最終更新: hekikaicinema 2024年10月31日(木) 04:11:45履歴
所在地 : 北海道室蘭市
開館年 : 明治後期
閉館年 : 1912年頃
各年版の映画館名簿には掲載されていない。
1901年、室蘭市の「大浜座」は「神田座」に改称した。同年には神田座で活動写真が上映され、1907年には「千歳座」でもM・パテー社の『胡蝶の舞』が上映されている。1912年12月の大火や1914年の浜町大火によって、室蘭市の劇場は母恋の「共楽座」を残して全滅した。*1
1901年頃の室蘭市にあった「神田座」の写真あり。*2
室蘭市にあった「神田座」の写真あり。大浜三太によって芝居小屋「大浜座」が建てられ、1897年頃に経営者が変わって「旭座」となったが、1901年には金融業の神田儀蔵が経営者となって「神田座」となった。1980年現在の多田薬局の倉庫の場所である。歌舞伎、新派劇、女義太夫などの興行が行われた。大正初期には経営難で廃館となったが、1914年に浜町で活動常設館「神田館」として復活した。*3
明治末期の室蘭市にあった「神田座」の写真あり。『日露戦争我軍活動大写真』と『ロビンソンクルーソー』ののぼりが見える。芝居小屋「大浜座」として建てられ、明治末期には活動写真も上映するようになった。*4
1920年の室蘭市にあった「神田館」の映画宣伝隊の写真あり。「神田座」はやがて神田館に改称し、活動写真や寄席を兼ねる劇場だった。*5
開館年 : 明治後期
閉館年 : 1912年頃
各年版の映画館名簿には掲載されていない。
1901年、室蘭市の「大浜座」は「神田座」に改称した。同年には神田座で活動写真が上映され、1907年には「千歳座」でもM・パテー社の『胡蝶の舞』が上映されている。1912年12月の大火や1914年の浜町大火によって、室蘭市の劇場は母恋の「共楽座」を残して全滅した。*1
1901年頃の室蘭市にあった「神田座」の写真あり。*2
室蘭市にあった「神田座」の写真あり。大浜三太によって芝居小屋「大浜座」が建てられ、1897年頃に経営者が変わって「旭座」となったが、1901年には金融業の神田儀蔵が経営者となって「神田座」となった。1980年現在の多田薬局の倉庫の場所である。歌舞伎、新派劇、女義太夫などの興行が行われた。大正初期には経営難で廃館となったが、1914年に浜町で活動常設館「神田館」として復活した。*3
明治末期の室蘭市にあった「神田座」の写真あり。『日露戦争我軍活動大写真』と『ロビンソンクルーソー』ののぼりが見える。芝居小屋「大浜座」として建てられ、明治末期には活動写真も上映するようになった。*4
1920年の室蘭市にあった「神田館」の映画宣伝隊の写真あり。「神田座」はやがて神田館に改称し、活動写真や寄席を兼ねる劇場だった。*5
所在地 : 北海道室蘭市輪西町(1936年)、北海道室蘭市輪西町194(1941年)、北海道室蘭市輪西町(1943年)
開館年 : 1918年
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「第二大国館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
1918年、室蘭市輪西町一条通の寄席小屋「遊楽館」を沢田理一が買収して「第二大国館」を開館させた。1919年11月、三条通に町田宇三郎が大映・東宝系映画館「輪西大盛館」を開館させた。1921年には室蘭劇場が日活直営館「日活館」となり、室蘭初の椅子席の映画館となった。*6
開館年 : 1918年
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「第二大国館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
1918年、室蘭市輪西町一条通の寄席小屋「遊楽館」を沢田理一が買収して「第二大国館」を開館させた。1919年11月、三条通に町田宇三郎が大映・東宝系映画館「輪西大盛館」を開館させた。1921年には室蘭劇場が日活直営館「日活館」となり、室蘭初の椅子席の映画館となった。*6
所在地 : 北海道室蘭市伊達町(1950年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1950年頃
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「共栄館」。1951年の映画館名簿には室蘭市が掲載されていない。1952年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1950年頃
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「共栄館」。1951年の映画館名簿には室蘭市が掲載されていない。1952年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道室蘭市東輪西町(1950年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1950年頃
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「愛国館」。1951年の映画館名簿には室蘭市が掲載されていない。1952年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1950年頃
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「愛国館」。1951年の映画館名簿には室蘭市が掲載されていない。1952年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道室蘭市東町121(1955年・1958年)、北海道室蘭市東町18(1960年)、北海道室蘭市東町12(1962年)
開館年 : 1953年6月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年6月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「蘭東劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
室蘭市東町の「蘭東劇場」。1953年6月創立。*7
開館年 : 1953年6月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年6月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「蘭東劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
室蘭市東町の「蘭東劇場」。1953年6月創立。*7
所在地 : 北海道室蘭市浜町52(1960年・1962年)
開館年 : 1957年5月
閉館年 : 1962年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1962年の映画館名簿では「ニュース文化劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
室蘭市中央町1丁目(旧浜町 旧共市市場内)の「ニュース劇場」。1957年5月創立。1958年の経営者は沢田松次郎。*8
開館年 : 1957年5月
閉館年 : 1962年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1962年の映画館名簿では「ニュース文化劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
室蘭市中央町1丁目(旧浜町 旧共市市場内)の「ニュース劇場」。1957年5月創立。1958年の経営者は沢田松次郎。*8
