日本の映画館の総合データベースです。



米沢市

米沢座
所在地 : 山形県米沢市
開館年 : 明治時代
閉館年 : 不明
各年版の映画館名簿には掲載されていない。

一時期は米沢市唯一の劇場だった「米沢座」は、明治末期から活動写真も上映していたが、1914年末には活動常設館となった。1915年には越後番匠町に劇場「舞鶴座」が設置され、1916年には活動写真館に転向した。1917年には立町に活動写真館「遊楽館」が設置され、米沢の活動写真館は三つ巴の争いとなった。*1
常盤館/第一常盤館
所在地 : 山形県米沢市公園前(1925年)、山形県米沢市(1927年)、山形県米沢市柳町(1930年・1934年)、山形県米沢市公園前(1936年)
開館年 : 1918年8月16日
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1925年・1927年・1930年の映画館名簿では「常盤館」。1934年・1936年の映画館名簿では「第一常盤館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。

1917年5月22日には米沢大火が起こり、活動常設館「舞鶴座」も類焼した。同年7月、小林徳次は天幕張りの活動常設館「常盤館」を開館させ、9月8日には日活と歩合契約を行った。1918年8月16日、常盤館の新館が開館した。*2

小林徳次(金子徳次)は米沢の「第一常盤館」、米沢の「第二常盤館」、赤湯の「第三常盤館」、上ノ山の「第五常盤館」、今泉の「第六常盤館」、長井の「第七常盤館」、小松の「第八常盤館」を個人で開館させるなど、置賜地方・村山地方に十数館を経営する映画興行師となった。小林の先祖は漆器を扱う米沢藩の御用商人であり、常盤屋という屋号を用いていた。*3

1929年以前の米沢市の映画常設館としては立町に「遊楽館」があった。1929年には門東町下の「松岬劇場」が常設館となり、1932年には北堀端町に「常盤館」の新館が設立された。1939年7月には遊楽館で『愛染かつら』が上映され、連日超満員の大ヒットとなった。1939年には遊楽館で米沢市初のナイトショウが行われた。1942年に映画館に等級が付けられた際、遊楽館と「東宝映画館」(常盤館)は一流館、松岬劇場は二流館に指定され、封切日に差が付けられた。*4
第一活動館
所在地 : 山形県米沢市元細工町(1947年)
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1947年以後1950年以前
1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「第一活動館」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。
米沢市民会館/市民会館
所在地 : 山形県米沢市門東町(1950年)、山形県米沢市門東町3025(1953年・1954年・1955年・1958年)
開館年 : 1949年7月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1954』によると1949年7月開館。『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「米沢市民会館」。1953年・1954年の映画館名簿では「市民会館」。1953年の映画館名簿では経営者が辻武蔵、鉄筋造2階、定員600、洋画を上映。1955年・1958年の映画館名簿では「市民会館(休館中)」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「米沢市市民文化会館」。最寄駅はJR奥羽本線・米坂線米沢駅。

1936年9月1日、米沢市に公会堂が完成した。2階席を含めて1750の客席があり、米沢市最大のモダン建築とされた。*5

1949年1月、米沢市粡町に「よねざわ映画劇場」が開館した。経営は宮崎合名会社。1915年に開館した立町の「遊楽館」、1917年に開館した北堀端町の「米沢東宝劇場」、1946年に開館した門東町下の「セントラル劇場」、1946年に開館した元細工町の「中央映画館」、1948年に開館した門東町下の「市民会館」と合わせ、米沢市の映画館は6館となった。*6

1950年時点の米沢市にあった映画館は、「東宝映画劇場」、「松竹遊楽館」、「中央映画館」、「市民会館」、「セントラル劇場」(旧松岬劇場、後の国際劇場)、「よねざわ映画劇場」の6館である。人口の割に映画館数が多かったことから、1953年頃にはグリーンハウス(旧東宝映画劇場)、市民会館、国際劇場(旧セントラル劇場)の3館が休館した。*7

