日本の映画館の総合データベースです。



札幌市

札幌市の映画館を参照。

小樽市

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室蘭市

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苫小牧市

夕張市

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岩見沢市

石狩振興局

江別市

富士見座/富士見館/公園館
所在地 : 北海道札幌郡江別町(1936年・1950年)、北海道札幌郡江別町(1954年)、北海道江別市8条7丁目(1955年)、北海道江別市公園通(1958年・1960年)
開館年 : 1918年頃
閉館年 : 1960年頃
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「富士見座」。1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「富士見館」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「公園館」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。

江別市にあった「富士見座」の写真あり。1918年に開催された開道五十年記念北海道博覧会の際に中島公園に建てられた「演芸館」を、岡田伊太郎が移築して富士見座とした。*1

1954年頃の江別市7条7丁目にあった「公園館」の写真あり。1918年、開道五十年記念北海道博覧会の演芸館を移築し、「富士見座」として開館した。戦時中には王子航空機株式会社の工員寮となり、戦後には再び公園館に戻った。1957年に解体された。*2
交友館
所在地 : 北海道札幌郡江別町字元野幌4(1953年)、北海道江別市元野幌4(1958年)、北海道江別市元野幌(1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「交友館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「交友館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
江別劇場/江栄劇場
所在地 : 北海道札幌郡江別町8条7(1953年)、北海道江別市8条7(1958年)、北海道江別市4条4丁目(1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「江別劇場」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「江栄劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
江別東映劇場/東映劇場
所在地 : 北海道江別市7-8(1961年)、北海道江別市5条4丁目(1962年・1963年)、北海道江別市5条5丁目(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1984年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1984年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1962年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「千歳座」。1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「江別東映劇場」。1978年の住宅地図では「江別東映」。1982年・1984年の映画館名簿では「東映劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「選教寺」南東70mのマンション「ル・ゴシュラン」建物南西部。最寄駅はJR函館本線江別駅。
千歳座/江別千歳座
所在地 : 北海道札幌郡江別町5条5丁目(1936年)、北海道札幌郡江別町(1947年)、北海道札幌郡江別町5条5丁目(1950年)、北海道札幌郡江別町5条5(1953年)、北海道江別市5条5丁目(1955年・1958年・1960年)、北海道江別市江別町(1963年)、北海道江別市5条5丁目(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年)
開館年 : 1897年
閉館年 : 1989年3月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年の映画館名簿では「千歳座」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「千歳座」。1950年の映画館名簿では「江別千歳座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「千歳座」。1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「江別千歳座」。1978年の住宅地図では「千歳座」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「選教寺」南東70mのマンション「ル・ゴシュラン」建物北東部。最寄駅はJR函館本線江別駅。

戦後の江別市にあった「千歳座」の写真あり。明治時代には1丁目にあったが、大正時代には2丁目に移り、さらに4丁目に移った。*3

1957年の江別市5条5丁目にあった「千歳座」の写真あり。「東映スコープ」の文字が見える。1897年頃に創業したとされる。昭和30年代には隣接地に「江別東映」が、4条4丁目に「江栄劇場」が開館した。*4

1897年、江別町に劇場「千歳座」が開業した。1989年3月、千歳座が90年の歴史に幕を閉じて閉館し、江別市から映画館が消滅した。*5
ワーナー・マイカル・シネマズ江別/イオンシネマ江別
所在地 : 北海道江別市幸町35番地 江別サティ内(2000年)、北海道江別市幸町35番地 ポスフール江別4階(2005年・2010年)、北海道江別市幸町35番地 イオン江別店4階(2015年・2020年)
開館年 : 1997年11月1日
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「ワーナー・マイカル・シネマズ江別1-8」(8館)。2015年・2020年の映画館名簿では「イオンシネマ江別1-8」(8館)。最寄駅はJR函館本線高砂駅。

1997年11月1日、江別市幸町35番地 江別サティ4階に8スクリーンの「ワーナー・マイカル・シネマズ江別」が開館した。経営はワーナー・マイカル。*6

千歳市

オリオン劇場/オリオン座
所在地 : 北海道千歳郡千歳町朝日町1(1953年)、北海道千歳郡千歳町朝日町(1955年)、北海道千歳市朝日町(1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「オリオン座」。1955年の映画館名簿では「オリオン劇場」。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「オリオン座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
公楽劇場
所在地 : 北海道千歳市錦町3(1959年)、北海道千歳市錦町(1960年・1963年)、北海道千歳市錦町3(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「公楽劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
友楽映劇/友楽映画劇場
所在地 : 北海道千歳郡千歳町(1955年)、北海道千歳市幸町(1960年・1963年)、北海道千歳市幸町2(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年)、北海道千歳市清水町1(1980年)、北海道千歳市幸町1(1982年)、北海道千歳市清水町1(1983年)、北海道千歳市清水町1丁目(1984年)
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1984年
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「友楽映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「友楽映劇」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1983年・1984年の映画館名簿では「友楽映画劇場」。1976年の住宅地図では「友楽映画劇場」。1982年の住宅地図では跡地に「パチンコますや」。1984年の映画館名簿では経営会社が千歳興業、経営者が山崎満、支配人が久我秀雄、鉄筋造2階、300席、洋画を上映。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「カラオケビッグエコー 千歳店」などが入る「フリージア幸町ビル」。最寄駅はJR千歳線千歳駅。
千歳にっかつ
所在地 : 北海道千歳市清水町1(1980年・1982年・1983年)、北海道千歳市清水町1丁目(1984年)
開館年 : 1979年頃
閉館年 : 1984年
1979年の映画館名簿には掲載されていない。1980年・1982年・1983年・1984年の映画館名簿では「千歳にっかつ」。1984年の映画館名簿では経営会社が千歳興業、経営者が山崎満、支配人が久我秀雄、鉄筋造2階、56席、にっかつ・成人映画を上映。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「北ガスフレアスト千歳」敷地南東部。最寄駅はJR千歳線千歳駅。
千歳座(千歳市)
所在地 : 北海道千歳郡千歳町市街(1947年)、北海道千歳郡千歳町清水町1(1950年)、北海道千歳郡千歳町(1953年)、北海道千歳郡千歳町清水町(1955年)、北海道千歳市清水町(1960年・1963年・1966年・1969年)、北海道千歳市清水町1(1973年・1975年)、北海道千歳市清水町(1978年)、北海道千歳市清水町1(1980年・1982年)、北海道千歳市清水町1丁目(1984年)
開館年 : 1940年8月
閉館年 : 1984年
『全国映画館総覧 1955』によると1940年8月開館。1947年・1950年・1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1984年の映画館名簿では「千歳座」。1976年の住宅地図では「1階〜3階チトセボウル 4階喫茶スナック サウナちとせ 5階千歳座サウナちとせ」。1982年の住宅地図では「スカイタウンビル 1階千歳ボウル 2階千歳興業 3階友楽映劇 千歳にっかつ 5階千歳座」。1983年・1984年の映画館名簿では経営会社が千歳興業、経営者が山崎満、支配人が中島政夫、鉄筋造5階、202席、邦画を上映。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「北ガスフレアスト千歳」敷地南東部。最寄駅はJR千歳線千歳駅。

1940年竣工の映画館「千歳座」。所在地は千歳市清水町1。山崎友吉によって創立し、沼牛にあった劇場が移築された。木造。*7

1960年の千歳市にあった「千歳座」前の檻にいるクマの写真あり。1940年に千歳初の映画館として開館し、最盛期の千歳市には4館の映画館があった。1984年には最後まで残っていた千歳座が閉館した。2017年現在の北海道ガス駐車場の場所にあった。*8

1940年には千歳町初の映画館「千歳座」が開館した。その後、「友楽映画劇場」や「オリオン座」なども開館した。テレビの普及で観客数が減少し、1984年には千歳市から映画館がなくなった。*9
じゃがポックルシアター1-3/ソラシネマちとせ1-3/新千歳空港シアター1-3
所在地 : 北海道千歳市美々987-22 新千歳空港国内線ターミナルビル4階(2012年・2015年・2018年・2020年)
開館年 : 2011年7月15日
閉館年 : 営業中
2010年の映画館名簿には掲載されていない。2012年・2015年の映画館名簿では「じゃがポックルシアター1-3」(3館)。2012年の映画館名簿では経営会社が株式会社えんれいしゃ、経営者が森糸猛、支配人が廣世猛、鉄筋造4階、1が213席、2が73席、3が73席、いずれも邦画・洋画を上映。2016年7月ソラシネマちとせ改称。2018年の映画館名簿では「ソラシネマちとせ1-3」(3館)。2018年の映画館名簿では経営会社が株式会社えんれいしゃ、経営者が丸藤善晴、支配人が佐藤則昭、1が213席、2が73席、3が73席。2019年3月新千歳空港シアター改称。2020年の映画館名簿では「新千歳空港シアター1-3」(3館)。2020年の映画館名簿では経営会社が株式会社えんれいしゃ、経営者が丸藤善晴、支配人が佐藤則昭、1が231席、2が73席、3が73席。最寄駅はJR空港線新千歳空港駅。

恵庭市

島松劇場
所在地 : 北海道千歳郡恵庭村(1950年)、北海道千歳郡恵庭村清水町1(1953年)、北海道千歳郡恵庭町島松(1955年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1935年
閉館年 : 1963年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「島松劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

恵庭村にあった「島松劇場」の写真あり。島松市街地には島松補給処があったため、木造バラック建てで島松劇場が開館した。*10

1951年の恵庭村にあった「島松劇場」の写真あり。1935年に島松映画館として設置された。1952年には西島松に北海道地区補給処が設置され、隊員などで活気を呈したが、1963年に閉館した。*11
スバル座
所在地 : 北海道千歳郡恵庭町漁市街58(1955年)、北海道千歳郡恵庭町(1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1953年2月
閉館年 : 1965年
『全国映画館総覧 1955』によると1953年2月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「スバル座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

恵庭町にあった映画館「スパル座」(※バではなくパ)の写真あり。「スパル座」「Suparuza」の文字が見える。1950年に警察予備隊が柏木に駐屯すると、隊員向けの娯楽施設が建設された。映画館の恵庭館のみだった時代にスパル座が開館したが、テレビの普及によってわずか数年で閉館した。*12

1953年頃の恵庭町にあった映画館「スパル座」(※バではなくパ)の写真あり。「Suparuza」の文字が見える。1950年以降に警察予備隊などの駐屯地が生まれると、2017年現在の栄恵町には隊員向けの娯楽施設が建ち並んだ。1953年頃にはスパル座が開館し、1965年に閉館した。*13
恵庭座/恵庭館
所在地 : 北海道千歳郡恵庭村漁市街地(1936年)、北海道千歳郡恵庭村(1950年)、北海道千歳郡恵庭村字漁市街(1953年)、北海道千歳郡恵庭町漁市街(1955年)、北海道千歳郡恵庭町(1960年・1963年・1966年・1969年)、北海道恵庭市漁町(1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年)、北海道恵庭市漁町208番地(1995年)
開館年 : 1914年
閉館年 : 1996年2月
『全国映画館総覧 1955』によると1939年開館。1936年の映画館名簿では「恵庭座」。1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「恵庭座」。1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「恵庭館」。1978年の住宅地図では「恵庭館」。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は葬儀場「恵庭シティホール」西北西80mのアパート「マ・メゾン2」。最寄駅はJR千歳線恵庭駅。

恵庭村にあった「恵庭館」の写真あり。「館庭恵」の文字が見える。1914年頃、近藤福市、近藤滝平、末岡喜代槌によって株式組織で生まれた。寄席、芝居、浪花節、映画などの興行が行われ、千歳や長沼などからも観客を集めた。恵庭市唯一の映画館である。*14

1951年の恵庭村にあった「恵庭館」の写真あり。「館庭恵」の文字が見える。1912年頃の『漁本通りの見取り図』にも描かれており、当時は芝居小屋だったとされる。1914年には恵庭館を経営するために株式会社が設立された。その後は映写室も設置され、寄席・芝居・映画の興行が行われた。1938年には土屋一二(かつじ)が経営者となった。1996年に閉館した。*15

恵庭村にあった「恵庭館」の写真あり。「館庭恵」の文字が見える。建設時期は定かでないが、近藤九平によって芝居小屋として建てられた。1914年には恵庭館が株式会社として発足し、大正時代には活動写真が上映されるようになった。昭和30年代には映画黄金期を越え、1996年に閉館した。*16

1996年2月7日の『北海道新聞』には「恵庭館」の閉館を伝える記事が掲載されている。*17
恵庭プレスガーデン東宝シネマ8/恵庭・東宝シネマ8
所在地 : 北海道恵庭市戸磯391-1(2002年・2005年・2010年・2015年)
開館年 : 2000年7月8日
閉館年 : 2015年5月31日
Wikipedia : 恵庭・東宝シネマ8
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2002年の映画館名簿では「恵庭プレスガーデン東宝シネマ8 1-8」(8館)。2002年の映画館名簿では経営会社が北海道東宝、経営者が小林一郎、支配人が種田英一。2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「恵庭・東宝シネマ8 1-8」(8館)。2020年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「佐藤木材工業恵庭工場」。最寄駅はJR千歳線サッポロビール庭園駅。

2000年7月8日、恵庭市戸磯391-1に「プレスガーデン東宝シネマ8」が開館した。8スクリーン計1508席。*18

北広島市

映画館名簿によると北広島市に映画館は存在しなかったと思われる。

石狩市

中央座(浜益村)
所在地 : 北海道浜益郡浜益村柏木(1963年・1965年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1965年頃
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1965年の映画館名簿では「中央座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
互楽座
所在地 : 北海道浜益郡浜益村幌(1963年・1965年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1965年頃
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1965年の映画館名簿では「互楽座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
浜益劇場
所在地 : 北海道浜益郡浜益村茂生(1963年・1965年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1965年頃
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1965年の映画館名簿では「浜益劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
石狩座
所在地 : 北海道石狩郡石狩町(1950年)、北海道石狩郡石狩町弁天通り(1953年)、北海道石狩郡石狩町(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1932年頃
閉館年 : 1966年
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「石狩座」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「石狩座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1897年時点の石狩町は鮭漁で繁栄しており、寄席として「北の亭」「高田座」があった。1931年から1932年頃、北の亭は「石狩座」として復活し、1966年まで映画・芝居・演芸などが催された。昭和初期には八幡町地区に「宝楽館」(宝楽座)ができ、1937年に焼失するまで映画などが催された。*19

石狩郡当別町

当盛館
所在地 : 北海道石狩郡当別村西小川通(1936年)
開館年 : 1934年以後1936年以前
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「当盛館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
寿座
所在地 : 北海道石狩郡当別村(1950年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1950年以後1953年以前
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「寿座」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。
当別劇場/当別映劇/当別映画劇場
所在地 : 北海道石狩郡当別村西小川通(1936年)、北海道石狩郡当別村(1941年・1950年)、北海道石狩郡当別町西小川通(1953年)、北海道石狩郡当別町(1955年・1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1930年以後1936年以前
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「当別劇場」。1960年の映画館名簿では「当別映劇」。1963年・1964年の映画館名簿では「当別映画劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

1937年の『大日本職業別明細図』には「当別村市街図」に「劇場」が描かれている。現在の当別郵便局北西80m。*20
当別文化会館/当別名画劇場/当別公楽映画劇場
所在地 : 北海道石狩郡当別町52(1957年)、北海道石狩郡当別町西小川通52(1958年)、北海道石狩郡当別町(1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1969年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年の映画館名簿では「当別文化会館」。1963年・1966年の映画館名簿では「当別名画劇場」。1969年の映画館名簿では「当別公楽映画劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。

1956年の当別町にあった「名画劇場」の写真あり。松竹の阪東妻三郎追善記念映画『京洛五人男』の看板が見える。*21

1960年の当別町にあった映画館「名画劇場」の写真あり。*22

石狩郡新篠津村

映画館名簿によると石狩郡新篠津村に映画館は存在しなかったと思われる。

空知総合振興局

美唄市

福井座
1940年の美唄町我路市街にあった「互楽座」の写真あり。大正期に炭坑の発展によって我路市街が活気を帯びると、1915年に「三咲座」が開館し、続いて「福井座」が、1918年頃に互楽座が建設された。*23

1916年の美唄町にあった劇場「福井座」の写真あり。1916年に我路市街地(美唄炭山市街地)に建てられ、活動写真や芝居の興行を行った。我路市街地には1914年に「高橋座」、1915年に「美咲座」が建てられていたが、いずれも積雪で倒壊している。*24
親和倶楽部
1921年の美唄にあった「親和倶楽部」の写真あり。三井美唄鉱業所が直轄する施設であり、演芸や映画が安価で鑑賞できた。*25
日東会館
1938年の美唄町にあった「日東会館」の写真あり。日東美唄鉱業所の娯楽施設だった。炭鉱の閉山後には工場として使用された。*26
公楽劇場
1961年4月3日午後4時15分頃、美唄市茶志内市街の「公楽劇場」舞台近くから出火し、建物が全焼した。配線の修理中にスパークして幕に引火したため。*27
娯楽館
所在地 : 北海道空知郡美唄町美唄炭山(1925年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1925年以後1930年以前
1925年の映画館名簿では「娯楽館」。1930年の映画館名簿には掲載されていない。
昭和館
所在地 : 北海道空知郡美唄町美唄炭山(1930年)、北海道美唄市(1953年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1953年頃
1930年の映画館名簿では「昭和館」。1936年・1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「昭和館」。1954年の映画館名簿には掲載されていない。

1955年時点の美唄市には、劇場・映画館として12館があった。峰延の「昭和館」は定員250人。*28
三富劇場
所在地 : 北海道美唄市上美唄(1953年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1953年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「三富劇場」。1954年の映画館名簿には掲載されていない。
東明会館
所在地 : 北海道美唄市我路町(1953年)、北海道美唄市我路町千原(1955年)、北海道美唄市東明町(1958年)、北海道美唄市我路町4条(1960年)、北海道美唄市三井美唄東明町(1961年・1962年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「東明会館」。1958年の映画館名簿では経営者が三井鉱業所、支配人が小池小一郎、木造2階暖房付、定員630、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1955年時点の美唄市には、劇場・映画館として12館があった。東明の「東明会館」は定員400人。*29
三美劇場/ダイヤ劇場
所在地 : 北海道空知郡美唄町南美唄(1950年)、北海道美唄市上美唄(1953年)、北海道美唄市南美唄町(1955年・1958年・1960年・1962年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「三美劇場」。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「ダイヤ劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
三菱協和会館/協和会館
所在地 : 北海道美唄市茶志内(1954年・1955年・1958年・1960年)、北海道美唄市茶志内町(1963年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「三菱協和会館」。1958年の映画館名簿では経営者・支配人ともに上野実、構造が記載なし、定員が記載なし、邦画を上映。1963年の映画館名簿では「協和会館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

