日本の映画館の総合データベースです。



福岡市

福岡市は福岡市の映画館を参照。

北九州市

北九州市は北九州市の映画館を参照。

久留米市

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飯塚市

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大牟田市

大牟田市は大牟田市の映画館を参照。

田川市

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福岡地域

筑紫野市

温泉映劇/二日市東映劇場/二日市東映
所在地 : 福岡県筑紫郡二日市町次田871-4(1955年)、福岡県筑紫郡筑紫野町二日市(1958年)、福岡県筑紫郡筑紫野町次田87(1960年)、福岡県筑紫郡筑紫野町二日市次田町(1963年)
開館年 : 1953年3月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年3月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「温泉映劇」。1958年の映画館名簿では「二日市東映劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「二日市東映」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
二日市キネマ/二日市シネマ
所在地 : 福岡県筑紫郡二日市町駅前(1936年)、福岡県筑紫郡二日市町1023-1(1941年)、福岡県筑紫郡二日市町(1943年・1947年・1950年)、福岡県筑紫郡二日市町天神1023(1953年)、福岡県筑紫郡二日市町1023-1(1955年)、福岡県筑紫郡筑紫野町二日市(1958年・1960年)、福岡県筑紫郡筑紫野町栄町(1963年・1966年)、福岡県筑紫郡筑紫野町二日市(1969年)、福岡県筑紫野市二日市町(1973年)、福岡県筑紫野市二日市町1023-1(1980年・1985年・1986年・1987年)
開館年 : 1935年4月
閉館年 : 1988年8月
『全国映画館総覧 1955』によると1935年4月開館。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「二日市キネマ」。1969年・1973年・1980年・1985年・1986年・1987年の映画館名簿では「二日市シネマ」。1982年の住宅地図では「久栄ビル 二日市キネマ」。1986年の映画館名簿では経営者が久野次男、支配人が西村智明、鉄筋造1階、276席、邦画・洋画を上映。1988年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1989年竣工のアパート「サンアメニティ」。最寄駅はJR鹿児島本線二日市駅。

1935年の二日市町における「二日市キネマ」の落成記念写真あり。1935年5月4日、朝倉軌道の用地に開館した。2階建、収容人員1500人。総工費は1万円。最盛期には映写技師4人と看板職人がいた。1988年8月、53年の歴史に幕を閉じた。2010年現在の跡地の写真あり。*1
筑紫野とうきゅうシネマ1・2
所在地 : 福岡県筑紫野市美しが丘南1-12-1(1994年・1995年・2000年・2005年・2006年)
開館年 : 1993年5月18日
閉館年 : 2006年頃
1993年の映画館名簿には掲載されていない。1994年・1995年・2000年・2005年・2006年の映画館名簿では「筑紫野とうきゅうシネマ1・2」(2館)。1994年の映画館名簿では経営会社が筑紫野とうきゅうショッピングセンター、経営者が古賀靖人、支配人が記載なし、いずれも鉄筋造地階、92席・133席、いずれも邦画・洋画を上映。2005年の映画館名簿では経営会社がマインズ、経営者が高橋一郎、支配人が榎本隆廣、いずれも鉄筋造地階、92席・133席、いずれも邦画・洋画を上映。2007年の映画館名簿には掲載されていない。筑紫野とうきゅう内。ビデオシアター。建物の筑紫野とうきゅうは「筑紫野ベレッサ」として現存。最寄駅はJR鹿児島本線原田駅。

春日市

映画館名簿によると春日市に映画館は存在しなかったと思われる。

大野城市

春日原映劇/春日映劇
所在地 : 福岡県筑紫郡大野町春日原(1953年)、福岡県筑紫郡大野町春日原(1955年)、福岡県筑紫郡大野町下筒井(1958年)、福岡県筑紫郡大野町860-2(1960年)、福岡県筑紫郡大野町(1961年)
開館年 : 1951年3月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年3月開館。1953年の映画館名簿では「春日原映劇」。1955年の映画館名簿では「春日映劇」。1958年の映画館名簿では「春日映画劇場」。1960年・1961年の映画館名簿では「春日映劇」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
ドリームシアター/下大利ドリームシアター
所在地 : 福岡県大野城市下大利1-9-30(1988年・1990年)、福岡県大野城市下大利1-21-1(1992年・1994年)
開館年 : 1987年4月10日
閉館年 : 1994年頃
1987年の映画館名簿には掲載されていない。1988年・1990年の映画館名簿では「ドリームシアター」。1992年・1994年の映画館名簿では「下大利ドリームシアター」。1992年の映画館名簿では経営会社がえびす協同組合、経営者が山崎雅弘、鉄筋造2階、88席、邦画・特選を上映。1995年の映画館名簿には掲載されていない。下大利えびすショッピングセンター内。ビデオシアター。建物は「イオン下大利店」として現存。最寄駅はJR鹿児島本線水城駅。
ワーナー・マイカル・シネマズ大野城/イオンシネマ大野城
所在地 : 福岡県大野城市錦町大野城サティ内(2000年・2005年)、福岡県大野城市錦町4-1-1 大野城サティ4階(2010年)、福岡県大野城市錦町4-1-1 イオン大野城4階(2015年・2020年)
開館年 : 1998年11月12日
閉館年 : 営業中
1998年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「ワーナーマイカルシネマズ大野城1-8」(8館)。2015年・2020年の映画館名簿では「イオンシネマ大野城1-8」(8館)。最寄駅は西鉄天神大牟田線春日原駅。

1977年9月23日、大野城市錦町4丁目1番の博多織工場群跡地にニチイの大型店舗が開店した。1998年11月12日、店舗を拡張して百貨店に近い売り場づくりを行い、サティ大野城店としてリニューアルした。この際には8スクリーンを有する映画館も開館している。*2

1998年11月17日、大野城市の大野城サティに「ワーナー・マイカル・シネマズ大野城」が開館した。8スクリーンを有する。*3

宗像市

東宝館
所在地 : 福岡県宗像郡東郷町(1941年・1943年)
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年の映画館名簿では「東宝館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
泉座映劇/泉座
所在地 : 福岡県宗像郡宗像町東郷(1955年)、福岡県宗像郡宗像町東郷町505(1958年)、福岡県宗像郡宗像町大字東郷(1960年)、福岡県宗像郡宗像町(1963年)
開館年 : 1945年1月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1945年1月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年の映画館名簿では「泉座」。1960年の映画館名簿では「泉座映劇」。1963年の映画館名簿では「泉座」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
大和座
所在地 : 福岡県宗像郡岬村鐘町(1955年)、福岡県宗像郡玄海町大字鐘崎530(1960年)、福岡県宗像郡玄海町(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「大和座」。1956年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「大和座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
司座/司映画劇場
所在地 : 福岡県宗像郡赤間町(1952年・1953年・1955年)、福岡県宗像郡宗像町赤間町(1958年)、福岡県宗像郡宗像町赤間(1960年)、福岡県宗像郡宗像町(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「司座」。1964年・1965年の映画館名簿では「司映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
東郷センター映劇/中央映劇/東郷中央映画劇場
所在地 : 福岡県宗像郡宗像町(1957年・1958年・1963年)、福岡県宗像郡宗像町東郷(1966年・1968年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1968年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「東郷センター映劇」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「中央映劇」。1966年・1968年の映画館名簿では「東郷中央映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

太宰府市

太宰府映画劇場/太宰府映劇/太宰府東映
所在地 : 福岡県筑紫郡太宰府町(1956年・1958年)、福岡県筑紫郡太宰府町2364(1960年)、福岡県筑紫郡太宰府町(1963年・1964年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1964年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「太宰府映劇」。1958年の映画館名簿では「太宰府映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「太宰府映劇」。1964年の映画館名簿では「太宰府東映」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

1955年頃、太宰府町新町のスター理容の隣接地に「太宰府映劇」が開館した。テレビの普及によって観客が減少し、やがて経営者は他地域に転居した。*4

古賀市

古賀富士館
昭和30年代の古賀町にあった「古賀富士館」の開館時の写真あり。『居酒屋』と『海底二万浬』の看板が見える。*5
古賀旭映劇
所在地 : 福岡県糟屋郡古賀町748(1953年・1955年)、福岡県糟屋郡古賀町847(1958年)、福岡県糟屋郡古賀町748(1960年)、福岡県糟屋郡古賀町(1963年)
開館年 : 1950年1月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年1月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「古賀旭映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
古賀東映/古賀東映劇場
所在地 : 福岡県糟屋郡古賀町748(1960年)、福岡県糟屋郡古賀町(1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1958年
閉館年 : 1969年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「古賀東映」。1966年・1969年の映画館名簿では「古賀東映劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は古賀駅西口南西180mにある駐車場「天神セントラルパーキング」。最寄駅はJR鹿児島本線古賀駅。

1958年の古賀町にあった「古賀東映劇場」の写真あり。「古賀東映劇場」「特別興行」の文字が見える。古賀町初の映画館である。その後古賀市には2館増えたが、やがて閉館した。*6

1958年の古賀町にあった「古賀東映劇場」の写真あり。花輪が見えるため会館当日と思われる。駅通り商店街(現・新町商店街)から横道に入った場所にあり、2010年現在の跡地は駐車場となっている。*7
サンリブシアター古賀
所在地 : 福岡県糟屋郡古賀町大字古賀1250(1995年)、福岡県古賀市天神2-5-1(2000年・2001年)
開館年 : 1994年9月15日
閉館年 : 2001年頃
1990年の映画館名簿には掲載されていない。1995年・2000年・2001年の映画館名簿では「サンリブシアター古賀」。2002年の映画館名簿には掲載されていない。サンリブ古賀店2階。ビデオシアター。建物の「サンリブ古賀」は現存。最寄駅はJR鹿児島本線古賀駅。

1994年9月15日、糟屋郡古賀町古賀のスーパーマーケットであるサンリブ古賀店2階にビデオシアターが開館した。座席数は88席。子供連れの買い物客を対象とし、店休日以外は毎日上映する。35ミリフィルムの映画館とは異なり、ビデオカセットとプロジェクターを使用する。9月15日から10月21日まではアニメ映画『平成狸合戦ぽんぽこ』が上映される。日曜・祝日は一日4階、平日・土曜は一日3回上映する。大人1700円、高校生1400円、中学生1200円、小学生1000円、幼稚園900円。全国各地のショッピングセンターなどでビデオシアターの開館が相次いでおり、九州では熊本市や福岡県筑紫野市に開館している。*8

福津市

福新座
所在地 : 福岡県宗像郡福間町(1955年)、福岡県宗像郡福間町4741(1958年)、福岡県宗像郡福間町4147(1960年)、福岡県宗像郡福間町4741(1961年)、福岡県宗像郡福間町(1962年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「福新座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
エンゼル館/福間東映
所在地 : 福岡県宗像郡福間町(1956年・1958年)、福岡県宗像郡福間町大字大和(1960年)、福岡県宗像郡福間町(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年の映画館名簿では「エンゼル館」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「福間東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
恵比須座/津屋崎映劇
所在地 : 福岡県宗像郡津屋崎町(1953年)、福岡県宗像郡津屋崎町津屋崎(1955年)、福岡県宗像郡津屋崎町3200(1958年)、福岡県宗像郡津屋崎町大字津屋崎(1960年)、福岡県宗像郡津屋崎町(1963年・1964年)
開館年 : 大正時代
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「恵比須座」。1963年・1964年の映画館名簿では「津屋崎映劇」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
TOHOシネマズ福津
所在地 : 福岡県福津市日蒔野6-16-1 イオンモール福津3階(2015年・2020年)
開館年 : 2012年4月26日
閉館年 : 営業中
2012年の映画館名簿には掲載されていない。2015年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズ福津1-10」(10館)。最寄駅はJR鹿児島本線福間駅。

朝倉市

昭和館/昭和キネマ
所在地 : 福岡県朝倉郡甘木町(1934年・1936年・1941年)
開館年 : 1930年以後1934年以前
閉館年 : 1941年以後1943年以前
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年の映画館名簿では「昭和館」。1936年・1941年の映画館名簿では「昭和キネマ」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。
秋月劇場
所在地 : 福岡県朝倉郡秋月町(1953年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1953年以後1955年以前
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「秋月劇場」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。
比良松劇場
所在地 : 福岡県朝倉郡宮野村(1953年・1955年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1955年以後1958年以前
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「比良松劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。
恵比須座/エビス映劇/甘木センター映劇
所在地 : 福岡県甘木市(1955年)、福岡県甘木市三福町(1956年・1957年・1958年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「恵比須座」。1956年・1957年の映画館名簿では「エビス映劇」。1958年の映画館名簿では「甘木センター映劇」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。

昭和30年代の甘木市には、甘木に「朝日座」(東映)や「甘木映画劇場」、馬場町に「昭和キネマ」(※1981年現在のフードセンター)や「ニュー富士」(現在の甘木公楽)、三福町に「えびす座」と、5館の映画館があった。*9
甘木松竹/甘木東宝
所在地 : 福岡県甘木市大字甘木(1960年)、福岡県甘木市馬場町(1961年・1962年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1962年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「甘木松竹」。1961年・1962年の映画館名簿では「甘木東宝」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
杷木映画劇場/杷木映劇
所在地 : 福岡県朝倉郡杷木町648(1955年)、福岡県朝倉郡杷木町(1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1952年8月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「杷木映画劇場」。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「杷木映劇」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
新天映画劇場/新天大映
所在地 : 福岡県甘木市馬場町1798(1957年・1958年)、福岡県甘木市高原町1798(1960年)、福岡県甘木市高原町(1962年)、福岡県甘木市甘木(1963年・1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「新天映画劇場」。1960年・1962年・1963年・1965年の映画館名簿では「新天大映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
七福館/杷木七福館
所在地 : 福岡県朝倉郡杷木町(1936年・1943年・1950年・1955年)、福岡県朝倉郡杷木町758(1958年)、福岡県朝倉郡杷木町(1960年・1963年・1966年・1968年)
開館年 : 1930年12月
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1930年12月開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1943年・1950年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「七福館」。1966年・1968年の映画館名簿では「杷木七福館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
富士館/甘木日活公楽/甘木日活公楽劇場
所在地 : 福岡県朝倉郡甘木町(1943年・1950年)、福岡県甘木市馬場町(1955年)、福岡県甘木市馬場町732(1958年)、福岡県甘木市大字甘木736(1960年)、福岡県甘木市馬場町(1962年)、福岡県甘木市甘木(1963年)、福岡県甘木市馬場町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1941年以後1943年以前、1952年3月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年3月開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1950年・1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「富士館」。1963年の映画館名簿では「甘木日活公楽」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「甘木日活公楽劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1953年の甘木市にあった映画館「甘木富士館」の写真あり。1952年に開館し、当初は洋画の上映が主だったが、やがて洋画と邦画を交互に上映するようになった。*10

1955年の甘木市にあった「甘木ニュー富士館」の写真あり。1954年に洋画専門館として開館した。全盛期の甘木市には5館の映画館があったが、テレビが普及すると観客も減少し、昭和後期には5館とも閉館した。(※甘木ニュー富士館が映画館名簿のどの映画館に当たるのか不明)*11
甘木東映劇場/甘木東映/甘木映画劇場
所在地 : 福岡県朝倉郡甘木町(1943年・1950年)、福岡県甘木市甘木1158(1955年)、福岡県甘木市三福町(1958年)、福岡県甘木市甘木町(1960年)、福岡県甘木市三福町(1962年)、福岡県甘木市甘木(1963年)、福岡県甘木市三福町1158(1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1941年以後1943年以前
閉館年 : 1975年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1950年・1955年の映画館名簿では「甘木映画劇場」。1958年の映画館名簿では「甘木東映劇場」。1960年・1962年・1963年の映画館名簿では「甘木東映」。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「甘木映画劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。

1953年の甘木市にあった「甘木映画劇場」の写真あり。丸くなった建物の角に「甘木映画劇場」の文字が見える。1930年に馬場町に建設されたが、1939年10月に焼失した。その後再建された。*12

昭和30年代の甘木市には、甘木に「朝日座」(東映)や「甘木映画劇場」、馬場町に「昭和キネマ」(※1981年現在のフードセンター)や「ニュー富士」(現在の甘木公楽)、三福町に「えびす座」と、5館の映画館があった。*13
ニュー富士/甘木名画座/名画座/甘木東宝公楽/甘木東宝公楽劇場/甘木公楽劇場
所在地 : 福岡県甘木市馬場町732(1957年・1958年)、福岡県甘木市大字甘木(1960年)、福岡県甘木市三福町(1962年)、福岡県甘木市甘木(1963年)、福岡県甘木市馬場町732(1966年・1969年・1985年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1985年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「ニュー富士」。1958年の映画館名簿では「甘木名画座」。1960年・1962年の映画館名簿では「名画座」。1963年の映画館名簿では「甘木東宝公楽」。1966年・1969年の映画館名簿では「甘木東宝公楽劇場」。1981年の住宅地図では「公楽」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。朝倉市最後の映画館。跡地はマンション「エディフィシオ甘木」。最寄駅は西鉄甘木線甘木駅。

昭和30年代の甘木市には、甘木に「朝日座」(東映)や「甘木映画劇場」、馬場町に「昭和キネマ」(※1981年現在のフードセンター)や「ニュー富士」(現在の甘木公楽)、三福町に「えびす座」と、5館の映画館があった。*14

糸島市

福栄館
所在地 : 福岡県糸島郡福吉村吉井4087(1955年)、福岡県糸島郡二丈村吉井(1958年)
開館年 : 1951年2月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年2月開館。1955年・1958年の映画館名簿では「福栄館」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
新生館/新生映劇
所在地 : 福岡県糸島郡福吉村字吉井(1955年)、福岡県糸島郡二丈村(1963年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「新生館」。1958年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「新生映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
旭座/旭屋映劇
所在地 : 福岡県糸島郡周船寺村(1956年・1958年)、福岡県糸島郡周船寺村306(1960年)、福岡県糸島郡周船寺町(1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年の映画館名簿では「旭座」。1960年・1963年の映画館名簿では「旭屋映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
福吉映劇
所在地 : 福岡県糸島郡二丈村福吉(1958年・1960年)、福岡県糸島郡二丈村(1963年・1964年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1964年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「福吉映劇」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
太陽映劇/前原東映・太陽映劇/前原東映・前原太陽/前原太陽映画劇場
所在地 : 福岡県糸島郡前原町1204(1956年・1957年・1958年・1960年)、福岡県糸島郡前原町(1963年)、福岡県糸島郡前原町1204(1966年・1967年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1967年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「太陽映劇」。1957年・1958年の映画館名簿では「前原東映・太陽映劇」(2館)。1960年・1963年の映画館名簿では「前原東映・前原太陽」(2館)。1966年・1967年の映画館名簿では「前原太陽映画劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。

1956年2月21日、前原町の「太陽映劇」が類焼によって全焼した。*15
日の出館/日之出館/日之出映劇/日之出映画劇場/前原日之出館
所在地 : 福岡県糸島郡前原町(1930年・1934年)、福岡県糸島郡前原町204-3(1936年・1941年)、福岡県糸島郡前原町前原(1943年)、福岡県糸島郡前原町(1950年)、福岡県糸島郡前原町大字前原(1958年)、福岡県糸島郡前原町204(1960年)、福岡県糸島郡前原町(1963年)、福岡県糸島郡前原町201-3(1966年・1969年・1980年)
開館年 : 1925年
閉館年 : 1980年
1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「日の出館」。1950年の映画館名簿では「日之出館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「日之出館」。1960年の映画館名簿では「日之出映劇」。1963年の映画館名簿では「日之出館」。1966年・1969年の映画館名簿では「前原日之出映画劇場」。1981年の住宅地図では発見できず。1982年の映画館名簿には掲載されていない。

1926年、前原町に株式組織で「日之出館」が建設された。1975年現在の常務取締役は吉浦嘉平。定員は階上が131人、階下が140人。*16

1925年には前原町に常設活動写真館「日の出館」が開館し、1960年頃の糸島郡には7館の映画館があった。戦後には糸島郡の映画館が相次いで閉館し、1980年には日の出館も閉館した。2017年6月、糸島市立志摩歴史資料館で「懐かしき愛しの映画たちよ 糸島娯楽文化事情」が開催され、田浦真義が収集した映画ポスター280枚を核として、糸島地域の映画館の歴史、『海賊八幡船』のロケが行われた際の様子などが展示されている。*17

