある。1986年に留萌日劇が閉館すると、工藤は4人の友人とともに劇場を借りて営業を引き継いだ。1992年9月には市街地から約5キロ離れた現在地に移転し、ドライブインに併設したトレーラーコンテナを改造して上映を続けた。トレーラーコンテナの定員は11人であり、1996年現在は数か月に1回上映する程度である。*136
開館年 : 1992年9月
閉館年 : 1998年頃
1994年・1995年・1998年の映画館名簿では「留萌シネマシアター」。1994年の映画館名簿では経営会社が株式会社ルモイシネマシアター、経営者工藤征治、支配人が関川統生、鉄筋造1階、11席、邦画・洋画を上映。1996年の住宅地図では「塩見シネマシアター」(※住宅地図の精度が低いため正確な跡地は判然とせず)。1998年の映画館名簿では経営会社がルモイシネマシアター、経営者・支配人が工藤征治、鉄筋造2階、16席、邦画・洋画を上映。1999年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「旧留萌港東突堤灯柱(青灯台)」北東80mの「正喜商会」付近。最寄駅はJR留萌本線石狩沼田駅。
1996年、留萌市の「留萌シネマシアター」が10周年を迎えた。トレーラーコンテナを改造した映画館で上映を行っている。工藤征治代表。戦後まもなく開館した「留萌日劇」が前身であり、工藤は留萌日劇でアルバイト経験がある。1986年に留萌日劇が閉館すると、工藤は4人の友人とともに劇場を借りて営業を引き継いだ。1992年9月には市街地から約5キロ離れた現在地に移転し、ドライブインに併設したトレーラーコンテナを改造して上映を続けた。トレーラーコンテナの定員は11人であり、1996年現在は数か月に1回上映する程度である。*136
所在地 : 北海道増毛郡増毛町別苅町(1957年)、北海道増毛郡増毛町別苅(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1963年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「別苅劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1963年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「別苅劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道増毛郡増毛町永寿町4(1960年・1963年)、北海道増毛郡増毛町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「増毛北映劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「増毛北映劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道増毛郡増毛町(1936年)、北海道増毛郡増毛町畠中町5(1947年)、北海道増毛郡増毛町(1950年)、北海道増毛郡増毛町畠中町(1953年)、北海道増毛郡増毛町(1955年)、北海道増毛郡増毛町畠中町(1958年)、北海道増毛郡増毛町(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1974年)
開館年 : 1916年
閉館年 : 1974年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「増毛座」。1941年・1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年の映画館名簿では「増毛座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1974年の映画館名簿では「増毛座」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。
1916年に甲谷清蔵によって創立した劇場「増毛座」。所在地は稚内市声問。*137
開館年 : 1916年
閉館年 : 1974年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「増毛座」。1941年・1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年の映画館名簿では「増毛座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1974年の映画館名簿では「増毛座」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。
1916年に甲谷清蔵によって創立した劇場「増毛座」。所在地は稚内市声問。*137
所在地 : 北海道留萌郡鬼鹿村(1936年)、北海道留萌郡鬼鹿村市街(1950年)、北海道留萌郡鬼鹿村港町(1953年)、北海道留萌郡鬼鹿村(1955年)
開館年 : 1893年5月
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「共栄座」。1941年・1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「共栄座」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
1893年5月に三上富作によって創業した劇場「共栄座」。所在地は鬼鹿市街。*138
開館年 : 1893年5月
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「共栄座」。1941年・1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「共栄座」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
1893年5月に三上富作によって創業した劇場「共栄座」。所在地は鬼鹿市街。*138
所在地 : 北海道留萌郡小平村(1953年・1955年)、北海道留萌郡小平村達布(1960年・1963年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「天塩砿会館」。1956年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「達布炭鉱会館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「天塩砿会館」。1956年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「達布炭鉱会館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道留萌郡鬼鹿村238(1956年)、北海道留萌郡小平村238(1957年)、北海道留萌郡小平村(1958年)、北海道留萌郡小平村鬼鹿港(1960年・1963年)、北海道留萌郡小平村字鬼鹿(1966年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1966年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「鬼鹿劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1966年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「鬼鹿劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道苫前郡苫前町古丹別(1950年)、北海道苫前郡苫前町(1953年)、北海道苫前郡苫前町古丹別(1958年・1960年・1963年)、北海道苫前郡苫前町字古丹別(1966年・1968年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央座」。1966年・1968年の映画館名簿では「古丹別劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央座」。1966年・1968年の映画館名簿では「古丹別劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道苫前郡苫前町(1950年・1953年)、北海道苫前郡苫前町155(1958年・1960年・1963年)、北海道苫前郡苫前町(1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「苫前会館」。1953年の映画館名簿では「苫前座」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「苫前劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
