閉館した映画館を中心とする、日本の映画館の総合データベースです。管理人「hekikaicinema」のみが編集可能。


岡崎市

岡崎市の映画館

1912年(明治45年)の「岡崎町市街図」には、演劇場として宝来座(大字六地蔵)・金升座(大字康生)・三銘座(大字伝馬)・常盤亭(大字伝馬)の4座が紹介されている。明治末期から大正期の岡崎にはこの4劇場以外にもいくつかの劇場があり、義太夫・浪花節・芝居・落語などの興行を行っていた。第一次世界大戦後に活動写真(映画)が普及すると、岡崎の各劇場も競って活動写真を上映するようになり、多くの劇場が映画館へ変わっていった。金升座は興行以外に不忘義団(旧岡崎藩士の会)の琵琶演奏会や講演会などの催し物も行い、1925年(大正14年)には改築して岡崎劇場となった。岡崎劇場は太平洋戦争の岡崎空襲で焼失したが、戦後にはいち早く映画館として再開された。宝来座は繁華街の伝馬に近い六地蔵に芝居小屋として建てられた。昭和には大衆劇場として芝居・映画・レビューなどが興行され、演説会や市民大会などの会場としても利用された。戦後は連尺通1丁目に移転し、洋画専門のタカラ劇場となった。

1988年の『岡崎商工名鑑』には映画館として以下が掲載されている。
映画劇場 「(株)岡崎劇場」
康生通南3丁目2、1945年創業、1954年設立、資本金60万円、従業員13人
常設洋画劇場 「新世界興業(株)」
井田南町6-7、1980年設立、資本金100万円、従業員5人 ※新世界興業ビル メトロ座・スカラ座
洋画映画劇場 「(株)宝劇場」
連尺通1丁目1、1946年設立、資本金2000万円、従業員5人
映画劇場 「中部興行(株)岡崎東宝劇場」
康生通東2丁目8、1951年創業、1955年設立、資本金3500万円、従業員6人
映画劇場 「筒井商事(株)」
康生通南3丁目26、1960年創業、1968年設立、資本金100万円、従業員9人 ※岡崎劇場系列
映画劇場 「筒井実業(株)」
伝馬通2丁目35、1956年創業、1969年設立、資本金100万円、従業員9人 ※岡崎グランド劇場系列
ヌード劇場 「(株)岡崎銀映」
鴨田南町1-18、1975年創業、資本金600万円、従業員4人 *1

かつて岡崎文教映画友の会の機関誌として月刊雑誌『映画タイムズ』が発行されていた。1956年8月10日創刊であり、1959年7月号(第74号)・8月号(第75号)・9月号(第76号)・10月号(第77号)・11月号(第78号)・12月号(第79号)の6冊が岡崎市立中央図書館に所蔵されている。上映作品紹介、読者が選ぶ年間ベスト10企画、読者の映画感想投稿などがあり、映画館による上映作品広告も多い。「タカラ・中劇・東宝・岡劇・大劇・東映・三銘・友楽・世界・南映・矢作劇・挙母劇・アート・昭和」と、岡崎市10館・豊田市4館の計14館の上映案内が掲載されている。1959年12月第1週の上映作品は、タカラ劇場が『北北西に進路を取れ』と『地獄に続く部屋』、世界館が『ソロモン王の宝庫』と『殺人鬼に罠をかけろ』、中央劇場が『人間の条件』と『剣風次男侍』、岡崎東宝が『日本誕生』、岡崎劇場が『密会』と『南国土佐を後にして』と『可愛い花』、岡崎大劇が『勝負師とその娘』と『善光寺黄金道中』と『裸女と殺人迷路』、岡崎東映が『緋鯉大名』と『ふたりの休日』と『恐るべき復讐』、三銘座が『姫夜叉行状記』と『激斗』と『上役下役ご同役』、友楽が『悪魔の最后』と『怒涛の対決』、南映が『実は熟したり』と『アイラブユー』と『戦場のなでしこ』、矢作劇場が『男性飼育法』と『江戸遊民伝』と『奥様三羽烏』、挙母劇場が『明治大帝と乃木将軍』と『三羽烏三代記』、アート座が『歌麿をめぐる五人の女』と『清水の暴れん坊』、昭和劇場が『千羽鶴秘帖』と『東京警部』と『陽のあたる家』。コピー機にかけるのをためらう保存状態なので注意。

1961年の『岡崎市重要転業別電話番号簿有名商店案内』は電話帳であり、業種別に店舗名・電話番号・おおまかな所在地が掲載されている。映画館としては、洋画のタカラ劇場(連尺通1-1)、岡崎大劇(六地蔵町)、各社特選上映 南映(国鉄駅前通り)、岡崎劇場(康生通)、岡崎東映(伝馬通)、岡崎東宝劇場(康生通)、岡崎日劇(康生通)、三銘座(伝馬通)、世界館(元能見)、中央劇場(康生通)、有楽劇場(元能見)、美合映画劇場(美合)、矢作映画劇場(矢作)、の13館が掲載されている。*2

岡崎セントラル劇場

所在地 : 愛知県岡崎市康生町60(1955年)
開館年 : 1950年12月
閉館年 : 1955年以後
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月設立。1953年・1955年の映画館名簿では「岡崎セントラル劇場」。

豊富劇場

所在地 : 愛知県額田郡豊富村(1953年)、愛知県額田郡豊富村樫山新居野(1955年)、愛知県額田郡額田町樫山(1960年)、愛知県額田郡額田町樫山村(1963年)
開館年 : 1953年以前
閉館年 : 1963年頃
1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「豊富劇場」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の航空住宅地図帳では跡地に「東海理化樫山工場」であり南側には豊富郵便局があった。跡地は「理化精機樫山工場」。最寄駅は名鉄名古屋本線本宿駅。

マルス劇場

所在地 : 愛知県碧海郡六ッ美村中島(1953年・1955年)、愛知県碧海郡六ツ美村中島字上島114(1958年)、愛知県碧海郡六ッ美村中島114(1960年)、愛知県碧海郡六ッ美村字土島114(1963年)
開館年 : 1947年12月? 1948年?
閉館年 : 1964年
『全国映画館総覧 1955』によると1947年12月設立。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「マルス劇場」。「〇」の中に「ス」が入った記号が用いられている年もある。1965年の住宅地図では跡地に空き地。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅地図では跡地に「杉浦」や「内田与三郎」の民家。跡地はアパート「ハーヴェスト供彑沼Δ涼鷦崗譟1959年までの最寄駅は名鉄旧西尾線三河中島駅。

1948年(昭和23年)、杉浦製糸所の乾燥場に劇場「マルス劇場」が開館した。芝居を中心として、地元の舞踏会なども開催された。写真は1953年(昭和28年)の赤堀流舞踏会。*3

美合映画劇場

所在地 : 愛知県岡崎市美合町生田251(1960年・1963年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1963年以後1965年以前
1959年の全住宅案内図帳では後の映画館の位置に「本田カメラ」などがある。1960年・1963年の映画館名簿では「美合映画劇場」。1962年の全商工住宅案内図帳では「美合劇場」。1965年の住宅地図では跡地に「本田カメラ店」「末広すし」「美合市場」など複数の店舗がある。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅地図には跡地に「末広すし」や「杉浦●●店」(文字がつぶれてて読めない)など複数の店舗がある。愛知県道329号の東側の通り(裏通り)に面していた。最寄駅は名鉄名古屋本線美合駅。

現在の住宅地図で番地を確認するとキャッスルハイツ美合駅前の場所と思われる。1958年の住宅地図には「本田カメラ店」があり、まだ美合映画劇場は存在しない。1960年の映画館名簿によると美合映画劇場の経営者は本田準二であり、カメラ店から映画館に転換した可能性がある。地理院地図の空中写真で確認すると、1966年以前の閉館以後も1980年代前半まで建物が残っていたとされる。

岡崎松竹映画劇場/友楽劇場/岡崎第二東映友楽/岡崎友楽東映/岡崎友楽劇場

所在地 : 愛知県岡崎市元能見町178(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、愛知県岡崎市元能見町176(1965年)
開館年 : 1952年
閉館年 : 1963年以後1965年以前
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「岡崎松竹映画劇場」。1958年の映画館名簿では「友楽劇場」。1959年の全住宅案内図帳では「友楽映画劇場」。1960年の映画館名簿では「岡崎第二東映友楽」。1962年の全商工住宅案内図帳では「友楽映画劇場」。1963年の映画館名簿では「岡崎友楽東映」。1965年の映画館名簿では「岡崎友楽劇場」。1965年の住宅地図では「旧有楽アキヤ」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅地図では跡地に「主婦の店」。現在の跡地は空き地。「特別養護老人ホームもとのみの里」の南側。1962年までは名鉄岡崎市内線が走っており、最寄駅として能見町電停があった。岡崎友楽の西側には松栄芸妓組合があり、その西側には芸妓稽古場があった。

世界館/世界ミュージック/岡崎世界ミュージック

所在地 : 愛知県岡崎市元能見町166(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1950年以前
閉館年 : 1968年
1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「世界館」。1959年の全住宅案内図帳では「世界映画劇場」。1962年の全商工住宅案内図帳では「世界映画劇場」。1963年の映画館名簿では「世界ミュージック」。1966年・1968年の映画館名簿では「岡崎世界ミュージック」。1965年・1968年の住宅地図では「世界ミュージックホール」であり、北東の交差点に世界館前というバス停があったことがわかる。1969年の映画館名簿には掲載されていない。愛知県道39号「能見不動尊前」交差点から西に100m。現在は5軒分の戸建住宅地。1962年までは名鉄岡崎市内線が走っており、最寄駅として能見町電停があった。

大劇/岡崎大劇

所在地 : 愛知県岡崎市六地蔵町1-5(1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1946年6月
閉館年 : 1966年以後1968年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1946年6月設立。1959年の全住宅案内図帳では「大劇」。1960年・1963年の映画館名簿では「大劇」。1962年の全商工住宅案内図帳では「大劇」。1966年の映画館名簿では「岡崎大劇」。1965年・1968年の住宅地図では「大映劇場」。1968年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の住宅地図で場所確認。1987年時点の跡地は1階に「ライン」と「友苑」が、2階に「ジャパンスタディセンター販売」がある商業ビル。現在の跡地は空き地。国道1号と愛知県道477号が交わる「島町」交差点の北西側。

矢作映画劇場

所在地 : 愛知県岡崎市矢作町中道73(1966年)、愛知県岡崎市矢作町中道3-41(1969年)
開館年 : 1960年以前
閉館年 : 1969年頃
1959年の全住宅案内図帳では発見できなかった。1962年の全商工住宅案内図帳では「矢作劇場」。1968年の住宅地図では「矢作劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「矢作映画劇場」。1970年・1973年の映画館名簿には掲載されていない。矢作橋駅の北150m、国道1号の北側。跡地は「スズキアリーナ岡崎西店」。最寄駅は名鉄名古屋本線矢作橋駅。

羽根映画劇場/柱町東映/柱町東映劇場

所在地 : 愛知県岡崎市柱町東浦17(1953年)、愛知県岡崎市柱町17(1960年)、愛知県岡崎市柱町東浦17(1969年)
開館年 : 1953年以前
閉館年 : 1969年以後1976年以前
1958年の住宅地図で場所確認。1960年の映画館名簿では「羽根映画劇場」。1962年の全商工住宅案内図帳では「羽根映劇」。1963年の映画館名簿では「柱町東映」。1968年の住宅地図では「羽根劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「柱町東映劇場」。跡地は「レジデンシャル岡崎」であり「ファミリーマート岡崎柱6丁目店」にも被っていた。最寄駅はJR東海道本線岡崎駅。

中央劇場/岡崎中央劇場/岡崎松竹中央劇場

所在地 : 愛知県岡崎市康生町66-1(1955年)、愛知県岡崎市康生町66-1(1953年)、愛知県岡崎市康生通1-18(1960年)、愛知県岡崎市康生町66(1963年)、愛知県岡崎市康生通西1-18(1966年・1969年・1976年・1980年)
開館年 : 1951年9月
閉館年 : 1983年以後1985年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月設立。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1959年の全住宅案内図帳では「中央劇場」。1962年の全商工住宅案内図帳では「中央劇場」。1965年・1968年の住宅地図では「中央劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「岡崎中央劇場」。1976年・1980年の映画館名簿では「岡崎松竹中央劇場」。1983年の住宅地図では「岡崎松竹中央劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の住宅地図で場所確認。1987年時点の跡地は駐車場。現在の跡地は駐車場。国道1号・康生通り・本町通りが形成する三角地帯。「康生北」交差点の南西のブロック。マンション「ミッドシティレジデンス岡崎康生」の西側。

三銘座/岡崎ピカデリー劇場

所在地 : 愛知県岡崎市伝馬町188(1953年)、愛知県岡崎市伝馬通3-41(1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1916年以前、1945年2月
閉館年 : 1983年以後1985年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1945年2月設立。1959年の全住宅案内図帳では「三銘座」。1960年・1963年の映画館名簿では「三銘座」。1962年の全商工住宅案内図帳では「三銘座映画館」。1965年・1968年の住宅地図では「三銘会館」。1966年・1969年・1976年・1980年の映画館名簿では「岡崎ピカデリー劇場」。1983年の住宅地図では「ピカデリー劇場」であり、同一施設にサンメイホールや暮らしのセンターや岡崎ダンス教室やニューおば娘があったことがわかる。1985年の映画館名簿には掲載されていない。現在の跡地は1995年竣工の商業ビル兼マンション「藤和シティコープ伝馬通」。「伝馬4丁目西」交差点南西側。1997年時点では1階に「プラザナイン」で3階に「岡崎ダンス教室」があった。

宝来座/宝劇場/岡崎宝劇場/岡崎たから劇場/岡崎タカラ劇場

所在地 : 愛知県岡崎市島町付近(宝来座時代)、愛知県岡崎市連尺町1-1(1963年・1966年・1969年)、愛知県岡崎市連尺通1-1(1976年・1980年)
開館年 : 明治時代
閉館年 : 1985年以後1987年以前
1959年の全住宅案内図帳では「タカラ映劇」。1960年・1963年の映画館名簿では「宝劇場」。1962年の全商工住宅案内図帳では「タカラ劇場」。1966年の映画館名簿では「岡崎宝劇場」。1965年・1968年の住宅地図では「タカラ劇場」。1969年の映画館名簿では「岡崎たから劇場」。1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「岡崎タカラ劇場」。1983年の住宅地図では「タカラ劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。1987年時点の住宅地図では跡地は「プレイランドタカラ」。現在の跡地は「タカラパーキング」。「本町通1丁目」交差点北東側にある。

岡崎市の六地蔵にあった「宝来座」は庶民の娯楽の中心として栄えた。六地蔵は伝馬などの繁華街に近い。江戸時代の寛政年間初頭、「れんにょさん」の開帳で有名な浄専寺が町の南端西側に移転したため、宝来座が当地に建設されたとされる。昭和初期には大衆劇場として芝居のほかに映画・レビューなどが上映され、演説会や市民大会などの会場としても利用された。戦後は連尺通1丁目に移転し、洋画専門の「タカラ劇場」として再開された。*4

1916年(大正5年)頃の岡崎にあった「宝来座」の写真あり。当時の岡崎には宝来座のほかに、「金升座」、「宝友座」、「日出座」があった。1908年(明治41年)にはすでに活動写真を上映した。*5

1936年(昭和11年)生まれの筆者は、小学5年生頃(※1947年頃? )に初めて映画館を訪れた。岡崎の「タカラ」洋画劇場であり、鑑賞した作品は『大平原』(※1939年公開)だったと思われる。*6

岡崎の六地蔵町にあった「宝来座」の写真あり。現在は国道1号線沿いで空地となっている。*7

岡崎東宝劇場

所在地 : 愛知県岡崎市康生通東2-8(1960年・1963年・1966年・1969年・1976年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1960年以前
閉館年 : 1993年
1959年の全住宅案内図帳では「岡崎東宝」。1962年の全商工住宅案内図帳では「岡崎東宝」。1965年・1968年の住宅地図では「岡崎東宝」。1960年・1963年・1966年・1969年・1976年・1980年・1985年・1990年・1993年の映画館名簿では「岡崎東宝劇場」。1991年・1993年の住宅地図では「岡崎東宝」。1994年・1995年の映画館名簿には掲載されていない。1999年時点の跡地は「コメダ珈琲岡崎康生店」。現在の跡地はコインパーキング「ザ・パーク康生通東」。「暴れん坊チキンブランペシェ」の東側。

金升座/岡崎劇場/岡崎劇場・岡崎国際劇場/岡崎劇場・岡崎国際劇場・岡崎日劇/岡崎劇場・岡崎国際劇場・岡崎日劇・岡崎シネマ/岡崎劇場1・2、岡崎日劇1・2/岡崎劇場1・2・3・4

戦前の岡崎劇場*8
1989年の岡崎劇場*9
所在地 : 愛知県岡崎市康生通716(1963年)、愛知県岡崎市康生通南3-2(2000年)
開館年 : 大正後期、1945年12月
閉館年 : 2001年2月1日
『全国映画館総覧 1955』によると1945年12月設立。1959年の全住宅案内図帳では「岡崎劇場」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「岡崎劇場」(1スクリーン)。1962年の全商工住宅案内図帳では「岡崎劇場」と「日劇」。1969年の映画館名簿では「岡崎劇場・岡崎国際劇場」(2スクリーン)。1976年・1980年の映画館名簿では「岡崎劇場・岡崎国際劇場・岡崎日劇」(3スクリーン)。1985年の映画館名簿では「岡崎劇場・岡崎国際劇場・岡崎日劇・岡崎シネマ」(4スクリーン)。1990年・1995年の映画館名簿では「岡崎劇場1・2、岡崎日劇1・2」(4スクリーン)。1997年・2000年の映画館名簿では「岡崎劇場1・2・3・4」(4スクリーン)。

岡崎市は産業・経済の両面で西三河の中心地として発展した。1989年(平成元年)現在の「岡崎劇場」と「日劇」の場所には、大正後期に建てられた大規模な演劇場「岡崎劇場」があった。現在とは異なって北側に表玄関があった。花道や桟敷席を備え、歌舞伎や浪花節などの興行が行われた。岡崎劇場以前のこの場所には「金升座」があった。他にも岡崎市内には、「宝来座」(六地蔵)、「三銘座」(伝馬)、「神明座」(元能見)、「宝友座」(柱)などの劇場があった。第二次世界大戦の空襲で岡崎劇場は焼失したが、戦後にいち早く再建されて映画館として営業を再開し、その後改築されて現在に至っている。同劇場を訪れた著名俳優や歌手には、片岡千恵蔵、岡晴夫、美空ひばり、長谷川一夫などがいる。国道1号に面している1989年現在の岡崎劇場の写真あり。1923年(大正12年)から1924年(大正13年)頃の岡崎劇場の写真あり。金升座の跡地に新築された入母屋造の岡崎劇場は歌舞伎座を模した造りだった。*10

1916年(大正5年)頃の「金升座」の写真あり。1923年(大正12年)まで、1992年(平成4年)現在の「岡崎劇場」付近にあった。1916年(大正5年)には川上貞奴が『お蝶夫人』などを上演した。*11

1925年(大正14年)頃の「金升座」の写真あり。金升座の跡地には東京の歌舞伎座を模して「岡崎劇場」が新築された。岡崎劇場は花道や桟敷席を備えた風格ある劇場であった。*12

岡崎市立中央図書館が所蔵する『岡崎劇場嗟媾顱戞「岡崎劇場」の全景の写真あり。岡崎劇場は歌舞伎座風で、花道や桟敷席を備えた大型の演劇場だった。*13

1953年(昭和28年)に「岡崎劇場」で開催された第1回歌謡ショーでは、灰田勝彦、宮城まり子、三浦滉一、市丸らが公演した。写真あり。*14

康生通南の岡崎劇場は「映画演劇の殿堂」がキャッチフレーズ。新作映画のほかに演劇や歌謡ショーなどの興行も行った。「希望音楽祭」(第1回歌謡ショー)では、灰田勝彦、三浦滉一、市丸、渡辺はま子、宮城まり子ら人気スターがステージに立った。*15

