日本の映画館の総合データベースです。



北区

梅田小劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区角田町(1950年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1950年以後1953年以前
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「梅田小劇場」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。
天満東映劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区大工町3(1950年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1950年以後1953年以前
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「天満東映劇場」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。
中三シネマ
所在地 : 大阪府大阪市北区中崎町3丁目(1950年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1950年以後1953年以前
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「中三シネマ」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。
中央公会堂
所在地 : 大阪府大阪市北区中之島1-3(1955年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1953年以後1955年以前
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「中央公会堂」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。
産経会館
所在地 : 大阪府大阪市北区梅田町27(1958年)
開館年 : 1953年以後1955年以前
閉館年 : 1955年以後1958年以前
1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「産経会館」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。
朝日会館
所在地 : 大阪府大阪市北区堂島中之島3丁目(1947年)、大阪府大阪市北区中之島3-3(1953年・1955年)
開館年 : 1947年以前
閉館年 : 1955年以後1958年以前
1947年の映画館名簿では「朝日会館」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「朝日会館」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。
花月劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区曽根崎中1-71(1958年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1958年以後1960年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「花月劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。
梅田中央劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区曽根崎上2-23(1957年・1958年・1960年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1961年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「梅田中央劇場」。1961年の住宅地図では発見できず。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
天満宝塚劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区池田町21(1953年・1955年・1958年・1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1951年6月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年6月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「天満宝塚劇場」。1961年の住宅地図では「天満宝塚」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「天満パールビル」。最寄駅はJR大阪環状線天満駅。
松竹錦座/錦座
所在地 : 大阪府大阪市北区南錦町(1947年)、大阪府大阪市北区南錦町20(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年)、大阪府大阪市北区南錦町14(1963年・1964年)
開館年 : 1951年1月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年1月開館。1947年の映画館名簿では「錦座」。1950年の映画館名簿では「松竹錦座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「錦座」。1961年の住宅地図では「錦座」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ホテルてんま」。最寄駅はJR大阪環状線天満駅。
梅田松竹映画劇場・梅田松竹シネマ・梅田松竹名画座/梅田松竹映画劇場・梅田松竹セントラル・梅田松竹名画座
所在地 : 大阪府大阪市北区曽根崎上4-56(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1956年12月
閉館年 : 1964年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「梅田松竹映画劇場・梅田松竹シネマ・梅田松竹名画座」(3館)。1961年の住宅地図では「梅田松竹映画劇場・梅田松竹シネマ・梅田松竹名画座」。1963年・1964年の映画館名簿では「梅田松竹映画劇場・梅田松竹セントラル・梅田松竹名画座」(3館)。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大阪駅前第2ビル」建物東側。最寄駅はJR東西線北新地駅。

1956年12月、「梅田松竹」「梅田松竹シネマ」「梅田名画座」が開館した。*1
大阪座/松竹大阪座/天満松竹大阪座
所在地 : 大阪府大阪市北区黒崎町37(1930年)、大阪府大阪市北区黒崎町(1934年)、大阪府大阪市北区黒崎町37(1936年)、大阪府大阪市北区黒崎町(1941年・1943年)、大阪府大阪市北区黒崎町37(1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1912年7月
閉館年 : 1966年3月
『全国映画館総覧 1955』によると1912年7月開館。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「大阪座」。1960年・1963年の映画館名簿では「松竹大阪座」。1964年の住宅地図では「松竹大阪座」。1966年の映画館名簿では「天満松竹大阪座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「黒崎町公園」敷地東側。最寄駅は大阪メトロ谷町線中崎町駅。

1966年3月、松竹直営館「大阪座」が廃館となった。*2
シネマ新阪神
所在地 : 大阪府大阪市北区梅田町1 新阪神ビル(1958年)、大阪府大阪市北区梅田町47 新阪神ビル(1960年・1963年)、大阪府大阪市北区梅田町48(1966年)
開館年 : 1955年10月28日
閉館年 : 1966年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「シネマ新阪神」。1964年の住宅地図では「新阪神ビル 地下1階 シネマ新阪神」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ヒルトンプラザウエスト」。最寄駅はJR大阪駅。

1955年10月28日、大阪市北区梅田町47の新阪神ビル地下に「シネマ新阪神」が開館した。定員200人。シネスコ設備を有する洋画自由選択館であり、ニュース映画や文化映画を併営する50円劇場である。経営者は元プレミヤ映画大阪支社社長の前川芙路。*3
旭座/天満東映/天満大映
所在地 : 大阪府大阪市北区黒崎町36(1930年・1936年・1941年)、大阪府大阪市北区黒崎町(1943年)、大阪府大阪市北区黒崎町37(1947年)、大阪府大阪市北区黒崎町36(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1924年3月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1924年3月開館。1930年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「旭座」。1963年の映画館名簿では「天満東映」。1964年の住宅地図では「天満東映」。1966年の映画館名簿では「天満大映」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「黒崎町公園」敷地西側。最寄駅は大阪メトロ谷町線中崎町駅。
天満銀映/天満銀映会館
所在地 : 大阪府大阪市北区大工町3(1955年・1958年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1951年8月
閉館年 : 1967年1月8日
『全国映画館総覧 1955』によると1951年8月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「天満銀映」。1958年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「天満銀映会館」。1964年の住宅地図では「天満銀映会館」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「天満天神繁昌亭」。最寄駅はJR東西線大阪天満宮駅。

1967年1月8日午後3時頃、大阪市北区大工町3の「天満銀映会館」ボイラー室付近から出火し、劇場が全焼した。*4
阪神ビル映画場/阪神ビル映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区梅田町(1943年)、大阪府大阪市北区梅田(1947年)、大阪府大阪市北区梅田町(1950年)、大阪府大阪市北区梅田町1(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年)
開館年 : 1941年7月
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1941年7月開館。1943年・1947年の映画館名簿では「阪神ビル映画場」。1950年の映画館名簿では「阪神ビル映画劇場」。1953年の映画館名簿では「阪神ビル映画場」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「阪神ビル映画劇場」。1964年の住宅地図では「阪神ビル 阪神百貨店 阪神ビル映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「阪神百貨店梅田本店」。最寄駅はJR大阪駅。