所在地 : 北海道室蘭市(1925年)、北海道室蘭市浜町12(1930年)、北海道室蘭市浜町42(1934年・1936年・1941年)、北海道室蘭市浜町(1943年)、北海道室蘭市浜町42(1947年)、北海道室蘭市浜町(1950年)、北海道室蘭市浜町42(1953年・1955年・1958年)、北海道室蘭市浜町47(1960年)、北海道室蘭市浜町42(1963年)
開館年 : 1903年頃、1915年1月
閉館年 : 1963年3月31日
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1925年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「大国館」。1950年の映画館名簿では「室蘭大国館」。1953年・1955年の映画館名簿では「松竹大国館」。1958年・1960年の映画館名簿では「室蘭松竹大国館」。1963年の映画館名簿では「松竹大国館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「中央娯楽センター」。1988年の住宅地図では跡地に「パチンコ中央娯楽センター」。跡地はパチンコ店「中央娯楽センター室蘭店」廃墟。最寄駅はJR室蘭支線室蘭駅。
1915年1月、旭川市の佐藤市太郎によって室蘭市に日活系活動常設館「大黒館」が開館した。定員は750人。支配人は沢田理一。室蘭市における活動常設館の先駆けである。*9
1912年12月20日の室蘭大火、1914年の浜町大火によって、室蘭市街地の劇場が全滅した。1915年1月、旭川の佐藤市太郎は大黒亭を「大黒館」として再建し、750人収容の日活系活動常設館として開館させた。大黒館は室蘭初の活動常設館であり、1921年には大黒館から「大国館」に改称している。大正初期の室蘭市における活動常設館は、浜町の神田館(天活系、定員1570人)、浜町の大黒館(日活系、定員750人)、室蘭劇場(定員750人)の3館があった。1963年、「松竹大国館」は三愛センターパチンコ店に転身し、2階は飲食店となった。*10
1936年の『大日本職業別明細図』「室蘭市」には「日活館」「錦座」「大国座」が描かれている。*11
1946年4月、「郡山松竹」、「仙台南松竹」、「仙台中央劇場」、「熊谷松竹」、「室蘭大国館」、「函館松竹」が松竹の直営館として開館した。*12
室蘭市輪西町一条の「大国館」。輪西大国館、わにし大国館とも。*13
1958年頃の室蘭市浜町42にあった松竹系上映館「室蘭大国館」の写真あり。*14
1963年3月31日をもって、室蘭市の「室蘭松竹大国館」が60年の歴史に幕を閉じて閉館した。代表は沢田好央。賃貸ししていた北映興行が解散したため。1階はパチンコホール、2階は貸店舗に改築される。*15
開館年 : 1903年頃、1915年1月
閉館年 : 1963年3月31日
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1925年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「大国館」。1950年の映画館名簿では「室蘭大国館」。1953年・1955年の映画館名簿では「松竹大国館」。1958年・1960年の映画館名簿では「室蘭松竹大国館」。1963年の映画館名簿では「松竹大国館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「中央娯楽センター」。1988年の住宅地図では跡地に「パチンコ中央娯楽センター」。跡地はパチンコ店「中央娯楽センター室蘭店」廃墟。最寄駅はJR室蘭支線室蘭駅。
1915年1月、旭川市の佐藤市太郎によって室蘭市に日活系活動常設館「大黒館」が開館した。定員は750人。支配人は沢田理一。室蘭市における活動常設館の先駆けである。*9
1912年12月20日の室蘭大火、1914年の浜町大火によって、室蘭市街地の劇場が全滅した。1915年1月、旭川の佐藤市太郎は大黒亭を「大黒館」として再建し、750人収容の日活系活動常設館として開館させた。大黒館は室蘭初の活動常設館であり、1921年には大黒館から「大国館」に改称している。大正初期の室蘭市における活動常設館は、浜町の神田館(天活系、定員1570人)、浜町の大黒館(日活系、定員750人)、室蘭劇場(定員750人)の3館があった。1963年、「松竹大国館」は三愛センターパチンコ店に転身し、2階は飲食店となった。*10
1936年の『大日本職業別明細図』「室蘭市」には「日活館」「錦座」「大国座」が描かれている。*11
1946年4月、「郡山松竹」、「仙台南松竹」、「仙台中央劇場」、「熊谷松竹」、「室蘭大国館」、「函館松竹」が松竹の直営館として開館した。*12
室蘭市輪西町一条の「大国館」。輪西大国館、わにし大国館とも。*13
1958年頃の室蘭市浜町42にあった松竹系上映館「室蘭大国館」の写真あり。*14
1963年3月31日をもって、室蘭市の「室蘭松竹大国館」が60年の歴史に幕を閉じて閉館した。代表は沢田好央。賃貸ししていた北映興行が解散したため。1階はパチンコホール、2階は貸店舗に改築される。*15
所在地 : 北海道室蘭市母恋町(1943年・1947年・1950年)、北海道室蘭市母恋北町55(1959年・1960年)、北海道室蘭市母恋町55(1963年)
開館年 : 明治時代
閉館年 : 1963年頃
1941年の映画館名簿には室蘭市が掲載されていない。1943年の映画館名簿では「共楽座」。1947年の映画館名簿では「共楽館」。1950年の映画館名簿では「共楽座」。1951年の映画館名簿には室蘭市が掲載されていない。1952年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「母恋映画劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
室蘭市にあった「共楽座」の開業時の写真あり。中村吉十郎一座が公演した。*16
1912年竣工の映画館「共楽座」。所在地は室蘭市母恋北町。日本製鋼所の社員娯楽施設として開館し、当初は寄席の専用劇場だった。1942年に鴨原元治によって改修されたが、1950年に焼失した。*17
日本製鋼所は演劇や演芸の劇場として「共楽座」を建てた。旅回り歌舞伎の萩野仙十郎一座がこけら落としを行い、その後もしばしば来館した。大正期頃の室蘭市の劇場としては、明治後期に建てられた「神田座」、演劇や寄席を行った「千歳座」、1914年に建てられた「胆振座」、共楽座があった。戦後の1949年、地方巡業を行っていた藤原歌劇団の藤原義江一座が共楽座で公演した。母恋北町にあった共楽座の写真あり。*18
室蘭市母恋北町にあった「共楽座」の写真あり。1912年、日本製鋼所が直営する社員向けの娯楽施設として建てられた。こけら落としは歌舞伎の萩野仙十郎一座である。やがて「大国館」の館主である沢田理一が経営管理人となって映画も上映された。1942年には鴫原元治が経営者となって建物が改修されたが、1950年に焼失した。*19
1912年1月に室蘭市母恋北町の「共楽座」がこけら落としした際の満員の客席の写真あり。日本製鋼所室蘭の福利厚生施設であり、東北以北随一の劇場と称された。1950年5月に焼失した。*20
室蘭市の「母恋映画劇場」。共楽座を経て1957年12月創立。*21
開館年 : 明治時代
閉館年 : 1963年頃
1941年の映画館名簿には室蘭市が掲載されていない。1943年の映画館名簿では「共楽座」。1947年の映画館名簿では「共楽館」。1950年の映画館名簿では「共楽座」。1951年の映画館名簿には室蘭市が掲載されていない。1952年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「母恋映画劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
室蘭市にあった「共楽座」の開業時の写真あり。中村吉十郎一座が公演した。*16
