日本の映画館の総合データベースです。

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大田区

三楽館
所在地 : 東京府荏原郡大森町澤田通大島212(1927年)
開館年 : 1927年以前
閉館年 : 1927年以後1930年以前
1927年の映画館名簿では「三楽館」。1930年の映画館名簿には掲載されていない。
ミヤコキネマ
所在地 : 東京市大森区山王1-1872(1934年)
開館年 : 1930年以後1934年以前
閉館年 : 1934年以後1936年以前
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年の映画館名簿では「ミヤコキネマ」。1936年の映画館名簿には掲載されていない。
太陽館
所在地 : 東京市大森区山王2丁目1981(1936年)
開館年 : 1934年以後1936年以前
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「太陽館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
大森劇場
所在地 : 東京府荏原郡大森町仲原137(1927年・1930年)、東京市大森区大森1-137(1934年)、東京市大森区大森町1-137(1936年)
開館年 : 1916年12月20日
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1927年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「大森劇場」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。

1916年12月20日、大森海岸の芝居小屋「偕楽座」が映画館に転向して「大森劇場」に改称した。*1
愛国館
所在地 : 東京市蒲田区東蒲田4-18(1941年)
開館年 : 1937年10月6日
閉館年 : 1941年秋
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1938年の火災保険特殊地図では「愛国館」。1941年の映画館名簿では「愛国館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「蒲田消防署」北西50mの建物。最寄駅は京急本線・京急空港線蒲田駅。

1937年10月6日、蒲田区仲蒲田4丁目(現・蒲田本町2丁目)に高麗田興行部の経営で「蒲田愛国館」が開館した。開館番組は松竹作品『愛染かつら』。当初は松竹の五番館だったが、1938年6月には東宝上映館となり、1941年秋頃には映画上映をやめて演劇に転向した。1944年に建物疎開で解体された。定員275人。京浜急行出村駅に近かった。*2
新井キネマ/新井映画劇場
所在地 : 東京府荏原郡大森町入新井宿158(1927年)、東京市大森区新井宿4-938(1934年)、東京市大森区新井宿350(1936年)、東京市大森区新井宿4(1943年)
開館年 : 1927年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1927年の映画館名簿では「新井キネマ」。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年の映画館名簿では「新井キネマ」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「新井映画劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
大森東宝映劇
所在地 : 東京市大森区入新井町5(1943年)
開館年 : 1941年以後1943年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「大森東宝映劇」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
豊年館/大森日活館/大森東亜館
所在地 : 東京府荏原郡大森町北原116(1927年)、東京府荏原郡大森町美原116(1930年)、東京市大森区大森1-108(1934年)、東京市大森区大森町1-117(1936年)、東京市大森区大森町1(1943年)
開館年 : 1916年12月31日
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1927年・1930年の映画館名簿では「豊年館」。1934年・1936年の映画館名簿では「大森日活館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「大森東亜館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

1916年12月31日、美原通りの映画館「大森豊年館」が日活直営となって「大森日活館」に改称した。大森豊年館は明治40年代の開館とされる。*3

明治40年代の開館とされる「大森豊年館」は、大正中期に日活特約館となった。1930年12月31日には日活直営館となって「大森日活館」に改称した。戦時中には東亜館に改称したが、戦災で焼失した。*4
大森キネマ/大森新興館
所在地 : 東京府荏原郡大森町入新井町不入斗901(1927年)、東京市大森区入新井町4-901(1934年)、東京市大森区入新井町4-53(1936年)、東京市大森区入新井町4(1943年)
開館年 : 1924年6月14日
閉館年 : 1945年頃
1927年の映画館名簿では「大森キネマ」。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年の映画館名簿では「大森新興館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「大森新興館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

1924年6月14日、京浜急行八幡駅前に映画館「大森キネマ」が開館した。1932年に大森新興館に改称した。戦災で廃館となった。*5
大森会館
所在地 : 東京府荏原郡大森町荏原441(1927年)、東京府荏原郡大森町南原441(1930年)、東京市大森区大森1-441(1934年)、東京市大森区大森町1-441(1936年)、東京市大森区大森町1(1941年)
開館年 : 1924年12月23日
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1927年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「大森会館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「大森会館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

1924年12月23日、京浜急行学校裏駅近くに映画館「大森会館」が開館した。戦災で廃館となった。*6
大森電気館(戦前)
所在地 : 東京府荏原郡大森町千代田2634(1927年)、東京府荏原郡大森町山谷2634(1930年)、東京市大森区大森6-2632(1934年)、東京市大森区大森6-2634(1936年)、東京市大森区大森町6(1941年)
開館年 : 1920年8月14日
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1927年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「大森電気館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「大森電気館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

1920年8月14日、大森町に映画館「大森寿館」が開館した。1926年には「大森電気館」に改称した。1979年現在の大森警察署付近。*7
蒲田東宝映画劇場(戦前)/蒲田東宝映劇
所在地 : 東京市蒲田区御園町2-32(1941年)、東京市蒲田区御園町2(1943年)
開館年 : 1938年12月29日
閉館年 : 1945年
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「蒲田東宝映画劇場」。1943年の映画館名簿では「蒲田東宝映劇」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

1938年12月29日、蒲田区御園町2丁目に東宝直営の「蒲田東宝映画劇場」が開館した。開館番組は『エノケンのびっくり人生』と『胡椒息子』。現在の環状8号沿いにあった。当初は東宝の四番館であり、1943年には白系封切館に昇格したが、戦災で焼失した。定員456人。*8
蒲田キネマ館/蒲田キネマ/蒲田昭和館
所在地 : 東京府荏原郡蒲田町北蒲田1536(1927年)、東京府荏原郡蒲田町北蒲田1538(1930年)、東京市蒲田区蒲田町1536(1934年)、東京市蒲田区蒲田町1410(1936年)、東京市蒲田区東蒲田2-4-7(1941年)、東京市蒲田区東蒲田2(1943年)
開館年 : 1924年5月16日
閉館年 : 1945年頃
1927年の映画館名簿では「蒲田キネマ館」。1930年・1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「蒲田キネマ館」。1943年の映画館名簿では「蒲田昭和館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

蒲田町に「蒲田電気館」が開館した後には「旭館」が開館し、1925年中頃には「蒲田キネマ」に改称した。『蒲田町史』には1924年5月16日開館と記されているが信用しがたく、『蒲田町史』は蒲田常設館や蒲田電気館も事実と相違する記述となっている。1931年1月には大蔵貢の直営となったが、同年には高麗田興行部の経営に代わった。1945年4月の空襲で焼失した。キネマ通りという名称に名残を留めているが、近年には松竹蒲田撮影所がキネマ通りの名称の由来だと勘違いしている若者も多い。*9

1924年、南蒲田に映画館「旭館」が開館した。1915年に「蒲田キネマ」に改称した。戦時中に「昭和館」に改称し、1945年4月の空襲で焼失した。*10

1932年現在の蒲田町には常設映画館として「女塚常設館」、「蒲田電気館」、「蒲田キネマ」、「蒲田富士館」がある。休業中の蒲田キネマは1924年5月16日に開館。所有者は永久保新蔵。定員337。*11
花月映画劇場/糀谷花月映劇
所在地 : 東京市蒲田区糀谷町1-57(1941年)、東京市蒲田区糀谷町1(1943年)
開館年 : 1938年12月29日
閉館年 : 1945年頃
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「花月映画劇場」。1943年の映画館名簿では「糀谷花月映劇」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

