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新潟市は新潟市の映画館を参照。
長岡市は長岡市の映画館を参照。
上越市は上越市の映画館を参照。
三条市は三条市の映画館を参照。
柏崎市は柏崎市の映画館を参照。
所在地 : 新潟県北蒲原郡新発田町(1925年)、新潟県北蒲原郡新発田町中町(1927年・1930年)、新潟県北蒲原郡新発田町(1934年)、新潟県北蒲原郡新発田町中町(1936年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1925年・1927年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「電気館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
1935年9月13日には新発田町で大火が起こった。上町・中町・下町・西ケ輪・新道などが全焼し、全焼戸数は1064戸にも及んだ。「新富座」や「電気館」なども焼失した。*1
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1925年・1927年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「電気館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
1935年9月13日には新発田町で大火が起こった。上町・中町・下町・西ケ輪・新道などが全焼し、全焼戸数は1064戸にも及んだ。「新富座」や「電気館」なども焼失した。*1
所在地 : 新潟県北蒲原郡新発田町(1925年・1927年・1930年)、新潟県北蒲原郡新発田町中町(1934年)、新潟県北蒲原郡新発田町字三の丸(1936年)、新潟県北蒲原郡新発田町新道(1941年)、新潟県北蒲原郡新発田町(1943)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1925年・1927年の映画館名簿では「アヤメ館」。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「新富座」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
1935年9月13日には新発田町で大火が起こった。上町・中町・下町・西ケ輪・新道などが全焼し、全焼戸数は1064戸にも及んだ。「新富座」や「電気館」なども焼失した。*2
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1925年・1927年の映画館名簿では「アヤメ館」。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「新富座」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
1935年9月13日には新発田町で大火が起こった。上町・中町・下町・西ケ輪・新道などが全焼し、全焼戸数は1064戸にも及んだ。「新富座」や「電気館」なども焼失した。*2
所在地 : 新潟県北蒲原郡新発田町中町甲469(1941年)、新潟県北蒲原郡新発田町(1943年)、新潟県新発田市字中町(1947年)、新潟県新発田市中町(1950年)、新潟県新発田市中町甲470(1953年・1955年・1958年)、新潟県新発田市中町(1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1938年12月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1938年12月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年の映画館名簿では「松竹映画劇場」。1947年・1950年の映画館名簿では「新発田松竹映画劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「松竹映画劇場」。1958年の映画館名簿では「シバタ松竹映画劇場」。1960年の映画館名簿では「東映シバタ映画劇場」。1961年・1962年の映画館名簿では「シバタ映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
1937年の「新発田劇場」の写真あり。「場劇田発新」の文字が見える。アール・デコ調の建築であり、入口右手に切符売り場があった。*3
1939年正月の新発田にあった「シバタ松竹映画劇場」の写真あり。「シバタ興業本社直営」の文字が見える。1938年公開の『怪猫謎の三味線』の看板が見える。1938年、長岡市に本社があるシバタ興業は新発田の「新発田劇場」を買い取って「シバタ松竹映画劇場」に改称した。*4
開館年 : 1938年12月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1938年12月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年の映画館名簿では「松竹映画劇場」。1947年・1950年の映画館名簿では「新発田松竹映画劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「松竹映画劇場」。1958年の映画館名簿では「シバタ松竹映画劇場」。1960年の映画館名簿では「東映シバタ映画劇場」。1961年・1962年の映画館名簿では「シバタ映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
1937年の「新発田劇場」の写真あり。「場劇田発新」の文字が見える。アール・デコ調の建築であり、入口右手に切符売り場があった。*3
1939年正月の新発田にあった「シバタ松竹映画劇場」の写真あり。「シバタ興業本社直営」の文字が見える。1938年公開の『怪猫謎の三味線』の看板が見える。1938年、長岡市に本社があるシバタ興業は新発田の「新発田劇場」を買い取って「シバタ松竹映画劇場」に改称した。*4
所在地 : 新潟県新発田市土町391(1950年)、新潟県新発田市上町(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、新潟県新発田市中央町3-1-8(1966年・1969年)、新潟県新発田市中央町4-8-14(1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年・1987年)
開館年 : 1948年3月
閉館年 : 1987年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年3月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「新発田銀映」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「シバタ銀座映画劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1986年・1987年の映画館名簿では「新発田銀座映画劇場」。1979年の住宅地図では「銀映」。1988年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「新発田市役所別館」南の民家。最寄駅はJR羽越本線・白新線新発田駅。
開館年 : 1948年3月
閉館年 : 1987年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年3月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「新発田銀映」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「シバタ銀座映画劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1986年・1987年の映画館名簿では「新発田銀座映画劇場」。1979年の住宅地図では「銀映」。1988年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「新発田市役所別館」南の民家。最寄駅はJR羽越本線・白新線新発田駅。
所在地 : 新潟県新発田市(1950年)、新潟県新発田市新道(1953年・1955年)、新潟県新発田市新道1301(1960年)、新潟県新発田市新道(1963年)、新潟県新発田市中央町(1966年)、新潟県新発田市中央町3-10-10(1969年・1970年・1971年・1972年)、新潟県新発田市中央町3-7-4(1973年)、新潟県新発田市中央町3-10-10(1975年・1978年・1980年)、新潟県新発田市中央町3-7-4(1985年・1990年・1995年・2000年・2002年・2005年)
開館年 : 1947年7月、1972年頃(ビル化)
