日本の映画館の総合データベースです。



西尾市

西尾市の映画館
映画黄金期(昭和30年代)の名鉄西尾駅前には、わずか半径数百メートルの範囲内に3つの映画館があった。松栄館、西尾劇場、パール劇場である。1921年頃、西尾初の活動写真常設館として開館したのが松栄館。その後戦前には経営者が交代し、戦後の昭和20年代半ばには建物の増築が繰り返された。まちなかにはしばしば松栄館の巨大看板やPR部隊が出現した。戦前の西尾には、松栄館以外にも芝居小屋や演芸場があったが、その多くは火災のために閉館している。周囲に芝居小屋がなくなった1940年、岡崎市の竜城座を移築して西尾劇場が開館した。昭和初期に花ノ木耕地整理事業で生まれた西尾駅前の発展を促す使命もあったという。戦後には西尾劇場で映画が上映されるようになり、映画以外にも地域の文化施設としてさまざまに利用された。戦後には松栄館や西尾劇場が主に邦画の上映館として人気を博し、パール劇場は洋画専門館として新しい風を吹き込んだ。1955年に松栄館の経営者が開館させたのがパール劇場である。西尾劇場は2011年現在も営業しており、2008年には経済産業省の近代化産業遺産に認定されている。*1

1957年の商工年鑑には、映画館として「松栄館」、「港座」、「寺津劇場」、「西尾劇場」、「鶴城映画劇場」、「パール劇場」、「米津映画劇場」の7館が掲載されている。松栄館は、代表者が鵜飼清一、所在地が高砂町。港座は、代表者が斉藤信太郎、所在地が平坂町長堀。寺津劇場は、代表者が斉藤信太郎、所在地が巨海町森越。西尾劇場は、代表者が青山謙吉、所在地が桜木町。鶴城映画劇場は、代表者が斉藤信太郎、所在地が菅原町。パール劇場は、代表者が鵜飼清一、所在地が花ノ木町4丁目。米津映画劇場は、代表者が樋口春吉、所在地が米津町宮前。*2

1964年の商工年鑑には、映画館として「松栄館」、「港座」、「寺津劇場」、「西尾東映」、「鶴城映劇」、「パール劇場」、「米津映画劇場」の7館が掲載されている。松栄館は、代表者が鵜飼清一、所在地が高砂町26。港座は、代表者が沢松甚松、所在地が平坂町長堀41。寺津劇場は、代表者が天野利一、所在地が巨海町森越49。西尾東映は、代表者が青山美代子、所在地が桜木町4-15。鶴城映劇は、代表者が斉藤信太郎、所在地が菅原町60。パール劇場は、代表者が鵜飼清一、所在地が花ノ木町4-43。米津映画劇場は、代表者が樋口春吉、所在地が米津町連台6-1。*3

1974年の商工年鑑には、映画館として「松栄館」、「西尾劇場」、「(資)三河興行社」、「パール劇場」の4館が掲載されている。松栄館は、代表者が鵜飼勝、所在地が高砂町26。西尾劇場は、代表者が青山茂樹、所在地が花ノ木町4-15。(資)三河興行社は、代表者が斉藤信太郎、所在地が菅原町141。パール劇場は、代表者が鵜飼清一、所在地が花ノ木町4-43。*4

1981年の商工年鑑には、映画館として「鶴城映劇」、「西尾劇場」、「株式会社パール劇場」の3館が掲載されている。鶴城映劇は、代表者が斎藤満、所在地が菅原町60。西尾劇場は、代表者が青山茂樹、所在地が花ノ木町4-15。パール劇場は、代表者が鵜飼晃、所在地が花ノ木町4-43。*5

1981年1月6日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「パール劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『古都』を上映しており、西尾劇場では『サーキットの狼』と『ヤマトよ永遠に』を上映しており、パール劇場では『レイズ・ザ・タイタニック』と『あゝツッパリ人生』を上映しており、鶴城映劇では『女高生転落』と『変態花嫁犯し』を上映している。*61981年12月27日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「パール劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『グランドラック・ラブ』と『すっかりその気で』を上映しており、西尾劇場では『燃える勇者』と『セーラー服と機関銃』を上映しており、パール劇場では『キャノンボール』と『エンドレス・ラブ』を上映しており、鶴城映劇では『痴漢常習者』と『日本の私刑』を上映している。*7

1983年1月7日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「パール劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『三等高校生』と『ジェミニ YとS』を上映しており、西尾劇場では『汚れた英雄』と『伊賀忍法帖』を上映しており、パール劇場では『少林寺』と『ゾロ』を上映しており、鶴城映劇では『聖子の太股』と『ピンクのカーテン2』と『あんねの子守歌』を上映している。*81983年12月27日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「パール劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『積木くずし』と『夜明けのランナー』を上映しており、西尾劇場では『ドラゴン特攻隊』と『唐獅子株式会社』を上映しており、パール劇場では『007 ネバーセイ・ネバーアゲイン』と『グレートハンティング』を上映しており、鶴城映劇では『少女縄人形』と『痴漢 ほとんど病気』と『恥部を抉る』を上映している。*9

1985年1月6日の『愛三時報』映画案内には「松栄館」と「鶴映」が掲載されている。松栄館では『ゴジラ』を上映しており、鶴城映劇では『ロリータONANIE』と『オナニー塾』と『香港 ザ本番』を上映している。*101985年6月30日の『愛三時報』映画案内には「松栄館」と「鶴映」が掲載されている。松栄館では『お葬式』を上映しており、鶴城映劇では『USA痴漢金髪電車』と『痴漢チンチン電車』と『痴漢のぞき電車』を上映している。*111985年12月27日の『愛三時報』映画案内には「松栄館」と「鶴映」が掲載されている。松栄館では『雪の断章・情熱』と『姉妹坂』を上映しており、鶴城映劇では『団地妻ダブルオナニー』と『潮吹きギャル順子』を上映している。*12