1938年12月29日、京浜急行穴守線糀谷駅北口に美須鑛の経営による「糀谷花月映画劇場」が開館した。東宝系の映画館だったが、戦災で廃館となった。定員234人。*12
六郷館/六郷映画館/六郷映画劇場
所在地 : 東京市蒲田区六郷町208(1936年)、東京市蒲田区東六郷3-4(1941年)、東京市蒲田区東六郷3(1943年)
開館年 : 1932年
閉館年 : 1945年頃
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「六郷館(目下休館中)」。1941年の映画館名簿では「六郷映画館」。1943年の映画館名簿では「六郷映画劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

1932年、蒲田区東六郷の六郷橋通りに弁士の国井紫香によって「六郷キネマ」が開館した。1933年には木村丙午、1935年には川端矯、1939年頃には角谷興行部、1941年には坂田最太郎と相次いで経営者が交代した。一時は東宝直営館となって「六郷東宝」という名称だったが、その後「六郷映画座」に改称した。戦災で焼失した。定員360人。*13
羽田劇場
所在地 : 東京市蒲田区羽田町1120(1934年)、東京市蒲田区羽田町1-1120(1936年)、東京市蒲田区羽田町1-1116(1941年)、東京市蒲田区羽田町1(1943年)
開館年 : 1924年8月
閉館年 : 1945年頃
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「羽田劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

1924年8月、蒲田区羽田1丁目に水越倉吉によって「羽田劇場」が開館した。映画と芝居の双方の興行を行っていたが、1928年に松竹と特約して常設映画館となった。戦時中には紅系六番館となったが、戦災で焼失した。六間堀公園前通りの停車場近くである。定員360人。*14

1924年8月、羽田町の芝居小屋「遊楽舎」が映画館に転向して「羽田劇場」に改称した。*15
蒲田大勝館/大勝館
所在地 : 東京市蒲田区新宿町887(1936年)、東京市蒲田区東蒲田4-18-7(1941年)、東京市蒲田区東蒲田4(1943年)
開館年 : 1934年12月30日
閉館年 : 1944年
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1935年・1938年の火災保険特殊地図では「大勝館」。1936年・1941年の映画館名簿では「蒲田大勝館」。1943年の映画館名簿では「大勝館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「蒲田本町二丁目公園」南東100mにある民家数軒分。最寄駅は京急本線・京急空港線蒲田駅。

1934年12月30日、蒲田区東蒲田4丁目(現・南蒲田)に高麗田興行部によって「蒲田大勝館」が開館した。当初は日活作品を上映し、やがて大都映画と特約した。後に隣接地に「蒲田映画劇場」が開館し、日活の特約館に転向した。1944年夏に建物疎開で解体された。京浜国道の東京計器株式会社の横通りにあった。定員346人。*16
蒲田電気館
所在地 : 東京府荏原郡蒲田町(1925年)、東京府荏原郡蒲田町新宿50(1927年・1930年)、東京市蒲田区新宿町50(1934年・1936年)、東京市蒲田区仲蒲田3-3(1941年)、東京市蒲田区仲蒲田3(1943年)
開館年 : 1924年7月13日
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「蒲田電気館」。1935年・1938年の火災保険特殊地図では「蒲田電気館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「蒲田四丁目ビル」。

1924年7月13日、蒲田町に望月直次郎の経営で日活専門館「蒲田電気館」が開館した。大正末期には尾上松之助、昭和初期には大河内傳次郎などの作品が人気だった。1932年7月、「大井昭栄館」の経営者である仙石雷渓の経営となったが、やがて望月直次郎の経営に戻った。のんべ横丁とも呼ばれる京浜蒲田商店街の入口角にあった。*17

1924年7月13日、京浜蒲田商店街の入口に映画館「蒲田電気館」が開館した。*18

1932年現在の蒲田町には常設映画館として「女塚常設館」、「蒲田電気館」、「蒲田キネマ」、「蒲田富士館」がある。蒲田電気館は1924年2月25日に開館。所有者は望月直次郎。日活映画と外国映画を上映。定員350。*19
蒲田富士館(戦前)
所在地 : 東京市蒲田区新宿町127(1934年)、東京市蒲田区新宿町1257(1936年)、東京市蒲田区東蒲田3-11(1941年)、東京市蒲田区東蒲田3(1943年)
開館年 : 1930年9月12日
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「蒲田富士館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。

1930年9月12日、蒲田町に映画館「蒲田富士館」が開館した。*20

1932年現在の蒲田町には常設映画館として「女塚常設館」、「蒲田電気館」、「蒲田キネマ」、「蒲田富士館」がある。蒲田富士館は1929年12月16日に開館。所有者は代田朝義。新興映画などを上映。定員420。*21
蒲田映画劇場(戦前)
所在地 : 東京市蒲田区東蒲田4-18-7(1941年)、東京市蒲田区東蒲田4(1943年)
開館年 : 1937年12月31日
閉館年 : 1944年
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1938年の火災保険特殊地図では「蒲田映画劇場」。1941年・1943年の映画館名簿では「蒲田映画劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「蒲田本町二丁目公園」南東100mにある民家数軒分。最寄駅は京急本線・京急空港線蒲田駅。

1937年12月31日、蒲田の「大勝館」隣接地に同じ高麗田興行部が経営する「蒲田映画劇場」が開館した。はじめは東宝上映館だったが、その後大都・極東・全勝キネマの混合番組を上映した。1944年夏に建物疎開で解体された。定員190人の小規模な映画館だった。*22
星桜劇場
所在地 : 東京市大森区入新井町(1947年)
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1947年以後1950年以前
1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「星桜劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。
映画大岡山館
所在地 : 東京都大田区北千束町394(1953年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1953年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「映画大岡山館」。1954年の映画館名簿には掲載されていない。
蒲田オリオン座
所在地 : 東京都大田区本蒲田3-14(1953年・1954年)
開館年 : 1950年8月
閉館年 : 1954年頃
『全国映画館総覧 1954』によると1950年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1954年の映画館名簿では「蒲田オリオン座」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。
蒲田東宝映画劇場(旧)/ムービー蒲田
所在地 : 東京都大田区御園町1-2(1950年)、東京都大田区蒲田御園町1-2(1953年・1955年)、東京都大田区蒲田御園1-2(1958年)
開館年 : 1947年
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「蒲田東宝映画劇場」。1952年の火災保険特殊地図では「蒲田東宝」。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「ムービー蒲田」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の火災保険特殊地図では跡地に「マルホ市場」。跡地は「相互西蒲田ビル」建物北西部。最寄駅は東急池上線蓮沼駅。
蒲田東宝劇場/蒲田東宝
所在地 : 東京都大田区本蒲田3-14(1953年)、東京都大田区本蒲田3-15(1955年)、東京都大田区本蒲田3-14(1958年)
開館年 : 1950年7月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年7月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「蒲田東宝劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「蒲田東宝」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
羽田いさ美座/羽田国際劇場・羽田いさ美座
所在地 : 東京都大田区羽田1-277(1956年・1957年・1958年・1959年)
開館年 : 1946年10月13日
閉館年 : 1961年10月10日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「羽田いさ美座」。1957年・1958年・1959年の映画館名簿では「羽田国際劇場・羽田いさ美座」(2館)。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の全住宅明細図帳では発見できず。跡地はマンション「アヴァンセアイル羽田」。