1912年竣工の映画館「共楽座」。所在地は室蘭市母恋北町。日本製鋼所の社員娯楽施設として開館し、当初は寄席の専用劇場だった。1942年に鴨原元治によって改修されたが、1950年に焼失した。*17
日本製鋼所は演劇や演芸の劇場として「共楽座」を建てた。旅回り歌舞伎の萩野仙十郎一座がこけら落としを行い、その後もしばしば来館した。大正期頃の室蘭市の劇場としては、明治後期に建てられた「神田座」、演劇や寄席を行った「千歳座」、1914年に建てられた「胆振座」、共楽座があった。戦後の1949年、地方巡業を行っていた藤原歌劇団の藤原義江一座が共楽座で公演した。母恋北町にあった共楽座の写真あり。*18
室蘭市母恋北町にあった「共楽座」の写真あり。1912年、日本製鋼所が直営する社員向けの娯楽施設として建てられた。こけら落としは歌舞伎の萩野仙十郎一座である。やがて「大国館」の館主である沢田理一が経営管理人となって映画も上映された。1942年には鴫原元治が経営者となって建物が改修されたが、1950年に焼失した。*19
1912年1月に室蘭市母恋北町の「共楽座」がこけら落としした際の満員の客席の写真あり。日本製鋼所室蘭の福利厚生施設であり、東北以北随一の劇場と称された。1950年5月に焼失した。*20
室蘭市の「母恋映画劇場」。共楽座を経て1957年12月創立。*21
所在地 : 北海道室蘭市東町18(1955年・1958年)、北海道室蘭市東町121(1960年)、北海道室蘭市東町18(1963年)
開館年 : 1953年7月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年7月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「東室蘭映画劇場」。1963年の映画館名簿では「東室蘭映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
室蘭市東町の「東室蘭映劇」。1953年6月創立。*22
開館年 : 1953年7月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年7月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「東室蘭映画劇場」。1963年の映画館名簿では「東室蘭映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
室蘭市東町の「東室蘭映劇」。1953年6月創立。*22
所在地 : 北海道室蘭市中島町101-2(1952年)、北海道室蘭市中島町101(1953年・1955年)、北海道室蘭市中島町20(1958年)、北海道室蘭市中島町101(1960年)、北海道室蘭市中島町(1963年)
開館年 : 1950年6月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1951年の映画館名簿には室蘭市が掲載されていない。1952年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「富士映画劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
戦後の室蘭市中島町にあった「富士映画劇場」の写真あり。1950年6月創立。1958年時点の経営者は島田辰雄。*23
1958年頃の室蘭市中島町101にあった松竹系上映館「富士映画劇場」の写真あり。*24
開館年 : 1950年6月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1951年の映画館名簿には室蘭市が掲載されていない。1952年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「富士映画劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
戦後の室蘭市中島町にあった「富士映画劇場」の写真あり。1950年6月創立。1958年時点の経営者は島田辰雄。*23
1958年頃の室蘭市中島町101にあった松竹系上映館「富士映画劇場」の写真あり。*24
所在地 : 北海道室蘭市本輪西町167(1953年・1955年)、北海道室蘭市本輪西町77(1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1963年10月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1951年の映画館名簿には室蘭市が掲載されていない。1953年の映画館名簿では「本輪西劇場」。1955年の映画館名簿では「愛国座」。1958年の映画館名簿では「本輪西劇場」。1960年の映画館名簿では「本輪西映画劇場」。1963年・1964年の映画館名簿では「本輪西劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
室蘭市本輪西の「本輪西映画劇場」。「愛国座」、「ナカミ館」を経て、1958年6月に本輪西映画劇場創立。1963年10月廃業。*25
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1963年10月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1951年の映画館名簿には室蘭市が掲載されていない。1953年の映画館名簿では「本輪西劇場」。1955年の映画館名簿では「愛国座」。1958年の映画館名簿では「本輪西劇場」。1960年の映画館名簿では「本輪西映画劇場」。1963年・1964年の映画館名簿では「本輪西劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
室蘭市本輪西の「本輪西映画劇場」。「愛国座」、「ナカミ館」を経て、1958年6月に本輪西映画劇場創立。1963年10月廃業。*25
所在地 : 北海道室蘭市輪西町138(1958年・1960年・1963年)、北海道室蘭市輪西町2-3-21(1966年)
開館年 : 1957年7月3日
閉館年 : 1966年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「輪西映画劇場」。1963年の映画館名簿では「輪西東映」。1966年の映画館名簿では「輪西東映劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
1957年7月3日、室蘭市輪西町に「輪西映画劇場」が開館した。オープニングは『鳳城の花嫁』。松竹と東映を上映するシネスコ館。一部鉄筋造、2階建て、建坪112坪。定員308人。*26
室蘭市輪西町七条の「輪西映劇」。1957年7月創立。その後「輪西東映」に改称。*27
戦後の室蘭市輪西町にあった「輪西東映劇場」の写真あり。1957年7月創立。1958年時点の経営者は相坂豊四郎。*28
1963年頃の室蘭市にあった「輪西東映劇場」の写真あり。旧称は「輪西映劇」。*29
開館年 : 1957年7月3日
閉館年 : 1966年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「輪西映画劇場」。1963年の映画館名簿では「輪西東映」。1966年の映画館名簿では「輪西東映劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
1957年7月3日、室蘭市輪西町に「輪西映画劇場」が開館した。オープニングは『鳳城の花嫁』。松竹と東映を上映するシネスコ館。一部鉄筋造、2階建て、建坪112坪。定員308人。*26
室蘭市輪西町七条の「輪西映劇」。1957年7月創立。その後「輪西東映」に改称。*27
戦後の室蘭市輪西町にあった「輪西東映劇場」の写真あり。1957年7月創立。1958年時点の経営者は相坂豊四郎。*28
