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hekikaicinema 2026年09月10日(木) 20:14:57履歴
1892年に作られた『伊東案内図』には「東座」や「寄席」やキネマホールの前身である「末広亭」などが描かれている。戦後の伊東市街地には「伊東劇場」、「ロキシー」、「松竹館」(旧住吉館)、「演舞場」、「銀映」という5館の映画館があった。伊東市街地以外では、八幡野には丸万経営の「テアトル」と相良太郎経営の「サガラ座」の2館、宇佐美には城宿長屋店の場所に「宇佐美館」の1館、富戸には富戸上町に「文化劇場」の1館の映画館があった。伊東劇場は伊東市の映画館の中心的存在である。大和館の山本惣吉が劇場経営に携わり、その後の丸万の山田喜太郎の時代が全盛期だった。*1
1951年に再建された「伊東劇場」は、収容人数1200人で静岡県最大の大きさだった。伊東劇場の隣には洋画専門館の「ロキシー」があり、さらに「松竹館」、「演舞場」、「銀映」と、伊東市街地には5館の映画館があった。郡部には「相良劇場」、「テアトル」(八幡野)、「文化館」(富戸)、「宇佐美座」(宇佐美)があった。大衆娯楽のうち最初に衰退したのは映画館であり、1963年10月の5館の入館者数計2万7326人は、前年同月に比べて1万310人も減少した。1館あたりでは1日平均182人という少なさだった。伊東劇場も1970年に閉館。最後まで残ったのは銀映だったが、1987年に32年の歴史の幕を閉じた。*2
1963年10月の伊東市街地の映画館5館の入場者数は計2万7326人であり、売上高は計482万1700円だった。1962年10月は計3万7636人であり、売上高は539万7000円だったため、入場者数は27%減少、売上高は11%減少となった。1963年の5館の1日平均入場者数は910人であり、1館当たりでは1日平均182人だった。テレビが普及したことや、レジャーブームで娯楽施設が豊富になったことが要因に挙げられる。*3*4
1951年に再建された「伊東劇場」は、収容人数1200人で静岡県最大の大きさだった。伊東劇場の隣には洋画専門館の「ロキシー」があり、さらに「松竹館」、「演舞場」、「銀映」と、伊東市街地には5館の映画館があった。郡部には「相良劇場」、「テアトル」(八幡野)、「文化館」(富戸)、「宇佐美座」(宇佐美)があった。大衆娯楽のうち最初に衰退したのは映画館であり、1963年10月の5館の入館者数計2万7326人は、前年同月に比べて1万310人も減少した。1館あたりでは1日平均182人という少なさだった。伊東劇場も1970年に閉館。最後まで残ったのは銀映だったが、1987年に32年の歴史の幕を閉じた。*2
1963年10月の伊東市街地の映画館5館の入場者数は計2万7326人であり、売上高は計482万1700円だった。1962年10月は計3万7636人であり、売上高は539万7000円だったため、入場者数は27%減少、売上高は11%減少となった。1963年の5館の1日平均入場者数は910人であり、1館当たりでは1日平均182人だった。テレビが普及したことや、レジャーブームで娯楽施設が豊富になったことが要因に挙げられる。*3*4
所在地 : 静岡県賀茂郡伊東町猪戸(1930年)
開館年 : 1920年8月14日
閉館年 : 1945年以前
1922年現在の伊東町における活動常設館は猪戸の「キネマ」と栄町の「演芸館」である。キネマの筋向いには芝居の「伊東劇場」があり、しばしば東京の俳優も訪れる。*5
伊東市有数の商店街であるキネマ通りの名前の由来になったのはキネマホールである。1920年8月14日に開館式を行い、まだ映画が「活動写真」と呼ばれていた時代にキネマホールというハイカラな館名を付けた。キネマホールは火災に遭って短命に終わった。*6
1920年8月14日、伊東町に活動常設館「キネマホール」が開館したが、開館日に上映された映画の題名などは不明である。キネマホールの経営者は西山隆作氏であり、その娘は全員が着物だった時代に洋服を着て小学校に通っていたため、児童のあこがれの的だった。昭和初期には楠山伝や藤屋の主人らが話し合ってキネマ通りと命名した。1930年11月26日には北伊豆地震が起こり、キネマ通りではキネマホールを含む約30戸が焼失した。跡地は長らく空き地になっていたが、楠山伝とダルマ不動産が土地を購入して店を開いた。キネマホールは2000年現在の小田原屋支店付近にあったとされる。*7
