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hekikaicinema 2023年09月22日(金) 03:40:09履歴
静岡市の映画館を参照。
浜松市の映画館を参照。
沼津市の映画館を参照。
富士市の映画館を参照。
磐田市の映画館を参照。
藤枝市の映画館を参照。
焼津市の映画館を参照。
所在地 : 静岡県浜名郡入出村474(1953年・1955年)、静岡県浜名郡湖西町入出(1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 明治時代
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1937年6月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「入出座」。1964年の映画館名簿では「入出座(休館中)」。1963年の映画館名簿では経営者が袴田静男、支配人が袴田きく、木造2階、定員689、邦画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
1967年12月28日、湖西町北部で唯一の娯楽施設だった「入出座」が取り壊された。入出座は明治時代に劇場として建設され、後に映画館に改修された。新所=入出=知波田の間に農免道路が建設される際に、道路用地に収容されて取り壊されている。(※取り壊し年月日が書かれているだけであり、閉館した年月日は不明。)*2
開館年 : 明治時代
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1937年6月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「入出座」。1964年の映画館名簿では「入出座(休館中)」。1963年の映画館名簿では経営者が袴田静男、支配人が袴田きく、木造2階、定員689、邦画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
1967年12月28日、湖西町北部で唯一の娯楽施設だった「入出座」が取り壊された。入出座は明治時代に劇場として建設され、後に映画館に改修された。新所=入出=知波田の間に農免道路が建設される際に、道路用地に収容されて取り壊されている。(※取り壊し年月日が書かれているだけであり、閉館した年月日は不明。)*2
所在地 : 静岡県浜名郡新居町浜名138(1953年)、静岡県浜名郡新居町浜名(1955年)、静岡県浜名郡新居町源太山新国通(1958年)、静岡県浜名郡新居町浜名180(1960年)、静岡県浜名郡新居町源太山(1963年・1964年)、静岡県浜名郡新居町浜名(1965年)
開館年 : 1936年12月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「小松劇場」。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「新居劇場」。1965年の映画館名簿では経営者が坂田秀夫、支配人が坂田綾子、木造2階、定員500、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のアイゼン住宅地図では跡地に「モーターボート競走会」。跡地は「セブンイレブン新居町浜名店」。
大正時代の「小松劇場」の内部の写真あり。桟敷席が見える。旧「新居劇場」の前で行われている源太山の国道付け替え工事の写真あり。「新居劇」の文字が見える。*3
昭和10年代の新居町新居にあった劇場「小松劇場」の写真あり。1階席・2階席とも大勢の人でにぎわっている。1934年6月、芸者置屋の新小松が所有していた劇場「新居劇場」が焼失した。新小松は1936年6月に源太山に新しい劇場を建設し、12月に「小松劇場」が開館した。*4
1876年5月、貸座敷業を営んでいた泉町の中野六郎平は、劇場の新築と営業を出願して許可された。1877年4月の芝居は新築された劇場「住吉座」で上演されたと思われる。住吉座は明治大正期の新居町の娯楽の中心であり、1906年頃には中町の荒木庄太郎が住吉座の座主となった。住吉座では芝居・各種講義・浄瑠璃・手品などが行われ、明治30年代後半からは活動写真も上映されるようになった。この後、船待ちにも芝居小屋「港座」が設けられ、芝居・映画会・寄席などが行われた。その後住吉座は「新居劇場」に改称した。時期不明の新居劇場の写真あり。新居劇場の所有者は何度か交代し、最終的には芸者置屋の新小松が所有していたが、1934年6月25日の火災で焼失した。1936年6月には新小松によって、源太山に新たな劇場の建設が開始され、同年12月に開場して「小松劇場」と呼ばれた。船町の港座も館内を改修して規模を拡大させ、1936年2月27日に改名披露興行を行った。*5
江戸時代の新居町は宿場町として栄え、明治以降にも相撲の興行や民家の座敷での芝居などが行われた。1876年には劇場「住吉座」の営業が始まり、芝居・講談・浄瑠璃・手品・活動写真などの興行が行われたが、1934年6月に火災で焼失した。1936年6月、新たな劇場「小松劇場」(後の新居劇場)が誕生した。新居町の船町にも芝居小屋「港座」があったが、港座は規模を拡大させて「新居館」に改称した。小松劇場を訪れた俳優としては榎本健一(エノケン)、辰巳柳太郎、若尾文子ら、歌手としては岡晴夫、灰田勝彦、伊藤久雄ら、女剣劇としては不二洋子、都々逸としては柳家三亀松、万弾としては大辻司郎がいた。1935年に誘致された浜名紡績(後の新日本紡績)の女工らも新居劇場を訪れた。新居劇場は1966年に役目を終えて取り壊された。*6
開館年 : 1936年12月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「小松劇場」。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「新居劇場」。1965年の映画館名簿では経営者が坂田秀夫、支配人が坂田綾子、木造2階、定員500、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のアイゼン住宅地図では跡地に「モーターボート競走会」。跡地は「セブンイレブン新居町浜名店」。
大正時代の「小松劇場」の内部の写真あり。桟敷席が見える。旧「新居劇場」の前で行われている源太山の国道付け替え工事の写真あり。「新居劇」の文字が見える。*3
昭和10年代の新居町新居にあった劇場「小松劇場」の写真あり。1階席・2階席とも大勢の人でにぎわっている。1934年6月、芸者置屋の新小松が所有していた劇場「新居劇場」が焼失した。新小松は1936年6月に源太山に新しい劇場を建設し、12月に「小松劇場」が開館した。*4
1876年5月、貸座敷業を営んでいた泉町の中野六郎平は、劇場の新築と営業を出願して許可された。1877年4月の芝居は新築された劇場「住吉座」で上演されたと思われる。住吉座は明治大正期の新居町の娯楽の中心であり、1906年頃には中町の荒木庄太郎が住吉座の座主となった。住吉座では芝居・各種講義・浄瑠璃・手品などが行われ、明治30年代後半からは活動写真も上映されるようになった。この後、船待ちにも芝居小屋「港座」が設けられ、芝居・映画会・寄席などが行われた。その後住吉座は「新居劇場」に改称した。時期不明の新居劇場の写真あり。新居劇場の所有者は何度か交代し、最終的には芸者置屋の新小松が所有していたが、1934年6月25日の火災で焼失した。1936年6月には新小松によって、源太山に新たな劇場の建設が開始され、同年12月に開場して「小松劇場」と呼ばれた。船町の港座も館内を改修して規模を拡大させ、1936年2月27日に改名披露興行を行った。*5
江戸時代の新居町は宿場町として栄え、明治以降にも相撲の興行や民家の座敷での芝居などが行われた。1876年には劇場「住吉座」の営業が始まり、芝居・講談・浄瑠璃・手品・活動写真などの興行が行われたが、1934年6月に火災で焼失した。1936年6月、新たな劇場「小松劇場」(後の新居劇場)が誕生した。新居町の船町にも芝居小屋「港座」があったが、港座は規模を拡大させて「新居館」に改称した。小松劇場を訪れた俳優としては榎本健一(エノケン)、辰巳柳太郎、若尾文子ら、歌手としては岡晴夫、灰田勝彦、伊藤久雄ら、女剣劇としては不二洋子、都々逸としては柳家三亀松、万弾としては大辻司郎がいた。1935年に誘致された浜名紡績(後の新日本紡績)の女工らも新居劇場を訪れた。新居劇場は1966年に役目を終えて取り壊された。*6
所在地 : 静岡県浜名郡鷲津町126-7(1955年)、静岡県浜名郡湖西町1289(1958年)、静岡県浜名郡湖西町鷲津(1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1918年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「大国座」。1970年の映画館名簿では経営者が袴田静男、支配人が袴田きく、木造2階、定員465、邦画を上映。1970年のアイゼン住宅地図では「大国座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はビジネスホテル「くれたけイン浜名湖」。
1918年、鷲津に劇場「大国座」が落成して開演した。*7
開館年 : 1918年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「大国座」。1970年の映画館名簿では経営者が袴田静男、支配人が袴田きく、木造2階、定員465、邦画を上映。1970年のアイゼン住宅地図では「大国座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はビジネスホテル「くれたけイン浜名湖」。
1918年、鷲津に劇場「大国座」が落成して開演した。*7
所在地 : 静岡県周智郡山梨町上山梨(1947年)、静岡県周智郡山梨町(1949年・1950年)、静岡県周智郡山梨町山梨965(1953年)、静岡県周智郡山梨町山梨(1958年)、静岡県周智郡山梨町965-1(1960年)、静岡県周智郡山梨町上山梨(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1965年頃
1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1949年の映画館名簿では「有楽座」。1950年の映画館名簿では「山梨有楽座」。1953年の映画館名簿では「有楽座」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「有楽座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1971年の袋井市住宅明細図では袋井警察署山梨交番北北西70mに「パチンコ有楽ホール」。
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1965年頃
1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1949年の映画館名簿では「有楽座」。1950年の映画館名簿では「山梨有楽座」。1953年の映画館名簿では「有楽座」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「有楽座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1971年の袋井市住宅明細図では袋井警察署山梨交番北北西70mに「パチンコ有楽ホール」。
所在地 : 静岡県磐田郡袋井町1195(1958年)、静岡県袋井市高尾1195(1960年)、静岡県袋井市高尾1175(1963年)
開館年 : 1955年秋
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「センター ホール」。1960年・1963年の映画館名簿では「センターホール」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1971年の袋井市住宅明細図では発見できず。
1955年秋、駅前東通りに「オリオン座」と「センターホール」という映画館2館が同時に開館した。*8
開館年 : 1955年秋
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「センター ホール」。1960年・1963年の映画館名簿では「センターホール」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1971年の袋井市住宅明細図では発見できず。
1955年秋、駅前東通りに「オリオン座」と「センターホール」という映画館2館が同時に開館した。*8
所在地 : 静岡県磐田郡袋井町高尾(1958年)、静岡県袋井市高尾1173-1(1960年)、静岡県袋井市高尾1173(1963年)、静岡県袋井市高尾1173-1(1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1955年秋
閉館年 : 1973年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「オリオン座」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「袋井オリオン座」。1971年の袋井市住宅明細図では「袋井座」。1972年の住宅地図では「オリオン座」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「スナック エスポワール」がある付近。しかし区画整理事業で道路割が完全に変化してるので場所は参考程度に。最寄駅はJR東海道本線袋井駅。
昭和30年代の写真あり。『美しき哀愁』と『忠臣蔵』の看板がかかっている。1955年秋、磐田郡袋井町の駅前東通りに「オリオン座」と「センターホール」という映画館2館が同時に開館した。*9
1966年の袋井市にあった映画館「オリオン座」の写真あり。1955年、東通りから小路に入った場所に開館した。東通りには映画館「センターホール」もあった。*10
開館年 : 1955年秋
閉館年 : 1973年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「オリオン座」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「袋井オリオン座」。1971年の袋井市住宅明細図では「袋井座」。1972年の住宅地図では「オリオン座」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「スナック エスポワール」がある付近。しかし区画整理事業で道路割が完全に変化してるので場所は参考程度に。最寄駅はJR東海道本線袋井駅。
昭和30年代の写真あり。『美しき哀愁』と『忠臣蔵』の看板がかかっている。1955年秋、磐田郡袋井町の駅前東通りに「オリオン座」と「センターホール」という映画館2館が同時に開館した。*9
1966年の袋井市にあった映画館「オリオン座」の写真あり。1955年、東通りから小路に入った場所に開館した。東通りには映画館「センターホール」もあった。*10
所在地 : 静岡県磐田郡袋井町(1930年・1936年・1950年)、静岡県磐田郡袋井町高尾2170(1953年)、静岡県磐田郡袋井町高尾1175(1955年・1958年)、静岡県袋井市1175(1960年・1966年・1969年)、静岡県袋井市高尾275(1973年)、静岡県袋井市高尾1195(1975年・1977年・1978年)、静岡県袋井市高尾1193(1980年・1985年・1986年)
開館年 : 1922年11月(袋井座)、1974年頃(ロマンス座)
閉館年 : 1986年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1922年11月開館。1930年・1936年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「袋井座」。1960年・1963年の映画館名簿では「東映袋井座」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「袋井座」。1971年の袋井市住宅明細図では「袋井座」。1972年の住宅地図では「袋井座」。1973年の映画館名簿では木造2階建て380席、経営者は鈴木常一、支配人は中田邦夫、東宝・洋画・成人映画を上映。1975年・1976年・1978年の映画館名簿では「袋井ロマンス座」。1978年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造平屋建て110席、経営者は鈴木常一、支配人は中田邦夫、邦画・洋画を上映。1980年・1985年・1986年の映画館名簿では「ロマンス座」。1987年・1988年・1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「双葉スポーツ袋井店」と「サロンドシバタ」の間にある建物付近。しかし区画整理事業で道路割が完全に変化してるので場所は参考程度に。袋井市最後の映画館。最寄駅はJR東海道本線袋井駅。
1954年正月の「袋井劇場」の写真あり。「賀正」の文字が見える。「山崎屋商店」のトラック(?)が見える。(※袋井劇場が映画館名簿におけるどの映画館を指すのかは不明)*11
1974年4月29日午後3時30分頃、袋井市高尾の繁華街にあるひしだい製茶会社荒茶再生工場から出火し、映画館「袋井座」、商店、住宅など20棟が全半焼した。袋井座には約100人の観客がいたが、避難して全員無事だった。ひしだい製茶会社は会社更生法の適用が受理されたばかりである。*12
開館年 : 1922年11月(袋井座)、1974年頃(ロマンス座)
閉館年 : 1986年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1922年11月開館。1930年・1936年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「袋井座」。1960年・1963年の映画館名簿では「東映袋井座」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「袋井座」。1971年の袋井市住宅明細図では「袋井座」。1972年の住宅地図では「袋井座」。1973年の映画館名簿では木造2階建て380席、経営者は鈴木常一、支配人は中田邦夫、東宝・洋画・成人映画を上映。1975年・1976年・1978年の映画館名簿では「袋井ロマンス座」。1978年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造平屋建て110席、経営者は鈴木常一、支配人は中田邦夫、邦画・洋画を上映。1980年・1985年・1986年の映画館名簿では「ロマンス座」。1987年・1988年・1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「双葉スポーツ袋井店」と「サロンドシバタ」の間にある建物付近。しかし区画整理事業で道路割が完全に変化してるので場所は参考程度に。袋井市最後の映画館。最寄駅はJR東海道本線袋井駅。
1954年正月の「袋井劇場」の写真あり。「賀正」の文字が見える。「山崎屋商店」のトラック(?)が見える。(※袋井劇場が映画館名簿におけるどの映画館を指すのかは不明)*11
1974年4月29日午後3時30分頃、袋井市高尾の繁華街にあるひしだい製茶会社荒茶再生工場から出火し、映画館「袋井座」、商店、住宅など20棟が全半焼した。袋井座には約100人の観客がいたが、避難して全員無事だった。ひしだい製茶会社は会社更生法の適用が受理されたばかりである。*12
所在地 : 静岡県掛川市伊達方(1960年・1963年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1963年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「山口会館」。1961年の掛川市住宅明細図では「東山口会館」。1964年の掛川市住宅明細図では「東山口会館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大頭龍神社」北東70mにある工場用地。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1963年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「山口会館」。1961年の掛川市住宅明細図では「東山口会館」。1964年の掛川市住宅明細図では「東山口会館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大頭龍神社」北東70mにある工場用地。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。
所在地 : 静岡県小笠郡大浜町報地(1959年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1964年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「大浜映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「大浜文化劇場」。1964年の映画館名簿では「大浜映画劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅明細図では発見できず。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1964年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「大浜映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「大浜文化劇場」。1964年の映画館名簿では「大浜映画劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅明細図では発見できず。
所在地 : 静岡県小笠郡大浜町千浜(1959年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1964年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「千浜文化劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅明細図では発見できず。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1964年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「千浜文化劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅明細図では発見できず。
所在地 : 静岡県小笠郡掛川町掛川(1953年)、静岡県掛川市713-1(1955年)、静岡県掛川市掛川713(1958年)、静岡県掛川市73(1960年)、静岡県掛川市掛川713(1963年)、静岡県掛川市713(1966年)
開館年 : 1950年10月
閉館年 : 1966年5月5日
『全国映画館総覧 1955』によると1950年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「掛川中央劇場」。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1961年の掛川市住宅明細図では「中央劇場」。1964年の掛川市住宅明細図では「中央劇場」。1966年の映画館名簿では「掛川中央劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1991年取り壊し。跡地は「島田掛川信用金庫連雀支店」南南西40mの道路。最寄駅はJR東海道本線掛川駅。
1960年3月1日には第二東映が発足し、各地で第二東映上映館への転向が相次いでいる。静岡県では熱海市の「名画座」、三島市の「三島中央劇場」、沼津市の「東海劇場」、吉原市の「吉原オリオン座」、富士宮市の「ロマン座」、富士市の「富士東映劇場」、焼津市の「ヒカリ座」、島田市の「太陽館」、掛川市の「中央劇場」、磐田市の「スバル劇場」、浜松市の「浜松国際劇場」などが第二東映に転向した。*13
1953年頃の掛川市にあった「中央劇場」の写真あり。戦後の掛川市には、肴町・連雀町・瓦町に映画館が開館した。連雀町には掛川銀行の建物があったが、1935年に解散すると協和銀行掛川支店となり、戦時中は繊維組合事務所に使用されていた。建物はやがてパチンコ屋の中央会館となった。*14
1954年の掛川市にあった「中央劇場」の写真あり。1889年に設立された掛川銀行は全国有数の大銀行だったが、1935年に解散してからは建物が繊維組合や商工会に使用され、戦後の1950年9月に中央劇場の建物となった。ニュース映画と洋画の専門館だったが、昭和30年代後半にパチンコ店「中央会館」に転換された。1991年、都市計画道路の掛川駅松尾線を建設するために取り壊された。*15
1966年5月5日をもって、掛川市の映画館「中央劇場」が休館する。戸塚興業は掛川市で3館を経営しているが、3館の維持が困難と判断した。小笠郡と掛川市の映画常設館は、掛川市に3館、菊川町・小笠町・浜岡町・大須賀町に各1館の計7館があるが、毎日上映しているのは掛川市の3館と菊川町の1館の計4館のみである。*16
開館年 : 1950年10月
閉館年 : 1966年5月5日
『全国映画館総覧 1955』によると1950年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「掛川中央劇場」。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1961年の掛川市住宅明細図では「中央劇場」。1964年の掛川市住宅明細図では「中央劇場」。1966年の映画館名簿では「掛川中央劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1991年取り壊し。跡地は「島田掛川信用金庫連雀支店」南南西40mの道路。最寄駅はJR東海道本線掛川駅。
1960年3月1日には第二東映が発足し、各地で第二東映上映館への転向が相次いでいる。静岡県では熱海市の「名画座」、三島市の「三島中央劇場」、沼津市の「東海劇場」、吉原市の「吉原オリオン座」、富士宮市の「ロマン座」、富士市の「富士東映劇場」、焼津市の「ヒカリ座」、島田市の「太陽館」、掛川市の「中央劇場」、磐田市の「スバル劇場」、浜松市の「浜松国際劇場」などが第二東映に転向した。*13
1953年頃の掛川市にあった「中央劇場」の写真あり。戦後の掛川市には、肴町・連雀町・瓦町に映画館が開館した。連雀町には掛川銀行の建物があったが、1935年に解散すると協和銀行掛川支店となり、戦時中は繊維組合事務所に使用されていた。建物はやがてパチンコ屋の中央会館となった。*14
1954年の掛川市にあった「中央劇場」の写真あり。1889年に設立された掛川銀行は全国有数の大銀行だったが、1935年に解散してからは建物が繊維組合や商工会に使用され、戦後の1950年9月に中央劇場の建物となった。ニュース映画と洋画の専門館だったが、昭和30年代後半にパチンコ店「中央会館」に転換された。1991年、都市計画道路の掛川駅松尾線を建設するために取り壊された。*15
1966年5月5日をもって、掛川市の映画館「中央劇場」が休館する。戸塚興業は掛川市で3館を経営しているが、3館の維持が困難と判断した。小笠郡と掛川市の映画常設館は、掛川市に3館、菊川町・小笠町・浜岡町・大須賀町に各1館の計7館があるが、毎日上映しているのは掛川市の3館と菊川町の1館の計4館のみである。*16
所在地 : 静岡県小笠郡横須賀町(1936年)、静岡県小笠郡横須賀町1455(1953年)、静岡県小笠郡横須賀町(1955年)、静岡県小笠郡大須賀町5231(1958年)、静岡県小笠郡大須賀町1457-3(1960年)、静岡県小笠郡大須賀町中本(1963年)、静岡県小笠郡大須賀町横須賀1457-3(1966年・1969年)
開館年 : 1930年以後1936年以前
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「横須賀座」。1943年・1947年・1949年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「横須賀映画劇場」。1968年の住宅明細図では「横須賀劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
明治大正期の大須賀村には芝居小屋として「翁座」があり、後には活動写真館として「横須賀座」もできた。大須賀町には1963年まで映画館が1軒あったが、1980年現在は存在しない。*17
1952年の「横須賀映画劇場」の写真あり。「横須賀映画劇場」の文字が見える。1963年夏に改装された際の「横須賀映画劇場」の写真あり。「横映」や「YOKOSUKA」の文字が見える。横須賀座/横須賀映画劇場は、戦前・戦後を通じて芝居・浪曲・演芸・映画を興行し、集会場としても活用された。*18
1952年頃の「横須賀座」の写真あり。正面中央上部には「横須賀座」の文字が見えるが、入口上には「松竹・大映・東映 横須賀映画劇場」と書かれている。左右に尖塔のある個性的な建物だったが、1952年以後に改修して「横須賀映画劇場」に改称した。収容人数は小笠郡で最大であり、「南遠の娯楽の殿堂」として親しまれた。1963年に閉鎖された。*19
開館年 : 1930年以後1936年以前
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「横須賀座」。1943年・1947年・1949年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「横須賀映画劇場」。1968年の住宅明細図では「横須賀劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
明治大正期の大須賀村には芝居小屋として「翁座」があり、後には活動写真館として「横須賀座」もできた。大須賀町には1963年まで映画館が1軒あったが、1980年現在は存在しない。*17
1952年の「横須賀映画劇場」の写真あり。「横須賀映画劇場」の文字が見える。1963年夏に改装された際の「横須賀映画劇場」の写真あり。「横映」や「YOKOSUKA」の文字が見える。横須賀座/横須賀映画劇場は、戦前・戦後を通じて芝居・浪曲・演芸・映画を興行し、集会場としても活用された。*18
1952年頃の「横須賀座」の写真あり。正面中央上部には「横須賀座」の文字が見えるが、入口上には「松竹・大映・東映 横須賀映画劇場」と書かれている。左右に尖塔のある個性的な建物だったが、1952年以後に改修して「横須賀映画劇場」に改称した。収容人数は小笠郡で最大であり、「南遠の娯楽の殿堂」として親しまれた。1963年に閉鎖された。*19
所在地 : 静岡県小笠郡掛川町肴町(1953年)、静岡県掛川市239(1955年)、静岡県掛川市掛川239(1960年・1963年・1966年)、静岡県掛川市肴町239(1969年・1973年・1976年)
開館年 : 1950年10月
閉館年 : 1978年3月21日
『全国映画館総覧 1955』によると1950年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「掛川栄劇場」。1955年の映画館名簿では「栄劇場」。1960年の映画館名簿では「東映栄劇場」。1961年の掛川市住宅明細図では「掛川東映劇場」。1963年の映画館名簿では「掛川東映栄劇場」。1964年の掛川市住宅明細図では「掛川東映劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年・1978年の映画館名簿では「掛川栄劇場」。1970年の住宅地図では「掛川栄映劇場」(原文ママ)。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「後藤生花店」の西側、「高橋商店」の東側。最寄駅はJR東海道本線掛川駅。
1960年頃の掛川市肴町にあった「栄劇」(えいげき)の写真あり。「大衆娯楽の殿堂 栄劇」の文字が見える。建物脇の街路灯には「肴町通り」と書かれている。『哀愁日記』と『若旦那の御縁談』のポスターが見える。この頃の掛川市街地には約4軒の映画館があったが、1988年現在は「掛川座」のみである。数年前には都市計画事業によって栄劇の建物も取り壊され、跡地は商店街となっている。*20
1954年頃の掛川市にあった「栄劇場」の写真あり。裏通りの肴町の中央、もともと旅館の姫路屋があった場所に、1950年9月に開館した。木造2階建てであり、定員は550人だった。第二東映の上映館だった。掛川駅前都市計画事業で代替地をあてがわれたが、経営不振で営業の見通しが立たなかったため、1978年3月21日に閉館した。建物は取り壊され、跡地は商店街となっている。*21
1978年3月21日をもって、掛川市肴町の映画館「栄劇場」(栄劇)が廃館となった。都市改造によって取り壊しを余儀なくされるため。経営者の戸塚興業は移転地に貸ビルの建設を計画しているが、映画館の営業の見通しは立てていない。1950年9月、肴町の有力商店主が発起人となって栄劇場株式会社が設立された。浜活や服部興業の経営を経て、1952年8月に戸塚興業が経営者となった。1957年から1958年頃が最盛期であり、定員550人の劇場に1200人を詰め込むこともあった。戦後の掛川市には肴町の栄劇場のほかに、芝居小屋が前身の「掛川座」、連雀町の「中央劇場」、瓦町の「掛川東宝」の4館があったが、栄劇場の閉館によって常設映画館は掛川座のみとなる。*22
開館年 : 1950年10月
閉館年 : 1978年3月21日
『全国映画館総覧 1955』によると1950年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「掛川栄劇場」。1955年の映画館名簿では「栄劇場」。1960年の映画館名簿では「東映栄劇場」。1961年の掛川市住宅明細図では「掛川東映劇場」。1963年の映画館名簿では「掛川東映栄劇場」。1964年の掛川市住宅明細図では「掛川東映劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年・1978年の映画館名簿では「掛川栄劇場」。1970年の住宅地図では「掛川栄映劇場」(原文ママ)。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「後藤生花店」の西側、「高橋商店」の東側。最寄駅はJR東海道本線掛川駅。
1960年頃の掛川市肴町にあった「栄劇」(えいげき)の写真あり。「大衆娯楽の殿堂 栄劇」の文字が見える。建物脇の街路灯には「肴町通り」と書かれている。『哀愁日記』と『若旦那の御縁談』のポスターが見える。この頃の掛川市街地には約4軒の映画館があったが、1988年現在は「掛川座」のみである。数年前には都市計画事業によって栄劇の建物も取り壊され、跡地は商店街となっている。*20
1954年頃の掛川市にあった「栄劇場」の写真あり。裏通りの肴町の中央、もともと旅館の姫路屋があった場所に、1950年9月に開館した。木造2階建てであり、定員は550人だった。第二東映の上映館だった。掛川駅前都市計画事業で代替地をあてがわれたが、経営不振で営業の見通しが立たなかったため、1978年3月21日に閉館した。建物は取り壊され、跡地は商店街となっている。*21
1978年3月21日をもって、掛川市肴町の映画館「栄劇場」(栄劇)が廃館となった。都市改造によって取り壊しを余儀なくされるため。経営者の戸塚興業は移転地に貸ビルの建設を計画しているが、映画館の営業の見通しは立てていない。1950年9月、肴町の有力商店主が発起人となって栄劇場株式会社が設立された。浜活や服部興業の経営を経て、1952年8月に戸塚興業が経営者となった。1957年から1958年頃が最盛期であり、定員550人の劇場に1200人を詰め込むこともあった。戦後の掛川市には肴町の栄劇場のほかに、芝居小屋が前身の「掛川座」、連雀町の「中央劇場」、瓦町の「掛川東宝」の4館があったが、栄劇場の閉館によって常設映画館は掛川座のみとなる。*22
所在地 : 静岡県小笠郡掛川町(1930年・1936年・1950年)、静岡県小笠郡掛川町大手1116-4(1953年)、静岡県掛川市大手町1116-4(1955年)、静岡県掛川市大手町1116(1958年)、静岡県掛川市大手町116-2(1960年)、静岡県掛川市大手町126(1963年)、静岡県掛川市大手町1116(1966年)、静岡県掛川市大手町116-2(1969年)、静岡県掛川市大手町1116(1973年)、静岡県掛川市大手町5-9(1976年)、静岡県掛川市大手町1116-2(1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1907年頃
閉館年 : 1991年2月28日
『全国映画館総覧 1955』によると1909年8月開館。1930年・1936年・1950年の映画館名簿では「掛川座」。1953年の映画館名簿では「掛川映画劇場」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「掛川座」。1961年の掛川市住宅明細図では「掛川座」。1964年の掛川市住宅明細図では「掛川座」。1970年の住宅地図では「掛川座」。掛川市最後の映画館。跡地は市営「掛川大手門駐車場」建物東側。最寄駅はJR東海道本線掛川駅。
1907年頃の劇場「掛川座」の竣工記念写真あり。大手町に新築された。1979年現在の掛川座は、映画も演劇も上演できる掛川市唯一の劇場である。*23
1953年頃の掛川市大手町にあった映画館「掛川座」の写真あり。江戸時代の掛川藩時代には大手厩と馬場があり、明治初期には掛川監獄があり、明治20年代には米茶取引所も開設された。1900年の掛川大火後には中町遊郭が一時的に移転してきたが、やがて中町遊郭は十九首裏に移転し、掛川座が建設された。桟敷席と枡席を持つ畳敷きの劇場であり、戦後に椅子席に改造された。*24
1907年頃には掛川座が建築され、1989年現在もその建物を使用している。1907年頃の掛川座の写真あり。*25
1953年頃の「掛川座」の写真あり。『君の名は』の看板が見える。1909年7月10日に開場式が、7月14日に舞台開きが開催された。掛川町大手の有力者によって、厩の跡地の広場に設けられた劇場である。畳敷きの花道、枡席、回り舞台、奈落からせりあがる装置、楽屋、2階席などがあった。格天井には枡形の一つ一つに商店広告が入っていたという。演劇ととともに映画の上映も可能だった。昭和初期には木製ベンチ席となった。*26