1985年3月31日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『ドラえもん』と『ハットリくん』を上映しており、西尾劇場では『キン肉マン』と『チェンジマン』を上映しており、鶴城映劇では『団地妻性愛白書』と『侵された7人の若妻』と『主婦と性生活』を上映している。*131985年9月29日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では早見優主演の『キッズ』とジャッキー・チェン主演の『ファースト・ミッション』を上映しており、西尾劇場では『大福星』と『テラ戦士BOY』を上映しており、鶴城映劇では『小松みどりの好きぼくろ』と『西川瀬里奈 覗き部屋』と『痴漢と離婚妻』を上映している。*14

1987年1月8日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『恋する女たち』と『タッチ2』を上映しており、西尾劇場では『ゲゲゲの鬼太郎』と『キン肉マン』と『ドラゴンボール』を上映しており、鶴城映劇では『ザ・オナニー 快楽篇』を上映している。*151987年12月26日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『さよならの女たち』と『私をスキーに連れてって』を上映しており、西尾劇場では『ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎狂騒曲』と『はいからさんが通る』を上映しており、鶴城映劇では『スチュワデス・エロ』と『トレイシー・ローズの禁身交愛』と『代々木忠のいんらん夫婦』を上映している。*16

1989年1月4日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『光GENJI これから物語 〜少年たちのブルース〜』と『ふ・し・ぎ・なBABY』を上映しており、西尾劇場では『恋子の毎日』と『ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎音頭』を上映しており、鶴城映劇では『ギャルを襲う』と『ロリータ監禁飼育』と『前原祐子の変態』を上映している。*171989年12月27日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『ゴジラvsビオランテ』と『君は僕をスキになる』を上映しており、鶴城映劇では『のぞかれたONANIE』と『オナニー・乱れ三姉妹』と『獣』を上映している。*18

1991年6月13日の『愛三時報』映画上映案内には「西尾松栄館」と「西尾鶴映」が掲載されている。松栄館では『ニキータ』と『ミザリー』を上映しており、鶴城映劇では『愛染恭子 本番快楽ツアー』と『ザッツ・変態ティメント』と『秘戯の手ほどき』を上映している。*19 1991年6月22日の『愛三時報』映画上映案内には「西尾鶴映」のみが掲載されており、『痴漢電車』を上映している。*20

1991年7月7日の『愛三時報』映画上映案内には「西尾鶴映」のみが掲載されており、『令嬢レズ学園』と『未亡人変態地獄』と『いんらん美姉妹義兄あさり』を上映している。*21 1991年7月9日の『三河新報』には「松栄館」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『ニキータ』と『ミザリー』を上映しており、鶴城映劇では『令嬢レズ学園』と『未亡人変態地獄』と『いんらん美姉妹義兄あさり』を上映している。*22
西尾座/西尾劇場(芝居小屋)
所在地 : 愛知県幡豆郡西尾町吾妻町
開館年 : 1919年
閉館年 : 昭和初期
1940年に西尾駅前に開館した映画館の西尾劇場(西尾東映)とは異なる。

1930年の『大日本職業別明細図』には、西尾町に「劇場」(西尾劇場)と「鶴城座」、横須賀町に「本明座」、吉田町に「吉田座」(名鉄西尾線より西)、一色町に「朝日座」と「朝日館」が描かれている。※戦後の吉田座は矢崎川より東。名鉄西尾線より西にある図中の吉田座の位置が正確かどうかは不明。※実際の「朝日座」が図中の「朝日館」であり、図中の「朝日座」はどの劇場を指すのか不明。*23

1931年の『大日本職業別明細図 第227号』には、西尾町に「西尾劇場」と「松栄館」と「鶴城座」が、横須賀町に「本明座」が、一色町に「朝日座」が、描かれている。*24

1907年頃の西尾町本町にあった「西尾座」の写真あり。1904年3月に開業した西尾町初の常設芝居小屋である。康全寺の前にあった向春軒の東側にあった。1919年頃に火災で焼失した。*25

西尾町本町にあった西尾座が焼失した後、1920年12月、西尾町吾妻町に芝居小屋「西尾劇場」が建設された。西尾劇場株式会社。昭和初期に火災で焼失し、株式会社も解散した。*26

本町の向春軒の隣にあった西尾座は、西尾市域初の常設芝居小屋だったが、1919年頃に火災で焼失した。吾妻町に劇場が新築され、西尾座から西尾劇場に改称されたが、昭和初期に焼失したことで西尾劇場株式会社は解散した。現在の「吾妻町」交差点から三間通りを北に入った辺りにあった。現在は普通の商店街であり、ただ間口が商店6軒くらいはあったという話だけが、当時の建物の大きさを想像させるのみである。後に花ノ木町に建てられた西尾劇場(現在の西尾東映)は吾妻町の西尾劇場とは別物である。かつて西尾座と双璧をなしていた鶴城座の中村謙作社長を代表者として、1940年に創立されている。
鶴城座
所在地 : 愛知県幡豆郡西尾町
開館年 : 1921年3月
閉館年 : 1945年以前
『詩人茨木のり子とふるさと西尾』には、1928年頃の地図を基にした茨木のり子の少女時代の西尾市街地の地図が掲載されている。茨木のり子は1932年から1942年頃まで西尾で過ごした。「松栄館」、「西尾劇場」、「鶴城座」、「成美館」が描かれている。これによると鶴城座は善福寺の北東130m、西尾市大給町97の筬倉製作所付近にあった。*27