1946年10月13日、「羽田演芸場」(羽田演劇場)が設立された。1953年11月26日、羽田演劇場が「いさみ座」に改称した。映画の上映と芝居の上演を行う劇場である。経営者は伊東勇太郎。定員221。1954年4月1日、旧いさみ座の北側に「羽田国際劇場」が開館した。1961年10月10日、「羽田国際劇場」が閉館した。跡地は貸工場となり、1972年10月10日には羽田ゴルフ練習場となった。所在地は羽田5-11-2である。「昭和28年末の羽田の概略と当時の家屋・略図」には「羽田いさみ映画館」が描かれている。*23
蒲田文化
所在地 : 東京都大田区本蒲田3-14(1956年・1958年・1960年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1960年1月29日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年の映画館名簿では「蒲田文化」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の全住宅案内図帳では「蒲田国際映画劇場」。跡地は「第二美須ビル」。最寄駅はJR京浜東北線蒲田駅。

1960年1月29日午前4時30分頃、大田区蒲田3丁目の「蒲田文化」に隣接するパチンコ店から出火し、劇場にも類焼して全焼した。経営は美須事業部。支配人は阿部俊也。*24

1960年1月29日午前5時10分頃、大田区本蒲田3-14の「蒲田文化劇場」は近所の火災で類焼した。フィルムは無事。*25

1960年1月29日、大田区の「蒲田文化」が類焼によって全焼した。*26
池上東映
所在地 : 東京都大田区池上徳持寺84(1959年・1960年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1960年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「池上東映」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の全住宅明細図帳では発見できず。1970年の全住宅明細図帳では発見できず。
雪ヶ谷映画劇場/雪ヶ谷東映
所在地 : 東京都大田区調布大塚町725(1955年・1958年・1960年)
開館年 : 1953年12月
閉館年 : 1960年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年の映画館名簿では「雪ヶ谷映画劇場」。1960年の映画館名簿では「雪ヶ谷東映」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の全住宅明細図帳では「雪谷映画」。跡地は「城南信用金庫雪ケ谷支店」西30mのマンション「セリゼ雪が谷」敷地北東部。最寄駅は東急池上線雪が谷大塚駅。

昭和30年代の大田区調布大塚町(現・雪谷大塚)の中原街道沿いにあった二番館「雪谷映画劇場」の写真あり。「雪ヶ谷映画劇場」(「ヶ」あり)の文字が見える。「雪谷東映」と呼ばれていた時期もある。*27
雪ヶ谷サン劇場
所在地 : 東京都大田区雪ヶ谷715(1955年・1958年・1960年)
開館年 : 1952年12月
閉館年 : 1960年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「雪ヶ谷サン劇場」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の全住宅明細図帳では「雪ヶ谷サンゲキジョウ」(※劇場もカタカナ)。跡地は「大田南雪谷郵便局」南東30mの「ミヤビビル」。最寄駅は東急池上線雪が谷大塚駅。

1952年の大田区雪谷町(現・南雪谷)にあった二番館「雪ヶ谷サン劇場」の開館時の写真あり。「雪ヶ谷サン劇場」の文字が見える。花輪が見える。邦画と洋画の双方を上映していた。*28
山王映画劇場
所在地 : 東京市大森区山王2-1872(1941年)、東京市大森区山王2(1943年)、東京市大森区山王町1872(1947年)、東京都大田区山王2-1872(1950年)、東京都大田区山王2-187(1953年・1955年・1958年)、東京都大田区山王2-187(1960年)
開館年 : 1924年
閉館年 : 1960年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1924年開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「山王映画劇場」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の全住宅明細図帳では「山王映画劇場」。跡地はマンション「グランドメゾン大森山王」建物北側。最寄駅はJR京浜東北線大森駅。
大森銀映座(旧)/大森東宝劇場/大森第一松竹劇場/大森銀座第一劇場
所在地 : 東京都大田区入新井4-93(1953年・1955年・1956年・1957年・1958年・1960年)
開館年 : 1951年11月
閉館年 : 1960年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年11開館。1953年・1955年の映画館名簿では「大森銀映座」。1953年の火災保険特殊地図では「大森銀映」。1956年・1957年の映画館名簿では「大森東宝劇場」。1958年の映画館名簿では「大森第一松竹劇場」。時期不明の火災保険特殊地図では「大森第一劇場」。1960年の映画館名簿では「大森銀座第一劇場」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の全住宅明細図帳では「第一劇場」。跡地は「デニーズ大森北店」敷地北東端部。最寄駅はJR京浜東北線大森駅。
大森松竹映画劇場/大森松竹劇場
所在地 : 東京市大森区大森町1(1943年)、東京市大森区新井宿区役所前(1947年)、東京都大田区新井宿4-1296(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1961年)
開館年 : 1946年10月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年10月開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「大森松竹映劇」。1947年の映画館名簿では「大森松竹映画劇場」。1950年の映画館名簿では「大森松竹劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「大森松竹映画劇場」。1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「大森松竹劇場」。1962年の全住宅明細図帳では「大森松竹映画劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「きらぼし銀行大森支店」北西隣の「グループホームかがやき」。最寄駅はJR京浜東北線大森駅。
東宝コーパ/大岡山東宝コーパ劇場/大岡山日活コーパ劇場
所在地 : 東京都大田区北千束425(1955年・1958年)、東京都大田区北千束町425(1960年・1961年)
開館年 : 1953年2月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年2月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「東宝コーパ」。1958年・1960年の映画館名簿では「大岡山東宝コーパ劇場」。1961年の映画館名簿では「大岡山日活コーパ劇場」。1961年の映画館名簿では経営者が新映、支配人が渡辺広仲、木造1階、定員350、東映・東宝を上映。1962年の全住宅明細図帳では「Copa映画館」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「カーサ大岡山」。最寄駅は東急目黒線・東急大井町線大岡山駅。
京浜劇場
所在地 : 東京都大田区北糀谷町2020(1953年・1955年・1958年・1960年・1961年)
開館年 : 1951年1月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年1月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「京浜劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の全住宅明細図帳では発見できず。
雑色銀星座/雑色東映
所在地 : 東京都大田区仲六郷2-8(1957年・1958年・1960年・1962年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1962年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「雑色銀星座」。1960年・1962年の映画館名簿では「雑色東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の全住宅案内図帳では「雑色東映映画劇場」。跡地は2022年閉店のパチンコ店「PIA雑色店」廃墟。最寄駅は京急本線雑色駅。
大森中央劇場
所在地 : 東京都大田区入新井4-55(1955年・1958年・1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1953年4月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年4月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「大森中央劇場」。1953年の火災保険特殊地図では「中央劇場」。時期不明の火災保険特殊地図では「中央劇場」。1962年の全住宅明細図帳では「大森中央劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の全住宅明細図帳では「中央劇場」。跡地は「大森タナックビル」建物中央部。最寄駅はJR京浜東北線大森駅。
蒲田銀映
所在地 : 東京都大田区北糀谷町117(1957年)、東京都大田区北糀谷町115(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1963年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「蒲田銀映」。1962年の全住宅明細図帳では「蒲田銀映」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大田区立しいのき園」西30mの民家など。最寄駅は京急本線・京急空港線蒲田駅。