那珂川市

映画館名簿によると那珂川市に映画館は存在しなかったと思われる。

糟屋郡宇美町

子安座
所在地 : 福岡県糟屋郡宇美町4162(1953年)、福岡県糟屋郡宇美町4200(1955年)、福岡県糟屋郡宇美町宇美4200(1958年)、福岡県糟屋郡宇美町大字宇美(1959年)
開館年 : 1917年6月
閉館年 : 1959年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1917年6月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1959年の映画館名簿では「子安座」。1958年の映画館名簿では経営者が吉原雅一郎、支配人が記載なし、木造2階、定員854、邦画を上映。1960年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「宇美八幡宮保育園」。最寄駅はJR香椎線宇美駅。

宇美町議会議員や宇美町助役を務めた吉原源吾は、宇美映劇株式会社(※宇美映劇株式会社は映画館の宇美映劇とは異なると思われる)を設立して映画館経営にも関与していた。吉原源吾の息子の吉原雅一郎は宇美映劇株式会社のほかに、筑紫郡志免町に1館、筑紫郡古賀町に1館、筑紫郡大野町雑餉隈に3館、筑紫郡春日町春日原に1館の計7館を経営しており、福岡市近郊に吉原ブロックチェーンを築いている。*18

1897年初頭、福岡市博多の東中洲に芝居小屋「明治座」が建てられた。合掌造りの2階建であり、廻り舞台も有していた。座席数は1200あり、九州一の規模の芝居小屋とされた。川上音二郎と川上貞奴、市川左団次など、人気の一座の興行には約2000人が集まった。1917年、神武五郎や高場佐六らによって明治座が宇美町に移築されて「子安座」となった。芝居の興行に加えて映画も上映していた。炭鉱の閉山やテレビの普及などが理由で、1957年に建物が解体された。柱や瓦などは宇美八幡宮保育園に転用された。*19

1917年、宇美町に「子安座」が開館した。1950年11月1日に開催された宇美町制施行30周年記念旗行列の写真あり。宇美八幡宮の裏手にあった子安座の看板が見える。1957年、子安座が閉館した。*20

1917年、福岡市博多の「明治座」が宇美町に移築され、後に「子安座」に改称された。1942年には千日座と子安座が経営統合されたが、その後も両劇場が併存した。1954年時点の宇美町にあった劇場は、定員854人の子安座と定員456人の千日座の2館である。年不明の子安座で行われた敬神婦人会主催の子供観覧券の写真あり。1957年には子安座が閉館し、解体時の部材は宇美八幡宮保育園に再利用された。*21
宇美映劇/相知会館
所在地 : 福岡県糟屋郡宇美町(1956年・1957年・1958年)、福岡県糟屋郡宇美町大字炭焼(1960年)、福岡県糟屋郡宇美町(1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年の映画館名簿では「宇美映劇」。1958年の映画館名簿では経営者が諸永宇平、支配人が記載なし、木造2階、定員200、邦画・洋画を上映。1960年・1963年の映画館名簿では「相知会館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

昭和40年代頃まで、宇美町大字炭焼には映画館「相知会館」があった。*22
第三永楽館/永楽館/千日座
所在地 : 福岡県糟屋郡宇美町(1930年・1934年)、福岡県糟屋郡宇美町宇美3176(1936年)、福岡県糟屋郡宇美町(1943年・1950年)、福岡県糟屋郡宇美町3716(1953年・1955年)、福岡県糟屋郡宇美町3617(1958年)、福岡県糟屋郡宇美町3716(1960年)、福岡県糟屋郡宇美町(1963年)
開館年 : 1920年10月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1920年10月開館。1930年の映画館名簿では「第三永楽館」。1934年の映画館名簿では「永楽館」。1936年・1943年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「千日座」。1958年の映画館名簿では経営者が吉原雅一郎、支配人が酒井義直、木造2階、定員456、邦画・洋画を上映。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「にしてつストア宇美店」建物南東部。最寄駅はJR香椎線宇美駅。

1929年2月11日の紀元節当日、嘉穂郡飯塚町上本町(樽屋町)に徳永幸一によって「永楽館」が開館した。永楽館は徳永商会の本拠地である。これによって既に嘉穂郡山田町にあった「永楽館」が「第二永楽館」に改称し、糟屋郡宇美町の「永楽館」が「第三永楽館」に改称した。*23

宇美町議会議員や宇美町助役を務めた吉原源吾は、宇美映劇株式会社(※宇美映劇株式会社は映画館の宇美映劇とは異なると思われる)を設立して映画館経営にも関与していた。吉原源吾の息子の吉原雅一郎は宇美映劇株式会社のほかに、筑紫郡志免町に1館、筑紫郡古賀町に1館、筑紫郡大野町雑餉隈に3館、筑紫郡春日町春日原に1館の計7館を経営しており、福岡市近郊に吉原ブロックチェーンを築いている。*24

昭和30年代の宇美町にあった「千日座映画館」の写真あり。2001年現在の寿屋の場所にあり、宇美駅に近かった。昭和40年代以後にはテレビやゲーム機などの影響で閉館する映画館が増えた。*25

1920年4月、宇美町に資本金3万5000円で宇美町活動写真株式会社が設立され、6月には映画館が完成した。設立者は藤木栄重、久野某、山崎春庵、医師の南里勝次、南里太作、村山万太郎らである。1925年から1926年頃には飯塚市の徳永某が経営者となって「永楽館」に改称した。その後吉原源吾が社長に就任して「千日座」に改称した。1942年には「子安座」と経営統合された。1965年5月に廃館となり、1975年現在の跡地は宇美ストアとなっている。*26

1920年4月、宇美町に宇美町活動写真株式会社が設立され、6月には映画館が開館した。後に「千日座」に改称した。千日座に貼られたジョン・フォード監督作『駅馬車』ポスターの写真あり。1941年の千日座の写真あり。1942年には千日座と子安座が経営統合されたが、その後も両劇場が併存した。1954年時点の宇美町にあった劇場は、定員854人の子安座と定員456人の千日座の2館である。千日座は志免町の「旭映画劇場」と映画フィルムを共有していた。1955年頃の千日座の写真あり。1965年5月には千日座が閉館して宇美ストアとなり、2020年現在の跡地はにしてつストア宇美店となっている。*27

1920年4月、宇美町に宇美町活動写真株式会社が設立され、6月には映画館が建設された。後の「千日座」である。1965年5月、千日座が閉館した。*28

1975年現在の宇美町にある上宇美商店街の写真あり。昔の千日座通りである。*29

糟屋郡篠栗町

富士館/昌和館
所在地 : 福岡県糟屋郡篠栗町4857(1941年)、福岡県糟屋郡篠栗町(1943年・1947年・1950年・1953年)、福岡県糟屋郡篠栗町4857(1955年・1958年・1960年)、福岡県糟屋郡篠栗町(1963年)
開館年 : 1933年、1947年8月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年8月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「富士館」。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「昌和館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1932年には篠栗町の県道が改修され、県道沿いにも町並みが発達した。1933年には360人を収容する「昭和館」(※昭は原文ママ)が開館し、1963年まで営業した。*30
信和館/信和会館
所在地 : 福岡県糟屋郡篠栗町(1950年)、福岡県糟屋郡勢門村大字田中416(1955年)、福岡県糟屋郡篠栗町大字田中(1960年)、福岡県糟屋郡篠栗町(1963年)
開館年 : 1946年4月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年4月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1955年の映画館名簿では「信和会館」。1960年の映画館名簿では「信和館」。1963年・1965年の映画館名簿では「信和会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

糟屋郡篠栗町の高田鉱業所の福利施設である「信和会館」。1934年8月建設。600人収容。*31

糟屋郡志免町

志免会館/志鉱会館
所在地 : 福岡県糟屋郡志免町五坑(1953年)、福岡県糟屋郡志免町(1955年)、福岡県糟屋郡志免町立花(1958年・1960年)、福岡県糟屋郡志免町(1963年・1965年)
開館年 : 1934年11月
閉館年 : 1964年6月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「志免会館」。1958年の映画館名簿では「志鉱会館」。1960年の映画館名簿では「志免会館」。1963年の映画館名簿では「志鉱会館」。1965年の映画館名簿では「志免会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1934年11月、志免町の志免鉱業所に「第五坑共済会館」が建てられ、講演、演劇、浪曲などの催しに用いられた。1950年12月1日には映画館化されて「志鉱会館」に改称し、1955年にはワイドスクリーンに張り替えられた。*32

1934年、志免町の志免鉱業所で創業45周年記念祭をするために「志鉱会館」が建てられた。収容人員約2000人。集会、講演、演芸などに用いられた。1950年には防音装置や映写幕を設置し、火曜以外は毎日映画を上映した。一般町民も志鉱会館に来館した。*33

1954年時点の志免町には「亀山劇場」(1935年開館、定員250人)、「旭映画劇場」(1936年開館、定員550人)、「志免会館」(定員650人)、「親和館」(定員300人)があった。*34

1934年、志免町の志免鉱業所に「五坑会館」が建てられた。講演会、集会、講習会などに用いられ、やがて映画上映会なども催されるようになった。1964年6月には志免鉱業所が閉山となり、閉山後には退職者の諸会合などに用いられていたが、1966年3月に解体された。*35
鵜亀療/亀山劇場/亀山映劇
所在地 : 福岡県糟屋郡志免町亀山本坑(1943年)、福岡県糟屋郡志免町別府亀山(1953年)、福岡県糟屋郡志免町別府(1955年)、福岡県糟屋郡志免町858(1958年)、福岡県糟屋郡志免町大字別府854(1960年)、福岡県糟屋郡志免町(1963年・1965年)
開館年 : 1935年6月
閉館年 : 1965年末
『全国映画館総覧 1955』によると1935年6月開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「鵜亀療」。1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「亀山劇場」。1958年の映画館名簿では「亀山映劇」。1960年の映画館名簿では「亀山劇場」。1963年・1965年の映画館名簿では「亀山映劇」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1954年時点の志免町には「亀山劇場」(1935年開館、定員250人)、「旭映画劇場」(1936年開館、定員550人)、「志免会館」(定員650人)、「親和館」(定員300人)があった。炭鉱で栄えた糟屋郡には多くの劇場や映画館があったが、炭鉱の閉山やテレビの普及に伴って閉館していった。*36

1937年頃、志免町別府中浦の「大弓場」と呼ばれる建物で芝居や浪花節などの公演が行われるようになった。戦後には「亀山劇場」という名前が付けられ、1950年には映画を上映するようになって「亀山映画劇場」に改称した。テレビの普及や交通環境の変化などが理由で観客が減少し、1965年末には自然廃業の状態となった。*37
末広座/旭映劇/志免旭映劇/志免旭映画劇場
所在地 : 福岡県糟屋郡志免町(1943年・1947年・1950年・1953年)、福岡県糟屋郡志免町上志免(1955年)、福岡県糟屋郡志免町(1958年)、福岡県糟屋郡志免町大字志免(1960年)、福岡県糟屋郡志免町(1963年・1965年・1966年)
開館年 : 1919年10月、1936年7月
閉館年 : 1966年7月
『全国映画館総覧 1955』によると1936年7月開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1950年の映画館名簿では「旭映画劇場」。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「旭映劇」。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「志免旭映劇」。1966年の映画館名簿では「志免旭映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。

1954年時点の志免町には「亀山劇場」(1935年開館、定員250人)、「旭映画劇場」(1936年開館、定員550人)、「志免会館」(定員650人)、「親和館」(定員300人)があった。旭映画劇場は宇美町の千日座と映画フィルムを共有していた。*38

1919年10月、志免町に三角千太郎、清原繁緑、山内市次郎によって「末広座」が開館し、演芸の興行などを行っていた。1937年には吉原源吾が経営者となって映画館化し、「旭映画劇場」に改称した。1966年7月に経営不振によって閉館すると、1967年2月1日には建物が大洋ストーアに転用された。*39
志免映劇
所在地 : 福岡県糟屋郡志免町南里455-4(1988年・1990年・1992年)
開館年 : 1984年12月
閉館年 : 1993年1月15日
1986年の映画館名簿には掲載されていない。1988年・1990年・1992年の映画館名簿では「志免映劇」。1988年の住宅地図では「志免映劇」。1992年の映画館名簿では経営者が八尋新、支配人が倉重正和、鉄筋造1階、132席、邦画・洋画を上映。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ドラッグストアモリ南里店」敷地北西部。最寄駅はJR福北ゆたか線原町駅。

1993年1月15日をもって、福岡県糟屋郡志免町南里の映画館「志免映劇」が閉館する。糟屋郡唯一の映画館だった。1984年に無類の映画好きだった八尋社長(75)が132席の映画館を開館させた。当初から経営は楽ではなかったが、近年はテレビビデオや衛星放送にも押されており、赤字経営となっていた。1994年3月には八尋社長の出身地である須恵町に文化会館が完成予定であり、映写機・スクリーン・音響装置などは文化会館に寄贈される予定。*40

1993年1月15日をもって、福岡県糟屋郡志免町(しめまち)の映画館「志免映劇」が閉館する。1984年12月に開館。132席。経営者の八尋新は故郷の須恵町に映写機やスクリーンや音響装置などの機材一式を寄贈する予定であり、須恵町は1994年開館を目指している文化会館に設置する予定である。*41

1993年1月15日をもって、福岡県糟屋郡志免町南里の映画館「志免映劇」が閉館した。糟屋郡唯一の映画館だった。経営は八尋新社長。1月16日と17日には無料の「さよなら映画会」を開催し、『ドラえもん』と『ドラゴンボールZ』を上映する。*42

糟屋郡須恵町

須恵劇場/須恵映劇
所在地 : 福岡県糟屋郡須恵町飛越(1955年)、福岡県糟屋郡須恵町(1958年)、福岡県糟屋郡須恵町大字飛越360(1960年)、福岡県糟屋郡須恵町(1963年・1965年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年の映画館名簿では「須恵映劇」。1960年の映画館名簿では「須恵劇場」。1963年・1965年の映画館名簿では「須恵映劇」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1954年時点の須恵町には「須恵映画劇場」(定員250人)があった。炭鉱で栄えた糟屋郡には多くの劇場や映画館があったが、炭鉱の閉山やテレビの普及に伴って閉館していった。*43

糟屋郡久山町

ヴァージンシネマズトリアス久山/TOHOシネマズトリアス久山/ユナイテッド・シネマトリアス久山
所在地 : 福岡県糟屋郡久山町大字山田1111(2000年)、福岡県糟屋郡久山町大字山田1044-2(2005年)、福岡県糟屋郡久山町大字山田1044-2 エンジョイタウントリアス内(2010年・2012年)、福岡県糟屋郡久山町大字山田1044-2 トリアス エンターテイメントプレイス(2015年・2020年)
開館年 : 1999年4月23日(VC)、2004年(TOHOシネマズ)、2013年3月1日(UC)
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年の映画館名簿では「ヴァージンシネマズトリアス久山1-14」(14館)。2005年・2010年・2012年の映画館名簿では「TOHOシネマズトリアス久山1-13・プレミアスクリーン」(14館)。2015年・2020年の映画館名簿では「ユナイテッド・シネマ トリアス久山1-12」(12館)。最寄駅はJR香椎線土井駅。

1999年4月23日、糟屋郡久山町大字山田1111に「ヴァージンシネマズトリアス久山」が開館した。14スクリーンを有する。料金2400円の94席のプレミアスクリーンがある。*44

2012年8月31日、糟屋郡久山町の複合商業施設トリアスにある映画館「TOHOシネマズトリアス久山」が閉館する。賃貸契約の満了や建物の老朽化が理由。1994年4月、ヴァージンシネマズの1号店として開館した。開館当初は14スクリーン計約2400席を有し、九州最大級の映画館だった。2004年には東宝がヴァージン・シネマズ・ジャパン社を買収したことで解消した。近年は観客数が落ち込んでいた。2012年3月末までの13年間の総観客数は約857万人。*45

2013年春、糟屋郡久山町の大型商業施設トリアスに映画館「ユナイテッド・シネマ」が開館する予定。2012年8月末に閉館した「TOHOシネマズ」を改装して開館する。スクリーン数は閉館前と同じ14スクリーンを予定している。ユナイテッド・シネマはキャナルシティ博多やホークスタウンモールなどに次いで九州5サイト目。*46

2013年3月1日、糟屋郡久山町の大型商業施設トリアスに映画館「ユナイテッド・シネマ トリアス久山」が開館する。2012年8月末に閉館した「TOHOシネマズ」を改装した。ユナイテッド・シネマとしては全国で初めて、通常シートより幅が20センチ広いビッグシート(幅75センチ)を全席に採用し、ペアシート(幅160センチ)やファミリーシート(幅220センチ)も備えた。座席数は12スクリーンで計1644席。*47

糟屋郡粕屋町

原町劇場/原町映劇/原町東映
所在地 : 福岡県糟屋郡粕屋町原町(1958年)、福岡県糟屋郡粕屋町原町204(1960年)、福岡県糟屋郡粕屋町(1963年・1964年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1964年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「原町映劇」。1960年の映画館名簿では「原町劇場」。1963年の映画館名簿では「原町映劇」。1964年の映画館名簿では「原町東映」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
ワーナー・マイカル・シネマズ福岡東
所在地 : 福岡県糟屋郡粕屋町大字仲原2574-1(2002年・2004年)
開館年 : 2000年12月8日
閉館年 : 2004年3月28日
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2002年・2004年の映画館名簿では「ワーナー・マイカル・シネマズ福岡東1-8」(8館)。2005年の映画館名簿には掲載されていない。福岡東サティ隣接地。後継施設はワーナー・マイカル・シネマズ福岡ルクル。最寄駅はJR香椎線柚須駅。

2000年12月8日、糟屋郡粕屋町大字仲原2574-1 福岡東サティに「ワーナー・マイカル・シネマズ福岡東」が開館した。8スクリーンを有する。*48
ワーナー・マイカル・シネマズ福岡ルクル/イオンシネマ福岡
所在地 : 福岡県糟屋郡粕屋町大字酒殿字老ノ木192-2064 ダイアモンドシティルクル2階(2005年)、福岡県糟屋郡粕屋町大字酒殿字老ノ木192-2064 イオンモール福岡ルクル2階(2010年)、福岡県糟屋郡粕屋町大字酒殿字老ノ木192-1-2064 イオンモール福岡2階(2015年・2020年)
開館年 : 2004年6月4日
閉館年 : 営業中
2004年の映画館名簿には掲載されていない。2005年・2010年の映画館名簿では「ワーナー・マイカル・シネマズ福岡ルクル1-9」(9館)。2015年・2020年の映画館名簿では「イオンシネマ福岡1-9」(9館)。最寄駅はJR香椎線酒殿駅。

糟屋郡新宮町

新宮劇場/新宮映劇
所在地 : 福岡県糟屋郡新宮村下府(1955年)、福岡県糟屋郡新宮町1086(1958年)、福岡県糟屋郡新宮町下府1086(1960年)、福岡県糟屋郡新宮町(1962年)
開館年 : 1953年10月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年10月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「新宮劇場」。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「新宮映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

朝倉郡筑前町

新町劇場
所在地 : 福岡県朝倉郡三輪村字依井506(1955年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1955年頃
1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「新町劇場」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。

朝倉郡東峰村

宝珠山劇場/宝珠山映劇
所在地 : 福岡県朝倉郡宝珠山村(1943年)、福岡県朝倉郡宝珠山村宝珠山(1955年)、福岡県朝倉郡宝珠山村(1963年・1964年)
開館年 : 1941年以後1943年以前、1946年4月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年4月開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「宝珠山劇場」。1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「宝珠山劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1964年の映画館名簿では「宝珠山映劇」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

北九州地域

行橋市

都座
所在地 : 福岡県京都郡行橋町(1936年)
開館年 : 1934年以後1936年以前
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「都座」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。

