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西三河地方

刈谷市

大生座
所在地 : 愛知県碧海郡刈谷町
開館年 : 1898年
閉館年 : 大正時代
映画館ではなく芝居小屋。跡地は「ふれあいプラザゆうきそう」西170mの温室。最寄駅は名鉄三河線刈谷市駅。

明治時代の刈谷町緒川町(現・刈谷市司町)には「大生座」という芝居小屋があった。大正時代には東浦の緒川に通ずる街道の急坂を直すために土を取り、跡地広場に伊藤鋭太郎という人物が「大黒座」を創立した。*1

昭和初期まで、碧海郡刈谷町緒川町の坂の上に「大生座」という芝居小屋があった。宣伝のために楽隊が町を歩いた。その後、名古屋の御園座をまねて造られた「大黒座」が建った。*2

明治時代の刈谷町には、旧緒川町に芝居小屋「大生座」があった。大野介造が諸戸清六に勧められて士族屋敷跡に建てた劇場である。大生座が老朽化したことから、緒川町の旧坂を直すために土を取った広場を利用して、1918年5月に伊藤鐐太郎が「大黒座」を創立した。*3

1898年、大野介蔵(刈谷町長の大野一造の父?)によって旧緒川町の坂の下り口に大生座が開館した。大野家の先祖は常総国結城郡大生村(おおのおむら、現在の茨城県常総市)出身であるため村名を館名とした。向かって右側に木戸札を売る木戸口があり、左側に氷水などを売る売店があった。ホールの入口には木戸番が座り、大人の木戸札と子供の木戸札を受け取って入場者数を数えた。回り舞台があり、大道具・小道具の奥が楽屋だった。歌舞伎の興行が多く、市川團十郎一座などの有名な役者がきた。浪花節の東中軒雲右衛門の興行の際などは、前日から行列ができて緒川町は大賑わいだったという。400人ほどの客が入ると、大道具・小道具から木戸番・下足番まで二銭銅貨を入れた大入り袋が配られた。当時流行した新派の「不帰鳥」(ホトトギス)なども人気があった。後には活動写真も上映し、開始時刻の午後2時まではのぼりを立てた楽隊が宣伝に回った。*4
歌舞伎座
所在地 : 愛知県碧海郡富士松村今川
開館年 : 1923年12月12日
閉館年 : 昭和初期
映画館ではなく芝居小屋。最寄駅は名鉄名古屋本線富士松駅。

1921年頃の富士松村今川は純農村だったが、1923年には愛知電気鉄道今川駅が開業し、これを機に芝居小屋の歌舞伎座の建設が計画された。発起人は神谷徳次郎、山本安治郎、杉浦島吉など十数人であり、さらに今川の有力者、村長、区長、組長経験者が集まった。建設用地は塚本仲太郎が有していた今川駅南側の敷地約320坪である。建築工事は今川の岡田組。1923年3月に着工し、同年11月11日に竣工、同年12月12日にこけら落としを行った。資本金1万2000円で株式会社今川歌舞伎座が設立され、1株20円で出資が募られた。社長には神谷徳次郎が就任し、取締役には岡田告吉、杉浦島吉、近藤義太郎、山本安次郎、水野治平、早川長三郎が就任した。廻り舞台を有していた。舞台正面の上段には歌舞伎座と書かれたケヤキ材の大きな看板が掲げられた。東西歌舞伎芝居、少女歌舞伎、新派芝居、旧芝居(時代劇)、活動写真、手品、奇術、三河万歳、ダンス舞踊などの興行が行われた。政治演説が行われることもあり、武富済、小笠原三九郎、大野一造などの地元選出代議士も演説した。歌舞伎では太閤記、森の石松、次郎長、義経千本桜、歌舞伎十八番、忠臣蔵などが多かった。富士松第一尋常小学校や富士松第二尋常小学校の学芸会や音楽会が行われることもあった。東境、西境はもちろん、豊明、一ツ木、築地からも観客が訪れ、今川の商店は繁盛した。当時の碧海郡知立町には東雲座があったが、戦後には東雲座が大須に身売りされている。*5

1931年頃、愛知電気鉄道今川駅(現在の名鉄名古屋本線富士松駅)の南側には広場があり、2階建ての芝居小屋「歌舞伎座」があった。活動写真や芝居の興行が行われ、前日から役者などが村内を練り歩いて宣伝したうえ、猿回しやチンドン屋が来たこともあった。当時の今川駅付近には、薬局、宿屋、コーヒー屋、産婆(塚本かい)、日用品店、豆腐屋などがあった。電話を持っていたのは薬局と宿屋のみだった。広い道は東海道のみであり、荷車・自動車・貨物自動車などが往来してにぎやかだった。1927年頃にはタクシー(ハイヤー)の千代田自動車が、1931年頃には同じくタクシーの矢田自動車が設立された。1933年、幅11メートルの国道1号線が開通した。*6

1935年に逢見尋常小学校に式場教室ができるまで、学芸会は「歌舞伎座」を借りて開催されていた。泉田から富士松駅に向かい、踏切手前の細い道を左に曲がり、少し先の左手にあった。内部の左右に花道があり、客席は4つに区切られていた。旅回りの一座の芝居が興行されることもあった。やがて歌舞伎座は取り壊され、豊明町に移築されて前後町公会堂となった。*7

1923年に愛知電気鉄道今川駅が開設されると、今川駅の南に「歌舞伎座」が創設され、ときどき旅回りの一座の芝居が興行された。盆や正月に大きな一座が来る際には、役者が人力車を連ねて顔見世を行うこともあった。歌舞伎座は昭和初期頃に閉鎖され、競売にかけられた後に、移築されて前後町公会堂となった。ただし、1940年頃に今川に進出した杉山工作所として移築されたと言われることもある。この頃は鳴海に「長栄座」、刈谷に「大黒座」、知立に「知立劇場」もあった。*8
刈谷キネマ
所在地 : 愛知県碧海郡刈谷町(1930年・1934年)、愛知県碧海郡刈谷町刈谷八丁(1936年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「刈谷キネマ」。1930年の映画館名簿では経営者が羽田銗次郎、定員361、松竹を上映。1936年の映画館名簿では経営者が田中米次、支配人が丘紅二、定員361、新興キネマ・洋画を上映。1941年の映画館名簿には掲載されていない。

「愛知県碧海郡刈谷町全図」1932年-1935年には「キネマ」と「大国座」(※黒ではなく国)が描かれている。*9
日本劇場/刈谷日本劇場(旧)
所在地 : 愛知県刈谷市刈谷町(1956年)、愛知県刈谷市刈谷町二ツ池下4-1(1957年・1958年)、愛知県刈谷市二ツ池下4-1(1960年)、愛知県刈谷市広小路3-33(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1954年
閉館年 : 1971年頃(移転)
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「日本劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が堀部煌三、支配人が堀部銓男、木造2階冷暖房付、定員381、洋画を上映。1963年の住宅地図では「日劇」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「刈谷日本劇場」。1967年・1970年の住宅地図では「日劇」。1970年の映画館名簿では経営者が堀部煌三、支配人が堀部鈴雄、木造2階冷暖房付、定員318、洋画を上映。1973年の住宅地図では跡地に空き地。跡地は歯科医院「京極歯科」。最寄駅は名鉄三河線刈谷市駅。

1957年の商工年鑑には、映画館として「刈谷映画劇場」、「株式会社大黒座」、「日劇」の3館が掲載されている。刈谷映画劇場は、代表者が大野允敬、所在地が葭池町1。大黒座は、代表者が保良市蔵、所在地が元中根町47。日劇は、代表者が堀部俊枝、所在地が二ツ池下。*10

1962年の商工年鑑には、映画館として「刈谷映画劇場」、「株式会社大黒座」、「日本劇場」の3館が掲載されている。刈谷映画劇場は、代表者が大野久吉、所在地が広小路1-15。大黒座は、代表者が保良市蔵、所在地が司町1-31。日本劇場は、代表者が堀部煌三、所在地が司町3-33。*11

1967年の商工年鑑には、映画館として「刈谷映画劇場」、「株式会社大黒座」、「日本劇場」の3館が掲載されている。刈谷映画劇場は、代表者が大野久吉、所在地が広小路1-15、従業員が16人。大黒座は、代表者が三浦善一郎、所在地が司町1-31、従業員数が11人。日本劇場は、代表者が堀部治雄、所在地が広小路3-33、従業員数が12人。*12
刈谷東宝映劇/刈谷東宝/刈谷東宝映画劇場/刈谷映画劇場
所在地 : 愛知県碧海郡刈谷町刈谷(1943年・1946年)、愛知県碧海郡刈谷町(1950年)、愛知県刈谷市葭池町39(1953年・1955年)、愛知県刈谷市葭池町(1960年)、愛知県刈谷市広小路1-15(1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1941年6月
閉館年 : 2000年9月24日
Wikipedia : 刈谷映劇
『全国映画館総覧 1955』によると1941年6月設立。1943年の映画館名簿では「刈谷東宝映劇」。1943年の映画館名簿では経営者が大野旭春、定員298、電話が刈谷146。1946年の映画館名簿では「刈谷東宝」。1950年の映画館名簿では「刈谷東宝映画劇場」。1953年・1955年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「刈谷映画劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が大野允敬、支配人が大野房之助、木造2階冷暖房付、定員410、邦画を上映。1963年の住宅地図では「刈谷映劇」。1967年・1970年の住宅地図では「刈谷映劇」。1973年の住宅地図では「刈谷映画劇場」。1980年の映画館名簿では経営者が大野久吉、支配人が大野敏雄、木造1階、308席、東宝・松竹を上映。1982年・1987年・1990年・1992年の住宅地図では「刈谷映劇」。2000年の映画館名簿では経営者・支配人ともに大野敏雄、木造1階、350席、東宝・成人映画を上映。2001年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2002年竣工のマンション「ユーハウス第5刈谷」。最寄駅は名鉄三河線刈谷市駅。

