閉館した映画館を中心とする、日本の映画館の総合データベースです。管理人「hekikaicinema」のみが編集可能。


大垣市

終戦直後の大垣市の映画館
大垣市にあった映画館「帝国劇場」は太平洋戦争の戦災で焼失したが、1945年(昭和20年)10月15日夜から寺内町にある元中●●●工場講堂を常設映画館とした。なお、南●町にも東亜航機の元工場を用いた映画館「日本劇場」が開館する。(※●は文字がつぶれて判読できず)*1

太平洋戦争で芝居小屋・映画館ともに全焼した大垣市では、1945年(昭和20年)秋の最近になって「厚生劇場」、「東宝日本劇場」、「帝国劇場」の3館が映画や演劇の公演を開始した。3館とも軍需工場施設の部分転用である。*2

1946年(昭和21年)5月現在の大垣市には「東宝」、「帝劇」、「日劇」、「大劇」の4娯楽施設があるが、5月14日には中心市街地のビル1階を改装して「生必会館」が開館する。戦後に退職した三菱重工業の元社員らで組織する日本生必株式会社が経営する。*3

1946年(昭和21年)9月末には大垣市最大の1500人を収容する「大垣小劇場」が開館する。「日劇」、「大劇」、「東宝」、「帝劇」、「生必」と合わせて6館体制となり、戦災前より2館増加することとなる。*4
大垣市の映画館
月刊雑誌『西美濃わが街』124号、1987年には江巣奨による「大垣映画館ものがたり」が掲載されている。岐阜県図書館や大垣市立図書館が所蔵している。*5
赤坂劇場
所在地 : 岐阜県不破郡赤坂町(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「赤坂劇場」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1914年(大正3年)に不破郡役所が発行した『不破郡案内』には、「劇場 垂井町 泉座」と「劇場 赤坂町 新栄座」の広告が掲載されている。*6
日本劇場/大垣大映
所在地 : 岐阜県大垣市(1950年)、岐阜県大垣市郭町(1953年・1955年)、岐阜県大垣市郭町3-82(1958年)、岐阜県大垣市郭町3(1960年・1963年)、岐阜県大垣市郭町3-82(1964年)
開館年 : 1946年3月21日
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧1955』によると1946年2月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「日本劇場」。1964年の映画館名簿では「大垣大映」。1964年の映画館名簿では経営者が藤井朝太、支配人が中島治、木造2階建、定員583、大映を上映。1960年-1965年のゼンリン住宅地図では「パチンコ金生」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年のゼンリン住宅地図では「日劇」。1977年のゼンリン住宅地図では跡地に「駐車場」。1984年のゼンリン住宅地図では跡地に駐車場。1986年・1991年のゼンリン住宅地図では跡地に「月極駐車場」。跡地は「セブンイレブン大垣郭町3丁目店」建物部分。

1946年(昭和21年)3月21日、大垣市に2000人を収容できる映画館「日本劇場」がお目見えした。「東宝劇場」、「帝国劇場」、「大垣劇場」と合わせて4映画館体制となった。近いうちには「大垣小劇場」も開館する予定である。*7
盛栄座/墨俣盛栄座
所在地 : 岐阜県安八郡墨俣町(1953年・1955年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「盛栄座」。1966年の映画館名簿では「墨俣盛栄座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

殿町には「盛栄座」があり、映画や芝居が行われた。当時の墨俣町では唯一の娯楽だった。年1回は料芸組合の「舞ざらえ」という舞踊や寸劇が行われた。館内の写真あり。*8

墨俣町の盛栄社は、飲食店や芸妓置屋などで結成された組合である。*9
主婦の店会館/ニュース劇場/大垣主婦会館
所在地 : 岐阜県大垣市2-1(1960年)、岐阜県大垣市林町2-12(1963年)、岐阜県大垣市林町1(1965年)、岐阜県大垣市林町2-111(1966年)
開館年 : 1958年6月1日
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「主婦の店会館」。1960年の映画館名簿では経営者が久世久子、支配人が久世耕逸、木造2階建、定員250、ニュースを上映。1960年-1965年のゼンリン住宅地図では「主婦の店」。1965年の映画館名簿では「ニュース劇場」。1966年の映画館名簿では「大垣主婦会館」。1969年のゼンリン住宅地図では「主婦の店」。1977年のゼンリン住宅地図では跡地に「ソーコ」。1984年のゼンリン住宅地図では跡地に「久世食品工業株式会社ソーコ」。1986年のゼンリン住宅地図では跡地に「パチンコプレイランド后廖1991年のゼンリン住宅地図では跡地に「パチンコUSA」。大垣駅北側にあった唯一の映画館。跡地は「コメダ珈琲店大垣林町店」駐車場。