1950年2月現在の米沢市には6館の映画館がある。北堀端町の「米沢東宝映画劇場」、門東町の「市民会館」、元細工町の「中央映画館」、門東町の「セントラル劇場」、立町の「遊楽館」、粡町の「米沢映画劇場」である。市民会館は1948年9月に開館し、辻武蔵が経営している。*8

1950年の米沢市にあった米沢市民会館で開催された、水の江滝子を招いた化粧品講習会の写真あり。1936年に米沢市公会堂として建てられ、1948年に米沢市民会館に改称した。映画も上映していた。1969年には米沢市民文化会館に建て替えられた。*9

1953年2月1日、米沢市にある「東映」、「市民会館」、「グリーンハウス」の映画館3館が向こう3年間休館となった。米沢市は人口に対して映画館数が多すぎ、共倒れを防ぐためにこのような形となった。存続館は閉鎖館の営繕費や維持費を負担する。*10
米沢銀座映画劇場
所在地 : 山形県米沢市元細工町3335(1959年)、山形県米沢市元細工町4458(1960年)、山形県米沢市元細工町3335(1963年)
開館年 : 1957年
閉館年 : 1964年
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「米沢銀座映画劇場」。1961年の米沢市住宅明細地図分区図では「米沢銀映」。1963年の映画館名簿では経営者が鈴木庄八、支配人が杉浦彦吉、木造1階冷暖房付、定員460、東宝を上映。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「皇大神社」南30mの建物。最寄駅はJR奥羽本線・米坂線米沢駅。

1957年には米沢市に「米沢銀映」が開館した。1964年には米沢銀映が閉館し、1967年にはシネマ旭が閉館し、1971年にはよねざわ映画劇場が閉館した。*11
松岬劇場/日活松岬映画劇場/松岬映画劇場/米沢セントラル劇場/国際劇場/米沢国際劇場/米沢シネマ旭
所在地 : 山形県米沢市門東町下の丁(1936年)、山形県米沢市門東町下ノ町(1941年)、山形県米沢市門東町(1943年)、山形県米沢市門東町(1950年)、山形県米沢市門東町3025(1953年・1955年・1958年)、山形県米沢市門東町下の町3025(1963年)、山形県米沢市門東町下ノ町3025(1966年・1967年)
開館年 : 1919年4月18日、1928年5月
閉館年 : 1967年
『全国映画館総覧 1954』によると1928年5月開館。『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「松岬劇場」。1941年の映画館名簿では「日活松岬映画劇場」。1943年の映画館名簿では「松岬映画劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「米沢セントラル劇場」。1953年・1954年の映画館名簿では「国際劇場」。1955年の映画館名簿では「国際劇場(休館中)」。1958年の映画館名簿では「米沢国際劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年の米沢市住宅明細地図分区図では「国際劇場」。1963年の映画館名簿では「米沢国際劇場」。1966年・1967年の映画館名簿では「米沢シネマ旭」。1967年の映画館名簿では経営者が宮崎合名社、支配人が鈴木大三郎、木造1階冷暖房付、定員390、洋画を上映。1967年の米沢市住宅明細図では「シネマ旭」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はボウリング場「米沢ボウリングレーンズ」。最寄駅はJR奥羽本線・米坂線米沢駅。

1917年5月22日には米沢大火が起こった。1919年4月18日、米沢市門東町に「松岬劇場」が落成し、市川玉三郎・市川団之助・市川幡谷一座によるこけら落としが行われた。1922年6月2日、松岬劇場が国活と契約して活動常設館となった。*12

1929年以前の米沢市の映画常設館としては立町に「遊楽館」があった。1929年には門東町下の「松岬劇場」が常設館となり、1932年には北堀端町に「常盤館」の新館が設立された。1939年7月には遊楽館で『愛染かつら』が上映され、連日超満員の大ヒットとなった。1939年には遊楽館で米沢市初のナイトショウが行われた。1942年に映画館に等級が付けられた際、遊楽館と「東宝映画館」(常盤館)は一流館、松岬劇場は二流館に指定され、封切日に差が付けられた。*13