1952年1月1日午後2時頃、苫前町の「苫前劇場」で上映中、フィルムに引火して『千石纏』『恋愛台風圏』『ワールドニュース』など19巻が焼失した。*139
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「苫前会館」。1953年の映画館名簿では「苫前座」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「苫前劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
1952年1月1日午後2時頃、苫前町の「苫前劇場」で上映中、フィルムに引火して『千石纏』『恋愛台風圏』『ワールドニュース』など19巻が焼失した。*139
所在地 : 北海道苫前郡羽幌町南大町(1936年)、北海道苫前郡羽幌町(1950年)
開館年 : 1934年以後1936年以前
閉館年 : 1950年以後1953年以前
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「喜楽座」。1941年・1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「喜楽座」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1934年以後1936年以前
閉館年 : 1950年以後1953年以前
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「喜楽座」。1941年・1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「喜楽座」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道苫前郡羽幌町南3(1953年)、北海道苫前郡羽幌町(1955年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「羽幌映画劇場」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「遊楽館」。1963年の映画館名簿では「遊楽座」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「羽幌映画劇場」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「遊楽館」。1963年の映画館名簿では「遊楽座」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道苫前郡羽幌町(1956年)、北海道苫前郡羽幌町南3条1(1957年・1958年)、北海道苫前郡羽幌町(1960年・1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「有楽館」。1957年の映画館名簿では「羽幌有楽座」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「有楽座」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「有楽館」。1957年の映画館名簿では「羽幌有楽座」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「有楽座」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道苫前郡天売村(1950年)、北海道苫前郡天売村和浦(1953年・1955年)、北海道苫前郡羽幌町天売(1958年)、北海道苫前郡羽幌町和浦(1960年・1963年)、北海道苫前郡羽幌町天売(1965年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「天売座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「天売座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道苫前郡焼尻村(1950年)、北海道苫前郡焼尻村本浜(1953年)、北海道苫前郡焼尻村広浜(1955年)、北海道苫前郡焼尻村東浜(1958年)、北海道苫前郡焼尻村元浜(1960年・1963年)、北海道苫前郡羽幌町焼尻(1965年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「宝島座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「宝島座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道苫前郡羽幌町(1954年)、北海道苫前郡羽幌町築別炭砿(1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)、北海道苫前郡羽幌町築炭(1970年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「築炭会館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「羽幌築炭会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「築炭会館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「羽幌築炭会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道苫前郡羽幌町南3条(1936年)、北海道苫前郡羽幌町南3条1(1941年)、北海道苫前郡羽幌町南3条1丁目(1947年)、北海道苫前郡羽幌町南3条西1丁目(1950年)、北海道苫前郡羽幌町(1953年・1955年)、北海道苫前郡羽幌町3条1-9(1958年)、北海道苫前郡羽幌町(1960年・1963年)、北海道苫前郡羽幌町南3-2(1966年・1969年)、北海道苫前郡羽幌町(1970年・1975年・1978年・1980年)
開館年 : 1929年
閉館年 : 1982年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「大正座」。1941年の映画館名簿では「羽幌劇場」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「羽幌劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「羽幌公楽映画劇場」。1971年9月休館。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1974年営業再開。1975年・1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「羽幌劇場」。1982年の映画館名簿では経営者が坂川政之、支配人が杉本功、木造1階、224席、邦画・洋画を上映。1983年の映画館名簿には掲載されていない。
1929年に新築された劇場「大正座」。1894年に今村庄太郎によって開業している。所在地は羽幌市街。*140
1949年9月23日(※9月23日は原文ママ、正確には9月22日)、羽幌町の「羽幌劇場」渡辺方から出火して17棟が焼失した。損害額は2550万円。原因は不明。*141
1949年9月22日、羽幌町の「羽幌劇場」付近から出火して南3条1丁目大火が起こり、17棟(21世帯)が全焼した。*142