1930年の『大日本職業別明細図』には、西尾町に「劇場」(西尾劇場)と「鶴城座」、横須賀町に「本明座」、吉田町に「吉田座」(名鉄西尾線より西)、一色町に「朝日座」と「朝日館」が描かれている。※戦後の吉田座は矢崎川より東。名鉄西尾線より西にある図中の吉田座の位置が正確かどうかは不明。※実際の「朝日座」が図中の「朝日館」であり、図中の「朝日座」はどの劇場を指すのか不明。*28

1931年の『大日本職業別明細図 第227号』には、西尾町に「西尾劇場」と「松栄館」と「鶴城座」が、横須賀町に「本明座」が、一色町に「朝日座」が、描かれている。*29

西尾町にあった「鶴城座」の写真あり。株式会社鶴城座。大給町の旧松木屋の向かいにあった。西尾座と同時期に株式会社歌舞伎座が創立し、1921年3月に改築して鶴城座に改称した。西尾座から改称した西尾劇場と並ぶほど立派な芝居小屋・演芸場だったが、戦前に火災で焼失した。*30
吉田座
所在地 : 愛知県幡豆郡吉田町富好(1955年)、愛知県幡豆郡吉良町富好(1956年・1958年・1960年)
開館年 : 1934年9月
閉館年 : 1960年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1934年9月設立。1955年・1956年・1957年・1958年・1959年・1960年の映画館名簿では「吉田座」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳には掲載されていないと思われる。1972年の住宅地図では跡地に「ローラースケート場」。1988年の住宅地図では跡地に「ソーコ」。跡地は矢崎川に架かる吉田橋の140m北東の民家。最寄駅は名鉄西尾線・蒲郡線吉良吉田駅。

1930年の『大日本職業別明細図』には、西尾町に「劇場」(西尾劇場)と「鶴城座」、横須賀町に「本明座」、吉田町に「吉田座」(名鉄西尾線より西)、一色町に「朝日座」と「朝日館」が描かれている。※戦後の吉田座は矢崎川より東。名鉄西尾線より西にある図中の吉田座の位置が正確かどうかは不明。※実際の「朝日座」が図中の「朝日館」であり、図中の「朝日座」はどの劇場を指すのか不明。*31

『詩人茨木のり子とふるさと西尾 増補版』には、1956年測量の吉良町都市計画図に基づく地図「宮崎医院のある吉田のまち」が掲載されており、「吉田座」が描かれている。*32

1953年の「吉田町鳥観図」には矢崎川より東に「吉田座」が描かれている。*33
横映劇場/本明座
所在地 : 愛知県幡豆郡横須賀村(1953年)、愛知県幡豆郡横須賀村上横須賀(1955年)、愛知県幡豆郡吉良町上横須賀(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1924年以前
閉館年 : 1963年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「本明座」。1955年の映画館名簿では「横映劇場」。1956年・1957年・1958年・1959年の映画館名簿では「本明座」。1960年の映画館名簿では「横映劇場」。1961年・1962年・1963年の映画館名簿では「本明座」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「横映劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1972年の住宅地図では「横映劇場」。1988年の住宅地図では跡地に空白。1988年の住宅地図では跡地に農地。跡地は「福泉寺」北80mの民家敷地。最寄駅は名鉄西尾線上横須賀駅。

1924年の「愛知県幡豆郡横須賀村図」には「本明座」が描かれている。*34

1930年の『大日本職業別明細図』には、西尾町に「劇場」(西尾劇場)と「鶴城座」、横須賀町に「本明座」、吉田町に「吉田座」(名鉄西尾線より西)、一色町に「朝日座」と「朝日館」が描かれている。※戦後の吉田座は矢崎川より東。名鉄西尾線より西にある図中の吉田座の位置が正確かどうかは不明。※実際の「朝日座」が図中の「朝日館」であり、図中の「朝日座」はどの劇場を指すのか不明。*35

1931年の『大日本職業別明細図 第227号』には、西尾町に「西尾劇場」と「松栄館」と「鶴城座」が、横須賀町に「本明座」が、一色町に「朝日座」が、描かれている。*36

『人生劇場』などで知られる小説家の尾崎士郎は幡豆郡吉良町出身である。1954年公開の映画『人生劇場 望郷篇 三州吉良港』は横映劇場で公開されている。*37
米津映画劇場
所在地 : 愛知県西尾市米津町蓮台6-1(1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1964年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「米津映画劇場」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに樋口春吉、木造1階暖房付、定員192、邦画を上映。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「米津映劇」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1969年のアイゼン住宅地図では「劇場跡」とあり北向かいに「杉浦医院」があった。1971年のゼンリン住宅地図では跡地に「鈴木新六」邸があり北向かいに「杉浦医院」があった。跡地は米津駅西交差点南西にある「MH&MT研究室」。最寄駅は名鉄西尾線米津駅。
寺津劇場
所在地 : 愛知県西尾市寺津町巨海(1955年・1958年)、愛知県西尾市寺津町巨海森越(1960年)、愛知県西尾市寺津町巨海(1963年)
開館年 : 1950年2月
閉館年 : 1964年
『全国映画館総覧 1955』によると1950年2月設立。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「寺津劇場」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「寺津劇場」。1964年の映画館名簿では経営者が斎藤信太郎、支配人が斎藤満、木造1階、定員350、邦画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1969年のアイゼン住宅地図では跡地に「アイサン工業倉庫」。1971年・1983年のゼンリン住宅地図では跡地に「アイサン工業倉庫」。1988年の住宅地図では跡地に「アイサン工業ソーコ」。1995年の住宅地図では跡地に空白。国道247号の「巨海北」交差点から東に100m。跡地は「コスモハイツ森越」の南側の民家。鉄道があった当時の最寄駅は名鉄三河線寺津駅。

幡豆郡巨海村佐円に「大正座」が開館した。演劇と映画の興行を行い、演劇が中心だった。入場料は大人20銭・子供10銭だった。大正座は1945年の三河地震で倒壊した。1950年には大正座が「寺津劇場」として再建された。1955年には寺津劇場が主催して、NHKアナウンサーの宮田輝が司会を務めた「三つの歌」が催された。*38