1962年9月から1963年9月までに、東京都では神田東映(千代田区)、高輪映画(港区)、神楽坂東映(新宿区)、松竹座(台東区)、入谷金美(台東区)、石原ミリオン(墨田区)、白髭映劇(墨田区)、千田シネマ(江東区)、娯楽館(品川区)、大井映画(品川区)、ユニオン座(目黒区)、久ヶ原ロマン座(大田区)、長原映劇(大田区)、蒲田映劇(大田区)、蒲田銀映(大田区)、蒲田名画座(大田区)、沼袋映劇(中野区)、テアトル中野(中野区)、北映座(豊島区)、巣鴨映劇(豊島区)、巣鴨日活(豊島区)、三島館(荒川区)、荒川大映(荒川区)、志村大映(板橋区)、高砂文化(葛飾区)、新小岩銀映(葛飾区)、平井東映(江戸川区)、八光館(八王子市)、青梅セントラル(青梅市)、調布銀映(調布市)、町田東映(町田市)、月光館(目黒区、演芸場転向)の32館が廃館となった。*29
蒲田映画劇場(新)
所在地 : 東京市蒲田区北糀谷町(1947年)、東京都大田区北糀谷25(1950年)、東京都大田区北糀谷町115(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1945年12月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1945年12月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「蒲田映画劇場」。1962年の全住宅明細図帳では「蒲田映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大田区立しいのき園」北西30mのマンション「ドーミー大鳥居」。最寄駅は京急本線・京急空港線蒲田駅。

1962年9月から1963年9月までに、東京都では神田東映(千代田区)、高輪映画(港区)、神楽坂東映(新宿区)、松竹座(台東区)、入谷金美(台東区)、石原ミリオン(墨田区)、白髭映劇(墨田区)、千田シネマ(江東区)、娯楽館(品川区)、大井映画(品川区)、ユニオン座(目黒区)、久ヶ原ロマン座(大田区)、長原映劇(大田区)、蒲田映劇(大田区)、蒲田銀映(大田区)、蒲田名画座(大田区)、沼袋映劇(中野区)、テアトル中野(中野区)、北映座(豊島区)、巣鴨映劇(豊島区)、巣鴨日活(豊島区)、三島館(荒川区)、荒川大映(荒川区)、志村大映(板橋区)、高砂文化(葛飾区)、新小岩銀映(葛飾区)、平井東映(江戸川区)、八光館(八王子市)、青梅セントラル(青梅市)、調布銀映(調布市)、町田東映(町田市)、月光館(目黒区、演芸場転向)の32館が廃館となった。*30
長原映画劇場
所在地 : 東京都大田区南千束2(1960年・1963年)
開館年 : 1959年2月12日
閉館年 : 1963年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「長原映画劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「チョーヤ梅酒東京支店」南西の都道318号(環七)道路上。最寄駅は東急池上線長原駅。

1959年2月12日、大田区南千束2に松竹の三番館「長原映画劇場」が開館した。座席数250。映写機・発声器ともにローヤル。経営は本橋豊重社長の本橋興行であり、支配人は服部重。*31

1962年9月から1963年9月までに、東京都では神田東映(千代田区)、高輪映画(港区)、神楽坂東映(新宿区)、松竹座(台東区)、入谷金美(台東区)、石原ミリオン(墨田区)、白髭映劇(墨田区)、千田シネマ(江東区)、娯楽館(品川区)、大井映画(品川区)、ユニオン座(目黒区)、久ヶ原ロマン座(大田区)、長原映劇(大田区)、蒲田映劇(大田区)、蒲田銀映(大田区)、蒲田名画座(大田区)、沼袋映劇(中野区)、テアトル中野(中野区)、北映座(豊島区)、巣鴨映劇(豊島区)、巣鴨日活(豊島区)、三島館(荒川区)、荒川大映(荒川区)、志村大映(板橋区)、高砂文化(葛飾区)、新小岩銀映(葛飾区)、平井東映(江戸川区)、八光館(八王子市)、青梅セントラル(青梅市)、調布銀映(調布市)、町田東映(町田市)、月光館(目黒区、演芸場転向)の32館が廃館となった。*32
久ヶ原ロマン座
所在地 : 東京都大田区調布鵜ノ木79(1957年・1958年)、東京都大田区調布鵜ノ木町79(1960年・1963年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1963年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「久ヶ原ロマン座」。1962年の全住宅明細図帳では「ロマン座」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「南久が原2丁目児童公園」北側広場。最寄駅は東急池上線久が原駅。

1962年9月から1963年9月までに、東京都では神田東映(千代田区)、高輪映画(港区)、神楽坂東映(新宿区)、松竹座(台東区)、入谷金美(台東区)、石原ミリオン(墨田区)、白髭映劇(墨田区)、千田シネマ(江東区)、娯楽館(品川区)、大井映画(品川区)、ユニオン座(目黒区)、久ヶ原ロマン座(大田区)、長原映劇(大田区)、蒲田映劇(大田区)、蒲田銀映(大田区)、蒲田名画座(大田区)、沼袋映劇(中野区)、テアトル中野(中野区)、北映座(豊島区)、巣鴨映劇(豊島区)、巣鴨日活(豊島区)、三島館(荒川区)、荒川大映(荒川区)、志村大映(板橋区)、高砂文化(葛飾区)、新小岩銀映(葛飾区)、平井東映(江戸川区)、八光館(八王子市)、青梅セントラル(青梅市)、調布銀映(調布市)、町田東映(町田市)、月光館(目黒区、演芸場転向)の32館が廃館となった。*33
蒲田大映劇場(旧)/名画座/蒲田名画座(旧)
所在地 : 東京都大田区御園町1-2(1950年)、東京都大田区蒲田御園町1-2(1953年・1955年)、東京都大田区蒲田御園1-2(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1947年
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年開館。1950年の映画館名簿では「蒲田大映劇場」。1952年の火災保険特殊地図では「蒲田大映」。1953年の映画館名簿では「蒲田名画座」。1955年の映画館名簿では「名画座」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「蒲田名画座」。1959年の火災保険特殊地図では「蒲田名画座」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「相互西蒲田ビル」建物北東部。最寄駅は東急池上線蓮沼駅。