1978年の住宅地図では、猪戸通りと湯の花通りの交差点西側に「キネマ会館」が描かれている。「文寿堂菓子店」の2軒北東。
開館年 : 1920年8月14日
閉館年 : 1945年以前
1922年現在の伊東町における活動常設館は猪戸の「キネマ」と栄町の「演芸館」である。キネマの筋向いには芝居の「伊東劇場」があり、しばしば東京の俳優も訪れる。*5
伊東市有数の商店街であるキネマ通りの名前の由来になったのはキネマホールである。1920年8月14日に開館式を行い、まだ映画が「活動写真」と呼ばれていた時代にキネマホールというハイカラな館名を付けた。キネマホールは火災に遭って短命に終わった。*6
1920年8月14日、伊東町に活動常設館「キネマホール」が開館したが、開館日に上映された映画の題名などは不明である。キネマホールの経営者は西山隆作氏であり、その娘は全員が着物だった時代に洋服を着て小学校に通っていたため、児童のあこがれの的だった。昭和初期には楠山伝や藤屋の主人らが話し合ってキネマ通りと命名した。1930年11月26日には北伊豆地震が起こり、キネマ通りではキネマホールを含む約30戸が焼失した。跡地は長らく空き地になっていたが、楠山伝とダルマ不動産が土地を購入して店を開いた。キネマホールは2000年現在の小田原屋支店付近にあったとされる。*7
1978年の住宅地図では、猪戸通りと湯の花通りの交差点西側に「キネマ会館」が描かれている。「文寿堂菓子店」の2軒北東。
所在地 : 静岡県伊東市松原猪戸町501(1965年)
開館年 : 1941年4月
閉館年 : 1965年1月19日
跡地は定食屋「椿や」やガールズバー「ミラージュ」などが入るアーケード南端部の「セントラルビル」。最寄駅はJR伊東線伊東駅。
1952年、伊東市に鉄筋造3階建ての「伊東劇場」が開館した。経営者は伊東市で伊東劇場、「ロキシー劇場」、「松竹館」を経営している山田寿。1953年にはロキシー劇場の改築に入り、その完成を待って松竹館の改築に入る。すべての改築が完成した暁には、伊東劇場が邦画・洋画の大作上映劇場、ロキシー劇場が洋画専門館、松竹館が邦画専門館となる。*8
1965年1月19日午後9時20分頃、伊東市松原町猪戸4-501のアパートから出火し、木造3階建てのアパートと「伊東ロキシー」が全焼した。*9
開館年 : 1941年4月
閉館年 : 1965年1月19日
跡地は定食屋「椿や」やガールズバー「ミラージュ」などが入るアーケード南端部の「セントラルビル」。最寄駅はJR伊東線伊東駅。
1952年、伊東市に鉄筋造3階建ての「伊東劇場」が開館した。経営者は伊東市で伊東劇場、「ロキシー劇場」、「松竹館」を経営している山田寿。1953年にはロキシー劇場の改築に入り、その完成を待って松竹館の改築に入る。すべての改築が完成した暁には、伊東劇場が邦画・洋画の大作上映劇場、ロキシー劇場が洋画専門館、松竹館が邦画専門館となる。*8
1965年1月19日午後9時20分頃、伊東市松原町猪戸4-501のアパートから出火し、木造3階建てのアパートと「伊東ロキシー」が全焼した。*9
所在地 : 静岡県伊東市松原1-1(1970年)
開館年 : 1930年以前、1941年8月
閉館年 : 1970年頃
跡地は「静岡銀行伊東支店」西北西60mの駐車場。最寄駅はJR伊東線伊東駅。
1952年、伊東市に鉄筋造3階建ての「伊東劇場」が開館した。経営者は伊東市で伊東劇場、「ロキシー劇場」、「松竹館」を経営している山田寿。1953年にはロキシー劇場の改築に入り、その完成を待って松竹館の改築に入る。すべての改築が完成した暁には、伊東劇場が邦画・洋画の大作上映劇場、ロキシー劇場が洋画専門館、松竹館が邦画専門館となる。*10
1965年頃(※誤りだと思われる)の伊東市にあった映画館「テアトルマルマン劇場」の写真あり。劇場通り(現・中央町通り)にあり、伊東市を代表する映画館だった。『日本侠客伝 白刃の盃』(1967年)や『博奕打ち』(1967年)などの看板が見える。「テアトルマルマン」「THEATRE MARUMAN」などの看板が見える。*11
開館年 : 1930年以前、1941年8月
閉館年 : 1970年頃
跡地は「静岡銀行伊東支店」西北西60mの駐車場。最寄駅はJR伊東線伊東駅。