1958年(昭和33年)6月1日、大垣市林町の映画館「主婦の店会館」の開館式が行われた。武藤嘉門岐阜県知事も出席している。経営者は大垣市の連合婦人会員や有力者の夫人たち。映画館は不潔な雰囲気の場所が多く、経営者らは家族連れで楽しく鑑賞できる映画館を理想としていた。主婦の店を開店させた久世久子らは婦人たちに出資を呼びかけ、65人が出資している。工費は600万円、延べ140坪、2階建て。定員250人。ニュース、文化映画、記録映画などを上映する。入場料は大人20円、子供10円という安さ。テレビホールや集会場もあり、文化事業などに用いる予定。会館前の空き地はブランコや滑り台を有する子供遊園地にする予定。営利より社会事業面に重点を置いた、全国でも珍しい映画館である。*10
大垣シヤトル/大垣日活/大垣日活劇場
所在地 : 岐阜県大垣市郭町3-207(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1956年3月6日
閉館年 : 1973年前半
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「大垣シャトル」。1960年の映画館名簿では「大垣シヤトル」。1963年の映画館名簿では「大垣日活」。1960年-1965年のゼンリン住宅地図では「大垣日活」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「大垣日活劇場」。1969年のゼンリン住宅地図では「大垣日活」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。1977年のゼンリン住宅地図では跡地に「アキヤビル」。1984年・1991年のゼンリン住宅地図では跡地に「パンの店リボリ」。現在の跡地は「大垣共立銀行本店」から岐阜県道57号を挟んで西にあるパン屋「ヒシヤの店リボリ」。

1956年(昭和31年)3月5日、大垣市郭町3の映画館「大垣シヤトル」の落成式が行われる。一般公開は3月6日からである。総工費2000万円。鉄筋コンクリート造3階建て。延べ250坪、収容人員500人。最新式ウェスタン発生装置、冷暖房装置などを有する。今まで大垣市になかった日活系統の映画館。大垣市の映画館は7館となった。*11

1973年(昭和48年)のこのほど、大垣市の映画館「大垣日活劇場」が閉館した。1955年(昭和30年)頃の大垣市には9館、周辺町村にも9館があったが、1972年(昭和47年)までに大垣市内の8館を除いてすべて閉館した。大垣税務署の調査によると、1963年(用話38年)には年間計91万人の入場者があったが、1972年(昭和47年)には年間計33万人にまで激減している。大垣市内では副業的な経営者が多いので持ちこたえているとされる。*12
大垣スイト会館/スイト会館/大垣松竹/大垣松竹映画劇場(郭町3)
所在地 : 岐阜県大垣市(1950年)、岐阜県大垣市郭町(1953年・1955年)、岐阜県大垣市郭町3-84(1958年・1969年・1973年)
開館年 : 1946年3月(木造)、1954年6月25日(鉄筋造)
閉館年 : 1976年11月23日
『全国映画館総覧1955』によると1946年3月開館。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「スイト会館」。1958年の映画館名簿では「大垣スイト会館」。1960年の映画館名簿では郭町3に「スイト会館」。1963年の映画館名簿では「大垣松竹」。1960年-1965年のゼンリン住宅地図では「スイト映劇」。1966年の映画館名簿では郭町3-48に「大垣松竹映画劇場」。1969年のゼンリン住宅地図では「スイト松竹」。1969年の映画館名簿では郭町3-84に「大垣松竹映画劇場」。1973年の映画館名簿では郭町2-84に「大垣松竹映画劇場」。1976年の映画館名簿では郭町3-84に「大垣松竹映画劇場」。1977年のゼンリン住宅地図では「スイト松竹」。1976年11月、休館中のロマン座の建物に移転。1984年のゼンリン住宅地図では跡地に駐車場。1986年・1991年のゼンリン住宅地図では跡地に「月極駐車場」。跡地は「セブンイレブン大垣郭町3丁目店」の駐車場部分。

1954年(昭和29年)6月25日、大垣市の「スイト会館」で開館記念式が行われる。1953年(昭和28年)暮れから西濃地方初の鉄筋4階建てへの改築工事を進めていた。社長は堀江進。座席はスタジアム式であり、冷暖房装置、ビクター高級発声器を備えている。オープニング作品は『陽は沈まず』であり、松竹系作品を上映する。*13