1957年の商工年鑑には、映画館として「刈谷映画劇場」、「株式会社大黒座」、「日劇」の3館が掲載されている。刈谷映画劇場は、代表者が大野允敬、所在地が葭池町1。大黒座は、代表者が保良市蔵、所在地が元中根町47。日劇は、代表者が堀部俊枝、所在地が二ツ池下。*13

1962年の商工年鑑には、映画館として「刈谷映画劇場」、「株式会社大黒座」、「日本劇場」の3館が掲載されている。刈谷映画劇場は、代表者が大野久吉、所在地が広小路1-15。大黒座は、代表者が保良市蔵、所在地が司町1-31。日本劇場は、代表者が堀部煌三、所在地が司町3-33。*14

1967年の商工年鑑には、映画館として「刈谷映画劇場」、「株式会社大黒座」、「日本劇場」の3館が掲載されている。刈谷映画劇場は、代表者が大野久吉、所在地が広小路1-15、従業員が16人。大黒座は、代表者が三浦善一郎、所在地が司町1-31、従業員数が11人。日本劇場は、代表者が堀部治雄、所在地が広小路3-33、従業員数が12人。*15

刈谷映画劇場では1979年の正月興行として、山口百恵・三浦友和主演『炎の舞』とピンク・レディ主演の『活動大写真』を上映。*16 刈谷映画劇場では1979年11月6日まで、『配達されない三通の手紙』と『男はつらいよ 寅さん誕生』を上映。11月8日から11月15日まで『太陽を盗んだ男』と『黄金のパートナー』を上映。*17 刈谷映画劇場では1982年7月3日から7月15日まで、『マチルダ』と『スター・ウォーズ』を上映。*18 刈谷映画劇場では1985年1月17日まで、超大作怪獣映画『ゴジラ』を上映。*19 刈谷映画劇場では1985年9月25日まで、市川崑監督作『ビルマの竪琴』を上映。*20 刈谷映画劇場では1986年12月10日まで、『スペクターX』と『魔男天使』を上映。12月13日から1987年1月中旬まで『タッチ2』と『恋する女たち』を上映。*21

2000年9月24日、刈谷市広小路1丁目の映画館「刈谷映画劇場」(刈谷映劇)が59年の歴史に幕を閉じて閉館する。経営は大野俊雄。9月20日までは香取慎吾主演のSF作品『ジュブナイル』を上映。9月23日と9月24日には『ドラえもん のび太の南海大冒険』を無料で上映する。1941年に「刈谷東宝」として開館し、その後刈谷映劇に改称した。東宝と松竹の邦画を中心に上映してきた。昭和20年代から30年代の映画全盛期には長い行列ができるほどにぎわったが、1960年頃をピークに観客数が減少した。2階建てであり、座席数は約400席。2階には畳敷きの席もある。駐車場が少ないという欠点があった。*22

刈谷映劇は刈谷市新栄町にあった。戦前からの映画専門劇場であり、通称「東宝」と呼ばれる市民の娯楽の殿堂だった。大黒座と交互に、刈谷市主催の成人式の会場になった時期がある。廃業後の現在は跡地にマンションが建っている。*23

1979年の刈谷市広小路にあった映画館「刈谷映劇」の写真あり。1978年12月公開の『男はつらいよ 噂の寅次郎』、『俺は上野のプレスリー』などの看板が見える。1941年に「刈谷東宝」として開館した当時の町名は葭池町(よしいけちょう)だった。のちに刈谷映劇に改称した。刈谷市には刈谷映劇のほかに、日活系で1918年創業の「大黒座」、洋画専門館の「刈谷日劇」もあった。2000年に閉館し、2021年現在の跡地にはマンションが建っている。2012年には大黒座も閉館しており、2021年現在の刈谷市に残る映画館は刈谷日劇のみである。*24
大黒座/刈谷大黒座(旧)
所在地 : 愛知県刈谷市元中根(1953年)、愛知県刈谷市元中根47(1955年・1958年)、愛知県刈谷市元中根町48(1960年)、愛知県刈谷市司町1-31(1963年・1966年・1969年・1973年・1976年)
開館年 : 1918年5月
閉館年 : 1978年9月頃
Wikipedia : 大黒座
『全国映画館総覧 1955』によると1949年12月設立。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「大黒座」。1960年の映画館名簿では経営者が保良市蔵、支配人が保良憲広、木造2階冷暖房付、定員925、東映・日活を上映。1963年・1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「刈谷大黒座」。1967年・1970年の住宅地図では「大黒座」。1973年の住宅地図では「大黒座」。後継館は鉄筋造の大黒座。跡地は「ふれあいプラザゆうきそう」南東80mにある8件の戸建て住宅。最寄駅は名鉄三河線刈谷市駅。

昭和初期まで、碧海郡刈谷町緒川町の坂の上に「大生座」という芝居小屋があった。宣伝のために楽隊が町を歩いた。その後、名古屋の御園座をまねて造られた「大黒座」が建った。大黒座の1階には畳敷きの枡席があり、舞台は広く、せり上がり設備や花道があった。左右には花道が、両袖には一段高い桟敷席があった。2階はすべて畳席であり、2階の中央に映写室が設けられていた。映画を上映する際には舞台の前部に楽隊が入った。座布団や火鉢が貸し出され、飲食物を運ぶお茶子もいた。その他には幕引き、下足預かり、木戸番などの人々もいた。年に一度くらいは歌舞伎も上演された。舞踊・三味線・尺八・琴の発表会なども催された。正月には抽選会があり、長持・タンス・座布団・大正箱・バケツなどが景品となった。*25

1918年には「大黒座」が創設され、尾上菊五郎や松本幸四郎の歌舞伎の興行、映画の上映、政談演説会などが催された。格天井、回り舞台などを持つ大きな芝居小屋だったが、老朽化により大黒座に変わった。手前は美しい庭園を持つ料理屋の大喜館で、跡地には電装会館が建っている。*26

五代目坂東蓑助は1909年に知立の東雲座で公演を行った。翌月には刈谷の「大黒座」で公演を行ったが、興行中に急死した。47歳だった。*27

1898年、大野介蔵によって旧緒川町の坂の下り口に大生座が開館した。大野家の先祖は常総国結城郡大生村(おおのおむら、現在の茨城県常総市)出身であるため村名を館名とした。向かって右側に木戸札を売る木戸口があり、左側に氷水などを売る売店があった。ホールの入口には木戸番が座り、大人の木戸札と子供の木戸札を受け取って入場者数を数えた。回り舞台があり、大道具・小道具の奥が楽屋だった。歌舞伎の興行が多く、市川團十郎一座などの有名な役者がきた。浪花節の東中軒雲右衛門の興行の際などは、前日から行列ができて緒川町は大賑わいだったという。400人ほどの客が入ると、大道具・小道具から木戸番・下足番まで二銭銅貨を入れた大入り袋が配られた。当時流行した新派の「不帰鳥」(ホトトギス)なども人気があった。後には活動写真も上映し、開始時刻の午後2時まではのぼりを立てた楽隊が宣伝に回った。*28

1957年の商工年鑑には、映画館として「刈谷映画劇場」、「株式会社大黒座」、「日劇」の3館が掲載されている。刈谷映画劇場は、代表者が大野允敬、所在地が葭池町1。大黒座は、代表者が保良市蔵、所在地が元中根町47。日劇は、代表者が堀部俊枝、所在地が二ツ池下。*29

1962年の商工年鑑には、映画館として「刈谷映画劇場」、「株式会社大黒座」、「日本劇場」の3館が掲載されている。刈谷映画劇場は、代表者が大野久吉、所在地が広小路1-15。大黒座は、代表者が保良市蔵、所在地が司町1-31。日本劇場は、代表者が堀部煌三、所在地が司町3-33。*30

1967年の商工年鑑には、映画館として「刈谷映画劇場」、「株式会社大黒座」、「日本劇場」の3館が掲載されている。刈谷映画劇場は、代表者が大野久吉、所在地が広小路1-15、従業員が16人。大黒座は、代表者が三浦善一郎、所在地が司町1-31、従業員数が11人。日本劇場は、代表者が堀部治雄、所在地が広小路3-33、従業員数が12人。*31

明治時代の刈谷町緒川町(現・刈谷市司町)には大生座という芝居小屋があった。大正時代には東浦の緒川に通ずる街道の急坂を直すために土を取り、跡地広場に伊藤鋭太郎という人物が「大黒座」を創立した。名古屋の御園座をまねて仕上げたといい、格天井・周り舞台・大小2つの花道と桟敷など豪華なものであった。戦後には映画専門の劇場となった。*32