1952年、伊東市に鉄筋造3階建ての「伊東劇場」が開館した。経営者は伊東市で伊東劇場、「ロキシー劇場」、「松竹館」を経営している山田寿。1953年にはロキシー劇場の改築に入り、その完成を待って松竹館の改築に入る。すべての改築が完成した暁には、伊東劇場が邦画・洋画の大作上映劇場、ロキシー劇場が洋画専門館、松竹館が邦画専門館となる。*10
1965年頃(※誤りだと思われる)の伊東市にあった映画館「テアトルマルマン劇場」の写真あり。劇場通り(現・中央町通り)にあり、伊東市を代表する映画館だった。『日本侠客伝 白刃の盃』(1967年)や『博奕打ち』(1967年)などの看板が見える。「テアトルマルマン」「THEATRE MARUMAN」などの看板が見える。*11
所在地 : 静岡県伊東市松原湯端町3-11(1971年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1971年頃
跡地は蕎麦屋「手打庵松原店」。最寄駅はJR伊東線伊東駅。
1960年10月5日、伊東市松原602の「伊東東映演舞場」は「伊東日活演舞場」に改称して日活専門館に転向した。経営は柴田光之助。*12
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1971年頃
跡地は蕎麦屋「手打庵松原店」。最寄駅はJR伊東線伊東駅。
1960年10月5日、伊東市松原602の「伊東東映演舞場」は「伊東日活演舞場」に改称して日活専門館に転向した。経営は柴田光之助。*12
所在地 : 静岡県伊東市中央町7-2(1979年)
開館年 : 1918年5月15日、1950年12月
閉館年 : 1979年頃
跡地は「フリーマーケットベル」西側の立体駐車場。最寄駅はJR伊東線伊東駅。
吉田初三郎『湯の街海の街山の街観光伊東市鳥瞰図』伊東市役所、出版年不明には伊東劇場が「劇場」として描かれている。*13
1918年5月15日、再築中の伊東劇場が完成し、盛大に舞台開きが開催された。*14
1922年現在の伊東町における活動常設館は猪戸の「キネマ」と栄町の「演芸館」である。キネマの筋向いには芝居の「伊東劇場」があり、しばしば東京の俳優も訪れる。*15
1928年の伊東市街地の航空写真あり。中央左の巨大な建物は「伊東劇場」である。*16
1947年2月25日5時50分、伊東町松原区の「伊東劇場」から出火して42戸が焼失した。焼失面積は2000坪、建物焼失延坪数は1543坪。原因は焚火の不始末。*17
1947年、伊東町と小室村が合併して伊東市が発足した。同年には「伊東劇場」から出火して47戸が焼失した。*18
1952年、伊東市に鉄筋造3階建ての「伊東劇場」が開館した。経営者は伊東市で伊東劇場、「ロキシー劇場」、「松竹館」を経営している山田寿。1953年にはロキシー劇場の改築に入り、その完成を待って松竹館の改築に入る。すべての改築が完成した暁には、伊東劇場が邦画・洋画の大作上映劇場、ロキシー劇場が洋画専門館、松竹館が邦画専門館となる。*19
伊東劇場は1970年まで営業を続けた。(※映画館名簿とは閉館時期に10年近くずれが生じるが理由は不明)*20
2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
開館年 : 1918年5月15日、1950年12月
閉館年 : 1979年頃
跡地は「フリーマーケットベル」西側の立体駐車場。最寄駅はJR伊東線伊東駅。
吉田初三郎『湯の街海の街山の街観光伊東市鳥瞰図』伊東市役所、出版年不明には伊東劇場が「劇場」として描かれている。*13
1918年5月15日、再築中の伊東劇場が完成し、盛大に舞台開きが開催された。*14
1922年現在の伊東町における活動常設館は猪戸の「キネマ」と栄町の「演芸館」である。キネマの筋向いには芝居の「伊東劇場」があり、しばしば東京の俳優も訪れる。*15
1928年の伊東市街地の航空写真あり。中央左の巨大な建物は「伊東劇場」である。*16
1947年2月25日5時50分、伊東町松原区の「伊東劇場」から出火して42戸が焼失した。焼失面積は2000坪、建物焼失延坪数は1543坪。原因は焚火の不始末。*17
1947年、伊東町と小室村が合併して伊東市が発足した。同年には「伊東劇場」から出火して47戸が焼失した。*18
