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長崎市は長崎市の映画館を参照。
佐世保市は佐世保市の映画館を参照。
所在地 : 長崎県西彼杵郡時津町(1956年)、長崎県西彼杵郡時津町455(1958年)、長崎県西彼杵郡時津町(1960年)、長崎県西彼杵郡時津町浦郷45(1963年)、長崎県西彼杵郡時津町浦郷455(1964年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1964年頃
跡地は「十八親和銀行時津中央支店」建物西側。最寄駅はJR長崎本線道ノ尾駅。
1961年頃の時津町にあった「時津映画劇場 笑栄館」の写真あり。同年公開の『鳳来先生』と『反逆児』のポスターが見える。2018年現在の親和銀行時津支店付近にあった。*1
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1964年頃
跡地は「十八親和銀行時津中央支店」建物西側。最寄駅はJR長崎本線道ノ尾駅。
1961年頃の時津町にあった「時津映画劇場 笑栄館」の写真あり。同年公開の『鳳来先生』と『反逆児』のポスターが見える。2018年現在の親和銀行時津支店付近にあった。*1
所在地 : 長崎県平戸市前津吉町(1958年)
開館年 : 大正時代以前
閉館年 : 1958年頃
映画館の建物は「津吉保育所」北北東170mに現存。最寄駅は松浦鉄道線たびら平戸口駅。
『長崎県の近代和風建築 近代和風建築総合調査報告書』長崎県教育委員会、2004年は前津吉町にあった映画館について言及している。現物は未確認。*2
開館年 : 大正時代以前
閉館年 : 1958年頃
映画館の建物は「津吉保育所」北北東170mに現存。最寄駅は松浦鉄道線たびら平戸口駅。
『長崎県の近代和風建築 近代和風建築総合調査報告書』長崎県教育委員会、2004年は前津吉町にあった映画館について言及している。現物は未確認。*2
所在地 : 長崎県北松浦郡平戸町(1943年)、長崎県北松浦郡平戸町築地町(1950年)、長崎県北松浦郡平戸町(1953年・1955年)、長崎県平戸市築地町(1958年・1959年・1960年・1963年)
開館年 : 1916年4月
閉館年 : 1963年頃
映画館の建物は「平戸郵便局」南西60mに「三共物産倉庫」として現存。最寄駅は松浦鉄道線たびら平戸口駅。
1916年1月10日、平戸町に劇場「恵比須座」が開場した。*3
1916年1月、平戸町に劇場「恵比須座」が開場した。*4
1916年1月、平戸町に劇場「恵比須座」が開場した。*5
1927年の『大日本職業別明細図 平戸町』には「エビス座」が描かれている。*6
『長崎県の近代和風建築 近代和風建築総合調査報告書』長崎県教育委員会、2004年は「三共物産倉庫(旧恵比須座劇場)」について言及している。現物は未確認。*7
開館年 : 1916年4月
閉館年 : 1963年頃
映画館の建物は「平戸郵便局」南西60mに「三共物産倉庫」として現存。最寄駅は松浦鉄道線たびら平戸口駅。
1916年1月10日、平戸町に劇場「恵比須座」が開場した。*3
1916年1月、平戸町に劇場「恵比須座」が開場した。*4
1916年1月、平戸町に劇場「恵比須座」が開場した。*5
1927年の『大日本職業別明細図 平戸町』には「エビス座」が描かれている。*6
『長崎県の近代和風建築 近代和風建築総合調査報告書』長崎県教育委員会、2004年は「三共物産倉庫(旧恵比須座劇場)」について言及している。現物は未確認。*7
所在地 : 長崎県西彼杵郡崎戸町仲町1654(1956年・1958年)、長崎県西彼杵郡崎戸町1654(1960年)、長崎県西彼杵郡崎戸町東町110(1963年)、長崎県西彼杵郡崎戸町東町111(1964年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年5月20日
1963年5月20日、崎戸町の「星館」から出火し、劇場と隣接する家屋6戸が全焼した。*11
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年5月20日
1963年5月20日、崎戸町の「星館」から出火し、劇場と隣接する家屋6戸が全焼した。*11
所在地 : 長崎県西彼杵郡崎戸町(1943年、1950年・1953年・1955年)、長崎県西彼杵郡崎戸町蠣浦郷1224(1958年)、長崎県西彼杵郡崎戸町(1960年・1963年)、長崎県西彼杵郡崎戸町三菱鉱業所(1965年)
開館年 : 1938年8月
閉館年 : 1965年頃
跡地は「崎戸歴史民俗資料館」南南東100mの森林。最寄港は崎戸港。
崎戸炭鉱にあった「崎戸劇場」の写真あり。2000人収容の劇場であり、一日に昼夜の2回に渡って映画が上映された。*12
開館年 : 1938年8月
閉館年 : 1965年頃
跡地は「崎戸歴史民俗資料館」南南東100mの森林。最寄港は崎戸港。
崎戸炭鉱にあった「崎戸劇場」の写真あり。2000人収容の劇場であり、一日に昼夜の2回に渡って映画が上映された。*12
所在地 : 長崎県西彼杵郡黒瀬村(1950年)、長崎県西彼杵郡大島町(1953年)、長崎県西彼杵郡大島町1813(1955年・1958年・1962年・1963年・1966年)、長崎県西彼杵郡大島町183(1969年・1970年)
開館年 : 1948年9月7日
閉館年 : 1970年頃
跡地は「大島中央運動公園」グラウンド東側。最寄駅はJR大村線ハウステンボス駅。
1948年9月7日、大島町で「大島会館」の落成式が行われた。こけら落としは市川猿之介一座。建坪は434坪、1200席を有する長崎県有数の大劇場だった。映画・演劇・歌謡ショーなどに用いられた。大島会館の写真あり。*13
開館年 : 1948年9月7日
閉館年 : 1970年頃
跡地は「大島中央運動公園」グラウンド東側。最寄駅はJR大村線ハウステンボス駅。
1948年9月7日、大島町で「大島会館」の落成式が行われた。こけら落としは市川猿之介一座。建坪は434坪、1200席を有する長崎県有数の大劇場だった。映画・演劇・歌謡ショーなどに用いられた。大島会館の写真あり。*13
所在地 : 長崎県北松浦郡佐々町(1952年・1953年)、長崎県北松浦郡佐々町芳ノ浦免(1958年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1958年頃
芳ノ浦炭鉱の福利施設として「興風館」ができると、興風館の影響で小浦にあった小浦劇場は閉鎖された。1953年には芳ノ浦炭鉱が閉山すると、1954年12月1日、経営者だった江口静雄は佐々町の中心部に「静楽館」を開館させ、昼夜連続上映を行った。テレビの普及によって観客数が減って静楽館も姿を消した。静楽館は谷郷パン屋の裏にあった。*14
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1958年頃
芳ノ浦炭鉱の福利施設として「興風館」ができると、興風館の影響で小浦にあった小浦劇場は閉鎖された。1953年には芳ノ浦炭鉱が閉山すると、1954年12月1日、経営者だった江口静雄は佐々町の中心部に「静楽館」を開館させ、昼夜連続上映を行った。テレビの普及によって観客数が減って静楽館も姿を消した。静楽館は谷郷パン屋の裏にあった。*14
所在地 : 長崎県北松浦郡佐々町(1943年)、長崎県北松浦郡佐々町小浦(1953年)、長崎県北松浦郡佐々町小浦免555(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1941年以後1943年以前
閉館年 : 1963年頃
跡地は「土手迎町内会集会所」北西20mの空き地。最寄駅は松浦鉄道西九州線小浦駅。
1919年、正福寺の門前に「口石劇場」ができた。出資者は口石の荒木利三郎、湯浅籾蔵、志方重一、志方兼太郎、小浦の田島与作らである。佐々町において初の常設劇場であり、月に何度か芝居や映画の興行を行った。その後、住友鉱業による芳ノ浦炭鉱の従業員が増えると、口石劇場は小浦に移転して「小浦劇場」に改称した。小浦劇場は土手迎の現・児童公園の横にあった。芳ノ浦炭鉱の福利施設として「興風館」ができると、興風館の影響で小浦劇場は閉鎖された。*15
開館年 : 1941年以後1943年以前
閉館年 : 1963年頃
跡地は「土手迎町内会集会所」北西20mの空き地。最寄駅は松浦鉄道西九州線小浦駅。
1919年、正福寺の門前に「口石劇場」ができた。出資者は口石の荒木利三郎、湯浅籾蔵、志方重一、志方兼太郎、小浦の田島与作らである。佐々町において初の常設劇場であり、月に何度か芝居や映画の興行を行った。その後、住友鉱業による芳ノ浦炭鉱の従業員が増えると、口石劇場は小浦に移転して「小浦劇場」に改称した。小浦劇場は土手迎の現・児童公園の横にあった。芳ノ浦炭鉱の福利施設として「興風館」ができると、興風館の影響で小浦劇場は閉鎖された。*15
所在地 : 長崎県北松浦郡佐々町本田原免(1956年・1958年)、長崎県北松浦郡佐々町本田原免189(1960年・1963年)、長崎県北松浦郡佐々町本田原免(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1970年頃
跡地は「佐々郵便局」南東50mの民家。最寄駅は松浦鉄道線佐々駅。
芳ノ浦炭鉱の福利施設として「興風館」ができると、興風館の影響で小浦劇場は閉鎖された。1953年には芳ノ浦炭鉱が閉山すると、1954年12月1日、経営者だった江口静雄は佐々町の中心部に「静楽館」を開館させ、昼夜連続上映を行った。テレビの普及によって観客数が減って静楽館も姿を消した。静楽館は谷郷パン屋の裏にあった。*16
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1970年頃
跡地は「佐々郵便局」南東50mの民家。最寄駅は松浦鉄道線佐々駅。
