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所在地 : 兵庫県川辺郡伊丹町(1930年・1934年・1936年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「寿座」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「寿座」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 兵庫県伊丹市悠紀町(1953年・1955年)、兵庫県伊丹市悠紀町522(1958年)、兵庫県伊丹市悠紀町520(1960年・1963年)
開館年 : 1952年4月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年4月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「若草劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「サニー技研」。最寄駅は阪急電鉄阪急伊丹線伊丹駅。
開館年 : 1952年4月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年4月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「若草劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「サニー技研」。最寄駅は阪急電鉄阪急伊丹線伊丹駅。
所在地 : 兵庫県川辺郡伊丹町(1930年・1934年・1936年)、兵庫県伊丹市三本松(1941年)、兵庫県伊丹市伊丹桜崎(1943年)、兵庫県伊丹市伊34番地(1950年)、兵庫県伊丹市西宮町(1953年・1955年)、兵庫県伊丹市伊丹34(1958年)、兵庫県伊丹市宮西町34(1960年)、兵庫県伊丹市伊丹字桜崎34(1963年)、兵庫県伊丹市宮西町34(1964年)
開館年 : 1912年頃
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「伊丹劇場」。1964年の住宅地図では「伊丹劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年の住宅地図では跡地に「伊丹ミュージック」。1972年の住宅地図では跡地に「駐車場」。跡地はマンション「スカイハイムプレジデント伊丹」など。最寄駅は阪急電鉄阪急伊丹線伊丹駅。
1935年頃の伊丹劇場の写真あり。1907年頃、現在の伊丹字桜崎34番地に今北金次郎ら7人が出資して芝居小屋「七福座」が建築された。建物は切妻、瓦葺、妻入の木造2階建てだった。2階席を含めて700人から800人が入場できた。正面入口は北側だった。直径約4間の廻り舞台があった。大正末期に黒木某が支配人になると「伊丹劇場」に改称され、映画館としての性格を強めた。太平洋戦争後には芝居が行われなくなり、映画館として存続した。1960年から1961年には経営者が後退し、ストリップ劇場「伊丹ミュージック」となった。1970年に閉鎖され、取り壊された。1978年現在の跡地はモータープールとなっている。*1
伊丹劇場のこけら落としの写真あり。1935年頃の伊丹劇場の写真あり。伊丹市の常設劇場としては「伊丹劇場」(前身は七福座)、「寿座」、「旭座」があり、歌舞伎などが巡業してきた。*2
1935年頃の伊丹劇場の写真あり。明治時代、猪名野神社の境内を入ってすぐ東側にあるあじさいセンター付近には「有岡座」という芝居小屋があった。1902年12月に850人収容の劇場として開館したが、1909年1月23日に失火で焼失した。その後、三本松遊廓跡地付近の櫻崎34番地には歌舞伎の芝居小屋「七福座」が開館した。木造2階建て、面積約300坪の劇場であり、直径7メートルの廻り舞台があった。舞台の下手には花道があり、花道にも舞台にもせり出しがあった。客席は中央部が桝席であり、両側が桟敷席だった。収容人数は2階も含めて500人から600人であり、舞台の真上の2階が楽屋だった。大正末期には「伊丹劇場」に改称し、映画館としての性格を強めた。戦後の伊丹劇場は映画専門館となった。1960年から1961年頃には「伊丹ミュージック」に改称してストリップ劇場となった。1970年の大阪万博を機に閉館して取り壊された。*3