1955年時点の美唄市には、劇場・映画館として12館があった。三菱茶志内の「三菱茶志内協和会館」は定員700人。*30
我路互楽座/互楽座/互楽館(我路)
所在地 : 北海道空知郡美唄炭山我路市街地(1936年)、北海道空知郡美唄町我路市街地(1947年)、北海道空知郡美唄町我路(1950年)、北海道美唄市我路町(1953年)、北海道美唄市我路町千原(1955年)、北海道美唄市我路町(1958年)、北海道美唄市我路町4条(1960年)、北海道美唄市我路町千条(1963年)
開館年 : 1918年頃
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「五楽座」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「互楽座」。1950年の映画館名簿では「我路互楽座」。1953年の映画館名簿では「互楽座」。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「互楽館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

1940年の美唄町我路市街にあった「互楽座」の写真あり。大正期に炭坑の発展によって我路市街が活気を帯びると、1915年に「三咲座」が開館し、続いて「福井座」が、1918年頃に互楽座が建設された。*31

1940年の美唄町我路市街にあった「互楽座」の写真あり。1918年に「互楽館」として開館し、1929年の我路大火後に再建されて互楽座に改称された。*32

1955年時点の美唄市には、劇場・映画館として12館があった。我路の「互楽座」は定員550人。*33
三井互楽館
所在地 : 北海道美唄市南美唄町三井美唄鉱業所(1953年)、北海道美唄市南美唄町三井台(1955年)、北海道美唄市南美唄町170(1958年)、北海道美唄市南美唄町三井台(1960年)、北海道美唄市南美唄町180(1963年)
開館年 : 1933年、1955年(建て替え)
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「三井互楽館」。1963年の映画館名簿では経営者が三井鉱山、支配人が水野立太郎、鉄筋造3階冷暖房付、定員840。1964年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は「南美唄郵便局」北北東150mに現存。最寄駅はJR函館本線美唄駅。

1941年の美唄町にあった「互楽館」の写真あり。三井美唄鉱業所が直轄する娯楽施設だった。*34

1941年の美唄町にあった「三井美唄互楽館」の写真あり。1933年に三井美唄鉱業所が建て、映画、芝居、従業員の演芸会などに用いられた。1945年12月には日本初の炭鉱労働組合生産管理闘争の舞台となった。1955年には2代目互楽館が完成し、初代互楽館は体育館に転用された。*35

1955年時点の美唄市には、劇場・映画館として12館があった。三井美唄の「三井美唄互楽館」は定員700人。*36

美唄市南美唄町大通1丁目にある「旧三井美唄倶楽部」(旧三井美唄互楽館)。鉄筋コンクリート造3階建。1955年竣工。北海道の産炭地域に現存する最大規模の旧映画館建築である。2000人を収容する封切館であり、東京から劇団や芸能人などが来館したことで、美唄市内からも多くの観客が訪れた。竣工から8年後には三井美唄炭鉱が閉山し、閉館後には映画制作会社が使用していたとされる。*37
峰延劇場/峰延会館
所在地 : 北海道美唄市峰延町(1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1964年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「峰延劇場」。1964年の映画館名簿では「峰延会館」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
栄町映画劇場/栄町会館
所在地 : 北海道美唄市栄町(1961年)、北海道美唄市落合栄町(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1965年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年の映画館名簿では「栄町映画劇場」。1961年の映画館名簿では経営者が三菱鉱業、支配人が勤労課長、木造2階暖房付、定員500、邦画・洋画を上映。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「栄町会館」。1965年の映画館名簿では経営者が我路映劇、支配人が記載なし、鉄筋造2階暖房付、定員196、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
宮之下会館/宮ノ下会館/宮の下会館
所在地 : 北海道美唄市東美唄町(1953年)、北海道美唄市三菱美唄鉱業所(1955年)、北海道美唄市東美唄町(1958年・1960年・1963年・1964年)、北海道美唄市東美唄町宮の下(1965年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「宮ノ下会館」。1958年・1960年の映画館名簿では「宮之下会館」。1958年の映画館名簿では経営者が三井鉱業所、支配人が畑勝雄、木造1階暖房付、定員434、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿では「宮ノ下会館」。1964年・1965年の映画館名簿では「宮の下会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1955年時点の美唄市には、劇場・映画館として12館があった。三菱美唄の「宮の下会館」は定員500人。*38
常盤台会館/美唄常盤台会館
所在地 : 北海道美唄市我路(1953年)、北海道美唄市常盤台第2区(1955年)、北海道美唄市東美唄町(1958年・1960年・1963年)、北海道美唄市常盤台3区(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「常盤台会館」。1958年の映画館名簿では経営者が三井鉱業所、支配人が畑勝雄、鉄筋造2階暖房付、定員が記載なし、邦画を上映。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「美唄常盤台会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

昭和20年代の美唄市にあった「常盤台会館」の写真あり。三井美唄鉱業所が直轄する娯楽施設だった。*39

1955年時点の美唄市には、劇場・映画館として12館があった。三菱美唄の「常盤台会館」は定員600人。*40
テアトル我路劇場/我路映劇/我路映画劇場
所在地 : 北海道美唄市我路町2条(1959年・1960年)、北海道美唄市我路町(1963年・1966年・1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1957年8月12日
閉館年 : 1971年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「我路映劇」。1960年の映画館名簿では「テアトル我路劇場」。1963年の映画館名簿では「我路映劇」。1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「我路映画劇場」。1971年の経営会社が我路映劇、経営者・支配人ともに遠山成雄、木造2階暖房付、定員350、邦画・洋画・成人映画を上映。1972年の映画館名簿には掲載されていない。「慈良寺」北東110mに映写室とされる建物のみが廃墟として現存。最寄駅はJR函館本線美唄駅。

1957年8月12日、美唄市我路町に「我路映劇」が開館した。開場番組は『地獄と高潮』『底抜け最大のショウ』の二本立。遠山成雄社長の株式会社我路映劇の直営。木造モルタル造。北国の劇場らしく暖房設備を完備している。定員300人。*41

1957年の美唄市にあった「我路映劇」前の写真あり。我路には三菱美唄炭鉱があり、1957年に我路映劇が開館した。奥に続く炭鉱地区にも2館の映画館があった。*42
美唄座/宝栄座/太陽劇場/東映劇場/美唄東映劇場
所在地 : 北海道空知郡美唄町(1947年・1950年)、北海道美唄市末広通(1953年)、北海道美唄市東1条南4丁目(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1930年、1952年6月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年6月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年の映画館名簿では「宝栄座」。1953年の映画館名簿では「宝永座」。1955年の映画館名簿では「太陽劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「東映劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「美唄東映劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1936年の美唄町東1南4にあった「美唄座」の写真あり。1930年に建てられた。後に「宝栄座」、「太陽座」、「東映劇場」と改称していった。*43

1955年時点の美唄市には、劇場・映画館として12館があった。美唄の「太陽劇場」は定員750人。*44
美唄劇場/美唄映劇/ニュー映劇
所在地 : 北海道空知郡美唄町1080(1936年)、北海道空知郡美唄町大通り(1947年・1950年)、北海道美唄市西1条北1(1953年)、北海道美唄市西1条北1丁目(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1985年)
開館年 : 1940年頃
閉館年 : 1986年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1943年1月開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「美唄劇場」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「美唄劇場」。1973年・1975年の映画館名簿では「美唄映劇」。1975年の映画館名簿では経営会社が我路映劇、経営者・支配人ともに遠山成雄、木造2階暖房付、458席、邦画・洋画・成人映画を上映。1977年・1978年・1980年・1982年・1985年・1986年の映画館名簿では「ニュー映劇」。1977年の映画館名簿では経営会社が株式会社和興、経営者が遠山成雄、支配人が守本幸次、木造暖房付、130席、邦画・洋画・成人映画を上映。1982年の映画館名簿では経営会社が株式会社和興、経営者・支配人ともに遠山成雄、木造1階、36席、邦画・洋画を上映。1982年の住宅地図では発見できず。1986年の映画館名簿では経営会社が株式会社和興、経営者・支配人ともに遠山成雄、木造2階、36席、邦画・洋画を上映。1987年の映画館名簿には掲載されていない。

1940年の美唄町西1南1にあった劇場「美唄劇場」の写真あり。東1北1にあった美唄劇場が1937年に大火で焼失し、西1南1に再建された。戦後にはいっそう盛況となった。*45

1940年の美唄町西1条南1丁目にあった「美唄劇場」の写真あり。1902年に美唄市街地初の常設館として「大福座」が開館すると、次いで開館した「美唄座」は「恵比寿座」に改称し、1930年に美唄劇場に改称した。1937年の大火で焼失し、移転して再建された。「びばいシネマ」の前身である。*46

1950年の美唄町にあった「美唄劇場」の写真あり。『浅草の肌』の看板が見える。市制施行記念興行ののぼりが立ち、鈴蘭灯の脇には初代美唄市長が立っている。後に改装して「びばいシネマ」となり、2008年まで営業を続けた。*47

1955年時点の美唄市には、劇場・映画館として12館があった。美唄の「美唄劇場」は定員716人。*48
びばいシネマ/びばいシネマ・びばいシネマ2/びばいシネマ2
所在地 : 北海道美唄市西1条北1丁目(1977年・1978年・1980年・1982年・1985年・1986年・1988年・1990年・1995年)、北海道美唄市大通西1条北1丁目(1998年・2000年・2005年・2006年・2008年・2010年・2012年・2013年)
開館年 : 1976年頃
閉館年 : 2008年
1976年の映画館名簿には掲載されていない。1977年・1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「びばいシネマ」。1982年の映画館名簿では経営会社が株式会社和興、経営者・支配人ともに遠山成雄、木造1階、120席、邦画・洋画を上映。1982年の住宅地図では「びばいシネマ」。1985年・1986年・1988年の映画館名簿では「びばいシネマ・びばいシネマ2」(2館)。1988年の映画館名簿では経営会社がびばいシネマ、経営者・支配人ともに遠山成雄、木造1階、びばいシネマが89席、びばいシネマ2が68席、いずれも邦画・洋画を上映。1990年・1995年・1998年の映画館名簿では「びばいシネマ」。1998年の映画館名簿では経営会社がびばいシネマ、経営者・支配人ともに遠山成雄、木造1階、89席、邦画・洋画を上映。2000年・2005年・2006年の映画館名簿では「びばいシネマ・びばいシネマ2」(2館)。2006年の映画館名簿では経営会社がびばいシネマ、経営者・支配人ともに遠山成雄、木造1階、びばいシネマが89席、びばいシネマ2が50席、いずれも邦画・洋画を上映。2008年・2010年・2012年・2013年の映画館名簿では「びばいシネマ2」。2013年の映画館名簿では経営会社がびばいシネマ、経営者が遠山トモ、支配人が佐藤健二、木造1階、50席、邦画・洋画を上映。2014年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「しろした病院」南西30mの駐車場。最寄駅はJR函館本線美唄駅。

2012年2月17日、美唄市大通西1条北1にある旧映画館の建物が積雪の重みで崩壊した。隣接する2階建て店舗兼住宅の窓ガラスが割れ、敷地内に停車中の乗用車1台が押しつぶされたが、負傷者はいなかった。1941年竣工の建物であり、木造モルタル2階建て。映画館としては2008年に閉館していた。美唄市の積雪は2月17日時点で163センチであり、平年より約70センチ多かった。*49

芦別市

職員娯楽場
所在地 : 北海道空知郡芦別町西芦別1(1953年)、北海道芦別市西芦別町(1954年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1954年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1954年の映画館名簿では「職員娯楽場」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。
黄金坑会館/黄金会館
所在地 : 北海道芦別市西芦別町(1954年)、北海道芦別市黄金(1955年)、北海道芦別市上芦別町(1958年)、北海道芦別市黄金町(1960年・1962年)
開館年 : 1953年8月31日
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「黄金会館」。1958年の映画館名簿では「黄金坑会館」。1958年の映画館名簿では経営者が武富敏治、支配人が長利一慶、木造1階、定員415、邦画を上映。1960年・1962年の映画館名簿では「黄金会館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

芦別市黄金町460の「三井黄金集会所」。1953年8月31日創立。経営者は三井芦別鉱業所長の岡崎大三郎。定員360。*50
三菱集会所
所在地 : 北海道芦別市上芦別(1960年)、北海道芦別市上芦別町(1961年・1962年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1962年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「三菱集会所」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
芦別中央館/中央館/三菱協和会館
所在地 : 北海道芦別市本町(1957年)、北海道芦別市本町593(1958年)、北海道芦別市富岡100(1960年)、北海道芦別市本通(1962年)、北海道芦別市富岡100(1963年・1964年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1964年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「中央館」。1958年の映画館名簿では「芦別中央館」。1958年の映画館名簿では経営者・支配人ともに相田大成、木造1階暖房付、定員120、新東宝・洋画を上映。1960年・1962年の映画館名簿では「中央館」。1963年・1964年の映画館名簿では「三菱協和会館」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

芦別市北1条東1丁目の「中央館」。創立年不明。経営者は相田平作。定員不明。*51
新和会館/明治信和会館/信和会館
所在地 : 北海道芦別市上芦別町(1954年・1955年)、北海道芦別市上芦別町350(1958年)、北海道芦別市上芦別(1960年)、北海道芦別市上芦別町(1963年)
開館年 : 1941年7月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年の映画館名簿では「明治信和会館」。1955年の映画館名簿では「新和会館」。1958年の映画館名簿では「信和会館」。1958年の映画館名簿では経営者が菊島美三、支配人が天満豊治、木造2階暖房付、定員400、日活・新東宝・洋画を上映。1960年の映画館名簿では「明治信和会館」。1963年の映画館名簿では「信和会館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

芦別市の上芦別鉱業所の福利施設である「信和会館」。1941年7月建設。400人収容。*52

芦別市上芦別町の「明治会館」。創立年不明。経営者は明治鉱業所。定員不明。*53
新栄座
所在地 : 北海道芦別市新城町(1957年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1954年6月18日
閉館年 : 1963年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「新栄座」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

芦別市新城町233の「新栄館」。1954年6月18日創立。経営者は武田英一。定員150。*54
油谷会館
所在地 : 北海道空知郡芦別町旭盤之沢(1953年)、北海道芦別市旭町(1955年)、北海道芦別市芦別町(1956年・1957年)、北海道芦別市旭町(1960年)、北海道芦別市旭町油谷(1963年・1965年)
開館年 : 1949年6月18日
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1956年・1957年の映画館名簿では「油谷会館」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「油谷会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

芦別市旭町油谷1の「油谷会館」。1949年6月18日創立。経営者は油谷芦別炭鉱所長の小笠原正巳。定員398。*55
上芦別映劇/上芦別映画劇場
所在地 : 北海道空知郡芦別町北芦別2(1953年)、北海道芦別市上芦別町(1955年)、北海道芦別市上芦別町二条通13(1958年)、北海道芦別市上芦別町(1959年・1960年)、北海道芦別市上芦別町183(1963年)、北海道芦別市上芦別町(1966年)
開館年 : 1951年
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「上芦別映画劇場」。1959年・1960年の映画館名簿では「上芦別映劇」。1963年・1966年の映画館名簿では「上芦別映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。

芦別市上芦別町の「上芦別映劇」。1951年創立。経営者は前田興業の前田米一。定員300。*56
高根会館/高根鉱会館
所在地 : 北海道芦別市高根町(1963年・1966年・1968年)
開館年 : 1958年10月1日
閉館年 : 1968年頃
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「高根会館」。1966年・1968年の映画館名簿では「高根鉱会館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

芦別市高根町34の「高根会館」。1958年10月1日創立。経営者は芦別高根炭鉱所長の福岡清。定員360。*57
二坑会館/芦別二坑会館
所在地 : 北海道空知郡芦別町頼城町1(1953年)、北海道芦別市頼城(1955年)、北海道芦別市頼城町1(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1951年12月31日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「二坑会館」。1958年の映画館名簿では経営者が三井鉱業所、支配人が中村寿一郎、木造2階冷暖房付、定員1378、邦画・洋画を上映。1969年・1970年の映画館名簿では「芦別二坑会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

芦別市頼城町4の「三井二坑会館」。1951年12月31日創立。経営者は三井芦別鉱業所長の岡崎大三郎。定員980。*58
一坑会館/芦別一坑会館
所在地 : 北海道芦別市西芦別町(1955年)、北海道芦別市西芦別町1(1958年)、北海道芦別市西芦別(1960年)、北海道芦別市西芦別1(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1953年8月13日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1953年7月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「一坑会館」。1958年の映画館名簿では経営者が三井鉱業所、支配人が中村寿一郎、鉄筋造1階冷暖房付、定員850、邦画・洋画を上映。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「芦別一坑会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

芦別市西芦別町51の「三井一坑会館」。1953年8月13日創立。経営者は三井芦別鉱業所長の岡崎大三郎。定員800。*59
芦別劇場/芦別映劇/芦別映画劇場
所在地 : 北海道空知郡芦別町字芦別(1947年)、北海道空知郡芦別町(1950年)、北海道空知郡芦別町本町(1953年)、北海道芦別市本町577(1955年)、北海道芦別市本町575(1958年)、北海道芦別市本町(1960年)、北海道芦別市北1条東1丁目(1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1936年7月
閉館年 : 1972年10月末
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「芦別劇場」。1958年の映画館名簿では「芦別映画劇場」。1960年の映画館名簿では「芦別映劇」。1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「芦別映画劇場」。1973年の映画館名簿では経営者が角幡芳次郎、支配人が佐藤功、木造2階暖房付、324席、松竹・日活・洋画・成人映画を上映。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はスーパー「ラルズマート芦別店」店舗北側の駐車場。最寄駅はJR根室本線芦別駅。

1929年9月30日に新築開館した映画館「芦別劇場」。所在地は芦別市北1条東1。*60

芦別市にあった「芦別映画劇場」の写真あり。1915年、下芦別に横山松之助が芝居小屋「永楽館」を建てた。やがて活動写真も上映していたが、1929年にフィルムに引火する火災で焼失した。1929年9月30日、角幡庄太郎らによって跡地に「芦別劇場」(芦別映画劇場)が建てられた。戦後には市街地や炭坑住宅地帯に相次いで映画館が建てられた。1958年から1959年頃が最盛期であり、芦別市には13館もの映画館があった。テレビの普及によって映画は斜陽化し、1971年には芦別映画劇場と芦別宝映のみとなっていたが、1972年10月末には芦別映画劇場が閉館した。*61

1938年頃の芦別町にあった「芦別劇場」(芦別映画劇場)前で撮られた記念写真あり。「ラヂオ映画と講演乃会」という看板があり、東宝作品『うそ倶楽部』の上映予告が記載されている。1929年に芦別町初の映画館として開館した。定員は342人。1972年に閉館した。2014年現在の跡地は北1条東1丁目のラルズプラザである。*62

昭和初期の芦別町にあった「芦別劇場」の建物の写真あり。「場劇別芦」の文字が見える。1932年8月に芦別町初の劇場「栄楽館」が焼失すると、1936年7月には角幡庄太郎らによって、跡地に芦別劇場が建てられた。1942年には息子の角幡芳次郎が経営者となった。戦後には2度火災に遭ったが再建された。やがて「芦別映画劇場」に改称し、主として日活と松竹作品を上映した。1972年10月末に閉館した。2004年現在の北1条東1丁目5番地である。*63

