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瀬戸市

瀬戸市の映画館

朝日劇場と中央館について。イラストから見る2つの商店街にはそれぞれ90軒ほどの店舗が並び、その中に集客の目玉のひとつであった映画館が1軒ずつある。1953年(昭和28年)頃の瀬戸市民の映画館観客数は約39万人であり、市民1人当たり年間6.8回となる。4年後の1957年(昭和32年)には101万人となり、市民1人当たり15.4回に跳ね上がる。映画館の観客を当て込んで、店の閉店時間を午後11時前に繰り下げていたという話も残っている。その後の映画の斜陽化が商店街への客足にも影響を与えた要因のひとつとも言われている。*1

昭和30年代まで、朝日町商店街(現・銀座商店街)と末広商店街は映画館を中心としてにぎわっていた。深川町には「深川館」が、朝日町には「朝日劇場」が、末広町には「中央館」が、大廻戸町には「末広館」があった。東春日井郡瀬戸町だけでなく、赤津村、水野村、愛知郡長久手町からも観客が訪れた。当時の映画館は3本立てであり、3本目が終了すると22時30分頃になったため、23時まで商店街には人通りが絶えなかった。*2

栄座

所在地 : 愛知県瀬戸市東本町2丁目
開館年 : 1895年
閉館年 : 1937年
1930年・1936年・1943年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は国道248号「東本町2丁目交差点」と「法音寺瀬戸布教所」の中間付近の道路上。

1937年(昭和12年)頃の「栄座」の写真あり。栄座は「陶元座」とともに明治中期から42年間にわたって親しまれたが、1937年に閉館した。*3

1895年(明治28年)から1937年(昭和12年)まで、現在の瀬戸市東本町には「栄座」があった。1937年(昭和12年)4月の写真あり。*4

1895年、瀬戸演劇株式会社によって瀬戸町南新谷(みなみしんがい、現在の東本町2丁目)に「栄座」が設立された。資本金は7000円。1922年7月13日付『新愛知』では活動写真上映会が開催された旨が報じられている。栄座は1937年頃まで存続した。*5

歌舞伎座/瀬戸劇場

所在地 : 愛知県瀬戸市滝之湯町
開館年 : 1926年9月
閉館年 : 1943年頃
1930年・1936年・1943年の映画館名簿には掲載されていない。

昭和初期の「歌舞伎座」の写真あり。歌舞伎座は昭和初期に建てられたが、昭和初期の不況と戦争の影響をまともに受け、1943年(昭和18年)頃には閉館した。*6

「歌舞伎座」は昭和初期から1943年(昭和18年)頃まで瀬戸市滝之湯町にあり、途中で「瀬戸劇場」に改称した。モダンな建物だった。昭和初期の写真あり。*7

1926年9月、瀬戸市街地西部の滝之湯町に「歌舞伎座」が開館し、こけら落としには中村吉右衛門が来館した。1階は椅子席、2階は桝席だった。昭和に入ると「瀬戸劇場」に改称したが、太平洋戦争中に閉館した。*8

昭和初期の瀬戸市にあった「歌舞伎座」の写真あり。1926年に滝之湯町に開館し、初代中村吉右衛門がこけら落とし公演を務めた。昭和になると「瀬戸劇場」に改称し、太平洋戦争中に閉館した。*9

末広館

所在地 : 愛知県東春日井郡瀬戸町(1930年)、愛知県瀬戸市大字瀬戸(1936年)、愛知県瀬戸市陶生町(1943年)
開館年 : 1923年8月
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1930年・1936年・1943年の映画館名簿では「末広館」。1943年の映画館名簿では経営者が青山市太郎、定員653。1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は陶生町中央部の五差路付近。