1959年4月1日、大阪市北区梅田町1の日活封切館「阪神ビル映画劇場」が新東宝封切館に転向した。*5
第一映画劇場/天満第一劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区池田町21(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「第一映画劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「天満第一劇場」。1961年の住宅地図では「第一劇場(ビリヤード・ホープ)」。1964年の住宅地図では「第一劇場 ビリヤード・ホープ」。1969年の吉田地図では「第一劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「丸正チェーンストアー北店」。跡地は「ファミリーマート天満市場店」が入る「レジュールアッシュ天神橋」。最寄駅はJR大阪環状線天満駅。
ステーション東映/ステーションシネマ
所在地 : 大阪府大阪市北区梅田町大阪駅構内(1950年・1953年・1955年)、大阪府大阪市北区梅田町1(1960年・1963年)、大阪府大阪市北区梅田町1 大阪駅構内(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1947年7月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年7月開館。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「ステーション・シネマ」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「ステーション東映」。1969年・1970年の映画館名簿では「ステーションシネマ」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅はJR大阪駅。
天満映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区池田町21(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1951年3月
閉館年 : 1971年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年3月開館。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「天満映画劇場」。1961年・1964年の住宅地図では「天満映画劇場」。1969年の吉田地図では「天満映画劇場」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「ガレージ」。跡地は1996年竣工のマンション「パラツィーナセシリア天満」。最寄駅はJR大阪環状線天満駅。
梅田大映/梅田大映劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区曽根崎上2-8・9 村初天神境内(1955年)、大阪府大阪市北区曽根崎上2-8(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1955年8月13日
閉館年 : 1971年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1955年開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「梅田大映」。1955年の映画館名簿では1200席の大劇場。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「梅田大映劇場」。1961年・1969年の住宅地図では「梅田大映」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「梅田パシフィックビルディング」。最寄駅はJR大阪駅。

1955年8月13日、大阪市の梅田新道に「梅田大映」が開館した。永田大映社長の挨拶の後、『新・平家物語』が上映され、長谷川一夫主演の舞踊「島の千歳」が公演された。14日から16日の3日間にも大映スターの特別出演があり、『花の二十八人衆』と『浅草の鬼』が一般公開された。お初天神内。地上4階・地下1階建て。定員1134人。建坪257坪。*6

1955年8月13日、大阪市の梅田新道に「梅田大映」が開館した。大映は激しくなってきた直営館ブームの波に乗って興行網の充実を図っている。お初天神内。地上4階・地下1階建てであり、大映のモデルシアターとされる。*7
梅田シネマ
所在地 : 大阪府大阪市北区曽根崎1丁目50(1950年)、大阪府大阪市北区曽根崎中1-50(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1947年2月
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年2月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「梅田シネマ」。1969年の吉田地図では「梅田シネマ」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「梅田OSホテル」。最寄駅は大阪メトロ谷町線東梅田駅。
梅田日活映画劇場/梅田日活劇場/梅田日活劇場・梅田日活シネマ/梅田日活オスカー・梅田日活シネマ
所在地 : 大阪府大阪市北区永楽町15(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1947年9月
閉館年 : 1974年6月
『全国映画館総覧 1955』によると1947年9月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「梅田日活映画劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「梅田日活劇場・梅田日活シネマ」(2館)。1969年の吉田地図では「梅田日活シネマ・梅田日活オスカー」。1971年の住宅地図では「梅田日活オスカー 梅田日活シネマ」。1973年の映画館名簿では「梅田日活オスカー・梅田日活シネマ」(2館)。1975年の映画館名簿には掲載されていない。1978年の住宅地図では跡地に「日本信販建設用地」。跡地は「大和証券大阪支店ビル」西側の空き地? 最寄駅はJR東西線北新地駅。

1955年4月26日、大阪市北区永楽町15の「梅田日活」が取り壊し工事に入った。梅田地区では大映がモデルシアターを建設中であり、その隣接地には新東宝の封切館も着工間近である。日活も改築を余儀なくされ、1955年12月25日を目標に新館が建設される。新館は総工費3億円、地上4階・地下1階建。建坪2400坪。大劇場が定員1350人、小劇場2館がそれぞれ定員750人程度となる予定。*8

日活の直営館を見ると、1972年11月に「梅田日活ロマン」が開館し、1973年2月に「浜松日活」が開館し、4月に「小田原ロマン」が開館し、5月に「水戸ロマン」が開館した。1972年7月には「久留米日活」が閉館し、12月には「浜松スカラ座」と「浜松日活」が閉館し、1973年3月には「大牟田日活」が閉館し、5月には「大垣日活」が閉館した。*9

日活の直営劇場の動きを見ると、1973年10月に「布施日活」が開館し、11月に「泉大津日活」が開館し、11月に「万松寺日活」が開館し、11月に「横須賀日活ロマン」が閉館し、1974年6月に「梅田日活オスカー・梅田日活ロマン・梅田日活シネマ」が閉館した。*10
天満東洋劇場/天満東洋劇場・東洋ひかり劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区菅栄町119(1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1978年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「天満東洋劇場」。1961年の住宅地図では「天満東洋映画劇場」。1964年の住宅地図では「東洋映画劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「天満東洋劇場・東洋ひかり劇場」(2館)。1969年の住宅地図では「東洋会館 東洋劇場 東洋ヒカリ劇場 東洋ショー劇場」。1978年の映画館名簿では「天満東洋劇場」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「業務スーパー天満店」。最寄駅はJR大阪環状線天満駅。

1962年2月18日、大阪市北区菅栄町の「天満東洋劇場」が全焼した。原因は漏電。*11

1962年2月18日午前11時45分頃、大阪市北区菅栄町29の「天満東洋劇場」スクリーン西手天井裏から出火し、木造モルタル塗り平屋建て330m2が焼失した。原因は漏電。*12
梅田東宝会館
所在地 : 大阪府大阪市北区角田町(1943年)、大阪府大阪市北区角田町33(1947年・1950年)、大阪府大阪市北区角田町33、角田町41(1953年)、大阪府大阪市北区角田町33(1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年)
開館年 : 1937年12月
閉館年 : 1978年2月
『全国映画館総覧 1955』によると1937年12月開館。1943年・1947年・1950年の映画館名簿では「梅田映画劇場・梅田地下劇場・梅田小劇場」(3館)。1953年の映画館名簿では「梅田映画劇場・梅田地下劇場・梅田小劇場・北野劇場」(4館)。1955年の映画館名簿では「梅田映画劇場・梅田地下劇場・梅田ニュース劇場・北野劇場」(4館)。1958年の映画館名簿では「梅田映画劇場・梅田地下劇場・梅田ニュース館・北野劇場」(4館)。1960年の映画館名簿では「梅田映画劇場・梅田地下劇場・梅田ニュース劇場・北野劇場」(4館)。1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「梅田劇場・梅田スカラ座・梅田地下劇場・北野劇場・北野シネマ」(5館)。1969年の吉田地図では「北野劇場」と「東宝梅田会館 梅田劇場・梅田地下劇場・梅田スカラ座・北野シネマ」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。後継館は同一地点に建ったナビオ阪急の3館。跡地は「HEP NAVIO」。最寄駅はJR大阪駅。