1962年9月から1963年9月までに、東京都では神田東映(千代田区)、高輪映画(港区)、神楽坂東映(新宿区)、松竹座(台東区)、入谷金美(台東区)、石原ミリオン(墨田区)、白髭映劇(墨田区)、千田シネマ(江東区)、娯楽館(品川区)、大井映画(品川区)、ユニオン座(目黒区)、久ヶ原ロマン座(大田区)、長原映劇(大田区)、蒲田映劇(大田区)、蒲田銀映(大田区)、蒲田名画座(大田区)、沼袋映劇(中野区)、テアトル中野(中野区)、北映座(豊島区)、巣鴨映劇(豊島区)、巣鴨日活(豊島区)、三島館(荒川区)、荒川大映(荒川区)、志村大映(板橋区)、高砂文化(葛飾区)、新小岩銀映(葛飾区)、平井東映(江戸川区)、八光館(八王子市)、青梅セントラル(青梅市)、調布銀映(調布市)、町田東映(町田市)、月光館(目黒区、演芸場転向)の32館が廃館となった。*34
大森銀映座(新)
所在地 : 東京都大田区入新井4-55(1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1964年頃
1953年の火災保険特殊地図ではこの場所に空白。1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「大森銀映座」。時期不明の火災保険特殊地図では「銀映座」。1962年の全住宅明細図帳では「銀映座」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の全住宅明細図帳では「銀映座」。跡地は「大森タナックビル」建物北側。最寄駅はJR京浜東北線大森駅。
テアトル蒲田(旧)/蒲田テアトル東映
所在地 : 東京都大田区蒲田御園町1-25(1953年・1955年)、東京都大田区蒲田御園1-25(1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1950年7月14日
閉館年 : 1964年頃(建て替え)
Wikipedia : テアトル蒲田・蒲田宝塚
『全国映画館総覧 1955』によると1950年7月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1952年の火災保険特殊地図では「蒲田テアトル映画劇場」。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「テアトル蒲田」。1959年の火災保険特殊地図では「テアトル蒲田」。1962年の全住宅明細図帳では「テアトル蒲田」。1963年・1964年の映画館名簿では「蒲田テアトル東映」。1964年の映画館名簿では経営者が杉山権三、支配人が松島春定、木造1階暖房付、定員352、東映を上映。後継館は東京蒲田文化会館のテアトル蒲田・蒲田宝塚劇場。跡地は「東京蒲田文化会館」建物西側。最寄駅は東急多摩川線・東急池上線蒲田駅。
蒲田宝塚(旧)
所在地 : 東京都大田区蒲田御園1-25(1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1955年12月1日
閉館年 : 1964年頃(建て替え)
Wikipedia : テアトル蒲田・蒲田宝塚
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「蒲田宝塚」。1959年の火災保険特殊地図では「蒲田宝塚」。1962年の全住宅明細図帳では「宝塚映画」。1964年の映画館名簿では経営者が杉山権三、支配人が松島春定、木造1階暖房付、定員352、東宝を上映。後継館は東京蒲田文化会館のテアトル蒲田・蒲田宝塚劇場。跡地は「東京蒲田文化会館」建物東側。最寄駅は東急多摩川線・東急池上線蒲田駅。
大鳥居映画劇場
所在地 : 東京都大田区糀谷町2-801(1957年・1958年・1960年・1963年・1964年)、東京都大田区萩中3-8-3(1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「大鳥居映画劇場」。1960年の映画館名簿では「羽田国際劇場」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「大鳥居映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の全住宅案内図帳では「大鳥居映画劇場」。最寄駅は京急空港線大鳥居駅。
矢口映画劇場
所在地 : 東京都大田区安方町158(1958年・1960年)、東京都大田区安方町58(1963年・1964年)、東京都大田区安方町158(1965年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1965年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「矢口映画劇場」。1962年の全住宅明細図帳では「矢口映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ローソン東矢口二丁目店」。最寄駅は東急多摩川線矢口渡駅。

1961年の大田区にあった「矢口映画館」前の上映作品看板の写真あり。『薔薇大名』や『女と命をかけてブッ飛ばせ』などの看板が見える。矢口渡荏原高校通り商店街にあったが、この商店街は2017年に安方商店街に改称した。2019年現在のローソン東矢口2丁目店付近である。*35
多摩川園映画劇場/多摩川園劇場
所在地 : 東京市大森区田園調布2(1943年)、東京市大森区田園調布2-450(1947年)、東京都大田区田園調布2-450(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1941年10月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1941年10月開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「多摩川園劇場」。1947年の映画館名簿では「多摩川園映画劇場」。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「多摩川園劇場」。1962年の全住宅明細図帳では「多摩川園劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「田園調布せせらぎ公園休憩所」南東50mの駐車場南東端附近。最寄駅は東急東横線・東急多摩川線多摩川駅。
池上映画劇場
所在地 : 東京都大田区池上徳持寺72-1(1956年)、東京都大田区池上徳持町72-1(1958年)、東京都大田区池上徳持寺72-1(1960年)、東京都大田区池上徳持町72-1(1963年)、東京都大田区池上徳持寺町72-1(1964年)、東京都大田区池上徳持町72-1(1965年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「池上映画劇場」。1962年の全住宅明細図帳では「池上映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「池上総合病院」南東60mのマンション「アクスル池上」。最寄駅は東急池上線池上駅。
美原劇場/美原東映劇場
所在地 : 東京都大田区大森1-173(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年)、東京都大田区大森本町2-26-17(1965年)
開館年 : 1949年8月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1949年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「美原東映劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「美原東映劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の全住宅案内図帳では「美原映画劇場」。跡地は「大森仲町児童公園」。最寄駅は京急本線平和島駅。

1962年3月7日、大田区大森1-173の「美原東映」がはめ板約3平方メートルを焼失した。原因は不審火。*36

1962年3月7日午後6時30分頃、大田区大森1-173の「美原東映」がはめ板約3平方メートルを焼失した。原因は不審火とみられる。*37
名画座/大森名画座
所在地 : 東京都大田区山王2-1871(1955年・1958年)、東京都大田区山王2-187(1960年・1961年)、東京都大田区山王2-1871(1963年)、東京都大田区山王2-40-1(1966年)
開館年 : 1953年12月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「名画座」。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「大森名画座」。1962年の全住宅明細図帳では「名画座」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「山王セントラルビル」。最寄駅はJR京浜東北線大森駅。
雑色映画劇場
所在地 : 東京都大田区仲六郷2-11(1956年・1958年・1960年)、東京都大田区仲六郷2-1(1963年)、東京都大田区仲六郷2-11(1966年・1967年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1967年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「雑色映画劇場」。1958年の住宅地図では「雑色映画劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の全住宅案内図帳では「雑色映画劇場」。跡地は「高野整形外科」北東30mの建物など。最寄駅は京急本線雑色駅。
梅屋敷映画劇場/梅屋敷東映/梅屋敷東映劇場
所在地 : 東京都大田区仲蒲田1-1(1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1967年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年の映画館名簿では「梅屋敷映画劇場」。1962年の全住宅明細図帳では「梅屋敷東映」。1963年の映画館名簿では「梅屋敷東映」。1966年・1967年の映画館名簿では「梅屋敷東映劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「薬樹薬局梅屋敷店」が入る「第五山田ビル」。最寄駅は京急本線梅屋敷駅。
大森電気館
所在地 : 東京都大田区大森5-17(1958年・1960年・1963年)、東京都大田区大森町西6-15(1966年・1967年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1967年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「大森電気館」。1962年の全住宅明細図帳では「大森電気館」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三洋化学」。最寄駅は京急本線梅屋敷駅。
新田東映劇場
所在地 : 東京都大田区矢口226(1962年・1963年)、東京都大田区矢口町226(1966年)、東京都大田区矢口1-8-18(1969年)
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 1969年頃
1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「新田東映劇場」。1970年の全住宅明細図帳では「新田東映劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「城南信用金庫矢口支店」。最寄駅は東急多摩川線武蔵新田駅。
糀谷映画劇場
所在地 : 東京都大田区萩中町137(1953年)、東京都大田区萩中町121(1955年・1958年・1960年・1963年)、東京都大田区萩中町1-6-7(1966年)、東京都大田区萩中1-6-14(1969年)
開館年 : 1952年7月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年7月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「糀谷映画劇場」。1970年の全住宅案内図帳では「糀谷映画劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「みずほ銀行羽田支店」北20mの「第一山田ビル」。最寄駅は京急空港線糀谷駅。
蒲田帝都座
所在地 : 東京都大田区蒲田女塚4-12(1956年・1957年・1958年・1960年・1963年)、東京都大田区女塚4-12(1966年)、東京都大田区西蒲田6-37-3(1969年・1970年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「蒲田帝都座」。1959年の火災保険特殊地図では「帝都座」。1970年の映画館名簿では経営者が三葉興業、支配人が芦川光雄、木造1階冷暖房付、定員220、東宝・東映・日活を上映。1970年の全住宅案内図帳では「蒲田帝都座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅はJR京浜東北線蒲田駅。

