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大阪市都心部

北区

天満宝塚劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区池田町21(1955年・1960年)
開館年 : 1951年6月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年6月開館。1955年・1960年の映画館名簿では「天満宝塚劇場」。1961年の住宅地図では「天満宝塚」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「天満パールビル」。
梅田中央劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区曽根崎上2-23(1958年・1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「梅田中央劇場」。1961年の住宅地図では発見できず。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
錦座
所在地 : 大阪府大阪市北区南錦町20(1955年・1960年)、大阪府大阪市北区南錦町14(1963年)
開館年 : 1951年1月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年1月開館。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「錦座」。1961年の住宅地図では「錦座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ホテルてんま」。
梅田松竹映画劇場・梅田松竹シネマ・梅田松竹名画座/梅田松竹映画劇場・梅田松竹セントラル・梅田松竹名画座
所在地 : 大阪府大阪市北区曽根崎上4-56(1960年・1963年)
開館年 : 1956年12月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「梅田松竹映画劇場・梅田松竹シネマ・梅田松竹名画座」(3館)。1961年の住宅地図では「梅田松竹映画劇場・梅田松竹シネマ・梅田松竹名画座」。1963年の映画館名簿では「梅田松竹映画劇場・梅田松竹セントラル・梅田松竹名画座」(3館)。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大阪駅前第2ビル」建物東側。

1956年12月、「梅田松竹」「梅田松竹シネマ」「梅田名画座」が開館した。*1
大阪座/松竹大阪座/天満松竹大阪座
所在地 : 大阪府大阪市北区黒崎町37(1955年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1912年7月
閉館年 : 1966年3月
『全国映画館総覧 1955』によると1912年7月開館。1955年の映画館名簿では「大阪座」。1960年・1963年の映画館名簿では「松竹大阪座」。1964年の住宅地図では「松竹大阪座」。1966年の映画館名簿では「天満松竹大阪座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「黒崎町公園」敷地東側。

1966年3月、松竹直営館「大阪座」が廃館となった。*2
旭座/天満東映/天満大映
所在地 : 大阪府大阪市北区黒崎町36(1955年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1924年3月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1924年3月開館。1955年・1960年の映画館名簿では「旭座」。1963年の映画館名簿では「天満東映」。1964年の住宅地図では「天満東映」。1966年の映画館名簿では「天満大映」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「黒崎町公園」敷地西側。
天満銀映/天満銀映会館
所在地 : 大阪府大阪市北区大工町3(1955年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1951年8月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年8月開館。1955年の映画館名簿では「天満銀映」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「天満銀映会館」。1964年の住宅地図では「天満銀映会館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「天満天神繁昌亭」。
シネマ新阪神
所在地 : 大阪府大阪市北区梅田町47 新阪神ビル(1960年・1963年)、大阪府大阪市北区梅田町48(1966年)
開館年 : 1955年10月28日
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「シネマ新阪神」。1964年の住宅地図では「新阪神ビル 地下1階 シネマ新阪神」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ヒルトンプラザウエスト」。

1955年10月28日、大阪市北区梅田町47の新阪神ビル地下に「シネマ新阪神」が開館した。定員200人。シネスコ設備を有する洋画自由選択館であり、ニュース映画や文化映画を併営する50円劇場である。経営者は元プレミヤ映画大阪支社社長の前川芙路。*3
阪神ビル映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区梅田町1(1955年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1941年7月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1941年7月開館。1955年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「阪神ビル映画劇場」。1964年の住宅地図では「阪神ビル 阪神百貨店 阪神ビル映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「阪神百貨店梅田本店」。

1959年4月1日、大阪市北区梅田町1の日活封切館「阪神ビル映画劇場」が新東宝封切館に転向した。*4
第一映画劇場/天満第一劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区池田町21(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1955年の映画館名簿では「第一映画劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「天満第一劇場」。1961年の住宅地図では「第一劇場(ビリヤード・ホープ)」。1964年の住宅地図では「第一劇場 ビリヤード・ホープ」。1969年の吉田地図では「第一劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「丸正チェーンストアー北店」。跡地は「ファミリーマート天満市場店」が入る「レジュールアッシュ天神橋」。最寄駅は大阪メトロ谷町線・堺筋線天神橋筋六丁目駅またはJR大阪環状線天満駅。
天満映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区池田町21(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1951年3月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年3月開館。1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「天満映画劇場」。1961年・1964年の住宅地図では「天満映画劇場」。1969年の吉田地図では「天満映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「ガレージ」。跡地は1996年竣工のマンション「パラツィーナセシリア天満」。最寄駅は大阪メトロ谷町線・堺筋線天神橋筋六丁目駅またはJR大阪環状線天満駅。
梅田大映/梅田大映劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区曽根崎上2-8・9 村初天神境内(1955年)、大阪府大阪市北区曽根崎上2-8(1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年8月13日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1955年開館。1955年の映画館名簿では「梅田大映」。1955年の映画館名簿では1200席の大劇場。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「梅田大映劇場」。1961年・1969年の住宅地図では「梅田大映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「梅田パシフィックビルディング」。

1955年8月13日、大阪市の梅田新道に「梅田大映」が開館した。永田大映社長の挨拶の後、『新・平家物語』が上映され、長谷川一夫主演の舞踊「島の千歳」が公演された。14日から16日の3日間にも大映スターの特別出演があり、『花の二十八人衆』と『浅草の鬼』が一般公開された。お初天神内。地上4階・地下1階建て。定員1134人。建坪257坪。*5

1955年8月13日、大阪市の梅田新道に「梅田大映」が開館した。大映は激しくなってきた直営館ブームの波に乗って興行網の充実を図っている。お初天神内。地上4階・地下1階建てであり、大映のモデルシアターとされる。*6
ステーション シネマ/ステーション東映/ステーションシネマ
所在地 : 大阪府大阪市北区梅田町大阪駅構内(1955年)、大阪府大阪市北区梅田町1(1960年・1963年)、大阪府大阪市北区梅田町1 大阪駅構内(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1947年7月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1947年7月開館。1955年の映画館名簿では「ステーション シネマ」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「ステーション東映」。1969年・1970年の映画館名簿では「ステーションシネマ」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
梅田シネマ
所在地 : 大阪府大阪市北区(1950年・1953年)、大阪府大阪市北区曽根崎中1-50(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1947年2月
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年2月開館。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「梅田シネマ」。1969年の吉田地図では「梅田シネマ」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「梅田OSホテル」。最寄駅は大阪メトロ谷町線東梅田駅。
梅田日活映画劇場/梅田日活劇場/梅田日活劇場・梅田日活シネマ/梅田日活オスカー・梅田日活シネマ
所在地 : 大阪府大阪市北区永楽町15(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1947年9月
閉館年 : 1974年6月
『全国映画館総覧 1955』によると1947年9月開館。1955年の映画館名簿では「梅田日活映画劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「梅田日活劇場・梅田日活シネマ」(2館)。1969年の吉田地図では「梅田日活シネマ・梅田日活オスカー」。1971年の住宅地図では「梅田日活オスカー 梅田日活シネマ」。1973年の映画館名簿では「梅田日活オスカー・梅田日活シネマ」(2館)。1975年の映画館名簿には掲載されていない。1978年の住宅地図では跡地に「日本信販建設用地」。跡地は「大和証券大阪支店ビル」西側の空き地? 最寄駅はJR東西線北新地駅。

1955年4月26日、大阪市北区永楽町15の「梅田日活」が取り壊し工事に入った。梅田地区では大映がモデルシアターを建設中であり、その隣接地には新東宝の封切館も着工間近である。日活も改築を余儀なくされ、1955年12月25日を目標に新館が建設される。新館は総工費3億円、地上4階・地下1階建。建坪2400坪。大劇場が定員1350人、小劇場2館がそれぞれ定員750人程度となる予定。*7

日活の直営館を見ると、1972年11月に「梅田日活ロマン」が開館し、1973年2月に「浜松日活」が開館し、4月に「小田原ロマン」が開館し、5月に「水戸ロマン」が開館した。1972年7月には「久留米日活」が閉館し、12月には「浜松スカラ座」と「浜松日活」が閉館し、1973年3月には「大牟田日活」が閉館し、5月には「大垣日活」が閉館した。*8

日活の直営劇場の動きを見ると、1973年10月に「布施日活」が開館し、11月に「泉大津日活」が開館し、11月に「万松寺日活」が開館し、11月に「横須賀日活ロマン」が閉館し、1974年6月に「梅田日活オスカー・梅田日活ロマン・梅田日活シネマ」が閉館した。*9
天満東洋劇場/天満東洋劇場・東洋ひかり劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区菅栄町119(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1978年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「天満東洋劇場」。1961年の住宅地図では「天満東洋映画劇場」。1964年の住宅地図では「東洋映画劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「天満東洋劇場・東洋ひかり劇場」(2館)。1969年の住宅地図では「東洋会館 東洋劇場 東洋ヒカリ劇場 東洋ショー劇場」。1978年の映画館名簿では「天満東洋劇場」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「業務スーパー天満店」。

1962年2月18日、大阪市北区菅栄町の「天満東洋劇場」が全焼した。原因は漏電。*10
梅田東宝会館
所在地 : 大阪府大阪市北区角田町(1943年)、大阪府大阪市北区角田町33(1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年)
開館年 : 1937年12月
閉館年 : 1978年2月
『全国映画館総覧 1955』によると1937年12月開館。1943年・1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「梅田映画劇場・梅田地下劇場・梅田小劇場」(3館)。1955年の映画館名簿では「梅田映画劇場・梅田地下劇場・梅田ニュース劇場・北野劇場」(4館)。1958年の映画館名簿では「梅田映画劇場・梅田地下劇場・梅田ニュース館・北野劇場」(4館)。1960年の映画館名簿では「梅田映画劇場・梅田地下劇場・梅田ニュース劇場・北野劇場」(4館)。1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「梅田劇場・梅田スカラ座・梅田地下劇場・北野劇場・北野シネマ」(5館)。1969年の吉田地図では「北野劇場」と「東宝梅田会館 梅田劇場・梅田地下劇場・梅田スカラ座・北野シネマ」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。後継館は同一地点に建ったナビオ阪急の3館。跡地は「HEP NAVIO」。

1959年春のこのほど、大阪市北区角田町33の東宝直営館「北野劇場」は「大阪北野東宝劇場」に改称した。*11

1961年4月初旬、大阪市北区に70ミリ劇場「梅田スカラ座」が着工した。10月完成予定。*12

1961年4月29日、大阪市北区角田町33の「北野劇場」地下に「北野シネマ」が開館した。座席300。洋画特選名画を上映。*13

1961年11月1日、大阪市の梅田会館内に洋画系の「梅田スカラ座」が新築され、東宝系の「梅田劇場」が大改造で開館する。*14

1961年11月1日、大阪市北区角田町33の「梅田劇場」屋上に洋画ロードショー館「梅田スカラ座」が新築され、『ガン・ファイター』で開館した。椅子席903。*15

1961年11月1日、東宝の直営館として「梅田スカラ座」が新築開館した。*16

1976年5月の大阪市にあった「梅田東宝会館」の写真あり。「北野劇場」、「梅田劇場」、「梅田スカラ座」、「梅田地下劇場」、「北野シネマ」が入っていた。1978年に閉館すると跡地にはナビオ阪急(現在のHEP NAVIO)が建ち、ナビオ阪急には北野劇場、梅田劇場、梅田スカラ座の3館が入った。*17

1977年11月の大阪市にあった映画館「北野シネマ」の写真あり。「アートシアター 北野シネマ」の文字が見える。日本アート・シアター・ギルド(ATG)の上映館であり、根強いファン層を持っていた。北野シネマは1978年に閉館した。*18

1978年2月、東宝は「梅田スカラ座」と「梅田地下」と「北野シネマ」と「梅田劇場」と「北野劇場」を閉館させた。*19
阪急プラザ劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区小深町21-1(1973年)、大阪府大阪市北区小深町3-1(1975年・1978年)、大阪府大阪市北区芝田1-1-3(1980年・1984年)
開館年 : 1970年以後1973年以前
閉館年 : 1984年
1970年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1975年・1978年・1980年・1984年の映画館名簿では「阪急プラザ劇場」。1983年の住宅地図では「阪急ターミナルビル 地下1階〜2階阪急プラザ劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。
天六映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区吉山町56(1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市北区天神橋6-2-12(1980年・1985年・1988年・1989年)
開館年 : 1960年以後1963年以前
閉館年 : 1989年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年・1988年・1989年の映画館名簿では「天六映画劇場」。1969年の吉田地図では「天六映劇」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「天六西光モータープール」。最寄駅は大阪メトロ谷町線・堺筋線天神橋筋六丁目駅。
梅田ニューシネマ
所在地 : 大阪府大阪市北区小松原町4-7(1981年・1982年・1985年・1990年・1991年)
開館年 : 1980年頃
閉館年 : 1991年頃
1980年の映画館名簿には掲載されていない。1981年・1982年・1985年・1990年・1991年の映画館名簿では「梅田ニューシネマ」。1983年の住宅地図では「1階パチンコニュー大東洋 2階カジノ大東洋 3階梅田ニューシネマ」。1992年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「OSビル」東にあるパチンコ店「大東洋本店」。最寄駅は阪急大阪梅田駅・JR大阪駅。
梅田キネマ
所在地 : 大阪府大阪市北区堂山町 7-7角庄ビル(1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1979年頃
閉館年 : 1991年頃
1979年の映画館名簿には掲載されていない。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「梅田キネマ」。1983年の住宅地図では「かくしょうビル 2階梅田キネマ」。2000年の映画館名簿には掲載されていない。コンビニ「セブンイレブン梅田堂山西店」などが入る角庄ビルは現存。
OS映画劇場/OS劇場(旧)
所在地 : 大阪府大阪市北区小松原町30(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市北区小松原町3-3(1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1947年7月31日
閉館年 : 1991年2月11日
『全国映画館総覧 1955』によると1947年7月開館(火災休館)。1955年の映画館名簿では「OS映画劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「OS劇場」。1969年の吉田地図では「OSシネラマ劇場」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「OSビル」。最寄駅は阪急大阪梅田駅・JR大阪駅。

1959年の大阪市北区梅田にあった「OS劇場」の写真あり。「シネラマOS劇場」「西日本にタダ一つのシネラマ劇場!」の文字が見える。シネラマ作品5作目の『南海の冒険』の看板が見える。1947年に洋画ロードショー館として開館し、1954年に大型湾曲スクリーンのシネラマ上映館に改築された。『ベン・ハー』、『2001年宇宙の旅』、『スター・ウォーズ』、『未知との遭遇』などがシネラマ公開された。1991年に閉館した。*20

大阪市の梅田にあった「OS劇場」の写真あり。「OS Theatre」「シネラマ OS劇場」の文字が見える。『地中海殺人事件』の看板が見える。*21

1976年7月の大阪市の梅田にあった「OS劇場」の写真あり。『ミッドウェイ』に多くの観客が詰めかけている。ジャック・スマイト監督の同作は1976年の興行収入で3位を記録した。*22

1983年8月の大阪市の梅田にあった「OS劇場」の写真あり。『南極物語』に長蛇の列ができている。配給収入は59億円を記録し、邦画としては歴代1位となった。*23

1991年2月11日をもって、梅田にある映画館「シネラマOS劇場」が閉館する。1月25日から2月11日までは懐かしの名画などを安価で上映する「さよならフェスティバル」が開催されている。横幅19.4m×高さ9.8mの超大型湾曲スクリーンを有するシネラマ館として全国に知られていた。再開発を機に高層ビルに生まれ変わる。*24

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1989年1月号には「第24回 梅田OS劇場」が掲載されている。*25

1948年の大阪市北区にあった映画館「OS劇場」の写真あり。阪急百貨店の屋上から東を見た風景。*26

『ハヤカワミステリマガジン』2016年7月号には田中小実昌「コミさんの映画館めぐり(第7回)大阪梅田OS劇場」が掲載されている。*27
梅田コマゴールド劇場・梅田コマシルバー劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区角田町5(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市北区角田町5-14(1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1960年以後1963年以前
閉館年 : 1992年9月
1963年の映画館名簿では「コマ ゴールド劇場・コマ シルバー劇場」(2館)。1966年の映画館名簿では「梅田コマ・ゴールド」と「梅田コマ・シルバー」(2館)。1969年の吉田地図では「コマゴールド コマシルバー劇場」。1969年の住宅地図では「梅田コマスタジアムKK」。1969年・1973年の映画館名簿では「コマゴールド劇場・コマシルバー劇場」(2館)。1980年の映画館名簿では「コマ ゴールド劇場・コマ シルバー劇場」(2館)。1985年の映画館名簿では「梅田コマ・ゴールド劇場」と「梅田コマ シルバー劇場」(2館)。1990年の映画館名簿では「梅田コマ・ゴールド」と「梅田コマ・シルバー」(2館)。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「梅田楽天地ビル」。最寄駅は阪急大阪梅田駅・JR大阪駅。

1988年7月の大阪市にあった「梅田コマ劇場」の写真あり。「梅田コマ劇場 ゴールド シルバー劇場」「Umeda Koma Stadium」の文字が見える。1956年に開館した。1992年にはちゃやまちアプローズに移転して劇場「飛天」(現在の梅田芸術劇場)となった。。*28
北大毎地下劇場/大毎地下劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区堂島中1-49(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市北区堂島1-5-20(1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1993年3月
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「大毎地下劇場」。1966年の映画館名簿では「北大毎地下劇場」。1969年の吉田地図では「毎日大阪会館 南館」。1969年・1973年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「大毎地下劇場」。1980年の住宅地図では「毎日大阪会館南館 地下大毎地下劇場」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ホテル エルセラーン大阪」。最寄駅は大阪メトロ四つ橋線西梅田駅。

1961年6月26日、大阪市北区堂島1-49の「大毎地下劇場」が大映封切館から洋画館に転換した。経営は大映興行。*29

1993年3月26日の『朝日新聞』大阪版朝刊には「大毎地下劇場」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*30
梅田グランド/梅田グランド劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区(1950年・1953年)、大阪府大阪市北区角田町8(1955年)、大阪府大阪市北区曽根崎中1-71(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市北区曽根崎2-15-19(1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1946年11月
閉館年 : 1990年
『全国映画館総覧 1955』によると1946年11月開館。1950年の映画館名簿では「梅田グランド」。1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「梅田グランド劇場」。1969年の吉田地図では「梅田花月劇場・梅田グランド劇場」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「SWINGうめだ」。最寄駅は大阪メトロ谷町線東梅田駅。

1957年4月8日、大阪市に新「梅田グランド」が開館する予定。吉本興業が建設中。大劇場は洋画ロードショー館、地下の花月劇場は東映封切館となる予定。このため、4月1日には現在の東映封切館である「梅田コマ・ゴールド劇場」が洋画自由選択館に、洋画邦画名画選択館の「梅田コマ・シルバー劇場」が名画選択上映館になる。*31
シネマワイズうめだ花月シアター
所在地 : 大阪府大阪市北区曽根崎2-15-20(1997年・1998年・1999年)
開館年 : 1996年頃
閉館年 : 1999年頃
1996年の映画館名簿には掲載されていない。1997年・1998年・1999年の映画館名簿では「シネマワイズうめだ花月シアター」。1997年の映画館名簿では経営会社が吉本興業、経営者が中邨秀雄、支配人が牛田正昭、鉄筋造1階、186席、邦画・洋画を上映。2000年の映画館名簿には掲載されていない。
シネマヴェリテ/ACTシネマヴェリテ/シネヌーヴォ梅田
所在地 : 大阪府大阪市北区堂山町5-9(1990年・1995年・1996年)
開館年 : 1989年頃(シネマ ヴェリテ)
閉館年 : 1997年頃(シネマ ヴェリテ)、1999年8月29日(シネ ヌーヴォ梅田)
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1995年の映画館名簿では「シネマ ヴェリテ」。1991年の住宅地図では「レジャーセンター扇会館 地下1階シネマヴェリテ」。1996年・1997年の映画館名簿では「ACTシネマ ヴェリテ」。1998年の映画館名簿には掲載されていない。「扇会館」は現存。

大阪にはレイトショーは根付かないとされてきたが、1992年現在の「国名小劇」はオールナイト上映を行っているし、4年前から「シネマ・ヴェリテ」はレイトショーを実施している。「シネマアルゴ梅田」「テアトル梅田」「扇町ミュージアムスクエア」も常時レイトショーを実施するようになっている。*32

1999年7月23日の『毎日新聞』大阪版には「シネ・ヌーヴォ梅田」が8月29日をもって閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*33

1999年8月28日の『朝日新聞』大阪版には「シネ・ヌーヴォ梅田」が8月29日をもって閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*34
梅新日活/梅新にっかつ劇場/ロッポニカ梅田/シネマアルゴ梅田
所在地 : 大阪府大阪市北区永楽町1(1978年)、大阪府大阪市北区曽根崎新地1-8-19(1980年・1985年・1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1976年1月
閉館年 : 2000年11月
1975年の映画館名簿には掲載されていない。1978年・1980年の映画館名簿では「梅新日活」。1983年の住宅地図では「梅新壱番館 6階梅新にっかつ劇場」。1985年の映画館名簿では「梅新にっかつ劇場」。1990年の映画館名簿では「ロッポニカ梅田」。1990年シネマアルゴ梅田開館。1995年・2000年の映画館名簿では「シネマアルゴ梅田」。2000年11月シネマアルゴ梅田閉館。2005年の映画館名簿には掲載されていない。

日活直営劇場の動きを見ると、1975年8月には「福島日活」が開館、10月には「木更津日活」が開館、12月には「岡山日活」が開館、1976年1月には「梅新日活」が開館、3月には「船橋日活」が閉館、4月には「高松日活」が開館した。*35
梅田東映会館
所在地 : 大阪府大阪市北区永楽町6(1960年・1969年)、大阪府大阪市北区曽根崎新地1-13-22(1980年・1990年・2000年)
開館年 : 1959年3月20日
閉館年 : 2002年4月28日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「梅田東映劇場・梅田東映パラス劇場・梅田東映ホール」(3館)。1969年の映画館名簿では「梅田東映劇場・梅田東映パラス・梅田東映ホール劇場」(3館)。1969年の吉田地図では「大阪東映会館 梅田東映・東映ハウス劇場」。1980年の映画館名簿では「梅田東映劇場・梅田東映パラス・梅田東映ホール」(3館)。1980年の住宅地図では「大阪東映会館」。1990年・2000年の映画館名簿では「梅田東映・梅田東映パラス・梅田東映パラス2」(3館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。建物名は梅田東映会館。跡地は「御堂筋フロントタワー」。最寄駅はJR東西線北新地駅。

1959年3月20日、東映の直営館「大阪東映会館」が開館する。1957年10月に着工していた。地下1階から2階が定員1064人の「梅田東映」。2階から4階が定員918人の「東映パラス」。東映パラスのオープニングは『ニューヨークの王様』。*36

1979年8月の大阪市の梅田にあった「東映会館」の写真あり。『銀河鉄道999』に長蛇の列ができている。*37

1981年12月の大阪市の梅田にあった「東映会館」の写真あり。『セーラー服と機関銃』に長蛇の列ができており、機動隊が出動している。公開後初の日曜日となった12月20日には薬師丸ひろ子が舞台挨拶を行う予定だったが、ファンが殺到したことで舞台挨拶は中止され、この日は2回目以降の上映も取りやめとなった。*38

2002年4月16日の『産経新聞』大阪版夕刊には「梅田東映」が4月28日をもって閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*39

2002年4月27日の『読売新聞』大阪版夕刊には「東映会館」が4月28日をもって閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*40
東梅田日活劇場・東梅田シネマ・東梅田オークラ地下劇場・東梅田ローズ劇場/梅田日活劇場・梅田ローズ劇場・東梅田シネマ/梅田日活劇場・梅田ローズ劇場
所在地 : 大阪府大阪市北区堂山町17-8(1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年)
開館年 : 1978年頃
閉館年 : 2011年6月26日
1978年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の映画館名簿では「東梅田日活・東梅田シネマ」(2館)。1980年の映画館名簿では「東梅田日活・東梅田シネマ・東梅田オークラ地下劇場」(3館)。1983年の住宅地図では「北シャトービル 地下1階オークラ地下劇場 2階東梅田にっかつ 3階東梅田シネマ」。1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「東梅田日活劇場・東梅田シネマ・東梅田オークラ地下劇場・東梅田ローズ劇場」(4館)。2005年の映画館名簿では「梅田日活劇場・梅田ローズ劇場・東梅田シネマ」(3館)。2010年の映画館名簿では「梅田日活劇場・梅田ローズ劇場」(2館)。跡地はコンビニ「ファミリーマート堂山町店」。
扇町ミュージアム スクエアー
所在地 : 大阪府大阪市北区神山町1-11(1995年・2000年)
開館年 : 1985年4月26日(上映会開始)、1992年6月(上映専門スペース化)
閉館年 : 2003年3月16日
1990年の映画館名簿には掲載されていない。1995年の映画館名簿では「扇町ミュージアム スクエアーコロキューム」。2000年の映画館名簿では「扇町ミュージアム スクエアー」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大阪市立天満中学校」南側の「セミナーハウス クロス・ウェーブ梅田」。最寄駅は大阪メトロ堺筋線扇町駅。

1985年3月にオープンした扇町ミュージアムスクエアには、"フォーラム"と"コロキューム"という2つの多目的スペースが設置された。1985年4月26日には"フォーラム"で初めて映画が上映された。大林宣彦監督の『廃市』である。6月1日からは同じく"フォーラム"で、寺山修司監督の『さらば箱舟』がロードショー公開された。次第に"フォーラム"は演劇公演メインに、"コロキューム"は映画上映メインになっていき、大阪にアート系ミニシアターが登場し始めた1988年半ばには"コロキューム"のスケジュールが映画上映で埋まるようになった。それまでの大阪には単館興行の劇場として「三越劇場」があったが、1988年4月24日にはミナミに「国名小劇」が、1989年2月には梅田に「シネマ・ヴェリテ」が、1990年4月には梅田に「テアトル梅田1・2」が開館している。1992年6月には"コロキューム"が改修され、正式に映画上映専門スペースとなった。*41

2003年3月17日の『東京新聞』には「扇町ミュージアムスクエア」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*42

2003年3月17日の『朝日新聞』大阪版には「扇町ミュージアムスクエア」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*43

2003年5月時点で大阪府にシネコンが9施設ある。1993年4月には大阪府初のシネコンとしてワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田が開館。その後、1997年・1998年・1999年に1施設ずつ開館し、2000年には2施設、2001年には1施設、2002年には2施設開館した。この2003年10月には箕面市に大阪府下10か所目のシネコンが開館する予定。この10年には旧来からの映画館やミニシアターの閉館が相次いでおり、この1年だけでも、1985年開館の扇町ミュージアムスクエア(北区)や、1993年開館のパラダイスシネマ(中央区)など10館が閉館した。1993年開館の第七芸術劇場(淀川区)は1999年に閉館したが、映画ファンや商店街の人々が声を上げ、2002年7月に有限会社第七芸術劇場が営業を再開した。*44
プラネットプラスワン(旧)
所在地 : 大阪府大阪市北区堂山町15-2 関西中央ビル別館地下1階
開館年 : 1995年12月1日
閉館年 : 2007年(移転)
Wikipedia : プラネットプラスワン
映画館名簿には掲載されていない。2005年の住宅地図では「関西中央ビル別館 地下1階プラネット映画資料図書館 プラネットスタジオプラスワン」。2007年移転。建物の関西中央ビルは現存。
三番街シネマ1・2/三番街シネマ1・2・3
所在地 : 大阪府大阪市北区茶屋町茶屋町38(1976年・1978年)、大阪府大阪市北区茶屋町茶屋町2-16(1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1975年4月
閉館年 : 2007年9月24日
1975年の映画館名簿には掲載されていない。1976年・1978年の映画館名簿では「三番街シネマ1・2」(2館)。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「三番街シネマ1・2・3」(3館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「イースクエア茶屋町」。最寄駅は阪急大阪梅田駅。