閉館年 : 2005年春
『全国映画館総覧 1955』によると1947年7月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「新発田文化劇場」。1953年の映画館名簿では「シバタ文化劇場」。1955年の映画館名簿では「シバタ文化」。1960年・1963年の映画館名簿では「シバタ文化映画劇場」。1966年の映画館名簿では「新発田文化劇場」。1969年・1970年・1971年・1972年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「新発田文化映画劇場」。1970年の映画館名簿では経営者がシバタ文化興業、支配人が塚原正一、木造1階冷暖房付、定員372、東宝・日活・洋画を上映。1972年の映画館名簿では経営会社がシバタ文化興業、経営者が長谷川高次、支配人が塚原正一、木造1階冷暖房付、定員372、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿では経営会社がシバタ文化興業、経営者が長谷川高次、支配人が塚原正一、鉄筋造6階冷暖房付、150席、邦画・洋画を上映。1979年の住宅地図では「レジャー会館」2階に「シバタ文映」があった。1階にはパチンコ店、3階には文化興業本社、4階・5階にはボウリング場、6階にはカラオケ店があった。1980年の映画館名簿では経営会社がシバタ文化興業、経営者が長谷川忠、支配人が五十嵐昭雄、鉄筋造1階、150席、邦画・洋画を上映。2002年の映画館名簿では経営会社がシバタ文化興業、経営者が長谷川忠、支配人が中村清、鉄筋造2階、150席、邦画・洋画を上映。2005年の映画館名簿では「シバタ文化映画劇場」。新発田市最後の映画館。2019年4月時点でシバタレジャー会館の建物は現存。「石川小路」交差点の東側、屋上のボウリングピンが目印の建物。最寄駅はJR羽越本線・白新線新発田駅。
1934年の新発田にあった「電気館」の写真あり。旧中町にあった。*5
昭和初期の新発田の中町通りの写真あり。右前の高い建物は映画館の「電気館」であり、1982年現在はレジャー会館が建っている。*6
開館年 : 1947年7月、1972年頃(ビル化)
閉館年 : 2005年春
『全国映画館総覧 1955』によると1947年7月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「新発田文化劇場」。1953年の映画館名簿では「シバタ文化劇場」。1955年の映画館名簿では「シバタ文化」。1960年・1963年の映画館名簿では「シバタ文化映画劇場」。1966年の映画館名簿では「新発田文化劇場」。1969年・1970年・1971年・1972年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「新発田文化映画劇場」。1970年の映画館名簿では経営者がシバタ文化興業、支配人が塚原正一、木造1階冷暖房付、定員372、東宝・日活・洋画を上映。1972年の映画館名簿では経営会社がシバタ文化興業、経営者が長谷川高次、支配人が塚原正一、木造1階冷暖房付、定員372、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿では経営会社がシバタ文化興業、経営者が長谷川高次、支配人が塚原正一、鉄筋造6階冷暖房付、150席、邦画・洋画を上映。1979年の住宅地図では「レジャー会館」2階に「シバタ文映」があった。1階にはパチンコ店、3階には文化興業本社、4階・5階にはボウリング場、6階にはカラオケ店があった。1980年の映画館名簿では経営会社がシバタ文化興業、経営者が長谷川忠、支配人が五十嵐昭雄、鉄筋造1階、150席、邦画・洋画を上映。2002年の映画館名簿では経営会社がシバタ文化興業、経営者が長谷川忠、支配人が中村清、鉄筋造2階、150席、邦画・洋画を上映。2005年の映画館名簿では「シバタ文化映画劇場」。新発田市最後の映画館。2019年4月時点でシバタレジャー会館の建物は現存。「石川小路」交差点の東側、屋上のボウリングピンが目印の建物。最寄駅はJR羽越本線・白新線新発田駅。
1934年の新発田にあった「電気館」の写真あり。旧中町にあった。*5
昭和初期の新発田の中町通りの写真あり。右前の高い建物は映画館の「電気館」であり、1982年現在はレジャー会館が建っている。*6
所在地 : 新潟県岩船郡村上町寺町(1927年・1930年・1934年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1934年以後1936年以前
1927年の映画館名簿では「日活館」。1930年の映画館名簿では「村上日活館」。1934年の映画館名簿では「舞鶴館」。1936年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1934年以後1936年以前
1927年の映画館名簿では「日活館」。1930年の映画館名簿では「村上日活館」。1934年の映画館名簿では「舞鶴館」。1936年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県岩船郡村上町(1925年・1927年)、新潟県村上市塩町1108(1930年)、新潟県村上市塩町(1934年)、新潟県村上市塩町1108(1936年)、新潟県村上市塩町(1943年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1925年・1927年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「都館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「都館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
大正後期の村上にあった「都館」の写真あり。村上初の活動写真の常設館である。尾上松之助、栗島すみ子、川田芳子、チャップリンなどが出演する映画を上映した。*7
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1925年・1927年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「都館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「都館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
大正後期の村上にあった「都館」の写真あり。村上初の活動写真の常設館である。尾上松之助、栗島すみ子、川田芳子、チャップリンなどが出演する映画を上映した。*7
所在地 : 新潟県岩船郡岩船町(1952年・1953年)、新潟県村上市岩船町(1955年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年の映画館名簿では「岩船劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「岩船松竹館」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年の映画館名簿では「岩船劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「岩船松竹館」。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県岩船郡村上町(1941年)、新潟県岩船郡村上町塩町(1947年・1950年)、新潟県岩船郡村上町(1953年)、新潟県村上市塩町(1955年・1958年)