瀬戸市の「末広館」は陶生町にある五差路の中央付近にあった。区画整理で道路の新設が行われてるので場所は参考程度。*10

1923年8月、キネマ株式会社によって瀬戸町字大廻戸に活動写真常設館「末広館」が建設され、蒲田映画の作品を上映した。*11

東海劇場

所在地 : 愛知県瀬戸市東権現町(1958年)
開館年 : 不明
閉館年 : 不明
映画館名簿には掲載されていない。全国映画館新聞社資料課『全国映画館名簿』全国映画館新聞社、1958年では「東海劇場」。

陶元座/深川館/深川館・深川ニュース劇場/深川館・深川ニュー東映/深川館・深川ニュース劇場・深川名画座

所在地 : 愛知県東春日井郡瀬戸町(1930年)、愛知県瀬戸市深川公園前(1936年)、愛知県瀬戸市宮前町(1943年)、愛知県瀬戸市深川町(1947年・1950年・1953年)、愛知県瀬戸市深川町14(1955年・1958年・1960年・1962年)
開館年 : 1892年(陶元座)、1927年(映画館化)、1959年頃(2館化)
閉館年 : 1963年2月12日頃
『全国映画館総覧 1955』によると1927年開館。1930年・1936年・1943年・1947年の映画館名簿では「深川館」。1950年の映画館名簿では「瀬戸深川館」。1953年・1955年・1958年・1959年の映画館名簿では「深川館」。1957年の瀬戸市全住宅案内図帳では「深川館」。1960年の映画館名簿では「深川館・深川ニュース劇場」(2館)。1960年の映画館名簿では経営者が山田稔、支配人が木村巳一、深川館が木造2階暖房付、深川ニュース劇場が鉄筋1階、深川館が定員650、深川ニュース劇場が定員100、深川館が東宝・新東宝を上映、深川ニュース劇場が東映・東宝・新東宝を上映。1962年の映画館名簿では「深川館・深川ニュー東映」(2館)。1960年の映画館名簿では経営者が山田稔、深川館の支配人が中川秀市、深川ニュー東映の支配人が豊岡幹夫、深川館が木造2階暖房付、深川ニュー東映が木造1階、深川館が定員477、深川ニュー東映が定員180、深川館が東宝を上映、深川ニュー東映がニュース映画・東映を上映。1962年の全商工住宅案内図帳では「深川館」。1963年の映画館名簿では「深川館・深川ニュース(休館中)・深川名画座」(3館)。1963年のゼンリン住宅地図では跡地に空白。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の住宅地図協会住宅地図では跡地に「ほていや」。1966年のポータブル住宅地図では跡地に巨大な「ほていや」。1970年の全商工住宅案内図帳では跡地に「ほていや」。1970年の全住宅案内地図帳では跡地に「ほていや瀬戸支店」。1974年のゼンリン住宅地図では跡地に「中部ユニー瀬戸店」。1978年のゼンリン住宅地図では跡地に「銀座パーク駐車場」。1979年の航空住宅地図帳では跡地に「1階銀座パーク、2階ホール、3階集会室」。1980年の航空住宅地図帳では「1階銀座パーク 2階ホール 3階集会室」。1986年のゼンリン住宅地図では跡地に「1階銀座パーク 2階ホール 3階集会所」。1990年のゼンリン住宅地図では跡地に「(仮)レインボー深川」。1995年のゼンリン住宅地図では跡地に「レインボー深川」。跡地は1991年竣工のマンション「レインボー深川」建物東側。最寄駅は名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅。

『瀬戸 市制50周年記念誌』に大正初期の陶元座の写真あり。*12

1892年(明治25年)には宮前の通りの中ほどから西に入った突き当りに陶元座が建てられた。陶元座は栄座や中央館などと競いあって芝居や義太夫を興行し、大正後期には活動写真の上映も行った。1階は椅子席、2階は畳敷きだった。入場料は10銭であり、火鉢や座布団の借り賃が5銭だった。大正後期頃の写真あり。軒先には「(活動)大写真」の看板が見える。1928年(昭和3年)に深川館と改称し、戦後の1962年(昭和37年)まで続いた。跡地はやがてスーパーマーケットとなり、1988年現在は立体駐車場となっている。*13