戦後、掛川市の劇場「掛川座」は椅子席に改造され、映画・芝居・歌謡ショー・浪曲・講演会・諸行事の会場として使用された。1956年には「掛川映画劇場」に改称し、ワイドスクリーンを備えた本格的な映画館となった。1991年2月27日にお別れ興行を開催した。*27
1907年頃、芝居小屋として「掛川座」が発足した。昭和初期頃に2代目の田島氏が、1954年に現在の戸塚興業が経営を引き継いだ。芝居小屋として開館したため、花道や舞台中央の昇降装置もあった。掛川には4軒の映画館があり、東映のやくざ映画や時代劇が中心の栄劇場、洋画専門の中央劇場、日活映画専門の掛川座などというふうにすみ分けられた。掛川座で岸恵子主演の『君の名は』が上映された際には、国鉄掛川駅近くまで観客の行列が続いたという。*28
1953年頃の掛川市にあった「掛川座」の写真あり。『君の名は』と『とのさま街道』が上映されていた。1907年頃に大手町に開館した。花道や回り舞台のある本格的な劇場であり、内部は桟敷と畳敷きだったが、戦後に椅子席に改造された。1988年現在の掛川市に残る唯一の劇場だが、都市計画事業によって取り壊される予定である。*29
1991年2月末、土地区画整理事業のために映画館「掛川座」が閉館する。14歳の美空ひばり、歌手の田畑義夫、女優の高峰三枝子、木暮実千代などが掛川座を訪れた。俳優の伊東四朗は、掛川にあった母親の実家で小中学生時代を過ごしており、「掛川座は私の芸の原点」と語る。*30
掛川市の映画館「掛川座」ではこのほど、閉館を惜しむイベントを開催した。掛川座は1991年2月いっぱいで閉館する。小学生時代に子役で掛川座の公演に出演したという伊東四朗が来館している。閉館理由は土地区画整理事業のため。*31
1991年2月27日をもって、掛川市大手の映画館「掛川座」が営業を終了する。都市改造事業で取り壊しを余儀なくされるため。1907年に建設され、日本最古の芝居小屋映画館と言われている。経営は戸塚興業株式会社。2月13日から市民映画祭と題した企画が開催されており、最終日の2月27日には小説家の村松友視の公演などが開催される。*32
1991年2月27日をもって、掛川市の映画館「掛川座」が82年の歴史に幕を下ろして閉館した。1909年創立。掛川市の区画整理事業に伴って閉館し、取り壊しが決定している。地方の映画館としては老舗とされる。2月27日には『ラストショー』を上映するさよならイベントが開催され、約300人が参加した。上映後には参加者全員で「蛍の光」を合唱した。*33
1991年3月15日号の『朝日ジャーナル』には「掛川座」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*34
掛川市大手町にあった映画館「掛川座」は、1907年に開館し、1990年に閉館した。1991年に取り壊され、跡地は掛川市営駐車場となっている。2001年には静岡県立磐田北高校の教員が掛川座の思い出をつづった書籍『掛川座 ぼくのシネマパラダイス』を出版した。*35
村松友視『黄昏のムービー・パレス』には、「掛川座」に関する随筆が掲載されている。*36
2006年6月、総合福祉施設として「総合福祉ステーションビル 掛川座」が開業した。名称は映画館の掛川座に因んでいるが、所在地は映画館時代と異なる。
掛川座を主題とする文献として土屋智宏『掛川座 ぼくのシネマパラダイス』静岡新聞社、2001年がある。*37
開館年 : 1907年頃
閉館年 : 1991年2月28日
『全国映画館総覧 1955』によると1909年8月開館。1930年・1936年・1950年の映画館名簿では「掛川座」。1953年の映画館名簿では「掛川映画劇場」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「掛川座」。1961年の掛川市住宅明細図では「掛川座」。1964年の掛川市住宅明細図では「掛川座」。1970年の住宅地図では「掛川座」。掛川市最後の映画館。跡地は市営「掛川大手門駐車場」建物東側。最寄駅はJR東海道本線掛川駅。
1907年頃の劇場「掛川座」の竣工記念写真あり。大手町に新築された。1979年現在の掛川座は、映画も演劇も上演できる掛川市唯一の劇場である。*23
1953年頃の掛川市大手町にあった映画館「掛川座」の写真あり。江戸時代の掛川藩時代には大手厩と馬場があり、明治初期には掛川監獄があり、明治20年代には米茶取引所も開設された。1900年の掛川大火後には中町遊郭が一時的に移転してきたが、やがて中町遊郭は十九首裏に移転し、掛川座が建設された。桟敷席と枡席を持つ畳敷きの劇場であり、戦後に椅子席に改造された。*24
1907年頃には掛川座が建築され、1989年現在もその建物を使用している。1907年頃の掛川座の写真あり。*25
1953年頃の「掛川座」の写真あり。『君の名は』の看板が見える。1909年7月10日に開場式が、7月14日に舞台開きが開催された。掛川町大手の有力者によって、厩の跡地の広場に設けられた劇場である。畳敷きの花道、枡席、回り舞台、奈落からせりあがる装置、楽屋、2階席などがあった。格天井には枡形の一つ一つに商店広告が入っていたという。演劇ととともに映画の上映も可能だった。昭和初期には木製ベンチ席となった。*26
戦後、掛川市の劇場「掛川座」は椅子席に改造され、映画・芝居・歌謡ショー・浪曲・講演会・諸行事の会場として使用された。1956年には「掛川映画劇場」に改称し、ワイドスクリーンを備えた本格的な映画館となった。1991年2月27日にお別れ興行を開催した。*27
1907年頃、芝居小屋として「掛川座」が発足した。昭和初期頃に2代目の田島氏が、1954年に現在の戸塚興業が経営を引き継いだ。芝居小屋として開館したため、花道や舞台中央の昇降装置もあった。掛川には4軒の映画館があり、東映のやくざ映画や時代劇が中心の栄劇場、洋画専門の中央劇場、日活映画専門の掛川座などというふうにすみ分けられた。掛川座で岸恵子主演の『君の名は』が上映された際には、国鉄掛川駅近くまで観客の行列が続いたという。*28
1953年頃の掛川市にあった「掛川座」の写真あり。『君の名は』と『とのさま街道』が上映されていた。1907年頃に大手町に開館した。花道や回り舞台のある本格的な劇場であり、内部は桟敷と畳敷きだったが、戦後に椅子席に改造された。1988年現在の掛川市に残る唯一の劇場だが、都市計画事業によって取り壊される予定である。*29
1991年2月末、土地区画整理事業のために映画館「掛川座」が閉館する。14歳の美空ひばり、歌手の田畑義夫、女優の高峰三枝子、木暮実千代などが掛川座を訪れた。俳優の伊東四朗は、掛川にあった母親の実家で小中学生時代を過ごしており、「掛川座は私の芸の原点」と語る。*30
掛川市の映画館「掛川座」ではこのほど、閉館を惜しむイベントを開催した。掛川座は1991年2月いっぱいで閉館する。小学生時代に子役で掛川座の公演に出演したという伊東四朗が来館している。閉館理由は土地区画整理事業のため。*31
1991年2月27日をもって、掛川市大手の映画館「掛川座」が営業を終了する。都市改造事業で取り壊しを余儀なくされるため。1907年に建設され、日本最古の芝居小屋映画館と言われている。経営は戸塚興業株式会社。2月13日から市民映画祭と題した企画が開催されており、最終日の2月27日には小説家の村松友視の公演などが開催される。*32
1991年2月27日をもって、掛川市の映画館「掛川座」が82年の歴史に幕を下ろして閉館した。1909年創立。掛川市の区画整理事業に伴って閉館し、取り壊しが決定している。地方の映画館としては老舗とされる。2月27日には『ラストショー』を上映するさよならイベントが開催され、約300人が参加した。上映後には参加者全員で「蛍の光」を合唱した。*33
1991年3月15日号の『朝日ジャーナル』には「掛川座」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*34
掛川市大手町にあった映画館「掛川座」は、1907年に開館し、1990年に閉館した。1991年に取り壊され、跡地は掛川市営駐車場となっている。2001年には静岡県立磐田北高校の教員が掛川座の思い出をつづった書籍『掛川座 ぼくのシネマパラダイス』を出版した。*35
村松友視『黄昏のムービー・パレス』には、「掛川座」に関する随筆が掲載されている。*36
2006年6月、総合福祉施設として「総合福祉ステーションビル 掛川座」が開業した。名称は映画館の掛川座に因んでいるが、所在地は映画館時代と異なる。
掛川座を主題とする文献として土屋智宏『掛川座 ぼくのシネマパラダイス』静岡新聞社、2001年がある。*37
所在地 : 静岡県小笠郡小笠町高橋(1959年)、静岡県小笠郡小笠町高橋3430(1960年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1963年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「南映画劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1963年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「南映画劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県小笠郡菊川町六郷5(1955年)、静岡県小笠郡菊川町283(1958年)、静岡県小笠郡菊川町半済(1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1950年7月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年7月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「菊水映画劇場」。1961年の菊川町住宅明細図では「菊水映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「しずてつストア菊川店」西南西50mにある空き地。最近まで建物が残っていた可能性がある。
開館年 : 1950年7月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年7月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「菊水映画劇場」。1961年の菊川町住宅明細図では「菊水映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「しずてつストア菊川店」西南西50mにある空き地。最近まで建物が残っていた可能性がある。
所在地 : 静岡県小笠郡平田町玉川1128(1953年)、静岡県小笠郡菊川町平田(1955年)、静岡県小笠郡小笠町下平川(1963年)、静岡県小笠郡小笠町下平川1128-1(1966年・1969年)
開館年 : 1951年10月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「平田映画劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年の菊川町住宅明細図附小笠町では「平田映画劇場」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「平田映画劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「島田掛川信用金庫小笠支店」北北西70mにあるラーメン店「花琵」。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。
開館年 : 1951年10月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「平田映画劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年の菊川町住宅明細図附小笠町では「平田映画劇場」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「平田映画劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「島田掛川信用金庫小笠支店」北北西70mにあるラーメン店「花琵」。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。
所在地 : 静岡県小笠郡堀之内町(1950年)、静岡県小笠郡堀之内町240(1953年)、静岡県小笠郡菊川町1(1955年)、静岡県小笠郡菊川町堀之内223(1958年)、静岡県小笠郡菊川町堀之内(1960年・1963年)、静岡県小笠郡菊川町堀之内223(1966年・1969年・1973年・1976年)、静岡県小笠郡菊川町堀之内239(1980年)
開館年 : 1923年9月? 1924年?
閉館年 : 1981年
『全国映画館総覧 1955』によると1923年9月開館。1950年の映画館名簿では「堀ノ内劇場」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「堀之内劇場」。1961年の菊川町住宅明細図では「堀ノ内映画劇場」。1973年・1976年の映画館名簿では「堀ノ内劇場」。1980年の映画館名簿では「堀之内劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「駅南1号公園」西側の民家。菊川駅前は1990年代以降の区画整理事業で大きく変化しているので参考程度に。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。
1924年、菊川町に劇場「堀之内劇場」が開館した。回り舞台のある本格的な劇場であり、当初は歌舞伎や浪曲などを上演した。1933年からは映画を上映し、昭和30年代の映画全盛期には多くの映画ファンでにぎわった。1952年の改装直後の建物の写真、1960年頃の国鉄菊川駅前に掲示された映画ポスターや看板の写真あり。堀之内劇場はテレビの普及によって57年の歴史に幕を下ろした(※明確な閉館年は書かれていない)。閉館前の3日間は「サヨナラ興行」が行われ、映画ファンで満席になった。1988年現在の堀之内劇場跡地は駐車場になっている。*38
『掛川・菊川・御前崎今昔写真帖』に写真が掲載されている。現物は未確認。*39
開館年 : 1923年9月? 1924年?
閉館年 : 1981年
『全国映画館総覧 1955』によると1923年9月開館。1950年の映画館名簿では「堀ノ内劇場」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「堀之内劇場」。1961年の菊川町住宅明細図では「堀ノ内映画劇場」。1973年・1976年の映画館名簿では「堀ノ内劇場」。1980年の映画館名簿では「堀之内劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「駅南1号公園」西側の民家。菊川駅前は1990年代以降の区画整理事業で大きく変化しているので参考程度に。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。
1924年、菊川町に劇場「堀之内劇場」が開館した。回り舞台のある本格的な劇場であり、当初は歌舞伎や浪曲などを上演した。1933年からは映画を上映し、昭和30年代の映画全盛期には多くの映画ファンでにぎわった。1952年の改装直後の建物の写真、1960年頃の国鉄菊川駅前に掲示された映画ポスターや看板の写真あり。堀之内劇場はテレビの普及によって57年の歴史に幕を下ろした(※明確な閉館年は書かれていない)。閉館前の3日間は「サヨナラ興行」が行われ、映画ファンで満席になった。1988年現在の堀之内劇場跡地は駐車場になっている。*38
『掛川・菊川・御前崎今昔写真帖』に写真が掲載されている。現物は未確認。*39
所在地 : 静岡県榛原郡御前崎町白羽(1959年・1960年・1961年・1962年)、静岡県榛原郡御前崎町新谷(1963年・1964年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1964年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「新谷映画劇場」。1959年の経営者・支配人ともに杉浦正二、木造1階、定員185、邦画を上映。1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「新谷劇場」。1963年・1964年の映画館名簿では「新谷文化劇場」。1963年の映画館名簿では経営者・支配人ともに杉浦正二、構造・定員・上映作品は記載なし。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の榛南地区住宅明細図附相良町・御前崎町では掲載範囲外。1971年の住宅地図では「劇場」。跡地は「古田屋御前崎店」北北西190mにある空き地。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1964年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「新谷映画劇場」。1959年の経営者・支配人ともに杉浦正二、木造1階、定員185、邦画を上映。1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「新谷劇場」。1963年・1964年の映画館名簿では「新谷文化劇場」。1963年の映画館名簿では経営者・支配人ともに杉浦正二、構造・定員・上映作品は記載なし。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の榛南地区住宅明細図附相良町・御前崎町では掲載範囲外。1971年の住宅地図では「劇場」。跡地は「古田屋御前崎店」北北西190mにある空き地。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。
所在地 : 静岡県榛原郡御前崎村(1953年)、静岡県榛原郡御前崎村4407(1955年)、静岡県榛原郡御前崎町4407(1958年)、静岡県榛原郡御前崎町(1960年・1963年)、静岡県榛原郡御前崎町西側(1966年・1969年)
開館年 : 1926年3月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1926年3月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「御前崎座」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「御前崎劇場」。1966年の経営者・支配人ともに増田憲、木造1階、定員429、邦画を上映。1969年の経営者・支配人ともに増田憲、構造・定員は記載なし、邦画・洋画を上映。1969年の榛南地区住宅明細図附相良町・御前崎町には跡地に空白。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「海福寺」北西140mの空き地。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。
御前崎市御前崎4399-1にある西側米店の男性。「背の高い草などが映えてる空き地の場所にあった。寿司屋の廃墟。戸塚興業が経営していたが、もう支配人ともどもここには住んでいない。名前は覚えていない。(御前崎劇場や御前崎座という名前に反応せず)」
開館年 : 1926年3月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1926年3月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「御前崎座」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「御前崎劇場」。1966年の経営者・支配人ともに増田憲、木造1階、定員429、邦画を上映。1969年の経営者・支配人ともに増田憲、構造・定員は記載なし、邦画・洋画を上映。1969年の榛南地区住宅明細図附相良町・御前崎町には跡地に空白。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「海福寺」北西140mの空き地。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。
御前崎市御前崎4399-1にある西側米店の男性。「背の高い草などが映えてる空き地の場所にあった。寿司屋の廃墟。戸塚興業が経営していたが、もう支配人ともどもここには住んでいない。名前は覚えていない。(御前崎劇場や御前崎座という名前に反応せず)」
所在地 : 静岡県小笠郡池新田町東町(1953年)、静岡県小笠郡浜岡町3215-1(1955年)、静岡県小笠郡浜岡町3215(1958年)、静岡県小笠郡浜岡町本町(1960年・1963年)、静岡県小笠郡浜岡町池新田2215(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1927年9月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1927年9月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「池新田劇場」。1958年の映画館名簿では「浜岡劇場」。1960年の映画館名簿では「浜岡映画劇場」。1963年の映画館名簿では「浜岡劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「浜岡映画劇場」。1968年の住宅明細図では「浜劇」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「揚張プロパン」西側の小規模太陽光発電所。定食屋「美津屋」北。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。
戦前の浜岡町にあった商店街の地図あり。1997年現在の東町・本町付近。「池新田座」が描かれている。*40
1951年頃の「池新田劇場」の写真あり。「池新田劇場」と「IKESHINDEN THEATRE」の文字が見える。昭和初期、小笠郡池新田村の本町に開館した。映画や学芸会などが催され、近郷の人びとを集めた。1949年には静岡県立池新田高校の演劇部が池新田劇場を利用している。*41
開館年 : 1927年9月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1927年9月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「池新田劇場」。1958年の映画館名簿では「浜岡劇場」。1960年の映画館名簿では「浜岡映画劇場」。1963年の映画館名簿では「浜岡劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「浜岡映画劇場」。1968年の住宅明細図では「浜劇」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「揚張プロパン」西側の小規模太陽光発電所。定食屋「美津屋」北。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。
戦前の浜岡町にあった商店街の地図あり。1997年現在の東町・本町付近。「池新田座」が描かれている。*40
1951年頃の「池新田劇場」の写真あり。「池新田劇場」と「IKESHINDEN THEATRE」の文字が見える。昭和初期、小笠郡池新田村の本町に開館した。映画や学芸会などが催され、近郷の人びとを集めた。1949年には静岡県立池新田高校の演劇部が池新田劇場を利用している。*41
所在地 : 静岡県周智郡森町
開館年 : 明治時代
閉館年 : 1945年以前?
映画館名簿には掲載されていない。
1932年現在の森町の劇場は「明治座」があるのみである。1931年度の「明治座」では、活動写真が104回、演劇が11回、浪花節が5回、計120回の興行が行われた。入場者数は活動写真が計20,452人、演劇が計4,805人、浪花節が計1,191人、総計26,448人だった。*42
開館年 : 明治時代
閉館年 : 1945年以前?
映画館名簿には掲載されていない。
1932年現在の森町の劇場は「明治座」があるのみである。1931年度の「明治座」では、活動写真が104回、演劇が11回、浪花節が5回、計120回の興行が行われた。入場者数は活動写真が計20,452人、演劇が計4,805人、浪花節が計1,191人、総計26,448人だった。*42
所在地 : 静岡県周智郡森町森(1953年)、静岡県周智郡森町910(1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1935年8月? 1936年?
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1935年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「森町劇場」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに高橋太郎、木造2階、定員427、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「森町タクシー」。最寄駅は天竜浜名湖鉄道天浜線遠州森駅。
劇場は「明治座」のほかに「森町劇場」があった。1949年3月から1950年2月の第11期営業報告書によると、株式は360株・株主は79名、社長は渡辺徳三郎。*43
1936年に建てられた「森町劇場」の写真あり。戦後に改修された「森町劇場」の写真あり。*44
開館年 : 1935年8月? 1936年?
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1935年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「森町劇場」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに高橋太郎、木造2階、定員427、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「森町タクシー」。最寄駅は天竜浜名湖鉄道天浜線遠州森駅。
劇場は「明治座」のほかに「森町劇場」があった。1949年3月から1950年2月の第11期営業報告書によると、株式は360株・株主は79名、社長は渡辺徳三郎。*43
1936年に建てられた「森町劇場」の写真あり。戦後に改修された「森町劇場」の写真あり。*44
所在地 : 静岡県周智郡森町森261-5(1960年)、静岡県周智郡森町261(1963年・1965年)、静岡県周智郡森町910(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1956年
閉館年 : 1970年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「森町中央劇場」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに牧野進一、木造2階暖房付、定員300、邦画・洋画を上映。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「森中央劇場」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は「秋葉バスサービス遠州森町バス停」北30mに「スーパーヒラノ」廃墟として現存。最寄駅は天竜浜名湖鉄道天浜線遠州森駅。
1959年の森町にあった「中央劇場」の写真あり。森町にはすでに「森町劇場」があったが、1956年に森町で2軒目の映画館として中央劇場が開館した。*45
開館年 : 1956年
閉館年 : 1970年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「森町中央劇場」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに牧野進一、木造2階暖房付、定員300、邦画・洋画を上映。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「森中央劇場」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は「秋葉バスサービス遠州森町バス停」北30mに「スーパーヒラノ」廃墟として現存。最寄駅は天竜浜名湖鉄道天浜線遠州森駅。
1959年の森町にあった「中央劇場」の写真あり。森町にはすでに「森町劇場」があったが、1956年に森町で2軒目の映画館として中央劇場が開館した。*45
所在地 : 静岡県志太郡島田町(1925年・1927年)、静岡県志太郡島田町大川端(1930年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1930年以後1936年以前
1925年・1927年・1930年の映画館名簿では「白梅館」。1936年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1930年以後1936年以前
1925年・1927年・1930年の映画館名簿では「白梅館」。1936年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県島田市
開館年 : 1961年以前
閉館年 : 1964年以後
映画館名簿には掲載されていない。1961年の島田市住宅明細図初倉版では「初倉劇場」。跡地は「スーパーカネハチ初倉店」北東50mの「ますだや第2駐車場」と民家。最寄駅はJR東海道本線六合駅。
1964年の島田市にあった映画館「初倉劇場」の写真あり。「初倉劇場」の文字が見える。旧初倉村には2館の映画館があった。*46
開館年 : 1961年以前
閉館年 : 1964年以後
映画館名簿には掲載されていない。1961年の島田市住宅明細図初倉版では「初倉劇場」。跡地は「スーパーカネハチ初倉店」北東50mの「ますだや第2駐車場」と民家。最寄駅はJR東海道本線六合駅。
1964年の島田市にあった映画館「初倉劇場」の写真あり。「初倉劇場」の文字が見える。旧初倉村には2館の映画館があった。*46
所在地 : 静岡県榛原郡金谷町金屋河原376(1955年)、静岡県榛原郡金谷町金谷原376(1956年)、静岡県榛原郡金谷町金谷原387(1957年)、静岡県榛原郡金谷町378(1958年)、静岡県榛原郡金谷町宮崎町(1960年)、静岡県榛原郡金谷町栄町(1963年・1964年)
開館年 : 1953年12月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「金谷日活」。1956年・1957年の映画館名簿では「第二劇場」。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「第二金谷劇場」。1961年の金谷町住宅明細図では「金谷第二劇場」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「第二劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「佐塚歯科医院」(当時の佐塚歯科医院は現在と場所が異なる)。跡地は「佐塚歯科医院」南東30mの建物。最寄駅は大井川鉄道大井川本線新金谷駅。
開館年 : 1953年12月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「金谷日活」。1956年・1957年の映画館名簿では「第二劇場」。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「第二金谷劇場」。1961年の金谷町住宅明細図では「金谷第二劇場」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「第二劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「佐塚歯科医院」(当時の佐塚歯科医院は現在と場所が異なる)。跡地は「佐塚歯科医院」南東30mの建物。最寄駅は大井川鉄道大井川本線新金谷駅。
所在地 : 静岡県榛原郡下川根村家山(1949年)、静岡県榛原郡下川根村家山660-2(1953年)、静岡県榛原郡下川根村家山269(1955年)、静岡県榛原郡川根町家山269(1958年)、静岡県榛原郡川根町家山(1960年・1963年・1966年・1968年)
開館年 : 1943年3月
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1943年3月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年の映画館名簿では「家山劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「家山劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が戸塚興行、支配人が沖光男、木造2階、定員650。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1943年3月
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1943年3月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年の映画館名簿では「家山劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「家山劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が戸塚興行、支配人が沖光男、木造2階、定員650。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県榛原郡金谷町(1936年・1943年)、静岡県榛原郡金谷町72(1947年)、静岡県榛原郡金谷町(1950年)、静岡県榛原郡金谷町栄町(1953年)、静岡県榛原郡金谷町栄町73(1955年)、静岡県榛原郡金谷町73(1958年)、静岡県榛原郡金谷町栄町(1960年・1963年)、静岡県榛原郡金谷町金谷河原78(1966年)、静岡県榛原郡金谷町栄町(1969年・1970年)
開館年 : 1926年1月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1926年1月開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1943年・1947年の映画館名簿では「金河座」。1949年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「金河座」。1951年・1952年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「金谷劇場」。1961年の金谷町住宅明細図では「金谷劇場」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「第一劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地腕は跡地に「ガレージ」。建物は2008年に取り壊された。跡地は「専求院」北北西40mにあるアパート「メゾンプランタン」。最寄駅は大井川鉄道大井川本線新金谷駅。
吉田初三郎『金谷牧之原鳥観図』川崎鉄工場、1931年には「金河座」が描かれている。*47
開館年 : 1926年1月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1926年1月開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1943年・1947年の映画館名簿では「金河座」。1949年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「金河座」。1951年・1952年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「金谷劇場」。1961年の金谷町住宅明細図では「金谷劇場」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「第一劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地腕は跡地に「ガレージ」。建物は2008年に取り壊された。跡地は「専求院」北北西40mにあるアパート「メゾンプランタン」。最寄駅は大井川鉄道大井川本線新金谷駅。
吉田初三郎『金谷牧之原鳥観図』川崎鉄工場、1931年には「金河座」が描かれている。*47
所在地 : 静岡県志太郡島田町(1936年・1943年)、静岡県志太郡島田町3丁目(1947年)、静岡県島田市本通り(1949年)、静岡県島田市川端(1950年)、静岡県島田市大川町4914-4(1953年)、静岡県島田市大川町4914(1955年・1958年)、静岡県島田市本通り4914-4(1960年)、静岡県島田市大川町4914-4(1969年・1970年)
開館年 : 1930年以後1936年以前、1945年11月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1945年11月開館。1936年・1943年の映画館名簿では「太陽館」。1947年の映画館名簿では「島田太陽館」。1949年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「太陽館」。1960年の島田市住宅明細図では「映画劇場 太陽館」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「映画劇場 太陽館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「島田太陽館」。1972年の住宅地図では「太陽館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「車庫」。1984年の住宅地図では跡地に駐車場と「公園」。跡地は「福泉寺」南東20mの道路用地。1980年代以後の区画整理事業で道路割が大きく変化しているので参考程度に。最寄駅はJR東海道本線島田駅。
1960年3月1日には第二東映が発足し、各地で第二東映上映館への転向が相次いでいる。静岡県では熱海市の「名画座」、三島市の「三島中央劇場」、沼津市の「東海劇場」、吉原市の「吉原オリオン座」、富士宮市の「ロマン座」、富士市の「富士東映劇場」、焼津市の「ヒカリ座」、島田市の「太陽館」、掛川市の「中央劇場」、磐田市の「スバル劇場」、浜松市の「浜松国際劇場」などが第二東映に転向した。*48