開館年 : 1937年8月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1937年8月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「村上キネマ」。1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「村上映画劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「村上東宝館」。1958年の映画館名簿では「村上東宝」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1937年8月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1937年8月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「村上キネマ」。1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「村上映画劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「村上東宝館」。1958年の映画館名簿では「村上東宝」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県岩船郡村上町(1936年)、新潟県岩船郡村上町(1943年・1947年・1950年・1953年)、新潟県村上市寺町(1955年)、新潟県村上市寺町1410(1958年)、新潟県村上市寺町(1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1934年6月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1934年6月開館。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「松竹館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「松竹館」。1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「村上松竹館」。1955年の映画館名簿では「村上松竹座」。1958年の映画館名簿では「村上松竹館」。1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「村上中央映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1934年6月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1934年6月開館。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「松竹館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「松竹館」。1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「村上松竹館」。1955年の映画館名簿では「村上松竹座」。1958年の映画館名簿では「村上松竹館」。1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「村上中央映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県岩船郡村上町(1953年)、新潟県村上市大通(1955年)、新潟県村上市大字村上1520(1958年)、新潟県村上市大町(1960年・1963年)、新潟県村上市寺町(1966年)、新潟県村上市大町1521-2(1969年)、新潟県村上市大町1520(1973年・1976年・1980年・1981年)
開館年 : 1949年11月
閉館年 : 1981年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1949年11月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「村上文化映画劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「村上文化劇場」。1960年の映画館名簿では「村上文化映画劇場」。1963年の映画館名簿では「村上文化映劇」。1966年の映画館名簿では「村上文化劇場」。1969年・1973年・1976年・1980年・1981年の映画館名簿では「村上文化映画劇場」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「十輪寺」北の空き地。最寄駅はJR羽越本線村上駅。
開館年 : 1949年11月
閉館年 : 1981年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1949年11月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「村上文化映画劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「村上文化劇場」。1960年の映画館名簿では「村上文化映画劇場」。1963年の映画館名簿では「村上文化映劇」。1966年の映画館名簿では「村上文化劇場」。1969年・1973年・1976年・1980年・1981年の映画館名簿では「村上文化映画劇場」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「十輪寺」北の空き地。最寄駅はJR羽越本線村上駅。
所在地 : 新潟県村上市大字村上1593(1958年)、新潟県村上市小国町(1960年・1963年)、新潟県村上市大字村上1593(1966年)、新潟県村上市鍛冶町(1969年)、新潟県村上市寺町1410(1973年・1976年・1980年)、新潟県村上市寺町3-32(1985年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1985年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「村上銀映」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「村上銀座映画劇場」。1986年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「西真寺」西30mにある「寺町集会所」。最寄駅はJR羽越本線村上駅。
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1985年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「村上銀映」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「村上銀座映画劇場」。1986年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「西真寺」西30mにある「寺町集会所」。最寄駅はJR羽越本線村上駅。
所在地 : 新潟県西蒲原郡燕町(1925年・1927年・1930年・1934年)、新潟県西蒲原郡燕町字穀町(1936年)、新潟県西蒲原郡燕町穀町(1941年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1941年以後1943年以前
1925年・1927年・1930年の映画館名簿では「燕館」。1934年の映画館名簿では「演芸場」。1936年の映画館名簿では「燕演芸館」。1941年の映画館名簿では「燕館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「願性寺」南東140mの「穀町貸駐車場」付近。最寄駅はJR弥彦線燕駅。
1928年12月5日、燕町の「燕館」から出火し、47戸が焼失した。火元は燕館の火鉢。*8
1929年の『大日本職業別明細図 第182号』「燕町」には「燕館」が描かれている。*9
昭和初期の燕町に開館した当初の映画館「有楽館」の写真あり。燕町の映画館としては有楽館のほかに「燕館」もあった。*10
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1941年以後1943年以前
1925年・1927年・1930年の映画館名簿では「燕館」。1934年の映画館名簿では「演芸場」。1936年の映画館名簿では「燕演芸館」。1941年の映画館名簿では「燕館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「願性寺」南東140mの「穀町貸駐車場」付近。最寄駅はJR弥彦線燕駅。
1928年12月5日、燕町の「燕館」から出火し、47戸が焼失した。火元は燕館の火鉢。*8
1929年の『大日本職業別明細図 第182号』「燕町」には「燕館」が描かれている。*9
昭和初期の燕町に開館した当初の映画館「有楽館」の写真あり。燕町の映画館としては有楽館のほかに「燕館」もあった。*10
所在地 : 新潟県西蒲原郡吉田町堤町(1953年)、新潟県西蒲原郡吉田町(1955年)、新潟県西蒲原郡吉田町426(1957年)
開館年 : 1923年8月
閉館年 : 1957年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1923年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1957年の映画館名簿では「吉田座」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1923年8月