1963年頃の室蘭市にあった「輪西東映劇場」の写真あり。旧称は「輪西映劇」。*29
所在地 : 北海道室蘭市輪西町一条通り194(1950年)、北海道室蘭市輪西町194(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、北海道室蘭市輪西町1-11(1966年・1967年)
開館年 : 1950年以前
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「輪西大国館」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1950年以前
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「輪西大国館」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 北海道室蘭市大町32(1958年・1960年・1963年・1966年)、北海道室蘭市中央町3(1968年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1968年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「室蘭東映劇場」。1963年の映画館名簿では「東映劇場」。1966年・1968年の映画館名簿では「室蘭日活名画座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
1958年頃の室蘭市大町 中央市場内にあった「室蘭東映劇場」の写真あり。「映画は明るく楽しい東映で」の文字が見える。『地獄の午前二時』の看板が見える。*30
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1968年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「室蘭東映劇場」。1963年の映画館名簿では「東映劇場」。1966年・1968年の映画館名簿では「室蘭日活名画座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
1958年頃の室蘭市大町 中央市場内にあった「室蘭東映劇場」の写真あり。「映画は明るく楽しい東映で」の文字が見える。『地獄の午前二時』の看板が見える。*30
所在地 : 北海道室蘭市千歳町57(1956年・1957年・1958年・1960年・1963年)、北海道室蘭市中央町1丁目(1969年・1970年)
開館年 : 1955年6月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年の映画館名簿では「名画座」。1960年の映画館名簿では「室蘭名画座」。1963年の映画館名簿では「室蘭日活」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1970年の映画館名簿では「室蘭名画座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
室蘭市中央町3丁目(旧千歳)の「名画座」。1955年6月創立。後の「室蘭スカラ座」。*31
鴫原元次。生年月日不明。福島県出身。福島中学校卒。「室蘭名画座」、「室蘭中央映画劇場」館主。*32
開館年 : 1955年6月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年の映画館名簿では「名画座」。1960年の映画館名簿では「室蘭名画座」。1963年の映画館名簿では「室蘭日活」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1970年の映画館名簿では「室蘭名画座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
室蘭市中央町3丁目(旧千歳)の「名画座」。1955年6月創立。後の「室蘭スカラ座」。*31
鴫原元次。生年月日不明。福島県出身。福島中学校卒。「室蘭名画座」、「室蘭中央映画劇場」館主。*32
所在地 : 北海道室蘭市西町三条通(1936年)、北海道室蘭市輪西町(1943年)、北海道室蘭市輪西町(1947年)、北海道室蘭市輪西町三条通(1950年)、北海道室蘭市輪西町188(1953年・1955年・1958年・1960年)、北海道室蘭市輪西町1丁目(1969年・1973年・1975年・1977年)
開館年 : 1919年11月、1938年9月(建て替え)
閉館年 : 1977年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「大盛館」。1969年・1973年・1975年・1977年の映画館名簿では「輪西大盛館」。1976年の住宅地図では「大盛館 島田」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「室蘭輪西南郵便局」東30mの美容院「ヘアークリニック サトー」。最寄駅はJR室蘭支線輪西駅。
1918年、室蘭市輪西町一条通の寄席小屋「遊楽館」を沢田理一が買収して「第二大国館」を開館させた。1919年11月、三条通に町田宇三郎が大映・東宝系映画館「輪西大盛館」を開館させた。*33
1919年11月竣工の映画館「大盛館」。所在地は室蘭市輪西町3条。町田卯三郎によって活動常設館として開館した。1938年、仲町に旧大盛館が移築されて再開館した。1942年には島田辰雄の経営となった。*34
室蘭市輪西町にあった「大盛館」の写真あり。1919年11月、町田宇三郎によって映画常設館として建てられた。1938年には日本製鉄所による仲町の埋立が開始され、同年9月に大盛館が再建されて再開館した。1942年には島田辰雄が経営者となって「輪西大盛館」に改称した。*35
1962年12月22日、室蘭市輪西町185の「大盛館」スクリーン裏から出火し、モルタル2階建て600m2のうち映写室など約200m2が焼失した。*36
室蘭市輪西町三条の「大盛館」。1963年6月に島田興業の経営に変わる。*37
開館年 : 1919年11月、1938年9月(建て替え)
閉館年 : 1977年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「大盛館」。1969年・1973年・1975年・1977年の映画館名簿では「輪西大盛館」。1976年の住宅地図では「大盛館 島田」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「室蘭輪西南郵便局」東30mの美容院「ヘアークリニック サトー」。最寄駅はJR室蘭支線輪西駅。
1918年、室蘭市輪西町一条通の寄席小屋「遊楽館」を沢田理一が買収して「第二大国館」を開館させた。1919年11月、三条通に町田宇三郎が大映・東宝系映画館「輪西大盛館」を開館させた。*33
1919年11月竣工の映画館「大盛館」。所在地は室蘭市輪西町3条。町田卯三郎によって活動常設館として開館した。1938年、仲町に旧大盛館が移築されて再開館した。1942年には島田辰雄の経営となった。*34
室蘭市輪西町にあった「大盛館」の写真あり。1919年11月、町田宇三郎によって映画常設館として建てられた。1938年には日本製鉄所による仲町の埋立が開始され、同年9月に大盛館が再建されて再開館した。1942年には島田辰雄が経営者となって「輪西大盛館」に改称した。*35
1962年12月22日、室蘭市輪西町185の「大盛館」スクリーン裏から出火し、モルタル2階建て600m2のうち映写室など約200m2が焼失した。*36
室蘭市輪西町三条の「大盛館」。1963年6月に島田興業の経営に変わる。*37
所在地 : 北海道室蘭市千歳町40(1958年・1960年・1963年)、北海道室蘭市中央町3丁目(1969年・1973年・1975年・1978年)