行橋町にあった株式会社都座の株券の写真あり。「金弐拾圓」の文字が見える。1880年、京都郡行事村出店(現・行橋市大橋3丁目14-16)に豊前国初の定席芝居小屋「大行舎」が建てられ、落語・人形浄瑠璃・政談演説などが行われたが、1924年に老朽化で閉鎖された。中町商店街の有志が劇場の再建を計画し、1926年には株式組織の新劇場「都座」が完成した。1株20円の2000株で株式総額4万円、建設費は3万8000円。1933年11月8日、原因不明の火災で都座は全焼し、2004年現在の跡地は駐車場となっている。*49
名画座
所在地 : 福岡県行橋市行橋町大字行橋(1956年)
開館年 : 1950年
閉館年 : 1956年2月10日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「名画座」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。

1956年2月10日午前6時20分頃、行橋市の駅前にある「名画座」の屋根裏付近から出火し、木造コンクリート3階建ての同館と隣接する4戸を焼いた。損害額は2000万円。経営者は角田国平。*50

1956年2月10日、行橋市の「名画座」が全焼した。原因は漏電。*51

1950年には行橋駅前のビルの3階に「名画座」が開館したが、1956年に焼失した。*52
京映館
所在地 : 福岡県京都郡行橋町神田町(1955年)、福岡県行橋市行橋町大橋町479(1958年)、福岡県行橋市大橋町479(1960年)、福岡県行橋市行橋町大正(1962年)
開館年 : 1952年6月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年6月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「京映館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1953年には行橋市神田町(現・中央3-9)に「京映館」が開館し、1958年に閉館した。*53
行橋映画劇場/行橋日活/行橋映劇
所在地 : 福岡県行橋市大正町481(1957年・1958年)、福岡県行橋市行橋大正町(1960年)、福岡県行橋市大橋(1963年)
開館年 : 1954年
閉館年 : 1961年
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「行橋映画劇場」。1960年の映画館名簿では「行橋日活」。1963年の映画館名簿では「行橋映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

行橋市大正町(現・中央3-7)には、1954年に「行橋映劇」として開館した映画館があった。後に「行橋日活」と改称し、1961年に閉館した。*54
祇園座/祇園東映/行橋東映
所在地 : 福岡県京都郡行橋町大橋(1955年)、福岡県京都郡行橋町大字大橋541(1956年)、福岡県行橋市行橋町大橋541(1958年)、福岡県行橋市行橋田町(1960年)、福岡県行橋市大橋(1963年)
開館年 : 1953年12月
閉館年 : 1962年
『全国映画館総覧 1955』によると1952年6月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「祇園座」。1956年の映画館名簿では「祇園東映」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「行橋東映」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

行橋市の駅前通り(現・中央3-1)には、1953年に「祇園座」として開館した映画館があった。「祇園東映」「行橋東映」と改称し、1962年に閉館した。*55
富士館
所在地 : 福岡県京都郡行橋町(1934年・1936年)、福岡県京都郡行橋町434(1941年)、福岡県京都郡行橋町(1943年)、福岡県京都郡行橋町宮市437(1953年)、福岡県京都郡行橋町宮市(1955年)、福岡県行橋市行橋町宮市(1958年)、福岡県行橋市行橋宮市434(1960年)、福岡県行橋市宮市(1963年)
開館年 : 1931年
閉館年 : 1964年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「富士館」。1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「富士館」。1960年の映画館名簿では経営会社が山英KK、支配人が山路英彦、木造2階、400席、松竹を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「福岡中央銀行行橋支店」西20mのアパート「グランメゾン」。最寄駅はJR日豊本線行橋駅。

1926年10月時点で、京都郡と築上郡の2郡にあった活動常設館は京都郡行橋町の「豊昇館」のみだった。1928年8月に全焼し、跡地には「富士館」が開館した。*56

時期不明の行橋町にあった「豊昇館」の館内の写真あり。行橋町初の活動写真館である。1981年現在の三原食堂と旅館新一力の場所に入口があり、現在の相互銀行の裏側まで映画館だった。1928年8月に全焼し、跡地には1931年に「富士館」が開館した。*57

昭和初期の行橋町宮市町(現・行橋市宮市町8-15)にあった行橋初の活動写真館「豊昇館」の写真あり。豊昇館は大正時代に開館したが、1928年8月に全焼し、1931年には富士館として生まれ変わった。1929年には魚町(現・宮市町8-21)に「旭館」も開館した。1964年には旭館と富士館が閉館し、跡地は相互ストアーとなった。旭館のみは西側に移って営業を続けたが、1975年に駐車場となった。*58

1936年の「京都郡全図と行橋町」には「旭館」と「富士館」が描かれている。*59

1955年に行橋市魚町の「富士館」が改築された際の写真あり。「富士館新築開創記念大興行」の文字が見える。畳敷きだった2階が椅子席に改められた。「旭館」の裏手にあった映画館である。*60

1955年の行橋市にあった「富士館」の写真あり。1931年に「豊昇館」跡地に開館し、2階は畳敷きだった。1955年の改装で2階席が椅子席に変わった。魚町の「旭館」の裏にあった。経営者は山路広作であり、旭館、富士館、駅前の「名画座」、田町の「祇園座」、大正町の「行橋映劇」の5館を経営していた。1981年の富士館跡地は旭館跡地とともにショッピングデパート相互となっている。*61

1928年の行橋にあった「豊昇館」の写真あり。豊昇館は行橋初の映画館である。1928年に全焼し、1931年に「富士館」として再建された。1963年に「旭館」が閉館したのと同じ頃、富士館も閉館した。*62

大正時代には行橋初の活動写真館として、宮市町8番15号に「豊昇館」が開館したが、1928年8月に全焼した。1929年、宮市町8番21号に「旭館」が開館した。1931年には豊昇館が「富士館」として生まれ変わっている。旭館と富士館はいずれも山路広作によって開館した映画館であり、1964年には富士館が閉館して相互ストアになった。この際には旭館が相互ストアの西側に写ったが、1975年2月に閉館して駐車場となった。*63
旭館(旧)
所在地 : 福岡県京都郡行橋町(1930年)、福岡県京都郡行橋町宮市(1934年・1936年)、福岡県京都郡行橋町434(1941年)、福岡県京都郡行橋町(1943年・1947年・1950年・1953年・1955年)、福岡県行橋市行橋町宮市434(1958年)、福岡県行橋市行橋宮市434(1960年)、福岡県行橋市宮市(1963年・1964年)
開館年 : 1929年
閉館年 : 1964年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「旭館」。1960年の映画館名簿では経営会社が山英KK、支配人が山路英彦、木造2階冷暖房付、定員650、大映・東宝を上映。1964年の映画館名簿では経営会社が守中熊太郎、支配人が記載なし、木造2階冷暖房付、定員681、邦画を上映。跡地は「福岡中央銀行行橋支店」北20mの民家。最寄駅はJR日豊本線行橋駅。

1929年の行橋町に開館した当時の「旭館」の写真あり。行橋初の活動写真館である「豊昇館」が焼失した後、田んぼだった場所に建てられた。昭和30年代前半まで、行橋には旭館、「富士館」、「京映館」、「名画座」、「祇園座」、「行橋映劇」、「栄館」の7館の映画館があった。1963年には旭館が閉館し、跡地にはビルが建ったが、1981年現在はショッピングデパート相互が建っている。1981年現在の行橋市にある映画館は「栄文化」のみである。*64

大正時代には行橋初の活動写真館として、宮市町8番15号に「豊昇館」が開館したが、1928年8月に全焼した。1929年、宮市町8番21号に「旭館」が開館した。1931年には豊昇館が「富士館」として生まれ変わっている。旭館と富士館はいずれも山路広作によって開館した映画館であり、1964年には富士館が閉館して相互ストアになった。この際には旭館が相互ストアの西側に写ったが、1975年2月に閉館して駐車場となった。*65

昭和初期の行橋町宮市町(現・行橋市宮市町8-15)にあった行橋初の活動写真館「豊昇館」の写真あり。豊昇館は大正時代に開館したが、1928年8月に全焼し、1931年には富士館として生まれ変わった。1929年には魚町(現・宮市町8-21)に「旭館」も開館した。1964年には旭館と富士館が閉館し、跡地は相互ストアーとなった。旭館のみは西側に移って営業を続けたが、1975年に駐車場となった。*66

1929年の行橋にあった「旭館」の写真あり。1929年に開館したが、1963年に閉館した。*67

1929年には松竹や大映の封切館である「旭館」が開館し、福岡や小倉に次いで新しい映画が上映された。うどん1杯30円の時代に映画の入場料は130円だった。1964年には「旭館」が閉館し、スーパーマーケットになった。1986年には行橋市最後の「栄館」が閉館した。*68

1954年の行橋市の魚町通り(現・ハミング通り)の舗装工事の写真あり。魚町通りが舗装されたのはこの年だった。右は映画館「旭館」である。*69

1954年の行橋市にあった夜の魚町商店街と旭館の写真あり。『君の名は』の看板が見え、アーチにはネオンが灯っている。*70

1955年頃の行橋市の街並みの写真あり。右側には劇場「旭館」が写っている。*71
稲荷座
所在地 : 福岡県行橋市
開館年 : 1936年
閉館年 : 1970年頃
各年版の映画館名簿には掲載されていない。映画館ではなく劇場。跡地は「行橋郵便局」。最寄駅はJR日豊本線行橋駅。

1936年の行橋町に建設中の「稲荷座」の写真あり。上棟式後の記念写真であるとされる。総工費5万円。1933年に新国道10号が開通した後、国道沿いに建てられた。*72

1936年の行橋町に建設中の劇場「稲荷座」の上棟式後の記念写真あり。総工費5万円。国道(現・県道28号)沿いに建てられた。稲荷座は1936年11月に完成し、戦前・戦後の通じて市民の発表会場にもなった。1階・2階ともに桝席であり、廻り舞台や花道を有する劇場だった。1941年に浄瑠璃公演が行われた際の内部の写真あり。1955年頃の稲荷座の外観の写真あり。1955年4月の行橋市制施行祝賀式典の際の内部の写真あり。1964年10月に行橋市民会館が竣工すると、1970年秋に郵政省に買収され、跡地は行橋郵便局となった。*73

昭和30年代の行橋市にあった劇場「稲荷座」の写真あり。1936年11月、先代松本幸四郎のこけら落としによって開館した。朝・昼・晩の3回公演が行われた。1944年には経営者が白川吉太郎から佐々木義丸に代わった。昭和30年代にはテレビが普及して観客数が減少した。1970年秋には郵政省によって買収されて取り壊された。1981年現在の跡地には行橋郵便局が建っている。*74

1955年4月、行橋市にあった「稲荷座」内部の写真あり。行橋市制施行祝賀式典の際の写真であり、参加者が桝席に座っている。*75

昭和30年代の行橋市にあった劇場「稲荷座」の写真あり。1936年に松本幸四郎のこけら落としによって開館し、芝居・浪曲・浄瑠璃などの公演が行われた。1階席も2階席も桝席だった。1970年に郵政省によって買収され、2013年現在の跡地には行橋郵便局が建っている。*76
旭館(新)/行橋旭館
所在地 : 福岡県行橋市宮市(1965年)、福岡県行橋市宮市434(1966年・1969年・1973年)、福岡県行橋市宮市433-3(1975年)
開館年 : 1964年頃
閉館年 : 1975年2月
1964年頃に同一ブロック内で移転開館。1965年の映画館名簿では「旭館」。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「行橋旭館」。1966年の映画館名簿では経営会社が山英興行、支配人が山路英彦、鉄筋造2階冷暖房付、定員251、松竹・東宝・東映を上映。1975年の映画館名簿では経営会社が山英興行、経営者が山路英彦、支配人が記載なし、鉄筋造2階冷暖房付、250席、東映・東宝・松竹を上映。1977年の映画館名簿には掲載されていない。1981年の住宅地図では福岡中央銀行行橋支店北西40mに「パートショッピングKK相互ストア」があるが関係は不明。跡地は「福岡中央銀行行橋支店」北西30mの駐車場など。最寄駅はJR日豊本線行橋駅。

1929年の行橋町に開館した当時の「旭館」の写真あり。行橋初の活動写真館である「豊昇館」が焼失した後、田んぼだった場所に建てられた。昭和30年代前半まで、行橋には旭館、「富士館」、「京映館」、「名画座」、「祇園座」、「行橋映劇」、「栄館」の7館の映画館があった。1963年には旭館が閉館し、跡地にはビルが建ったが、1981年現在はショッピングデパート相互が建っている。1981年現在の行橋市にある映画館は「栄文化」のみである。*77

昭和初期の行橋町宮市町(現・行橋市宮市町8-15)にあった行橋初の活動写真館「豊昇館」の写真あり。豊昇館は大正時代に開館したが、1928年8月に全焼し、1931年には富士館として生まれ変わった。1929年には魚町(現・宮市町8-21)に「旭館」も開館した。1964年には旭館と富士館が閉館し、跡地は相互ストアーとなった。旭館のみは西側に移って営業を続けたが、1975年に駐車場となった。*78

1971年の行橋市にあった2代目「旭館」の写真あり。「旭館」「Asahi」の文字が見える。裏側の「富士館」とともに1965年に閉館し、取り壊されてビルが建てられた。1965年には旭館が相互ストアーの西側に移り、1975年まで営業を続けた。1981年現在、初代旭館の跡地は相互ストアーである。2代目旭館の跡地は駐車場となった。*79

大正時代には行橋初の活動写真館として、宮市町8番15号に「豊昇館」が開館したが、1928年8月に全焼した。1929年、宮市町8番21号に「旭館」が開館した。1931年には豊昇館が「富士館」として生まれ変わっている。旭館と富士館はいずれも山路広作によって開館した映画館であり、1964年には富士館が閉館して相互ストアになった。この際には旭館が相互ストアの西側に写ったが、1975年2月に閉館して駐車場となった。*80
栄館/栄文化映劇/行橋栄文化映画劇場/行橋栄文化劇場
所在地 : 福岡県行橋市西町(1959年・1960年)、福岡県行橋市大橋(1963年)、福岡県行橋市西町(1966年・1969年・1973年)、福岡県行橋市西町2863(1975年・1978年・1980年)、福岡県行橋市大橋3-10-1(1985年・1986年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1986年
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「栄館」。1960年・1963年の映画館名簿では「栄文化映劇」。1960年の映画館名簿では経営会社が有楽興行、支配人が鍵屋通、木造1階、255席、洋画を上映。1966年・1969年の映画館名簿では「行橋栄文化映画劇場」。1973年・1975年の映画館名簿では「行橋栄文化劇場」。1978年の映画館名簿では「栄文化映画劇場」。1980年・1985年・1986年の映画館名簿では「行橋栄文化劇場」。1981年の住宅地図では「栄文化」。1986年の映画館名簿では経営会社が有楽興行、経営者が野中康弘、支配人が難波寛治、木造1階、250席、邦画・成人映画を上映。1988年の映画館名簿には掲載されていない。行橋市最後の映画館。跡地は「行橋大橋郵便局」南西30mにある月極駐車場「栄館駐車場」。最寄駅はJR日豊本線行橋駅。

1957年、行橋市西町(現・大橋3-10)の舟路川の脇に西町商店街によって「栄館」(後の栄文化)が開館した。1957年に撮られた商社従業員表彰式の記念写真あり。栄文化は1986年まで営業を続けた。*81

1929年には松竹や大映の封切館である「旭館」が開館し、福岡や小倉に次いで新しい映画が上映された。うどん1杯30円の時代に映画の入場料は130円だった。1964年には「旭館」が閉館し、スーパーマーケットになった。1986年には行橋市最後の「栄館」が閉館した。*82

豊前市

宝栄館(八屋町)
所在地 : 福岡県築上郡八屋町(1934年)、福岡県築上郡八屋町八屋(1936年・1941年)
開館年 : 1930年以後1934年以前
閉館年 : 1941年以後1943年以前
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「宝栄館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。
世界館(八屋町)/松竹館
所在地 : 福岡県築上郡宇島町(1930年・1934年)、福岡県築上郡八屋町赤熊(1936年)、福岡県築上郡八屋町宇島(1941年・1943年)、福岡県築上郡八屋町(1947年)
開館年 : 昭和初期
閉館年 : 1947年以後1950年以前
1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「世界館」。1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「松竹館」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。

昭和に入ると、築上郡で初の活動常設館として宇島町に「世界館」が開館した。経営は川内覚市であり、日活系作品を上映した。1934年3月には経営者が生田佐吉に代わり、1935年3月には豊島一郎に代わった。1940年1月時点では世界館が渡辺数之助経営の「松竹館」に変わっている。*83
日活館
所在地 : 福岡県築上郡八屋町(1943年・1947年)、福岡県築上郡八屋町1670(1950年)、福岡県築上郡八屋町(1953年)、福岡県築上郡八屋町167(1955年)
開館年 : 1941年以後1943年以前
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「日活館」。1954年の映画館名簿では経営者・支配人ともに川津渉、木造2階、定員492、混合を上映、電話が八屋352。1955年の映画館名簿では木造2階、定員492、混合を上映、電話が八屋353。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
八屋中央
所在地 : 福岡県豊前市八屋町(1956年・1957年・1958年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1958年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年の映画館名簿では「八屋中央」。1958年の映画館名簿では経営者が長野一二、支配人が長野正人、鉄筋造1階、定員320、邦画・洋画を上映、電話が八屋307。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
平和映画劇場
所在地 : 福岡県築上郡八屋町(1953年)、福岡県豊前市八屋町(1958年)
開館年 : 1952年4月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年4月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「平和映画劇場」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「平和映画劇場」。1958年の映画館名簿では経営者が福田幸次郎、支配人が恒成勉、木造2階、定員300、邦画を上映、電話が八屋145。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
八屋東映/八尋東映/豊前東映
所在地 : 福岡県豊前市八屋町(1956年・1957年・1958年)、福岡県豊前市八屋町八屋(1959年)、福岡県豊前市八屋町(1960年・1962年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「豊前東映」。1957年の映画館名簿では「八屋東映」。1958年の映画館名簿では「豊前東映」。1958年の映画館名簿では経営者が尾崎嘉保、支配人が末松謙造、木造2階、定員が記載なし、東映・新東宝を上映、電話が豊前551。1959年・1960年の映画館名簿では「八尋東映」。1960年の映画館名簿では経営者が尾崎一雄、支配人が記載なし、木造2階、定員450、邦画を上映、電話が豊前551。1962年の映画館名簿では「豊前東映」。1963年の住宅地図では「八屋劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「賢明寺」北東50mの民家。最寄駅はJR日豊本線宇島駅。
宇島東映
所在地 : 福岡県豊前市宇島町93(1959年・1960年)、福岡県豊前市宇島町(1963年・1964年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1964年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「宇島東映」。1959年の映画館名簿では経営者が長野俊子、支配人が徳永明、鉄筋造2階暖房付、定員342、東映・日活を上映、電話が豊前616。1963年の住宅地図では跡地に「元東映」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大分銀行豊前支店」東南東100mの駐車場。最寄駅はJR日豊本線宇島駅。

豊前市議会議員の長野廣行。かねいわ建設社長。1921年1月8日に生まれ、1939年に陸軍憲兵学校を卒業後に入隊した。1945年に復員して大清和工業の常務となり、1950年にかねいわ建設を設立した。さらに「宇島東映」も創立して現在に至っている。*84
東宝パレス/東宝シネマ
所在地 : 福岡県豊前市宇島町(1960年)、福岡県豊前市赤熊1343-5(1961年)、福岡県豊前市赤熊(1963年・1965年)
開館年 : 1958年12月25日
閉館年 : 1965年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「東宝パレス」。1960年の映画館名簿では経営者が渡辺寛、支配人が記載なし、木造1階、定員350、東宝を上映。1961年・1963年・1965年の映画館名簿では「東宝シネマ」。1963年の住宅地図では「東宝シネマ」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は弁当販売店「ほっともっと豊前店」。最寄駅はJR日豊本線宇島駅。