1967年、伊丹市のストリップ劇場「伊丹ミュージック劇場」の入場料が1500円に上がる。ワリバシのそれ突け、やれ突けなどの特別ショーのため。1970年、兵庫県警の摘発を受けて閉館した。*4
1902年には猪名野神社の参道東側に芝居小屋「有岡座」が建てられたが、1909年に焼失した。1912年頃、今北金次郎ら7人が出資して猪名野神社の南西に芝居小屋「七福座」が建てられた。周辺地域では池田の「呉服座」と並ぶ芝居小屋とされ、歌舞伎の興行などが行われた。大正末期に派支配人が変わって「伊丹劇場」に改称した。1960年頃に経営者が変わって映画館ではなくなり、1970年に閉鎖されて取り壊された。*5
開館年 : 1912年頃
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「伊丹劇場」。1964年の住宅地図では「伊丹劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年の住宅地図では跡地に「伊丹ミュージック」。1972年の住宅地図では跡地に「駐車場」。跡地はマンション「スカイハイムプレジデント伊丹」など。最寄駅は阪急電鉄阪急伊丹線伊丹駅。
1935年頃の伊丹劇場の写真あり。1907年頃、現在の伊丹字桜崎34番地に今北金次郎ら7人が出資して芝居小屋「七福座」が建築された。建物は切妻、瓦葺、妻入の木造2階建てだった。2階席を含めて700人から800人が入場できた。正面入口は北側だった。直径約4間の廻り舞台があった。大正末期に黒木某が支配人になると「伊丹劇場」に改称され、映画館としての性格を強めた。太平洋戦争後には芝居が行われなくなり、映画館として存続した。1960年から1961年には経営者が後退し、ストリップ劇場「伊丹ミュージック」となった。1970年に閉鎖され、取り壊された。1978年現在の跡地はモータープールとなっている。*1
伊丹劇場のこけら落としの写真あり。1935年頃の伊丹劇場の写真あり。伊丹市の常設劇場としては「伊丹劇場」(前身は七福座)、「寿座」、「旭座」があり、歌舞伎などが巡業してきた。*2
1935年頃の伊丹劇場の写真あり。明治時代、猪名野神社の境内を入ってすぐ東側にあるあじさいセンター付近には「有岡座」という芝居小屋があった。1902年12月に850人収容の劇場として開館したが、1909年1月23日に失火で焼失した。その後、三本松遊廓跡地付近の櫻崎34番地には歌舞伎の芝居小屋「七福座」が開館した。木造2階建て、面積約300坪の劇場であり、直径7メートルの廻り舞台があった。舞台の下手には花道があり、花道にも舞台にもせり出しがあった。客席は中央部が桝席であり、両側が桟敷席だった。収容人数は2階も含めて500人から600人であり、舞台の真上の2階が楽屋だった。大正末期には「伊丹劇場」に改称し、映画館としての性格を強めた。戦後の伊丹劇場は映画専門館となった。1960年から1961年頃には「伊丹ミュージック」に改称してストリップ劇場となった。1970年の大阪万博を機に閉館して取り壊された。*3
1967年、伊丹市のストリップ劇場「伊丹ミュージック劇場」の入場料が1500円に上がる。ワリバシのそれ突け、やれ突けなどの特別ショーのため。1970年、兵庫県警の摘発を受けて閉館した。*4
1902年には猪名野神社の参道東側に芝居小屋「有岡座」が建てられたが、1909年に焼失した。1912年頃、今北金次郎ら7人が出資して猪名野神社の南西に芝居小屋「七福座」が建てられた。周辺地域では池田の「呉服座」と並ぶ芝居小屋とされ、歌舞伎の興行などが行われた。大正末期に派支配人が変わって「伊丹劇場」に改称した。1960年頃に経営者が変わって映画館ではなくなり、1970年に閉鎖されて取り壊された。*5
所在地 : 兵庫県伊丹市悠紀町(1941年・1943年・1947年)、兵庫県伊丹市悠紀町539-1(1950年)、兵庫県伊丹市悠紀町(1953年・1955年)、兵庫県伊丹市悠紀町539(1958年・1960年・1963年・1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1938年
閉館年 : 1968年