1966年の大垣市竹島町にあった映画館「大垣松竹劇場」の入口付近の写真あり。竹島町には大垣松竹劇場以外に、「テアトル国際」と「竹島劇場」があり、また近くには「日劇」や「東映会館」もあったため、周辺は映画を観る観客でにぎわっていた。*14
大垣国際日活劇場/大垣国際劇場/大垣テアトル国際
所在地 : 岐阜県大垣市竹島町43(1958年・1960年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年)
開館年 : 1948年12月
閉館年 : 1982年以後1984年以前
『全国映画館総覧1955』によると1948年12月開館。1958年の映画館名簿では「大垣国際劇場」。1960年の映画館名簿では「大垣国際日活劇場」。1960年-1965年のゼンリン住宅地図では「国際劇場」。1963年・1966年の映画館名簿では「大垣国際劇場」。1969年のゼンリン住宅地図では「国際劇場」。1969年・1973年・1976年・1980年・1982年の映画館名簿では「大垣テアトル国際」。1977年のゼンリン住宅地図では「テアトル国際劇場」。1980年の映画館名簿では経営会社が国際興業、経営者が田中義夫、支配人が山田修、鉄筋造1階、280席、洋画を上映。1985年の映画館名簿には掲載されていない。1984年・1991年のゼンリン住宅地図では跡地に駐車場。跡地は雑貨店「バルーンアート&ギフト アリサ」北にある駐車場。

1954年6月25日、大垣市郭町3丁目の映画館「大垣スイト会館」が開館する。社長は堀江進。1953年暮れから鉄筋コンクリート造4階建てを新築しており、鉄筋コンクリート造の映画館は西濃地方初である。9時30分から開館記念式典を開催。座席はスタジアム式であり、冷暖房装置やビクター高級発声器を備える。この日から『陽は沈まず』を封切り、松竹系映画を上映する。*15
竹島劇場/大垣大映竹島劇場/大垣竹島劇場
所在地 : 岐阜県大垣市竹島(1960年)、岐阜県大垣市竹島町38(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年)
開館年 : 1959年5月
閉館年 : 1985年11月25日
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1966年の映画館名簿では「竹島劇場」。1960年-1965年のゼンリン住宅地図では「竹島東映」。1969年の映画館名簿では「大垣大映竹島劇場」。1969年のゼンリン住宅地図では「竹島東映」。1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「大垣竹島劇場」。1977年・1984年・1986年のゼンリン住宅地図では「竹島劇場」。1980年の映画館名簿では経営会社が竹島劇場、経営者・支配人ともに青木秀夫、鉄筋造1階、283席、成人映画を上映。1990年の映画館名簿には掲載されていない。1991年のゼンリン住宅地図では跡地に「ホライゾン」。跡地はバー「WAVE」などが入っている「ホライゾンビル」。

1985年(昭和60年)11月25日、大垣市竹島町の映画館「竹島劇場」が26年の歴史に幕を閉じて閉館する。写真あり。11月23日から11月25日の3日間は無料開放され、『銭形平次捕物控 八人の花嫁』と『宇宙怪獣ガメラ』が上映される。1959年(昭和34年)5月の大垣まつりに合わせて開館した。映画全盛期の竹島町には6館もの映画館がひしめいていた。大映や第二東映の邦画を上映していたが、1971年には大映が倒産し、成人映画専門の映画館となった。1986年(昭和61年)秋には跡地に鉄筋コンクリート造8階建てのビル「ハウスセブン」が建つ予定である。1階に婦人服などのテナント、2階に70-80席の小劇場を設け、婦人対象の作品があれば上映したいとする。3階は飲食店、4階以上はビジネスホテルとなる。*16