1959年春のこのほど、大阪市北区角田町33の東宝直営館「北野劇場」は「大阪北野東宝劇場」に改称した。*13

1961年4月初旬、大阪市北区に70ミリ劇場「梅田スカラ座」が着工した。10月完成予定。*14

1961年4月29日、大阪市北区角田町33の「北野劇場」地下に「北野シネマ」が開館した。座席300。洋画特選名画を上映。*15

1961年11月1日、大阪市の梅田会館内に洋画系の「梅田スカラ座」が新築され、東宝系の「梅田劇場」が大改造で開館する。*16

1961年11月1日、大阪市北区角田町33の「梅田劇場」屋上に洋画ロードショー館「梅田スカラ座」が新築され、『ガン・ファイター』で開館した。椅子席903。*17

1961年11月1日、東宝の直営館として「梅田スカラ座」が新築開館した。*18

1976年5月の大阪市にあった「梅田東宝会館」の写真あり。「北野劇場」、「梅田劇場」、「梅田スカラ座」、「梅田地下劇場」、「北野シネマ」が入っていた。1978年に閉館すると跡地にはナビオ阪急(現在のHEP NAVIO)が建ち、ナビオ阪急には北野劇場、梅田劇場、梅田スカラ座の3館が入った。*19

1977年11月の大阪市にあった映画館「北野シネマ」の写真あり。「アートシアター 北野シネマ」の文字が見える。日本アート・シアター・ギルド(ATG)の上映館であり、根強いファン層を持っていた。北野シネマは1978年に閉館した。*20

1978年2月、東宝は「梅田スカラ座」と「梅田地下」と「北野シネマ」と「梅田劇場」と「北野劇場」を閉館させた。*21
阪急プラザ劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区小深町21-1(1973年)、大阪府大阪市北区小深町3-1(1975年・1978年)、大阪府大阪市北区芝田1-1-3(1980年・1984年)
開館年 : 1969年11月30日
閉館年 : 1984年5月31日
1970年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1975年・1978年・1980年・1984年の映画館名簿では「阪急プラザ劇場」。1983年の住宅地図では「阪急ターミナルビル 地下1階〜2階阪急プラザ劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。阪急三番街北館1階。建物の阪急三番街は現存。最寄駅は阪急京都線・神戸線・宝塚線大阪梅田駅。
天六映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区吉山町56(1961年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市北区天神橋6-2-12(1980年・1985年・1988年・1989年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1989年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年・1988年・1989年の映画館名簿では「天六映画劇場」。1969年の吉田地図では「天六映劇」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「天六西光モータープール」。最寄駅は大阪メトロ谷町線・堺筋線天神橋筋六丁目駅。
梅田ニューシネマ
所在地 : 大阪府大阪市北区小松原町4-7(1981年・1982年・1985年・1990年・1991年)
開館年 : 1980年頃
閉館年 : 1991年頃
1980年の映画館名簿には掲載されていない。1981年・1982年・1985年・1990年・1991年の映画館名簿では「梅田ニューシネマ」。1983年の住宅地図では「1階パチンコニュー大東洋 2階カジノ大東洋 3階梅田ニューシネマ」。1992年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「OSビル」東にあるパチンコ店「大東洋本店」。最寄駅はJR大阪駅。
梅田キネマ
所在地 : 大阪府大阪市北区堂山町7-7 角庄ビル(1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1979年頃
閉館年 : 1990年頃
1979年の映画館名簿には掲載されていない。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「梅田キネマ」。1983年の住宅地図では「かくしょうビル 2階梅田キネマ」。1990年の映画館名簿では経営会社が株式会社梅田キネマ、経営者が吉田昭三、支配人が森本功次、鉄筋造2階、120席、邦画・洋画を上映。1991年の映画館名簿には掲載されていない。建物名は角庄ビル。角庄ビルはコンビニ「セブンイレブン梅田堂山西店」などが入るビルとして現存。最寄駅はJR大阪駅。
OS映画劇場/OS劇場(旧)
所在地 : 大阪府大阪市北区小松原町30(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市北区小松原町3-3(1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1947年7月31日
閉館年 : 1991年2月11日
『全国映画館総覧 1955』によると1947年7月開館(火災休館)。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「OS映画劇場」。1958年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「OS劇場」。1969年の吉田地図では「OSシネラマ劇場」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「OSビル」。最寄駅はJR大阪駅。

1954年9月15日午後8時30分頃、大阪市北区小松原町の「OS劇場」から出火し、木造2階建440坪が全焼した。映写技術者1人ほか17人が負傷した。音響装置の漏電が原因とみられる。*22

1959年の大阪市北区梅田にあった「OS劇場」の写真あり。「シネラマOS劇場」「西日本にタダ一つのシネラマ劇場!」の文字が見える。シネラマ作品5作目の『南海の冒険』の看板が見える。1947年に洋画ロードショー館として開館し、1954年に大型湾曲スクリーンのシネラマ上映館に改築された。『ベン・ハー』、『2001年宇宙の旅』、『スター・ウォーズ』、『未知との遭遇』などがシネラマ公開された。1991年に閉館した。*23

大阪市の梅田にあった「OS劇場」の写真あり。「OS Theatre」「シネラマ OS劇場」の文字が見える。『地中海殺人事件』の看板が見える。*24

1976年7月の大阪市の梅田にあった「OS劇場」の写真あり。『ミッドウェイ』に多くの観客が詰めかけている。ジャック・スマイト監督の同作は1976年の興行収入で3位を記録した。*25

1983年8月の大阪市の梅田にあった「OS劇場」の写真あり。『南極物語』に長蛇の列ができている。配給収入は59億円を記録し、邦画としては歴代1位となった。*26

1991年2月11日をもって、梅田にある映画館「シネラマOS劇場」が閉館する。1月25日から2月11日までは懐かしの名画などを安価で上映する「さよならフェスティバル」が開催されている。横幅19.4m×高さ9.8mの超大型湾曲スクリーンを有するシネラマ館として全国に知られていた。再開発を機に高層ビルに生まれ変わる。*27

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1989年1月号には「第24回 梅田OS劇場」が掲載されている。*28

1948年の大阪市北区にあった映画館「OS劇場」の写真あり。阪急百貨店の屋上から東を見た風景。*29

『ハヤカワミステリマガジン』2016年7月号には田中小実昌「コミさんの映画館めぐり(第7回)大阪梅田OS劇場」が掲載されている。*30
コマゴールド劇場・コマシルバー劇場/梅田コマゴールド劇場・梅田コマシルバー劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区角田町5(1958年・1960年・1961年・1962年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市北区角田町5-14(1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1956年
閉館年 : 1992年9月
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「梅田コマ・スタジアム」と「コマ・ゴールド劇場」と「コマ・シルバー劇場」(3館)。1960年・1961年・1962年・1963年の映画館名簿では「コマ・ゴールド劇場」と「コマ・シルバー劇場」(2館)。1966年の映画館名簿では「梅田コマ・ゴールド」と「梅田コマ・シルバー」(2館)。1969年の吉田地図では「コマゴールド コマシルバー劇場」。1969年の住宅地図では「梅田コマスタジアムKK」。1969年・1973年の映画館名簿では「コマゴールド劇場・コマシルバー劇場」(2館)。1980年の映画館名簿では「コマ ゴールド劇場・コマ シルバー劇場」(2館)。1985年の映画館名簿では「梅田コマ・ゴールド劇場」と「梅田コマ シルバー劇場」(2館)。1990年の映画館名簿では「梅田コマ・ゴールド」と「梅田コマ・シルバー」(2館)。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「梅田楽天地ビル」。最寄駅はJR大阪駅。