1962年9月から1963年9月までに、東京都ではテアトル三原橋(中央区)、銀座東映(中央区)、牛込名画座(新宿区)、墨田大成館(墨田区)、自由ヶ丘松竹(目黒区)、帝都座(大田区)、コンパル映劇(葛飾区)、新小岩名画座(葛飾区)の8館が休館となった。同期間中には32館が廃館となっている。*38
蒲田国際/蒲田国際劇場
所在地 : 東京都大田区本蒲田3-14(1955年・1958年・1960年・1963年)、東京都大田区本蒲田5-19-12(1966年)、東京都大田区蒲田5-20-16(1969年・1970年)
開館年 : 1954年9月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1954年9月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「蒲田国際」。1959年の火災保険特殊地図では「国際映劇」。1962年の全住宅案内図帳では「蒲田国際映画劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「蒲田国際劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が美須商事、支配人が田中照一、木造1階冷暖房付、定員304、洋画を上映。1970年の全住宅案内図帳では「蒲田国際」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はホテル「カプセルイン蒲田」。最寄駅はJR京浜東北線蒲田駅。

1970年の大田区蒲田5丁目30番にあった「蒲田国際劇場」の写真あり。入替を待つ観客が行列を作っている。*39
蒲田日活/蒲田日活劇場(旧)
所在地 : 東京都大田区本蒲田3-14(1955年・1958年・1960年・1963年)、東京都大田区本蒲田5-19-12(1966年)、東京都大田区蒲田5-20-5(1969年・1970年)
開館年 : 1950年8月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1950年8月開館。1952年の火災保険特殊地図では「蒲田東映映画劇場」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「蒲田日活」。1959年の火災保険特殊地図では「蒲田日活」。1962年の全住宅案内図帳では「蒲田日活」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「蒲田日活劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が美須商事、支配人が田中照一、木造1階冷暖房付、定員302、日活を上映。1970年の全住宅案内図帳では「蒲田日活」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はホテル「相鉄フレッサイン東京蒲田」建物西端部。最寄駅はJR京浜東北線蒲田駅。
蒲田松竹/蒲田松竹劇場
所在地 : 東京都大田区本蒲田3-14(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、東京都大田区本蒲田5-19-12(1966年)、東京都大田区蒲田5-20-4(1969年・1970年)
開館年 : 1952年7月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年7月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「蒲田松竹」。1959年の火災保険特殊地図では「蒲田松竹」。1962年の全住宅案内図帳では「蒲田松竹映画館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「蒲田松竹劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が美須商事、支配人が田中照一、木造1階冷暖房付、定員304、松竹を上映。1970年の全住宅案内図帳では「蒲田松竹」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ガーデンサウナ蒲田」などが入る「アスレチッタ蒲田ビル」建物中央上部。最寄駅はJR京浜東北線蒲田駅。
美原松栄劇場
所在地 : 東京都大田区大森2-208(1957年・1958年)、東京都大田区大森2-20(1960年)、東京都大田区大森町1-208(1966年)、東京都大田区大森東1-6-1(1969年・1970年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「美原松栄劇場」。1962年の全住宅案内図帳では「美原松栄館」。1970年の映画館名簿では経営者が光興業、支配人が平野一郎、木造1階冷暖房付、定員359、邦画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は国道15号「大森東交差点」東70mの道路上。当時は都道318号が大森東交差点の西側しかなかった。最寄駅は京急本線平和島駅。
蒲田富士館(新)/京浜蒲田名画座(新)
所在地 : 東京都大田区仲蒲田3-1(1956年・1958年・1960年・1963年)、東京都大田区仲蒲田4-3-3(1966年)、東京都大田区蒲田4-3-3(1967年)、東京都大田区蒲田4-3-8(1969年・1973年・1975年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1975年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「蒲田富士館」。1962年の全住宅案内図帳では「蒲田富士館」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「京浜蒲田名画座」。1970年の全住宅案内図帳では「蒲田富士館」。1973年の住宅地図では「京浜蒲田名画座」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「アービラ京浜蒲田」。最寄駅は京急本線・京急空港線蒲田駅。
大鳥居東映/大鳥居東映劇場/大鳥居OP劇場
所在地 : 東京都大田区糀谷町2-801(1958年・1960年・1963年)、東京都大田区萩中3-8-1(1966年・1969年・1973年・1975年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1975年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1966年の映画館名簿では「大鳥居東映」1966年・1969年の映画館名簿では「大鳥居東映劇場」。1970年の全住宅案内図帳では「大鳥居東映」。1973年・1975年の映画館名簿では「大鳥居OP劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「城南信用金庫羽田支店」西隣の集合住宅「マイルストン」。最寄駅は京急空港線大鳥居駅。
蒲田映画座/蒲田松映/蒲田ヒカリ座
所在地 : 東京市蒲田区小林町226(1947年)、東京都大田区小林町22(1950年)、東京都大田区小林町226(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年)、東京都大田区東矢口3-4(1969年)、東京都大田区東矢口3-4-5(1973年・1975年・1976年)
開館年 : 1945年12月
閉館年 : 1976年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1945年12月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「蒲田映画座」。1950年の映画館名簿では「蒲田松映」。1952年の火災保険特殊地図では「蒲田ヒカリ座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年の映画館名簿では「蒲田ヒカリ座」。時期不明の火災保険特殊地図では「蒲田ヒカリ座」。1970年の全住宅案内図帳では「ヒカリ座映画劇場」。1976年の映画館名簿では経営会社が南星興行、経営者が水越武夫、支配人が水越清隆、木造1階冷暖房付、280席、邦画・成人映画を上映。1977年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東武ストア東矢口店」北北西100mの奄美料理店「徳之島」など。