1975年4月、東宝が「三番街シネマ1・2」を閉館させた。*45

1977年10月、東宝は「三番街シネマ3」を開館させた。*46

2007年9月24日をもって、大阪・梅田にある映画館「三番街シネマ」が閉館する。3スクリーン、計1160席。321席のOS劇場、137席のOS名画座についても、10月1日からナビオTOHOプレックスと統合し、10スクリーン計約2700席のTOHOシネマズ梅田として再開館する。*47

2007年9月24日、大阪市のキタにある映画館「三番街シネマ1・2・3」が閉館する。1975年には2スクリーンで三番街シネマが開館し、やがて3館体制となった。1997年の『もののけ姫』の上映時には約53万人を集め、全国一の観客動員記録を作った。*48

2007年9月24日、大阪市北区茶屋町の映画館「三番街シネマ1・2・3」が閉館する。1975年に開館し、1997年には年間約110万人を動員していたが、2006年には50万人にまで減少していた。さよなら上映会では『影武者』や『もののけ姫』など9作品が上映される。10月1日にはOS劇場などを吸収する形で、ナビオ阪急などに10スクリーンのシネコンが開館する。*49

2007年9月24日、大阪市北区茶屋町の映画館「三番街シネマ1・2・3」が閉館する。1975年に開業し、デートスポットなどとして人気を集めたが、シネコンの台頭で観客が激減していた。最終日は「想い出のラストショー」として、『サタデー・ナイト・フィーバー』や『影武者』など9作品を500円で上映する。6階建てビルの4階から6階部分にある。1997年には『もののけ姫』を上映し、同作品において全国の映画館の中で最多の観客数を集めた。同年には109万人を動員したが、大阪府内にシネコンが相次いで開館したことで、2006年には約50万人にまで減少していた。なお、9月21日にはOS劇場など2館も閉館している。*50
梅田ピカデリー1・2・梅田ロキシー・梅田松竹/梅田ピカデリー1・2・3・梅田松竹/梅田ピカデリー1・2・3・4
所在地 : 大阪府大阪市北区太融寺町8-17(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年)
開館年 : 1980年3月15日
閉館年 : 2011年1月16日
Wikipedia : 梅田ピカデリー
1980年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の映画館名簿では「梅田ピカデリー1・2・梅田ロキシー・梅田松竹」(4館)。1990年・1995年の映画館名簿では「梅田ピカデリー1・2・3・梅田松竹」(4館)。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「梅田ピカデリー1・2・3・4」(4館)。2015年の映画館名簿には掲載されていない。梅田松竹会館(現・プラザ梅田ビル)内。ビル内の映画館跡地はライブハウス「梅田クラブクアトロ」、プロレス場「ナスキーホール・梅田」、大衆演劇場「梅田呉服座」。

1980年3月15日、松竹による梅田松竹会館が開場した。洋画ロードショー館「梅田ピカデリー1」(800人)、洋画ロードショー館「梅田ピカデリー2」(600人)、特選名画館「梅田ロキシー」(550人)、松竹封切館「梅田松竹」(600人)が入る。*51

1980年3月、大阪市に「梅田松竹会館」が開館した。「梅田松竹」、「梅田ロキシー」、「梅田ピカデリー」、「梅田ピカデリー2」の4館が入っていた。その後、「梅田ピカデリー1・2・3・4」に改称した。2011年に閉館した。*52

1999年6月12日、「梅田松竹」と「梅田ピカデリー1・2・3」を「梅田ピカデリー1-4」に改称し、「札幌松竹遊楽館」と「札幌SY有楽」を「札幌松竹遊楽館1・2」に改称し、「上野松竹」と「上野映画」と「上野セントラル」と「上野名画座」を「上野セントラル1-4」に改称した。*53

2011年1月16日をもって、大阪市の映画館「梅田ピカデリー」が閉館する。松竹の直営館。4スクリーン。開館から30年がたって老朽化が進んでいた。松竹・東宝・東映の3社は、2011年にJR大阪駅前にシネコンを共同運営する計画がある。*54

2011年1月16日をもって、大阪市の映画館「梅田ピカデリー」が閉館する。松竹の直営館。1980年3月の開館であり、4スクリーン計1918席を有している。松竹は施設の老朽化に加えて、経営効率の悪化も閉館の理由に挙げている。*55

2011年1月16日をもって、大阪市北区の映画館「梅田ピカデリー」が閉館する。松竹の直営館。4スクリーン1918席。1980年に開館したが、老朽化とシネコン人気の影響で観客が減少していた。現在の松竹は東映と共同で「梅田ブルク7」を運営しており、また2011年には松竹・東宝・東映の3社によってJR大阪駅前に「大阪ステーションシティシネマ」が開館する予定である。*56

2011年1月16日をもって、大阪市の映画館「梅田ピカデリー」が閉館する。松竹の直営館。近年にはシネコンが台頭し、周辺の老舗映画館が相次いで閉館する中、唯一残る大手直営館として人気を集めていた。梅田ピカデリーの閉館によって、梅田からは大手経営の映画館が姿を消し、シネコン競争が激化するとされる。松竹にとっては関西地区のメイン館であり、1980年3月に開館した。10階建てのビルに4スクリーン計1918席を有している。1982年公開の『E.T.』では約36万7000人を動員した。1994年3月にはアイドルグループのSMAPの主演映画の舞台挨拶が行われ、前日夕方から徹夜組のファンが詰めかけた。早朝には500-600mの行列に達し、4スクリーン全てを解放した。興行収入は15億円前後で推移していたが、2007年には10億円を割り込んでいた。2002年には東宝の「北野劇場」、東映の「梅田東映会館」が相次いで閉館し、大型シネコンが開館した。2007年には「OS劇場」、「OS名画座」、「三番街シネマ」が閉館し、うち2館は隣接するシネコンが吸収した。松竹は今春から、松竹・東宝・東映の大手3社で共同出店するシネコン「大阪ステーションシネマ」に経営資源を集中させる。関西地方最大級の12スクリーン計2500席があり、TOHOシネマズ梅田や梅田ブルク7などと激しい集客争いが行われることが予想される。*57
天六国際劇場・天六有楽座/コクサイ劇場・ユウラク座・コクサイ地下劇場/天六コクサイ劇場・天六ユウラク座・天六ユウラク地下劇場/ホクテン座1・2・天六コクサイ劇場・天六ユウラク座・天六ユウラク地下劇場
所在地 : 大阪府大阪市大淀区天神橋筋7-15(1960年・1963年・1966年・1973年)、大阪府大阪市大淀区天神橋7-6-11(1980年・1985年)、大阪府大阪市北区天神橋7-6-11(1990年・2000年・2010年)
開館年 : 1952年12月
閉館年 : 2010年7月(部分閉館)、2012年3月30日(完全閉館)
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1955年の映画館名簿では「天六国際劇場・有楽座」(2館)。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「天六国際劇場・天六有楽座」(2館)。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の映画館名簿では「コクサイ劇場・ユウラク座・コクサイ地下劇場」(3館)。1980年・1985年の映画館名簿では「天六コクサイ劇場・天六ユウラク座・天六ユウラク地下劇場」(3館)。1990年の映画館名簿では「ホクテンザ1・2・天六コクサイ劇場・天六ユウラク座・天六ユウラク地下劇場」(5館)。2000年・2010年の映画館名簿では「ホクテン座1・2・天六コクサイ劇場・天六ユウラク座・天六ユウラク地下劇場」(5館)。2010年7月ホクテンザ1・2閉館。2012年3月30日完全閉館。建物名はシネ5ビル。跡地は「ローソン天神橋7丁目店」。最寄駅は大阪メトロ谷町線・堺筋線天神橋筋六丁目駅
梅田ガーデンシネマ1・2
所在地 : 大阪府大阪市北区大淀中1-1-88 梅田スカイビルタワーイースト4階(2000年・2005年・2010年)
開館年 : 1997年12月13日
閉館年 : 2014年2月28日
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「梅田ガーデンシネマ1・2」(2館)。2014年2月28日に2スクリーンとも閉館し、翌日には下階で営業中のシネ・リーブル梅田に引き継がれた。

1997年12月13日、大阪市北区大淀町1-1-88に「梅田ガーデンシネマ1・2」が開館した。座席数は1・2ともに111席。経営はヘラルドエンタープライズであり、同社による直営9施設目の映画館である。*58

2014年3月1日から、梅田スカイビル4階にある映画館「梅田ガーデンシネマ」と3階にある「シネ・リーブル梅田」が合わせて1施設として営業する。1997年にガーデンシネマが開館し、それぞれ111席の2スクリーンを有し、主にアート系の大人向け作品を上映していた。2000年にシネ・リーブル梅田が開館し、120席と93席の2スクリーンを有し、主に若者向け作品を上映していた。ガーデンシネマを運営するユナイテッド・シネマは、シネ・リーブルを運営する東京テアトルに映画館を譲渡する。*59
ナビオ阪急/ナビオTOHOプレックス/TOHOシネマズ梅田本館
所在地 : 大阪府大阪市北区角田町7-10 ナビオ阪急8階(1985年・1990年・1995年)、大阪府大阪市北区角田町7-10 HEPナビオ7階・8階(2000年)、大阪府大阪市北区角田町7-10 HEPナビオ8階(2005年)、大阪府大阪市北区角田町7-10 HEPナビオ7階・8階(2010年)
開館年 : 1980年10月24日
閉館年 : 営業中
1980年の映画館名簿には掲載されていない。1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「北野劇場・梅田劇場・梅田スカラ座」(3館)。2000年の映画館名簿では「北野劇場・梅田劇場・梅田スカラ座・ナビオシネ4・5」(5館)。2002年11月ナビオTOHOプレックス改称。2005年の映画館名簿では「ナビオTOHOプレックスシアター1-8」(8館)。2010年の映画館名簿では「TOHOシネマズ梅田シアター1-8」(8館)。シアター1は旧北野劇場、シアター2は旧梅田スカラ座、シアター3は旧梅田劇場、シアター4は旧梅田スカラ座2階席、シアター5は旧梅田劇場2階席、シアター6は旧会議室、シアター7・8は旧レストラン。

1976年5月の大阪市にあった「梅田東宝会館」の写真あり。「北野劇場」、「梅田劇場」、「梅田スカラ座」、「梅田地下劇場」、「北野シネマ」が入っていた。1978年に閉館すると跡地にはナビオ阪急(現在のHEP NAVIO)が建ち、ナビオ阪急には北野劇場、梅田劇場、梅田スカラ座の3館が入った。*60

1978年7月6日、東宝と阪急不動産が共同で建設する梅田阪急東宝会館(仮称)の起工式が行われた。*61

1980年10月24日、東宝によってナビオ阪急が開館した。8階がシネマタウンとなっており、「北野劇場」(座席数1016)、「梅田劇場」(座席数920)、「梅田スカラ座」(座席数937)が入る。東宝梅田会館と阪急航空ビルの跡地。東宝は120億円を投資した。*62

1998年10月23日、大阪市北区角田町7-10 HEP NAVIO 7階に159席の「ナビオシネ4」と141席の「ナビオシネ5」が開館した。経営は東宝。*63

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1987年7月号には「第7回 梅田劇場」が掲載されている。*64
梅田ニューOS劇場/ニューOS劇場/OS劇場・OS劇場C.A.P/TOHOシネマズ梅田別館
所在地 : 大阪府大阪市北区角田町5(1963年・1966年・1969年)、大阪府大阪市北区角田町5-1(1980年・1990年・2000年・2005年)、大阪府大阪市北区角田町5-1 梅田楽天地ビル2階(2015年)
開館年 : 1959年12月24日(ニューOS劇場)、2007年10月(TOHOシネマズ梅田別館)
閉館年 : 2007年9月24日(OS劇場)、営業中(TOHOシネマズ梅田別館)
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「ニューOS劇場」。1966年の映画館名簿では「梅田ニューOS劇場」。1969年の吉田地図では「ニューOS劇場」。1969年・1980年・1990年の映画館名簿では「ニューOS劇場」。2000年・2005年の映画館名簿では「OS劇場・OS劇場C.A.P」(2館)。2010年の映画館名簿では「TOHOシネマズ梅田シアター9・10」(2館)。2015年の映画館名簿では「TOHOシネマズ梅田9・10」(2館)。

1959年12月24日、大阪市北区角田町の「OS文化」跡地に「ニューOS」が開館した。梅田における初の70ミリ劇場である。定員578人。広い立見席を含めると1500人を収容可能。経営は川端直信社長のOS映劇。*65
テアトル梅田1・2
所在地 : 大阪府大阪市北区茶屋町16-7 梅田ロフト地下1階(1995年・2000年・2005年・2010年・2015年)
開館年 : 1990年4月19日
閉館年 : 2022年9月30日
1990年の映画館名簿には掲載されていない。1995年・2000年・2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「テアトル梅田1・2」(2館)。

1990年4月19日、大阪市北区茶屋町16-1 梅田ロフト地下1階に「テアトル梅田1・2」が開館した。座席数は1が96席、2が60席。経営は東京テアトル。1のオープニングは『白く乾いた季節』、2のオープニングは『スイッチング・チャンネル』。1は東宝関西映画興行部と番組提携を行っている。*66

2022年7月19日、東京テアトルは9月30日をもってミニシアター「テアトル梅田」を閉館すると発表した。大阪市北区茶屋町の梅田ロフト地下1階にある。閉館理由は入居する建物との契約満了。*67

2022年9月末をもって、大阪市北区茶屋町にあるミニシアター「テアトル梅田」が閉館する。映画監督の山下敦弘は大阪芸術大学出身であり、「テアトル梅田は自分の原点」と語る。*68

2022年9月末をもって、大阪市北区茶屋町のミニシアター「テアトル梅田」が閉館する。梅田の繁華街にある。32年にわたってインディペンデント系の作品を中心に上映した。2016年公開の映画『この世界の片隅に』を287日連続でロングラン上映したこともある。*69

2022年9月30日をもって、大阪市北区のミニシアター「テアトル梅田」が閉館する。木幡明夫支配人。ロフトが入るビルの地下に2スクリーンを有する。1990年4月19日に東京テアトルによって開館し、関西の映画文化を牽引してきたとされる。32年間で2000本以上の作品を上映した。2001年公開の『アメリ』は興行収入約1億円を記録した。テアトル梅田最大のヒット作であり、観客の列が地上まで伸びた。2016年公開のアニメ映画『この世界の片隅に』は287日間という異例のロングラン上映となり、片淵須直監督はTwitterに「連続上映記録全国第2位の劇場」などと記した。9月16日からは「さよなら興行」を開催しており、『アメリ』や『トレインスポッティング』などの人気作をリバイバル上映している。*70

2022年9月30日をもって、大阪市北区の映画館「テアトル梅田」が閉館する。1990年4月19日にオープンし、『トレインスポッティング』や『アメリ』や『ムトゥ 踊るマハラジャ』などのミニシアター系作品を上映した。支配人は木幡明夫。閉館の理由にコロナ禍はあまり関係ないといい、4スクリーンの「シネ・リーブル梅田」に集中させるという経営判断による。テアトル梅田の歴代動員数第1位は約7万人を動員した『アメリ』(2001年)であり、興行収入が1億円を超えた唯一の作品である。*71

2022年9月30日をもって、大阪市の「テアトル梅田」が閉館した。1990年4月にオープン。関西におけるミニシアター文化の牽引役となり、エンタメ作品からアート作品まで世界各国の作品を上映した。テアトル梅田の上映ラインナップは「シネ・リーブル梅田」に引き継がれる。*72
シネ リーブル梅田1・2/シネ リーブル梅田1・2・3・4
所在地 : 大阪府大阪市北区大淀中1-1-88 梅田スカイビルタワーイースト3階(2005年・2010年)、大阪府大阪市北区大淀中1-1-88 梅田スカイビルタワーイースト3階・4階(2015年)
開館年 : 2000年12月23日
閉館年 : 営業中
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2000年12月23日に2館で開館。2005年・2010年の映画館名簿では「シネ リーブル梅田1・2」(2館)。2014年3月1日に梅田ガーデンシネマの2館を引き継いで4館化。2015年の映画館名簿では「シネ リーブル梅田1・2・3・4」(4館)。

2000年12月23日、大阪市北区大淀中1-1-88 タワーイースト3階に日活によって「シネ・リーブル梅田1・2」が開館した。*73
梅田ブルク7
所在地 : 大阪府大阪市北区梅田1-12-6 E-MAビル7階(2005年・2010年・2015年)
開館年 : 2002年4月27日
閉館年 : 営業中
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2005年・2010年の映画館名簿では「梅田ブルク1-7」(7館)。2015年の映画館名簿では「梅田ブルクシアター1-7」(7館)。

2002年4月27日、大阪市の梅田の商業ビル イーマに「梅田ブルク7」が開館する。東映の関連会社であるティ・ジョイと松竹が共同で運営する。7スクリーン計1600席。4月28日には「梅田東映」「パラス」「パラス2」が入った梅田東映会館が閉館する。「直営館からシネコンへ」という東映の戦略に沿った開館/閉館である。*74

2002年4月27日、「梅田ブルク7」が開館した。*75
プラネットプラスワン
所在地 : 大阪府大阪市北区中崎2丁目3-12 パイロットビル2階
開館年 : 2007年(移転)
閉館年 : 営業中
Wikipedia : プラネットプラスワン
2007年移転。映画館名簿には掲載されていない。1スクリーンの名画座。

「プラネットスタジオ・プラス・ワン」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*76
大阪ステーションシティシネマ
所在地 : 大阪府大阪市北区梅田3-1-3 ノースゲートビルディング11階(2015年)
開館年 : 2011年5月4日
閉館年 : 営業中
2010年の映画館名簿には掲載されていない。2015年の映画館名簿では「大阪ステーションシネマ1-12」(12館)。関西最大級のシネコン。

福島区

大阪名画座/野田名画座
所在地 : 大阪府大阪市福島区(1950年・1953年)、大阪府大阪市福島区茶園町106(1955年・1960年)
開館年 : 1945年
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1945年開館。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「大阪名画座」。1960年の映画館名簿では「野田名画座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「茶園荘」があるブロック全体。最寄駅は阪神本線野田駅またはJR東西線海老江駅または大阪メトロ千日前線野田阪神駅。
玉川映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市福島区(1950年・1953年)、大阪府大阪市福島区玉川町3-213(1955年・1960年)
開館年 : 1948年3月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1948年3月開館。1950年・1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「玉川映画劇場」。1961年の住宅地図では「玉川映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「プレサンス大阪ゲートシティ」。最寄駅は大阪メトロ千日前線玉川駅またはJR大阪環状線野田駅。
大映パラダイス劇場
所在地 : 大阪府大阪市福島区(1953年)、大阪府大阪市福島区中江町171-4(1955年)、大阪府大阪市福島区中江町171(1960年・1963年)
開館年 : 1949年8月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1949年8月開館。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「大映パラダイス劇場」。1963年の住宅地図では「パラダイス映劇」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の住宅地図では跡地に「日本勧業銀行西野田支店」。1976年の住宅地図では跡地に「第一勧業銀行西野田支店」駐車場と道路建設用地。跡地は「みずほ銀行西野田支店」南の道路用地。最寄駅はJR東西線野田駅または大阪メトロ千日前線野田阪神駅。
阪神松竹/阪神シネマ
所在地 : 大阪府大阪市福島区(1950年・1953年)、大阪府大阪市福島区海老江中1-47(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「阪神松竹」。1969年・1970年の映画館名簿では「阪神シネマ」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「キョクトー本社ビル」北。最寄駅はJR東西線海老江駅。
福島聖天キネマ/聖天キネマ
所在地 : 大阪府大阪市福島区鷺州本通1-52(1955年)、大阪府大阪市福島区鷺州本通1-51(1960年・1963年)、大阪府大阪市福島区鷺州本通1-5(1966年・1969年)、大阪府大阪市福島区鷺州本通1-51(1973年)
開館年 : 1951年3月
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年3月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1960年の映画館名簿では「聖天キネマ」。1963年・1966年の映画館名簿では「福島聖天キネマ」。1969年・1973年の映画館名簿では「聖天キネマ」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「メゾンシティー鷺洲」。最寄駅はJR大阪環状線福島駅。
玉川シネマ・玉川東映/玉川シネマ・玉川東映劇場/玉川シネマ/玉川東映
所在地 : 大阪府大阪市福島区玉川町3-38、玉川町3-213(1958年)、大阪府大阪市福島区玉川町3-38(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年)、大阪府大阪市福島区玉川町4-12-8(1978年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1978年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「玉川シネマ・玉川東映」(2館)。1966年の映画館名簿では「玉川シネマ・玉川東映劇場」(2館)。1969年の映画館名簿では「玉川東映」。1970年の住宅地図では「玉川シネマ会館」。1973年の映画館名簿では「玉川シネマ」。1976年・1978年の映画館名簿では「玉川東映」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ピュア玉川2」建物西端部。最寄駅はJR大阪環状線野田駅または大阪メトロ千日前線玉川駅。
福島吉本キネマ/吉本キネマ
所在地 : 大阪府大阪市福島区上福島中1-86(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市福島区福島5-6-12(1980年・1982年・1984年)
開館年 : 1928年10月
閉館年 : 1984年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1928年10月開館。1950年の映画館名簿では「吉本映画劇場」。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「吉本キネマ」。1966年の映画館名簿では「福島吉本キネマ」。1969年・1973年・1980年・1982年・1984年の映画館名簿では「吉本キネマ」。1981年の住宅地図では「吉本キネマ」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ローソン福島5丁目店」。最寄駅はJR大阪環状線福島駅またはJR東西線福島駅。

中央区

インターナショナル ニュース ハウス/インターナショナルニュース劇場
所在地 : 大阪府大阪市南区鰻谷西之町3(1960年)
開館年 : 1952年7月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年7月開館。1955年の映画館名簿では「インターナショナル・ニュース・ハウス」。1955年の映画館名簿では鉄筋造1階冷暖房付、210席、ニュース映画を上映。1959年の住宅地図では「心斎橋ビル インターナショナルニュース劇場」。1960年の映画館名簿では「インターナショナルニュース劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2004年竣工の商業ビル「エトワール心斎橋」。
上六キャピトル劇場/上六東映
所在地 : 大阪府大阪市南区東平野町3-6(1955年)、大阪府大阪市南区東平野3-6(1960年)
開館年 : 1947年6月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1947年6月開館。1955年の映画館名簿では「上六キャピトル劇場」。1960年の映画館名簿では「上六東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三菱UFJ銀行上六支店」南の道路用地。最寄駅は近鉄大阪上本町駅。
常盤座
所在地 : 大阪府大阪市南区(1950年・1953年)、大阪府大阪市南区河原町1-1537(1955年・1960年)
開館年 : 1931年12月
閉館年 : 1961年12月17日
『全国映画館総覧 1955』によると1931年12月開館。1950年・1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「常盤座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1961年12月17日、大阪市南区で吉本興業が経営していた「常盤座」は娯楽センターに転向した。1階はパチンコ店とガンコーナーとなった。*77
京阪松竹/京阪日活
所在地 : 大阪府大阪市東区京橋1-29(1955年・1960年・1963年)
開館年 : 1951年4月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年4月開館。1955年の映画館名簿では「京阪日活」。1960年・1963年の映画館名簿では「京阪日活」。1963年の住宅地図では「京阪日活」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ホテル京阪天満橋」東にある「大手前ハイツ」。最寄駅は京阪電鉄京阪本線・大阪メトロ谷町線天満橋駅。
道頓堀大映/道頓堀日活
所在地 : 大阪府大阪市南区東櫓町8(1958年・1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿では「道頓堀大映」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「道頓堀日活」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1958年8月10日、大阪市南区の大映封切館「道頓堀大映」は「道頓堀日活」に改称して日活封切館に転向した。オープニングは『風速40米』と『星は何でも知っている』。経営は近畿映画。*78
千日前グランド劇場
所在地 : 大阪府大阪市南区(1950年・1953年)、大阪府大阪市南区河原町1-1516(1955年・1960年・1963年)
開館年 : 1945年9月、1953年12月25日
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1945年9月開館。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「千日前グランド劇場」。1959年の住宅地図では「グランド劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「SWINGヨシモトビル」建物北東部。

1953年12月25日、大阪市に「千日前グランド」が開館した。披露番組はワーナー映画『男の叫び』。吉本興業系。*79
アシベ劇場
所在地 : 大阪府大阪市南区河原町1-1537(1955年・1960年)、大阪府大阪市南区河原町1-5557(1963年)、大阪府大阪市南区河原町1-153(1966年・1969年)
開館年 : 1954年9月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年9月開館。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「アシベ劇場」。1959年の住宅地図では「アシベビル アシベ劇場」。1966年の映画館名簿では「千日前アシベ劇場」。1969年の映画館名簿では「アシベ劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「サウナ&カプセル アムザ」。
中央シネマ劇場/南中央シネマ劇場
所在地 : 大阪府大阪市南区西賑町2-4(1958年)、大阪府大阪市南区西賑町2(1960年・1963年)、大阪府大阪市南区西賑町2-4(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央シネマ劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「南中央シネマ劇場」。1968年の住宅地図では「中央シネマ」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「株式会社久宝堂」。最寄駅は大阪メトロ長堀鶴見緑地線松屋町駅。
大映なんば邦映/なんば邦映
所在地 : 大阪府大阪市南区難波新地6番町(1958年)、大阪府大阪市南区難波新地6-12(1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「なんば邦映」。1963年の映画館名簿では「大映なんば邦映」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「なんば邦映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「なんばCITY本館」建物北西部。

1958年10月18日、大阪市の松竹封切館「なんば邦映」は大映封切館に転向した。オープニングは『夜の素顔』と『別れたっていいじゃないか』。「ロキシー」が松竹封切館に転向したため。*80
大坂スバル座/スバル座
所在地 : 大阪府大阪市南区難波新地2-1(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1947年7月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1947年7月開館。1955年の映画館名簿では「大坂スバル座」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「スバル座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
城東劇場/城南東映劇場/城南東映
所在地 : 大阪府大阪市東区黒門町213(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1955年以前
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1955年の映画館名簿では「城東劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「城南東映」。1966年の映画館名簿では「城南東映劇場」。1969年・1973年の映画館名簿では「城南東映」。1972年の住宅地図では「城南東映」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「清光ビル」など。
オリオン座/千日前新オリオン座・千日前オリオン座/新オリオン座・オリオン座
所在地 : 大阪府大阪市南区河原町2-1500(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1946年12月
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1955年の映画館名簿では「オリオン座」。1960年の映画館名簿では「新オリオン座・オリオン座」(2館)。1963年の映画館名簿では「新オリオン座」。1966年の映画館名簿では「千日前新オリオン座・千日前オリオン座」(2館)。1969年・1973年の映画館名簿では「新オリオン座・オリオン座」(2館)。1970年の住宅地図では「オリオン座 新オリオン座」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ビジネスホテルニッセイ」。

1955年6月23日、大阪市南区河原町2-1500の「オリオン座」隣接地に「新オリオン座」が開館した。オープニングは『やぶにらみの暴君』と『黄金のかも鹿』。オリオン興業が経営し、オリオン座の林尚右支配人が兼任する。定員800。*81