1950年から1964年まで寺津町には「寺津劇場」があった。地域の有力者が協力し、50-60人が出資して開館した。出資者は札が配られ、無料で映画を鑑賞できた。婦人会や青年団などの集会場としても使用され、会の後には映画の上映が行われた。火曜日には事前に上映作品がわからない3本立の「覆面番組」が行われた。劇場の中央部は椅子席であり、両側は座敷だった。*39
みかわ映画劇場
所在地 : 愛知県幡豆郡一色町前野54(1964年)
開館年 : 1963年頃
閉館年 : 1964年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の映画館名簿では「みかわ映画劇場」。1964年の映画館名簿では経営者が河尻弘一、支配人が山本龍男、鉄筋造1階冷暖房付、定員350。1965年の映画館名簿には掲載されていない。名鉄三河線三河一色駅跡地に近い一色タクシー株式会社の所在地は一色町前野荒子53だが関連は不明。
朝日座
所在地 : 愛知県幡豆郡一色町(1949年・1950年・1953年)、愛知県幡豆郡一色町亥新田(1955年)、愛知県幡豆郡一色町一色字亥新田(1958年)、愛知県幡豆郡一色町237(1960年)、愛知県幡豆郡一色町一色字亥新田(1963年)、愛知県幡豆郡一色町一色(1964年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年・1934年・1936年・1943年・1946年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年の映画館名簿では「三河一色朝日座」。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「朝日座」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「朝日座」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1972年の住宅地図では跡地に「倉庫」。1976年の住宅地図では跡地に「日本コーンスターチ」。1988年の住宅地図では跡地に「倉庫」。1988年の住宅地図では跡地に空白。跡地は一色排水路に架かる大宝橋の東80mの空き地。鉄道があった頃の最寄駅は名鉄三河線西一色駅。

1930年の『大日本職業別明細図』には、西尾町に「劇場」(西尾劇場)と「鶴城座」、横須賀町に「本明座」、吉田町に「吉田座」(名鉄西尾線より西)、一色町に「朝日座」と「朝日館」が描かれている。※戦後の吉田座は矢崎川より東。名鉄西尾線より西にある図中の吉田座の位置が正確かどうかは不明。※実際の「朝日座」が図中の「朝日館」であり、図中の「朝日座」はどの劇場を指すのか不明。*40

1931年の『大日本職業別明細図 第227号』には、西尾町に「西尾劇場」と「松栄館」と「鶴城座」が、横須賀町に「本明座」が、一色町に「朝日座」が、描かれている。*41

1952年の「一色町案内図」には「一色映」と「朝日」が描かれている。*42

1952年の『一色町勢要覧 昭和27年版』には劇場として「朝日座」と「一色映画劇場」の2館が掲載されている。朝日座は「所在地:一色字亥新田、代表者:高須正義、内容:邦画・洋画、定員300人、従業員5人」。一色映画劇場は「所在地:一色字乾地、代表者:田口音松、内容:東宝・新東宝・松竹、定員200人、従業員3人」。*43

1955年の『一色町勢要覧 昭和30年版』には劇場として「朝日座」と「一色映画劇場」の2館が掲載されている。朝日座は「所在地:東新町、代表者:森得一、内容:演劇・映画、定員300人」。一色映画劇場は「所在地:上栄町、代表者:田口音松、内容:映画、定員200人」*44

『人生劇場』などで知られる小説家の尾崎士郎は幡豆郡吉良町出身である。1954年公開の映画『人生劇場 望郷篇 三州吉良港』は一色朝日座で公開されている。*45

戦前・戦後を通じて、幡豆郡一色町の町民に娯楽の殿堂として親しまれた朝日座。1962年頃の写真あり。取り壊されて今はない。*46

戦前・戦後を通じて、幡豆郡一色町の町民に娯楽の殿堂として親しまれた朝日座。1962年8月の写真あり。1983年現在は建物が取り壊されて空き地となっている。*47

「朝日座」の写真あり。1960年10月28日には一色町商工会創立総会が一色町朝日座で開催された。1961年5月31日の第1回通常総会、1962年5月26日の第2回通常総会、1963年5月29日の第3回通常総会、1964年5月25日の第4回通常総会、1965年5月25日の第5回通常総会も一色町朝日座で開催されている。1966年5月23日の第6回通常総会からは一色中部公民館で開催されている。それぞれの年に459人から593人の出席者があった。*48

1962年の「朝日座」の写真あり。戦前・戦後と一色町民に親しまれた。*49
港座/平坂港座
所在地 : 愛知県幡豆郡平坂町(1949年・1950年・1953年)、愛知県西尾市平坂町平坂(1954年・1955年)、愛知県西尾市平坂町長堀41(1960年・1963年・1966年・1968年)
開館年 : 1940年10月
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1940年10月設立。1936年・1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年の映画館名簿では「港座」。1950年の映画館名簿では「平坂港座」。1953年・1954年の映画館名簿では「港座」。1955年の映画館名簿では「平坂港座」。1960年・1963年の映画館名簿では「港座」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「港座」。1966年・1968年の映画館名簿では「平坂港座」。1969年のアイゼン住宅地図では「港座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1971年のゼンリン住宅地図では「港座」。1983年の住宅地図では跡地に駐車場。1988年の住宅地図では跡地に空白。1995年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「西尾信用金庫平坂支店」の西向かいの「心月ホール」駐車場。鉄道があった当時の最寄駅は名鉄三河線平坂駅。