芳ノ浦炭鉱の福利施設として「興風館」ができると、興風館の影響で小浦劇場は閉鎖された。1953年には芳ノ浦炭鉱が閉山すると、1954年12月1日、経営者だった江口静雄は佐々町の中心部に「静楽館」を開館させ、昼夜連続上映を行った。テレビの普及によって観客数が減って静楽館も姿を消した。静楽館は谷郷パン屋の裏にあった。*16
所在地 : 長崎県北松浦郡小値賀町(1956年・1958年・1960年)、長崎県北松浦郡小値賀町笛吹(1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1953年頃の小値賀町にあった「小値賀映劇」で『風雲八萬騎』が上映される際のチラシの写真あり。*17
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1953年頃の小値賀町にあった「小値賀映劇」で『風雲八萬騎』が上映される際のチラシの写真あり。*17
所在地 : 長崎県北松浦郡小値賀町(1953年・1955年・1958年)、長崎県北松浦郡小値賀町1758(1960年・1963年・1964年・1965年・1966年・1969年)
開館年 : 1907年11月、1947年2月
閉館年 : 1969年頃
跡地は「小値賀町健康管理センター」。最寄港は小値賀港。
1907年11月、九州沃度株式会社社長の尼崎忠兵衛らによって、小値賀島の会舎町に劇場「布袋座」が建設された。その後布袋座は拡張されて800人収容の劇場となった。*18
1949年末現在、小値賀町の人口は本籍人口が15873人、寄留人口が683人。劇場として笛吹に収容人員800人の「布袋座」がある。通常は毎週約3日間の夜間のみ上映しているが、鰯網漁船が多数入港しているときは昼夜上映している。*19
1950年頃には小値賀文化協会が設立され、「布袋座」などで各種文化行事が行われた。その後昭和30年代には小値賀島に映画館が開館し、ラジオやテレビが普及したこともあって、小値賀文化協会の活動は衰退した。*20
1987年の『町内遺跡分布調査 3 中村郷 柳郷 納島』には「布袋座跡」とある。*21
1960年頃の小値賀町笛吹郷にあった「布袋座」の写真あり。桟敷席や廻り舞台もあった劇場である。*22
開館年 : 1907年11月、1947年2月
閉館年 : 1969年頃
跡地は「小値賀町健康管理センター」。最寄港は小値賀港。
1907年11月、九州沃度株式会社社長の尼崎忠兵衛らによって、小値賀島の会舎町に劇場「布袋座」が建設された。その後布袋座は拡張されて800人収容の劇場となった。*18
1949年末現在、小値賀町の人口は本籍人口が15873人、寄留人口が683人。劇場として笛吹に収容人員800人の「布袋座」がある。通常は毎週約3日間の夜間のみ上映しているが、鰯網漁船が多数入港しているときは昼夜上映している。*19
1950年頃には小値賀文化協会が設立され、「布袋座」などで各種文化行事が行われた。その後昭和30年代には小値賀島に映画館が開館し、ラジオやテレビが普及したこともあって、小値賀文化協会の活動は衰退した。*20
1987年の『町内遺跡分布調査 3 中村郷 柳郷 納島』には「布袋座跡」とある。*21
1960年頃の小値賀町笛吹郷にあった「布袋座」の写真あり。桟敷席や廻り舞台もあった劇場である。*22
所在地 : 長崎県東彼杵郡川棚町(1943年、1953年・1955年)、長崎県東彼杵郡川棚町栄町(1957年・1958年)、長崎県東彼杵郡川棚町(1960年・1963年)、長崎県東彼杵郡川棚町栄町(1964年・1965年)
開館年 : 1941年以後1943年以前、1952年10月、1957年頃
閉館年 : 1965年頃
跡地は「十八親和銀行川棚中央支店」西南西50mの建物。最寄駅はJR大村線川棚駅。
1957年の東彼杵郡川棚町栄町にあった「フタバ劇場」の写真あり。1957年頃に開館した。跡地では2006年までディスカウントストアのオサダ川棚店が営業していた。*23
開館年 : 1941年以後1943年以前、1952年10月、1957年頃
閉館年 : 1965年頃
跡地は「十八親和銀行川棚中央支店」西南西50mの建物。最寄駅はJR大村線川棚駅。
1957年の東彼杵郡川棚町栄町にあった「フタバ劇場」の写真あり。1957年頃に開館した。跡地では2006年までディスカウントストアのオサダ川棚店が営業していた。*23
所在地 : 長崎県北高来郡諫早町(1930年)、長崎県北高来郡諫早町田町(1934年・1936年)、長崎県諫早市田町(1941年)、長崎県諫早市栄町(1943年・1947年・1950年・1953年)、長崎県諫早市栄町46(1955年)、長崎県諫早市栄町甲46(1958年・1960年)、長崎県諫早市栄町46(1963年・1966年)、長崎県諫早市栄町45(1969年)、長崎県諫早市栄町46(1973年・1975年)
開館年 : 1913年3月
閉館年 : 1977年頃
後継館は「諫早プラザ ヤギ・諫早シネマ ヤギ」。跡地は「文化ホール 諫早パルファン」。最寄駅は島原鉄道線本諫早駅。
1948年の諫早市栄町にあった映画館「永楽座」の写真あり。「Eirakuza」の文字が見える。戦前の諫早には永楽座と「喜楽館」という2館の映画館があり、永楽座では浪曲や芝居の興行も行われた。後に永楽座は「諫早映劇」、「パルファン」と改称した。*26
時期不明の諫早市栄町にあった「永楽座」で行われた日本舞踊の発表会の写真あり。戦前の諫早市には永楽座と八天町の「喜楽館」の2館の映画館があった。永楽座は映画の上映を中心都市、新派劇、歌舞伎、浪花節など様々な興行を行った。*27
1955年11月、諫早市栄町の映画館「永楽座」で上映中に発砲事件があり、1人が死亡、2人が重傷を負った。親和銀行諫早支店長の息子が死亡、前川興行の部長が危篤、長崎刑務所看守部長の妻が両足に銃弾を受けて重傷。2人の容疑者が逮捕されたが、犯行は興行上の恨みが理由とみられる。*28
1942年、地元有志の出資によって諫早に「永楽座」が開館した。その後「諫早映画劇場」に改称。1977年にはファッションビルに建て替え、2スクリーンの映画館「諫早パルファン」がビルに入居した。現在はビルのテナント収入を支えにして営業を続けている。*29
開館年 : 1913年3月
閉館年 : 1977年頃
後継館は「諫早プラザ ヤギ・諫早シネマ ヤギ」。跡地は「文化ホール 諫早パルファン」。最寄駅は島原鉄道線本諫早駅。
1948年の諫早市栄町にあった映画館「永楽座」の写真あり。「Eirakuza」の文字が見える。戦前の諫早には永楽座と「喜楽館」という2館の映画館があり、永楽座では浪曲や芝居の興行も行われた。後に永楽座は「諫早映劇」、「パルファン」と改称した。*26
時期不明の諫早市栄町にあった「永楽座」で行われた日本舞踊の発表会の写真あり。戦前の諫早市には永楽座と八天町の「喜楽館」の2館の映画館があった。永楽座は映画の上映を中心都市、新派劇、歌舞伎、浪花節など様々な興行を行った。*27
1955年11月、諫早市栄町の映画館「永楽座」で上映中に発砲事件があり、1人が死亡、2人が重傷を負った。親和銀行諫早支店長の息子が死亡、前川興行の部長が危篤、長崎刑務所看守部長の妻が両足に銃弾を受けて重傷。2人の容疑者が逮捕されたが、犯行は興行上の恨みが理由とみられる。*28
1942年、地元有志の出資によって諫早に「永楽座」が開館した。その後「諫早映画劇場」に改称。1977年にはファッションビルに建て替え、2スクリーンの映画館「諫早パルファン」がビルに入居した。現在はビルのテナント収入を支えにして営業を続けている。*29
所在地 : 長崎県諫早市東本町55(1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)、長崎県諫早市東本町46(1973年)、長崎県諫早市東本町55(1975年・1978年・1979年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1979年頃
跡地は「助村歯科」。最寄駅は島原鉄道線本諫早駅。
昭和30年代の諫早市東本町にあった「諫早東映」の写真あり。戦後の諫早市には東映、「諫映」、「大丸」、「銀線」の4映画館があった。造り酒屋の跡地に開館したのが諫早東映であり、やがて「名劇」に改称して時代劇や日活作品を上映した。*30
2018年6月のこのほど、諫早市美術・歴史館で「諫早の昭和 映画ちらし展」が開催されている。昭和30年代から40年代の諫早市中心部には「東映」、「大丸」、「諫早名画劇場」(名劇)、「銀線」、「諫早映画劇場」(諫映)があり、高来町に「旭座」、「湯江映劇」があり、諫早市には計7館があった。*31
2018年6月のこのほど、諫早市美術・歴史館で「諫早の昭和 映画ちらし展」が開催されている。2018年現在の諫早市には映画館がないが、1950年代から60年代には「東映」、「大丸」、「諫早名画劇場」、「銀線」などがあり、一部の映画館には畳敷きの席もあった。*32
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1979年頃
跡地は「助村歯科」。最寄駅は島原鉄道線本諫早駅。
昭和30年代の諫早市東本町にあった「諫早東映」の写真あり。戦後の諫早市には東映、「諫映」、「大丸」、「銀線」の4映画館があった。造り酒屋の跡地に開館したのが諫早東映であり、やがて「名劇」に改称して時代劇や日活作品を上映した。*30
2018年6月のこのほど、諫早市美術・歴史館で「諫早の昭和 映画ちらし展」が開催されている。昭和30年代から40年代の諫早市中心部には「東映」、「大丸」、「諫早名画劇場」(名劇)、「銀線」、「諫早映画劇場」(諫映)があり、高来町に「旭座」、「湯江映劇」があり、諫早市には計7館があった。*31
2018年6月のこのほど、諫早市美術・歴史館で「諫早の昭和 映画ちらし展」が開催されている。2018年現在の諫早市には映画館がないが、1950年代から60年代には「東映」、「大丸」、「諫早名画劇場」、「銀線」などがあり、一部の映画館には畳敷きの席もあった。*32