1978年9月のこのほど、刈谷市司町1の「大黒座」が解体された。12月には鉄骨造平屋建ての映画館として再発足する予定。明治時代の刈谷町には、旧緒川町に芝居小屋「大生座」があった。大野介造が諸戸清六に勧められて士族屋敷跡に建てた劇場である。大生座が老朽化したことから、緒川町の旧坂を直すために土を取った広場を利用して、1918年5月に伊藤鐐太郎が大黒座を創立した。棟梁は碧南の大工であり、名古屋の御園座をまねて仕上げられた。格天井、廻り舞台、大小2本の花道、桟敷などがあり、こけら落としには東京歌舞伎の大名題が出演した。*33

大黒座は1918年に芝居小屋として開業し、1950年に映画館に転換した。2007年11月には刈谷市のNPO法人が、近くに駄菓子屋併設小規模デイサービス施設「だいふく」を開設。「だいふく」は大黒座から駐車場を借りていた。2012年3月に大黒座が閉館すると、映画館業と合わせてレンタルビデオ業も営んでいたオーナーから年寄りの観賞用に映画のビデオテープ1200本を無償で譲り受けた。これにより、「だいふく」は運営するデイサービスセンターの一角にミニシアターの整備を進めている。*34
刈谷大黒座(新)/刈谷大黒座シネマ1・2
所在地 : 愛知県刈谷市司町1-31(1980年・1985年・1990年・2000年・2010年・2012年)
開館年 : 1978年12月
閉館年 : 2012年
Wikipedia : 大黒座
1980年・1981年・1982年の映画館名簿では「刈谷大黒座」。1980年の映画館名簿では経営者・支配人ともに玉沢克豊、鉄筋造1階、150席、東映・にっかつを上映。1983年・1984年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2012年の映画館名簿では「刈谷大黒座シネマ1・2」(2館)。1982年の住宅地図では「刈谷大黒座 映画館」。1987年・1990年・1992年の住宅地図では「刈谷大黒座 映画館 シネマ1 シネマ2」。2012年の映画館名簿では経営会社が有限会社ムービーハウス、経営者・支配人ともに玉沢克豊、鉄筋造1階、1が120席、2が64席、いずれも成人映画を上映。前身館は木造の大黒座。跡地は「ふれあいプラザゆうきそう」南東80mにある8件の戸建て住宅。最寄駅は名鉄三河線刈谷市駅。

1978年9月のこのほど、刈谷市司町1の「大黒座」が解体された。12月には鉄骨造平屋建ての映画館として再発足する予定。明治時代の刈谷町には、旧緒川町に芝居小屋「大生座」があった。大野介造が諸戸清六に勧められて士族屋敷跡に建てた劇場である。大生座が老朽化したことから、緒川町の旧坂を直すために土を取った広場を利用して、1918年5月に伊藤鐐太郎が大黒座を創立した。棟梁は碧南の大工であり、名古屋の御園座をまねて仕上げられた。格天井、廻り舞台、大小2本の花道、桟敷などがあり、こけら落としには東京歌舞伎の大名題が出演した。*35

大黒座は1918年に芝居小屋として開業し、1950年に映画館に転換した。2007年11月には刈谷市のNPO法人が、近くに駄菓子屋併設小規模デイサービス施設「だいふく」を開設。「だいふく」は大黒座から駐車場を借りていた。2012年3月に大黒座が閉館すると、映画館業と合わせてレンタルビデオ業も営んでいたオーナーから年寄りの観賞用に映画のビデオテープ1200本を無償で譲り受けた。これにより、「だいふく」は運営するデイサービスセンターの一角にミニシアターの整備を進めている。*36
刈谷日劇・刈谷小劇場/刈谷日劇・刈谷小劇場・刈谷日劇3/刈谷日劇・刈谷小劇場/刈谷日劇1・2
所在地 : 愛知県刈谷市御幸町1-86(1973年・1976年・1980年・1985年)、愛知県刈谷市御幸町4-208(1990年・1995年・2000年・2005年・2015年)
開館年 : 1971年頃
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 刈谷日劇
1967年のデラックス住宅地図では後の映画館の場所に「刈谷会館 パチンコ」。1973年・1974年・1975年の映画館名簿では「刈谷日本劇場・刈谷小劇場」(2館)。1973年の全航空住宅地図帳では「刈谷会館 小劇 日劇 パチンコ」。1976年・1977年・1978年・1980年・1981年・1982年・1983年・1984年・1985年の映画館名簿では「刈谷日劇・刈谷小劇場」(2館)。1980年の映画館名簿では経営会社が愛三観光、経営者が堀部煌三、刈谷日劇の支配人が堀部治雄、刈谷小劇場の支配人が小倉利夫、いずれも鉄筋造3階、刈谷日劇が252席で洋画を上映、刈谷小劇場が126席で洋画・成人映画を上映。1982年の住宅地図では「愛三ビル 1階パチンコ刈谷会館 2階日劇・小劇 3階天ぷらステーキ愛三 愛三観光 4階サウナラブスリー 5階」。1987年「愛三ビル 1階パチンコ刈谷会館 2階日劇・小劇 3階喫茶あいさん レストラン愛三 愛三観光 4階サウナラブスリー 5階」。1990年・1991年・1992年・1993年・1994年・1995年・1997年・1998年・1999年・2000年・2001年・2002年・2004年・2005年・2006年の映画館名簿では「刈谷日劇・刈谷小劇場・刈谷日劇3」(3館)。1990年の住宅地図では「愛三ビル 1階パチンコ刈谷会館 2階日劇 3階喫茶あいさん レストラン愛三 愛三観光 日劇3 4階サウナラブスリー 5階」。1992年の住宅地図では「愛三ビル 1階パチンコ刈谷会館 2階日劇 3階愛三観光 日劇3 4階喫茶あいさん レストラン愛三 5階サウナラブスリー 6階ビヤガーデン」。2010年の映画館名簿では「刈谷日劇・刈谷小劇場」(2館)。2015年・2018年の映画館名簿では「刈谷日劇1・2」(2館)。最寄駅は名鉄三河線刈谷市駅。

1970年12月25日の『中日新聞』「映画案内」によると、12月26日には愛三ビルに成人映画専門の新館として刈谷小劇が開館する。オープニング作品は『女湯物語』や『浮世院参り』などの成人映画3本立て。刈谷市唯一の「邦画・成人映画専門劇場」であり18歳未満の方の入館お断りとある。今週に入館された方にはもれなく雑誌『成人映画』をプレゼントとある。*37

1987年4月28日の『中日新聞』「映画案内」によると、4月29日には新館として日劇3が開館する。オープニング作品は1986年のアメリカ映画『プラトーン』と1986年のアメリカ映画『サボテン・ブラザース』。刈谷日劇、日劇3、刈谷小劇の3館体制となる。刈谷日劇では1986年のアメリカ映画『リトルショップ・オブ・ホラーズ』と1985年のアメリカ映画『エルム街の悪夢2 フレディの復讐』を上映している。刈谷小劇では痴漢電車大会3本立てを上映している。*38

1954年、刈谷市の広小路町に週3本の映画を上映する洋画専門館「刈谷日劇」が開館した。1971年には御幸町に移転した。2001年のリニューアルを経て、2012年からは2スクリーンのミニシアターとして営業している。刈谷市には他にもいくつか映画館があったが、現在は刈谷日劇が唯一の映画館である。スクリーン1では最新のデジタル映写機による新作を、スクリーン2では名画座形式の2本立てを上映している。スクリーン1にはもともとフィルム映写機が2台並んでいたが、1台を横にずらしてデジタル映写機を設置している。スクリーン2では35mmフィルムなどを上映している。スクリーン2は名画座形式であるため、入場料を払えばくりかえし観て一日中でも楽しめる。20年前にはスピーカーを当時最高級のものに入れ替え、「シネコンよりもいい音がする」と語る観客も多い。このため、音楽に関係した映画を比較的多く上映している。スクリーン1は堀部社長が、スクリーン2はマネージャーの亀谷氏が作品を選定しているが、観客からのリクエストも作品選びの参考にしている。刈谷日劇では現在もフィルム上映を行っているが、フィルム上映を行う映画館は貴重であり、作品によっては名古屋や東京からもファンが訪れるという。刈谷日劇の休憩スペースでは観客同士が話しあっていることも多い。毎月第2土曜日の19時からは、亀谷氏と刈谷日劇ファンとで、映画について語らう場が設けられている。そこから友達になって新しい交流が始まった方もたくさんいるのだそう。刈谷日劇の最終上映は19時からであるが、仕事帰りにぶらっと1本見に行けるようにという思いが込められている。2016年春には、刈谷市が近隣市と協力したフィルムコミッションの立ち上げを計画中であり、映画をきっかけとしたまちづくりにも取り組んでいる。休憩スペースでは軽食やドリンクが販売されている。休憩スペースの壁面には、三池崇史監督作品の美術を手掛けている映画美術監督・林田裕至氏の直筆の壁画が描かれている。林田氏が刈谷日劇に舞台挨拶に訪れた際、2日かけて2面を描いたという。ロビーにはフリーメッセージボード(掲示板)があり、見たい作品のリクエストが書かれたり、映画ファン同士の交流の場として設けられている。代表取締役の堀部俊仁社長はアクションものなどの洋画が好みであり、お気に入り作品に『グラディエーター』を挙げる。マネージャーの亀谷宏司氏はスキーが好きであり、お気に入り作品は『私をスキーに連れてって』。年に1回、冬が近くなると見ているという。*39