1955年12月14日午前10時30分頃、芦別市芦別本町575の「芦別劇場」ボイラー室から出火し、建物69坪が全焼した。原因はボイラー室煙筒の過熱とみられる。損害額は約1500万円。なお、芦別劇場は1955年3月28日夜の火災で全焼し、8月31日に再建されて開館していたばかりだった。*64

1955年12月14日、芦別市芦別本町の「芦別劇場」が全焼した。原因は煙突の過熱。*65

角幡芳次郎。1907年9月1日生。芦別市出身。「芦別映画劇場」経営。*66
芦別第一劇場/第一劇場/芦別宝映/芦別宝映劇場
所在地 : 北海道芦別市富岡町(1954年・1955年)、北海道芦別市本町1007(1958年)、北海道芦別市栄町(1960年・1962年)、北海道芦別市北1条西1丁目(1963年・1966年・1969年・1973年・1974年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年)
開館年 : 1951年4月10日
閉館年 : 1986年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「第一劇場」。1958年の映画館名簿では「芦別第一劇場」。1960年・1962年の映画館名簿では「第一劇場」。1963年の映画館名簿では「芦別宝映」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年の映画館名簿では「芦別宝映劇場」。1974年の映画館名簿では経営会社が山本興業、経営者が山本芳雄、支配人が岩渕清志、木造1階暖房付、300席、邦画・洋画を上映。1982年の住宅地図では「芦別宝映」。1986年の映画館名簿では経営者・支配人ともに岩渕清、木造1階、120席、邦画・洋画を上映。1987年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は「秋田屋旅館」東南東80mに現存。最寄駅はJR根室本線芦別駅。

芦別市北1条西1丁目19の「芦別宝映」。1951年4月10日創立。1960年6月12日までは「芦別第一劇場」という名称だった。経営者は山本芳雄。定員300。1972年10月末に「芦別映画劇場」が閉館したことで、芦別市の映画館は芦別宝映のみとなった。*67

赤平市

赤平座
所在地 : 北海道赤平町
開館年 : 不明
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。

1938年の赤平町にあった映画劇場「赤平座」のこけら落としの際の館内の写真あり。1938年7月24日に東京から歌舞伎の一座を招いてこけら落としが行われた。川田元信、吉川与三郎、幸松幸作の共同出資によって開館した。*68
スバル映劇
所在地 : 北海道赤平市錦町(1960年・1962年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1962年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1962年の映画館名簿では「スバル映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
平岸劇場
所在地 : 北海道赤平市平岸165(1963年・1965年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1965年頃
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1965年の映画館名簿では「平岸劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
茂尻劇場/茂尻座
所在地 : 北海道空知郡赤平町茂尻65(1947年)、北海道空知郡赤平町字茂尻(1950年)、北海道空知郡赤平町茂尻(1953年)、北海道赤平市茂尻(1955年)、北海道赤平市茂尻町65(1958年)、北海道赤平市茂尻町(1960年)、北海道赤平市茂尻65(1963年・1965年)
開館年 : 1926年11月18日
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「茂尻座」。1958年・1960年の映画館名簿では「茂尻劇場」。1963年・1965年の映画館名簿では「茂尻座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1954年現在の赤平市には各種会館として、赤平の「赤平映画劇場」、茂尻の「茂尻鉱協和会館」、赤平の「住友赤平鉱親友会館」、豊里の「赤間鉱会館」、茂尻の「茂尻座」、赤平の「市立労働会館」がある。茂尻座は1926年11月18日設立、木造2階モルタル塗、収容人員480。*69

赤平市にあった「茂尻座」の写真あり。「Moshiriza」の文字が見える。1954年公開の松竹作品『蛮から社員』の看板が見える。「茂尻鉱協和会館」の写真あり。*70
赤間会館/赤間鉱会館
所在地 : 北海道空知郡赤平町北岩鉱業所(1953年)、北海道赤平市赤平町(1958年)、北海道赤平市本町(1960年)、北海道赤平市赤間(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1950年5月10日
閉館年 : 1965年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「赤間鉱会館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「赤間会館」。1958年の映画館名簿では経営者が北炭赤間鉱、支配人が大木ツタ、木造2階、定員が記載なし、邦画・洋画を上映。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「赤間鉱会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1954年現在の赤平市には各種会館として、赤平の「赤平映画劇場」、茂尻の「茂尻鉱協和会館」、赤平の「住友赤平鉱親友会館」、豊里の「赤間鉱会館」、茂尻の「茂尻座」、赤平の「市立労働会館」がある。赤間鉱会館は1950年5月10日設立、木造2階亜鉛葺、収容人員900。*71
豊里鉱業所/豊里会館/豊里劇場
所在地 : 北海道空知郡赤平町(1953年)、北海道赤平市赤平町(1958年)、北海道赤平市本町(1960年)、北海道赤平市豊里(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「豊里鉱業所」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「豊里鉱業所」。1958年の映画館名簿では経営者が豊里鉱業所、支配人が三戸義夫、構造が記載なし、定員が記載なし、邦画を上映。1960年の映画館名簿では「豊里会館」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「豊里劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
赤平興亜劇場/興亜劇場/赤平映画劇場/赤平映劇
所在地 : 北海道空知郡赤平町(1947年・1950年・1953年)、北海道赤平市赤平町(1955年)、北海道赤平市本通422(1958年・1960年)、北海道赤平市赤平422(1963年・1965年)
開館年 : 1943年5月1日
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「興亜劇場」。1950年の映画館名簿では「赤平興亜劇場」。1953年の映画館名簿では「興亜劇場」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「赤平映画劇場」。1963年の映画館名簿では「赤平映劇」。1965年の映画館名簿では「赤平映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1943年5月1日、赤平町に「赤平映画劇場」が開館した。1945年11月20日、「赤平興亜劇場」で朝鮮人と中国人の間で乱闘が起こって2人が死亡した。赤平映画劇場(かつての興亜劇場)の写真あり。*72

1954年現在の赤平市には各種会館として、赤平の「赤平映画劇場」、茂尻の「茂尻鉱協和会館」、赤平の「住友赤平鉱親友会館」、豊里の「赤間鉱会館」、茂尻の「茂尻座」、赤平の「市立労働会館」がある。赤平映画劇場は1943年5月1日設立、木造2階亜鉛葺、収容人員550。*73
協和会館/茂尻協和会館
所在地 : 北海道空知郡赤平町 茂尻鉱業所(1950年)、北海道空知郡赤平町茂尻(1953年)、北海道赤平市茂尻(1955年)、北海道赤平市茂尻町170(1958年)、北海道赤平市茂尻町(1960年)、北海道赤平市茂尻129(1963年)、北海道赤平市茂尻(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1947年3月1日
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「茂尻協和会館」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「協和会館」。1958年の映画館名簿では経営者が茂尻鉱業所、支配人が城慎三郎、木造2階暖房付、定員800、邦画・洋画を上映。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「茂尻協和会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1954年現在の赤平市には各種会館として、赤平の「赤平映画劇場」、茂尻の「茂尻鉱協和会館」、赤平の「住友赤平鉱親友会館」、豊里の「赤間鉱会館」、茂尻の「茂尻座」、赤平の「市立労働会館」がある。茂尻鉱協和会館は1947年3月1日設立、木造2階モルタル塗、収容人員800。*74

赤平市にあった「茂尻鉱協和会館」の写真あり。*75

1947年3月1日、赤平町の茂尻炭鉱に「協和会館」が落成した。1969年12月、赤平市の「旧茂尻炭鉱協和会館」が解体された。*76
親友会館
所在地 : 北海道空知郡赤平町赤平(1953年)、北海道赤平市住友赤平砿(1955年)、北海道赤平市住友赤平砿576(1958年)、北海道赤平市本町(1960年)、北海道赤平市赤平(1963年)、北海道赤平市大町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1942年12月1日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「親友会館」。1958年の映画館名簿では経営者が住友赤平鉱、支配人が兵頭泰山、木造2階暖房付、定員1000、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1954年現在の赤平市には各種会館として、赤平の「赤平映画劇場」、茂尻の「茂尻鉱協和会館」、赤平の「住友赤平鉱親友会館」、豊里の「赤間鉱会館」、茂尻の「茂尻座」、赤平の「市立労働会館」がある。住友赤平鉱親友会館は1942年12月1日設立、木造2階亜鉛葺、収容人員1000。*77

1973年9月、赤平市の「住友赤平鉱親友会館」がインドアゴルフセンターに転換した。*78
東映劇場/赤平東映/赤平東映劇場
所在地 : 北海道赤平市錦町405(1959年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1974年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1974年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「赤平東映劇場」。1960年の映画館名簿では「東映劇場」。1963年の映画館名簿では「赤平東映」。1966年・1969年・1973年・1974年の映画館名簿では「赤平東映劇場」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。
銀映劇場/日活銀映/赤平銀映劇場
所在地 : 北海道赤平市大町446(1958年・1960年・1963年)、北海道赤平市大町4466(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年)
開館年 : 1956年12月20日
閉館年 : 1978年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「銀映劇場」。1963年の映画館名簿では「日活銀映」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「赤平銀映劇場」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。

1956年12月20日、赤平市の赤平ローラースケート場跡地に「銀映劇場」が開館した。*79
赤平テアトルポニー/テアトルポニー
所在地 : 北海道赤平市錦町1丁目(1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2006年)
開館年 : 1979年頃
閉館年 : 2006年頃
1979年の映画館名簿には掲載されていない。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「赤平テアトルポニー」。1995年・2000年・2005年・2006年の映画館名簿では「テアトルポニー」。2007年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は「赤平駅」北100mにライブハウス「OTO-1hall」として現存。最寄駅はJR根室本線赤平駅。

2011年12月8日、赤平市にライブホールのABホールが開業した。旧映画館「テアトルポニー」を再生した。*80

三笠市

幌内劇場
所在地 : 北海道空知郡三笠町字幌内(1947年・1950年)、北海道空知郡三笠町幌内炭山市街(1953年)、北海道空知郡三笠町万字市街(1955年)、北海道空知郡三笠町幌内(1957年)
開館年 : 1947年以前
閉館年 : 1957年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1957年の映画館名簿では「幌内劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。
幾春別座/幾春別会館/幾春別劇場
所在地 : 北海道空知郡三笠町幾春別(1947年・1950年・1953年)、北海道空知郡三笠町字弥生(1955年)、北海道三笠市幾春別125(1958年・1960年)、北海道三笠市幾春別(1963年)
開館年 : 1927年頃
閉館年 : 1962年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年・1950年の映画館名簿では「幾春別座」。1953年の映画館名簿では「幾春別劇場」。1955年の映画館名簿では「幾春別会館」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「幾春別劇場」。1958年の映画館名簿では経営者が杉山茂夫、支配人が嵐正雄、木造2階暖房付、定員500、邦画・洋画を上映。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

1953年頃の三笠町にあった「幾春別劇場」の写真あり。サイレントからトーキーに切り替わった1935年頃には既に営業していた。定員は約600人だった。1962年に火災で焼失した。*81

1953年の三笠市にあった「幾春別劇場」の写真あり。1904年には幾春別市街地に幾春別座が開館したが、1927年の大火で焼失し、その後幾春別劇場が建てられた。定員は603人。1929年には「三笠座」も開館したが、1947年の大火では三笠座が焼失した。1962年には幾春別劇場も火災で焼失した。*82
幌内鉱会館
所在地 : 北海道空知郡三笠町幌内(1955年)、北海道三笠市幌内中央区(1958年・1960年)、北海道三笠市幌内(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1952年
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年の映画館名簿では「幌内砿会館」。1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「幌内鉱会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1965年の三笠市にあった「幌内会館」の写真あり。1952年に北炭によって建てられた福利厚生施設である。*83
弥生親友会館/弥生会館/住友弥生会館
所在地 : 北海道空知郡三笠町弥生(1953年・1955年)、北海道三笠市弥生(1960年・1963年)、北海道三笠市弥生町(1964年・1965年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「弥生親友会館」。1955年の映画館名簿では「弥生会館」。1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「住友弥生会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
三笠会館/三笠劇場
所在地 : 北海道空知郡三笠町(1953年・1955年)、北海道三笠市三笠3(1960年)、北海道三笠市三笠(1963年)、北海道三笠市多賀(1964年・1965年)
開館年 : 1949年
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「三笠会館」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「三笠劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は葬儀場「すずかぜホール」南東40mの河川敷。最寄駅はJR函館本線峰延駅。

1949年の三笠町にあった「三笠会館」の写真あり。竣工間もない頃である。定員は400人だった。*84

1956年頃の三笠市にあった劇場「三笠会館」の写真あり。『男の世界』の看板が見える。1949年に三笠山橋のたもとに建てられ、400人を収容した。やがて結婚式場や貸倉庫に転用されたが、1976年に幾春別川が改修される際に解体された。三笠市には炭鉱労働者が多く、劇場などの娯楽施設も多数あった。*85
昭和劇場/新幌内会館/新幌内鉱会館/常盤会館
所在地 : 北海道空知郡三笠町幌内(1950年)、北海道空知郡三笠町唐松(1953年・1954年・1955年)、北海道三笠市唐松(1960年)、北海道三笠市幌内(1963年)、北海道三笠市唐松(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1936年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿では「昭和劇場」。1953年の映画館名簿では「昭和会館」。1954年・1955年・1960年の映画館名簿では「新幌内会館」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「新幌内鉱会館」。1970年の映画館名簿では「常盤会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1953年の三笠町にあった「新幌内会館」の写真あり。1936年に昭和鉱業によって建てられた。*86
奔別会館/住友奔別会館
所在地 : 北海道空知郡三笠町幾春別(1955年)、北海道三笠市奔別(1960年)、北海道三笠市幾春別(1963年)、北海道三笠市奔別(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1952年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1960年の映画館名簿では「奔別会館」。1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「住友奔別会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1955年の三笠町にあった「住友奔別会館」の写真あり。1952年に建てられた福利厚生施設である。*87

滝川市

滝川劇場(新)
所在地 : 北海道空知郡滝川町(1953年・1955年)、北海道空知郡滝川町476(1958年)、北海道滝川市大町(1960年・1961年)、北海道滝川市栄町(1962年)
開館年 : 1951年1月2日
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年1月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「滝川劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1951年1月2日、滝川駅に近い宝町にニュース映画中心の「(新)滝川劇場」が新築開館した。経営者はかつて(旧)「滝川劇場」を経営していた鈴木庄太郎であり、鈴木庄太郎の病没後には妻の鈴木マサが引き継いだ。1955年12月27日には全焼したが、1956年6月8日に営業が再開された。1958年には有限会社鈴木興行が設立され、買収した「セントラル劇場」と滝川劇場の2館を経営している。*88
栄楽座/江部乙映画劇場/江部乙映劇
所在地 : 北海道空知郡江部乙村(1950年)、北海道空知郡江部乙村市街(1953年)、北海道空知郡江部乙町(1955年・1958年・1960年・1962年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「栄楽座」。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「江部乙映画劇場」。1960年・1962年の映画館名簿では「江部乙映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

昭和初期の江部乙村にあった「栄楽座」の写真あり。1921年、屯田兵の浅田幸八は寄席を譲り受けて栄楽座を開館させた。芝居、浪曲、活動写真、集会などが催された。*89
滝川劇場(旧)/文化劇場/国際劇場/北映劇場
所在地 : 北海道空知郡滝川町(1925年・1936年・1943年)、北海道空知郡滝川町片畑通り(1947年)、北海道空知郡滝川町片畑町(1953年)、北海道空知郡滝川町(1955年)、北海道空知郡滝川町字大町(1958年)、北海道滝川市大町(1960年)、北海道滝川市大町200(1963年・1964年)
開館年 : 1924年4月、1951年(移転)、1956年1月(建て替え)
閉館年 : 1963年3月
『全国映画館総覧 1955』によると1951年1月開館。1925年・1936年・1943年・1947年の映画館名簿では「滝川劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「文化劇場」。1960年の映画館名簿では「国際劇場」。1963年・1964年の映画館名簿では「北映劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

1923年の滝川町の片畑通りにあった「滝川劇場」の写真あり。1923年9月、資本金5万円の株式組織で滝川劇場が建てられた。木造3階建、柾葺。総坪数378.5坪。*90

1923年9月には滝川町片畑通2818に「滝川劇場」が建てられ、1924年4月に開業した。木造3階建、総坪数378.5坪であり、中部空知の大劇場と言われた。資本金5万円の株式組織である。1948年には増改築が施されて「空知労働会館」に改称したが、工事費などで多額の負債ができた。1949年7月1日には美唄市の前田興業部に一部経営が委託され、「滝川文化劇場」に改称した。1958年11月には増改築して「滝川国際劇場」に改称した。1959年5月15日、前田興業部は滝川国際劇場を佐久間政太郎に売却した。佐久間は資本金50万円の株式組織として1962年現在も営業している。*91

1956年の滝川市にあった「滝川劇場」の写真あり。花輪が見える。1923年には「滝川劇場」が開館したが、戦後には建物が空知労働会館に売却された。2014年現在の国道38号沿いの滝川市役所の場所である。1951年には同一経営者が滝川駅近くの宝商店街に2代目滝川劇場を建てたが、1955年12月に全焼した。1956年1月には3代目滝川劇場が開館したが、1963年3月に閉館した。*92
江部乙劇場
所在地 : 北海道空知郡江部乙村市街(1953年)、北海道空知郡江部乙町(1955年)、北海道空知郡江部乙町12丁目(1958年)、北海道空知郡江部乙町(1960年)、北海道空知郡江部乙町1505(1963年)、北海道空知郡江部乙町(1965年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「江部乙劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
朝日劇場
所在地 : 北海道滝川市朝日町(1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1965年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「朝日劇場」。1963年の映画館名簿では「朝日劇場(休館中)」。1965年の映画館名簿では「朝日劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1944年、滝川町滝ノ川通り2丁目に「洪基館」が建設された。北海道人造石油の慰安・娯楽施設であり、従業員と家族のみを対象としていた。戦後には滝川化学工業に移管されて市民にも開放されたが、1952年6月には滝川化学工業が倒産したことで、洪基館も廃館となった。建物は松庫商店が買収し、「朝日劇場」に改称した。その後中島長太郎が買収し、1960年11月20日に新装開館した。*93
蛭子座/滝川第一劇場/滝川映画劇場/セントラル劇場
所在地 : 北海道空知郡滝川町本通り3(1953年)、北海道空知郡滝川町本通(1955年)、北海道空知郡滝川町60(1958年)、北海道滝川市大町60(1960年)、北海道滝川市大町166(1963年・1965年)
開館年 : 1949年11月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「滝川映画劇場」。1960年の映画館名簿では「滝川映画劇場(休館中)」。1963年・1965年の映画館名簿では「セントラル劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1902年12月1日、滝川町本通り3丁目(1962年現在の大町)に株式会社蛭子座が設立された。やがて「蛭子座」は藤田才市の単独経営となり、1911年10月には増改築した。1934年5月に藤田才市が死去すると、長男の藤田与作が経営を継いだが、直後の1934年11月に病死した。弟の藤田才次が3代目となり、1937年に大増改築した。1943年8月には「滝川映画劇場」に改称したが、1949年3月には失火で全焼した。1949年11月、藤田才次は総工費800万円で「滝川第一劇場」を再建した。1950年6月30日、藤田才次は美唄市の前田興業部に経営を委託すると、同年10月8日にはもとの「滝川映画劇場」に戻された。滝川映画劇場は1957年6月に閉館したが、鈴木興行が350万円で買収して改装を行い、1958年12月17日に「セントラル劇場」として開館した。建坪180坪、総坪数200坪、定員400人。*94
テアトル宝映
所在地 : 北海道滝川市栄町名店ビル3階(1960年)、北海道滝川市栄町名店ビル(1963年)、北海道滝川市栄町362(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1958年6月10日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「テアトル宝映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1983年の住宅地図では跡地に4階建の「名店ビル」。1958年7月11日開業の名店ビル3階。跡地は「北門信用金庫本店」。最寄駅はJR函館本線・根室本線滝川駅。