『全国映画館総覧 1955』によると1942年開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年・1947年・1950年の映画館名簿では「中央映画劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「中央劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「伊丹東映」。1964年・1966年の住宅地図では「伊丹東映劇場」。1965年の住宅地図では「伊丹東映劇場」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「伊丹東映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1972年・1990年の住宅地図では跡地に「尼崎信用金庫伊丹支店」。1974年の住宅地図では跡地に「尼崎信用金庫伊丹支店」。現在の跡地は「尼崎信用金庫伊丹支店」。最寄駅は阪急電鉄阪急伊丹線伊丹駅。
1920年には堀口鹿蔵によって芝居小屋「旭座」が建てられた。旭座に変わって、1938年には「伊丹中央劇場」が開館した。2006年現在の尼崎信用金庫伊丹支店付近である。後に「伊丹東映劇場」となり、東映・大映系の作品や演劇などが興行された。1968年まであった。*6
開館年 : 1938年
閉館年 : 1968年
『全国映画館総覧 1955』によると1942年開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年・1947年・1950年の映画館名簿では「中央映画劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「中央劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「伊丹東映」。1964年・1966年の住宅地図では「伊丹東映劇場」。1965年の住宅地図では「伊丹東映劇場」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「伊丹東映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1972年・1990年の住宅地図では跡地に「尼崎信用金庫伊丹支店」。1974年の住宅地図では跡地に「尼崎信用金庫伊丹支店」。現在の跡地は「尼崎信用金庫伊丹支店」。最寄駅は阪急電鉄阪急伊丹線伊丹駅。
1920年には堀口鹿蔵によって芝居小屋「旭座」が建てられた。旭座に変わって、1938年には「伊丹中央劇場」が開館した。2006年現在の尼崎信用金庫伊丹支店付近である。後に「伊丹東映劇場」となり、東映・大映系の作品や演劇などが興行された。1968年まであった。*6
所在地 : 兵庫県伊丹市若松町(1958年)、兵庫県伊丹市伊丹字若松町411-5(1960年)、兵庫県伊丹市字若松町(1963年)、兵庫県伊丹市伊丹字若松町411-5(1966年)、兵庫県伊丹市伊丹字若松町42-5(1969年・1970年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1970年頃
1955年・1956年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「伊丹シネマ」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「伊丹日活」。1964年・1965年・1966年・1969年の住宅地図では「伊丹日活」。1969年の映画館名簿では経営者が関西興業、支配人が浜村八郎、鉄筋造2階冷暖房付、450席、日活を上映。後継館は「トーエイ伊丹・ダイニチ伊丹」。跡地は「タイムズ阪急伊丹駅前」。最寄駅は阪急電鉄阪急伊丹線伊丹駅。
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1970年頃
1955年・1956年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「伊丹シネマ」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「伊丹日活」。1964年・1965年・1966年・1969年の住宅地図では「伊丹日活」。1969年の映画館名簿では経営者が関西興業、支配人が浜村八郎、鉄筋造2階冷暖房付、450席、日活を上映。後継館は「トーエイ伊丹・ダイニチ伊丹」。跡地は「タイムズ阪急伊丹駅前」。最寄駅は阪急電鉄阪急伊丹線伊丹駅。