1961年2月25日午後2時50分頃、大阪市南区河原町2の「オリオン座」2階映写室付近から出火し、木造2階建ての劇場が全焼した。観客150人のうち2人が軽傷。隣接する「新オリオン座」は類焼を免れた。*82
なんば大劇場・ロキシー/なんば大劇場・松竹なんばロキシー/なんば大劇場・なんばロキシー
所在地 : 大阪府大阪市南区難波新地6-12(1960年・1963年)、大阪府大阪市南区難波新地6-13(1966年・1969年)、大阪府大阪市南区難波新地6-12(1973年)
開館年 : 1957年10月22日
閉館年 : 1973年頃
1960年の映画館名簿では「なんば大劇場・ロキシー」(2館)。1963年の映画館名簿では「なんば大劇場・松竹なんばロキシー」(2館)。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「なんば大劇場・なんばロキシー」(2館)。1970年の住宅地図では「南海会館 ナンバロキシー ナンバ大劇場 ナンバ邦映」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「なんばCITY本館」建物中央西側。

1957年10月21日、大阪市南区難波新地六番丁に南海電鉄によって「南海会館」が開館した。10月21日には『八十日間世界一周』を披露上映した。10月22日には南海電鉄70周年記念式を開催し、10月22日午後6時から3劇場が一斉に開館した。長期ロードショー館「なんば大劇場」(1285席)、洋画ロードショー館「ロキシー」(902席)、松竹邦画封切館「なんば邦映」(600席)が入る。*83

1957年10月21日、大阪市の難波駅に隣接して「南海会館」が開館した。南海電鉄株式会社の創業70周年記念事業のひとつ。南海電車の起点である難波駅は乗降客数20万人といわれる一大ターミナルである。地下2階・地上8階・塔屋3階建。延床面積約11500坪。シネステージ「なんば大劇場」、洋画ロードショー館「ロキシー」、松竹封切館「なんば邦映」の3館がある。*84
大阪ピカデリー
所在地 : 大阪府大阪市南区西櫓町12(1974年・1976年・1980年)
開館年 : 1973年頃
閉館年 : 1980年頃
1973年の映画館名簿には掲載されていない。1974年・1976年・1980年の映画館名簿では「大阪ピカデリー」。1975年の住宅地図では「道頓堀ピカデリー」。1981年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「道頓堀ゼロゲート」建物北東端。
道頓堀にっかつ劇場
所在地 : 大阪府大阪市南区西櫓町2-7(1982年)、大阪府大阪市南区道頓堀1-6-6(1985年)
開館年 : 1981年頃
閉館年 : 1986年3月頃
1981年の映画館名簿には掲載されていない。1984年の住宅地図では「赤玉ビル2階道頓堀にっかつ」。1982年・1985年の映画館名簿では「道頓堀にっかつ劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「太左衛門橋」南西40mで道頓堀商店街北側にあるビル。
戎橋劇場
所在地 : 大阪府大阪市南区難波新地四番町1(1955年)、大阪府大阪市南区心斎橋町2-46(1960年)、大阪府大阪市南区心斎橋筋2-46(1963年)、大阪府大阪市南区心斎橋筋2-41 キリン会館内(1966年)、大阪府大阪市南区心斎橋筋2-46 キリン会館内(1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区心斎橋筋2-46(1985年)
開館年 : 1937年4月、1958年5月9日
閉館年 : 1986年3月
『全国映画館総覧 1955』によると1937年4月開館。1955年の映画館名簿では鉄筋造1階、定員154、洋画・混合を上映。1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年の映画館名簿では「戎橋劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1987年竣工の「KPOキリンプラザ大阪」(2008年取り壊し)となった後、現在は2010年竣工の「クリサス心斎橋」。最寄駅は近鉄・阪神大坂難波駅。

1958年5月9日、大阪市南区心斎橋筋4丁目の戎橋北詰に外画特選専門館「戎橋劇場」が開館する。キリン会館の5階。オープニングはパラマウントの『シェーン』と『知りすぎていた男』。定員365人。新設される株式会社戎橋劇場が経営。*85
吉本花月シネマ/花月シネマ
所在地 : 大阪府大阪市南区河原町1-1516(1977年・1982年)、大阪府大阪市南区難波千日前12-35(1984年・1985年・1988年)
開館年 : 1976年頃
閉館年 : 1988年
1975年の住宅地図では「なんば花月劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。1977年の映画館名簿では「吉本花月シネマ」。1978年・1979年・1980年の映画館名簿には掲載されていない。1982年・1984年・1985年・1988年の映画館名簿では「花月シネマ」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「SWINGヨシモトビル」建物北東部。
大阪劇場/大阪劇場・大劇名画座/大劇シネマ・大劇名画座
所在地 : 大阪府大阪市南区(1950年・1953年)、大阪府大阪市南区河原町1-1550(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区千日前2-8-23(1985年)
開館年 : 1932年7月、1967年以後1969年以前(ビル化)
閉館年 : 1967年6月4日、1991年
Wikipedia : 大阪劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1932年7月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「大阪劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「大阪劇場・大劇名画座」(2館)。1964年の住宅地図では「大劇 大劇名画座 アルサロ大劇」。1966年の映画館名簿では「千日前大阪劇場・千日前大劇名画座」(2館)。1969年・1973年・1980年・1985年の映画館名簿では「大劇シネマ・大劇名画座」(2館)。1975年の住宅地図では「大劇ビル 4階大劇名画座5階大劇シネマ」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「なんばオリエンタルホテル」。

1967年6月の大阪市にあった「大阪劇場」(大劇)の写真あり。「実演と映画の大劇」の文字が見える。大阪劇場は1967年6月4日に閉館した。2012年現在は跡地になんばオリエンタルホテルがある。*86

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1988年2月号には「第14回 大劇名画座」が掲載されている。*87
大阪松竹座
所在地 : 大阪府大阪市南区九郎右衛門町2(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区道頓堀1-9-19(1985年)、大阪府大阪市中央区道頓堀1-9-19(1990年)
開館年 : 1923年5月17日
閉館年 : 1994年5月8日
Wikipedia : 大阪松竹座
『全国映画館総覧 1955』によると1923年5月開館。1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「大阪松竹座」。1968年・1975年の住宅地図では「松竹座」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。「日本初の鉄骨鉄筋コンクリート造映画館」。建物は演劇場として現存。最寄駅は近鉄・阪神大坂難波駅。

1954年正月の大阪市道頓堀にあった「道頓堀松竹座」の写真あり。ルネ・クレール監督作でジェラール・フィリップ主演の『夜ごとの美女』の看板が見える。*88

1966年11月の「大阪松竹座」の写真あり。「SHOCHIKUZA」の文字が見える。1923年、関西初の洋式劇場として開館した。松竹楽劇部(後のOSK)の本拠地にもなった。戦前は洋画中心、戦中と戦後すぐは邦画封切館、1952年7月からは洋画封切館だった。1994年5月に映画館としての幕を閉じた。*89

1975年12月の大阪市道頓堀にあった「松竹座」の写真あり。『ジョーズ』の公開初日に長蛇の列ができている。スティーブン・スピルバーグ監督の同作品は1976年にかけて映画界を席巻した。*90

1982年12月の大阪市の難波にあった「松竹座」の写真あり。スティーブン・スピルバーグ監督作『E.T.』に長蛇の列ができている。配給収入は94億円を記録し、1975年公開で50億円を記録した『ジョーズ』を超えた。*91

「大阪松竹座」に言及している書籍として、伊藤隆之『看板建築・モダンビル・レトロアパート』グラフィック社、2014年がある。*92

「大阪松竹座」に言及している雑誌記事として、重政隆文「おおさか映画館主義 第23回 大阪松竹座」『月刊せんば/月刊SEMBA』1988年12月号がある。*93
三越劇場
所在地 : 大阪府大阪市東区高麗橋2-63(1981年・1982年・1985年)、大阪府大阪市中央区高麗橋1-7-5(1990年・1995年)
開館年 : 1980年頃
閉館年 : 1995年1月17日
1980年の映画館名簿には掲載されていない。1981年・1982年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「三越劇場」。1989年に東区と南区が統合されて中央区が発足。1995年1月17日の阪神淡路大震災で被災して閉館。2000年の映画館名簿には掲載されていない。三越大阪店旧館。跡地は「北浜プラザ」。最寄駅は京阪電鉄京阪本線・大阪メトロ堺筋線北浜駅。

1995年1月17日に発生した阪神大震災後、大阪市・北浜の三越大阪店旧館8階にあった「三越劇場」が休館に追い込まれ、地震の被害によって旧館の取り壊しが決定した。移転などを行って存続する可能性は低い。1935年頃に歌舞伎や落語などを行う多目的ホールとして開館し、1970年代後半以降は映画の上映を主要事業としていた。『髪結いの亭主』『仕立て屋の恋』などのフランス映画、中国映画などの単関係作品を上映し、大阪におけるミニシアターの草分けとして親しまれていた。ホールが412席と大きいこともあり、年間観客数は14万人近かった。*94
ナンバキネマ・ナンバ新東宝/ナンバキネマ・難波ジョイシネマ
所在地 : 大阪府大阪市南区千日前2-11-14(1985年)、大阪府大阪市中央区千日前2-11-14(1990年)
開館年 : 1988年8月
閉館年 : 1993年7月25日
1985年の映画館名簿では「ナンバキネマ・ナンバ新東宝」。1990年の映画館名簿では「ナンバキネマ・難波ジョイシネマ」(2館)。1991年の住宅地図では「2階難波ジョイシネマ ナンバキネマ」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はなんば南海通沿いの「難波第一ビル」。

1993年7月25日、大阪市・なんばの南海通りにある映画館「難波ジョイシネマ」が閉館する。1988年8月に開館し、アーノルド・シュワルツェネッガーの初期作品などB級アクション映画が観られる映画館として知られた。1992年末からは、ジャック・リヴェット監督の『美しき諍い女』などアート系作品を上映していた。*95

1993年7月24日の『朝日新聞』大阪版朝刊には「難波ジョイシネマ」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*96
敷島倶楽部/千日前東宝敷島劇場/千日前東宝敷島劇場・千日前敷島シネマ
所在地 : 大阪府大阪市南区河原町1-1553(1955年・1960年)、大阪府大阪市南区河原町1-1553-2(1963年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区千日前2-11-5(1985年)、大阪府大阪市中央区千日前2-11-5(1990年・1995年)
開館年 : 1911年(敷島倶楽部)、1935年(東宝敷島劇場)、1956年(東宝敷島劇場・敷島シネマ)
閉館年 : 1999年
Wikipedia : TOHOシネマズなんば・別館
『全国映画館総覧 1955』によると1946年11月開館。1955年の映画館名簿では「千日前東宝敷島劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「東宝敷島劇場・敷島シネマ」(2館)。1966年の映画館名簿では「千日前東宝敷島劇場・千日前敷島シネマ」(2館)。1969年・1973年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「東宝敷島劇場・敷島シネマ」(2館)。1975年の住宅地図では「東宝敷島劇場」。1991年の住宅地図では「東宝敷島シネマ」。後継館はTOHOシネマズなんば。跡地は「TOHOシネマズなんば別館」。
浪花座/浪花座1・2/浪花座2/松竹浪花座
所在地 : 大阪府大阪市南区(1950年・1953年)、大阪府大阪市南区西櫓町12(1955年・1960年・1963年)、大阪府大阪市南区西櫓町3-12(1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市南区西櫓町12(1980年)、大阪府大阪市南区道頓堀1-8-22(1985年)、大阪府大阪市中央区道頓堀1-8-22(1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1952年7月、1987年
閉館年 : 2002年1月
『全国映画館総覧 1955』によると1952年7月開館。1950年・1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「浪花座」。1963年・1966年の映画館名簿では「松竹浪花座」。1968年・1975年の住宅地図では「松竹浪花座」。1969年・1973年・1980年の映画館名簿では「浪花座」。1984年の住宅地図では「浪花座1 浪花座2」。1985年の映画館名簿では「浪花座1・2」(2館)。1990年の映画館名簿では「浪花座2」。1995年・2000年の映画館名簿では「松竹浪花座」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「道頓堀ゼロゲート」建物北西端。

1963年4月の大阪市にあった「浪花座」の写真あり。岩下志麻主演作『あの波の果てまで』のポスターが見える。「16日 岩下志麻来る」とある。*97

大阪市の難波にあった「浪花座」の写真あり。「浪花座1 浪花座2」の文字が見える。*98
南街劇場・なんば東宝・南町ミュウジックホール/南街劇場・なんば東宝・南街スカラ座・南街シネマ・南街ニュース劇場/南街劇場・南街東宝・南街スカラ座・南街文化劇場・南街シネマ
所在地 : 大阪府大阪市南区難波新地5番町51(1955年)、大阪府大阪市南区難波新地5-44(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区難波3-8-11(1985年)、大阪府大阪市中央区難波3-8-11(1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1938年6月、1953年12月18日
閉館年 : 2004年2月1日
Wikipedia : 南街会館
『全国映画館総覧 1955』によると1938年6月開館。1955年の映画館名簿では「南街劇場・なんば東宝・南町ミュウジックホール」(3館)。1960年の映画館名簿では「南街劇場・なんば東宝・南街スカラ座・南街シネマ・南街ニュース劇場」(5館)。1969年・1973年の映画館名簿では「南街劇場・なんば東宝・南街スカラ座・南街文化劇場・南街シネマ・南街名画座」(6館)。1980年の映画館名簿では「南街劇場・なんば東宝・南街スカラ座・南街文化劇場・南街シネマ」(5館)。1985年・1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「南街劇場・南街東宝・南街スカラ座・南街文化劇場・南街シネマ」(5館)。1991年の住宅地図では「東宝南街会館 1階南街劇場 南街東宝 3階南街シネマ 6階南街文化劇場 南街スカラ座」。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「TOHOシネマズなんば」などが入る「なんばマルイ」。

1953年の大阪市の難波駅前にあった「南街映画劇場」の写真あり。『アパッチ砦』の看板が見える。1945年、東宝は旧南街映画劇場を所有していた(会社としての)南街映画劇場を併合した。1953年12月にはこの場所に「南街ビル」(南街会館)が開館する。2012年現在のこの場所には東宝南街ビルが建っており、「TOHOシネマズなんば」が入っている。*99

1957年12月21日、大阪市の南街会館・なんば東宝前の地下街に「南街ニュース劇場」が開館した。東宝が経営する。定員180人。ニュース5本、短編、マンガ作品を上映。入場料30円。*100

1959年12月18日、大阪市南区難波新地5丁目の東宝直営館「南街劇場」が70ミリ劇場となった。11月から改装工事中だった。*101

1974年8月、東宝が「南街名画座」を閉館させた。*102
千日前千日会館/千日会館
所在地 : 大阪府大阪市南区河原町1-1550(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区千日前2-8-23(1985年)、大阪府大阪市中央区千日前2-8-23(1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1949年10月、1972年
閉館年 : 2004年5月28日
港町キネマ通り : 千日会館
『全国映画館総覧 1955』によると1949年10月開館。1955年の映画館名簿では「千日会館」。1960年の映画館名簿では「千日前千日会館」。1963年の映画館名簿では「千日会館」。1964年の住宅地図では「千日会館」。1966年・1969年の映画館名簿では「千日前千日会館」。1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「千日会館」。1991年の住宅地図では「千日会館 地下1階名画座千日会館」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「マクドナルド千日前店」が入る「パレ逢阪ビル」。
弥生座/千日前弥生座
所在地 : 大阪府大阪市南区河原町1-1514(1960年・1969年・1973年)、大阪府大阪市南区難波千日前12-3(1985年)、大阪府大阪市中央区難波千日前12-3(1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1951年1月、1964年
閉館年 : 2004年5月28日
港町キネマ通り : 千日前弥生座
『全国映画館総覧 1955』によると1951年1月開館。1969年・1973年の映画館名簿では「弥生座」。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「千日前弥生座」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。

1960年3月第1週、大阪市南区河原町1丁目の洋画上映館「弥生座」が新東宝封切館に転向した。経営は逢坂興業。*103

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1987年5月号には「第5回 千日前弥生座」が掲載されている。*104
セントラル会館/千日前セントラル
所在地 : 大阪府大阪市南区河原町2-1505(1955年・1960年)、大阪府大阪市南区河原町2-1505(1963年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区難波千日前9-11(1985年)、大阪府大阪市中央区難波千日前9-11(1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1946年12月
閉館年 : 2006年9月15日
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1955年の映画館名簿では「セントラル会館」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「千日前セントラル」。1964年・1991年の住宅地図では「千日前セントラル映画館」。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「千日前セントラル第1ビル」。

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1989年2月号には「第25回 千日前セントラル」が掲載されている。*105

大阪市中央区の千日前道具屋筋にある映画館「千日前セントラル」は異色な存在である。2階にはコーヒー豆の焙煎工場とケーキ厨房がある。松本進也(57)は23店舗を構える喫茶店チェーン「キーフェル」の経営者でもあり、喫茶店の利益で映画館を維持しているという。*106
シネマ ドゥ
所在地 : 大阪府大阪市中央区心斎橋筋1-1-10 ソニータワー地下1階(2000年)
開館年 : 1997年5月
閉館年 : 2004年10月24日
港町キネマ通り : 心斎橋シネマドゥ
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年の映画館名簿では「シネマ ドゥ」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。74席の1スクリーン。跡地は2007年竣工の商業ビル「ラ・ポルト心斎橋」。

2004年10月24日、大阪市中央区の映画館「心斎橋シネマ・ドゥ」が閉館する。1997年5月に開館した。全席ペアシートの導入、1日最高6作品の上映など、先進的な運営を行ってきた。経営的には黒字だったが、入居するソニータワーの売却で閉館が決まった。閉館までには現在上映中の『キッチン・ストーリー』ほか5本を上映する。*107
大坂スバル座/スバル座/千日前スバル座/千日前OSスバル座
所在地 : 大阪府大阪市南区難波新地2-1(1955年)、大阪府大阪市南区難波新地(1960年)、大阪府大阪市南区難波新地2-1(1963年・1966年・1969年・1976年・1980年)、大阪府大阪市南区難波1-3-1(1985年)、大阪府大阪市中央区難波1-3-1 南OSプラザ5階(1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1947年7月、1975年4月9日(建て替え)
閉館年 : 2006年9月24日
Wikipedia : 千日前OSスバル座
『全国映画館総覧 1955』によると1947年7月開館。1955年の映画館名簿では「大坂スバル座」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「スバル座」。1964年の住宅地図では「スバル座」。1968年の住宅地図では「スバル座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1976年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「千日前スバル座」。2000年・2005年の映画館名簿では「千日前OSスバル座」。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ラウンドワンスタジアム千日前店」。最寄駅は近鉄・阪神難波駅。

1975年4月の大阪市にあった「千日前OSスバル座」の写真あり。「祝 スバル座 4月9日OPEN」の横断幕が見える。1970年にはスバル座がいったん閉館したが、跡地に建った南OSビル内に再開館した。2006年に閉館した。*108

2006年9月24日、大阪・ミナミの「千日前OSスバル座」が閉館する。「スバル座さようならフェスティバル」として、9月22日には『2001年宇宙の旅』、9月23日には『タイタニック』、9月24日には『風と共に去りぬ』を上映した。1947年に開館し、1975年4月に再開館した。1スクリーンであり、ミナミ最大級の505席を有している。再開館後だけで435万人を集めたが、9月22日にはミナミに大型シネコンが開館することから、千日前OSスバル座の閉館が決定した。*109
大阪東映劇場・大阪東映地下劇場/大阪東映劇場・大阪東映パラス/大阪東映劇場・大阪パラス/道頓堀東映劇場・道頓堀東映パラス
所在地 : 大阪府大阪市南区西櫓町1-1(1955年)、大阪府大阪市南区西櫓町1(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区道頓堀1-4-27(1985年)、大阪府大阪市中央区道頓堀1-4-27(1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1955年3月28日
閉館年 : 2007年4月18日
Wikipedia : 道頓堀東映
『全国映画館総覧 1955』によると1954年12月開館。1955年の映画館名簿では「大阪東映劇場・東映地下劇場」(2館)。1960年・1963年の映画館名簿では「大阪東映劇場・大阪東映地下劇場」(2館)。1966年・1969年の映画館名簿では「大阪東映劇場・大阪東映パラス」(2館)。1968年の住宅地図では「大阪東映劇場」。1973年の映画館名簿では「大阪東映劇場・大阪パラス」(2館)。1975年の住宅地図では「大坂東映劇場・東映パラス」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「道頓堀東映劇場・道頓堀東映パラス」(2館)。1984年の住宅地図では「道頓堀東映・東映パラス」。1995年・2000年の映画館名簿では「道頓堀東映・道頓堀東映パラス」(2館)。2005年の映画館名簿では「道頓堀東映劇場・道頓堀東映パラス」(2館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「マツモトキヨシ道頓堀1丁目店」や「エディオン道頓堀店」が入る「道頓堀ベニスビル1」。最寄駅は近鉄難波線近鉄日本橋駅・大阪メトロ日本橋駅。

1955年3月28日、大阪市南区道頓堀に東映封切館「大阪東映劇場」が開館した。午前10時から会館披露式が開催され、大川博東映社長、片岡千恵蔵や市川右太衛門をはじめとする東映スターが列席した。式典の後には菊次郎・仁左衛門・猿二郎による『寿三番叟』が、12時から『喧嘩奉行』『百面童子』で開館披露が行われた。建坪250坪、定員830。*110

1984年7月の大阪市にあった「道頓堀東映パラス」の写真あり。夏目雅子が主演した『瀬戸内少年野球団』の公開時。*111

2007年4月18日、大阪市の道頓堀にある4館の映画館が閉館する。1955年に開館した東映直営館「道頓堀東映」と「道頓堀東映パラス」、1948年に開館した松竹直営館「角座1」「角座2」である。4月19日には南海電鉄難波駅近くに「なんばパークスシネマ」が開館するため。4月19日と20日、道頓堀東映ではさよなら上映会が開催され、俳優の北大路欣也が来館してトークショーが開催される。角座は演芸場に生まれ変わるが、道頓堀東映の跡地の今後は未定。道頓堀は江戸時代から芝居小屋が並んでいた町である。1897年に難波駅近くの南地演舞場(現在はシネコン)で日本初となる有料の活動写真上映会が開催されると、同年には「道頓堀五座」のひとつである角座でも活動写真が上映された。道頓堀東映は名画の老舗として知られ、市川右太衛門、片岡千恵蔵、高倉健、吉永小百合らのスターが舞台挨拶に訪れたことがある。1950年代から1970年代頃には、浪花座(2館)、松竹座も含めて、かつては通りに7館がある関西屈指の映画街だったが、道頓堀から映画館が消滅する。*112
SY角座/SY角座・松竹角座/角座1・2
所在地 : 大阪府大阪市南区(1950年・1953年)、大阪府大阪市南区西櫓町3(1955年)、大阪府大阪市中央区道頓堀1-4-20(1990年・1995年)、大阪府大阪市中央区道頓堀1-4-20 KADOZAビル3階(2000年・2005年)
開館年 : 1948年、1986年(映画館化)
閉館年 : 2007年4月18日
『全国映画館総覧 1955』によると1947年11月開館。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「SY角座」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「SY角座・松竹角座」(2館)。2000年の映画館名簿では「角座1・2」(2館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。

2002年5月1日、「SY角座」と「松竹角座」が「角座1・2」に改称した。*113

2007年4月18日、大阪市の道頓堀にある4館の映画館が閉館する。1955年に開館した東映直営館「道頓堀東映」と「道頓堀東映パラス」、1948年に開館した松竹直営館「角座1」「角座2」である。4月19日には南海電鉄難波駅近くに「なんばパークスシネマ」が開館するため。4月19日と20日、道頓堀東映ではさよなら上映会が開催され、俳優の北大路欣也が来館してトークショーが開催される。角座は演芸場に生まれ変わるが、道頓堀東映の跡地の今後は未定。道頓堀は江戸時代から芝居小屋が並んでいた町である。1897年に難波駅近くの南地演舞場(現在はシネコン)で日本初となる有料の活動写真上映会が開催されると、同年には「道頓堀五座」のひとつである角座でも活動写真が上映された。道頓堀東映は名画の老舗として知られ、市川右太衛門、片岡千恵蔵、高倉健、吉永小百合らのスターが舞台挨拶に訪れたことがある。1950年代から1970年代頃には、浪花座(2館)、松竹座も含めて、かつては通りに7館がある関西屈指の映画街だったが、道頓堀から映画館が消滅する。*114
南地日活・国際シネマ/国際日活劇場・国際地下劇場・国際シネマ/千日前国際劇場・千日前国際地下劇場・千日前国際シネマ
所在地 : 大阪府大阪市南区難波新地5-24(1955年・1960年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区難波3-1-36(1985年)、大阪府大阪市中央区難波3-1-36(1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1946年夏(千日前国際シネマ)、1956年10月30日(千日前国際劇場・千日前国際地下劇場)
閉館年 : 2008年3月31日
Wikipedia : 千日前国際劇場
1955年の映画館名簿では「南地日活・国際シネマ」(2館)。1960年・1969年・1973年の映画館名簿では「国際日活劇場・国際地下劇場・国際シネマ」(3館)。1975年の住宅地図では「国際シネマ 国際地下劇場 国際日活劇場」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「国際劇場・国際シネマ・国際地下劇場」(3館)。1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「千日前国際劇場・千日前国際シネマ・千日前国際地下劇場」(3館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「マルハンなんば新館」。最寄駅は近鉄・阪神難波駅。

1949年1月3日に大阪歌舞伎座の3階から撮影した「東宝国際シネマ」の写真あり。「マネシ際国」の文字が見える。背後の巨大な建物は大阪劇場である。1946年、千日前に新東宝の封切館として開館した。やがて隣接する南地劇場と統合し、1956年には「国際日活」と「国際地下劇場」の2冠を増設した。2008年に閉館した。*115

1956年10月30日、大阪市の千日前に国際会館が開館した。日活封切館として定員1500人の「国際日活」が、洋画二番館として定員700人の「国際地下劇場」が開館した。大弥株式会社経営。*116

1961年10月14日、大阪市南区難波新地5-24のニュー東映封切館「国際シネマ」が東映封切館となった。同地区の東映封切館だった「常盤座」が改装のために休館するため。*117

2008年3月31日、大阪市中央区のミナミにある映画館「千日前国際劇場」「千日前国際シネマ」「千日前国際地下劇場」の3館が閉館する。ミナミから旧来型の映画館がすべて消えることとなる。676席の国際シネマは1946年夏に開館。809席の国際劇場と286席の国際地下劇場は1956年に開館。映画最盛期には休憩時間にオルガン演奏が行われ、石原裕次郎や吉永小百合らの銀幕スターが舞台挨拶を行ったこともあった。2006年9月以降にはミナミにシネコンが相次いで開館し、国際劇場などでは観客数が激減していた。近隣の「千日前セントラル」、「道頓堀東映」、「角座1・2」など6館が次々に閉館していた。2008年1月には俳優の芦屋小雁らが「千日前シネマ倶楽部」を結成し、京マチ子出演作品の特集上映などが話題となったが、結局は閉館が決定した。跡地の利用方法は未定。「さよなら上映」として『嵐を呼ぶ男』や『明治天皇と日露大戦争』など5作品が500円で上映されている。*118