2001年1月14日の『東海愛知新聞』の映画上映案内。岡崎劇場1は『バトル・ロワイアル』を上映、岡崎劇場2は『エクソシスト』を上映、岡崎劇場3は『グリンチ』を上映、岡崎劇場4は『ホワット・ライズ・ビニース』を上映。*162001年1月16日の『東海愛知新聞』の映画上映案内。岡崎劇場1・2・3は休館中、岡崎劇場4は『頭文字D』を上映。*172001年1月31日の『東海愛知新聞』の映画上映案内。岡崎劇場1・2・3は休館中、岡崎劇場4は『頭文字D』を上映。*182001年2月1日の『東海愛知新聞』の映画上映案内に、岡崎劇場は1館も掲載されていない。*19

メトロ座・スカラ座/岡崎メトロ座・岡崎セブン座・岡崎スカラ座/岡崎メトロ座・岡崎メトロ2・岡崎スカラ座

所在地 : 愛知県岡崎市井田南町6-7(2000年)
開館年 : 1981年
閉館年 : 2001年5月31日
1985年の映画館名簿では「メトロ座・スカラ座」(2スクリーン)。1990年・1995年の映画館名簿では「岡崎メトロ座・岡崎スカラ座・岡崎セブン座」(3スクリーン)。1997年・2000年の映画館名簿では「岡崎メトロ座・岡崎スカラ座・岡崎メトロ2」(3スクリーン)。

日本映画製作者連盟が調査した映画館名簿を見ると、1986年時点で全国に約2,200館の映画館があり、うち30数人が女性である。人口28万人の岡崎市には13館の映画館があり、日本一の激戦地と言われる。1981年に開館した洋画系のメトロ座とスカラ座ほかの支配人は大橋千恵子支配人。国税局に勤務していた夫とともに東京から岡崎にやってきた。メトロ座とスカラ座の前身であるタカラ劇場でも支配人を務め、1986年時点で14-15年のキャリアを有する。浜松ハッピーエンドの近藤恵理支配人は22歳のピチピチギャルであり、ミス浜松となったこともある。ラジオのDJで映画館周りを行ったのがきっかけで、1986年6月に支配人に就任した。浜松ハッピーエンドの観客層は結婚前の女性であり、フランス映画などの名画特集や、各種イベントとのタイアップを行っている。*20

1999年12月1日21時55分頃、スカラ座とメトロ座が入る岡崎市井田南町6の新世界興業ビル4階の事務所から出火し、事務所20平方メートルを焼いた。メトロ座が上映中であり観客十数人がいたが、従業員の誘導で非難した。同ビルには2つの映画館が上下に分かれて入っている。*21

2001年5月末、岡崎市井田南町に集まる映画館「岡崎メトロ座」「岡崎メトロ2」「岡崎スカラ座」の3館が20年の歴史に幕を閉じる。3館の経営者は「新世界興業」(中村忍社長)。岡崎市では戦後すぐに映画の上映を始めた「岡崎劇場」が2001年1月に閉館したばかり。岡崎メトロ座は1981年(昭和56年)に2館体制でオープンし、アメリカ映画など洋画を中心に上映した。1993年(平成5年)にスカラ座を増やし、東宝の作品の上映も始めた。3館合わせて、約500席がある。ピーク時の1990年には3館合わせて年間約12万人が来場したが、それ以後は減少傾向にあり2000年には年間6万人を割り込んだ。市内の映画関係者によると、昭和40年代の岡崎市には15館前後の映画館があった。1月の「岡崎劇場」(同市康生通南)閉館(計4館)に続き、メトロ座の幕が閉じると、市内では「岡崎グランド劇場1・2」(同市伝馬通)、「岡崎南映劇場」(同市柱町)の計3館だけになる。*22

2001年5月25日の『東海愛知新聞』の映画上映案内。「岡崎メトロ座」が『ザ・メキシカン』を上映しており、「5月31日閉館」との記載がある。「岡崎メトロ2」が『名探偵コナン』を上映しており、5月25日閉館との記載がある。*232001年5月31日の『東海愛知新聞』の映画上映案内。「岡崎メトロ座」が『ザ・メキシカン』を上映しており、「5月31日で閉館します」との記載がある。「岡崎メトロ2」は空白の枠だけ設けられている。*24

常盤館/岡崎東宝/岡崎東映/岡崎日活ロマン/岡崎ロマン劇場・岡崎グランド劇場/岡崎グランド劇場1・2

1989年のグランド劇場*25
所在地 : 愛知県岡崎市伝馬通2-35(2000年)
開館年 : 大正時代、1981年頃
閉館年 : 2004年10月25日
1959年の全住宅案内図帳では「岡崎東映」。1960年の映画館名簿では「岡崎東映劇場」。1962年の全商工住宅案内図帳では「岡崎東映」。1963年の映画館名簿では「岡崎東映」。1965年の住宅地図では「岡崎東映」。1966年・1969年の映画館名簿では「岡崎東映劇場」。1976年・1980年の映画館名簿では「岡崎日活ロマン」(1スクリーン)。1983年の住宅地図では「ロマン・岡崎グランド」。1985年の映画館名簿では「岡崎ロマン劇場・岡崎グランド劇場」(2スクリーン)。1990年・1995年・1997年・2000年の映画館名簿では「岡崎グランド劇場1・2」(2スクリーン)。

岡崎市の伝馬通の遊郭は繁盛し、近くには「常盤館」が建てられて、1918年(大正7年)-1919年(大正8年)ごろには映画を上映していた。ここにはかつて本陣があった。かつては常盤亭といい、1911年(明治44年)に改築したとの記録もあるので、創設はかなり古い。近くには成瀬亭・遠藤時計・鍵屋旅館・備前屋などがあった。常盤館は戦災で焼失したが、1947年(昭和22年)に再開されると「岡崎東宝」となった。道路拡幅後はしばらくオープン劇場となり、1954年(昭和29年)から「岡崎東映」となった。1981年(昭和56年)に岡崎東映が火災に遭い、跡地に「グランド劇場」が開館した。*26

1953年(昭和28年)には伝馬通が拡幅されて歩道が整備された。西本陣跡の碑が建つ2丁目と1丁目の境辺りから西を望む。江戸時代の旧東海道はここで突き当りで左に折れており、この先の道が開かれたのは大正になってからである。右の建物は、戦後間もなくの3年間だけ営業していた映画館の「岡崎東宝」。閉館後、ここに銀行を建てる計画があったが、3時閉店でシャッターが下りてしまうことを嫌った商店街が後ろ盾となり、1954年(昭和29年)に「岡崎東映」が開館した。*27

1916年(大正5年)頃の「常盤館」は、伝馬の「三銘座」と並ぶ活動写真の専門館だった。*28

伝馬町で今も映画館のある付近。初めは「常盤座」(大正初期)と言っていた。*29

1956年(昭和31年)12月28日、伝馬町通りの「岡崎東宝」跡地に「岡崎東映」が開館する。岡崎東映は東映作品の封切館であり、開館当初から冷暖房を完備していた。岡崎東映の開館にともなって、岡崎劇場は洋画と邦画の封切館となる。*30

1955年(昭和30年)頃には、岡崎呉服組合が浴衣一反につき「映画ときものショー」の招待券をプレゼントした。「岡崎東映」にて「東京ファッションモデルクラブ」によるショーを開催した。映画もショーも盛況だった。岡崎市伝馬通。昭和30年頃。*31

1981年(昭和56年)に「岡崎東映」が火災に遭い、跡地に「グランド劇場」が開館した。*32

1954年(昭和29年)に開館した「岡崎東映」は、その後「岡崎グランド劇場」に変わり、2004年(平成16年)まで営業していた。現在はその跡地でミニストップが営業している。*33

南映/南映劇場/岡崎南映劇場

岡崎南映劇場の閉館を報じる新聞記事
所在地 : 愛知県岡崎市柱町東荒子46-6(2000年)
開館年 : 1956年10月10日
閉館年 : 2006年1月19日
1959年の全住宅案内図帳では「南映劇場」。1960年の映画館名簿では「南映」。1962年の全商工住宅案内図帳では「南映劇場」。1963年の映画館名簿では「南映劇場」。1966年・1969年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・1997年・2000年の映画館名簿では「岡崎南映劇場」。1980年頃から2006年の閉館まで成人映画館。シネコン以外では岡崎市最後の映画館。現在の「柱町上荒子交差点」北西側。区画整理でこの地域の街区は大きく変化しており、場所は参考程度に。最寄駅はJR東海道本線岡崎駅。

2001年1月5日頃の上映作品は、『絶倫義父の下半身』『ねっちゃり白衣』『私、潮吹きなんです』。毎土曜オールナイトとの記載あり。この時点の岡崎には岡崎南映劇場のほかに、岡崎劇場1・2・3・4、岡崎グランド1・2、岡崎スカラ座、岡崎メトロ座、岡崎メトロ2があった。*34

2002年12月28日頃の上映作品は、『息子いじり』『淫乱・巨乳・薄毛』『禁断不倫』。毎土曜オールナイトとの記載あり。この時点の岡崎には岡崎南映劇場のほかに、岡崎グランド1・2があった。*35

2003年12月28日頃の上映作品は、『引き裂かれた下着』『暴走下半身』『人に言えない性癖』。毎土曜オールナイトとの記載あり。この時点の岡崎にあった映画館は岡崎南映劇場のみであり、一般映画館は存在しなかった。*36

2004年12月29日頃の上映作品は、『美人保健婦 覗かれた医務室』『SM女医 巨乳くい込む』『スケベOL 感度良好』。毎土曜オールナイトとの記載あり。この時点の岡崎にあった映画館は岡崎南映劇場のみであり、一般映画館は存在しなかった。*37

2006年1月19日頃の上映作品は、『花と蛇2 パリ/静子』『しっとり熟女 三十路の昼下り』。毎土曜オールナイトとの記載あり。この時点の岡崎にあった映画館は岡崎南映劇場のみであり、一般映画館は存在しなかった。『東海愛知新聞』に掲載された最後の上映案内である。*38

2006年1月18日付の『東海愛知新聞』には岡崎南映劇場の閉館を伝える記事が掲載されている。住職のいなかった地蔵尊の跡地に映画館が誘致され、1956年10月10日に山田守(山田敏貴の父)によって岡崎南映劇場が開館した。1980年頃までは一般映画館であり、大映・東宝・松竹の作品を2本立てで上映していた。当時のこの地域には、日清紡戸崎工場、日清紡針崎工場、森永製菓岡崎工場などがあり、計数千人が工場などで働いていた。開館からすぐに繁盛し、開館を待つ行列が国鉄岡崎駅まで伸びたこともあった。開館時間前や休憩時間には周辺の商店街も活気づいた。映画人気が低下すると、一般映画と成人映画を交互に上映するようになった。息子の山田敏貴が経営を引き継ぐと、人気が上昇していた成人映画の専門館に転換した。50年間にわたって無休で営業し、週末のレイトショーも含めて“週8日”営業した。近年の観客数は全盛期の1/10ほどである。周辺地域で土地区画整理事業が行われ、行政から立ち退き通告を受けたため、閉館することとなった。閉館後すぐ、1月中には建物が取り壊される。閉館時の館主は山田敏貴(73)。*39

シネプレックス岡崎/ユナイテッド・シネマ岡崎

所在地 : 愛知県岡崎市羽根町小豆坂3 ウイングタウン内(2010年・2015年)
開館年 : 2007年7月14日
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年・2015年の映画館名簿では「シネプレックス岡崎1-9」(9館)。

2007年4月、角川ヘラルド・ピクチャーズグループのヘラルド・エンタープライズは、愛知県岡崎市にシネコン「シネプレックス岡崎」を開館させる。9スクリーン1900席を予定。シネプレックスとしては標準的な大きさであり、国内12サイト目、中部地方では同社初のシネコンとなる。愛知県は全国随一のシネコン激戦区であり、18サイト計179スクリーンはいずれも全国最多だが、岡崎市にはシネコンが存在しない。隣接する蒲郡市や集客できずと見込み、豊田市からも年間75万人の観客数を想定している。自動車部品のクラタ産業工場跡地に建設し、スーパーなどとの複合商業施設になる見込み。*40

2007年7月14日、岡崎市羽根町小豆坂に複合映画館「シネプレックス岡崎」が開館する。市内では約3年ぶりとなる一般映画館の復活。角川シネプレックスが全国展開するシネマコンプレックス(複合映画館)の12店目。175席から426席までの9面のスクリーンを備えており、総座席数は1978席。各スクリーンともデジタル音響に対応しており、うち3スクリーンは反響を抑える特殊な吸音設備を有する音響システムを導入する。駐車場は1350台分を予定。チケットはパソコンや携帯電話からインターネットで購入できる。日時指定した事前購入は4日前から可能。岡崎市内には昭和40年代に15の映画館があったが、成人映画館を除けば2004年10月に閉館した伝馬通の岡崎グランド劇場が最後の映画館だった。*41

2007年7月14日、岡崎市羽根町のクラタ産業工場跡地に「シネプレックス岡崎」が開館する。9スクリーン計1978席。岡崎市にシネコンは初めて。岡崎市経済振興部商工労政課によると、かつて岡崎市には最大7館の映画館があったが、2004年1月に岡崎南映劇場が閉館してからは映画館がなくなっていた。角川シネプレックスにとって13館目のシネコンであり、中部地方では同社初のシネコン。*42

2007年7月、角川シネプレックスによってシネコン「シネプレックス岡崎」が開館した。175席から最大426席までの9スクリーンを備え、座席総数は1978席。1350台分の駐車場がある。チケットはパソコンや携帯電話から購入でき、日時指定の事前購入は4日前から可能。「スクリーン9つ 映画館オープン シネプレックス岡崎」『中日新聞』、2007年7月19日))

イオンシネマ岡崎

所在地 : 愛知県岡崎市戸崎町大道西20 イオンモール岡崎ショッピングセンター内
開館年 : 2008年11月28日
閉館年 : 営業中
2008年11月28日、イオンモール岡崎に娯楽の中心としてシネマ館が新設されてリニューアルオープンする。10スクリーン計1,500席のシネコンとゲームセンターが入る。商業施設面積は67,000平方メートルから95,000平方メートルに増える。商圏は豊田市や東三河地方も含めた車で50分以内の100万人を見込んでいる。*43

豊田市

豊田市の映画館

昭和初期の挙母市に映画の常設館はなかった。竹生の「大正座」(後の「昭和劇場」)と神明の「宝集座」(後の「挙母劇場」)という2つの芝居小屋があり、芝居や浪曲の合間に無声映画を上映していた。1932年(昭和7年)-1933年(昭和8年)頃には芝居と映画の比率が逆転したが、まだ弁士と楽隊が活躍する無声映画の時代だった。名古屋市で封切りされた映画が挙母市の劇場に架かるのは半年ほど後であり、フィルムは傷だらけになっていた。「挙母劇場」は松竹や日活の作品を上映し、後発の「昭和劇場」は東宝や大映の作品を上映した。太平洋戦争の終戦までは、中学生や女学生は基本的に映画館に出入りできなかった。*44

1954年の商工年鑑には、映画館として「挙母劇場」、「アート座」、「昭和劇場」の3館が掲載されている。挙母劇場は、代表者が二代目三河山鍬次郎、所在地が挙母字天神。アート座は、代表者が川島五郎、所在地が挙母字長生。昭和劇場は、代表者がアート座と同じく川島五郎、所在地が挙母字久保。*45

1960年の商工年鑑には、映画館として「挙母劇場」、「アート座」、「昭和劇場」の3館が掲載されている。挙母劇場は、代表者が倉地とし子、所在地が神明町2-9。アート座は、代表者が石川要作、所在地が喜多町2-66。昭和劇場は、代表者が川島五郎、所在地が久保町4-1。*46

1963年の商工年鑑には、映画館として「株式会社アート座」と「合資会社挙母劇場」の2館が掲載されている。アート座は、設立が1951年10月27日、代表者が蟹正雄、所在地が喜多町2-41。挙母劇場は、設立が1954年12月27日、代表者が倉地とし子、所在地が西町1-112。*47

その後、映画全盛期にかけて以下の映画館が開館しましたが、映画の斜陽と共に数は減り、現在では3館となっています。
中村座(保見地区、大正2年頃-昭和10年)
竜城座(上郷地区、大正2年頃-昭和10年)
若林座(高岡地区、昭和8年-昭和34年)
丸正座(上郷地区、昭和14年頃-閉館時期不明)
猿投劇場(猿投地区、昭和2年頃、昭和55年)
アート座(挙母地区、昭和26年-平成3年)
上野劇場(上郷地区、昭和30年頃-昭和37年)
保見劇場(保見地区、昭和30年頃-昭和35年頃)
グランド中央館(寿町、昭和52年-)
ジャスコシネマ(東山町、昭和63年-)
コロナ会館(清水町、平成4年-)*48

明川映画劇場

所在地 : 愛知県東加茂郡足助町明川(1956年・1957年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1957年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年の映画館名簿では「明川映画劇場」。1958年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。

若林座

所在地 : 愛知県碧海郡高岡村(1950年)、愛知県碧海郡高岡村若林19-1(1953年・1955年)、愛知県碧海郡高岡町若林19-1(1960年・1963年)
開館年 : 1933年? 1934年2月?
閉館年 : 1959年
Wikipedia : 若林座
『全国映画館総覧 1955』によると1934年2月設立。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「若林座」。1965年のゼンリン住宅地図では跡地に「空き地」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1968年のアイゼン住宅地図では「映画館」。跡地は「豊田鶏卵若林営業所」東50mにある4軒分の民家。最寄駅は名鉄三河線若林駅。

碧海郡高岡町の「若林座」では芝居のほかに、浪曲、漫才、踊り、歌、活動写真(映画)も上演されていた。1952年(昭和27年)の若林座の写真あり。看板に「若林座映画演劇興行」の文字が見える。*49

碧海郡高岡町の「若林座」では芝居、浪曲、映画を上映していた。1952年(昭和27年)の若林座の写真あり。看板に「四月十五日一日限 若林座いなり祭り 十銭均一」の文字が見える*50

現在の豊田市若林東町には劇場「若林座」があった。若林はもろちん、近郷近在から多くの人が詰めかけた。1939年(昭和14年)頃の写真あり。*51

1951年(昭和26年)当時の大衆娯楽の王様は映画であった。若林地区には「若林劇場」があったが、周辺の映画館は知立町の「知立劇場」と挙母市の「挙母劇場」だけだったため、若林劇場の人気は高かった。休日には、上郷村・竹村・堤村・吉原村からも大勢の人が自転車で押しかけて混雑した。テレビの普及による映画人気の凋落とともに、若林座は取り壊されてアパートになった。写真は若林座映画演劇のいなり祭の看板。安田実一座、十銭均一。中野明子初演、美顔士小畠春夫。現在の若林東町高根下81であり中野氏アパートになっている。*52

豊田市若林の「若林座」。豊田市棒の手会館資料展示。戦前から戦後にかけ、現在の豊田市南部で人気を呼んでいた芝居小屋「若林座」の小道具担当は故清水梅三郎氏、広瀬金六・都築利エ門両氏は大道具担当(現若林西町向屋敷)であった。若林座は1933年(昭和8年)、豊田市中根町の中野登一が創業した。芝居小屋の1階は24畳、2階は12畳ほどの広さで、定員は約110人だった。企画展背景幕は手書きで農村の雪景色や春の桜、庭などが鮮やかに描かれ、宣伝用のうちわには店の屋号が入っていた。地元の素人演芸大会の優勝旗には花柳界の芸妓たちやタクシー会社の名前が刺繍されていた。*53