1958年12月25日、豊前市に「東宝パレス」が開館した。木造平屋建て、定員350人。東宝を上映。代表は渡辺寛。*85
東洋映劇/東洋映画劇場/八屋東洋映劇/豊前東洋映劇
所在地 : 福岡県築上郡八屋町宅島(1953年)、福岡県築上郡八屋町(1955年)、福岡県豊前市八屋町(1958年)、福岡県豊前市赤熊1343(1960年)、福岡県豊前市赤熊(1963年)、福岡県豊前市赤熊1343-5(1966年・1969年)、福岡県豊前市赤熊1343(1973年・1975年)、、福岡県豊前市赤熊1343-5(1978年)、、福岡県豊前市赤熊1343(1980年)、福岡県豊前市赤熊1343-5(1985年・1986年)
開館年 : 1938年9月
閉館年 : 1986年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1938年9月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「東洋映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「東洋映劇」。1960年の映画館名簿では経営者が渡辺数之助、支配人が渡辺仁道、木造2階暖房付、定員520、大映・松竹を上映、電話が豊前407。1963年の住宅地図では「東洋映画劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「豊前東洋映画劇場」。1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「八屋東洋映劇」。1981年の住宅地図では「東洋映画劇場」。1985年・1986年の映画館名簿では「豊前東洋映劇」。1986年の映画館名簿では経営者が渡辺仁道、支配人が記載なし、木造1階、230席、邦画・成人映画を上映。1987年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は弁当販売店「ほっともっと豊前店」西30mの駐車場。最寄駅はJR日豊本線宇島駅。

豊前市赤熊1343-5の映画館「東洋映画劇場」。創立は1946年。代表は渡辺仁道。*86

中間市

中間大映
所在地 : 福岡県中間市栄町5(1960年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1960年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「中間大映」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。
中間東宝
所在地 : 福岡県中間市栄町(1963年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1963年頃
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「中間東宝」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
中間映劇/名画座
所在地 : 福岡県遠賀郡中間町本町(1956年)、福岡県遠賀郡中間町中間(1957年・1958年)、福岡県中間市中間(1960年)、福岡県中間市栄町(1962年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年の映画館名簿では「中間映劇」。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「名画座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1957年3月、中間町の「中間劇場」が映画が主体となって「名画座」に改称した。*87

時期不明の中間市にあった映画館「名画座」の写真あり。劇場「弁天座」跡地に創設され、戦時中に映画館に転向した。戦後の中間市には「東洋映劇」、「毎日館」、「セントラル」、「中間東映」などがあり、共倒れとなって閉館した。*88
東洋館/第一東洋館/第一東洋映劇/日活東洋映劇
所在地 : 福岡県遠賀郡中間町(1936年・1943年・1947年・1950年・1953年)、福岡県遠賀郡中間町昭和町(1958年)、福岡県中間市昭和町(1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1931年
閉館年 : 1963年10月17日
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「東洋館」。1943年・1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「第一東洋館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「第一東洋映劇」。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「日活東洋映劇」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

1931年、中間町昭和町に松本紫男吉によって劇場兼映画館「東洋館」が開館した。昭和初期には落語家の柳家金語楼や歌手の田端義夫も来演して泊まっている。東洋館は1963年頃に閉館した。*89

1963年10月17日、中間市の映画館「東洋館」が閉鎖された。*90

1952年頃の中間にあった「東洋映画劇場」の写真あり。「NAKAMA TOYO EIGEKI」の文字が見える。「弁天座」が移転して「東洋館」に改称し、1931年に改築された。1949年には東洋映画劇場に改称した。*91

俳優の高倉健は中間町出身であり、少年時代には映画館「毎日館」や「東洋館」を遊び場としていた。昭和初期に開館したのが「第二毎日館」であり、1941年には毎日館に改称し、1959年には「中間大映」と「中間松竹」の2館に分かれた。東洋館は1932年に開館した映画館である。最盛期の中間町にはこの他に「日活東洋映画館」「セントラル映劇」「中間東映」「名画座」「第二東映」などの映画館があった。炭鉱の閉山に合わせて、1967年には中間東映などが閉館した。中間松竹は最後まで残っていたが、1972年に閉館したことで中間市から映画館がなくなった。*92
セントラル映劇/中間セントラル映劇
所在地 : 福岡県遠賀郡中間町中間(1958年)、福岡県中間市中間(1960年)、福岡県中間市栄町(1963年)、福岡県中間市本町(1964年・1965年)
開館年 : 1955年3月1日
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「セントラル映劇」。1964年・1965年の映画館名簿では「中間セントラル映劇」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1955年3月1日、中間市に映画館「セントラル映劇」が開館した。1967年5月30日、中間市の映画館「中間東映」とセントラル映劇が閉鎖された。*93
中間東映/中間東映劇場
所在地 : 福岡県遠賀郡中間町大字中間(1958年)、福岡県中間市中間(1960年)、福岡県中間市栄町(1963年)、福岡県中間市昭和町(1966年)
開館年 : 1956年11月14日
閉館年 : 1967年5月30日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中間東映」。1966年の映画館名簿では「中間東映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

1956年11月14日、中間市に映画館「中間東映」が開館した。1967年5月30日、中間東映と「セントラル映劇」が閉鎖された。*94

俳優の高倉健は中間町出身であり、少年時代には映画館「毎日館」や「東洋館」を遊び場としていた。昭和初期に開館したのが「第二毎日館」であり、1941年には毎日館に改称し、1959年には「中間大映」と「中間松竹」の2館に分かれた。東洋館は1932年に開館した映画館である。最盛期の中間町にはこの他に「日活東洋映画館」「セントラル映劇」「中間東映」「名画座」「第二東映」などの映画館があった。炭鉱の閉山に合わせて、1967年には中間東映などが閉館した。中間松竹は最後まで残っていたが、1972年に閉館したことで中間市から映画館がなくなった。*95
第二毎日館/毎日館/中間毎日館
所在地 : 福岡県遠賀郡中間町(1930年・1934年)、福岡県遠賀郡中間町片峯(1936年)、福岡県遠賀郡水巻町(1941年)、福岡県遠賀郡中間町(1943年・1947年・1950年)、福岡県遠賀郡中間町大字中間町(1953年)、福岡県遠賀郡中間町7450(1958年)、福岡県中間市中間(1960年)、福岡県中間市栄町7450(1966年・1969年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1972年2月24日
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1930年・1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「第二毎日館」。1943年・1947年・1950年・1953年・1954年の映画館名簿では「毎日館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「毎日館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年の映画館名簿では「中間毎日館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

昭和初期、遠賀郡中間町には「第二毎日館」が開館した。阿部兵四郎が経営し、新興や大都系の作品を上映した。1932年初頭には中間町に「東洋観」(※観は原文ママ)が開館した。松本紫男吉が経営し、松竹や日活系の作品を上映した。*96

1972年2月24日、中間市の映画館「毎日館」が閉鎖された。*97

俳優の高倉健は中間町出身であり、少年時代には映画館「毎日館」や「東洋館」を遊び場としていた。昭和初期に開館したのが「第二毎日館」であり、1941年には毎日館に改称し、1959年には「中間大映」と「中間松竹」の2館に分かれた。東洋館は1932年に開館した映画館である。最盛期の中間町にはこの他に「日活東洋映画館」「セントラル映劇」「中間東映」「名画座」「第二東映」などの映画館があった。炭鉱の閉山に合わせて、1967年には中間東映などが閉館した。中間松竹は最後まで残っていたが、1972年に閉館したことで中間市から映画館がなくなった。*98
AMC NAKAMA 16/AMCなかま16/ユナイテッド・シネマなかま16
所在地 : 福岡県中間市上蓮花寺3-11-1(2000年)、福岡県中間市上蓮花寺3-1-1(2005年・2010年)、福岡県中間市上蓮花寺3-1-1 ショッパーズモールなかまモール館4階(2015年)、福岡県中間市上蓮花寺3-1-1 イオンショッパーズモールなかまモール館4階(2020年)
開館年 : 1998年11月20日(AMC)、2005年(UC)
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年の映画館名簿では「AMC NAKAMA 16 スクリーンno.1-no.16」(16館)。2005年の映画館名簿では「AMCなかま16 スクリーンNO1-NO16」(16館)。2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「ユナイテッド・シネマなかま16 No.1-No.16」(16館)。開館時のスクリーン数は日本最多。最寄駅は筑豊電気鉄道筑豊電気鉄道線通谷駅。

1998年11月20日、中間市上蓮花寺3丁目のショッパーズモール専門店街に複合映画館(シネコン)「AMCナカマ16シアターズ」が開館する。日本国内最多の16スクリーンを有し、98席から345席まで計2663席がある。アメリカ合衆国の映画興行会社であるAMCエンターテインメントが運営する。前後の客席の段差は50センチ近くあり、前の人の頭が気にならない。飲み物ホルダー付きのひじ掛けは折り畳み式であり、カップルが寄り添える配慮をしている。料金は既存館と同じ1800円だが、土曜日を除く午後9時以降は1000円。洋画・邦画とも全国一斉公開の封切り作品を上映する。リバイバル作品やマイナー作品も観客のニーズを見た上で見当する。成人映画は上映しない。中間市は北九州市・遠賀郡・筑豊地域と接しており、都市高速道路や国道3号などで交通の便の良い都市である。*99

1998年11月21日、中間市上蓮花寺3-1-1 ショッパーズモール中間専門店街に「AMC NAKAMA 16」が開館した。16スクリーンを有する。経営はAMCであり、キャナルシティに次ぐ第2号館である。*100

遠賀郡芦屋町

大国座
所在地 : 福岡県遠賀郡芦屋町(1943年)、福岡県遠賀郡芦屋町芦屋(1958年)
開館年 : 1900年9月下旬、1948年3月(再建)
閉館年 : 1944年3月21日(焼失)、1958年頃
1943年の映画館名簿では「大国座」。1950年・1953年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「大国座」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「幸町区公民館」と「幸町公園」。最寄駅はJR鹿児島本線遠賀川駅。

遠賀地方の文化の殿堂として「大国座」があった。1899年5月、桑原永次郎、中西清八、吉田徳三が発起人となって劇場の建設が計画された。資本金7000円で合資会社を設立し、幸町の土地が買収された。1900年春に上棟式が行われ、同年8月21日に福岡県から定劇場としての設置許可が下りると、同年9月下旬に建物が完成した。資本金15000円の株式組織として株式会社大国座が設立された。こけら落としには東京歌舞伎の市川市十郎一座が来演した。その後、川上音二郎一座、松井須磨子一座なども来演している。1944年3月21日夜、広沢虎造の浪曲の公演中に火災で焼失した。戦後の1948年3月、長野政八の出資によって再建された。木造2階建て、定員500人であり、戦前の建物よりやや縮小された。1966年8月、芦屋町が敷地と建物を買収し、その後解体された。*101

1900年から1944年までの大国座の建物は、木造2階建て、敷地面積1907.4平方メートル、建物面積947.1平方メートル。定員は階下が560人、階上が260人であり、立見席を含めると収容人員は1000人を超えた。建物は熊本県の東雲座を参考にしており、廻り舞台、花道、楽屋、役者宿屋、中茶屋、売店、表木戸、下足場などを備えていた。歌舞伎、浪曲、奇術、筑前琵琶、活動写真などが行われ、映画と芝居を組み合わせた連鎖劇は人気を博した。*102
ロキシー座/ロキシー東映
所在地 : 福岡県遠賀郡芦屋町正門通(1956年・1958年)、福岡県遠賀郡芦屋町(1960年・1962年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1962年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿には遠賀郡が掲載されていない。1956年・1958年の映画館名簿では「ロキシー座」。1960年・1962年の映画館名簿では「ロキシー東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
オリオン座/芦屋オリオン座
所在地 : 福岡県遠賀郡芦屋町(1953年・1954年)、福岡県遠賀郡芦屋町芦屋(1958年)、福岡県遠賀郡芦屋町(1960年・1963年)、福岡県遠賀郡芦屋町字船頭町9-14(1969年・1970年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「オリオン座」。1955年の映画館名簿には遠賀郡が掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「オリオン座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1970年の映画館名簿では「芦屋オリオン座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1981年の住宅地図では跡地に「秦哲邸」と「秦富五郎邸」。跡地は「禅寿寺」北東80mにある民家。最寄駅はJR鹿児島本線遠賀川駅。
芦屋中央映劇/芦屋中央映画劇場
所在地 : 福岡県遠賀郡芦屋町本町(1956年)、福岡県遠賀郡芦屋町(1958年・1960年・1963年)、福岡県遠賀郡芦屋町字船頭町(1966年)、福岡県遠賀郡芦屋町字船頭町8-2(1969年・1970年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「中央映劇」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「芦屋中央映劇」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「芦屋中央映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1981年の住宅地図では跡地に「スーパーしんえい衣料部」。跡地は「芦屋町町民会館」南西40mにある数軒分の民家。最寄駅はJR鹿児島本線遠賀川駅。

遠賀郡水巻町

ダイヤ映画劇場
所在地 : 福岡県遠賀郡水巻町
開館年 : 不明
閉館年 : 1960年2月1日
各年版の映画館名簿には掲載されていない。

1960年2月1日午前1時30分頃、遠賀郡水巻町の「ダイヤ映画劇場」から出火し、木造モルタル平屋建て約400平方メートルが全焼した。損害額は約800万円。経営は西田喜代子。*103

1960年2月1日午前1時30分頃、遠賀郡水巻町の「ダイヤ劇場」から出火し、木造モルタル平屋建て約400平方メートルが全焼した。*104

1960年2月1日、遠賀郡の「ダイヤ映劇」が全焼した。*105
第二東洋館/第二東洋映劇/第二日活東洋館
所在地 : 福岡県遠賀郡水巻町(1941年・1943年)、福岡県遠賀郡水巻町頃末(1947年)、福岡県遠賀郡水巻町(1950年・1953年)、福岡県遠賀郡水巻町頃末(1958年)、福岡県遠賀郡水巻町832(1960年)、福岡県遠賀郡水巻町(1962年)
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1962年頃
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年・1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「第二東洋館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「第二東洋映劇」。1960年の映画館名簿では「第二日活東洋館」。1962年の映画館名簿では「第二東洋映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

戦時中には遠賀郡水巻町に松本某が経営する「第二東洋館」が開館した。*106
頃末東映
所在地 : 福岡県遠賀郡水巻町(1963年・1964年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1964年頃
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1964年の映画館名簿では「頃末東映」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
第一高松会館/水巻第一高松会館
所在地 : 福岡県遠賀郡水巻町(1950年・1953年)、福岡県遠賀郡水巻町吉田(1958年・1960年)、福岡県遠賀郡水巻町(1963年)、福岡県遠賀郡水巻町吉田(1966年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1966年頃
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「第一高松会館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「第一高松会館」。1966年の映画館名簿では「水巻第一高松会館」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
第二高松会館/水巻第二高松会館
所在地 : 福岡県遠賀郡水巻町頃松(1950年)、福岡県遠賀郡水巻町(1953年)、福岡県遠賀郡水巻町古賀(1958年・1960年)、福岡県遠賀郡水巻町(1963年)、福岡県遠賀郡水巻町古賀(1966年)、福岡県遠賀郡水巻町字古賀(1968年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1968年頃
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「第二高松会館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「第二高松会館」。1966年の映画館名簿では「水巻第二高松会館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

遠賀郡岡垣町

海老津映劇/海老津座
所在地 : 福岡県遠賀郡岡垣村海老津2001(1957年)、福岡県遠賀郡岡垣村海老津200(1958年)、福岡県遠賀郡岡垣村海老津(1960年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1960年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「海老津映劇」。1960年の映画館名簿では「海老津座」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。
海老津第一映劇/エビツ第一映劇
所在地 : 福岡県遠賀郡岡垣村海老津(1959年・1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1962年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「海老津第一映劇」。1961年・1962年の映画館名簿では「エビツ第一映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
海老津東映/エビツ東映
所在地 : 福岡県遠賀郡岡垣村海老津(1961年・1962年)、福岡県遠賀郡岡垣町(1963年・1964年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1964年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1962年の映画館名簿では「海老津東映」。1963年・1964年の映画館名簿では「エビツ東映」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

遠賀郡遠賀町

映画館名簿によると遠賀郡遠賀町に映画館は存在しなかったと思われる。

京都郡苅田町

永楽座/苅田東映
所在地 : 福岡県京都郡苅田町(1952年・1953年・1955年・1956年)、福岡県京都郡苅田町1771-1(1957年)、福岡県京都郡苅田町浜(1958年)、福岡県京都郡苅田町(1960年)、福岡県京都郡苅田町浜(1962年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1955年・1956年・1957年の映画館名簿では「永楽座」。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「苅田東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
苅田中央/苅田中央館
所在地 : 福岡県京都郡苅田町大字馬場浜町(1959年)、福岡県京都郡苅田町(1960年・1963年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1963年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「苅田中央」。1963年の映画館名簿では「苅田中央館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
新星座/新星館/苅田新生館
所在地 : 福岡県京都郡苅田町(1952年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、福岡県京都郡苅田町京町(1966年・1968年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年の映画館名簿では「新星座」。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「新星館」。1966年・1968年の映画館名簿では「苅田新生館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。新星と新生のどちらの表記が正しいのか不明。

京都郡みやこ町

映画館名簿によると京都郡みやこ町に映画館は存在しなかったと思われる。

築上郡築上町

椎田劇場/椎田映劇
所在地 : 福岡県築上郡椎田町椎田(1953年)、福岡県築上郡椎田町長者1034(1955年)、福岡県築上郡椎田町1034(1958年)、福岡県築上郡椎田町(1960年・1962年)
開館年 : 1943年5月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1943年5月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「椎田劇場」。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「椎田映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
オアシス映劇
所在地 : 福岡県築上郡築城町駅前(1957年・1958年)、福岡県築上郡築城町(1960年・1962年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1962年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「オアシス映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
築城中央映劇/築城中央館
所在地 : 福岡県築上郡築城町駅前通り(1953年)、福岡県築上郡築城町築城(1958年)、福岡県築上郡築城町大字八津田(1960年)、福岡県築上郡築城町(1963年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1963年頃
1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「築城中央館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「築城中央館」。1960年の映画館名簿では「築城中央映劇」。1963年の映画館名簿では「築城中央館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
寿館/寿映劇
所在地 : 福岡県築上郡椎田町西町(1957年・1958年)、福岡県築上郡椎田町椎田(1960年)、福岡県築上郡椎田町(1963年・1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「寿館」。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「寿映劇」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

築上郡吉富町

吉富映劇
所在地 : 福岡県築上郡吉富町
開館年 : 1953年7月1日
閉館年 : 不明
映画館名簿には掲載されていない。

1953年7月1日、築上郡吉富町に「吉富映劇」が落成した。吉富町初の常設館である。総工費600万円。建坪230坪。モルタル塗り平屋建て。椅子席470。経営者は椎田町の永楽座の館主である石丸高治。*107