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。

安城市

安城市の映画館
2002年3月31日まで安城市歴史博物館で「なつかしの映画ポスター展」が開催された。安城市歴史博物館が所蔵している昭和30年代・40年代の映画ポスター120点と、映画パンフレットや宣伝用スチール写真など160点が展示された。安城市内には昭和40年代まで中心市街地などに5つの映画館があり、市内の収集家から借りたこれらの映画館の当時の上映案内チラシなども含まれている。*40

「安城にあった劇場・映画館」。戦前の安城駅周辺には、「安城座」、「帝国館」、「弥生館」、「明治座」などの娯楽施設があった。戦前の安城座と帝国館のチラシ、戦後の安城座のチラシの写真あり。*41

1950年時点の碧海郡安城町の娯楽施設としては、映画常設館1、映画と演劇を兼ねる劇場1、麻雀店、撞球店、パチンコ店など数々の遊技場がある。弥生館と安城映画劇場の写真あり。1949年度の弥生館の映画観覧者数は、洋画が約2,200人、邦画が約130,000人、計131,701人。1949年度の安城映画劇場の映画観覧者数は、洋画が約28,000人、邦画が約5,000人、映画以外が約8,500人、計41,313人。弥生館と安城映画劇場の広告が掲載されている。「映画常設 弥生館」「映画・演劇 安城映画劇場 澤田興行社 沢田敏夫」。*42

1953年時点では、安城市の映画館として「弥生館」と「安城映画劇場」がある。弥生館の所在地は安城市末広、代表者は太田信之、年間入場者数は100,819人。安城映画劇場の所在地は安城市末広、代表者は沢田敏夫、年間入場者数は36,251人。*43

『安城市 工業名鑑 1955』には安城市街地の鳥瞰図が掲載されており、「安城映劇」「弥生館」「南映劇場」の3館の名前が見える。*44

1956年時点では、安城市民は1年間に1人あたり5.6回映画を鑑賞するという。自動車・トラックは56人に1台。ラジオは0.95戸に1台。電話は98戸に1台。1956年時点の人口は53,490人。*45

1958年の『安城商工名鑑』には、「安城東映」、「弥生館」、「南映会館」の3館が掲載されている。「安城東映」の代表者は沢田敏男、所在地は安城町花ノ木23。「弥生館」の代表者は太田信之、所在地は安城町上細田1-180。「南映会館」の代表者は安城東映と同じ沢田敏男、所在地は安城町的場90-3。*46

1963年の『安城商工名鑑』には、「安城東映」、「安城日活」、「弥生館」、「安城南映会館」の4館が掲載されている。「安城東映」の代表者は沢田敏男、所在地は末広町。「安城日活」の代表者は小坂幸之助、所在地は本町。「弥生館」の代表者は太田信之、所在地は末広町。「安城南映会館」の代表者は安城東映と同じ沢田敏男、所在地は日の出町。*47

1968年の『安城商工名鑑』には、「安城東映」、「安城東宝」、「弥生館」、「南映会館」の4館が掲載されている。「安城東映」の代表者は沢田一郎、所在地は末広町11-11。「安城東宝」の代表者は小坂幸之助、所在地は御幸本町7-2。「弥生館」の代表者は太田信之、所在地は末広町6-6。「南映会館」の代表者は安城東映と同じ沢田一郎、所在地は日の出町6-20。*48

1983年の『創立30周年記念 1983 安城商工名鑑』には、「安城東映」の1館が掲載されている。「安城東映」の事業主は野木一郎、所在地は末広町11-11。創業は1934年。従業員は1人。*49
帝国館
所在地 : 愛知県碧海郡安城町
開館年 : 1924年
閉館年 : 不明
1924年、安城町に映画館「帝国館」が開設された。*50

1910年には碧海郡安城町に知立町から警察署が移転し、1914年には安城町に碧海郡役所も移転した。1916年から1917年頃には市街地の範囲が定められ、本町、本通、栄町、朝日、御幸、花ノ木、末広という町名が付けられた。劇場や映画館としては、1911年に「安城座」、1924年に「帝国館」、1928年に「弥生館」が建てられた。*51
桜井劇場/桜井映画劇場/桜映画劇場
所在地 : 愛知県碧海郡桜井村東町42(1953年)、愛知県碧海郡桜井村東町(1955年)、愛知県碧海郡桜井町東町(1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1929年
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1929年設立。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「桜井劇場」。1955年の映画館名簿では「桜井映画劇場」。1955年の映画館名簿では経営者が水野庄六。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「桜映画劇場」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに水野庄六、木造平屋建冷房付、588席、邦画を上映。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年のアイゼン住宅地図では跡地に「水野豊」邸。1972年のゼンリン住宅地図では「水野豊」邸。1974年の全航空住宅地図帳ではそれまでの水野豊邸に「映劇アト」と記載されている。1979年のゼンリン住宅地図では跡地に「桜山水墨画教室」。1985年のアイゼン住宅地図では「水野水墨画教室 桜山」。1987年のゼンリン住宅地図では跡地に「水野桜山塾 水野水墨画教室(桜山)」。2014年のゼンリン住宅地図では「洗心庵 水野」。2018年のゼンリン住宅地図では跡地に空き地と道路建設用地。跡地は「ファッションセンターしまむら桜井店」の西50mにある戸建て住宅地。最寄駅は名鉄西尾線桜井駅。

『企画展 千客万来 安城を彩った広告』には1955年頃の「桜井村案内図」が掲載されており、名鉄西尾線桜井駅の東側、現在の西尾信用金庫桜井支店の西10mに「櫻井劇場」と書かれている。同文献には「桜井劇場」(実際の表記は櫻井劇場)で昭和20年代に公開された際の映画『王政復古』の上演チラシが掲載されている。*52
南映会館/安城南映会館
所在地 : 愛知県安城市朝日町(1958年)、愛知県安城市朝日町的場(1960年)、愛知県安城市安城町的場90-3(1963年)、愛知県安城市日ノ出町3(1966年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1968年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1960年・1963年の映画館名簿では「南映会館」。1961年の安城市居住者明細図帳では「南映会館」。1966年・1968年の映画館名簿では「安城南映会館」。1966年の映画館名簿では経営者が沢田敏男、支配人が沢田靖男、木造1階冷暖房付、定員270、洋画を上映。1966年の安城市住宅明細図では「南映会館」。1969年のアイゼン住宅地図では「三河観光 南映会館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1972年・1973年のゼンリン住宅地図では跡地に「料理かつら」。1974年の全航空住宅地図帳では跡地に「和食料理かつら」。1979年のゼンリン住宅地図では跡地に「料理かつら(中島靖男)」。1980年の航空住宅地図帳では跡地に「和食料理かつら」。1985年のアイゼン住宅地図では跡地に「料理かつら中島靖男」。1987年・1992年のゼンリン住宅地図では跡地に「天婦羅かつら(中島靖男)」。1994年のゼンリン住宅地図では跡地に「天婦羅かつら中島靖男」。現在の跡地には2000年以降竣工と思われる民家。「安城スイミングスクール」の北北東30m。マンション「グラニート412」の道路を挟んで南西側。マンション「レゾンシティ安城」の道路を挟んで南東側。最寄駅は名鉄西尾線南安城駅。

喫茶店ミナミは1964年に開店した。亡くなった祖母が初代であり、女性(40代?)が3代目。かつて安城市には多くのビリヤード場があり、2019年現在で73歳の父はビリヤードが得意だった。母(60代後半?)が嫁に来た時にはもう映画館「南映会館」はなかった。映画館跡地は天ぷら屋になり、天ぷら屋も15年ほど前に閉店した。「南映会館」はスイミングスクールのブロックの北西角にあった。
安城日活/安城日活劇場/安城東宝劇場
所在地 : 愛知県安城市安城町駅前(1964年)、愛知県安城市御幸本町7-2(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年)
開館年 : 1962年6月16日
閉館年 : 1981年3月頃
1961年の安城市居住者明細図帳には掲載されていない。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の映画館名簿では「安城日活」。1966年の映画館名簿では「安城日活劇場」。1966年の映画館名簿では経営者が小坂幸之助、支配人が小坂武、木造1階冷暖房付、定員224、日活・混合・洋画を上映。1966年の安城市住宅明細図では「安城日活」。1969年のアイゼン住宅地図では「安城日活」。1972年のゼンリン住宅地図では「東宝」。1973年の映画館名簿では経営会社が中部共栄興行、経営者が住川義久、支配人が小坂武、木造1階冷暖房付、224席、東宝・洋画を上映。1973年のゼンリン住宅地図では「安城東宝」。1974年の全航空住宅地図帳では「安城東宝」。1969年・1976年・1980年・1981年の映画館名簿では「安城東宝劇場」。1979年のゼンリン住宅地図では「安城東宝」。1980年の映画館名簿では経営者・支配人ともに小坂武、木造1階、244席、東宝・松竹・洋画を上映。1980年の航空住宅地図帳では「安城東宝」。1981年(※誤記ではない)発行の1983年航空住宅地図帳では「安城東宝」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。1983年5月発行のゼンリン住宅地図では跡地に「フランセハラダ」。1985年のアイゼン住宅地図では跡地に「ピュイダムールビル 1階パンケーキフランセ 喫茶フランセ 2階ハラダ美容室 コーヒーショップ 3階製菓場 4・5階住宅」。1987年のゼンリン住宅地図では跡地に「1階フランセ ブティックすぎや 2階ジョイ美容室 喫茶フランセ」。居酒屋「や台ずしJR安城駅前町」などが入る1983年竣工の商業ビル「フランセビル」。最寄駅はJR東海道本線安城駅。