2019年9月14日と15日、豊田市の若林交流館でイベント「若林座があったころ」が開催される。若林座は1933年、製粉業で財を成した中野登一が現在の名鉄三河線若林駅近くに開館した。1959年9月26日の伊勢湾台風で建物に被害を受けて閉館した。木造2階建てであり、定員は120人。この地域の文化の殿堂だった。14日にはちんどん屋による触れ回り、創業者の孫で名古屋大学名誉教授の中野紀和男のトークショー、豊田市で活動する劇団「笑劇派」の公演、愛知県立豊田南高校演劇部による芝居の公演、豊田市が舞台となった映画「星めぐりの町」の上映など。15日にはドジョウすくい、日本舞踊、バンド演奏など。*54

大門座/稲武劇場

所在地 : 愛知県北設楽郡稲武町武節(1959年)、愛知県北設楽郡稲武町(1960年)
開館年 : 1942年以前
閉館年 : 1960年頃
1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「稲武劇場」。1961年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。1983年・1985年・1986年のゼンリン住宅地図では跡地に「駐車場」。現在の跡地は「寿司と和食の店つたや」の北150mにある駐車場。

1942年(昭和17年)の東加茂郡稲武町にあった「大門座」の館内の写真あり。『目で見る 稲武の歴史と文化』の写真と同一。大門座で出征遺家族の慰労会が開催された。*55

東加茂郡稲武町にあった「大門座」の館内の写真あり。『武節町の歩み』の写真と同一。大門座では、戦後まもなく結成されたチェリー楽団が観客を沸かせた。*56

弁天座

所在地 : 愛知県東加茂郡松平村九久平(1953年・1955年・1960年・1963年)
開館年 : 1913年
閉館年 : 1963年
Wikipedia : 弁天座
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「弁天座」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1976年のゼンリン住宅地図では跡地に「志満屋」または「黒柳薬局」。現在の跡地は「豊田商工会議所松平支所」北西40mの民家。

1913年(大正2年)5月には松平村唯一の娯楽施設である「弁天座」が設立された。近くに弁天島があったことに因んでいるとされる。

1株20円の株式によって設立された劇場であり、以下の人物が発起人や経営者だった。「中垣内 小畠廉二」「九久平 鈴木鉄五郎」「九久平 伊予田九市」「九久平 宇野友次郎」「九久平 伊予田小三郎」。1933年(昭和8年)頃までは、巡業芸人による旧劇の演劇、新派(現代劇)の演劇、活動写真(映画)、万才・奇術・浪曲などが行われた。しばしば経営者が交代し、1934年(昭和9年)頃に鵜ヶ瀬の荒井半三郎が所有者となった。碧海郡安城町の坂東勘菊は荒井半三郎より借り受けて3年ほど営業した。ついで九久平の宇野鏡治・中泉精一郎・築瀬守三の3人が5年ほど借り受け経営した。このころは無声映画も上映した。太平洋戦争が激化した1943年(昭和18年)には、疎開者の物資を保管する倉庫として終戦まで使用された。戦後の1946年(昭和21年)頃、六ツ木の加藤甲子が荒井半三郎より所有権を譲り受け、1963年(昭和38年)まで営業を続けた。この間ガラ紡の休日(毎月1日・15日)、農休み、秋の収穫後などに時代劇・現代劇や浪曲・映画・万才・素人のど自慢・女相撲など色とりどりのものを興行した。テレビの普及で観客が減少し、また弁天座裏に県道が開通することから、建物はとり壊された。*57

明治末期から大正初期にかけての九久平には、呉服商、日用雑貨商、船頭や運送荷馬車引き相手の飲食店(うどん屋・寿司屋・菓子屋・料理店)が10軒以上あった。1913年(大正2年)には芝居小屋の弁天座が開館し、興行日には近隣から集まった観客で満員となり、そのたびに九久平の町はひときわにぎわった。弁天座では松平町の全小学校が参加する連合学芸会も行われ、地区住民が演じることもあった。*58

港橋を渡ってすぐ、八百屋の前あたりに「弁天座」があった。木戸で料金を支払って靴を預け、番号札をもらって館内に入った。館内は畳敷きであり、冬季には毛布や座布団を持参した。売店や2階席もあった。時代劇や母もの、『鞍馬天狗』シリーズ、美空ひばり主演作『狸御殿』、『紅孔雀』、『君の名は』などが上映された。*59

1913年(大正2年)5月に設立された松平の弁天座は、1963年(昭和38年)まで営業が続けられたとの記録が残っている。*60

「1959年頃の九久平の街並み」の地図が掲載されており、港橋の2軒東が劇場の弁天座であるとしている。西隣は菓子屋、東隣は薬屋、道路を挟んで正面は料理屋。現・港橋から100m下流にあった旧・港橋であることに注意。まだ愛知県道39号も建設されていない。*61

「弁天座」の開館記念の絵番付があり、「7月14日開場」と書かれている。*62

上野劇場

所在地 : 愛知県碧海郡上郷村上野(1960年)、愛知県碧海郡上郷村(1963年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1963年以後1965年以前
1955年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「上野劇場」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1968年・1971年のアイゼン住宅地図では跡地に「鈴栄タクシー」や「鶴田鈴一」邸。1976年のゼンリン住宅地図では跡地に「鈴栄タクシー 鈴木綿店」。現在の跡地は「株式会社オーワ上郷」の右隣で「上乃屋電設機器株式会社」の向かいにある「高村正直」邸。最寄駅は愛知環状鉄道線三河上郷駅。

上郷地区唯一の娯楽場。昭和30年代に大衆演劇劇場から映画館に転身。電柱に設置されたスピーカーからは客寄せで三橋美智也や三波春夫の歌声が流れた。30以上の店舗が並ぶ上野商店街であり、上郷銀座とも呼ばれた。1961年(昭和36年)の写真あり。現在は民家となっており、門の両脇には獅子の石像2体が立っている。*63

宝城座/小原劇場

所在地 : 愛知県西加茂郡小原村大草(1953年・1955年・1960年・1963年)
開館年 : 1930年
閉館年 : 1965年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「小原劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1985年のゼンリン住宅地図では「品野屋旅館」敷地。現在の跡地は「品野屋旅館」南東隣にある「ファミリーマート小原店」の駐車場。

1930年(昭和5年)には西加茂郡小原村の大草に「宝城座」が建設された。演芸や映画の常設館として親しまれたが、1970年(昭和45年)に閉館して取り壊された。大正・昭和期の大草にあった商店の地図が掲載されており、「品野屋旅館」の南東の隣に宝城座が掲載されている。*64

1926年(昭和元年)には大草に宝城座が建てられ、当時は芝居のみが上演されていた。1938年(昭和13年)頃からは、正月や盆やその他の祝祭日に映画を上映するようになった。1957年には宝城座から小原劇場に改称した。*65

西盛座/足助東映

所在地 : 愛知県東加茂郡足助町(1950年)、愛知県東加茂郡足助町足助西町(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1871年
閉館年 : 1963年以後1965年以前
1950年・1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「西盛座」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の全航空住宅地図帳では跡地に「八木輝」邸。1979年のアイゼン住宅地図では跡地に「ギョーザ・ラーメン チュン」。1985年のゼンリン住宅地図では跡地に「中野歯科医院」。跡地は「中野歯科」。

東加茂郡足助町の「西盛座」は1871年に開館した劇場であり、かつては浪曲の上演、舞踊の発表会、弁士付きのサイレント映画の興行などを行っていた。映画では『清水の次郎長』や『宮本武蔵』などの邦画、『黄色いリボン』や『駅馬車』などの洋画を上映した。*66

1936年(昭和11年)生まれの筆者の地元の足助町には、明治時代に建てられた「西盛座」という芝居小屋があった。1階中央部は椅子席、1階の両側と2階は畳敷き席だった。芝居・歌舞伎・漫才・浪曲・落語・記述などさまざまな興行が行われ、やがて映画も上映されるようになった。戦後間もない頃には『君の名は』が大盛況であり、2階の桟敷席が観客の重さで落下する事故が起こったという。1958年(昭和33年)には楽屋から出火して全焼したが、映画専門館として営業を再開した。*67

猿投劇場

所在地 : 愛知県西加茂郡猿投町四郷(1958年)、愛知県西加茂郡猿投町字井上45(1960年)、愛知県西加茂郡猿投町四郷(1963年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1963年以後1965年以前
1955年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「猿投劇場」。1965年のゼンリン住宅地図では「猿投劇場」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1968年のアイゼン住宅地図では跡地に空き地。1976年のゼンリン住宅地図では跡地に「中部陸運倉庫」。1985年のゼンリン住宅地図では跡地に「中部陸運(株)」。現在の跡地は「平安会館ちごの口猿投駅前斎場」敷地西側。最寄駅は名鉄三河線猿投駅。

大正座/昭和劇場

1950年の昭和劇場*68
昭和劇場*69
所在地 : 愛知県西加茂郡挙母町(1950年)、愛知県挙母市久保18(1953年)、愛知県挙母市久保町18(1955年)、愛知県豊田市久保町4-1(1960年・1963年)
開館年 : 1913年、1921年10月、1938年
閉館年 : 1963年以後1965年以前
Wikipedia : 昭和劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1921年10月設立。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「昭和劇場」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1968年のアイゼン住宅地図では跡地に空き地。1976年・1979年・1985年のゼンリン住宅地図では跡地に「駐車場」。跡地は「児ノ口公園」東にある「東区区民会館」やその南の民家や駐車場。最寄駅は名鉄三河線・豊田線豊田市駅。

1913年(大正2年)に開館した「大正座」でも活動写真の上映は行われていたが、1938年(昭和13年)に新築して「昭和劇場」に改称し、さらに株式会社組織となった。*70}

1913年(大正2年)に建設された大正座を改装して1938年(昭和13年)に開館したのが昭和劇場。竹生通りに近く、休日には多数の人でにぎわった。2017年(平成29年)現在の付近には竹生町山車倉庫や新しい竹生町山車蔵があり、竹生町山車蔵はかつての昭和劇場敷地の北側。1961年(昭和36年)の写真あり。*71

1951年(昭和26年)に豊田市の市制施行当時にあった映画館は挙母劇場と昭和劇場の2館のみである。昭和劇場があった竹生通りは豊田市街地の北の入口にあたり、休日には北部の町や村から大勢の観客が自転車で詰めかけた。昭和劇場近くにはうどん屋の大見屋があり、休日の昼飯時にはたいへんな混雑だった。『幽霊と未亡人』の看板がある1950年(昭和25年)の昭和劇場の写真あり。駐車場となった1989年(平成元年)現在の写真もあり。*72

1914年(大正3年)1月5日、「大正座」で上棟式が挙行された(『挙母』p.101)。6月10日、大正座で開場式が行われた(p.101)。1920年(大正9年)11月6日から2日間は、大正座で大相撲が興行された(p.113)。11月29日から3日間は大正座で恵比寿講芝居が興行され、連日にわたって木戸が締め切られる盛況だった(p.114)。『挙母』p.168には大正座や宝集座の名前が見える1932年(昭和7年)発行の挙母町下町商店図(大日本職業別明細図)が掲載されている。1932年の挙母地区電話交換加入者名及番号によると、大正座の経営者は倉知鍬次郎興行部であり、所在地は挙母町大字挙母久保町12だった(p.170)。1938年(昭和13年)9月8日には改築された「昭和劇場」で2日間の改築披露興行が行われた(p.218)。開場披露興行の前売り券の写真あり。松本幸四郎や劇場主らが映った記念写真あり(p.228)。*73

かつて繁栄した「大正座」は久しく廃業状態だった。1938年4月には梅田辰五郎らによって買収資本金1万円で昭和劇場株式会社が設立され、建物や内装などの改築工事を終えて近代的な劇場が竣工した。近日中に歌舞伎の松本幸四郎一派を招聘して開場披露公演を開催する見込みである。*74

建物内外を新装した「昭和劇場」は、1938年9月8日・9日に改築披露公演を行うこととなった。東京大歌舞伎の松本幸四郎・市川小太夫・市川染五郎・中村芝鶴ら百余名の一座を招く。一等席の前売り券は2円70銭。両日とも午後2時に開演する。*75

足助劇場

所在地 : 愛知県東加茂郡足助町(1953年)、愛知県東加茂郡足助町足助陣屋跡(1955年)、愛知県東加茂郡足助町陣屋敷(1960年)、愛知県東加茂郡足助町大字足助陣屋跡(1963年)
開館年 : 1952年8月
閉館年 : 1960年代末? 昭和40年代前半?
Wikipedia : 足助劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1952年8月設立。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「足助劇場」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の全航空住宅地図帳では跡地に「ガレージ」。1979年のアイゼン住宅地図では跡地に「平野建材店倉庫」。1985年のゼンリン住宅地図では跡地に「平野建材倉庫」。2018年に映画館の建物が取り壊された。現在の跡地は居酒屋「たんぽぽ」の北向かいにある月極駐車場。

2館目の映画館は「本町上田」の足助劇場。歌謡ショーも多く、藤島武雄の「君の名は」などが人気があった。ひなまつりなどの季節行事の時期に雨が降ると、映画館は満員となった。昭和40年代前半、『伊豆の踊子』の上映を最後に閉館した。*76

建物は昭和20年代に建てられた。木造平屋建。延べ床面積約500m2。外壁はモルタル。地元住民が共同で出資して、1952年頃に開館した。定員は276人。主に邦画を上映。著名な俳優が訪れて芝居を披露したこともあった。映画全盛期は立ち見客が出るほどにぎわっていた。経営難により1960年代末に閉館。建材店を経営していた平野氏が建物を引き取り、倉庫として使用されていた。コンクリート会社の社長である平野雅人(50)が親から引き継いだ後は、建材部門の縮小により倉庫としても使用されなくなった。老朽化が進行し、雨漏りもあったため、2018年4月以後に解体される。館内に残された映写機や映画のポスターの貰い手を募っている。*77

上伊保劇場/保見劇場

所在地 : 愛知県西加茂郡猿投町上伊保(1960年・1963年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「上伊保劇場」。1965年の映画館名簿では「保見劇場」。1965年のゼンリン住宅地図では「保見劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1968年のアイゼン住宅地図では跡地に空き地。1976年のゼンリン住宅地図では「中京大体操競技部●●●合宿所」。1979年のゼンリン住宅地図では「中京大学岩鮎合宿所」。現在の跡地は「了喜院」東100mの空き地。最寄駅は愛知環状鉄道線保見駅。

宝源座/小渡劇場

所在地 : 愛知県東加茂郡旭村(1950年)、愛知県東加茂郡旭村小渡(1955年・1960年・1963年・1966年)、愛知県東加茂郡旭町小渡(1969年)
開館年 : 1916年? 1920年1月?
閉館年 : 1969年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1920年1月設立。1950年の映画館名簿では「宝源座」。1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「小渡劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1985年のゼンリン住宅地図では空地。現在の跡地は「御菓子処ひだや」専用駐車場。「ファミリーマート小渡店」のすぐ東側、「御菓子処ひだや」から風鈴通りを挟んで北側。

1966年(昭和41年)の東加茂郡旭村中心部の写真。奥の三角屋根は小渡小学校の講堂であり、その東側は小渡劇場。介木川(けんぎがわ)にかかる小渡新橋は1953年(昭和28年)に改築されている。なお旭村は1967年に町制を施行して旭町となっている。*78

サイト「旭探検シ隊!」には、1916年(大正5年)の小渡に宝源座が開館し、歌舞伎などを上演したとある。*79

2011年11月には豊田市郷土資料館で、企画展「歌舞伎の衣裳と文化 〜地域に息づく農村歌舞伎〜」を開催。旭郷土館に残されている小渡劇場の大入袋などが展示された。*80

かつて映画館だった宝源座は、昭和40年代時点ではパチンコ店だった。*81

『旭村公民館報』第10号(1950年11月5日)には「小渡 宝源座」の映画広告が掲載されている。11月5日は松竹の『婚約指環』、11月6日は新東宝の『鳴くな小鳩よ』、11月8日は東映の『にっぽんGメン』と『三本指の男』、11月11日は東映の『紅 二挺拳銃』と『脱獄』、11月13日と14日は『山のかなたに 前編』と『ウキウキ道中』、11月17日は東映の『ジルバの鉄』、11月18日は松竹の『新妻の性典』、11月21日と22日は新東宝の『山のかなたに 後編』、11月26日と27日は新東宝の『宗方姉妹』、11月28日は『てんやわんや 新装五人男』を上映する。以後も1950年12月、1951年1月、2月に掲載されているが、3月から映画広告は掲載されなくなる。*82

1951年6月時点の旭村小渡にはパチンコ屋が4軒もあった。『旭村の新聞』第30号(1952年11月10日)には1年9か月ぶりに「宝源座」の映画広告が掲載されている。11月21日午前10時から『宝島』(1950年、ディズニー)と大映の『母人形』を上映する。

『旭村の新聞』(旭村公民館報)の第32号(1953年1月)から第53号(1959年9月)を全て確認したが、小渡劇場に関する言及はないと思われる。『旭村広報』『広報あさひ』の第1号(1960年9月)から第46号(1970年12月)を全て確認したが、小渡劇場に関する言及はないと思われる。

アート座/豊田アート座

1951年の開館時のアート座*83
1951年の開館時のアート座*84
所在地 : 愛知県挙母市長生17(1953年・1955年)、愛知県豊田市喜多町2-66(1960年)、愛知県豊田市長生町(1963年)、愛知県豊田市喜多町2-66(1966年・1969年・1973年)、愛知県豊田市喜多町2-36(1976年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1951年10月
閉館年 : 1991年
Wikipedia : アート座
『全国映画館総覧 1955』によると1951年10月設立。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「アート座」。1968年のアイゼン住宅地図では「アート座劇場」。1966年・1969年・1976年・1980年・1985年・1990年・1992年の映画館名簿では「豊田アート座」。1976年・1979年のゼンリン住宅地図では「長崎屋 アート座」。1985年のゼンリン住宅地図では「豊田中央ビル 7階アート座映画館」。1992年のゼンリン住宅地図では「豊田中央ビル 7階 アート座映画館」。1993年・1995年の映画館名簿には掲載されていない。1996年のゼンリン住宅地図では跡地に「おいでんビル 7階 空白」。現在の跡地は「KiTARA グリーン棟」。最寄駅は名鉄三河線・豊田線豊田市駅。

祝栄座/宝集座/挙母劇場/コロモ劇場・コロモシネマ/コロモ劇場1・2・3/コロモ劇場1・2・3・コロモシネマ

1951年の挙母劇場*85
所在地 : 愛知県挙母市天神町74(1953年・1955年)、愛知県豊田市天神町74(1960年)、愛知県豊田市神明町2-9(1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1882年、1904年5月
閉館年 : 1992年
Wikipedia : 挙母劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1904年5月設立。1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1976年・1980年の映画館名簿では「挙母劇場」。1968年・1971年のアイゼン住宅地図では「挙母劇場」。1976年・1979年のゼンリン住宅地図では「挙母劇場」。1982年・1985年の映画館名簿では「コロモ劇場・コロモシネマ」(2館)。1985年のゼンリン住宅地図では「ニューコロモビル 1階 コロモシネマ ヤングサロン ビバアフリカ1号店、2階コロモ劇場」。1990年・1992年の映画館名簿では「コロモ劇場1・2・3」(3館)。1992年のゼンリン住宅地図では「ニューコロモビル コロモ劇場1・2・3・コロモシネマ」。1993年・1995年の映画館名簿には掲載されていない。1996年のゼンリン住宅地図では跡地に「ライオンズシティ豊田」。現在の跡地は1996年竣工のマンション「ライオンズシティ豊田東棟」。最寄駅は名鉄三河線・豊田線豊田市駅。

豊田市郷土資料館の敷地内(屋外)には、1975年に建て替えられる前の挙母劇場の屋根に用いられていた鬼瓦が民俗資料として常設展示されている。高さ1.3m、幅2mであり、一般的な鬼瓦よりもかなり大きい。*86

かつて豊田市の中心市街地には3つの映画館があった。1882年(明治15年)建設の祝栄座に始まる「挙母劇場」、1913年(大正2年)建設の大正座に始まる「昭和劇場」、1951年(昭和26年)に開館した「アート座」である。最古参の挙母劇場は現在の神明町にあり、当時の収容客席は700-800席だった。1975年(昭和50年)に鉄筋コンクリート造3階建ての建物に建て替えられ、1994年(平成6年)頃に閉館した。*87