所在地 : 兵庫県伊丹市若松町(1958年)、兵庫県伊丹市伊丹字若松町411-5(1960年)、兵庫県伊丹市字若松町(1963年)、兵庫県伊丹市伊丹字若松町411-5(1966年)、兵庫県伊丹市伊丹字若松町42-5(1969年・1970年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1970年頃
1955年・1956年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「伊丹大映」。1964年・1965年・1966年・1969年の住宅地図では「伊丹大映」。1969年の映画館名簿では経営者が関西興業、支配人が浜村八郎、鉄筋造3階冷暖房付、550席、大映を上映。後継館は「トーエイ伊丹・ダイニチ伊丹」。跡地は「タイムズ阪急伊丹駅前」。最寄駅は阪急電鉄阪急伊丹線伊丹駅。
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1970年頃
1955年・1956年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「伊丹大映」。1964年・1965年・1966年・1969年の住宅地図では「伊丹大映」。1969年の映画館名簿では経営者が関西興業、支配人が浜村八郎、鉄筋造3階冷暖房付、550席、大映を上映。後継館は「トーエイ伊丹・ダイニチ伊丹」。跡地は「タイムズ阪急伊丹駅前」。最寄駅は阪急電鉄阪急伊丹線伊丹駅。
所在地 : 兵庫県伊丹市永長町433(1956年・1957年)、兵庫県伊丹市永長町432(1958年)、兵庫県伊丹市永長町433(1960年・1963年)、兵庫県伊丹市永長町432(1966年・1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1971年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「御園劇場」。1964年・1966年・1969年の住宅地図では「御園劇場」。1965年の住宅地図では「御園劇場」。1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「伊丹御園劇場」。1969年の映画館名簿では経営者が大和興業、支配人が中村与四郎、木造2階冷暖房付、400席、松竹・東宝・東映を上映。1972年の映画館名簿には掲載されていない。1972年の住宅地図では跡地に「中村」。1974年の住宅地図では跡地に「阪急伊丹駅前ゴルフ練習所」。1990年の住宅地図では跡地に「伊丹第一ホテル駐車場」。跡地は有料駐車場「タイムズ伊丹第11」。最寄駅は阪急電鉄阪急伊丹線伊丹駅。
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1971年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「御園劇場」。1964年・1966年・1969年の住宅地図では「御園劇場」。1965年の住宅地図では「御園劇場」。1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「伊丹御園劇場」。1969年の映画館名簿では経営者が大和興業、支配人が中村与四郎、木造2階冷暖房付、400席、松竹・東宝・東映を上映。1972年の映画館名簿には掲載されていない。1972年の住宅地図では跡地に「中村」。1974年の住宅地図では跡地に「阪急伊丹駅前ゴルフ練習所」。1990年の住宅地図では跡地に「伊丹第一ホテル駐車場」。跡地は有料駐車場「タイムズ伊丹第11」。最寄駅は阪急電鉄阪急伊丹線伊丹駅。
所在地 : 兵庫県伊丹市若松町岸田ビル6階・7階(1973年)、兵庫県伊丹市若松町411-5(1975年)、兵庫県伊丹市中央町1-5(1980年)、兵庫県伊丹市中央町1-5-23(1985年・1990年)
開館年 : 1971年4月
閉館年 : 1990年頃
前身館は「伊丹日活」と「伊丹大映」。1971年4月長崎屋伊丹店開店。1973年・1975年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「トーエイ伊丹・ダイニチ伊丹」(2館)。1972年の住宅地図では「長崎屋 6階長崎屋ボウル 7階ダイニチ伊丹 トーエイ伊丹」。1974年の住宅地図では「長崎屋 7階 ダイニチ伊丹・トーエイ伊丹」。1990年の映画館名簿では経営会社が関西興業株式会社、経営者が岸田進、支配人が西野繁太郎、いずれも鉄筋造7階、トーエイが200席、ダイニチが200席、トーエイが東映を上映、ダイニチがにっかつを上映。1990年の住宅地図では「岸田ビル 7階ダイニチ伊丹 東映伊丹」。1991年・1992年の映画館名簿には掲載されていない。長崎屋伊丹店。跡地は「タイムズ阪急伊丹駅前」。最寄駅は阪急電鉄阪急伊丹線伊丹駅。