1952年、伊東市に鉄筋造3階建ての「伊東劇場」が開館した。経営者は伊東市で伊東劇場、「ロキシー劇場」、「松竹館」を経営している山田寿。1953年にはロキシー劇場の改築に入り、その完成を待って松竹館の改築に入る。すべての改築が完成した暁には、伊東劇場が邦画・洋画の大作上映劇場、ロキシー劇場が洋画専門館、松竹館が邦画専門館となる。*19
伊東劇場は1970年まで営業を続けた。(※映画館名簿とは閉館時期に10年近くずれが生じるが理由は不明)*20
2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
所在地 : 静岡県伊東市銀座元町6-11(1987年)
開館年 : 1954年10月1日
閉館年 : 1987年4月5日
跡地は「伊東市商工会議所」。最寄駅はJR伊東線・伊豆急行線伊東駅。
1954年10月1日、伊東市玖須美125番地に伊東銀座興行による新館が開館する。邦画・洋画の二番館。伊東銀座興行の資本金は1500万円であり、社長は伊東バスの増田万吉。伊東市の映画館は4館となる。*21
1956年頃の伊東市にあった「銀映」で撮られた記念写真あり。「銀映」「東映」の文字が見える。中央には俳優の大友柳太郎が映っており、その周りには伊東銀座興業株式会社の役員などがいる。銀映の開館間もない頃には東映と大映を上映し、上映作品は時代劇が多かった。*22
1987年4月5日、伊東銀映オリオンが32年間の歴史に幕を閉じて閉館する。映画全盛期の1955年、伊東劇場・ロキシー・松竹館・演舞場に次ぐ市内5番目の映画館として、伊東市銀座元町に創業した。1986年8月、伊東銀座興業株式会社の株主総会において、映画人口の減少、建物の老朽化、幼稚園児への環境問題などを理由に閉館を決定。セブンイレブンやスーパーの誘致なども検討されたが、建物は取り壊すことが決定し、726m2の敷地を商工会館の建設地とする案が有力である。増田郁雄社長、資本金1200万円。*23*24
伊東市に最後まで残った映画館は銀映であるが、1987年に32年の歴史の幕を閉じた。*25
開館年 : 1954年10月1日
閉館年 : 1987年4月5日
跡地は「伊東市商工会議所」。最寄駅はJR伊東線・伊豆急行線伊東駅。
1954年10月1日、伊東市玖須美125番地に伊東銀座興行による新館が開館する。邦画・洋画の二番館。伊東銀座興行の資本金は1500万円であり、社長は伊東バスの増田万吉。伊東市の映画館は4館となる。*21
1956年頃の伊東市にあった「銀映」で撮られた記念写真あり。「銀映」「東映」の文字が見える。中央には俳優の大友柳太郎が映っており、その周りには伊東銀座興業株式会社の役員などがいる。銀映の開館間もない頃には東映と大映を上映し、上映作品は時代劇が多かった。*22
1987年4月5日、伊東銀映オリオンが32年間の歴史に幕を閉じて閉館する。映画全盛期の1955年、伊東劇場・ロキシー・松竹館・演舞場に次ぐ市内5番目の映画館として、伊東市銀座元町に創業した。1986年8月、伊東銀座興業株式会社の株主総会において、映画人口の減少、建物の老朽化、幼稚園児への環境問題などを理由に閉館を決定。セブンイレブンやスーパーの誘致なども検討されたが、建物は取り壊すことが決定し、726m2の敷地を商工会館の建設地とする案が有力である。増田郁雄社長、資本金1200万円。*23*24
伊東市に最後まで残った映画館は銀映であるが、1987年に32年の歴史の幕を閉じた。*25
所在地 : 静岡県伊東市吉田573-1(2026年)
開館年 : 2024年9月14日
閉館年 : 営業中
最寄駅は伊豆急行線川奈駅。
2024年9月14日、伊東市吉田の住宅街にミニシアター「金星シネマ」が開館する。映画美学校で映画製作を学んだ経験のある梅沢舞佳(25)が仲間らとともに手作りした。16席の1スクリーンを有する。9月14日から29日には『湯を沸かすほどの熱い愛』と『ありふれた教室』を上映する。*26
開館年 : 2024年9月14日
閉館年 : 営業中
最寄駅は伊豆急行線川奈駅。
2024年9月14日、伊東市吉田の住宅街にミニシアター「金星シネマ」が開館する。映画美学校で映画製作を学んだ経験のある梅沢舞佳(25)が仲間らとともに手作りした。16席の1スクリーンを有する。9月14日から29日には『湯を沸かすほどの熱い愛』と『ありふれた教室』を上映する。*26

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