開館年 : 1930年以後1936年以前、1945年11月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1945年11月開館。1936年・1943年の映画館名簿では「太陽館」。1947年の映画館名簿では「島田太陽館」。1949年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「太陽館」。1960年の島田市住宅明細図では「映画劇場 太陽館」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「映画劇場 太陽館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「島田太陽館」。1972年の住宅地図では「太陽館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「車庫」。1984年の住宅地図では跡地に駐車場と「公園」。跡地は「福泉寺」南東20mの道路用地。1980年代以後の区画整理事業で道路割が大きく変化しているので参考程度に。最寄駅はJR東海道本線島田駅。
1960年3月1日には第二東映が発足し、各地で第二東映上映館への転向が相次いでいる。静岡県では熱海市の「名画座」、三島市の「三島中央劇場」、沼津市の「東海劇場」、吉原市の「吉原オリオン座」、富士宮市の「ロマン座」、富士市の「富士東映劇場」、焼津市の「ヒカリ座」、島田市の「太陽館」、掛川市の「中央劇場」、磐田市の「スバル劇場」、浜松市の「浜松国際劇場」などが第二東映に転向した。*48
所在地 : 静岡県島田市7-8422(1958年)、静岡県島田市本通り7-8422(1960年)、静岡県島田市本通り7丁目(1963年)、静岡県島田市本通り7-8422(1966年)、静岡県島田市7-8422(1969年・1970年)
開館年 : 1956年9月18日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「島田オリオン座」。1960年の島田市住宅明細図では「映画劇場 オリオン座」。1960年・1963年の映画館名簿では「島田日活オリオン」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「映画劇場 オリオン座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「島田日活オリオン座」。1972年の住宅地図では跡地は空き地。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「松野精肉」。跡地は和菓子屋「中村菓子舗」向かいの「岡本住建」。最寄駅はJR東海道本線島田駅。
1956年9月18日、島田市本通り7丁目に洋画館「島田オリオン座」が開館した。鉄筋造2階建て、客席514であり、島田市では画期的な大劇場である。経営は静活株式会社。支配人は田中繫。*49
1959年のこのほど、島田市の「島田オリオン座」が静活から戸塚興業に3年契約で賃借された。*50
1961年の島田市本通7丁目にあった向山商店の写真あり。左手にちらりと見えるのは映画館「オリオン座」。日活作品『ろくでなし野郎』の看板が見える。*51
開館年 : 1956年9月18日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「島田オリオン座」。1960年の島田市住宅明細図では「映画劇場 オリオン座」。1960年・1963年の映画館名簿では「島田日活オリオン」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「映画劇場 オリオン座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「島田日活オリオン座」。1972年の住宅地図では跡地は空き地。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「松野精肉」。跡地は和菓子屋「中村菓子舗」向かいの「岡本住建」。最寄駅はJR東海道本線島田駅。
1956年9月18日、島田市本通り7丁目に洋画館「島田オリオン座」が開館した。鉄筋造2階建て、客席514であり、島田市では画期的な大劇場である。経営は静活株式会社。支配人は田中繫。*49
1959年のこのほど、島田市の「島田オリオン座」が静活から戸塚興業に3年契約で賃借された。*50
1961年の島田市本通7丁目にあった向山商店の写真あり。左手にちらりと見えるのは映画館「オリオン座」。日活作品『ろくでなし野郎』の看板が見える。*51
所在地 : 静岡県島田市日ノ出町8028(1958年・1960年・1966年・1969年・1973年・1976年・1977年)
開館年 : 1957年7月27日
閉館年 : 1977年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「島田東映劇場」。1960年の島田市住宅明細図では「東映劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「島田東映」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「東映劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年・1977年の映画館名簿では「島田東映劇場」。1972年・1976年の住宅地図では「東映劇場」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。1970年代後半から1980年代前半の区画整理事業で道路割が大きく変化。跡地は「佐鳴予備校島田本部校」の西20mの道路用地。最寄駅はJR東海道本線島田駅。
1957年7月27日、島田市日之出町に「全映劇場」が開館した。経営者は井上恒雄、支配人は井上良雄。総工費約3200万円。建坪200坪、鉄筋造2階建て、冷暖房完備、客席415。シネスコ装置を有する。上映系統は東映を主にした邦画・洋画の二番館。*52
開館年 : 1957年7月27日
閉館年 : 1977年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「島田東映劇場」。1960年の島田市住宅明細図では「東映劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「島田東映」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「東映劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年・1977年の映画館名簿では「島田東映劇場」。1972年・1976年の住宅地図では「東映劇場」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。1970年代後半から1980年代前半の区画整理事業で道路割が大きく変化。跡地は「佐鳴予備校島田本部校」の西20mの道路用地。最寄駅はJR東海道本線島田駅。
1957年7月27日、島田市日之出町に「全映劇場」が開館した。経営者は井上恒雄、支配人は井上良雄。総工費約3200万円。建坪200坪、鉄筋造2階建て、冷暖房完備、客席415。シネスコ装置を有する。上映系統は東映を主にした邦画・洋画の二番館。*52
所在地 : 静岡県島田市大津通8596-25(1957年・1958年・1960年)、静岡県島田市大津通り(1963年・1966年)、静岡県島田市大津通8596-25(1969年・1976年・1980年)、静岡県島田市大津通8569-25(1985年)、静岡県島田市大津通8596-25(1990年)、静岡県島田市大津通8569-25(1995年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1995年頃(移転)
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「島田第二文化劇場」。1960年の映画館名簿では「第二文化劇場」。1960年の島田市住宅明細図では「第二文化劇場(中野)」。1963年の映画館名簿では「島活会館第二文化」。1966年の映画館名簿では「島田第二文化」。1972年・1976年・1984年の住宅地図では「スカラ座」。1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「島田スカラ座」。1980年・1985年・1990年・1995年・1996年の映画館名簿では「スカラ座」。1996年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「洞源寺」南西70mの道路用地。2000年代以後の区画整理で道路割が大きく変化しているので参考程度に。最寄駅はJR東海道本線島田駅。
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1995年頃(移転)
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「島田第二文化劇場」。1960年の映画館名簿では「第二文化劇場」。1960年の島田市住宅明細図では「第二文化劇場(中野)」。1963年の映画館名簿では「島活会館第二文化」。1966年の映画館名簿では「島田第二文化」。1972年・1976年・1984年の住宅地図では「スカラ座」。1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「島田スカラ座」。1980年・1985年・1990年・1995年・1996年の映画館名簿では「スカラ座」。1996年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「洞源寺」南西70mの道路用地。2000年代以後の区画整理で道路割が大きく変化しているので参考程度に。最寄駅はJR東海道本線島田駅。
所在地 : 静岡県志太郡島田町(1930年)、静岡県志太郡島田町6丁目(1936年)、静岡県志太郡島田町(1943年)、静岡県志太郡島田町6丁目(1947年)、静岡県島田市本通り(1949年)、静岡県島田市本町6丁目(1950年)、静岡県島田市本通6(1953年)、静岡県島田市本通6丁目(1955年)、静岡県島田市本通6-7835(1958年)、静岡県島田市6丁目7835(1960年)、静岡県島田市本通6丁目(1963年)、静岡県島田市本通6-7835(1966年)、静岡県島田市6-7835(1969年)、静岡県島田市6丁目7835(1969年)、静岡県島田市本通6-7835(1976年・1995年・2005年・2010年)
開館年 : 1916年、1928年3月
閉館年 : 2010年3月10日
『全国映画館総覧 1955』によると1928年3月開館。1930年・1936年・1943年の映画館名簿では「実座」。1947年・1949年の映画館名簿では「島田実座」。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「実座」。1958年の映画館名簿では「島田松竹実座」。1960年の映画館名簿では「実座」。1960年の島田市住宅明細図では「映画劇場 島田実座」。1963年の映画館名簿では「みのる座」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「映画劇場 島田実座」。1966年・1969年の映画館名簿では「島田みのる座」。1972年・1976年・1984年の住宅地図では「みのる座」。1973年の映画館名簿では「島田実座」。1976年の映画館名簿では「島田みのる座」。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「みのる座」。2005年・2010年の映画館名簿では「カンマザールみのる座」。跡地は和菓子屋「龍月堂」南南東50mの駐車場。最寄駅はJR東海道本線島田駅。
1916年に芝居小屋として開館した。1950年代に東京で映画関係の仕事をしていた太田修平が引き継いで映画館に改修したが、大正時代の煉瓦張りタイルは残っている。2010年3月10日に閉館した。静岡県に残る唯一の木造映画館だった。最終日の3月10日には山田洋次監督作『男はつらいよ 噂の寅次郎』を上映し、山田監督のトークショーを開催する。*53
2010年3月10日、島田市本通の島田みのる座が閉館する。経営は島田興業。1916年竣工の建物の老朽化などが理由。先代の太田修平は山田洋次監督作品『虹をつかむ男』のモデルの一人であることから、閉館日の3月10日には山田洋次監督を迎えた講演会を開催し、島田でロケが行われた『男はつらいよ 噂の寅次郎』のフィルム上映会を行う。木造平屋建て190席。芝居小屋時代の名残である楽屋や回り舞台も残る。「大勢の人が訪れて、実りがあるように」との思いで「実座」と命名された。1959年に映画館に改修した。*54
2010年3月10日、島田市の映画館「みのる座」が93年の歴史に幕を閉じて閉館。静岡県内の現存する映画館としてはもっとも古いとされていた。*55
閉館した島田市のみのる座を舞台とする映画の製作が進んでいる。余命僅かとなったみのる座の館主の物語である。題名は『安寧の巣』。製作費はゼロだが、みのる座やフィルムサポート島田の支援を受けている。2010年9月14日から9月24日頃まで現地で撮影し、2011年1月頃の完成を目指す。*56
2010年10月23日、島田市の映画館「みのる座」が閉館する。東海道本線島田駅から徒歩約10分、旧東海道沿いに商店が並ぶ本通りから小路を入って突き当りにある。建物のファサードはアール・デコ調であり、券売所には濃紫のタイルが貼られている。築94年の木造建築であり、芝居小屋として建てられた。51年前、東京の配給会社に勤めていた太田修平は、経営難で所有者が手放したみのる座を29歳で引き継いだ。全盛期の島田市には邦画4社の専門館、洋画専門館、ポルノ専門館の6館があり、みのる座は松竹作品の専門館だった。太田修平は松竹のパーティで山田洋次監督に出会い、50年にも及ぶ交流が始まった。1995年には山田監督が『虹をつかむ男』のロケハンに訪れ、みのる座の両脇の民家が空き家だと知ると「壊せますね」と言ったという。結局『虹をつかむ男』のロケは徳島県の脇町劇場で行われたが、山田監督は完成記者会見で主人公のモデルの一人に太田修平を挙げた。1964年の東京オリンピック後には島田市の映画館が相次いで閉館し、東宝や東映の作品も上映した。息子の太田晴也は音楽大学を出て教師をしていたが、1993年に太田修平から経営を継いだ。上映の中心を子ども向け作品とし、また土日営業に切り替え、落語会やコンサートなどの下士官営業も行った。100周年となる2016年までは営業を続ける予定だったが、2009年2月末には隣接する藤枝市にシネコンが開館し、『ドラえもん』の新作の観客数は前作の3分の1となった。太田晴也が閉館を決定すると、地元の建築士や大工の棟梁が建物の調査に訪れ、屋根裏からは格天井の枠や棟木札、「猿田彦」の木札などが発見された。奈落からは回り舞台の遺構や花道の痕跡も発見された。3月10日の最終興行は『男はつらいよ 噂の寅次郎』であり、山田監督も来館した上映は満員となった。10月23日には地元出身の落語家である三遊亭遊喜の公演を行う。*57
2012年1月5日、島田みのる座の元館主である太田修平が死去した。太田は映画館主を主人公とする山田洋次監督の映画『虹をつかむ男』のモデルとなった。太田は島田市議会議員を4期16年務め、島田市議会議長も務めた。2005年に旭日双光章を受章している。*58
2010年11月18日付の日本経済新聞にはみのる座の閉館に関する記事が掲載されている。11月23日の勤労感謝の日には最終興行として地元の落語家の興行が行われたという。現物は未確認。*59
「カンマーザール島田みのる座」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*60
2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
開館年 : 1916年、1928年3月
閉館年 : 2010年3月10日
『全国映画館総覧 1955』によると1928年3月開館。1930年・1936年・1943年の映画館名簿では「実座」。1947年・1949年の映画館名簿では「島田実座」。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「実座」。1958年の映画館名簿では「島田松竹実座」。1960年の映画館名簿では「実座」。1960年の島田市住宅明細図では「映画劇場 島田実座」。1963年の映画館名簿では「みのる座」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「映画劇場 島田実座」。1966年・1969年の映画館名簿では「島田みのる座」。1972年・1976年・1984年の住宅地図では「みのる座」。1973年の映画館名簿では「島田実座」。1976年の映画館名簿では「島田みのる座」。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「みのる座」。2005年・2010年の映画館名簿では「カンマザールみのる座」。跡地は和菓子屋「龍月堂」南南東50mの駐車場。最寄駅はJR東海道本線島田駅。
1916年に芝居小屋として開館した。1950年代に東京で映画関係の仕事をしていた太田修平が引き継いで映画館に改修したが、大正時代の煉瓦張りタイルは残っている。2010年3月10日に閉館した。静岡県に残る唯一の木造映画館だった。最終日の3月10日には山田洋次監督作『男はつらいよ 噂の寅次郎』を上映し、山田監督のトークショーを開催する。*53
2010年3月10日、島田市本通の島田みのる座が閉館する。経営は島田興業。1916年竣工の建物の老朽化などが理由。先代の太田修平は山田洋次監督作品『虹をつかむ男』のモデルの一人であることから、閉館日の3月10日には山田洋次監督を迎えた講演会を開催し、島田でロケが行われた『男はつらいよ 噂の寅次郎』のフィルム上映会を行う。木造平屋建て190席。芝居小屋時代の名残である楽屋や回り舞台も残る。「大勢の人が訪れて、実りがあるように」との思いで「実座」と命名された。1959年に映画館に改修した。*54
2010年3月10日、島田市の映画館「みのる座」が93年の歴史に幕を閉じて閉館。静岡県内の現存する映画館としてはもっとも古いとされていた。*55
閉館した島田市のみのる座を舞台とする映画の製作が進んでいる。余命僅かとなったみのる座の館主の物語である。題名は『安寧の巣』。製作費はゼロだが、みのる座やフィルムサポート島田の支援を受けている。2010年9月14日から9月24日頃まで現地で撮影し、2011年1月頃の完成を目指す。*56
2010年10月23日、島田市の映画館「みのる座」が閉館する。東海道本線島田駅から徒歩約10分、旧東海道沿いに商店が並ぶ本通りから小路を入って突き当りにある。建物のファサードはアール・デコ調であり、券売所には濃紫のタイルが貼られている。築94年の木造建築であり、芝居小屋として建てられた。51年前、東京の配給会社に勤めていた太田修平は、経営難で所有者が手放したみのる座を29歳で引き継いだ。全盛期の島田市には邦画4社の専門館、洋画専門館、ポルノ専門館の6館があり、みのる座は松竹作品の専門館だった。太田修平は松竹のパーティで山田洋次監督に出会い、50年にも及ぶ交流が始まった。1995年には山田監督が『虹をつかむ男』のロケハンに訪れ、みのる座の両脇の民家が空き家だと知ると「壊せますね」と言ったという。結局『虹をつかむ男』のロケは徳島県の脇町劇場で行われたが、山田監督は完成記者会見で主人公のモデルの一人に太田修平を挙げた。1964年の東京オリンピック後には島田市の映画館が相次いで閉館し、東宝や東映の作品も上映した。息子の太田晴也は音楽大学を出て教師をしていたが、1993年に太田修平から経営を継いだ。上映の中心を子ども向け作品とし、また土日営業に切り替え、落語会やコンサートなどの下士官営業も行った。100周年となる2016年までは営業を続ける予定だったが、2009年2月末には隣接する藤枝市にシネコンが開館し、『ドラえもん』の新作の観客数は前作の3分の1となった。太田晴也が閉館を決定すると、地元の建築士や大工の棟梁が建物の調査に訪れ、屋根裏からは格天井の枠や棟木札、「猿田彦」の木札などが発見された。奈落からは回り舞台の遺構や花道の痕跡も発見された。3月10日の最終興行は『男はつらいよ 噂の寅次郎』であり、山田監督も来館した上映は満員となった。10月23日には地元出身の落語家である三遊亭遊喜の公演を行う。*57
2012年1月5日、島田みのる座の元館主である太田修平が死去した。太田は映画館主を主人公とする山田洋次監督の映画『虹をつかむ男』のモデルとなった。太田は島田市議会議員を4期16年務め、島田市議会議長も務めた。2005年に旭日双光章を受章している。*58
2010年11月18日付の日本経済新聞にはみのる座の閉館に関する記事が掲載されている。11月23日の勤労感謝の日には最終興行として地元の落語家の興行が行われたという。現物は未確認。*59
「カンマーザール島田みのる座」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*60
2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
所在地 : 静岡県志太郡島田町6丁目(1947年)、静岡県島田市本通り(1949年)、静岡県島田市(1950年)、静岡県島田市本通4-8270-1(1953年)、静岡県島田市本通4-8270、本通4丁目(1958年)、静岡県島田市本通り4-8270(1960年)、静岡県島田市本通4丁目(1963年)、静岡県島田市本通り4-8270-1(1966年)、静岡県島田市4-8270-1(1969年)、静岡県島田市4丁目8270-1(1973年)、静岡県島田市本通り4-8270-1(1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2005年・2010年・2013年)
開館年 : 1945年11月、1957年7月10日(建て替え)
閉館年 : 2013年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1945年11月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「島田文化」。1949年・1950年の映画館名簿では「島田文化劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「文化劇場」。1958年の映画館名簿では「島活宝塚・島活島田文化劇場」(2館)。1960年の映画館名簿では「宝塚劇場・文化劇場」(2館)。1960年の島田市住宅明細図では「映画劇場 宝塚 文化」。1963年の映画館名簿では「島活会館宝塚劇場・島活会館文化劇場」(2館)。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「映画劇場 文化 宝塚」。1966年・1969年の映画館名簿では「島田宝塚劇場・文化劇場」(2館)。1969年の映画館名簿では「島田宝塚劇場」。1972年の住宅地図では「1階文化ホール 2階宝塚」。1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「島田文化」。1976年の住宅地図では「1F文化ホール2F島活」。1984年の住宅地図では「島活会館 1Fパチンコ文化ホール 2F映画館ブンカ」。1996年・1998年の映画館名簿では「島田文化・スカラ座」(2館)。2000年の映画館名簿には掲載されていない。2005年・2010年・2012年・2013年の映画館名簿では「島田文化」。2012年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造2階建、80席、経営会社が有限会社島活会館、経営者・支配人ともに中野裕二、洋画を上映。2014年の映画館名簿には掲載されていない。島活会館2階。映画館の建物は衣料品店「島田ユニフォームセンター」が入る島活会館として現存。最寄駅はJR東海道本線島田駅。
1956年12月22日午前4時30分頃、島田市本通4丁目の「島田第一文化劇場」付近から出火し、同館ほか5商店が全焼した。損害額は約2000万円。経営者は中野一雄。*61
1957年7月10日、島田市本通り4丁目に「島活会館」が開館した。島田文化劇場が総工費5000万円で建設していた。鉄骨造3階建てで2館を有する。地上には洋画館「島田文化」(400席)が、地下には東宝・日活・新東宝の上映館「宝塚」(400席)がある。2階の一角は総合店舗となっており、3階には大衆食堂が、屋上には遊園地がある。*62
1957年の島田市の本通4丁目の北側の街並み。「文化劇場」と呼ばれた映画館「宝塚」の写真あり。2006年現在の跡地の写真もあり、「島田ユニフォームセンター」が見える。「ホテルルートイン島田」の2階部分には多目的文化ホールを兼ねた形で「文化」が存続している(※正確に文意を読み取れない)。*63
1962年の島田市本通4丁目にあった映画館の写真あり(※館名は記載されていない)。「洋画の文化 邦画の宝塚」の文字が見える。三船敏郎主演の東宝作品『どぶろくの辰』の看板が見える。右側のパーラーとりやはハイカラな西洋料理店であり、給料日・誕生日・デートなど特別な日に利用する人が多かった。*64
開館年 : 1945年11月、1957年7月10日(建て替え)
閉館年 : 2013年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1945年11月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「島田文化」。1949年・1950年の映画館名簿では「島田文化劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「文化劇場」。1958年の映画館名簿では「島活宝塚・島活島田文化劇場」(2館)。1960年の映画館名簿では「宝塚劇場・文化劇場」(2館)。1960年の島田市住宅明細図では「映画劇場 宝塚 文化」。1963年の映画館名簿では「島活会館宝塚劇場・島活会館文化劇場」(2館)。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「映画劇場 文化 宝塚」。1966年・1969年の映画館名簿では「島田宝塚劇場・文化劇場」(2館)。1969年の映画館名簿では「島田宝塚劇場」。1972年の住宅地図では「1階文化ホール 2階宝塚」。1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「島田文化」。1976年の住宅地図では「1F文化ホール2F島活」。1984年の住宅地図では「島活会館 1Fパチンコ文化ホール 2F映画館ブンカ」。1996年・1998年の映画館名簿では「島田文化・スカラ座」(2館)。2000年の映画館名簿には掲載されていない。2005年・2010年・2012年・2013年の映画館名簿では「島田文化」。2012年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造2階建、80席、経営会社が有限会社島活会館、経営者・支配人ともに中野裕二、洋画を上映。2014年の映画館名簿には掲載されていない。島活会館2階。映画館の建物は衣料品店「島田ユニフォームセンター」が入る島活会館として現存。最寄駅はJR東海道本線島田駅。
1956年12月22日午前4時30分頃、島田市本通4丁目の「島田第一文化劇場」付近から出火し、同館ほか5商店が全焼した。損害額は約2000万円。経営者は中野一雄。*61
1957年7月10日、島田市本通り4丁目に「島活会館」が開館した。島田文化劇場が総工費5000万円で建設していた。鉄骨造3階建てで2館を有する。地上には洋画館「島田文化」(400席)が、地下には東宝・日活・新東宝の上映館「宝塚」(400席)がある。2階の一角は総合店舗となっており、3階には大衆食堂が、屋上には遊園地がある。*62
1957年の島田市の本通4丁目の北側の街並み。「文化劇場」と呼ばれた映画館「宝塚」の写真あり。2006年現在の跡地の写真もあり、「島田ユニフォームセンター」が見える。「ホテルルートイン島田」の2階部分には多目的文化ホールを兼ねた形で「文化」が存続している(※正確に文意を読み取れない)。*63
1962年の島田市本通4丁目にあった映画館の写真あり(※館名は記載されていない)。「洋画の文化 邦画の宝塚」の文字が見える。三船敏郎主演の東宝作品『どぶろくの辰』の看板が見える。右側のパーラーとりやはハイカラな西洋料理店であり、給料日・誕生日・デートなど特別な日に利用する人が多かった。*64
所在地 : 静岡県榛原郡相良町(1930年)、静岡県榛原郡相良町波津(1936年)
開館年 : 1927年
閉館年 : 1940年頃
1927年の映画館名簿には掲載されていない。1930年・1936年の映画館名簿では「昭和館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。
1927年、相良町の新丁に活動写真館「昭和館」が開館した。地元の共同出資による経営であり、川田重松が創立代表者格だった。マキノ興業の直営館だった。3階建モルタル仕上げの洋館構えであり、当時としては大建築だった。開館時はサイレント映画であり、波津の諸岡松声などの弁士が映画説明を行っていたが、1929年頃にはトーキー映画も上映されるようになった。戦時色が強くなった1939年から1940年頃に閉館となった。建物は取り壊され、工場用建材として清水市の清水初次郎に売却された。*65
1927年頃、相良町の新丁に映画劇場「昭和館」が開館した。*66
開館年 : 1927年
閉館年 : 1940年頃
1927年の映画館名簿には掲載されていない。1930年・1936年の映画館名簿では「昭和館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。
1927年、相良町の新丁に活動写真館「昭和館」が開館した。地元の共同出資による経営であり、川田重松が創立代表者格だった。マキノ興業の直営館だった。3階建モルタル仕上げの洋館構えであり、当時としては大建築だった。開館時はサイレント映画であり、波津の諸岡松声などの弁士が映画説明を行っていたが、1929年頃にはトーキー映画も上映されるようになった。戦時色が強くなった1939年から1940年頃に閉館となった。建物は取り壊され、工場用建材として清水市の清水初次郎に売却された。*65
1927年頃、相良町の新丁に映画劇場「昭和館」が開館した。*66
所在地 : 静岡県榛原郡相良町萩間
開館年 : 1959年
閉館年 : 1964年
いずれの年代の映画館名簿には掲載されていない。
1959年、相良町萩間地区に映画劇場「萩間館」が創立された。経営者は大寄の畑庄太郎である。場所は黒子の蛭ヶ谷入口であり、現在は萩間電話交換局と大石鉄工がある場所である。1964年に閉館した。*67
開館年 : 1959年
閉館年 : 1964年
いずれの年代の映画館名簿には掲載されていない。
1959年、相良町萩間地区に映画劇場「萩間館」が創立された。経営者は大寄の畑庄太郎である。場所は黒子の蛭ヶ谷入口であり、現在は萩間電話交換局と大石鉄工がある場所である。1964年に閉館した。*67
所在地 : 静岡県榛原郡相良町(1958年)、静岡県榛原郡相良町地頭方(1960年・1963年)、静岡県榛原郡相良町根良川地頭方925-10(1966年)
開館年 : 1950年1月7日
閉館年 : 1966年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「地頭方劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
1950年1月7日、相良町地頭方992-10に「地頭方劇場」が創立された。経営者は満州から引き揚げてきた山本八郎であり、定員は250人だった。ただし『増補資料榛原郡誌』には収容人員500人とある。これ以前のこの地区に常設映画館はなく、小学校や公会堂で巡回映画を観ていた。映画上映のほかには、踊りの高松レビュー、奇術の天勝、浪曲の村田英雄らが訪れたこともある。テレビの普及で観客が減少し、1966年に閉館した。*68
開館年 : 1950年1月7日
閉館年 : 1966年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「地頭方劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
1950年1月7日、相良町地頭方992-10に「地頭方劇場」が創立された。経営者は満州から引き揚げてきた山本八郎であり、定員は250人だった。ただし『増補資料榛原郡誌』には収容人員500人とある。これ以前のこの地区に常設映画館はなく、小学校や公会堂で巡回映画を観ていた。映画上映のほかには、踊りの高松レビュー、奇術の天勝、浪曲の村田英雄らが訪れたこともある。テレビの普及で観客が減少し、1966年に閉館した。*68
所在地 : 静岡県榛原郡相良町149(1958年)、静岡県榛原郡相良町相良149(1960年)、静岡県榛原郡相良町相良(1963年)、静岡県榛原郡相良町相良149(1966年)
開館年 : 1954年12月13日
閉館年 : 1968年2月9日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「相良映画劇場」。1969年の榛南地区住宅明細図附相良町・御前崎町では「相良映画」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「心月寺」駐車場。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。
1954年12月12日(※12月13日ではない)、相良町前浜の心月寺の前に「相良映画劇場」が竣工した。般若寺の小寺だった心月庵の檀徒が心月寺として独立させ、前庭に映画館を設けて付近の繁栄を図ろうとしたのである相良映画劇場は株式会社組織であり、出資者は沢田益男・久保多平・岩堀宇一郎・西谷俊一・鈴木清一など、静岡市の興行師である本間尚男が社長となった。建設費は600万円の予算であり、建坪は120坪だった。10月8日から建設を開始して12月12日に竣工。こけら落としは元松竹歌劇のオリエ津坂およびビクター専属の榎本美佐枝とその楽団である。定員800人の椅子席であり、一日3回上映される。1957年2月1日には経営権者が戸塚興業に変わった。相生座との兼ね合いもあって、相良映画劇場では東映・大映・新東宝の作品が上映された。1968年2月9日、火災で焼失したことで閉館となった。*69
相良町には「相映」があった。正式名称は「相良映画劇場」。1954年、心月寺の前に竣工した。相良町の株主が多い株式組織であり、経営者は静岡市の興業主である本間尚男だった。定員は800であり、椅子席がある近代的な劇場だった。やがて戸塚興業の経営に変わり、1968年に火災で全焼したが再建されなかった。*70
1954年12月13日、相良町前浜の心月寺の前庭に「相良映画劇場」が竣工した。相良映画劇場は株式会社組織であり、出資者は沢田益男・久保多平・岩堀宇一郎・西谷俊一・鈴木清一など、静岡市の興行師である本間尚男が社長となった。建設費は600万円の予算であり、建坪は120坪だった。こけら落としは元松竹歌劇のオリエ津坂およびビクター専属の榎本美佐枝とその楽団である。定員800人(椅子席)だったが、『増補資料榛原郡誌』には収容人員650人とある。1957年2月1日には経営者が榛原町の戸塚興業に変わった。相生座との兼ね合いもあって、相良映画劇場では東映・大映・新東宝の作品が上映された。1968年2月9日、火災で焼失したことで閉館となった。*71
1954年12月、相良町の前浜に「相良映画劇場」が開館した。*72
開館年 : 1954年12月13日
閉館年 : 1968年2月9日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「相良映画劇場」。1969年の榛南地区住宅明細図附相良町・御前崎町では「相良映画」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「心月寺」駐車場。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。
1954年12月12日(※12月13日ではない)、相良町前浜の心月寺の前に「相良映画劇場」が竣工した。般若寺の小寺だった心月庵の檀徒が心月寺として独立させ、前庭に映画館を設けて付近の繁栄を図ろうとしたのである相良映画劇場は株式会社組織であり、出資者は沢田益男・久保多平・岩堀宇一郎・西谷俊一・鈴木清一など、静岡市の興行師である本間尚男が社長となった。建設費は600万円の予算であり、建坪は120坪だった。10月8日から建設を開始して12月12日に竣工。こけら落としは元松竹歌劇のオリエ津坂およびビクター専属の榎本美佐枝とその楽団である。定員800人の椅子席であり、一日3回上映される。1957年2月1日には経営権者が戸塚興業に変わった。相生座との兼ね合いもあって、相良映画劇場では東映・大映・新東宝の作品が上映された。1968年2月9日、火災で焼失したことで閉館となった。*69
相良町には「相映」があった。正式名称は「相良映画劇場」。1954年、心月寺の前に竣工した。相良町の株主が多い株式組織であり、経営者は静岡市の興業主である本間尚男だった。定員は800であり、椅子席がある近代的な劇場だった。やがて戸塚興業の経営に変わり、1968年に火災で全焼したが再建されなかった。*70
1954年12月13日、相良町前浜の心月寺の前庭に「相良映画劇場」が竣工した。相良映画劇場は株式会社組織であり、出資者は沢田益男・久保多平・岩堀宇一郎・西谷俊一・鈴木清一など、静岡市の興行師である本間尚男が社長となった。建設費は600万円の予算であり、建坪は120坪だった。こけら落としは元松竹歌劇のオリエ津坂およびビクター専属の榎本美佐枝とその楽団である。定員800人(椅子席)だったが、『増補資料榛原郡誌』には収容人員650人とある。1957年2月1日には経営者が榛原町の戸塚興業に変わった。相生座との兼ね合いもあって、相良映画劇場では東映・大映・新東宝の作品が上映された。1968年2月9日、火災で焼失したことで閉館となった。*71
1954年12月、相良町の前浜に「相良映画劇場」が開館した。*72
所在地 : 静岡県榛原郡相良町福岡56-2-1(1953年)、静岡県榛原郡相良町福岡(1955年・1958年)、静岡県榛原郡相良町福岡56-1(1960年)、静岡県榛原郡相良町福岡(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1884年以前、1937年5月
閉館年 : 1965年頃? 1980年2月?