開館年 : 1971年4月
閉館年 : 1990年頃
前身館は「伊丹日活」と「伊丹大映」。1971年4月長崎屋伊丹店開店。1973年・1975年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「トーエイ伊丹・ダイニチ伊丹」(2館)。1972年の住宅地図では「長崎屋 6階長崎屋ボウル 7階ダイニチ伊丹 トーエイ伊丹」。1974年の住宅地図では「長崎屋 7階 ダイニチ伊丹・トーエイ伊丹」。1990年の映画館名簿では経営会社が関西興業株式会社、経営者が岸田進、支配人が西野繁太郎、いずれも鉄筋造7階、トーエイが200席、ダイニチが200席、トーエイが東映を上映、ダイニチがにっかつを上映。1990年の住宅地図では「岸田ビル 7階ダイニチ伊丹 東映伊丹」。1991年・1992年の映画館名簿には掲載されていない。長崎屋伊丹店。跡地は「タイムズ阪急伊丹駅前」。最寄駅は阪急電鉄阪急伊丹線伊丹駅。
所在地 : 兵庫県伊丹市千歳町422(1973年)、兵庫県伊丹市千歳町422 伊丹東阪急ビル(1975年)、兵庫県伊丹市中央町4-2-2(1980年・1985年・1990年・1995年)、兵庫県伊丹市中央4-2-2(2000年・2002年)
開館年 : 1970年
閉館年 : 2002年9月8日
1970年の映画館名簿には掲載されていない。1972年の住宅地図では「2階グリーン劇場 ローズ劇場」。1973年の映画館名簿では「グリーン劇場・伊丹ローズ劇場」(2館)。1974年の住宅地図では「2階 グリーン劇場・ローズ劇場」。1975年の映画館名簿では「グリーン劇場・ローズ劇場」(2館)。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「伊丹グリーン劇場・伊丹ローズ劇場」(2館)。1990年の映画館名簿では経営会社が東宝関西興行株式会社、経営者が雨宮崇、支配人が山富真治、いずれも鉄筋造2階、グリーンが198席、ローズが134席、グリーンが洋画を上映、ローズが東宝・松竹を上映。1990年の住宅地図では「3階グリーン劇場 ローズ劇場」。2002年の映画館名簿では経営会社が関西共栄興行株式会社、経営者が川口明、支配人が川東義信、いずれも鉄筋造3階、グリーンが178席、ローズが134席、グリーンが洋画を上映、ローズが東宝を上映。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2019年竣工のマンション「ジオ伊丹中央」。最寄駅は阪急電鉄阪急伊丹線伊丹駅。
2002年9月8日、伊丹市中央4丁目の映画館「伊丹グリーン劇場」(178席)と「伊丹ローズ劇場」(134席)が閉館する。1970年に開館した際は東宝系の封切館だった。1983年からは特撮映画のオールナイト上映を開始し、『大魔神』『ガメラ』など約200本を上映。「グリーンリボン賞」という自主製作特撮映画賞では約300メートルの行列もできた。伊丹市は1987年から1994年まで伊丹映画祭を開催し、同賞を特撮以外も含めた自主製作映画賞に発展させた。映画監督の三原光尋も同賞での入選経験がある。近隣に約1800席のシネコンが開館することが閉館の理由。*7
阪急伊丹駅近く、伊丹市中央4にあった映画館「伊丹グリーン・ローズ劇場」は、「特撮のメッカ」と呼ばれて特撮映画ファンに人気があった。1920年から1968年までの旧阪急伊丹駅跡地のビルのワンフロアにあった。東宝系の映画館であり、座席の色は劇場名にちなんで緑色と赤色だった。1980年代にはグリーン劇場が特撮上映に特化し始め、オールナイト上映は特撮ファンでにぎわった。1987年秋には伊丹市が「第1回伊丹映画祭」を開催し、大林宣彦監督や大島渚監督などの講演会やコンサートなどが行われた。伊丹映画祭は1995年の阪神淡路大震災の影響で下火になり、2002年には伊丹グリーン・ローズ劇場が閉館した。2020年現在の跡地は高層マンションとなっている。*8
2019年に刊行された『神戸と映画 映画館と観客の記憶』には、板倉史明による論考「伊丹グリーン劇場における特撮映画ファンの共同体」が掲載されている。*9
開館年 : 1970年
閉館年 : 2002年9月8日