渡辺時太郎。1894年2月12日生。羽幌町出身。羽幌高等小学校卒業。1960年現在は羽幌町議会議員、渡辺木材業株式会社取締役社長、「羽幌劇場」取締役社長。*143
1971年9月いっぱいで、羽幌町の「羽幌劇場」が休館した。9月まで羽幌町が補助措置を講じていたが、観客が少なくて採算が合わず、また冬季を迎えて暖房費がかかるため。*144
1976年2月現在の羽幌町にある「羽幌劇場」の写真あり。『ドラゴンへの道』の看板が見える。炭鉱の衰退とともに閉鎖されたが、1974年に営業を再開して現在に至っている。*145
開館年 : 1929年
閉館年 : 1982年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「大正座」。1941年の映画館名簿では「羽幌劇場」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「羽幌劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「羽幌公楽映画劇場」。1971年9月休館。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1974年営業再開。1975年・1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「羽幌劇場」。1982年の映画館名簿では経営者が坂川政之、支配人が杉本功、木造1階、224席、邦画・洋画を上映。1983年の映画館名簿には掲載されていない。
1929年に新築された劇場「大正座」。1894年に今村庄太郎によって開業している。所在地は羽幌市街。*140
1949年9月23日(※9月23日は原文ママ、正確には9月22日)、羽幌町の「羽幌劇場」渡辺方から出火して17棟が焼失した。損害額は2550万円。原因は不明。*141
1949年9月22日、羽幌町の「羽幌劇場」付近から出火して南3条1丁目大火が起こり、17棟(21世帯)が全焼した。*142
渡辺時太郎。1894年2月12日生。羽幌町出身。羽幌高等小学校卒業。1960年現在は羽幌町議会議員、渡辺木材業株式会社取締役社長、「羽幌劇場」取締役社長。*143
1971年9月いっぱいで、羽幌町の「羽幌劇場」が休館した。9月まで羽幌町が補助措置を講じていたが、観客が少なくて採算が合わず、また冬季を迎えて暖房費がかかるため。*144
1976年2月現在の羽幌町にある「羽幌劇場」の写真あり。『ドラゴンへの道』の看板が見える。炭鉱の衰退とともに閉鎖されたが、1974年に営業を再開して現在に至っている。*145
所在地 : 北海道苫前郡初山別村初浦(1955年)、北海道苫前郡初山別村(1955年)、北海道苫前郡初山別村字初浦(1958年)、北海道苫前郡初山別村初ノ浦(1960年)、北海道苫前郡初山別村初浦(1963年)
開館年 : 1906年
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「初音座」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
1906年に三田拙侍によって開業した劇場「初音座」。所在地は初山別市街。*146
開館年 : 1906年
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「初音座」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
1906年に三田拙侍によって開業した劇場「初音座」。所在地は初山別市街。*146
所在地 : 北海道苫前郡初山別村(1953年)、北海道苫前郡初山別村豊岬(1955年)、北海道苫前郡初山別村豊岬港(1958年)、北海道苫前郡初山別村豊岬(1960年)、北海道苫前郡初山別村(1963年)、北海道苫前郡初山別村豊岬(1965年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「恵比須座」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「豊岬劇場」。1963年の映画館名簿では「エビス座」。1965年の映画館名簿では「豊岬劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「恵比須座」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「豊岬劇場」。1963年の映画館名簿では「エビス座」。1965年の映画館名簿では「豊岬劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道苫前郡初山別村(1960年・1963年・1966年・1968年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1968年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「初山別劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1968年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「初山別劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道天塩郡遠別村東町(1950年)、北海道天塩郡遠別町本町(1953年)、北海道天塩郡遠別町(1955年)、北海道天塩郡遠別町本町4-70(1958年)、北海道天塩郡遠別町(1960年・1962年)
開館年 : 1935年9月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「遠別劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「遠別町役場」東北東70mの「東洋実業事業所」。最寄駅はJR宗谷本線佐久駅。
1935年9月に水野松右衛門によって創業した劇場「遠別劇場」。所在地は遠別市街。*147
1957年の『遠別町市街明細図』には「遠別劇場」が描かれている。*148
開館年 : 1935年9月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「遠別劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「遠別町役場」東北東70mの「東洋実業事業所」。最寄駅はJR宗谷本線佐久駅。
1935年9月に水野松右衛門によって創業した劇場「遠別劇場」。所在地は遠別市街。*147
1957年の『遠別町市街明細図』には「遠別劇場」が描かれている。*148
所在地 : 北海道天塩郡天塩町(1950年)、北海道天塩郡天塩町山手通(1953年・1958年)、北海道天塩郡天塩町(1973年・1975年・1978年・1980年)
開館年 : 1910年
閉館年 : 1980年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「天塩座」。1953年・1958年の映画館名簿では「天塩劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「天塩劇場」。1981年の映画館名簿には掲載されていない。
1910年に天塩村で起こった天塩大火後、崎野林之助は劇場「天塩座」を建設し、遠藤政次が実際の興行にあたった。*149
1934年の『大日本職業別明細図』には「天塩町市街図」に「天塩座」が描かれている。*150
開館年 : 1910年
閉館年 : 1980年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「天塩座」。1953年・1958年の映画館名簿では「天塩劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「天塩劇場」。1981年の映画館名簿には掲載されていない。
1910年に天塩村で起こった天塩大火後、崎野林之助は劇場「天塩座」を建設し、遠藤政次が実際の興行にあたった。*149
1934年の『大日本職業別明細図』には「天塩町市街図」に「天塩座」が描かれている。*150
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