1962年6月16日、安城市の安城駅前に「安城日活」が開館した。定員500人。経営者は小坂幸之助、支配人は牧野善之助。*53

安城市歴史博物館の企画展の目録である『汽笛一聲 安城駅120年』には、「駅前の映画館」として「安城東宝」の写真あり。年月日は不明だが、『レガシー』(1978年、アメリカ=イギリス合作)、『エーゲ海に捧ぐ』(1979年、東宝)の看板が出ている。*54

1973年の安城市御幸本町にあった「安城東宝」の写真あり。「安城東宝」「新春」などの文字が見える。1972年12月30日公開の東宝作品『御用牙』の看板が見える。*55

1981年3月13日『中日新聞』朝刊15面の映画情報欄には、安城東宝の欄に「都市改造事業のため閉館いたしました」と書かれている。*56
弥生館/安城弥生館
所在地 : 愛知県碧海郡安城町本通り(1930年)、愛知県碧海郡安城町末広(1936年)、愛知県碧海郡安城町(1943年)、愛知県碧海郡安城町末広(1946年)、愛知県碧海郡安城町(1947年・1949年・1950年)、愛知県安城市安城町上細田(1953年・1955年)、愛知県安城市安城町上細田1-180(1958年)、愛知県安城市安城町上細田(1960年)、愛知県安城市末広町(1963年)、愛知県安城市末広町5-6(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1982年)
開館年 : 1928年
閉館年 : 1982年4月頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年・1936年・1943年・1946年・1947年・1949年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「弥生館」。1961年の安城市居住者明細図帳では「弥生館」。1966年の映画館名簿では経営者・支配人ともに鵜飼清一、木造2階、定員400、松竹・東宝・洋画を上映。1966年の安城市住宅明細図では「弥生館」。1969年のアイゼン住宅地図では「安城館」。1972年・1973年のゼンリン住宅地図では「弥生映画館」。1973年の映画館名簿では経営者・支配人ともに太田信之、木造2階冷暖房付、400席、洋画・松竹・成人映画を上映。1974年の全航空住宅地図帳では「弥生館」。1976年・1980年・1982年の映画館名簿では「安城弥生館」。1979年のゼンリン住宅地図では「弥生座」(※館ではなく座)。1980年の航空住宅地図帳では「弥生館」。1980年の映画館名簿では経営者・支配人ともに太田信之、木造1階、222席、成人映画を上映。1981年(※誤記ではない)発行の1983年航空住宅地図帳では「弥生館」。1983年5月発行のゼンリン住宅地図では「弥生館」。1983年の映画館名簿には掲載されていない。1985年のアイゼン住宅地図では跡地に空白。1987年・1992年のゼンリン住宅地図では跡地に空き地。1993年のはいまっぷでは跡地に空き地。2001年・2010年・2015年のゼンリン住宅地図では跡地に空き地。跡地は「碧海信用金庫本店」南140mの敷地。土地区画整理中で変化が激しいので参考程度に。最寄駅はJR東海道本線安城駅。

1932年の『大日本職業別明細図 愛知県 第295号』には「安城座」「弥生館」が描かれている。*57

1910年には碧海郡安城町に知立町から警察署が移転し、1914年には安城町に碧海郡役所も移転した。1916年から1917年頃には市街地の範囲が定められ、本町、本通、栄町、朝日、御幸、花ノ木、末広という町名が付けられた。劇場や映画館としては、1911年に「安城座」、1924年に「帝国館」、1928年に「弥生館」が建てられた。*58

1951年の安城町長選挙は市制施行推進派と慎重派の争いとなった。現職の大見為次町長は弥生館での立会演説会を開催し、町長としての積極的な施策の数々を訴えた。*59

1928年、安城町に映画館「弥生館」が開設された。*60

1928年、末広町の表通りから路地を東へ入った場所に「弥生館」が開館した。弥生館は松竹系の映画館であり、上原謙・田中絹代・佐分利信などのスターの作品が上映された。盆や正月には早朝から開館を待つ人の列ができ、「弥生館」の前から隣の半弓場、置屋、そして菓子屋の角を曲がってずっと続いていた。一時期の安城市内には、弥生館のほかに「安城座」(のちの「安城東映」)、「南映」、「日活」の映画館があったが、1984年には弥生館も閉館した。弥生館の跡地は駐車場となっている。1958年頃の島田正吾・山田五十鈴主演の『夏祭り三度笠』を上映中の弥生館の写真あり。*61

1950年頃の「弥生館」の写真。当時の1年間の映画観覧者は、洋画1,466人、邦画107,441人だった。*62

1981年11月2日『中日新聞』朝刊10面の映画情報欄には、弥生館の欄に「本日より休館」と書かれている。*63

1982年4月4日『中日新聞』朝刊11面の映画情報欄には、弥生館の欄に「スニーカーぶる〜す 他上映」と書かれている。4月5日以降の映画情報欄には弥生館の上映情報が掲載されていない。*64

1984年4月の『民声新聞』記事。安城市の映画館「弥生館」が取り壊された。「安城東映」も休館中であり、再開の見通しは暗い。*65

『安城ホームニュース』を1985年4月13日の創刊号から1985年12月14日の第17号まですべて閲覧したが、映画館に関する記事は確認できなかった。
安城座/安城東映劇場
所在地 : 愛知県安城市末広町6(1953年・1955年・1958年)、愛知県安城市花ノ木町23(1960年)、愛知県安城市末広町(1963年)、愛知県安城市花ノ木町8-7(1966年・1969年)、愛知県安城市末広町8-7(1973年・1976年・1980年・1982年・1984年)
開館年 : 1911年
閉館年 : 1984年前半頃
Wikipedia : 安城東映
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「安城座」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「安城東映」。1961年の安城市居住者明細図帳では「安城東映」。1966年の映画館名簿では経営者が沢田敏男、支配人が沢田一郎、木造2階冷暖房付、定員360、大映・東映・混合を上映。1966年の安城市住宅明細図では「安城東映」。1972年・1973年のゼンリン住宅地図では「東映」。1974年の全航空住宅地図帳では「安城東映」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1982年・1984年の映画館名簿では「安城東映劇場」。1969年のアイゼン住宅地図では「安城東映」。1973年の映画館名簿では経営者・支配人ともに野木一朗、木造2階冷暖房付、360席、東映・日活を上映。1979年のゼンリン住宅地図では「安城東映」。1980年の映画館名簿では経営者・支配人ともに野木一郎、木造1階、360席、東映・にっかつを上映。1980年の航空住宅地図帳では「安城東映」。1981年(※誤記ではない)発行の1983年航空住宅地図帳では「安城東映」。1983年5月発行のゼンリン住宅地図では「安城東映」。1985年のアイゼン住宅地図では「安城東映」。この住宅地図に掲載されている映画館は安城東映のみ。1985年の映画館名簿には掲載されていない。1987年のゼンリン住宅地図では跡地に「安城東映」。1992年のゼンリン住宅地図では跡地に空白の建物。1993年のはいまっぷでは跡地に駐車場。1994年のゼンリン住宅地図では跡地に駐車場。2001年のゼンリン住宅地図では跡地に空き地。2010年のゼンリン住宅地図では跡地に駐車場。2015年のゼンリン住宅地図では跡地が区画整理事業中の道路用地。跡地はマンション「グランドメゾン安城」西北西30mの道路上。土地区画整理事業が進行中なので跡地は参考程度に。最寄駅はJR東海道本線安城駅。

1927年の『大日本職業別明細図之内 愛知県』には「安城座」「帝国カン」が描かれている。*66

1932年の『大日本職業別明細図 愛知県 第295号』には「安城座」「弥生館」が描かれている。*67

1911年、安城町に芝居小屋「安城座」が開設された。1946年7月5日、安城文化協会は安城座で歌劇「椿姫」の公演を行った。1948年7月、安城町連合青年団と安城文化協会が共同で、安城座で希望討論会を開催した。*68

1948年には安城町の「安城座」で全3回の希望討論会が開催され、「安城の市政をどう考えるか」などの討論が行われた。安城文化協会と安城町連合青年団が主催。安城座の座主である沢田敏男などが司会を進行し、大見為治町長などが講師を務めた。*69

1910年には碧海郡安城町に知立町から警察署が移転し、1914年には安城町に碧海郡役所も移転した。1916年から1917年頃には市街地の範囲が定められ、本町、本通、栄町、朝日、御幸、花ノ木、末広という町名が付けられた。劇場や映画館としては、1911年に「安城座」、1924年に「帝国館」、1928年に「弥生館」が建てられた。*70

安城市末広町には「安城座」があり、碧海農業祭ではみどり会が碧海おどりを踊った。安城座はのちに「安城東映」に改称し、1989年現在は閉館して姿を消している。*71

末広町にあった安城座は1911年創業の劇場であり、当初は演劇などが中心だったが、やがて映画も上映するようになった。その後、安城映画劇場に改称し、戦後には映画館の安城東映となった。戦前の安城座や戦後の安城座のチラシの写真あり。*72