1970年の映画館名簿には掲載されていない。1972年の住宅地図では「2階グリーン劇場 ローズ劇場」。1973年の映画館名簿では「グリーン劇場・伊丹ローズ劇場」(2館)。1974年の住宅地図では「2階 グリーン劇場・ローズ劇場」。1975年の映画館名簿では「グリーン劇場・ローズ劇場」(2館)。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「伊丹グリーン劇場・伊丹ローズ劇場」(2館)。1990年の映画館名簿では経営会社が東宝関西興行株式会社、経営者が雨宮崇、支配人が山富真治、いずれも鉄筋造2階、グリーンが198席、ローズが134席、グリーンが洋画を上映、ローズが東宝・松竹を上映。1990年の住宅地図では「3階グリーン劇場 ローズ劇場」。2002年の映画館名簿では経営会社が関西共栄興行株式会社、経営者が川口明、支配人が川東義信、いずれも鉄筋造3階、グリーンが178席、ローズが134席、グリーンが洋画を上映、ローズが東宝を上映。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2019年竣工のマンション「ジオ伊丹中央」。最寄駅は阪急電鉄阪急伊丹線伊丹駅。
2002年9月8日、伊丹市中央4丁目の映画館「伊丹グリーン劇場」(178席)と「伊丹ローズ劇場」(134席)が閉館する。1970年に開館した際は東宝系の封切館だった。1983年からは特撮映画のオールナイト上映を開始し、『大魔神』『ガメラ』など約200本を上映。「グリーンリボン賞」という自主製作特撮映画賞では約300メートルの行列もできた。伊丹市は1987年から1994年まで伊丹映画祭を開催し、同賞を特撮以外も含めた自主製作映画賞に発展させた。映画監督の三原光尋も同賞での入選経験がある。近隣に約1800席のシネコンが開館することが閉館の理由。*7
阪急伊丹駅近く、伊丹市中央4にあった映画館「伊丹グリーン・ローズ劇場」は、「特撮のメッカ」と呼ばれて特撮映画ファンに人気があった。1920年から1968年までの旧阪急伊丹駅跡地のビルのワンフロアにあった。東宝系の映画館であり、座席の色は劇場名にちなんで緑色と赤色だった。1980年代にはグリーン劇場が特撮上映に特化し始め、オールナイト上映は特撮ファンでにぎわった。1987年秋には伊丹市が「第1回伊丹映画祭」を開催し、大林宣彦監督や大島渚監督などの講演会やコンサートなどが行われた。伊丹映画祭は1995年の阪神淡路大震災の影響で下火になり、2002年には伊丹グリーン・ローズ劇場が閉館した。2020年現在の跡地は高層マンションとなっている。*8
2019年に刊行された『神戸と映画 映画館と観客の記憶』には、板倉史明による論考「伊丹グリーン劇場における特撮映画ファンの共同体」が掲載されている。*9
所在地 : 兵庫県伊丹市藤ノ木1-1-1 ダイヤモンドシティテラス4階(2003年・2005年)、兵庫県伊丹市藤ノ木1-1-1 イオンモール伊丹テラス4階(2010年)、兵庫県伊丹市藤ノ木1-1-1 イオンモール伊丹4階(2015年・2020年)
開館年 : 2002年10月
閉館年 : 営業中
2002年の映画館名簿には掲載されていない。2002年10月開館。2003年・2005年の映画館名簿では「伊丹TOHOプレックス1-8」(8館)。2003年の映画館名簿では経営会社が東宝株式会社、経営者が高井英幸、支配人が宮井周一、鉄筋造4階。2007年9月25日改称。2008年の映画館名簿では経営会社がTOHOシネマズ株式会社、経営者が村上主税、支配人が里山憲一、鉄筋造4階。2008年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズ伊丹1-8」(8館)。最寄駅はJR福知山線伊丹駅。
開館年 : 2002年10月
閉館年 : 営業中
2002年の映画館名簿には掲載されていない。2002年10月開館。2003年・2005年の映画館名簿では「伊丹TOHOプレックス1-8」(8館)。2003年の映画館名簿では経営会社が東宝株式会社、経営者が高井英幸、支配人が宮井周一、鉄筋造4階。2007年9月25日改称。2008年の映画館名簿では経営会社がTOHOシネマズ株式会社、経営者が村上主税、支配人が里山憲一、鉄筋造4階。2008年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズ伊丹1-8」(8館)。最寄駅はJR福知山線伊丹駅。
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