1950年時点の米沢市にあった映画館は、「東宝映画劇場」、「松竹遊楽館」、「中央映画館」、「市民会館」、「セントラル劇場」(旧松岬劇場、後の国際劇場)、「よねざわ映画劇場」の6館である。人口の割に映画館数が多かったことから、1953年頃にはグリーンハウス(旧東宝映画劇場)、市民会館、国際劇場(旧セントラル劇場)の3館が休館した。その後、1957年には「米沢銀映」が開館し、1959年には国際劇場(後のシネマ旭)が営業再開し、1960年には「丸の内日活館」(旧グリーンハウス)が営業再開し、映画黄金期の米沢市の映画館数は6館であった。1964年には米沢銀映が閉館し、1967年にはシネマ旭が閉館し、1971年にはよねざわ映画劇場が閉館した。*14

1950年2月現在の米沢市には6館の映画館がある。北堀端町の「米沢東宝映画劇場」、門東町の「市民会館」、元細工町の「中央映画館」、門東町の「セントラル劇場」、立町の「遊楽館」、粡町の「米沢映画劇場」である。セントラル劇場は1946年6月に開館し、辻武蔵が経営している。*15

1953年2月1日、米沢市にある「東映」、「市民会館」、「グリーンハウス」の映画館3館が向こう3年間休館となった。米沢市は人口に対して映画館数が多すぎ、共倒れを防ぐためにこのような形となった。存続館は閉鎖館の営繕費や維持費を負担する。*16

米沢市中央1丁目には米沢ボウリングレーンズがある。この場所には1908年に米沢義社が建ち、1919年には米沢義社の跡地に芝居小屋「松岬劇場」が開館した。1920年6月には山形県初の労働組織である米沢労友会の発会式が開催された。1922年9月には憲政東北一道十県連合大会が開催され、加藤高明や河野広中らが演説した。1930年9月には左翼劇団の黎明座の旗揚げ公演が行われた。戦後には松岬劇場が映画館「セントラル劇場」となり、その後「国際劇場」、「シネマ旭」に改称した。1967年に映画館は閉館し、米沢ボウリングレーンズが開業した。*17
遊楽館/松竹遊楽館/米沢松竹遊楽館
所在地 : 山形県米沢市立町11(1925年)、山形県米沢市立町2478(1927年)、山形県米沢市立町(1930年・1934年・1936年)、山形県米沢市立町4280(1941年)、山形県米沢市立町(1943年・1947年・1950年)、山形県米沢市立町4274(1953年)、山形県米沢市立町4278(1955年・1958年・1960年・1963年)、山形県米沢市立町4276(1966年・1968年)
開館年 : 1917年2月4日、1937年7月
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1937年7月開館。1925年・1927年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「遊楽館」。1941年の映画館名簿では「松竹遊楽館」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿では「遊楽館」。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「松竹遊楽館」。1961年の米沢市住宅明細地図分区図では「有楽館」(※遊ではなく有は原文ママ)。1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「米沢松竹遊楽館」。1967年の映画館名簿では経営者が佐藤久一、支配人が小林徳次郎、木造2階冷暖房付、定員490、松竹・混合・洋画を上映。1967年の米沢市住宅明細図では「松竹遊楽館」(※住宅地図の精度が低いため正確な位置を判断できず)。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「山形証券米沢営業所」付近。最寄駅はJR奥羽本線・米坂線米沢駅。

1917年2月4日、米沢市立町の米沢英和女学校跡地に映画館「遊楽館」が開館した。*18

1929年以前の米沢市の映画常設館としては立町に「遊楽館」があった。1929年には門東町下の「松岬劇場」が常設館となり、1932年には北堀端町に「常盤館」の新館が設立された。1939年7月には遊楽館で『愛染かつら』が上映され、連日超満員の大ヒットとなった。1939年には遊楽館で米沢市初のナイトショウが行われた。1942年に映画館に等級が付けられた際、遊楽館と「東宝映画館」(常盤館)は一流館、松岬劇場は二流館に指定され、封切日に差が付けられた。*19