所在地 : 長崎県諫早市栄町(1950年・1953年・1955年)、長崎県諫早市栄町2(1958年・1960年・1963年)、長崎県諫早市栄町甲2(1966年・1969年)、長崎県諫早市栄町2(1973年・1975年・1978年・1980年・1981年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1981年頃
跡地は商業施設「アエルイースト」。最寄駅は島原鉄道線本諫早駅。
1960年10月1日、諫早市栄町2の「銀線映画劇場」の経営が堀田彰から八木豊に変更された。上映系統は東宝・洋画封切・第二東映選択。八木チェーンは諫早市にある4館のうち3館を経営することになった。*33
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1981年頃
跡地は商業施設「アエルイースト」。最寄駅は島原鉄道線本諫早駅。
1960年10月1日、諫早市栄町2の「銀線映画劇場」の経営が堀田彰から八木豊に変更された。上映系統は東宝・洋画封切・第二東映選択。八木チェーンは諫早市にある4館のうち3館を経営することになった。*33
所在地 : 長崎県諫早市栄町46(1979年・1980年・1985年・1990年)、長崎県諫早市栄町7-1(1995年・2000年・2005年・2010年)
開館年 : 1977年
閉館年 : 2011年10月30日
Wikipedia : 諫早パルファン
前身館は「諫早映画劇場」。建物は貸ホール「文化ホール 諫早パルファン」として現存。最寄駅は島原鉄道線本諫早駅。
1942年、地元有志の出資によって諫早に「永楽座」が開館した。その後「諫早映画劇場」に改称。1977年にはファッションビルに建て替え、2スクリーンの映画館「諫早パルファン」がビルに入居した。現在はビルのテナント収入を支えにして営業を続けている。*34
2011年10月31日をもって、諫早市唯一の映画館「諫早パルファン」が休館した。観客数の減少などが理由。4階建てビルに2スクリーンを有し、3階に160席のスクリーンが、4階に240席のスクリーンがある。2月からは4階のスクリーンは利用していなかった。*35
2011年10月30日をもって、諫早市唯一の映画館「諫早パルファン」が休館した。10月31日から休館する。観客数の減少などが理由。入居するビルに2スクリーンを有し、3階に160席のスクリーンが、4階に240席のスクリーンがある。約30年前に開館した。2月からは4階のスクリーンは利用していなかった。*36
諫早市の映画館「諫早パルファン」は2011年10月に休館。2012年12月には「文化ホール諫早パルファン」として生まれ変わった。216席のメインステージ、144席のサブステージがある。映画館時代のステージはいずれも奥行き2.9メートル×幅12メートルだったが、演劇やコンサートに使いやすいようにメインステージは奥行きを4.5メートルに広げた。映画館のスクリーンは残しており、デジタル式の上映設備を導入したことで、DVDの鑑賞なども可能となった。*37
開館年 : 1977年
閉館年 : 2011年10月30日
Wikipedia : 諫早パルファン
前身館は「諫早映画劇場」。建物は貸ホール「文化ホール 諫早パルファン」として現存。最寄駅は島原鉄道線本諫早駅。
1942年、地元有志の出資によって諫早に「永楽座」が開館した。その後「諫早映画劇場」に改称。1977年にはファッションビルに建て替え、2スクリーンの映画館「諫早パルファン」がビルに入居した。現在はビルのテナント収入を支えにして営業を続けている。*34
2011年10月31日をもって、諫早市唯一の映画館「諫早パルファン」が休館した。観客数の減少などが理由。4階建てビルに2スクリーンを有し、3階に160席のスクリーンが、4階に240席のスクリーンがある。2月からは4階のスクリーンは利用していなかった。*35
2011年10月30日をもって、諫早市唯一の映画館「諫早パルファン」が休館した。10月31日から休館する。観客数の減少などが理由。入居するビルに2スクリーンを有し、3階に160席のスクリーンが、4階に240席のスクリーンがある。約30年前に開館した。2月からは4階のスクリーンは利用していなかった。*36
諫早市の映画館「諫早パルファン」は2011年10月に休館。2012年12月には「文化ホール諫早パルファン」として生まれ変わった。216席のメインステージ、144席のサブステージがある。映画館時代のステージはいずれも奥行き2.9メートル×幅12メートルだったが、演劇やコンサートに使いやすいようにメインステージは奥行きを4.5メートルに広げた。映画館のスクリーンは残しており、デジタル式の上映設備を導入したことで、DVDの鑑賞なども可能となった。*37
所在地 : 長崎県大村市下田町(1943年・1947年・1950年)、長崎県大村市下田町343(1953年・1955年・1956年・1958年)、長崎県大村市下田町(1960年)、長崎県大村市東本町343(1963年)、長崎県大村市下田町343(1966年・1969年)
開館年 : 1942年12月
閉館年 : 1969年頃
跡地は「山口耳鼻咽喉科医院」南東50mの雑居ビル「ファンタジービル」。最寄駅はJR大村線大村駅。
1927年の『大日本職業別明細図 大村町』には「活動 玖島館」と「大村座」(後の大村中央館の場所)が描かれている。*40
1955年頃の大村市東本町にあった映画館「中央館」の写真あり。改装前である。1955年公開の三船敏郎主演作『続宮本武蔵 一乗寺の決斗』ののぼりが見える。*41
1959年頃の大村市東本町にあった映画館「中央館」の写真あり。改装後である。ジャクリーヌ・ササール主演作『芽ばえ』の看板が見える。*42
開館年 : 1942年12月
閉館年 : 1969年頃
跡地は「山口耳鼻咽喉科医院」南東50mの雑居ビル「ファンタジービル」。最寄駅はJR大村線大村駅。
1927年の『大日本職業別明細図 大村町』には「活動 玖島館」と「大村座」(後の大村中央館の場所)が描かれている。*40
1955年頃の大村市東本町にあった映画館「中央館」の写真あり。改装前である。1955年公開の三船敏郎主演作『続宮本武蔵 一乗寺の決斗』ののぼりが見える。*41
1959年頃の大村市東本町にあった映画館「中央館」の写真あり。改装後である。ジャクリーヌ・ササール主演作『芽ばえ』の看板が見える。*42
所在地 : 長崎県大村市松並町(1950年)、長崎県大村市松並町2(1953年)、長崎県大村市松並町(1955年)、長崎県大村市昭和町1丁目(1956年)、長崎県大村市昭和1丁目(1957年・1958年)、長崎県大村市昭和通1丁目(1960年)、長崎県大村市東三城404(1963年)、長崎県大村市東三城町4-4(1966年・1969年)、長崎県大村市東三城4-4(1973年・1975年)、長崎県大村市東三城町4-4(1978年・1980年・1981年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1981年頃
跡地は「十八親和銀行大村支店」南西20mの駐車場。最寄駅はJR大村線大村駅。
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1981年頃
跡地は「十八親和銀行大村支店」南西20mの駐車場。最寄駅はJR大村線大村駅。
所在地 : 長崎県東彼杵郡大村町(1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年)、長崎県大村市本町(1943年)、長崎県大村市本町3丁目450(1950年)、長崎県大村市本町3-450(1953年・1955年)、長崎県大村市本町3(1958年)、長崎県大村市本町3-450(1960年・1963年)、長崎県大村市本町450-1(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1992年・1993年・1994年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1994年頃
跡地は介護施設「泉の里 本町アーケード館」南60mにある建物。最寄駅はJR大村線大村駅。
1927年の『大日本職業別明細図 大村町』には「活動 玖島館」と「大村座」(後の大村中央館の場所)が描かれている。*43
1935年頃の大村町にあった映画専門館「玖島館」の写真あり。当時の大村町には2館の劇場があった。1980年現在の大村市本町3丁目にある「八木館」の前身である。*44
1928年頃の大村町本町にあった映画館「玖島館」の従業員の写真あり。現在の大村商店街アーケードの中にあり、約20年前まで営業していた映画館「八木館」の場所である。裏手には料亭が建ち並び、芸者置屋があった。*45
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1994年頃
跡地は介護施設「泉の里 本町アーケード館」南60mにある建物。最寄駅はJR大村線大村駅。
1927年の『大日本職業別明細図 大村町』には「活動 玖島館」と「大村座」(後の大村中央館の場所)が描かれている。*43
1935年頃の大村町にあった映画専門館「玖島館」の写真あり。当時の大村町には2館の劇場があった。1980年現在の大村市本町3丁目にある「八木館」の前身である。*44
1928年頃の大村町本町にあった映画館「玖島館」の従業員の写真あり。現在の大村商店街アーケードの中にあり、約20年前まで営業していた映画館「八木館」の場所である。裏手には料亭が建ち並び、芸者置屋があった。*45
所在地 : 長崎県南高来郡有明村大三東
開館年 : 1959年
閉館年 : 不明