1892年(明治25年)頃には現在の瀬戸市深川町に陶元座が開館した。1902年(明治35年)に焼失したものの、再建されて後に深川館と改称した。大正初期の写真あり。*14

中央奥には映画などを上映した深川館が映っており、『ミイラ再生』の看板が見える。この写真は第1回せともの祭が開かれた時期のものであり、せともの祭は第2回、第3回と回を重ねるにつれ規模を拡大した。昔の宮前町の一部が現在では深川町。この付近は飲食店、カフェーが多かった。左手にあるカフェーは今は喫茶店となっている。深川館の前身は1892年(明治25年)に開館した陶元座であり、芝居や浪花節などを興行していた。1928年(昭和3年)に深川館となり、1962年(昭和37年)まで続いた。その後はスーパーマーケットとなり、続いて駐車場となった。*15

1937年頃の瀬戸市にあった映画館「深川館」の写真あり。「忠臣蔵」の文字やのぼりが見える。1928年から1962年まであった。*16

1895年には実業家の加藤杢左衛門によって北新谷(きたしんがい、現在の深川町)に「陶元座」が建てられた。1887年頃に焼失した小さな寄席小屋の跡地である。1902年の旧正月には陶元座が全焼したが、1903年に再建されて尾上梅幸がこけら落とし上演を行った。1927年にはそれまでの畳席を椅子席に替え、映画専門館「深川館」となった。*17

中央奥は昭和初期の「深川館」。『ミイラ再生』の看板が見える。手前の商店街には「祝せと物祭 宮前町」の幕が見える。1895年に「陶元座」として落成し、1902年に焼失するものの、1903年に再建された。1927年に映画専門館となって深川館に改称した。*18

1962年1月6日の『新愛知タイムズ』における映画案内では「深川館」「名画劇場」「深川ニュース」の3館。深川館の欄には「3日〜13日 『椿三十郎』『サラリーマン清水港』」。名画劇場の欄には「3日〜8日 『トロイのヘレン』『コルドラへの道』」。深川ニュースの欄には「6日〜8日 料金40円 若様千両槍」。*19

1963年2月12日の『新愛知タイムズ』における映画案内では「深川館」の欄に「30日〜12日 『日本無責任野郎』『駅前飯店』」。2月13日の映画案内では深川館の欄に「本日休館」。以後の映画案内には深川館が掲載されていない。*20

瀬戸映画館/瀬戸シネマ

所在地 : 愛知県瀬戸市追分町40(1953年・1955年・1958年)、愛知県瀬戸市追分町(1960年・1963年)、愛知県瀬戸市追分町45(1966年・1969年)
開館年 : 1951年2月
閉館年 : 1968年10月29日頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年2月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「瀬戸シネマ」。1957年の瀬戸市全住宅案内図帳では「瀬戸キネマ映画館」。1962年の全商工住宅案内図帳では「セト映画館」。1963年のゼンリン住宅地図では「瀬戸シネマ」。1965年の住宅地図協会住宅地図では「瀬戸シネマ」。1966年のポータブル住宅地図では「瀬戸シネマ」。1970年の全商工住宅案内図帳では「瀬戸シネマ」。1970年の全住宅案内地図帳では跡地に「車庫」など。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の航空住宅地図帳では跡地に空き家。1986年・1995年の住宅地図では跡地に「ガレージ」。跡地は焼きそば屋「わさきち」の北側の路地をはさんだ場所の駐車場。最寄駅は名鉄瀬戸線瀬戸市役所駅。

1960年の瀬戸市にあった瀬戸橋のたもとの写真あり。「瀬戸シネマ」の映画看板がみえる。「正月第1弾」の文字や『伴淳 アチャコのおやじ教育』などが見える。*21

1968年10月29日の『新愛知タイムズ』における映画案内では「シネマ」の欄に「26日〜29日 『座頭市果し状』『侠客列伝』」。10月30日の映画案内ではシネマの欄に「休館」。以後の映画案内にはシネマが掲載されていない。*22