1988年7月の大阪市にあった「梅田コマ劇場」の写真あり。「梅田コマ劇場 ゴールド シルバー劇場」「Umeda Koma Stadium」の文字が見える。1956年に開館した。1992年にはちゃやまちアプローズに移転して劇場「飛天」(現在の梅田芸術劇場)となった。。*31
北大毎地下劇場/大毎地下劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区堂島中1-49 毎日大阪会館(1959年)、大阪府大阪市北区堂島中1-49(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市北区堂島1-5-20(1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1993年3月
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「大毎地下劇場」。1966年の映画館名簿では「北大毎地下劇場」。1969年の吉田地図では「毎日大阪会館 南館」。1969年・1973年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「大毎地下劇場」。1980年の住宅地図では「毎日大阪会館南館 地下大毎地下劇場」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ホテル エルセラーン大阪」。最寄駅はJR東西線北新地駅。

1961年6月26日、大阪市北区堂島1-49の「大毎地下劇場」が大映封切館から洋画館に転換した。経営は大映興行。*32

1993年3月26日の『朝日新聞』大阪版朝刊には「大毎地下劇場」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*33
梅田グランド/梅田グランド劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区角田町(1950年)、大阪府大阪市北区角田町8(1953年・1955年)、大阪府大阪市北区曽根崎中1-71(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市北区曽根崎2-15-19(1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1946年11月
閉館年 : 1990年
『全国映画館総覧 1955』によると1946年11月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「梅田グランド」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「梅田グランド劇場」。1969年の吉田地図では「梅田花月劇場・梅田グランド劇場」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「SWINGうめだ」。最寄駅は大阪メトロ谷町線東梅田駅。

1957年4月8日、大阪市に新「梅田グランド」が開館する予定。吉本興業が建設中。大劇場は洋画ロードショー館、地下の花月劇場は東映封切館となる予定。このため、4月1日には現在の東映封切館である「梅田コマ・ゴールド劇場」が洋画自由選択館に、洋画邦画名画選択館の「梅田コマ・シルバー劇場」が名画選択上映館になる。*34
シネマワイズうめだ花月シアター
所在地 : 大阪府大阪市北区曽根崎2-15-20(1997年・1998年・1999年)
開館年 : 1996年頃
閉館年 : 1999年頃
1996年の映画館名簿には掲載されていない。1997年・1998年・1999年の映画館名簿では「シネマワイズうめだ花月シアター」。1997年の映画館名簿では経営会社が吉本興業、経営者が中邨秀雄、支配人が牛田正昭、鉄筋造1階、186席、邦画・洋画を上映。2000年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅はJR大阪駅。
シネマヴェリテ/ACTシネマヴェリテ/シネヌーヴォ梅田
所在地 : 大阪府大阪市北区堂山町5-9(1990年・1995年・1996年)
開館年 : 1989年頃(シネマヴェリテ)
閉館年 : 1997年頃(シネマヴェリテ)、1999年8月29日(シネヌーヴォ梅田)
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1995年の映画館名簿では「シネマ・ヴェリテ」。1991年の住宅地図では「レジャーセンター扇会館 地下1階シネマヴェリテ」。1996年・1997年の映画館名簿では「ACTシネマ・ヴェリテ」。1998年の映画館名簿には掲載されていない。建物の「扇会館」は現存。最寄駅はJR大阪駅。

大阪にはレイトショーは根付かないとされてきたが、1992年現在の「国名小劇」はオールナイト上映を行っているし、4年前から「シネマ・ヴェリテ」はレイトショーを実施している。「シネマアルゴ梅田」「テアトル梅田」「扇町ミュージアムスクエア」も常時レイトショーを実施するようになっている。*35

1999年7月23日の『毎日新聞』大阪版には「シネ・ヌーヴォ梅田」が8月29日をもって閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*36

1999年8月28日の『朝日新聞』大阪版には「シネ・ヌーヴォ梅田」が8月29日をもって閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*37
梅新日活/梅新にっかつ劇場/ロッポニカ梅田/シネマアルゴ梅田
所在地 : 大阪府大阪市北区永楽町1(1978年)、大阪府大阪市北区曽根崎新地1-8-19(1980年・1985年・1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1976年1月
閉館年 : 2000年11月
1975年の映画館名簿には掲載されていない。1978年・1980年の映画館名簿では「梅新日活」。1983年の住宅地図では「梅新壱番館 6階梅新にっかつ劇場」。1985年の映画館名簿では「梅新にっかつ劇場」。1990年の映画館名簿では「ロッポニカ梅田」。1990年シネマアルゴ梅田開館。1995年・2000年の映画館名簿では「シネマアルゴ梅田」。2000年の映画館名簿では経営会社が日活、経営者が中村雅哉、支配人が石原太、鉄筋造6階、90席、邦画・洋画を上映。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「梅新ビル」。最寄駅はJR東西線北新地駅。

日活直営劇場の動きを見ると、1975年8月には「福島日活」が開館、10月には「木更津日活」が開館、12月には「岡山日活」が開館、1976年1月には「梅新日活」が開館、3月には「船橋日活」が閉館、4月には「高松日活」が開館した。*38
梅田東映会館
所在地 : 大阪府大阪市北区永楽町6(1960年・1969年)、大阪府大阪市北区曽根崎新地1-13-22(1980年・1990年・2000年)
開館年 : 1959年3月20日
閉館年 : 2002年4月28日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「梅田東映劇場・梅田東映パラス劇場・梅田東映ホール」(3館)。1969年の映画館名簿では「梅田東映劇場・梅田東映パラス・梅田東映ホール劇場」(3館)。1969年の吉田地図では「大阪東映会館 梅田東映・東映ハウス劇場」。1980年の映画館名簿では「梅田東映劇場・梅田東映パラス・梅田東映ホール」(3館)。1980年の住宅地図では「大阪東映会館」。1990年・2000年の映画館名簿では「梅田東映・梅田東映パラス・梅田東映パラス2」(3館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。建物名は梅田東映会館。跡地は「御堂筋フロントタワー」。最寄駅はJR東西線北新地駅。