豊田市域でもっとも古い劇場は1882年(明治15年)開館の「祝栄座」である。後に「宝集座」と改称し、1934年(昭和9年)に「挙母劇場」と改称した。映画人気が高まると挙母劇場は映画館としての設備も備え、1938年(昭和13年)には松竹、日活、新興、東宝の4社製作の映画の上映権を持つ劇場となった。この年の『加茂時報』によると、挙母劇場は発声装置を設置する予定であるという。*88

「挙母劇場」は竹生通りの「昭和劇場」と並ぶ数少ない娯楽施設のひとつで、休日ともなると大変な賑わいだった。写真には『続・二等兵物語』と『浪人街』の看板が見える。劇場の裏には酒屋があり、経営者は変わったが1989年現在も同じ屋号で営業を続けている。道を挟んだ向かいには喫茶店の梅月があり、やはり1989年現在も営業を続けている。72ページの写真は現在の神明町「挙母劇場」付近。写真ほぼ中央に「コロモ劇場」の看板が見える。73ページの写真は昭和20年代末の挙母劇場付近の神明町。*89

豊田市神明町に現存する「挙母劇場」の昭和初期の写真あり。当時の収容客席は700-800席だったが、1975年(昭和50年)に建て替えられて鉄筋コンクリート造3階建に。*90}

1882年(明治15年)に祝栄座劇場として建設される。1934年(昭和9年)に改称されて「挙母劇場」に。豊田市域では竹生通りの昭和劇場と並んで戦前から続く数少ない娯楽施設。1956年(昭和34年)に子供たちが劇場前で遊ぶ写真もある。劇場前は登校前の集合場所だった。1971年(昭和46年)の写真あり。『喜劇 猪突猛進せよ!!』(1971年・松竹)、『内海の輪』(1971年・松竹)、『THE BODY』(1970年・イギリス)、『彼女と彼』(1963年・日本)などの看板が見える。閉館は1994年(平成6年)。現在はマンションの駐車場。*91

神明通りには秋葉山(灯籠)があり、この向こうに挙母劇場があった。「コロモ劇場」の看板が見える。(※建物そのものは映っていない。閉館前の1990年代前半の写真と思われる)*92

1988年(昭和63年)10月には豊田市駅西口にそごう百貨店を中心とする再開発ビルがオープンする。豊田市駅東側の商店街は危機感を募らせており、元銀座通りでは一帯の再開発構想が浮上している。現在の駅東側の核は長崎屋とアピタだが、土日は著しい駐車場不足となっている。このため、駐車場・飲食店街・コロモ劇場などを含めた7階建てレジャービルを建設しようとする構想がある。現在は具体的な計画には至っていないが、1階と2階を飲食店街や映画館、3階から7階を立体駐車場にしようとする構想である。場所はかつて東海銀行があった共同駐車場を中心に、コロモ劇場(挙母劇場)や槌屋旅館も含めた範囲。*93

豊田コロナシネマ1・2

所在地 : 愛知県豊田市清水町1-24-1
開館年 : 1992年12月26日
閉館年 : 1999年以後2000年以前
1990年・1993年・1995年・1997年・2000年の映画館名簿には掲載されていない。1992年のゼンリン住宅地図では「豊田コロナ会館(建築中)」。1996年のゼンリン住宅地図では「豊田コロナ会館」(※映画館の有無は記載なし)。2スクリーン計166席のビデオシアター。豊田コロナワールドは現在も営業中。最寄駅は名鉄三河線土橋駅。

豊田ジャスコシアター1・2/ジャスコファミリーシアター高橋1・2

所在地 : 愛知県豊田市東山町1-5-1 ジャスコ高橋店3階(1997年)
開館年 : 1988年
閉館年 : 2000年1月16日
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1995年・1997年の映画館名簿では「豊田ジャスコシアター1・2」(2館)。1992年・1996年のゼンリン住宅地図では「グリーンシティジャスコ高橋店」(※映画館の有無については記載なし)。2000年の映画館名簿では「ジャスコファミリーシアター高橋1・2」(2館)。跡地は「グリーンシティ高橋」(イオン高橋店)。最寄駅は名鉄三河線・豊田線豊田市駅。

2000年1月16日に閉館したとされるが、新聞記事などで要確認。2018年時点で、誰でも見える場所(駐車場)に映画館時代のスクリーンが保管されている。エレベーター内のフロア案内には「ファミリーシアター」という文字がステッカーで隠されている。*94

トヨタ中央・中央A/トヨタグランド中央1-6/トヨタグランド中央1-4/トヨタグランド1・2

所在地 : 愛知県豊田市寿町3-23(1980年)
開館年 : 1977年7月16日
閉館年 : 2019年4月14日
Wikipedia : トヨタグランド
港町キネマ通り : トヨタグランド
1976年のゼンリン住宅地図では後の映画館の場所に空き地。1976年・1977年の映画館名簿には掲載されていない。1978年・1980年の映画館名簿では「トヨタ中央・中央A」(2館)。1982年の映画館名簿では「トヨタ中央・中央A・グランド中央・ロマン中央」(4館)。1985年のゼンリン住宅地図では「(南館)ロマン中央・グランド中央、(西館)トヨタ中央劇場・中央A劇場」。1985年の映画館名簿では「トヨタ中央・中央A・トヨタグランド中央・トヨタロマン中央」(4館)。1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「トヨタグランド中央1・2・3・4・5・6」(6館)。1992年のゼンリン住宅地図では「(北館) 2階 グランド中央2・3、南館 グランド中央1・4、西館 グランド中央5・6」。1996年のゼンリン住宅地図では「(北館) 2階 グランド中央2・3、南館 グランド中央1・4」。2005年の映画館名簿では「トヨタグランド1・2・3・4・5・6」(6館)。2006年の映画館名簿では「トヨタグランド1・2・3・4」(4館)。最寄駅は名鉄三河線土橋駅または愛知環状鉄道線三河豊田駅。

1977年7月中旬頃、豊田市南部のトヨタ自工街である山之手に、洋画専門映画館「豊田中央劇場」が開館する。同館にはポルノ専門館として運用される小劇場も付随している。建設予定地から約300mには豊田市立山之手小学校があり、「通学路に映画館を作らないで」との要望があった。5月20日には山之手小学校に劇場側責任者を招き、PTAに区長や校長を交えて話し合った結果、5項目の自主規制が調印された。「1 映画館からストリップ劇場への業態変更はしない」「2 通学路及び学区内にはポルノ映画のポスターを貼らない」「3 映画館でストリップショーは行わない」「4 青少年の健全育成都市たる良識ある営業活動をする」「5 問題が発生した場合は学校側と話し合う」。豊田中央劇場はパチンコ店駐車場の北側に建設され、A館と称する100席のポルノ専門館が併設される。経営者は中野喜七郎。建設地の前後は通学路となっており、児童がどぎつい裸体ポスターを見せられては大変ということで学区から反対ムードが高まっていた。2館合わせて約300席。昨今は日本各地でポルノ映画の人気が高く、勤労青少年らに及ぼす影響は大きく、性犯罪の助長につながりかねないと懸念される。*95

1977年7月15日の『中日新聞』「映画案内」によると、7月16日には洋画大作封切劇場のトヨタ中央と名作傑作低料金劇場の寿町中央Aが開館する。オープニング作品はトヨタ中央が『合衆国最後の日』『大陸横断超特急』2本立て、寿町中央Aが『新・個人教授』『卒業』2本立て。*96

1977年7月17日の『新三河タイムス』「豊田市内興行館 上映番組案内」には、アート座、挙母劇場、トヨタ中央劇場、中央A館の4館が掲載されている。アート座は7月29日まで『ヘルスメーク』と『悪魔のハーレム』を、7月30日から8月7日まで『エアポート77』と『ジョーズ』を上映している。挙母劇場は7月16日から7月21日まで『痴漢変態魔』と『実録女高生集団売春』と『強烈時計回し』を、7月23日から7月29日まで『犬神のたたり』と『新女囚さそり特別房X』を上映している。トヨタ中央劇場は7月16日から7月31日まで『大陸横断超特急』と『合衆国最後の日』を上映している。中央A館では7月16日から7月31日まで『卒業』と『新個人教授』を上映している。*97

1977年7月には豊田市の映画館が2館から4館に増えた。豊田市は世界的企業が立地する20万都市であるが、今までの映画環境は貧弱すぎ、周辺の都市に観客を取られてきた。豊田市では映画にポスターが街の風景を引き立てている光景を目にしたことがなく、市民は映画の楽しさを認識しなおす必要がある。*98

2017年11月のイオンシネマ豊田KiTARAの開館まで、トヨタグランドは豊田市唯一の映画館だった。映画館を訪れた子どもが立ち寄るためにゲームセンターを併設している。アニメ作品を中心としながら、良質な作品を封切りから3-4か月遅れて上映する方針であり、イオンシネマ豊田KiTARAの開館後もこの方針に変更はないという。*99

2019年(平成31年)4月14日、豊田市寿町の映画館「トヨタグランド」が閉館する。4月13日と14日にはさよなら特別上映会を開催し、『ドラえもん』や『ラ・ラ・ランド』などを上映する。『ドラえもん』やディズニー作品など、アニメ映画を中心に上映していた。夏休みには豊田市内の子供会が団体で鑑賞しておりにぎわった。しかし、2000年には隣接するみよし市に、2008年には隣接する岡崎市にシネコンが開業し、2010年頃には4スクリーンから2スクリーンに縮小した。2010年には年間10万人以上の観客があったが、現在は3万人を切っていた。閉館後には改修してフィットネスジムに生まれ変わる予定である。1980年(昭和55年)に6スクリーンで「トヨタグランド中央」として開館。6スクリーンから4スクリーンになった時期は不明。2003年(平成15年)には運営会社がサンプランニングスに移行し、トヨタグランドに改称。2010年(平成22年)頃には4スクリーンから2スクリーンに減少。2012年(平成24年)にはデジタル上映を開始した。*100

2019年(平成31年)4月14日、豊田市の映画館「トヨタグランド」が閉館する。1980年(昭和55年)に開館し、最大で6スクリーンを有していたが、2010年(平成22年)に4スクリーンを2スクリーンに減らした。デジタル化移行期には閉館も検討したが、名古屋市のフィルム映画館と情報交換を行い、小型デジタル装置を購入して存続させた。2009年(平成21年)までの観客数は10万人台だったが、2スクリーンとなった2010年(平成22年)には4万人台となり、その後は3万人前後、2018年(平成30年)には過去5年で最小の2万8000人だった。最終上映作品は『ドラえもん のび太の月面探査記』。*101

イオンシネマ豊田KiTARA

所在地 : 愛知県豊田市喜多町2丁目170番地(2018年)
開館年 : 2017年11月25日
閉館年 : 営業中
2015年・2017年の映画館名簿には掲載されていない。2018年の映画館名簿では「イオンシネマ豊田KiTARA 1-9」(9館)。

2016年11月22日、豊田市駅前通り北地区(喜多町)に商業施設などを備えて2017年11月に誕生する再開発ビルの名称が「KiTARA」(キタラ)に決定した。名称を公募した同地区市街地再開発組合が発表。気軽に来訪を呼び掛ける「来たら?」の言葉や、所在地の喜多町の音の響きを含んでいる。ビルは東西に並ぶ地上8〜26階の3棟(延べ床面積計55300平方メートル)。駅に近い西側の8階建て「商業・業務棟」は、5〜8階にイオンエンターテイメント(東京)が運営するシネマコンプレックス(複合映画館)が入り、9つのスクリーン、計1100席の客席を備える。下階には企業の事務所や飲食店、銀行が入居する。中央の8階建て「高齢者施設棟」には、特別養護老人ホームや介護付き有料老人ホームが入り、計160部屋。東側は26階建てのタワーマンションからなる「住宅棟」で、161戸を分譲する。シネコンは2017年11月、高齢者施設は2018年の開業をめざし、マンションは2018年1月に入居を始める。*102

2017年11月下旬には豊田市と日進市に相次いでシネコンが開館する。豊田市と名古屋市を結ぶ国道153号周辺を見ると、スクリーン数・座席数とも2倍以上に増加し、4施設・33スクリーン・約5300席となる。((
「日進〜豊田、シネコン続々 下旬、計4カ所に 倍超す規模」『朝日新聞』2017年11月20日))

2017年11月25日、名鉄豊田市駅前の再開発ビル「KiTARA」がオープンした。ブルー棟(商業・業務棟)の5階から8階にはシネコンが入り、9スクリーン約1100席を備える。開館当日には『星めぐりの町』の先行上映と、黒土三男監督や出演者の舞台挨拶もあった。*103

2018年1月20日、豊田市を舞台とする映画『星めぐりの町』が、豊田市にある映画館3館で先行上映が開始された。イオンシネマ豊田KiTARAでは、黒土三男監督と主演の小林ネンジの舞台挨拶が行われた。冒頭では豊田市石野地区の名木「成合の一本桜」が登場する。*104

碧南市

1948年、大浜町新川町棚尾町旭村の3町1村が合併して碧南市が成立した。大浜町は現在の碧南市中央部、新川町は碧南市北部、棚尾村は碧南市、旭村は碧南市東部に位置する。大浜町には1館、新川町には3館、棚尾町には1館の映画館が存在した。「トボトボ歩く 碧南市」というサイトで映画館の歴史が触れられている。

碧南市の映画館

1879年(明治12年)-1880年(明治13年)頃、碧海郡大浜村が村営の「蓬莱座」(後の「寿々喜座」)を開館させた。1887年(明治20年)には「新盛座」が開館した。1913(大正2年)には無声の活動写真が制作され始め、寿々喜座や新盛座では弁士がついた上映が行われた。昭和初期にはトーキー映画も制作されるようになった。1928年(昭和3年)には三河鉄道大浜港駅(現・名鉄三河線碧南駅)の南に碧南初の映画常設館である「碧南キネマ」が開館し、初めてトーキーの洋画を上映した。*105

旭座

所在地 : 愛知県碧海郡旭村
開館年 : 1927年
閉館年 : 1929年
1927年(昭和2年)には碧海郡旭村に「旭座」が開館したが、わずか数年と短命であり、1929年(昭和4年)に閉館した。三河鉄道(後の名鉄三河線)三河旭駅前にあった木造平屋建の劇場である。*106

碧南キネマ

所在地 : 愛知県碧海郡大浜町
開館年 : 1928年
閉館年 : 1931年-1932年頃
1928年(昭和3年)頃には碧海郡大浜町に「碧南キネマ」が開館し、数年後の1931年(昭和6年)-1932年(昭和7年)頃に閉館した。生田重松・田中某らを発起人として、三河鉄道大浜港駅(現・名鉄三河線碧南駅)の南に木造平屋建で開館した。碧南キネマは碧南で最初の映画専門館であり、また碧南の名を冠した最初の民間企業でもあり、さらに碧南で洋画のトーキー(発声映画)を最初に上映した。この3点は碧南の文化にとって大きな意味を持つが、営業期間はわずか3-4年だった。*107

新盛座

所在地 : 愛知県碧南市新川町(1953年・1955年)、愛知県碧南市新川町銀座(1960年)
開館年 : 1887年
閉館年 : 1961年
Wikipedia : 新盛座
1953年・1955年・1960年・1962年の映画館名簿では「新盛座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年のポータブル住宅地図では「新盛座」。1976年の航空住宅地図帳では跡地に駐車場。跡地は「だいこく屋」南西側の駐車場。最寄駅は名鉄三河線新川町駅。読みは「しんせいざ」。

1887年(明治20年)、大浜の蓬莱座に対抗して西三河最大級の劇場「新盛座」が開館した。建物は木造3階建て。発起人は岡本八右衛門であり、賛同者6人とともに、資本金2万円の株式会社として開館している。演劇の公演以外にも、講演会や演説会などが催され、公共施設的な性格も有した。1961年(昭和36年)に閉館した。銀座通り商店街の一角、衣料品学生服の「大黒屋」裏に広がる駐車場敷地にあった。

1959年(昭和34年)9月26日、伊勢湾台風の来襲した夜には商店街の招待で三波春夫がやってきた。三波は停電中の舞台で、ロウソクの明かりの中で観客を楽しませた。 次第に風雨が激しくなり、公演は中止となったが、三波は翌年の出演を観客に約束し、本当に翌年やって来た。三波春夫の律儀さには町民が皆感動したという。*108

1887年(明治20年)には「新盛座」が開館し、1961年(昭和36年)に閉館した。大浜村の蓬莱座に対抗して、北大浜村の鶴ケ崎(現・浅間町)に開館。岡本八右衛門ら7人が出資し、株式会社として設立されている。後に奥谷市朗が経営を継いだ。木造3階建で、当時は西三河最大の劇場であった。演劇以外にも講演会・演説会などの各種の会が開かれ、公共性が強かった。戦後は映画スターや歌手の実演も行われた。伊勢湾台風来襲の夜は、浪曲師から歌手に転向して大ヒット中の三波春夫が出演していた。停電のため、ろうそくの明かりで歌ったが、途中で風雨が強まり、翌年の出演を約束して幕を下ろした。奥谷市郎が亡くなると共に70年の歴史を閉じた。*109*110

寿々喜座

1934年の寿々喜座*111
1951年の寿々喜座*112
所在地 : 愛知県碧南市大浜町六供1(1953年)、愛知県碧南市大浜町六供(1955年)、愛知県碧南市六供1(1960年・1963年)
開館年 : 1879年(劇場)、1902年(移転・改称)
閉館年 : 1963年
Wikipedia : 寿々喜座
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「寿々喜座」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1966年のポータブル住宅地図では「寿々喜座」。1969年のアイゼン住宅地図では跡地に「主婦の店」。1976年の航空住宅地図帳では跡地に「主婦の店碧南店」。現在の跡地は「碧南信用金庫碧南支店」。最寄駅は名鉄三河線碧南駅。読みは「すずきざ」。

1879年(明治13年)、碧海郡大浜村の林泉寺の前に、村営の劇場として蓬莱座が開館した。これが大浜の劇場の始まりである。そののち民間に払い下げられ、1902年(明治35年)には鈴木喜三郎が字六供に新築移転し、寿々喜座と改称した。1932年(昭和7年)には火災で焼失したが、1934年(昭和9年)3月に営業を再開した。*113}

大浜本町通りにあったという劇場「寿々喜座」。碧南最初の劇場として明治12年(1879)に誕生したが、映画人気の衰退に昭和38年(1963)閉館してしまう。「浪花節は寿々喜座」と言われるほど繁盛し、映画全盛期には数々の名作洋画を上映
現在の碧海信用金庫・碧南支店のある場所に、大浜の人々に親しまれた「寿々喜座」という劇場があった。 明治12年(1879)に大浜村が村営劇場として、林泉寺前に「蓬莱座」を創立した。碧南市域最初の劇場である。 ところが経営が行き詰まり、存続が困難になったために「鈴木喜三郎」に156円で蓬莱座を売却する。 明治35年(1902)に現『碧海信用金庫碧南支店』の場所に移転し、劇場名を「寿々喜座」と改名した。 大浜の気質に浪花節が合致したことから、寿々喜座では浪花節が多く上演され、賑わいを見せた。 映画全盛期には、碧南市域の他の劇場が邦画を上映するなか、寿々喜座では対照的に洋画が上映され、人気を博した。 映画の人気がピークを越えた昭和38年(1963)、惜しくも寿々喜座は84年の歴史に幕を閉じた。*114


1902年(明治35年)、碧海郡大浜町六供(現・碧南市)に寿々喜座が開館。1932年(昭和7年)には火事で焼失し、2年後に再建されている。現在は跡地に碧海信用金庫が建っている。*115