中央館/瀬戸中央館

所在地 : 愛知県東春日井郡瀬戸町(1930年)、愛知県瀬戸市宮川町(1936年)、愛知県瀬戸市末広町(1943年・1947年)、愛知県瀬戸市末広町2-7(1950年)、愛知県瀬戸市末広町2-4(1953年・1955年・1958年)、愛知県瀬戸市末広町2(1960年)、愛知県瀬戸市末広町2-4(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1921年1月
閉館年 : 1971年11月30日頃
『全国映画館総覧 1955』によると1921年1月開館。1930年・1936年・1943年の映画館名簿では「中央館」。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央館」。1957年の瀬戸市全住宅案内図帳では「中央館」。1962年の全商工住宅案内図帳では「中央館」。1963年のゼンリン住宅地図では「中央館」。1965年の住宅地図協会住宅地図では「中央館」。1966年のポータブル住宅地図では「中央館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「瀬戸中央館」。1970年の全商工住宅案内図帳では「瀬戸日活 中央館」。1970年の全住宅案内地図帳では「瀬戸日活中央館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1974年のゼンリン住宅地図では跡地に「パチンコ中央会館」。1978年のゼンリン住宅地図では跡地に「瀬戸中央ビル 中央会館」。1979年の航空住宅地図帳では跡地に「パチンコ中央」などが入る「瀬戸中央ビル」。1980年の航空住宅地図帳では「瀬戸中央ビル パチンコ中央 乙女饅頭 2階中華蘭々 麻雀オスカ バー昌七久」。最寄駅は名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅。

深川神社門前の繁華街入口、末広町商店街には「中央館」があった。1954年頃の写真あり。戦後の松竹を代表する佐田啓二と大映の長谷川一夫が描かれた看板が映っており、両作品はともに1954年(昭和29年)8月の封切りである。ファサードはモルタルの洋風造であり、関東大震災以降に流行した看板建築である。中央館以外にも、深川神社周辺には「深川館」「朝日劇場」「千代田東映」「瀬戸大映」などが集まっていた。やがて中央館はパチンコ店に変わった。「映画は中央」の看板文字は現在も残っている。*23

1954年頃の瀬戸市にあった映画館「中央館」の写真あり。『新婚たくあん夫婦』や『鉄火奉行』の看板が見える。*24

1913年8月、瀬戸町字薬師(現在の宮川町)に演芸場「大正館」が落成した。1918年に焼失したが、1923年に「中央館」として再建され、戦後にも映画館として存続した。*25

1971年11月30日の『新愛知タイムズ』における映画案内では「中央館」の欄に「関根直子の『成熟』 八並映子の『穴場あらし』」。12月1日の映画案内では中央館が掲載されていない。*26

千代田東映/瀬戸千代田東映劇場/瀬戸東映劇場

所在地 : 愛知県瀬戸市深川町46(1958年・1960年・1963年)、愛知県瀬戸市深川町46-1(1966年・1969年・1973年・1976年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1975年10月15日頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の瀬戸市全住宅案内図帳では「千代田劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「千代田東映」。1962年の全商工住宅案内図帳では「千代田劇場」。1963年のゼンリン住宅地図では「東映」。1965年の住宅地図協会住宅地図では「千代田センター 1階パチンコ 2階喫茶玉突 3階囲碁クラブ 4階千代田東映」。1966年の映画館名簿では「瀬戸千代田東映劇場」。1966年の住宅地図では「千代田センター 4階」。1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「瀬戸東映劇場」。1970年の全住宅案内地図帳では「ほていやフード店 千代田センター コーヒータマ 瀬戸東映 麻雀千代田」。1974年のゼンリン住宅地図では「ほていや千代田センター 1階食品店 2階喫茶タマ 3階囲碁クラブ 4階千代田東映」。1977年・1978年の映画館名簿には掲載されていない。1978年のゼンリン住宅地図では跡地に「瀬戸ハワイ観光」。1979年の航空住宅地図帳には掲載されていない。1980年の航空住宅地図帳では跡地に「瀬戸ハワイ観光」。1986年のゼンリン住宅地図では跡地に「ミスターダンディ」。1990年・1995年のゼンリン住宅地図では跡地に「ミスターダンディ1号店」。跡地は塚本不動産管理月極駐車場「深川町No1」。最寄駅は名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅。