大三東村の「大三東映劇」。所在地は後の有明町大三東丙150-9番地。1956年時点の経営者は佐中蜜男。佐中は1899年に生まれ、中国・南京の交通公社に勤務した後、上海から引き揚げて島原半島に来た。1959年、60歳の時に大三東駅近くに映画館を開館させた。*46
開館年 : 1959年
閉館年 : 不明
大三東村の「大三東映劇」。所在地は後の有明町大三東丙150-9番地。1956年時点の経営者は佐中蜜男。佐中は1899年に生まれ、中国・南京の交通公社に勤務した後、上海から引き揚げて島原半島に来た。1959年、60歳の時に大三東駅近くに映画館を開館させた。*46
所在地 : 長崎県南高来郡有明村松尾1982(1958年)、長崎県南高来郡有明村大三東(1960年)、長崎県南高来郡有明町大三東(1963年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1963年頃
大三東村の「松尾映劇」。所在地は後の有明町大三東松尾甲1978番地。1956年時点の経営者は南高来郡有馬町出身の岡野千代蔵。岡野は1893年に生まれ、長崎師範学校を卒業後に教員となった。日本大学高等師範科に遊学したこともある。校長としての教員退職後には自宅で文房具店を、隣接地で青果市場を経営し、夜には映画興行を行っていた。島原鉄道松尾駅から旧県道を島原方面に約100mの場所にあった。なお、1959年には大三東駅近くに佐中蜜男が映画館を開館させており、大三東村の映画館は2館となった。*47
明治・大正・昭和初期頃にかけて、松尾集落は大三東の銀座と呼ばれるほど栄え、銀行・郵便局・信用組合・商人宿・医院・映画館・酒造場などがあった。「松尾集落変遷図」には島原鉄道が江川を渡る場所の北西に映画館が描かれている。*48
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1963年頃
大三東村の「松尾映劇」。所在地は後の有明町大三東松尾甲1978番地。1956年時点の経営者は南高来郡有馬町出身の岡野千代蔵。岡野は1893年に生まれ、長崎師範学校を卒業後に教員となった。日本大学高等師範科に遊学したこともある。校長としての教員退職後には自宅で文房具店を、隣接地で青果市場を経営し、夜には映画興行を行っていた。島原鉄道松尾駅から旧県道を島原方面に約100mの場所にあった。なお、1959年には大三東駅近くに佐中蜜男が映画館を開館させており、大三東村の映画館は2館となった。*47
明治・大正・昭和初期頃にかけて、松尾集落は大三東の銀座と呼ばれるほど栄え、銀行・郵便局・信用組合・商人宿・医院・映画館・酒造場などがあった。「松尾集落変遷図」には島原鉄道が江川を渡る場所の北西に映画館が描かれている。*48
所在地 : 長崎県島原市広馬場町(1958年)、長崎県島原市広馬場町373(1960年・1963年)
開館年 : 1956年12月11日
閉館年 : 1963年頃
1956年12月11日、島原市に洋画館「太陽映劇」(大洋ではなく太陽)が開館した。椅子席450。工費1500万円。社長は近藤兼寿、支配人は島本公介。*49
1954年頃の島原市広馬場町にあった「大洋映劇」前の写真あり。1955年公開のアメリカ映画『日本人の勲章』、1956年公開の邦画『森は生きている』の看板が見える。「CINEMASCOPE」の文字が見える。全盛期の島原市には6館の映画館があり、最も新しい映画館だった大洋映劇はシネマスコープを有していた。*50
開館年 : 1956年12月11日
閉館年 : 1963年頃
1956年12月11日、島原市に洋画館「太陽映劇」(大洋ではなく太陽)が開館した。椅子席450。工費1500万円。社長は近藤兼寿、支配人は島本公介。*49
1954年頃の島原市広馬場町にあった「大洋映劇」前の写真あり。1955年公開のアメリカ映画『日本人の勲章』、1956年公開の邦画『森は生きている』の看板が見える。「CINEMASCOPE」の文字が見える。全盛期の島原市には6館の映画館があり、最も新しい映画館だった大洋映劇はシネマスコープを有していた。*50
所在地 : 長崎県南高来郡島原町(1930年・1934年)、長崎県南高来郡島原町湊道(1936年)、長崎県島原市7034(1941年)、長崎県島原市湊通(1943年・1947年)、長崎県島原市湊道(1950年)、長崎県島原市湊道7034(1953年・1955年)、長崎県島原市湊道町7034(1958年・1960年)、長崎県島原市港道7-34(1963年)、長崎県島原市島原市港通7034(1966年)
開館年 : 1920年12月
閉館年 : 1966年頃
跡地は「音無川駐車場」。最寄駅は島原鉄道線霊丘公園体育館駅。
1922年4月22日には口之津鉄道が堂崎駅まで開業し、4月6日には島原町の「曙座」で落成式が行われた。*51
1936年2月23日、島原町の音無川の河畔に池田兼繁によって「曙座」が竣工し、東京から片岡市十郎一座を呼んで舞台開きを行った。1947年時点の島原市の映画館は曙座と「第一映画劇場」の2館だった。*52
1952年の『島原商工名鑑』には「第一映画劇場」、「曙座 & 第二曙」の広告が掲載されている。第一映画劇場は「娯楽の殿堂 第一映画劇場 陣野正彦」「島原市中堀町 電話 島原258番」とある。曙座は「池田繁保 島原市湊道 電話212番」とある。第二曙は「小西己男人 島原市中堀町 電話534番」とある。*53
映画監督の森崎東は島原市出身であり、小学1年から2年の頃まで島原市で過ごしているが、「生まれ故郷のなかでいちばん懐かしい建物」として「音無川のそばの曙座」を挙げている。*54
開館年 : 1920年12月
閉館年 : 1966年頃
跡地は「音無川駐車場」。最寄駅は島原鉄道線霊丘公園体育館駅。
1922年4月22日には口之津鉄道が堂崎駅まで開業し、4月6日には島原町の「曙座」で落成式が行われた。*51
1936年2月23日、島原町の音無川の河畔に池田兼繁によって「曙座」が竣工し、東京から片岡市十郎一座を呼んで舞台開きを行った。1947年時点の島原市の映画館は曙座と「第一映画劇場」の2館だった。*52
1952年の『島原商工名鑑』には「第一映画劇場」、「曙座 & 第二曙」の広告が掲載されている。第一映画劇場は「娯楽の殿堂 第一映画劇場 陣野正彦」「島原市中堀町 電話 島原258番」とある。曙座は「池田繁保 島原市湊道 電話212番」とある。第二曙は「小西己男人 島原市中堀町 電話534番」とある。*53
映画監督の森崎東は島原市出身であり、小学1年から2年の頃まで島原市で過ごしているが、「生まれ故郷のなかでいちばん懐かしい建物」として「音無川のそばの曙座」を挙げている。*54
所在地 : 長崎県島原市中堀町(1943年・1947年・1950年・1953年・1955年)、長崎県島原市中堀町1098(1958年・1960年・1963年)、長崎県島原市中堀町198(1966年・1969年・1973年)、長崎県島原市中堀町1098(1975年・1978年・1980年・1985年・1988年・1990年・1991年)
開館年 : 1941年以後1943年以前、1948年12月
閉館年 : 1991年頃
跡地は「江東寺」南南東120mにある介護施設「ショートステイ十徳」。最寄駅は島原鉄道線霊丘公園体育館駅。
1952年の『島原商工名鑑』には「第一映画劇場」、「曙座 & 第二曙」の広告が掲載されている。第一映画劇場は「娯楽の殿堂 第一映画劇場 陣野正彦」「島原市中堀町 電話 島原258番」とある。曙座は「池田繁保 島原市湊道 電話212番」とある。第二曙は「小西己男人 島原市中堀町 電話534番」とある。*55
開館年 : 1941年以後1943年以前、1948年12月
閉館年 : 1991年頃
跡地は「江東寺」南南東120mにある介護施設「ショートステイ十徳」。最寄駅は島原鉄道線霊丘公園体育館駅。
1952年の『島原商工名鑑』には「第一映画劇場」、「曙座 & 第二曙」の広告が掲載されている。第一映画劇場は「娯楽の殿堂 第一映画劇場 陣野正彦」「島原市中堀町 電話 島原258番」とある。曙座は「池田繁保 島原市湊道 電話212番」とある。第二曙は「小西己男人 島原市中堀町 電話534番」とある。*55
所在地 : 長崎県南高来郡島原町(1925年・1927年・1930年・1934年)、長崎県南高来郡島原町中堀町18(1936年)、長崎県島原市中堀町18(1953年・1955年・1958年・1960年)、長崎県島原市中堀町17(1963年・1966年)、長崎県島原市中堀町18(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1985年・1988年・1990年・1992年)
開館年 : 1915年3月4日、1949年12月、1964年
閉館年 : 1992年頃
Wikipedia : 島原八木館
跡地は「江東寺山門」南東60mの駐車場。最寄駅は島原鉄道線霊丘公園体育館駅。
1914年11月15日には折田裕吉が申請していた「占勝館」の建設許可が下り、1915年3月4日に島原町中堀町に開館した。同年1月には都築磯次郎によって弁天町に有明座も開館している。*56
1914年11月、島原町に活動常設館「占勝館」が開館した。1938年には口之津町に移築されて「口之津映劇」となった。南島原市口之津歴史民俗資料館には占勝館と刻まれた鬼瓦が展示されている。*57
1894年生まれの八木豊は長崎市の東山学院を中退後、長崎県で複数の映画館を経営していた人物であり、3期に渡って崎戸町議会議員も務めた。1952年に諫早市の「永楽座」経営者である大西隼人が病死すると、八木豊は永楽座を買収して諫早市に移住した。これによって八木豊が経営する映画館が10館近くとなり、長崎県の興行界の第一人者となっている。諫早市では周辺の親分と結縁関係となり、1955年4月には長崎県議会議員に初当選した。同年7月には宮久一家の宮崎久次郎親分が宮崎建設株式会社を設立し、八木豊も重役に名を連ねている。1958年11月17日、八木豊は映画興行権の独占を狙った事件で検挙され、1959年4月の県議選では落選した。その後の補欠選挙で長崎県議会議員に復活したが、この間には池田辰巳が頭角を現していた。*58