築上郡上毛町

映画館名簿によると築上郡上毛町に映画館は存在しなかったと思われる。

筑後地域

柳川市

松竹座
所在地 : 福岡県山門郡柳河町(1930年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1930年以後1934年以前
1930年の映画館名簿では「松竹座」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。
大勝館
所在地 : 福岡県山門郡大和町中島(1961年・1962年)、福岡県山門郡大和町(1963年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1963年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1962年・1963年の映画館名簿では「大勝館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
沖ノ端/沖端映劇/沖端座/柳川沖端座
所在地 : 福岡県山門郡沖端村(1952年)、福岡県柳川市矢留本町3(1958年)、福岡県柳川市沖端矢留本町4(1960年)、福岡県柳川市矢留本町(1963年)、福岡県柳川市矢留本町21(1966年)
開館年 : 1931年以前
閉館年 : 1966年頃
1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年の映画館名簿では「沖ノ端」。1953年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「沖端座」。1958年の映画館名簿では経営者が東清、支配人が須藤栄、木造2階、定員347、邦画・洋画を上映。1960年の映画館名簿では「沖端映劇」。1963年の映画館名簿では「沖端座」。1966年の映画館名簿では「柳川沖端座」。1966年の映画館名簿では経営者が東コヨ、支配人が須藤栄、木造1階暖房付、396席、松竹・東宝・大映・東映を上映。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
大和映劇/大和座/大和東映/中島大和東映劇場/中島公楽映画劇場
所在地 : 福岡県山門郡大和町中島(1956年・1957年・1958年)、福岡県山門郡大和町大字中島(1960年・1963年)、福岡県山門郡大和町(1964年・1965年)、福岡県山門郡大和町中島(1966年・1969年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1969年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「大和映劇」。1957年・1958年の映画館名簿では「大和座」。1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「大和東映」。1966年の映画館名簿では「中島大和東映劇場」。1969年の映画館名簿では「中島公楽映画劇場」。1969年の映画館名簿では経営者が公楽興行、支配人が記載なし、木造1階冷暖房付、365席、東宝・東映・日活・洋画を上映。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
国際劇場/柳川国際劇場/スバル座/柳川東映/柳川スバル東映劇場
所在地 : 福岡県山門郡柳河町(1952年)、福岡県柳川市筑紫通(1953年・1955年)、福岡県柳川市片原町9(1958年)、福岡県柳川市筑紫通(1960年・1963年)、福岡県柳川市片原町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年の映画館名簿では「国際映画劇場」。1953年の映画館名簿では「国際劇場」。1955年の映画館名簿では「柳川国際劇場」。1958年の映画館名簿では「柳川スバル東映」。1958年の映画館名簿では経営者が竜清、支配人が竜清俊、木造1階冷暖房付、定員400、邦画・洋画を上映。1960年の映画館名簿では「スバル座」。1963年の映画館名簿では「柳川東映」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「柳川スバル東映劇場」。1969年の映画館名簿では経営者が竜久仁子、支配人が記載なし、木造2階冷暖房付、480席、東映・洋画・成人映画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は洋菓子店「ケーキのカトウ」や青果店「広川屋」を含む数軒分の敷地。最寄駅は西鉄天神大牟田線西鉄柳川駅。

昭和20年代の柳川市片原町にあった映画館「柳川国際劇場」の写真あり。「KOKUSAI」の文字が見える。1953年公開の映画『伊豆の佐太郎』や『半処女』の看板が見える。戦後に柳川市辻町から西にむかって新道が開通し、それとともに柳川国際劇場も開館した。昭和30年代初期には火災に遭い、それ以後は洋画館に転向して「スバル座」に改称した。*108

敦坂酒店の店主(60代?)。京町の通りを辻町の信号から少し西に行った場所には「スバル座」があった。閉館後に敷地が分割されて売却され、現在は青果店の広川屋やケーキのカトウが建っている。奥行きは広川屋の脇の小路の突き当りまでである。火事や台風で客が減り、テレビの影響もあって閉館した。私が高校生の頃には柳川市に4軒の映画館があった。敦坂酒店の裏通りには「公楽」があった。現在は映画館の家主の土地であり、ゴルフの練習ができるようになっている。
柳河座/大天地/白秋座/柳川白秋座
所在地 : 福岡県山門郡柳河町国道筋(1930年・1934年)、福岡県山門郡柳河町公園前(1936年)、福岡県山門郡柳河町(1943年)、福岡県山門郡柳河町三橋(1950年)、福岡県山門郡三橋村(1951年)、福岡県山門郡三橋村藤吉529(1952年)、福岡県柳川市三橋町藤吉529(1955年)、福岡県柳川市立花通高畑公園前(1960年)、福岡県柳川市立花通(1963年)、福岡県柳川市三橋町藤吉(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1930年以前(柳河座)、1954年9月(白秋座)
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1954年9月開館。1930年・1934年の映画館名簿では「柳河館」。1936年・1943年の映画館名簿では「柳河座」。1950年・1951年の映画館名簿では「大天地」。1952年の映画館名簿では「柳河大天地」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「白秋座」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「白秋座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「柳川白秋座」。1969年の映画館名簿では経営者が大橋茂、支配人が園田邦子、木造1階冷暖房付、480席、松竹・大映・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「リブレックス柳川」。最寄駅は西鉄天神大牟田線西鉄柳川駅。

柳川市の立花通りにあった「柳河館」の写真あり。右側には旭屋の建物が見えている。*109
柳河映画劇場/柳川映画劇場/柳河劇場/柳川映劇/柳川東宝映劇/柳川東宝劇場
所在地 : 福岡県山門郡柳河町(1950年・1951年・1952年)、福岡県柳川市(1953年)、福岡県柳川市横山町6-1(1955年・1958年・1960年)、福岡県柳川市横山町(1963年)、福岡県柳川市横山町6-1(1966年・1969年・1973年・1974年)
開館年 : 1951年3月
閉館年 : 1974年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年3月開館。1950年・1951年の映画館名簿では「柳河映画劇場」。1952年の映画館名簿では「柳河映劇」。1953年の映画館名簿では「柳川映劇」。1955年の映画館名簿では「柳川映画劇場」。1958年の映画館名簿では「柳川劇場」。1958年の映画館名簿では経営者・支配人ともに村上彦一、木造2階、定員記載なし、邦画を上映。1960年の映画館名簿では「柳川映劇」。1963年の映画館名簿では「柳川東宝映劇」。1966年・1969年・1973年・1974年の映画館名簿では「柳川東宝劇場」。1969年の映画館名簿では経営者が九州共栄興行、支配人が田口正光、木造2階冷暖房付、400席、東宝・洋画を上映。1975年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はアパート「フォルツァ​弐​番​館」。最寄駅は西鉄天神大牟田線西鉄柳川駅。
テアトル公楽/柳川日活公楽/柳川日活公楽劇場/柳川公楽劇場
所在地 : 福岡県柳川市本町3-2(1959年・1960年)、福岡県柳川市本町(1963年・1966年・1969年・1973年)、福岡県柳川市本町3-2(1975年・1980年・1985年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1985年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「柳川公楽」。1960年の映画館名簿では「テアトル公楽」。1963年の映画館名簿では「柳川公楽」。1966年・1969年の映画館名簿では「柳川日活公楽」。1969年の映画館名簿では経営者が公楽興行、支配人が坂本康一、木造2階冷暖房付、400席、日活・洋画・成人映画を上映。1973年・1975年・1980年の映画館名簿では「柳川日活公楽劇場」。1982年の住宅地図では「公楽映画館」。1985年の映画館名簿では「柳川公楽劇場」。1985年の映画館名簿では経営会社が有限会社公楽興業、経営者が佐々木義一、支配人が佐々木隆、木造1階、200席、邦画・洋画を上映。1986年の映画館名簿には掲載されていない。柳川市最後の映画館。跡地は「柳川よかもん館」南40mにある空き地。最寄駅は西鉄天神大牟田線西鉄柳川駅。

八女市

福島ロマン/福島ロマン映劇/ロマン映劇
所在地 : 福岡県八女市福島区本町(1956年)、福岡県八女市本町(1957年・1958年)、福岡県八女市大字平塚1-245(1960年)、福岡県八女市本町(1962年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年の映画館名簿では「福島ロマン」。1958年の映画館名簿では「福島ロマン映劇」。1960年・1962年の映画館名簿では「ロマン映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
黒木東宝映画劇場/黒木東宝映劇/黒木宇宙館
所在地 : 福岡県八女郡黒木町165(1957年・1958年)、福岡県八女郡黒木町(1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「黒木東宝映画劇場」。1958年の映画館名簿では「黒木東宝映劇」。1960年の映画館名簿では「黒木宇宙館」。1963年の映画館名簿では「黒木宇宙」。1965年の映画館名簿では「黒木宇宙館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
福島劇場/福島映劇/福島映画劇場
所在地 : 福岡県八女郡福島町(1930年・1934年)、福岡県八女郡福島町本町(1936年、1943年)、福岡県八女郡福島町(1950年)、福岡県八女市福島区本町1-270(1955年)、福岡県八女市福島町1-270(1958年)、福岡県八女市福島区土橋1270(1960年)、福岡県八女市福島本町(1963年)、福岡県八女市大字本町1-270(1966年・1969年)
開館年 : 1915年、1947年6月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年6月開館。1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「福島劇場」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「福島劇場」。1950年・1955年・1958年の映画館名簿では「福島映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「福島映劇」。1966年・1969年の映画館名簿では「福島映画劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「堀川バス」本社南東30mの駐車場。最寄駅はJR鹿児島本線羽犬塚駅。

1915年には八女郡福島町に「福岡劇場」が創設された。資本金は1万2000円であり、設立発起人代表は橋本清三。劇場と映画館を兼ねた建物だった。福島劇場の建物と内部の写真あり。*110

八女市の土橋商店街内にある市有地に、八女市が定期借地権付き分譲マンションを誘致する構想を打ち出している。市有地は映画館跡地の約2200平方メートルであり、近くには西鉄バスや堀川バスの乗り場がある。1992年に八女市土地開発公社が約4億8000万円で購入したが、再開発自体を断念して金利が膨らむ一方だったため、八女市が約6億600万円で買い取った。現在は暫定的に土橋商店街の駐車場として使用されている。*111
京座/八女京座
所在地 : 福岡県八女郡福島町(1930年・1934年)、福岡県八女郡福島町京町(1936年)、福岡県八女郡福島町(1943年・1947年・1950年)、福岡県八女郡福島町大字本町179(1953年)、福岡県八女市福島区179(1955年)、福岡県八女市福島町179(1958年)、福岡県八女市福島区京町(1960年)、福岡県八女市京町(1963年)、福岡県八女市大字本町179(1966年・1969年)、福岡県八女市本町179(1970年)
開館年 : 1922年10月15日、1941年11月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1941年11月開館。1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「京座」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「京座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「八女京座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1922年10月15日、八女郡福島町で京座創設総会が開催された。「福島劇場」と同じく劇場と映画館を兼ねた建物だった。商号は株式会社京座であり、本社は福島町本町174番地、資本金は3万円だった。1926年10月時点の筑後地方郡郡(三潴郡・三門郡・八女郡・浮羽郡)には、活動常設館として大川町の「中央館」と「キネマ快楽」、柳河町の「柳河座」、福島町の「福島劇場」と「南筑キネマ」(京座)、羽犬塚町の「記念館」の6館があった。*112
福島映劇/福島映画劇場/福島東映/福島東映劇場
所在地 : 福岡県八女市福島区日の出町(1956年)、福岡県八女市本町1-270(1957年・1958年)、福岡県八女市福島区土橋1270(1960年)、福岡県八女市福島本町(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「福島映劇」。1957年の映画館名簿では「福島映画劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「福島東映」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「福島東映劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
黒木劇場/黒木映劇/黒木東映/黒木映画劇場
所在地 : 福岡県八女郡黒木町(1943年・1950年)、福岡県八女郡黒木町大字桑原136(1953年・1955年)、福岡県八女郡黒木町136(1958年)、福岡県八女郡黒木町(1960年・1963年・1969年・1973年・1974年)
開館年 : 1943年5月、1946年11月
閉館年 : 1974年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年11月開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「黒木劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「黒木劇場」。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「黒木映画劇場」。1960年の映画館名簿では「黒木映劇」。1963年の映画館名簿では「黒木東映」。1966年・1969年・1973年・1974年の映画館名簿では「黒木映画劇場」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。

1943年5月、八女郡黒木町に「黒木映画劇場」が開設された。経営者は安達嘉一。*113
八女リューコーシネマ
所在地 : 福岡県八女市蒲原93(1981年・1982年・1986年・1990年・1991年)
開館年 : 1980年頃
閉館年 : 1991年頃
1980年の映画館名簿には掲載されていない。1981年・1982年・1986年・1990年・1991年の映画館名簿では「八女リューコーシネマ」。1985年の住宅地図では「リューコーシネマ リューコーパチンコ」。1991年の映画館名簿では経営者が記載なし、支配人が柳川在祐、木造1階、150席、邦画・洋画を上映。1992年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「八女中央青果市場」南西280mにある9軒分の民家。最寄駅はJR鹿児島本線羽犬塚駅。

筑後市

記念館
所在地 : 福岡県八女郡羽犬塚町(1930年・1934年・1936年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1930年の映画館名簿では「記念館」。1934年の映画館名簿では「紀念館」。1936年の映画館名簿では「記念館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
船小屋映劇
所在地 : 福岡県筑後市船小屋(1955年・1958年)、福岡県筑後市大字北長田812(1960年)、福岡県筑後市船小屋町(1962年)
開館年 : 1950年5月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年5月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「船小屋映画劇場」。1960年の映画館名簿では「船小屋映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
映画トキワ/常盤館
所在地 : 福岡県八女郡羽犬塚町(1943年・1947年・1950年)、福岡県八女郡羽犬塚町大字山ノ井21(1953年)、福岡県筑後市羽犬塚町山ノ井21(1955年)、福岡県筑後市羽犬塚町29(1958年)、福岡県筑後市大字山の井20(1960年)、福岡県筑後市羽犬塚町9(1962年)
開館年 : 1949年9月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1949年9月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年の映画館名簿では「映画トキワ」。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「常盤館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
羽犬塚劇場/羽犬塚映劇
所在地 : 福岡県筑後市羽犬塚町山ノ井21(1955年)、福岡県筑後市羽犬塚町15(1958年)、福岡県筑後市大字山の井15(1960年)、福岡県筑後市羽犬塚町(1963年)
開館年 : 1952年10月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年10月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「羽犬塚劇場」。1963年の映画館名簿では「羽犬塚映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
羽犬塚東映劇場/羽犬塚東映
所在地 : 福岡県筑後市和泉字花田223(1958年)、福岡県筑後市大字和泉223(1960年)、福岡県筑後市羽犬塚町(1963年・1965年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1965年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「羽犬塚東映劇場」。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「羽犬塚東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
富士映劇/筑後ニュー富士館
所在地 : 福岡県筑後市大字山の井205(1958年)、福岡県筑後市大字山の井20(1960年)、福岡県筑後市羽犬塚町(1963年)、福岡県筑後市藤島町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「富士映劇」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「筑後ニュー富士館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

大川市

快楽座/大川快楽座
所在地 : 福岡県三潴郡大川町榎津(1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年)、福岡県三潴郡大川町(1950年)、福岡県三潴郡大川町榎津799-1(1953年)、福岡県大川市榎津82-1(1955年)、福岡県大川市大字榎津799-1(1958年)、福岡県大川市榎津799(1960年)、福岡県大川市榎津(1963年)、福岡県大川市榎津町(1966年・1968年)
開館年 : 1897年1月
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1897年1月開館。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「快楽座」。1966年・1968年の映画館名簿では「大川快楽座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

時期不明の大川市にあった「快楽座」の写真あり。『キング・コング』の看板が見える。大川で最も古い劇場・映画館である。1889年に溝田吉次によって創業され、当初は芝居の興行が主だった。貸し布団や火鉢が準備され、幕間にはおせんやキャラメルの売り子が場内を回った。2代目の溝田定次郎、3代目の溝田広次が経営を引き継ぎ、戦時中には戦争映画を上映した。戦後には映画の黄金時代が到来したが、テレビの普及によって1970年に閉館した。*114
中央館/キネマ天国/天国館/大川天国館
所在地 : 福岡県三潴郡大川町若津(1930年・1934年・1936年)、福岡県三潴郡大川町若津新道(1941年)、福岡県三潴郡大川町榎津(1943年)、福岡県三潴郡大川町若津(1947年・1950年)、福岡県大川市向島1953(1955年・1958年・1960年)、福岡県大川市向島町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1943年1月
閉館年 : 1970年
『全国映画館総覧 1955』によると1943年1月開館。1930年・1934年の映画館名簿では「中央館」。1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「キネマ天国」。1947年の映画館名簿では「大黒館」。1950年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「天国館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「大川天国館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1924年、大川町に横尾卯三郎によって「中央館」が創業された。横尾卯三郎が死去すると実弟の横尾勝一が継いで「キネマ天国」に改称した。敵性語追放が行われた1941年にはキネマの三文字を削って「天国館」に改称した。1970年、記録映画『東京オリンピック』を最後に閉館した。*115

1924年、大川町の若津新道に丸山繁によって映画館「中央館」が開館した。後に「キネマ天国」に改称し、1941年に「天国館」に改称したが、1945年2月には休館に追い込まれた。戦前の大川町には榎津の「キネマ快楽」もあった。戦後の1945年12月には天国館と快楽座が揃って営業を再開した。当時の映画料金は4円99銭であり、「床屋と同じ」とされて安くはなかったが、家具職人の憩いの場となっていた。天国館と快楽座は1970年の盆興行を最後に閉館した。その後には「東映センター」と「東宝文化劇場」も閉館し、1990年現在の大川市に映画専門館はない。*116
大川シネマセンター/大川東映センター/大川東映劇場
所在地 : 福岡県大川市栄町366-4(1957年)、福岡県大川市栄町366(1960年)、福岡県大川市榎津栄町(1963年)、福岡県大川市榎津栄町366(1966年・1969年)、福岡県大川市榎津栄町(1973年・1975年・1978年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1978年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「大川シネマセンター」。1960年・1963年の映画館名簿では「大川東映センター」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「大川東映劇場」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。1981年の住宅地図では跡地に「アキ」。跡地はアパート「アルハンブラ一番館」。最寄駅は西鉄天神大牟田線八丁牟田駅。

1956年、大川市に中村要によって「東映センター」が開館した。1980年現在は閉館している。*117
松竹文化劇場/文化松竹/文化映劇/文化劇場/大川東宝文化劇場/大川文化劇場
所在地 : 福岡県大川市榎津京町309-1-1(1955年)、福岡県大川市榎津東309(1960年)、福岡県大川市榎津(1963年)、福岡県大川市榎津東町(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1983年)
開館年 : 1954年8月
閉館年 : 1983年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年8月開館。1955年の映画館名簿では「文化劇場」。1960年の映画館名簿では「松竹文化劇場」。1963年の映画館名簿では「文化劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「大川東宝文化劇場」。1978年の映画館名簿では「大川文化」。1981年の住宅地図では「東宝文化映劇」。1980年・1983年の映画館名簿では「大川文化劇場」。1984年の映画館名簿には掲載されていない。大川市最後の従来型映画館。跡地は「大川信用金庫本店」。最寄駅は西鉄天神大牟田線八丁牟田駅。

1962年12月23日、大川市榎津町の「文化映画劇場」暖房室付近から出火して全焼した。*118

1928年、大川町に中田栽資によって「旭東座」が開館し、浪曲・漫才・講談・奇術の興行などを行った。1954年に映画専門館化して「文化劇場」に改称した。1962年に火災で全焼したがすぐに再建された。映画産業の斜陽化に合わせて1966年に閉館したが、その後福岡市の興行主が経営者となり、1980年現在は「東宝文化映劇」として経営されている。*119
大川シネマホール
所在地 : 福岡県大川市酒見215-1 おおかわ交流プラザ4階(2018年・2020年)
開館年 : 2015年10月11日
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 大川シネマホール
2017年の映画館名簿には掲載されていない。2018年・2020年の映画館名簿では「大川シネマホール」。2018年の映画館名簿では経営会社が医療福祉運営機構、経営者が武井徳司、支配人が野口秀樹、370席。最寄駅は西鉄天神大牟田線八丁牟田駅。

2015年10月11日、福岡県大川市に映画館の大川シネマホールが開館した。運営は国際医療福祉大学などを運営する高邦会グループ。2015年4月にオープンした同グループの複合施設「おおかわ交流プラザ」4階に設置される。370席。スクリーンは高さ6.3メートル、幅14.5メートル。かつて大川市には4館の映画館があったが、1975年頃までにすべて閉館している。*120

小郡市

小山映劇
所在地 : 福岡県三井郡小郡町1101-1(1956年)、福岡県三井郡小郡町110-1(1958年)、福岡県三井郡小郡町1101(1960年・1962年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「小山映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

『小郡市史 第三巻 通史編 現代・民俗・地名』の「昭和28年ごろの小郡商店街」には2館の「劇場」が描かれている。*121
小郡東映
所在地 : 福岡県三井郡小郡町小坂井324-7(1957年)、福岡県三井郡小郡町30(1958年)、福岡県三井郡小郡町小板井324(1960年)、福岡県三井郡小郡町(1963年・1965年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1965年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「小郡東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