閉館年 : 1957年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1923年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1957年の映画館名簿では「吉田座」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県西蒲原郡吉田町(1956年)、新潟県西蒲原郡吉田町422(1957年)、新潟県西蒲原郡吉田町426(1958年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1958年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年の映画館名簿では「吉田劇場」。1958年の映画館名簿では「吉田東映」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1958年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年の映画館名簿では「吉田劇場」。1958年の映画館名簿では「吉田東映」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県燕市小池(1957年)、新潟県燕市小池町2882(1958年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1958年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「小池映画劇場」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1958年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「小池映画劇場」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県西蒲原郡島上村(1953年・1955年)、新潟県西蒲原郡分水町横田(1958年)
開館年 : 1948年11月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年11月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「横田銀映劇場」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1948年11月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年11月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「横田銀映劇場」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県西蒲原郡燕町(1953年)、新潟県燕市(1955年)、新潟県燕市仲町(1957年・1958年・1959年)
開館年 : 1949年10月
閉館年 : 1959年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1949年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「燕銀座映画劇場」。1955年・1957年・1958年の映画館名簿では「銀映」。1959年の映画館名簿では「燕銀映」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1949年10月
閉館年 : 1959年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1949年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「燕銀座映画劇場」。1955年・1957年・1958年の映画館名簿では「銀映」。1959年の映画館名簿では「燕銀映」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県西蒲原郡吉田町(1950年・1953年・1955年)、新潟県西蒲原郡吉田町422(1958年)、新潟県西蒲原郡吉田町43(1960年・1963年)
開館年 : 1946年7月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年7月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「吉田劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「新潟縣信用組合吉田支店」。最寄駅はJR越後線・弥彦線吉田駅。
1955年頃の吉田町にあった「吉田劇場」の写真あり。「YOSIDA THEATER」「吉劇」の文字が見える。映画・芝居・歌謡ショーなどが行われ、「吉劇」と呼ばれて親しまれた。テレビの普及などによって衰退し、1963年頃に閉館した。1981年現在の堤町の新潟縣信用組合吉田支店の場所にあった。*11
開館年 : 1946年7月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年7月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「吉田劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「新潟縣信用組合吉田支店」。最寄駅はJR越後線・弥彦線吉田駅。
1955年頃の吉田町にあった「吉田劇場」の写真あり。「YOSIDA THEATER」「吉劇」の文字が見える。映画・芝居・歌謡ショーなどが行われ、「吉劇」と呼ばれて親しまれた。テレビの普及などによって衰退し、1963年頃に閉館した。1981年現在の堤町の新潟縣信用組合吉田支店の場所にあった。*11
所在地 : 新潟県西蒲原郡分水町横田(1957年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1964年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「新栄屋チェン横田文化」。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「横田文化」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1964年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「新栄屋チェン横田文化」。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「横田文化」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県西蒲原郡分水町(1966年)
開館年 : 1965年頃
閉館年 : 1966年頃
1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「地蔵堂富士映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1965年頃
閉館年 : 1966年頃
1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「地蔵堂富士映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県西蒲原郡地蔵堂町(1953年・1955年)、新潟県西蒲原郡分水町地蔵堂(1958年・1960年)、新潟県西蒲原郡分水町(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1921年4月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1921年4月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「新栄座」。1963年の映画館名簿では「新栄座映画劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「地蔵堂新栄座」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1921年4月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1921年4月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「新栄座」。1963年の映画館名簿では「新栄座映画劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「地蔵堂新栄座」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県西蒲原郡燕町(1930年)、新潟県西蒲原郡燕町学校町(1934年・1936年・1941年・1943年)、新潟県西蒲原郡燕町3080(1947年)、新潟県西蒲原郡燕町(1950年・1953年)、新潟県燕市学校町(1955年)、新潟県燕市学校町3080(1958年・1960年・1963年)、新潟県燕市学校町(1966年)、新潟県燕市学校町3080(1969年)