1959年3月20日、東映の直営館「大阪東映会館」が開館する。1957年10月に着工していた。地下1階から2階が定員1064人の「梅田東映」。2階から4階が定員918人の「東映パラス」。東映パラスのオープニングは『ニューヨークの王様』。*39

1979年8月の大阪市の梅田にあった「東映会館」の写真あり。『銀河鉄道999』に長蛇の列ができている。*40

1981年12月の大阪市の梅田にあった「東映会館」の写真あり。『セーラー服と機関銃』に長蛇の列ができており、機動隊が出動している。公開後初の日曜日となった12月20日には薬師丸ひろ子が舞台挨拶を行う予定だったが、ファンが殺到したことで舞台挨拶は中止され、この日は2回目以降の上映も取りやめとなった。*41

2002年4月16日の『産経新聞』大阪版夕刊には「梅田東映」が4月28日をもって閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*42

2002年4月27日の『読売新聞』大阪版夕刊には「東映会館」が4月28日をもって閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*43
東梅田日活劇場・東梅田シネマ・東梅田オークラ地下劇場・東梅田ローズ劇場/梅田日活劇場・梅田ローズ劇場・東梅田シネマ/梅田日活劇場・梅田ローズ劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区堂山町17-8(1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年)
開館年 : 1978年頃
閉館年 : 2011年6月26日
1978年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の映画館名簿では「東梅田日活・東梅田シネマ」(2館)。1980年の映画館名簿では「東梅田日活・東梅田シネマ・東梅田オークラ地下劇場」(3館)。1983年の住宅地図では「北シャトービル 地下1階オークラ地下劇場 2階東梅田にっかつ 3階東梅田シネマ」。1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「東梅田日活劇場・東梅田シネマ・東梅田オークラ地下劇場・東梅田ローズ劇場」(4館)。2005年の映画館名簿では「梅田日活劇場・梅田ローズ劇場・東梅田シネマ」(3館)。2010年の映画館名簿では「梅田日活劇場・梅田ローズ劇場」(2館)。跡地はコンビニ「ファミリーマート堂山町店」。最寄駅はJR大阪駅。
扇町ミュージアムスクエアー
所在地 : 大阪府大阪市北区神山町1-11(1995年・2000年・2002年)
開館年 : 1985年4月26日(上映会開始)、1992年6月(上映専門スペース化)
閉館年 : 2003年3月16日
1994年の映画館名簿には掲載されていない。1995年の映画館名簿では「扇町ミュージアム・スクエアーコロキューム」。1995年の映画館名簿では経営会社が株式会社アーバネックス、経営者が宗国守男、支配人が江本雅朗、鉄筋造1階、60席、邦画・洋画を上映。1998年・2000年・2002年の映画館名簿では「扇町ミュージアム・スクエアー」。2002年の映画館名簿では経営会社が株式会社アーバネックス、経営者が長谷川正明、支配人が坂本潤也、鉄筋造1階、60席、邦画・洋画を上映。2003年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大阪市立天満中学校」南側の「セミナーハウス クロス・ウェーブ梅田」。最寄駅は大阪メトロ堺筋線扇町駅。

1985年3月にオープンした扇町ミュージアムスクエアには、"フォーラム"と"コロキューム"という2つの多目的スペースが設置された。1985年4月26日には"フォーラム"で初めて映画が上映された。大林宣彦監督の『廃市』である。6月1日からは同じく"フォーラム"で、寺山修司監督の『さらば箱舟』がロードショー公開された。次第に"フォーラム"は演劇公演メインに、"コロキューム"は映画上映メインになっていき、大阪にアート系ミニシアターが登場し始めた1988年半ばには"コロキューム"のスケジュールが映画上映で埋まるようになった。それまでの大阪には単館興行の劇場として「三越劇場」があったが、1988年4月24日にはミナミに「国名小劇」が、1989年2月には梅田に「シネマ・ヴェリテ」が、1990年4月には梅田に「テアトル梅田1・2」が開館している。1992年6月には"コロキューム"が改修され、正式に映画上映専門スペースとなった。*44

2003年3月17日の『東京新聞』には「扇町ミュージアムスクエア」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*45

2003年3月17日の『朝日新聞』大阪版には「扇町ミュージアムスクエア」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*46

2003年5月時点で大阪府にシネコンが9施設ある。1993年4月には大阪府初のシネコンとしてワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田が開館。その後、1997年・1998年・1999年に1施設ずつ開館し、2000年には2施設、2001年には1施設、2002年には2施設開館した。この2003年10月には箕面市に大阪府下10か所目のシネコンが開館する予定。この10年には旧来からの映画館やミニシアターの閉館が相次いでおり、この1年だけでも、1985年開館の扇町ミュージアムスクエア(北区)や、1993年開館のパラダイスシネマ(中央区)など10館が閉館した。1993年開館の第七芸術劇場(淀川区)は1999年に閉館したが、映画ファンや商店街の人々が声を上げ、2002年7月に有限会社第七芸術劇場が営業を再開した。*47
プラネットプラスワン(旧)
所在地 : 大阪府大阪市北区堂山町15-2 関西中央ビル別館地下1階
開館年 : 1995年12月1日
閉館年 : 2007年(移転)
Wikipedia : プラネットプラスワン
映画館名簿には掲載されていない。2005年の住宅地図では「関西中央ビル別館 地下1階プラネット映画資料図書館 プラネットスタジオプラスワン」。2007年移転。建物の関西中央ビルは現存。最寄駅は大阪メトロ谷町線中崎町駅。
三番街シネマ1・2/三番街シネマ1・2・3
所在地 : 大阪府大阪市北区茶屋町茶屋町38(1976年・1978年)、大阪府大阪市北区茶屋町茶屋町2-16(1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1975年4月
閉館年 : 2007年9月24日
1975年の映画館名簿には掲載されていない。1976年・1978年の映画館名簿では「三番街シネマ1・2」(2館)。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「三番街シネマ1・2・3」(3館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「イースクエア茶屋町」。最寄駅は阪急京都線・神戸線・宝塚線大阪梅田駅。

1975年4月、東宝が「三番街シネマ1・2」を閉館させた。*48

1977年10月、東宝は「三番街シネマ3」を開館させた。*49

2007年9月24日をもって、大阪・梅田にある映画館「三番街シネマ」が閉館する。3スクリーン、計1160席。321席のOS劇場、137席のOS名画座についても、10月1日からナビオTOHOプレックスと統合し、10スクリーン計約2700席のTOHOシネマズ梅田として再開館する。*50

2007年9月24日、大阪市のキタにある映画館「三番街シネマ1・2・3」が閉館する。1975年には2スクリーンで三番街シネマが開館し、やがて3館体制となった。1997年の『もののけ姫』の上映時には約53万人を集め、全国一の観客動員記録を作った。*51