「千日前国際地下」に言及している書籍として、高瀬進『ピンク映画館の灯 暗闇が恋しい都市の隠れ家』自由国民社、2001年がある。*119

「千日前国際劇場・国際シネマ・国際地下劇場」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*120
千日前弥生座/弥生座・テアトルA&P/千日前弥生座・テアトルA&P/テアトルA&P
所在地 : 大阪府大阪市南区河原町1-1514(1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市南区難波千日前12-3(1985年)、大阪府大阪市中央区難波千日前12-3(1990年・1995年・2000年)、大阪府大阪市中央区千日前2-8-23(2005年・2010年)
開館年 : 1964年
閉館年 : 2013年4月23日
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「千日前テアトルA&P」。1969年・1973年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「テアトルA&P」。1975年の住宅地図では「弥生座とテアトルA&P」。1991年の住宅地図では「2階テアトルA&P 弥生座」。2015年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「パレ逢阪中央ビル」。
国名小劇
所在地 : 大阪府大阪市中央区日本橋1-5-8(1990年・1995年・2000年・2015年)
開館年 : 1988年4月24日
閉館年 : 2021年12月30日
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「国名小劇」。2005年・2010年の映画館名簿には掲載されていない。2015年の映画館名簿では「国名小劇」。成人映画館。

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1988年8月号には「第20回 国名小劇」が掲載されている。*121

大阪にはレイトショーは根付かないとされてきたが、1992年現在の「国名小劇」はオールナイト上映を行っているし、4年前から「シネマ・ヴェリテ」はレイトショーを実施している。「シネマアルゴ梅田」「テアトル梅田」「扇町ミュージアムスクエア」も常時レイトショーを実施するようになっている。1992年1月から、国名小劇は雰囲気づくりのために、上映前に原語のアナウンスを行っている。フランス映画では「ボンジュール・マダム・エ・ムッシュー...」とフランス語のアナウンスが流れる。*122

1988年以前の大阪市には単館興行の劇場として「三越劇場」があったが、1988年4月24日には黎明期のミニシアターとしてミナミに「国名小劇」が、1989年2月には梅田に「シネマ・ヴェリテ」が、1990年4月には梅田に「テアトル梅田1・2」が開館している。*123

国名小劇に言及している雑誌記事として、「関西かわら版 繁昌珍商売 感動の映画を24時間上映中」『週刊大衆』2000年10月9日がある。現物は未確認。*124
パラダイスシネマ/パラダイス シネマ1・2/パラダイススクエア1・2/シネマート心斎橋1・2
所在地 : 大阪府大阪市中央区西心斎橋1-6-14 ビッグステップ4階(1995年・2000年・2005年)、大阪府大阪市中央区西心斎橋1-6-14 ビッグステップビル4階(2010年・2015年)
開館年 : 1993年3月6日(パラダイスシネマ)、2002年6月(パラダイススクエア)、2006年4月15日(シネマート心斎橋)
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿では「パラダイスシネマ」。2000年の映画館名簿では「パラダイス シネマ1・2」(2館)。2000年の映画館名簿では「シネマート心斎橋1・2」(2館)。2005年の映画館名簿では「パラダイススクエア1・2」(2館)。2010年・2015年の映画館名簿では「シネマート心斎橋1・2」(2館)。

1993年3月4日には娯楽ビル「ビッグ・ステップ」がオープンするが、3月6日には4階に映画館「パラダイス・シネマ」が開館する。座席数は110席。若い女性たちが中心となって企画・運営し、「いままで大阪になかった新しい映画館」を目指す。支配人は山川暉雄(54)。帝国キネマ演芸会社(帝キネ)の設立者である山川吉太郎の孫である。*125

2000年4月1日、大阪市西心斎橋の「パラダイスシネマ」がヘラルド・エンタープライズの経営となった。梅田ガーデンシネマ1・2(大阪府)、恵比寿ガーデンシネマ1・2(東京都)、朝日シネマ1・2(京都府)、札幌三越劇場(北海道)、シネスイッチ札幌(北海道)、北見中劇(北海道)、ミリオン座(北海道)、苫小牧日劇1・2(北海道)、シネプレックス8平塚(神奈川県)も経営している。*126

2002年3月末には心斎橋の映画館「パラダイスシネマ」が閉館した。運営はヘラルド・エンタープライズ。1997年には2館体制となったが、観客数が伸びなかった。2002年1月には松竹が「浪花座」を閉館させており、パラダイスシネマ跡地を引き継ぐ方向で活用を検討している。近年にはシネコンが台頭し、ミニシアターバブルが崩壊しているとされる。*127

2003年5月時点で大阪府にシネコンが9施設ある。1993年4月には大阪府初のシネコンとしてワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田が開館。その後、1997年・1998年・1999年に1施設ずつ開館し、2000年には2施設、2001年には1施設、2002年には2施設開館した。この2003年10月には箕面市に大阪府下10か所目のシネコンが開館する予定。この10年には旧来からの映画館やミニシアターの閉館が相次いでおり、この1年だけでも、1985年開館の扇町ミュージアムスクエア(北区)や、1993年開館のパラダイスシネマ(中央区)など10館が閉館した。1993年開館の第七芸術劇場(淀川区)は1999年に閉館したが、映画ファンや商店街の人々が声を上げ、2002年7月に有限会社第七芸術劇場が営業を再開した。*128
敷島シネポップ1・2・3/TOHOシネマズなんば別館
所在地 : 大阪市中央区千日前2-11-5 敷島ビル4階(2010年・2015年)
開館年 : 2000年7月8日
閉館年 : 営業中
Wikipedia : TOHOシネマズなんば・別館
2000年7月に東宝敷島ビルが竣工して敷島シネポップ開館。2005年・2010年の映画館名簿では「敷島シネポップ1・2・3」(3館)。2011年5月20日にTOHOシネマズなんば別館に改称。2010年・2015年の映画館名簿では「TOHOシネマズなんば10-12」(3館)。

2000年7月8日、大阪市中央区千日前2-11-5 敷島ビル4階に東宝によって「敷島シネポップ1・2・3」が開館した。3スクリーン計474席。*129
TOHOシネマズなんば本館
所在地 : 大阪府大阪市中央区難波3-8-9 東宝南街ビル8階(2010年・2015年)
開館年 : 2006年9月24日
閉館年 : 営業中
2006年9月24日にTOHOシネマズなんばとして開館。2011年5月20日にTOHOシネマズなんば本館に改称。2010年・2015年の映画館名簿では「TOHOシネマズなんば1-7・セレクト・プレミア」(9館)。

2006年9月、大阪市中央区難波に複合映画館「TOHOシネマズなんば」が開館した。開館前に行われたオープニングセレモニーには、9月30日に全国一斉公開を行う『涙そうそう』に主演した妻夫木聡と長澤まさみが駆けつけてテープカットを行った。9スクリーン計1960席を有する大阪市最大級のシネコンである。難波は日本で初めて映画興行が行われた場所とされ、大阪・ミナミのにぎわいにプラス効果をもたらすことが期待される。かつて複数の映画館が入っていた東宝南街会館の跡地に完成したビルの8階から11階部分にある。プレミアスクリーンは約120席分の広さに61席のみを設置しており、ゆったり映画鑑賞ができる。年間120万人の集客を目指している。*130
イオンシネマシアタス心斎橋
所在地 : 大阪府大阪市中央区心斎橋筋1丁目7-1 大丸心斎橋店北館12階
開館年 : 2021年3月16日
閉館年 : 営業中
7スクリーンのシネコン。

2021年1月20日、大阪市中央区の心斎橋パルコに入居するイオンシネマの映画館「THEATUS心斎橋」(シアタス心斎橋」の開館が延期されると発表された。2020年12月時点では2021年1月21日に開館すると発表されていたが、緊急事態宣言の発令を受けて日程が再調整されることになった。*131

2021年3月16日、大阪市の心斎橋パルコに7スクリーンのシネコン「イオンシネマ シアタス心斎橋」が開館した。約30平方メートルに3席×3列の計9席が並ぶスクリーンもある。革張りの電動リクライニングシートであり、入場料はドリンク付きで4000円である。*132

西区

若映館
所在地 : 大阪府大阪市西区九条通3-456(1960年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1960年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「若映館」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。
九条松竹/九条松竹・九条グランド
所在地 : 大阪府大阪市西区九条通1-81(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「九条松竹」。1960年・1963年の映画館名簿では「九条松竹・九条グランド」(2館)。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
九条セントラル/九条セントラル劇場/九条東宝セントラル劇場
所在地 : 大阪府大阪市西区九条通1-92(1955年・1960年・1963年)
開館年 : 1951年6月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年6月開館。1955年の映画館名簿では「九条セントラル」。1960年の映画館名簿では「九条セントラル劇場」。1963年の映画館名簿では「九条東宝セントラル劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
九条大劇
所在地 : 大阪府大阪市西区本田通3-31-8(1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1956年11月1日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「九条大劇」。1964年の住宅地図では「九条大劇」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「藤和九条コープ」。

1956年11月1日、大阪市西区本田町3-38に日活封切館「九条大劇」が開館した。経営は西川興行。定員400人。*133
九条第一劇場
所在地 : 大阪府大阪市西区九条通2-658(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年)、大阪府大阪市西区九条通1-54(1970年)
開館年 : 1950年10月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1950年10月開館。1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「九条第一劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1971年の住宅地図では「映画九条第一劇場」。
九条銀映/九条東映劇場
所在地 : 大阪府大阪市西区九条通1-84(1955年・1960年・1963年)、大阪府大阪市西区九条通1-3-11(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1950年12月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月開館。1955年の映画館名簿では「九条銀映」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「九条東映劇場」。1964年・1969年・1971年の住宅地図では「九条東映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1978年の住宅地図では跡地に「シオミモータープール」。
九条大映/九条大映・東宝九条シネマ/九条映劇・九条シネマ/九条シネマ
所在地 : 大阪府大阪市西区九条通1-95(1955年・1960年・1963年)、大阪府大阪市西区九条通1-4-2(1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市西区九条1-17-2(1980年・1982年・1984年)
開館年 : 1951年5月
閉館年 : 1984年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年5月開館。1955年・1960年の映画館名簿では「九条シネマ」。1963年の映画館名簿では「九条大映」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「九条大映・東宝九条シネマ」(2館)。1969年の住宅地図では「九条大映」。1978年の住宅地図では「同和会館 九条シネマ 九条映劇」。1980年の映画館名簿では「九条映劇・九条シネマ」(2館)。1982年・1984年の映画館名簿では「九条シネマ」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「朝日プラザ九条」。
九条千日劇場/エムパイア劇場/九条東洋劇場/九条東洋劇場・九条グランド/九条東洋劇場・ニュー東洋劇場/九条東洋劇場/東洋レックスシネマ/ACT活動写真館/シネ ヌーヴォ・シネ ヌーヴォX
所在地 : 大阪府大阪市西区九条通1-54(1960年・1963年・1966年・1969年)、大阪府大阪市西区九条通1-16-1(1973年)、大阪府大阪市西区九条1-20-24(1980年)、大阪府大阪市西区九条1-20-24-102(1985年・1990年)、大阪府大阪市西区九条1-20-24(1995年・2000年・2005年・2010年・2015年)、大阪府大阪市西区九条1-20-24 シャトル九条2 1階(現在)
開館年 : 1951年12月、1997年1月18日(シネ ヌーヴォ)
閉館年 : 営業中
Wikipedia : シネ・ヌーヴォ
『全国映画館総覧 1955』によると1951年21月開館。1955年の映画館名簿では「エムパイア劇場」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「九条東洋劇場」。1969年の映画館名簿では「九条東洋劇場・九条グランド」(2館)。1969年の住宅地図では「東洋劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1978年の住宅地図では「九条東洋劇場・九条ニュー東洋劇場」。1980年の映画館名簿では「九条東洋劇場・ニュー東洋劇場」(2館)。1985年・1990年の映画館名簿では「九条東洋劇場」。1995年の映画館名簿では「ACT活動写真館」。1997年1月18日シネ・ヌーヴォ開館。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「シネ ヌーヴォ」。2006年シネ ヌーヴォX開館。2015年の映画館名簿では「シネ ヌーヴォ・シネ ヌーヴォX」(2館)。

1953年6月頃のこのほど、大阪市西区九条通1-52の「九条千日劇場」は「九条エムパイア劇場」に改称した。経営者は新屋信弘。*134

「シネ・ヌーヴォ」「シネ・ヌーヴォX」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*135

浪速区

ロマン座/新世界日活ロマン座
所在地 : 大阪府大阪市浪速区霞町1-1(1955年・1960年)
開館年 : 1950年5月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1950年5月開館。1955年の映画館名簿では「ロマン座」。1960年の映画館名簿では「新世界日活ロマン座」。1961年の住宅地図では「新世界日活ロマン座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1967年・1971年・1975年・1980年の住宅地図では跡地に「パチンコ新世界一番」。1985年・1988年の住宅地図では跡地に「パチンコ新世界123」。1993年の住宅地図では跡地に「パークハイムノブ パチンコパーラー日劇」。2001年の住宅地図では跡地に「メゾン・デ・ユニオン パチンコユニオン」。跡地はマンション「スカイコート恵美須」。

1955年頃の新世界にあった「ロマン座」の写真あり。「ROMANZA」の看板が見える。『愛は降る星のかなたに』の看板が見える。*136
朝日劇場/新世界朝日劇場/新世界日活朝日劇場
所在地 : 大阪府大阪市浪速区霞町1-1(1955年・1960年・1966年)
開館年 : 1954年9月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1954年9月開館。1955年の映画館名簿では「朝日劇場」。1960年の映画館名簿では「新世界朝日劇場」。1961年の住宅地図では「新東宝朝日劇場」。1966年の映画館名簿では「新世界日活朝日劇場」。1967年・1971年の住宅地図では跡地に空地。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1975年の住宅地図では跡地に「パチンコプラザ 麻雀 サウナ 北京料理フェイリス」。1980年の住宅地図では跡地に「パチンコ朝日会館 朝日シネマ劇場」。1988年の住宅地図では跡地に「スリーエスプラザビル サウナ 麻雀 パチンコ」。2001年の住宅地図では跡地に「パチンコアサヒ会館」。跡地は有料駐車場「三井のリパーク通天閣第6」。
新世界大映劇場
所在地 : 大阪府大阪市浪速区霞町1-1(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1975年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「新世界大映劇場」。1961年・1967年・1971年・1975年・1980年の住宅地図では「新世界大映」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。1985年・1988年・1993年・2001年の住宅地図では跡地に「宮竹書店 パチンコジャンボ」。跡地は料理店「ジャンボ釣船つり吉」。
新世界東宝敷島劇場/新世界東宝敷島
所在地 : 大阪府大阪市浪速区(1950年・1953年)、大阪府大阪市浪速区霞町1-1(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市浪速区恵美須東2-4-7(1982年)
開館年 : 1951年4月
閉館年 : 1984年
『全国映画館総覧 1955』によると1951年4月開館。1950年の映画館名簿では「新世界東宝敷島劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「新世界東宝敷島」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「新世界東宝敷島劇場」。1961年・1967年の住宅地図では「東宝敷島劇場」。1971年・1975年・1980年の住宅地図では「新世界敷島」。1980年の映画館名簿では「新世界東宝敷島」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。1985年・1988年・1993年の住宅地図では跡地に「パチンコニュー通天」。2001年の住宅地図では跡地に「パーラーEINS」。跡地は「串かつ・ホルモン専門店朝日」。
温泉映画劇場/新世界温泉劇場/シネマ温劇・温泉映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市浪速区(1953年)、大阪府大阪市浪速区霞町2-4(1955年・1960年・1963年)、大阪府大阪市浪速区霞町2-4-1(1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市浪速区霞町2-4(1980年)、大阪府大阪市浪速区恵美須東3-2-22(1985年)
開館年 : 1950年6月
閉館年 : 1990年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1950年6月開館。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「温泉映画劇場」。1961年の住宅地図では「映画 寄席 新花月温泉劇場」。1966年の映画館名簿では「新世界温泉映画劇場」。1967年の住宅地図では「寄席 映画 温泉 新花月劇場」。1969年・1973年の映画館名簿では「新世界温泉劇場」。1971年・1975年・1980年の住宅地図では「寄席 映画 温劇 新花月劇場」。1980年の映画館名簿では「シネマ温劇・新温泉映画劇場」(2館)。1985年の映画館名簿では「シネマ温劇・温泉映画劇場」(2館)。1985年の住宅地図では「寄席新花月劇場 シネマ温劇 温泉映劇」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。1993年の住宅地図では跡地に「サイガ運輸機工資材置場」。2001年の住宅地図では跡地に「スパワールド第二駐車場」。跡地は駐車場「タイムズ ジャンジャン横丁東」。

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1988年4月号には「第16回 温泉映劇」が掲載されている。*137
新世界グランド劇場
所在地 : 大阪府大阪市浪速区(1950年・1953年)、大阪府大阪市浪速区霞町1-1(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市浪速区恵美須東2-1-9(1985年)
開館年 : 1947年7月
閉館年 : 1987年
『全国映画館総覧 1955』によると1947年7月開館。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年の映画館名簿では「新世界グランド劇場」。1961年・1967年の住宅地図では「グランド劇場」。1971年の住宅地図では「新世界グランド劇場」。1975年の住宅地図では「グランド劇場」。1975年・1980年の住宅地図では「新世界グランド劇場」。1988年の住宅地図では跡地に空地。1990年の映画館名簿には掲載されていない。1993年の住宅地図では跡地に「グランドモータープール」。2001年の住宅地図では跡地に「リパーク新世界」。跡地はお好み焼き店「鶴橋風月新世界店」。

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1987年4月号には「第4回 新世界グランド劇場」が掲載されている。*138
新世界松竹/公楽座/松竹公楽座/新世界公楽劇場・新世界公楽シネマ(旧)
所在地 : 大阪府大阪市浪速区(1950年)、大阪府大阪市浪速区霞町1-1(1953年・1955年・1960年・1973年・1980年)、大阪府大阪市浪速区恵美須東2-5-3(1985年)
開館年 : 1931年6月
閉館年 : 1987年(移転)
『全国映画館総覧 1955』によると1931年6月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「公楽座」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「新世界松竹」。1961年・1967年の住宅地図では「新世界松竹」。1971年・1975年・1980年の住宅地図では「新世界公楽座」。1973年・1976年の映画館名簿では「公楽座」。1980年の映画館名簿では「松竹公楽座」。1985年の映画館名簿では「新世界公楽劇場・新世界公楽シネマ」(2館)。1985年の住宅地図では「公楽劇場・公楽シネマ」。1988年の住宅地図では「パチンココウラク パチンコ丸三パレス 公楽劇場 公楽シネマ」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。1993年の住宅地図では跡地に「パチンコゴールデン」。2001年の住宅地図では跡地に「パチンコパーラー王将」。跡地は「ビジネスホテル通天小町」。

大阪市にあった「新世界公楽座」の写真あり。「新世界公楽座」の文字が見える。*139
新世界座/新世界公楽劇場(新)
所在地 : 大阪府大阪市浪速区(1950年・1953年)、大阪府大阪市浪速区霞町1-1(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市浪速区恵美須東2-3-6(1985年・1989年・1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1947年8月(新世界座)、1989年頃(新世界公楽劇場)
閉館年 : 2006年3月31日
『全国映画館総覧 1955』によると1947年8月開館。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年・1989年の映画館名簿では「新世界座」。1961年・1967年・1971年・1975年・1980年・1985年・1988年の住宅地図では「新世界座」。1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「新世界公楽劇場」。1990年・1993年・2001年の住宅地図では「新世界公楽劇場」。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東横イン大阪通天閣前」。

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1988年7月号には「第19回 新世界座」が掲載されている。*140

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1987年1月号には「第1回 新世界公楽劇場」が掲載されている。*141
シネフェスタ1・2・3・4
所在地 : 大阪府大阪市浪速区恵美須東3-4-36(2000年)、大阪府大阪市浪速区恵美須東3-4-36 フェスティバルゲート7階(2005年)
開館年 : 1997年7月18日
閉館年 : 2007年3月31日
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年の映画館名簿では「シネフェスタ1・2・3・4」(4館)。2001年・2005年の住宅地図では「フェスティバルゲート 7階シネマコンプレックスシネフェスタ」。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「マルハン新世界店」。

1997年7月18日、大阪市浪速区恵比須3-4-36に4スクリーンの「シネフェスタ」が開館した。経営はシネフェスタ株式会社。*142
新世界日活劇場
所在地 : 大阪府大阪市浪速区霞町1-1(1980年)、大阪府大阪市浪速区恵美須東2-1-26(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年)
開館年 : 1976年
閉館年 : 2015年9月30日
1961年の住宅地図では後の映画館の場所に「パチンコホール」や「グリルニュースター」や「ダルマヤ」や空地など。1967年の住宅地図では後の映画館の場所に「関西中央モータープール 新世界永文スポーツセンター」。1971年・1975年の住宅地図では後の映画館の場所に「関西中央モータープール ボウルSSS」。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「新世界日活劇場」。1980年の住宅地図では「新世界日活」。1985年の住宅地図では「関西中央モータープール 朝日劇場 とんかつの店とん劇 ゲームセンターアサヒ 新世界日活」。1988年の住宅地図では「関西中央モータープール 旭劇場 とんかつの店朝日亭 ゲームセンターアサヒ 新世界にっかつ」。1993年の住宅地図では「関西中央モータープール 新世界にっかつ ゲームアサヒPXポイント」。2001年の住宅地図では「アサヒパーキングスクエア ゲームステーションアサヒ 朝日劇場 新世界日活エクセス」。跡地は大衆演劇場「朝日劇場」。

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1989年3月号には「最終回 新世界日活」が掲載されている。*143

1979年12月の大阪市にあった映画館「新世界日活」と演芸場「朝日劇場」の写真あり。*144

2015年9月30日、大阪市浪速区恵美須東(新世界)の成人映画館「新世界日活」が閉館する。1954年に日活の封切館として開館した。開館当時の周囲には東邦や大映の封切館など約10館の映画館があり、新世界は一大映画街として知られた。2015年3月に死去した先代の橋本秀太郎(87)はと親交が深かった宍戸錠や高橋英樹など日活黄金時代のスターが舞台挨拶に訪れたこともあった。1976年には現在の建物に移り、座席数は約200席に減少した。1992年には約20席の女性同士やカップル専用シートを新設した。現在は旧作や性描写の多い作品を上映している。「ロマンポルノを純粋に楽しめる」として近畿地方以外からも観客が訪れる。閉館後は演芸や歌謡ショー向けのホールとに改修し、12月中旬頃に新装開館する予定。*145

「新世界日活劇場」に言及している書籍として、高瀬進『ピンク映画館の灯 暗闇が恋しい都市の隠れ家』自由国民社、2001年がある。*146

「新世界日活」に言及している雑誌記事として、「TEMPO スクリーン カチンコ閻魔帳 さらば!カップルシート」『週刊新潮』2015年10月1日がある。現物は未確認。*147

「新世界日活」に言及している雑誌記事として、「40年の歴史に幕を閉じた浪速のポルノ映画館『新世界日活』の荒れ放題事情」『週刊実話』2015年10月15日がある。現物は未確認。*148
日劇会館・光映座/新世界日劇地下/新世界日劇会館・新世界日劇地下劇場/日劇会館・日劇OPK/日劇会館・日劇シネマ/日劇ローズ・日劇シネマ
所在地 : 大阪府大阪市浪速区霞町1-1(1955年・1960年・1980年)、大阪府大阪市浪速区恵美須東2-2-8(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年)
開館年 : 1947年6月
閉館年 : 営業中
『全国映画館総覧 1955』によると1947年6月開館。1955年の映画館名簿では「日劇会館・光映座」(2館)。1960年の映画館名簿では「新世界日劇地下」。1961年の住宅地図では「日劇会館 東映センター 新世界東映 新世界地下劇場」。1967年の住宅地図では「日劇会館」。1971年・1975年の住宅地図では「日劇会館 新世界東映 日劇DPK」。1980年の映画館名簿では「新世界日劇会館・新世界日劇地下」(2館)。1980年の住宅地図では「日劇会館 新世界東映 日劇OPK」。1985年の映画館名簿では「日劇会館・日劇OPK」(2館)。1985年の住宅地図では空地。1988年の住宅地図では「日劇OPK 日劇会館 新世界東映」。1990年・1995年・2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「日劇会館・日劇シネマ」(2館)。1993年・2001年の住宅地図では「日劇ビル 2階新世界東映・日劇シネマ・日劇会館」。2015年の映画館名簿では「日劇ローズ・日劇シネマ」(2館)。成人映画館。

1955年頃の新世界にあった「日劇会館」の写真あり。『妖蛇の魔殿』や『海賊バラクーダ』の看板が見える。*149
新世界日劇/新世界東映劇場/新世界東映
所在地 : 大阪府大阪市浪速区霞町1-1(1955年・1960年・1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市浪速区恵美須東2-2-8(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年)
開館年 : 1947年6月
閉館年 : 営業中
『全国映画館総覧 1955』によると1947年6月開館。1955年の映画館名簿では「新世界日劇」。1960年の映画館名簿では「新世界東映」。1966年の映画館名簿では「新世界東映劇場」。1969年・1973年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「新世界東映」。

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1987年9月号には「第9回 新世界東映劇場」が掲載されている。*150
新世界国際劇場・新世界国際地下劇場
所在地 : 大阪府大阪市浪速区霞町1-1(1955年・1960年・1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市浪速区恵美須東2-1-32(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年)
開館年 : 1950年6月
閉館年 : 営業中
『全国映画館総覧 1955』によると1950年6月開館。1955年の映画館名簿では「国際劇場・国際地下劇場」(2館)。1960年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「新世界国際劇場・新世界国際地下劇場」(2館)。1961年・1967年の住宅地図では「新世界国際劇場」。1971年・1975年・1980年・1985年・1988年・1993年・2001年の住宅地図では「新世界国際劇場 国際地下劇場」。1980年・1985年の映画館名簿では「新世界国際劇場・新世界国際地下」(2館)。1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「新世界国際劇場・新世界国際地下劇場」(2館)。新世界国際地下は成人映画館。建物名は新世界国際会館。

1955年頃の新世界にあった「国際劇場」の写真あり。*151

「新世界国際劇場・新世界国際地下劇場」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*152

「新世界国際劇場」に言及している書籍として、藤森照信(文)、中馬聰(写真)『藤森照信のクラシック映画館』青幻舎、2019年がある。*153

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
なんばパークスシネマ
所在地 : 大阪府大阪市浪速区難波中2-10-70 なんばパークス8階(2010年・2015年)
開館年 : 2007年4月19日
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年・2015年の映画館名簿では「なんばパークスシネマ1-11」(11館)。11スクリーンのシネコン。