1985年(昭和60年)11月25日、大垣市竹島町の映画館「竹島劇場」が26年の歴史に幕を閉じて閉館した。写真あり。1959年(昭和34年)5月に開館し、大映や第二東映の作品を中心に上映していた。勝新太郎や田宮二郎らのスターが舞台挨拶に訪れたこともあった。会社としての竹島劇場は、安八郡墨俣町、輪之内町、不破郡垂井町、養老郡養老町など西濃地方を中心に8館の映画館を経営していた。1971年(昭和46年)の大映倒産後には成人映画専門館となった。かつて竹島町には竹島劇場のほかに、「国際劇場」、「ロマン座」、「日劇」、「日活」、「大垣松竹」も含めた6館があったが、吸収や閉館を繰り返した。竹島町にある「大垣松竹」も1986年(昭和61年)1月に閉館する予定であり、親会社の田中印刷興業の写真スタジオになる予定。*17
ロマン座/大垣ロマン座/大垣松竹映画劇場(竹島町)
所在地 : 岐阜県大垣市竹島町60(1958年・1960年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年)
開館年 : 1952年12月30日(ロマン座)、1976年11月26日(大垣松竹)
閉館年 : 1974年(ロマン座)、1986年1月(大垣松竹)
『全国映画館総覧1955』によると1952年12月開館。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「ロマン座」。1960年-1965年のゼンリン住宅地図では「ロマン座」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「大垣ロマン座」。1969年のゼンリン住宅地図では「ロマン座」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。1977年のゼンリン住宅地図では跡地に「映画館(大垣松竹)」。1980年の映画館名簿では経営会社がスイト会館、経営者が田中尚安、支配人が粟田清治、鉄筋造1階、250席、松竹を上映。1980・1985年の映画館名簿では竹島町60に「大垣松竹映画劇場」。1984年のゼンリン住宅地図では「大垣松竹」。1986年のゼンリン住宅地図では「大垣松竹(映画館)」。1991年のゼンリン住宅地図では跡地に駐車場。現在の跡地は「田中工業契約駐車場」。

1952年(昭和27年)12月30日、大垣市竹島町に洋画専門館「ロマン座」が開館する。写真あり。経営は大垣土地興行株式会社であり、同社の直営館である「国際劇場」の左横にある。これで大垣市の映画館は6館となった。座席数は350であり、ビロード張りで1人1脚。アメリカ・ウエスタン式の高級発声装置、冷暖房装置なども備えている。*18

1976年11月26日、大垣市郭町3にあった「大垣松竹映画館」が竹島町の「ロマン座」跡地に移転して開館する。1974年に25周年を迎えた大垣松竹はスイト会館の名で親しまれていたが、建物の老朽化に加えて、竹島町に映画館街を作る狙いもあり、ロマン座の建物に移転した。ロマン座は洋画上映館だったが、2年半前から経営不振で休館して倉庫となっていた。ロマン座時代の450席を360席(1階300席・2階60席)に減らして間隔を広げ、スクリーンや映写機を新しい姿に整備する。大垣松竹の旧館では11月17日から11月23日まで半額の500円で上映する。11月24日と11月25日は移動のために休業し、11月26日にロマン座跡地で営業を再開する。松竹専門館なのは変わらず、開館日には『北の宿から』と『俺たちの時』を上映する。*19

1976年11月26日、大垣市竹島町の「ロマン座」跡地に「大垣松竹映画館」が移転して新装開館する。開館を記念して、西城秀樹・野口五郎・郷ひろみらのサイン色紙、寅さんのイラスト色紙、レコードのプレゼントなどがある。新装開館する大垣松竹映画館の写真あり。*20

1986年(昭和61年)1月には大垣市竹島町にある「大垣松竹」が閉館する予定である。親会社の田中印刷興業の写真スタジオになる予定。*21
大垣劇場/大垣東映劇場/大垣東映会館
所在地 : 岐阜県大垣市郭町(1950年・1953年・1955年)、岐阜県大垣市郭町3-69(1958年)、岐阜県大垣市郭町3(1960年)、岐阜県大垣市郭町3-69(1966年・1969年)、岐阜県大垣市郭町2-69(1973年・1976年)、岐阜県大垣市郭町3-69(1980年・1985年・1990年・1995年)
開館年 : 1945年10月(芝居小屋?)、1948年(映画館化)、1969年(ビル化)
閉館年 : 1997年1月17日
『全国映画館総覧1955』によると1945年10月開館。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「大垣劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「大垣東映劇場」。1960年-1965年のゼンリン住宅地図では「大垣東映」。1969年のゼンリン住宅地図では「建設用地」。1977年・1986年のゼンリン住宅地図では「大垣東映会館」。1973年・1976年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「大垣東映劇場・大垣スター劇場」(2館)。1980年の映画館名簿では経営者はいずれも松岡稔、支配人はいずれも松岡健、大垣東映劇場が鉄筋造2階部分384席、大垣スター劇場が3階部分160席、大垣東映劇場が東映を上映、大垣スター劇場がにっかつを上映。1984年・1991年のゼンリン住宅地図では「東映会館」。跡地はマンション「キャッスルハイツ大垣郭町」。