1960年の大田区の大森駅東口にあった「ひかり座」の写真あり。石原裕次郎主演の日活作品『あじさいの歌』が上映されている。*40
大森ヒカリ座
所在地 : 東京都大田区入新井6-21(1953年・1955年・1958年)、東京都大田区入新井町6-21(1960年・1963年・1966年)、東京都大田区大森北1-34-16(1969年)、東京都大田区大森北1-34-16(1973年・1975年・1976年・1977年)
開館年 : 1950年12月
閉館年 : 1977年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1977年の映画館名簿では「大森ヒカリ座」。1953年の火災保険特殊地図では「ヒカリ座」。時期不明の火災保険特殊地図では「大竹松竹座」。1962年の全住宅明細図帳では「ひかり座」。1970年・1973年の住宅地図では「松竹ヒカリ座」。1976年の映画館名簿では経営会社が光興行、経営者が松田敦、支配人が平野一郎、木造1階冷暖房付、313席、邦画・成人映画を上映。1978年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「牧田総合病院1号館」西隣の「第2みづほビル」。最寄駅はJR京浜東北線大森駅。
南星座/蒲田南星座
所在地 : 東京都大田区小林町(1956年)、東京都大田区小林町258(1958年・1960年・1963年・1966年)、東京都大田区東矢口3-18-6(1969年・1973年・1975年・1978年・1979年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1979年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「南星座」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1979年の映画館名簿では「蒲田南星座」。1970年の全住宅案内図帳では「南星座」。1976年の映画館名簿では経営会社が南星興行、経営者が水越武夫、支配人が水越清隆、木造1階冷暖房付、260席、日活・成人映画を上映。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東武ストア東矢口店」北東50mのマンション「シャルム蓮沼」。最寄駅は東急池上線蓮沼駅。
蒲田スカラ座
所在地 : 東京都大田区本蒲田3-16(1957年・1958年・1960年・1963年)、東京都大田区本蒲田5-19-12(1966年)、東京都大田区蒲田5-21-5(1969年・1973年・1975年・1978年・1979年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1979年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1979年の映画館名簿では「蒲田スカラ座」。1959年の火災保険特殊地図では「蒲田スカラ座」。1970年の全住宅案内図帳では「蒲田スカラ座」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「レジティア蒲田」。最寄駅はJR京浜東北線蒲田駅。
大森ハリウッド/ハリウッド劇場/大森東映劇場
所在地 : 東京都大田区新井宿(1950年)、東京都大田区新井宿2-1478(1953年・1955年)、東京都大田区新井宿2-1488(1958年・1960年)、東京都大田区新井宿2-1478(1963年)、東京都大田区山王3-28-18(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年)
開館年 : 1946年
閉館年 : 1980年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「大森ハリウッド」。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「ハリウッド劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「大森東映劇場」。1970年の全住宅案内図帳では「大森東映劇場」。1981年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「鈴木内科医院」南西40mのマンション。最寄駅はJR京浜東北線大森駅。
大森エイトン劇場
所在地 : 東京都大田区入新井町6-21(1963年・1966年)、東京都大田区大森北1-34-16(1969年)、東京都大田区大森北1-34-16(1973年)、東京都大田区大森北1-34-16(1975年・1978年・1980年・1982年)
開館年 : 1965年頃
閉館年 : 1982年頃
1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「大森エイトン劇場」。1973年の住宅地図では「アカツキ座 みずほ劇場 エイトン劇場」。1982年の映画館名簿では経営会社が光興業、経営者が松田敦、支配人が田所当雄、鉄筋造1階、400席、洋画特選を上映。1983年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「第一守央ビル」。最寄駅はJR京浜東北線大森駅。
黎明座/大森日活黎明座
所在地 : 東京都大田区大森北1-1(1973年)、東京都大田区大森北1-34-16(1975年・1978年・1980年・1982年・1984年)
開館年 : 1970年以後1973年以前
閉館年 : 1984年頃
1970年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「黎明座」。1973年の住宅地図では「アカツキ座」。1980年・1982年の映画館名簿では「大森日活黎明座」。1982年の映画館名簿では経営会社が光興業、経営者が松田敦、支配人が笹川宗一、鉄筋造地下、79席、にっかつを上映。1984年の映画館名簿では経営会社が光興業、経営者が松田敦、支配人が新村正昭、鉄筋造、100席、にっかつを上映。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「第一守央ビル」。最寄駅はJR京浜東北線大森駅。
アポロ/蒲田アポロ/蒲田アポロ座
所在地 : 東京都大田区蒲田御園1-18(1957年・1958年・1960年・1963年)、東京都大田区御園1-18(1966年)、東京都大田区西蒲田7-51-12(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1984年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1984年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「アポロ」。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「蒲田アポロ」。1959年の火災保険特殊地図では「アポロ映劇」。1969年の映画館名簿では「蒲田アポロ」。1970年の全住宅案内図帳では「アポロ映画館」。1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1984年の映画館名簿では「蒲田アポロ座」。1982年・1984年の映画館名簿では経営会社が藤興業、経営者が遠藤直司、支配人が遠藤和良、木造1階、256席、邦画・洋画・成人映画を上映。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ライオンズマンション西蒲田」。最寄駅は東急多摩川線・東急池上線蒲田駅。
蒲田ロキシー(旧)/蒲田プラザ
所在地 : 東京都大田区本蒲田3-14(1959年・1960年・1963年)、東京都大田区蒲田5-19-12(1966年)、東京都大田区蒲田5-19-14(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年・1987年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1987年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「蒲田ロキシー」。1962年の全住宅案内図帳では「蒲田ロキシー」。1970年の全住宅案内図帳では「蒲田ロキシー」。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年・1987年の映画館名簿では「蒲田プラザ」。1986年の映画館名簿では経営会社が美須興行、経営者が美須君江、支配人が稲本好二郎、木造1階、236席、洋画を上映。1988年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ガーデンサウナ蒲田」などが入る「アスレチッタ​蒲田​ビル」建物北東部。最寄駅はJR京浜東北線蒲田駅。
蒲田大映(新)/蒲田大映劇場(新)/蒲田ロキシー(新)
所在地 : 東京都大田区本蒲田3-15(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、東京都大田区蒲田5-19-12(1966年)、東京都大田区蒲田5-19-13(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年・1987年)
開館年 : 1952年5月
閉館年 : 1987年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年5月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「蒲田大映劇場」。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「蒲田大映」。1962年の全住宅案内図帳では「蒲田大映映画館」。1966年・1969年の映画館名簿では「蒲田大映劇場」。1970年の全住宅案内図帳では「蒲田大映」。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年・1987年の映画館名簿では「蒲田ロキシー」。1986年の映画館名簿では経営会社が美須興行、経営者が美須君江、支配人が稲本好二郎、木造1階、240席、松竹を上映。1988年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はホテル「相鉄フレッサイン東京蒲田」建物中央部。最寄駅はJR京浜東北線蒲田駅。

1955年の大田区の蒲田駅東口にあった映画街の写真あり。左は「蒲田大映」。*41

1955年頃の蒲田映画街の写真あり。左手に「蒲田大映劇場」と「蒲田東映劇場」が見える。この頃が映画の最盛期であり、大田区の映画館の約半分が蒲田駅周辺に集まっていた。*42
蒲田東映劇場/蒲田東映/蒲田トーエー
所在地 : 東京都大田区本蒲田3-15(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、東京都大田区蒲田5-19-11(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年・1987年)
開館年 : 1950年7月
閉館年 : 1987年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年7月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「蒲田東映」。1962年の全住宅案内図帳では「蒲田東映映画館」。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「蒲田東映劇場」。1970年の全住宅案内図帳では「蒲田東映」。1978年・1980年の映画館名簿では「蒲田東映」。1985年・1986年・1987年の映画館名簿では「蒲田トーエー」。1986年の映画館名簿では経営会社が美須興行、経営者が美須君江、支配人が稲本好二郎、木造1階、224席、東映を上映。1988年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はホテル「相鉄フレッサイン東京蒲田」建物東端部。最寄駅はJR京浜東北線蒲田駅。