2007年9月24日、大阪市北区茶屋町の映画館「三番街シネマ1・2・3」が閉館する。1975年に開館し、1997年には年間約110万人を動員していたが、2006年には50万人にまで減少していた。さよなら上映会では『影武者』や『もののけ姫』など9作品が上映される。10月1日にはOS劇場などを吸収する形で、ナビオ阪急などに10スクリーンのシネコンが開館する。*52

2007年9月24日、大阪市北区茶屋町の映画館「三番街シネマ1・2・3」が閉館する。1975年に開業し、デートスポットなどとして人気を集めたが、シネコンの台頭で観客が激減していた。最終日は「想い出のラストショー」として、『サタデー・ナイト・フィーバー』や『影武者』など9作品を500円で上映する。6階建てビルの4階から6階部分にある。1997年には『もののけ姫』を上映し、同作品において全国の映画館の中で最多の観客数を集めた。同年には109万人を動員したが、大阪府内にシネコンが相次いで開館したことで、2006年には約50万人にまで減少していた。なお、9月21日にはOS劇場など2館も閉館している。*53
梅田ピカデリー1・2・梅田ロキシー・梅田松竹/梅田ピカデリー1・2・3・梅田松竹/梅田ピカデリー1・2・3・4
所在地 : 大阪府大阪市北区太融寺町8-17(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年)
開館年 : 1980年3月15日
閉館年 : 2011年1月16日
Wikipedia : 梅田ピカデリー
1980年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の映画館名簿では「梅田ピカデリー1・2・梅田ロキシー・梅田松竹」(4館)。1990年・1995年の映画館名簿では「梅田ピカデリー1・2・3・梅田松竹」(4館)。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「梅田ピカデリー1・2・3・4」(4館)。2015年の映画館名簿には掲載されていない。梅田松竹会館(現・プラザ梅田ビル)内。ビル内の映画館跡地はライブハウス「梅田クラブクアトロ」、プロレス場「ナスキーホール・梅田」、大衆演劇場「梅田呉服座」。最寄駅はJR大阪駅。

1980年3月15日、松竹による梅田松竹会館が開場した。洋画ロードショー館「梅田ピカデリー1」(800人)、洋画ロードショー館「梅田ピカデリー2」(600人)、特選名画館「梅田ロキシー」(550人)、松竹封切館「梅田松竹」(600人)が入る。*54

1980年3月、大阪市に「梅田松竹会館」が開館した。「梅田松竹」、「梅田ロキシー」、「梅田ピカデリー」、「梅田ピカデリー2」の4館が入っていた。その後、「梅田ピカデリー1・2・3・4」に改称した。2011年に閉館した。*55

1999年6月12日、「梅田松竹」と「梅田ピカデリー1・2・3」を「梅田ピカデリー1-4」に改称し、「札幌松竹遊楽館」と「札幌SY有楽」を「札幌松竹遊楽館1・2」に改称し、「上野松竹」と「上野映画」と「上野セントラル」と「上野名画座」を「上野セントラル1-4」に改称した。*56

2011年1月16日をもって、大阪市の映画館「梅田ピカデリー」が閉館する。松竹の直営館。4スクリーン。開館から30年がたって老朽化が進んでいた。松竹・東宝・東映の3社は、2011年にJR大阪駅前にシネコンを共同運営する計画がある。*57

2011年1月16日をもって、大阪市の映画館「梅田ピカデリー」が閉館する。松竹の直営館。1980年3月の開館であり、4スクリーン計1918席を有している。松竹は施設の老朽化に加えて、経営効率の悪化も閉館の理由に挙げている。*58

2011年1月16日をもって、大阪市北区の映画館「梅田ピカデリー」が閉館する。松竹の直営館。4スクリーン1918席。1980年に開館したが、老朽化とシネコン人気の影響で観客が減少していた。現在の松竹は東映と共同で「梅田ブルク7」を運営しており、また2011年には松竹・東宝・東映の3社によってJR大阪駅前に「大阪ステーションシティシネマ」が開館する予定である。*59

2011年1月16日をもって、大阪市の映画館「梅田ピカデリー」が閉館する。松竹の直営館。近年にはシネコンが台頭し、周辺の老舗映画館が相次いで閉館する中、唯一残る大手直営館として人気を集めていた。梅田ピカデリーの閉館によって、梅田からは大手経営の映画館が姿を消し、シネコン競争が激化するとされる。松竹にとっては関西地区のメイン館であり、1980年3月に開館した。10階建てのビルに4スクリーン計1918席を有している。1982年公開の『E.T.』では約36万7000人を動員した。1994年3月にはアイドルグループのSMAPの主演映画の舞台挨拶が行われ、前日夕方から徹夜組のファンが詰めかけた。早朝には500-600mの行列に達し、4スクリーン全てを解放した。興行収入は15億円前後で推移していたが、2007年には10億円を割り込んでいた。2002年には東宝の「北野劇場」、東映の「梅田東映会館」が相次いで閉館し、大型シネコンが開館した。2007年には「OS劇場」、「OS名画座」、「三番街シネマ」が閉館し、うち2館は隣接するシネコンが吸収した。松竹は今春から、松竹・東宝・東映の大手3社で共同出店するシネコン「大阪ステーションシネマ」に経営資源を集中させる。関西地方最大級の12スクリーン計2500席があり、TOHOシネマズ梅田や梅田ブルク7などと激しい集客争いが行われることが予想される。*60
天六シネ5ビル
所在地 : 大阪府大阪市大淀区天神橋筋7-15(1960年・1963年・1966年・1973年・1975年・1978年)、大阪府大阪市大淀区天神橋7-6-11(1980年・1985年)、大阪府大阪市北区天神橋7-6-11(1990年・1995年・2000年・2005年・2010年)
開館年 : 1952年12月
閉館年 : 2010年7月(部分閉館)、2012年3月30日(完全閉館)
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1955年の映画館名簿では「天六国際劇場・有楽座」(2館)。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「天六国際劇場・天六有楽座」(2館)。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の映画館名簿では「コクサイ劇場・ユウラク座・コクサイ地下劇場」(3館)。1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「天六コクサイ劇場・天六ユウラク座・天六ユウラク地下劇場」(3館)。1990年・1995年の映画館名簿では「ホクテンザ1・2・天六コクサイ劇場・天六ユウラク座・天六ユウラク地下劇場」(5館)。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「ホクテン座1・2・天六コクサイ劇場・天六ユウラク座・天六ユウラク地下劇場」(5館)。2010年7月ホクテンザ1・2閉館。2012年3月30日完全閉館。2015年の映画館名簿には掲載されていない。建物名は天六シネ5ビル。跡地は「ローソン天神橋7丁目店」。最寄駅は大阪メトロ谷町線・堺筋線天神橋筋六丁目駅。
梅田ガーデンシネマ1・2
所在地 : 大阪府大阪市北区大淀中1-1-88 梅田スカイビル4階(1998年)、大阪府大阪市北区大淀中1-1-88 梅田スカイビルタワーイースト4階(2000年・2005年・2010年)
開館年 : 1997年12月13日
閉館年 : 2014年2月28日
1995年の映画館名簿には掲載されていない。1998年・2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「梅田ガーデンシネマ1・2」(2館)。1998年の映画館名簿では経営会社がヘラルドエンタープライズ、経営者が八十河瑞雄、支配人が松本藤子、鉄筋造4階、いずれも111席、いずれも邦画・洋画を上映。2014年2月28日に2スクリーンとも閉館し、翌日には下階で営業中のシネ・リーブル梅田に引き継がれた。最寄駅は阪急京都線・神戸線・宝塚線大阪梅田駅。