西尾市の合資会社澤村は戦前から多角経営を展開し、映画館として平坂町に「港座」を運営した。港座は現在の西尾心月ホールの基盤になっている。港座は平坂町にあった唯一の映画館であり、様々な配給会社の作品を上映した。火曜日のサービスデーには2本立ての映画を20円で上映した。当時は娯楽が少なかったため、ホールに入りきれないほどの観客でにぎわった時期もある。*50

平坂町大字平坂字長堀の劇場「港座」。代表者は澤村芳松。電話は111。*51
一色映画劇場
所在地 : 愛知県幡豆郡一色町上栄町5(1955年)、愛知県幡豆郡一色町字栄町5(1958年)、愛知県幡豆郡一色町字乾地(1960年)、愛知県幡豆郡一色町栄町5(1963年・1964年)、愛知県幡豆郡一色町大字一色上栄町(1963年)
開館年 : 1950年7月
閉館年 : 1968年10月
『全国映画館総覧 1955』によると1950年7月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「一色映画劇場」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「一映」。1966年の映画館名簿では「幡豆一色映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1972年の住宅地図では跡地に「大成石油」。1976年の住宅地図では跡地に「エッソ大成石油支店」。1981年の住宅地図では跡地に「大成石油」。1988年の住宅地図では跡地に「エッソ石油 大成石油」。鉄道があった当時の最寄駅は名鉄三河線三河一色駅。

1952年の「一色町案内図」には「一色映」と「朝日」が描かれている。*52

1952年の『一色町勢要覧 昭和27年版』には劇場として「朝日座」と「一色映画劇場」の2館が掲載されている。朝日座は「所在地:一色字亥新田、代表者:高須正義、内容:邦画・洋画、定員300人、従業員5人」。一色映画劇場は「所在地:一色字乾地、代表者:田口音松、内容:東宝・新東宝・松竹、定員200人、従業員3人」。*53

1955年の『一色町勢要覧 昭和30年版』には劇場として「朝日座」と「一色映画劇場」の2館が掲載されている。朝日座は「所在地:東新町、代表者:森得一、内容:演劇・映画、定員300人」。一色映画劇場は「所在地:上栄町、代表者:田口音松、内容:映画、定員200人」*54

1968年10月、「一色映画劇場」が営業を終了した。*55

1957年頃の「一色映画劇場」の写真あり。一色映画劇場は「一映」として親しまれた。1983年現在の跡地ではガソリンスタンドが営業している。*56

一色映画劇場と一色映画館が同一かは定かでないが、1964年6月28日の新規卒業就職者激励大会、1966年5月15日の新規卒業就職者激励大会、1967年5月7日の新規卒業就職者激励大会は一色町映画館で開催されている。1968年の新規卒業就職者激励大会は勤労青少年ホーム集会室で開催されている。*57
大正座/幡豆映画劇場
所在地 : 愛知県幡豆郡幡豆町(1953年)、愛知県幡豆郡幡豆町南岡割59(1954年・1955年)、愛知県幡豆郡幡豆町(1958年)、愛知県幡豆郡幡豆町西幡豆(1960年)、愛知県幡豆郡幡豆町(1963年)、愛知県幡豆郡幡豆町西幡豆(1966年・1969年)
開館年 : 1914年3月21日
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1916年4月設立。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「大正座」。1954年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「幡豆映画劇場」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「幡豆映画」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。1972年の住宅地図では「映劇(牧野忠雄)」。1988年の住宅地図では跡地に「牧野忠雄」邸。1988年の住宅地図では跡地に「牧野駐車場」。跡地は「祐正寺」北西60mにある駐車場。最寄駅は名鉄蒲郡線西幡豆駅。

大正初期、牧野重蔵と息子の牧野重松は、仮小屋を移築して客席に天幕を張って営業した。警察から指導があったため1913年11月には常設小屋の建設に着工し、1914年3月21日に落成した。大正座では演劇の公演や映画の上映などが行われた。1958年現在の牧野忠雄は牧野重蔵の孫、牧野重松の息子である。*58
パール劇場/西尾パール劇場
所在地 : 愛知県西尾市花ノ木町4-43(1957年・1958年)、愛知県西尾市高砂町26※明白な誤り(1960年)、愛知県西尾市花ノ木町4-43(1963年)、愛知県西尾市花ノ木町4(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年)、愛知県西尾市花ノ木町4-43(1984年・1985年)
開館年 : 1955年(営業開始)、1957年(建て替え)
閉館年 : 1984年11月下旬?
1955年・1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「パール劇場」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「パール劇場」。1969年のアイゼン住宅地図では「パール劇場」。1970年のゼンリン住宅地図では「パール劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「西尾パール劇場」。1976年の航空住宅地図帳では「パール劇場」。1983年の住宅地図では「パール劇場」。1986年・1990年の映画館名簿には掲載されていない。1988年・1995年の住宅地図では跡地に空白。2009年の住宅地図では跡地に道路。跡地は「西尾コンベンションホール」南西の道路用地。最寄駅は名鉄西尾線西尾駅。

1957年頃の西尾市花ノ木町にあった新築当初の「パール劇場」の写真あり。1955年に開館した当時のパール劇場はかたの倉庫を利用していた。1957年から数年後、上映場の手前にロビーと受付ができる。西尾駅前の再整備にともなって、パール劇場があった場所は道路となっている。運営は松栄館と同じ松栄館。*59