開館年 : 1930年以前、1947年4月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年4月開館。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「有楽館」。1947年・1950年の映画館名簿では「燕有楽館」。1953年・1955年の映画館名簿では「有楽館」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「燕有楽館」。1961年・1964年・1967年の住宅地図では「シバタ映劇」。1969年の住宅地図では「有楽館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大原整骨院」やその北側の民家。最寄駅はJR弥彦線燕駅。
1920年の燕町に開館した際の映画常設館「有楽館」の写真あり。こけら落とし興行として佐渡おけさの組み踊りが行われている。学校町の燕町役場浦野道路に面していた。1970年に閉館し、1981年現在は跡地に小林家具店がある。*12
昭和初期の燕町にあった「有楽館」の写真あり。開館当時の写真である。燕町には「有楽館」と「燕館」の2館があった。*13
開館年 : 1930年以前、1947年4月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年4月開館。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「有楽館」。1947年・1950年の映画館名簿では「燕有楽館」。1953年・1955年の映画館名簿では「有楽館」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「燕有楽館」。1961年・1964年・1967年の住宅地図では「シバタ映劇」。1969年の住宅地図では「有楽館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大原整骨院」やその北側の民家。最寄駅はJR弥彦線燕駅。
1920年の燕町に開館した際の映画常設館「有楽館」の写真あり。こけら落とし興行として佐渡おけさの組み踊りが行われている。学校町の燕町役場浦野道路に面していた。1970年に閉館し、1981年現在は跡地に小林家具店がある。*12
昭和初期の燕町にあった「有楽館」の写真あり。開館当時の写真である。燕町には「有楽館」と「燕館」の2館があった。*13
所在地 : 新潟県西蒲原郡吉田町432(1959年)、新潟県西蒲原郡吉田町432(1960年)、新潟県西蒲原郡吉田町吉田(1963年)、新潟県西蒲原郡吉田町(1966年)、新潟県西蒲原郡吉田町字吉田(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1984年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「富士映画劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「吉田富士映画劇場」。1973年の映画館名簿では「吉田富士劇場」。1975年・1976年・1978年・1980年の映画館名簿では「吉田富士館」。1982年の住宅地図では「吉田富士映劇」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「JR越後線・弥彦線吉田駅」の西100mにある「山源呉服店」。。最寄駅はJR越後線・弥彦線吉田駅。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1984年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「富士映画劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「吉田富士映画劇場」。1973年の映画館名簿では「吉田富士劇場」。1975年・1976年・1978年・1980年の映画館名簿では「吉田富士館」。1982年の住宅地図では「吉田富士映劇」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「JR越後線・弥彦線吉田駅」の西100mにある「山源呉服店」。。最寄駅はJR越後線・弥彦線吉田駅。
所在地 : 新潟県燕市穀町(1957年)、新潟県燕市穀町3757(1958年・1960年・1963年)、新潟県燕市穀町(1966年)、新潟県燕市穀町3035(1969年・1973年・1976年・1980年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1984年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「燕映画劇場」。1961年・1964年の住宅地図では「燕映画劇場」。1967年・1969年・1975年の住宅地図では「燕映劇」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。燕市最後の従来型映画館。跡地は「北越銀行燕支店」東60mにある「つばめ接骨院」。最寄駅はJR弥彦線燕駅。
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1984年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「燕映画劇場」。1961年・1964年の住宅地図では「燕映画劇場」。1967年・1969年・1975年の住宅地図では「燕映劇」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。燕市最後の従来型映画館。跡地は「北越銀行燕支店」東60mにある「つばめ接骨院」。最寄駅はJR弥彦線燕駅。
所在地 : 新潟県燕市井土巻3-148 県央サティ横(2000年・2005年・2010年)、新潟県燕市井土巻3-148 イオン県央店隣(2015年・2018年・2020年)
開館年 : 1997年9月27日
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「ワーナー・マイカル・シネマズ県央1-7」(7館)。2013年7月改称。2015年・2018年・2020年の映画館名簿では「イオンシネマ県央1-7」(7館)。新潟県初のシネコン。最寄駅はJR上越新幹線・弥彦線燕三条駅。
1997年9月27日、燕市の大型スーパー敷地内に「ワーナー・マイカル・シネマズ県央」が開館する。総座席数1367は新潟県最多。本施設と同様の施設は神奈川県海老名市などにも建設されており、全国で10カ所目である。*14
1997年9月、新潟県初のシネコンとして燕市に「ワーナー・マイカル・シネマズ県央」が開館した。上越新幹線燕三条駅前にある大型ショッピングセンターの脇にある。開館1か月時点では、観客の40-50%は燕市・三条市・西蒲原郡から、7-8%は長岡市から、12-13%は新潟市から訪れている。*15
開館年 : 1997年9月27日
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「ワーナー・マイカル・シネマズ県央1-7」(7館)。2013年7月改称。2015年・2018年・2020年の映画館名簿では「イオンシネマ県央1-7」(7館)。新潟県初のシネコン。最寄駅はJR上越新幹線・弥彦線燕三条駅。
1997年9月27日、燕市の大型スーパー敷地内に「ワーナー・マイカル・シネマズ県央」が開館する。総座席数1367は新潟県最多。本施設と同様の施設は神奈川県海老名市などにも建設されており、全国で10カ所目である。*14
1997年9月、新潟県初のシネコンとして燕市に「ワーナー・マイカル・シネマズ県央」が開館した。上越新幹線燕三条駅前にある大型ショッピングセンターの脇にある。開館1か月時点では、観客の40-50%は燕市・三条市・西蒲原郡から、7-8%は長岡市から、12-13%は新潟市から訪れている。*15
所在地 : 新潟県五泉市五泉町(1957年・1958年)、新潟県五泉市宮小路(1960年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1960年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年の映画館名簿では「テアトル五泉」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1960年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年の映画館名簿では「テアトル五泉」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県中蒲原郡村松町(1953年・1955年)、新潟県中蒲原郡村松町2369-3(1958年)、新潟県中蒲原郡村松町甲2369-3(1960年・1963年)、新潟県中蒲原郡村松町(1966年・1969年)、新潟県中蒲原郡村松町甲2369-3(1970年)