1958年6月10日、滝川町栄町351番地の名店ビル3階に東宝・大映系上映館「テアトル宝映」が開館した。建坪142.25坪、収容定員320人。社長は山下菊太郎。*95

1958年の滝川市にあった滝川名店ビルの写真あり。戦後には引揚者によるマーケットや廉価市場があった場所である。1956年にマーケットで火災が起こると、1958年には鉄筋コンクリート3階建の名店ビルが竣工し、商業施設、食堂、劇場などが入った。1980年に建て替えられた。*96

1958年の滝川市にあった名店ビルの写真あり。名店ビル銀座通りと鈴蘭通りが交差する角にあった。同年7月には滝川町が市制施行して滝川市となっている。近代的な食堂、映画館「テアトル宝映」などが入った。*97
滝川公楽劇場/公楽劇場
所在地 : 北海道滝川市栄町312(1967年・1968年・1969年・1973年・1975年・1977年)
開館年 : 1966年頃
閉館年 : 1977年頃
1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年・1968年・1969年の映画館名簿では「滝川公楽劇場」。1973年・1975年・1977年の映画館名簿では「公楽劇場」。1977年の映画館名簿では経営会社が山田興業、経営者が山田徳三郎、支配人が近藤吉、木造2階暖房付、303席、日活・松竹・洋画・成人映画を上映。1980年の映画館名簿には掲載されていない。
滝川東映/滝川東映劇場/東映劇場
所在地 : 北海道空知郡滝川町180(1958年)、北海道滝川市本町180(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1979年)
開館年 : 1956年8月4日
閉館年 : 1979年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「滝川東映」。1966年・1969年の映画館名簿では「滝川東映劇場」。1973年・1975年・1977年・1978年・1979年の映画館名簿では「東映劇場」。1977年の映画館名簿では経営会社が山本興業、経営者が山本芳雄、支配人が古川昌夫、木造1階暖房付、350席、東映・東宝・洋画を上映。1980年の映画館名簿には掲載されていない。1983年の住宅地図では跡地に4階建の「東映ソサエティビル」。跡地は「東映ソサエティビル」。最寄駅はJR函館本線・根室本線滝川駅。

1956年8月4日、滝川町本町180番地に東映専門館「滝川東映劇場」が開館した。滝川北映、セントラル、滝川劇場に次いで4番目の映画館であり、中心市街地にあったことで観客が多い。建坪84坪、収容定員295人。経営は芦別市の芦別興業。*98

1956年の滝川市大町にあった「滝川東映」の写真あり。『隠密七生記』や『一心太助 天下の一大事』『柳生旅ごよみ 女難一刀流』の看板が見える。終戦時の滝川には3館の劇場・映画館があった。1956年には滝川東映が開館した。*99
滝川映劇・滝川キネマ/滝川映劇・滝川キネマ・滝川にっかつ/滝川映劇1・2・3/滝川シネマシアター/滝川劇場・滝川ミラノ座
所在地 : 北海道滝川市大町2丁目1(1978年・1980年・1985年・1988年)、北海道滝川市大町2丁目1-15(1990年)、北海道滝川市大町2丁目1(1992年・1995年・2000年)
開館年 : 1977年頃
閉館年 : 2000年8月31日
1977年の映画館名簿には掲載されていない。1978年の映画館名簿では「滝川映劇・滝川キネマ」(2館)。1980年の映画館名簿では「滝川劇場・滝川シネマ」(2館)。1983年の住宅地図では「1階滝川映劇 2階滝川キネマ」。1985年の映画館名簿では「滝川映劇・滝川キネマ・滝川にっかつ」(3館)。1985年の映画館名簿では経営会社が山田興業、経営者・支配人ともに山田芳徳、木造1階、滝川映劇が200席、滝川キネマが90席、滝川にっかつが150席、いずれも邦画・洋画を上映。1988年の映画館名簿では「滝川映劇1・2・3」(3館)。1988年の映画館名簿では経営会社が近藤興行部、経営者・支配人ともに近藤吉、木造2階、1が125席で邦画を上映、2が75席で洋画を上映、3が38席でにっかつ・成人映画を上映。1990年の映画館名簿では「滝川シネマシアター」。1990年の映画館名簿では経営会社がシネマシアター、経営者・支配人ともに工藤征治、木造2階、148席、邦画・洋画を上映。1992年の映画館名簿では「滝川映劇・滝川ミラノ座」(2館)。1992年・2000年の映画館名簿では経営会社が本間興業、経営者が本間雅典、支配人が部田昌宏、鉄筋造1階、滝川劇場が87席、ミラノ座が67席、いずれも邦画・洋画を上映。1995年・2000年の映画館名簿では「滝川劇場・滝川ミラノ座」(2館)。2001年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「滝川市立病院」140mの駐車場。最寄駅はJR函館本線・根室本線滝川駅。
たきかわホール
所在地 : 北海道滝川市栄町3丁目9 西友滝川店(1988年)、北海道滝川市栄町3丁目9(1990年)、北海道滝川市栄町3丁目9 西友滝川店(1995年)、北海道滝川市栄町3丁目9-2 西友滝川店(2000年・2002年・2003年)
開館年 : 1987年頃
閉館年 : 2003年頃
1987年の映画館名簿には掲載されていない。1988年・1990年・1995年・2000年・2002年・2003年の映画館名簿では「たきかわホール」。1988年の映画館名簿では経営会社が西友滝川店、経営者が川岡善三、支配人が原田春夫、鉄筋造3階、200席、邦画・洋画を上映。2002年の映画館名簿では経営会社が西友滝川店、経営者が高橋人志、支配人が真屋博史、鉄筋造3階、200席、邦画・洋画を上映。2004年の映画館名簿には掲載されていない。建物は滝川駅北東80mに「スマイルビル」として現存。最寄駅はJR函館本線・根室本線滝川駅。

砂川市

空知劇場
所在地 : 北海道空知郡砂川町上砂川二条2(1930年)、北海道空知郡砂川町(1943年)、北海道空知郡砂川町上砂川二条(1947年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1947年以後1950年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿では「空知劇場」。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年の映画館名簿では「空知劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。
砂川中央映画劇場/中央劇場
所在地 : 北海道空知郡砂川町176(1958年)、北海道砂川市本町176(1960年)、北海道砂川市本町(1963年)
開館年 : 1955年
閉館年 : 1962年2月
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「砂川中央映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1955年、元旅館業の武田兄弟によって、1階に紅屋デパート、2階に「中央映画劇場」があるビルが開館した。1962年2月には中央映画劇場が閉館し、紅屋デパートのみが営業を続けた。1969年、紅屋デパートは大塚食堂跡地に移転し、旧紅屋デパートは解体された。跡地には北海道銀行砂川支店が建設された。*100
砂川劇場
所在地 : 北海道空知郡砂川町南本町(1947年・1950年・1953年)、北海道空知郡砂川町(1955年)、北海道空知郡砂川町朝日町(1958年)、北海道砂川市朝日町510(1960年)、北海道砂川市東1条南10丁目(1963年)
開館年 : 1940年
閉館年 : 1961年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「砂川劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1917年、滝川町にあった「遊楽座」が砂川町西3条南1丁目に移築されて「砂川座」となった。1971年現在のパレスの裏手である。1940年には山田徳兵衛が買収して「砂川劇場」に改称した。1955年には朝日町に移築されたが、テレビの普及に伴って1961年に閉館した。*101
厚生会館/東圧会館/東洋高圧会館
所在地 : 北海道空知郡砂川町豊沼34(1953年)、北海道空知郡砂川町豊沼(1955年)、北海道空知郡砂川町豊沼117(1958年)、北海道砂川市豊沼117(1960年)、北海道砂川市豊沼1(1963年)、北海道砂川市豊沼町1(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1942年
閉館年 : 1970年5月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「厚生会館」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「東圧会館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「東洋高圧会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1942年には東圧の福利厚生施設として「東圧厚生会館」が建設され、しばしば映画や演劇なども催された。1957年には常設映画館に改造され、中空知最大の映画館となった。1970年5月に映画館としては閉館した。*102
シネマパレス
所在地 : 北海道空知郡砂川町南本町(1958年)、北海道砂川市南本町134(1960年)、北海道砂川市西2条南1丁目(1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1981年)
開館年 : 1953年
閉館年 : 1981年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「シネマパレス」。1960年・1963年の映画館名簿では「シネマ・パレス」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「シネマパレス」。1980年の住宅地図では「シネマパレス」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。1986年の住宅地図では跡地に「1階ペール 友鮨 ヒーロー 2階瀬美阿 赤い靴」。跡地は「北門信用金庫砂川支店」北北西80mの建物。映画館の建物が現存する可能性あり。最寄駅はJR函館本線砂川駅。

1953年、砂川町西2条南1丁目の柳通りに「シネマパレス」が開館した。砂川町における初の常設映画館であり、経営者は山田庄八であり、「砂川劇場」の経営者である山田徳兵衛の息子である。1957年時点の砂川町には5館の常設映画館があったが、1971年現在はシネマパレス、「東映劇場」、「砂川日本劇場」の3館となっている。*103

昭和40年代の砂川市の柳通りにあった「シネマパレス」の写真あり。1953年、砂川劇場の経営者の息子によって開館した。砂川市における初の常設映画館である。大映や東宝の作品を上映した。砂川市にはシネマパレスのほかに「東映劇場」、「砂川日本劇場」、「東圧厚生会館」などもあった。*104
宝映劇場/砂川東映/砂川東映劇場/東映劇場
所在地 : 北海道空知郡砂川町砂川駅前(1958年)、北海道砂川市北本町(1960年)、北海道砂川市東1条北2丁目(1963年)、北海道砂川市西2条北1丁目(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年)
開館年 : 1955年
閉館年 : 1986年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「宝映劇場」。1963年の映画館名簿では「砂川東映」。1966年・1969年の映画館名簿では「砂川東映劇場」。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年の映画館名簿では「東映劇場」。1980年の住宅地図では「東映 日劇」。1986年の住宅地図では跡地に「日本劇場」。1987年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「北洋銀行砂川支店」南西170mの建物。最寄駅はJR函館本線砂川駅。

1954年5月、鈴木勉は砂川駅前の鈴木旅館を改造して「宝映劇場」を開館させた。1955年にはこの建物を奥村吉章に譲り、西2条北1丁目に改めて「宝映劇場」を新築開館させた。その後「砂川東映」に改称し、1970年には劇場の一部に「日本劇場」を増設した。*105
すながわニチゲキ2
所在地 : 北海道砂川市西2条北1丁目(1983年・1984年・1985年・1990年・1991年)
開館年 : 1982年頃
閉館年 : 1991年頃
1982年の映画館名簿には掲載されていない。1983年・1984年・1985年・1990年・1991年の映画館名簿では「すながわニチゲキ2」。1992年の映画館名簿には掲載されていない。
日本劇場/砂川日本劇場
所在地 : 北海道砂川市西2条北1丁目(1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1992年・1993年)
開館年 : 1970年
閉館年 : 1993年頃
1970年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「日本劇場」。1980年の住宅地図では「東映 日劇」。1986年の住宅地図では「日本劇場 地下かじの エヴォニー ニュースター ナイト」。1990年・1992年・1993年の映画館名簿では「砂川日本劇場」。1992年の映画館名簿では経営者が有限会社砂川日本劇場、経営者・支配人ともに鈴木勤、木造1階、140席、邦画・洋画を上映。1994年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「北洋銀行砂川支店」南西170mの建物。最寄駅はJR函館本線砂川駅。

1954年5月、鈴木勉は砂川駅前の鈴木旅館を改造して「宝映劇場」を開館させた。1955年にはこの建物を奥村吉章に譲り、西2条北1丁目に改めて「宝映劇場」を新築開館させた。その後「砂川東映」に改称し、1970年には劇場の一部に「日本劇場」を増設した。*106

歌志内市

大正座/ニュープリンス
所在地 : 北海道空知郡歌志内町神威(1936年)、北海道空知郡歌志内町(1943年)、北海道空知郡歌志内町神威(1947年)、北海道空知郡歌志内町字神威(1950年)、北海道空知郡歌志内町神威(1953年・1955年・1958年)、北海道歌志内市神威(1960年・1962年)
開館年 : 1923年
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「大正座」。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「ニュー・プリンス」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1923年、歌志内町神威中村市街に丸市松によって「大正座」が開館した。1925年7月には帯広市の藤本藤一が買収し、1928年11月には鈴木強治が美山町に移築した。1958年には住友鉱業所に売却されて閉館し、1964年現在の建物は鉱員寮として使われている。*107
松竹座/神威松竹座
所在地 : 北海道空知郡歌志内町神威(1936年)、北海道空知郡歌志内町(1943年・1947年)、北海道空知郡歌志内町字神威(1950年)、北海道空知郡歌志内町神威美山町(1953年)、北海道空知郡歌志内町神威山町(1955年)、北海道空知郡歌志内町神威(1958年)、北海道歌志内市神威(1960年)
開館年 : 1936年9月
閉館年 : 1962年
『全国映画館総覧 1955』によると1936年9月開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1943年・1947年の映画館名簿では「松竹座」。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「神威松竹座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1929年11月、阿部岩次郎は歌志内町文殊の「共盛座」を神威美山町に移築した。1932年10月、吉村市松が共盛座を買収して「松竹座」に改称した。テレビの普及、炭鉱の福利施設の充実などを受け、1962年には休館状態となった。*108

昭和30年代の歌志内市神威美山町にあった「松竹座」の写真あり。「大映封切」ののぼりが見える。1938年に前田米蔵が「共盛座」を買収し、松竹座に改称して開館した。その後は鉱業所の福利厚生施設としての会館が増え、テレビの普及もあったため、昭和30年代後半には民間の劇場が相次いで閉館した。*109
歌志内錦座/錦座/歌志内映劇
所在地 : 北海道空知郡歌志内町(1936年)、北海道空知郡歌志内町字本町7(1947年)、北海道空知郡歌志内町(1950年)、北海道空知郡歌志内町本町7(1953年)、北海道空知郡歌志内町(1955年)、北海道空知郡歌志内町本町155(1958年)、北海道歌志内市神威155(1960年・1963年)
開館年 : 1914年
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「錦座」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「錦座」。1950年の映画館名簿では「歌志内錦座」。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「錦座」。1963年の映画館名簿では「歌志内映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

1914年、笹崎炭鉱の経営者である笹崎沢吉が、1964年現在の第一本町に芝居小屋「沢盛座」を開館させた。歌志内で初めて花道を有する劇場だった。その後経営者は東捨次郎、増田次衛門と交代し、1920年に渡辺弁治が経営者となった際に「錦座」に改称した。1932年には前田磯吉が買収し、1948年には近代的な施設に改築した。1959年12月には錦座から「歌志内映劇」に改称したが、テレビの普及などによって1964年現在は休館状態である。*110
神威砿会館/神威会館
所在地 : 北海道空知郡歌志内町(1953年)、北海道空知郡歌志内町神威(1958年)、北海道歌志内市神威(1960年)、北海道歌志内市神楽岡(1963年・1964年)
開館年 : 1949年9月
閉館年 : 1964年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「神威砿会館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「神威会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1949年9月、歌志内市に北炭神威鉱の福利厚生施設として「北炭神威会館」が建設された。木造2階建、350坪。建設費は816万円。収容人員741人。*111
歌志内東映
所在地 : 北海道歌志内市歌神36(1963年・1964年)
開館年 : 1959年11月
閉館年 : 1964年
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1964年の映画館名簿では「歌志内東映」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

1959年11月、赤平市の伊藤登美雄が歌志内市歌神地区に「歌志内東映劇場」を開館させた。1964年現在は歌志内市唯一の個人経営の映画館である。*112

1961年頃の歌志内市歌神にあった「歌志内東映劇場」の写真あり。『丹下左膳 濡れ燕一刀流』や『宮本武蔵』や『富士に立つ若武者』ののぼりが見える。1959年に開館し、2本立や3本立の興行を行った。1964年まで営業した。*113
文殊会館/文殊集会所
所在地 : 北海道空知郡歌志内町文殊(1954年・1955年・1958年)、北海道歌志内市文殊(1960年)、北海道歌志内市文殊158(1963年・1964年)、北海道歌志内市文殊(1965年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「文殊会館」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「文殊集会所」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
上歌会館
所在地 : 北海道空知郡歌志内町上歌(1953年・1955年・1958年)、北海道歌志内市上歌(1960年・1963年・1966年・1968年)
開館年 : 1953年8月4日
閉館年 : 1968年頃
Wikipedia : 悲別ロマン座
『全国映画館総覧 1955』によると1949年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「上歌会館」。1966年の映画館名簿では経営者・支配人ともに伊藤登美雄、鉄筋造1階暖房付、定員400。1969年の映画館名簿には掲載されていない。上歌砿会館とも。映画館の建物はコミュニティ施設「悲別ロマン座」として現存。

1953年8月4日、歌志内市に住友上歌鉱の福利厚生施設として「住友上歌会館」が建設された。モルタル塗平屋建、154坪。収容人員370人。*114

2012年の歌志内市にあった「住友上歌志内会館」の写真あり。「悲別ロマン座」という名称の観光施設となっている。1953年に住友上歌志内鉱の厚生施設として開館し、鉱山の閉山後は廃墟に近かったが、1977年公開の映画『幸せの黄色いハンカチ』や1984年放送のテレビドラマ『昨日、悲別で』でロケ地となった。テレビドラマをきっかけに悲別ロマン座として整備された。*115