1970年の安城市の末広町通りの写真あり。「東映」の文字のネオンサインが見える。この角を左に入ると「安城東映」があった。1911年に開館した「安城座」が起源であり、安城座では芝居の興行・映画の上映・講演会などが催された。安城座は1959年に安城東映となった。写真の右方向には1928年から営業していた「弥生館」もあった。末広町通りの奥には碧海信用金庫のビルが見える。*73

1984年4月の記事。安城市の映画館「弥生館」が取り壊された。「安城東映」も休館中であり、再開の見通しは暗い。*74
安城シネマ/安城コロナシネマワールド
所在地 : 愛知県安城市浜富町6番地2(1996年・1998年・2000年・2005年)、愛知県安城市浜富町6番地8(2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1995年12月23日
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。1996年・1998年の映画館名簿では「安城シネマ1-10」(10館)。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「安城コロナワールド1-10」(10館)。2015年・2020年の映画館名簿では「安城コロナシネマワールド1-10」(10館)。安城コロナワールド内。最寄駅は名鉄西尾線南安城駅。

(※ザ・モール安城として開業したショッピングセンターの記事)1990年10月25日、大手紡績メーカーのクラボウは、安城工場用地の一部(愛知県安城市大東町9-13)を再開発し、セゾングループの西友をキーテナントにしたショッピングセンター「スプリングサーカス安城」を建設すると発表した。総店舗面積3万6000平方メートルは東海地区第2位、テナント数は郊外型ショッピングセンターでは愛知県第1位となる。安城工場はJR安城駅の約800メートル西にあり、敷地約23万平方メートルに工場・社宅・寮などがある。設備の近代化などで従業員は最盛期の半分以下の670人に減り、寮や社宅の老朽化が進行したため、数年前に浮上した再開発計画で西友とともに開発することで合意に達した。総事業費は約250億円で、うち西友が150億円を投資する。*75

1995年12月22日の広告。コロナグループは名古屋市中川区に中川コロナワールドを、安城市に安城コロナワールドをオープンさせる。中川コロナワールドでは、12月23日にはキャットアカデミーと中川コロナシネマWORLDがオープンする。12月25日にはパチンココロナがオープンする。12月28日には中川コロナワールドグランドオープンする。安城コロナワールドでは、12月22日にパチンココロナがオープンする。12月23日には中川コロナシネマWORLDがオープンする。1996年2月下旬には安城コロナワールドがグランドオープン予定である。*76

小牧市に本社を置くコロナグループは、小牧市・春日井市・江南市・豊川市など、愛知県・岐阜県下で複合映画館を核とする複合レジャー施設を展開している。1995年12月23日、名古屋市中川区に「中川コロナシネマワールド」を、安城市に「安城コロナシネマワールド」を同時開館させる。コロナグループの集大成を目指した中川コロナワールドと安城コロナワールドの核となる部分であり、それぞれ10スクリーンを有する。中川コロナワールドは国道1号三日月橋西詰の江松交差点角に位置し、敷地面積は約2万平方メートルである。安城コロナワールドはJR安城駅から東1kmのフタバ産業跡地にあり、敷地面積は約4万平方メートル。いずれもシネコンを中心都市、パチンコ店・ゲームセンター・カラオケボックス・ビデオ&CDレンタル店・外食店などを出店させ、さらに今まではなかったボウリング場や天然温泉も加える。これによってコロナグループのシネコンは9施設となり、57館の直営映画館を抱えることとなる。安城市には11年ぶりに映画館が復活することとなる。*77

1995年12月23日、名古屋市中川区と安城市に国内最大級の複合レジャー施設「中川コロナシネマワールド」「安城コロナシネマワールド」を開館させる。コロナグループは小牧市・春日井市・江南市・一宮市・半田市・豊田市・豊川市・多治見市にレジャー施設を展開しているが、既存施設にはない天然温泉やボウリング場を加える。コロナグループ6社を率いる代表取締役は大塚定光(66)。父親から引き継いだ江南市の映画館「新盛館」を、パチンコ店などとの連結経営によってよみがえらせ、複数映画館を核とする複合レジャー施設井発展させた。愛知県・岐阜県下に9施設計57館の映画館を展開することとなる。*78

1995年12月23日、安城市浜富町に映画館「安城コロナシネマワールド」が開館する。1984年を最後に映画館が消えていた安城市にとって、11年ぶりの映画館の復活である。小牧市に本社を置くコロナグループによる運営。JR安城駅東約1キロの工場跡地(約4万平方メートル)に、映画館に加えてパチンコ店、ボウリング場、天然温泉浴場などが入る4棟を建設中である。このうち映画館はA棟2階の約1300平方メートル。10スクリーンが入る。*79

1996年2月23日、安城市浜富町の大型レジャー施設「安城コロナワールド」は、天然温泉「コロナの湯」をオープンさせる。コロナグループは安城市で初めて温泉を掘り当て、1995年夏から秋にかけて温泉を掘削した。1995年12月には温泉に先駆けて映画館などが開館し、11年ぶりに安城市に映画館が復活したことで話題となった。泉質は弱アルカリ性のナトリウム温泉であり、虚弱体質・切り傷・五十肩・捻挫などに効能があるという。*80

1995年から1996年のこのほど、コロナグループは名古屋市中川区に10館、安城市に10館を開館させた。愛知県と岐阜県で39館を経営している。*81

2015年8月1日、映画の画面に合わせて座席が揺れ動くなど臨場感を味わえる上映設備「4DX」が「安城コロナシネマワールド」に導入された。安城コロナシネマワールドを経営するコロナワールドは、2013年に国内で初めて名古屋市の中川コロナシネマワールドに4DXを導入している。愛知県内では中川と豊川コロナシネマ・ワールドに次いで3店目である。10スクリーンのうち1スクリーンに約2億円を投じて整備した。座席は120席。通常料金に加え1000円が必要。初日となった8月1日には『進撃の巨人』を4DXで上映した。8月7日から『ジュラシック・ワールド』『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネーション』も4DXで上映する予定。*82

知立市

知立市の映画館
1901年に東海道沿いに東雲座が開館し、知立出身の坂東蓑助の歌舞伎公演も行われた。大正末期には東雲座が知立劇場に改称し、1950年には映画館となった。1952年にはオリオン座が開館し、1955年には第一劇場も開館した。しかし1959年にはオリオン座が閉館し、1975年には知立劇場も閉館、1991年には第一劇場が閉館して、全盛期にあった3館はすべて消えた。1950年の知立劇場の外観の写真あり。昭和時代の第一劇場の外観の写真あり。1952年のオリオン座のチラシの写真あり。*83
オリオン座/知立日活オリオン/知立オリオン/知立オリオン座
所在地 : 愛知県碧海郡知立町知立西新地(1955年)、愛知県碧海郡知立町西新地38(1958年・1959年)、愛知県碧海郡知立町中山町77(1960年)
開館年 : 1952年9月
閉館年 : 1961年
1950年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧 1955』によると1952年9月設立。1955年・1958年の映画館名簿では「オリオン座」。1959年の映画館名簿では「知立日活オリオン」。1960年・1961年の映画館名簿では「知立オリオン」。1962年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の全航空住宅地図帳では跡地に「岡崎信用金庫知立支店」。1984年の航空住宅地図帳では跡地に「山本学園 体育館・講堂」。現在の跡地は「山本学園1号館」。最寄駅は名鉄名古屋本線知立駅または名鉄三河線三河知立駅。

この写真が撮影された当時、旧知立駅(現・三河知立駅)周辺に洋画専門の「オリオン座」と東映系の「第一劇場」があった。*84

1952年には知立町の新地町に「オリオン座」が開館。経営者は工業会社の社長による兼任であり、また人気映画の配給権が得られなかった。このため経営は苦しく、何度か経営権の委譲が行われている。*85

1955年頃の知立町にあった「オリオン座」の写真あり。1952年に知立2番目の映画館としてオリオン座が開館した。人気作品の配給権獲得競争に負け、1959年末に閉館した。現在の山本学園1号館の場所である。*86

1953年の知立町の新富にあった「オリオン座」の写真あり。1952年公開の『モンタナ』と『凸凹外人部隊』の看板が見える。新駅通りと中央通りの間に位置していた。それまでの知立の映画館は「知立劇場」のみだったが、映画ブームが起こっていた1952年にオリオン座が開館した。その後「第一劇場」も開館し、知立には3館の映画館があった。オリオン座は1959年に閉館した。1965年から1979年まで、跡地には岡崎信用金庫知立支店があった。2021年現在の跡地には山本学園情報文化専門学校の高等課程1号館・2号館がある。*87
東雲座/知立劇場
所在地 : 愛知県碧海郡知立町(1950年)、愛知県碧海郡知立町中山(1953年)、愛知県碧海郡知立町中山町30(1955年)、愛知県碧海郡知立町中山町77(1958年)、愛知県知立市中山町77(1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1926年8月
閉館年 : 1975年
Wikipedia : 知立劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1926年8月設立。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「知立劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の全商工住宅案内図帳では「知立劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「知立劇場」。1973年の全航空住宅地図帳では「知立劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。1984年の航空住宅地図帳では跡地に駐車場。現在の跡地は「鈴木洋服店」の20m東にある月極駐車場。最寄駅は名鉄三河線三河知立駅。