開館年 : 1948年9月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年9月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「村松映画劇場」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1948年9月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年9月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「村松映画劇場」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県中蒲原郡五泉町(1930年)、新潟県中蒲原郡五泉町馬場(1934年)、新潟県中蒲原郡五泉町(1936年)、新潟県中蒲原郡五泉町馬場町(1941年)、新潟県中蒲原郡五泉町(1943年)、新潟県中蒲原郡五泉町五泉(1947年)、新潟県中蒲原郡五泉町(1950年・1953年・1955年)、新潟県五泉市五泉町3681(1958年)、新潟県五泉市馬場町(1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1907年、1929年、1938年4月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1938年4月開館。1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「五泉劇場」。1941年の映画館名簿では「五泉キネマ」。1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「五泉映画劇場」。1963年の映画館名簿では「五泉映劇」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「五泉映画劇場」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「清林寺」南60mのガレージ。最寄駅はJR磐越西線五泉駅。
1907年、五泉町に劇場「林座」が開館した。*16
1929年、五泉町に「五泉富士館」と「五泉劇場」が開館した。*17
1929年の『大日本職業別明細図 第182号』「五泉町」には「五泉劇場」が描かれている。*18
明治時代に開館した林座は、1928年8月の中町大火で焼失した。大火後に劇場が再建されると、五泉劇場という名称で芝居の上演や映画の上映を行った。1936年には改修を行って「五泉キネマ」に改称し、五泉町初の映画常設館となった。1928年の中町大火後には劇場の富士館も開館しており、戦後には「五泉東映」の呼び名で映画常設館となった。*19
昭和初期の五泉町馬場町の遊廓街の写真あり。中央には道沿いに郷屋川が流れ、橋を渡って建物に入った。写真に写る建物の左隣には「五泉劇場」があった。*20
1960年頃の五泉市の本町通りから馬場町を見た写真あり。上空には道路をまたいで「映劇入口」の看板が見える。*21
開館年 : 1907年、1929年、1938年4月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1938年4月開館。1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「五泉劇場」。1941年の映画館名簿では「五泉キネマ」。1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「五泉映画劇場」。1963年の映画館名簿では「五泉映劇」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「五泉映画劇場」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「清林寺」南60mのガレージ。最寄駅はJR磐越西線五泉駅。
1907年、五泉町に劇場「林座」が開館した。*16
1929年、五泉町に「五泉富士館」と「五泉劇場」が開館した。*17
1929年の『大日本職業別明細図 第182号』「五泉町」には「五泉劇場」が描かれている。*18
明治時代に開館した林座は、1928年8月の中町大火で焼失した。大火後に劇場が再建されると、五泉劇場という名称で芝居の上演や映画の上映を行った。1936年には改修を行って「五泉キネマ」に改称し、五泉町初の映画常設館となった。1928年の中町大火後には劇場の富士館も開館しており、戦後には「五泉東映」の呼び名で映画常設館となった。*19
昭和初期の五泉町馬場町の遊廓街の写真あり。中央には道沿いに郷屋川が流れ、橋を渡って建物に入った。写真に写る建物の左隣には「五泉劇場」があった。*20
1960年頃の五泉市の本町通りから馬場町を見た写真あり。上空には道路をまたいで「映劇入口」の看板が見える。*21
所在地 : 新潟県中蒲原郡五泉町馬場(1930年・1934年)、新潟県中蒲原郡五泉町(1936年・1943年)、新潟県中蒲原郡五泉町(1950年・1953年・1955年)、新潟県五泉市馬場町5369(1958年)、新潟県五泉市馬場町5453(1960年)、新潟県五泉市馬場町5369(1963年)、新潟県五泉市馬場町(1966年・1969年)、新潟県五泉市馬場町1-1-23(1973年・1976年・1980年・1988年・1989年)
開館年 : 1929年4月
閉館年 : 1988年
『全国映画館総覧 1955』によると1929年4月開館。1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「富士館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「富士館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「五泉富士館」。1953年の映画館名簿では「富士館」。1955年の映画館名簿では「富士座」。1958年・1960年の映画館名簿では「五泉東映」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「五泉東映劇場」。1984年の住宅地図では「1階五泉東映 2階スナックトーエー」。1989年の映画館名簿では「五泉東映」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。五泉市最後の映画館。跡地は「清林寺」南東90mの建物。最寄駅はJR磐越西線五泉駅。
1929年、五泉町に「五泉富士館」と「五泉劇場」が開館した。*22
昭和30年代の五泉市にあった「五泉東映」の写真あり。1928年頃に「富士館」として開館した。1950年頃に五泉東映に改称し、東映映画を主として洋画なども上映した。1988年に閉館した。2002年の五泉東映跡地の写真あり。*23
開館年 : 1929年4月
閉館年 : 1988年
『全国映画館総覧 1955』によると1929年4月開館。1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「富士館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「富士館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「五泉富士館」。1953年の映画館名簿では「富士館」。1955年の映画館名簿では「富士座」。1958年・1960年の映画館名簿では「五泉東映」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「五泉東映劇場」。1984年の住宅地図では「1階五泉東映 2階スナックトーエー」。1989年の映画館名簿では「五泉東映」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。五泉市最後の映画館。跡地は「清林寺」南東90mの建物。最寄駅はJR磐越西線五泉駅。
1929年、五泉町に「五泉富士館」と「五泉劇場」が開館した。*22
昭和30年代の五泉市にあった「五泉東映」の写真あり。1928年頃に「富士館」として開館した。1950年頃に五泉東映に改称し、東映映画を主として洋画なども上映した。1988年に閉館した。2002年の五泉東映跡地の写真あり。*23
所在地 : 新潟県北蒲原郡水原町(1934年)、新潟県北蒲原郡水原町中島1255(1941年)
開館年 : 1930年以後1934年以前
閉館年 : 1941年以後1943年以前
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年の映画館名簿では「水原館」。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「水原館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。