開館年 : 1955年7月16日
閉館年 : 1978年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「室蘭日本劇場」。1963年の映画館名簿では「東宝日劇」。1969年の映画館名簿では「室蘭日本劇場」。1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「松竹日本劇場」。1976年の住宅地図では「松竹日本劇場」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。1988年の住宅地図では跡地に「寿ハイツ中央」。跡地はマンション「寿ハイツ中央」など。
1955年7月16日、室蘭市に洋画封切館「室蘭日本劇場」が開館した。オープニングは『愛の迷路』。館主は大森康男。鉄骨木造モルタル。座席数300、定員800。*38
1958年頃の室蘭市千歳町40にあった「日本劇場」の写真あり。メキシコ映画『獣人ゴリラ男』の巨大看板が見える。*39
室蘭市中央町3丁目(旧千歳)の「日本劇場」。1955年3月創立。その後「東宝日本劇場」、1962年6月に「松竹日本劇場」に改称。*40
開館年 : 1955年7月16日
閉館年 : 1978年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「室蘭日本劇場」。1963年の映画館名簿では「東宝日劇」。1969年の映画館名簿では「室蘭日本劇場」。1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「松竹日本劇場」。1976年の住宅地図では「松竹日本劇場」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。1988年の住宅地図では跡地に「寿ハイツ中央」。跡地はマンション「寿ハイツ中央」など。
1955年7月16日、室蘭市に洋画封切館「室蘭日本劇場」が開館した。オープニングは『愛の迷路』。館主は大森康男。鉄骨木造モルタル。座席数300、定員800。*38
1958年頃の室蘭市千歳町40にあった「日本劇場」の写真あり。メキシコ映画『獣人ゴリラ男』の巨大看板が見える。*39
室蘭市中央町3丁目(旧千歳)の「日本劇場」。1955年3月創立。その後「東宝日本劇場」、1962年6月に「松竹日本劇場」に改称。*40
所在地 : 北海道室蘭市浜町(1925年)、北海道室蘭市浜町46(1936年)、北海道室蘭市浜町(1943年)、北海道室蘭市浜町46(1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、北海道室蘭市中央町2丁目(1969年・1975年・1978年・1980年・1982年)
開館年 : 1915年
閉館年 : 1982年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1925年の映画館名簿では「錦座」。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「錦座」。1943年の映画館名簿では「東宝公映劇場」。1947年の映画館名簿では「東宝映画劇場」。1950年の映画館名簿では「公映劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「東宝公映劇場」。1958年の映画館名簿では「室蘭東宝公映劇場」。1960年の映画館名簿では「室蘭公映劇場」。1963年の映画館名簿では「大映劇場」。1969年の映画館名簿では「室蘭大映劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1975年・1978年の映画館名簿では「大映シネマ」。1976年の住宅地図では「大映ビル 2階室蘭大映劇場」。1980年の映画館名簿では「室蘭東宝劇場」。1982年の映画館名簿では「室蘭東宝」。1983年の映画館名簿には掲載されていない。1988年の住宅地図では跡地に「中央ビル 地下1階中央ビルランランタウン飲食街8店舗 1階パチンコアイドル 2階永楽興産 3階パチンコアイドル事務所」。跡地はパチンコ店「アイドル室蘭店」廃墟。最寄駅はJR室蘭支線室蘭駅。
1915年、室蘭市に神田儀蔵によって天活系活動常設館「神田館」が開館した。収容人員1500人。1922年には「可長館」に改称し、1924年には「錦館」に改称し、1931年には「錦座」に改称した。昭和初期の経営者は岩谷武史であり、新東宝や大映の上映館だった。戦後の高度成長期、「大映劇場」はサウナ浴場や貸ビルに転身した。*41
1936年の『大日本職業別明細図』「室蘭市」には「日活館」「錦座」「大国座」が描かれている。*42
1912年12月20日の室蘭大火、1914年の浜町大火によって、室蘭市街地の劇場が全滅した。1915年1月に開館した「大黒館」から3か月遅れて、神田儀蔵が天活系活動常設館「神田館」を開館させた。大正初期の室蘭市における活動常設館は、浜町の神田館(天活系、定員1570人)、浜町の大黒館(日活系、定員750人)、室蘭劇場(定員750人)の3館があった。1912年には神田館を谷長吉が買収して「花蝶館」に改称し、1922年には「可長館」に改称したが、1924年にはさらに「錦館」に改称、1931年には「錦座」に改称した。錦座の経営者は岩谷武史であり、新東宝・大映系の常設館だった。*43
1958年頃の室蘭市浜町46にあった東宝系上映館「東宝公映劇場」の写真あり。*44
1959年3月中旬、本間興業が経営する室蘭市浜町46の「室蘭公楽」と旭川市四条の「旭川公楽」は、売買契約が成立したため大映の所有に移る。大映は直営館の拡充計画を推進している。*45
1959年9月19日、室蘭市の「室蘭大映」の改装工事が完成して営業を再開した。支配人は永井莞二。木造2階建て。定員513人。*46
開館年 : 1915年
閉館年 : 1982年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1925年の映画館名簿では「錦座」。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「錦座」。1943年の映画館名簿では「東宝公映劇場」。1947年の映画館名簿では「東宝映画劇場」。1950年の映画館名簿では「公映劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「東宝公映劇場」。1958年の映画館名簿では「室蘭東宝公映劇場」。1960年の映画館名簿では「室蘭公映劇場」。1963年の映画館名簿では「大映劇場」。1969年の映画館名簿では「室蘭大映劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1975年・1978年の映画館名簿では「大映シネマ」。1976年の住宅地図では「大映ビル 2階室蘭大映劇場」。1980年の映画館名簿では「室蘭東宝劇場」。1982年の映画館名簿では「室蘭東宝」。1983年の映画館名簿には掲載されていない。1988年の住宅地図では跡地に「中央ビル 地下1階中央ビルランランタウン飲食街8店舗 1階パチンコアイドル 2階永楽興産 3階パチンコアイドル事務所」。跡地はパチンコ店「アイドル室蘭店」廃墟。最寄駅はJR室蘭支線室蘭駅。
1915年、室蘭市に神田儀蔵によって天活系活動常設館「神田館」が開館した。収容人員1500人。1922年には「可長館」に改称し、1924年には「錦館」に改称し、1931年には「錦座」に改称した。昭和初期の経営者は岩谷武史であり、新東宝や大映の上映館だった。戦後の高度成長期、「大映劇場」はサウナ浴場や貸ビルに転身した。*41
1936年の『大日本職業別明細図』「室蘭市」には「日活館」「錦座」「大国座」が描かれている。*42