歌志内市字上歌にある「旧住友炭鉱上歌会館」(悲別ロマン座)。木造平屋建。現在は233.28m2、竣工時は473.04m2。1953年8月4日竣工。設計は渡邊洋治。赤色の大屋根、石張りの袖壁を有する。旧住友歌志内鉱の職員用映画館である。全盛期には東海林太郎、菊池章子などの歌手が来館した。倉本聰のドラマ「昨日、悲別で」でロケ地となり、市民有志による保存運動が行われた。ロマン座友の会が管理運営を行っており、冬季以外にはロビーで喫茶店を経営している。映写機は使用できる状態で保存されている。建物前には歌志内炭鉱のトロッコが展示されている。*116
歌志内砿会館/歌志内会館
所在地 : 北海道歌志内市神威中村(1963年)、北海道歌志内市中村(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1960年8月14日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「歌志内砿会館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「歌志内会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1960年8月14日、歌志内市に住友歌鉱の福利厚生施設として「住友歌鉱会館」が建設された。鉄筋コンクリート造暖房付、230坪。収容人員650人。1964年現在では隣接市町村にも類例がない近代式映画館とされる。*117
北炭空知会館/空知会館
所在地 : 北海道歌志内市東光2区(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1961年11月5日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「北炭空知会館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「空知会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1961年11月5日、歌志内市に北炭空知鉱の福利厚生施設として「北炭空知会館」が建設された。鉄骨鉄筋コンクリート造2階建、360坪。建設費4500万円。収容人員600人。1964年現在では隣接市町村にも類例がない近代式映画館とされる。*118

深川市

更進劇場
所在地 : 北海道空知郡音江村(1953年・1955年)、北海道空知郡音江村更進(1958年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「更進劇場」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
納内会館
所在地 : 北海道雨竜郡納内村市街地(1953年)、北海道雨竜郡納内村(1955年・1958年・1960年・1962年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「納内会館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1911年、納内村に「納内娯楽場」が完成した。(※納内会館や納内劇場と同一施設かどうかは不明)*119
納内劇場
所在地 : 北海道雨竜郡納内村(1956年)、北海道雨竜郡納内村駅通(1958年)、北海道雨竜郡納内村(1960年・1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「納内劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
多度志座/多度志劇場
所在地 : 北海道雨竜郡多度志村(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年)、北海道雨竜郡多度志町(1963年・1965年)
開館年 : 1913年、1944年10月30日
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「多度志座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「多度志劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1913年、多度志村に劇場「多度志座」が落成した。1944年10月30日には多度志劇場が開館した。*120
深川劇場
所在地 : 北海道雨竜郡深川町仲町(1936年)、北海道雨竜郡深川町仲町6丁目(1947年)、北海道雨竜郡深川町仲町13(1950年)、北海道雨竜郡深川町仲町(1953年)、北海道雨竜郡深川町(1955年)、北海道雨竜郡深川町仲6(1958年)、北海道雨竜郡深川町仲町(1960年)、北海道雨竜郡深川町本町通4丁目(1963年)、北海道深川市仲町6丁目(1966年・1969年)、北海道深川市2条6番23号(1973年)
開館年 : 1930年以後1936年以前
閉館年 : 1973年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「深川劇場」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「深川劇場」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。
深川座
所在地 : 北海道雨竜郡深川町仲町9丁目(1936年)、北海道雨竜郡深川町9(1947年)、北海道雨竜郡深川町仲町(1950年・1953年)、北海道雨竜郡深川町(1955年)、北海道雨竜郡深川町仲町(1958年・1960年・1963年)、北海道深川市日之出町(1966年・1969年・1973年・1975年・1977年)
開館年 : 1896年
閉館年 : 1976年6月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「深川座」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1977年の映画館名簿では「深川座」。1977年の映画館名簿では経営者・支配人ともに榎本洋、木造2階暖房付、246席、日活・洋画・成人映画を上映。1978年の映画館名簿には掲載されていない。

1896年、浅草喜兵衛が深川に移って「深川座」を開館させた。1919年には「深川興業界之祖浅草喜兵衛碑」が建てられたが、1977年現在のこの碑は深川座横に倒れている。*121

昭和20年代の深川町にあった「深川座」の写真あり。「FUKAGAWAZA」「いつも楽しい面白い深川座の松竹映画」の文字が見える。松竹作品『酔っぱらい天国』ののぼりが見える。深川町には深川座と「深川劇場」があり、深川座では主に松竹作品が上映された。*122

1976年6月、深川市にあった2館の映画館の片方が閉館した。1977年4月のこのほど、最後に残った「深川東映」の閉館も決定した。*123
深川東映/深川東映劇場/東映劇場
所在地 : 北海道雨竜郡深川町本町通4丁目(1963年)、北海道深川市本町通4丁目(1966年・1969年・1973年・1975年・1977年)
開館年 : 1960年
閉館年 : 1977年5月
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「深川東映」。1966年・1969年の映画館名簿では「深川東映劇場」。1973年・1975年・1977年の映画館名簿では「東映劇場」。1977年の映画館名簿では経営会社が山本興業、経営者が山本芳雄、支配人が菅原滋夫、木造1階暖房付、300席、邦画・洋画を上映。1978年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はガソリンスタンド「菱友深川支店」。最寄駅はJR函館本線・留萌本線深川駅。

深川市3-4の「深川東映」(1960年-1977年)。300席。昭和40年代の深川市には、松竹系「深川座」、東映系「深川東映」、日活・東宝・大映系「深川劇場」があった。1960年、深川市の本町通りにあった旧千秋病院を買収して深川東映が開館した。1973年には深川座が閉館し、1976年には深川劇場が閉館した。1977年には深川東映を経営していた山本興業が、深川東映の土地をホテル用地として売却した。*124

1977年5月、深川市にあった映画館「深川東映」が閉館した。*125

1976年6月、深川市にあった2館の映画館の片方が閉館した。1977年4月のこのほど、最後に残った「深川東映」の閉館も決定した。経営は山本興業。1960年に千秋病院の跡地に開館した。*126

空知郡南幌町

映画館名簿によると空知郡南幌町に映画館は存在しなかったと思われる。

空知郡奈井江町

共栄座/奈井江劇場
所在地 : 北海道空知郡奈井江村(1950年)、北海道空知郡奈井江町(1953年・1955年)、北海道空知郡奈井江町本町53(1958年)、北海道空知郡奈井江町本町(1960年)、北海道空知郡奈井江町53(1963年)
開館年 : 1900年2月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「共栄座」。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「奈井江劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

1900年2月、三好万蔵によって「奈井江座」が建てられた。棟梁は庄田某である。やがて岸康一が経営者となり、さらに阿部定治の手に渡った。「三好座」とも呼ばれていた。1909年8月、川原銀太郎が奈井江座を「共栄座」に改称した。1918年11月12日には奈井江郵便局が新築移転し、共栄座で講演会と活動写真会が開催された。1925年2月には森永練乳空知工場が操業を開始し、奈井江座(共栄座劇場)で落成祝賀会が開催された。*127
砿友会館/奈々劇場/住友奈々会館/住友奈井江会館
所在地 : 北海道空知郡奈井江町井華奈井江鉱(1953年)、北海道空知郡奈井江町(1955年)、北海道空知郡奈井江町1002(1958年・1960年)、北海道空知郡奈井江町(1963年)、北海道空知郡奈井江町東奈井江(1966年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「砿友会館」。1955年の映画館名簿では「奈々劇場」。1958年の映画館名簿では「住友奈々会館」。1960年・1963年の映画館名簿では「住友奈井江会館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

奈井江町一の映画館である「奈奈劇場」の写真あり。末期には羊小屋として使用された。*128
白山集会所/白山会館
所在地 : 北海道空知郡奈井江町東奈井江255(1963年・1964年・1965年)、北海道空知郡奈井江町東奈井江(1966年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1966年頃
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「白山集会所」。1966年の映画館名簿では「白山会館」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。

空知郡上砂川町

三井砂川互楽座/互楽館
所在地 : 北海道空知郡上砂川町 三井砂川鉱業所(1950年)、北海道空知郡上砂川町(1953年)
開館年 : 1928年
閉館年 : 1953年頃
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「三井砂川互楽座」。1953年の映画館名簿では「互楽館」。1954年の映画館名簿には掲載されていない。

上砂川町史編纂委員会『上砂川町史』上砂川町、1959年は「空知劇場」や「互楽館」に言及している。現物は未確認。*129
下鶉集会所
所在地 : 北海道空知郡上砂川町鶉74(1963年)、北海道空知郡上砂川町(1965年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1965年頃
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1965年の映画館名簿では「下鶉集会所」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
鶉集会所/鶉会館
所在地 : 北海道空知郡上砂川町365(1963年・1965年)、北海道空知郡上砂川町鶉(1966年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1966年頃
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1965年の映画館名簿では「鶉集会所」。1966年の映画館名簿では「鶉会館」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
中央会館/上砂川中央会館/上砂川中央館
所在地 : 北海道空知郡上砂川町(1955年)、北海道空知郡上砂川町22(1958年)、北海道空知郡上砂川町(1960年)、北海道空知郡上砂川町35(1963年)、北海道空知郡上砂川町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1952年12月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央会館」。1966年・1969年の映画館名簿では「上砂川中央会館」。1970年の映画館名簿では「上砂川中央館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
空知劇場/空知映劇/上砂川空知劇場
所在地 : 北海道空知郡上砂川町2条2丁目(1936年)、北海道空知郡上砂川町(1950年・1953年・1955年)、北海道空知郡上砂川町2条2丁目(1958年)、北海道空知郡上砂川町2-2(1960年)、北海道空知郡上砂川町163(1963年)、北海道空知郡上砂川町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1924年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1924年開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「空知劇場」。1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「空知劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「空知映劇」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「上砂川空知劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

上砂川の空知劇場株式会社。1923年5月創立。資本金2万5000円。代表者は大櫛順一。*130

上砂川町史編纂委員会『上砂川町史』上砂川町、1959年は「空知劇場」や「互楽館」に言及している。現物は未確認。*131

夕張郡栗山町

六三四館
所在地 : 北海道夕張郡角田村角田市街地(1936年)
開館年 : 1929年
閉館年 : 1937年
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「六三四館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。

1929年に新築開館した映画館「六三四館」。所在地は栗山町角田。1937年に閉鎖された。*132

大正時代から昭和初期の栗山市街地には「大福屋」と「栗山座」(旧称は栗山館)があった。大福屋は長澤君治が経営する劇場である。昭和初期には栗山館の経営が村上太作から中越懇話会に移り、栗山座に改称した。1929年には角田市街地に娯楽場「六三四館」(むさし館)が建てられ、月2回程度の興行が行われたが、六三四館は1937年に閉鎖された。戦時中には大福座(大福屋)も栗山座も苦しい経営が続いた。*133
角田会館
所在地 : 北海道夕張郡栗山町角田鉱(1953年・1955年・1958年)、北海道夕張郡栗山町角田(1960年・1962年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「角田会館」。1962年の映画館名簿では経営者が伊良原喜好、支配人が南隆二、木造1階暖房付、定員300、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿では「角田会館(休館中)」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
継立劇場
所在地 : 北海道夕張郡栗山町継立(1952年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1939年6月
閉館年 : 1963年8月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「継立劇場」。1963年の映画館名簿では経営者が伊良原喜好、支配人が伊良原武、木造2階暖房付、定員250。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

1939年6月、伊良原マツヨによって新築開館した「継立劇場」。所在地は栗山町継立。1963年8月に閉鎖された。*134

1939年6月、角田村継立の産業組合継立出張所の脇に、伊良原マツヨによって「継立劇場」が建てられ、映画・芝居・浪曲などの興行が行われた。*135

1947年から、伊良原マツヨが経営する「継立劇場」は角田炭鉱会館で出張上映を行い、1957年頃からは由仁市街地でも出張上映を行った。テレビの普及で観客数が減少したことで、1962年11月には出張上映を取りやめ、1963年8月には継立劇場自体も閉鎖された。*136
大橋座/大福座/栗山文化劇場
所在地 : 北海道夕張郡角田村栗山(1930年・1936年・1941年)、北海道夕張郡角田村栗山町(1947年・1950年)、北海道夕張郡栗山町215(1953年)、北海道夕張郡栗山町(1955年)、北海道夕張郡栗山町215(1958年)、北海道夕張郡栗山町(1960年)、北海道夕張郡栗山町栗山215(1963年)、北海道夕張郡栗山町215(1964年)、北海道夕張郡栗山町栗山(1965年)
開館年 : 1909年
閉館年 : 1969年3月31日
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿では「大橋座」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年の映画館名簿では「大福座」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「大福座」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「栗山文化劇場」。1965年の映画館名簿では経営者が栗山映劇、支配人が長沢正三、木造2階暖房付、定員500、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「栗山町営中央団地」南40mの民家。最寄駅はJR室蘭本線栗山駅。

1909年10月に新築開館した劇場「大福座」。1922年に岩村政吉の経営となって「岩村座」に改称した。2年後には長沢君治の経営となって、名称が大福座に戻された。1958年に「栗山文化劇場」に改称した。1969年3月31日をもって休館した。*137

大正時代から昭和初期の栗山市街地には「大福屋」と「栗山座」(旧称は栗山館)があった。大福屋は長澤君治が経営する劇場である。昭和初期には栗山館の経営が村上太作から中越懇話会に移り、栗山座に改称した。1929年には角田市街地に娯楽場「六三四館」(むさし館)が建てられ、月2回程度の興行が行われたが、六三四館は1937年に閉鎖された。戦時中には大福座(大福屋)も栗山座も苦しい経営が続いた。*138

住宅地図を模した地図「昭和20年前後の栗山」には、「栗山座」と「大福座」が描かれている。*139

1953年の栗山町にあった「大福座」における栗山町労働文化祭芸能大会の写真あり。この労働文化祭は1948年から開催された。*140

1958年、「大福座」の経営者が長沢君治から松原武吉に変わり、「栗山文化劇場」に改称した。テレビの娯楽番組の普及などの結果、栗山文化劇場と栗山映画劇場の両劇場は1969年3月に休館し、その後営業を再開することはなかった。*141
栗山座/栗山映劇/栗山映画劇場
所在地 : 北海道夕張郡角田村栗山(1936年)、北海道夕張郡角田村栗山町(1947年)、北海道夕張郡栗山町(1950年・1953年・1955年)、北海道夕張郡栗山町240(1958年)、北海道夕張郡栗山町(1960年)、北海道夕張郡栗山町240(1963年・1964年)、北海道夕張郡栗山町栗山(1965年)、北海道夕張郡栗山町(1966年・1969年)
開館年 : 大正時代
閉館年 : 1969年3月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「栗山座」。1941年・1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「栗山座」。1955年・1958年の映画館名簿では「栗山映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「栗山映劇」。1964年・1965年・1966年・1969年の映画館名簿では「栗山映画劇場」。1969年の映画館名簿では経営者が松原武吉、支配人が林昌平、木造2階暖房付、定員540、邦画・洋画を上映。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「松原産業」社屋。最寄駅はJR室蘭本線栗山駅。

1909年に新築開館した劇場「栗山座」。1951年に「栗山映画劇場」に改称した。*142

1910年の角田村にあった「栗山座」の写真あり。栗山尋常高等小学校が移転したことで芝居小屋が取り壊されたため、新たに栗山座が建てられた。広い舞台や花道を有しており、芝居、浪花節、活動写真などの興行が行われた。*143

1930年の角田村にあった「栗山座」における童謡舞踏発表会の写真あり。1909年には角田村に「大福座」が開館し、大正時代には演芸場として「栗山館」も建てられた。1930年以前には中越懇話会が経営者となって栗山座に改称した。*144

住宅地図を模した地図「昭和20年前後の栗山」には、「栗山座」と「大福座」が描かれている。*145

夕張郡栗山町240の「栗山映画劇場」。設立は1952年10月。会長は小林米三郎。社長は松原武吉。*146

1955年頃の栗山町にあった「栗山映画劇場」の写真あり。昼近くには栗山映画劇場から流行歌が街中に流れた。栗山市街地には映画館「大福座」もあった。*147

大正時代から昭和初期の栗山市街地には「大福屋」と「栗山座」(旧称は栗山館)があった。大福屋は長澤君治が経営する劇場である。昭和初期には栗山館の経営が村上太作から中越懇話会に移り、栗山座に改称した。1929年には角田市街地に娯楽場「六三四館」(むさし館)が建てられ、月2回程度の興行が行われたが、六三四館は1937年に閉鎖された。戦時中には大福座(大福屋)も栗山座も苦しい経営が続いた。*148

1955年の栗山町中央1丁目にあった「栗山映画劇場」(栗山映劇)の写真あり。1951年、「栗山座」の経営者が中越懇話会から松原武吉と小林米三郎に変わり、栗山映画劇場に改称した。テレビの娯楽番組の普及などの結果、栗山文化劇場と栗山映画劇場の両劇場は1969年3月に休館し、その後営業を再開することはなかった。*149

松原武吉。1912年6月1日生。夕張郡栗山町出身。高等小学校卒。松原産業株式会社社長、札幌果実株式会社社長、富士運動具工業株式会社社長、東邦製袋株式会社社長、日本ハニコームボート株式会社取締役、夕張鉄道株式会社取締役、横山製粉株式会社取締役、北海運送株式会社取締役、栗山商工会議所会頭、日本坑木協会副会長。住所は栗山町栗山231。*150

1968年の栗山町中央1丁目にあった「栗山映画劇場」の外観の写真、映写室の写真、入口の写真あり。『座頭市喧嘩太鼓』ののぼりが見える。大人300円、高校生200円、中学生150円、小学生100円だった。1951年には栗山座が売却されて栗山映画劇場となった。*151

夕張郡由仁町

常盤座
所在地 : 北海道夕張郡由仁村市街地(1936年)、北海道夕張郡由仁村(1950年)、北海道夕張郡由仁町(1953年・1955年・1958年・1960年・1962年)
開館年 : 1911年
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「常盤座」。1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「常盤館」。1953年・1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「常盤座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1911年、由仁村に劇場「常盤座」が落成した。同年5月に撮影された落成記念写真あり。1918年頃の由仁市街地には劇場として常盤座と「由仁館」があった。*152
川端会館
所在地 : 北海道夕張郡由仁町川端(1963年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1963年頃
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「川端会館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
由仁映画劇場/由仁映劇
所在地 : 北海道夕張郡由仁町(1956年)、北海道夕張郡由仁町24(1958年)、北海道夕張郡由仁町(1960年・1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「由仁劇場」。1958年の映画館名簿では「由仁映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「由仁映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
三川劇場
所在地 : 北海道夕張郡由仁町(1953年)、北海道夕張郡由仁町三川(1963年・1964年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「三川劇場」。1958年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1964年の映画館名簿では「三川劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

夕張郡長沼町

長沼座/長沼映劇
所在地 : 北海道夕張郡長沼村市街地(1936年)、北海道夕張郡長沼村(1950年)、北海道夕張郡長沼町(1955年)、北海道夕張郡長沼町中央長沼(1958年・1960年)、北海道夕張郡長沼町(1963年・1964年)
開館年 : 1932年頃、1956年12月26日(移転)
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「長沼座」。1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「長沼座」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「長沼座」。1963年の映画館名簿では「長沼映劇」。1964年の映画館名簿では「長沼映画劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

長沼町には劇場として「宝来座」(大正末期から1935年頃)と「若栄座」(1922年頃から昭和初期頃)があった。1932年から1933年頃、由仁町の石黒興行部によって「長沼座」が建てられた。1962年現在の小原アパートの場所である。*153