寿々喜座は1879年(明治12年)頃に開館し、1963年(昭和38年)に閉館した。大浜村の村営劇場として、林泉寺の前に蓬莱座として開館。後には経営困難のために、民間人の鈴木喜三郎へ156円で払い下げた。1902年(明治35年)には本郷町(現在の碧南信用金庫の場所)に移築して、寿々喜座に改称した。大正から昭和初期には浪花節会の一流者の出演が続き、「浪花節は寿々喜座」と称された。その後は浪花節や芝居も上演したが、映画が主体となった。1950年(昭和25年)頃から一時的に洋画専門館となったが、まもなく東映の時代劇映画に重きを置いた。1963年(昭和38年)には時代の流れによって閉館。碧南で最古の劇場は80年の歴史の幕を下ろした。*116

碧南市本郷町にあった劇場の寿々喜座。浪花節や軽演劇で人気を博した。1932年(昭和7年)の火災で焼失し、再建されたときの写真である。戦後の映画の隆興期には洋画専門館として賑わい、長く大浜の人びとに親しまれた。*117

碧南映画劇場/浜劇/碧南浜劇

所在地 : 愛知県碧南市新川町(1958年・1959年)、愛知県碧南市衣浦温泉沖見平(1960年)、愛知県碧南市衣浦温泉沖見平35(1963年)、愛知県碧南市沖見平35(1966年・1969年)
開館年 : 1958年
閉館年 : 1962年? 1970年以後1973年以前?
Wikipedia : 浜劇
1958年・1959年の映画館名簿では「碧南映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「浜劇」。1966年のポータブル住宅地図では「碧南浜劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「碧南浜劇」。1969年のアイゼン住宅地図では「浜劇」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の航空住宅地図帳では跡地に「衣浦ファミリーボール」。跡地は「アサヒデンキセンター」北側の建物。最寄駅は名鉄三河線新川町駅。

1944年(昭和19年)には碧海郡明治村に、日本国海軍の明治航空基地が建設された。明治航空基地の将校の慰安所として、衣浦温泉街と呼ばれる特殊飲食店が開業した。戦後にはパチンコ店や麻雀店などが増え、花柳街・歓楽街として発展した。売春防止法制定の動きを察知すると、1958年(昭和33年)の売春防止法施行に先立って、1954年(昭和29年)に温泉街へと転換を図って危機を乗り越えた。1954年(昭和29年)10月に料理旅館「吉文」が開業したのを契機として、最盛期の1957年(昭和32年)には10軒の温泉旅館が営業していた。1958年(昭和33年)には平屋建・270席の劇場「浜劇」も開館した。現在の碧南市山神町1・2・6丁目の3区画にあたる場所が衣浦温泉街と呼ばれた地帯である。往時は碧南市一の歓楽街としてにぎわったが、現在は数軒の料理旅館が営業するだけである。*118

1958年(昭和33年)には衣浦温泉の全盛期に、温泉街の一角で「浜劇」が開館した。平屋建であり、座席数は270席だった。1960年(昭和35年)頃から映画人口が減少し、1962年(昭和37年)に閉館した。*119*120

棚尾三栄座/三栄座

所在地 : 愛知県碧南市棚尾町(1953年)、愛知県碧南市棚尾町森下(1955年)、愛知県碧南市棚尾町(1960年)、愛知県碧南市棚尾町森下2(1963年)、愛知県碧南市大字森下2-3(1966年)、愛知県碧南市大字森下2-2(1973年)、愛知県碧南市弥生町3-89(1976年)
開館年 : 1897年(劇場)、1937年(映画館化)
閉館年 : 1978年
Wikipedia : 三栄座
『全国映画館総覧 1955』によると1943年3月設立。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「三栄座」。1966年・1969年の映画館名簿では「棚尾三栄座」。1966年のポータブル住宅地図では「三栄座」。1969年のアイゼン住宅地図では「三栄座」。1973年・1976年の映画館名簿では「三栄座」。1976年の航空住宅地図帳では「映画 三栄座」。跡地は「八柱神社」社殿から北北西90mの住宅。

1897年(明治30年)頃、八柱神社の裏に「三栄座」という劇場が誕生した。 三栄座に来る客を当て込んで客相手の商売が発展し、棚尾のまちは歓楽街として発展した。1937年(昭和12年)頃には映画専門館となり、映画全盛の時流に乗ってさらに栄える。映画産業の衰退に合わせて、1978年(昭和53年)に閉館した。以後は棚尾の町から人波が消え、閑散とした町になってしまった。*121

明治から昭和にかけて、弥生町3丁目の八柱神社隣に劇場の三栄座があった。棚尾町だけでなく近隣市町村からの来客も多く、棚尾の町は大いににぎわった。明治・大正時代は、近くで栄えた花街の客を主体として、演劇や浪花節などが興行された。花柳界の芸事の発表なども行われ、花街の中心となって繁栄した。昭和に入ると、この頃から大衆娯楽の中心となった映画の専門館に改装した。戦後の昭和三十年代にテレビが普及するまでは、棚尾町の住民だけではなく名鉄三河線の電車で来る客も多かった。*122

1897年(明治30年)頃には三栄座が開館し、1978年(昭和53年)に閉館した。棚尾の八柱神社の北側に、株式会社として開館した。映画専門館になったのは1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)頃であり、オーケストラボックスを設け、ピアノも備えた。映画の全盛期には、名鉄三河線で平坂方面からも多くの観客が訪れた。近隣には風俗営業店もあり、大いににぎわった。1960年(昭和35年)には経営権が創業者の斎藤家から西尾の松栄館に移った。1978年(昭和53年)に閉館。同年には新川キネマも閉館し、碧南市から映画館が消えた。*123

棚尾の地は村芝居が盛んだった。1898年(明治31年)には劇場の三栄座が開館した。*124

三河新川キネマ/新川キネマ/新東映画

1964年頃の新川キネマ*125
所在地 : 愛知県碧南市小狭間42-2(1953年)、愛知県碧南市小狭間42(1955年)、愛知県碧南市小狭間(1960年)、愛知県碧南市小狭間42(1963年・1966年・1969年・1976年)
開館年 : 1929年
閉館年 : 1978年
Wikipedia : 新川キネマ
『全国映画館総覧 1955』によると1928年設立。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「新川キネマ」。1966年の映画館名簿では「三河新川キネマ」。1969年・1973年の映画館名簿では「新東映画」。1969年のアイゼン住宅地図では「新東映画」。1976年の航空住宅地図帳では「新東映画館」。1976年の映画館名簿では「新川キネマ」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は理容店「いちことこや」がある建物。最寄駅は名鉄三河線新川町駅。

碧南市の「新川キネマ通り」は、新しく並木通りが整備され、往年の面影は消えつつある。ただし、鶴見町一帯には映画館「新川キネマ」があった頃の雰囲気が残っている。街路灯には透かした編み目に「キネマ通り」と浮かび上がる仕組みが施されている。1978年(昭和53年)までここには映画館「新川キネマ」があった。昭和初期に千福から西山に抜ける農道が整備された際、 1929年(昭和4年)に地区の発展を願って映画館が建設された。千福ポケット広場から北東へ向かう道、和菓子屋、オートバイ屋、八百屋、染め物屋が並ぶ商店街、 これがその農道である。ここが本当のキネマ通りなのである。開館時には外車のオープンカーでトランペットを吹いて喧伝された。無声映画の時代で、上映しながら弁士が内容を語り表現するというものだった。水門橋から碧南市民図書館に向かう道路の脇、千福町3丁目の「いちことこや」の南西にあった。1960年(昭和35年)をピークに映画の人気も陰りを見せ、奇しくも棚尾町の「三栄座」と同じ1978年(昭和53年)に閉館した。キネマ通りの由来となった「新川キネマ」は跡形もない。*126

碧南市にあった映画館「新川キネマ」は、1929年(昭和4年)に開館し、1978年(昭和53年)に閉館した。河原真市・中根初太郎・石川幸三郎・石黒某らを発起人として株式会社が設立された。当時、千福から西山へ通じる農道(現・キネマ通り)を拡張するに当たり、「地区の発展に寄与する私設を」という要望から、粘土採掘場の跡地(現・千福町3-96)に、木造2階建切妻造り・赤かわらぶきのしゃれた建物で開場した。初代マネージャーとして、京都の映画会社帝国キネマから高田英太郎を招いた。開業の宣伝には、帝国キネマ宣伝部から外車のオープンカー(当時市内には三輪車はあったが、四輪自動車はなかった)を借り、背広にちょうネクタイの楽士(当時は医者もすべて和服が普通)が乗って、トランペットを吹いて走り回った。このころは無声映画で、楽士や弁士たちは町の人気者であった。戦後、経営権は西尾の松栄館に移り、昭和35年ころまでキネマの黄金期が続いた。*127

刈谷市

刈谷市の映画館

1957年(昭和32年)の商工年鑑には、映画館として「刈谷映画劇場」、「株式会社大黒座」、「日劇」の3館が掲載されている。刈谷映画劇場は、代表者が大野允敬、所在地が葭池町1。大黒座は、代表者が保良市蔵、所在地が元中根町47。日劇は、代表者が堀部俊枝、所在地が二ツ池下。*128

1962年(昭和37年)の商工年鑑には、映画館として「刈谷映画劇場」、「株式会社大黒座」、「日本劇場」の3館が掲載されている。刈谷映画劇場は、代表者が大野久吉、所在地が広小路1-15。大黒座は、代表者が保良市蔵、所在地が司町1-31。日本劇場は、代表者が堀部煌三、所在地が司町3-33。*129

1967年(昭和42年)の商工年鑑には、映画館として「刈谷映画劇場」、「株式会社大黒座」、「日本劇場」の3館が掲載されている。刈谷映画劇場は、代表者が大野久吉、所在地が広小路1-15、従業員が16人。大黒座は、代表者が三浦善一郎、所在地が司町1-31、従業員数が11人。日本劇場は、代表者が堀部治雄、所在地が広小路3-33、従業員数が12人。*130

刈谷東宝/刈谷東宝映画劇場/刈谷映画劇場

所在地 : 愛知県碧海郡刈谷町刈谷(1946年)、愛知県碧海郡刈谷町(1950年)、愛知県刈谷市葭池町39(1953年・1955年)、愛知県刈谷市葭池町(1960年)、愛知県刈谷市広小路1-15(1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1941年6月
閉館年 : 2000年9月24日
Wikipedia : 刈谷映劇
地図 : 消えた映画館の記憶地図
『全国映画館総覧 1955』によると1941年6月設立。1946年の映画館名簿では「刈谷東宝」。1950年の映画館名簿では「刈谷東宝映画劇場」。1953年・1955年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「刈谷映画劇場」。1973年の全航空住宅地図帳では「刈谷映画劇場」。跡地は2002年竣工のマンション「ユーハウス第5刈谷」。「刈谷映劇」とも呼ばれた。

刈谷映画劇場では1979年の正月興行として、山口百恵・三浦友和主演『炎の舞』とピンク・レディ主演の『活動大写真』を上映。*131

刈谷映画劇場では1979年11月6日まで、『配達されない三通の手紙』と『男はつらいよ 寅さん誕生』を上映。11月8日から11月15日まで『太陽を盗んだ男』と『黄金のパートナー』を上映。*132

刈谷映画劇場では1982年7月3日から7月15日まで、『マチルダ』と『スター・ウォーズ』を上映。*133 刈谷映画劇場では1985年1月17日まで、超大作怪獣映画『ゴジラ』を上映。*134 刈谷映画劇場では1985年9月25日まで、市川崑監督作『ビルマの竪琴』を上映。*135 刈谷映画劇場では1986年12月10日まで、『スペクターX』と『魔男天使』を上映。12月13日から1987年1月中旬まで『タッチ2』と『恋する女たち』を上映。*136

2000年(平成12年)9月24日、刈谷市の映画館「刈谷映劇」が閉館する。最終上映作品は『ドラえもん のび太の南海大冒険』。1941年(昭和16年)に「刈谷東宝」として開館し、その後刈谷映劇に改称した。*137

刈谷映劇は刈谷市新栄町にあった。戦前からの映画専門劇場であり、通称「東宝」と呼ばれる市民の娯楽の殿堂だった。大黒座と交互に、刈谷市主催の成人式の会場になった時期がある。廃業後の現在は跡地にマンションが建っている。*138

大黒座/刈谷大黒座/刈谷大黒座シネマ1・2

1955年頃の大黒座
所在地 : 愛知県刈谷市元中根(1953年)、愛知県刈谷市元中根47(1955年)、愛知県刈谷市元中根町48(1960年)、愛知県刈谷市司町1-31(1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・2000年・2010年)
開館年 : 1918年(芝居小屋)、1950年(映画専門館)
閉館年 : 2012年
Wikipedia : 大黒座
地図 : 消えた映画館の記憶地図
『全国映画館総覧 1955』によると1949年12月設立。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「大黒座」。1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1981年・1982年の映画館名簿では「刈谷大黒座」。1973年の全航空住宅地図帳では「大黒座」であり当時は大黒座前バス停もあった。1983年・1984年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「刈谷大黒座シネマ1・2」(2館)。1999年の住宅地図によると気鉢兇侶物は別であり、奥にあった気里曚Δ規模も大きい。跡地は跡地は「コメダ珈琲店刈谷司店」北東60mにある8軒分の戸建て住宅地。最寄駅は名鉄三河線刈谷市駅。

昭和初期まで、碧海郡刈谷町緒川町の坂の上に「大生座」という芝居小屋があった。宣伝のために楽隊が町を歩いた。その後、名古屋の御園座をまねて造られた「大黒座」が建った。大黒座の1階には畳敷きの枡席があり、舞台は広く、せり上がり設備や花道があった。左右には花道が、両袖には一段高い桟敷席があった。2階はすべて畳席であり、2階の中央に映写室が設けられていた。映画を上映する際には舞台の前部に楽隊が入った。座布団や火鉢が貸し出され、飲食物を運ぶお茶子もいた。その他には幕引き、下足預かり、木戸番などの人々もいた。年に一度くらいは歌舞伎も上演された。舞踊・三味線・尺八・琴の発表会なども催された。正月には抽選会があり、長持・タンス・座布団・大正箱・バケツなどが景品となった。*139

明治時代の刈谷町緒川町(現・刈谷市司町)には大生座という芝居小屋があった。大正時代には東浦の緒川に通ずる街道の急坂を直すために土を取り、跡地広場に伊藤鋭太郎という人が大黒座を創立した。名古屋の御園座をまねて仕上げたといい、格天井・周り舞台・大小2つの花道と桟敷など豪華なものであった。戦後には映画専門の劇場となった。*140

1918年(大正7年)には大黒座が創設され、尾上菊五郎や松本幸四郎の歌舞伎の興行、映画の上映、政談演説会などが催された。格天井、回り舞台などを持つ大きな芝居小屋だったが、老朽化により大黒座に変わった。手前は美しい庭園を持つ料理屋の大喜館で、跡地には電装会館が建っている。*141

五代目坂東蓑助は1909年(明治42年)に知立の東雲座で公演を行った。翌月には刈谷の大黒座で公演を行ったが、興行中に急死した。47歳だった。*142

大黒座は1918年に芝居小屋として開業し、1950年に映画館に転換した。2007年11月には刈谷市のNPO法人が、近くに駄菓子屋併設小規模デイサービス施設「だいふく」を開設。「だいふく」は大黒座から駐車場を借りていた。2012年3月に大黒座が閉館すると、映画館業と合わせてレンタルビデオ業も営んでいたオーナーから年寄りの観賞用に映画のビデオテープ1200本を無償で譲り受けた。これにより、「だいふく」は運営するデイサービスセンターの一角にミニシアターの整備を進めている。*143

日本映画最盛期の刈谷市内には、東宝・松竹の上映館「刈谷映画劇場」、東映・日活の「大黒座」といった邦画専門館が存在した。*144

1898年(明治31年)、大野介蔵(刈谷町長の大野一造の父?)によって旧緒川町の坂の下り口に大生座が開館した。大野家の先祖は常総国結城郡大生村(おおのおむら、現在の茨城県常総市)出身であるため村名を館名とした。向かって右側に木戸札を売る木戸口があり、左側に氷水などを売る売店があった。ホールの入口には木戸番が座り、大人の木戸札と子供の木戸札を受け取って入場者数を数えた。回り舞台があり、大道具・小道具の奥が楽屋だった。歌舞伎の興行が多く、市川團十郎一座などの有名な役者がきた。浪花節の東中軒雲右衛門の興行の際などは、前日から行列ができて緒川町は大賑わいだったという。400人ほどの客が入ると、大道具・小道具から木戸番・下足番まで二銭銅貨を入れた大入り袋が配られた。当時流行した新派の「不帰鳥」(ホトトギス)なども人気があった。後には活動写真も上映し、開始時刻の午後2時まではのぼりを立てた楽隊が宣伝に回った。*145

日本劇場/刈谷日本劇場/刈谷日劇・刈谷小劇場/刈谷日劇・刈谷小劇場・刈谷日劇3/刈谷日劇・刈谷小劇場/刈谷日劇1・2

刈谷日劇
Asturio Cantabrio cc-by-4.0
所在地 : 愛知県刈谷市二ツ池下4-1(1960年)、愛知県刈谷市広小路3-33(1963年・1966年・1969年)、愛知県刈谷市御幸町1-86(1973年・1976年・1980年・1985年)、愛知県刈谷市御幸町4-208(1990年・1995年・2000年・2005年・2015年)
開館年 : 1954年
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 刈谷日劇
港町キネマ通り : 刈谷日劇/刈谷小劇場 - 港町キネマ通り
地図 : 消えた映画館の記憶地図
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「日本劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「刈谷日本劇場」。1973年・1974年・1975年の映画館名簿では「刈谷日本劇場・刈谷小劇場」(2館)。1973年の全航空住宅地図帳では「刈谷会館 小劇 日劇 パチンコ」であり移転前の場所は空き地。1976年・1977年・1978年・1980年・1981年・1982年・1983年・1984年・1985年の映画館名簿では「刈谷日劇・刈谷小劇場」(2館)。1990年・1991年・1992年・1993年・1994年・1995年・1997年・1998年・1999年・2000年・2001年・2002年・2004年・2005年・2006年の映画館名簿では「刈谷日劇・刈谷小劇場・刈谷日劇3」(3館)。2010年の映画館名簿では「刈谷日劇・刈谷小劇場」(2館)。2015年・2018年の映画館名簿では「刈谷日劇1・2」(2館)。

1970年12月25日の『中日新聞』「映画案内」によると、12月26日には愛三ビルに成人映画専門の新館として刈谷小劇が開館する。オープニング作品は『女湯物語』や『浮世院参り』などの成人映画3本立て。刈谷市唯一の「邦画・成人映画専門劇場」であり18歳未満の方の入館お断りとある。今週に入館された方にはもれなく雑誌『成人映画』をプレゼントとある。*146

1987年4月28日の『中日新聞』「映画案内」によると、4月29日には新館として日劇3が開館する。オープニング作品は1986年のアメリカ映画『プラトーン』と1986年のアメリカ映画『サボテン・ブラザース』。刈谷日劇、日劇3、刈谷小劇の3館体制となる。刈谷日劇では1986年のアメリカ映画『リトルショップ・オブ・ホラーズ』と1985年のアメリカ映画『エルム街の悪夢2 フレディの復讐』を上映している。刈谷小劇では痴漢電車大会3本立てを上映している。*147