1975年10月15日の『新愛知タイムズ』における映画案内では「瀬戸東映」の欄に「『帰ってきた女必殺拳』『トラック野郎 御意見無用』」。10月16日の映画案内では瀬戸東映が掲載されていない。*27

東映直営劇場の動きを見ると、1975年10月には「高田馬場東映・東映パラス」が開館した。同年10月には瀬戸市の「瀬戸東映」が閉館した。1976年5月には「新小岩東映」が開館した。*28

朝日映劇/朝日映画劇場

所在地 : 愛知県瀬戸市深川町48(1950年・1953年・1955年・1966年・1969年・1973年・1976年)
開館年 : 1947年11月
閉館年 : 1976年1月28日、1976年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年11月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「朝日映画劇場」。1957年の瀬戸市全住宅案内図帳では「朝日劇場」。1962年の全商工住宅案内図帳では「朝日劇場」。1963年の映画館名簿では「朝日映劇」。1963年のゼンリン住宅地図では「朝日劇場」。1965年の住宅地図協会住宅地図では「朝日映画劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「瀬戸朝日映画劇場」。1966年のポータブル住宅地図では「朝日映画劇場」。1970年の全商工住宅案内図帳では「朝日映画劇場」。1970年の全住宅案内地図帳では「瀬戸東宝」。1974年のゼンリン住宅地図では「朝日映画劇場」。1977年・1978年の映画館名簿には掲載されていない。1978年・1980年・1986年・1990年・1995年のゼンリン住宅地図では跡地に空白。跡地は全蓋式アーケードの「せと銀座通り商店街」北側の「ケアハウス聚楽」。最寄駅は名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅。

『風土』郷土史学研究会、1956年2月号には「朝日映劇」で3月14日に封切られる松竹作品『泉』の広告が掲載されている。*29

『風土』郷土史学研究会、1956年4月号には「朝日映劇」で5月3日から上映される『エデンの東』の広告が掲載されている。*30

『風土』郷土史学研究会、1957年11月号には「朝日映劇」で1958年1月下旬から上映される『翼よ!あれが巴里の灯だ』の広告が掲載されている。*31

昭和30年代の瀬戸市にあった「朝日映画劇場」の看板の写真あり。カーク・ダグラス主演の『突撃』(1957年)、西部劇『赤い矢』(1957年)の看板が見える。*32

1976年1月29日から、瀬戸市の映画館「朝日映劇」が休館する。瀬戸の文化の殿堂ともいうべき存在だった。現在は『バニシング・ポイント』『ザ・セブン・アップス』『ダーティ・メリー クレイジー・ラリー』の洋画3本立を上映している。料金は大人800円、学生700円、中学生500円、小学生400円。テレビに押されたことで、月間30万円の赤字が続いていた。1949年に洋画専門館として開館し、『第三の男』『禁じられた遊び』『鉄道員』など戦後映画史に残る名画を上映した。中央病院によると「青山院長の採算を度外視田道楽のような事業でした。中央館が閉鎖されたとき、やめる話も出たのですが、院長は愛着があって今日まで続けられたようです」と話す。映写技師など4人の従業員は中央病院が転職先を考えている。*33

1976年4月28日、瀬戸市の映画館「朝日映劇」が営業を再開する。運営は小山正美を代表とする名古屋市の中部新東宝興業株式会社。中部新東宝興業は中央病院の青山市郎院長から劇場を借り受け、小山正美の息子である小山通雄が支配人を務める。4月28日から5月4日までは子ども向けのディズニー映画『ピーター・パン』と『ドナルド・ダックのライオン大騒動』と『チップとディールの怪獣をやっつけろ!』などを上映する。5月5日からは一般向けの作品を上映する予定であり、各社の名作映画にピンク映画を織り交ぜる。*34