『全国映画館総覧 1955』によると1937年5月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「相生座」。1965年の映画館名簿では経営者が戸塚興業、支配人が八木令吉、木造2階暖房付、定員480、松竹・日活・東宝を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の榛南地区住宅明細図附相良町・御前崎町では「相生座」。1971年のゼンリン住宅地図では「文化劇場」。跡地は「相良保育園」南南西100mにある4軒分の民家。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。
1884年の相良町絵図には「相生座」の建物が大きく描かれている。御荒神の福富座が廃れた跡地に開館した。1910年12月10日、浜横町に相生座が新築された。収容人員550人であり、ヒノキ造りの回り舞台を備えていた。月に2-3回の興行を行い、興行日には幡や太鼓が町中をふれ回る顔見世が行われた。昭和に入ると映画も上映するようになり、戦後には常設映画館として毎日昼も夜も上映した。劇場の所有者は小島好美だったが、戸塚興業が松竹・日活・東宝の作品を上映していた。1960年には戸塚興業が相生座を買収し、「相良文化劇場」に改称した。観客が減少したことで、1980年2月にはついに閉館し、12月には建物が取り壊された。1986年現在の跡地は駐車場となっている。所在地は相良町福岡56-2-1。*73
1910年、浜横町に芝居小屋「相生座」が開館した。回り舞台のある大建築であり、三方に2階席があった。定員は550。大正末期から昭和初期には無声映画が上映され、当時は珍しかった男女の恋愛交際の場にもなった。1930年頃にはトーキー映画が登場し、弁士や楽団は不要になってしまった。この頃は浪曲の全盛期であり、映画や芝居の合間には浪曲が演じられた。1935年頃にはレビューが流行し、高松レビューなどが公演を行った。若い女性の踊子が肩を組んで踊り、足を上げるとパンティが見えたりするので、男性には大人気だったが旧制中学校生は入場禁止だった。戦後にテレビが台頭すると映画館の閉館も目立つようになり、1960年には所有者の小島好美が榛原町の戸塚興業に売却した。戸塚興業は「相生座」をいくらか改装し、「相良文化劇場」に改称したが、1979年に閉館して建物を取り壊した。*74
1960年、相良町の「相生座」は榛原町の戸塚興業の直営館となった。1964年には相生座から「相良文化劇場」に改称した。1980年2月には約1世紀の歴史の幕を閉じて閉館し、同年12月には建物が取り壊された。1996年現在の跡地は駐車場となっている。*75
1907年1月4日、相良町の「相生座」で町民大会が開催され、実業の振興策などを協議した。静岡県知事の李家隆介が招かれた。*76
牧之原市福岡35にあるファッションクリーニングの男性。「東に100mほど、建て売りの民家がある場所に「相生座」があった。移転したという話は聞いたことがない。(相良文化劇場という名前にも反応せず)心月寺の前には「アイエイ」(相映)があった。」
開館年 : 1884年以前、1937年5月
閉館年 : 1965年頃? 1980年2月?
『全国映画館総覧 1955』によると1937年5月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「相生座」。1965年の映画館名簿では経営者が戸塚興業、支配人が八木令吉、木造2階暖房付、定員480、松竹・日活・東宝を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の榛南地区住宅明細図附相良町・御前崎町では「相生座」。1971年のゼンリン住宅地図では「文化劇場」。跡地は「相良保育園」南南西100mにある4軒分の民家。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。
1884年の相良町絵図には「相生座」の建物が大きく描かれている。御荒神の福富座が廃れた跡地に開館した。1910年12月10日、浜横町に相生座が新築された。収容人員550人であり、ヒノキ造りの回り舞台を備えていた。月に2-3回の興行を行い、興行日には幡や太鼓が町中をふれ回る顔見世が行われた。昭和に入ると映画も上映するようになり、戦後には常設映画館として毎日昼も夜も上映した。劇場の所有者は小島好美だったが、戸塚興業が松竹・日活・東宝の作品を上映していた。1960年には戸塚興業が相生座を買収し、「相良文化劇場」に改称した。観客が減少したことで、1980年2月にはついに閉館し、12月には建物が取り壊された。1986年現在の跡地は駐車場となっている。所在地は相良町福岡56-2-1。*73
1910年、浜横町に芝居小屋「相生座」が開館した。回り舞台のある大建築であり、三方に2階席があった。定員は550。大正末期から昭和初期には無声映画が上映され、当時は珍しかった男女の恋愛交際の場にもなった。1930年頃にはトーキー映画が登場し、弁士や楽団は不要になってしまった。この頃は浪曲の全盛期であり、映画や芝居の合間には浪曲が演じられた。1935年頃にはレビューが流行し、高松レビューなどが公演を行った。若い女性の踊子が肩を組んで踊り、足を上げるとパンティが見えたりするので、男性には大人気だったが旧制中学校生は入場禁止だった。戦後にテレビが台頭すると映画館の閉館も目立つようになり、1960年には所有者の小島好美が榛原町の戸塚興業に売却した。戸塚興業は「相生座」をいくらか改装し、「相良文化劇場」に改称したが、1979年に閉館して建物を取り壊した。*74
1960年、相良町の「相生座」は榛原町の戸塚興業の直営館となった。1964年には相生座から「相良文化劇場」に改称した。1980年2月には約1世紀の歴史の幕を閉じて閉館し、同年12月には建物が取り壊された。1996年現在の跡地は駐車場となっている。*75
1907年1月4日、相良町の「相生座」で町民大会が開催され、実業の振興策などを協議した。静岡県知事の李家隆介が招かれた。*76
牧之原市福岡35にあるファッションクリーニングの男性。「東に100mほど、建て売りの民家がある場所に「相生座」があった。移転したという話は聞いたことがない。(相良文化劇場という名前にも反応せず)心月寺の前には「アイエイ」(相映)があった。」
所在地 : 静岡県榛原郡川崎町静波(1947年)、静岡県榛原郡川崎町(1949年・1950年)、静岡県榛原郡川崎町静波326(1953年)、静岡県榛原郡川崎町(1955年)、静岡県榛原郡榛原町静波326(1960年)、静岡県榛原郡榛原町静波(1963年・1966年)、静岡県榛原郡榛原町静波326(1969年)、静岡県榛原郡榛原町静波(1973年・1976年・1977年)
開館年 : 1925年12月
閉館年 : 1977年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1925年12月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1949年の映画館名簿では「大岩座」。1950年の映画館名簿では「川崎大岩座」。1953年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1977年の映画館名簿では「大岩座」。1969年の榛南地区住宅明細図附相良町・御前崎町では「オウイワ座」。1969年時点では南東側に「榛原スーパー」があった。1978年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ファミリーマート牧之原静波1丁目店」の北西端。最寄駅はJR東海道本線島田駅。
戦前の静波には、1922年に1丁目の辻の東に開館した「川崎劇場」と、1925年に西5丁目に開館した「静波劇場」があったが、両者とも開館から3年ほどで経営が行き詰った。1925年12月、川崎劇場の再建策として株式会社大岩座が設立された。大岩座の広さは150坪。枡席や花道があり、2階席は3段になっていた。昭和初期には演劇と歌舞伎を中心として、高松レビューやレスリングなどの興行が行われた。戦後は浪曲と芝居が中心であり、古川緑波・岡春夫・春日一郎・村田英雄・大津美子などが来演したが、やがて映画が興行の中心となった。初倉の劇場、吉田町の「神戸劇場」や「住吉座」や「吉田座」、相良町の「相生座」、白羽村の「白羽劇場」なども劇場から映画館に移行している。*77
開館年 : 1925年12月
閉館年 : 1977年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1925年12月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1949年の映画館名簿では「大岩座」。1950年の映画館名簿では「川崎大岩座」。1953年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1977年の映画館名簿では「大岩座」。1969年の榛南地区住宅明細図附相良町・御前崎町では「オウイワ座」。1969年時点では南東側に「榛原スーパー」があった。1978年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ファミリーマート牧之原静波1丁目店」の北西端。最寄駅はJR東海道本線島田駅。
戦前の静波には、1922年に1丁目の辻の東に開館した「川崎劇場」と、1925年に西5丁目に開館した「静波劇場」があったが、両者とも開館から3年ほどで経営が行き詰った。1925年12月、川崎劇場の再建策として株式会社大岩座が設立された。大岩座の広さは150坪。枡席や花道があり、2階席は3段になっていた。昭和初期には演劇と歌舞伎を中心として、高松レビューやレスリングなどの興行が行われた。戦後は浪曲と芝居が中心であり、古川緑波・岡春夫・春日一郎・村田英雄・大津美子などが来演したが、やがて映画が興行の中心となった。初倉の劇場、吉田町の「神戸劇場」や「住吉座」や「吉田座」、相良町の「相生座」、白羽村の「白羽劇場」なども劇場から映画館に移行している。*77
所在地 : 静岡県榛原郡吉田町片岡(1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1924年9月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1924年9月開館。1958年の映画館名簿では「吉田座」。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「吉田中央劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
1924年9月、吉田町に「吉田座」が開設された。*78
開館年 : 1924年9月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1924年9月開館。1958年の映画館名簿では「吉田座」。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「吉田中央劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
1924年9月、吉田町に「吉田座」が開設された。*78
所在地 : 静岡県榛原郡吉田町神戸(1960年・1963年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1967年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「神戸映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の榛南地区住宅明細図では「神戸劇場」。
1959年の神戸劇場(かんどげきじょう)の写真あり。神戸の交差点近くにあった。1957年頃に建設され、1967年頃まで営業していた。広告看板には初倉地区の商店の名前も見える。跡地には民家が建っており、近くにはJAハイナン神戸支店や吉田町立自彊小学校がある。映画館前の静岡県道79号吉田大東線は交通量の増加により拡幅整備された。*79
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1967年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「神戸映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の榛南地区住宅明細図では「神戸劇場」。
1959年の神戸劇場(かんどげきじょう)の写真あり。神戸の交差点近くにあった。1957年頃に建設され、1967年頃まで営業していた。広告看板には初倉地区の商店の名前も見える。跡地には民家が建っており、近くにはJAハイナン神戸支店や吉田町立自彊小学校がある。映画館前の静岡県道79号吉田大東線は交通量の増加により拡幅整備された。*79
所在地 : 静岡県榛原郡吉田町住吉(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年)、静岡県榛原郡吉田町住吉2469(1969年・1970年)
開館年 : 1926年6月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1926年6月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「住吉劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の榛南地区住宅明細図では確認できず「久保田ふとん店」の南側は空白となっている。1971年の住宅地図でも発見できない。
1926年5月、吉田町に「住吉座」が開設された。*80
開館年 : 1926年6月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1926年6月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「住吉劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の榛南地区住宅明細図では確認できず「久保田ふとん店」の南側は空白となっている。1971年の住宅地図でも発見できない。
1926年5月、吉田町に「住吉座」が開設された。*80
所在地 : 静岡県榛原郡中川根村上長尾(1959年・1960年)、静岡県榛原郡中川根町上長尾(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1965年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「大井公会堂」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1965年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「大井公会堂」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県榛原郡中川根村徳山(1961年・1962年)、静岡県榛原郡中川根町徳山(1963年・1966年・1967年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1967年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1962年の映画館名簿では「徳山映画劇場」。1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「徳山劇場」。1967年の映画館名簿では経営者・支配人ともに高松邦彦、構造が記載なし、定員が記載なし、邦画を上映。1968年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1967年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1962年の映画館名簿では「徳山映画劇場」。1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「徳山劇場」。1967年の映画館名簿では経営者・支配人ともに高松邦彦、構造が記載なし、定員が記載なし、邦画を上映。1968年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県志太郡東川根村藤川(1956年)、静岡県榛原郡本川根町114(1957年・1958年)、静岡県榛原郡本川根町小長井(1960年・1963年)、静岡県榛原郡本川根町菊川124-1(1966年・1967年)
開館年 : 1934年10月頃
閉館年 : 1967年頃
1954年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「川根小長井劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「小長井劇場」。1967年の映画館名簿では経営者・支配人ともに川口将夫、木造1階、定員250、邦画を上映。1968年の映画館名簿には掲載されていない。
戦前と戦後を通じて、「小長井座」は本川根町にあった唯一の映画館・演劇場である。湯山・大井川発電所の建設によって人口が増加したこともあり、1934年9月から10月頃に東川根村小長井に建てられた。前方にはスクリーン・ステージ・楽屋などがあり、座席は4人用腰かけ椅子が約100人分並んでいた。後方には売店もあった。戦後も約20年間にわたって営業された。*81
開館年 : 1934年10月頃
閉館年 : 1967年頃
1954年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「川根小長井劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「小長井劇場」。1967年の映画館名簿では経営者・支配人ともに川口将夫、木造1階、定員250、邦画を上映。1968年の映画館名簿には掲載されていない。
戦前と戦後を通じて、「小長井座」は本川根町にあった唯一の映画館・演劇場である。湯山・大井川発電所の建設によって人口が増加したこともあり、1934年9月から10月頃に東川根村小長井に建てられた。前方にはスクリーン・ステージ・楽屋などがあり、座席は4人用腰かけ椅子が約100人分並んでいた。後方には売店もあった。戦後も約20年間にわたって営業された。*81
所在地 : 静岡県駿東郡御殿場町仲町(1953年)、静岡県駿東郡御殿場町仲町14(1955年)、静岡県御殿場市仲町(1958年)、静岡県御殿場市仲町46(1960年・1963年)
開館年 : 1923年
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1923年開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「文化劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「御殿場文化劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「文化劇場」。1961年の御殿場市住宅明細図では「文化劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は仕出し屋「むびょう」。
1953年の富士登山競争の前日には、全国マラソン連盟の金栗四三会長が「御殿場文化劇場」で講演を行った。*82
開館年 : 1923年
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1923年開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「文化劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「御殿場文化劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「文化劇場」。1961年の御殿場市住宅明細図では「文化劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は仕出し屋「むびょう」。
1953年の富士登山競争の前日には、全国マラソン連盟の金栗四三会長が「御殿場文化劇場」で講演を行った。*82
所在地 : 静岡県駿東郡御殿場町(1950年)、静岡県駿東郡御殿場町新橋1994(1953年)、静岡県駿東郡御殿場町新橋2033(1955年)、静岡県御殿場市新橋1994(1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1924年
閉館年 : 1970年
『全国映画館総覧 1955』によると1924年開館。1950年の映画館名簿では「御殿場新橋劇場」。1953年の映画館名簿では「新橋劇場」。1955年の映画館名簿では「御殿場新橋劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「新橋劇場」。1961年の御殿場市住宅明細図では「新橋劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「御殿場新橋劇場」。1970年の住宅地図では跡地に「マルコシホール」。1971年のゼンリン住宅地図では跡地に「アキヤ」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。現在の跡地は「さかなや駅前店」。最寄駅はJR御殿場線御殿場駅。
1930年11月、御殿場町の「新橋劇場」で開催された琴尺八演奏会の写真あり。1922年3月、御殿場駅の近くに新橋劇場株式会社が創立され、浪花節・芝居・連鎖劇・活動写真・琵琶・魔術などの興行が行われた。1930年の興行日数は活動写真が89日、浪花節2日、その他5日、賃借32日だった。1940年に常設映画館となった。*83
1955年頃の御殿場市にあった劇場通りの写真あり。「新橋劇場」が見える。1922年には新橋劇場が開館し、中田通りが劇場通りと呼ばれるようになった。昭和20年代後半には「マウント劇場」や「中央劇場」が開館し、劇場通りは御殿場随一の繁華街となった。1970年には新橋劇場が閉館し、1989年現在の跡地はパチンコ店が建っている。*84
御殿場駅の駅通りの裏手には「マウント劇場」がある。かつては「新橋劇場」もあり、この通りは劇場通りと呼ばれた。えちごや洋品店の東側にある中央ビルが新橋劇場跡地である。新橋劇場の前身はえちごやが経営した「新生座」であり、大正後期に新橋劇場が建てられた。*85
1980年の御殿場市にあった劇場通りの写真あり。「新橋劇場」が見える。1922年には新橋劇場が開館し、中田通りが劇場通りと呼ばれるようになった。昭和20年代後半には「マウント劇場」や「中央劇場」が開館し、劇場通りは御殿場随一の繁華街となった。2013年現在の御殿場市にある映画館はマウント劇場のみであり、劇場通りはマイロードに改称している。*86
開館年 : 1924年
閉館年 : 1970年
『全国映画館総覧 1955』によると1924年開館。1950年の映画館名簿では「御殿場新橋劇場」。1953年の映画館名簿では「新橋劇場」。1955年の映画館名簿では「御殿場新橋劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「新橋劇場」。1961年の御殿場市住宅明細図では「新橋劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「御殿場新橋劇場」。1970年の住宅地図では跡地に「マルコシホール」。1971年のゼンリン住宅地図では跡地に「アキヤ」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。現在の跡地は「さかなや駅前店」。最寄駅はJR御殿場線御殿場駅。
1930年11月、御殿場町の「新橋劇場」で開催された琴尺八演奏会の写真あり。1922年3月、御殿場駅の近くに新橋劇場株式会社が創立され、浪花節・芝居・連鎖劇・活動写真・琵琶・魔術などの興行が行われた。1930年の興行日数は活動写真が89日、浪花節2日、その他5日、賃借32日だった。1940年に常設映画館となった。*83
1955年頃の御殿場市にあった劇場通りの写真あり。「新橋劇場」が見える。1922年には新橋劇場が開館し、中田通りが劇場通りと呼ばれるようになった。昭和20年代後半には「マウント劇場」や「中央劇場」が開館し、劇場通りは御殿場随一の繁華街となった。1970年には新橋劇場が閉館し、1989年現在の跡地はパチンコ店が建っている。*84
御殿場駅の駅通りの裏手には「マウント劇場」がある。かつては「新橋劇場」もあり、この通りは劇場通りと呼ばれた。えちごや洋品店の東側にある中央ビルが新橋劇場跡地である。新橋劇場の前身はえちごやが経営した「新生座」であり、大正後期に新橋劇場が建てられた。*85
1980年の御殿場市にあった劇場通りの写真あり。「新橋劇場」が見える。1922年には新橋劇場が開館し、中田通りが劇場通りと呼ばれるようになった。昭和20年代後半には「マウント劇場」や「中央劇場」が開館し、劇場通りは御殿場随一の繁華街となった。2013年現在の御殿場市にある映画館はマウント劇場のみであり、劇場通りはマイロードに改称している。*86
所在地 : 静岡県御殿場市新橋町(1956年)、静岡県御殿場市新橋町2046(1957年)、静岡県御殿場市新橋2046(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1976年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年の映画館名簿では「富士映画劇場」。1958年の映画館名簿では「御殿場東映富士劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「富士映画劇場」。1961年の御殿場市住宅明細図では「富士映画劇場」。1966年の映画館名簿では「御殿場富士映画劇場」。1969年の映画館名簿では「御殿場東映映画劇場」。1970年の住宅地図では「富士映画」。1973年・1976年の映画館名簿では「御殿場東映劇場」。1977年・1978年・1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「石坂ふとん店」南西の名称不明の駐車場。最寄駅はJR御殿場線御殿場駅。
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1976年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年の映画館名簿では「富士映画劇場」。1958年の映画館名簿では「御殿場東映富士劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「富士映画劇場」。1961年の御殿場市住宅明細図では「富士映画劇場」。1966年の映画館名簿では「御殿場富士映画劇場」。1969年の映画館名簿では「御殿場東映映画劇場」。1970年の住宅地図では「富士映画」。1973年・1976年の映画館名簿では「御殿場東映劇場」。1977年・1978年・1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「石坂ふとん店」南西の名称不明の駐車場。最寄駅はJR御殿場線御殿場駅。
所在地 : 静岡県御殿場市新橋町(1956年)、静岡県御殿場市新橋1991(1958年)、静岡県御殿場市新橋1999(1960年)、静岡県御殿場市新橋2001(1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1988年・1989年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1989年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年の映画館名簿では「御殿場中央劇場」。1961年の御殿場市住宅明細図では「中央劇場」。1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「御殿場中央劇場」。1970年の住宅地図では「中央劇場」。1980年・1985年・1988年・1989年の映画館名簿では「中央劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1階に居酒屋「GOTEN 御殿場店」がある「中央ビル」。最寄駅はJR御殿場線御殿場駅。
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1989年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年の映画館名簿では「御殿場中央劇場」。1961年の御殿場市住宅明細図では「中央劇場」。1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「御殿場中央劇場」。1970年の住宅地図では「中央劇場」。1980年・1985年・1988年・1989年の映画館名簿では「中央劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1階に居酒屋「GOTEN 御殿場店」がある「中央ビル」。最寄駅はJR御殿場線御殿場駅。
所在地 : 静岡県駿東郡御殿場町新橋1988(1953年)、静岡県駿東郡御殿場町仲町(1955年)、静岡県御殿場市新橋町1988(1958年)、静岡県御殿場市新橋1988(1960年・1963年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2012年)
開館年 : 1952年7月17日、1965年(ビル化)
閉館年 : 2012年
『全国映画館総覧 1955』によると1952年7月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「マウント映画劇場」。1955年の映画館名簿では「御殿場マウント劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「マウント映画劇場」。1961年の御殿場市住宅明細図では「マウント劇場」。1963年の映画館名簿では経営者・支配人ともに加藤茂治、木造1階冷暖房付、定員400、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の映画館名簿では経営者・支配人ともに記載なし、構造・定員ともに記載なし、洋画を上映。1967年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「御殿場マウント劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が加藤茂治、鉄筋造3階冷暖房付、定員は記載なし、洋画を上映。1971年の住宅地図では「マウント会館」。1980年の映画館名簿では経営者が加藤茂治、支配人が加藤広孝、鉄筋造3階、400席、洋画を上映。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2012年の映画館名簿では「マウント映画劇場」。2000年の映画館名簿では経営会社が株式会社マウント劇場、経営者・支配人ともに加藤広孝、鉄筋造4階、256席、邦画・洋画を上映。2012年の映画館名簿では経営会社が株式会社マウント劇場、経営者・支配人ともに加藤広孝、鉄筋造2階、255席、邦画・洋画を上映。2014年・2015年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は2020年開業の「マンテンゲストハウス」として現存。建物の正面にはマウント劇場の文字が残っている。最寄駅はJR御殿場線御殿場駅。
1952年7月17日、御殿場市の御殿場駅前に「マウント劇場」が開館した。オープニングは新東宝『朝の波紋』。木造2階建て。定員400人。経営者は加藤茂治と加藤正路。*87
1955年頃の御殿場市にあった劇場通りの写真あり。「新橋劇場」が見える。1922年には新橋劇場が開館し、中田通りが劇場通りと呼ばれるようになった。昭和20年代後半には「マウント劇場」や「中央劇場」が開館し、劇場通りは御殿場随一の繁華街となった。*88
御殿場駅の駅通りの裏手には「マウント劇場」がある。かつては「新橋劇場」もあり、この通りは劇場通りと呼ばれた。*89
1980年の御殿場市にあった劇場通りの写真あり。「新橋劇場」が見える。1922年には新橋劇場が開館し、中田通りが劇場通りと呼ばれるようになった。昭和20年代後半には「マウント劇場」や「中央劇場」が開館し、劇場通りは御殿場随一の繁華街となった。2013年現在の御殿場市にある映画館はマウント劇場のみであり、劇場通りはマイロードに改称している。*90
開館年 : 1952年7月17日、1965年(ビル化)
閉館年 : 2012年
『全国映画館総覧 1955』によると1952年7月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「マウント映画劇場」。1955年の映画館名簿では「御殿場マウント劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「マウント映画劇場」。1961年の御殿場市住宅明細図では「マウント劇場」。1963年の映画館名簿では経営者・支配人ともに加藤茂治、木造1階冷暖房付、定員400、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の映画館名簿では経営者・支配人ともに記載なし、構造・定員ともに記載なし、洋画を上映。1967年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「御殿場マウント劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が加藤茂治、鉄筋造3階冷暖房付、定員は記載なし、洋画を上映。1971年の住宅地図では「マウント会館」。1980年の映画館名簿では経営者が加藤茂治、支配人が加藤広孝、鉄筋造3階、400席、洋画を上映。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2012年の映画館名簿では「マウント映画劇場」。2000年の映画館名簿では経営会社が株式会社マウント劇場、経営者・支配人ともに加藤広孝、鉄筋造4階、256席、邦画・洋画を上映。2012年の映画館名簿では経営会社が株式会社マウント劇場、経営者・支配人ともに加藤広孝、鉄筋造2階、255席、邦画・洋画を上映。2014年・2015年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は2020年開業の「マンテンゲストハウス」として現存。建物の正面にはマウント劇場の文字が残っている。最寄駅はJR御殿場線御殿場駅。
1952年7月17日、御殿場市の御殿場駅前に「マウント劇場」が開館した。オープニングは新東宝『朝の波紋』。木造2階建て。定員400人。経営者は加藤茂治と加藤正路。*87
1955年頃の御殿場市にあった劇場通りの写真あり。「新橋劇場」が見える。1922年には新橋劇場が開館し、中田通りが劇場通りと呼ばれるようになった。昭和20年代後半には「マウント劇場」や「中央劇場」が開館し、劇場通りは御殿場随一の繁華街となった。*88
御殿場駅の駅通りの裏手には「マウント劇場」がある。かつては「新橋劇場」もあり、この通りは劇場通りと呼ばれた。*89
1980年の御殿場市にあった劇場通りの写真あり。「新橋劇場」が見える。1922年には新橋劇場が開館し、中田通りが劇場通りと呼ばれるようになった。昭和20年代後半には「マウント劇場」や「中央劇場」が開館し、劇場通りは御殿場随一の繁華街となった。2013年現在の御殿場市にある映画館はマウント劇場のみであり、劇場通りはマイロードに改称している。*90
まだ映画が活動写真と呼ばれていた時代、富士郡大宮町では3館が営業していた。1917年に開館した南神田の旭館、1920年に開館した南神田の大宮電気館、1920年に開館した松山町の帝国館である。戦後の映画黄金期には7館が営業しており、上記のほかに八光劇場、中央劇場、ロマンス座などがあった。帝国館、第一劇場、東宝映画劇場、東宝劇場と並ぶ文化劇場の写真あり。帝国館は後に東映となった。東宝映画劇場は1982年現在のマルトミ靴店の場所である。文化劇場は現在の有楽座である。*91
大正時代の富士郡大宮町には3館の映画館があった。1917年開館の旭館、1920年開館の大宮電気館、1920年開館の帝国館である。しかし、旭館と電気館は1929年の大宮町大火で焼失した。戦後には中央劇場やロマンス座などの映画館が開館した。*92
大正時代の富士郡大宮町には3館の映画館があった。1917年開館の旭館、1920年開館の大宮電気館、1920年開館の帝国館である。しかし、旭館と電気館は1929年の大宮町大火で焼失した。戦後には中央劇場やロマンス座などの映画館が開館した。*92
所在地 : 静岡県富士郡上井出村(1947年・1949年・1950年・1953年・1956年)、静岡県富士郡上井出村567(1957年・1958年)、静岡県富士宮市上井出35(1959年)
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1959年頃
1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「上井出座」。1949年の映画館名簿では「上井出映画劇場」。1950年の映画館名簿では「上井出上井出座」。1953年の映画館名簿では「上井出映画劇場」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「上井出映画劇場」。1957年・1958年の映画館名簿では「上井手」。1959年の映画館名簿では「上井出映画劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。
時期不明の「上井出座」の写真あり。新田橋の西にあり、白糸・北山・猪の頭などからも観客を集めた。*93
静岡富士病院の近くには「上井出銀座」という商店街があり、映画全盛期の昭和20年代には映画館「上井出座」もあった。現在は上井出座跡地付近にコンビニがあるだけである。*94
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1959年頃
1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「上井出座」。1949年の映画館名簿では「上井出映画劇場」。1950年の映画館名簿では「上井出上井出座」。1953年の映画館名簿では「上井出映画劇場」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「上井出映画劇場」。1957年・1958年の映画館名簿では「上井手」。1959年の映画館名簿では「上井出映画劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。
時期不明の「上井出座」の写真あり。新田橋の西にあり、白糸・北山・猪の頭などからも観客を集めた。*93
静岡富士病院の近くには「上井出銀座」という商店街があり、映画全盛期の昭和20年代には映画館「上井出座」もあった。現在は上井出座跡地付近にコンビニがあるだけである。*94
所在地 : 静岡県富士宮市(1950年)、静岡県富士宮市大宮1038(1953年・1955年・1958年・1960年)、静岡県富士宮市本町1038(1963年)
開館年 : 1939年8月
閉館年 : 1963年
『全国映画館総覧 1955』によると1939年8月開館。1950年の映画館名簿では「富士宮東宝」。1953年の映画館名簿では「東宝映画劇場」。1955年の映画館名簿では「東宝劇場」。1960年の富士宮市住宅明細図では「富士宮大映」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「大映劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は衣料品店「リトルファッション・ヴィラ」建物西側。最寄駅はJR身延線富士宮駅。
1939年には富士宮市の本町(現在の大宮町)に「富士宮大映」が開館。1963年に富士宮大映が閉館。2011年現在の跡地は駐車場。*95
富士宮市の中心市街地を南北に流れる神田川の東地区にある本町商店街(現在のマイロード)には、東宝系の「文化劇場」と大映専門館の「富士宮大映」が並んでいた。両館ともに富士宮市議会議長や静岡県興行組合連合会長を務めた加瀬沢勇が経営者であり、息子であり元陸軍将校の加瀬沢保が実務を担っていた。両館ともに1939年に開館した。*96
昭和30年代の富士宮市にあった映画館「東宝映画劇場」「文化劇場」の写真あり。両映画館が並んでいた。本町通りは富士郡大宮町時代からの繁華街であり、戦前の1939年に東宝映画劇場が開館すると、戦後の1946年には隣接地に文化劇場が開館した。*97