天王寺区

玉造ヤマト館/玉造大映
所在地 : 大阪府大阪市天王寺区唐居町157(1955年・1960年)、大阪府大阪市天王寺区唐居町15(1963年)、大阪府大阪市天王寺区唐居町157(1966年)
開館年 : 1947年11月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1947年11月開館。1955年の映画館名簿では「玉造ヤマト館」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「玉造大映」。1966年の住宅地図では「玉造大映」。跡地はマンション「フローライト玉造」。
玉造東映
所在地 : 大阪府大阪市天王寺区南玉造町27(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「玉造東映」。1966年の住宅地図では「玉造東映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
近映大劇場・近映地下劇場/上六映画劇場・上六地下劇場/上六映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市天王寺区上本町6-1(1955年・1960年)、大阪府大阪市天王寺区上本町7-2-1(1963年)、大阪府大阪市天王寺区上本町6-1(1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市天王寺区上本町6-5-28(1982年・1984年)
開館年 : 1954年12月
閉館年 : 1984年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年12月開館。1955年の映画館名簿では「近映大劇場・近映地下劇場」(2館)。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1982年の映画館名簿では「上六映画劇場・上六地下劇場」(2館)。1963年・1975年の住宅地図では「近鉄会館 上六映画劇場 上六地下劇場」。1984年の映画館名簿では「上六映画劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は大型商業施設「上本町ユフラ」建物西側。最寄駅は近鉄大阪上本町駅。
鶴橋東宝・鶴橋松竹シネマ/鶴橋東宝映画劇場・鶴橋松竹シネマ/鶴橋松竹シネマ
所在地 : 大阪府大阪市天王寺区舟橋町42(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市天王寺区舟橋町2-2(1980年)、大阪府大阪市天王寺区舟橋町3-4(1985年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1985年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「鶴橋東宝・鶴橋松竹」(2館)。1960年の映画館名簿では「鶴橋東宝・鶴橋松竹シネマ」(2館)。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「鶴橋東宝映画劇場・鶴橋松竹シネマ」(2館)。1973年・1980年・1985年の映画館名簿では「鶴橋松竹シネマ」。1983年の住宅地図では「鶴橋松竹シネマ劇場」。1986年の映画館名簿には掲載されていない。
玉造東宝/玉造東宝映画劇場/玉造東宝・玉造大映/玉造東宝・玉造日活
所在地 : 大阪府大阪市天王寺区黒門町171(1953年・1955年・1960年・1963年・1966年)、大阪府大阪市天王寺区玉造元町2-54(1969年)、大阪府大阪市天王寺区玉造元町3-26(1973年・1980年・1985年・1990年・1991年)
開館年 : 1952年10月
閉館年 : 1991年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年10月開館。1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「玉造東宝映画劇場」。1963年の映画館名簿では「玉造東宝」。1966年の映画館名簿では「玉造東宝映画劇場」。1966年の住宅地図では「玉造東宝」。1969年・1973年の映画館名簿では「玉造東宝・玉造大映」(2館)。1975年の住宅地図では「三和会館」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「玉造東宝・玉造日活」(2館)。1983年の住宅地図では「三和マンション スーパートーエイ 地下1階玉造日活 2階玉造東映」。1991年の映画館名簿では「玉造東宝」。1992年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はドラッグストア「サンドラッグ玉造店」とライブハウス「Takara Osaka」とスポーツクラブ「VADY+玉造店」が入る「トーエイビル」。映画館時代の建物が現存していると思われる。
天王寺ステーションシネマ
所在地 : 大阪府大阪市天王寺区堀越町110(1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市天王寺区悲田院町10-48(1985年・1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1962年9月21日
閉館年 : 2001年
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1973年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「天王寺ステーションシネマ」。1983年の住宅地図では「天王寺ステーションビル地下1階ステーションシネマ」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。

1962年9月21日、大阪市天王寺区堀越町110に「天王寺ステーション・シネマ」が開館した。国鉄天王寺駅地下1階。大阪唯一のスーパーニュース劇場である。鉄骨鉄筋コンクリート造、冷暖房完備。定員210。内外ニュース、スポーツニュース、優秀短編映画、漫画を上映。上映会数は一日8回から10回。入場料は50円。*154
三和劇場/上六大映/上六東宝・上六日活/上六シネマ1・2/ACTシネマテーク/上六シネマ
所在地 : 大阪府大阪市天王寺区上本町7-65(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市天王寺区上本町6-7-2(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年)
開館年 : 1946年12月? 1970年頃?
閉館年 : 営業中
港町キネマ通り : 上六シネマ
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1955年の映画館名簿では「三和劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「上六大映」。1970年の住宅地図では「上六大映」。1980年の住宅地図では「上六三和会館 地下1階上六東宝・上六日活」。1980年・1985年の映画館名簿では「上六東宝・上六日活」(2館)。1990年の映画館名簿では「上六シネマ1・2」(2館)。1995年の映画館名簿では「ACTシネマテーク」。2000年・2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「上六シネマ」。成人映画館。最寄駅は近鉄大阪上本町駅。

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。

大阪市北東部

都島区

京橋大映劇場(新)
所在地 : 大阪府大阪市都島区東野田町7-79(1958年)、大阪府大阪市都島区東野田7-35(1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の住宅地図では「京橋大映」。1958年・1960年の映画館名簿では「京橋大映劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ウィスタリア京橋」北の立体駐車場「K3スカイパーク駐車場」建物東側。最寄駅はJR西日本・京阪・大阪メトロ京橋駅。
阪映劇場
所在地 : 大阪府大阪市都島区毛馬町2-12(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「阪映劇場」。1964年の住宅地図では「阪映劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はドラッグストア「ドラッグセイムス都島毛馬店」建物北東角。最寄駅はJRおおさか東線城北公園通駅。
赤川東映
所在地 : 大阪府大阪市都島区大東町1-69(1958年・1960年)、大阪府大阪市都島区大東町1-68(1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「赤川東映」。1964年の住宅地図では「赤川東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「カレーハウスCoCo壱番屋都島インター店」北西40mにある6軒分の民家。最寄駅はJRおおさか東線城北公園通駅。
京橋松竹
所在地 : 大阪府大阪市都島区東野田町7-70(1955年)、大阪府大阪市都島区東野田7-70(1960年)
開館年 : 1951年10月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年10月開館。1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「京橋松竹」。1959年の住宅地図では「京橋松竹」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「マンションKLM」。最寄駅はJR西日本・京阪・大阪メトロ京橋駅。
京橋大映(旧)/京橋東宝劇場
所在地 : 大阪府大阪市都島区東野田町7-79(1955年)、大阪府大阪市都島区東野田7-79(1960年)
開館年 : 1946年11月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1946年11月開館。1953年の映画館名簿では「京橋大映劇場」。1955年の映画館名簿では「京橋大映」。1959年の住宅地図では「京橋東宝」。1960年の映画館名簿では「京橋東宝劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は国道1号沿いの「協和病院」。最寄駅はJR西日本・京阪・大阪メトロ京橋駅。
京橋映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市都島区東野田7-152(1960年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の住宅地図では「京橋映画劇場」。1960年の映画館名簿では「京橋映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「スペースみやこ」。最寄駅はJR西日本・京阪・大阪メトロ京橋駅。
都島銀映
所在地 : 大阪府大阪市都島区都島本通3-100(1955年・1960年・1966年・1969年)、大阪府大阪市都島区都島本通3-32(1970年)
開館年 : 1948年12月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1948年12月開館。1953年・1955年・1960年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「都島銀映」。1969年の住宅地図では「都島銀映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「グルメシティ都島本通店」建物西側。最寄駅は大阪メトロ谷町線都島駅。
都島シネマ
所在地 : 大阪府大阪市都島区都島本通3-32(1958年・1960年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「都島シネマ」。1969年の住宅地図では「都島シネマ」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「宝コーポ」建物南側。最寄駅は大阪メトロ谷町線都島駅。
昭映劇場/赤川昭映劇場
所在地 : 大阪府大阪市都島区大東町1-755(1960年)、大阪府大阪市都島区大東町1-29(1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1927年10月
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1927年10月開館。1953年・1960年の映画館名簿では「昭映劇場」。1964年の住宅地図では「昭映劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「赤川昭映劇場」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「パークプラザ都島」。最寄駅はJRおおさか東線城北公園通駅。
アサヒ映劇/野江会館/都島会館
所在地 : 大阪府大阪市都島区内代町2-23(1958年・1960年・1969年)、大阪府大阪市都島区内代町2-21(1973年・1974年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1974年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「アサヒ映劇」。1960年の映画館名簿では「野江会館」。1966年・1969年・1973年・1974年の映画館名簿では「都島会館」。1972年の住宅地図では「都島会館」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「都島ビューハイツ」。最寄駅は大阪メトロ谷町線野江内代駅。
京橋シネマ(新)/京橋東映
所在地 : 大阪府大阪市都島区東野田町3-9-3(1977年・1978年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1976年頃
閉館年 : 1991年頃
1976年の映画館名簿には掲載されていない。1977年の映画館名簿では「京橋シネマ」。1978年の映画館名簿では「京橋シネマ劇場」。1980年の映画館名簿では「京橋シネマ」。1987年の住宅地図では「グランシャトービル 4階京橋東映」。1985年・1990年の映画館名簿では「京橋東映」。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は映画館が入っていた「グランシャトービル」。最寄駅はJR西日本・京阪・大阪メトロ京橋駅。
京橋劇場
所在地 : 大阪府大阪市都島区東野田町7-15(1955年・1958年)、大阪府大阪市都島区東野田7-152(1960年)、大阪府大阪市都島区東野田町7-15(1966年・1969年)、大阪府大阪市都島区東野田町5-3-39(1973年・1980年・1990年)
開館年 : 1952年12月
閉館年 : 1991年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1955年・1958年・1960年・1966年・1969年・1973年・1980年・1990年の映画館名簿では「京橋劇場」。1959年・1972年の住宅地図では「京橋劇場」。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「日本パーキング京橋駅前駐車場」。最寄駅はJR西日本・京阪・大阪メトロ京橋駅。
京橋シネマ(旧)/京バシ東映劇場・京バシ名画座/京橋東映劇場・京橋名画座/京バシ名画座
所在地 : 大阪府大阪市都島区東野田町7-100(1955年・1960年・1966年・1969年)、大阪府大阪市都島区東野田町3-12-3(1973年・1980年・1990年)
開館年 : 1946年12月
閉館年 : 1991年頃
1955年の映画館名簿では「京橋シネマ」。1959年の住宅地図では「京橋東映 京橋名画座」。1960年の映画館名簿では「京橋東映・京橋名画座」(2館)。1966年の映画館名簿では「京バシ東映劇場・京バシ名画座」(2館)。1969年・1973年・1980年の映画館名簿では「京橋東映劇場・京橋名画座」(2館)。1972年の住宅地図では「京橋東映 京橋名画座」。1990年の映画館名簿では「京バシ名画座」。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「京橋プラザビル」。最寄駅はJR西日本・京阪・大阪メトロ京橋駅。
京橋日活アカデミー劇場/京橋日活アカデミー/京橋アカデミー劇場
所在地 : 大阪府大阪市都島区東野田町7-26(1958年・1960年・1966年・1969年)、大阪府大阪市都島区東野田町5-25(1973年)、大阪府都島区東野田町5-2-20(1980年・1990年・2000年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 2005年1月11日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「京橋アカデミー劇場」。1959年の住宅地図では「京橋アカデミー劇場」。1960年の映画館名簿では「京橋日活アカデミー劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「京橋日活アカデミー」。1972年の住宅地図では「京橋アカデミー劇場」。1980年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「京橋アカデミー劇場」。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ウィスタリア京橋」。最寄駅はJR西日本・京阪・大阪メトロ京橋駅。

「京橋アカデミー劇場」に言及している書籍として、高瀬進『ピンク映画館の灯 暗闇が恋しい都市の隠れ家』自由国民社、2001年がある。*155

淀川区

淀川東映
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区宮原町270(1958年)、大阪府大阪市東淀川区宮原町280(1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「淀川東映」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。
塚本映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区塚本町3-80(1955年・1960年・1961年)
開館年 : 1954年8月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年8月開館。1955年・1960年・1961年の映画館名簿では「塚本映画劇場」。1960年の住宅地図では「塚本映劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「クレールコシダ」。最寄駅はJR神戸線塚本駅。
三栄映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区三国町738(1958年・1960年・1961年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1961年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「三栄映画劇場」。1960年の全商工住宅案内図帳では「三栄劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三国公園」東南東70mの空き地。最寄駅は阪急宝塚本線三国駅。
トキワ映画劇場/木川トキワ映劇
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区木川西之町3-22(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「トキワ映画劇場」。1960年の住宅地図では「トキワ映劇」。1963年の映画館名簿では「木川トキワ映劇」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「木川西公園」南西すぐの民家数軒。最寄駅は阪急京都線・神戸線・宝塚本線十三駅。
木川東映/木川東映劇場
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区木川西之町3-22(1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「木川東映」。1960年・1963年の住宅地図では「木川東映」。1963年・1966年の映画館名簿では「木川東映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「淀川木川西郵便局」南東すぐのアパート「木川文化北棟」と「木川文化南棟」。最寄駅は阪急京都線・神戸線・宝塚本線十三駅。
南方大光劇場/南方大光映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区西中島町4-1(1958年)、大阪府大阪市東淀川区西中島4-1(1960年)、大阪府大阪市東淀川区西中島町4-1(1963年・1966年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「阪急南方大光劇場」。1960年の映画館名簿では「南方大光劇場」。1963年の住宅地図では「大光映画劇場」。跡地は「日清食品ビル」。1963年・1966年の映画館名簿では「南方大光映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「日清食品ビル」。最寄駅は大阪メトロ御堂筋線西中島南方駅または阪急京都線南方駅。
新三国映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区三国町725(1958年・1960年)、大阪府大阪市東淀川区西三国町3-5(1963年・1966年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「新三国映劇」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「新三国映画劇場」。1960年・1963年の住宅地図では「新三国映劇」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「西三国モータープール」。跡地は阪急宝塚本線三国駅。
OK映画劇場/十三日活OK
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区十三西之町2-77(1955年・1960年・1963年)、大阪府大阪市東淀川区十三西之町2-15-4(1966年)、
開館年 : 1947年1月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1947年1月開館。1955年・1960年の映画館名簿では「OK映画劇場」。1963年の住宅地図では「日活OK劇場」。1963年・1966年の映画館名簿では「十三日活OK」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はビジネスホテル「東横イン大阪阪急十三駅西口1」建物北側の「ローソン十三本町一丁目店」部分。最寄駅は阪急京都線・神戸線・宝塚本線十三駅。
十三若草劇場
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区十三西之町3-19(1958年・1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「十三若草劇場」。1963年の住宅地図では「若草映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「十三エステートハイツ」。最寄駅は阪急京都線・神戸線・宝塚本線十三駅。
三津屋シネマ
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区三津屋南通2-62(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1969年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「三津屋シネマ」。1967年の住宅地図では「三津屋シネマ」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「武富歯科医院」などが入る「メゾン宝」。最寄駅は阪急神戸線神崎川駅。
塚本東映劇場/塚本東映
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区塚本町2-54(1958年・1960年・1963年)、大阪府大阪市東淀川区塚本町2-12-12(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1969年・1970年の映画館名簿では「塚本東映」。1967年の住宅地図では「塚本東映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「グランベール塚本」。最寄駅はJR神戸線塚本駅。
加島大光映画劇場/加島大興劇場
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区加島町1231(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「加島大光映画劇場」。1967年の住宅地図では「大光劇場」。1969年・1970年の映画館名簿では「加島大興劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「淀川加島郵便局」南東60mの民家数軒。最寄駅はJR神戸線加島駅。
旭劇場/三津屋旭劇場/三津屋東映/三津屋東映劇場
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区三津屋北通2-15(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「旭劇場」。1960年の映画館名簿では「三津屋旭劇場」。1963年の映画館名簿では「三津屋東映」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「三津屋東映劇場」。1967年の住宅地図では「三津屋東映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「セブンイレブン三津屋店」南西90mにあるアパート。
三国大映
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区西三国町5-71(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1960年以後1963年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「三国大映」。1967年の住宅地図では「三国大映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ファミリーマート三国四丁目店」建物南端部と道路用地。跡地は阪急宝塚本線三国駅。
三国東映/三国劇場
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区三国町915(1955年・1960年)、大阪府大阪市東淀川区西三国町4-107(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1926年10月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1926年10月開館。1955年・1960年の映画館名簿では「三国劇場」。1963年の映画館名簿では「三国東映」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「三国劇場」。1967年の住宅地図では「三国劇場(島田)」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「八百鮮」などがある「バルバラ」。跡地は阪急宝塚本線三国駅。
光洋映画劇場/十三東宝
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区十三西之町2-40(1955年・1960年)、大阪府大阪市東淀川区十三西之町2-48(1963年)、大阪府大阪市東淀川区十三西之町2-12-4(1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1946年10月
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年10月開館。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「十三東宝」。1963年の住宅地図では「十三東宝」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は有料駐車場「東コンドルモータープール」。最寄駅は阪急京都線・神戸線・宝塚本線十三駅。
十三アカデミー劇場
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区十三西之町2-81(1958年)、大阪府大阪市東淀川区十三西之町2-84(1960年)、大阪府大阪市東淀川区十三西之町2-21-19(1969年・1973年)、大阪府大阪市淀川区十三本町1-17-20(1980年・1985年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1985年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1969年・1973年・1980年・1985年の映画館名簿では「十三アカデミー劇場」。1963年の住宅地図では「第二東映アカデミー劇場」。1974年の吉田地図では「十三アカデミー劇場」。1985年の住宅地図では「十三アカデミー」。1986年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「セブンイレブン大阪十三本町1丁目店」などが入る「アカデミープラザ」。最寄駅は阪急京都線・神戸線・宝塚本線十三駅。
十三弥生座
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区十三東之町3-103(1958年)、大阪府大阪市東淀川区十三東之町1-1-36(1960年)、大阪府大阪市東淀川区十三東之町3-103(1969年・1973年)、大阪府大阪市淀川区十三東2-12-33(1980年・1985年・1990年・1995年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1995年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1969年・1973年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「十三弥生座」。1974年の吉田地図では「十三弥生座」。1996年・1998年・2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はアパート「スチューデントピアレゾン」。最寄駅は阪急京都線・神戸線・宝塚本線十三駅。
銀映劇場/十三東映劇場/十三東映劇場・十三ロマン
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区十三西之町2-91(1955年・1960年・1963年)、大阪府大阪市東淀川区十三西之町2-21-11(1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市淀川区十三本町1-20-15(1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1949年8月
閉館年 : 2006年7月18日
『全国映画館総覧 1955』によると1949年8月開館。1955年の映画館名簿では「十三東映劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「十三東映劇場」。1963年の住宅地図では「十三東映」。1974年の吉田地図では「十三東映」。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「十三東映劇場・十三ロマン」(2館)。1985年の住宅地図では「十三ロマン 十三東映」。2008年・2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「アーバネス淀川」建物北側。

「十三ロマン」に言及している書籍として、高瀬進『ピンク映画館の灯 暗闇が恋しい都市の隠れ家』自由国民社、2001年がある。*156
十三劇場/十三劇場・十三シネマ/サンポードアップルシアター/第七芸術劇場/第七芸術劇場・シアターセブン
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区十三西之町2-58(1955年)、大阪府大阪市東淀川区十三西之町2(1960年・1963年)、大阪府大阪市東淀川区十三西之町2-17-16(1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市淀川区十三本町1-7-27(1990年・1995年)、大阪府大阪市淀川区十三本町1-7-27 サンポードシティ6階(2005年)、大阪府大阪市淀川区十三本町1-7-27 サンポードシティビル6階(2010年・2015年)
開館年 : 1946年
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 第七芸術劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1946年開館。1953年・1955年の映画館名簿では「十三劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「十三劇場・十三シネマ」(2館)。1963年の住宅地図では「十三劇場」と「朝日シネマ」が異なる建物として描かれている。1966年・1969年・1973年・1980年の映画館名簿では「十三シネマ」。1985年の住宅地図では「サンポードシティ 6階サンポードアップルシアター」。1985年・1990年の映画館名簿では「サンポードアップルシアター」。1993年第七芸術劇場開館。1995年の映画館名簿では「第七芸術劇場」。1999年閉館。2000年の映画館名簿には掲載されていない。2002年7月再開館。2005年9月休館。2005年12月再開館。2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「第七芸術劇場」。2スクリーンのミニシアター。

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1987年2月号には「第2回 サンポード・アップル・シアター」が掲載されている。*157

「第七芸術劇場」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*158

東淀川区

小松映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区小松南通2-18(1958年・1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「小松映画劇場」。1961年の住宅地図では「小松映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大阪厚生信用金庫上新庄支店」北東130mにある複数の民家。
松鶴座
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区国次町409(1958年・1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「松鶴座」。1960年の住宅地図では「松鶴座映画館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2015年竣工のマンション「プリュネ淡路本町」。最寄駅は阪急京都線・千里線淡路駅。
桜木映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区国次町406(1955年・1960年)
開館年 : 1953年4月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1953年4月開館。1955年・1960年の映画館名簿では「桜木映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の住宅地図では「桜木映画劇場」。跡地はアパート「栗下文化」。最寄駅は阪急京都線・千里線淡路駅。
新庄ヒカリ劇場
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区上新庄3-121(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「新庄ヒカリ劇場」。1961年の住宅地図では「新庄ヒカリ劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「阪急京都線上新庄駅」北口西側北西30mのアパート「光文化北棟」。
江口劇場
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区小松中通5-6(1958年・1960年・1963年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1969年・1970年の映画館名簿では「江口劇場」。1963年・1967年の住宅地図では「江口劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「北おおさか信用金庫小松支店」。
淡路劇場/淡路東映
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区国次町351(1955年)、大阪府大阪市東淀川区淡路本町2-334(1960年)、大阪府大阪市東淀川区淡路本町334(1963年)、大阪府大阪市東淀川区淡路本町2-334(1969年・1973年・1978年・1979年)
開館年 : 1949年12月
閉館年 : 1979年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1949年12月開館。1955年の映画館名簿では「淡路劇場」。1960年の映画館名簿では「淡路東映」。1961年の住宅地図では「淡路東映」。1963年・1969年・1973年・1976年・1978年の映画館名簿では「淡路劇場」。1979年の映画館名簿では「淡路東映」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「マリンズ淡路」。最寄駅は阪急京都線・千里線淡路駅。
淡路シネマ
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区国次町351(1958年)、大阪府大阪市東淀川区淡路本町2-132(1960年)、大阪府大阪市東淀川区淡路本町132(1963年)、大阪府大阪市東淀川区淡路本町2-131(1969年)、大阪府大阪市東淀川区淡路本町1-132(1973年・1976年・1978年)、大阪府大阪市東淀川区淡路本町2-131(1979年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1979年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1969年・1973年・1976年・1978年・1979年の映画館名簿では「淡路シネマ」。1961年の住宅地図では「淡路シネマ」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「カラオケビッグエコー淡路駅前店」などが入る「アイゼン淡路ビル」。最寄駅は阪急京都線・千里線淡路駅。
淡路ニュートーホー/淡路東宝2
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区淡路4-7-20(1981年・1982年・1985年・1990年・1995年)、大阪府大阪市東淀川区淡路4-7-7(2000年)、大阪府大阪市東淀川区淡路4-7-20(2002年)、大阪府大阪市東淀川区淡路4-7-17(2008年)
開館年 : 1980年頃
閉館年 : 2008年頃
1980年の映画館名簿には掲載されていない。1982年・1985年の映画館名簿では「淡路ニュートーホー」。1990年・1995年・2000年・2005年・2008年の映画館名簿では「淡路東宝2」。2008年の映画館名簿では鉄筋造2階、126席、経営会社が宝来興業株式会社、経営者が桜田丑男、支配人が坂本雅昭、邦画・洋画を上映。2009年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東淀川淡路郵便局」南にある2020年竣工の名称不明のマンション。最寄駅は阪急京都線・千里線淡路駅。
淡路東宝1/淡路東宝
所在地 : 大阪府大阪市東淀川区国次町420(1960年)、大阪府大阪市東淀川区国次町2-420(1963年)、大阪府大阪市東淀川区淡路本町2-294(1969年・1973年・1976年・1980年)、大阪府大阪市東淀川区淡路4-7-7(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年)
開館年 : 1957年
閉館年 : 2017年5月31日
港町キネマ通り : 淡路東宝
1960年・1963年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「淡路東宝」。1961年の住宅地図では「淡路東宝」。2000年の映画館名簿では「淡路東宝1」。2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「淡路東宝」。2008年の映画館名簿では鉄筋造1階、234席、経営会社が宝来興業株式会社、経営者が桜田丑男、支配人が坂本雅昭、邦画・洋画を上映。跡地は「淡路4公園」から商店街を挟んで南側。跡地に建物が現存。アーケードの淡路本町商店街沿い。最寄駅は阪急京都線・千里線淡路駅。

映画評論家である筆者(重政隆文)の家から最も近い映画館は「淡路東宝」である。淡路東宝では東映だけでなく東宝・松竹・洋画なども上映し、各社の作品を混ぜて上映することもある。都心の映画館の入場料は1500円だが、淡路東宝は100円安い1400円であり、情報誌を持参すれば1200円になる。大阪経済大学の生協では900円でチケットが購入できるという。1981年の井筒和幸監督作『ガキ帝国』では、不良グループが乱闘するシーンで淡路東宝のロビーがロケに用いられた。かつてロビーには売店とともにカレー屋があり、一般的なカレー皿に盛られたカレーを観客席で食べることもできたが、1987年現在は売店もカレー屋も営業していない。映画館は商店街にある宝来市場の2階にあり、チケットをもぎってもらってから階段を上がる仕組みである。ホールの天井は高く、圧迫感がないため気持ちがいい。「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1987年8月号には「第8回 淡路東宝」が掲載されている。*159

阪急淡路駅西口から西に延びるアーケードの本町通商店街のほぼ中央に映画館「淡路東宝」がある。1957年、東宝の封切館として開館した。現在の桜田丑男の曽祖父が運営する宝来興業株式会社が隣接する宝来市場を増築して開館させた。リニューアルは行われているが、外観は開館当時とほぼ変わらない。かつて淡路駅前にはペンキ屋が経営していた東映専門館や松竹専門館があったが、現在の本町通商店街に残っているのは淡路東宝のみである。かつては徒歩2-3分の場所にもう1館を経営していたが、2011年に常設映画館としての営業を終了して貸しホールとした。観客は地元住民が中心であり、平日は年配者が多いものの、休日は家族連れや中高生も訪れる。東宝の直営館ではなく、松竹や東映の作品も上映している。ロードショー作品ではなくムーブオーバー作品も上映するため、梅田の映画館で見逃した作品を目的として訪れる観客もいる。近隣の住民はだれでも子供の頃に連れられてきたことがあるという。正面入り口には大きなゴジラの絵看板が掲げられている。1階のロビーは受付と売店のみの単純な構造であり、受付でチケットを購入して2階まで階段を上る。ホールは前方がワンスロープであり、後方には段差が付いたスタジアム形式である。天井は高くスクリーンが大きい。ロビーの天井は2階分の高さがあり、ガラス張りの壁面を持つ吹き抜けとなっている。デジタルとフィルムの双方の上映が可能である。映画館に隣接して喫茶店トーホーがあり、坂本がマスターを兼務している。記憶に残るヒット作品には『世界の中心で愛をさけぶ』があり、階段の上から下まで行列が途切れず、すべての回で扉が閉められないほどの満席になった。梅田の映画館に入りきらない観客が淡路東宝まで誘導されたという。2012年9月には2週間限定のイベント上映を行い、昼間は『男はつらいよ』、夜間は東宝の特撮映画『海底軍艦』を35ミリフィルムで上映すると、『海底軍艦』はリバイバル上映されることが少ない作品だったこともあり、大阪府以外からも観客が訪れた。*160

『大阪人 OSAKA-JIN』大阪市都市工学情報センター、2010年4月号は「東淀川右岸 左岸」を特集している。「東淀川・商店街遊歩 淡路東宝」には支配人の坂本雅昭の談話が掲載されており、1956年の開館の経緯などを語っている。現物は未確認。*161