1997年12月13日、大阪市北区大淀町1-1-88に「梅田ガーデンシネマ1・2」が開館した。座席数は1・2ともに111席。経営はヘラルドエンタープライズであり、同社による直営9施設目の映画館である。*61

2014年3月1日から、梅田スカイビル4階にある映画館「梅田ガーデンシネマ」と3階にある「シネ・リーブル梅田」が合わせて1施設として営業する。1997年にガーデンシネマが開館し、それぞれ111席の2スクリーンを有し、主にアート系の大人向け作品を上映していた。2000年にシネ・リーブル梅田が開館し、120席と93席の2スクリーンを有し、主に若者向け作品を上映していた。ガーデンシネマを運営するユナイテッド・シネマは、シネ・リーブルを運営する東京テアトルに映画館を譲渡する。*62
ナビオ阪急/ナビオTOHOプレックス/TOHOシネマズ梅田本館
所在地 : 大阪府大阪市北区角田町7-10 ナビオ阪急8階(1985年・1990年・1995年)、大阪府大阪市北区角田町7-10 HEPナビオ7階・8階(2000年)、大阪府大阪市北区角田町7-10 HEPナビオ8階(2005年)、大阪府大阪市北区角田町7-10 HEPナビオ7階・8階(2010年)、大阪府大阪市北区角田町7-10 HEPナビオ7階・8階・9階(2015年・2020年)
開館年 : 1980年10月24日
閉館年 : 営業中
1980年の映画館名簿には掲載されていない。1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「北野劇場・梅田劇場・梅田スカラ座」(3館)。2000年の映画館名簿では「北野劇場・梅田劇場・梅田スカラ座・ナビオシネ4・5」(5館)。2002年11月ナビオTOHOプレックス改称。2005年の映画館名簿では「ナビオTOHOプレックスシアター1-8」(8館)。2010年の映画館名簿では「TOHOシネマズ梅田シアター1-8」(8館)。2015年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズ梅田1-8」(8館)。シアター1は旧北野劇場、シアター2は旧梅田スカラ座、シアター3は旧梅田劇場、シアター4は旧梅田スカラ座2階席、シアター5は旧梅田劇場2階席、シアター6は旧会議室、シアター7・8は旧レストラン。最寄駅はJR大阪駅。

1976年5月の大阪市にあった「梅田東宝会館」の写真あり。「北野劇場」、「梅田劇場」、「梅田スカラ座」、「梅田地下劇場」、「北野シネマ」が入っていた。1978年に閉館すると跡地にはナビオ阪急(現在のHEP NAVIO)が建ち、ナビオ阪急には北野劇場、梅田劇場、梅田スカラ座の3館が入った。*63

1978年7月6日、東宝と阪急不動産が共同で建設する梅田阪急東宝会館(仮称)の起工式が行われた。*64

1980年10月24日、東宝によってナビオ阪急が開館した。8階がシネマタウンとなっており、「北野劇場」(座席数1016)、「梅田劇場」(座席数920)、「梅田スカラ座」(座席数937)が入る。東宝梅田会館と阪急航空ビルの跡地。東宝は120億円を投資した。*65

1998年10月23日、大阪市北区角田町7-10 HEP NAVIO 7階に159席の「ナビオシネ4」と141席の「ナビオシネ5」が開館した。経営は東宝。*66

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1987年7月号には「第7回 梅田劇場」が掲載されている。*67
梅田ニューOS劇場/ニューOS劇場/OS劇場・OS劇場C.A.P/TOHOシネマズ梅田別館
所在地 : 大阪府大阪市北区角田町8(1958年)、大阪府大阪市北区角田町5(1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年)、大阪府大阪市北区角田町5-1(1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年)、大阪府大阪市北区角田町5-1 梅田楽天地ビル2階(2015年)、大阪府大阪市北区角田町5-1 梅田楽天地ビル2階、3階(2020年)
開館年 : 1959年12月24日(ニューOS劇場)、2007年10月(TOHOシネマズ梅田別館)
閉館年 : 2007年9月24日(OS劇場)、営業中(TOHOシネマズ梅田別館)
1958年の映画館名簿では「OS文化劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「ニューOS劇場」。1966年の映画館名簿では「梅田ニューOS劇場」。1969年の吉田地図では「ニューOS劇場」。1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「ニューOS劇場」。1995年の映画館名簿では「OS劇場」。2000年・2005年の映画館名簿では「OS劇場・OS劇場C.A.P」(2館)。2010年の映画館名簿では「TOHOシネマズ梅田シアター9・10」(2館)。2015年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズ梅田9・10」(2館)。最寄駅はJR大阪駅。

1959年12月24日、大阪市北区角田町の「OS文化」跡地に「ニューOS」が開館した。梅田における初の70ミリ劇場である。定員578人。広い立見席を含めると1500人を収容可能。経営は川端直信社長のOS映劇。*68
テアトル梅田1・2
所在地 : 大阪府大阪市北区茶屋町16-7 梅田ロフト地下1階(1992年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1990年4月19日
閉館年 : 2022年9月30日
1990年の映画館名簿には掲載されていない。1992年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「テアトル梅田1・2」(2館)。1992年の映画館名簿では経営会社が東京テアトル、経営者が吉田政好、支配人が岩本憲一、鉄筋造地下、1が96席、2が60席、いずれも洋画ロードショーを上映。最寄駅は阪急京都線・神戸線・宝塚線大阪梅田駅。

1990年4月19日、大阪市北区茶屋町16-1 梅田ロフト地下1階に「テアトル梅田1・2」が開館した。座席数は1が96席、2が60席。経営は東京テアトル。1のオープニングは『白く乾いた季節』、2のオープニングは『スイッチング・チャンネル』。1は東宝関西映画興行部と番組提携を行っている。*69

2022年7月19日、東京テアトルは9月30日をもってミニシアター「テアトル梅田」を閉館すると発表した。大阪市北区茶屋町の梅田ロフト地下1階にある。閉館理由は入居する建物との契約満了。*70