1969年、八木晴恵は男に出刃包丁を突きつけて脅したり、謝罪に来た男をナイフで切りつけようとしたり、止めに入った父親を殴った疑いで逮捕された。八木晴恵は長崎県議会副議長である八木豊の養女であり、八木晴恵は島原市中堀町の「松竹館」と「八木館」、大村市東町の「八木館」の3館を養父から任されて経営していた。八木晴恵は八木豊の正妻の実子でもあり、養子縁組前から映画館経営を手伝っていた。本来ならば事件にならない微罪であるが、1969年7月10日には長崎県議会議長の池田辰巳が刺殺される事件が起こったことで、捜査本部は八木晴恵の追及を目的として逮捕したのである。八木晴恵は事件前、母親に対して「副議長である父が池田議長にいじめられている。私が仕返ししてやる。殺しても本望だ」という主旨の手紙を送っていた。*59
1952年の『島原商工名鑑』には「第一映画劇場」、「曙座 & 第二曙」の広告が掲載されている。第一映画劇場は「娯楽の殿堂 第一映画劇場 陣野正彦」「島原市中堀町 電話 島原258番」とある。曙座は「池田繁保 島原市湊道 電話212番」とある。第二曙は「小西己男人 島原市中堀町 電話534番」とある。*60
1974年3月22日、池田辰巳長崎県議会議長刺殺事件で別件逮捕された八木晴恵が長崎県を相手取った謝罪請求訴訟で、長崎地方裁判所は原告の勝訴を認める判決を下した。*61
島原半島の映画館を主題とする書籍に大久保昇『島原半島郡部の映画館と私』大久保昇、1997年がある。*62
島原市中堀町にある「八木館」は島原半島唯一の映画館である。経営者は八木晴恵。1991年6月3日には雲仙普賢岳の大規模災害が起こり、(建物に被害はなかったものの)6月4日から休館していた。7月上旬にはボランティア団体がアニメ映画の無料上映会を開催し、大きな反響があったことから、10月12日には通常営業を再開した。*63
開館年 : 1915年3月4日、1949年12月、1964年
閉館年 : 1992年頃
Wikipedia : 島原八木館
跡地は「江東寺山門」南東60mの駐車場。最寄駅は島原鉄道線霊丘公園体育館駅。
1914年11月15日には折田裕吉が申請していた「占勝館」の建設許可が下り、1915年3月4日に島原町中堀町に開館した。同年1月には都築磯次郎によって弁天町に有明座も開館している。*56
1914年11月、島原町に活動常設館「占勝館」が開館した。1938年には口之津町に移築されて「口之津映劇」となった。南島原市口之津歴史民俗資料館には占勝館と刻まれた鬼瓦が展示されている。*57
1894年生まれの八木豊は長崎市の東山学院を中退後、長崎県で複数の映画館を経営していた人物であり、3期に渡って崎戸町議会議員も務めた。1952年に諫早市の「永楽座」経営者である大西隼人が病死すると、八木豊は永楽座を買収して諫早市に移住した。これによって八木豊が経営する映画館が10館近くとなり、長崎県の興行界の第一人者となっている。諫早市では周辺の親分と結縁関係となり、1955年4月には長崎県議会議員に初当選した。同年7月には宮久一家の宮崎久次郎親分が宮崎建設株式会社を設立し、八木豊も重役に名を連ねている。1958年11月17日、八木豊は映画興行権の独占を狙った事件で検挙され、1959年4月の県議選では落選した。その後の補欠選挙で長崎県議会議員に復活したが、この間には池田辰巳が頭角を現していた。*58
1969年、八木晴恵は男に出刃包丁を突きつけて脅したり、謝罪に来た男をナイフで切りつけようとしたり、止めに入った父親を殴った疑いで逮捕された。八木晴恵は長崎県議会副議長である八木豊の養女であり、八木晴恵は島原市中堀町の「松竹館」と「八木館」、大村市東町の「八木館」の3館を養父から任されて経営していた。八木晴恵は八木豊の正妻の実子でもあり、養子縁組前から映画館経営を手伝っていた。本来ならば事件にならない微罪であるが、1969年7月10日には長崎県議会議長の池田辰巳が刺殺される事件が起こったことで、捜査本部は八木晴恵の追及を目的として逮捕したのである。八木晴恵は事件前、母親に対して「副議長である父が池田議長にいじめられている。私が仕返ししてやる。殺しても本望だ」という主旨の手紙を送っていた。*59
1952年の『島原商工名鑑』には「第一映画劇場」、「曙座 & 第二曙」の広告が掲載されている。第一映画劇場は「娯楽の殿堂 第一映画劇場 陣野正彦」「島原市中堀町 電話 島原258番」とある。曙座は「池田繁保 島原市湊道 電話212番」とある。第二曙は「小西己男人 島原市中堀町 電話534番」とある。*60
1974年3月22日、池田辰巳長崎県議会議長刺殺事件で別件逮捕された八木晴恵が長崎県を相手取った謝罪請求訴訟で、長崎地方裁判所は原告の勝訴を認める判決を下した。*61
島原半島の映画館を主題とする書籍に大久保昇『島原半島郡部の映画館と私』大久保昇、1997年がある。*62
島原市中堀町にある「八木館」は島原半島唯一の映画館である。経営者は八木晴恵。1991年6月3日には雲仙普賢岳の大規模災害が起こり、(建物に被害はなかったものの)6月4日から休館していた。7月上旬にはボランティア団体がアニメ映画の無料上映会を開催し、大きな反響があったことから、10月12日には通常営業を再開した。*63
所在地 : 長崎県島原市中堀町(1958年)、長崎県島原市中堀町156(1960年・1963年・1966年)、長崎県島原市中堀町2-156(1969年)、長崎県島原市中堀町156-6(1973年・1975年)、長崎県島原市中堀町156(1978年・1980年・1982年・1985年・1988年・1990年・1992年・1994年・1995年・1998年)
開館年 : 1957年頃、時期不明(ビル化)
閉館年 : 1998年頃
映画館が入っていた「中央プラザ」(旧称は水都88)の建物は現存。最寄駅は島原鉄道線霊丘公園体育館駅。
1999年11月3日、島原市中堀町の映画館「八木館」が約4年ぶりに営業を再開し、『ビーストウォーズ』などアニメ映画3作品を上映する。1964年の開館当時、島原市には6館の映画館があった。1991年には雲仙普賢岳の噴火災害などで閉館し、1995年に営業を一時再開したものの、再び休館していた。その後は島原半島の学校などで出張上映を行っていた。経営者は八木晴恵(62)。*64
1999年11月3日、島原市中堀町の水都88ビルにある映画館「八木館」が4年ぶりに営業を再開する。日曜と祝日の上映を続けたいとしている。経営者は八木晴恵(62)。1964年に島原市の要請などで開館した。1991年には雲仙普賢岳の災害などで休館を余儀なくされ、1995年に営業を再開したものの、再び休館していた。常設館を休館させている間は、島原半島の施設や学校などで出張上映を行っていた。*65
開館年 : 1957年頃、時期不明(ビル化)
閉館年 : 1998年頃
映画館が入っていた「中央プラザ」(旧称は水都88)の建物は現存。最寄駅は島原鉄道線霊丘公園体育館駅。
1999年11月3日、島原市中堀町の映画館「八木館」が約4年ぶりに営業を再開し、『ビーストウォーズ』などアニメ映画3作品を上映する。1964年の開館当時、島原市には6館の映画館があった。1991年には雲仙普賢岳の噴火災害などで閉館し、1995年に営業を一時再開したものの、再び休館していた。その後は島原半島の学校などで出張上映を行っていた。経営者は八木晴恵(62)。*64
1999年11月3日、島原市中堀町の水都88ビルにある映画館「八木館」が4年ぶりに営業を再開する。日曜と祝日の上映を続けたいとしている。経営者は八木晴恵(62)。1964年に島原市の要請などで開館した。1991年には雲仙普賢岳の災害などで休館を余儀なくされ、1995年に営業を再開したものの、再び休館していた。常設館を休館させている間は、島原半島の施設や学校などで出張上映を行っていた。*65
所在地 : 長崎県南高来郡瑞穂村(1958年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1958年頃
西郷村の「大成館」。バス停から150mの場所、駅舎から見ると線路越しの正面にあった。経営者は1929年生まれの生田虎雄であり、1945年に長崎市で原爆投下に遭って西郷村にやってくると、1955年にマッチ工場の建物を買収して大成館を開館させた。生田は背中に虎の刺青を彫っていたが、映画館を開館させる頃にはヤクザから足を洗っていた。生田は1964年1月に大成館を閉館させ、諫早市でショーウィンドウを制作して販売していた。大成館の建物は取り壊されている。*66
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1958年頃
西郷村の「大成館」。バス停から150mの場所、駅舎から見ると線路越しの正面にあった。経営者は1929年生まれの生田虎雄であり、1945年に長崎市で原爆投下に遭って西郷村にやってくると、1955年にマッチ工場の建物を買収して大成館を開館させた。生田は背中に虎の刺青を彫っていたが、映画館を開館させる頃にはヤクザから足を洗っていた。生田は1964年1月に大成館を閉館させ、諫早市でショーウィンドウを制作して販売していた。大成館の建物は取り壊されている。*66
所在地 : 長崎県南高来郡南串山村(1952年・1953年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1961年
1915年に南高来郡南串山村鬼塚に生まれた茂静夫は、映画機操作免許状を受けた後に映写機や蓄音機を購入し、北松浦郡や西彼杵郡の炭鉱地などで巡業上映を始めた。戦後には南串山村板引の竹田十苗の鶏舎を改修して映画上映を行い、やがて椎ノ木川海岸通りに映画館を建てた。茂静夫は1958年1月に急死したため、まず三根益一が映画館を引き継ぎ、次いで辻俊三が経営者となった。テレビの普及によって1968年に閉館し、1985年現在の南高来郡には映画館がない。(※この文章中にはっきりした映画館名は登場しない)*67