1994年5月1日、大垣東映会館社長の松岡稔が大垣市民病院で死去した。死因は大腸がん。大垣市出身。71歳。*22

1994年1月21日午後、大垣市の繁華街にある雑居ビル「大垣東映会館」の外壁が突然崩れ落ち、歩道を歩いていた女性が落ちてきたタイルでけがをした。事故があったのは大垣市郭町3-69にある映画館ビル大垣東映会館。同ビルの南側外壁が約161平方メートルにわたって崩れ落ちた。大垣東映会館は鉄筋コンクリート造4階建てであり、延床面積は約800平方メートル。1階にはスナックや飲食店など9店舗、2階と3階が映画館、4階は電気機械室になっている。1969年(昭和44年)11月に建てられ、外壁は当時のままだった。JR東海道本線大垣駅から南へ約1キロほどの商店街で、飲食店やパチンコ店などが並んでいる。事故当時、ビル内の飲食店などは営業しておらず、映画館内には約15人の客がいた。*23

1994年1月21日午後3時30分頃、大垣市郭町3-69の映画館「大垣東映会館」の南側外壁の一部が崩れ落ち、歩道を歩いていた女性にタイルが直撃、女性は右ひざ関節を骨折した。建物は1969年完成であり、高さは14.2メートル、南側の幅は21.9メートル。1階にはスナックなど9店舗があり、2階と3階が映画館となっている。映画館にいた15人ほどの客は無事だった。店舗は営業していなかった。大垣東映会館は大垣市中心部にあり、駐車ともに人通りの多い場所である。*24

1997年(平成9年)1月17日をもって、約半世紀にわたって親しまれてきた大垣市郭街東2の映画館「大垣東映会館」(松岡健代表)が閉館する。西濃地方には5映画館があるが、大垣東映会館には2館が入っており、残るのは大垣市栗屋町の「大垣東宝会館」内の3館のみ。1948年(昭和23年)、松岡代表の祖父である松岡健三が芝居小屋を譲り受けて創業。1960年代の映画ブームで急成長し、1970年代にはカラーテレビの普及などで映画ブームは下火となったが、東映のヤクザ映画の人気に支えられて好調に推移した。大垣市内にあったほかの8軒は軒並み入場者を減らしたが、大垣東映会館は健闘した。1969年に現在の鉄筋コンクリート造4階建ての会館を建設。2つのスクリーンを持ち、テナントとして13店が入居。当時としては画期的な施設だった。ヤクザ映画と日活の成人映画で年間最高15万人の入場者があった。邦画界の低迷や洋画の話題作に人気を奪われるなどし、入場者は年々減少。他館が次々と閉館する中、洋画と子供向け映画を主力に営業を続けたが、最近は一日の入場者が数人という日も少なくなかった。施設の老朽化も激しかった。*25

1997年1月、大垣市郭町東2丁目の映画館「大垣東映会館」が閉館した。終戦直後から約50年の歴史を閉じた。観客が減ったため。最盛期には1日2000人の観客がいたが、1日数人程度まで減っていた。*26

1997年1月17日、大垣市郭町東の映画館「大垣東映会館」が閉館した。太平洋戦争終戦直後から大垣市中心部で営業していた。現在の建物は鉄筋コンクリート造4階建て。ピーク時には1日2000人あった観客数は、最近は1日数人程度まで落ち込んでいた。3年前には外壁タイルが剥がれ落ちる事故などもあり、建物の老朽化も進行していた。事故後には大規模な改修工事も行ったが、結局は数年で閉館を決めた。最盛期は大垣市内に9館あった映画館は大垣東宝会館内の3館のみとなる。*27
平和劇場/大垣東宝劇場/大垣東宝会館
所在地 : 岐阜県大垣市栗屋町47(1958年・1960年・1966年・1969年・1973年・1976年)、岐阜県大垣市栗屋町34(1980年・1985年・1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1919年5月、1977年8月2日(ビル化)
閉館年 : 2000年秋頃
1955年の映画館名簿では「平和劇場」。1955年の映画館名簿では木造1階、経営者・支配人ともに渡辺和郎、定員400、映写機はローヤルL型、発声器は日本光音、混合を上映。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「大垣東宝劇場」。1960年の映画館名簿では木造2階、経営者・支配人ともに渡辺和郎、定員600、映写機はローヤル、発声器は第一音響、東宝を上映。1960年-1965年のゼンリン住宅地図では「大垣東宝」。1969年・1977年のゼンリン住宅地図では「大垣東宝」。1977年7月30日に大垣東宝会館ビルを建設し、大垣東宝劇場・大垣スカラ座・大垣シネマの3館化。1980年の映画館名簿では大垣東宝劇場が鉄筋コンクリート造3階部分300席、大垣スカラ座が鉄筋コンクリート造5階部分、大垣シネマが鉄筋コンクリート造2階部分、経営会社は大垣東宝劇場と大垣スカラ座が中部共栄興業、大垣シネマが大垣東宝興業、経営者は大垣東宝劇場と大垣スカラ座が西野文男、大垣シネマが渡部和郎、支配人は大垣東宝劇場と大垣スカラ座が木村孝、大垣シネマが渡部和郎、大垣東宝劇場が東宝を上映、大垣スカラ座が洋画を上映、大垣シネマが洋画を上映。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「大垣東宝劇場・大垣スカラ座・大垣シネマ」(3館)。1984年・1986年・1991年のゼンリン住宅地図では「大垣東宝会館 大垣東宝 大垣シネマ 大垣スカラ座」。2000年の映画館名簿では大垣東宝劇場が鉄筋コンクリート造5階部分221席、大垣スカラ座が3階部分300席、大垣シネマが2階部分120席、経営会社はいずれも大垣東宝興業、経営者はいずれも渡部達也、支配人はいずれも渡部達也、大垣東宝劇場は東宝を上映、大垣スカラ座と大垣シネマは洋画を上映。2000年秋頃に閉館。シネコンを除けば大垣市最後の映画館。跡地は有料駐車場「名鉄協商大垣栗屋町駐車場」。