1927年の『大日本職業別明細図之内 愛知県』には「知立劇場」が描かれている。*88

1925年4月、知立町長の前嶋満助が設立発起人総代・取締役社長となって「知立劇場」が設立された。1株50円で1000株が発行され、前嶋は25株を所有する第5位の株主となっている。1934年時点の知立町では、株式会社福田商店と知立劇場株式会社が資本金5万円を有しており、次いで池鯉鮒合同運送株式会社と株式会社三陽商会が資本金2万5000円を有していた。*89

文政8年(1825)の大阪版芝居番付「諸国芝居繁栄数望」には、東方三段目(13番目)に三州池鯉鮒が格付けされているように、知立は演劇の盛んなところであった。その名残で1891年には西三河でもまだ珍しかった常小屋として日吉座が開館した。1901年6月、大村六三郎を座主とする「東雲座」のこけら落し公演が行われた。1910年には知立出身の歌舞伎俳優である坂東蓑助の一座が東雲座で興行した。*90

知立出身の歌舞伎役者には五代目坂東蓑助がいる。元治元年(1864)に池鯉鮒宿の旅籠巴屋の次男として生まれた。本名は鉄三郎であり、母の実家は東境(刈谷市)の泉正寺である。鉄三郎はやがて坂東喜知六の養子となり、1889年に守田勘弥の知遇を受けて坂東蓑助を襲名した。1909年に故郷知立にある「東雲座」での公演に出演したが、翌月には刈谷の大黒座での興行中に急死した。47歳だった。*91

大正末期には「東雲座」を建て直して「知立劇場」が開館したため、劇場内は1階も和式だった。1950年に増資をし、玄関と座席を洋式にする大改装を行って映画の常設館となった。知立劇場のこけら落しには、沢村宗十郎の「阿古屋の琴責め」が上演された。西三河地方における大劇場であったが、1975年に閉館した。建物はのちに取り壊されて、1980年現在の跡地は駐車場となっている。*92

昭和40年代まで知立市中山町には映画館の「知立劇場」があったため、劇場前の通りは「劇場通り」と呼ばれる。旧国道1号、旧東海道、新地通りが交わる六差路の中町交差点から、旧東海道を東へ向かう通りのことである。この写真が撮影された当時は旧知立駅(現・三河知立駅)近辺に洋画専門の「オリオン座」と東映系の「第一劇場」があった。バイパスが完成する1951年までは、狭い「劇場通り」が国道1号であり、渋滞が激しかったという。写真は「知立劇場」の方向から仲町方面を見ている。*93

1950年の知立町にあった「知立劇場」の写真あり。大正末期に「東雲座」を建て直して開館。1950年に大改装して知立唯一の映画館に生まれ変わった。1975年閉館。*94

1950年の知立町にあった「知立劇場」の写真あり。1901年に「東雲座」として創設され、知立出身の坂東蓑助の公演なども行われた。大正末期に知立劇場として建て直された。1950年には洋風に大改装され、当時の知立では唯一の映画館となった。1975年に閉館した。劇場通りの名称は知立劇場に由来している。*95
第一劇場/知立第一劇場/知立第一東映
所在地 : 愛知県碧海郡知立町平田43(1960年・1963年)、愛知県碧海郡知立町平田町(1966年・1969年)、愛知県知立市内幸町平田43(1973年・1976年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1955年
閉館年 : 1994年
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「第一劇場」。1960年の映画館名簿では「知立第一劇場」。1963年の映画館名簿では「知立第一東映」。1963年の全商工住宅案内図帳では「東映第一」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1993年の映画館名簿では「知立第一劇場」。1973年の全航空住宅地図帳では「第一劇場」。1984年の航空住宅地図帳では「第一劇場」。1994年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は戸建て住宅地。最寄駅は名鉄三河線三河知立駅。

1959年の知立町の内幸町にあった映画館「第一劇場」の写真あり。「知立劇場」と「オリオン座」に次いで、1955年12月に知立町3番目の映画館として開館した。名鉄三河知立駅の北、新地通りの1本東の通りにあった。東映の映画を多く上映した。知立市最後の映画館として営業していたが、1991年に閉館した。*96

1966年頃の知立町の内幸町にあった映画館「第一劇場」の写真あり。かつて知立には3つの映画館があった。1955年に最後発として開館したのが「第一劇場」であり、3年前の1952年に新地町に開館した「オリオン座」に続く3番目だった。第一劇場の開館から4年後にはまずオリオン座が閉館し、1975年には老舗の知立劇場も閉館した。第一劇場も平成になってから閉館し、2009年には建物も取り壊された。*97

1955年12月には建坪260坪(860平方メートル)の映画館「第一劇場」が開館。1977年現在の知立市に残る映画館は第一劇場のみである。*98

1965年の知立町にあった映画館「第一劇場」の写真あり。昭和30年代には全国で映画館の開館ブームが起こり、1955年12月に知立3番目の映画館として第一劇場が開館した。*99
アミスタ知立
所在地 : 愛知県知立市長篠町大山18-1 ネクステージ知立
開館年 : 1994年11月10日
閉館年 : 不明
1994年11月10日、大型ショッピングセンター「ギャラリエ・アピタ知立」の前身である「ネクステージ知立」がオープンした。現在のセガワールド知立の相当する部分には映画館「アミスタ知立」があった。映画館名簿には登場しない。
知立小劇場
所在地 : 愛知県知立市栄1-8(1979年・1980年・1985年)、愛知県知立市栄2-8(1990年・1995年・2000年・2005年・2008年)
開館年 : 1978年10月29日
閉館年 : 2008年
1978年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の映画館名簿では「知立小劇場(建築中)」。1979年の映画館名簿では経営会社が愛三観光、経営者が堀部煌三、支配人が堀部俊仁、鉄筋造1階冷暖房付、60席、洋画・成人映画を上映。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2006年・2008年の映画館名簿では「知立小劇場」。1984年の航空住宅地図帳では「マイアミ知立店 映画小劇」。2008年の映画館名簿では経営会社が有限会社プラザ知立、経営者が堀部俊仁、支配人が磯貝昭三郎、鉄筋造2階、60席、成人映画を上映。2010年の映画館名簿には掲載されていない。ビルの1階が「あっちゃん」、2階が知立小劇場。跡地は名鉄知立駅駅舎付近。知立駅の高架化事業で道路割が大きく変化しているので参考程度に。最寄駅は名鉄名古屋本線・三河線知立駅。

高浜市

千歳座
所在地 : 愛知県碧海郡高浜町(1950年)、愛知県碧海郡高浜町高浜一色(1953年)、愛知県碧海郡高浜町高浜(1955年)、愛知県碧海郡高浜町高浜一色30(1958年)、愛知県碧海郡高浜町一色30(1960年)
開館年 : 1913年(劇場)、1949年10月(映画館)
閉館年 : 1959年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「千歳座」。1960年の映画館名簿では経営者が加藤胸三郎、支配人が神谷慎太郎、木造2階、定員449、邦画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年のポータブル住宅地図では「千歳座」。1969年のアイゼン住宅地図では跡地は「新丸旅館」敷地。跡地は食事処「弥助」(料理旅館新丸の別邸)西側の駐車場。最寄駅は名鉄三河線高浜港駅。

現在の高浜市青木町にあった「千歳座」は、碧海郡高浜町で唯一の映画館だった。木戸を通って履物を預けて引替札を受取り、畳の客席に腰を下ろした。活動写真全盛期から昭和の中頃まであった。*100

1913年2月1日に「千歳座」が創立した。戦後の1949年10月に改築し、演劇場兼映画館となった。木造瓦葺の2階建であり、定員(座席数)は449名、その他に立ち見もできた。1955年前後の入場料は50円であり、美空ひばり主演作品3本立てが上映された際には、立ち見はもちろんのこと、舞台上まで客で埋まった。1959年の伊勢湾台風で半壊し、やむなく休館となった。*101

高浜町の都築徳次郎によって、1913年2月1日に「千歳座」が創立した。当初は演芸や演劇の興行を行っていたが、経営が困難となった。林角三が土地と建物を買収したが、入場者数の低迷でやはり経営難となった。今度は高浜町の石川勝観が買収したが、大正末期から昭和初期にかけて経営不振で休館状態が続いた。このため株式組織に改め、25000円で石川勝観から買収。1927年4月1日には千歳劇場株式会社が設立され、初代社長には高浜町の山脇篠作が就任。建物の改築を行って興行を再開した。1945年4月には山本徳太郎が第2代社長に就任し、1957年現在も山本が社長である。1957年現在の株主数は18人であり、資本金は100万円である。1957年現在の千歳劇場の直接経営者は高浜町の加藤宗三郎である。1930年頃からは演芸や演劇のほかに映画の興行も行っていたが、1949年10月には芝居劇場兼映画館に改築し、邦画のほかに洋画も上映した。1952年頃にはスクリーンは高さ7尺5寸(225cm)だったが、現在は高さ11尺2寸(336cm)×横幅27尺(810cm)のワイドスクリーンとなり、天然色映画も上映されている。上映作品は邦画6社。建物は木造瓦葺の2階建てであり、定員席数は449人である。*102

1913年、都築徳次郎によって芝居小屋「千歳座」が設立された。2013年現在の名鉄三河線高浜港駅の西側、新丸旅館付近である。1930年頃には演劇や芝居に加えて映画も上映されるようになり、戦後は映画上映が主流となった。*103