「淡路東宝・淡路東宝2」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*162

旭区

旭区の映画館
千林周辺には8館もの映画館があった。映画館「千林松竹」はやがて建て替えられてダイエー千林店(後のトポス千林店)となり、その後パチンコ店になった。千林松竹は大人の女性向きの作品が多かった。東映の時代劇を上映する「森小路劇場」(後の森小路東映)は京阪森小路駅前にあり、同一経営母体の洋画上映館は「ミリオン座」だった。現在のミリオン座跡地は1階に100円ショップのあるマンションである。森小路劇場のほうが収容人数が多かったため、東映人気が低下して洋画人気が向上すると森小路劇場とミリオン座の場所が交換された。現在のパチンコ店 パーラー千林の場所には大映専門館「江南キネマ」が、現在のパチンコ店 天竜会館の場所には東宝専門館「大宮劇場」(後の大宮東宝)が、大宮劇場の裏には大衆演劇場「寿座」があった。京阪千林駅の近くには邦画の3本立再上映館「千林劇場」があり、千林劇場は後に日活専門館となった。千林栄通商店街には洋画の三番館「千林セントラル」があった。現在の千林劇場や千林セントラルの跡地にはマンションが建っている。京街道と千林商店街の交差点近く、かき氷のかどやの筋向いには3本立格安洋画館「角座」があり、閉館後の跡地はパチンコ店が営業した後に駐車場になっている。最後まで営業していたのは森小路駅前のミリオン座であり、閉館後にはスーパーとなった。*163
千林松竹/千林名画座
所在地 : 大阪府大阪市旭区千林町3-103(1953年・1955年)、大阪府大阪市旭区千林町3-136(1960年)
開館年 : 1953年以前
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「千林松竹」。1960年の映画館名簿では「千林名画座」。1960年の住宅地図では「千林松竹劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「123千林店」建物北側。最寄駅は京阪本線千林駅。

1961年から1962年のこのほど、大阪市旭区の「千林名画座」はスーパーマーケットとなった。*164

かつてトポスがあった場所は映画館「千林松竹劇場」の跡地である。2009年現在は更地となっている。千林松竹劇場にはストリップショーも来演した。*165
千林角座
所在地 : 大阪府大阪市旭区森小路町8-33(1955年・1960年)
開館年 : 1953年5月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1953年5月開館。1955年・1960年の映画館名簿では「千林角座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の住宅地図では跡地に「パチンコアサヒ」。跡地は「甘味処角屋」の筋向いにある駐車場。最寄駅は大阪メトロ谷町線千林大宮駅。
旭映画劇場/赤川旭映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市旭区赤川町2-9(1955年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1954年1月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1954年1月開館。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「旭映画劇場」。1964年の住宅地図では「旭映画劇場」。1966年の映画館名簿では「赤川旭映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「キコーナ赤川店」。最寄駅はJRおおさか東線城北公園通駅。
中宮映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市旭区中宮町2-4(1966年)
開館年 : 1963年以後1966年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の住宅地図では「中宮映劇」。1966年の映画館名簿では「中宮映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅は大阪メトロ谷町線関目高殿駅。
江南キネマ
所在地 : 大阪府大阪市旭区(1950年・1953年)、大阪府大阪市旭区森小路町9-1(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1931年9月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1931年9月開館。1950年・1953年・1955年・1960年・1969年・1970年の映画館名簿では「江南キネマ」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地のパチンコ店「ぱーらーせんばやし」では2010年に殺人事件が発生。パチンコ店「プレミアパチっとワン千林店」を経て、跡地はパチンコ店「クラブアルドーレ千林店」。最寄駅は大阪メトロ谷町線千林大宮駅。
千林劇場
所在地 : 大阪府大阪市旭区(1953年)、大阪府大阪市旭区貝脇町34(1955年)、大阪府大阪市旭区貝脇町36(1960年)、大阪府大阪市旭区貝脇町38(1963年)、大阪府大阪市旭区貝脇町36(1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市旭区清水1-18-11(1974年)
開館年 : 1953年以前
閉館年 : 1974年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年の記載なし。1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1974年の映画館名簿では「千林劇場」。1967年の住宅地図では「千林劇場」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「エスリード千林駅前」。最寄駅は京阪本線千林駅。
大宮劇場/大宮東宝/大宮東宝劇場
所在地 : 大阪府大阪市旭区(1953年)、大阪府大阪市旭区大宮町8-9(1955年)、大阪府大阪市旭区大宮町8-105(1960年・1963年・1966年・1969年)、大阪府大阪市旭区大宮町8-150(1973年)
開館年 : 1950年12月
閉館年 : 1976年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「大宮劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「大宮東宝」。1964年の住宅地図では「大宮東宝劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「大宮東宝劇場」。1977年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はまずパチンコ店「天龍会館旭店」、跡地はパチンコ店「ジョイコム千林店」。最寄駅は大阪メトロ谷町線千林大宮駅。

千林界隈の映画館としては、「千林松竹」、駅裏の新東宝・日活上映館(名称は「千林劇場?」)、洋画の「千林セントラル劇場」、洋画の「千林角座」、大映上映館の「江南キネマ」、「大宮東宝」、森小路の洋画の「ミリオン座」、「森小路東映」などがあった。大宮東宝跡地のパチンコ店は大宮東宝の建物を利用している。*166
ミリオン座(旧)/森小路東映劇場(新)
所在地 : 大阪府大阪市旭区森小路町5-26(1955年・1960年・1963年)、大阪府大阪市旭区新森小路中5-26(1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市旭区森小路1-8-9(1976年・1978年・1979年)
開館年 : 1951年8月
閉館年 : 1979年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年8月開館。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「ミリオン座」。1966年・1969年・1973年・1976年・1978年・1979年の映画館名簿では「森小路東映劇場」。1967年の住宅地図では「森小路東映」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「メゾングリーン森小路」。最寄駅は京阪本線森小路駅。
森小路劇場/森小路東映会館・森小路松竹/森小路東映劇場・森小路劇場(旧)/森小路ミリオン座/ミリオン座・森小路劇場/森小路ミリオン座・地下・2・3/森小路ミリオン2・3/森小路ミリオン1・2(新)
所在地 : 大阪府大阪市旭区新森小路中1-245(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市旭区森小路1-4-15(1980年・1985年・1990年・1995年)
開館年 : 1952年5月
閉館年 : 1995年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年5月開館。1955年の映画館名簿では「森小路劇場」。1960年の映画館名簿では「森小路東映会館・森小路松竹」(2館)。1963年の映画館名簿では「森小路東映劇場・森小路劇場」(2館)。1966年の映画館名簿では「森小路ミリオン座」。1969年・1973年の映画館名簿では「ミリオン座・森小路劇場」(2館)。1980年・1985年の映画館名簿では「森小路ミリオン座・地下・2・3」(4館)。1990年の映画館名簿では「森小路ミリオン2・3」(2館)。1995年の映画館名簿では「森小路ミリオン1・2」(2館)。1996年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「スーパーナショナル森小路店」。旭区最後の映画館。最寄駅は京阪本線森小路駅。

鶴見区

鶴見館
所在地 : 大阪府大阪市城東区今福中4-26(1958年・1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「鶴見館」。1960年の住宅地図では「鶴見館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ユニライフ今福鶴見駅前」の北東30mにある13軒分の住宅。最寄駅は大阪メトロ長堀鶴見緑地線今福鶴見駅。
城東日本劇場
所在地 : 大阪府大阪市城東区(1950年・1953年)、大阪府大阪市城東区三組町60(1955年・1960年)
開館年 : 1947年
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1947年開館。1950年・1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「城東日本劇場」。1960年の住宅地図では「城東日本劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三井住友銀行徳庵支店」北西60mにある10軒以上分の住宅。最寄駅はJR片町線徳庵駅。
永楽館/放出シネマ
所在地 : 大阪府大阪市城東区放出町253(1955年)、大阪府大阪市城東区放出町235-6(1960年)、大阪府大阪市城東区放出町238(1963年・1966年)
開館年 : 1954年9月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1954年9月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「永楽館」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「放出シネマ」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2020年竣工のマンション「スプランディット放出DUE」。2018年まで映画館の建物が現存していた可能性がある。最寄駅はJR片町線・おおさか東線放出駅。
放出東映/放出東映劇場
所在地 : 大阪府大阪市城東区放出町253(1958年・1960年)、大阪府大阪市城東区放出町238(1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1971年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「放出東映」。1964年の住宅地図では「放出東映」。1966年・1969年の映画館名簿では「放出東映劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2020年竣工のマンション「スプランディット放出DUE」北西30mにある住宅地。最寄駅はJR片町線・おおさか東線放出駅。

大阪市西部臨海部

西淀川区

大和田劇場
所在地 : 大阪府大阪市西淀川区大和田町365(1960年)、大阪府大阪市西淀川区大和田町356(1963年)、大阪府大阪市西淀川区大和田町365(1964年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1964年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「大和田劇場」。1960年の住宅地図では「大和田劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大和田中一公園南南東50mの阪神高速3号道路上。
姫島東映/姫島東宝
所在地 : 大阪府大阪市西淀川区姫里町2-139(1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1964年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「姫島東映」。1963年・1964年の映画館名簿では「姫島東宝」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「業務スーパー西淀川店」。最寄駅は阪神本線姫島駅。
千船劇場
所在地 : 大阪府大阪市西淀川区(1950年・1953年)、大阪府大阪市西淀川区大和田406-1(1955年・1960年・1963年)、大阪府大阪市西淀川区大和田西1-97(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1948年8月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1948年8月開館。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「千船劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はモスク「大阪マスジッド」西の「修成建設専門学校」南館。最寄駅は阪神本線千船駅。
野里劇場/野里大映
所在地 : 大阪府大阪市西淀川区野里町1063(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「野里劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「野里大映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「野里公園」北50mにある住宅地。最寄駅はJR神戸線塚本駅または阪神本線姫島駅。
野里東映劇場/野里東映
所在地 : 大阪府大阪市西淀川区野里町497(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「野里東映」。1966年の映画館名簿では「野里東映劇場」。1969年・1970年の映画館名簿では「野里東映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「西村電機工業」。最寄駅はJR神戸線塚本駅または阪神本線姫島駅。
リボン座/野里リボン座/野里リボン座・野里テアトルリボン/野里リボン座・野里テアトルリボン座/野里テアトルリボン
所在地 : 大阪府大阪市西淀川区野里町468-3(1955年)、大阪府大阪市西淀川区野里町468(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市西淀川区野里町2-16-24(1980年・1982年・1984年)
開館年 : 1950年
閉館年 : 1984年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年開館。1953年の映画館名簿では「リボン座」。1955年の映画館名簿では「野里リボン座」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「野里リボン座・野里テアトルリボン」(2館)。1973年の映画館名簿では「野里リボン座・野里テアトルリボン座」(2館)。1980年・1982年・1984年の映画館名簿では「野里テアトルリボン」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「多聞寺」西の住宅地。最寄駅はJR神戸線塚本駅または阪神本線姫島駅。

此花区

此花劇場
所在地 : 大阪府大阪市此花区四貫島宮居町5(1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1952年12月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「此花劇場」。1961年の住宅地図では「此花劇場」。1967年の住宅地図では跡地に「此花モータープール」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2002年竣工のマンション「サンコーフィラン此花」。最寄駅は阪神なんば線千鳥橋駅。
春日出東映/春日出東映劇場
所在地 : 大阪府大阪市此花区春日出町2-9(1958年・1960年)、大阪府大阪市此花区春日出町下2-9(1963年)、大阪府大阪市此花区春日出町2-9(1966年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「春日出東映」。1966年の映画館名簿では「春日出東映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は食料雑貨店「よしや春日出店」など。アーケードの春日出商店街内。最寄駅は阪神なんば線千鳥橋駅。
此花東宝/春日出シネマ
所在地 : 大阪府大阪市此花区春日出町151(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1960年以後1963年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1966年の映画館名簿では「此花東宝」。1969年・1970年の映画館名簿では「春日出シネマ」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は時計店「ナニワ時計」。最寄駅は阪神なんば線千鳥橋駅。
日本劇場/四貫島日本劇場
所在地 : 大阪府大阪市此花区四貫島大通2-14(1960年・1969年・1973年・1975年・1976年)
開館年 : 1934年3月
閉館年 : 1976年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1934年3月開館。1960年の映画館名簿では「日本劇場」。1969年・1973年・1975年・1976年の映画館名簿では「四貫島日本劇場」。1977年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「オーエスドラッグ四貫島店」や「やまさきクリニック」などが入る「セントラルプラザ」。「三井住友銀行四貫島支店」西。最寄駅は阪神なんば線千鳥橋駅。
ブラザース劇場/四貫島ブラザース劇場/日本劇場・ブラザース/ニュー日本劇場・ニューブラザース/四貫島日劇・ブラザース
所在地 : 大阪府大阪市此花区四貫島徳平町1-4(1960年・1969年・1973年・1975年・1977年)、大阪府大阪市此花区四貫島1-7-10(1978年・1980年)
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1980年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1960年の映画館名簿では「ブラザース劇場」。1969年・1973年の映画館名簿では「四貫島ブラザース劇場」。1975年の映画館名簿では「日本劇場・ブラザース」(2館)。1977年の映画館名簿では「ニュー日本劇場・ニューブラザース」(2館)。1980年の映画館名簿では「四貫島日劇・ブラザース」(2館)。1981年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ハイマート千鳥橋」。最寄駅は阪神なんば線千鳥橋駅。

1952年の「四貫島ブラザース」の写真あり。撮影年不明の「四貫島ブラザース」横の写真あり。1969年の大映作品『博徒一代 血祭り不動』、同じく1969年の大映作品『関東おんな極道』の看板が見える。*167

1957年頃の大阪市此花区四貫島にあった「四貫島ブラザース」の写真あり。ジェームス・キャグニー主演の『千の顔を持つ男』のポスターが見える。阪神千鳥橋駅の近くにあり、四貫島商店街に面していた。*168
西九条明治座/明治座
所在地 : 大阪府大阪市此花区朝日橋通2-9(1958年・1960年・1969年・1973年)、大阪府大阪市此花区西九条3-15-3(1980年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1984年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「明治座」。1969年・1973年の映画館名簿では「西九条明治座」。1980年・1982年・1984年の映画館名簿では「明治座」。1980年の住宅地図では「映画館明治座」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。此花区最後の従来型映画館。跡地はカラオケ店「ジャンカラ西九条駅前店」。最寄駅はJR大阪環状線・阪神なんば線西九条駅。
ドライブインシアタースターダスト舞洲1・2
所在地 : 大阪府大阪市此花区北港緑地2丁目 舞洲スポーツアイランド内(1996年・1998年・2000年)
開館年 : 1995年頃
閉館年 : 2000年頃
1995年の映画館名簿には掲載されていない。1996年・1998年・2000年の映画館名簿では「ドライブイン・シアター スターダスト舞洲1・2」(2館)。1998年の映画館名簿では202台と178台、経営会社がエー・ビー・シー開発株式会社、経営者が荒井敬一郎、支配人が大西明二、邦画・洋画を上映。2000年の大阪府精密住宅地図では「舞洲ドライブインシアター スターダスト舞洲」。2001年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「アスクル株式会社大阪DMC」と「日立物流舞洲営業所」。最寄駅はJRゆめ咲線桜島駅。

港区

市岡大映
所在地 : 大阪府大阪市港区市岡元町5-1(1960年・1963年)
開館年 : 1955年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「市岡大映」。1964年の住宅地図では「市岡大映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「アイビースクエア市岡」。最寄駅はJR大阪環状線・大阪メトロ中央線弁天町駅。
市岡キネマ
所在地 : 大阪府大阪市港区大阪市港区市岡港通5-94(1958年)、大阪府大阪市港区大阪市港区市岡港通5-94(1960年)、大阪府大阪市港区大阪市港区市岡浜通5-94(1963年・1966年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「市岡キネマ」。1965年の住宅地図では「市岡キネマ」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「市岡浜公園」北北東150mにある民家。最寄駅はJR大阪環状線・大阪メトロ中央線弁天町駅。
市岡第一映画館
所在地 : 大阪府大阪市港区市岡元町3-15(1958年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「市岡第一映画館」。1965年の住宅地図では「市岡第一映画館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「プレサンスロジェ弁天町」南西50mの阪神高速17号西大阪線道路用地。最寄駅はJR大阪環状線・大阪メトロ中央線弁天町駅。
衆楽館/港衆楽館/市岡衆楽館
所在地 : 大阪府大阪市港区東田中町8-45(1958年・1960年・1963年・1966年)、大阪府大阪市港区東田中町8-7(1969年)、大阪府大阪市港区夕凪1-15-8(1970年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「衆楽館」。1964年の住宅地図では「衆楽館」。1966年の映画館名簿では「港衆楽館」。1969年・1970年の映画館名簿では「市岡衆楽館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「キングマンションプレソワールみなと通」。最寄駅は大阪メトロ中央線朝潮橋駅。
弥生座/市岡東映弥生館
所在地 : 大阪府大阪市港区市岡元町4-1(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年)、大阪府大阪市港区市岡1-4-25(1973年・1975年・1978年・1979年)
開館年 : 1952年12月17日
閉館年 : 1979年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1955年の映画館名簿では「弥生座」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1979年の映画館名簿では「市岡東映弥生館」。1965年の住宅地図では「東映弥生館」。1977年の住宅地図では「市岡東映弥生館」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ユニハイム市岡2」。最寄駅はJR大阪環状線・大阪メトロ中央線弁天町駅。

1952年12月17日、大阪市港区市岡元町4丁目に「弥生館」が開館した。経営は株式会社弥生興業。松竹と東映の二本立て。*169
市岡中映/市岡中央映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市港区市岡元町2-27(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)、大阪府大阪市港区南市岡2-8-2(1973年・1974年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1974年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「市岡中央映画劇場」。1971年の住宅地図では「市岡セントラル」。1973年の映画館名簿では「市岡中映」。1974年の映画館名簿では「市岡中央映画劇場」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「天理教堀西分教会」北東40mの駐車場。最寄駅はJR大阪環状線・大阪メトロ中央線弁天町駅。
市岡東宝八千代/市岡東宝八千代劇場
所在地 : 大阪府大阪市港区市岡元町4-1(1958年・1960年・1963年・1966年)、大阪府大阪市港区市岡1-4-6(1969年・1973年・1980年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1980年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「市岡東宝八千代」。1963年・1966年・1969年・1973年・1980年の映画館名簿では「市岡東宝八千代劇場」。1965年・1977年の住宅地図では「市岡東宝八千代劇場」。1981年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は有料駐車場「市岡1丁目駐車場」。最寄駅はJR大阪環状線・大阪メトロ中央線弁天町駅。
港日活
所在地 : 大阪府大阪市港区八幡屋宝町1-279(1963年・1966年)、大阪府大阪市港区八幡屋宝町8-45(1969年)、大阪府大阪市港区八幡屋1-10-2(1973年)、大阪府大阪市港区八幡屋1-10(1980年・1982年)、大阪府大阪市港区八幡屋1-10-2(1984年)
開館年 : 1960年以後1963年以前
閉館年 : 1984年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1982年・1984年の映画館名簿では「港日活」。1977年の住宅地図では「大晃ビル 2階港日活」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はタワー式立体駐車場「朝潮パーキング」。最寄駅は大阪メトロ中央線朝潮橋駅。
港東洋/港東洋劇場/みなと東劇
所在地 : 大阪府大阪市港区東田中町8-7-2(1958年・1960年・1963年)、大阪府大阪市港区東田中町8-7(1966年・1969年・1970年)、大阪府大阪市港区夕凪2-16-9(1973年)、大阪府大阪市港区夕凪2-16-6(1980年)、大阪府大阪市港区夕凪2-16-9(1985年・1988年・1989年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1989年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「港東洋」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1973年の映画館名簿では「港東洋劇場」。1977年の住宅地図では「港東洋映画館」。1980年・1985年・1988年・1989年の映画館名簿では「みなと東劇」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「えさきクリニック」や「にしお歯科クリニック」や「ドレミ薬局朝潮橋店」が入る「ポートビル」。最寄駅は大阪メトロ中央線朝潮橋駅。港区最後の従来型映画館。
海遊館ホール名画劇場
所在地 : 大阪府大阪市港区海岸通1-1-10(1995年・1997年・1998年)
開館年 : 1991年5月
閉館年 : 1998年頃
1994年の映画館名簿には掲載されていない。1995年・1997年・1998年の映画館名簿では「海遊館ホール名画劇場」。1998年の映画館名簿では鉄筋造2階、268席、経営会社が大阪ウォーターフロント開発株式会社、経営者が三宅理之、支配人が新山容子、洋画を上映。1999年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅は大阪メトロ中央線大阪港駅。海遊館にはイベントホールの海遊館ホールが現存。

大阪府と兵庫県にまたがる大阪湾岸に相次いで映画館が開館している。1991年5月、大阪市の天保山に名画座の「海遊館ホール」が開館した。1994年時点で観客の約9割は若者だという。1994年4月には、神戸市東灘区の六甲アイランドにドライブインシアター「MOVIX六甲アイランド」が開館した。200台収容の駐車場があり、週末の午後7時過ぎにはほぼ満杯となる。神戸ナンバーが約5割であり、大阪ナンバー・なにわナンバー・和泉ナンバーが計3割である。1994年4月末には、神戸市灘区のマヤ・エスポートにも2スクリーンを持つドライブインシアターが開館している。*170

大正区

相生座
所在地 : 大阪府大阪市大正区大正通3-96(1958年)、大阪府大阪市大正区大正通3-89(1960年・1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「相生座」。1963年の住宅地図では「相生座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ほくとクリニック病院」。最寄駅はJR大阪環状線・大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線大正駅。
泉尾劇場
所在地 : 大阪府大阪市大正区(1953年・1950年)、大阪府大阪市大正区大正通9-6(1955年・1960年・1963年)、大阪府大阪市大正区大正通9-28(1966年)
開館年 : 1950年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1950年・1953年・1955年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「泉尾劇場」。1963年の住宅地図では「泉尾劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は大阪府道173号(大正通)「泉尾」交差点80mの2017年竣工のマンション「プレサンスロジェ大正SQUARE」。最寄駅はJR大阪環状線・大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線大正駅。

1958年頃の大阪市大正区泉尾にあった「泉尾劇場」の写真あり。新東宝の『関八州喧嘩陣』、東宝の『女殺し油地獄』などのポスターが見える。昭和30年代中期の泉尾商店街には、泉尾劇場のほかに「泉尾大映」、「泉尾東映」、「泉尾松竹」などの映画館もあった。*171
鶴町映画劇場/鶴町映劇
所在地 : 大阪府大阪市大正区鶴町2-50(1963年・1969年)
開館年 : 1960年以後1963年以前
閉館年 : 1969年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「鶴町映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の住宅地図では「鶴町映劇」。1969年の映画館名簿では「鶴町映劇」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「にしむらケアセンター鶴町」。特定の最寄駅は存在しない。
恩加島映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市大正区南恩加島50(1960年)、大阪府大阪市大正区南恩加島町1-50(1963年)、大阪府大阪市大正区南恩加島町50(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「恩加島映画劇場」。1963年の住宅地図では「恩加島劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はスナック「びばり」など。特定の最寄駅は存在しない。
泉尾松竹/泉尾永楽映劇
所在地 : 大阪府大阪市大正区泉尾中通3(1960年)、大阪府大阪市大正区泉尾中通3-2(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「泉尾松竹」。1963年の住宅地図では「泉尾松竹」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「泉尾永楽映劇」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はドラッグストア「マツモトキヨシ泉尾店」。最寄駅はJR大阪環状線・大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線大正駅。
港南劇場/日活港南劇場/大運橋港南日活
所在地 : 大阪府大阪市大正区南恩加島町1-54(1955年)、大阪府大阪市大正区南恩加島1-54(1960年)、大阪府大阪市大正区南恩加島町1-54(1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1953年以後1955年以前
閉館年 : 1973年頃
1955年・1960年の映画館名簿では「港南劇場」。1963年の映画館名簿では「日活港南劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「大運橋港南日活」。1967年の住宅地図では「大運橋日活港南劇場」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は大阪府道173号(大正通)「南恩加島小学校前」交差点80m西の駐車場と6軒分の戸建て住宅地。特定の最寄駅は存在しない。
大運橋映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市大正区(1955年)、大阪府大阪市大正区南恩加島1-16(1960年)、大阪府大阪市大正区南恩加島町1-16(1963年)、大阪府大阪市大正区南恩加島町1-61(1966年・1969年)、大阪府大阪市大正区南恩加島町1-16(1973年・1975年・1976年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1976年頃
1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年の映画館名簿では「大運橋映画劇場」。1967年の住宅地図では「大運橋東映」。1977年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は大阪府道173号(大正通)「南恩加島小学校前」交差点100m南西の6軒分の戸建て住宅地。特定の最寄駅は存在しない。
泉尾大映/泉尾日活
所在地 : 大阪府大阪市大正区泉尾中通2-17(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1973年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「泉尾大映」。1963年の住宅地図では「泉尾日活」。1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「泉尾日活」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「エンゼルマンション」西の駐車場と4軒分の民家。最寄駅はJR大阪環状線・大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線大正駅。
新永楽館/泉尾東映
所在地 : 大阪府大阪市大正区(1953年)、大阪府大阪市大正区泉尾中通2-31(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1974年・1975年・1978年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1978年頃
1953年・1955年の映画館名簿では「新永楽館」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1974年・1975年・1978年の映画館名簿では「泉尾東映」。1963年の住宅地図では「泉尾東映」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1979年竣工のマンション「サンコー第8ハイツ」。最寄駅はJR大阪環状線・大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線大正駅。
三泉劇場/三泉映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市大正区北泉尾1-157-1(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年)、大阪府大阪市大正区三軒屋西3-6-14(1980年・1981年)
開館年 : 1952年11月22日
閉館年 : 1981年頃
1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「三泉劇場」。1963年の住宅地図では「三泉劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1981年の映画館名簿では「三泉映画劇場」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「メゾンドーム三軒屋」。最寄駅はJR大阪環状線・大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線大正駅。

1952年11月22日、大阪市大正区北泉尾1-157に「三泉劇場」が開館した。オープニングは『鞍馬天狗一騎打ち』と『娘初恋ヤットン節』。経営者は松本進。定員368人。*172
恩加島市場劇場
所在地 : 大阪府大阪市大正区南恩加島98(1960年・1963年)、大阪府大阪市大正区南恩加島町98(1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市大正区南恩加島2-5-2(1980年・1982年・1984年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1984年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1982年・1984年の映画館名簿では「恩加島市場劇場」。1963年の住宅地図では「恩加島市場劇場」。1982年の映画館名簿では経営会社が恩加島興業、経営者・支配人が岡村進、鉄筋1階、250席、にっかつ・成人映画を上映。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ニッコー大正店」。大正区最後の映画館。特定の最寄駅は存在しない。