1954年(昭和29年)、刈谷市の広小路町に週3本の映画を上映する洋画専門館「刈谷日劇」が開館した。1971年(昭和46年)には御幸町に移転した。2001年(平成13年)のリニューアルを経て、2012年(平成24年)からは2スクリーンのミニシアターとして営業している。刈谷市には他にもいくつか映画館があったが、現在は刈谷日劇が唯一の映画館である。スクリーン1では最新のデジタル映写機による新作を、スクリーン2では名画座形式の2本立てを上映している。スクリーン1にはもともとフィルム映写機が2台並んでいたが、1台を横にずらしてデジタル映写機を設置している。スクリーン2では35mmフィルムなどを上映している。スクリーン2は名画座形式であるため、入場料を払えばくりかえし観て一日中でも楽しめる。20年前にはスピーカーを当時最高級のものに入れ替え、「シネコンよりもいい音がする」と語る観客も多い。このため、音楽に関係した映画を比較的多く上映している。スクリーン1は堀部社長が、スクリーン2はマネージャーの亀谷氏が作品を選定しているが、観客からのリクエストも作品選びの参考にしている。刈谷日劇では現在もフィルム上映を行っているが、フィルム上映を行う映画館は貴重であり、作品によっては名古屋や東京からもファンが訪れるという。刈谷日劇の休憩スペースでは観客同士が話しあっていることも多い。毎月第2土曜日の19時からは、亀谷氏と刈谷日劇ファンとで、映画について語らう場が設けられている。そこから友達になって新しい交流が始まった方もたくさんいるのだそう。刈谷日劇の最終上映は19時からであるが、仕事帰りにぶらっと1本見に行けるようにという思いが込められている。2016年春には、刈谷市が近隣市と協力したフィルムコミッションの立ち上げを計画中であり、映画をきっかけとしたまちづくりにも取り組んでいる。休憩スペースでは軽食やドリンクが販売されている。休憩スペースの壁面には、三池崇史監督作品の美術を手掛けている映画美術監督・林田裕至氏の直筆の壁画が描かれている。林田氏が刈谷日劇に舞台挨拶に訪れた際、2日かけて2面を描いたという。ロビーにはフリーメッセージボード(掲示板)があり、見たい作品のリクエストが書かれたり、映画ファン同士の交流の場として設けられている。代表取締役の堀部俊仁社長はアクションものなどの洋画が好みであり、お気に入り作品に『グラディエーター』を挙げる。マネージャーの亀谷宏司氏はスキーが好きであり、お気に入り作品は『私をスキーに連れてって』。年に1回、冬が近くなると見ているという。*148

安城市

1952年、安城町が市制施行して安城市に。1955年、安城市は明治村依佐美村の一部を合併。1967年、安城市は桜井町を合併。旧安城町には3館の映画館が、旧桜井町には1館の映画館があった。明治村と依佐美村には映画館がなかった。

安城市の映画館

2002年3月31日まで安城市歴史博物館で「なつかしの映画ポスター展」が開催された。安城市歴史博物館が所蔵している昭和30年代・40年代の映画ポスター120点と、映画パンフレットや宣伝用スチール写真など160点が展示された。安城市内には昭和40年代まで中心市街地などに5つの映画館があり、市内の収集家から借りたこれらの映画館の当時の上映案内チラシなども含まれている。*149

「安城にあった劇場・映画館」。戦前の安城駅周辺には、安城座、帝国館、弥生館、明治座などの娯楽施設があった。戦前の安城座と帝国館のチラシ、戦後の安城座のチラシの写真あり。*150

1950年時点の碧海郡安城町の娯楽施設としては、映画常設館1、映画と演劇を兼ねる劇場1、麻雀店、撞球店、パチンコ店など数々の遊技場がある。弥生館と安城映画劇場の写真あり。1949年度の弥生館の映画観覧者数は、洋画が約2,200人、邦画が約130,000人、計131,701人。1949年度の安城映画劇場の映画観覧者数は、洋画が約28,000人、邦画が約5,000人、映画以外が約8,500人、計41,313人。弥生館と安城映画劇場の広告が掲載されている。「映画常設 弥生館」「映画・演劇 安城映画劇場 澤田興行社 沢田敏夫」。*151

1953年時点では、安城市の映画館として「弥生館」と「安城映画劇場」がある。弥生館の所在地は安城市末広、代表者は太田信之、年間入場者数は100,819人。安城映画劇場の所在地は安城市末広、代表者は沢田敏夫、年間入場者数は36,251人。*152

『安城市 工業名鑑 1955』には安城市街地の鳥瞰図が掲載されており、「安城映劇」「弥生館」「南映劇場」の3館の名前が見える。*153

1956年時点では、安城市民は1年間に1人あたり5.6回映画を鑑賞するという。自動車・トラックは56人に1台。ラジオは0.95戸に1台。電話は98戸に1台。1956年時点の人口は53,490人。*154

1958年の『安城商工名鑑』には、「安城東映」、「弥生館」、「南映会館」の3館が掲載されている。「安城東映」の代表者は沢田敏男、所在地は安城町花ノ木23。「弥生館」の代表者は太田信之、所在地は安城町上細田1-180。「南映会館」の代表者は安城東映と同じ沢田敏男、所在地は安城町的場90-3。*155

1963年の『安城商工名鑑』には、「安城東映」、「安城日活」、「弥生館」、「安城南映会館」の4館が掲載されている。「安城東映」の代表者は沢田敏男、所在地は末広町。「安城日活」の代表者は小坂幸之助、所在地は本町。「弥生館」の代表者は太田信之、所在地は末広町。「安城南映会館」の代表者は安城東映と同じ沢田敏男、所在地は日の出町。*156

1968年の『安城商工名鑑』には、「安城東映」、「安城東宝」、「弥生館」、「南映会館」の4館が掲載されている。「安城東映」の代表者は沢田一郎、所在地は末広町11-11。「安城東宝」の代表者は小坂幸之助、所在地は御幸本町7-2。「弥生館」の代表者は太田信之、所在地は末広町6-6。「南映会館」の代表者は安城東映と同じ沢田一郎、所在地は日の出町6-20。*157

1983年の『創立30周年記念 1983 安城商工名鑑』には、「安城東映」の1館が掲載されている。「安城東映」の事業主は野木一郎、所在地は末広町11-11。創業は1934年。従業員は1人。*158

桜井劇場/桜井映画劇場/桜映画劇場

所在地 : 愛知県碧海郡桜井村東町42(1953年)、愛知県碧海郡桜井村東町(1955年)、愛知県碧海郡桜井町東町(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1929年
閉館年 : 1963年以後1965年以前
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「桜井劇場」。『全国映画館総覧 1955』によると1929年設立。1955年の映画館名簿では「桜井映画劇場」であり経営者は水野庄六。1960年・1963年の映画館名簿では「桜映画劇場」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年のアイゼン住宅地図では跡地に「水野豊」邸。1972年のゼンリン住宅地図では「水野豊」邸。1974年の全航空住宅地図帳ではそれまでの水野豊邸に「映劇アト」と記載されている。1979年のゼンリン住宅地図では跡地に「桜山水墨画教室」。桜井駅の東60m。現在の跡地は「ファッションセンターしまむら桜井店」の西50mにある戸建て住宅地。最寄駅は名鉄西尾線桜井駅。

『企画展 千客万来 安城を彩った広告』には1955年(昭和30年)頃の「桜井村案内図」が掲載されており、名鉄西尾線桜井駅の東側、現在の西尾信用金庫桜井支店の西10mに「櫻井劇場」と書かれている。同文献には「桜井劇場」(実際の表記は櫻井劇場)で昭和20年代に公開された際の映画『王政復古』の上演チラシが掲載されている。*159

南映会館/安城南映会館

所在地 : 愛知県安城市朝日町(1958年)、愛知県安城市朝日町的場(1960年)、愛知県安城市安城町的場90-3(1963年)、愛知県安城市日ノ出町3(1966年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1968年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1961年の『安城市居住者明細図帳』では「南映会館」。1956年・1960年・1963年の映画館名簿では「南映会館」。1966年・1968年の映画館名簿では「安城南映会館」。1966年の住宅地図では「南映会館」。1969年のアイゼン住宅地図では「三河観光 南映会館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では「かつら」。1974年の全航空住宅地図帳では跡地に「和食料理かつら」。1985年のアイゼン住宅地図では跡地に「料理かつら中島靖男」。1992年のゼンリン住宅地図では跡地に「天婦羅かつら(中島靖男)」。1994年のゼンリン住宅地図では跡地に「天婦羅かつら中島靖男」。現在の跡地には2000年以降竣工と思われる民家。「安城スイミングスクール」の北北東30m。マンション「グラニート412」の道路を挟んで南西側。マンション「レゾンシティ安城」の道路を挟んで南東側。最寄駅は名鉄西尾線南安城駅。

安城日活劇場/安城東宝劇場

所在地 : 愛知県安城市御幸本町7-2(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年)
開館年 : 1963年以後1966年以前
閉館年 : 1981年頃
地図 : 消えた映画館の記憶地図
1961年の『安城市居住者明細図帳』には掲載されていない。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「安城日活劇場」。1969年のアイゼン住宅地図では「安城日活」。1972年のゼンリン住宅地図では「東宝」。1974年の全航空住宅地図帳では「安城東宝」。1969年・1976年・1980年・1981年の映画館名簿では「安城東宝劇場」。1979年のゼンリン住宅地図では「安城東宝」。1981年(※誤記ではない)発行の1983年航空住宅地図帳では「安城東宝」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。1983年5月発行のゼンリン住宅地図には跡地に「フランセハラダ」。跡地は居酒屋「や台ずしJR安城駅前町」などが入る1983年竣工の商業ビル「フランセビル」。最寄駅はJR東海道本線安城駅。

安城市歴史博物館の企画展の目録である『汽笛一聲 安城駅120年』には、「駅前の映画館」として「安城東宝」の写真あり。年月日は不明だが、『レガシー』(1978年、アメリカ=イギリス合作)、『エーゲ海に捧ぐ』(1979年、東宝)の看板が出ている。*160

弥生館/安城弥生館

1950年頃の弥生館
所在地 : 愛知県碧海郡安城町本通り(1930年)、愛知県碧海郡安城町末広(1936年・1946年)、愛知県碧海郡安城町(1950年)、愛知県安城市安城町上細田(1953年・1955年・1960年)、愛知県安城市末広町(1963年)、愛知県安城市末広町5-6(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年)
開館年 : 1928年
閉館年 : 1982年頃? 1984年?
地図 : 消えた映画館の記憶地図
1930年・1936年・1946年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「弥生館」。1969年のアイゼン住宅地図では「安城館」。1972年のゼンリン住宅地図では「弥生映画館」。1974年の全航空住宅地図帳では「弥生館」。1976年・1980年・1982年の映画館名簿では「安城弥生館」。1979年のゼンリン住宅地図では「弥生座」(※館ではなく座)。1981年(※誤記ではない)発行の1983年航空住宅地図帳では「弥生館」。1983年5月発行のゼンリン住宅地図では「弥生館」。1983年・1985年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の安城市には映画館が存在しなかった。跡地はマンション「オーキッドマンション末広」の20m南西。区画整理事業が進行中であり、2020年代前半の数年間で劇的に変化するため、跡地は参考程度に。最寄駅はJR東海道本線安城駅。

1928年(昭和3年)、末広町の表通りから路地を東へ入った場所に「弥生館」が開館した。弥生館は松竹系の映画館であり、上原謙・田中絹代・佐分利信などのスターの作品が上映された。盆や正月には早朝から開館を待つ人の列ができ、「弥生館」の前から隣の半弓場、置屋、そして菓子屋の角を曲がってずっと続いていた。一時期の安城市内には、弥生館のほかに「安城座」(のちの「安城東映」)、「南映」、「日活」の映画館があったが、1984年(昭和59年)には弥生館も閉館した。弥生館の跡地は駐車場となっている。1958年(昭和33年)頃の島田正吾・山田五十鈴主演の『夏祭り三度笠』を上演中の弥生館の写真あり。*161

1950年(昭和25年)頃の「弥生館」の写真。当時の1年間の映画観覧者は、洋画1,466人、邦画107,441人だった。*162

弥生館とある『安城市居住者明細図帳』で場所確認。1961年に安城市が発行した住宅地図。*163

『安城ホームニュース』を1985年4月13日の創刊号から1985年12月14日の第17号まですべて閲覧したが、映画館に関する記事は確認できなかった。

安城座/安城東映劇場

1950年頃の安城座
所在地 : 愛知県安城市末広町6(1953年・1955年)、愛知県安城市花ノ木町23(1960年)、愛知県安城市末広町(1963年)、愛知県安城市花ノ木町8-7(1966年・1969年)、愛知県安城市末広町8-7(1973年・1976年・1980年)
開館年 : 1911年
閉館年 : 1984年頃
Wikipedia : 安城東映
地図 : 消えた映画館の記憶地図

1950年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「安城座」。1959年に安城座から安城東映に改称。1960年・1963年の映画館名簿では「安城東映」。1972年のゼンリン住宅地図では「東映」。1974年の全航空住宅地図帳では「安城東映」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1984年の映画館名簿では「安城東映劇場」。1969年のアイゼン住宅地図では「安城東映」。1979年のゼンリン住宅地図では「安城東映」。1981年(※誤記ではない)発行の1983年航空住宅地図帳では「安城東映」。1983年5月発行のゼンリン住宅地図では「安城東映」。1985年のアイゼン住宅地図では「安城東映」。この住宅地図に掲載されている映画館は安城東映のみ。1985年の映画館名簿には掲載されていない。1992年のゼンリン住宅地図では跡地に安城東映時代の建物が残されていることがわかる。1994年のゼンリン住宅地図では跡地に駐車場。2010年代の跡地では区画整理が進行中であり道路用地となった。跡地はマンション「グランドメゾン安城」の西北西30m。区画整理事業が進行中であり、2020年代前半の数年間で劇的に変化するため、跡地は参考程度に。最寄駅はJR東海道本線安城駅。

安城市末広町には「安城座」があり、碧海農業祭ではみどり会が碧海おどりを踊った。安城座はのちに「安城東映」に改称し、1989年(平成元年)現在は閉館して姿を消している。*164

末広町にあった安城座は1911年(明治44年)創業の劇場であり、当初は演劇などが中心だったが、やがて映画も上映するようになった。その後、安城映画劇場に改称し、戦後には映画館の安城東映となった。戦前の安城座や戦後の安城座のチラシの写真あり。*165

1961年(昭和36年)に安城市が発行した住宅地図『安城市居住者明細図帳』では「安城東映」。安城デジタルアーカイブで閲覧可能。*166

安城コロナシネマワールド

所在地 : 愛知県安城市浜富町6-8
開館年 : 1995年12月23日
閉館年 : 営業中
地図 : 消えた映画館の記憶地図

(※ザ・モール安城として開業したショッピングセンターの記事)1990年(平成2年)10月25日、大手紡績メーカーのクラボウは、安城工場用地の一部(愛知県安城市大東町9-13)を再開発し、セゾングループの西友をキーテナントにしたショッピングセンター「スプリングサーカス安城」を建設すると発表した。総店舗面積3万6000平方メートルは東海地区第2位、テナント数は郊外型ショッピングセンターでは愛知県第1位となる。安城工場はJR安城駅の約800メートル西にあり、敷地約23万平方メートルに工場・社宅・寮などがある。設備の近代化などで従業員は最盛期の半分以下の670人に減り、寮や社宅の老朽化が進行したため、数年前に浮上した再開発計画で西友とともに開発することで合意に達した。総事業費は約250億円で、うち西友が150億円を投資する。*167

小牧市に本社を置くコロナグループは、小牧市・春日井市・江南市・豊川市など、愛知県・岐阜県下で複合映画館を核とする複合レジャー施設を展開している。1995年12月23日、名古屋市中川区に「中川コロナシネマワールド」を、安城市に「安城コロナシネマワールド」を同時開館させる。コロナグループの集大成を目指した中川コロナワールドと安城コロナワールドの核となる部分であり、それぞれ10スクリーンを有する。中川コロナワールドは国道1号三日月橋西詰の江松交差点角に位置し、敷地面積は約2万平方メートルである。安城コロナワールドはJR安城駅から東1kmのフタバ産業跡地にあり、敷地面積は約4万平方メートル。いずれもシネコンを中心都市、パチンコ店・ゲームセンター・カラオケボックス・ビデオ&CDレンタル店・外食店などを出店させ、さらに今まではなかったボウリング場や天然温泉も加える。これによってコロナグループのシネコンは9施設となり、57館の直営映画館を抱えることとなる。安城市には11年ぶりに映画館が復活することとなる。*168

1995年12月23日、名古屋市中川区と安城市に国内最大級の複合レジャー施設「中川コロナシネマワールド」「安城コロナシネマワールド」を開館させる。コロナグループは小牧市・春日井市・江南市・一宮市・半田市・豊田市・豊川市・多治見市にレジャー施設を展開しているが、既存施設にはない天然温泉やボウリング場を加える。コロナグループ6社を率いる代表取締役は大塚定光(66)。父親から引き継いだ江南市の映画館「新盛館」を、パチンコ店などとの連結経営によってよみがえらせ、複数映画館を核とする複合レジャー施設井発展させた。愛知県・岐阜県下に9施設計57館の映画館を展開することとなる。*169

1995年(平成7年)12月23日、安城市浜富町に映画館「安城コロナシネマワールド」が開館する。1984年(昭和59年)を最後に映画館が消えていた安城市にとって、11年ぶりの映画館の復活である。小牧市に本社を置くコロナグループによる運営。JR安城駅東約1キロの工場跡地(約4万平方メートル)に、映画館に加えてパチンコ店、ボウリング場、天然温泉浴場などが入る4棟を建設中である。このうち映画館はA棟2階の約1300平方メートル。10スクリーンが入る。*170

1996年2月23日、安城市浜富町の大型レジャー施設「安城コロナワールド」は、天然温泉「コロナの湯」をオープンさせる。コロナグループは安城市で初めて温泉を掘り当て、1995年夏から秋にかけて温泉を掘削した。1995年12月には温泉に先駆けて映画館などが開館し、11年ぶりに安城市に映画館が復活したことで話題となった。泉質は弱アルカリ性のナトリウム温泉であり、虚弱体質・切り傷・五十肩・捻挫などに効能があるという。*171

2015年(平成27年)8月1日、映画の画面に合わせて座席が揺れ動くなど臨場感を味わえる上映設備「4DX」が「安城コロナシネマワールド」に導入された。安城コロナシネマワールドを経営するコロナワールドは、2013年に国内で初めて名古屋市の中川コロナシネマワールドに4DXを導入している。愛知県内では中川と豊川コロナシネマ・ワールドに次いで3店目である。10スクリーンのうち1スクリーンに約2億円を投じて整備した。座席は120席。通常料金に加え1000円が必要。初日となった8月1日には『進撃の巨人』を4DXで上映した。8月7日から『ジュラシック・ワールド』『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネーション』も4DXで上映する予定。*172

西尾市

西尾市の映画館

映画黄金期(昭和30年代)の名鉄西尾駅前には、わずか半径数百メートルの範囲内に3つの映画館があった。松栄館、西尾劇場、パール劇場である。1921年(大正10年)頃、西尾初の活動写真常設館として開館したのが松栄館。その後戦前には経営者が交代し、戦後の昭和20年代半ばには建物の増築が繰り返された。まちなかにはしばしば松栄館の巨大看板やPR部隊が出現した。戦前の西尾には、松栄館以外にも芝居小屋や演芸場があったが、その多くは火災のために閉館している。周囲に芝居小屋がなくなった1940年(昭和15年)、岡崎市の竜城座を移築して西尾劇場が開館した。昭和初期に花ノ木耕地整理事業で生まれた西尾駅前の発展を促す使命もあったという。戦後には西尾劇場で映画が上映されるようになり、映画以外にも地域の文化施設としてさまざまに利用された。戦後には松栄館や西尾劇場が主に邦画の上映館として人気を博し、パール劇場は洋画専門館として新しい風を吹き込んだ。1955年(昭和30年)に松栄館の経営者が開館させたのがパール劇場である。西尾劇場は2011年(平成23年)現在も営業しており、2008年(平成20年)には経済産業省の近代化産業遺産に認定されている。*173

1957年の商工年鑑には、映画館として「松栄館」、「港座」、「寺津劇場」、「西尾劇場」、「鶴城映画劇場」、「パール劇場」、「米津映画劇場」の7館が掲載されている。松栄館は、代表者が鵜飼清一、所在地が高砂町。港座は、代表者が斉藤信太郎、所在地が平坂町長堀。寺津劇場は、代表者が斉藤信太郎、所在地が巨海町森越。西尾劇場は、代表者が青山謙吉、所在地が桜木町。鶴城映画劇場は、代表者が斉藤信太郎、所在地が菅原町。パール劇場は、代表者が鵜飼清一、所在地が花ノ木町4丁目。米津映画劇場は、代表者が樋口春吉、所在地が米津町宮前。*174