富士宮市本町2丁目には、文化劇場と東宝劇場という2つの映画館が並んでいた。時期不明だが両者が並んでいる写真あり。1955年頃の東宝劇場の写真もあり。文化劇場は1946年設立であり、東宝劇場は1939年設立である。*98
富士宮市公式サイトに、昭和30年代の東宝劇場と文化劇場の写真あり。*99
開館年 : 1939年8月
閉館年 : 1963年
『全国映画館総覧 1955』によると1939年8月開館。1950年の映画館名簿では「富士宮東宝」。1953年の映画館名簿では「東宝映画劇場」。1955年の映画館名簿では「東宝劇場」。1960年の富士宮市住宅明細図では「富士宮大映」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「大映劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は衣料品店「リトルファッション・ヴィラ」建物西側。最寄駅はJR身延線富士宮駅。
1939年には富士宮市の本町(現在の大宮町)に「富士宮大映」が開館。1963年に富士宮大映が閉館。2011年現在の跡地は駐車場。*95
富士宮市の中心市街地を南北に流れる神田川の東地区にある本町商店街(現在のマイロード)には、東宝系の「文化劇場」と大映専門館の「富士宮大映」が並んでいた。両館ともに富士宮市議会議長や静岡県興行組合連合会長を務めた加瀬沢勇が経営者であり、息子であり元陸軍将校の加瀬沢保が実務を担っていた。両館ともに1939年に開館した。*96
昭和30年代の富士宮市にあった映画館「東宝映画劇場」「文化劇場」の写真あり。両映画館が並んでいた。本町通りは富士郡大宮町時代からの繁華街であり、戦前の1939年に東宝映画劇場が開館すると、戦後の1946年には隣接地に文化劇場が開館した。*97
富士宮市本町2丁目には、文化劇場と東宝劇場という2つの映画館が並んでいた。時期不明だが両者が並んでいる写真あり。1955年頃の東宝劇場の写真もあり。文化劇場は1946年設立であり、東宝劇場は1939年設立である。*98
富士宮市公式サイトに、昭和30年代の東宝劇場と文化劇場の写真あり。*99
所在地 : 静岡県富士宮市宮本町(1955年)、静岡県富士宮市宮本町1418(1960年)、静岡県富士宮市宮本町(1963年)、静岡県富士宮市宮本町1418(1966年)
開館年 : 1954年4月
閉館年 : 1971年
『全国映画館総覧 1955』によると1954年4月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「八光劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「八光劇場」。1960年の富士宮市住宅明細図では「富士宮日活」。1963年の映画館名簿では「日活劇場」。1966年の映画館名簿では「富士宮日活劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「第一交通本社」。最寄駅はJR身延線西富士宮駅。
1954年には富士宮市の宮本町(現在の宮町)に「8光劇場」(※八光ではなく8光)が開館。1971年に8光劇場が閉館。2011年現在の跡地は駐車場。*100
富士宮市の宮本町(現在の宮町)には「8光劇場」(※八光ではなく8光)があった。商店街の発展策として地元の商業者8人が出資して映画館を誘致したが、立地が悪く一時期は不振にあえいだ。洋画・東映・日活・NCC・東和映画の混成プログラムを打ち出すと挽回し、日活の石原裕次郎・赤木圭一郎・宍戸錠・小林旭ら主演の作品には若者の行列ができている。小西常義とロマンス座の支配人である増田新作の共同経営。*101
昭和30年代の富士宮市にあった映画館「八光劇場」の写真あり。1953年に開館した映画館である。すでに富士宮市には「帝国館」、「東宝映画劇場」、「第一劇場」、「文化劇場」の4館があった。八光劇場に加えて、「ロマンス座」、「中央劇場」なども開館した。八光劇場は1971年に閉館した。*102
富士宮市宮本町(現・宮町)には八光劇場があった。1955年頃の写真あり。*103
開館年 : 1954年4月
閉館年 : 1971年
『全国映画館総覧 1955』によると1954年4月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「八光劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「八光劇場」。1960年の富士宮市住宅明細図では「富士宮日活」。1963年の映画館名簿では「日活劇場」。1966年の映画館名簿では「富士宮日活劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「第一交通本社」。最寄駅はJR身延線西富士宮駅。
1954年には富士宮市の宮本町(現在の宮町)に「8光劇場」(※八光ではなく8光)が開館。1971年に8光劇場が閉館。2011年現在の跡地は駐車場。*100
富士宮市の宮本町(現在の宮町)には「8光劇場」(※八光ではなく8光)があった。商店街の発展策として地元の商業者8人が出資して映画館を誘致したが、立地が悪く一時期は不振にあえいだ。洋画・東映・日活・NCC・東和映画の混成プログラムを打ち出すと挽回し、日活の石原裕次郎・赤木圭一郎・宍戸錠・小林旭ら主演の作品には若者の行列ができている。小西常義とロマンス座の支配人である増田新作の共同経営。*101
昭和30年代の富士宮市にあった映画館「八光劇場」の写真あり。1953年に開館した映画館である。すでに富士宮市には「帝国館」、「東宝映画劇場」、「第一劇場」、「文化劇場」の4館があった。八光劇場に加えて、「ロマンス座」、「中央劇場」なども開館した。八光劇場は1971年に閉館した。*102
富士宮市宮本町(現・宮町)には八光劇場があった。1955年頃の写真あり。*103
所在地 : 静岡県富士宮市宮町11-12(1969年・1970年)
開館年 : 1968年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1968年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1970年の映画館名簿では「富士宮名画座」。1970年の住宅地図では「名画座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「第一交通本社」。最寄駅はJR身延線西富士宮駅。
開館年 : 1968年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1968年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1970年の映画館名簿では「富士宮名画座」。1970年の住宅地図では「名画座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「第一交通本社」。最寄駅はJR身延線西富士宮駅。
所在地 : 静岡県富士宮市大宮(1953年)、静岡県富士宮市松山町848(1955年)、静岡県富士宮市松山町884(1958年)、静岡県富士宮市松山町884-3(1960年)、静岡県富士宮市松山町884(1963年・1966年)、静岡県富士宮市西町17-3(1969年・1973年)
開館年 : 1920年
閉館年 : 1974年
『全国映画館総覧 1955』によると1952年4月開館。1950年の映画館名簿では「富士宮帝国館」。1953年・1955年の映画館名簿では「帝国館」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「富士宮東映劇場」。1960年の富士宮市住宅明細図では「東映劇場」。1970年の住宅地図では「東映劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2017年8月30日開店の「セブンイレブン富士宮西町店」。最近までパチンコ店の建物が残っていた。最寄駅はJR身延線西富士宮駅。
1925年には富士宮の松山町(現在の西町)に「帝国館」が開館。1955年に帝国館が閉館。1957年には帝国館の跡地に「富士宮東映劇場」が開館。1974年に富士宮東映劇場が閉館。2011年現在の跡地はパチンコ遊技場。*104
富士宮市の松山通り(現在の西町)には「富士宮東映劇場」があった。もともとは松竹系上映館の「帝国館」だったが、やがて東映専門館に転換して富士宮東映劇場となった。社長は小櫛紹であり、支配人は勤続40年の表彰を受けた内田重高。*105
1954年頃の富士宮市にあった映画館「帝国館」の写真あり。『大学は出たけれど』『この広い空のどこかに』の看板が見える。昭和初期から親しまれた。富士宮市西町17-3にあり、2008年現在の跡地はパチンコ店となっている。*106
1920年には帝国館が開館した。1934年の写真あり。『街の灯』(1934年、アメリカ)の看板が見える。1955年頃の帝国館の写真あり。『この広い空のどこかに』(1954年、小林正樹監督)、『大学は出たけれど』(1955年、野村芳太郎監督)、『アパッチ』(1954年、アメリカ)の看板が見える。帝国館は後に東映劇場に改称した。2009年現在の跡地はパチンコ店となっている。*107
開館年 : 1920年
閉館年 : 1974年
『全国映画館総覧 1955』によると1952年4月開館。1950年の映画館名簿では「富士宮帝国館」。1953年・1955年の映画館名簿では「帝国館」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「富士宮東映劇場」。1960年の富士宮市住宅明細図では「東映劇場」。1970年の住宅地図では「東映劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2017年8月30日開店の「セブンイレブン富士宮西町店」。最近までパチンコ店の建物が残っていた。最寄駅はJR身延線西富士宮駅。
1925年には富士宮の松山町(現在の西町)に「帝国館」が開館。1955年に帝国館が閉館。1957年には帝国館の跡地に「富士宮東映劇場」が開館。1974年に富士宮東映劇場が閉館。2011年現在の跡地はパチンコ遊技場。*104
富士宮市の松山通り(現在の西町)には「富士宮東映劇場」があった。もともとは松竹系上映館の「帝国館」だったが、やがて東映専門館に転換して富士宮東映劇場となった。社長は小櫛紹であり、支配人は勤続40年の表彰を受けた内田重高。*105
1954年頃の富士宮市にあった映画館「帝国館」の写真あり。『大学は出たけれど』『この広い空のどこかに』の看板が見える。昭和初期から親しまれた。富士宮市西町17-3にあり、2008年現在の跡地はパチンコ店となっている。*106
1920年には帝国館が開館した。1934年の写真あり。『街の灯』(1934年、アメリカ)の看板が見える。1955年頃の帝国館の写真あり。『この広い空のどこかに』(1954年、小林正樹監督)、『大学は出たけれど』(1955年、野村芳太郎監督)、『アパッチ』(1954年、アメリカ)の看板が見える。帝国館は後に東映劇場に改称した。2009年現在の跡地はパチンコ店となっている。*107
所在地 : 静岡県富士宮市元町957(1960年・1966年)、静岡県富士宮市宮町9-3(1969年・1976年・1980年)
開館年 : 1957年
閉館年 : 1977年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「富士宮中央劇場」。1970年の住宅地図では「中央劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「エンクルーズ株式会社」東側の空き地。少なくとも2011年まで建物が残っていた可能性がある。JR身延線富士宮駅と西富士宮駅からほぼ等距離。
1957年には富士宮市の元町(現在の宮町)に「富士宮中央劇場」が開館。1977年に富士宮中央劇場が閉館。2011年現在の跡地はパチンコ遊技場。*108
富士宮市の元町(現在の宮町)には「富士宮中央劇場」があった。双葉興行のチェーンであり、社長は阿部正人。松竹系作品・独立系作品・松竹系洋画を上映した。午後10時から年中無休でナイトショーを上映し、昼間の上映回を鑑賞できない商店主らに人気があった。ナイトショーを行っているのは静岡県東部で熱海の映画館と富士宮中央劇場だけだという。*109
開館年 : 1957年
閉館年 : 1977年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「富士宮中央劇場」。1970年の住宅地図では「中央劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「エンクルーズ株式会社」東側の空き地。少なくとも2011年まで建物が残っていた可能性がある。JR身延線富士宮駅と西富士宮駅からほぼ等距離。
1957年には富士宮市の元町(現在の宮町)に「富士宮中央劇場」が開館。1977年に富士宮中央劇場が閉館。2011年現在の跡地はパチンコ遊技場。*108
富士宮市の元町(現在の宮町)には「富士宮中央劇場」があった。双葉興行のチェーンであり、社長は阿部正人。松竹系作品・独立系作品・松竹系洋画を上映した。午後10時から年中無休でナイトショーを上映し、昼間の上映回を鑑賞できない商店主らに人気があった。ナイトショーを行っているのは静岡県東部で熱海の映画館と富士宮中央劇場だけだという。*109
所在地 : 静岡県富士宮市大宮町(1950年)、静岡県富士宮市大宮1050(1953年・1955年・1958年)、静岡県富士宮市本町2丁目(1960年)、静岡県富士宮市大宮1047(1966年)、静岡県富士宮市大宮町10-12(1969年・1973年・1980年・1981年)
開館年 : 1946年7月
閉館年 : 1981年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年7月開館。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「文化劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「富士宮文化劇場」。1960年の富士宮市住宅明細図では「文化劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「富士宮有楽座」。1970年の住宅地図では「有楽座」。1980年・1981年の映画館名簿では「東宝有楽座」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は衣料品店「リトルファッション・ヴィラ」建物東端部。最寄駅はJR身延線富士宮駅。
富士宮市の中心市街地を南北に流れる神田川の東地区にある本町商店街(現在のマイロード)には、東宝系の「文化劇場」と大映専門館の「富士宮大映」が並んでいた。両館ともに富士宮市議会議長や静岡県興行組合連合会長を務めた加瀬沢勇が経営者であり、息子であり元陸軍将校の加瀬沢保が実務を担っていた。両館ともに1939年に開館した。*110
昭和30年代の富士宮市にあった映画館「東宝映画劇場」「文化劇場」の写真あり。両映画館が並んでいた。本町通りは富士郡大宮町時代からの繁華街であり、戦前の1939年に東宝映画劇場が開館すると、戦後の1946年には隣接地に文化劇場が開館した。*111
富士宮市本町2丁目には、文化劇場と東宝劇場という2つの映画館が並んでいた。時期不明だが両者が並んでいる写真あり。文化劇場は1946年設立であり、東宝劇場は1939年設立である。*112
富士宮市公式サイトに、昭和30年代の東宝劇場と文化劇場の写真あり。*113
開館年 : 1946年7月
閉館年 : 1981年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年7月開館。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「文化劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「富士宮文化劇場」。1960年の富士宮市住宅明細図では「文化劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「富士宮有楽座」。1970年の住宅地図では「有楽座」。1980年・1981年の映画館名簿では「東宝有楽座」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は衣料品店「リトルファッション・ヴィラ」建物東端部。最寄駅はJR身延線富士宮駅。
富士宮市の中心市街地を南北に流れる神田川の東地区にある本町商店街(現在のマイロード)には、東宝系の「文化劇場」と大映専門館の「富士宮大映」が並んでいた。両館ともに富士宮市議会議長や静岡県興行組合連合会長を務めた加瀬沢勇が経営者であり、息子であり元陸軍将校の加瀬沢保が実務を担っていた。両館ともに1939年に開館した。*110
昭和30年代の富士宮市にあった映画館「東宝映画劇場」「文化劇場」の写真あり。両映画館が並んでいた。本町通りは富士郡大宮町時代からの繁華街であり、戦前の1939年に東宝映画劇場が開館すると、戦後の1946年には隣接地に文化劇場が開館した。*111
富士宮市本町2丁目には、文化劇場と東宝劇場という2つの映画館が並んでいた。時期不明だが両者が並んでいる写真あり。文化劇場は1946年設立であり、東宝劇場は1939年設立である。*112
富士宮市公式サイトに、昭和30年代の東宝劇場と文化劇場の写真あり。*113
所在地 : 静岡県富士宮市宝来町(1955年)、静岡県富士宮市宝来町316(1958年・1960年・1963年・1966年)、静岡県富士宮市宮町3-4(1969年・1973年・1976年)、静岡県富士宮市宮町5-34(1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1946年、1953年10月1日
閉館年 : 1992年
『全国映画館総覧 1955』によると1954年10月開館。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「ロマンス座」。1960年の富士宮市住宅明細図では「第二東映」。1963年・1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「富士宮ロマンス座」。1970年の住宅地図では「ロマンス座」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「東映ロマンス」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「静岡県富士山世界遺産センター」北東の駐車場。JR身延線富士宮駅と西富士宮駅からほぼ等距離。
1953年10月1日、富士宮市に洋画専門館「ロマンス座」が開館した。吉原市で「第二電気館」を経営する中井省吾が建設した。木造平屋建、定員400人。*114
1960年3月1日には第二東映が発足し、各地で第二東映上映館への転向が相次いでいる。静岡県では熱海市の「名画座」、三島市の「三島中央劇場」、沼津市の「東海劇場」、吉原市の「吉原オリオン座」、富士宮市の「ロマン座」(※ロマンスではなくロマンなのは原文ママ)、富士市の「富士東映劇場」、焼津市の「ヒカリ座」、島田市の「太陽館」、掛川市の「中央劇場」、磐田市の「スバル劇場」、浜松市の「浜松国際劇場」などが第二東映に転向した。*115
1946年には富士宮市の宝来町(現在の宮町)に「ロマンス座」が開館。1992年にロマンス座が閉館。2011年現在の跡地は駐車場。*116
富士宮市の本町通りに続く宝来町(現在の宮町)にあるのが「ロマンス座」であり、市内でもっとも入場料の安い映画館だった。ショーやアトラクションなどの実演も行われている。経営者は増田新作であり、増田は市内7館の親睦機関である館主クラブの責任者を務めている。*117
開館年 : 1946年、1953年10月1日
閉館年 : 1992年
『全国映画館総覧 1955』によると1954年10月開館。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「ロマンス座」。1960年の富士宮市住宅明細図では「第二東映」。1963年・1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「富士宮ロマンス座」。1970年の住宅地図では「ロマンス座」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「東映ロマンス」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「静岡県富士山世界遺産センター」北東の駐車場。JR身延線富士宮駅と西富士宮駅からほぼ等距離。
1953年10月1日、富士宮市に洋画専門館「ロマンス座」が開館した。吉原市で「第二電気館」を経営する中井省吾が建設した。木造平屋建、定員400人。*114
1960年3月1日には第二東映が発足し、各地で第二東映上映館への転向が相次いでいる。静岡県では熱海市の「名画座」、三島市の「三島中央劇場」、沼津市の「東海劇場」、吉原市の「吉原オリオン座」、富士宮市の「ロマン座」(※ロマンスではなくロマンなのは原文ママ)、富士市の「富士東映劇場」、焼津市の「ヒカリ座」、島田市の「太陽館」、掛川市の「中央劇場」、磐田市の「スバル劇場」、浜松市の「浜松国際劇場」などが第二東映に転向した。*115
1946年には富士宮市の宝来町(現在の宮町)に「ロマンス座」が開館。1992年にロマンス座が閉館。2011年現在の跡地は駐車場。*116
富士宮市の本町通りに続く宝来町(現在の宮町)にあるのが「ロマンス座」であり、市内でもっとも入場料の安い映画館だった。ショーやアトラクションなどの実演も行われている。経営者は増田新作であり、増田は市内7館の親睦機関である館主クラブの責任者を務めている。*117
所在地 : 静岡県富士宮市栄町228-3(1960年)、静岡県富士宮市栄町228(1963年)、静岡県富士宮市栄町228-3(1966年)、静岡県富士宮市大宮町24-2(1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1946年
閉館年 : 1993年
『全国映画館総覧 1955』によると1948年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「第一劇場」。1958年の映画館名簿では「富士宮第一劇場」。1960年の映画館名簿では「第一劇場」。1960年の富士宮市住宅明細図では「第一劇場」。1970年の住宅地図では「第一劇場」。1963年・1966年・1969年・1976年の映画館名簿では「富士宮第一劇場」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「第一劇場」。跡地は「クリエイトS・D富士宮大宮店」南東のブロック北側の駐車場。最寄駅はJR身延線富士宮駅。
1946年には富士宮の栄町(現在の大宮町)に「第一劇場」が開館。1993年に第一劇場が閉館。2011年現在の跡地は駐車場。*118
富士宮市で唯一の洋画専門館は、1939年開館の「第一劇場」である。本町通りを南に1本下った栄町(現在の大宮町)にあった。社長を務める中野一雄は島田市でも映画館を経営していた。「名画の第一」というスローガンがあり、名作古典映画の鑑賞会やモーニングショーなど斬新な企画を行った。1993年に第一劇場が閉館したことで、富士宮市から映画館がなくなった。*119
昭和30年代の富士宮市にあった映画館「第一劇場」の写真あり。戦前に「松竹座」として建てられ、1945年の終戦後すぐに『愛染かつら』を上映してにぎわった。戦後には「第一劇場」に改称し、いち早くアメリカ映画の上映を開始、洋画上映館として親しまれた。*120
松竹座は客席数が多かった。5階建て以上である1934年の建物の写真あり。後に第一劇場に改称した。1955年頃の第一劇場の写真あり。*121
富士宮市公式サイトに、第一劇場の写真あり。*122
開館年 : 1946年
閉館年 : 1993年
『全国映画館総覧 1955』によると1948年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「第一劇場」。1958年の映画館名簿では「富士宮第一劇場」。1960年の映画館名簿では「第一劇場」。1960年の富士宮市住宅明細図では「第一劇場」。1970年の住宅地図では「第一劇場」。1963年・1966年・1969年・1976年の映画館名簿では「富士宮第一劇場」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「第一劇場」。跡地は「クリエイトS・D富士宮大宮店」南東のブロック北側の駐車場。最寄駅はJR身延線富士宮駅。
1946年には富士宮の栄町(現在の大宮町)に「第一劇場」が開館。1993年に第一劇場が閉館。2011年現在の跡地は駐車場。*118
富士宮市で唯一の洋画専門館は、1939年開館の「第一劇場」である。本町通りを南に1本下った栄町(現在の大宮町)にあった。社長を務める中野一雄は島田市でも映画館を経営していた。「名画の第一」というスローガンがあり、名作古典映画の鑑賞会やモーニングショーなど斬新な企画を行った。1993年に第一劇場が閉館したことで、富士宮市から映画館がなくなった。*119
昭和30年代の富士宮市にあった映画館「第一劇場」の写真あり。戦前に「松竹座」として建てられ、1945年の終戦後すぐに『愛染かつら』を上映してにぎわった。戦後には「第一劇場」に改称し、いち早くアメリカ映画の上映を開始、洋画上映館として親しまれた。*120
松竹座は客席数が多かった。5階建て以上である1934年の建物の写真あり。後に第一劇場に改称した。1955年頃の第一劇場の写真あり。*121
富士宮市公式サイトに、第一劇場の写真あり。*122
所在地 : 静岡県富士宮市浅間町1-8 イオンモール富士宮3階(2015年)
開館年 : 2010年11月19日
閉館年 : 営業中
2010年の映画館名簿には掲載されていない。2015年の映画館名簿では「イオンシネマ富士宮1-6」(6館)。
2010年11月19日、富士宮市のイオン富士宮ショッピングセンターにイオンシネマ富士宮が開館する。6スクリーン909席。2010年4月にJR富士駅前の富士シネ・プレーゴが閉館してから、約半年間にわたって岳南地域は映画館空白地帯だった。静岡県東中部だけではなく、山梨県南部も商圏に見込んでいる。*123
2010年11月19日、富士宮市のイオン富士宮ショッピングセンターにイオンシネマ富士宮が開館する。6スクリーン909席。イオンシネマズの出店は静岡県初。*124
開館年 : 2010年11月19日
閉館年 : 営業中
2010年の映画館名簿には掲載されていない。2015年の映画館名簿では「イオンシネマ富士宮1-6」(6館)。
2010年11月19日、富士宮市のイオン富士宮ショッピングセンターにイオンシネマ富士宮が開館する。6スクリーン909席。2010年4月にJR富士駅前の富士シネ・プレーゴが閉館してから、約半年間にわたって岳南地域は映画館空白地帯だった。静岡県東中部だけではなく、山梨県南部も商圏に見込んでいる。*123
2010年11月19日、富士宮市のイオン富士宮ショッピングセンターにイオンシネマ富士宮が開館する。6スクリーン909席。イオンシネマズの出店は静岡県初。*124
所在地 : 静岡県駿東郡裾野町平松474(1953年)、静岡県駿東郡裾野町平松(1955年・1958年)
開館年 : 1947年3月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年3月開館。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「裾野キング劇場」。1958年の映画館名簿によると経営者は堀内孫太郎、支配人は堀内昭一、木造2階、定員606、洋画を上映。1959年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1947年3月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年3月開館。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「裾野キング劇場」。1958年の映画館名簿によると経営者は堀内孫太郎、支配人は堀内昭一、木造2階、定員606、洋画を上映。1959年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 裾静岡県駿東郡野町(1962年)、静岡県駿東郡裾野町平松(1963年・1964年)
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 1964年頃
1960年・1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年・1963年・1964年の映画館名簿では「裾野文化劇場」。1963年の映画館名簿によると経営者は水田幸雄、支配人は水田雅晴、木造1階、定員366、洋画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 1964年頃
1960年・1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年・1963年・1964年の映画館名簿では「裾野文化劇場」。1963年の映画館名簿によると経営者は水田幸雄、支配人は水田雅晴、木造1階、定員366、洋画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県駿東郡裾野町二本松(1955年)、静岡県駿東郡裾野町佐野(1963年・1966年)
開館年 : 1897年5月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1897年5月開館。1955年の映画館名簿では「裾野演芸館」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1966年の映画館名簿では「裾野演芸館」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の住宅地図では「裾野演芸館」。跡地は「竹水園工場」北の「服部パーキング」。「秀英予備校裾野駅前校」の北東。最寄駅はJR御殿場線裾野駅。
開館年 : 1897年5月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1897年5月開館。1955年の映画館名簿では「裾野演芸館」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1966年の映画館名簿では「裾野演芸館」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の住宅地図では「裾野演芸館」。跡地は「竹水園工場」北の「服部パーキング」。「秀英予備校裾野駅前校」の北東。最寄駅はJR御殿場線裾野駅。
所在地 : 静岡県駿東郡清水町玉川61-2 サントムーン柿田川内(2010年・2015年・2018年・2020年)
開館年 : 2007年12月22日
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年・2015年・2018年・2020年の映画館名簿では「シネプラザサントムーン シネマ1-12」(12館)。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。
2007年12月22日、駿東郡清水町に映画館「シネプラザサントムーン」が開館する。12スクリーンや計2004席はいずれも静岡県最大級。静岡県東部では5施設目のシネコン。経営は静岡市の静活。*125
開館年 : 2007年12月22日
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年・2015年・2018年・2020年の映画館名簿では「シネプラザサントムーン シネマ1-12」(12館)。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。
2007年12月22日、駿東郡清水町に映画館「シネプラザサントムーン」が開館する。12スクリーンや計2004席はいずれも静岡県最大級。静岡県東部では5施設目のシネコン。経営は静岡市の静活。*125
駿東郡小山町では、1921年に「小山劇場」が、1925年に「ライオン館」が開館し、映画が観られるようになった。戦後にはライオン館が「小山映画劇場」に改称し、小山劇場が「小山中央劇場」に改称した。そんな中の1951年、富士紡労働組合が組合員の慰安のために映画館「労働会館」を開館させた。1956年1月1日の『岳麓新聞』の「正月映画紹介」によると、小山映画劇場が『太陽は日々に新たなり』と『やがて青春』を、中央劇場が『自分の穴の中で』と『無頼の谷』を、小山労働会館が『裏町のお嬢さん』と『沙羅の花の峠』ほかを上映していた。昭和30年代後半から昭和40年代初頭には、テレビの普及などで映画館の観客動員数が減少し、小山町から映画館は姿を消した。*126
所在地 : 静岡県駿東郡須走村241(1956年・1958年)、静岡県駿東郡小山町須走241(1960年)、静岡県駿東郡小山町須走(1963年・1965年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年の映画館名簿では「須走セントラル」。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「須走セントラル劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年の映画館名簿では「須走セントラル」。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「須走セントラル劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県駿東郡小山町小山47(1960年)、静岡県駿東郡小山町小山(1963年・1966年・1967年)
開館年 : 1951年
閉館年 : 1967年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「労働会館」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1951年
閉館年 : 1967年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「労働会館」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県駿東郡小山町落合(1943年)、静岡県駿東郡小山町(1947年・1950年)、静岡県駿東郡小山町藤曲54(1953年・1955年・1958年・1960年)、静岡県駿東郡小山町藤曲(1963年)、静岡県駿東郡小山町落合(1966年)、静岡県駿東郡小山町音渕(1969年)
開館年 : 1921年、1948年1月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年1月開館。1943年・1947年の映画館名簿では「小山劇場」。1950年の映画館名簿では「中央映画劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「小山中央劇場」。1958年の映画館名簿では「中央劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「小山中央劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1921年、1948年1月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年1月開館。1943年・1947年の映画館名簿では「小山劇場」。1950年の映画館名簿では「中央映画劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「小山中央劇場」。1958年の映画館名簿では「中央劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「小山中央劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県駿東郡小山町(1943年)、静岡県駿東郡小山町藤曲(1947年)、静岡県駿東郡小山町落合(1950年)、静岡県駿東郡小山町藤曲73(1953年)、静岡県駿東郡小山町藤曲64(1955年)、静岡県駿東郡小山町藤曲73(1958年・1960年)、静岡県駿東郡小山町藤曲(1963年)、静岡県駿東郡小山町落合(1966年)、静岡県駿東郡小山町藤曲73(1969年・1970年)
開館年 : 1925年、1930年11月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1930年11月開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「ライオン館」。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「小山映画劇場」。1971年のゼンリン住宅地図では「小山劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「小山町役場」北西120mにある民家。最寄駅はJR御殿場線駿河小山駅。
1955年頃の駿東郡小山町にあった映画館「ライオン館」の写真あり。「映画劇場」の看板が見える。モダンな建物である。*127
駿東郡小山町では、1921年に「小山劇場」が、1925年に「ライオン館」が開館し、映画が観られるようになった。戦後にはライオン館が「小山映画劇場」に改称し、小山劇場が「小山中央劇場」に改称した。1956年1月1日の『岳麓新聞』の「正月映画紹介」によると、小山映画劇場が『太陽は日々に新たなり』と『やがて青春』を、中央劇場が『自分の穴の中で』と『無頼の谷』を、小山労働会館が『裏町のお嬢さん』と『沙羅の花の峠』ほかを上映していた。昭和30年代後半から昭和40年代初頭には、テレビの普及などで映画館の観客動員数が減少し、小山町から映画館は姿を消した。*128
開館年 : 1925年、1930年11月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1930年11月開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「ライオン館」。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「小山映画劇場」。1971年のゼンリン住宅地図では「小山劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「小山町役場」北西120mにある民家。最寄駅はJR御殿場線駿河小山駅。
1955年頃の駿東郡小山町にあった映画館「ライオン館」の写真あり。「映画劇場」の看板が見える。モダンな建物である。*127
駿東郡小山町では、1921年に「小山劇場」が、1925年に「ライオン館」が開館し、映画が観られるようになった。戦後にはライオン館が「小山映画劇場」に改称し、小山劇場が「小山中央劇場」に改称した。1956年1月1日の『岳麓新聞』の「正月映画紹介」によると、小山映画劇場が『太陽は日々に新たなり』と『やがて青春』を、中央劇場が『自分の穴の中で』と『無頼の谷』を、小山労働会館が『裏町のお嬢さん』と『沙羅の花の峠』ほかを上映していた。昭和30年代後半から昭和40年代初頭には、テレビの普及などで映画館の観客動員数が減少し、小山町から映画館は姿を消した。*128
所在地 : 静岡県賀茂郡熱海町(1925年・1930年)、静岡県賀茂郡熱海町銀座(1936年)
開館年 : 1933年頃
閉館年 : 1944年
1925年・1930年の映画館名簿では「電気館」。1936年の映画館名簿では「熱海電気館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「静岡中央銀行熱海支店」の西側にある「静岡銀行提携駐車場」。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
1933年頃、銀座通りに映画館の電気館が開館した。開館当日の記念写真あり。熱海で初めて無声映画を上映した映画館である。1934年の丹那トンネル開通式の日には、旗行列の後に『ああ無情』(※どの作品か不明)を上映した。1944年には本町の火災で電気館が焼失。1950年の熱海大火後、電気館跡地にはスルガ銀行・静岡銀行・静岡中央銀行・藍沢証券などが建ち、銀座通りは熱海一の繁華街から金融街となった。2006年現在の電気館跡地は駐車場となっている。*131
開館年 : 1933年頃
閉館年 : 1944年