住之江区

旭映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市住吉区(1950年)、大阪府大阪市住吉区粉浜本町2-44-1(1953年・1955年)、大阪府大阪市住吉区粉浜本町2-44(1960年)
開館年 : 1935年1月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1950年・1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「旭映画劇場」。1959年の住宅地図では「旭劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ラバンジール粉浜」。最寄駅は南海電鉄南海本線粉浜駅。
住吉大劇
所在地 : 大阪府大阪市住吉区東加賀屋町(1960年)、大阪府大阪市住吉区加賀屋町4-164(1963年・1966年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「住吉大劇」。1965年の住宅地図では「住吉大劇」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「えびす保育園」南50mの民家数軒。最寄駅は南海電鉄南海本線住吉大社駅。
住吉劇場
所在地 : 大阪府大阪市住吉区浜口町414(1955年)、大阪府大阪市住吉区東加賀屋町(1960年)、大阪府大阪市住吉区東加賀屋町4-85(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1954年1月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1954年1月開館。1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「住吉劇場」。1965年の住宅地図では「住吉劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はドラッグストア「ウェルシア住之江東加賀谷店」。最寄駅は南海電鉄南海本線住吉大社駅。
加賀屋松竹/加賀屋劇場
所在地 : 大阪府大阪市住吉区中加賀屋町3-7(1958年)、大阪府大阪市住吉区中加賀屋町(1960年)、大阪府大阪市住吉区中加賀屋町3-6(1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市住吉区中加賀屋町3-1-1(1975年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1975年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「加賀屋劇場」。1960年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「加賀屋松竹」。1965年の住宅地図では「加賀屋劇場」。1975年の映画館名簿では「加賀屋劇場」。1976年・1978年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「シグマ加賀屋」。最寄駅は大阪メトロ四つ橋線北加賀屋駅。
加賀屋館/加賀屋東映/加賀屋東映劇場
所在地 : 大阪府大阪市住吉区西加賀屋町2-25(1955年)、大阪府大阪市住吉区西加賀屋町(1960年)、大阪府大阪市住吉区西加賀屋町2-25(1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市住之江区西加賀屋町2-4-9(1975年・1977年)
開館年 : 1953年10月
閉館年 : 1977年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年10月開館。1955年の映画館名簿では「加賀屋館」。1960年・1963年の映画館名簿では「加賀屋東映」。1965年・1969年の住宅地図では「加賀屋東映」。1966年・1969年・1973年・1975年・1977年の映画館名簿では「加賀屋東映劇場」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「株式会社キヌガワ」。最寄駅は大阪メトロ四つ橋線北加賀屋駅。

大阪市南部

西成区

長橋劇場/西成東洋劇場
所在地 : 大阪府大阪市西成区長橋通8-13(1958年・1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「長橋劇場」。1960年の住宅地図では「長橋劇場」。1963年の映画館名簿では「西成東洋劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は集合住宅「ハーモニービレッジ」など。最寄駅は南海高野線津守駅。
津守第一映画劇場/鶴見第一映劇
所在地 : 大阪府大阪市西成区津守町東4-100(1955年)、大阪府大阪市西成区津守東4-10(1960年)
開館年 : 1953年以後1955年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿では「津守第一映画劇場」。1960年の映画館名簿では「鶴見第一映劇」。1960年の住宅地図では「第一映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「中津守公園」北80mの「東海モータープール」。最寄駅は南海高野線津守駅。
天下茶屋映画劇場/天下茶屋東映劇場
所在地 : 大阪府大阪市西成区柳通2-16(1955年・1960年・1963年)
開館年 : 1953年以後1955年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「天下茶屋映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「天下茶屋東映劇場」。1962年の住宅地図では「天下茶屋東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三井住友銀行天下茶屋支店」北の「メゾン丸菱ネクスト」。最寄駅は南海本線・大阪メトロ堺筋線天下茶屋駅。
西成中央劇場
所在地 : 大阪府大阪市西成区梅南通1-21(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「西成中央劇場」。1964年の住宅地図では「西成中央劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「思温病院」建物北部。最寄駅は大阪メトロ四ツ橋線花園町駅。
新開映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市西成区新開通3-17(1960年)、大阪府大阪市西成区新開通3-19(1963年)、大阪府大阪市西成区新開通3-17(1966年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「新開映画劇場」。1962年の住宅地図では「新開映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大阪シティ信用金庫岸の里支店」。最寄駅は大阪メトロ四ツ橋線岸里駅または南海高野線西天下茶屋駅。
花園松竹
所在地 : 大阪府大阪市西成区(1950年・1953年)、大阪府大阪市西成区梅南通1-13(1955年・1960年)、大阪府大阪市西成区梅南通13(1966年)
開館年 : 1950年以前
閉館年 : 1965年9月
1950年・1953年・1955年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「花園松竹」。1962年の住宅地図では「花園松竹」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は中華料理店「愛花園」など。花園本通り商店街沿い。最寄駅は大阪メトロ四ツ橋線花園町駅。

1965年9月、松竹直営館「花園松竹」が廃館となった。*173
トビタ大映
所在地 : 大阪府大阪市西成区山王町4-22(1958年・1960年)、大阪府大阪市西成区山王町4-32(1963年)、大阪府大阪市西成区山王町4-22(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「トビタ大映」。1969年の住宅地図では「飛田大映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は有料駐車場「パラカ飛田新地第1」やたこ焼き店「あっちち本舗飛田新地本店」やガレージ。最寄駅は阪堺電軌阪堺線今船駅。
鶴見日活/鶴見日活館
所在地 : 大阪府大阪市西成区鶴見橋通3-2(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1928年11月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1928年11月開館。1955年の映画館名簿では「鶴見日活」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「鶴見日活館」。1969年の住宅地図では「鶴見日活館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「第2酒井モータープール」。最寄駅は大阪メトロ四ツ橋線花園町駅。
東洋シネマ/トビタ東洋シネマ
所在地 : 大阪府大阪市西成区山王町4-14(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1970年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「東洋シネマ」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「トビタ東洋シネマ」。1969年の住宅地図では「東洋シネマ」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「エムテック山王」西。最寄駅は阪堺電軌阪堺線今船駅。
萩之茶屋東宝/萩之茶屋銀映
所在地 : 大阪府大阪市西成区西四条1-9(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1951年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年開館。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「萩之茶屋銀映」。1966年の映画館名簿では「荻野茶屋東宝」。1969年・1970年の映画館名簿では「萩之茶屋銀映」。1969年の住宅地図では「萩之茶屋東宝銀映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「Luxe花園」。最寄駅は南海高野線萩ノ茶屋駅。
玉出東宝映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市西成区玉出本通2-46(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1943年4月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1943年4月開館。1950年・1953年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「玉出東宝映画劇場」。1969年の住宅地図では「玉出東宝映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパン屋「ベーカリーK」などが入るビル「玉出プラザ」。アーケードの玉出本通商店街沿い。最寄駅は大阪メトロ四つ橋線玉出駅または南海本線岸里玉出駅。

1951年の西成区にあった映画館「玉出東宝映画劇場」の写真あり。庶民の娯楽と言えば映画だったが、1955年頃からテレビ局が開局され手放送を開始し、テレビの普及に従って映画館は姿を消していった。*174
鶴見大映/鶴見大映・鶴見グランド
所在地 : 大阪府大阪市西成区旭北通5丁目(1958年)、大阪府大阪市西成区旭北通5-1(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1973年頃
Wikipedia : 鈴成座
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「鶴見大映」。1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「鶴見大映・鶴見グランド」(2館)。1969年の住宅地図では「鶴見大映」と「鶴見グランド」が別々の建物として描かれている。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は大衆演劇場「鈴成座」。映画館時代の建物が現存。最寄駅は大阪メトロ四ツ橋線花園町駅。
OP映画劇場/OP劇場/岸の里映劇
所在地 : 大阪府大阪市西成区新開通2-4(1960年・1963年)、大阪府大阪市西成区新開通2(1973年・1974年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1974年頃
1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「OP映画劇場」。1963年の映画館名簿では「OP劇場」。1964年の住宅地図では「OP劇場」。1966年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では「新OP劇場」。1973年・1974年の映画館名簿では「岸の里映劇」。1973年の住宅地図では「岸ノ里映劇」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。1977年の住宅地図では跡地に「服サンリバ」。跡地は「OPビル」。最寄駅は大阪メトロ四ツ橋線岸里駅。
トビタ映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市西成区山王町4-35(1955年)、大阪府大阪市西成区山王町4-34(1960年)、大阪府大阪市西成区山王町4-35(1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市西成区山王町3-15-23(1975年・1978年・1979年)
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1979年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1979年の映画館名簿では「トビタ映画劇場」。1969年・1977年の住宅地図では「トビタ映劇」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「天下茶屋東1丁目児童公園」北西60m。最寄駅は阪堺電軌阪堺線今船駅。
梅南映画劇場・西成パール劇場/梅南映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市西成区梅通3-8(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市西成区梅南通1-6-16(1975年・1976年)
開館年 : 1954年1月
閉館年 : 1976年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年1月開館。1955年の映画館名簿では「梅南映画劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「梅南映画劇場・西成パール劇場」(2館)。1964年の住宅地図では「梅南劇場」。1973年・1975年・1976年の映画館名簿では「梅南映画劇場」。1977年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「梅南マンション」。最寄駅は大阪メトロ四ツ橋線花園町駅。
西成映画劇場/西成東映/西成東映劇場
所在地 : 大阪府大阪市西成区鶴見橋通6-4(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市西成区鶴見橋通3-1-18(1975年・1976年)
開館年 : 1950年4月
閉館年 : 1976年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年4月開館。1960年・1963年の映画館名簿では「西成東映」。1966年・1969年・1973年・1975年・1976年の映画館名簿では「西成東映劇場」。1969年の住宅地図では「西成東映」。1977年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「鶴見橋公園」北西すぐ。最寄駅は南海高野線津守駅。
トビタOS劇場
所在地 : 大阪府大阪市西成区山王町3-11(1973年)、大阪府大阪市西成区山王町2-14-20(1980年)
開館年 : 1970年以後1973年以前
閉館年 : 1983年以後1986年以前
1970年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1980年の映画館名簿では「トビタOS劇場」。1977年の住宅地図では「トビタOS劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は大衆演劇場「オーエス劇場」。映画館の建物が現存。最寄駅は大阪メトロ御堂筋線・堺筋線動物園前駅または阪堺電軌阪堺線今池駅。
飛田東映・トビタ第一シネマ/トビタ東映・トビタ第一シネマ/飛田東映劇場・トビタシネマ/トビタ東映劇場・トビタシネマ/飛田東映・トビタシネマ
所在地 : 大阪府大阪市西成区山王町3-13(1958年)、大阪府大阪市西成区山王町(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市西成区山王町2-14-1(1980年)、大阪府大阪市西成区山王2-14-1(1985年・1990年)、大阪府大阪市西成区山王2-14-3(2000年・2005年・2010年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 2015年3月31日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「飛田東映・トビタ第一シネマ」(2館)。1960年・1963年の映画館名簿では「トビタ東映・トビタ第一シネマ」(2館)。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「飛田東映劇場・トビタシネマ」(2館)。1977年の住宅地図では「飛田東映」と「第一トビタシネマ」で建物が別々に描かれている。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「トビタ東映劇場・トビタシネマ」(2館)。1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「飛田東映・トビタシネマ」(2館)。2015年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1995年竣工のマンション「G・HOUSE」。マンションの1階部分に映画館があった。

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1987年11月号には「第11回 飛田東映」が掲載されている。*175

「飛田東映・トビタシネマ」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*176

阿倍野区

昭和映画劇場/文の里昭和映劇
所在地 : 大阪府大阪市阿倍野区昭和町西1-23(1955年・1960年)
開館年 : 1952年12月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「昭和映画劇場」。1960年の映画館名簿では「文の里昭和映劇」。1960年の住宅地図では「昭和映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は焼肉店「ちえちゃん」などが入るビル「ぷく」。最寄駅は大阪メトロ御堂筋線昭和町駅。
文の里映画劇場/文の里大映
所在地 : 大阪府大阪市阿倍野区(1953年)、大阪府大阪市阿倍野区昭和町西1-22(1953年)、大阪府大阪市阿倍野区昭和町西1-23(1960年)
開館年 : 1946年12月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「文の里映画劇場」。1960年の映画館名簿では「文の里大映」。1960年の住宅地図では「文の里映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はスーパー「ライフ昭和町駅前店」北の居酒屋「五源大喜」など。最寄駅は大阪メトロ御堂筋線昭和町駅。
あべの東映
所在地 : 大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1(1960年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「あべの東映」。1962年の住宅地図では「阿倍野ビル アベノ東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「馬渕教室天王寺本部校」がある「岸本ビル」建物北西部。最寄駅は近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅。
メトロ劇場/西田辺東映
所在地 : 大阪府大阪市阿倍野区昭和町4-3-1(1955年・1960年・1963年)
開館年 : 1952年12月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「メトロ劇場」。1958年・1962年の住宅地図では「西田辺東映」。1960年・1963年の映画館名簿では「西田辺東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「トヨタカローラ南海阿倍野店」。最寄駅はJR阪和線南田辺駅または大阪メトロ御堂筋線西田辺駅。
阪南東映/阪南東宝/阪南東宝劇場
所在地 : 大阪府大阪市阿倍野区播磨町西1-43(1958年)、大阪府大阪市阿倍野区播磨町1-43(1960年・1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「阪南東映」。1960年の映画館名簿では「阪南東宝」。1962年の住宅地図では「阪南東宝」。1963年の映画館名簿では「阪南東宝劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「エクセルコート帝塚山」。最寄駅は大阪メトロ御堂筋線西田辺駅。
近映座
所在地 : 大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-78(1955年)、大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1(1960年)、大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-78(1963年)
開館年 : 1954年8月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1954年8月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「近映座」。1960年の住宅地図では「近映座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ホテルトラスティ」と「アベノセンタービル」の間付近。最寄駅は近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅。
南田辺東宝劇場
所在地 : 大阪府大阪市阿倍野区(1950年)、大阪府大阪市阿倍野区桃ヶ池町2-14(1955年・1960年・1966年・1969年)
開館年 : 1952年5月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年5月開館。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「南田辺東宝劇場」。1960年の住宅地図では「南田辺東宝映画館」。1962年の住宅地図では「西田辺東宝」(※南田辺ではなく西田辺)。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「エル・プラト事業部」。最寄駅はJR阪和線南田辺駅。
アポロ座/アポロ座・阿倍野劇場/アポロ座・阿倍野セントラル・あべの劇場・阿倍野シネマ
所在地 : 大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1(1960年)、大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-70(1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1950年12月
閉館年 : 1970年
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月開館。1953年の映画館名簿では「アポロ座」。1955年の映画館名簿では「アポロ座・阿倍野劇場」(2館)。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「アポロ座・あべの劇場・阿倍野シネマ・阿倍野セントラル」(4館)。跡地は「きんえいアポロビル」。最寄駅は近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅。

1951年の阿倍野区阿倍野筋にあった「アポロ座」の写真あり。1950年に村野藤吾設計で開館した。外壁には東郷青児の壁画が飾られていた。1957年には「阿倍野セントラル」と「あべの劇場」を併設したアポロ会館となった。1972年には「近映レジャービル アポロ」となった。*177
美章園劇場
所在地 : 大阪府大阪市阿倍野区美章園2-54(1958年・1960年・1963年)、大阪府大阪市阿倍野区美章園2-19(1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1973年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「美章園劇場」。1971年の住宅地図では「美章園劇場」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はスーパー「サンコー美章園店」東のマンション「グランアッシュ阿倍野美章園」。最寄駅はJR阪和線美章園駅。
阪南松竹
所在地 : 大阪府大阪市阿倍野区(1950年・1953年)、大阪府大阪市阿倍野区王子町1-9(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年)、大阪府大阪市阿倍野区王子町1-5-7(1973年・1975年)
開館年 : 1948年3月
閉館年 : 1975年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年3月開館。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「阪南松竹」。1971年の住宅地図では「阪南松竹劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ファミリーマート阿倍野王子町店」東40m。最寄駅は阪堺電軌上町線松虫駅。

1959年6月、「阪南松竹」が閉鎖された。*178
近畿劇場・近畿地下劇場/近畿大劇場・近畿地下劇場/阿倍野近映大劇場・阿倍野近畿地下劇場/近映大劇場・近畿地下劇場
所在地 : 大阪府大阪市阿倍野区(1950年・1953年)、大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1-52(1980年)
開館年 : 1939年1月、1954年11月
閉館年 : 1981年
『全国映画館総覧 1955』によると1939年1月開館。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「近畿劇場・近畿地下劇場」(2館)。1960年の映画館名簿では「近畿大劇場・近畿地下劇場」(2館)。1960年の住宅地図では「近映大劇場 近畿劇場 近畿地下劇場」。1963年の映画館名簿では「近映大劇場・近畿地下劇場」(2館)。1966年の映画館名簿では阿倍野筋1-1の「阿倍野近映大劇場」と松崎町3-15-3の「阿倍野近畿地下劇場」。1969年の映画館名簿では阿倍野筋1-1の「近映大劇場」と松崎町3-15-3の「近畿地下劇場」。1973年・1980年の映画館名簿では「近映大劇場・近畿地下劇場」(2館)。1983年の住宅地図では「近映会館」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は近鉄百貨店「あべのハルカス近鉄本店」。最寄駅は近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅。
近鉄スタジオ100
所在地 : 大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1-43(1992年・1993年・1994年)
開館年 : 1991年頃
閉館年 : 1994年頃
1991年の映画館名簿には掲載されていない。1992年・1993年・1994年の映画館名簿では「近鉄スタジオ100」。1994年の映画館名簿では経営会社が近鉄百貨店、鉄筋造8階、90席、邦画・洋画・特選を上映。1995年の映画館名簿には掲載されていない。近鉄百貨店8階。最寄駅は近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅。
あべの文化劇場
所在地 : 大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-45(1969年・1973年)、大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-3-15(1975年)、大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-45(1978年)、大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-3-15(1980年・1985年・1990年・1995年)
開館年 : 1967年
閉館年 : 1998年1月
1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「あべの文化劇場」。1979年の住宅地図では「阿倍野共同ビル 地下2階あべの文化劇場」。2000年の映画館名簿には掲載されていない。阿倍野共同ビル。跡地に映画館の建物が現存。最寄駅は近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅。
あべの名画座/アポロシネマ8プラス1
所在地 : 大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-86(1958年)、大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1(1960年)、大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-86(1963年・1966年・1969年)、大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-7-47(1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1955年以後1958年以前(あべの名画座)、1998年12月(アポロシネマ8プラス1)
閉館年 : 2007年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「あべの名画座」。1990年の住宅地図では「新名画ビル 地下1階あべの名画座」。2000年・2005年の映画館名簿では「アポロシネマ8プラス1」。2007年再開発事業により閉館。跡地は「あべのキューズモール」と「ホテルトラスティ大阪阿倍野」の間の道路用地など。
アポログリーン・アポロローズ/アポロシネマ8/あべのアポロシネマ8
所在地 : 大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-5-31(1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年)、大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-5-1(2010年・2015年・2020年)、大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-5-1 アポロビル4階(現在)
開館年 : 1972年7月、1998年12月(シネコン)
閉館年 : 営業中
1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「アポログリーン・アポロローズ」(2館)。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「アポロシネマ8 1-8」(8館)。2013年改称。2015年・2020年の映画館名簿では「あべのアポロシネマ1-8」(8館)。2020年の映画館名簿では経営会社が株式会社きんえい、経営者が田中耕造、支配人が日下晋太郎。1と2はアポロビル4階、3から8はルシアスビル4階。最寄駅は近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅。

重政隆文「おおさか映画館主義」『月刊せんば/月刊SEMBA』1987年6月号には「第6回 アポログリーン」が掲載されている。*179
あべのアポロシネマプラスワン
所在地 : 大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-5-1(2020年)
開館年 : 2017年3月9日
閉館年 : 営業中
2015年の映画館名簿には掲載されていない。2020年の映画館名簿では「あべのアポロシネマプラスワン」。2020年の映画館名簿では経営会社が株式会社きんえい、経営者が田中耕造、支配人が日下晋太郎、42席。ルシアスビル4階。最寄駅は近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅。

住吉区

万代劇場
所在地 : 大阪府大阪市住吉区万代西6-19(1960年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1960年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「万代劇場」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。1961年の住宅地図では発見できず。
世界シネマ
所在地 : 大阪府大阪市住吉区長狭町47(1958年・1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「世界シネマ」。1959年の住宅地図では「世界シネマ」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の住宅地図では跡地に「大阪府西成府税事務所」。跡地は「住吉公園パインクレスト」。最寄駅は南海電鉄南海本線住吉大社駅または阪堺電気軌道阪堺線住吉鳥居前駅。
あびこ第一劇場
所在地 : 大阪府大阪市住吉区我孫子町西3-35(1958年)、大阪府大阪市住吉区我孫子町3-35(1960年)、大阪府大阪市住吉区我孫子町西3-35(1962年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「あびこ第一劇場」。1961年の住宅地図では「第一劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ロイヤルあびこ」。
墨江映画劇場/すみえ松竹/墨江シネマ
所在地 : 大阪府大阪市住吉区墨江西3-33(1955年・1957年)、大阪府大阪市住吉区墨江西3-26(1959年・1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1953年2月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年2月開館。1955年・1957年・1959年の映画館名簿では「墨江映画劇場」。1957年の映画館名簿では経営者が水野繁三郎、支配人が北条信治、木造平屋建、300席、邦画・洋画を上映。1959年の映画館名簿では経営者が中田照雄、支配人が西信繁夫、木造平屋建、300席、松竹を上映。1960年の映画館名簿では「すみえ松竹」。1961年・1962年の映画館名簿では「墨江シネマ」。1961年の住宅地図では「墨江シネマ」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ルアン清水丘」西50mにある民家数軒。最寄駅は阪堺電気軌道阪堺線安立町駅。
住吉東映
所在地 : 大阪府大阪市住吉区粉浜東之町5-84(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「住吉東映」。1959年の住宅地図では「住吉東映」。1965年の住宅地図では跡地に空地。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「越宗整形外科病院」建物西側。最寄駅は南海電鉄南海本線住吉大社駅または粉浜駅。
沢之東宝
所在地 : 大阪府大阪市住吉区墨江東5-54(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1964年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「沢之東宝」。1961年の住宅地図では「沢之東宝」。1964年の住宅地図では跡地に「大阪銀行住吉支店」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「近畿大阪銀行住吉支店」。最寄駅は南海電鉄高野線沢ノ町駅または我孫子前駅。
あびこ劇場/あびこ松竹
所在地 : 大阪府大阪市住吉区墨江西6-60(1953年・1955年・1960年・1963年)
開館年 : 1951年10月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年10月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「あびこ劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「あびこ松竹」。1964年の住宅地図では「あびこ松竹」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は居酒屋「逸温」がある「第一オクダマンション」南のアパート2棟。最寄駅は阪堺電気軌道阪堺線我孫子道駅。
近畿粉浜劇場/粉浜劇場
所在地 : 大阪府大阪市住吉区粉浜中之町2-58(1953年・1955年・1960年・1963年)、大阪府大阪市住吉区粉浜中之町57(1966年)
開館年 : 1947年11月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1947年11月開館。1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「近畿粉浜劇場」。1963年・1966年の映画館名簿では「粉浜劇場」。1965年の住宅地図では「粉浜劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図には跡地に「藤モータープール」。跡地は中華料理店「一五亭」北東40mのアパート。最寄駅は南海電鉄南海本線粉浜駅。
あびこ東映/あびこ映画劇場/あびこ映劇
所在地 : 大阪府大阪市住吉区墨江西6-51(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1976年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「あびこ東映」。1964年の住宅地図では「あびこ東映」。1966年の映画館名簿では「あびこ映画劇場」。1969年の住宅地図では「あびこ映劇」。1969年・1973年・1975年・1976年の映画館名簿では「あびこ映劇」。1977年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「シグマ」。最寄駅は阪堺電気軌道阪堺線我孫子道駅。
ピカデリー劇場/粉浜ピカデリー劇場
所在地 : 大阪府大阪市住吉区粉浜中之町4-518(1958年)、大阪府大阪市住吉区粉浜中之町4-51(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市住吉区粉浜3-6-10(1975年・1976年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1976年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「ピカデリー劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年・1976年の映画館名簿では「粉浜ピカデリー劇場」。1969年の住宅地図では「ピカデリ劇場」。1977年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅は南海電鉄南海本線住吉大社駅。

東住吉区

針中野センター劇場/針中野松竹
所在地 : 大阪府大阪市東住吉区駒川町8-48(1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「針中野センター劇場」。1960年の映画館名簿では「針中野松竹」。1962年の住宅地図には掲載されていないと思われる。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三菱UFJ銀行針中野支店」が入る「太田ビル」。最寄駅は近鉄南大阪線針中野駅。
矢田映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市東住吉区矢田富田町(1958年)、大阪府大阪市東住吉区矢田富田町195(1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「矢田映画劇場」。1960年の住宅地図では「矢田映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「のぞみ信用組合矢田支店」南南西60mにある「山藤電機商会」やその南の民家。銭湯「矢田温泉」すぐ北。最寄駅は近鉄南大阪線矢田駅。
田辺大映
所在地 : 大阪府大阪市東住吉区田辺本町5-55(1955年・1960年)
開館年 : 1953年1月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1953年1月開館。1955年・1960年の映画館名簿では「田辺大映」。1960年の住宅地図では「田辺大映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「フルーレゾン田辺本町」。最寄駅は大阪メトロ谷町線田辺駅またはJR阪和線南田辺駅または近鉄南大阪線今川駅。
バンビ劇場
所在地 : 大阪府大阪市東住吉区田辺本町5-70(1955年・1960年)
開館年 : 1952年12月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1955年・1960年の映画館名簿では「バンビ劇場」。1960年の住宅地図では「バンビー劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅地図では跡地に「スーパーいいだ」。跡地は「大阪シティ信用金庫南田辺支店」。最寄駅はJR阪和線南田辺駅。
北田辺劇場/北田辺映劇
所在地 : 大阪府大阪市東住吉区田辺東之町2-74(1955年・1960年)
開館年 : 1953年3月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1953年3月開館。1955年の映画館名簿では「北田辺劇場」。1960年の映画館名簿では「北田辺映劇」。1960年の住宅地図では「北田辺劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅地図では跡地に「スーパー大和百貨店」。跡地はマンション「シャルマンフジビルトモアー北田辺・並木通り」建物西側。最寄駅は近鉄南大阪線北田辺駅。
桑津東宝敷島劇場
所在地 : 大阪府大阪市東住吉区桑津町39(1955年)、大阪府大阪市東住吉区桑津町2-131(1960年・1963年)
開館年 : 1940年
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1940年開館。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「桑津東宝敷島劇場」。1960年の住宅地図では「敷島劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「オザワ工業」。最寄駅はJR大和路線東部市場前駅。
田辺松竹/田辺東映
所在地 : 大阪府大阪市東住吉区田辺本町4-20(1955年・1960年・1963年)
開館年 : 1952年
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年開館。1955年の映画館名簿では「田辺松竹」。1960年の住宅地図では「田辺松竹」。1960年・1963年の映画館名簿では「田辺東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅地図では跡地に「パチンコ第3会館」。跡地は「坂本マンション」。最寄駅は大阪メトロ谷町線田辺駅。
針中野映画劇場/針中野東映/針中野東映劇場
所在地 : 大阪府大阪市東住吉区鷹合町220-1(1955年・1960年)、大阪府大阪市東住吉区鷹合町1-1-2(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1952年9月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年9月開館。1955年の映画館名簿では「針中野映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「針中野東映」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「針中野東映劇場」。1968年の住宅地図では「針中野東映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「駒川エンビィハイツ」。最寄駅は近鉄南大阪線針中野駅。
田辺キネマ/田辺キネマ・田辺国際/田辺キネマ・田辺国際劇場
所在地 : 大阪府大阪市東住吉区駒川町6-17(1955年・1960年・1966年・1969年・1973年・1980年)、大阪府大阪市東住吉区駒川4-1-1(1990年・2000年・2010年)
開館年 : 1948年4月、1959年4月8日
閉館年 : 2012年3月31日
Wikipedia : タナベキネマ
『全国映画館総覧 1955』によると1948年4月開館。1955年の映画館名簿では「田辺キネマ」。1960年の住宅地図では「田辺キネマ劇場」。1960年の映画館名簿では「田辺キネマ・田辺国際」(2館)。1966年・1969年・1973年・1980年・1990年・2000年・2010年の映画館名簿では「田辺キネマ・田辺国際劇場」(2館)。1968年・1984年の住宅地図では「田辺キネマ・田辺国際劇場」。映画館の建物はパチンコ店「123」として現存。最寄駅は近鉄南大阪線駒川中野駅。