南高来郡南串山村尾登名字鼻崎乙1657番地2の「南串映劇」。板引の辻商店から加津佐方面に約100m歩いた国道沿いにあり、隣には遊女屋があった。茂静男によって建てられたが茂はすぐに死去し、板引の辻商店に売却された。1960年半ばには板引きで食料品店を経営していた辻俊三が経営者となり、1964年に廃業した。やがて映画館が解体され、1995年現在の跡地は南串陸運の車庫となっている。*68
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1961年
1915年に南高来郡南串山村鬼塚に生まれた茂静夫は、映画機操作免許状を受けた後に映写機や蓄音機を購入し、北松浦郡や西彼杵郡の炭鉱地などで巡業上映を始めた。戦後には南串山村板引の竹田十苗の鶏舎を改修して映画上映を行い、やがて椎ノ木川海岸通りに映画館を建てた。茂静夫は1958年1月に急死したため、まず三根益一が映画館を引き継ぎ、次いで辻俊三が経営者となった。テレビの普及によって1968年に閉館し、1985年現在の南高来郡には映画館がない。(※この文章中にはっきりした映画館名は登場しない)*67
南高来郡南串山村尾登名字鼻崎乙1657番地2の「南串映劇」。板引の辻商店から加津佐方面に約100m歩いた国道沿いにあり、隣には遊女屋があった。茂静男によって建てられたが茂はすぐに死去し、板引の辻商店に売却された。1960年半ばには板引きで食料品店を経営していた辻俊三が経営者となり、1964年に廃業した。やがて映画館が解体され、1995年現在の跡地は南串陸運の車庫となっている。*68
所在地 : 長崎県南高来郡愛野町有明3990
開館年 : 不明
閉館年 : 不明
南高来郡愛野町有明3990番地の「愛野映劇」。開館させたのは農家のシメ子と思われ、1957年には長崎市出身の岩佐茂が経営者となった。十八銀行駐車場がある愛野交差点から島原側に4軒目にあった。1995年現在の跡地は空き地である。*69
開館年 : 不明
閉館年 : 不明
南高来郡愛野町有明3990番地の「愛野映劇」。開館させたのは農家のシメ子と思われ、1957年には長崎市出身の岩佐茂が経営者となった。十八銀行駐車場がある愛野交差点から島原側に4軒目にあった。1995年現在の跡地は空き地である。*69
所在地 : 長崎県南高来郡千々石町(1943年・1953年・1955年)、長崎県南高来郡千々石町甲697(1958年)、長崎県南高来郡千々石町697(1960年)、長崎県南高来郡千々石町犬丸甲(1963年)、長崎県南高来郡千々石町乙5(1964年・1965年)
開館年 : 1937年以前
閉館年 : 1965年頃
南高来郡千々石町の「千興館」。玉村喜佐治は小浜鉄道千々石駅(後の雲仙鉄道、1938年廃線)前に巨大な倉庫を持つ肥料屋だった。千興館は2階建で桟敷席のある劇場であり、1937年には玉村喜佐治が千興館を買収した。1940年には加津佐劇場も買収している。玉村喜佐治の娘の玉村俊子は15歳の時に千興館の主任映写技師となったが、当時は珍しい女性映写技師だった。1955年には玉村喜佐治が死去し、玉村福市が経営者となった。1959年12月には玉村福市も死去し、弟の玉村広治が経営者となった。建物の所有者は玉村俊子であり、玉村広治の死去後には建物が取り壊された。1995年現在の跡地には玉村俊子の娘夫妻のいけす料理店が建っている。*70
開館年 : 1937年以前
閉館年 : 1965年頃
南高来郡千々石町の「千興館」。玉村喜佐治は小浜鉄道千々石駅(後の雲仙鉄道、1938年廃線)前に巨大な倉庫を持つ肥料屋だった。千興館は2階建で桟敷席のある劇場であり、1937年には玉村喜佐治が千興館を買収した。1940年には加津佐劇場も買収している。玉村喜佐治の娘の玉村俊子は15歳の時に千興館の主任映写技師となったが、当時は珍しい女性映写技師だった。1955年には玉村喜佐治が死去し、玉村福市が経営者となった。1959年12月には玉村福市も死去し、弟の玉村広治が経営者となった。建物の所有者は玉村俊子であり、玉村広治の死去後には建物が取り壊された。1995年現在の跡地には玉村俊子の娘夫妻のいけす料理店が建っている。*70
所在地 : 長崎県南高来郡多比良町(1943年、1953年・1955年)、長崎県南高来郡多比良町162(1956年)、長崎県南高来郡国見町162(1958年)、長崎県南高来郡国見町多比良(1960年)、長崎県南高来郡国見町多比良船津(1963年・1964年)
開館年 : 1930年11月
閉館年 : 1964年頃
跡地は「琴平神社」北東90mの民家。最寄駅は島原鉄道線多比良駅。
昭和初期の国見町にあった「日之出館」の開館祝賀写真あり。南高来郡では最も立派な劇場であり、映画の上映や演劇の上演が行われた。*71
多比良町の「日之出館」。所在地は後の国見町多比良甲164番地。1931年、福岡市出身の中村松太郎によって劇場の日之出館が建てられた。中村は恰幅の良い親分肌の男であり、日之出館は子どもに任せて日本中を駆け回っていた。島原半島の郡部では最も大きな劇場であり、有明海沿いの国道251号からもよく見えた。支配人の田添信義は佐世保商業高校卒であり、1948年頃に日之出館に入って経営を担っていた。日之出館はバス停から近く、島原鉄道多比良駅からも200mも離れていない。1995年現在の建物は家具店の倉庫になっている。*72
開館年 : 1930年11月
閉館年 : 1964年頃
跡地は「琴平神社」北東90mの民家。最寄駅は島原鉄道線多比良駅。
昭和初期の国見町にあった「日之出館」の開館祝賀写真あり。南高来郡では最も立派な劇場であり、映画の上映や演劇の上演が行われた。*71
多比良町の「日之出館」。所在地は後の国見町多比良甲164番地。1931年、福岡市出身の中村松太郎によって劇場の日之出館が建てられた。中村は恰幅の良い親分肌の男であり、日之出館は子どもに任せて日本中を駆け回っていた。島原半島の郡部では最も大きな劇場であり、有明海沿いの国道251号からもよく見えた。支配人の田添信義は佐世保商業高校卒であり、1948年頃に日之出館に入って経営を担っていた。日之出館はバス停から近く、島原鉄道多比良駅からも200mも離れていない。1995年現在の建物は家具店の倉庫になっている。*72
所在地 : 長崎県南高来郡神代村(1952年・1953年)、長崎県南高来郡神代町乙380(1958年)、長崎県南高来郡国見町神代(1960年)、長崎県南高来郡国見町神代乙381(1963年)、長崎県南高来郡国見町神代381(1964年・1965年)
開館年 : 1922年頃
閉館年 : 1965年頃
南高来郡国見町には「神代映劇」があった。1922年頃に「不知火座」として建てられた本格的な芝居小屋であり、廻り舞台を有していた。繭市場が管理していた。島原鉄道神代駅から200mの場所にあり、旧県道に面している。奨学の機運が高い土地であり、他の田舎町とは違って文芸作品が受けたという。経営者は鵜殿某だった。閉館後には海苔用箱製造工場となり、1992年頃に解体された。1995年現在の跡地は駐車場となっている。*73
開館年 : 1922年頃
閉館年 : 1965年頃
南高来郡国見町には「神代映劇」があった。1922年頃に「不知火座」として建てられた本格的な芝居小屋であり、廻り舞台を有していた。繭市場が管理していた。島原鉄道神代駅から200mの場所にあり、旧県道に面している。奨学の機運が高い土地であり、他の田舎町とは違って文芸作品が受けたという。経営者は鵜殿某だった。閉館後には海苔用箱製造工場となり、1992年頃に解体された。1995年現在の跡地は駐車場となっている。*73
所在地 : 長崎県南高来郡吾妻村(1958年)、長崎県南高来郡吾妻村大木場名(1963年)、長崎県南高来郡吾妻村大木場名16(1964年)
開館年 : 1954年
閉館年 : 1964年1月
南高来郡吾妻町大木場名16番地の「吾妻館」。経営者は1907年生まれの林田豊蔵。林田は島原市の鍛冶屋に生まれ、吾妻村に渡って鍛冶屋を経営した。戦後には島原鉄道吾妻駅前にあった鍛冶屋の小屋を改造し、兼業で映画館を開館させた。1954年には木造2階建の建物を新築した。林田は吾妻村会議員/吾妻町会議員を2期8年務めた。吾妻館は1964年1月に閉館し、1965年には建物が酒井衣料店に売却された。新国道沿いには有限会社林田鉄工所があり、1995年現在は林田豊蔵の養子である林田仁が社長を務めている。*74
開館年 : 1954年
閉館年 : 1964年1月
南高来郡吾妻町大木場名16番地の「吾妻館」。経営者は1907年生まれの林田豊蔵。林田は島原市の鍛冶屋に生まれ、吾妻村に渡って鍛冶屋を経営した。戦後には島原鉄道吾妻駅前にあった鍛冶屋の小屋を改造し、兼業で映画館を開館させた。1954年には木造2階建の建物を新築した。林田は吾妻村会議員/吾妻町会議員を2期8年務めた。吾妻館は1964年1月に閉館し、1965年には建物が酒井衣料店に売却された。新国道沿いには有限会社林田鉄工所があり、1995年現在は林田豊蔵の養子である林田仁が社長を務めている。*74
所在地 : 長崎県南高来郡小浜町(1943年、1950年・1953年・1955年)、長崎県南高来郡小浜町868(1958年)、長崎県南高来郡小浜町858(1960年)、長崎県南高来郡小浜町北本(1963年)、長崎県南高来郡小浜町858(1966年・1969年)、長崎県南高来郡小浜町868(1970年)、長崎県南高来郡小浜町(1971年)
開館年 : 1941年以後1943年以前
閉館年 : 1971年頃
跡地は「小浜温泉 浜観ホテル」東50mの建物。最寄駅は島原鉄道線愛野駅。