1956年12月26日(12月6日?)、長沼町で「長沼座」を経営していた石黒興行部は、銀座区の本通りに新館を建てて「長沼映画劇場」が開館した。こけら落としは東千代之介の『夕日と拳銃』。長沼映画劇場では邦画6社の作品が上映された。1958年には所有者が中村貢に変わった。*154

樺戸郡月形町

月形劇場
所在地 : 北海道樺戸郡月形村大川岸通(1953年)、北海道樺戸郡月形村(1955年)、北海道樺戸郡月形町905(1958年)、北海道樺戸郡月形町(1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「月形劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。

小松末吉。1895年3月23日生。山形県白鷹町出身。月形町会議員。「月形劇場」主。*155

札沼線を背後にして月形町役場が建っているが、この建物はかつての監獄事務所である。役場前の通りをまっすぐに突き当たった場所には「月形劇場」がある。裏手の石狩川河畔にはかつて監獄波止場があり、石狩川を遡った物資が囚人の手で水揚げされた。*156

樺戸郡浦臼町

浦臼座/浦臼劇場
所在地 : 北海道樺戸郡浦臼村(1950年)、北海道樺戸郡浦臼村駅前(1953年・1955年)、北海道樺戸郡浦臼村183(1958年)、北海道樺戸郡浦臼村(1960年・1962年)
開館年 : 1911年
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「浦臼座」。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「浦臼劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1909年4月、二級町村制が施行されて浦臼村が正式な自治体となった。1911年には浦臼市街地(ウラウスナイ)に劇場「浦臼座」が建った。*157

樺戸郡新十津川町

新十津川劇場
所在地 : 北海道樺戸郡新十津川村(1953年)、北海道樺戸郡新十津川村中徳富(1955年)、北海道樺戸郡新十津川町中徳富(1958年)、北海道樺戸郡新十津川町(1960年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「新十津川劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

大正末期、新十津川村橋本町に新十津川初の劇場として「加山劇場」ができた。戦後には中徳富に「木村劇場」が、下徳富に「山香劇場」ができ、その後西徳富に「上中劇場」もできた。*158

1937年の『大日本職業別明細図』には「新十津川村字橋本町市街図」に「劇場」が描かれている。現在の橋本公園グラウンド北東50m付近。*159
下徳富映画劇場/下徳富映劇/下徳富劇場
所在地 : 北海道樺戸郡新十津川村(1953年)、北海道樺戸郡新十津川村下徳富(1955年)、北海道樺戸郡新十津川町(1958年・1960年)、北海道樺戸郡新十津川町下徳富(1963年・1965年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「下徳富劇場」。1958年の映画館名簿では「下徳富映画劇場」。1960年の映画館名簿では「下徳富映劇」。1963年・1965年の映画館名簿では「下徳富劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

大正末期、新十津川村橋本町に新十津川初の劇場として「加山劇場」ができた。戦後には中徳富に「木村劇場」が、下徳富に「山香劇場」ができ、その後西徳富に「上中劇場」もできた。*160

雨竜郡妹背牛町

新富座
所在地 : 北海道雨竜郡妹背牛村(1930年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1930年以後1934年以前
1930年の映画館名簿では「新富座」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。
妹背牛劇場
所在地 : 北海道雨竜郡妹背牛町(1957年・1958年・1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「妹背牛劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
聚楽座/妹背牛聚楽座
所在地 : 北海道雨竜郡妹背牛村(1941年・1950年・1953年・1955年)、北海道雨竜郡妹背牛町1区(1958年・1960年)、北海道雨竜郡妹背牛町(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1933年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1933年開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「聚楽座」。1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「聚楽座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「妹背牛聚楽座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

妹背牛聚楽座を主題とする書籍として、櫻田忠衛『昔、聚楽座があった 映画館でみた映画』かもがわ出版、2010年がある。*161

雨竜郡秩父別町

秩父座
所在地 : 北海道雨竜郡秩父別村筑紫本町(1936年)、北海道雨竜郡秩父別村(1953年・1955年・1958年)、北海道雨竜郡秩父別町(1960年)、北海道雨竜郡秩父別町4101(1963年・1965年)
開館年 : 1930年以後1936年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「秩父座」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「秩父座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

雨竜郡雨竜町

芳恒館
所在地 : 北海道雨竜郡雨竜村市街地(1936年)
開館年 : 1934年以後1936年以前
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「芳恒館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
追分娯楽館
所在地 : 北海道雨竜郡雨竜村石狩追分(1957年・1958年)、北海道雨竜郡雨竜村追分(1960年・1962年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1962年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「追分娯楽館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
雨竜劇場
所在地 : 北海道雨竜郡雨竜村(1941年)、北海道雨竜郡雨竜村字尾白利加(1947年)、北海道雨竜郡雨竜村(1950年)、北海道雨竜郡雨竜村市街地(1953年)、北海道雨竜郡雨竜村(1955年)、北海道雨竜郡雨竜村91(1958年)、北海道雨竜郡雨竜村市街(1960年)、北海道雨竜郡雨竜町(1963年・1965年)
開館年 : 1921年6月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1921年6月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「雨竜劇場」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「雨竜劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「新雨竜第一病院」南西50mのスーパーマーケット「食彩まこと屋」廃墟。最寄駅はJR函館本線江部乙駅。

1937年の『大日本職業別明細図』には「雨竜村市街図」に「劇場」が描かれている。*162

雨竜郡北竜町

和座/和劇場
所在地 : 北海道雨竜郡北竜村字和(1947年)、北海道雨竜郡北竜村(1950年)、北海道雨竜郡北竜村和市街(1953年・1955年・1958年・1960年)、北海道雨竜郡北竜町和(1963年・1965年)
開館年 : 1937年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年の映画館名簿では「和座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「和劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1937年、北竜村の三和産業組合は「和劇場」を買収した。*163

雨竜郡沼田町

浅野小劇場
所在地 : 北海道雨竜郡沼田町(1953年・1955年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「浅野小劇場」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
浅野会館
所在地 : 北海道雨竜郡沼田町(1953年)、北海道雨竜郡沼田町浅野炭山(1958年・1960年・1962年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1962年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「浅野会館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「浅野会館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
沼田座/沼田映劇/沼田劇場
所在地 : 北海道雨竜郡沼田町(1950年・1953年・1955年)、北海道雨竜郡沼田町77(1958年)、北海道雨竜郡沼田町南1-4(1960年)、北海道雨竜郡沼田町(1963年)
開館年 : 1947年12月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年12月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「沼田座」。1953年の映画館名簿では「沼田劇場」。1955年の映画館名簿では「沼田映劇」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「沼田劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

1894年から雨竜原野の開拓に携わった沼田喜三郎は、農地の開墾に加えて製材工場・精米工場・製粉工場なども建てた。1910年開業の沼田駅には駅用地などを寄付し、沼田ホテルや「沼田劇場」なども建てた。1922年4月、上雨竜村は沼田喜三郎の功績を称えて沼田村に改称した。*164
日映劇場
所在地 : 北海道雨竜郡沼田町21(1957年)、北海道雨竜郡沼田町27(1958年)、北海道雨竜郡沼田町117(1960年)、北海道雨竜郡沼田町北1条(1963年・1964年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1964年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「日映劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
信和会館
所在地 : 北海道雨竜郡沼田町(1953年)、北海道雨竜郡沼田町昭和炭山(1955年・1958年・1960年)、北海道雨竜郡沼田町昭和炭田(1963年・1965年)
開館年 : 1944年11月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「信和会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

雨竜郡沼田町の昭和鉱業所の福利施設である「信和会館」。1944年11月建設。1500人収容。*165
沼田文化センター
所在地 : 北海道雨竜郡沼田町(1969年)
開館年 : 1968年頃
閉館年 : 1969年頃
1968年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の映画館名簿では「沼田文化センター」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
ニューテアトル/浅野ニューテアトル
所在地 : 北海道雨竜郡沼田町(1954年・1955年)、北海道雨竜郡沼田町浅野市街(1958年・1960年)、北海道雨竜郡沼田町浅野炭田(1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「ニューテアトル」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「ニュー・テアトル」。1966年・1969年の映画館名簿では「浅野ニューテアトル」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。

1968年11月20日、浅野市街地の「ニューテアトル劇場」で浅野炭鉱の閉山式が開催された。*166

後志総合振興局

島牧郡島牧村

映画館名簿によると北広島市に映画館は存在しなかったと思われる。

寿都郡寿都町

磯谷青年会館
所在地 : 北海道磯谷郡磯谷村(1955年)
開館年 : 1933年7月28日
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「磯谷青年会館」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。

磯谷村大字島古丹村字島古丹50の「磯谷青年会館」。木造平屋建て、75坪。収容人員350。1933年7月28日設立。*167

かつて磯谷村島古丹には「磯谷劇場」があった。2014年現在の星和運輸車庫から磯谷郵便局のあたりにあったとされる。桟敷席や花道を持つ劇場であり、浪曲、映画、学芸会などが催された。*168
寿都座/寿都劇場
所在地 : 北海道寿都郡寿都町96(1936年)、北海道寿都郡寿都町新栄町(1953年・1955年・1958年・1960年)、北海道寿都郡寿都町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1920年9月1日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「寿都座」。1941年・1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「寿都座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「寿都劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「法界寺」北東80mにある「青少年研修会館」駐車場。最寄駅はJR函館本線黒松内駅。

寿都町の「寿都劇場」はもともと「寿都座」という名称だった。寿都座の開館時期は定かではないが、1898年7月31日付の『北海道毎日新聞』には初代寿都座に言及している記事がある。1914年5月27日の大火では寿都座も全焼した。経営者の井原為世は建築費2500円で再建を企て、同年9月1日には2代目寿都座が開館した。1920年6月には竹内岩次郎が経営者となった。やがて桝席から椅子席に改修され、戦後には寿都劇場と呼ばれるようになった。1976年公開の『春琴抄』や1977年公開の『八甲田山』を上映した後、映画館としての歴史を終えた。1978年頃には三原光恵が建物を取得して民宿専業とした。*169

1957年の北日本出版社寿都町市街案内図には「寿都劇場」が描かれている。((山本竜也『続寿都歴史写真集』書肆山住、2021年、pp.34-35)。

寿都町には芝居小屋・映画館「寿都劇場」があった。竹内ミツエは寿都劇場を映画館兼民宿としており、楽屋を部屋としたほか、舞台にも部屋を作って客を泊まらせた。中体連や高体連の催しがあるときには60人も泊めたという。雨漏りがひどくなったため、最終的には隣接地の自宅を改装して客室を移した。2004年の台風18号で屋根が落ちたことを機に解体された。*170

寿都町字新栄町96の「寿都劇場」。木造2階建て、240坪。収容人員430。1920年9月1日設立。*171

寿都町新栄町の「寿都劇場」。1977年閉館。*172

寿都郡黒松内町

黒松内館/黒松内劇場/黒松内座
所在地 : 北海道寿都郡三和村黒松内(1950年)、北海道寿都郡三和村黒松内市街(1953年)、北海道寿都郡三和村黒松内(1955年・1958年・1960年)、北海道寿都郡黒松内町(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1915年
閉館年 : 1970年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「黒松内館」。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「黒松内座」。1963年・1966年の映画館名簿では「黒松内劇場」。1969年・1970年の映画館名簿では「黒松内座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「黒松内郵便局」東南東100mの民家。最寄駅はJR函館本線黒松内駅。

1915年、「黒松内劇場」が開館した。1970年に火災で焼失した。*173

1960年頃の黒松内町にあった「黒松内劇場」周辺の写真あり。大正記念会館の屋根上から映している。左にはクリーニング店があった。煙突は豆腐店のものである。1970年の火災で焼失した。*174

1970年12月、「黒松内劇場」が全焼した。*175

磯谷郡蘭越町

昆布座/昆布劇場
所在地 : 北海道磯谷郡南尻別村(1953年)、北海道磯谷郡南尻別村昆布(1955年)、北海道磯谷郡蘭越町昆布(1958年・1959年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1959年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「昆布座」。1955年・1958年・1959年の映画館名簿では「昆布劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。建物は2022年解体。跡地は「大林寺」北80mの更地。最寄駅はJR函館本線昆布駅。
栄楽座/目名栄楽座
所在地 : 北海道磯谷郡南尻別村中目名(1953年)、北海道磯谷郡南尻別村中目名267(1955年)、北海道磯谷郡蘭越町目名町308(1958年・1960年)、北海道磯谷郡蘭越町目名(1963年)、北海道磯谷郡蘭越町中目名(1966年)
開館年 : 1931年11月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1931年11月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「栄楽座」。1966年の映画館名簿では「目名栄楽座」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
蘭越座/蘭越劇場
所在地 : 北海道磯谷郡南尻別村蘭越(1953年・1955年)、北海道磯谷郡蘭越町蘭越129(1958年)、北海道磯谷郡蘭越町244(1960年・1963年)、北海道磯谷郡蘭越町(1966年・1967年・1968年・1969年・1970年)
開館年 : 1933年10月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1933年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「蘭越座」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年・1968年・1969年・1970年の映画館名簿では「蘭越劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1940年5月10日、蘭越に「蘭越劇場」が設立された。1961年2月9日には蘭越劇場が全焼し、死者1名・負傷者3名を出した。*176*177

1961年2月8日、磯谷郡蘭越町の「蘭越劇場」から出火し、木造モルタル一部2階建てが全焼した。東興業の劇団員である泉広(19歳)が死亡した。原因はストーブの不始末。損害は約1000万円。*178

虻田郡倶知安町

錦座
所在地 : 北海道虻田郡倶知安町(1925年・1930年、1936年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1936年以後1943年以前
1925年の映画館名簿では「錦座」。1927年の映画館名簿には掲載されていない。1930年の映画館名簿では「錦座」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「錦座」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。
布袋座
所在地 : 北海道虻田郡倶知安町(1927年)、北海道虻田郡倶知安町基線通(1936年)
開館年 : 1927年以前
閉館年 : 1936年以後1943年以前
1925年の映画館名簿には掲載されていない。1927年の映画館名簿では「布袋座」。1930年・1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「布袋座」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。
中央劇場/倶知安中央劇場
所在地 : 北海道虻田郡倶知安町(1955年・1958年・1960年)、北海道虻田郡倶知安町北2西1(1963年)、北海道虻田郡倶知安町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1953年10月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1953年10月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「倶知安中央劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
倶知安劇場
所在地 : 北海道虻田郡倶知安町(1947年・1950年・1955年)、北海道虻田郡倶知安町北341(1958年)、北海道虻田郡倶知安町(1960年)、北海道虻田郡倶知安町北3西2(1963年)、北海道虻田郡倶知安町(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1981年)
開館年 : 1944年
閉館年 : 1983年10月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年の映画館名簿では「倶知安劇場」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1981年の映画館名簿では「倶知安劇場」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。1984年の住宅地図では跡地に「シアター倶知安(アキヤ)」。跡地は「栄産ビル」やその南隣の建物。最寄駅は函館本線倶知安駅。

1983年10月、倶知安町の「倶知安劇場」が閉館した。最終上映作品は『時をかける少女』と『探偵物語』。1944年開館の劇場である。*179

虻田郡ニセコ町

狩太町劇場/狩太劇場
所在地 : 北海道虻田郡狩太町駅前(1956年・1958年)、北海道虻田郡狩太町本通10(1960年・1963年)、北海道虻田郡ニセコ町(1966年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1966年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年の映画館名簿では「狩太町劇場」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「狩太劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。

虻田郡喜茂別町

喜茂別映画劇場/喜茂別映劇館/喜茂別劇場
所在地 : 北海道虻田郡喜茂別町306(1956年・1958年)、北海道虻田郡喜茂別町252(1960年・1963年)、北海道虻田郡喜茂別町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年の映画館名簿では「喜茂別劇場」。1960年の映画館名簿では「喜茂別映画劇場」。1963年の映画館名簿では「喜茂別映劇館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「喜茂別劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1953年12月3日午前3時、虻田郡喜茂別町の「喜茂別劇場」から出火し、木造平屋165坪、映写機と発声器、フィルム『魚河岸の石松』が全焼した。ストーブの残り火の不始末が原因。*180

虻田郡京極町

倶知安鉱山会館
所在地 : 北海道虻田郡京極村脇方(1955年)
開館年 : 1941年5月
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1941年5月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「倶知安鉱山会館」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
高砂座/京極高砂座
所在地 : 北海道虻田郡京極村京極(1955年)、北海道虻田郡京極村523(1958年・1960年)、北海道虻田郡京極村(1963年・1966年)
開館年 : 1918年
閉館年 : 1965年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「高砂座」。1966年の映画館名簿では「京極高砂座」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「京極町役場」敷地。最寄駅はJR函館本線倶知安駅。

1918年頃、京極村に岩内町から建物が移築されて「高砂座」が開業した。1919年の京極軽便線開業時の市街写真には高砂座も写っている。1922年には京極村に「新富座」も開業して高砂座と競合したが、1930年には新富座が喜茂別に移って「巴座」に改称した。開館当初の高砂座は株式組織であり、何度も経営者が交代した。戦後には高砂座から「京極劇場」に改称した。1965年には京極町役場の敷地として買収され、約50年の歴史に幕を閉じた。1977年現在の京極町役場の門の場所である。*181

虻田郡真狩村

真狩劇場
所在地 : 北海道虻田郡真狩村106(1960年)、北海道虻田郡真狩村(1963年・1966年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1966年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「真狩劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。

虻田郡留寿都村

留寿都映劇/留寿都劇場
所在地 : 北海道虻田郡留寿都村大通(1961年・1962年・1963年・1964年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1964年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年の映画館名簿では「留寿都映劇」。1962年・1963年・1964年の映画館名簿では「留寿都劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

岩内郡岩内町

二葉座/二葉館
所在地 : 北海道岩内郡岩内町(1930年)、北海道岩内郡岩内町橘町清住3(1936年)、北海道岩内郡岩内町(1943年)、北海道岩内郡岩内町清住町(1950年)、北海道岩内郡岩内町清水(1953年)、北海道岩内郡岩内町清住71(1955年・1958年・1960年)、北海道岩内郡岩内町清住(1963年)、北海道岩内郡岩内町字清住(1965年)
開館年 : 1868年、1907年7月(移転)
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年7月開館。1930年の映画館名簿では「双葉座」。1936年・1943年の映画館名簿では「二葉座」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「二葉座」。1965年の映画館名簿では「二葉館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1867年、岩内町に二葉惣助が劇場を開いた。1907年には「二葉座」が新築移転した。*182

1906年7月、岩内町吹上町の劇場「二葉座」が焼失した。1907年7月、二葉座が新築移転した。移転後の二葉座の写真あり。*183

1916年の岩内町にあった劇場「二葉座」の開業10周年式典の写真あり。二葉座は1896年の火災で焼失したが、1907年に移転して再建され、1916年には開業10周年を迎えた。*184