1925年・1930年の映画館名簿では「電気館」。1936年の映画館名簿では「熱海電気館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「静岡中央銀行熱海支店」の西側にある「静岡銀行提携駐車場」。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
1933年頃、銀座通りに映画館の電気館が開館した。開館当日の記念写真あり。熱海で初めて無声映画を上映した映画館である。1934年の丹那トンネル開通式の日には、旗行列の後に『ああ無情』(※どの作品か不明)を上映した。1944年には本町の火災で電気館が焼失。1950年の熱海大火後、電気館跡地にはスルガ銀行・静岡銀行・静岡中央銀行・藍沢証券などが建ち、銀座通りは熱海一の繁華街から金融街となった。2006年現在の電気館跡地は駐車場となっている。*131
所在地 : 静岡県田方郡網代町(1947年・1949年・1950年)、静岡県田方郡網代町477(1953年・1955年)、静岡県熱海市網代町477(1958年)、静岡県熱海市網代旭町(1960年・1962年)
開館年 : 1945年8月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1945年8月開館。1947年・1949年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「網代映画劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「網代映画劇場・網代ロマンス座」(2館)。1960年・1962年の映画館名簿では「網代文化劇場」。1961年熱海市明細図では「網代文化劇場」。1962年の映画館名簿では経営者・支配人がともに青木初男、木造2階、定員350。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「西島木工所工場」西にある「善修院管理駐車場」。最寄駅はJR伊東線網代駅。
開館年 : 1945年8月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1945年8月開館。1947年・1949年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「網代映画劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「網代映画劇場・網代ロマンス座」(2館)。1960年・1962年の映画館名簿では「網代文化劇場」。1961年熱海市明細図では「網代文化劇場」。1962年の映画館名簿では経営者・支配人がともに青木初男、木造2階、定員350。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「西島木工所工場」西にある「善修院管理駐車場」。最寄駅はJR伊東線網代駅。
所在地 : 静岡県熱海市本町428(1953年)、静岡県熱海市本町284(1955年)、静岡県熱海市本町428(1960年・1963年・1966年)、静岡県熱海市本町2-27(1969年)
開館年 : 1950年10月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年10月開館。1955年の映画館名簿では「国際劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「熱海国際劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。1971年・1974年の住宅地図では「国際劇場」。跡地は「熱海ニューフジヤホテル」南東側の商店群の中央部。実質的な後継館はアカデミー劇場。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
1953年の『熱海』に掲載されている熱海市街地図では「国劇」とある。*132
開館年 : 1950年10月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年10月開館。1955年の映画館名簿では「国際劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「熱海国際劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。1971年・1974年の住宅地図では「国際劇場」。跡地は「熱海ニューフジヤホテル」南東側の商店群の中央部。実質的な後継館はアカデミー劇場。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
1953年の『熱海』に掲載されている熱海市街地図では「国劇」とある。*132
所在地 : 静岡県熱海市渚2016(1962年)、静岡県熱海市渚町2016(1963年)、静岡県熱海市渚町20-7(1969年・1970年)
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「熱海日活」。1971年の住宅地図では「熱海日活」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1974年の住宅地図では跡地に「アタミトルコ」。跡地は「魯風人」がある商業ビル東側の駐車場。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「熱海日活」。1971年の住宅地図では「熱海日活」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1974年の住宅地図では跡地に「アタミトルコ」。跡地は「魯風人」がある商業ビル東側の駐車場。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
所在地 : 静岡県熱海市鶴田966(1955年)、静岡県熱海市旭町2-1325(1966年)、静岡県熱海市清水町5-7(1969年・1970年)
開館年 : 1954年8月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1954年8月開館。1955年の映画館名簿では「大映劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「熱海宝塚劇場」と同一番地。1966年・1969年の映画館名簿では「熱海大映」。1970年の映画館名簿では「熱海京王」。1971年の住宅地図では「京王直営ホテル熱海園 熱海大映劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1974年の住宅地図では跡地に「ホテル熱海園」。跡地は「マルゲン59ビル」。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
1953年の『熱海』に掲載されている熱海市街地図では「熱劇」とある。当時は旭町という地名だった。*133
開館年 : 1954年8月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1954年8月開館。1955年の映画館名簿では「大映劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「熱海宝塚劇場」と同一番地。1966年・1969年の映画館名簿では「熱海大映」。1970年の映画館名簿では「熱海京王」。1971年の住宅地図では「京王直営ホテル熱海園 熱海大映劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1974年の住宅地図では跡地に「ホテル熱海園」。跡地は「マルゲン59ビル」。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
1953年の『熱海』に掲載されている熱海市街地図では「熱劇」とある。当時は旭町という地名だった。*133
所在地 : 静岡県熱海市鶴田966-1(1955年)、静岡県熱海市鶴田966(1960年・1963年)、静岡県熱海市鶴田966-5(1966年)、静岡県熱海市中央町13-4(1969年)、静岡県熱海市中央町14(1973年・1975年)
開館年 : 1937年12月
閉館年 : 1975年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1937年12月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「宝塚劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「熱海宝塚劇場・熱海大映」(2館)。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「熱海東宝劇場」。1971年の住宅地図では「東宝会館 熱海東宝劇場 熱海行業KK」。1974年の住宅地図では「熱海東宝会館 5階熱海東宝劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「国際観光専門学校熱海校」。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
1953年の『熱海』に掲載されている熱海市街地図では「宝劇」とある。当時は旭町という地名だった。*134
開館年 : 1937年12月
閉館年 : 1975年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1937年12月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「宝塚劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「熱海宝塚劇場・熱海大映」(2館)。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「熱海東宝劇場」。1971年の住宅地図では「東宝会館 熱海東宝劇場 熱海行業KK」。1974年の住宅地図では「熱海東宝会館 5階熱海東宝劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「国際観光専門学校熱海校」。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
1953年の『熱海』に掲載されている熱海市街地図では「宝劇」とある。当時は旭町という地名だった。*134
所在地 : 静岡県熱海市銀座1-24(1970年・1973年・1976年)、静岡県熱海市銀座1-4(1980年)
開館年 : 1969年頃
閉館年 : 1980年4月25日
実質的な前身館は国際劇場。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1970年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「アタミアカデミー」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。熱海ニューフジヤホテル地下にあった。1971年の住宅地図ではこの場所に「ニューフジヤホテル」。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
開館年 : 1969年頃
閉館年 : 1980年4月25日
実質的な前身館は国際劇場。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1970年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「アタミアカデミー」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。熱海ニューフジヤホテル地下にあった。1971年の住宅地図ではこの場所に「ニューフジヤホテル」。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
所在地 : 静岡県熱海市熱海959-14(1960年)、静岡県熱海市清水町595(1963年)、静岡県熱海市清水町959-14(1966年)、静岡県熱海市清水町1-16(1969年・1973年・1976年・1980年・1981年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1981年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「熱海名画座」。1971年の住宅地図では発見できず。1974年の住宅地図では「日活名画座」。1976年・1980年・1981年の映画館名簿では「熱海日活名画座」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は初川に架かる清水橋南すぐの「高橋薬局」。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
1960年3月1日には第二東映が発足し、各地で第二東映上映館への転向が相次いでいる。静岡県では熱海市の「名画座」、三島市の「三島中央劇場」、沼津市の「東海劇場」、吉原市の「吉原オリオン座」、富士宮市の「ロマン座」、富士市の「富士東映劇場」、焼津市の「ヒカリ座」、島田市の「太陽館」、掛川市の「中央劇場」、磐田市の「スバル劇場」、浜松市の「浜松国際劇場」などが第二東映に転向した。*135
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1981年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「熱海名画座」。1971年の住宅地図では発見できず。1974年の住宅地図では「日活名画座」。1976年・1980年・1981年の映画館名簿では「熱海日活名画座」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は初川に架かる清水橋南すぐの「高橋薬局」。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
1960年3月1日には第二東映が発足し、各地で第二東映上映館への転向が相次いでいる。静岡県では熱海市の「名画座」、三島市の「三島中央劇場」、沼津市の「東海劇場」、吉原市の「吉原オリオン座」、富士宮市の「ロマン座」、富士市の「富士東映劇場」、焼津市の「ヒカリ座」、島田市の「太陽館」、掛川市の「中央劇場」、磐田市の「スバル劇場」、浜松市の「浜松国際劇場」などが第二東映に転向した。*135
所在地 : 静岡県熱海市渚町2015(1958年)、静岡県熱海市銀座渚2015(1960年・1963年)、静岡県熱海市渚町2015(1966年)、静岡県熱海市渚町10-5(1969年)、静岡県熱海市銀座渚町10-5(1973年・1976年)、静岡県熱海市渚10-5(1980年・1985年・1988年)
開館年 : 1957年4月10日
閉館年 : 1988年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「テアトル ナギサ」。1960年の映画館名簿では「熱海東映テアトルナギサ」。1963年の映画館名簿では「熱海東映ナギサ」。1966年・1969年の映画館名簿では「熱海ナギサ映画劇場」。1971年・1974年の住宅地図では「東映ナギサ」。1973年・1976年・1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「熱海東映ナギサ」。1989年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ローソン熱海渚店」。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
1957年4月10日、熱海市渚町に「テアトル・ナギサ」が開館した。経営は有限会社ナギサ。総工費2000万円。客席200。系統は洋画・邦画。*136
開館年 : 1957年4月10日
閉館年 : 1988年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「テアトル ナギサ」。1960年の映画館名簿では「熱海東映テアトルナギサ」。1963年の映画館名簿では「熱海東映ナギサ」。1966年・1969年の映画館名簿では「熱海ナギサ映画劇場」。1971年・1974年の住宅地図では「東映ナギサ」。1973年・1976年・1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「熱海東映ナギサ」。1989年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ローソン熱海渚店」。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
1957年4月10日、熱海市渚町に「テアトル・ナギサ」が開館した。経営は有限会社ナギサ。総工費2000万円。客席200。系統は洋画・邦画。*136
所在地 : 静岡県熱海市銀座382(1953年・1955年・1958年・1960年)、静岡県熱海市銀座364(1963年・1966年)、静岡県熱海市銀座8-13(1969年)、静岡県熱海市銀座8-9(1973年・1976年・1980年)、静岡県熱海市銀座8-13(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2011年)
開館年 : 1951年11月
閉館年 : 2002年1月19日
『全国映画館総覧 1955』によると1951年11月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「ロマンス座」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・2000年・2005年・2010年・2011年の映画館名簿では「熱海ロマンス座」。1971年・1974年の住宅地図では「ロマンス座」。2011年の映画館名簿では経営会社が熱海映画、経営者が稲田哲郎、支配人が松浦良吉、鉄筋造2階、120席、邦画・洋画を上映。2012年の映画館名簿には掲載されていない。「静岡中央銀行熱海支店」南西20mにゲストハウス「ロマンス座カド」として映画館の建物が現存。熱海市最後の映画館。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
1953年の『熱海』に掲載されている熱海市街地図では「ロマンス座」とある。*137
熱海ロマンス座が2002年1月19日から休館する。新文化興業の矢田文之社長が2001年12月に69歳で亡くなり、後継者もいないため。支配人は67歳の松浦良吉であり、47年間も映写技師としてフィルムを回してきた。1951年にロマンス座が開館。熱海市に7館あった映画館は相次いで閉館し、最後まで残った。十数年前から伊豆半島を回る移動映画会を開いてきたが、1月20日の伊東市の移動映画会を最後に終了する。*138
2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
開館年 : 1951年11月
閉館年 : 2002年1月19日
『全国映画館総覧 1955』によると1951年11月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「ロマンス座」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・2000年・2005年・2010年・2011年の映画館名簿では「熱海ロマンス座」。1971年・1974年の住宅地図では「ロマンス座」。2011年の映画館名簿では経営会社が熱海映画、経営者が稲田哲郎、支配人が松浦良吉、鉄筋造2階、120席、邦画・洋画を上映。2012年の映画館名簿には掲載されていない。「静岡中央銀行熱海支店」南西20mにゲストハウス「ロマンス座カド」として映画館の建物が現存。熱海市最後の映画館。最寄駅はJR伊東線来宮駅。
1953年の『熱海』に掲載されている熱海市街地図では「ロマンス座」とある。*137
熱海ロマンス座が2002年1月19日から休館する。新文化興業の矢田文之社長が2001年12月に69歳で亡くなり、後継者もいないため。支配人は67歳の松浦良吉であり、47年間も映写技師としてフィルムを回してきた。1951年にロマンス座が開館。熱海市に7館あった映画館は相次いで閉館し、最後まで残った。十数年前から伊豆半島を回る移動映画会を開いてきたが、1月20日の伊東市の移動映画会を最後に終了する。*138
2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
1959年現在の三島市の映画館としては、「中央」(小中島)、「セントラル」(小中島)、「第一三島」(茶町)、「第二三島」(六反田)、「銀座」(大中島)、「東海」(大中島)、「東映」(伝馬金谷町)の7館がある。このほかには、三島産業物産館でも月数回は映画の興行が催される。*139
大正時代の三島には、六反田(現・広小路町)の「歌舞伎座」、大中島(現・本町)の「堀内座」、小中島(現・中央町)の「大正座」など、5館の劇場があった。昭和に入ると「第1三島館」、「第2三島館」、「富士館」(後のセントラル)、「銀座劇場」の各映画館が人気となった。戦後期に開館した「東海劇場」、「新日本劇場」、「中央劇場」、「東映劇場」を加えて、最盛期の三島市には8館の映画館があった。1985年には三島市から映画館がなくなった。1997年、梅名に6館の劇場が1か所に集まった「ジョイランドシネマみしま」が開館した。*140
大正時代の三島には、六反田(現・広小路町)の「歌舞伎座」、大中島(現・本町)の「堀内座」、久保町(現・中央町)の「大正座」など、5館の劇場があった。昭和戦前期には「第1三島館」、「第2三島館」、「富士館」(後のセントラル)、「銀座劇場」の各映画館が開館した。戦後期には「東海劇場」、「新日本劇場」、「中央劇場」、「東映劇場」の映画館が開館し、最盛期の三島市には8館の映画館があった。*141
1928年に高木工務所が発行した『三島町詳細図』には、活動常設館「三島館」、活動常設館「富士館」の写真が掲載されている。*142
静岡県賀茂郡賀茂村長の山本正和は、1951年から1954年に静岡県立田方農業高校に在学した。山本は三島市内に寄宿して高校に通い、当時の三島市に6館あった映画館に入り浸り、在学中の3年間で500本近く鑑賞した。映画館と独自に交渉し、月に1回の田方農業高校生半額デーを設けてもらった。*143
大正時代の三島には、六反田(現・広小路町)の「歌舞伎座」、大中島(現・本町)の「堀内座」、小中島(現・中央町)の「大正座」など、5館の劇場があった。昭和に入ると「第1三島館」、「第2三島館」、「富士館」(後のセントラル)、「銀座劇場」の各映画館が人気となった。戦後期に開館した「東海劇場」、「新日本劇場」、「中央劇場」、「東映劇場」を加えて、最盛期の三島市には8館の映画館があった。1985年には三島市から映画館がなくなった。1997年、梅名に6館の劇場が1か所に集まった「ジョイランドシネマみしま」が開館した。*140
大正時代の三島には、六反田(現・広小路町)の「歌舞伎座」、大中島(現・本町)の「堀内座」、久保町(現・中央町)の「大正座」など、5館の劇場があった。昭和戦前期には「第1三島館」、「第2三島館」、「富士館」(後のセントラル)、「銀座劇場」の各映画館が開館した。戦後期には「東海劇場」、「新日本劇場」、「中央劇場」、「東映劇場」の映画館が開館し、最盛期の三島市には8館の映画館があった。*141
1928年に高木工務所が発行した『三島町詳細図』には、活動常設館「三島館」、活動常設館「富士館」の写真が掲載されている。*142
静岡県賀茂郡賀茂村長の山本正和は、1951年から1954年に静岡県立田方農業高校に在学した。山本は三島市内に寄宿して高校に通い、当時の三島市に6館あった映画館に入り浸り、在学中の3年間で500本近く鑑賞した。映画館と独自に交渉し、月に1回の田方農業高校生半額デーを設けてもらった。*143
所在地 : 静岡県三島市(1950年)、静岡県三島市茶町1922(1953年・1955年・1958年)、静岡県三島市茶町1921(1960年)、静岡県三島市六反田1922(1963年)
開館年 : 1926年頃、1946年1月
閉館年 : 1962年12月11日
『全国映画館総覧 1955』によると1946年1月開館。1926年頃に三島館として開館。1934年に第一三島館に改称。1949年12月に東映専門館となる。1950年10月に洋画専門館となる。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「第一三島館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1972年・1978年のゼンリン住宅地図では跡地に「三島信用金庫西支店」。現在の跡地は「三島信用金庫西支店」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。
三島市西本町1-21(かつての茶町)には「三島館」があった。1926年頃に開館し、1934年に「第一三島館」に改称した。1962年12月11日に廃止された。1989年現在は三島信用金庫西支店になっている。*144
三島市西若町の青果市場から南に約100mの場所に、伊豆箱根鉄道駿豆線の三島館踏切がある。この踏切をまっすぐ南下すると、現在の三島信用金庫西支店の場所には1962年まで映画館「第一三島館」があった。*145
開館年 : 1926年頃、1946年1月
閉館年 : 1962年12月11日
『全国映画館総覧 1955』によると1946年1月開館。1926年頃に三島館として開館。1934年に第一三島館に改称。1949年12月に東映専門館となる。1950年10月に洋画専門館となる。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「第一三島館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1972年・1978年のゼンリン住宅地図では跡地に「三島信用金庫西支店」。現在の跡地は「三島信用金庫西支店」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。
三島市西本町1-21(かつての茶町)には「三島館」があった。1926年頃に開館し、1934年に「第一三島館」に改称した。1962年12月11日に廃止された。1989年現在は三島信用金庫西支店になっている。*144
三島市西若町の青果市場から南に約100mの場所に、伊豆箱根鉄道駿豆線の三島館踏切がある。この踏切をまっすぐ南下すると、現在の三島信用金庫西支店の場所には1962年まで映画館「第一三島館」があった。*145
所在地 : 静岡県三島市(1950年)、静岡県三島市六反田1849(1953年)、静岡県三島市六反田1894(1955年)、静岡県三島市六反田1849(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1934年、1946年1月
閉館年 : 1964年2月
『全国映画館総覧 1955』によると1946年1月開館。1934年開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「第二三島館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1972年・1978年・1983年のゼンリン住宅地図では跡地に「パチンコ八億」。現在の跡地はパチンコ店「パチンコ八億」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。
三島市広小路町10-2(かつての六反田)には「第二三島館」があった。1934年に開館し、1964年2月に廃止された。1989年現在はパチンコ八億になっている。*146
開館年 : 1934年、1946年1月
閉館年 : 1964年2月
『全国映画館総覧 1955』によると1946年1月開館。1934年開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「第二三島館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1972年・1978年・1983年のゼンリン住宅地図では跡地に「パチンコ八億」。現在の跡地はパチンコ店「パチンコ八億」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。
三島市広小路町10-2(かつての六反田)には「第二三島館」があった。1934年に開館し、1964年2月に廃止された。1989年現在はパチンコ八億になっている。*146
所在地 : 静岡県三島市大場80(1955年)、静岡県三島市大場79(1960年・1963年)
開館年 : 1938年9月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1938年9月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「大場劇場」。1958年の映画館名簿では「東映朝日劇場」。1960年の映画館名簿では「三島朝日劇場」。1963年の映画館名簿では「太陽朝日座」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では「朝日館」。1978年のゼンリン住宅地図では跡地に「車庫」。現在の跡地は「コーポ コーエイ」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線大場駅。
開館年 : 1938年9月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1938年9月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「大場劇場」。1958年の映画館名簿では「東映朝日劇場」。1960年の映画館名簿では「三島朝日劇場」。1963年の映画館名簿では「太陽朝日座」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では「朝日館」。1978年のゼンリン住宅地図では跡地に「車庫」。現在の跡地は「コーポ コーエイ」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線大場駅。
所在地 : 静岡県三島市(1950年)、静岡県三島市伝馬町1220(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、静岡県三島市栄町11-27(1966年)
開館年 : 1946年11月? 1947年?
閉館年 : 1964年3月
『全国映画館総覧 1955』によると1946年11月開館。1950年の映画館名簿では「三島新日本劇場」。1950年11月新日本劇場休館。1953年新日本劇場跡地にエトアール劇場開館。1953年の映画館名簿では「三島エトアール劇場」。1954年12月22日にワイドスクリーンを設置して三島東映劇場に改称。1955年の映画館名簿では「エトアール劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「三島東映劇場」。1963年の映画館名簿では木造平屋建て420席、経営者・支配人ともに福田行芳、東映を上映。1963年4月23日に新築していた三島国際劇場が開館。1965年に三島国際劇場から三島劇場に改称したとされる。1966年の映画館名簿では「三島国際劇場」。1966年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造平屋建て210席、経営者・支配人ともに福田行芳、洋画を上映。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では「東映劇場跡」(※建物が残っていたと思われる)。1978年のゼンリン住宅地図では跡地に空白。1983年のゼンリン住宅地図では跡地に「三嶋大社駐車場」。跡地は「三嶋大社駐車場」南側。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。
三島市大社町17-1には「新日本劇場」があった。1947年に開館し、「三島エトアール」に改称した後、1955年2月に「三島東映劇場」に改称した。1964年3月に廃止された。1989年現在は三嶋大社の駐車場になっている。*147
開館年 : 1946年11月? 1947年?
閉館年 : 1964年3月
『全国映画館総覧 1955』によると1946年11月開館。1950年の映画館名簿では「三島新日本劇場」。1950年11月新日本劇場休館。1953年新日本劇場跡地にエトアール劇場開館。1953年の映画館名簿では「三島エトアール劇場」。1954年12月22日にワイドスクリーンを設置して三島東映劇場に改称。1955年の映画館名簿では「エトアール劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「三島東映劇場」。1963年の映画館名簿では木造平屋建て420席、経営者・支配人ともに福田行芳、東映を上映。1963年4月23日に新築していた三島国際劇場が開館。1965年に三島国際劇場から三島劇場に改称したとされる。1966年の映画館名簿では「三島国際劇場」。1966年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造平屋建て210席、経営者・支配人ともに福田行芳、洋画を上映。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では「東映劇場跡」(※建物が残っていたと思われる)。1978年のゼンリン住宅地図では跡地に空白。1983年のゼンリン住宅地図では跡地に「三嶋大社駐車場」。跡地は「三嶋大社駐車場」南側。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。
三島市大社町17-1には「新日本劇場」があった。1947年に開館し、「三島エトアール」に改称した後、1955年2月に「三島東映劇場」に改称した。1964年3月に廃止された。1989年現在は三嶋大社の駐車場になっている。*147
所在地 : 静岡県三島市芝町1-4(1953年・1955年)、静岡県三島市芝町2459(1958年)、静岡県三島市芝町1-4(1960年・1963年)、静岡県三島市芝本町10-38(1966年)
開館年 : 1927年11月、1946年
閉館年 : 1968年1月22日
『全国映画館総覧 1955』によると1927年11月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「東海劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「三島東海劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では跡地に「キャバレーニュー東海」。1978年のゼンリン住宅地図では跡地に「地下1階キャバレーニュー東海 1階パチンコ富士 2階料理ふじ」。1983年のゼンリン住宅地図では跡地に「八百半駐車場」。跡地は立体駐車場「ヒロセパーキング」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。
三島市芝本町10-36には「東海劇場」があった。1946年には戦後の三島市でいち早く開館した。しかし戦後の混乱期で経営不振に陥ったため、1947年から1950年4月までは三島地区協が完全体を借り受けて、三島労働文化会館という労働組合の拠点となった。組合員とその家族には安価で映画が提供された。1968年1月22日をもって廃止された。1989年現在は八百半の駐車場になっている。*148
1968年1月25日の『三島民報』には「東海劇場」の閉館とキャバレー転換を報じる記事が掲載されている。現物は未確認。三島市立図書館が原紙とCD-ROMを所蔵。*149
開館年 : 1927年11月、1946年
閉館年 : 1968年1月22日
『全国映画館総覧 1955』によると1927年11月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「東海劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「三島東海劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では跡地に「キャバレーニュー東海」。1978年のゼンリン住宅地図では跡地に「地下1階キャバレーニュー東海 1階パチンコ富士 2階料理ふじ」。1983年のゼンリン住宅地図では跡地に「八百半駐車場」。跡地は立体駐車場「ヒロセパーキング」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。
三島市芝本町10-36には「東海劇場」があった。1946年には戦後の三島市でいち早く開館した。しかし戦後の混乱期で経営不振に陥ったため、1947年から1950年4月までは三島地区協が完全体を借り受けて、三島労働文化会館という労働組合の拠点となった。組合員とその家族には安価で映画が提供された。1968年1月22日をもって廃止された。1989年現在は八百半の駐車場になっている。*148
1968年1月25日の『三島民報』には「東海劇場」の閉館とキャバレー転換を報じる記事が掲載されている。現物は未確認。三島市立図書館が原紙とCD-ROMを所蔵。*149
所在地 : 静岡県三島市(1950年)、静岡県三島市小中島(1953年)、静岡県三島市小中島1743(1955年・1958年・1960年)、静岡県三島市小中島本町(1963年)、静岡県三島市本町3-38(1966年・1969年)
開館年 : 1928年1月
閉館年 : 1974年1月28日
『全国映画館総覧 1955』によると1928年1月開館。1950年の映画館名簿では「三島中央劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「中央劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「三島中央劇場」。1971年のゼンリン住宅地図では「中央劇場」。1972年のゼンリン住宅地図では「三島中央劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。1978年・1983年のゼンリン住宅地図では跡地に「第一勧業銀行三島支店」。現在の跡地は「みずほ銀行三島支店」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。
1960年3月1日には第二東映が発足し、各地で第二東映上映館への転向が相次いでいる。静岡県では熱海市の「名画座」、三島市の「三島中央劇場」、沼津市の「東海劇場」、吉原市の「吉原オリオン座」、富士宮市の「ロマン座」、富士市の「富士東映劇場」、焼津市の「ヒカリ座」、島田市の「太陽館」、掛川市の「中央劇場」、磐田市の「スバル劇場」、浜松市の「浜松国際劇場」などが第二東映に転向した。*150
三島市本町3-38には「中央劇場」があった。1947年に開館した。1989年現在は第一勧業銀行の建物になっている。*151
開館年 : 1928年1月
閉館年 : 1974年1月28日
『全国映画館総覧 1955』によると1928年1月開館。1950年の映画館名簿では「三島中央劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「中央劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「三島中央劇場」。1971年のゼンリン住宅地図では「中央劇場」。1972年のゼンリン住宅地図では「三島中央劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。1978年・1983年のゼンリン住宅地図では跡地に「第一勧業銀行三島支店」。現在の跡地は「みずほ銀行三島支店」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。
1960年3月1日には第二東映が発足し、各地で第二東映上映館への転向が相次いでいる。静岡県では熱海市の「名画座」、三島市の「三島中央劇場」、沼津市の「東海劇場」、吉原市の「吉原オリオン座」、富士宮市の「ロマン座」、富士市の「富士東映劇場」、焼津市の「ヒカリ座」、島田市の「太陽館」、掛川市の「中央劇場」、磐田市の「スバル劇場」、浜松市の「浜松国際劇場」などが第二東映に転向した。*150
三島市本町3-38には「中央劇場」があった。1947年に開館した。1989年現在は第一勧業銀行の建物になっている。*151
所在地 : 静岡県三島市小中島(1953年)、静岡県三島市大中島(1955年)、静岡県三島市小中島1743(1960年)、静岡県三島市小中島本町(1963年)、静岡県三島市本町2-27(1966年・1969年・1980年)
開館年 : 1926年? 1928年1月?