1976年1月28日の『新愛知タイムズ』における映画案内では「朝日映劇」の欄に「『ザ・セブン・アップス』『バニシング・ポイント』『ダーティ・メリー クレイジー・ラリー』」。1月30日の映画案内では朝日映劇の欄に「休館」。*35

2002年2月、社会福祉法人「瀬戸中央会」が銀座通商店街に面した旧映画館の敷地で建設を進めている「ケアハウス聚楽」が完成する。鉄筋コンクリート造、7階建て、延床面積約2500平方メートル。同ケアハウスの建物と商店街の間には、100平方メートル近い通路部分があり、この空間を商店街の活性化に生かそうという計画も進行中。*36

瀬戸大映/瀬戸大映劇場/瀬戸大劇

所在地 : 愛知県瀬戸市末広町(1960年)、愛知県瀬戸市宮前町60(1963年)、愛知県瀬戸市薬師町9(1966年・1969年・1973年)、愛知県瀬戸市薬師町60(1976年・1980年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1981年頃
1957年の瀬戸市全住宅案内図帳には掲載されていない。1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「瀬戸大映」。1962年の全商工住宅案内図帳では「瀬戸大映」。1963年のゼンリン住宅地図では「瀬戸大映」。1965年の住宅地図協会住宅地図では「瀬戸大映映画劇場」。1966年のポータブル住宅地図では「瀬戸大映劇場」。1966年の映画館名簿では「瀬戸大映劇場」。1970年の全商工住宅案内図帳では「瀬戸大映」。1970年の全住宅案内地図帳では「瀬戸大劇」。1969年・1973年・1976年・1980年・1981年の映画館名簿では「瀬戸大劇」。1974年のゼンリン住宅地図では「瀬戸大映劇場」。1978年のゼンリン住宅地図では「瀬戸大劇」。1979年の航空住宅地図帳では「瀬戸大劇 東映・日活」。1980年の航空住宅地図帳では「瀬戸大劇 東映・日活」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。1986年・1990年・1995年のゼンリン住宅地図では跡地に「シティパレス瀬戸」。跡地は1983年竣工のマンション「シティパレス瀬戸」。最寄駅は名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅。

日活有楽座/瀬戸有楽座

所在地 : 愛知県瀬戸市山脇町23(1982年・1985年・1988年)
開館年 : 1981年頃
閉館年 : 1988年頃
1981年の映画館名簿には掲載されていない。1982年・1985年・1988年の映画館名簿では「瀬戸有楽座」。1986年のゼンリン住宅地図では「日活有楽座」。1988年の映画館名簿では経営会社が加藤興業、経営者が加藤年春、支配人が雨宮善雄、鉄筋1階、63席、にっかつ・成人映画を上映。1990年の映画館名簿には掲載されていない。1990年のゼンリン住宅地図では跡地に1985年と同一形状で空白の建物。1995年のゼンリン住宅地図では跡地に「カラオケるんるん」。跡地は「三菱UFJ銀行瀬戸支店」北北西80mにある立体駐車場。最寄駅は名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅。