1975年頃の高浜市の青木通りの写真あり。名鉄高浜港駅西交差点から南を向いている。右の建物は新丸旅館であり、その近くには芝居小屋・映画館「千歳座」があった。村田英雄、2代目大江美智子、入江たか子などが来演し、美空ひばり主演の映画などが上映された。*104
衣浦東映劇場/衣浦東映
所在地 : 愛知県碧海郡高浜町馬場52-1(1960年・1963年)、愛知県碧海郡高浜町字馬場52(1966年・1969年)、愛知県高浜市高浜町字馬場52(1973年・1976年・1980年・1985年)、愛知県高浜市高浜町字馬場52-1(1990年)
開館年 : 1957年12月
閉館年 : 1990年9月
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「衣浦東映」。1960年の映画館名簿では経営者が田口一雄、支配人が類沢義正、木造1階、定員374、東映・洋画を上映。1966年のポータブル住宅地図では「衣浦東映」。1969年のアイゼン住宅地図では「衣浦東映」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「衣浦東映劇場」。1990年・1991年の映画館名簿では「衣浦東映」。1992年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「高浜ふれあいプラザ」の北北東40mにある民家。高浜市役所の南東100m。最寄駅は名鉄三河線三河高浜駅。

千歳座の経営者によって1957年12月に新築開館したのが「衣浦東映」である。1959年の伊勢湾台風で被害を受けたが、スレートなどの建材を仕入れて自分達で修理を行って上映を再開した。映画全盛期には村田英雄・市川猿之助・松竹歌劇団なども来場して公演を行った。これらの際は大入り満員だった。1990年9月の13号台風で屋根・壁が壊れ、やむなく休館となった。*105

1964年の『高浜町商工年鑑』には、映画館として「衣浦東映」の1軒が、公衆浴場として朝日湯、桐島湯、松の湯の3軒が、パチンコ店として3軒が、写真館として3軒が、理髪店・美容院として23軒が、飲食店として20軒が、料理旅館として4軒が、芸妓寮として2軒が掲載されている。*106

1964年の『高浜商工年鑑』には、映画館として「衣浦東映」の1館が掲載されている。代表者が田口一雄、所在地が大字高浜字馬場52-1。*107

みよし市

丸西座
所在地 : 愛知県西加茂郡三好村
開館年 : 昭和初期
閉館年 : 1938年4月22日
昭和初期、境川の東側にある西加茂郡三好村字西一色には「丸西座」という劇場があった。西一色の資産家十数人が村人の娯楽の場として建設した劇場であり、当時としては本格的な劇場だった。舞台は6間半であり、客席には長床やおすべりが敷かれ、約300人を収容できた。浪花節、漫才、芝居などの演目があった。寿々木米若、浪花亭綾太郎など一流の浪曲師も来演した。三好村はもちろん東郷村からの観客も多かった。丸西座の周囲には旅館や料理屋があり、西一色の盛り場の様相を呈していた。1938年4月22日に全焼し、戦争に向かう国内情勢もあって再建されなかった。*108
たから劇場
所在地 : 愛知県西加茂郡三好町陣取山(1959年・1960年・1962年)
開館年 : 1953年
閉館年 : 1962年頃
1953年・1955年・1957年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1962年の映画館名簿では「たから劇場」。1959年の映画館名簿では経営者が鬼頭三吉、その他の説明なし。1959年の映画館名簿では経営者・支配人ともにが鬼頭三吉、木造平屋建、200席。1962年の映画館名簿では経営者・支配人ともにが鬼頭三吉、木造平屋建、200席、映写機・発声器は記載なし、上映系統は記載なし、電話は三好65。1963年の映画館名簿には掲載されていない。如来池はみよし市役所の南東にある調整池。三好町字小坂は三好市役所やコノミヤ三好店を含む小字。

明治中頃には境橋の近くに一本木座という芝居小屋があり、諸輪長栄寺(廃寺)の材料をもって建てられた小屋だったが、長くは続かなかった。昭和初期には西一色部落が青物市場の一部を改造して劇場とし、丸西座を開館させたが、数年後の1937年に火災に遭って閉鎖した。終戦後の1948年、三好字西ノ木戸に三好仮設劇場(柴田賢治郎経営)が開館した。1953年には、三好字小坂(如来池の北)にたから劇場(経営者鬼頭三吉)が開館し、三好仮設劇場と2館が並列した。三好仮設劇場の館主が名古屋へ居を移すと、三好の劇場はたから劇場のみとなった。1959年の旧盆頃、三好字上に三好劇場(岡本京一経営)が映画専門館として開館したことで、たから劇場は閉館した。*109
三好劇場
所在地 : 愛知県西加茂郡三好町(1960年・1963年)、愛知県西加茂郡三好町7913(1964年・1965年)、愛知県西加茂郡三好町三好(1966年・1969年)
開館年 : 1959年
閉館年 : 1970年
1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年・1965年・1966年・1969年の映画館名簿では「三好劇場」。1960年の映画館名簿では経営者・支配人ともに岡本教一、木造平屋建、200席。1963年の映画館名簿では経営者が岡本教一、支配人が岡本一、木造平屋建、350席、東映・日活・大映を上映。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに岡本教一、木造平屋建、320席、邦画を上映。1968年の全商工住宅案内図帳では「三好劇場」。1971年のアイゼン住宅地図では「三好劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「医王寺」本堂北西30mの民家。最寄駅は名鉄豊田線日進駅。

市場通り商店街の商店一覧には「昭和30年頃まで上映」していた「映画館」が掲載されており、地図にも市場通り商店街の西端に「映画館」が掲載されている。この映画館とは別に、「映画も上映された」芝居小屋の「柴建」も掲載されている。市場通り商店街中心部に現存する呉服店「石橋屋」は天保年間創業、履物店「ふじや」は1924年創業。(※「映画館」の閉館年は『三好町誌』と整合性がないが理由は不明)*110

1959年の旧盆頃、三好字上に三好劇場(岡本京一経営)が映画専門館として開館したことで、たから劇場は閉館した。*111
MOVIX三好
所在地 : 愛知県西加茂郡三好町大字三好青木91 ジャスコ三好店内(2005年・2010年)、愛知県みよし市三好町青木91 イオン三好店内(2015年・2020年)
開館年 : 2000年10月25日
閉館年 : 営業中
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「MOVIX三好」(12館)。最寄駅は名鉄豊田線日進駅。

2000年10月28日、ジャスコ三好店を中核として70の専門店「アイ・モール」が入る大型ショッピングセンターが、西加茂郡三好町三好にオープンした。12の映画館を持つシネマコンプレックス「MOVIX三好」などもある。三好町が大型店を柱にまちづくりを進めようとして建設を計画。受け皿となる第三セクター会社を設立し、誘致を受けたジャスコを施設を建設した。敷地面積約10万平方メートル。建物は鉄骨4階建て延べ約72000メートル。店舗面積はジャスコが13500平方メートル、残る18000平方メートルが専門店街と共用通路。商圏は半径約10キロ。愛知郡東郷町、日進市、豊田市、名古屋市天白区なども含まれる。初年度の売り上げは203億円を見込む。*112

2000年10月25日、西加茂郡三好町大字三好字青木91 ジャスコ三好店に「MOVIX三好」が開館した。12スクリーンを有する。経営は松竹マルチプレックスシアターズ。*113

2000年10月25日、松竹マルチプレックスシアターズによって「MOVIX三好」が開館した。*114

額田郡幸田町

幸田座(戦前)
所在地 : 愛知県額田郡幸田村
開館年 : 1914年
閉館年 : 1944年
映画館ではなく演劇場。映画館名簿には掲載されていない。

1914年、国鉄幸田駅前に劇場の「幸田座」が開館した。木造2階建て。建坪145坪。開館当時の幸田村にはまだ電気が通じておらず、ろうそくを照明に用いた。毎日興行するのではなく、盆・正月・農休みなどの際に興行を行った。当初は歌舞伎の興行が多く、大正末期ごろからは活動写真も上映した。太平洋戦争中の1944年には空襲を恐れて取り壊された。*115
幸田座(戦後)
所在地 : 愛知県額田郡幸田村幸田(1953年・1954年)、愛知県額田郡幸田町幸田(1955年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年・1951年・1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「幸田座」。1954年の映画館名簿では経営者が千代本興行部、支配人が水野末吉、定員は記載なし、構造は記載なし、上映系統は記載なし。1956年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。
幸田映画劇場
所在地 : 愛知県額田郡幸田村芦谷幸田(1954年)、愛知県額田郡幸田町芦谷字幸田(1955年・1956年・1957年・1958年)、愛知県額田郡幸田町芦谷(1960年)、愛知県額田郡幸田町芦谷字幸田33(1963年)
開館年 : 1953年8月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年8月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年・1956年・1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「幸田映画劇場」。1954年の映画館名簿では経営者が本多準二、支配人は記載なし、木造1階、定員130、混合を上映。1963年の映画館名簿では経営者・支配人ともに本多準二、木造1階暖房付、定員130、邦画・洋画を上映。1964年・1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のゼンリン住宅地図では跡地に「コウダショッピングセンタードミープラザ」。1976年・1983年の航空住宅地図帳では跡地に「幸田ショッピングセンター」。1989年のゼンリン住宅地図では跡地に「コウダショッピングセンター 2階ドミープラザユーキチ」。跡地は「幸田駅前書店」東側の「幸田駅前銀座駐車場」とその北側の民家。最寄駅はJR東海道本線幸田駅。

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