1941年の米沢市立町にあった映画館「遊楽館」の写真あり。桑野通子や田中絹代らが出演した松竹作品『女性の覚悟』ののぼりが見える。*20

1943年の米沢市にあった映画館の写真あり(※館名は記されていないが遊楽館)。松竹作品『日本の母』の看板が見える。*21

1950年時点の米沢市にあった映画館は、「東宝映画劇場」、「松竹遊楽館」、「中央映画館」、「市民会館」、「セントラル劇場」(旧松岬劇場、後の国際劇場)、「よねざわ映画劇場」の6館である。*22

1950年2月現在の米沢市には6館の映画館がある。北堀端町の「米沢東宝映画劇場」、門東町の「市民会館」、元細工町の「中央映画館」、門東町の「セントラル劇場」、立町の「遊楽館」、粡町の「米沢映画劇場」である。遊楽館は1915年に株式会社で出発し、小林徳次郎が経営している。*23
スバル座/よねざわ映画劇場
所在地 : 山形県米沢市粡町3666(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1949年1月
閉館年 : 1971年
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「スバル座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「よねざわ映画劇場」。1961年の米沢市住宅明細地図分区図では「よねざわ映画館」。1967年の米沢市住宅明細図では「よねげき」。1969年の映画館名簿では経営者が宮崎合名社、支配人が田中善美、鉄筋造2階冷暖房付、定員350、東宝・東映・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大清プロショップ西店」南隣の大清駐車場。最寄駅はJR奥羽本線・米坂線米沢駅。

1949年1月、米沢市粡町に「よねざわ映画劇場」が開館した。経営は宮崎合名会社。1915年に開館した立町の「遊楽館」、1917年に開館した北堀端町の「米沢東宝劇場」、1946年に開館した門東町下の「セントラル劇場」、1946年に開館した元細工町の「中央映画館」、1948年に開館した門東町下の「市民会館」と合わせ、米沢市の映画館は6館となった。*24

1950年時点の米沢市にあった映画館は、「東宝映画劇場」、「松竹遊楽館」、「中央映画館」、「市民会館」、「セントラル劇場」(旧松岬劇場、後の国際劇場)、「よねざわ映画劇場」の6館である。1964年には米沢銀映が閉館し、1967年にはシネマ旭が閉館し、1971年にはよねざわ映画劇場が閉館した。*25

1950年2月現在の米沢市には6館の映画館がある。北堀端町の「米沢東宝映画劇場」、門東町の「市民会館」、元細工町の「中央映画館」、門東町の「セントラル劇場」、立町の「遊楽館」、粡町の「米沢映画劇場」である。米沢映画劇場は1946年1月に開館し、山形市の宮崎合名会社が経営している。*26
中央映画館/米沢大映中央劇場/米沢大映中央映画館/米沢中央劇場/米沢中央館/米沢中央映画館/米沢中央映画館・米沢テアトル中央
所在地 : 山形県米沢市元細工町3331(1950年・1953年・1955年)、山形県米沢市元細工町333(1958年)、山形県米沢市元細工町3332(1960年)、山形県米沢市元細工町3331(1963年)、山形県米沢市中央1-13-14(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1985年)
開館年 : 1946年6月
閉館年 : 1986年3月頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年6月開館。1950年の映画館名簿では「米沢中央映画館」。1953年・1955年の映画館名簿では「中央映画館」。1958年の映画館名簿では「米沢中央映画館」。1960年の映画館名簿では「中央映画館」。1961年の米沢市住宅明細地図分区図では「中央映画館」。1963年の映画館名簿では「米沢大映中央劇場」。1966年の映画館名簿では「米沢大映中央映画館」。1967年の米沢市住宅明細図では「大映中央館」。1969年・1973年の映画館名簿では「米沢中央映画館」。1969年の映画館名簿では経営者が桑原きく、支配人が神山泉、鉄筋造2階冷暖房付、定員440、松竹・大映・洋画・成人映画を上映。1975年の映画館名簿では「米沢中央劇場」。1976年の米沢市住宅明細地図では「中央映画」。1978年の映画館名簿では「米沢中央館」。1980年の映画館名簿では「米沢中央映画館」。1982年・1985年・1986年の映画館名簿では「米沢中央映画館・米沢テアトル中央」(2館)。1986年の映画館名簿では経営会社が有限会社米沢中央映画館、経営者・支配人ともに桑原正義、いずれも鉄筋造1階、中央映画館が200席で邦画を上映、テアトル中央が100席でにっかつ・成人映画を上映。1987年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1987年竣工の「米沢中央マンション」。最寄駅はJR奥羽本線・米坂線米沢駅。