1932年8月1日の北蒲原郡水原町にあった「水原館」の写真あり。五所平之助監督の松竹作品『天国に結ぶ恋』の上映記念写真である。この際の入場料は大人20銭だった。*24
開館年 : 1930年以後1934年以前
閉館年 : 1941年以後1943年以前
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年の映画館名簿では「水原館」。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「水原館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。
1932年8月1日の北蒲原郡水原町にあった「水原館」の写真あり。五所平之助監督の松竹作品『天国に結ぶ恋』の上映記念写真である。この際の入場料は大人20銭だった。*24
所在地 : 新潟県北蒲原郡水原町(1947年)、新潟県北蒲原郡水原町大字水原(1950年)
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1950年頃
1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「水原養老座」。1950年の映画館名簿では「養老座」。1951年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1950年頃
1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「水原養老座」。1950年の映画館名簿では「養老座」。1951年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県北蒲原郡安田村字安田(1953年)、新潟県北蒲原郡安田村保田1781(1955年・1958年・1960年)、新潟県北蒲原郡安田町(1963年)
開館年 : 1950年8月
閉館年 : 1963年
『全国映画館総覧 1955』によると1950年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「安田映画劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「安田文化映画劇場」。1963年の映画館名簿では「安田文化映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
1963年、安田町の「安田文映」が倒壊した。*25
開館年 : 1950年8月
閉館年 : 1963年
『全国映画館総覧 1955』によると1950年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「安田映画劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「安田文化映画劇場」。1963年の映画館名簿では「安田文化映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
1963年、安田町の「安田文映」が倒壊した。*25
所在地 : 新潟県北蒲原郡水原町(1953年・1955年)、新潟県北蒲原郡水原町大字水原4271(1958年)、新潟県北蒲原郡水原町2741(1960年)、新潟県北蒲原郡水原町上町(1963年)
開館年 : 1949年8月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1949年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「水原劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
1953年12月10日午後5時5分頃、北蒲原郡水原町の「水原劇場」舞台裏から出火し、木造2階建218坪が全焼した。映写中のフィルムと映写設備も焼失している。*26
1953年12月10日、北蒲原郡水原町上町の「水原劇場」が全焼した。*27
開館年 : 1949年8月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1949年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「水原劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
1953年12月10日午後5時5分頃、北蒲原郡水原町の「水原劇場」舞台裏から出火し、木造2階建218坪が全焼した。映写中のフィルムと映写設備も焼失している。*26
1953年12月10日、北蒲原郡水原町上町の「水原劇場」が全焼した。*27
所在地 : 新潟県北蒲原郡水原町(1958年)、新潟県北蒲原郡水原町3627-4(1960年)、新潟県北蒲原郡水原町下町(1963年)、新潟県北蒲原郡水原町(1966年)、新潟県北蒲原郡水原町町裏(1969年・1970年・1971年・1972年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1972年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「水原文映」。1960年の映画館名簿では「水原文化映画劇場」。1963年の映画館名簿では「水原文化映劇」。1966年・1969年・1970年・1971年・1972年の映画館名簿では「水原文化劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1972年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「水原文映」。1960年の映画館名簿では「水原文化映画劇場」。1963年の映画館名簿では「水原文化映劇」。1966年・1969年・1970年・1971年・1972年の映画館名簿では「水原文化劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県北蒲原郡中条町(1953年・1955年・1958年)、新潟県北蒲原郡中条町1440(1960年)、新潟県北蒲原郡中条町寺町(1963年)、新潟県北蒲原郡中条町(1966年・1969年)、新潟県北蒲原郡中条町栄町10-1(1970年・1971年・1972年)
開館年 : 1933年10月
閉館年 : 1972年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1933年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「中条座」。1958年の映画館名簿では「中条文映」。1960年の映画館名簿では「中条文化映画劇場」。1963年の映画館名簿では「中条文化映劇」。1966年・1969年・1970年・1971年・1972年の映画館名簿では「中条文化劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では「中条文化映画劇場」。跡地は「広厳寺」東北東70mの「日本料理 竹善」や「志ま津食堂」など。最寄駅はJR羽越本線中条駅。
開館年 : 1933年10月
閉館年 : 1972年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1933年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「中条座」。1958年の映画館名簿では「中条文映」。1960年の映画館名簿では「中条文化映画劇場」。1963年の映画館名簿では「中条文化映劇」。1966年・1969年・1970年・1971年・1972年の映画館名簿では「中条文化劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では「中条文化映画劇場」。跡地は「広厳寺」東北東70mの「日本料理 竹善」や「志ま津食堂」など。最寄駅はJR羽越本線中条駅。
所在地 : 新潟県東蒲原郡両鹿瀬村(1950年・1953年)、新潟県東蒲原郡鹿ノ瀬村(1955年)、新潟県東蒲原郡鹿瀬町(1958年)、新潟県東蒲原郡鹿瀬町1994(1960年)、新潟県東蒲原郡鹿瀬町1747(1963年)、新潟県東蒲原郡鹿瀬町(1965年)
開館年 : 1947年12月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年12月開館。1950年の映画館名簿では「鹿ノ瀬昭和電工会館」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「電工会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