1912年12月20日の室蘭大火、1914年の浜町大火によって、室蘭市街地の劇場が全滅した。1915年1月に開館した「大黒館」から3か月遅れて、神田儀蔵が天活系活動常設館「神田館」を開館させた。大正初期の室蘭市における活動常設館は、浜町の神田館(天活系、定員1570人)、浜町の大黒館(日活系、定員750人)、室蘭劇場(定員750人)の3館があった。1912年には神田館を谷長吉が買収して「花蝶館」に改称し、1922年には「可長館」に改称したが、1924年にはさらに「錦館」に改称、1931年には「錦座」に改称した。錦座の経営者は岩谷武史であり、新東宝・大映系の常設館だった。*43
1958年頃の室蘭市浜町46にあった東宝系上映館「東宝公映劇場」の写真あり。*44
1959年3月中旬、本間興業が経営する室蘭市浜町46の「室蘭公楽」と旭川市四条の「旭川公楽」は、売買契約が成立したため大映の所有に移る。大映は直営館の拡充計画を推進している。*45
1959年9月19日、室蘭市の「室蘭大映」の改装工事が完成して営業を再開した。支配人は永井莞二。木造2階建て。定員513人。*46
所在地 : 北海道室蘭市千歳町(1950年)、北海道室蘭市千歳町61(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年)、北海道室蘭市中央町3丁目(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1983年)
開館年 : 1947年以後1950年以前、1964年3月(2館化)
閉館年 : 1982年5月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「中央映画劇場」。1963年の映画館名簿では「スカラ座」。1966年・1969年の映画館名簿では「室蘭スカラ座・室蘭東映劇場」(2館)。1973年の映画館名簿では「スカラ座・東映劇場」(2館)。1975年の映画館名簿では「東映劇場・東映パラス劇場」(2館)。1978年の映画館名簿では「室蘭東映劇場・室蘭東映パラス劇場」(2館)。1980年の映画館名簿では「室蘭東映劇場・室蘭東映パラス」(2館)。1982年の映画館名簿では「東映劇場・東映パラス」(2館)。1983年の映画館名簿では「東映パラス」。1984年の映画館名簿には掲載されていない。
室蘭市中央町3丁目(旧千歳)の「室蘭東映劇場」。1964年3月創立。1982年5月廃業。*47
鴫原元次。生年月日不明。福島県出身。福島中学校卒。「室蘭名画座」、「室蘭中央映画劇場」館主。*48
1953年頃の室蘭市千歳町61にあった洋画館「室蘭中央映画劇場」の写真あり。*49
1981年5月、東映直営館「室蘭東映パラス」が閉館した。*50
開館年 : 1947年以後1950年以前、1964年3月(2館化)
閉館年 : 1982年5月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「中央映画劇場」。1963年の映画館名簿では「スカラ座」。1966年・1969年の映画館名簿では「室蘭スカラ座・室蘭東映劇場」(2館)。1973年の映画館名簿では「スカラ座・東映劇場」(2館)。1975年の映画館名簿では「東映劇場・東映パラス劇場」(2館)。1978年の映画館名簿では「室蘭東映劇場・室蘭東映パラス劇場」(2館)。1980年の映画館名簿では「室蘭東映劇場・室蘭東映パラス」(2館)。1982年の映画館名簿では「東映劇場・東映パラス」(2館)。1983年の映画館名簿では「東映パラス」。1984年の映画館名簿には掲載されていない。
室蘭市中央町3丁目(旧千歳)の「室蘭東映劇場」。1964年3月創立。1982年5月廃業。*47
鴫原元次。生年月日不明。福島県出身。福島中学校卒。「室蘭名画座」、「室蘭中央映画劇場」館主。*48
1953年頃の室蘭市千歳町61にあった洋画館「室蘭中央映画劇場」の写真あり。*49
1981年5月、東映直営館「室蘭東映パラス」が閉館した。*50
所在地 : 北海道室蘭市千歳町(1936年・1943年)、北海道室蘭市千歳町24(1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、北海道室蘭市中央町3丁目(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年)、北海道室蘭市中央町3丁目4(1985年)、北海道室蘭市中央町3丁目(1990年・1995年・1996年)
開館年 : 1914年12月、1955年7月
閉館年 : 1995年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年・1943年の映画館名簿では「日活館」。1947年の映画館名簿では「室蘭日活館」。1950年の映画館名簿では「日活館」。1953年・1955年の映画館名簿では「室蘭日活館」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「室蘭劇場」。1963年の映画館名簿では経営者が須貝興行、支配人が国柄智広、木造2階暖房付、定員510。1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「室蘭劇場・グランド劇場・ミカド劇場」(3館)。1975年の映画館名簿では経営会社が須貝興行、経営者が須貝富安、支配人が確井昭宏、いずれも鉄筋造1階暖房付、室蘭劇場が560席で洋画を上映、グランド劇場が300席で洋画を上映、ミカド劇場が170席で日活を上映。1976年の住宅地図では「須貝アミューズ会館 1階室蘭劇場 ミカド劇場 グランド劇場 2階麻雀中央荘 サウナロイヤル 3階グランド劇場 ビリヤード」。1978年・1980年の映画館名簿では「室蘭劇場・グランド劇場・ミカド劇場・シネマアポロン」(4館)。1985年の映画館名簿では「室蘭劇場・室蘭グランドシネマ・室蘭ミカド劇場・シネマアポロン・室蘭テアトロポニー」(5館)。1985年の映画館名簿では「室蘭劇場・室蘭グランドシネマ・ミカド劇場・室蘭シネマアポロン・室蘭テアトロポニー」(5館)。1988年3館化。1988年の住宅地図では「須貝アミューズ会館 グランド劇場 室蘭劇場 ミカド劇場」。1990年・1995年・1996年の映画館名簿では「室蘭劇場・室蘭グランドシネマ・室蘭アポロン」(3館)。1995年の映画館名簿では経営会社が須貝興行、経営者が鈴木保男、支配人が栗原日出夫、鉄筋造1階、室蘭劇場が356席で洋画を上映、グランドシネマが210席で邦画を上映、シネマアポロンが77席で洋画を上映。1998年の映画館名簿には掲載されていない。室蘭須貝アミューズ会館。跡地は2009年竣工のマンション「サンヴェール中央」。最寄駅はJR室蘭支線室蘭駅。
1914年頃の室蘭市千歳町にあった「胆振座」の写真あり。「室蘭劇場」の前身である。*51
1914年12月、室蘭市千歳町24に株式組織の「胆振座」が建った。建築費は6000円であり、出資者は鮮魚商、旅館、料亭、小料理屋などである。芝居・色物・巡業活動写真などの貸館で営業した。1920年5月、土地と建物が旭川市の佐藤市太郎に売却され、佐藤によって「室蘭劇場」となった。系列の「大黒館」が松竹系となり、室蘭劇場は日活系となった。大正初期の室蘭市には活動常設館として、浜町の「神田館」、浜町の大黒館、千歳町の室蘭劇場の3館があった。戦後の高度成長期、室蘭劇場は映画館の規模を縮小してボウリング場を兼営した。*52
1936年の『大日本職業別明細図』「室蘭市」には「日活館」「錦座」「大国座」が描かれている。*53
1914年12月、室蘭市千歳町24に「胆振座」が開館し、芝居・色物・巡業活動写真などの貸館として営業した。第一次世界大戦後の不況下で、1920年5月には胆振座が佐藤市太郎に売却され、佐藤は改装して「室蘭劇場」に改称した。同じく佐藤が経営する「大黒館」は松竹系となり、室蘭劇場は日活系となった。大正初期の室蘭市における活動常設館は、浜町の神田館(天活系、定員1570人)、浜町の大黒館(日活系、定員750人)、室蘭劇場(定員750人)の3館があった。1921年には室蘭劇場が日活直営館「日活館」となり、室蘭初の椅子席の映画館となった。*54