2018年5月26日から7月8日、岩内町の岩内町郷土館で企画展「岩内の演芸文化」が開催される。1868年に開館した「二葉座」開業150年を記念し、二葉座、「万生座」、「遊楽館」、「東栄劇場」と往時に4館、さらに「岩内ニューシネマ」もあった岩内町の劇場文化を振り返る。*185
万生座/岩内万生座/万生劇場/万生映画劇場/岩内万生映画劇場
所在地 : 北海道岩内郡岩内町鷹台町(1936年)、北海道岩内郡岩内町(1943年)、北海道岩内郡岩内町鷹代(1947年)、北海道岩内郡岩内町万代町(1950年・1953年)、北海道岩内郡岩内町御崎266(1955年)、北海道岩内郡岩内町万代281(1958年)、北海道岩内郡岩内町万代282(1960年・1963年)、北海道岩内郡岩内町万代(1966年・1968年)
開館年 : 1925年6月
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』には掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1943年・1947年の映画館名簿では「万生座」。1950年の映画館名簿の映画館名簿では「岩内万生座」。1953年の映画館名簿では「万生劇場」。1955年の映画館名簿では「万生劇場(火災休館中)」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「万生映画劇場」。1966年・1968年の映画館名簿では「岩内万生映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ホテルエンヴィ新館」。最寄駅はJR函館本線小沢駅。

1925年6月、岩内町に劇場「万生座」が落成した。工費2万円。経営者は万谷太吉と山本利一。*186

1925年、岩内町に劇場「万生座」が新築開館した。*187

1962年の岩内町にあった映画館「万生映画劇場」前で撮られた記念写真あり。1968年まで営業した。*188

1964年頃の岩内町にあった映画館「万生座」周辺の写真あり。国道229号沿いにあり、右隣には時計店、さらに右には古田茶舗が見える。松竹系邦画や洋画の上映館だった。岩内町には劇場・映画館として、1868年開業の「二葉座」、1914年開館の「遊楽館」、1925年開館の万生座、1956年開館の「東映劇場」の4館があった。*189
遊楽館/遊楽映画劇場/岩内遊楽映画劇場
所在地 : 北海道岩内郡岩内町橘町(1936年)、北海道岩内郡岩内町(1950年)、北海道岩内郡岩内町橘町18(1950年)、北海道岩内郡岩内町(1950年・1953年)、北海道岩内郡岩内町万代61(1958年・1960年・1963年)、北海道岩内郡岩内町万代(1966年・1969年)
開館年 : 1916年5月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1916年5月開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1943年・1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「遊楽館」。1955年の映画館名簿では「遊楽館(火災休館中)」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「遊楽映画劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「岩内遊楽映画劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。

1916年6月、岩内町に「遊楽館」が新築落成開館した。岡本庄一、梅沢昇太郎、広瀬藤太郎、菊地嘉助、奥成石太郎の共同経営。*190
東栄劇場/岩内東栄劇場
所在地 : 北海道岩内郡岩内町万代405(1956年・1958年・1960年・1963年)、北海道岩内郡岩内町万代(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年)、北海道岩内郡岩内町万代14-9(1983年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1979年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「東栄劇場」。1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1983年の映画館名簿では「岩内東栄劇場」。1982年の住宅地図では万代14-9の跡地に「東栄食品」1983年の映画館名簿では経営会社が東栄商事、経営者・支配人ともに城崎孝策、木造1階、150席、邦画・洋画を上映。1984年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「岩内マリンホテル」東北東90mの「清寿司本店」。最寄駅はJR函館本線小沢駅。

江戸末期の演芸場に起源を持つ「二葉座」に加えて、「万生映画劇場」、「遊楽映画劇場」、「東栄劇場」と、全盛期の岩内町には映画館が4館あった。1979年に東栄劇場が閉館して映画館がなくなったが、同年8月には東栄劇場の映写技師である藤塚薫が近隣に「ニューシネマ」を開館させた。*191

1972年の岩内町にあった「東映劇場」(※東栄ではなく東映)ポスター貼り場の前を歩く女性の写真あり。「東劇」の文字が見える。高倉健主演作『新網走番外地 嵐呼ぶダンプ仁義』、フランキー堺主演作『喜劇 怪談旅行』などのポスターが見える。*192
岩内ニューシネマ
所在地 : 北海道岩内郡岩内町万代(1980年・1982年)、北海道岩内郡岩内町万代12-7(1983年・1984年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年・2004年)
開館年 : 1979年8月
閉館年 : 2011年頃
1978年の映画館名簿には掲載されていない。1980年・1982年・1983年・1984年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年・2004年の映画館名簿では「岩内ニューシネマ」。1982年の住宅地図では「ニューシネマ」。1984年の映画館名簿では経営会社が岩内ニューシネマ、経営者・支配人ともに藤塚薫、木造1階、81席、邦画・洋画・成人映画を上映。2004年の映画館名簿では経営会社が岩内ニューシネマ、経営者・支配人ともに藤塚薫、木造1階、81席、邦画・洋画を上映。2005年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は「おもない公園」東北東40mに現存。最寄駅はJR函館本線小沢駅。

岩内町万代12-7の「ニューシネマ」(1979年-2013年)。81席。江戸末期の演芸場に起源を持つ「二葉座」に加えて、「万生映画劇場」、「遊楽映画劇場」、「東栄劇場」と、全盛期の岩内町には映画館が4館あった。1979年に東栄劇場が閉館して映画館がなくなったが、同年8月には東栄劇場の映写技師である藤塚薫が近隣に「ニューシネマ」を開館させた。縦9列×横9列の小規模な映画館であり、邦画・洋画を問わず上映した。やがて不定期上映となり、2011年頃に休館した。*193

「岩内ニューシネマ」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*194

岩内郡共和町

七福座
所在地 : 北海道岩内郡小沢村(1950年・1953年・1955年)、北海道岩内郡共和村小沢(1957年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1957年頃
『全国映画館総覧 1955』には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「双葉座」。1950年・1953年・1955年・1957年の映画館名簿では「七福座」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。

古宇郡泊村

茅沼炭鉱クラブ
所在地 : 北海道古宇郡泊村茅沼(1954年・1955年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「茅沼炭鉱クラブ」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
茅沼劇場
所在地 : 北海道古宇郡泊村茅沼(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「茅沼劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

古宇郡神恵内村

映画館名簿によると古宇郡神恵内村に映画館は存在しなかったと思われる。

積丹郡積丹町

美国座
所在地 : 北海道美国郡美国町美国港(1930年)、北海道美国郡美国町(1936年・1953年・1955年)、北海道積丹郡積丹町(1958年・1960年)、北海道積丹郡積丹町美国(1963年)、北海道積丹郡積丹町字美国(1966年・1969年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年・1936年の映画館名簿では「美国座」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「美国座」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。

1899年、大倉太治兵衛によって劇場「大倉座」が落成した。大倉座は「美国座」の前身である。1937年には美国座の付近から出火し、市街地の約70棟が類焼した。*195

古平郡古平町

オリオン座
所在地 : 北海道古平郡古平町新地町42(1955年)、北海道古平郡古平町新地町41(1958年)、北海道古平郡古平町新地42(1960年)、北海道古平郡古平町新地(1961年)
開館年 : 1951年11月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年11月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「オリオン座」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。

1951年10月15日、古平町の「オリオン座」が落成して開館披露された。*196

1954年頃の古平町にあった「オリオン座」と「古平劇場」の看板の写真あり。『君の名は』、松竹作品『きんぴら先生とお嬢さん』、『独眼竜政宗』、『丹下左膳』、東映作品『薔薇と拳銃』、東映作品『急襲桶狭間』の看板が見える。*197
古平劇場
所在地 : 北海道古平郡古平町浜町(1954年・1955年・1958年)、北海道古平郡古平町浜(1960年)、北海道古平郡古平町浜町(1963年)、北海道古平郡古平町(1966年)
開館年 : 1938年頃
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「古平劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。

1938年頃の古平町にあった「古平劇場」の写真あり。1938年11月7日に上棟式が行われた。1959年にはNHKの「この声百万ドル」の収録が行われた。*198

1946年、古平町の「古盛座」が改築されて「新盛劇場」となった。1950年10月29日、「古平劇場」で宝塚歌劇団の公演が行われた。*199

1954年頃の古平町にあった「オリオン座」と「古平劇場」の看板の写真あり。『君の名は』、松竹作品『きんぴら先生とお嬢さん』、『独眼竜政宗』、『丹下左膳』、東映作品『薔薇と拳銃』、東映作品『急襲桶狭間』の看板が見える。*200

余市郡余市町

余市座/余市館
所在地 : 北海道余市郡余市町(1930年)、北海道余市郡余市町大川町(1936年・1941年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1941年以後1943年以前
1930年・1936年の映画館名簿では「余市座」。1941年の映画館名簿では「余市館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。
恵比須座/新映劇場
所在地 : 北海道余市郡余市町富沢町(1936年)、北海道余市郡余市町大字富沢町(1950年)、北海道余市郡余市町富沢町(1953年・1955年・1958年)、北海道余市郡余市町富沢5(1960年・1962年)
開館年 : 1930年以後1936年以前
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「恵比寿座」。1941年・1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「恵比寿座」。1953年・1955年の映画館名簿では「恵比須座」。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「新映劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
昭和座/大黒座/銀映座/余市電気館
所在地 : 北海道余市郡余市町黒川町(1936年・1941年・1947年・1950年・1953年)、北海道余市郡余市町黒川町765(1955年)、北海道余市郡余市町黒川町2丁目(1958年)、北海道余市郡余市町黒川2(1960年)、北海道余市郡余市町黒川町2(1960年)
開館年 : 1927年
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1927年開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年の映画館名簿では「昭和座」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年の映画館名簿では「昭和座」。1953年の映画館名簿では「大黒座」。1955年の映画館名簿では「銀映座」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「余市電気館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
余市劇場/余市映画劇場/余市映劇
所在地 : 北海道余市郡余市町大川町(1953年・1955年)、北海道余市郡余市町大川町4丁目(1958年)、北海道余市郡余市町大川4(1960年)、北海道余市郡余市町大川町4(1963年)、北海道余市郡余市町大川町(1966年・1969年)、北海道余市郡余市町大川(1970年)
開館年 : 1950年8月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1950年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「余市劇場」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「余市映画劇場」。1969年・1970年の映画館名簿では「余市映劇」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

余市郡仁木町

井形座
所在地 : 北海道余市郡仁木村(1950年)、北海道余市郡仁木町(1953年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1953年頃
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「井形座」。1954年の映画館名簿には掲載されていない。

余市郡赤井川村

映画館名簿によると余市郡赤井川村に映画館は存在しなかったと思われる。

胆振総合振興局

登別市

幌別映画劇場/幌別映劇
所在地 : 北海道幌別郡幌別村本町(1947年・1950年)、北海道幌別郡幌別村幌別(1953年)、北海道幌別郡幌別町(1955年・1958年・1960年・1962年)
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年の映画館名簿では「幌別映画劇場」。1953年の映画館名簿では「幌別映劇」。1955年の映画館名簿では「幌別映画劇場」。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「幌別映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
幌別公楽劇場/幌別公楽映画劇場/公楽映画劇場
所在地 : 北海道幌別郡幌別町十字街(1957年)、北海道幌別郡幌別町本町234(1958年)、北海道幌別郡幌別町本町(1960年)、北海道幌別郡登別町本町(1963年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1963年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「幌別公楽劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「幌別公楽映画劇場」。1963年の映画館名簿では「公楽映画劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
登別映劇/登別映画劇場
所在地 : 北海道幌別郡幌別村登別温泉(1943年)、北海道幌別郡幌別村登別温泉36(1947年)、北海道幌別郡幌別村登別(1950年)、北海道幌別郡幌別町登別温泉(1953年・1955年・1958年・1960年)、北海道幌別郡登別町(1963年・1964年)
開館年 : 1943年6月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1943年6月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「登別映画劇場」。1955年の映画館名簿では「登別映劇」。1958年の映画館名簿では「登別映画劇場」。1960年の映画館名簿では「登別映劇」。1963年・1964年の映画館名簿では「登別映画劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
幌別新映座/新映座
所在地 : 北海道幌別郡幌別町(1955年)、北海道幌別郡幌別町257(1958年)、北海道幌別郡幌別町(1960年)、北海道幌別郡登別町来馬257(1963年)、北海道幌別郡登別町来馬(1965年)
開館年 : 1953年6月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年6月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「新映座」。1963年の映画館名簿では「幌別新映座」。1965年の映画館名簿では「新映座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

登別町中央町は2021年現在のらいば公園やアーニスを中心とするエリアである。登別町で最もにぎわう商業地区であり、パチンコ店、スマートボール場、卓球場、ローラースケート場、2館の映画館などがあった。1965年には登別町初のデパートであるダイヤデパートが開店し、西胆振初のエスカレーターも設置された。ダイヤデパートの向かいには総合食料品店のプリントスマートがあったが、プリントスマートの前身は映画館「新映座」である。*201
鷲別映劇/鷲別劇場
所在地 : 北海道幌別郡幌別村鷲別(1947年・1950年)、北海道幌別郡幌別町鷲別(1953年)、北海道幌別郡登別町鷲別(1963年・1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1968年頃
1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「鷲別映劇」。1950年・1953年の映画館名簿では「鷲別劇場」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「鷲別劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

1959年11月2日午前1時頃、幌別郡幌別町字鷲別94の「鷲別映画劇場」映写室付近から出火し、木造モルタル約225平方メートルが半焼した。残り火の不始末が原因とみられる。損害額は約100万円。経営は山口栄一。*202

1959年11月2日、幌別郡幌別町の「鷲別映画劇場」が全焼した。原因は残火の不始末。*203

伊達市

有珠会館/有珠劇場
所在地 : 北海道有珠郡伊達町有珠(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「有珠会館」。1963年の映画館名簿では「有珠劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
共栄座/伊達劇場/中央劇場/伊達中央劇場
所在地 : 北海道有珠郡伊達町錦町105(1936年)、北海道有珠郡伊達町錦町105(1947年)、北海道有珠郡伊達町(1950年)、北海道有珠郡伊達町錦町(1953年・1955年)、北海道有珠郡伊達町錦町105(1958年)、北海道有珠郡伊達町錦町(1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1930年以後1936年以前
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「伊達劇場」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「共栄座」と「伊達劇場」(※重複記載か)。1955年の映画館名簿では「伊達劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「中央劇場」。1963年・1964年の映画館名簿では「伊達中央劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

昭和初期の伊達町にあった「共栄座」の写真あり。共栄座から「伊達劇場」に改築中の写真あり。昭和30年代の伊達劇場の写真あり。*204
文化劇場/伊達文化劇場
所在地 : 北海道有珠郡伊達町網代町(1960年・1963年)、北海道有珠郡伊達町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「文化劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「伊達文化劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
伊達道南劇場/道南劇場
所在地 : 北海道有珠郡伊達町山下町(1955年)、北海道有珠郡伊達町107(1958年)、北海道有珠郡伊達町105(1960年)、北海道有珠郡伊達町(1963年・1966年・1969年)、北海道伊達市山下町(1973年・1975年・1978年・1980年・1982年)
開館年 : 1953年7月
閉館年 : 1982年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年7月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「道南劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「伊達道南劇場」。1963年の映画館名簿では「道南劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「伊達道南劇場」。1975年・1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「道南劇場」。1982年の映画館名簿では経営者・支配人ともに猪股豊次、木造1階、250席、邦画・洋画を上映。1983年の映画館名簿には掲載されていない。建物は「伊達警察署駅前交番」北北西120mに現存。最寄駅はJR室蘭本線伊達紋別駅。

虻田郡洞爺湖町

入江劇場
所在地 : 北海道虻田郡虻田町入江20(1953年)、北海道虻田郡虻田町入江(1954年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1954年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1954年の映画館名簿では「入江劇場」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。
万歳座/虻田映画劇場/虻田映劇
所在地 : 北海道虻田郡虻田町(1950年)、北海道虻田郡虻田町本町14(1953年)、北海道虻田郡虻田町本町(1955年・1960年)、北海道虻田郡虻田町(1969年・1970年)
開館年 : 1914年、1952年(建て替え)、1959年頃(建て替え)
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「万歳座」。1955年の映画館名簿では「虻田映画劇場」。1960年の映画館名簿では「虻田映劇」。1969年・1970年の映画館名簿では「虻田映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1934年の『大日本職業別明細図』には「虻田村」に「虻田劇場」が描かれている。現在の旬菜 和付近と思われる。*205

1959年3月11日には虻田町で大火が起こり、42戸が焼失、226人が被災した。火元は「虻田映画劇場」であり、風速7〜10mの強風に乗って漁業集落が延焼した。*206

1959年3月31日午前3時頃、虻田郡虻田町字本町の「虻田映画劇場」から出火し、同劇場と付近の民家46戸が全焼した。邦洋混映。木造2階建て。定員500人。原因と損害額は調査中。経営者は山本庄太郎。*207

1959年3月11日、虻田郡虻田町字本町の「虻田映劇」が全焼した。原因は不明。*208

虻田町初の劇場は1914年に建てられた「万歳座」である。万歳座の場内は畳敷きであり、500人から600人を収容した。1952年には建て替えて「虻田映画劇場」となった。『君の名は』や『喜びも悲しみも幾年月』などがヒットした。1959年には火災に遭ったが、虻田映画劇場が再建された頃には「公楽館」とともに2館が競合することとなった。閉館後の建物は商店や飲食店にも活用された。*209

虻田郡豊浦町

豊浦劇場
所在地 : 北海道虻田郡豊浦町(1950年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1950年以後1953年以前
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「豊浦劇場」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。

豊浦町には川原直吉が経営する「礼文華劇場」が建てられた。1978年現在の生活館の場所である。*210
北光座
所在地 : 北海道虻田郡豊浦町幸町87(1953年)、北海道虻田郡豊浦町幸町(1955年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1955年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「北光座」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
大岸座
所在地 : 北海道虻田郡豊浦町大岸(1953年・1955年・1957年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1957年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1957年の映画館名簿では「大岸座」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。

有珠郡壮瞥町

滝の下青年会館/青年会館
所在地 : 北海道有珠郡壮瞥村(1954年)、北海道有珠郡壮瞥村久保内(1955年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年の映画館名簿では「滝の下青年会館」。1955年の映画館名簿では「青年会館」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。

白老郡白老町

白老劇場
所在地 : 北海道白老郡白老村市街(1950年)、北海道白老郡白老村白老(1953年)、北海道白老郡白老町(1955年)、北海道白老郡白老町155(1958年)、北海道白老郡白老町(1960年・1962年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「白老劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
大昭和娯楽館/萩野大昭和娯楽館
所在地 : 北海道白老郡白老町荻野(1964年)、北海道白老郡白老町(1966年)
開館年 : 1963年頃
閉館年 : 1966年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の映画館名簿では「大昭和娯楽館」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「萩野大昭和娯楽館」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
白老新映座
所在地 : 北海道白老郡白老町(1960年)、北海道白老郡白老町大町100(1963年)、北海道白老郡白老町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「白老新映座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