『小郡市史 第三巻 通史編 現代・民俗・地名』の「昭和28年ごろの小郡商店街」には2館の「劇場」が描かれている。*122

うきは市

吉井映画劇場/吉井劇場/吉井映劇
所在地 : 福岡県浮羽郡吉井町33(1941年)、福岡県浮羽郡吉井町(1943年・1950年・1953年)、福岡県浮羽郡吉井町33(1955年)、福岡県浮羽郡吉井町(1958年)
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1958年頃
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「吉井映画劇場」。1943年の映画館名簿では「吉井劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「吉井映画劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「吉井劇場」。1958年の映画館名簿では「吉井映劇」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
映劇記念館/紀念館
所在地 : 福岡県浮羽郡吉井町59(1955年)、福岡県浮羽郡吉井町1239(1960年)、福岡県浮羽郡吉井町(1963年)
開館年 : 1953年9月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年9月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「映劇記念館」。1960年・1963年の映画館名簿では「紀念館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
千足劇場/千足映劇/千足映画劇場
所在地 : 福岡県浮羽郡千足町(1943年)、福岡県浮羽郡浮羽町大字朝日348(1955年)、福岡県浮羽郡浮羽町千足(1958年)、福岡県浮羽郡浮羽町大字朝日348(1960年)、福岡県浮羽郡浮羽町(1963年)、福岡県浮羽郡浮羽町千足(1966年)
開館年 : 1941年以後1943年以前、1950年3月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年3月開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「千足劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「千足劇場」。1958年の映画館名簿では「千足映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「千足映劇」。1966年の映画館名簿では「千足映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。

みやま市

瀬高映画劇場/瀬高映劇
所在地 : 福岡県山門郡瀬高町(1950年)、福岡県山門郡瀬高町栄町(1955年)、福岡県山門郡瀬高町1433-2(1960年)、福岡県山門郡瀬高町1433(1962年)
開館年 : 1949年2月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1949年2月開館。1950年・1955年の映画館名簿では「瀬高映画劇場」。1960年・1962年の映画館名簿では「瀬高映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
セタカ東映館/セタカ東映/瀬高東映
所在地 : 福岡県山門郡瀬高町217(1957年)、福岡県山門郡瀬高町2179(1958年・1960年)、福岡県山門郡瀬高町(1963年・1964年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1964年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「セタカ東映館」。1960年の映画館名簿では「セタカ東映」。1963年・1964年の映画館名簿では「瀬高東映」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

1957年7月26日、瀬高町の「セタカ東映」ステージと屋根裏の一部が焼けた。原因は不明。*123
山門館/山門映画館/山門映画劇場
所在地 : 福岡県山門郡瀬高町(1947年・1950年)、福岡県山門郡瀬高町下庄1659(1955年・1958年・1960年)、福岡県山門郡瀬高町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年の映画館名簿では「山門映画館」。1955年の映画館名簿では「山門館」。1958年・1960年の映画館名簿では「山門映画館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「山門映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

八女郡広川町

映画館名簿によると八女郡広川町に映画館は存在しなかったと思われる。

三井郡大刀洗町

映画館名簿によると三井郡大刀洗町に映画館は存在しなかったと思われる。

三潴郡大木町

大木劇場
所在地 : 福岡県三潴郡大木町八丁年田248(1958年)、福岡県三潴郡大木町八丁牟田(1960年)、福岡県三潴郡大木町八牟田(1962年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1962年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「大木劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

筑豊地域

直方市

多賀劇場/多賀映画劇場/多賀映劇
所在地 : 福岡県直方市平和町(1953年・1955年)、福岡県直方市平和町632(1958年)、福岡県直方市大字直方632(1960年)、福岡県直方市平和町(1962年)
開館年 : 1950年
閉館年 : 1958年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「多賀劇場」。1958年の映画館名簿では「多賀映画劇場」。1960年・1962年の映画館名簿では「多賀映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1950年には直方市南部から「寿館」(グランド劇場)が移転しており、同年には多賀神社下の栄町に既存の建物を改修して「多賀劇場」が開館した。経営者は船越六朔。高田浩吉、宮城まり子、三木のり平、文楽人形芝居、美空ひばりなどの流行歌手の公演が行われた。やがて映画も上映するようになり、『戦艦ポチョムキン』『真昼の暴動』などの異色作を上映していた。1958年に廃館となり、その後建物が取り壊された。*124
改正座映劇/改正座/元町東映
所在地 : 福岡県直方市元町2-4823(1953年)、福岡県直方市下境町4822(1955年)、福岡県直方市元町4823(1958年)、福岡県直方市大字下境4822(1960年)、福岡県直方市元町2丁目(1961年)、福岡県直方市元町(1963年)
開館年 : 明治末期
閉館年 : 1963年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「改正座」。1958年の映画館名簿では「改正座映劇」。1960年の映画館名簿では「改正座」。1961年・1963年の映画館名簿では「元町東映」。1963年の住宅地図では「元町東映」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の住宅地図では「元町東映」。跡地は「下境郵便局」北東60mのアパート「コーポ筑豊」。最寄駅は平成筑豊鉄道伊田線南直方御殿口駅。

明治末期には直方町の元町(現・溝堀3丁目)に、下境方面の定劇場「改正座」が開館した。尾上興行部が経営していたが、1950年には映画の上映を開始し、1955年には再映館となって「元町東映」に改称した。1963年に廃館となった。建物は元町東映そのままに、1978年現在は家具製造工場となっている。*125
日若座/日吉座/直方東映
所在地 : 福岡県直方市西町775(1941年)、福岡県直方市字西町(1943年・1947年)、福岡県直方市字西町775(1950年)、福岡県直方市西町2(1953年・1955年)、福岡県直方市西町775(1958年・1960年)、福岡県直方市西町(1963年・1964年)
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年・1947年・1950年の映画館名簿では「日若座」。1953年・1955年の映画館名簿では「日吉座」。1954年の最新日本商工案内図では「日吉座」。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「直方東映」。1961年の日本住宅詳細図では「日吉銀映」。1963年の住宅地図では「直方東映」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の住宅地図では跡地に「旧日吉銀映」。跡地は「福岡ひびき信用金庫直方支店」。最寄駅はJR福北ゆたか線・平成筑豊鉄道伊田線直方駅。

明治40年代の直方町には「日若座」と「寿座」という2館の劇場があり、日若座の経営者は柳屋末吉だった。大正時代の日若座は定劇場だったが、映写室があって移動映写機を用いることができた。1938年には演劇場から映画館に転向し、邦画は東宝系作品を、洋画は東和系作品を上映した。戦後の日若座は東宝系作品の上映館だったが、1955年には東映作品の上映館となって「直方東映」に改称した。直方東映は1963年に閉館し、跡地には直方信用金庫が建てられた。*126

1960年、直方市の「直方東映」の姉妹館として隣接地に「直方第二東映」が開館し、東映第二会社の作品を上映した。日若座芝居茶屋の跡地である。直方東映の廃館後には平野興行部の経営となって「ニュー東映」に改称した。1966年に廃館となった。跡地には直方信用金庫が建てられた。*127
直方正栄映画劇場/正栄館/新知東映
所在地 : 福岡県直方市大正町(1957年)、福岡県直方市新知町(1958年)、福岡県直方市大字直方新知(1960年)、福岡県直方市新知町(1963年・1965年)
開館年 : 1953年
閉館年 : 1963年
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「直方正栄映画劇場」。1960年の映画館名簿では「正栄館」。1963年・1965年の映画館名簿では「新知東映」。1963年の住宅地図では「正栄映画館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「九州労働金庫直方支店」北西140mのアパート「オーク直方」。最寄駅は筑豊電気鉄道線筑豊直方駅。

1953年、直方市北部地区の発展を期して、小松芳夫の小松興行部によって邦画再映館「正栄館」が開館した。1978年現在の新知町7である。1960年には「元町東映」を経営する尾上興行部に経営が委託され、「新知東映」に改称した。1963年には元町東映とともに廃館となった。跡地にはスーパーマーケットが建てられた。*128
文化映劇/直方文化映画劇場
所在地 : 福岡県直方市中央通(1963年)、福岡県直方市西町(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「文化映劇」。1963年の住宅地図では「文化劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「直方文化映画劇場」。1969年の住宅地図では「文化劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「福岡ひびき信用金庫直方支店」南隣の「千手歯科医院」などが入るデントビル。
開月館/直方開月館
所在地 : 福岡県鞍手郡直方町(1925年・1927年)、福岡県鞍手郡直方町朝日町(1930年)、福岡県直方市朝日町(1934年・1936年)、福岡県直方市朝日町238-13(1941年)、福岡県直方市朝日町(1943年・1947年・1950年)、福岡県直方市朝日町238-3(1953年・1955年)、福岡県直方市朝日町238(1958年・1960年)、福岡県直方市朝日町(1963年)、福岡県直方市朝日町338(1966年)、福岡県直方市須崎町2-26(1969年)
開館年 : 1914年、1937年5月(再開館)
閉館年 : 1971年
『全国映画館総覧 1955』によると1937年5月開館。1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「開月館」。1958年の映画館名簿では「開月座」。1960年・1963年の映画館名簿では「開月館」。1963年の住宅地図では「映劇 開月館」。1966年・1969年の映画館名簿では「直方開月館」。1969年の住宅地図では「映画 開月館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1981年の住宅地図では跡地に「北九州マルショク直方店(サンリブ)」。跡地は2016年閉店のスーパーマーケット「サンリブ直方」の後に有料駐車場。小跡地は「須崎町公園」北西40mにある有料駐車場「直方くきのうみパーキング」。最寄駅はJR福北ゆたか線・平成筑豊鉄道伊田線直方駅。

1910年には鞍手郡直方町の直方駅が現在地に移転し、駅前の開発が進められることとなった。これに応じて1914年、「寿座」の平野伊之吉社長は駅前に活動常設館「開月館」を開館させた。落成時の開月館の写真あり。1915年夏には一世を風靡した『カチューシャ』が上映されている。寿館では尾上松之助主演作品が人気だったが、開月館では大活系の市川莚十郎・沢村四郎五郎主演作品が人気だった。1935年には開月館でトーキー映画が上映されるようになり、1937年には建物を改築した。戦後には大映や松竹系の上映館となり、「直方東映」の閉館後には東映作品も上映した。1971年に廃館となり、跡地には大型スーパーマーケットが建てられた。*129

1916年頃の直方にあった「開月館」の写真あり。1914年に日活系で開館し、のちに帝国キネマ系となった。戦後には改築されたが、1971年に閉館した。*130

1956年現在、平野晴美は直方市で映画館「グランド劇場」、「ロマン座」、「開月館」の3館を経営している。1933年に旧制福岡県立鞍手中学校を卒業し、東京の早稲田大学で学んだ。戦前には父親の平野伊之吉が直方町殿町で「寿座」を経営していた。*131

小説家の林芙美子は『放浪記』において、12歳の頃に直方で毎日のように映画館に通ったと綴っている。開月館は1914年竣工の常設の活動写真館であり、1915年時点の直方にあった活動写真館は開月館だけだったことから、林芙美子が通った映画館は開月館であるとされる。*132
寿館/グランド劇場/グランド映劇/直方グランド劇場
所在地 : 福岡県鞍手郡直方町(1925年・1927年・1930年)、福岡県直方市殿町(1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年)、福岡県直方市西町748(1955年)、福岡県直方市西町(1958年)、福岡県直方市有楽町(1960年)、福岡県直方市西町(1963年)、福岡県直方市有楽町(1966年)、福岡県直方市古町13-1(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年)
開館年 : 1910年5月、1950年(移転)
閉館年 : 1980年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「寿館」。1947年の映画館名簿では「直方グランド劇場」。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「グランド劇場」。1960年の映画館名簿では「グランド映劇」。1963年の映画館名簿では「グランド劇場」。1963年の住宅地図では「グランド劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「直方グランド劇場」。1969年の住宅地図では「グランド劇場」。1981年の住宅地図では跡地に「グランド有料駐車場」。1981年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「福岡ひびき信用金庫直方支店」西北西60mにある有料駐車場「グランド駐車場」。最寄駅はJR福北ゆたか線・平成筑豊鉄道伊田線直方駅。

1909年5月には直方町の「寿座」が焼失したが、1910年5月に新築されて演芸場として再開し、同年8月には株式会社寿座が設立されると、1911年3月には演芸場から活動常設館に転向した。1921年には「平野興行部寿館」に改称し、その後は日活作品とともに東亜やマキノの作品も上映した。大正末期の寿館ではチャンバラ作品やミステリーが好評であり、人情物は不評だった。戦後には洋画専門館となって「グランド劇場」に改称した。1950年には有楽町(現・古町13)に移転して新築開館した。旧所在地の寿館の建物は取り壊されてタクシー会社の車庫となった。その後グランド劇場は邦画上映館となり、1978年現在も営業中である。*133

1956年現在、平野晴美は直方市で映画館「グランド劇場」、「ロマン座」、「開月館」の3館を経営している。1933年に旧制福岡県立鞍手中学校を卒業し、東京の早稲田大学で学んだ。戦前には父親の平野伊之吉が直方町殿町で「寿座」を経営していた。*134
ロマン座/直方ロマン座
所在地 : 福岡県直方市西町748(1955年)、福岡県直方市西町(1958年)、福岡県直方市有楽町(1960年)、福岡県直方市西町(1963年)、福岡県直方市有楽町(1966年)、福岡県直方市古町12-17(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1983年)
開館年 : 1951年
閉館年 : 1983年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「ロマン座」。1963年の住宅地図では「ロマン座」。1966年・1969年の映画館名簿では「直方ロマン座」。1969年の住宅地図では「ロマン座」。1973年の映画館名簿では「直方ロマン映劇」。1975年・1978年・1980年・1983年の映画館名簿では「直方ロマン座」。1981年の住宅地図では「邦洋画のロマン」。1984年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「福岡ひびき信用金庫直方支店」北西60mにある駐車場。最寄駅はJR福北ゆたか線・平成筑豊鉄道伊田線直方駅。

1950年に直方市の洋画館「グランド劇場」が有楽町に移転開館すると、1951年には隣接地に姉妹館の「ロマン座」が開館し、日活・新東宝系の映画館として営業した。その後グランド劇場が邦画館となると、ロマン座は洋画館に転向して1978年現在も営業している。*135

1956年現在、平野晴美は直方市で映画館「グランド劇場」、「ロマン座」、「開月館」の3館を経営している。1933年に旧制福岡県立鞍手中学校を卒業し、東京の早稲田大学で学んだ。戦前には父親の平野伊之吉が直方町殿町で「寿座」を経営していた。*136
国際劇場/国際映劇/直方東宝国際映画劇場/直方東宝国際劇場/直方東宝国際
所在地 : 福岡県直方市原田町273(1959年・1960年)、福岡県直方市原田町(1963年)、福岡県直方市有楽町273(1966年)、福岡県直方市古町15-24(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年)
開館年 : 1955年
閉館年 : 1985年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「国際劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「国際映劇」。1963年の住宅地図では「国際劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「直方東宝国際映画劇場」。1969年の住宅地図では「東宝国際」。1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「直方東宝国際劇場」。1981年の住宅地図では「東宝国際」。1985年の映画館名簿では「直方東宝国際」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。直方市最後の従来型映画館。跡地は有料駐車場「直方ダイイチパーク」。最寄駅はJR福北ゆたか線・平成筑豊鉄道伊田線直方駅。

戦後の直方市では東宝系作品の上映館がなかったが、1955年には有楽町(現・古町15)に「東宝国際劇場」が開館した。当初の経営者は宮崎興行だったが、後に地元有志の経営となって1978年現在も営業を続けている。*137
TOHOシネマズ直方
所在地 : 福岡県直方市大字感田湯ノ浦1715-1 イオン直方ショッピングセンター2階(2006年)、福岡県直方市湯野原2-1-1 イオンモール直方内(2010年・2015年・2020年)
開館年 : 2005年4月5日
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2006年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズ直方1-9」(9館)。最寄駅は筑豊電気鉄道筑豊電気鉄道線遠賀野駅。

宮若市

桃山東映
所在地 : 福岡県鞍手郡宮田町大字本城(1959年・1960年)、福岡県鞍手郡宮田町(1962年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1962年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1962年の映画館名簿では「桃山東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の住宅地図では「桃山東映」。跡地は「塞神社」北北西170mのガレージ。最寄駅はJR筑豊本線勝野駅。
東亜劇場(宮田町)/東亜映劇
所在地 : 福岡県鞍手郡宮田町菅牟田(1947年)、福岡県鞍手郡宮田町磯光1323(1950年)、福岡県鞍手郡宮田町(1953年・1954年)、福岡県鞍手郡宮田町磯光(1956年・1958年・1960年)、福岡県鞍手郡宮田町(1963年)
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1963年頃
1943年の映画館名簿には鞍手郡が掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1954年の映画館名簿では「東亜劇場」。1955年の映画館名簿では鞍手郡が掲載漏れしている。1956年・1958年の映画館名簿では「東亜劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「東亜映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
第二金春館/大生館
所在地 : 福岡県鞍手郡宮田町(1930年・1934年)、福岡県鞍手郡宮田町中ノ島(1936年)、福岡県鞍手郡宮田町中島(1941年・1943年)、福岡県鞍手郡宮田町(1947年)、福岡県鞍手郡宮田町48(1950年)、福岡県鞍手郡宮田町(1951年・1952年・1953年・1954年)、福岡県鞍手郡宮田町宮田(1958年)、福岡県鞍手郡宮田町大字宮田(1960年)、福岡県鞍手郡宮田町(1963年)
開館年 : 1924年6月6日
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「大生館」。1947年・1950年・1951年の映画館名簿では「第二金春館」。1952年・1953年・1954年の映画館名簿では「大生館」。1955年の映画館名簿では鞍手郡が掲載漏れしている。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「大生館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

1924年6月6日、遠賀郡宮田町に直方町の平野某が経営する「大生館」が開館した。帝キネとマキノを上映していたが、昭和に入ると原口政基地が経営者となった。犬鳴川の2つの流れに挟まれた中島にあり、1984年現在は大塚呉服店などが並ぶ店舗群の一角である。*138
福丸映劇
所在地 : 福岡県鞍手郡若宮町福丸(1958年)、福岡県鞍手郡若宮町(1963年・1964年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1964年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「福丸映劇」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1964年の映画館名簿では「福丸映劇」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
文化映劇/東町東映/宮田東町東映劇場
所在地 : 福岡県鞍手郡宮田町大字鶴田1974(1959年)、福岡県鞍手郡宮田町東町1974(1960年)、福岡県鞍手郡宮田町(1963年)、福岡県鞍手郡宮田町東町(1966年・1967年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1967年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「文化映劇」。1963年の映画館名簿では「東町東映」。1966年・1967年の映画館名簿では「宮田東町東映劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。
宮田東映/宮田東映劇場
所在地 : 福岡県鞍手郡宮田町宮田(1956年・1958年)、福岡県鞍手郡宮田町4887(1960年)、福岡県鞍手郡宮田町(1963年)、福岡県鞍手郡宮田町宮田4887(1966年・1967年・1968年・1969年)、福岡県鞍手郡宮田町4887(1970年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では鞍手郡が掲載漏れしている。1956年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「宮田東映」。1963年の住宅地図では「宮田東映」。1966年・1967年・1968年・1969年・1970年の映画館名簿では「宮田東映劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「宮田郵便局」南東130mの「横矢月極駐車場」。最寄駅はJR筑豊本線勝野駅。

嘉麻市

山嘉座
所在地 : 福岡県嘉穂郡稲築町鴨生(1947年・1950年)、福岡県嘉穂郡稲築町(1953年)
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1953年頃
1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「山嘉座」。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。
山野鉱業会館/三井山野鉱業所会館
所在地 : 福岡県嘉穂郡稲築町三井鉱業所(1950年)、福岡県嘉穂郡稲築町(1953年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1953年頃
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「山野鉱業会館」。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。
永楽館
所在地 : 福岡県嘉穂郡上山田町(1930年)、福岡県嘉穂郡山田町上山田町(1936年)、福岡県嘉穂郡山田町上山田(1941年)、福岡県嘉穂郡山田町(1943年)、福岡県嘉穂郡山田町上山田(1947年)、福岡県嘉穂郡山田町字上山田1917(1950年)、福岡県嘉穂郡山田町(1953年)
開館年 : 1919年12月26日
閉館年 : 1953年頃
1930年の映画館名簿では「永楽館」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「永楽館」。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。