1950年2月現在の米沢市には6館の映画館がある。北堀端町の「米沢東宝映画劇場」、門東町の「市民会館」、元細工町の「中央映画館」、門東町の「セントラル劇場」、立町の「遊楽館」、粡町の「米沢映画劇場」である。中央映画館は1946年6月に開館し、桑原徳英智が経営している。*27

1960年11月2日、米沢市細工町の「米沢中央映画館」を大映が賃借し、大映直営館となって「米沢大映」に改称した。*28

1965年11月、大映直営館「米沢大映」が大映との賃借契約を解約された。*29

1950年時点の米沢市にあった映画館は、「東宝映画劇場」、「松竹遊楽館」、「中央映画館」、「市民会館」、「セントラル劇場」(旧松岬劇場、後の国際劇場)、「よねざわ映画劇場」の6館である。*30

1981年4月16日の『山形新聞』朝刊には、米沢市の映画館(※名称不明)に小劇場が開設されるという記事が掲載されている。現物は未確認。*31

1986年3月26日の『米沢新聞』朝刊には、米沢市の映画館(※名称不明)が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*32
米沢東宝映劇/米沢東宝映画劇場/東宝映画劇場/米沢グリンハウス/米沢丸の内日活/米沢丸ノ内日活/米沢丸ノ内映画劇場・米沢丸ノ内小劇場
所在地 : 山形県米沢市公園前(1941年)、山形県米沢市北堀端町(1943年・1947年)、山形県米沢市北堀端町3103(1950年・1953年・1954年)、山形県米沢市北堀端町(1955年・1957年)、山形県米沢市北堀端町3103(1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年)、山形県米沢市丸ノ内1-6-26(1982年・1985年・1988年)
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1988年9月
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「米沢東宝映画劇場」。1943年・1947年の映画館名簿では「米沢東宝映劇」。1950年の映画館名簿では「米沢東宝映画劇場」。1953年・1954年の映画館名簿では「東宝映画劇場」。1954年の映画館名簿では経営者・支配人ともに小林徳次郎、木造1階暖房付、定員450、東宝・TYを上映。1955年の映画館名簿では「米沢グリン・ハウス(休館中)」。1957年の映画館名簿では「米沢グリンハウス」。1958年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年の米沢市住宅明細地図分区図では「丸ノ内日活」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「米沢丸の内日活」。1969年の映画館名簿では経営者が小林徳次郎、支配人が小林徳男、鉄筋造2階冷暖房付、定員450、日活・洋画を上映。1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「米沢丸ノ内日活」。1976年の米沢市住宅明細地図では「丸の内日活」。1982年・1985年の映画館名簿では「米沢丸ノ内映画劇場・米沢丸ノ内小劇場」(2館)。1988年の映画館名簿では「米沢丸ノ内劇場・米沢丸ノ内小劇場」(2館)。1988年の映画館名簿では経営会社が有限会社丸ノ内映画劇場、経営者・支配人ともに小林徳勇、丸ノ内劇場が鉄筋造1階で416席で邦画・洋画を上映、小劇場が鉄筋造2階で45席で邦画・洋画・成人映画を上映。1989年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は精肉店「米澤紀伊國屋」。