大垣東宝興業は栗屋町の大垣東宝映画館を取り壊し、大垣東宝会館を建設する。従来の東宝封切り館のほかに、東宝系洋画封切館、邦画・洋画の成人映画館の2館を併設する。現在の建物は木造(一部鉄筋コンクリート造)2階建てで老朽化が進んでいた。1977年1月24日から取り壊し作業に入り、その後鉄筋コンクリート造7階建てのビルの建設作業を行う。1階は岐阜県初の映画館専用駐車場25台分と喫茶店。2階は成人向け館の特選劇場(120席)、3階・4階は東宝封切館の大垣東宝(326席)、5階・6階は東宝系洋画封切館の大垣スカラ座(283席)。総工費は2億3000万円。8月2日開館予定。*28

1977年7月30日、大垣市栗屋町34に「大垣東宝会館」がオープンした。写真あり。1月から改築していた。鉄筋コンクリート造6階建て。2階に大垣シネマ(120席)、3階に大垣東宝(300席)、4階に大垣スカラ座(221席)の3館が入る。3階の集中映写室から反射鏡を用いて画面を送る画期的な方式を採用している。反射鏡は横4メートル×縦1.9メートル・厚さ10ミリであり、日本光学が製作した。*29

(※2000年11月7日の新聞記事)大垣東宝会館がひっそりと閉館し、西濃地方から映画館がなくなった。大垣市商店街振興組合連合会の安田礼三理事長は「現在の商店街は映画館を中心にして発展してきたので、何としても商店街の活性化のために残してほしかった」と残念がる。今年2000年(平成12年)3月24日には本巣郡真正町に16スクリーンのシネコンが開館し、さらに11月10日には羽島郡柳津町にも10スクリーンのシネコンが開館する。*30
大垣コロナワールド/大垣コロナシネマワールド
所在地 : 岐阜県大垣市三塚町字西沼523-1(2010年・2015年)
開館年 : 2005年12月17日
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年の映画館名簿では「大垣コロナワールド1-10」(10館)。2015年の映画館名簿では「大垣コロナシネマワールド1-10」(10館)。

2005年12月17日、大垣市三塚町の大型商業施設「ロックシティ大垣」にあるアミューズメント施設「大垣コロナワールド」が、パチンコ店など一部を除き営業を始めた。全国にアミューズメント施設を展開する「コロナ」が建設。私設は鉄骨3階建て延べ約2万平方メートル。10スクリーン計1551席ある映画館、ボウリング場、カラオケ、インターネットカフェ、まんが喫茶、レストラン、託児施設などを備えている。*31

2015年4月17日、大垣市三塚町の映画館「大垣コロナシネマワールド」に岐阜県で初めて「4DX」が導入される。映画の場面に合わせて座席が動き、顔に風や水しぶきがかかる。天井から雪を降らせたり、スクリーンの下から煙を起こしたりすることもできる。2013年4月には国内で初めて、名古屋市中川区の「中川コロナシネマワールド」に導入された。コロナグループとしては大垣で6か所目となる。改装費用は1億7000万円。*32

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