2022年9月末をもって、大阪市北区茶屋町にあるミニシアター「テアトル梅田」が閉館する。映画監督の山下敦弘は大阪芸術大学出身であり、「テアトル梅田は自分の原点」と語る。*71

2022年9月末をもって、大阪市北区茶屋町のミニシアター「テアトル梅田」が閉館する。梅田の繁華街にある。32年にわたってインディペンデント系の作品を中心に上映した。2016年公開の映画『この世界の片隅に』を287日連続でロングラン上映したこともある。*72

2022年9月30日をもって、大阪市北区のミニシアター「テアトル梅田」が閉館する。木幡明夫支配人。ロフトが入るビルの地下に2スクリーンを有する。1990年4月19日に東京テアトルによって開館し、関西の映画文化を牽引してきたとされる。32年間で2000本以上の作品を上映した。2001年公開の『アメリ』は興行収入約1億円を記録した。テアトル梅田最大のヒット作であり、観客の列が地上まで伸びた。2016年公開のアニメ映画『この世界の片隅に』は287日間という異例のロングラン上映となり、片淵須直監督はTwitterに「連続上映記録全国第2位の劇場」などと記した。9月16日からは「さよなら興行」を開催しており、『アメリ』や『トレインスポッティング』などの人気作をリバイバル上映している。*73

2022年9月30日をもって、大阪市北区の映画館「テアトル梅田」が閉館する。1990年4月19日にオープンし、『トレインスポッティング』や『アメリ』や『ムトゥ 踊るマハラジャ』などのミニシアター系作品を上映した。支配人は木幡明夫。閉館の理由にコロナ禍はあまり関係ないといい、4スクリーンの「シネ・リーブル梅田」に集中させるという経営判断による。テアトル梅田の歴代動員数第1位は約7万人を動員した『アメリ』(2001年)であり、興行収入が1億円を超えた唯一の作品である。*74

2022年9月30日をもって、大阪市の「テアトル梅田」が閉館した。1990年4月にオープン。関西におけるミニシアター文化の牽引役となり、エンタメ作品からアート作品まで世界各国の作品を上映した。テアトル梅田の上映ラインナップは「シネ・リーブル梅田」に引き継がれる。*75
シネリーブル梅田1・2/シネリーブル梅田1-4/テアトル梅田1-4(新)
所在地 : 大阪府大阪市北区大淀中1-1-88 梅田スカイビルタワーイースト3階(2002年・2005年・2010年)、大阪府大阪市北区大淀中1-1-88 梅田スカイビルタワーイースト3階・4階(2015年・2020年)
開館年 : 2000年12月23日
閉館年 : 営業中
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2002年・2005年・2010年の映画館名簿では「シネ・リーブル梅田1・2」(2館)。2014年3月1日に梅田ガーデンシネマの2館を引き継いで4館化。2015年・2020年の映画館名簿では「シネ・リーブル梅田1・2・3・4」(4館)。最寄駅は阪急京都線・神戸線・宝塚線大阪梅田駅。

2000年12月23日、大阪市北区大淀中1-1-88 タワーイースト3階に日活によって「シネ・リーブル梅田1・2」が開館した。*76
梅田ブルク7
所在地 : 大阪府大阪市北区梅田1-12-6 E-MAビル7階(2003年・2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 2002年4月27日
閉館年 : 営業中
2002年の映画館名簿には掲載されていない。2003年・2005年・2010年の映画館名簿では「梅田ブルク1-7」(7館)。2012年・2015年・2020年の映画館名簿では「梅田ブルク7 シアター1-7」(7館)。2012年の映画館名簿では経営会社が梅田ブルク共同事業体、経営者が岡田裕介、支配人が谷口慎一郎、鉄筋造8階・10階・12階。最寄駅はJR大阪駅。

2002年4月27日、大阪市の梅田の商業ビル イーマに「梅田ブルク7」が開館する。東映の関連会社であるティ・ジョイと松竹が共同で運営する。7スクリーン計1600席。4月28日には「梅田東映」「パラス」「パラス2」が入った梅田東映会館が閉館する。「直営館からシネコンへ」という東映の戦略に沿った開館/閉館である。*77

2002年4月27日、「梅田ブルク7」が開館した。*78
プラネットプラスワン(新)
所在地 : 大阪府大阪市北区中崎2丁目3-12 パイロットビル2階
開館年 : 2007年(移転)
閉館年 : 営業中
Wikipedia : プラネットプラスワン
2007年移転。映画館名簿には掲載されていない。1スクリーンの名画座。最寄駅は大阪メトロ谷町線中崎町駅。

「プラネットスタジオ・プラス・ワン」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*79
大阪ステーションシティシネマ
所在地 : 大阪府大阪市北区梅田3-1-3 ノースゲートビルディング11階(2012年・2015年・2020年)
開館年 : 2011年5月4日
閉館年 : 営業中
2010年の映画館名簿には掲載されていない。2012年・2015年・2020年の映画館名簿では「大阪ステーションシネマ1-12」(12館)。2012年の映画館名簿では経営会社が大阪ステーションシティシネマ共同事業体、経営者が中島厚、支配人が樋口哲也、鉄筋造11階。関西最大級のシネコン。最寄駅はJR大阪駅。

2011年5月4日、JR大阪駅のノースゲートビル11階に「大阪ステーションシティシネマ」がグランドオープンした。12スクリーン計2564席を有する関西最大規模のシネコンである。札幌市の「札幌シネマフロンティア」に続いて、邦画3社(松竹マルチプレックスシアターズ、TOHOシネマズ、ティ・ジョイ)が共同経営する。出資比率は松竹マルチプレックスシアターズが50%、TOHOシネマズが30%、ティ・ジョイが20%であり、松竹マルチプレックスシアターズが運営を、TOHOシネマズが番組編成を担当する。現在の梅田地区には、10スクリーンのTOHOシネマズ梅田、7スクリーンの梅田ブルク7、2スクリーンの梅田ガーデンシネマ、2スクリーンのシネ・リーブル梅田などがある。*80
扇町キネマ
所在地 : 大阪府大阪市北区南扇町6-26 扇町ミュージアムキューブM2階(2024年)
開館年 : 2023年10月3日
閉館年 : 営業中
2022年の映画館名簿には掲載されていない。2024年の映画館名簿では「扇町キネマ」。2024年の映画館名簿では経営会社が株式会社シアターワークショップ、経営者が伊東正示、支配人が金有那、45席。最寄駅は大阪メトロ堺筋線扇町駅。

2023年10月2日、大阪市の扇町に文化創造拠点「扇町ミュージアムキューブ」が開館予定であり、ミニシアター「扇町キネマ」も入る。第七藝術劇場をプログラム編成のパートナーとする。7月10日から8月31日までクラウドファンディングが行われている。*81

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