室蘭市にあった「胆振座」の写真あり。1914年12月、鈴木金蔵によって建てられた。1915年には市川左団次一座が来演し、1917年には中村歌衛門や市川中車などが来演した。1920年頃には佐藤市太郎によって常設映画館「室蘭劇場」となり、すぐに「日活館」となった。1954年には須貝興行が室蘭劇場という名称を復活させた。*55
1958年の室蘭市千歳町24にあった洋画館「室蘭劇場」の写真あり。クレイマー監督のアメリカ映画『手錠のまゝの脱獄』の看板が見える。路地に架かるアーチ看板の奥には「室蘭中央映劇」があった。2012年現在の跡地は駐車場となっている。*56
1962年6月、室蘭市の洋画専門館「室蘭劇場」が70ミリ劇場となる。スクリーンは縦5.7メートル×横12.6メートル。北海道では札幌市、旭川市の劇場に次いで3番目の70ミリ劇場。定員530人。工費1000万円。浜松市鍛治町20の「東洋劇場」が70ミリ劇場に改築された。経営は中川義一社長の新映株式会社。浜松市の70ミリ劇場は2館となった。*57
1962年6月のこのほど、室蘭市の洋画専門館「室蘭劇場」が70ミリ劇場となる。工費1000万円を投じ、道南地方で初めて70ミリ映画上映設備を設置する。6月13日から20日まで工事のために休館した。*58
1955年には室蘭市中央町に洋画上映館「室蘭映劇」を開館させた。須貝興行は近代的な洋画上映館の道内展開を開始した。1966年には室蘭映劇を取り壊し、映画館3館・ボウリング場・ビリヤード場・サウナ等が入った複合レジャービル「室蘭アミューズ会館」を開館させた。1975年には室蘭須貝アミューズ会館内のボウリング場を改装して映画館に転換した。1988年には室蘭須貝アミューズ会館内の映画館2館を閉館させ、改装してビリヤード場とゲーム場に転換した。1995年には室蘭須貝アミューズ会館を閉館させた。*59
室蘭市中央町3の映画館「室蘭劇場」(1954年〜1994年)。室蘭劇場という名の映画館は古くからあったが、1954年には中央町の須貝アミューズ会館に改めて開館した。須貝アミューズ会館には映画館2館に加えて、カラオケ店やビリヤード場もあった。1994年、メル・ギブソン主演作『マーヴェリック』をもって閉館した。閉館時の座席数は約560席。1999年11月、東町に名称を受け継いだ4スクリーンの複合映画館が開館し、2009年には「ディノスシネマズ室蘭」となっている。*60
開館年 : 1914年12月、1955年7月
閉館年 : 1995年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年・1943年の映画館名簿では「日活館」。1947年の映画館名簿では「室蘭日活館」。1950年の映画館名簿では「日活館」。1953年・1955年の映画館名簿では「室蘭日活館」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「室蘭劇場」。1963年の映画館名簿では経営者が須貝興行、支配人が国柄智広、木造2階暖房付、定員510。1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「室蘭劇場・グランド劇場・ミカド劇場」(3館)。1975年の映画館名簿では経営会社が須貝興行、経営者が須貝富安、支配人が確井昭宏、いずれも鉄筋造1階暖房付、室蘭劇場が560席で洋画を上映、グランド劇場が300席で洋画を上映、ミカド劇場が170席で日活を上映。1976年の住宅地図では「須貝アミューズ会館 1階室蘭劇場 ミカド劇場 グランド劇場 2階麻雀中央荘 サウナロイヤル 3階グランド劇場 ビリヤード」。1978年・1980年の映画館名簿では「室蘭劇場・グランド劇場・ミカド劇場・シネマアポロン」(4館)。1985年の映画館名簿では「室蘭劇場・室蘭グランドシネマ・室蘭ミカド劇場・シネマアポロン・室蘭テアトロポニー」(5館)。1985年の映画館名簿では「室蘭劇場・室蘭グランドシネマ・ミカド劇場・室蘭シネマアポロン・室蘭テアトロポニー」(5館)。1988年3館化。1988年の住宅地図では「須貝アミューズ会館 グランド劇場 室蘭劇場 ミカド劇場」。1990年・1995年・1996年の映画館名簿では「室蘭劇場・室蘭グランドシネマ・室蘭アポロン」(3館)。1995年の映画館名簿では経営会社が須貝興行、経営者が鈴木保男、支配人が栗原日出夫、鉄筋造1階、室蘭劇場が356席で洋画を上映、グランドシネマが210席で邦画を上映、シネマアポロンが77席で洋画を上映。1998年の映画館名簿には掲載されていない。室蘭須貝アミューズ会館。跡地は2009年竣工のマンション「サンヴェール中央」。最寄駅はJR室蘭支線室蘭駅。
1914年頃の室蘭市千歳町にあった「胆振座」の写真あり。「室蘭劇場」の前身である。*51
1914年12月、室蘭市千歳町24に株式組織の「胆振座」が建った。建築費は6000円であり、出資者は鮮魚商、旅館、料亭、小料理屋などである。芝居・色物・巡業活動写真などの貸館で営業した。1920年5月、土地と建物が旭川市の佐藤市太郎に売却され、佐藤によって「室蘭劇場」となった。系列の「大黒館」が松竹系となり、室蘭劇場は日活系となった。大正初期の室蘭市には活動常設館として、浜町の「神田館」、浜町の大黒館、千歳町の室蘭劇場の3館があった。戦後の高度成長期、室蘭劇場は映画館の規模を縮小してボウリング場を兼営した。*52
1936年の『大日本職業別明細図』「室蘭市」には「日活館」「錦座」「大国座」が描かれている。*53
1914年12月、室蘭市千歳町24に「胆振座」が開館し、芝居・色物・巡業活動写真などの貸館として営業した。第一次世界大戦後の不況下で、1920年5月には胆振座が佐藤市太郎に売却され、佐藤は改装して「室蘭劇場」に改称した。同じく佐藤が経営する「大黒館」は松竹系となり、室蘭劇場は日活系となった。大正初期の室蘭市における活動常設館は、浜町の神田館(天活系、定員1570人)、浜町の大黒館(日活系、定員750人)、室蘭劇場(定員750人)の3館があった。1921年には室蘭劇場が日活直営館「日活館」となり、室蘭初の椅子席の映画館となった。*54
室蘭市にあった「胆振座」の写真あり。1914年12月、鈴木金蔵によって建てられた。1915年には市川左団次一座が来演し、1917年には中村歌衛門や市川中車などが来演した。1920年頃には佐藤市太郎によって常設映画館「室蘭劇場」となり、すぐに「日活館」となった。1954年には須貝興行が室蘭劇場という名称を復活させた。*55
1958年の室蘭市千歳町24にあった洋画館「室蘭劇場」の写真あり。クレイマー監督のアメリカ映画『手錠のまゝの脱獄』の看板が見える。路地に架かるアーチ看板の奥には「室蘭中央映劇」があった。2012年現在の跡地は駐車場となっている。*56
1962年6月、室蘭市の洋画専門館「室蘭劇場」が70ミリ劇場となる。スクリーンは縦5.7メートル×横12.6メートル。北海道では札幌市、旭川市の劇場に次いで3番目の70ミリ劇場。定員530人。工費1000万円。浜松市鍛治町20の「東洋劇場」が70ミリ劇場に改築された。経営は中川義一社長の新映株式会社。浜松市の70ミリ劇場は2館となった。*57
1962年6月のこのほど、室蘭市の洋画専門館「室蘭劇場」が70ミリ劇場となる。工費1000万円を投じ、道南地方で初めて70ミリ映画上映設備を設置する。6月13日から20日まで工事のために休館した。*58
1955年には室蘭市中央町に洋画上映館「室蘭映劇」を開館させた。須貝興行は近代的な洋画上映館の道内展開を開始した。1966年には室蘭映劇を取り壊し、映画館3館・ボウリング場・ビリヤード場・サウナ等が入った複合レジャービル「室蘭アミューズ会館」を開館させた。1975年には室蘭須貝アミューズ会館内のボウリング場を改装して映画館に転換した。1988年には室蘭須貝アミューズ会館内の映画館2館を閉館させ、改装してビリヤード場とゲーム場に転換した。1995年には室蘭須貝アミューズ会館を閉館させた。*59