1919年12月26日、山田町に日活系映画館「永楽館」が開館した。1930年、大橋に高倉武市が「昭和倶楽部」を開設した。*139

昭和初期の山田町には、1918年開館の「第二永楽館」、昭和に入って開館した「昭和俱楽部」があった。第二永楽館の経営者は徳永幸一であり、徳永商会における初の劇場だった。*140

1953年現在の山田町にある映画館は、杉町の「永楽館」(東映・大映)、杉町の「常盤館」(東宝)、大橋の「銀映」(松竹)、下山田の「日吉座」(自由番組)、三菱の「協和会館」(自由番組)、古河の「浩々館」(自由番組)である。永楽館は1919年12月26日の開設であり、経営者は中西公信。常盤館は1950年5月5日の開設であり、経営者は松岡羊之助。銀映は1950年3月1日の開設であり、経営者は竹森徳雄。*141
漆生従業員クラブ
所在地 : 福岡県嘉穂郡稲築町漆生1240(1956年・1957年・1958年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1958年頃
1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。1956年・1957年・1958年の映画館名簿では「漆生従業員クラブ」。1956年の映画館名簿では経営者・支配人ともに大里潤治、木造2階、定員1500、上映系統が記載なし、電話が稲築140。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
大衆館
所在地 : 福岡県嘉穂郡大隅町(1950年)、福岡県嘉穂郡大隅町大字大隅(1953年)、福岡県嘉穂郡大隅町312(1954年)、福岡県嘉穂郡嘉穂町大隅上町(1956年・1958年)、福岡県嘉穂郡嘉穂町大隅(1959年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1959年頃
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1954年の映画館名簿では「大衆館」。1954年の最新日本商工案内図では「大衆館」。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。1956年・1958年・1959年の映画館名簿では「大衆館」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。
碓井館
所在地 : 福岡県嘉穂郡碓井村飯田153(1941年)、福岡県嘉穂郡碓井町(1943年・1953年)、福岡県嘉穂郡碓井町飯田152(1954年)、福岡県嘉穂郡碓井町飯田275(1956年・1958年)、福岡県嘉穂郡碓井町飯田(1960年・1962年)
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年の映画館名簿では「碓井館」。1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1954年の映画館名簿では「碓井館」。1954年の最新日本商工案内図では「碓井館」。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。1956年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「碓井館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「嘉麻市飯田公民館」など。最寄駅はJR筑豊本線・篠栗線桂川駅。

戦時中、嘉穂郡穂波村天道に「東宝館」(後の天道館)が開館した。経営者は藤井徳七である。戦時中の飯塚市近辺では、碓井村に佐藤政敏が経営する「碓井館」、山田町に松岡源六が経営する「常盤座」なども開館した。*142
碓井東映
所在地 : 福岡県嘉穂郡碓井町飯田(1959年・1960年・1962年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1962年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1962年の映画館名簿では「碓井東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
龍王劇場/龍王映劇/赤坂映劇(稲築町)
所在地 : 福岡県嘉穂郡稲築町(1953年・1954年)、福岡県嘉穂郡稲築町鴨生(1956年・1958年・1960年・1962年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1962年頃
1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「龍王劇場」。1954年の映画館名簿では「龍王映劇」。1954年の最新日本商工案内図では「竜王映劇」。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。1956年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「赤坂映劇」。1958年の飯塚市住宅詳細図では「赤坂映劇」。1961年の日本住宅詳細図では「東亜映劇」(※赤坂映劇の誤りと思われる)。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の住宅地図では跡地に「(建)」。跡地は「洗心寺」北東20mの民家。最寄駅はJR後藤寺線下鴨生駅。
三菱協和会館/協和会館(山田市)
所在地 : 福岡県嘉穂郡山田町(1952年・1953年)、福岡県嘉穂郡山田町三菱上山田鉱業所(1954年)、福岡県山田市上山田町(1956年・1958年)、福岡県山田市上山田(1960年)、福岡県山田市上山田町(1961年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年の映画館名簿では「三菱協和会館」。1954年の映画館名簿では「協和会館」。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。1956年・1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「協和会館」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。

1953年現在の山田町にある映画館は、杉町の「永楽館」(東映・大映)、杉町の「常盤館」(東宝)、大橋の「銀映」(松竹)、下山田の「日吉座」(自由番組)、三菱の「協和会館」(自由番組)、古河の「浩々館」(自由番組)である。永楽館の経営者は中西公信。常盤館の経営者は松岡羊之助。銀映の経営者は竹森徳雄。日吉座の経営者は山際庄平。協和会館の経営者は三菱鉱業所。浩々館の経営者は古河鉱業所。*143
常盤館
所在地 : 福岡県嘉穂郡山田町(1953年)、福岡県嘉穂郡山田町大字上山田(1954年)、福岡県山田市上山田町大橋(1956年・1958年)、福岡県山田市上山田(1960年)、福岡県山田市上山田町(1962年)
開館年 : 1950年5月5日
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1954年の映画館名簿では「常盤館」。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。1956年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「常盤館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

戦時中、嘉穂郡穂波村天道に「東宝館」(後の天道館)が開館した。経営者は藤井徳七である。戦時中の飯塚市近辺では、碓井村に佐藤政敏が経営する「碓井館」、山田町に松岡源六が経営する「常盤座」なども開館した。*144

1953年現在の山田町にある映画館は、杉町の「永楽館」(東映・大映)、杉町の「常盤館」(東宝)、大橋の「銀映」(松竹)、下山田の「日吉座」(自由番組)、三菱の「協和会館」(自由番組)、古河の「浩々館」(自由番組)である。永楽館は1919年12月26日の開設であり、経営者は中西公信。常盤館は1950年5月5日の開設であり、経営者は松岡羊之助。銀映は1950年3月1日の開設であり、経営者は竹森徳雄。*145

1953年12月末日現在の山田市にある映画館は、大字上山田の「常盤館」(建坪数419.2坪、収容人員620人)、大字上山田の「公楽」(179坪、488人)、大字上山田の「銀映」(211坪、400人)、大字上山田の「協和会館」(241.5坪、400人)、大字下山田の「日吉座」(258.21坪、444人)、大字下山田の「浩々館」(254坪、544人)である。*146
昭和倶楽部/昭和クラブ/銀映映画劇場/銀映映劇/銀映劇場
所在地 : 福岡県嘉穂郡山田町大橋(1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年)、福岡県嘉穂郡山田町上山田町(1951年・1952年・1953年)、福岡県山田市上山田町(1958年)、福岡県山田市上山田(1960年)、福岡県山田市上山田町(1962年)
開館年 : 1930年以後1934年以前、1950年3月1日
閉館年 : 1962年頃
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年の映画館名簿では「昭和倶楽部」。1951年の映画館名簿では「昭和クラブ」。1952年・1953年の映画館名簿では「銀映」。1954年の最新日本商工案内図では「銀映」。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。1956年の映画館名簿では「銀映座」。1958年の映画館名簿では「銀映映画劇場」。1960年の映画館名簿では「銀映映劇」。1961年の日本住宅詳細図ではこの場所に「喜楽パチンコ」。1962年の映画館名簿では「銀映劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の住宅地図ではこの場所に「喜楽スマートボール」。跡地はコインランドリー「エコラックスランドリー嘉麻山田店」。最寄駅はJR後藤寺線下鴨生駅。

昭和初期の山田町には、1918年開館の「第二永楽館」、昭和に入って開館した「昭和俱楽部」があった。第二永楽館の経営者は徳永幸一であり、徳永商会における初の劇場だった。*147

1953年現在の山田町にある映画館は、杉町の「永楽館」(東映・大映)、杉町の「常盤館」(東宝)、大橋の「銀映」(松竹)、下山田の「日吉座」(自由番組)、三菱の「協和会館」(自由番組)、古河の「浩々館」(自由番組)である。永楽館は1919年12月26日の開設であり、経営者は中西公信。常盤館は1950年5月5日の開設であり、経営者は松岡羊之助。銀映は1950年3月1日の開設であり、経営者は竹森徳雄。*148
日吉座/日吉映劇
所在地 : 福岡県嘉穂郡山田町(1952年)、福岡県嘉穂郡山田町下山田(1953年)、福岡県嘉穂郡山田町大字下山田431(1954年)、福岡県山田市下山田町(1956年・1958年)、福岡県山田市下山田(1960年・1963年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年の映画館名簿では「日吉座」。1953年・1954年の映画館名簿では「日吉映劇」。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。1956年の映画館名簿では「日吉座」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「日吉映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「下山田郵便局」西南西90mの工場。最寄駅はJR後藤寺線下鴨生駅。

1953年現在の山田町にある映画館は、杉町の「永楽館」(東映・大映)、杉町の「常盤館」(東宝)、大橋の「銀映」(松竹)、下山田の「日吉座」(自由番組)、三菱の「協和会館」(自由番組)、古河の「浩々館」(自由番組)である。永楽館の経営者は中西公信。常盤館の経営者は松岡羊之助。銀映の経営者は竹森徳雄。日吉座の経営者は山際庄平。協和会館の経営者は三菱鉱業所。浩々館の経営者は古河鉱業所。*149
銀映座/第一銀映/銀映
所在地 : 福岡県嘉穂郡山田町大橋(1954年)、福岡県山田市大橋町(1956年・1958年・1960年)、福岡県山田市上山田大橋(1963年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年の映画館名簿では「銀映座」。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。1956年・1958年・1960年の映画館名簿では「第一銀映」。1961年の日本住宅詳細図では「山田銀映」(※地図の精度が低いため跡地は判然とせず)。1963年の映画館名簿では「銀映」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は国道322号大橋北交差点北100mの民家。最寄駅はJR後藤寺線下鴨生駅。
宝栄館(稲築町)
所在地 : 福岡県嘉穂郡稲築町緑ケ丘(1959年・1960年)、福岡県嘉穂郡稲築町(1963年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1963年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「宝栄館」。1961年の日本住宅詳細図では発見できず。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
世界館/金星映劇/第一金星映劇/第一金星
所在地 : 福岡県嘉穂郡稲築村鴨生(1930年、1936年)、福岡県嘉穂郡稲築町鴨生(1941年・1943年)、福岡県嘉穂郡稲築町鴨生352(1950年)、福岡県嘉穂郡稲築町(1952年)、福岡県嘉穂郡稲築町鴨生(1954年)、福岡県嘉穂郡稲築町351(1956年・1958年)、福岡県嘉穂郡稲築町鴨生(1960年)、福岡県嘉穂郡稲築町(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1918年6月頃
閉館年 : 1965年頃
1930年の映画館名簿では「世界館」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年・1950年・1952年の映画館名簿では「世界館」。1954年の映画館名簿では「金星映劇」。1954年の最新日本商工案内図では「第一金星映劇」。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。1956年・1958年の映画館名簿では「金星映劇」。1958年の飯塚市住宅詳細図では「金星映劇」。1960年の映画館名簿では「第一金星映劇」。1961年の日本住宅詳細図では「第一金星映画」。1963年の映画館名簿では「第一金星」。1964年の映画館名簿では「第一金星映劇」。1965年の映画館名簿では「金星映劇」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の住宅地図では描かれていない。跡地は「稲築警部交番」南西30mの「西野病院職員専用駐車場」。最寄駅はJR後藤寺線下鴨生駅。

1918年6月とされる時期、嘉穂郡稲築村鴨生に「世界館」が開館した。他都市の世界館同様に日活系映画館だった。戦後には「第一金星映画劇場」となった。*150
下山田コンパル東映/下山田コンパル/コンパル東映
所在地 : 福岡県山田市下山田町(1961年・1962年)、福岡県山田市下山田(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1965年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1962年の映画館名簿では「下山田コンパル東映」。1961年の日本住宅詳細図では「東映コンパル」。1963年・1964年の映画館名簿では「下山田コンパル」。1965年の映画館名簿では「コンパル東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の住宅地図では「東映コンパル」。跡地は国道322号下山田交差点北西80mの民家。最寄駅はJR後藤寺線下鴨生駅。
第二銀映映画劇場/第二銀映/銀映劇場
所在地 : 福岡県山田市上山田町(1956年・1958年)、福岡県山田市上山田(1960年)、福岡県山田市上山田町本町(1963年)、福岡県山田市上山田本町(1964年)、福岡県山田市上山田(1965年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1965年頃
1954年の映画館名簿には掲載されていない。1954年の最新日本商工案内図では「常盤映画劇場」。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。1956年の映画館名簿では「第二銀映」。1958年の映画館名簿では「第二銀映映画劇場」。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「第二銀映」。1961年の日本住宅詳細図では「第二銀映」。1965年の映画館名簿では「銀映劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の住宅地図では跡地に「山田ケミカルKK」。跡地は「上山田住民ホール」北西40mのアパート。最寄駅はJR後藤寺線下鴨生駅。
日東映劇/碓井日映/碓井日東映劇
所在地 : 福岡県嘉穂郡碓井町(1963年・1966年・1967年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1967年頃
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「日東映劇」。1966年の映画館名簿では「碓井日映」。1967年の映画館名簿では「碓井日東映劇」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。
第二金星映劇/第二金星/稲築第二金星映画劇場
所在地 : 福岡県嘉穂郡稲築町漆生(1954年・1956年・1958年)、福岡県嘉穂郡稲築町(1963年・1966年・1967年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1967年頃
1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1956年・1958年の映画館名簿では「第二金星映劇」。1954年の最新日本商工案内図では「第二金星映劇」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年の日本住宅詳細図では「第二金星映劇」。1963年の映画館名簿では「第二金星」。1966年・1967年の映画館名簿では「稲築第二金星映画劇場」。1967年の住宅地図では「第二金星映劇」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「漆生郵便局」北北西90mの民家。最寄駅はJR後藤寺線下鴨生駅。
第三金星映劇/稲築東映/稲築東映劇場
所在地 : 福岡県嘉穂郡稲築町鴨生(1954年・1956年・1958年・1960年)、福岡県嘉穂郡稲築町(1963年)、福岡県嘉穂郡稲築町鴨生191(1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1968年頃
1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年の映画館名簿では「第三金星映劇」。1954年の最新日本商工案内図では「第三金星映劇」。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。1956年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「稲築東映」。1958年の飯塚市住宅詳細図では「稲築東映」。1961年の日本住宅詳細図では「稲築東映」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「稲築東映劇場」。1967年の住宅地図では「稲築東映」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「嘉麻市鴨生公民館」西北西150mの「月極秋穂駐車場」。最寄駅はJR後藤寺線下鴨生駅。
山田東映/山田東映劇場
所在地 : 福岡県山田市上山田町本町(1956年・1958年)、福岡県山田市上山田(1960年・1963年)、福岡県山田市上山田町1417(1966年・1968年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1968年頃
1954年の映画館名簿には掲載されていない。1954年の最新日本商工案内図では「公楽映画劇場」。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。1956年の映画館名簿では「山田東映」。1958年の映画館名簿では「山田東映劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「山田東映」。1961年の日本住宅詳細図では「山田東映」。1966年・1968年の映画館名簿では「山田東映劇場」。1967年の住宅地図では跡地に空白。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「嘉麻市立山田図書館」南東70mの民家など。最寄駅はJR後藤寺線下鴨生駅。
山田映劇/山田松竹映劇/山田松竹/山田松竹劇場
所在地 : 福岡県山田市上山田大橋(1961年・1962年・1963年)、福岡県山田市上山田町大橋436(1966年)、福岡県山田市上山田町大橋(1969年)、福岡県山田市上山田町大橋436(1970年)
開館年 : 1958年5月14日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「山田映劇」。1961年の日本住宅詳細図では「山田東映」。1962年の映画館名簿では「山田松竹映劇」。1963年の映画館名簿では「山田松竹」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「山田松竹劇場」。1967年の住宅地図では「山田東映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は国道322号大橋交差点北東40mのマンション「エスカーザ」。最寄駅はJR後藤寺線下鴨生駅。

1958年5月14日、山田市大橋に「山田映劇」が開館した。オープニングは『忠臣蔵』と『二等兵物語 死んだら神様の巻』。館主は鶴賀衛。建坪135坪。鉄筋造ブロック3階建て。冷暖房完備。定員500人。客席はアルプススタンド式。*151
浩々館/古河鉱業浩々館/下山田浩々館
所在地 : 福岡県山田市下山田町(1956年)、福岡県山田市下山田町554(1958年)、福岡県山田市下山田(1960年)、福岡県山田市下山田町(1966年)、福岡県山田市下山田(1969年)、福岡県山田市下山田554-2(1970年)
開館年 : 1937年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。1956年・1958年の映画館名簿では「浩々館」。1960年の映画館名簿では「古河鉱業浩々館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「下山田浩々館」。1967年の住宅地図では「浩々館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「古河集会所」南南西120mの集合住宅。最寄駅はJR後藤寺線下鴨生駅。

嘉穂郡山田町の下山田炭鉱。1937年現在、福利施設として建坪140坪の「浩々館」、建坪20坪の「求真館」がある。浩々館の遠景の写真あり。*152

嘉穂郡山田町の下山田炭鉱。1938年現在、慰安娯楽施設として収容人員1200人の「浩々館」、収容人員200人の「求真館」がある。普段の浩々館は柔道場や剣道場として使用され、各種式場、講演会場、演芸場となる。*153

1953年現在の山田町にある映画館は、杉町の「永楽館」(東映・大映)、杉町の「常盤館」(東宝)、大橋の「銀映」(松竹)、下山田の「日吉座」(自由番組)、三菱の「協和会館」(自由番組)、古河の「浩々館」(自由番組)である。永楽館の経営者は中西公信。常盤館の経営者は松岡羊之助。銀映の経営者は竹森徳雄。日吉座の経営者は山際庄平。協和会館の経営者は三菱鉱業所。浩々館の経営者は古河鉱業所。*154
三井山野会館/山野会館/稲築山野会館
所在地 : 福岡県嘉穂郡稲築町鴨生(1960年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1957年後半
閉館年 : 1973年
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「三井山野会館」。1961年の日本住宅詳細図では発見できず。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年の映画館名簿では「山野会館」。1967年の住宅地図では発見できず。1975年の映画館名簿には掲載されていない。1994年解体。

1957年後半のこのほど、嘉穂郡稲築町に三井鉱山山野鉱業所による映画館が開館した。東宝系の筑豊第一封切館。従業員と家族の厚生施設。集会所を兼ねている。鉄筋造3階建て。客席はワンスロープ式で定員700人。総工費3700万円。*155

1994年12月中にも、嘉穂郡稲築町の旧三井鉱山山野鉱業所が経営していた映画館「三井山野総合会館」(山野会館)が取り壊される。閉館から約20年間は利用されずにいた。1957年に三井鉱山の福利厚生施設として開館し、邦画や洋画などの映画の上映、浪曲や歌謡ショーの公演などが行われた。山野会館は福利厚生施設であることから、料金は10円から20円と安価であり、炭鉱労働者やその家族であふれた時代もあった。1973年に炭鉱が閉山するのと同時に山野会館も閉館した。1994年11月には稲築町が三井鉱山から土地約2700平方メートルを約2700万円で購入し、山野会館を取り壊して公園として整備する計画を立てている。*156