1965年頃の西尾駅前を上空から撮った写真あり。左下には「西尾劇場」、右下には「パール劇場」がある。*60

1976年頃の西尾市花ノ木町にあった洋画専門館「パール劇場」の写真あり。1955年に倉庫を改造して開館した。西尾駅前整備事業のために1986年に閉館した。*61

1984年11月27日の『三河新報』の「映画案内」にはパール劇場が掲載されており、『瀬戸内少年野球団』と『ナチュラル』を上映している。1984年11月29日の『三河新報』の「映画案内」にはパール劇場が掲載されておらず、以後もパール劇場の上映作品案内はない。なお、1984年11月から12月にかけての『三河新報』を確認したが、パール劇場の閉館に関する記事は発見できなかった。
西尾松栄館/松栄館
所在地 : 愛知県幡豆郡西尾町(1927年・1930年)、愛知県幡豆郡西尾町楽天地(1936年)、愛知県幡豆郡西尾町(1943年)、愛知県幡豆郡西尾町楽天地(1946年)、愛知県幡豆郡西尾町(1947年・1949年)、愛知県幡豆郡西尾町高砂(1950年)、愛知県幡豆郡西尾町(1953年)、愛知県幡豆郡西尾町高砂26(1954年)、愛知県西尾市高砂26(1955年・1958年)、愛知県西尾市高砂町26(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1926年10月
閉館年 : 1991年7月上旬?
『全国映画館総覧 1955』によると1926年10月設立。1927年・1930年・1936年・1943年・1946年・1947年・1949年・1950年の映画館名簿では「松栄館」。1953年の映画館名簿では「松栄座」。1954年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「松栄館」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「松栄館」。1966年の映画館名簿では「西尾松栄館」。1969年のアイゼン住宅地図では跡地は「松栄館」。1969年・1973年・1976年・1985年・1990年・1991年の映画館名簿では「松栄館」。1971年のゼンリン住宅地図では「松栄館」。1976年の航空住宅地図帳では「映画 松栄館」。1983年の住宅地図では「松栄館(映画館)」。1988年の住宅地図では「松栄館映画館」。1992年・1995年の映画館名簿には掲載されていない。1995年の住宅地図では跡地に駐車場。2009年の住宅地図では跡地に空白。運営は西尾パール劇場と同じ松栄館。跡地は「日御碕龍神社」東の公園「龍神ひろば」。最寄駅は名鉄西尾線西尾駅。

1928年の西尾町高砂町にあった「松栄館」の写真あり。「松竹キネマ映画」「マキノキネマ映画」の文字が見える。1921年頃に西尾初の映画館として開館した。*62

1930年の『大日本職業別明細図』には、西尾町に「劇場」(西尾劇場)と「鶴城座」、横須賀町に「本明座」、吉田町に「吉田座」(名鉄西尾線より西)、一色町に「朝日座」と「朝日館」が描かれている。※戦後の吉田座は矢崎川より東。名鉄西尾線より西にある図中の吉田座の位置が正確かどうかは不明。※実際の「朝日座」が図中の「朝日館」であり、図中の「朝日座」はどの劇場を指すのか不明。*63

1931年の『大日本職業別明細図 第227号』には、西尾町に「西尾劇場」と「松栄館」と「鶴城座」が、横須賀町に「本明座」が、一色町に「朝日座」が、描かれている。*64

1930年代の吉田初三郎『三河西尾町』西尾町役場には「西尾劇場」「松栄館」が描かれている。*65

『詩人茨木のり子とふるさと西尾』には、1928年頃の地図を基にした茨木のり子の少女時代の西尾市街地の地図が掲載されている。茨木のり子は1932年から1942年頃まで西尾で過ごした。「松栄館」、「西尾劇場」、「鶴城座」、「成美館」が描かれている。*66

詩人の茨木のり子は幼少期に西尾に居住しており、1937年4月17日の日記には「今日は弟とねえやと一つしょに松栄館に親道をみに行きました。おもしろかったです」と書いている。「親道」は原文ママ。1936年の田中絹代主演作『新道』のことか。*67

1921年頃、洋行帰りの神谷久治郎によって西尾町初の活動常設館「松栄館」が開館した。松竹キネマ専属館だった。*68

1952年頃の西尾市高砂町にあった「松栄館」アーチの写真あり。「SHOEI」の文字が見える。通りの入口にあり、映画看板が掛けられていた。*69

1953年の西尾市高砂町にあった「松栄館」の写真あり。中央通りから劇場前に差しかかる場所には看板アーチがあり、劇場の前には石畳が敷かれていた。大看板には、長谷川一夫の『獅子の座』と花菱アチャコの『あっぱれ五人男』が見える。道を隔てた場所に、「竜神さん」こと日御碕龍神社ができる前である。*70

1957年の西尾市吾妻町。「松栄館」の関係者たちが、赤穂浪士に扮して宣伝隊として練り歩いて映画をPRしている写真あり。*71

1959年の西尾市高砂町にあった「松栄館」前の写真あり。『人間の条件』ののぼりや『燃えろ聖火』の看板が見える。*72

1961年の西尾市高砂町にあった「松栄館」の写真あり。松栄館の前には趣向を凝らした看板や模型がしばしば登場した。『用心棒』の三船敏郎の巨大看板が見える。*73

1962年の西尾市高砂町にあった「松栄館」の写真あり。三船敏郎主演作『椿三十郎』の看板が見える。1921年頃に西尾初の活動写真館として開館した。しばしば大型看板や模型が登場した。1991年に閉館し、2021年現在の跡地は龍神ひろばとなっている。*74

1964年の西尾市高砂町にあった「松栄館」の写真あり。キングギドラが初登場した『三大怪獣 地球最大の決戦』の看板。*75

1969年の西尾市高砂町にあった「松栄館」の写真あり。森田健作主演の『夕陽の恋人』の看板が見える。この日は上映後に森田の舞台挨拶とサイン会が開催された。*76

1972年頃の西尾市高砂町にあった「松栄館」の写真あり。吉良町出身の尾崎士郎原作の『人生劇場 青春・愛欲・残侠編』の看板あり。*77

1973年の西尾市高砂町にあった竜神通りの写真あり。十字路の左奥は日御碕龍神社(白竜さん)であり、右奥は映画館「松栄館」だった。かつては映画館や電気館などが並び、現在は居酒屋や小料理店などが並ぶ通りである。*78