1964年の商工年鑑には、映画館として「松栄館」、「港座」、「寺津劇場」、「西尾東映」、「鶴城映劇」、「パール劇場」、「米津映画劇場」の7館が掲載されている。松栄館は、代表者が鵜飼清一、所在地が高砂町26。港座は、代表者が沢松甚松、所在地が平坂町長堀41。寺津劇場は、代表者が天野利一、所在地が巨海町森越49。西尾東映は、代表者が青山美代子、所在地が桜木町4-15。鶴城映劇は、代表者が斉藤信太郎、所在地が菅原町60。パール劇場は、代表者が鵜飼清一、所在地が花ノ木町4-43。米津映画劇場は、代表者が樋口春吉、所在地が米津町連台6-1。*175

1974年の商工年鑑には、映画館として「松栄館」、「西尾劇場」、「(資)三河興行社」、「パール劇場」の4館が掲載されている。松栄館は、代表者が鵜飼勝、所在地が高砂町26。西尾劇場は、代表者が青山茂樹、所在地が花ノ木町4-15。(資)三河興行社は、代表者が斉藤信太郎、所在地が菅原町141。パール劇場は、代表者が鵜飼清一、所在地が花ノ木町4-43。*176

1981年の商工年鑑には、映画館として「鶴城映劇」、「西尾劇場」、「株式会社パール劇場」の3館が掲載されている。鶴城映劇は、代表者が斎藤満、所在地が菅原町60。西尾劇場は、代表者が青山茂樹、所在地が花ノ木町4-15。パール劇場は、代表者が鵜飼晃、所在地が花ノ木町4-43。*177

1981年1月6日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「パール劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『古都』を上映しており、西尾劇場では『サーキットの狼』と『ヤマトよ永遠に』を上映しており、パール劇場では『レイズ・ザ・タイタニック』と『あゝツッパリ人生』を上映しており、鶴城映劇では『女高生転落』と『変態花嫁犯し』を上映している。*1781981年12月27日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「パール劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『グランドラック・ラブ』と『すっかりその気で』を上映しており、西尾劇場では『燃える勇者』と『セーラー服と機関銃』を上映しており、パール劇場では『キャノンボール』と『エンドレス・ラブ』を上映しており、鶴城映劇では『痴漢常習者』と『日本の私刑』を上映している。*179

1983年1月7日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「パール劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『三等高校生』と『ジェミニ YとS』を上映しており、西尾劇場では『汚れた英雄』と『伊賀忍法帖』を上映しており、パール劇場では『少林寺』と『ゾロ』を上映しており、鶴城映劇では『聖子の太股』と『ピンクのカーテン2』と『あんねの子守歌』を上映している。*1801983年12月27日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「パール劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『積木くずし』と『夜明けのランナー』を上映しており、西尾劇場では『ドラゴン特攻隊』と『唐獅子株式会社』を上映しており、パール劇場では『007 ネバーセイ・ネバーアゲイン』と『グレートハンティング』を上映しており、鶴城映劇では『少女縄人形』と『痴漢 ほとんど病気』と『恥部を抉る』を上映している。*181

1985年1月6日の『愛三時報』映画案内には「松栄館」と「鶴映」が掲載されている。松栄館では『ゴジラ』を上映しており、鶴城映劇では『ロリータONANIE』と『オナニー塾』と『香港 ザ本番』を上映している。*1821985年6月30日の『愛三時報』映画案内には「松栄館」と「鶴映」が掲載されている。松栄館では『お葬式』を上映しており、鶴城映劇では『USA痴漢金髪電車』と『痴漢チンチン電車』と『痴漢のぞき電車』を上映している。*1831985年12月27日の『愛三時報』映画案内には「松栄館」と「鶴映」が掲載されている。松栄館では『雪の断章・情熱』と『姉妹坂』を上映しており、鶴城映劇では『団地妻ダブルオナニー』と『潮吹きギャル順子』を上映している。*184

1985年3月31日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『ドラえもん』と『ハットリくん』を上映しており、西尾劇場では『キン肉マン』と『チェンジマン』を上映しており、鶴城映劇では『団地妻性愛白書』と『侵された7人の若妻』と『主婦と性生活』を上映している。*1851985年9月29日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では早見優主演の『キッズ』とジャッキー・チェン主演の『ファースト・ミッション』を上映しており、西尾劇場では『大福星』と『テラ戦士BOY』を上映しており、鶴城映劇では『小松みどりの好きぼくろ』と『西川瀬里奈 覗き部屋』と『痴漢と離婚妻』を上映している。*186

1987年1月8日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『恋する女たち』と『タッチ2』を上映しており、西尾劇場では『ゲゲゲの鬼太郎』と『キン肉マン』と『ドラゴンボール』を上映しており、鶴城映劇では『ザ・オナニー 快楽篇』を上映している。*1871987年12月26日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『さよならの女たち』と『私をスキーに連れてって』を上映しており、西尾劇場では『ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎狂騒曲』と『はいからさんが通る』を上映しており、鶴城映劇では『スチュワデス・エロ』と『トレイシー・ローズの禁身交愛』と『代々木忠のいんらん夫婦』を上映している。*188

1989年1月4日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「西尾劇場」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『光GENJI これから物語 〜少年たちのブルース〜』と『ふ・し・ぎ・なBABY』を上映しており、西尾劇場では『恋子の毎日』と『ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎音頭』を上映しており、鶴城映劇では『ギャルを襲う』と『ロリータ監禁飼育』と『前原祐子の変態』を上映している。*1891989年12月27日の『三河新報』映画案内には「松栄館」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『ゴジラvsビオランテ』と『君は僕をスキになる』を上映しており、鶴城映劇では『のぞかれたONANIE』と『オナニー・乱れ三姉妹』と『獣』を上映している。*190

1991年6月13日の『愛三時報』映画上映案内には「西尾松栄館」と「西尾鶴映」が掲載されている。松栄館では『ニキータ』と『ミザリー』を上映しており、鶴城映劇では『愛染恭子 本番快楽ツアー』と『ザッツ・変態ティメント』と『秘戯の手ほどき』を上映している。*191 1991年6月22日の『愛三時報』映画上映案内には「西尾鶴映」のみが掲載されており、『痴漢電車』を上映している。*192

1991年7月7日の『愛三時報』映画上映案内には「西尾鶴映」のみが掲載されており、『令嬢レズ学園』と『未亡人変態地獄』と『いんらん美姉妹義兄あさり』を上映している。*193 1991年7月9日の『三河新報』には「松栄館」と「鶴城映劇」が掲載されている。松栄館では『ニキータ』と『ミザリー』を上映しており、鶴城映劇では『令嬢レズ学園』と『未亡人変態地獄』と『いんらん美姉妹義兄あさり』を上映している。*194

旧一色町の映画館

『一色町勢要覧 昭和27年版』p.49には劇場として以下の2館が掲載されている。また、この文献の扉部にある「愛知県幡豆郡一色町案内図」に「一色映」と「朝日」が掲載されている。*195
「朝日座」(一色字亥新田) 代表者:高須正義、内容:邦画・洋画、定員300人、従業員5人
「一色映画劇場」(一色字乾地) 代表者:田口音松、内容:東宝・新東宝・松竹、定員200人、従業員3人

『一色町勢要覧 昭和30年版』p.13には劇場として以下の2館が掲載されている。*196
「朝日座」(東新町) 代表者:森得一、内容:演劇・映画、定員300人
「一色映画劇場」(上栄町) 代表者:田口音松、内容:映画、定員200人

西尾座/西尾劇場(芝居小屋)

所在地 : 愛知県西尾市吾妻町
開館年 : 1919年
閉館年 : 昭和初期
1940年に西尾駅前に開館した映画館の西尾劇場(西尾東映)とは異なる。

本町の向春軒の隣にあった西尾座は、西尾市域初の常設芝居小屋だったが、1919年(大正8年)頃に火災で焼失した。吾妻町に劇場が新築され、西尾座から西尾劇場に改称されたが、昭和初期に焼失したことで西尾劇場株式会社は解散した。現在の「吾妻町」交差点から三間通りを北に入った辺りにあった。現在は普通の商店街であり、ただ間口が商店6軒くらいはあったという話だけが、当時の建物の大きさを想像させるのみである。後に花ノ木町に建てられた西尾劇場(現在の西尾東映)は吾妻町の西尾劇場とは別物である。かつて西尾座と双璧をなしていた鶴城座の中村謙作社長を代表者として、1940年(昭和15年)に創立されている。

吉田座

所在地 : 愛知県幡豆郡吉田町富好(1955年)、愛知県幡豆郡吉良町富好(1960年)
開館年 : 1934年9月
閉館年 : 1960年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1934年9月設立。1955年・1956年・1957年・1958年・1959年・1960年の映画館名簿では「吉田座」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳には掲載されていないと思われる。跡地は矢崎川に架かる吉田橋の140m北東の民家。最寄駅は名鉄西尾線・蒲郡線吉良吉田駅。

横映劇場/本明座

所在地 : 愛知県幡豆郡横須賀村(1953年)、愛知県幡豆郡横須賀村上横須賀(1955年)、愛知県幡豆郡吉良町上横須賀(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1963年以後1965年以前
地図 : 消えた映画館の記憶地図
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「本明座」。1955年の映画館名簿では「横映劇場」。1956年・1957年・1958年・1959年の映画館名簿では「本明座」。1960年の映画館名簿では「横映劇場」。1961年・1962年・1963年の映画館名簿では「本明座」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「横映劇場」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では「横映劇場」。現在の跡地は「福泉寺」北80mの民家敷地。最寄駅は名鉄西尾線上横須賀駅。

『人生劇場』などで知られる小説家の尾崎士郎は幡豆郡吉良町出身である。1954年公開の映画『人生劇場 望郷篇 三州吉良港』は横映劇場で公開されている。*197

米津映画劇場

所在地 : 愛知県西尾市米津町蓮台6-1(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1963年以後1965年以前
地図 : 消えた映画館の記憶地図
1955年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「米津映画劇場」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「米津映劇」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年のアイゼン住宅地図では「劇場跡」とあり北向かいに「杉浦医院」があった。1971年のゼンリン住宅地図では跡地に「鈴木新六」邸があり北向かいに「杉浦医院」があった。現在の跡地は米津駅西交差点南西にある「MH&MT研究室」。最寄駅は名鉄西尾線米津駅。

寺津劇場

所在地 : 愛知県西尾市寺津町巨海(1955年・1958年)、愛知県西尾市寺津町巨海森越(1960年)、愛知県西尾市寺津町巨海(1963年)
開館年 : 1950年2月
閉館年 : 1963年以後1965年以前
地図 : 消えた映画館の記憶地図
『全国映画館総覧 1955』によると1950年2月設立。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「寺津劇場」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「寺津劇場」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年のアイゼン住宅地図では跡地に「アイサン工業倉庫」。1971年のゼンリン住宅地図では「アイサン工業倉庫」。国道247号の「巨海北」交差点から東に100m。跡地は「コスモハイツ森越」の南側の民家。鉄道があった当時の最寄駅は名鉄三河線寺津駅。

朝日座

所在地 : 愛知県幡豆郡一色町(1950年・1953年)、愛知県幡豆郡一色町亥新田(1955年)、愛知県幡豆郡一色町一色字亥新田(1958年)、愛知県幡豆郡一色町237(1960年)、愛知県幡豆郡一色町一色字亥新田(1963年)
開館年 : 1945年以前
閉館年 : 1965年以後1966年以前
地図 : 消えた映画館の記憶地図
1950年・1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「朝日座」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「朝日座」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では跡地に「倉庫」。現在の跡地は一色排水路に架かる大宝橋の東80mの空き地。鉄道があった頃の最寄駅は名鉄三河線西一色駅。

『人生劇場』などで知られる小説家の尾崎士郎は幡豆郡吉良町出身である。1954年公開の映画『人生劇場 望郷篇 三州吉良港』は一色朝日座で公開されている。*198

戦前・戦後を通じて、幡豆郡一色町の町民に娯楽の殿堂として親しまれた朝日座。1962年(昭和37年)頃の写真あり。取り壊されて今はない。*199

戦前・戦後を通じて、幡豆郡一色町の町民に娯楽の殿堂として親しまれた朝日座。1962年(昭和37年)8月の写真あり。現在は建物が取り壊されて空き地となっている。*200

1960年10月28日には一色町商工会創立総会が一色町朝日座で開催された。1961年5月31日の第1回通常総会、1962年5月26日の第2回通常総会、1963年5月29日の第3回通常総会、1964年5月25日の第4回通常総会、1965年5月25日の第5回通常総会も一色町朝日座で開催されている。1966年5月23日の第6回通常総会からは一色中部公民館で開催されている。それぞれの年に459人から593人の出席者があった。『一色町商工会創立30周年記念誌』p.96には朝日座の写真あり。*201

港座/平坂港座

所在地 : 愛知県幡豆郡平坂町(1950年・1953年)、愛知県西尾市西坂町平坂(1955年)、愛知県西尾市平坂町長堀41(1960年・1963年・1966年・1968年)
開館年 : 1940年10月
閉館年 : 1968年頃
地図 : 消えた映画館の記憶地図
『全国映画館総覧 1955』によると1940年10月設立。1950年の映画館名簿では「平坂港座」。1953年の映画館名簿では「港座」。1955年の映画館名簿では「平坂港座」。1960年・1963年の映画館名簿では「港座」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「港座」。1966年・1968年の映画館名簿では「平坂港座」。1969年のアイゼン住宅地図では「港座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1971年のゼンリン住宅地図では「港座」。跡地は「西尾信用金庫平坂支店」の西向かいの「心月ホール」駐車場。鉄道があった当時の最寄駅は名鉄三河線平坂駅。

西尾市の合資会社澤村は戦前から多角経営を展開し、映画館として平坂町に「港座」を運営した。港座は現在の西尾心月ホールの基盤になっている。港座は平坂町にあった唯一の映画館であり、様々な配給会社の作品を上映した。火曜日のサービスデーには2本立ての映画を20円で上映した。当時は娯楽が少なかったため、ホールに入りきれないほどの観客でにぎわった時期もある。*202

一色映画劇場/幡豆一色映画劇場

所在地 : 愛知県幡豆郡一色町上栄町5(1955年)、愛知県幡豆郡一色町字乾地(1960年)、愛知県幡豆郡一色町栄町5(1963年)、愛知県幡豆郡一色町大字一色上栄町(1963年)
開館年 : 1950年7月
閉館年 : 1968年10月
地図 : 消えた映画館の記憶地図
『全国映画館総覧 1955』によると1950年7月設立。1950年・1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「一色映画劇場」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「一映」。1966年の映画館名簿では「幡豆一色映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では一色町大字一色字下乾地5に「梅山敏夫」邸。鉄道があった当時の最寄駅は名鉄三河線三河一色駅。

1968年(昭和43年)10月、「一色映画劇場」が営業を終了した。*203

1957年(昭和32年)頃の「一色映画劇場」の写真あり。一色映画劇場は「一映」として親しまれた。1983年(昭和58年)現在の跡地ではガソリンスタンドが営業している。*204

一色映画劇場と一色映画館が同一かは定かでないが、1964年6月28日の新規卒業就職者激励大会、1966年5月15日の新規卒業就職者激励大会、1967年5月7日の新規卒業就職者激励大会は一色町映画館で開催されている。1968年の新規卒業就職者激励大会は勤労青少年ホーム集会室で開催されている。*205

幡豆映画劇場

所在地 : 愛知県幡豆郡幡豆町南岡割59(1955年)、愛知県幡豆郡幡豆町西幡豆(1966年・1969年)
開館年 : 1916年4月
閉館年 : 1969年頃
地図 : 消えた映画館の記憶地図
『全国映画館総覧 1955』によると1916年4月設立。1955年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「幡豆映画劇場」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「幡豆映画」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では「映劇(牧野忠雄)」。跡地は「千代田モータース」の南50m、「オクツ洋品店」の西30m、「祐正寺」の北西60mにある空き地。最寄駅は名鉄蒲郡線西幡豆駅。

パール劇場/西尾パール劇場

所在地 : 愛知県西尾市花ノ木町4-43(1963年)、愛知県西尾市花ノ木町4(1973年・1976年・1980年)、愛知県西尾市花ノ木町4-43(1985年)
開館年 : 1955年
閉館年 : 1984年11月下旬?
地図 : 消えた映画館の記憶地図
1960年・1963年の映画館名簿では「パール劇場」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「パール劇場」。1969年のアイゼン住宅地図では「パール劇場」。1970年のゼンリン住宅地図では「パール劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「西尾パール劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。「花ノ木町4丁目」交差点の南側の角。跡地は「株式会社タカスラジオ商会」。最寄駅は名鉄西尾線西尾駅。

1984年11月27日の『三河新報』の「映画案内」にはパール劇場が掲載されており、『瀬戸内少年野球団』と『ナチュラル』を上映している。1984年11月29日の『三河新報』の「映画案内」にはパール劇場が掲載されておらず、以後もパール劇場の上映作品案内はない。なお、1984年11月から12月にかけての『三河新報』を確認したが、パール劇場の閉館に関する記事は発見できなかった。

運営は松栄館と同じ松栄館。1957年頃の新築当初のパール劇場の写真あり。1955年(昭和30年)に開館した当時のパール劇場はかたの倉庫を利用していた。1957年から数年後、上映場の手前にロビーと受付ができる。西尾駅前の再整備にともなって、パール劇場があった場所は道路となっている。西尾市花ノ木町。*206

西尾松栄館/松栄館

所在地 : 愛知県幡豆郡西尾町(1950年・1953年)、愛知県西尾市高砂26(1955年)、愛知県西尾市高砂町26(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1926年10月
閉館年 : 1991年7月上旬?
地図 : 消えた映画館の記憶地図
『全国映画館総覧 1955』によると1926年10月設立。1950年の映画館名簿では「松栄館」。1953年の映画館名簿では「松栄座」。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「松栄館」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「松栄館」。1966年の映画館名簿では「西尾松栄館」。1969年のアイゼン住宅地図では跡地は「松栄館」。1971年のゼンリン住宅地図では「松栄館」。1969年・1973年・1976年・1985年・1990年・1991年の映画館名簿では「松栄館」。1992年・1995年の映画館名簿には掲載されていない。「日御碕龍神社」から道路を挟んで北東側。最寄駅は名鉄西尾線西尾駅。運営は西尾パール劇場と同じ松栄館。

1991年7月7日の『三河新報』の「映画案内」には松栄館が掲載されており、『ニキータ』と『ミザリー』を上映している。1991年7月9日の『三河新報』の「映画案内」には松栄館が掲載されておらず、以後も松栄館の上映作品案内はない。なお、1991年6月から7月にかけての『三河新報』を確認したが、松栄館の閉館に関する記事は発見できなかった。

詩人の茨木のり子は幼少期に西尾に居住しており、1937年4月17日の日記には「今日は弟とねえやと一つしょに松栄館に親道をみに行きました。おもしろかったです」と書いている。「親道」は原文ママ。1936年の田中絹代主演作『新道』のことか。*207

西尾市にあった「松栄館」の写真。中央通りから劇場前に差しかかる場所には看板アーチがあり、劇場の前には石畳が敷かれていた。大看板には、長谷川一夫の『獅子の座』と花菱アチャコの『あっぱれ五人男』が見える。道を隔てた場所に、「竜神さん」こと日御碕龍神社ができる前である。西尾市高砂町。1953年(昭和28年)の写真あり。*208

西尾市にあった「松栄館」前には趣向を凝らした看板や模型がしばしば登場した。『用心棒』の三船敏郎の巨大看板が見える。西尾市高砂町。1961年(昭和36年)の写真あり。*209