1955年頃の蒲田映画街の写真あり。左手に「蒲田大映劇場」と「蒲田東映劇場」が見える。この頃が映画の最盛期であり、大田区の映画館の約半分が蒲田駅周辺に集まっていた。*43
蒲田日活/蒲田日活劇場(新)/蒲田にっかつ劇場/ロッポニカ蒲田
所在地 : 東京都大田区西蒲田7-4-18(1977年・1978年・1980年・1985年・1988年・1989年)
開館年 : 1976年頃
閉館年 : 1989年7月
1970年の全住宅案内図帳では後の映画館の場所に「東邦生命」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。1977年の映画館名簿では「蒲田日活」。1978年の映画館名簿では「蒲田日活劇場」。1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「蒲田にっかつ劇場」。1988年の映画館名簿では経営会社がにっかつ興業、経営者が若松正雄、支配人が福田弘、鉄筋造地下、122席、にっかつを上映。1989年の映画館名簿では「ロッポニカ蒲田」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。「カーサ蒲田」地下1階。建物のカーサ蒲田は現存して地下1階の映画館跡地はゲームソフト店「アメニティードリーム蒲田店」。建物南端部。最寄駅はJR京浜東北線蒲田駅。
みづほ劇場/東宝みづほ劇場/大森みづほ劇場/大森東宝みずほ劇場/大森みずほ劇場/大森みずほ
所在地 : 東京都大森区入新井6-30(1947年)、東京都大田区入新井(1950年)、東京都大田区入新井6-30(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、東京都大田区入新井町6-21(1963年・1966年)、東京都大田区大森北1-34-16(1969年)、東京都大田区大森北1-34-16(1973年)、東京都大田区大森北1-34-16(1975年・1978年・1980年・1985年・1988年・1990年・1992年・1993年)
開館年 : 1946年4月
閉館年 : 1993年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年4月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「みずほ劇場」。1953年の火災保険特殊地図では「みづほ映画劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「みづほ劇場」。時期不明の火災保険特殊地図では「みづほ映画劇場」。1960年の映画館名簿では「東宝みづほ劇場」。1962年の全住宅明細図帳では「みづほ劇場」。1963年の映画館名簿では「大森みづほ劇場」。1966年の映画館名簿では「大森みずほ劇場」。1969年の映画館名簿では「大森東宝みずほ劇場」。1970年の全住宅案内図帳では「みずほ劇場」。1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「大森みずほ劇場」。1973年の住宅地図では「アカツキ座 みずほ劇場 エイトン劇場」。1985年・1988年・1990年・1992年・1993年の映画館名簿では「大森みずほ」。1992年の映画館名簿では経営会社が光興業、経営者が松田光博、支配人が新村正昭、鉄筋造1階、100席、洋画を上映。1994年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「第一守央ビル」。最寄駅はJR京浜東北線大森駅。
蒲田常設館/パレス座/蒲田パレス座
所在地 : 東京府荏原郡蒲田町(1925年)、東京府荏原郡蒲田町女塚388(1927年・1930年)、東京都蒲田区女塚388(1934年)、東京市蒲田区女塚町607(1936年)、東京市蒲田区女塚4-6-2(1941年)、東京市蒲田区女塚町4(1943年)、東京都大田区蒲田女塚4-6(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、東京都大田区女塚4-6(1966年)、東京都大田区西蒲田5-24-10(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1992年・1993年)
開館年 : 1922年7月14日、1950年2月15日
閉館年 : 1993年頃
Wikipedia : 蒲田パレス座
『全国映画館総覧 1955』によると1950年4月開館。1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「蒲田常設館」。1935年の火災保険特殊地図では「蒲田常設館」。1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「パレス座」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1992年・1993年の映画館名簿では「蒲田パレス座」。1959年の火災保険特殊地図では「パレス座」。1970年の全住宅案内図帳では「パレス座」。1992年の映画館名簿では経営会社が三葉興業、経営者が小林真賛雄、支配人が石井秀樹、木造1階、254席、洋画特選を上映。1994年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東京工科大学蒲田キャンパス12号館」建物南端部。最寄駅はJR京浜東北線蒲田駅。

1932年現在の蒲田町には常設映画館として「女塚常設館」、「蒲田電気館」、「蒲田キネマ」、「蒲田富士館」がある。女塚常設館は1922年3月29日に開館。所有者は須山金太郎。松竹映画を上映。定員394。*44

1922年7月14日、蒲田初の活動常設館として「蒲田常設館」が開館した。『蒲田町史』に掲載されている3月29日は上棟式の日と思われる。1945年3月の東京大空襲後、蒲田常設館は建物疎開の該当地に指定されて解体された。戦後にはこの場所に「蒲田パレス座」が建てられた。*45

1987年の大田区西蒲田5丁目24番にあった「蒲田パレス座」の写真あり。『菊地エリ 巨乳』や『女刑務所 変態看守長』などの看板が見える。「蒲田パレス座」の文字が見える。1922年7月、蒲田初の映画館「蒲田常設館」として開館した。70年以上を経た1997年に閉館した。*46
安楽座/うの木安楽座/鵜ノ木安楽座/鵜の木安楽座
所在地 : 東京都大田区嶺町2-8(1958年)、東京都大田区調布嶺町2-8(1960年・1963年・1966年・1969年)、東京都大田区調布鵜ノ木2-3-3(1973年)、東京都大田区鵜ノ木2-3-3(1975年・1978年・1985年・1990年・1992年・1995年・1996年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1996年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「安楽座」。1966年の映画館名簿では「鵜ノ木安楽座」。1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「安楽座」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の映画館名簿では「うの木安楽座」。1990年の映画館名簿では「鵜ノ木安楽座」。1992年・1995年・1996年の映画館名簿では「鵜の木安楽座」。1992年の映画館名簿では経営会社が有限会社安楽座、経営者が荒木与一郎、支配人が荒木秀樹、木造1階、178席、邦画を上映。1996年の映画館名簿では経営会社が有限会社安楽座、経営者が荒木与一郎、支配人が荒木秀樹、木造1階、178席、成人映画を上映。1997年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「森山整形外科」が入るマンション「ピアポート鵜ノ木」。最寄駅は東急多摩川線鵜の木駅。
テアトル蒲田・蒲田宝塚劇場/テアトルカマタ・カマタ宝塚/テアトルカマタ・蒲田宝塚/テアトル蒲田・蒲田宝塚
所在地 : 東京都大田区御園1-25(1966年)、東京都大田区西蒲田7-61-1(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年)、東京都大田区西蒲田7-61-7(1985年)、東京都大田区西蒲田7-61-1(1990年・1995年・1998年・2000年・2005年・2010年・2015年・2018年)
開館年 : 1964年6月
閉館年 : 2019年9月5日
Wikipedia : 蒲田宝塚・テアトル蒲田
1966年の映画館名簿では「テアトル蒲田・蒲田宝塚劇場」(2館)。1966年の映画館名簿では経営会者が蒲田文化会館、支配人が大谷津博、鉄筋造2階冷暖房付、テアトル蒲田が定員450でTY紅系を上映、蒲田宝塚劇場が386席で東宝を上映。1969年の映画館名簿では「テアトル・カマタ」と「カマタ宝塚」。1970年の全住宅明細図帳では「東京蒲田文化会館 KKヨーカ堂 蒲田宝塚 テアトル蒲田」。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「テアトル・カマタ」と「蒲田宝塚」(2館)。1990年・1995年・1998年・2000年・2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「テアトル蒲田・蒲田宝塚」(2館)。1998年の映画館名簿では経営会社が株式会社東京蒲田文化会館、経営者が杉山謹三郎、支配人が亀井昭彦、鉄筋造4階、テアトル蒲田が428席で東映を上映、蒲田宝塚が385席で東宝を上映。2018年の映画館名簿では経営会社が株式会社東京蒲田文化会館、経営者が杉山良雄、支配人が山崎久司、テアトル蒲田が304席、蒲田宝塚が339席。2020年の映画館名簿には掲載されていない。建物名は東京蒲田文化会館。建物の東京蒲田文化会館は現存。最寄駅は東急多摩川線・東急池上線蒲田駅。

「テアトル蒲田・蒲田宝塚」に言及している書籍として、大屋尚浩『日本懐かし映画館大全』辰巳出版、2017年がある。*47
平和島シネマサンシャイン/シネマサンシャイン平和島
所在地 : 東京都大田区平和島1-1-1 ビッグファン平和島4階(2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 2002年7月
閉館年 : 営業中
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2005年の映画館名簿では「平和島シネマサンシャイン1番館-7番館」(7館)。2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「シネマサンシャイン平和島1-7」(7館)。

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