池田辰巳は南高来郡小浜町で遊廓を経営し、旅館、映画館「小浜映劇」なども経営していた。1958年4月には長崎県議会議員に初当選し、1961年には自民党長崎県連幹事長に就任した。1965年には長崎県議会議長に就任したが、1969年7月10日に刺殺された。*75
開館年 : 1941年以後1943年以前
閉館年 : 1971年頃
跡地は「小浜温泉 浜観ホテル」東50mの建物。最寄駅は島原鉄道線愛野駅。
池田辰巳は南高来郡小浜町で遊廓を経営し、旅館、映画館「小浜映劇」なども経営していた。1958年4月には長崎県議会議員に初当選し、1961年には自民党長崎県連幹事長に就任した。1965年には長崎県議会議長に就任したが、1969年7月10日に刺殺された。*75
所在地 : 長崎県南高来郡口之津町東大屋(1956年・1958年・1959年・1960年・1961年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1961年頃
口之津町の大屋中橋には映画専門館「太洋館」があった。*76
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1961年頃
口之津町の大屋中橋には映画専門館「太洋館」があった。*76
所在地 : 長崎県南高来郡北有馬村(1953年・1955年)、長崎県南高来郡北有馬村戊2633(1958年)、長崎県南高来郡北有馬村(1960年)、長崎県南高来郡北有馬村本町(1963年)
開館年 : 1948年2月
閉館年 : 1963年頃
北有馬村字下谷川2632の「北映館」。経営者は1894年生まれの寺田兼作。1913年に朝鮮に渡り、満州や北京で2軒の遊廓を経営して成功した。北京長崎県人会長や北京日本相撲協会長を務め、双葉山や羽黒山や前田山を招いたこともあった。1946年に引き揚げて北有馬村に帰郷し、周囲に推されて北有馬村長選挙への出馬も計画した。10人の出資によって映画館「北有馬会館」を建て、やがて寺田が買い取って単独経営となった。閉館後には土地を三宅病院に売却し、建物も取り壊されて跡地には素麺工場が建てられた。*77
開館年 : 1948年2月
閉館年 : 1963年頃
北有馬村字下谷川2632の「北映館」。経営者は1894年生まれの寺田兼作。1913年に朝鮮に渡り、満州や北京で2軒の遊廓を経営して成功した。北京長崎県人会長や北京日本相撲協会長を務め、双葉山や羽黒山や前田山を招いたこともあった。1946年に引き揚げて北有馬村に帰郷し、周囲に推されて北有馬村長選挙への出馬も計画した。10人の出資によって映画館「北有馬会館」を建て、やがて寺田が買い取って単独経営となった。閉館後には土地を三宅病院に売却し、建物も取り壊されて跡地には素麺工場が建てられた。*77
所在地 : 長崎県南高来郡口之津町(1943年・1946年・1950年・1953年・1955年)、長崎県南高来郡口之津町甲2505(1958年)、長崎県南高来郡口之津町2505(1959年・1960年)、長崎県南高来郡口之津町甲(1963年)
開館年 : 1938年、1948年3月
閉館年 : 1963年頃
跡地は「長崎銀行口之津支店」北200mの鉄板焼店「童里夢」の建物付近。最寄駅は島原鉄道島原鉄道線島原港駅。
1938年、三宅治利や哲翁鉄治らは島原町の映画館「占勝館」を買収し、口之津町に移築して「口之津劇場」が開館した。2018年現在の山北クリニック付近である。こけら落としには鼈甲斎虎丸一行が来演したが、翌日に天草に渡る際に転覆遭難する鬼池丸事件が起こっている。数年後には旅役者の堀金時が口之津劇場を買収し、映画や演劇などに活用された。戦時中には多くの芸能人が田舎の劇場で公演しているが、口之津劇場にも歌舞伎役者の松本幸四郎一行、ムーランルージュ、女優の明日待子や伏見直江、浪曲の天中軒雲月や酒井雲などが来演した。*78
口之津町甲2120番地の「口之津映劇」。1914年または1915年3月4日、島原町に折田裕吉によって活動常設館「占勝館」が開館した。1938年11月には口之津町に移築されて「口之津劇場」となった。1909年に福岡県糸島郡前原町に生まれた鎌田満太は、長崎市にある東宝系の「富士館」の支配人をしていたが、1947年に口之津映劇の堀金時に請われて口之津映劇の支配人となった。口之津の土地柄として洋画上映にも向いていた。1962年頃、蒲田は映画館経営に見切りをつけて福岡市のセガ・エンタープライゼズのローゼン商会に転職した。1986年3月に口之津映劇の建物が取り壊され、1995年現在は飲食店や酒場の団地となっている。南島原市口之津歴史民俗資料館には占勝館と刻まれた鬼瓦が展示されており、島原半島郡部の映画館としては唯一の遺物である。*79
開館年 : 1938年、1948年3月
閉館年 : 1963年頃
跡地は「長崎銀行口之津支店」北200mの鉄板焼店「童里夢」の建物付近。最寄駅は島原鉄道島原鉄道線島原港駅。
1938年、三宅治利や哲翁鉄治らは島原町の映画館「占勝館」を買収し、口之津町に移築して「口之津劇場」が開館した。2018年現在の山北クリニック付近である。こけら落としには鼈甲斎虎丸一行が来演したが、翌日に天草に渡る際に転覆遭難する鬼池丸事件が起こっている。数年後には旅役者の堀金時が口之津劇場を買収し、映画や演劇などに活用された。戦時中には多くの芸能人が田舎の劇場で公演しているが、口之津劇場にも歌舞伎役者の松本幸四郎一行、ムーランルージュ、女優の明日待子や伏見直江、浪曲の天中軒雲月や酒井雲などが来演した。*78
口之津町甲2120番地の「口之津映劇」。1914年または1915年3月4日、島原町に折田裕吉によって活動常設館「占勝館」が開館した。1938年11月には口之津町に移築されて「口之津劇場」となった。1909年に福岡県糸島郡前原町に生まれた鎌田満太は、長崎市にある東宝系の「富士館」の支配人をしていたが、1947年に口之津映劇の堀金時に請われて口之津映劇の支配人となった。口之津の土地柄として洋画上映にも向いていた。1962年頃、蒲田は映画館経営に見切りをつけて福岡市のセガ・エンタープライゼズのローゼン商会に転職した。1986年3月に口之津映劇の建物が取り壊され、1995年現在は飲食店や酒場の団地となっている。南島原市口之津歴史民俗資料館には占勝館と刻まれた鬼瓦が展示されており、島原半島郡部の映画館としては唯一の遺物である。*79
所在地 : 長崎県南高来郡南有馬町1079(1958年・1960年)、長崎県南高来郡南有馬町乙(1963年)
開館年 : 1953年
閉館年 : 1964年1月31日
南高来郡南有馬町乙597番地の「原城館」。1953年に口之津港税関跡近くの塩倉庫を購入し、仲村兄弟が自宅近くの空き地に移築して開館した。経営者は1924年生まれの中村信一と1934年生まれの中村千足の兄弟である。1958年には中村信一の単独経営となり、1964年1月に閉館した。建物は1975年頃に解体され、跡地には住宅が建った。中村千足は1961年に原城タクシーを創業し、1995年現在は貸切バス5台とタクシー8台を有している。*80
開館年 : 1953年
閉館年 : 1964年1月31日
南高来郡南有馬町乙597番地の「原城館」。1953年に口之津港税関跡近くの塩倉庫を購入し、仲村兄弟が自宅近くの空き地に移築して開館した。経営者は1924年生まれの中村信一と1934年生まれの中村千足の兄弟である。1958年には中村信一の単独経営となり、1964年1月に閉館した。建物は1975年頃に解体され、跡地には住宅が建った。中村千足は1961年に原城タクシーを創業し、1995年現在は貸切バス5台とタクシー8台を有している。*80
所在地 : 長崎県南高来郡有家町(1950年・1953年・1955年)、長崎県南高来郡有家町乙1-46(1958年)、長崎県南高来郡有家町1(1960年)、長崎県南高来郡有家町桜(1963年)、長崎県南高来郡有家町(1965年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1964年1月31日
1960年の有家町桜町にあった「有家館」の写真あり。『森の石松』や『コマンチ族』のポスターが見える。有家駅の近くにあった。1964年頃に幕を下ろした。*81
南高来郡有家町中須川字黒田164番地5の「有家館」。経営者は1907年生まれの鳥居勝信。鳥居は有家町会議員を務めていたが、有家館の経営者である鎌田満太との交友から1954年に映画館の経営者となった。1957年12月20日、速燃性のフィルムが切れてフィルム1館と映写室が火災となった。1959年正月には『美空ひばりのリンゴ園の少女』を上映中、映写技師がランプハウスの中で餅を焼いていた際に出火して、映写室と建物の屋根が焼失した。1964年1月に閉館し、建物は220万円で有家農協に売却された。*82
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1964年1月31日
1960年の有家町桜町にあった「有家館」の写真あり。『森の石松』や『コマンチ族』のポスターが見える。有家駅の近くにあった。1964年頃に幕を下ろした。*81
南高来郡有家町中須川字黒田164番地5の「有家館」。経営者は1907年生まれの鳥居勝信。鳥居は有家町会議員を務めていたが、有家館の経営者である鎌田満太との交友から1954年に映画館の経営者となった。1957年12月20日、速燃性のフィルムが切れてフィルム1館と映写室が火災となった。1959年正月には『美空ひばりのリンゴ園の少女』を上映中、映写技師がランプハウスの中で餅を焼いていた際に出火して、映写室と建物の屋根が焼失した。1964年1月に閉館し、建物は220万円で有家農協に売却された。*82
所在地 : 長崎県南高来郡西有家町(1943年・1958年・1960年)、長崎県南高来郡西有家町乙(1963年)、長崎県南高来郡西有家町(1964年・1965年)
開館年 : 1941年以後1943年以前
閉館年 : 1964年1月31日