1950年時点の米沢市にあった映画館は、「東宝映画劇場」、「松竹遊楽館」、「中央映画館」、「市民会館」、「セントラル劇場」(旧松岬劇場、後の国際劇場)、「よねざわ映画劇場」の6館である。人口の割に映画館数が多かったことから、1953年頃にはグリーンハウス(旧東宝映画劇場)、市民会館、国際劇場(旧セントラル劇場)の3館が休館した。その後、1957年には「米沢銀映」が開館し、1959年には国際劇場(後のシネマ旭)が営業再開し、1960年には「丸の内日活館」(旧グリーンハウス)が営業再開し、映画黄金期の米沢市の映画館数は6館であった。1964年には米沢銀映が閉館し、1967年にはシネマ旭が閉館し、1971年にはよねざわ映画劇場が閉館した。その後、遊楽館と中央映画館も閉館し、1988年9月に丸の内映画劇場(旧丸の内日活館)が閉館したことで、米沢市に映画館がなくなった。*33

1950年2月現在の米沢市には6館の映画館がある。北堀端町の「米沢東宝映画劇場」、門東町の「市民会館」、元細工町の「中央映画館」、門東町の「セントラル劇場」、立町の「遊楽館」、粡町の「米沢映画劇場」である。米沢東宝映画劇場は1917年に先代小林徳次郎が創業し、1950年現在は酒田市の佐藤久吉が経営している。*34

1953年2月1日、米沢市にある「東映」、「市民会館」、「グリーンハウス」の映画館3館が向こう3年間休館となった。米沢市は人口に対して映画館数が多すぎ、共倒れを防ぐためにこのような形となった。存続館は閉鎖館の営繕費や維持費を負担する。*35

1957年2月14日、米沢市北堀端町の「グリーン・ハウス」が全焼した。原因は不明。*36

1957年2月14日、米沢市北堀端町の映画館「グリーンハウス」が全焼した。*37

1957年2月14日、米沢市北堀端町の映画館「グリーンハウス」から出火して全焼した。*38

1960年5月24日、米沢市に映画館「丸の内日活」が新設された。1957年に焼失したグリーンハウスの後継である。*39

小林徳次郎。1917年に米沢市北堀端町(現・丸の内2丁目)に生まれ、34歳で米沢市議会議員に初当選すると、7回当選して米沢市議会議長も務めた。1979年に市議会議長や市議会議員を退任した。教育文化功労者。藍綬褒章。*40

1981年4月16日の『山形新聞』朝刊には、米沢市の映画館(※名称不明)に小劇場が開設されるという記事が掲載されている。現物は未確認。*41

1988年9月11日の『朝日新聞』朝刊には、米沢市最後の映画館「丸の内劇場」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。1988年9月11日『毎日新聞』朝刊、1988年9月13日『河北新報』朝刊、1988年9月13日『米沢新聞』朝刊、1988年9月14日『読売新聞』朝刊、1988年9月15日『産経新聞』朝刊にも類似の記事が掲載されている。*42
ワーナー・マイカル・シネマズ米沢/イオンシネマ米沢
所在地 : 山形県米沢市中央7-1-12(2000年・2005年・2010年)、山形県米沢市中央7-1-12 イオン米沢店向い(2015年・2020年)
開館年 : 1998年12月5日
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「ワーナー・マイカル・シネマズ米沢1-7」(7館)。2015年・2020年の映画館名簿では「イオンシネマ米沢1-7」(7館)。最寄駅はJR奥羽本線・米坂線米沢駅。

1998年12月5日、米沢市中央7丁目に7スクリーンのシネコン「ワーナー・マイカル・シネマズ米沢」が開館する。米沢サティの南側。鉄筋造3階建て、延べ床面積約2800平方メートル。現在の米沢市には映画館がなく、10年ぶりに復活する。ワーナー・マイカル・シネマズ系列のシネコンは東北地方では2サイト目であり、全国では20サイト目である。*43

1998年12月15日、米沢市中央7-1ー12 米沢サティ向かいに「ワーナー・マイカル・シネマズ米沢」が開館した。7スクリーンを有する。*44

コメントをかく


利用規約をご確認のうえご記入下さい

Menu

目次

管理人/副管理人のみ編集できます