西尾市にあった「松栄館」の関係者たちが赤穂浪士に扮して、宣伝隊として練り歩いて映画をPRしている写真。西尾市吾妻町。1957年(昭和32年)。*210

西尾東映/西尾劇場/西尾東映劇場

西尾劇場 CC BY atsushi masegi
所在地 : 愛知県幡豆郡西尾町(1953年)、愛知県西尾市花ノ木4(1955年・1960年)、愛知県西尾市花ノ木町4-15(1963年)、愛知県西尾市花ノ木町4(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年)、愛知県西尾市花ノ木町4-15(1990年・1995年・2000年・2005年・2010年)
開館年 : 1940年
閉館年 : 2013年
地図 : 消えた映画館の記憶地図
Wikipedia : 西尾劇場
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「西尾劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「西尾東映」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「西尾東映」。1969年のアイゼン住宅地図では「西尾東映」。1971年のゼンリン住宅地図では「西尾東映」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「西尾劇場」。1990年・1995年・2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「西尾東映劇場」。2015年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「auショップ西尾駅前」西側の有料駐車場「Dパーキング西尾駅前PS第1。最寄駅は名鉄西尾線西尾駅。

自転車が並ぶ「西尾劇場」の前の写真あり。西尾駅の利用者と劇場の来場者の自転車の双方があった。正面には数々のポスターが貼られている。現在は「西尾東映」に改称したが、たたずまいはほぼ当時のままである。西尾市花ノ木町。1960年(昭和35年)頃。*211

西尾市にあった「西尾劇場」は芝居小屋として誕生した。1962年(昭和38年)頃に内部が改築されるまで桟敷や花道があり、戦後しばらくは芝居と映画の両方を上演していた。政治家の講演会、青年団の集会、プロレス興行まで、さまざまに利用された。写真は市議会議員を務めた劇場主の後援会発足会場となったときのもので、映画も見られると大勢の支援者たちが詰めかけた。西尾市花ノ木町。1955年(昭和30年)頃の写真あり。*212

鶴城映画劇場/西尾鶴城映画劇場/鶴城映劇

所在地 : 愛知県西尾市菅原141(1958年)、愛知県西尾市菅原60(1960年)、愛知県西尾市菅原町(1963年)、愛知県西尾市菅原町60(1966年・1973年・1976年・1980年・1990年・2000年・2005年・2010年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 営業中
地図 : 消えた映画館の記憶地図
1955年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「鶴城映画劇場」。1960年の映画館名簿では「鶴城映劇」。1963年の新住宅宝典全商工住宅案内図帳では「鶴映」。1963年の映画館名簿では「鶴城映画劇場」。1966年の映画館名簿では「西尾鶴城映画劇場」。1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「鶴城映画劇場」。1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「鶴城映劇」。

知立市

知立市の映画館

1901年に東海道沿いに東雲座が開館し、知立出身の坂東蓑助の歌舞伎公演も行われた。大正末期には東雲座が知立劇場に改称し、1950年には映画館となった。1952年にはオリオン座が開館し、1955年には第一劇場も開館した。しかし1959年にはオリオン座が閉館し、1975年には知立劇場も閉館、1991年には第一劇場が閉館して、全盛期にあった3館はすべて消えた。1950年の知立劇場の外観の写真あり。昭和時代の第一劇場の外観の写真あり。1952年のオリオン座のチラシの写真あり。*213

オリオン座/知立オリオン/知立オリオン座

所在地 : 愛知県碧海郡知立町知立西新地(1955年)、愛知県碧海郡知立町西新地38(1958年)、愛知県碧海郡知立町中山町77(1960年)
開館年 : 1952年9月
閉館年 : 1961年
地図 : 消えた映画館の記憶地図
1950年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧 1955』によると1952年9月設立。1955年・1958年の映画館名簿では「オリオン座」。1960年・1961年の映画館名簿では「知立オリオン」。1962年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の全航空住宅地図帳では跡地に「岡崎信用金庫知立支店」。1984年の航空住宅地図帳では跡地に「山本学園 体育館・講堂」。現在の跡地は「山本学園1号館」。最寄駅は名鉄名古屋本線知立駅または名鉄三河線三河知立駅。

この写真が撮影された当時、旧知立駅(現・三河知立駅)周辺に洋画専門の「オリオン座」と東映系の「第一劇場」があった。*214

1952年(昭和27年)には新地町にオリオン座が開館。経営者は工業会社の社長による兼任であり、また人気映画の配給権が得られなかった。このため経営は苦しく、何度か経営権の委譲が行われている。*215

1955年(昭和30年)頃のオリオン座の写真あり。1952年(昭和27年)に知立2番目の映画館としてオリオン座が開館した。人気作品の配給権獲得競争に負け、1959年(昭和34年)末に閉館した。現在の山本学園1号館の場所である。*216

東雲座/知立劇場

1950年の知立劇場
所在地 : 愛知県碧海郡知立町(1950年)、愛知県碧海郡知立町中山(1953年)、愛知県碧海郡知立町中山町30(1955年)、愛知県碧海郡知立町中山町77(1958年)、愛知県知立市中山町77(1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1926年8月
閉館年 : 1975年
Wikipedia : 知立劇場
地図 : 消えた映画館の記憶地図
『全国映画館総覧 1955』によると1926年8月設立。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「知立劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の全商工住宅案内図帳では「知立劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「知立劇場」。1973年の全航空住宅地図帳では「知立劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。1984年の航空住宅地図帳では跡地に駐車場。現在の跡地は「鈴木洋服店」の20m東にある月極駐車場。最寄駅は名鉄三河線三河知立駅。

文政8年(1825)の大阪版芝居番付「諸国芝居繁栄数望」には、東方三段目(13番目)に三州池鯉鮒が格付けされているように、知立は演劇の盛んなところであった。その名残で1891年(明治24年)には西三河でもまだ珍しかった常小屋として日吉座が開館した。1901年(明治34年)6月、大村六三郎を座主とする「東雲座」のこけら落し公演が行われた。1910年(明治43年)には知立出身の歌舞伎俳優である坂東蓑助の一座が東雲座で興行した。*217

知立出身の歌舞伎役者には五代目坂東蓑助がいる。元治元年(1864)に池鯉鮒宿の旅籠巴屋の次男として生まれた。本名は鉄三郎であり、母の実家は東境(刈谷市)の泉正寺である。鉄三郎はやがて坂東喜知六の養子となり、1889年(明治22年)に守田勘弥の知遇を受けて坂東蓑助を襲名した。1909年(明治42年)に故郷知立にある「東雲座」での公演に出演したが、翌月には刈谷の大黒座での興行中に急死した。47歳だった。*218

大正末期には「東雲座」を建て直して「知立劇場」が開館したため、劇場内は1階も和式だった。1950年(昭和25年)に増資をし、玄関と座席を洋式にする大改装を行って映画の常設館となった。知立劇場のこけら落しには、沢村宗十郎の「阿古屋の琴責め」が上演された。西三河地方における大劇場であったが、1975年(昭和50年)に閉館した。建物はのちに取り壊されて、1980年(昭和55年)現在の跡地は駐車場となっている。*219

昭和40年代まで知立市中山町には映画館の知立劇場があったため、劇場前の通りは「劇場通り」と呼ばれる。旧国道1号、旧東海道、新地通りが交わる六差路の中町交差点から、旧東海道を東へ向かう通りのことである。この写真が撮影された当時は旧知立駅(現・三河知立駅)近辺に洋画専門の「オリオン座」と東映系の「第一劇場」があった。バイパスが完成する1951年(昭和26年)までは、狭い「劇場通り」が国道1号であり、渋滞が激しかったという。写真は「知立劇場」の方向から仲町方面を見ている。*220

1950年(昭和25年)の知立劇場の写真あり。大正末期に東雲座を建て直して開館。1950年(昭和25年)に大改装して知立唯一の映画館に生まれ変わった。1975年(昭和50年)閉館。*221

第一劇場/知立第一劇場/知立第一東映

所在地 : 愛知県碧海郡知立町平田43(1960年・1963年)、愛知県碧海郡知立町平田町(1966年・1969年)、愛知県知立市内幸町平田43(1973年・1976年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1955年
閉館年 : 1994年
地図 : 消えた映画館の記憶地図
1966年の第一劇場
1955年・1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「第一劇場」。1960年の映画館名簿では「知立第一劇場」。1963年の映画館名簿では「知立第一東映」。1963年の全商工住宅案内図帳では「東映第一」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1993年の映画館名簿では「知立第一劇場」。1973年の全航空住宅地図帳では「第一劇場」。1984年の航空住宅地図帳では「第一劇場」。1994年・1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は戸建て住宅地。最寄駅は名鉄三河線三河知立駅。

知立市内幸町にあった「第一劇場」の写真。かつて知立には3つの映画館があった。1955年(昭和30年)に最後発として開館したのが「第一劇場」であり、3年前の1952年(昭和27年)に新地町に開館した「オリオン座」に続く3番目だった。第一劇場の開館から4年後にはまずオリオン座が閉館し、1975年(昭和50年)には老舗の知立劇場も閉館した。第一劇場も平成になってから閉館し、2009年(平成21年)には建物も取り壊された。*222

1955年(昭和30年)12月には建坪260坪(860平方メートル)の第一劇場が開館。1977年(昭和52年)現在の知立に残る映画館は第一劇場のみである。*223

1965年(昭和40年)の第一劇場の写真あり。昭和30年代には全国で映画館の開館ブームが起こり、1955年(昭和30年)12月に知立3番目の映画館として第一劇場が開館した。*224

アミスタ知立

所在地 : 愛知県知立市
開館年 : 1994年?
閉館年 : 不明
地図 : 消えた映画館の記憶地図
1994年11月10日、大型ショッピングセンター「ギャラリエ・アピタ知立」の前身である「ネクステージ知立」がオープンした。現在のセガワールド知立の相当する部分は、アミスタ知立という映画館だった。映画館名簿には登場しない。

知立小劇場

所在地 : 愛知県知立市栄1-8(1980年・1985年)、愛知県知立市栄2-8(1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1978年以後1980年以前
閉館年 : 2008年
地図 : 消えた映画館の記憶地図
1978年の映画館名簿には掲載されていない。1984年の航空住宅地図帳では「マイアミ知立店 映画小劇」。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2006年の映画館名簿では「知立小劇場」。2010年の映画館名簿には掲載されていない。ビルの1階が「あっちゃん」、2階が知立小劇場。『映画年鑑1980年版別冊 映画館名簿』によると60席。洋画と成人映画を上映。運営は愛三観光。最寄駅は名鉄名古屋本線・三河線知立駅。

高浜市

千歳座

1926年の千歳座
所在地 : 愛知県碧海郡高浜町(1950年)、愛知県碧海郡高浜町高浜一色(1953年)、愛知県碧海郡高浜町高浜(1955年)、愛知県碧海郡高浜町一色30(1960年)
開館年 : 1913年(劇場)、1949年10月(映画館)
閉館年 : 1959年頃
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「千歳座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年のポータブル住宅地図では「千歳座」。1969年のアイゼン住宅地図では跡地は「新丸旅館」敷地。跡地は食事処「弥助」(料理旅館新丸の別邸)西側の駐車場。最寄駅は名鉄三河線高浜港駅。

現在の高浜市青木町にあった「千歳座」は、碧海郡高浜町で唯一の映画館だった。木戸を通って履物を預けて引替札を受取り、畳の客席に腰を下ろした。活動写真全盛期から昭和の中頃まであった。*225

1913年(大正2年)2月1日に「千歳座」が創立した。戦後の1949年(昭和24年)10月に改築し、演劇場兼映画館となった。木造瓦葺の2階建であり、定員(座席数)は449名、その他に立ち見もできた。1955年(昭和30年)前後の入場料は50円であり、美空ひばり主演作品3本立てが上映された際には、立ち見はもちろんのこと、舞台上まで客で埋まった。1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で半壊し、やむなく休館となった。*226

高浜町の都築徳次郎によって、1913年(大正2年)2月1日に千歳座が創立した。当初は演芸や演劇の興行を行っていたが、経営が困難となった。林角三が土地と建物を買収したが、入場者数の低迷でやはり経営難となった。今度は高浜町の石川勝観が買収したが、大正末期から昭和初期にかけて経営不振で休館状態が続いた。このため株式組織に改め、25000円で石川勝観から買収。1927年(昭和2年)4月1日には千歳劇場株式会社が設立され、初代社長には高浜町の山脇篠作が就任。建物の改築を行って興行を再開した。1945年4月には山本徳太郎が第2代社長に就任し、1957年現在も山本が社長である。1957年現在の株主数は18人であり、資本金は100万円である。1957年現在の千歳劇場の直接経営者は高浜町の加藤宗三郎である。1930年(昭和5年)頃からは演芸や演劇のほかに映画の興行も行っていたが、1949年(昭和24年)10月には芝居劇場兼映画館に改築し、邦画のほかに洋画も上映した。1952年頃にはスクリーンは高さ7尺5寸(225cm)だったが、現在は高さ11尺2寸(336cm)×横幅27尺(810cm)のワイドスクリーンとなり、天然色映画も上映されている。上映作品は邦画6社。建物は木造瓦葺の2階建てであり、定員席数は449人である。*227

衣浦東映劇場/衣浦東映

開館当初と思われる衣浦東映*228
所在地 : 愛知県碧海郡高浜町馬場52-1(1960年・1963年)、愛知県碧海郡高浜町字馬場52(1966年・1969年)、愛知県高浜市高浜町字馬場52(1973年・1976年・1980年・1985年)、愛知県高浜市高浜町字馬場52-1(1990年)
開館年 : 1957年12月
閉館年 : 1990年9月
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「衣浦東映」。1966年のポータブル住宅地図では「衣浦東映」。1969年のアイゼン住宅地図では「衣浦東映」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「衣浦東映劇場」。1990年・1991年の映画館名簿では「衣浦東映」。1992年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「高浜ふれあいプラザ」の北北東40mにある民家。高浜市役所の南東100m。最寄駅は名鉄三河線三河高浜駅。

千歳座の経営者によって1957年(昭和32年)12月に新築開館したのが「衣浦東映」である。1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で被害を受けたが、スレートなどの建材を仕入れて自分達で修理を行って上映を再開した。映画全盛期には村田英雄・市川猿之助・松竹歌劇団なども来場して公演を行った。これらの際は大入り満員だった。1990年(平成2年)9月の13号台風で屋根・壁が壊れ、やむなく休館となった。*229

1964年(昭和39年)の『高浜商工年鑑』には、映画館として「衣浦東映」の1館が掲載されている。代表者が田口一雄、所在地が大字高浜字馬場52-1。*230

みよし市

丸西座

所在地 : 愛知県西加茂郡三好村
開館年 : 昭和初期
閉館年 : 1938年4月22日
昭和初期、境川の東側にある西加茂郡三好村字西一色には「丸西座」という劇場があった。西一色の資産家十数人が村人の娯楽の場として建設した劇場であり、当時としては本格的な劇場だった。舞台は6間半であり、客席には長床やおすべりが敷かれ、約300人を収容できた。浪花節、漫才、芝居などの演目があった。寿々木米若、浪花亭綾太郎など一流の浪曲師も来演した。三好村はもちろん東郷村からの観客も多かった。丸西座の周囲には旅館や料理屋があり、西一色の盛り場の様相を呈していた。1938年(昭和13年)4月22日に全焼し、戦争に向かう国内情勢もあって再建されなかった。*231

たから劇場

所在地 : 愛知県西加茂郡三好町陣取山(1960年)
開館年 : 1953年
閉館年 : 1962年頃
1953年・1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1962年の映画館名簿では「たから劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。如来池はみよし市役所の南東にある調整池。三好町字小坂は三好市役所やコノミヤ三好店を含む小字。

明治中頃には境橋の近くに一本木座という芝居小屋があり、諸輪長栄寺(廃寺)の材料をもって建てられた小屋だったが、長くは続かなかった。昭和初期には西一色部落が青物市場の一部を改造して劇場とし、丸西座を開館させたが、数年後の1937年(昭和12年)に火災に遭って閉鎖した。終戦後の1948年(昭和23年)、三好字西ノ木戸に三好仮設劇場(柴田賢治郎経営)が開館した。1953年(昭和28年)には、三好字小坂(如来池の北)にたから劇場(経営者鬼頭三吉)が開館し、三好仮設劇場と2館が並列した。三好仮設劇場の館主が名古屋へ居を移すと、三好の劇場はたから劇場のみとなった。1959年(昭和34年)の旧盆頃、三好字上に三好劇場(岡本京一経営)が映画専門館として開館したことで、たから劇場は閉館した。*232

三好劇場

所在地 : 愛知県西加茂郡三好町(1960年・1963年)、愛知県西加茂郡三好町7913(1965年)、愛知県西加茂郡三好町三好(1966年・1969年)
開館年 : 1959年
閉館年 : 1970年
1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「三好劇場」。1971年のアイゼン住宅地図では「三好劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。医王寺や市指定有形文化財石川家住宅などの西にある、民家が密集している場所にあった。地理院地図の空中写真を見る限りでは、1970年に閉館してからも1980年代前半まで建物は残っていた。跡地は民家。

市場通り商店街の商店一覧には「昭和30年頃まで上映」していた「映画館」が掲載されており、地図にも市場通り商店街の西端に「映画館」が掲載されている。この映画館とは別に、「映画も上映された」芝居小屋の「柴建」も掲載されている。市場通り商店街中心部に現存する呉服店「石橋屋」は天保年間創業、履物店「ふじや」は1924年創業。(※「映画館」の閉館年は『三好町誌』と整合性がないが理由は不明)*233

1959年(昭和34年)の旧盆頃、三好字上に三好劇場(岡本京一経営)が映画専門館として開館したことで、たから劇場は閉館した。*234

MOVIX三好

所在地 : 愛知県西加茂郡三好町大字三好青木91 ジャスコ三好店内(2005年・2010年)、愛知県みよし市三好町青木91 イオン三好店内(2015年)
開館年 : 2000年10月28日
閉館年 : 営業中
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「MOVIX三好」(12館)。

2000年10月28日、ジャスコ三好店を中核として70の専門店「アイ・モール」が入る大型ショッピングセンターが、西加茂郡三好町三好にオープンした。12の映画館を持つシネマコンプレックス「MOVIX三好」などもある。三好町が大型店を柱にまちづくりを進めようとして建設を計画。受け皿となる第三セクター会社を設立し、誘致を受けたジャスコを施設を建設した。敷地面積約10万平方メートル。建物は鉄骨4階建て延べ約72000メートル。店舗面積はジャスコが13500平方メートル、残る18000平方メートルが専門店街と共用通路。商圏は半径約10キロ。愛知郡東郷町、日進市、豊田市、名古屋市天白区なども含まれる。初年度の売り上げは203億円を見込む。*235

額田郡幸田町

幸田座(初代)

所在地 : 愛知県額田郡幸田村
開館年 : 1914年
閉館年 : 1944年
1914年(大正3年)、国鉄幸田駅前に劇場の「幸田座」が開館した。木造2階建て。建坪145坪。開館当時の幸田村にはまだ電気が通じておらず、ろうそくを照明に用いた。毎日興行するのではなく、盆・正月・農休みなどの際に興行を行った。当初は歌舞伎の興行が多く、大正末期ごろからは活動写真も上映した。太平洋戦争中の1944年(昭和19年)には空襲を恐れて取り壊された。*236

幸田座(2代)

所在地 : 愛知県額田郡幸田村幸田(1953年)、愛知県額田郡幸田町幸田(1955年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1955年以後1958年以前
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「幸田座」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。

幸田映画劇場

所在地 : 愛知県額田郡幸田町芦谷字幸田(1955年・1958年)、愛知県額田郡幸田町芦谷(1960年)、愛知県額田郡幸田町芦谷字幸田33(1963年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1963年以後1965年以前
1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「幸田映画劇場」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年のアイゼン住宅地図では確認できなかった。1970年のゼンリン住宅地図では跡地に「コウダショッピングセンタードミープラザ」。1976年・1983年の航空住宅地図帳では跡地に「幸田ショッピングセンター」。1989年のゼンリン住宅地図では跡地に「コウダショッピングセンター 2階ドミープラザユーキチ」。跡地は「幸田駅前書店」東側の「幸田駅前銀座駐車場」。最寄駅はJR東海道本線幸田駅。幸田駅前アーケードの名称は「ファミリーショップビューレイ」。

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