閉館年 : 1985年8月31日
『全国映画館総覧 1955』によると1928年1月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「セントラル劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「三島セントラル劇場」。1971年・1972年・1978年・1983年のゼンリン住宅地図では「セントラル劇場」。1980年・1985年の映画館名簿では「セントラル劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパン屋「グルッペ本町店」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。
1926年には「久楽館」が「富士館」に改称した。三島市初の鉄筋コンクリート造の映画館である。1941年頃に「大勝館」に改称し、戦後に「セントラル劇場」に改称した。1974年の三島市にある映画館は銀座劇場とセントラルの2館のみとなった。1985年8月31日をもって廃止され、三島市から映画館がなくなった。本町2-27(かつての大中島)にあった。*152
開館年 : 1926年? 1928年1月?
閉館年 : 1985年8月31日
『全国映画館総覧 1955』によると1928年1月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「セントラル劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「三島セントラル劇場」。1971年・1972年・1978年・1983年のゼンリン住宅地図では「セントラル劇場」。1980年・1985年の映画館名簿では「セントラル劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパン屋「グルッペ本町店」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。
1926年には「久楽館」が「富士館」に改称した。三島市初の鉄筋コンクリート造の映画館である。1941年頃に「大勝館」に改称し、戦後に「セントラル劇場」に改称した。1974年の三島市にある映画館は銀座劇場とセントラルの2館のみとなった。1985年8月31日をもって廃止され、三島市から映画館がなくなった。本町2-27(かつての大中島)にあった。*152
所在地 : 静岡県三島市大中島(1953年)、静岡県三島市大中島426(1955年)、静岡県三島市大中島423(1960年・1963年)、静岡県三島市南本町2-2(1966年)、静岡県三島市南本町2-27(1969年・1973年)、静岡県三島市南本町2-2(1976年・1980年・1985年)
開館年 : 1935年?、1945年12月
閉館年 : 1985年8月31日
『全国映画館総覧 1955』によると1945年12月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「銀座劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「三島銀座劇場」。1971年・1972年のゼンリン住宅地図では「銀座劇場」。1974年3月21日には銀座劇場を分割して明宝劇場と有楽座の2館化。1976年の映画館名簿では「三島明宝劇場・三島有楽座」。1978年・1983年のゼンリン住宅地図では「明宝劇場・有楽座」。1980年・1985年の映画館名簿では「明宝劇場・有楽座」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「焼肉東海苑」専用駐車場。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。
「堀内座」を映画館に改修して「レコード館」が開館した。堀内座は1935年に廃止された「三島劇場」の建物を移築したものである。レコード館は戦後になって「ポッポ座」に改称し、その後「銀座劇場」に改称した。1974年の三島市にある映画館は銀座劇場とセントラルの2館のみとなった。経営者は観客数の減少に対する対策として、銀座劇場の内部を仕切って「明宝劇場・有楽座」の2館に分けた。セントラルを含めた計3館で製作者別系列の上映を行った。1985年8月31日をもって廃止され、三島市から映画館がなくなった。*153
1985年8月25日の『三島民報』には「明宝劇場・有楽座」の閉館を報じる記事が掲載されている。現物は未確認。三島市立図書館が原紙とCD-ROMを所蔵。*154
開館年 : 1935年?、1945年12月
閉館年 : 1985年8月31日
『全国映画館総覧 1955』によると1945年12月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「銀座劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「三島銀座劇場」。1971年・1972年のゼンリン住宅地図では「銀座劇場」。1974年3月21日には銀座劇場を分割して明宝劇場と有楽座の2館化。1976年の映画館名簿では「三島明宝劇場・三島有楽座」。1978年・1983年のゼンリン住宅地図では「明宝劇場・有楽座」。1980年・1985年の映画館名簿では「明宝劇場・有楽座」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「焼肉東海苑」専用駐車場。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。
「堀内座」を映画館に改修して「レコード館」が開館した。堀内座は1935年に廃止された「三島劇場」の建物を移築したものである。レコード館は戦後になって「ポッポ座」に改称し、その後「銀座劇場」に改称した。1974年の三島市にある映画館は銀座劇場とセントラルの2館のみとなった。経営者は観客数の減少に対する対策として、銀座劇場の内部を仕切って「明宝劇場・有楽座」の2館に分けた。セントラルを含めた計3館で製作者別系列の上映を行った。1985年8月31日をもって廃止され、三島市から映画館がなくなった。*153
1985年8月25日の『三島民報』には「明宝劇場・有楽座」の閉館を報じる記事が掲載されている。現物は未確認。三島市立図書館が原紙とCD-ROMを所蔵。*154
所在地 : 静岡県三島市梅名308-6(2000年・2005年・2010年・2015年)
開館年 : 1997年11月
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「ジョイランドみしまシネマ1-6」(6館)。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線大場駅。
1997年11月、三島市に6スクリーンが入った映画館「ジョイランドシネマみしま」が開館した。経営は沼津市に本社を置く東部事業。3階に映画館の6スクリーンがあり、1階はゲームセンターとパチンコ店、2階はボウリング場がある総合娯楽ビルである。静岡県でシネコン(複合映画館)の開館は初となる。浜松市や清水市でもシネコンの建設が計画されている。榛原町に本社を置く戸塚興業は、かつて掛川市などで約20館の映画館を経営していたが、1991年に掛川座を閉館させて映画館経営から完全撤退した。*155
1997年11月、三島市梅名308-7 ジョイランドみしま3階に6スクリーンの映画館「ジョイランドみしま」が開館した。経営は東部事業。*156
静岡県東部は半径5km圏内にシネコン3施設がある激戦区である。2008年には静岡県最多の12スクリーンを有する「シネプラザサントムーン」が開館し、「ジョイランドシネマみしま」は大きな影響を受けている。ジョイランドシネマみしまはシネコンでは珍しく入れ替え梨の自由席を採用しており、「同じ作品なら何度も見られる」という。シネプラザサントムーンは単館系作品も積極的に上映して幅広い客層を取り込もうとしている。2006年に沼津駅前に開館した「シネマサンシャイン沼津」は、学生が多い駅前の立地を生かそうと若者向けの作品を増やし、3D上映が可能なスクリーンも増やした。静岡県西部にある3つのシネコンはいずれもTOHOシネマズが運営しており、相乗効果で地域全体の観客動員数の底上げにつながっているという。*157
開館年 : 1997年11月
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「ジョイランドみしまシネマ1-6」(6館)。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線大場駅。
1997年11月、三島市に6スクリーンが入った映画館「ジョイランドシネマみしま」が開館した。経営は沼津市に本社を置く東部事業。3階に映画館の6スクリーンがあり、1階はゲームセンターとパチンコ店、2階はボウリング場がある総合娯楽ビルである。静岡県でシネコン(複合映画館)の開館は初となる。浜松市や清水市でもシネコンの建設が計画されている。榛原町に本社を置く戸塚興業は、かつて掛川市などで約20館の映画館を経営していたが、1991年に掛川座を閉館させて映画館経営から完全撤退した。*155
1997年11月、三島市梅名308-7 ジョイランドみしま3階に6スクリーンの映画館「ジョイランドみしま」が開館した。経営は東部事業。*156
静岡県東部は半径5km圏内にシネコン3施設がある激戦区である。2008年には静岡県最多の12スクリーンを有する「シネプラザサントムーン」が開館し、「ジョイランドシネマみしま」は大きな影響を受けている。ジョイランドシネマみしまはシネコンでは珍しく入れ替え梨の自由席を採用しており、「同じ作品なら何度も見られる」という。シネプラザサントムーンは単館系作品も積極的に上映して幅広い客層を取り込もうとしている。2006年に沼津駅前に開館した「シネマサンシャイン沼津」は、学生が多い駅前の立地を生かそうと若者向けの作品を増やし、3D上映が可能なスクリーンも増やした。静岡県西部にある3つのシネコンはいずれもTOHOシネマズが運営しており、相乗効果で地域全体の観客動員数の底上げにつながっているという。*157
1892年に作られた『伊東案内図』には「東座」や「寄席」やキネマホールの前身である「末広亭」などが描かれている。戦後の伊東市街地には「伊東劇場」、「ロキシー」、「松竹館」(旧住吉館)、「演舞場」、「銀映」という5館の映画館があった。伊東市街地以外では、八幡野には丸万経営の「テアトル」と相良太郎経営の「サガラ座」の2館、宇佐美には城宿長屋店の場所に「宇佐美館」の1館、富戸には富戸上町に「文化劇場」の1館の映画館があった。伊東劇場は伊東市の映画館の中心的存在である。大和館の山本惣吉が劇場経営に携わり、その後の丸万の山田喜太郎の時代が全盛期だった。*158
1951年に再建された伊東劇場は、収容人数1200人で静岡県最大の大きさだった。伊東劇場の隣には洋画専門館のロキシーがあり、さらに松竹館、演舞場、銀映と、伊東市街地には5館の映画館があった。郡部には相良劇場、テアトル(八幡野)、文化館(富戸)、宇佐美座(宇佐美)があった。大衆娯楽のうち最初に衰退したのは映画館であり、1963年10月の5館の入館者数計2万7326人は、前年同月に比べて1万310人も減少した。1館あたりでは1日平均182人という少なさだった。伊東劇場も1970年に閉館。最後まで残ったのは銀映だったが、1987年に32年の歴史の幕を閉じた。*159
1963年10月の伊東市街地の映画館5館の入場者数は計2万7326人であり、売上高は計482万1700円だった。1962年10月は計3万7636人であり、売上高は539万7000円だったため、入場者数は27%減少、売上高は11%減少となった。1963年の5館の1日平均入場者数は910人であり、1館当たりでは1日平均182人だった。テレビが普及したことや、レジャーブームで娯楽施設が豊富になったことが要因に挙げられる。*160*161
1951年に再建された伊東劇場は、収容人数1200人で静岡県最大の大きさだった。伊東劇場の隣には洋画専門館のロキシーがあり、さらに松竹館、演舞場、銀映と、伊東市街地には5館の映画館があった。郡部には相良劇場、テアトル(八幡野)、文化館(富戸)、宇佐美座(宇佐美)があった。大衆娯楽のうち最初に衰退したのは映画館であり、1963年10月の5館の入館者数計2万7326人は、前年同月に比べて1万310人も減少した。1館あたりでは1日平均182人という少なさだった。伊東劇場も1970年に閉館。最後まで残ったのは銀映だったが、1987年に32年の歴史の幕を閉じた。*159
1963年10月の伊東市街地の映画館5館の入場者数は計2万7326人であり、売上高は計482万1700円だった。1962年10月は計3万7636人であり、売上高は539万7000円だったため、入場者数は27%減少、売上高は11%減少となった。1963年の5館の1日平均入場者数は910人であり、1館当たりでは1日平均182人だった。テレビが普及したことや、レジャーブームで娯楽施設が豊富になったことが要因に挙げられる。*160*161
所在地 : 静岡県賀茂郡伊東町(1930年)
開館年 : 1920年8月14日
閉館年 : 1945年以前
1930年の映画館名簿では「キネマホール」。1936年の映画館名簿には掲載されていない。
伊東市有数の商店街であるキネマ通りの名前の由来になったのはキネマホールである。1920年8月14日に開館式を行い、まだ映画が「活動写真」と呼ばれていた時代にキネマホールというハイカラな館名を付けた。キネマホールは火災に遭って短命に終わった。*162
1920年8月14日、伊東に活動常設館「キネマホール」が開館したが、開館日に上映された映画の題名などは不明である。キネマホールの経営者は西山隆作氏であり、その娘は全員が着物だった時代に洋服を着て小学校に通っていたため、児童のあこがれの的だった。昭和初期には楠山伝や藤屋の主人らが話し合ってキネマ通りと命名した。1930年11月26日には北伊豆地震が起こり、キネマ通りではキネマホールを含む約30戸が焼失した。跡地は長らく空き地になっていたが、楠山伝とダルマ不動産が土地を購入して店を開いた。キネマホールは2000年現在の小田原屋支店付近にあったとされる。*163
1978年の住宅地図では、猪戸通りと湯の花通りの交差点西側に「キネマ会館」が描かれている。「文寿堂菓子店」の2軒北東。
開館年 : 1920年8月14日
閉館年 : 1945年以前
1930年の映画館名簿では「キネマホール」。1936年の映画館名簿には掲載されていない。
伊東市有数の商店街であるキネマ通りの名前の由来になったのはキネマホールである。1920年8月14日に開館式を行い、まだ映画が「活動写真」と呼ばれていた時代にキネマホールというハイカラな館名を付けた。キネマホールは火災に遭って短命に終わった。*162
1920年8月14日、伊東に活動常設館「キネマホール」が開館したが、開館日に上映された映画の題名などは不明である。キネマホールの経営者は西山隆作氏であり、その娘は全員が着物だった時代に洋服を着て小学校に通っていたため、児童のあこがれの的だった。昭和初期には楠山伝や藤屋の主人らが話し合ってキネマ通りと命名した。1930年11月26日には北伊豆地震が起こり、キネマ通りではキネマホールを含む約30戸が焼失した。跡地は長らく空き地になっていたが、楠山伝とダルマ不動産が土地を購入して店を開いた。キネマホールは2000年現在の小田原屋支店付近にあったとされる。*163
1978年の住宅地図では、猪戸通りと湯の花通りの交差点西側に「キネマ会館」が描かれている。「文寿堂菓子店」の2軒北東。
所在地 : 静岡県伊東市対島(1956年)、静岡県伊東市富戸町710(1957年)、静岡県伊東市富戸町701(1958年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1958年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年の映画館名簿では「富戸文化劇場」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1958年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年の映画館名簿では「富戸文化劇場」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県田方郡宇佐美村(1953年・1955年)、静岡県伊東市宇佐美区宇佐美(1958年)、静岡県伊東市宇佐美城宿(1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1945年12月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1945年12月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「宇佐美劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1945年12月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1945年12月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「宇佐美劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県田方郡対馬村八幡野(1953年・1955年)、静岡県伊東市対島区八幡野(1958年・1960年)、静岡県伊東市八幡野(1963年・1964年)
開館年 : 1951年9月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年9月開館。1953年の映画館名簿では「八幡野テアトル」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「テアトル八幡野」。1963年の映画館名簿では「八幡野テアトル」。1964年の映画館名簿では「テアトル八幡野」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「伊東市八幡野コミュニティセンター」南西130mの民家。最寄駅は伊豆急行線伊豆高原駅。
開館年 : 1951年9月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年9月開館。1953年の映画館名簿では「八幡野テアトル」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「テアトル八幡野」。1963年の映画館名簿では「八幡野テアトル」。1964年の映画館名簿では「テアトル八幡野」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「伊東市八幡野コミュニティセンター」南西130mの民家。最寄駅は伊豆急行線伊豆高原駅。
所在地 : 静岡県伊東市(1950年)、静岡県伊東市松原(1953年・1955年)、静岡県伊東市松原町501(1958年)、静岡県伊東市松原猪戸町(1960年)、静岡県伊東市松原501(1963年)、静岡県伊東市松原猪戸町(1964年)、静岡県伊東市松原猪戸町501(1965年)
開館年 : 1941年4月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1941年4月開館。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「ロキシー劇場」。1960年の伊東市明細図・1963年の伊東市住宅明細図では「映画劇場ロキシー(山田)」。1958年・1960年の映画館名簿では「伊東ロキシー」。1963年の映画館名簿では「伊東東映ロキシー」。1964年の映画館名簿では「東映ロキシー」。1965年の映画館名簿では「伊東ロキシー」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の映画館名簿では跡地に「ロキシー駐車場」。現在の跡地はアーケード南端部にある「セントラルビル」であり定食屋「椿や」やガールズバー「ミラージュ」などが入っている。最寄駅はJR伊東線伊東駅。
1952年、伊東市に鉄筋造3階建ての「伊東劇場」が開館した。経営者は伊東市で伊東劇場、「ロキシー劇場」、「松竹館」を経営している山田寿。1953年にはロキシー劇場の改築に入り、その完成を待って松竹館の改築に入る。すべての改築が完成した暁には、伊東劇場が邦画・洋画の大作上映劇場、ロキシー劇場が洋画専門館、松竹館が邦画専門館となる。*164
開館年 : 1941年4月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1941年4月開館。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「ロキシー劇場」。1960年の伊東市明細図・1963年の伊東市住宅明細図では「映画劇場ロキシー(山田)」。1958年・1960年の映画館名簿では「伊東ロキシー」。1963年の映画館名簿では「伊東東映ロキシー」。1964年の映画館名簿では「東映ロキシー」。1965年の映画館名簿では「伊東ロキシー」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の映画館名簿では跡地に「ロキシー駐車場」。現在の跡地はアーケード南端部にある「セントラルビル」であり定食屋「椿や」やガールズバー「ミラージュ」などが入っている。最寄駅はJR伊東線伊東駅。
1952年、伊東市に鉄筋造3階建ての「伊東劇場」が開館した。経営者は伊東市で伊東劇場、「ロキシー劇場」、「松竹館」を経営している山田寿。1953年にはロキシー劇場の改築に入り、その完成を待って松竹館の改築に入る。すべての改築が完成した暁には、伊東劇場が邦画・洋画の大作上映劇場、ロキシー劇場が洋画専門館、松竹館が邦画専門館となる。*164
所在地 : 静岡県伊東市松原町602(1957年・1958年)、静岡県伊東市松原602(1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「伊東演舞場」。1958年・1960年の映画館名簿では「伊東東映演舞場」。1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「伊東日活演舞場」。1970年のゼンリン住宅地図では「伊東日活」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「手打庵松原店」。最寄駅はJR伊東線伊東駅。
1960年10月5日、伊東市松原602の「伊東東映演舞場」は「伊東日活演舞場」に改称して日活専門館に転向した。経営は柴田光之助。*165
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「伊東演舞場」。1958年・1960年の映画館名簿では「伊東東映演舞場」。1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「伊東日活演舞場」。1970年のゼンリン住宅地図では「伊東日活」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「手打庵松原店」。最寄駅はJR伊東線伊東駅。
1960年10月5日、伊東市松原602の「伊東東映演舞場」は「伊東日活演舞場」に改称して日活専門館に転向した。経営は柴田光之助。*165
所在地 : 静岡県伊東市松原栄町(1950年)、静岡県伊東市松原(1953年)、静岡県伊東市栄町(1955年・1958年)、静岡県伊東市松原栄町1(1960年・1963年・1966年)、静岡県伊東市松原1-1(1969年・1970年)
開館年 : 1930年以前、1941年8月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1941年8月開館。1930年の映画館名簿では「松竹館」。1950年の映画館名簿では「伊東松竹館」。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「松竹館」。1960年の映画館名簿では「伊東松竹館」。1960年の伊東市明細図では「映画劇場 第二東映」。1963年の伊東市住宅明細図では「テアトルマルマン」。1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「テアトル丸万」。1970年のゼンリン住宅地図では「テアトルマルマン」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。旅館「山望館」の北西30m。最寄駅はJR伊東線伊東駅。
1952年、伊東市に鉄筋造3階建ての「伊東劇場」が開館した。経営者は伊東市で伊東劇場、「ロキシー劇場」、「松竹館」を経営している山田寿。1953年にはロキシー劇場の改築に入り、その完成を待って松竹館の改築に入る。すべての改築が完成した暁には、伊東劇場が邦画・洋画の大作上映劇場、ロキシー劇場が洋画専門館、松竹館が邦画専門館となる。*166
1965年頃(※誤りだと思われる)の伊東市にあった映画館「テアトルマルマン劇場」の写真あり。劇場通り(現・中央町通り)にあり、伊東市を代表する映画館だった。『日本侠客伝 白刃の盃』(1967年)や『博奕打ち』(1967年)などの看板が見える。「テアトルマルマン」「THEATRE MARUMAN」などの看板が見える。*167
開館年 : 1930年以前、1941年8月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1941年8月開館。1930年の映画館名簿では「松竹館」。1950年の映画館名簿では「伊東松竹館」。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「松竹館」。1960年の映画館名簿では「伊東松竹館」。1960年の伊東市明細図では「映画劇場 第二東映」。1963年の伊東市住宅明細図では「テアトルマルマン」。1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「テアトル丸万」。1970年のゼンリン住宅地図では「テアトルマルマン」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。旅館「山望館」の北西30m。最寄駅はJR伊東線伊東駅。
1952年、伊東市に鉄筋造3階建ての「伊東劇場」が開館した。経営者は伊東市で伊東劇場、「ロキシー劇場」、「松竹館」を経営している山田寿。1953年にはロキシー劇場の改築に入り、その完成を待って松竹館の改築に入る。すべての改築が完成した暁には、伊東劇場が邦画・洋画の大作上映劇場、ロキシー劇場が洋画専門館、松竹館が邦画専門館となる。*166
1965年頃(※誤りだと思われる)の伊東市にあった映画館「テアトルマルマン劇場」の写真あり。劇場通り(現・中央町通り)にあり、伊東市を代表する映画館だった。『日本侠客伝 白刃の盃』(1967年)や『博奕打ち』(1967年)などの看板が見える。「テアトルマルマン」「THEATRE MARUMAN」などの看板が見える。*167
所在地 : 静岡県伊東市松原(1953年・1955年)、静岡県伊東市松原507(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)、静岡県伊東市中央町7-2(1973年・1976年・1978年・1979年)
開館年 : 1918年5月15日、1952年
閉館年 : 1970年
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1978年・1979年の映画館名簿では「伊東劇場」。1960年の伊東市明細図・1963年の伊東市住宅明細図では「伊東劇場」であり小さな「喫茶マルマン」という建物が併設されている。1970年のゼンリン住宅地図では「伊東劇場」であり小さな「マルマン」という建物が併設されている。1978年の住宅地図では「伊東劇場」であり小さな「マルマン」という建物が併設されている。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「フリーマーケットベル」の西側の立体駐車場。2006年6月24日には敷地北側に「キネマカフェ伊東劇場」が開店したが、2009年12月10日に閉店した。
吉田初三郎『湯の街海の街山の街観光伊東市鳥瞰図』伊東市役所、出版年不明には伊東劇場が「劇場」として描かれている。*168
1918年5月15日、再築中の伊東劇場が完成し、盛大に舞台開きが開催された。*169
1952年、伊東市に鉄筋造3階建ての「伊東劇場」が開館した。経営者は伊東市で伊東劇場、「ロキシー劇場」、「松竹館」を経営している山田寿。1953年にはロキシー劇場の改築に入り、その完成を待って松竹館の改築に入る。すべての改築が完成した暁には、伊東劇場が邦画・洋画の大作上映劇場、ロキシー劇場が洋画専門館、松竹館が邦画専門館となる。*170
伊東劇場は1970年まで営業を続けた。(※映画館名簿とは閉館時期に6年以上のずれが生じるが理由は不明)*171
2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
開館年 : 1918年5月15日、1952年
閉館年 : 1970年
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1978年・1979年の映画館名簿では「伊東劇場」。1960年の伊東市明細図・1963年の伊東市住宅明細図では「伊東劇場」であり小さな「喫茶マルマン」という建物が併設されている。1970年のゼンリン住宅地図では「伊東劇場」であり小さな「マルマン」という建物が併設されている。1978年の住宅地図では「伊東劇場」であり小さな「マルマン」という建物が併設されている。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「フリーマーケットベル」の西側の立体駐車場。2006年6月24日には敷地北側に「キネマカフェ伊東劇場」が開店したが、2009年12月10日に閉店した。
吉田初三郎『湯の街海の街山の街観光伊東市鳥瞰図』伊東市役所、出版年不明には伊東劇場が「劇場」として描かれている。*168
1918年5月15日、再築中の伊東劇場が完成し、盛大に舞台開きが開催された。*169
1952年、伊東市に鉄筋造3階建ての「伊東劇場」が開館した。経営者は伊東市で伊東劇場、「ロキシー劇場」、「松竹館」を経営している山田寿。1953年にはロキシー劇場の改築に入り、その完成を待って松竹館の改築に入る。すべての改築が完成した暁には、伊東劇場が邦画・洋画の大作上映劇場、ロキシー劇場が洋画専門館、松竹館が邦画専門館となる。*170
伊東劇場は1970年まで営業を続けた。(※映画館名簿とは閉館時期に6年以上のずれが生じるが理由は不明)*171
2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
所在地 : 静岡県伊東市玖須美町(1956年)、静岡県伊東市玖須美之内125(1958年)、静岡県伊東市玖須美元竹之内(1960年・1963年)、静岡県伊東市玖須美元竹之内125(1966年・1969年・1973年)、静岡県伊東市銀座元町6-10(1976年・1980年)、静岡県伊東市銀座元町6-11(1985年・1987年)
開館年 : 1954年10月1日
閉館年 : 1987年4月5日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「伊東銀座映画劇場」。1960年の伊東市明細図・1963年の伊東市住宅明細図では「映画劇場 伊東銀映」。1970年のゼンリン住宅地図では「伊東銀座映画劇場」。1973年・1976年・1980年・1985年・1987年の映画館名簿では「伊東銀映オリオン」。1978年の住宅地図では「銀映オリオン」。1988年の映画館名簿には掲載されていない。伊東市最後の映画館。跡地は「伊東市商工会議所」。
1954年10月1日、伊東市玖須美125番地に伊東銀座興行による新館が開館する。邦画・洋画の二番館。伊東銀座興行の資本金は1500万円であり、社長は伊東バスの増田万吉。伊東市の映画館は4館となる。*172
1956年頃の伊東市にあった「銀映」で撮られた記念写真あり。「銀映」「東映」の文字が見える。中央には俳優の大友柳太郎が映っており、その周りには伊東銀座興業株式会社の役員などがいる。銀映の開館間もない頃には東映と大映を上映し、上映作品は時代劇が多かった。*173
1987年4月5日、伊東銀映オリオンが32年間の歴史に幕を閉じて閉館する。映画全盛期の1955年、伊東劇場・ロキシー・松竹館・演舞場に次ぐ市内5番目の映画館として、伊東市銀座元町に創業した。1986年8月、伊東銀座興業株式会社の株主総会において、映画人口の減少、建物の老朽化、幼稚園児への環境問題などを理由に閉館を決定。セブンイレブンやスーパーの誘致なども検討されたが、建物は取り壊すことが決定し、726m2の敷地を商工会館の建設地とする案が有力である。増田郁雄社長、資本金1200万円。*174*175
伊東市に最後まで残った映画館は銀映であるが、1987年に32年の歴史の幕を閉じた。*176
開館年 : 1954年10月1日
閉館年 : 1987年4月5日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「伊東銀座映画劇場」。1960年の伊東市明細図・1963年の伊東市住宅明細図では「映画劇場 伊東銀映」。1970年のゼンリン住宅地図では「伊東銀座映画劇場」。1973年・1976年・1980年・1985年・1987年の映画館名簿では「伊東銀映オリオン」。1978年の住宅地図では「銀映オリオン」。1988年の映画館名簿には掲載されていない。伊東市最後の映画館。跡地は「伊東市商工会議所」。
1954年10月1日、伊東市玖須美125番地に伊東銀座興行による新館が開館する。邦画・洋画の二番館。伊東銀座興行の資本金は1500万円であり、社長は伊東バスの増田万吉。伊東市の映画館は4館となる。*172
1956年頃の伊東市にあった「銀映」で撮られた記念写真あり。「銀映」「東映」の文字が見える。中央には俳優の大友柳太郎が映っており、その周りには伊東銀座興業株式会社の役員などがいる。銀映の開館間もない頃には東映と大映を上映し、上映作品は時代劇が多かった。*173
1987年4月5日、伊東銀映オリオンが32年間の歴史に幕を閉じて閉館する。映画全盛期の1955年、伊東劇場・ロキシー・松竹館・演舞場に次ぐ市内5番目の映画館として、伊東市銀座元町に創業した。1986年8月、伊東銀座興業株式会社の株主総会において、映画人口の減少、建物の老朽化、幼稚園児への環境問題などを理由に閉館を決定。セブンイレブンやスーパーの誘致なども検討されたが、建物は取り壊すことが決定し、726m2の敷地を商工会館の建設地とする案が有力である。増田郁雄社長、資本金1200万円。*174*175
伊東市に最後まで残った映画館は銀映であるが、1987年に32年の歴史の幕を閉じた。*176
所在地 : 静岡県賀茂郡下田町白浜1778(1959年・1960年)、静岡県賀茂郡下田町白浜(1963年)、静岡県賀茂郡下田町白浜1778(1966年・1969年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1969年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「白浜座」。1971年のゼンリン住宅地図では発見できず。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1969年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「白浜座」。1971年のゼンリン住宅地図では発見できず。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県賀茂郡下田町(1925年・1930年・1936年・1943年)、静岡県賀茂郡下田町835(1947年)、静岡県賀茂郡下田町(1949年)、静岡県賀茂郡下田町825(1953年・1955年・1958年)、静岡県賀茂郡下田町839(1960年)、静岡県賀茂郡下田町黒船通り(1963年)、静岡県賀茂郡下田町825(1966年)、静岡県賀茂郡下田町黒船通(1969年)
開館年 : 1884年4月19日、1907年10月
閉館年 : 1969年8月26日
『全国映画館総覧 1955』によると1907年10月開館。1925年・1930年・1936年・1943年の映画館名簿では「湊座」。1947年・1949年の映画館名簿では「下田湊座」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「湊座」。1955年の映画館名簿では「下田湊座」。1958年の映画館名簿では「湊座」。1960年の映画館名簿では「下田湊座」。1963年の映画館名簿では「港座」。1966年・1969年の映画館名簿では「下田湊座」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
1884年4月19日には下田町に「港座」(※湊座ではなく港座)が創業した。1969年8月26日には港座が閉館し、娯楽センターと駐車場になった。*177
開館年 : 1884年4月19日、1907年10月
閉館年 : 1969年8月26日
『全国映画館総覧 1955』によると1907年10月開館。1925年・1930年・1936年・1943年の映画館名簿では「湊座」。1947年・1949年の映画館名簿では「下田湊座」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「湊座」。1955年の映画館名簿では「下田湊座」。1958年の映画館名簿では「湊座」。1960年の映画館名簿では「下田湊座」。1963年の映画館名簿では「港座」。1966年・1969年の映画館名簿では「下田湊座」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
1884年4月19日には下田町に「港座」(※湊座ではなく港座)が創業した。1969年8月26日には港座が閉館し、娯楽センターと駐車場になった。*177
所在地 : 静岡県賀茂郡下田町黒船通り(1964年)、静岡県賀茂郡下田町839(1966年)、静岡県賀茂郡下田町白浜黒船通(1969年)、静岡県下田市黒船通り(1973年)、静岡県下田市3-1-4(1976年・1977年)
開館年 : 1963年頃
閉館年 : 1977年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1966年・1969年・1973年・1976年・1977年の映画館名簿では「下田黒船センター」。1971年・1976年のゼンリン住宅地図では「黒船センター」。1978年・1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はスーパーマーケット「マックスバリュエクスプレス下田銀座店」建物南東角。最寄駅は伊豆急行線伊豆急下田駅。
開館年 : 1963年頃
閉館年 : 1977年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1966年・1969年・1973年・1976年・1977年の映画館名簿では「下田黒船センター」。1971年・1976年のゼンリン住宅地図では「黒船センター」。1978年・1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はスーパーマーケット「マックスバリュエクスプレス下田銀座店」建物南東角。最寄駅は伊豆急行線伊豆急下田駅。
所在地 : 静岡県賀茂郡下田町(1925年・1930年)、静岡県賀茂郡下田町大横丁通(1936年)、静岡県賀茂郡下田町(1943年)、静岡県賀茂郡下田町549(1947年)、静岡県賀茂郡下田町大横町(1949年・1950年)、静岡県賀茂郡下田町549(1953年)、静岡県賀茂郡下田町下田銀座(1955年・1958年)、静岡県賀茂郡下田町550(1960年)、静岡県賀茂郡下田町下田銀座(1963年)、静岡県賀茂郡下田町550(1966年)、静岡県賀茂郡下田町銀座通(1969年)、静岡県下田市銀座通り(1973年)、静岡県下田市2-11-20(1976年・1978年・1979年)
開館年 : 1925年以前、1937年12月
閉館年 : 1979年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1937年12月開館。1925年の映画館名簿では「タカラ館」。1930年の映画館名簿では「宝館」。1936年の映画館名簿では「タカラ館」。1943年の映画館名簿では「三幸映画劇場」。1947年の映画館名簿では「下田三幸館」。1949年の映画館名簿では「三幸館」。1950年の映画館名簿では「下田三幸館」。1953年の映画館名簿では「三幸館」。1955年の映画館名簿では「下田三幸館」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「三幸館」。1971年・1976年のゼンリン住宅地図では「三幸館」。1971年時点では右隣には「誠心薬局」が、1976年時点では「尾形薬局」があった。1971年時点・1976年時点で左隣には「藤田呉服店」があった。1971年・1976年時点で現在の立体駐車場の場所には「東京電力沼津支店下田営業所」があった。1973年・1976年・1978年・1979年の映画館名簿では「下田三幸館」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「尾形薬局本店」西側の立体駐車場「月極尾形駐車場」東側。最寄駅は伊豆急行線伊豆急下田駅。