鞍手郡鞍手町

鞍手協和会館(古門)
所在地 : 福岡県鞍手郡鞍手町大字古門600(1959年・1960年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1960年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「鞍手協和会館」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。
寿劇場(鞍手町)
所在地 : 福岡県鞍手郡鞍手町大字永谷(1957年・1958年)、福岡県鞍手郡鞍手町大字永谷36(1960年)、福岡県鞍手郡鞍手町(1963年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿では鞍手郡が掲載漏れしている。1956年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「寿劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
西川会館
所在地 : 福岡県鞍手郡鞍手町(1961年・1962年・1963年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1963年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1962年・1963年の映画館名簿では「西川会館」。1963年の住宅地図では「西川会館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「日高歯科医院」北北東60mの更地。最寄駅はJR筑豊本線鞍手駅。
協和会館(新入)/三菱新入協和会館
所在地 : 福岡県鞍手郡剣村新入(1950年)、福岡県鞍手郡剣村中山(1953年)、福岡県鞍手郡鞍手町古門(1956年)、福岡県鞍手郡鞍手町中山2451(1958年)、福岡県鞍手郡鞍手町大字中山2451(1960年)、福岡県鞍手郡鞍手町(1963年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1963年頃
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「協和会館」。1955年の映画館名簿では鞍手郡が掲載漏れしている。1956年の映画館名簿では「新入協和会館」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「三菱新入協和会館」。1963年の住宅地図では「協和会館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は鞍手公園北東の「鞍手町学校給食共同調理場」。最寄駅はJR筑豊本線鞍手駅。
朝日館/朝日座/朝日東映/朝日名画座/剣町朝日名画座
所在地 : 福岡県鞍手郡剣村字中山(1943年・1950年)、福岡県鞍手郡剣村(1953年)、福岡県鞍手郡鞍手町中山2347(1958年・1960年)、福岡県鞍手郡鞍手町(1963年)、福岡県鞍手郡鞍手町中山(1966年・1967年)
開館年 : 1941年以後1943年以前
閉館年 : 1967年頃
1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「朝日館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「朝日座」。1953年の映画館名簿では「旭館」。1955年の映画館名簿では鞍手郡が掲載漏れしている。1958年の映画館名簿では「朝日座」。1960年の映画館名簿では「朝日東映」。1963年の映画館名簿では「朝日名画座」。1963年の住宅地図では北側に「朝日東映」で南側に「朝日名画座」。1964年の住宅地図では北側に「朝日東映」で南側に「第二東映」。1966年・1967年の映画館名簿では「剣町朝日名画座」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「本町区公民館」西南西50mの建物。最寄駅はJR筑豊本線鞍手駅。

鞍手郡小竹町

小竹劇場/小竹映画劇場/小竹映劇
所在地 : 福岡県鞍手郡小竹町勝野3472-26(1952年)、福岡県鞍手郡小竹町勝野(1953年・1954年・1956年)、福岡県鞍手郡小竹町3472(1958年)、福岡県鞍手郡小竹町大字勝野(1960年)、福岡県鞍手郡小竹町(1963年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1963年頃
1951年の映画館名簿には鞍手郡が掲載されていない。1952年・1953年・1954年の映画館名簿では「小竹映劇」。1955年の映画館名簿では鞍手郡が掲載漏れしている。1956年の映画館名簿では「小竹劇場」。1958年の映画館名簿では「小竹映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「小竹映劇」。1963年の住宅地図では「小竹映画劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「小竹郵便局」南東70mの「整形外科健成クリニック」。最寄駅はJR福北ゆたか線小竹駅。
目尾会館
所在地 : 福岡県鞍手郡小竹町新多1381(1956年・1958年)、福岡県鞍手郡小竹町新多138(1960年)、福岡県鞍手郡小竹町(1963年・1964年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1964年頃
1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では鞍手郡が掲載漏れしている。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「目尾会館」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

嘉穂郡桂川町

桂川座/桂川毎日館
所在地 : 福岡県嘉穂郡桂川町(1952年・1953年)、福岡県嘉穂郡桂川町土師3542(1954年)、福岡県嘉穂郡桂川町土師(1956年・1958年・1960年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1960年頃
1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年の映画館名簿では「桂川座」。1954年の映画館名簿では「桂川毎日館」。1954年の最新日本商工案内図では「桂川劇場」。1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。1956年・1958年・1960年の映画館名簿では「桂川毎日館」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「桂川交番」南東120mの民家数軒。最寄駅はJR筑豊本線・篠栗線桂川駅。
平山信和/平山信和会館
所在地 : 福岡県嘉穂郡桂川町土師2343(1956年)、福岡県嘉穂郡桂川町土師2341(1958年)、福岡県嘉穂郡桂川町(1963年)、福岡県嘉穂郡桂川町土師2343(1966年・1969年)
開館年 : 1934年10月
閉館年 : 1969年頃
1955年の映画館名簿では嘉穂郡が掲載漏れしている。1956年・1958年の映画館名簿では「平山信和会館」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「平山信和会館」。1966年の映画館名簿では「平山信和」。1969年の映画館名簿では「平山信和会館」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。

嘉穂郡桂川町の平山鉱業所の福利施設である「信和会館」。1934年10月建設。700人収容。*157

田川郡添田町

添田劇場
所在地 : 福岡県田川郡添田町(1950年・1953年)、福岡県田川郡添田町字庄195(1954年)、福岡県田川郡添田町(1957年・1958年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1954年の映画館名簿では「添田劇場」。1954年の筑豊地区住宅地図では「添田館(映)」。1955年の映画館名簿では田川郡が掲載漏れしている。1957年・1958年の映画館名簿では「添田劇場」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年推定の西日本住宅詳細図では掲載範囲外。跡地は「田川信用金庫添田支店」南西90mの建物。最寄駅はJR日田彦山線添田駅。
峰地会館
所在地 : 福岡県田川郡添田町159(1956年・1957年・1958年・1959年)、福岡県田川郡添田町大字庄195(1960年)、福岡県田川郡添田町(1962年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1962年頃
1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では田川郡が掲載漏れしている。1956年・1957年・1958年・1959年・1960年・1962年の映画館名簿では「峰池会館」。1960年推定の西日本住宅詳細図では「峯地会館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1963年推定の住宅地図では「有限日華工務店 峯地会館」。跡地は「そえだ葬祭葵会館」。最寄駅はJR日田彦山線添田駅。
添田東映映劇/添田東映
所在地 : 福岡県田川郡添田町(1957年・1958年)、福岡県田川郡添田町大字庄159(1960年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1962年頃
1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では田川郡が掲載漏れしている。1957年・1958年の映画館名簿では「添田東映」。1959年の映画館名簿では「添田東映映劇」。1960年の映画館名簿では「添田東映」。1960年推定の西日本住宅詳細図では発見できず。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1963年推定の住宅地図では発見できず。

1959年頃の添田町にあった「添田東映」の写真あり。「添田東映」の文字が見える。『丹下左膳』ののぼりが見える。1956年頃に開館し、1962年頃に閉館した。館主は中川金平だった。添田町大正町の大田原電器店付近にあった。*158
九州館/添田九州館
所在地 : 福岡県田川郡添田町(1943年・1947年・1950年・1953年)、福岡県田川郡添田町畑川(1954年・1958年)、福岡県田川郡添田町大字畑川1172(1960年)、福岡県田川郡添田町(1963年)、福岡県田川郡添田町畑川1270(1966年)
開館年 : 1936年頃
閉館年 : 1968年4月29日
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1943年・1947年・1950年・1953年・1954年の映画館名簿では「九州館」。1954年の筑豊地区住宅地図では「九州館(映)」。1955年の映画館名簿では田川郡が掲載漏れしている。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「九州館」。1960年の西日本住宅詳細図では「映画館 九州館」。1963年推定の住宅地図では「映画館 九州館」。1966年の映画館名簿では「添田九州館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「雪竹小児科内科アレルギー科医院」北東80mの「由香利陶房」。最寄駅はJR日田彦山線添田駅。

1955年頃の添田町にあった「九州館」の写真あり。「KUSHUKAN」の文字が見える。1936年頃に開館した。名称は山田市出身の関取である九州山が名称の由来である。1955年頃に館主の中川良一によって改装された。1968年4月29日に閉館した。添田町畑川の中川商店の隣にあった。*159

田川郡糸田町

豊国館/糸田有楽/有楽映劇
所在地 : 福岡県田川郡糸田町(1930年)、福岡県田川郡糸田町宮床(1934年・1936年)、福岡県田川郡糸田町宮床1924(1941年)、福岡県田川郡糸田町(1943年)、福岡県田川郡糸田町宮床(1947年)、福岡県田川郡糸田町字宮床1924(1950年)、福岡県田川郡糸田町(1953年・1954年)、福岡県田川郡糸田町1924(1957年・1958年・1960年)、福岡県田川郡糸田町(1961年・1962年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1954年の映画館名簿では「豊国館」。1954年の筑豊地区住宅地図では「豊国館(映)」。1955年の映画館名簿では田川郡が掲載漏れしている。1957年・1958年の映画館名簿では「豊国館」。1960年の映画館名簿では「糸田有楽」。1960年推定の西日本住宅詳細図では「糸田有楽映劇」。1961年・1962年の映画館名簿では「有楽映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1963年推定の住宅地図では跡地に「アキヤ」。跡地は「糸田郵便局」。最寄駅は平成筑豊鉄道糸田線糸田駅。
東洋映劇/糸田東映/糸田東映劇場
所在地 : 福岡県田川郡糸田町(1954年・1958年・1960年・1963年)、福岡県田川郡糸田町宮川3219(1966年・1967年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年の映画館名簿では「東洋映劇」。1954年の筑豊地区住宅地図では「東洋映画劇場」。1955年の映画館名簿では田川郡が掲載漏れしている。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「糸田東映」。1960年推定の西日本住宅詳細図では「糸田東映」。1963年推定の住宅地図では「糸田東映」。1966年・1967年の映画館名簿では「糸田東映劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「糸田郵便局」北西140mの「株式会社ソーキ福岡工場・物流センター」。最寄駅は平成筑豊鉄道糸田線糸田駅。

田川郡川崎町

大峯会館/大峰会館
所在地 : 福岡県田川郡川崎町131(1956年・1958年・1960年)、福岡県田川郡川崎町(1961年・1962年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1962年頃
1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では田川郡が掲載漏れしている。1956年の映画館名簿では「大峯会館」。1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「大峰会館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1963年推定の住宅地図では掲載範囲外と思われる。
第二昭和館/川崎第二昭和館
所在地 : 福岡県田川郡川崎町(1960年・1963年)、福岡県田川郡川崎町川崎403(1966年・1968年)
開館年 : 1958年5月3日
閉館年 : 1968年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「第二昭和館」。1960年の西日本住宅詳細図では「第二昭和館」。1963年推定の住宅地図では「第二昭和館」。1966年・1968年の映画館名簿では「川崎第二昭和館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「柏村医院」西南西30mのマンション「本町コーポラス」。最寄駅はJR日田彦山線豊前川崎駅。

1958年5月3日、田川郡川崎町の「第二昭和館」が開館した。オープニングは『大当り狸御殿』と『江戸っ子祭』の二本立。総鉄筋造、3階建て。建坪240坪。冷暖房完備。定席441。ワンスロープ式。工費約5000万円。施工は竹中工務店。*160

1958年6月15日、田川郡川崎町の「第一昭和館」が改装工事を終えて営業を再開した。オープニングは『オンボロ人生』と『水戸漫遊記』。旧称は「昭和館」。4月3日に開館した「第二昭和館」の姉妹館である。そう建坪約120坪。鉄筋造一部木造、2階建て。スクリーンは25尺×11尺のシネスコ用。定員350。客席はワンスロープ式。上映系統は松竹・東宝・日活・新東宝。*161
川崎劇場/川崎東映/川崎東映劇場
所在地 : 福岡県田川郡川崎町808(1954年)、福岡県田川郡川崎町(1956年・1958年)、福岡県田川郡川崎町191(1960年)、福岡県田川郡川崎町(1963年)、福岡県田川郡川崎町川崎192(1966年)、福岡県田川郡川崎町川崎191(1968年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1968年頃
1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年の映画館名簿では「川崎劇場」。1954年の筑豊地区住宅地図では「川崎劇場」(川沿いの路地の名称は劇場通り)。1955年の映画館名簿では田川郡が掲載漏れしている。1956年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「川崎東映」。1960年推定の西日本住宅詳細図では「川崎東映」。1963年推定の住宅地図では「川崎東映」。1966年・1968年の映画館名簿では「川崎東映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「法泉寺」南西70mの月極駐車場とガレージ。最寄駅はJR日田彦山線豊前川崎駅。
昭和館/第一昭和館/川崎昭和館
所在地 : 福岡県田川郡川崎村(1930年)、福岡県田川郡川崎町駅前(1936年)、福岡県田川郡川崎町(1941年・1943年・1947年)、福岡県田川郡川崎町420(1950年)、福岡県田川郡川崎町(1953年・1954年)、福岡県田川郡川崎町410(1958年)、福岡県田川郡川崎町(1960年・1963年)、福岡県田川郡川崎町川崎403(1969年・1970年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1971年8月末
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿では「昭和館」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1954年の映画館名簿では「昭和館」。1954年の筑豊地区住宅地図では「昭和館(映)」。1955年の映画館名簿では田川郡が掲載漏れしている。1958年の映画館名簿では「昭和館」。1960年・1963年の映画館名簿では「第一昭和館」。1960年推定の西日本住宅詳細図では「第一昭和館」。1963年推定の住宅地図では「第一昭和館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1970年の映画館名簿では「川崎昭和館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「柏村医院」南西50mの介護施設「小規模多機能まるや」。最寄駅はJR日田彦山線豊前川崎駅。

1958年6月15日、田川郡川崎町の「第一昭和館」が改装工事を終えて営業を再開した。オープニングは『オンボロ人生』と『水戸漫遊記』。旧称は「昭和館」。4月3日に開館した「第二昭和館」の姉妹館である。総建坪約120坪。鉄筋造一部木造、2階建て。スクリーンは25尺×11尺のシネスコ用。定員350。客席はワンスロープ式。上映系統は松竹・東宝・日活・新東宝。*162

1963年3月7日、川崎町の「第一昭和館」2階から出火し、スレート葺き2階建ての劇場が焼失した。*163

田川郡福智町

宝城キネマ
所在地 : 福岡県田川郡方城町(1930年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1930年以後1934年以前
1930年の映画館名簿では「宝城キネマ」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。

1931年3月時点で、田川郡の映画館は後藤寺町の「朝陽館」と「松竹館」と「春日座」、伊田町の「世界館」と「典寿館」、金田町の「大和館」、赤池町の「鳳鳴館」、糸田町宮床の「豊国館」、川崎村の「昭和館」、方城村の「宝城キネマ」の10館があった。宝城キネマは穴井某が経営し、松竹・マキノ系を上映していたが、2年と経営が持たなかった。*164
鳳鳴館/晃映
所在地 : 福岡県田川郡上野村赤池(1930年)、福岡県田川郡赤池町稲荷町(1936年)、福岡県田川郡赤池町(1941年・1943年・1947年)、福岡県田川郡赤池町271(1950年)、福岡県田川郡赤池町(1953年・1954年)、福岡県田川郡赤池町271(1956年)
開館年 : 1924年10月
閉館年 : 1956年頃
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿では「鳳鳴館」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1954年の映画館名簿では「鳳鳴館」。1955年の映画館名簿では田川郡が掲載漏れしている。1956年の映画館名簿では「晃映」。1957年の映画館名簿には掲載されていない。

1924年10月、田川郡上野村(あがのむら)赤池に「鳳鳴館」が開館した。*165
方城協和会館/協和会館/三菱協和会館
所在地 : 福岡県田川郡方城村伊万(1950年)、福岡県田川郡方城町4674(1958年・1960年)、福岡県田川郡方城町(1962年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1962年頃
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「方城協和会館」。1953年・1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では田川郡が掲載漏れしている。1958年の映画館名簿では「三菱協和会館」。1960年の映画館名簿では「協和会館」。1962年の映画館名簿では「三菱協和会館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1963年推定の住宅地図では発見できず。
赤池大映/赤池大劇
所在地 : 福岡県田川郡赤池町128(1957年・1958年)、福岡県田川郡赤池町291(1960年)、福岡県田川郡赤池町(1962年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1962年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「赤池大映」。1960年・1962年の映画館名簿では「赤池大劇」。1960年推定の西日本住宅詳細図では「赤池大劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1963年推定の住宅地図では跡地に「アキヤ」。跡地は「第九区公民館」東北東70mの敷地。最寄駅は平成筑豊鉄道伊田線赤池駅。
敷島座/金田豊映
所在地 : 福岡県田川郡金田町653(1956年・1958年)、福岡県田川郡金田町大字金田563(1960年)、福岡県田川郡金田町(1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では田川郡が掲載漏れしている。1956年・1958年の映画館名簿では「敷島座」。1960年・1963年の映画館名簿では「金田豊映」。1960年推定の西日本住宅詳細図では発見できず。1963年推定の住宅地図では発見できず。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
大和館/金田東映
所在地 : 福岡県田川郡金田町(1930年・1934年・1936年)、福岡県田川郡金田町921(1941年)、福岡県田川郡金田町(1943年・1947年)、福岡県田川郡金田町942(1950年)、福岡県田川郡金田町(1953年)、福岡県田川郡金田町924(1954年・1958年)、福岡県田川郡金田町大字金田924(1960年)、福岡県田川郡金田町(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1920年7月8日
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1954年の映画館名簿では「大和館」。1955年の映画館名簿では田川郡が掲載漏れしている。1958年・1960年の映画館名簿では「大和館」。1960年推定の西日本住宅詳細図では「映画 大和館」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「金田東映」。1963年推定の住宅地図では「映画 大和館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「西日本シティ銀行金田支店」南南西60mにある駐車場。最寄駅は平成筑豊鉄道伊田線金田駅。

1920年7月8日、田川郡金田町に「大和館」が開館した。*166

1920年頃の金田町にあった「大和館」の写真あり。「館和大」の文字が見える。1920年7月16日に大和館興業によって開館した。1964年頃に閉館した。金田町新町のひまわり化粧品の前にあり、2009年現在は駐車場になっている。*167
労映映画劇場/労映館/労映劇場/赤池労映/赤池労映劇場
所在地 : 福岡県田川郡赤池町(1950年・1953年)、福岡県田川郡赤池町432(1954年)、福岡県田川郡赤池町(1958年)、福岡県田川郡赤池町432(1960年)、福岡県田川郡赤池町(1963年)、福岡県田川郡赤池町赤池432(1966年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「労映映画劇場」。1953年・1954年の映画館名簿では「労映館」。1955年の映画館名簿では田川郡が掲載漏れしている。1958年の映画館名簿では「労映劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「赤池労映」。1963年推定の住宅地図では掲載範囲外。1966年の映画館名簿では「赤池労映劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。

田川郡香春町

第二プリンセス/第二プリンセス映劇/プリンセス映劇
所在地 : 福岡県田川郡勾金村(1952年・1953年)、福岡県田川郡香春町下高野(1958年)、福岡県田川郡香春町大字高野(1960年)、福岡県田川郡香春町(1963年・1964年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1964年頃
1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年の映画館名簿では「第二プリンセス」。1954年の筑豊地区住宅地図では「プリンセス(映)」。1955年の映画館名簿では田川郡が掲載漏れしている。1958年・1960年の映画館名簿では「第二プリンセス映劇」。1960年推定の西日本住宅詳細図では「第二プリンセス」。1963年の映画館名簿では「プリンセス映劇」。1963年推定の住宅地図では「第二プリンセス」。1964年の映画館名簿では「第二プリンセス映劇」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「香春町役場」南西100mの工場。最寄駅はJR日田彦山線香春駅。
電気館/月光館
所在地 : 福岡県田川郡香春町(1941年・1943年・1947年・1950年・1953年)、福岡県田川郡香春町新町(1958年)、福岡県田川郡香春町大字香春(1960年)、福岡県田川郡香春町(1963年・1964年)
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1964年頃
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年・1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「電気館」。1954年の筑豊地区住宅地図では「電気館(映)」。1955年の映画館名簿では田川郡が掲載漏れしている。1958年・1960年の映画館名簿では「電気館」。1960年の西日本住宅詳細図では「電気館」。1963年・1964年の映画館名簿では「月光館」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「石鎚神社」東隣の民家。最寄駅はJR日田彦山線香春駅。

田川郡大任町

映画館名簿によると田川郡大任町に映画館は存在しなかったと思われる。

田川郡赤村

映画館名簿によると田川郡赤村に映画館は存在しなかったと思われる。

このページへのコメント

「有明望嶽庵」にて、大牟田市の昔の映画館情報が掲載されています。
一応、リンクフリーという事ですので記載させて頂きます。
http://bougaku.fc2web.com/theater.htm

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Posted by 名無し(ID:/+VGspmbvg) 2021年04月18日(日) 01:12:02 返信数(1) 返信

貴重な情報ありがとうございます!

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Posted by  hekikaicinema hekikaicinema 2021年04月20日(火) 23:36:29

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