1991年7月7日の『三河新報』の「映画案内」には松栄館が掲載されており、『ニキータ』と『ミザリー』を上映している。1991年7月9日の『三河新報』の「映画案内」には松栄館が掲載されておらず、以後も松栄館の上映作品案内はない。なお、1991年6月から7月にかけての『三河新報』を確認したが、松栄館の閉館に関する記事は発見できなかった。
西尾東映/西尾劇場/西尾東映劇場
所在地 : 愛知県幡豆郡西尾町(1953年)、愛知県西尾市花ノ木4(1955年)、愛知県西尾市花ノ木町4-15(1958年)、愛知県西尾市花ノ木4(1960年)、愛知県西尾市花ノ木町4-15(1963年)、愛知県西尾市花ノ木町4(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年)、愛知県西尾市花ノ木町4-15(1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2014年)
開館年 : 1940年
閉館年 : 2013年
Wikipedia : 西尾劇場
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「西尾劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「西尾東映」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「西尾東映」。1969年のアイゼン住宅地図では「西尾東映」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「西尾劇場」。1971年のゼンリン住宅地図では「西尾東映」。1976年の航空住宅地図帳では「西尾劇場」。1983年の住宅地図では「西尾東映」。1988年・1995年・2009年の住宅地図では「西尾劇場」。1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2014年の映画館名簿では「西尾東映劇場」。2015年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「auショップ西尾駅前」西側の有料駐車場「Dパーキング西尾駅前PS第1。最寄駅は名鉄西尾線西尾駅。

西尾市にある「西尾劇場」の写真あり。館内に駄菓子屋があるのが特徴。西尾市では『映画館の雑誌』というミニコミが発行されている。*79

西尾町花ノ木に建設中の「西尾劇場」の写真あり。杜氏は劇場の新築が認められなかったため、岡崎市の岡崎公園西にあった「竜城劇場」を買収して移築し、1940年6月に竣工した。鶴城座の社長である中村謙作が代表者である。花ノ木耕地整理事業によって形成された新たな西尾駅前の発展の意味もあった。1980年現在の西尾東映である。*80

1955年頃の西尾市花ノ木町にあった「西尾劇場」の写真あり。芝居小屋として誕生した。1962年頃に内部が改築されるまで桟敷や花道があり、戦後しばらくは芝居と映画の両方を上演していた。政治家の講演会、青年団の集会、プロレス興行まで、さまざまに利用された。写真は市議会議員を務めた劇場主の後援会発足会場となったときのもので、映画も見られると大勢の支援者たちが詰めかけた。*81

1960年頃の西尾市花ノ木町にあった「西尾劇場」の写真あり。建物正面に自転車が並んでいる。西尾駅の利用者と劇場の来場者の自転車の双方があった。正面には数々のポスターが貼られている。現在は「西尾東映」に改称したが、たたずまいはほぼ当時のままである。*82

昭和30年代の西尾市花ノ木町にあった「西尾劇場」前の写真あり。1940年に芝居小屋として竣工した。当初は廻り舞台、花道、桟敷などが設けられていた。1946年から映画上映を始め、歌手の公演などにも使用された。1968年には花道と桟敷席が撤去されて映画上映のみとなった。*83

2012年の西尾市花ノ木町にあった「西尾劇場」の写真あり。1940年に岡崎市の龍城座を移築して開館した。当初は芝居小屋だったが、戦後の1946ねんからは映画の上映を始めた。女子プロレス、キックボクシング、歌手の公演なども行われ、美空ひばりが訪れたこともあった。1968年には映画上映のみとなった。*84

日本にアール・デコの映画館建築はほとんど存在しない。2014年現在で数少ないアール・デコ建築の現存例として、愛知県西尾市の「西尾劇場」と埼玉県秩父市の「秩父国際劇場」がある。西尾劇場は1940年に岡崎市から移築された木造建築であり、8本の細い柱形が目につくファサードだけをそれ風にした看板建築の一種である。細い柱形とその間の窓枠がアール・デコの雰囲気を醸し出しているファサードは1940年の移築時と思われる。外観の写真あり。*85

芝居小屋「西尾劇場」を建てたのは「アオケン」として知られた西尾市議会議員の青山謙一である。こけら落とし公演は片岡仁左衛門だった。少女時代の美空ひばりなども来館している。近郷の人を西尾劇場に運ぶ臨時列車が出たこともあった。ファサードの上部はあんず色のモルタルであるが、その下部の灰色に見える壁はモザイクタイルで埋め尽くされている。*86

『詩人茨木のり子とふるさと西尾』には、1928年頃の地図を基にした茨木のり子の少女時代の西尾市街地の地図が掲載されている。茨木のり子は1932年から1942年頃まで西尾で過ごした。「松栄館」、「西尾劇場」、「鶴城座」、「成美館」が描かれている。*87

「西尾東映劇場」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*88

「西尾劇場」に言及している書籍として、大屋尚浩『日本懐かし映画館大全』辰巳出版、2017年がある。*89

「西尾劇場」に言及している雑誌記事として、高田京子「human INTEREST レトロを訪ねる 映画館編」『週刊新潮』2007年3月15日号がある。現物は未確認。高田日活(高田世界館)、豊岡劇場にも言及している。*90

「西尾劇場」に言及している雑誌記事として、「シネマの手帖 西尾劇場は、本日も上映中 愛知県西尾市に、昭和初期から続く映画館を訪ねます」『暮しの手帖 別冊』2009年12月5日号がある。現物は未確認。*91

「西尾劇場」に言及している雑誌記事として、「オールド・シネマ・パラダイス 日本一贅沢な映画館、西尾劇場物語 ひばりが、エノケンが…夢の舞台は築65年、いまだ現役」『現代』2005年2月号がある。現物は未確認。*92