勇払郡厚真町

上厚真会館/上厚真公民館
所在地 : 北海道勇払郡厚真村上厚真(1954年・1955年・1958年・1959年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1959年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年・1958年の映画館名簿では「上厚真会館」。1959年の映画館名簿では「上厚真公民館」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。
北辰館/厚真有楽館
所在地 : 北海道勇払郡厚真村厚真(1954年・1955年・1958年・1960年)、北海道勇払郡厚真町(1963年)、北海道勇払郡厚真町京町(1965年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「北辰館」。1963年・1965年の映画館名簿では「厚真有楽館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

勇払郡むかわ町

娯楽場
所在地 : 北海道勇払郡鵡川村(1947年・1950年)
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1950年以後1953年以前
1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年の映画館名簿では「娯楽場」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。
富内劇場/富内映劇
所在地 : 北海道勇払郡穂別村富内(1959年・1960年・1962年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1962年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「富内劇場」。1960年・1962年の映画館名簿では「富内映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
共楽館
所在地 : 北海道勇払郡厚真村(1954年)、北海道勇払郡鵡川町(1955年・1958年・1960年・1962年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「共楽館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
穂別劇場/穂別中央劇場/穂別中央館
所在地 : 北海道勇払郡穂別村穂別(1953年)、北海道勇払郡穂別村(1955年・1958年・1960年)、北海道勇払郡穂別町(1963年・1964年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「穂別劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「穂別中央劇場」。1964年の映画館名簿では「穂別中央館」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
鵡川劇場/鵡川映劇/鵡川映画劇場
所在地 : 北海道勇払郡鵡川町124(1953年)、北海道勇払郡鵡川町(1955年)、北海道勇払郡鵡川町124(1958年)、北海道勇払郡鵡川町(1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「鵡川劇場」。1955年の映画館名簿では「鵡川映劇」。1958年の映画館名簿では「鵡川映画劇場」。1960年の映画館名簿では「鵡川映劇」。1963年・1965年の映画館名簿では「鵡川映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

勇払郡安平町

早来館/早来双葉劇場
所在地 : 北海道勇払郡安平村早来(1955年)、北海道勇払郡早来町早来(1958年・1960年)、北海道勇払郡早来町(1963年)
開館年 : 1909年
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「早来館」。1963年の映画館名簿では「早来双葉劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

1909年、早来市街地に劇場「早来館」が設立された。*211
都座/追分都座/追分映劇/追分劇場/追分映画劇場
所在地 : 北海道勇払郡安平村追分町市街地(1941年)、北海道勇払郡安平村追分町市街(1947年)、北海道勇払郡安平村追分(1950年・1953年・1955年)、北海道勇払郡追分町(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1921年5月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「都座」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「都座」。1950年の映画館名簿では「追分都座」。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「追分映画劇場」。1960年の映画館名簿では「追分映劇」。1963年の映画館名簿では「追分劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「追分映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

追分市街地には劇場「追分座」があった。追分座の開館年は定かでないが、1913年には追分青年会が窮民救済のために追分座で慈善演芸会を開催している。1920年8月には北海タイムス社が主催する活動写真上映会が開催され、800人の観客を集めて盛況だった。追分座は1921年1月2日に全焼したが、同年5月、劇場が新築されて「都座」が開館した。*212

日高振興局

沙流郡日高町

東陽座/東陽劇場
所在地 : 北海道沙流郡門別村厚保賀(1953年)、北海道沙流郡門別町字厚賀(1955年・1958年・1960年)、北海道沙流郡門別町厚賀(1963年・1965年)
開館年 : 1951年1月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年1月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「東洋座」。1955年の映画館名簿では「東陽座」。1958年の映画館名簿では「東陽劇場」。1960年の映画館名簿では「東陽座」。1963年・1965年の映画館名簿では「東陽劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
青宝館/門別青宝館
所在地 : 北海道沙流郡門別村局前(1953年)、北海道沙流郡門別町本町(1955年・1958年・1960年・1963年)、北海道沙流郡門別町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1951年9月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年9月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「青宝館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「門別青宝館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
富川映劇/富川劇場/富川映画劇場/富川文化劇場
所在地 : 北海道沙流郡門別村富川(1953年)、北海道沙流郡門別町字富川(1955年)、北海道沙流郡門別町字富川町(1958年)、北海道沙流郡門別町富川町(1960年)、北海道沙流郡門別町富川(1963年)、北海道沙流郡門別町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1931年4月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1931年4月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「富川映画劇場」。1960年の映画館名簿では「富川映劇」。1963年の映画館名簿では「富川劇場」。1966年の映画館名簿では「富川映画劇場」。1969年・1970年の映画館名簿では「富川文化劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「日高町立富川公会堂」。最寄駅はJR日高本線鵡川駅。

1934年の『大日本職業別明細図』「佐瑠太市街図」には「佐瑠太劇場」が描かれている。現在の日高町立富川公会堂の場所と思われるが地図の精度が低いため正確な場所は不明。*213
ひだか公楽/日高公楽館/公楽館/日高公楽劇場
所在地 : 北海道沙流郡日高村(1962年)、北海道沙流郡日高町日高(1963年・1964年)、北海道沙流郡日高町(1965年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の映画館名簿では「日高公楽劇場」。1963年の映画館名簿では「ひだか公楽」と「日高公楽劇場」。1964年の映画館名簿では「日高公楽館」。1965年の映画館名簿では「公楽館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「日高公楽劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
日高劇場
所在地 : 北海道沙流郡日高村日高(1958年・1960年)、北海道沙流郡日高町日高(1963年)、北海道沙流郡日高町(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1980年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「ニュー・センター」。1963年の映画館名簿では「映劇ニューセンター」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「日高劇場」。1981年の映画館名簿には掲載されていない。

沙流郡平取町

振内劇場
所在地 : 北海道沙流郡平取村振内(1953年)、北海道沙流郡平取村字振内(1955年)、北海道沙流郡平取町字振内(1958年・1960年)、北海道沙流郡平取町振内(1963年)、北海道沙流郡平取町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1947年1月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1947年1月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「振内劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
新映館/平取劇場/平取新生劇場/平取新星映画劇場
所在地 : 北海道沙流郡平取村字平取(1955年)、北海道沙流郡平取町字平取(1958年・1960年)、北海道沙流郡平取町平取(1963年)、北海道沙流郡平取町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1953年6月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1953年6月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「新映館」。1958年・1960年の映画館名簿では「平取劇場」。1963年の映画館名簿では「平取新生劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「平取新星映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1934年の『大日本職業別明細図』「平取村市街図」には「平取座」が描かれている。現在のホテル駿北西20mの駐車場付近と思われるが、地図の精度が低いため正確な場所は不明。*214

新冠郡新冠町

新冠劇場
所在地 : 北海道新冠郡新冠村駅前(1953年)、北海道新冠郡新冠村新冠(1954年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1954年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1954年の映画館名簿では「新冠劇場」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。
公映館
所在地 : 北海道新冠郡新冠村(1960年・1962年)
開館年 : 1957年
閉館年 : 1962年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「公映館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1957年、新冠村に山口嘉雄が経営する「公映館」が開館した。新冠市街地初の映画館であり、毎日上映を行った。1963年には静内町の「静宝館」を経営する高橋某が公映館の経営者となった。新冠公映館と節婦劇場の写真あり。*215

1975年頃の新冠町本町にあった「公映館」の写真あり。秋山理容所の文字が見える。1957年に山口嘉雄によって開館した。宣伝カーが市街地を走った。昭和40年代には観客数が減少し、昭和50年代初頭に閉館した。*216
節婦劇場
所在地 : 北海道新冠郡新冠村節婦(1953年)、北海道新冠郡新冠村字節婦(1955年・1958年・1960年)、北海道新冠郡新冠町節婦(1963年)、北海道新冠郡新冠町字節婦(1965年)
開館年 : 1928年、1940年2月(移転)
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1940年2月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「節婦劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1928年竣工の映画館「遊楽館」。所在地は新冠町節婦。新冠町初の映画館であり、中山政市が経営した。1940年、遊楽館を移転新築して「節婦劇場」に改称した。中山道行(※道は原文ママ)が経営した。*217

漁業の最盛期だった1928年、新冠村節婦の小学校通りに中山政市によって「遊楽館」が開館した。新冠村初の映画館である。中山政市は旅館の節婦館や銭湯の白山湯の経営者でもあった。1940年には現在地に移転して「節婦劇場」に改称した。その後息子の中山直行が経営者となった。*218

1953年頃の新冠村節婦町にあった「節婦劇場」の写真あり。1929年、中山政市が節婦に新冠村初の映画館として「有楽館」を開館させた。1940年には移築して節婦劇場に改称し、やがて中山直行が経営者となった。1970年まで営業していた。*219

浦河郡浦河町

銀映座
所在地 : 北海道浦河郡浦河町堺町(1955年・1958年・1960年・1963年)、北海道浦河郡浦河町(1964年)
開館年 : 1954年8月3日
閉館年 : 1963年10月末頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年8月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「銀映座」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

1954年8月3日、浦河町堺町に「銀映座」が開館した。2013年現在の堺町東1丁目である。主導者は西口吉郎、三上政義、和田柳雄の3人であり、浦河町における3館目の映画館だった。。三上は「大黒座」の跡取りであり、「大衆館」を買収して「セントラル劇場」とした人物でもある。西口は西口商店を経営し、和田は土建業を営んでいた。戦後の堺町が急速に発展していた。お披露目興行は東映作品『花と竜』であり、同時公開は『大江戸六人衆』だった。同じ日には大黒座が新築1周年記念特別興行を行った。1959年夏の皇太子ご成婚を機にテレビが普及し、映画観客数は減少していった。1963年10月末、新聞の映画案内から銀映座が姿を消した。1978年にはセントラル劇場も閉館した。*220
大衆館/セントラル映画劇場/セントラル映劇/浦河セントラル映画劇場
所在地 : 北海道浦河郡浦河町(1947年・1950年)、北海道浦河郡浦河町大通5(1953年)、北海道浦河郡浦河町大通り2丁目(1955年)、北海道浦河郡浦河町大通5-1(1958年)、北海道浦河郡浦河町大通5(1960年)、北海道浦河郡浦河町大通(1963年)、北海道浦河郡浦河町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1943年以後1947年以前、1950年8月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1950年8月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年の映画館名簿では「大衆館」。1953年の映画館名簿では「セントラル映劇」。1955年の映画館名簿では「セントラル映画劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「セントラル映劇」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「浦河セントラル映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
浦河大黒座
所在地 : 北海道浦河郡浦河町(1947年・1950年)、北海道浦河郡浦河町大通2(1953年)、北海道浦河郡浦河町大通2丁目(1955年)、北海道浦河郡浦河町2-18(1958年)、北海道浦河郡浦河町大通(1960年・1963年)、北海道浦河郡浦河町(1964年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年)、北海道浦河郡浦河町大通2丁目(1985年・1990年)、北海道浦河郡浦河町大通2丁目18(2000年・2005年・2010年・2015年・2020年・2022年)
開館年 : 1918年9月1日、、1953年(建て替え)、1994年12月1日(建て替え)
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 大黒座
『全国映画館総覧 1955』によると1918年12月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「大国館」。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「大黒座」。1964年の映画館名簿では経営者が三上興行、支配人が三上康男、木造1階暖房付、定員369、邦画を上映。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1994年の映画館名簿では「浦河大黒座」。1994年の映画館名簿では経営会社が三上興行、経営者・支配人ともに三上政義、木造1階、200席、邦画・洋画を上映。1995年の映画館名簿には掲載されていない。1996年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年・2022年の映画館名簿では「浦河大黒座」。1996年の映画館名簿では経営会社が三上興業、経営者が三上政義、支配人が三上雅弘、木造1階、48席、邦画・洋画を上映。2022年の映画館名簿では経営会社が三上興行、経営者・支配人ともに三上雅弘、48席。

1934年の『大日本職業別明細図』「浦河町市街図」には「大黒屋」(※原文ママ)が描かれている。*221

1934年の浦河町にあった「大黒座」における正月興行の写真あり。大正中頃の浦河町には唯一の芝居小屋として「浦栄座」(ほうえいざ)があったが老朽化していた。風呂屋を経営していた木谷五三郎は1918年に大黒座を建て、映画、浪曲、講談、芝居などの興行を行った。1992年現在、大黒座は1923年生まれの三上政義が経営を続けている。*222

浦河町にあった「大黒座」の写真あり。弁士の楓一朗が活躍した1930年頃から1935年頃のものである。*223

村松友視『黄昏のムービー・パレス』には、「浦河大黒座」に関する随筆が掲載されている。*224

「浦河大黒座」に言及している書籍として、阿奈井文彦『名画座時代 消えた映画館を探して』岩波書店、2006年がある。*225

「浦河大黒座」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*226

様似郡様似町

様似座
所在地 : 北海道様似郡様似村(1950年)、北海道様似郡様似村様似(1953年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1952年11月10日
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「様似座」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。

1952年11月10日深夜、様似郡様似町の様似座が全焼した。*227
様似錦座/錦座/錦映館/銀映館
所在地 : 北海道様似郡様似村(1950年・1953年)、北海道様似郡様似町本様似(1955年)、北海道様似郡様似町(1958年・1960年・1962年)
開館年 : 1947年以後1950年以前、1954年5月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年5月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「様似錦座」。1953年の映画館名簿では「錦座」。1955年の映画館名簿では「錦映館」。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「銀映館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
エンゼル館/エンゼル/様似エンゼル館
所在地 : 北海道様似郡様似町(1962年)、北海道様似郡様似町153(1963年)、北海道様似郡様似町(1966年)
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 1966年頃
1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の映画館名簿では「エンゼル館」。1963年の映画館名簿では「エンゼル」。1966年の映画館名簿では「様似エンゼル館」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
寿館/様似寿館
所在地 : 北海道様似郡様似町東様似(1955年)、北海道様似郡様似町(1958年)、北海道様似郡様似町162(1960年)、北海道様似郡様似町262(1963年)、北海道様似郡様似町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1953年11月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1953年11月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「寿館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「様似寿館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

幌泉郡えりも町

松川座/新映館
所在地 : 北海道幌泉郡幌泉村(1947年・1950年)、北海道幌泉郡幌泉村26(1953年・1955年・1958年)、北海道幌泉郡幌泉町(1960年・1962年)
開館年 : 1943年以後1947年以前、1953年9月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年9月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「松川座」。1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「新映館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

幌泉町では「第一公映ホール」と沢町の「新映館」が競合していた。昭和30年代の新映館の写真あり。*228
第一公映ホール/幌泉第一公映ホール
所在地 : 北海道幌泉郡幌泉町(1960年)、北海道幌泉郡幌泉町177(1963年)、北海道幌泉郡幌泉町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1959年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「第一公映ホール」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「幌泉第一公映ホール」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1959年、幌泉町に「第一公映ホール」が建てられた。カネサ吉田商事の店舗の2階にあり、地下にはダンスホールもあった。カネサ吉田商事の3代目社長は吉田正治であり、後に3代目勘之助を襲名して幌泉町長となっている。第一公映ホールを建てたのは、清水建設の本社に勤務経験のある富越誠也である。新潟県選出の衆議院議員である田中彰治は第一公映ホールを訪れたことがあり、その縁で富越誠也は田中彰治の田中牧場事務所の建設などにも携わった。*229

日高郡新ひだか町

静内劇場
所在地 : 北海道静内郡静内町古川町(1941年)、北海道静内郡静内町(1947年・1950年)
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1950年以後1953年以前
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1947年・1950年の映画館名簿では「静内劇場」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。
東静座
所在地 : 北海道静内郡静内町字東静内(1955年)、北海道静内郡静内町東静内(1958年・1960年・1962年)
開館年 : 1952年10月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年10月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「東静座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
春立劇場
所在地 : 北海道静内郡静内町春立(1953年)、北海道静内郡静内町字春立(1955年・1958年・1960年)、北海道静内郡静内町春立(1962年)
開館年 : 1953年6月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年6月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「春立劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
歌笛館
所在地 : 北海道三石郡三石村(1950年)、北海道三石郡三石町歌笛(1953年)、北海道三石郡三石町字歌笛(1955年・1958年・1960年)、北海道三石郡三石町歌笛(1963年・1965年)
開館年 : 1950年2月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年2月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「歌笛館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
三石劇場/三石演芸場
所在地 : 北海道三石郡三石町本町(1953年・1955年)、北海道三石郡三石町18(1958年・1960年)、北海道三石郡三石町(1963年・1964年)
開館年 : 1936年1月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1936年1月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「三石演芸場」。1963年の映画館名簿では「三石劇場」。1964年の映画館名簿では「三石演芸場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

1934年の『大日本職業別明細図』「三石村市街図」には「劇場」が描かれている。現在のベスト電器三石店西側付近と思われるが、地図の精度が低いため正確な場所は不明。*230
静内シネマ/静宝シネマ
所在地 : 北海道静内郡静内町本町(1963年)、北海道静内郡静内町(1966年・1969年・1973年)、北海道静内郡静内町本町(1975年・1976年・1977年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1977年頃
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「静内シネマ」。1976年・1977年の映画館名簿では「静宝シネマ」。1977年の映画館名簿では経営会社が静宝商事、経営者・支配人ともに高橋博幸、鉄筋造1階暖房付、199席、洋画・成人映画を上映。1978年の映画館名簿には掲載されていない。
静宝館/静内静宝館
所在地 : 北海道静内郡静内町本町(1953年・1955年・1958年)、北海道静内郡静内町(1960年)、北海道静内郡静内町本町(1963年)、北海道静内郡静内町(1966年・1969年・1973年)、北海道静内郡静内町本町(1975年・1978年・1980年・1981年)
開館年 : 1950年6月
閉館年 : 1981年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年6月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「静宝館」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1981年の映画館名簿では「静内静宝館」。1981年の映画館名簿では経営会社が静宝商事、経営者が高橋博幸、支配人が中西忠良、木造1階、549席、東映・洋画・成人映画を上映。1982年の映画館名簿には掲載されていない。
静内文化映劇/静内文化劇場
所在地 : 北海道静内郡静内町吉野町(1953年・1955年・1958年・1960年)、北海道静内郡静内町吉野(1963年)、北海道静内郡静内町(1966年・1969年・1973年)、北海道静内郡静内町吉野町(1975年・1978年・1980年・1985年)、北海道静内郡静内町吉野町2丁目(1990年・1995年・2000年・2005年・2006年)
開館年 : 1950年6月
閉館年 : 2006年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年6月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「静内文化映劇」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2006年の映画館名簿では「静内文化劇場」。2006年の映画館名簿では経営会社が文化興業、経営者が落合敏博、支配人が落合俊英、木造1階、270席、邦画・洋画を上映。2007年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「北央信用組合静内支店」北東150mの吉野町2丁目有料駐車場。最寄駅はJR日高本線鵡川駅。

静内郡静内町にある「静宝館」と「文化劇場」の写真あり。いずれも1950年に開館した。*231

1951年、静内郡静内町に「文化劇場」と「静宝館」が設置された。*232

静内郡静内町の「文化劇場」と「静宝館」は1950年に開館した。文化通りと静宝通りの写真あり。*233

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