室蘭市中央町3の映画館「室蘭劇場」(1954年〜1994年)。室蘭劇場という名の映画館は古くからあったが、1954年には中央町の須貝アミューズ会館に改めて開館した。須貝アミューズ会館には映画館2館に加えて、カラオケ店やビリヤード場もあった。1994年、メル・ギブソン主演作『マーヴェリック』をもって閉館した。閉館時の座席数は約560席。1999年11月、東町に名称を受け継いだ4スクリーンの複合映画館が開館し、2009年には「ディノスシネマズ室蘭」となっている。*60
所在地 : 北海道室蘭市中島町100(1959年・1960年)、北海道室蘭市中島町(1963年)、北海道室蘭市中島町100(1964年)、北海道室蘭市中島町1-18(1966年)、北海道室蘭市中島町1丁目(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年)、北海道室蘭市中島町1丁目18(1985年)、北海道室蘭市中島町1丁目(1990年・1995年・1998年・2000年)
開館年 : 1956年4月
閉館年 : 2000年2月
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「中島映画劇場」。1963年の映画館名簿では「中島映劇」。1964年・1966年・1969年の映画館名簿では「中島映画劇場」。1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「中映シネマ・中島映画劇場」(2館)。1976年の住宅地図では「中島映画劇場」。1980年の映画館名簿では「中映シネマ・室蘭中島映画劇場」(2館)。1985年の映画館名簿では「中映シネマ・中島映画劇場」(2館)。1990年・1995年・1998年・2000年の映画館名簿では「室蘭シネマロキシ・室蘭中島映劇」(2館)。1998年の映画館名簿では経営会社がスガイ・エンタテインメント、経営者が鈴木保男、支配人が栗原日出夫、シネマロキシが鉄筋造2階で121席で邦画・洋画を上映、中島映劇が鉄筋造1階で95席で邦画・洋画を上映。2002年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ファミリーマート室蘭中島店」。最寄駅はJR室蘭本線・室蘭支線東室蘭駅。
戦後の室蘭市中島町にあった「中島映画劇場」の写真あり。1956年4月創立。1958年時点の経営者は丸田武男。*61
1958年頃の室蘭市にあった「中島映画劇場」の写真あり。*62
丸田武男。1895年8月9日生。富山県黒部市出身。株式会社中島映画劇場取締役社長。*63
開館年 : 1956年4月
閉館年 : 2000年2月
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「中島映画劇場」。1963年の映画館名簿では「中島映劇」。1964年・1966年・1969年の映画館名簿では「中島映画劇場」。1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「中映シネマ・中島映画劇場」(2館)。1976年の住宅地図では「中島映画劇場」。1980年の映画館名簿では「中映シネマ・室蘭中島映画劇場」(2館)。1985年の映画館名簿では「中映シネマ・中島映画劇場」(2館)。1990年・1995年・1998年・2000年の映画館名簿では「室蘭シネマロキシ・室蘭中島映劇」(2館)。1998年の映画館名簿では経営会社がスガイ・エンタテインメント、経営者が鈴木保男、支配人が栗原日出夫、シネマロキシが鉄筋造2階で121席で邦画・洋画を上映、中島映劇が鉄筋造1階で95席で邦画・洋画を上映。2002年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ファミリーマート室蘭中島店」。最寄駅はJR室蘭本線・室蘭支線東室蘭駅。
戦後の室蘭市中島町にあった「中島映画劇場」の写真あり。1956年4月創立。1958年時点の経営者は丸田武男。*61
1958年頃の室蘭市にあった「中島映画劇場」の写真あり。*62
丸田武男。1895年8月9日生。富山県黒部市出身。株式会社中島映画劇場取締役社長。*63
所在地 : 北海道室蘭市東町2-25(1986年・1988年・1990年・1995年)、北海道室蘭市東町2丁目25(1998年・2000年・2002年・2005年・2010年・2012年)
開館年 : 1985年頃
閉館年 : 2013年5月
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1986年・1988年・1990年・1995年・1998年・2000年・2002年・2005年・2010年の映画館名簿では「東室蘭テアトルプチ」。1988年の住宅地図では「テアトルプチ 東京ランドリー 吉尾友吉」。2002年・2012年の映画館名簿では経営会社がテアトルプチ、経営者・支配人ともに藤原律子、木造1階、30席、成人映画を上映。2015年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大同電設本社」建物北西部。最寄駅はJR室蘭本線・室蘭支線東室蘭駅。
「テアトルプチ」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*64
開館年 : 1985年頃
閉館年 : 2013年5月
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1986年・1988年・1990年・1995年・1998年・2000年・2002年・2005年・2010年の映画館名簿では「東室蘭テアトルプチ」。1988年の住宅地図では「テアトルプチ 東京ランドリー 吉尾友吉」。2002年・2012年の映画館名簿では経営会社がテアトルプチ、経営者・支配人ともに藤原律子、木造1階、30席、成人映画を上映。2015年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大同電設本社」建物北西部。最寄駅はJR室蘭本線・室蘭支線東室蘭駅。
「テアトルプチ」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*64
所在地 : 北海道室蘭市東町4丁目(2000年・2002年・2005年・2010年)、北海道室蘭市東町4丁目31-3(2015年・2020年)
開館年 : 1999年11月20日(室蘭劇場)、2010年4月(ディノスシネマズ)
閉館年 : 営業中
1998年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2002年・2005年・2010年の映画館名簿では「室蘭劇場1-4」(4館)。2002年の映画館名簿では経営会社がスガイ・エンタテインメント、経営者が藤直樹、支配人が伊藤浩二、鉄筋造3階。2015年・2020年の映画館名簿では「ディノスシネマズ室蘭1-4」(4館)。ディノス室蘭。最寄駅はJR室蘭本線・室蘭支線東室蘭駅。
開館年 : 1999年11月20日(室蘭劇場)、2010年4月(ディノスシネマズ)
閉館年 : 営業中
1998年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2002年・2005年・2010年の映画館名簿では「室蘭劇場1-4」(4館)。2002年の映画館名簿では経営会社がスガイ・エンタテインメント、経営者が藤直樹、支配人が伊藤浩二、鉄筋造3階。2015年・2020年の映画館名簿では「ディノスシネマズ室蘭1-4」(4館)。ディノス室蘭。最寄駅はJR室蘭本線・室蘭支線東室蘭駅。
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