「西尾劇場」に言及している雑誌記事として、「昭和ノスタルジー 娯楽の殿堂 映画館健在」『男の隠れ家』2019年2月がある。高田世界館、本宮映画劇場、川越スカラ座、早稲田松竹、塩尻東座、パルシネマしんこうえん、小倉昭和館、本渡第一映劇にも言及している。*93

「西尾劇場」に言及している雑誌記事として、「ようこそ映画館へ 懐かしの昭和の映画館編 大人の空間・名画座編」『男の隠れ家』2011年4月がある。テアトル石和、新世界国際劇場、早稲田松竹、ギンレイホール、新文芸坐、祇園会館、サロンシネマ、塩尻東座にも言及している。*94
鶴城映画劇場/鶴城映劇
所在地 : 愛知県西尾市菅原141(1958年)、愛知県西尾市菅原60(1960年)、愛知県西尾市菅原町(1963年)、愛知県西尾市菅原町60(1966年・1973年・1976年・1980年・1990年・2000年・2005年・2010年・2015年)
開館年 : 1955年12月末、1986年6月7日(建て替え)
閉館年 : 営業中
1955年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「鶴城映画劇場」。1960年の映画館名簿では「鶴城映劇」。1963年の映画館名簿では「鶴城映画劇場」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「鶴映」。1966年の映画館名簿では「西尾鶴城映画劇場」。1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「鶴城映画劇場」。1976年・1979年の航空住宅地図帳では「鶴映」。1982年の住宅地図では「鶴城劇場」(道路拡幅前)。1987年の住宅地図では「鶴城映劇場」(道路拡幅後)。1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「鶴城映劇」。1995年の住宅地図では「鶴城映劇場 ビデオレンタル」。最寄駅は名鉄西尾線桜町前駅。

1955年暮れには西尾市に「鶴城映劇」が開館し、西尾市街地の映画館は4館となった。このため1956年正月には客を奪い合ったとされ、「西尾劇場」は1日あたり約1500人で前年の2-3割減少となった。「松栄館」は前年の4割減少となったが、同一経営者が1955年に開館させた「パール劇場」と合わせると3割増加となった。開館したばかりの鶴城映劇は物珍しさもあって連日にぎわった。*95

西尾市の「鶴城映劇」を開館3日目に訪れ、溝口健二監督、市川雷蔵主演、大映製作の『新・平家物語』を鑑賞した。入場時にふところ鏡のプレゼントがあった。映画館としてはこじんまりとしており2階席がない。*96

1959年の西尾市菅原町にあった「鶴城映劇」前の写真あり。多数の二輪車(バイク)が停められている。『黒幕は誰だ』の看板が見える。*97

1959年の西尾市菅原町にあった「鶴城映劇」前の写真あり。『黒幕は誰だ』『二人の武蔵』『男が命を賭ける時』の看板が見える。1955年に開館した日活作品の常設館だった。*98

1986年6月7日、西尾市菅原町60の映画館「鶴映」が新築オープンする。1955年に開館してから、32年ぶりの変身である。設計監理は菅沼建築事務所、施工はエザキ建設株式会社。リクエスト鑑賞サービスは全国初の試み。6月7日から6月13日のオープニング作品は代々木忠監督の『奥戯』、今陽子主演の『蕾の眺め』、『ラブホテル消し忘れ大全集』。入場者には記念品と無料レンタル券がプレゼントされる。営業時間は12時から23時であり、土曜のみは深夜まで営業する。*99

1986年6月7日の『愛三時報』には、西尾市の映画館「鶴映」が6月7日に新築オープンするという広告が掲載されている。「映画を楽しみ、ビデオで満足! リクエスト鑑賞サービス」「レンタル・コーナー併設オープン」などと書かれている。*100

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。

鶴城映劇の館主である斉藤さん(年配の女性)に聞くと、「木曜日が休館日。基本の上映終了時間は21時だが、まったく客がいない日は20時台で上映を取りやめることもある。鶴城映劇は1955年に開館した。鶴城映劇がある菅原町は西尾市街地の北のはずれにあるが、夫が地域に請われて経営者となった。まだ日活の人気がさほど高くない時代だったため、西尾市における日活作品の興行権が取れ、石原裕次郎主演の作品などが盛り上がった。当時は建物の前の駐車場がなく、建て替え後の(現在の)建物よりかなり大きかった。現在の道路にかかる部分まで建物があったのではないかと思う。当時の多くの映画館とは異なり、2階席はなかった。日活がロマンポルノを上映するようになり、映画人気の低迷もあって、鶴城映劇は成人映画の上映館となった。面する道路の拡幅工事のために、1986年には小規模な建物に建て替えた。道路部分以外の敷地の形は変わっておらず、前面だけ背後に引っ込んだ形である。経営者の夫は教員免許も持っており、建て替えを決める前には閉館も検討した。建て替えにあたってビデオカセットをレンタルできるサービスを取り入れ、また館内にビデオ鑑賞席を設置した。レンタルビデオ店が少ない時代であり、映画館としては画期的なサービスだったと思う。1980年代後半の映画産業は斜陽であり、建て替え後も映画館の観客は少なかったが、レンタルビデオサービスは大好評だった。このため、建て替え後すぐにホールを狭めてビデオ棚を増設した。増設部分のビデオ棚は、建て替え当初のホール最後尾にあたる。2部屋あるビデオ鑑賞席からインターホンが受付に通じており、鑑賞したい作品の番号を伝えると受付から操作してビデオを再生する。ビデオ鑑賞室は休憩室という名称であり、扉のないガラス張りかつ4人掛けとすることで個室ではないことにしている。現時点では閉館は検討していないが、年配なのでいつまで続けられるかはわからない。息子が社長の肩書を背負っているが、愛知県外で別の仕事についており、自身の後継者はいない」

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