1958年11月26日、大阪市東住吉区駒川町の「田辺キネマ」が全焼した。原因は不明。*180

1959年4月8日、大阪市東住吉区に「田辺国際会館」が開館した。鉄筋造3階建て。1958年11月に焼失した「田辺キネマ」の後継館として建設され、定員704の邦画館「田辺キネマ」と定員540の洋画館「田辺国際劇場」がある。いずれも低料金の名画選択館。*181

大阪市東部

城東区

関目東映
所在地 : 大阪府大阪市城東区関目町3-6(1958年)、大阪府大阪市城東区関目3-6(1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「関目東映」。1962年の住宅地図では「関目東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2015年竣工のマンション「アーバンエース関目パル」。最寄駅は京阪本線関目駅・大阪メトロ今里筋線関目成育駅。
テアトル城映
所在地 : 大阪府大阪市城東区今福町中1-47(1963年・1966年)
開館年 : 1959年12月13日
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1962年・1964年の住宅地図では発見できず。1963年・1966年の映画館名簿では「テアトル城映」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。ドラッグストア「サンドラッグ城東店」として建物が現存。最寄駅は大阪メトロ今里筋線・長堀鶴見緑地線蒲生四丁目駅。

1959年12月13日、大阪市城東区蒲生4丁目に「テアトル城映」が開館した。東映・日活・松竹の下番線館。東大阪におけるモデル劇場である。。*182
スミレ日活/城東スミレ日活
所在地 : 大阪府大阪市城東区古市南通1-27(1958年・1960年・1963年)、大阪府大阪市城東区古市町南通1-27(1966年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「スミレ日活」。1962年の住宅地図では「スミレ日活映画館」。1966年の映画館名簿では「城東スミレ日活」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「TKE個別指導学院」が入るマンション「キャピタル野江」。最寄駅は京阪電鉄京阪本線野江駅。
城東東映
所在地 : 大阪府大阪市城東区今福中1-34(1960年)、大阪府大阪市城東区今福町中1-34(1963年)、大阪府大阪市城東区今福中1-34(1966年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「城東東映」。1964年の住宅地図では「城東東映」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「エステート城東1」北の住宅地。最寄駅は大阪メトロ今里筋線・長堀鶴見緑地線蒲生四丁目駅。
シギノ映画劇場/シギノ映劇
所在地 : 大阪府大阪市城東区鴫野町3-22(1955年)、大阪府大阪市城東区鴫野東町(1960年・1963年・1966年・1969年)、大阪府大阪市城東区鴫野東町4-5(1970年)
開館年 : 1954年1月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1954年1月開館。1955年の映画館名簿では「シギノ映画劇場」。1960年・1964年の住宅地図では「鴫野映劇」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「シギノ映劇」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「パチンコ&スロット パレットタウン」。最寄駅はJR・大阪メトロ鴫野駅。
旭東会館/旭東劇場
所在地 : 大阪府大阪市城東区野江東之町4-18(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1952年12月
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1955年の映画館名簿では「旭東会館」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「旭東劇場」。1968年の住宅地図では「野江旭東劇場」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。1974年の住宅地図では跡地に空地。跡地は「阪急オアシス高殿店」から都島通を挟んで南東向かいにある「森建物有限会社駐車場」。最寄駅は大阪メトロ谷町線野江内代駅。
シギノ大劇・シギノ東劇/シギノ大劇
所在地 : 大阪府大阪市城東区鴫野町東39-2(1955年)、大阪府大阪市城東区鴫野東町5-39-2(1960年・1963年・1966年・1969年)、大阪府大阪市城東区鴫野東町5-39(1973年)
開館年 : 1953年9月
閉館年 : 1976年4月末
『全国映画館総覧 1955』によると1953年9月開館。1955年の映画館名簿では「シギノ大劇」。1960年・1964年の住宅地図では「鴫野大劇」と「鴫野東劇」で建物がわかれている。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「シギノ大劇・シギノ東劇」(2館)。1974年の住宅地図では「シギノ大劇」。1976年の映画館名簿では「シギノ大劇」。1977年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「読売新聞鴫野YS」やその北側のビルなど。最寄駅はJR・大阪メトロ鴫野駅。

1976年4月の大阪市城東区にあった「シギノ大劇」の写真あり。『新仁義なき戦い 組長最後の日』の看板が見える。国鉄片町線鴫野駅の近くにあった。1976年4月末をもって閉館した。*183

シギノ大劇に言及している雑誌記事として、「われらの映画館 シギノ大劇」『キネマ旬報』1975年7月上旬号がある。*184

東成区

今里東宝映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市東成区大今里本町1-641(1955年・1958年)
開館年 : 1951年4月
閉館年 : 1958年以後1960年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年4月開館。1955年・1958年の映画館名簿では「今里東宝映画劇場」。1959年の住宅地図では「今里東宝」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「アンビエント今里駅前」や大阪府道702号大阪枚岡奈良線の歩道用地。最寄駅は大阪メトロ千日前線・今里筋線今里駅。
中本館
所在地 : 大阪府大阪市東成区北中本町1-104(1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「中本館」。1960年の住宅地図では「映画 中本館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「中本交番」北50mの建物。最寄駅は大阪メトロ千日前線・今里筋線今里駅。
今里ロマン座
所在地 : 大阪府大阪市東成区大今里本町1-46(1955年・1960年)
開館年 : 1952年12月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1955年・1960年の映画館名簿では「今里ロマン座」。1959年の住宅地図では「ロマン座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「シミズメガネ今里店」。最寄駅は大阪メトロ千日前線・今里筋線今里駅。
大東映画劇場/OK名画座
所在地 : 大阪府大阪市東成区深江中6-1(1955年・1960年)、大阪府大阪市東成区深江中通6-1(1963年)
開館年 : 1941年9月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1941年9月開館。1955年・1960年の映画館名簿では「大東映画劇場」。1960年の住宅地図では「大東劇場」。1963年の映画館名簿では「OK名画座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「BTRビューティアカデミー」やラーメン屋「辛麺屋桝元大阪本店」などが入る「たんぽぽ深江ビル」。最寄駅は大阪メトロ千日前線新深江駅。
新橋映画劇場/新橋映劇
所在地 : 大阪府大阪市東成区大今里南之町1-1532(1955年)、大阪府大阪市東成区大今里南之町1-91(1960年・1963年)
開館年 : 1950年8月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1950年8月開館。1955年・1960年の映画館名簿では「新橋映画劇場」。1959年の住宅地図では「新橋映劇」。1963年の映画館名簿では「新橋映劇」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「サンコート今里」と中華料理店「宝来亭」。最寄駅は大阪メトロ千日前線・今里筋線今里駅。
今里松竹/今里松竹劇場/東成東映/東成東宝
所在地 : 大阪府大阪市東成区大今里南之町636(1955年)、大阪府大阪市東成区大今里南之町1-24(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1947年10月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1947年10月開館。1955年の映画館名簿では「今里松竹」。1958年の映画館名簿では「今里松竹劇場」。1959年の住宅地図では「東成東映」。1960年の映画館名簿では「東成東映」。1963年の映画館名簿では「東成東宝」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1977年竣工のマンション「タウンハイツ今里」。最寄駅は大阪メトロ千日前線・今里筋線今里駅。
緑橋東映/緑橋東映劇場
所在地 : 大阪府大阪市東成区西今里町1-256(1958年)、大阪府大阪市東成区西今里1-256(1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1966年以後1967年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「緑橋東映」。1963年の住宅地図では「緑橋東映」。1966年の映画館名簿では「緑橋東映劇場」。1967年の住宅地図では「三菱銀行今里支店」駐車場。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2020年竣工のマンション「ローレルアイ緑橋」東の「三菱UFJ銀行今里支店緑橋出張所」とその南の建設用地。最寄駅は大阪メトロ中央線・今里筋線緑橋駅。
玉造日活
所在地 : 大阪府大阪市東成区黒門町209(1958年)、大阪府大阪市東成区黒門町209-4(1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「玉造日活」。1967年の住宅地図では「日活会館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1972年の住宅地図では跡地に「玉造日活ビルディング」。跡地は2016年竣工のマンション「パラファーレ玉造」。最寄駅はJR大阪環状線玉造駅。
末広館/末広松竹
所在地 : 大阪府大阪市東成区南中浜町4-2(1955年)、大阪府大阪市東成区南中浜町4-1(1960年)、大阪府大阪市東成区南中浜町4-2(1963年・1966年)
開館年 : 1930年5月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1930年5月開館。1955年の映画館名簿では「末広館」。1960・1963年の住宅地図では「映画末広松竹」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「末広松竹」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「グルメシティ近畿森之宮リビング館」。最寄駅は大阪メトロ中央線・今里筋線緑橋駅。
今里東映/今里劇場
所在地 : 大阪府大阪市東成区大今里南之町1-45(1955年・1960年・1963年)、大阪府大阪市東成区大今里南之町1945(1969年)
開館年 : 1954年8月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年8月開館。1955年の映画館名簿では「今里劇場」。1959年の住宅地図では「今里大映」。1960年の映画館名簿では「今里東映」。1963年の映画館名簿では「今里劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の住宅地図では「今里劇場」。1969年の住宅地図では「今里劇場」。1972年の住宅地図では跡地に「モータープール」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は有料駐車場「オリックスカーシェア今里駅西」。最寄駅は大阪メトロ千日前線・今里筋線今里駅。
神路東映/神路東宝
所在地 : 大阪府大阪市東成区大今里北之町5-79(1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1969年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「神路東映」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「神路東宝」。1967年の住宅地図では「神路東宝」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東成警察署新道橋交番」北北東40mの住宅地。平野川分水路沿い。最寄駅は大阪メトロ千日前線新深江駅。
グリーン劇場/緑バシグリーン/緑バシグリーン劇場
所在地 : 大阪府大阪市東成区西今里町1-238(1955年・1960年)、大阪府大阪市東成区西今里1-238(1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1954年6月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年6月開館。1955年・1960年の映画館名簿では「グリーン劇場」。1963年の映画館名簿では「緑バシグリーン」。1963年の住宅地図では「グリーン劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「緑バシグリーン劇場」。1967年の住宅地図では「緑橋グリーン劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1975年竣工のマンション「岩本コーポ」。最寄駅は大阪メトロ中央線・今里筋線緑橋駅。
松栄映画劇場/今里松栄映画劇場/今里松栄劇場
所在地 : 大阪府大阪市東成区大今里北之町2-511(1955年・1960年・1963年)、大阪府大阪市東成区大今里北之町2-1(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1945年10月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1945年10月開館。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「松栄映画劇場」。1966年の映画館名簿では「今里松栄映画劇場」。1967年の住宅地図では「松栄映画劇場」。1969年・1970年の映画館名簿では「今里松栄劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ラフィーネ今里」。最寄駅は大阪メトロ千日前線・今里筋線今里駅。
二葉館/今里二葉館
所在地 : 大阪府大阪市東成区大今里南之町71(1960年・1963年)、大阪府大阪市東成区大今里南之町1-7(1966年)、大阪府大阪市東成区大今里南之町1-71(1969年・1970年)
開館年 : 1949年12月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1949年12月開館。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「二葉館」。1959年の住宅地図では「映画フタバ館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「今里二葉館」。1967年の住宅地図では「フタバ映画館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ヴィラタナカ」西の食料雑貨店「まつなが食品」。最寄駅は大阪メトロ千日前線・今里筋線今里駅。
深映座/フカエ座
所在地 : 大阪府大阪市東成区深江東5-15(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市東成区深江南3-16-28(1980年)
開館年 : 1954年6月
閉館年 : 1980年
『全国映画館総覧 1955』によると1954年6月開館。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「深映座」。1960年・1967年の住宅地図では「深映座」。1970年・1972年の住宅地図では「大阪実業株式会社」であり深映座の運営会社と思われる。1966年・1969年・1973年・1980年の映画館名簿では「フカエ座」。1978年・1981年の住宅地図では「映画館深映座」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ビューティサロン亜杏」や「香川接骨院」が入るビル。「法明寺」南。最寄駅は大阪メトロ千日前線新深江駅。東成区最後の映画館。

生野区

2016年に刊行された河内の郷土文化サークルセンターによる雑誌『あしたづ』18号には、「生野区は映画館の町だった」という論考が掲載されている。現物は未確認。*185
今里新地東映
所在地 : 大阪府大阪市生野区新今里町3-35(1960年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「今里新地東映」。1960年の住宅地図には掲載されていないと思われる。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
生野映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市生野区林寺町1-47(1955年)、大阪府大阪市生野区林寺町1-86(1958年)、大阪府大阪市生野区林寺町2-86(1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1949年9月
閉館年 : 1961年11月20日
『全国映画館総覧 1955』によると1949年9月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「生野映画劇場」。1961年の住宅地図には掲載されていないと思われ、林寺町2-86には数軒の民家がある。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

1961年11月20日、大阪市生野区林寺町1-58の「生野映劇」が全焼した。原因は不明。*186
大友映劇
所在地 : 大阪府大阪市生野区大友町1-9(1960年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「大友映劇」。1960年の住宅地図では「映画館大友会館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「生野小路郵便局」南東の住宅数軒。最寄駅は大阪メトロ千日前線小路駅。
昭和館
所在地 : 大阪府大阪市生野区猪飼野中2-49(1955年・1960年)
開館年 : 1930年4月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1930年4月開館。1950年・1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「昭和館」。1960年の住宅地図では「昭和館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は有料駐車場「タイムズ御幸橋第5」。平野川沿い。最寄駅はJR大阪環状線・近鉄大阪線鶴橋駅。
鶴橋映画劇場
所在地 : 大阪府大阪市生野区鶴橋北ノ町2-137(1955年・1960年)
開館年 : 1938年
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1938年開館。1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「鶴橋映画劇場」。1960年の住宅地図では「鶴橋映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「多民族共生人権教育センター」。最寄駅はJR大阪環状線・近鉄大阪線鶴橋駅。
鶴橋シネマ
所在地 : 大阪府大阪市生野区鶴橋北之町1-137(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「鶴橋シネマ」。1960年の住宅地図では発見できず。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
スター映劇
所在地 : 大阪府大阪市生野区中川町4-86(1960年・1963年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の住宅地図では「スター映劇」。1960年・1963年の映画館名簿では「スター映劇」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「レトワール小路」。最寄駅は大阪メトロ千日前線小路駅。
ミナミ東映
所在地 : 大阪府大阪市生野区大瀬3-38(1960年・1963年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の住宅地図では「ミナミ東映」。1960年・1963年の映画館名簿では「ミナミ東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「グランディール布施」北にある有料駐車場「SEIWA」。最寄駅は大阪メトロ千日前線小路駅または近鉄大阪線・近鉄奈良線布施駅。
有楽座/生野東映
所在地 : 大阪府大阪市生野区林寺町2-81(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「有楽座」。1960年・1963年の映画館名簿では「生野東映」。1961年の住宅地図では「生野東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はスーパーマーケット「万代田島店」。最寄駅はJR大和路線東部市場前駅。
桃谷東宝
所在地 : 大阪府大阪市生野区東桃谷町4-154(1960年・1963年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の住宅地図では「桃谷東宝」。1960年・1963年の映画館名簿では「桃谷東宝」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は介護老人保健施設「すこやか生野」。最寄駅はJR大阪環状線桃谷駅。
桃谷第一映画劇場/桃谷東映
所在地 : 大阪府大阪市生野区東桃谷町3-176(1955年・1960年・1963年)
開館年 : 1952年4月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年4月開館。1955年の映画館名簿では「桃谷第一映画劇場」。1960年の住宅地図では「桃谷東映」。1960年・1963年の映画館名簿では「桃谷東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「インペリアル光南」西の月極駐車場「光南モータープール」。最寄駅はJR大阪環状線桃谷駅。
桃谷銀映
所在地 : 大阪府大阪市生野区東桃谷町1-94(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「桃谷銀映」。1960年の住宅地図では「桃谷銀映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は銭湯「極楽温泉」東30mの民家。「弘陽薬品株式会社」西。最寄駅はJR大阪環状線桃谷駅。
生野大劇
所在地 : 大阪府大阪市生野区南生野町(1960年・1963年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「生野大劇」。1961年の住宅地図では「生野大劇」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「児玉薬品株式会社駐車場」。最寄駅はJR大阪環状線寺田町駅。
別世界大映/田島寿映画劇場/田島寿映劇
所在地 : 大阪府大阪市生野区田島町3(1960年)、大阪府大阪市生野区田島町3-86(1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1969年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「別世界大映」。1960年の映画館名簿では経営者は有本保之介、支配人は富永三郎、300席、邦画を上映。1961年・1968年の住宅地図では「田島コトブキ映劇」。1963年・1966年の映画館名簿では「田島寿映画劇場」。1969年の映画館名簿では「田島寿映劇」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「毎日新聞田島販売所」。最寄駅はJR大和路線東部市場前駅。
今里寿映画劇場/今里コトブキ映画劇場/今里寿映劇
所在地 : 大阪府大阪市生野区新今里町3-35(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「今里寿映画劇場」。1963年の映画館名簿では「今里コトブキ映画劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「今里寿映劇」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「生野新今里郵便局」西にあるガレージ。最寄駅は近鉄大阪線・近鉄奈良線今里駅。
今里大劇
所在地 : 大阪府大阪市生野区中川町1-1(1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「今里大劇」。1971年の住宅地図では「今里大劇」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「西川診療所」北30mの住宅地。最寄駅は近鉄大阪線・近鉄奈良線今里駅。
幸楽館/猪飼野東映劇場/猪飼野東映
所在地 : 大阪府大阪市生野区猪飼野中5-18(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1952年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年開館。1955年の映画館名簿では「幸楽館」。1960年・1963年の映画館名簿では「猪飼野東映」。1966年の映画館名簿では「猪飼野東映劇場」。1969年・1970年の映画館名簿では「猪飼野東映」。1971年の住宅地図では「イカイノ東映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大阪聖和教会」北20mの月極駐車場「桃谷駐車場」。最寄駅はJR大阪環状線・近鉄大阪線鶴橋駅。
日の丸映画劇場/生野日の丸劇場/日の丸劇場
所在地 : 大阪府大阪市生野区猪飼野中6-14(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1935年3月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1935年3月開館。1955年の映画館名簿では「日の丸映画劇場」。1960年の住宅地図では「日ノ丸劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「日の丸劇場」。1966年の映画館名簿では「生野日の丸劇場」。1969年・1970年の映画館名簿では「日の丸劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「セブンイレブン大阪勝山北5丁目店」北東70mにある長屋2棟。最寄駅はJR大阪環状線桃谷駅。

1935年の生野区にあった映画館「日の丸館」の写真あり。花輪が見え、「館丸の日」の文字が見える。現在の勝山北5丁目にあった。「東朝日」という映画館を買収して新たな映画館として開館した。生野区は就労人口の多さにもかかわらず、娯楽施設に恵まれない地域であり、当時の映画館は6館のみだった。しかし戦後には娯楽施設が急増し、最盛期には映画館・演劇館合わせて18館も存在した。*187
電気館/生野電気館
所在地 : 大阪府大阪市生野区南生野町1-58(1955年)、大阪府大阪市生野区南生野町1-68(1960年)、大阪府大阪市生野区南生野町1-58(1963年・1966年・1969年)、大阪府大阪市生野区南生野町1-68(1973年)、大阪府大阪市生野区生野西2-3-7(1980年)
開館年 : 1950年5月
閉館年 : 1979年以後1980年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1950年5月開館。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「電気館」。1961年の住宅地図では「映画劇場電気館」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「生野電気館」。1974年の住宅地図では「映画電気館」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「田中クリニック」。最寄駅はJR大阪環状線寺田町駅。
パーク劇場/生野パーク劇場
所在地 : 大阪府大阪市生野区南生野町37(1955年)、大阪府大阪市生野区南生野町3-23(1960年・1963年・1966年・1969年)、大阪府大阪市生野区生野東1-13-25(1980年)
開館年 : 1954年3月
閉館年 : 1984年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年3月開館。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「パーク劇場」。1961年・1974年の住宅地図では「生野パーク劇場」。1966年・1969年・1973年・1980年・1982年・1984年の映画館名簿では「生野パーク劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ヤマト運輸舎利寺センター」駐車場。最寄駅はJR大阪環状線寺田町駅。
今里パレス座/今里パレス/今里パレス・パレス名画座/今里パレス座・パレス東映/今里パレス1・2
所在地 : 大阪府大阪市生野区猪飼野東2-38(1955年・1960年・1963年・1966年)、大阪府大阪市生野区猪飼野東2-38と猪飼野3-28(1969年・1973年・1975年)、大阪府大阪市生野区中川2-1-4(1978年・1980年)
開館年 : 1951年4月
閉館年 : 1985年
『全国映画館総覧 1955』によると1951年4月開館。1955年の映画館名簿では「今里パレス座」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「今里パレス」。1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「今里パレス」と「パレス名画座」。1974年の住宅地図では「今里パレス座」。1978年の映画館名簿では「今里パレス・パレス東映」。1980年の映画館名簿では「今里パレス座・パレス東映」(2館)。1985年の映画館名簿では「今里パレス1・2」(2館)。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ライオンズマンション今里」。最寄駅は近鉄大阪線・近鉄奈良線今里駅。

平野区

平野区の映画館
現在の平野区域には多数の映画館があった。戦前からの老舗としては平野梅ヶ枝町の「平野弥生座」があり、松竹系の封切館だった。平野梅ヶ枝町には1956年開館の「平野東映」と東宝系封切館の「平野名画劇場」もあった。その他の地域には「文映」や「中央シネマ」、加美の「京町映劇」や「朝日劇場」があった。長原には戦前から昭和20年代まで「朝日座」があった。1977年頃の文映の写真あり。*188
弥生座/平野弥生座
所在地 : 大阪府大阪市東住吉区平野梅ヶ枝町5-48(1955年・1960年)
開館年 : 1945年以前、1956年
閉館年 : 1961年頃
1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「弥生座」。1959年の住宅地図では「弥生座」。1960年の映画館名簿では「平野弥生座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の住宅地図では跡地に「平野中央モータープール」。跡地は立体駐車場「平野モータープール」北西側。最寄駅は大阪メトロ谷町線平野駅。

昭和30年代の映画館「弥生座」の写真あり。現在の平野区にあった。「大映・日活 封切 弥生座」「値下げ断行 大人170円、学生155円、小人140円」という看板が見える。*189

1961年から1962年のこのほど、「弥生座」は約1000万円をかけてスーパーマーケットに改装された。*190
平野東映
所在地 : 大阪府大阪市東住吉区平野梅ヶ枝町5-49(1958年・1960年)、大阪府大阪市東住吉区平野梅ヶ枝5-48(1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「平野東映」。1959年・1964年の住宅地図では「平野東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は立体駐車場「平野モータープール」南西側。最寄駅は大阪メトロ谷町線平野駅。
朝日劇場
所在地 : 大阪府大阪市東住吉区加美新家37-1(1960年・1963年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「朝日劇場」。1964年の住宅地図では「朝日劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「株式会社ベルコシティホール加美」。最寄駅はJR大和路線加美駅または久宝寺駅。
平野名画劇場
所在地 : 大阪府大阪市東住吉区平野梅ヶ枝町5-48(1960年)、大阪府大阪市東住吉区平野梅ヶ枝5-48(1963年)
開館年 : 1956年
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1964年の住宅地図では「平野名画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「平野名画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の住宅地図では「平野名画劇場」。跡地は立体駐車場「平野モータープール」東側半分。最寄駅は大阪メトロ谷町線平野駅。
中央シネマ/平野中央シネマ
所在地 : 大阪府大阪市東住吉区(1953年)、大阪府大阪市東住吉区平野本町3-18(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1953年以後1955年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央シネマ」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「平野中央シネマ」。1967年の住宅地図では「中央シネマ」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ローソン平野本町店」北北西30mの民家数軒。最寄駅は大阪メトロ谷町線平野駅またはJR大和路線平野駅または加美駅。
平野文映・平野京映/平野文映
所在地 : 大阪府大阪市東住吉区平野京町1-85(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、大阪府大阪市平野区平野市町2-10-18(1980年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1983年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「平野文映」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「平野文映・平野京映」(2館)。1974年の住宅地図では「平野京映 平野文映」。1980年の映画館名簿では「平野文映」。1982年の住宅地図では「平野文映」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。南西隣にパチンコ・麻雀・ビリヤードの文映会館が隣接していた。跡地はパチンコ店「BUN・EI」駐車場。最寄駅はJR大和路線加美駅。
京町映画劇場/京町東映/平野ニュー京映/ニュー京映
所在地 : 大阪府大阪市東住吉区平野旭町5(1958年)、大阪府大阪市東住吉区加美旭町56(1960年・1963年)、大阪府大阪市東住吉区加美朝日町5(1969年・1973年)、大阪府大阪市平野区平野市町2-10-18(1980年・1985年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1986年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「京町映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「京町東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1973年の映画館名簿では「平野ニュー京映」。1972年の住宅地図では「ニュー京映」。1980年の映画館名簿では「ニュー京映」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「タウンハイツ加美」。最寄駅はJR大和路線加美駅。平野区最後の映画館。

このページへのコメント

失礼します。
大阪市中央区のミナミ千日前商店街から南に進んだ道具屋筋商店街北口の向かって右側に、千日前セントラルの遺構が残っています。周辺にグランド花月やドンキホーテ等の派手な建物があるため目立ってないのが残念です。
https://photos.app.goo.gl/6yG9AeokuQqK9ZAQ7
https://photos.app.goo.gl/tDvWT8HTupa1TSSK6
失礼しました。

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Posted by 名無し(ID:/+VGspmbvg) 2022年06月26日(日) 01:41:24 返信

城東区のテアトル城映

城東市場の二階にあった映画館。
前回の東京オリンピック(1964)頃が全盛期。

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Posted by masa 2022年05月31日(火) 11:21:28 返信

東淀川区淡路の情報について
・松鶴座
現在は「マンション『プリュネ淡路本町』」とありますが、そのマンションは隣接していた銭湯「本町温泉」の跡で、隣の駐車場が松鶴座の跡地となります。道路計画もあり、長らくモータープールとなっています。
・淡路東映/淡路劇場
こちらの跡地は厳密にはマンション「マリンズ淡路」の隣にあるマンションギャラリーが現在ある場所となっています。数年前まではモータープールに解体した建物の壁が一部残されていました。マンション側は長屋や文化住宅、UFJ銀行の駐車場はゴールデン街というう飲食店街でした。ゴールデン街にあった居酒屋「いづつ」さんは、駅の東側で現在も営業されています。

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Posted by 淡路の住民 2022年04月24日(日) 14:58:35 返信

ご指摘ありがとうございます。改めて住宅地図で確認してみます。

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Posted by  hekikaicinema hekikaicinema 2021年12月15日(水) 00:53:02 返信

関目東映 ですが、マンションのある所は、焼き肉屋で火災となったので取り壊されたと記憶しています。
その北隣に位置する 三井住友銀行関目支店(移転済み)の前身、さくら銀行関目支店、その前が 太陽神戸銀行関目支店の建物それ自体が 映画館であったと内部構造的に認識しておりました。国道側が観客席だったと聞いたような気がします。銀行としては変な建物でした。

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Posted by 名無し(ID:5kEocED1iQ) 2021年11月05日(金) 17:36:54 返信

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