南高来郡西有家町須川271番地の「弥生座」。1909年に熊本県宇土町に生まれた宮崎清人は、1932年に東洋大学を卒業した。就職難の時代だったため満州に渡り、ハルピン交通局で職を得た。1941年には上海で日東商事に就職し、1944年に退社して熊本に帰郷した。終戦直後には熊本市の新市街で屋台を出し、1951年に開店させた小料理屋も評判となった。1954年には妻の父親が西有家町に建てた「弥生座」を取得して映画館経営者となった。1964年1月をもって閉館した。*83
開館年 : 1941年以後1943年以前
閉館年 : 1964年1月31日
南高来郡西有家町須川271番地の「弥生座」。1909年に熊本県宇土町に生まれた宮崎清人は、1932年に東洋大学を卒業した。就職難の時代だったため満州に渡り、ハルピン交通局で職を得た。1941年には上海で日東商事に就職し、1944年に退社して熊本に帰郷した。終戦直後には熊本市の新市街で屋台を出し、1951年に開店させた小料理屋も評判となった。1954年には妻の父親が西有家町に建てた「弥生座」を取得して映画館経営者となった。1964年1月をもって閉館した。*83
所在地 : 長崎県南高来郡深江村(1954年・1955年)、長崎県南高来郡深江村丙665(1958年)、長崎県南高来郡深江村(1960年)、長崎県南高来郡深江町丙665(1963年・1965年)
開館年 : 1950年2月
閉館年 : 1964年1月31日
跡地は「妙行寺」南東180mの建物。最寄駅は島原鉄道線島原港駅。
1949年2月24日を開館予定日とした。『別れのタンゴ』と『吾輩は探偵である』の2本を松竹映画会社から3000円で購入した領収書が残っている。1956年には南高来郡におけるフィルム配給権を取得した。映画会社も郡部における未収に困っていたためである。南高来郡の映画館全体の利益を目指した発想であり、1960年2月25日には南高映画協同組合を設立した。大久保昇はピーク時で18館に配給を行っていた。1964年1月31日限りで、大久保館を含めた南高来郡の映画館が揃って閉館した。*84
1961年の深江村にあった「大久保映画館」前の写真あり。館内には木製の椅子が並んでおり、約300席だった。夕方には屋根上のスピーカーから上映作品案内が流された。*85
開館年 : 1950年2月
閉館年 : 1964年1月31日
跡地は「妙行寺」南東180mの建物。最寄駅は島原鉄道線島原港駅。
1949年2月24日を開館予定日とした。『別れのタンゴ』と『吾輩は探偵である』の2本を松竹映画会社から3000円で購入した領収書が残っている。1956年には南高来郡におけるフィルム配給権を取得した。映画会社も郡部における未収に困っていたためである。南高来郡の映画館全体の利益を目指した発想であり、1960年2月25日には南高映画協同組合を設立した。大久保昇はピーク時で18館に配給を行っていた。1964年1月31日限りで、大久保館を含めた南高来郡の映画館が揃って閉館した。*84
1961年の深江村にあった「大久保映画館」前の写真あり。館内には木製の椅子が並んでおり、約300席だった。夕方には屋根上のスピーカーから上映作品案内が流された。*85
所在地 : 長崎県南高来郡加津佐町(1943年、1950年・1953年・1955年)、長崎県南高来郡加津佐町2742(1958年)、長崎県南高来郡加津佐町(1960年)、長崎県南高来郡加津佐町西宮(1963年)、長崎県南高来郡加津佐町7252(1965年)
開館年 : 1935年以前
閉館年 : 1964年1月31日
跡地は「南島原市加津佐公民館」南東70mのスナック「まねき猫」が入る建物。建物が現存する可能性あり。最寄駅は島原鉄道島原鉄道線島原港駅。
1935年5月18日の島原毎日新聞には「加津佐劇場」で曙座の出張公開が行われたとする記事が掲載されている。現物は未確認。*86
1937年の『加津佐町勢要覧』には加津佐町の「加津佐劇場」が掲載されている。電話は14番。*87
加津佐町の「加津佐映劇」。支配人は森下一幸であり、森下の妻さちえは「千興館」映写技師だった玉村俊子の妹である。森下夫妻は映画館の一角でニュー加津佐という名称の食堂も経営していた。1995年現在の建物は全て貸家となっている。*88
開館年 : 1935年以前
閉館年 : 1964年1月31日
跡地は「南島原市加津佐公民館」南東70mのスナック「まねき猫」が入る建物。建物が現存する可能性あり。最寄駅は島原鉄道島原鉄道線島原港駅。
1935年5月18日の島原毎日新聞には「加津佐劇場」で曙座の出張公開が行われたとする記事が掲載されている。現物は未確認。*86
1937年の『加津佐町勢要覧』には加津佐町の「加津佐劇場」が掲載されている。電話は14番。*87
加津佐町の「加津佐映劇」。支配人は森下一幸であり、森下の妻さちえは「千興館」映写技師だった玉村俊子の妹である。森下夫妻は映画館の一角でニュー加津佐という名称の食堂も経営していた。1995年現在の建物は全て貸家となっている。*88
所在地 : 長崎県南松浦郡福江町(1950年・1953年)、長崎県福江市福江町(1955年)、長崎県福江市万町(1958年・1960年)、長崎県福江市万町845(1963年)、長崎県福江市福江町845(1964年・1965年)
開館年 : 1917年6月
閉館年 : 1965年頃
跡地はホテル「ビジネス五島ホテル」。最寄港は福江港。
1962年9月26日の福江大火時の災害区域詳細図。焼失範囲の外に「中央館」、「西海東映」、「福江座」が描かれている。*90
開館年 : 1917年6月
閉館年 : 1965年頃
跡地はホテル「ビジネス五島ホテル」。最寄港は福江港。
1962年9月26日の福江大火時の災害区域詳細図。焼失範囲の外に「中央館」、「西海東映」、「福江座」が描かれている。*90
所在地 : 長崎県南松浦郡福江町(1953年)、長崎県福江市福江町(1955年)、長崎県福江市池田町(1958年・1960年・1963年)、長崎県福江市池田町87(1966年・1967年)
開館年 : 1951年1月
閉館年 : 1967年頃
跡地は「福江信用組合」南南西50mの野原政美邸。最寄港は福江港。
1962年9月26日の福江大火時の災害区域詳細図。焼失範囲の外に「中央館」、「西海東映」、「福江座」が描かれている。*91
開館年 : 1951年1月
閉館年 : 1967年頃
跡地は「福江信用組合」南南西50mの野原政美邸。最寄港は福江港。
1962年9月26日の福江大火時の災害区域詳細図。焼失範囲の外に「中央館」、「西海東映」、「福江座」が描かれている。*91
所在地 : 長崎県福江市福江町(1956年)、長崎県福江市下ノ町(1958年・1960年)、長崎県福江市西町402-1(1963年)、長崎県福江市西町402(1966年・1969年・1973年)、長崎県福江市錦町3-10(1975年・1978年・1980年・1982年・1984年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1984年頃
後継館は福江中央シネマ。跡地は「JAごとう福江支店」南西70mの焼肉店「牛豚馬鶏五島店」。最寄港は福江港。
1962年9月26日の福江大火時の災害区域詳細図。焼失範囲の外に「中央館」、「西海東映」、「福江座」が描かれている。*92
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1984年頃
後継館は福江中央シネマ。跡地は「JAごとう福江支店」南西70mの焼肉店「牛豚馬鶏五島店」。最寄港は福江港。
1962年9月26日の福江大火時の災害区域詳細図。焼失範囲の外に「中央館」、「西海東映」、「福江座」が描かれている。*92
所在地 : 長崎県南松浦郡魚目村(1954年・1955年)、長崎県南松浦郡魚目村榎津郷(1956年)、長崎県南松浦郡新魚目町榎津郷(1957年)、長崎県南松浦郡新魚目町(1958年・1960年・1961年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1961年頃
1939年、魚目村に魚目公会堂が落成した。魚目公会堂の写真あり。*93
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1961年頃
1939年、魚目村に魚目公会堂が落成した。魚目公会堂の写真あり。*93
所在地 : 長崎県下県郡厳原町(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1938年8月
閉館年 : 1963年頃
1957年1月7日、厳原町の「対馬映劇」が全焼した。原因は不明。*96
開館年 : 1938年8月
閉館年 : 1963年頃
1957年1月7日、厳原町の「対馬映劇」が全焼した。原因は不明。*96
所在地 : 長崎県壱岐郡勝本町(1952年・1953年・1955年・1957年)、長崎県壱岐郡勝本町湯本浦(1958年)、長崎県壱岐郡勝本町(1959年・1960年)
開館年 : 1948年1月
閉館年 : 1960年頃
1948年1月、勝本町に琴平町の篠崎清吉によって映画館「港館」が開館した。*97
開館年 : 1948年1月
閉館年 : 1960年頃
1948年1月、勝本町に琴平町の篠崎清吉によって映画館「港館」が開館した。*97
所在地 : 長崎県壱岐郡武生水町郷ノ浦下ル町新地(1936年)、長崎県壱岐郡武生水町(1953年・1955年)、長崎県壱岐郡郷ノ浦町(1956年・1957年・1958年・1960年・1963年)、長崎県壱岐郡郷ノ浦町郷ノ浦(1965年)
開館年 : 1927年以前、1947年1月
閉館年 : 1965年頃
1927年8月、郷ノ浦町の「共楽館」で町当局の弾劾演説会が催された。*98
開館年 : 1927年以前、1947年1月
閉館年 : 1965年頃
1927年8月、郷ノ浦町の「共楽館」で町当局の弾劾演説会が催された。*98

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