瀬戸中央劇場・ロマン中央

所在地 : 愛知県瀬戸市末広町2-7(1984年・1985年・1988年・1990年・1992年)
開館年 : 1982年3月13日
閉館年 : 1993年1月30日
前身館は瀬戸中央館。瀬戸中央ビルの竣工は1978年以前と思われる。1980年・1982年の映画館名簿には掲載されていない。1984年・1985年・1988年・1990年・1992年・1993年の映画館名簿では「瀬戸中央劇場・瀬戸ロマン中央」(2館)。1985年のゼンリン住宅地図では「1階パチンコ中央 インベーダー3 2階ロマン中央」。1984年の映画館名簿では経営会社が中央、経営者が中野喜七郎、支配人が大野修司、鉄筋2階、瀬戸中央劇場が125席、ロマン中央が86席、瀬戸中央劇場が洋画を上映、ロマン中央が邦画を上映。1986年の住宅地図では「1階パチンコ中央 インベーダー3 2階ロマン中央」。1988年の映画館名簿では経営会社が中央大八興業、経営者が中野喜七郎、支配人が佐原千代男、鉄筋2階、瀬戸中央劇場が120席、ロマン中央が86席、瀬戸中央劇場が洋画を上映、ロマン中央が邦画を上映。1990年のゼンリン住宅地図では「1階パチンコ中央 インベーダー3 ジェラード四ツ谷 2階ロマン中央 中央劇場」。1992年の映画館名簿では経営会社が中央大平観光、経営者が中野喜七郎、支配人が小島章章、鉄筋2階、瀬戸中央劇場が120席、ロマン中央が86席、瀬戸中央劇場が洋画を上映、ロマン中央が邦画を上映。1994年・1995年の映画館名簿には掲載されていない。1995年の住宅地図では「1階パチンコ中央 インベーダー3 2階中央劇場」。末広町商店街の西端に映画館の建物が現存。最寄駅は名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅。

瀬戸市立図書館で1993年1月と2月上旬の新聞『新愛知』を確認したが、閉館に言及する記事は確認できず。『新愛知』は『とうめい新聞』の前身紙であり、紙面が1枚ずつPDFとなったDVDがある。最寄駅は名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅。

深川神社門前の繁華街入口、末広町商店街には「中央館」があった。1954年頃の写真あり。戦後の松竹を代表する佐田啓二と大映の長谷川一夫が描かれた看板が映っており、両作品はともに1954年(昭和29年)8月の封切りである。ファサードはモルタルの洋風造であり、関東大震災以降に流行した看板建築である。中央館以外にも、深川神社周辺には「深川館」「朝日劇場」「千代田東映」「瀬戸大映」などが集まっていた。やがて中央館はパチンコ店に変わった。「映画は中央」の看板文字は現在も残っている。*37

「中央劇場」は座席数125。「ロマン中央」は座席数86。末広町2-7。1982年(昭和57年)3月13日開館。開館番組は、「中央劇場」が『ドラえもんのび太の大魔境』『忍者服部くんニンニン忍法絵日記の巻』『怪物くんデーモンの剣』の3本立。「ロマン中央」が『機動戦士ガンダム靴瓩阿蠅△け宙』の1本立。興行記録映画は『南極物語』1983年(昭和58年)7月23日公開。代表者は中野喜七郎。支配人は小島章。上映作品は東宝系、松竹系の日本・外国映画を問わず35mmフィルムまでなら上映可能。「中央劇場」は磁気4チャンネル立体音響設備がある。*38

1993年1月30日、瀬戸市に2つだけ残っていた映画館が休館することとなった。再開予定はなく事実上の閉館である。名鉄瀬戸線の栄乗り入れで名古屋都心に出るのに便利になり、観客数が激減した。閉館するのは、同市中心部で100店ほどの商店が立ち並ぶ末広町商店街通りの「瀬戸中央劇場」(客席120)と「ロマン中央劇場」(同86)。ともに同じ経営者で、映画会社の系列はない。両館の小島章支配人(57)によると、休館を決めたのは、昨年12月下旬。1982年(昭和57年)に現行館が開館し、開館から2-3年は両館とも一日800人から1000人ほど入ったが、近年の平日は2-3人のことも多かった。*39

八百屋 丸子食品店の女性(70代?)。「かつて映画館は昔風の建物で営業しており、その後現在のパチンコ店の建物が建った。(パチンコ店が主だったという口ぶりで)パチンコ店の2階の一角で映画館をやっていた。建て替えた最初から映画館が入ってた。洋品店側の隣に寿司屋があった。アスベストが使われてるから転用が難しく、何にも使われない状態が続いている。」

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