開館年 : 1925年以前、1937年12月
閉館年 : 1979年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1937年12月開館。1925年の映画館名簿では「タカラ館」。1930年の映画館名簿では「宝館」。1936年の映画館名簿では「タカラ館」。1943年の映画館名簿では「三幸映画劇場」。1947年の映画館名簿では「下田三幸館」。1949年の映画館名簿では「三幸館」。1950年の映画館名簿では「下田三幸館」。1953年の映画館名簿では「三幸館」。1955年の映画館名簿では「下田三幸館」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「三幸館」。1971年・1976年のゼンリン住宅地図では「三幸館」。1971年時点では右隣には「誠心薬局」が、1976年時点では「尾形薬局」があった。1971年時点・1976年時点で左隣には「藤田呉服店」があった。1971年・1976年時点で現在の立体駐車場の場所には「東京電力沼津支店下田営業所」があった。1973年・1976年・1978年・1979年の映画館名簿では「下田三幸館」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「尾形薬局本店」西側の立体駐車場「月極尾形駐車場」東側。最寄駅は伊豆急行線伊豆急下田駅。
所在地 : 静岡県田方郡上狩野村湯ケ島173(1953年・1955年・1958年)、静岡県田方郡上狩野村湯カ島(1959年)
開館年 : 1923年7月
閉館年 : 1959年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1923年7月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「湯ケ島劇場」。1958年の映画館名簿では経営者・支配人ともに小野源作、木造1階、定員426。1959年の映画館名簿では「湯カ島劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1923年7月
閉館年 : 1959年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1923年7月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「湯ケ島劇場」。1958年の映画館名簿では経営者・支配人ともに小野源作、木造1階、定員426。1959年の映画館名簿では「湯カ島劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県田方郡中狩野村出口(1953年)、静岡県田方郡中狩野村青羽根(1959年・1960年・1961年・1962年)、静岡県田方郡天城湯ケ島町(1963年)、静岡県田方郡天城湯ケ島町出口(1964年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1964年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「出口クラブ」。1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「青羽根クラブ」。1960年の映画館名簿では経営者が伊豆商事、支配人が堀内孫太郎、木造1階、定員300、大映・新東宝を上映。1961年・1962年・1963年・1964年の映画館名簿では「出口劇場」。1962年の映画館名簿では経営者が伊豆商事、支配人が堀井友兄、木造1階、定員300、邦画・洋画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のゼンリン住宅地図では発見できず。
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1964年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「出口クラブ」。1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「青羽根クラブ」。1960年の映画館名簿では経営者が伊豆商事、支配人が堀内孫太郎、木造1階、定員300、大映・新東宝を上映。1961年・1962年・1963年・1964年の映画館名簿では「出口劇場」。1962年の映画館名簿では経営者が伊豆商事、支配人が堀井友兄、木造1階、定員300、邦画・洋画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のゼンリン住宅地図では発見できず。
所在地 : 静岡県田方郡修善寺町温泉場(1953年)、静岡県田方郡修善寺町桂町(1955年・1958年)、静岡県田方郡修善寺町3463-2(1960年)、静岡県田方郡修善寺町桂町(1963年・1965年)
開館年 : 1927年5月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1927年5月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「桂座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1927年5月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1927年5月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「桂座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県田方郡北狩野村528-2(1955年)、静岡県田方郡修善寺町駅前(1958年)、静岡県田方郡修善寺町(1960年・1963年)、静岡県田方郡修善寺町駅前(1966年)、静岡県田方郡修善寺町柏久保(1969年・1973年)
開館年 : 1947年5月
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年5月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「伊豆中央劇場」。1958年の映画館名簿では「修善寺中央劇場」。1960年の映画館名簿では「伊豆中央劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「修善寺中央劇場」。1970年・1972年の住宅地図では「中央映画館」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「もりの歯科クリニック」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線修善寺駅。
1972年の修善寺町にあった「中央劇場」の写真あり。『キングギドラ対ゴジラ』『ガメラ対深海怪獣ジグラ』『いなかっぺ大将』の東宝作品3本立てである。修善寺駅の近くにあった。大仁町にあった映画館が閉館すると、近隣では唯一の映画館となった。*178
開館年 : 1947年5月
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年5月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「伊豆中央劇場」。1958年の映画館名簿では「修善寺中央劇場」。1960年の映画館名簿では「伊豆中央劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「修善寺中央劇場」。1970年・1972年の住宅地図では「中央映画館」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「もりの歯科クリニック」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線修善寺駅。
1972年の修善寺町にあった「中央劇場」の写真あり。『キングギドラ対ゴジラ』『ガメラ対深海怪獣ジグラ』『いなかっぺ大将』の東宝作品3本立てである。修善寺駅の近くにあった。大仁町にあった映画館が閉館すると、近隣では唯一の映画館となった。*178
所在地 : 静岡県田方郡土肥町(1943年)、静岡県田方郡土肥町311(1947年)、静岡県田方郡土肥町(1949年・1950年)、静岡県田方郡土肥町311(1953年・1955年・1958年・1960年)、静岡県田方郡土肥町土肥(1963年・1966年・1969年)、静岡県田方郡土肥町土肥311(1973年)、静岡県田方郡土肥町311(1976年)、静岡県田方郡土肥町土肥311(1980年・1981年)
開館年 : 1926年7月
閉館年 : 1981年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1926年7月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「土肥映画劇場」。1947年・1949年の映画館名簿では「土肥演芸館」。1950年の映画館名簿では「演芸館」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「土肥演芸館」。1970年・1973年のゼンリン住宅地図では「演芸館」。1973年・1980年・1981年の映画館名簿では「土肥劇場」。1981年のゼンリン住宅地図では「土肥劇場」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「スナック雅」。映画館の建物を転用していると思われる。
開館年 : 1926年7月
閉館年 : 1981年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1926年7月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「土肥映画劇場」。1947年・1949年の映画館名簿では「土肥演芸館」。1950年の映画館名簿では「演芸館」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「土肥演芸館」。1970年・1973年のゼンリン住宅地図では「演芸館」。1973年・1980年・1981年の映画館名簿では「土肥劇場」。1981年のゼンリン住宅地図では「土肥劇場」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「スナック雅」。映画館の建物を転用していると思われる。
所在地 : 静岡県田方郡伊豆長岡町古奈(1953年・1955年・1958年)、静岡県田方郡伊豆長岡町54(1960年)、静岡県田方郡伊豆長岡町古奈(1963年・1964年)
開館年 : 1912年2月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1912年2月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「菖蒲座」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のゼンリン住宅地図では発見できず。
吉田初三郎『伊豆霊湯長岡温泉名所図絵』大和宇平、1923年には「劇場」が描かれている。(※菖蒲座のことはどうかは不明)*179
1951年6月23日、伊豆長岡町立長岡小学校でナトコ映写機の技術講習会が開催された。ナトコ映写機やフィルムが学校に貸与され、小学校では映画教室の時間が設けられた。1948年から1953年にかけて、「あやめ座」・長岡小学校・江間小学校で上映された映画としては、『鐘の鳴る丘』、『風の子』、『村八分』、『ひげのある天使』、『せむしの子馬』、『トランペット少年』、『三太頑張れ』、『水島山の少年』、『にしん』、『あげはちょう』、『消えた子牛』、ウォルト・ディズニー最初の長編色彩漫画『白雪姫』などがある。*180
開館年 : 1912年2月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1912年2月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「菖蒲座」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のゼンリン住宅地図では発見できず。
吉田初三郎『伊豆霊湯長岡温泉名所図絵』大和宇平、1923年には「劇場」が描かれている。(※菖蒲座のことはどうかは不明)*179
1951年6月23日、伊豆長岡町立長岡小学校でナトコ映写機の技術講習会が開催された。ナトコ映写機やフィルムが学校に貸与され、小学校では映画教室の時間が設けられた。1948年から1953年にかけて、「あやめ座」・長岡小学校・江間小学校で上映された映画としては、『鐘の鳴る丘』、『風の子』、『村八分』、『ひげのある天使』、『せむしの子馬』、『トランペット少年』、『三太頑張れ』、『水島山の少年』、『にしん』、『あげはちょう』、『消えた子牛』、ウォルト・ディズニー最初の長編色彩漫画『白雪姫』などがある。*180
所在地 : 静岡県田方郡大仁町大仁281-1(1947年)、静岡県田方郡大仁町(1949年)、静岡県田方郡大仁町281(1950年)、静岡県田方郡大仁町大仁281(1952年・1953年・1954年・1955年・1958年)、静岡県田方郡大仁町(1960年)、静岡県田方郡大仁町大仁(1963年)、静岡県田方郡大仁町(1966年)
開館年 : 1926年1月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1926年1月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1949年・1950年の映画館名簿では「大仁座」。1952年の映画館名簿では「大仁劇場」。1953年の映画館名簿では「大仁座」と「大仁劇場」の双方が掲載されている。1954年・1955年・1956年の映画館名簿では「大仁座」。1956年の映画館名簿では経営者が新井作平、支配人が記載なし、木造2階、定員300、邦画を上映、電話が大仁5。1957年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「大仁劇場」。1957年の映画館名簿では経営者が新井作平、支配人が記載なし、木造2階、定員430、電話が大仁5。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1970年・1972年のゼンリン住宅地図では「大仁劇場」。跡地は1992年竣工のマンション「センシブル大仁」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線大仁駅。
開館年 : 1926年1月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1926年1月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1949年・1950年の映画館名簿では「大仁座」。1952年の映画館名簿では「大仁劇場」。1953年の映画館名簿では「大仁座」と「大仁劇場」の双方が掲載されている。1954年・1955年・1956年の映画館名簿では「大仁座」。1956年の映画館名簿では経営者が新井作平、支配人が記載なし、木造2階、定員300、邦画を上映、電話が大仁5。1957年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「大仁劇場」。1957年の映画館名簿では経営者が新井作平、支配人が記載なし、木造2階、定員430、電話が大仁5。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1970年・1972年のゼンリン住宅地図では「大仁劇場」。跡地は1992年竣工のマンション「センシブル大仁」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線大仁駅。
所在地 : 静岡県賀茂郡城東村白田320-12(1959年)、静岡県賀茂郡東伊豆町白田320-12(1960年)、静岡県賀茂郡東伊豆町白田(1963年・1964年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1964年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「白田劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1964年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「白田劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県賀茂郡城東村奈良本(1955年)、静岡県賀茂郡城東村872(1958年)、静岡県賀茂郡東伊豆町熱川(1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1951年10月
閉館年 : 1971年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年の映画館名簿では「熱川映画劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「熱川劇場」。1971年のゼンリン住宅地図では「熱川映画」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「NTT西日本熱川ビル」の120m南東の民家。最寄駅は伊豆急行線熱川駅。
開館年 : 1951年10月
閉館年 : 1971年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年の映画館名簿では「熱川映画劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「熱川劇場」。1971年のゼンリン住宅地図では「熱川映画」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「NTT西日本熱川ビル」の120m南東の民家。最寄駅は伊豆急行線熱川駅。
所在地 : 静岡県賀茂郡稲取町801(1959年)、静岡県賀茂郡東伊豆町稲取801(1960年)、静岡県賀茂郡東伊豆町稲取(1963年)、静岡県賀茂郡東伊豆町稲取801(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1953年
閉館年 : 1970年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「オリオン座」。1960年の映画館名簿では「稲取オリオン座」。1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「オリオン座」。1969年の映画館名簿では経営者・支配人ともに鈴木恒男、木造1階、定員156、東宝・洋画を上映。1971年の映画館名簿には掲載されていない。1971年の住宅地図では跡地に「鈴木常男」邸。映画館の建物は「静岡銀行稲取支店」北東110mに民家として現存。最寄駅は伊豆急行線伊豆稲取駅。
1953年には稲取の東町に「オリオン座」が開館し、「中央劇場」と2館体制が続いた。昭和30年代以降の映画は斜陽となり、まずオリオン座が閉館した。平成初期には中央劇場も姿を消した(※平成初期に営業終了したという意味なのか取り壊されたという意味なのかは不明)。*181
開館年 : 1953年
閉館年 : 1970年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「オリオン座」。1960年の映画館名簿では「稲取オリオン座」。1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「オリオン座」。1969年の映画館名簿では経営者・支配人ともに鈴木恒男、木造1階、定員156、東宝・洋画を上映。1971年の映画館名簿には掲載されていない。1971年の住宅地図では跡地に「鈴木常男」邸。映画館の建物は「静岡銀行稲取支店」北東110mに民家として現存。最寄駅は伊豆急行線伊豆稲取駅。
1953年には稲取の東町に「オリオン座」が開館し、「中央劇場」と2館体制が続いた。昭和30年代以降の映画は斜陽となり、まずオリオン座が閉館した。平成初期には中央劇場も姿を消した(※平成初期に営業終了したという意味なのか取り壊されたという意味なのかは不明)。*181
所在地 : 静岡県賀茂郡稲取町(1950年)、静岡県賀茂郡稲取町清水415(1953年)、静岡県賀茂郡稲取町415(1955年・1958年)、静岡県賀茂郡東伊豆町稲取415(1960年)、静岡県賀茂郡東伊豆町稲取(1963年)、静岡県賀茂郡東伊豆町稲取415(1966年・1969年・1973年・1976年・1977年)
開館年 : 1937年7月
閉館年 : 1978年
『全国映画館総覧 1955』によると1937年7月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「稲取中央劇場」。1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1966年・1969年・1976年・1977年の映画館名簿では「稲取中央劇場」。1969年の映画館名簿では経営者が中央興行、支配人が前田充、木造2階冷暖房付、335席、松竹・大映・東映・日活を上映。1971年のゼンリン住宅地図では「稲取中央劇場」。1973年の映画館名簿では経営会社が中央興行、経営者が前田貞次、支配人が前田充、木造2階、335席、松竹・東映・東宝・洋画を上映。1977年の映画館名簿では経営会社が中央興行、経営者・支配人が前田充、木造2階、335席、邦画・洋画を上映。1978年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東伊豆町いきいきセンター」から道路を挟んで北東の「中央プラザ」。最寄駅は伊豆急行線伊豆稲取駅。
東伊豆町の稲取地区には「オリオン劇場」と「中央劇場」、城東地区には「白田劇場」と「熱川劇場」があったが、昭和40年代初頭には「中央劇場」を除く3館が閉館した。*182
明治30年代、稲取の田町に「どんどろ」という芝居小屋が開館し、アメヤ芝居や浪花節の興行が行われた。大正中期には映画の上映も開始された。その後経営者が変わって下清水に移転し、戦後には映画常設館「中央劇場」となった。1931年には字向井に「稲取館」も開館し、中央劇場と稲取館の2館体制が続いたが、1943年には稲取館が閉館した。*183
1951年(※ただし映画ポスターは1952-53年)頃の賀茂郡稲取町にあった「中央劇場」の写真あり。『銭形平次捕物控 からくり屋敷』(1953年)や遠山金四郎シリーズの『飛びっちょ判官』(1952年)の写真あり。*184
1950年の賀茂郡稲取町にあった「稲取中央劇場」の写真あり。大正時代には喜遊座という芝居小屋だったが、やがて映画館に転換し、無声映画・天然色映画・シネスコープの時代を通じてにぎわった。稲取町唯一の娯楽施設だった。1978年に閉館すると中央プラザとなり、ヤオハンの衣料部がテナントに入っていた。ヤオハンが旧静岡県立稲取高校跡地に移転すると、2006年現在は福祉関係の事務所が一部を利用している。1950年の写真あり。*185
開館年 : 1937年7月
閉館年 : 1978年
『全国映画館総覧 1955』によると1937年7月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「稲取中央劇場」。1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1966年・1969年・1976年・1977年の映画館名簿では「稲取中央劇場」。1969年の映画館名簿では経営者が中央興行、支配人が前田充、木造2階冷暖房付、335席、松竹・大映・東映・日活を上映。1971年のゼンリン住宅地図では「稲取中央劇場」。1973年の映画館名簿では経営会社が中央興行、経営者が前田貞次、支配人が前田充、木造2階、335席、松竹・東映・東宝・洋画を上映。1977年の映画館名簿では経営会社が中央興行、経営者・支配人が前田充、木造2階、335席、邦画・洋画を上映。1978年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東伊豆町いきいきセンター」から道路を挟んで北東の「中央プラザ」。最寄駅は伊豆急行線伊豆稲取駅。
東伊豆町の稲取地区には「オリオン劇場」と「中央劇場」、城東地区には「白田劇場」と「熱川劇場」があったが、昭和40年代初頭には「中央劇場」を除く3館が閉館した。*182
明治30年代、稲取の田町に「どんどろ」という芝居小屋が開館し、アメヤ芝居や浪花節の興行が行われた。大正中期には映画の上映も開始された。その後経営者が変わって下清水に移転し、戦後には映画常設館「中央劇場」となった。1931年には字向井に「稲取館」も開館し、中央劇場と稲取館の2館体制が続いたが、1943年には稲取館が閉館した。*183
1951年(※ただし映画ポスターは1952-53年)頃の賀茂郡稲取町にあった「中央劇場」の写真あり。『銭形平次捕物控 からくり屋敷』(1953年)や遠山金四郎シリーズの『飛びっちょ判官』(1952年)の写真あり。*184
1950年の賀茂郡稲取町にあった「稲取中央劇場」の写真あり。大正時代には喜遊座という芝居小屋だったが、やがて映画館に転換し、無声映画・天然色映画・シネスコープの時代を通じてにぎわった。稲取町唯一の娯楽施設だった。1978年に閉館すると中央プラザとなり、ヤオハンの衣料部がテナントに入っていた。ヤオハンが旧静岡県立稲取高校跡地に移転すると、2006年現在は福祉関係の事務所が一部を利用している。1950年の写真あり。*185
所在地 : 静岡県賀茂郡下河津村峰579(1959年)、静岡県賀茂郡河津町峰579(1960年)、静岡県賀茂郡河津町峰(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「峰キネマ」。1971年の住宅地図では発見できず。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「峰キネマ」。1971年の住宅地図では発見できず。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県賀茂郡下河津村谷津(1953年)、静岡県賀茂郡下河津村1280(1955年・1958年)、静岡県賀茂郡河津町谷津(1960年・1963年・1969年・1970年)
開館年 : 1923年10月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1923年10月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「河津座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1970年の映画館名簿では「河津座」。1971年のゼンリン住宅地図では「河津座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「寺林プロパン商会」から道路を挟んで南東の向かい。
開館年 : 1923年10月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1923年10月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「河津座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1970年の映画館名簿では「河津座」。1971年のゼンリン住宅地図では「河津座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「寺林プロパン商会」から道路を挟んで南東の向かい。
所在地 : 静岡県賀茂郡上河津村湯ヶ野(1953年)、静岡県賀茂郡河津町湯ケ野192-1(1960年)、静岡県賀茂郡河津町湯ヶ野(1963年)、静岡県賀茂郡河津町湯ヶ野192-1(1966年)、静岡県賀茂郡河津町湯ケ野19-1(1969年・1970年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1953年の映画館名簿では「天城クラブ」。1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「天城クラブ」。1971年のゼンリン住宅地図では「天城クラブ」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「坪井魚店」の7軒南東。
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1953年の映画館名簿では「天城クラブ」。1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「天城クラブ」。1971年のゼンリン住宅地図では「天城クラブ」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「坪井魚店」の7軒南東。
所在地 : 静岡県賀茂郡南中村下賀茂(1956年)、静岡県賀茂郡南伊豆町下賀茂(1958年・1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「南中座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「南中座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県賀茂郡松崎町松崎319(1953年)、静岡県賀茂郡松崎町319(1955年)、静岡県賀茂郡松崎町390(1958年)、静岡県賀茂郡松崎町松崎390(1960年)、静岡県賀茂郡松崎町(1963年・1964年)
開館年 : 1950年8月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年8月開館。1953年の映画館名簿では「セントラル劇場」。1955年の映画館名簿では「松崎セントラル劇場」。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「セントラル劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1999年のゼンリン住宅地図では跡地に真野節美邸。現在の跡地は民家。
開館年 : 1950年8月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年8月開館。1953年の映画館名簿では「セントラル劇場」。1955年の映画館名簿では「松崎セントラル劇場」。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「セントラル劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1999年のゼンリン住宅地図では跡地に真野節美邸。現在の跡地は民家。
所在地 : 静岡県賀茂郡松崎町中(1953年)、静岡県賀茂郡松崎町松崎355(1955年・1958年・1960年)、静岡県賀茂郡松崎町(1963年)、静岡県賀茂郡松崎町355(1969年・1973年・1976年・1985年)、静岡県賀茂郡松崎町松崎355(1990年・1995年・1996年・1997年)
開館年 : 1950年4月
閉館年 : 1997年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年4月開館。1953年の映画館名簿では「松崎劇場」。1955年の映画館名簿では「松崎映画劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「松崎劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「松崎劇場」。1973年のゼンリン住宅地図では「松崎劇場」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。1981年のゼンリン住宅地図では跡地に「喫茶メルヘン」。1985年の映画館名簿では「松崎映画劇場」。1995年・1996年・1997年の映画館名簿では「松崎映劇」。1995年のゼンリン住宅地図では「松崎劇場 ファミリー焼肉大門」。1998年・2000年の映画館名簿には掲載されていない。1999年のゼンリン住宅地図では跡地に「2階 ファミリー焼肉大門」。現在の跡地は「ファミリー焼肉大門」。
2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
開館年 : 1950年4月
閉館年 : 1997年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年4月開館。1953年の映画館名簿では「松崎劇場」。1955年の映画館名簿では「松崎映画劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「松崎劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「松崎劇場」。1973年のゼンリン住宅地図では「松崎劇場」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。1981年のゼンリン住宅地図では跡地に「喫茶メルヘン」。1985年の映画館名簿では「松崎映画劇場」。1995年・1996年・1997年の映画館名簿では「松崎映劇」。1995年のゼンリン住宅地図では「松崎劇場 ファミリー焼肉大門」。1998年・2000年の映画館名簿には掲載されていない。1999年のゼンリン住宅地図では跡地に「2階 ファミリー焼肉大門」。現在の跡地は「ファミリー焼肉大門」。
2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
所在地 : 静岡県賀茂郡賀茂村安良里(1959年・1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1965年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「安良里劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1965年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「安良里劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県賀茂郡賀茂村宇久須312-1(1960年)、静岡県賀茂郡賀茂村宇久須(1963年・1966年・1967年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1967年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「宇久須劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1967年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「宇久須劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 静岡県賀茂郡田子村255-1(1953年)、静岡県賀茂郡田子村163(1955年)、静岡県賀茂郡西伊豆町田子255(1958年)、静岡県賀茂郡西伊豆町1155-1(1960年)、静岡県賀茂郡西伊豆町田子(1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年)、静岡県賀茂郡西伊豆町田子1155-1(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2011年)
開館年 : 1945年
閉館年 : 2011年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年8月開館。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「田子劇場」。1960年の映画館名簿では「田子映画劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2011年の映画館名簿では「田子劇場」。1966年の映画館名簿では経営者・支配人ともに真野鍛、木造1階、189席、邦画を上映。1973年の映画館名簿では経営者・支配人ともに真野昭元、木造1階、170席、邦画・洋画・成人映画を上映。1973年・1981年のゼンリン住宅地図では「田子劇場」。1980年の映画館名簿では経営者・支配人ともに真野昭元、鉄筋造2階、170席、邦画・洋画を上映。2010年の映画館名簿では経営会社が有限会社かしわや、経営者・支配人ともに真野昭元、鉄筋造2階、100席、邦画・洋画を上映。2012年の映画館名簿には掲載されていない。跡地に映画館時代の建物が現存。1階の「かしわや食堂」は営業中。
伊豆半島の中央部・南部唯一の映画館である田子劇場は、1999年現在でも営業を続けている。100席と小さな映画館であり、戦後すぐの1945年に開館した。当時は娯楽が乏しい時代であり、立ち見は当たり前、連日盛況だった。カツオ漁船に乗り組んでいた漁師は、漁から戻ると映画を観て一杯やるのが楽しみだった。2代目経営者の真野昭元(65歳)は、合わせて経営している飲食店の収入で食いつないでいる。アクション作品やアニメ作品は観客が多いが、文芸作品は観客が少ないという。*186
「田子劇場」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*187
2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
開館年 : 1945年
閉館年 : 2011年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年8月開館。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「田子劇場」。1960年の映画館名簿では「田子映画劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2011年の映画館名簿では「田子劇場」。1966年の映画館名簿では経営者・支配人ともに真野鍛、木造1階、189席、邦画を上映。1973年の映画館名簿では経営者・支配人ともに真野昭元、木造1階、170席、邦画・洋画・成人映画を上映。1973年・1981年のゼンリン住宅地図では「田子劇場」。1980年の映画館名簿では経営者・支配人ともに真野昭元、鉄筋造2階、170席、邦画・洋画を上映。2010年の映画館名簿では経営会社が有限会社かしわや、経営者・支配人ともに真野昭元、鉄筋造2階、100席、邦画・洋画を上映。2012年の映画館名簿には掲載されていない。跡地に映画館時代の建物が現存。1階の「かしわや食堂」は営業中。
伊豆半島の中央部・南部唯一の映画館である田子劇場は、1999年現在でも営業を続けている。100席と小さな映画館であり、戦後すぐの1945年に開館した。当時は娯楽が乏しい時代であり、立ち見は当たり前、連日盛況だった。カツオ漁船に乗り組んでいた漁師は、漁から戻ると映画を観て一杯やるのが楽しみだった。2代目経営者の真野昭元(65歳)は、合わせて経営している飲食店の収入で食いつないでいる。アクション作品やアニメ作品は観客が多いが、文芸作品は観客が少ないという。*186
「田子劇場」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*187
2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
このページへのコメント
島田みのる座について。
2010年最終公演の三遊亭遊喜さんの落語会、後援者のサイトに小さくチラシ画像があります。
https://ameblo.jp/kororo1999/entry-12341985655.html
同じく、最終公演の三遊亭遊喜さんにインタビューしている全国芝居小屋会議事務局のブログ記事トがあります。カンマーザールみのる座の正面からの写真有。
http://shibaigoya.blog103.fc2.com/blog-entry-40.html
貴重な情報をありがとうございます。
閉館前に一度訪れてみたかったです。
情報ありがとうございます
伊東市の郡部の情報です。
・相良劇場、テアトル(八幡野)は現在の
伊東市八幡野455という番地にありました。
さらにマルマンという劇場があり、両方とも使われていました。
住所は八幡野989−3でした。
私はマルマンの方が映画館ぽい趣があり、とても立派(古いが)で大好きでした。最近ジオラマを作りたいと思いたち古い資料を探しているところでこちらにたどり着きました。
コメントありがとうございます。一部をマップに反映させました。