鹿瀬町の「昭和電工会館」の写真あり。戦後しばらくは東蒲原郡で唯一の映画館だった。*28
開館年 : 1947年12月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年12月開館。1950年の映画館名簿では「鹿ノ瀬昭和電工会館」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「電工会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
鹿瀬町の「昭和電工会館」の写真あり。戦後しばらくは東蒲原郡で唯一の映画館だった。*28
所在地 : 新潟県東蒲原郡津川町3577(1955年・1958年・1960年)、新潟県東蒲原郡津川町(1963年・1966年)
開館年 : 1954年8月13日
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年8月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「津川東亜劇場」。1966年の映画館名簿では「津川映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
1954年8月13日、津川町に「津川東劇」が開館した。昭和30年代後半にはカラーテレビの普及で映画ファンが減少し、1970年頃に閉館した。*29
開館年 : 1954年8月13日
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年8月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「津川東亜劇場」。1966年の映画館名簿では「津川映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
1954年8月13日、津川町に「津川東劇」が開館した。昭和30年代後半にはカラーテレビの普及で映画ファンが減少し、1970年頃に閉館した。*29
所在地 : 新潟県小千谷市(1955年)、新潟県小千谷市東本町(1958年)、新潟県小千谷市稗生乙(1960年)、新潟県小千谷市東大通(1963年・1964年)
開館年 : 1926年
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「銀世界館」。1958年の映画館名簿では「小千谷東映劇場」。1960年の映画館名簿では「小千谷東劇」。1963年・1964年の映画館名簿では「小千谷東映」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
小千谷市の東大通りには映画館「銀世界」があった。戦後に閉館した。撮影年不明の写真あり。「銀世界」の文字が見える。*30
1950年の小千谷市にあった映画館「東劇」の写真あり。「銀世界」という別名があり、「銀世界」の文字が見える。1926年、東大通りに東劇が開館し、芝居の興行なども行われた。戦後には成人式会場などにもなっている。新潟県立小千谷高校の近くにあったため、観客には大勢の高校生がいた。小千谷駅前の交差点を旭橋方向に向かい、「東栄2丁目」交差点左手の空き地が東劇の跡地である。*31
昭和30年代の小千谷市にあった映画館「銀世界」の写真あり。東大通りにあった。この頃の小千谷市には「明治座」、「中央劇場」、「銀世界」の3館の映画館があった。*32
開館年 : 1926年
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「銀世界館」。1958年の映画館名簿では「小千谷東映劇場」。1960年の映画館名簿では「小千谷東劇」。1963年・1964年の映画館名簿では「小千谷東映」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
小千谷市の東大通りには映画館「銀世界」があった。戦後に閉館した。撮影年不明の写真あり。「銀世界」の文字が見える。*30
1950年の小千谷市にあった映画館「東劇」の写真あり。「銀世界」という別名があり、「銀世界」の文字が見える。1926年、東大通りに東劇が開館し、芝居の興行なども行われた。戦後には成人式会場などにもなっている。新潟県立小千谷高校の近くにあったため、観客には大勢の高校生がいた。小千谷駅前の交差点を旭橋方向に向かい、「東栄2丁目」交差点左手の空き地が東劇の跡地である。*31
昭和30年代の小千谷市にあった映画館「銀世界」の写真あり。東大通りにあった。この頃の小千谷市には「明治座」、「中央劇場」、「銀世界」の3館の映画館があった。*32
所在地 : 新潟県北魚沼郡小千谷町(1953年)、新潟県小千谷市362(1955年)、新潟県小千谷町中央街362(1958年)、新潟県小千谷市住吉町(1960年)、新潟県小千谷市住吉町362(1963年)、新潟県小千谷市住吉町(1966年)
開館年 : 1952年
閉館年 : 1965年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央映画劇場」。1966年の映画館名簿では「小千谷中央映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1992年の住宅地図では跡地に「新潟県信用組合小千谷支店」。跡地は「コーポたかの」。最寄駅はJR上越線小千谷駅。
1951年(※1954年の誤りだと思われる)の小千谷市住吉町にあった映画館「中央映画劇場」の写真あり。「中劇」の文字が見える。『太平洋の鷲』や『青春三羽烏』のポスターが見える。テレビが普及したことなどが理由で、昭和30年代に閉館した。1981年現在の跡地は新潟県信用組合小千谷支店となっている。*33
1955年の小千谷市にあった映画館「中央映画劇場」の写真あり。四軒小路にあった。小千谷市だけではなく隣接町村からも観客を集めた。*34
昭和30年代の小千谷市にあった映画館「中央映画劇場」の写真あり。「中劇」の文字が見える。四軒小路(現・本町)には中央映画劇場があり、学校授業の一環として鑑賞する文部省推薦映画の上映もあった。スクランブル交差点を十日町方向に進んだ場所が中央映画劇場の跡地であり、2001年現在はビルの建設中である。*35
1954年の小千谷市にあった映画館「中央映画劇場」の写真あり。本町にあり、中劇と呼ばれていた。戦後初めて太平洋戦争を本格的に取り上げた邦画『太平洋の鷲』のポスターが見える。*36
1954年の小千谷市本町にあった映画館「中央映画劇場」の写真あり。2016年現在の跡地の写真あり。*37
1952年から1965年までは小千谷の四軒小路に「中央映画劇場」(中劇)があった。本町のスクランブル交差点から山本方面に50メートル進んだ右側であり、現在のコーポたかのの場所である。隣接する喫茶店のモン・プチは観客や若者のデートでにぎわった。*38
開館年 : 1952年
閉館年 : 1965年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央映画劇場」。1966年の映画館名簿では「小千谷中央映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1992年の住宅地図では跡地に「新潟県信用組合小千谷支店」。跡地は「コーポたかの」。最寄駅はJR上越線小千谷駅。
1951年(※1954年の誤りだと思われる)の小千谷市住吉町にあった映画館「中央映画劇場」の写真あり。「中劇」の文字が見える。『太平洋の鷲』や『青春三羽烏』のポスターが見える。テレビが普及したことなどが理由で、昭和30年代に閉館した。1981年現在の跡地は新潟県信用組合小千谷支店となっている。*33
1955年の小千谷市にあった映画館「中央映画劇場」の写真あり。四軒小路にあった。小千谷市だけではなく隣接町村からも観客を集めた。*34
昭和30年代の小千谷市にあった映画館「中央映画劇場」の写真あり。「中劇」の文字が見える。四軒小路(現・本町)には中央映画劇場があり、学校授業の一環として鑑賞する文部省推薦映画の上映もあった。スクランブル交差点を十日町方向に進んだ場所が中央映画劇場の跡地であり、2001年現在はビルの建設中である。*35
1954年の小千谷市にあった映画館「中央映画劇場」の写真あり。本町にあり、中劇と呼ばれていた。戦後初めて太平洋戦争を本格的に取り上げた邦画『太平洋の鷲』のポスターが見える。*36
1954年の小千谷市本町にあった映画館「中央映画劇場」の写真あり。2016年現在の跡地の写真あり。*37
1952年から1965年までは小千谷の四軒小路に「中央映画劇場」(中劇)があった。本町のスクランブル交差点から山本方面に50メートル進んだ右側であり、現在のコーポたかのの場所である。隣接する喫茶店のモン・プチは観客や若者のデートでにぎわった。*38
所在地 : 新潟県北魚沼郡小千谷町(1934年・1936年・1941年・1953年)、新潟県小千谷市(1955年)、新潟県小千谷市小千谷町(1958年)、新潟県小千谷市孫八郎(1966年・1969年)、新潟県小千谷市孫八町127(1973年・1976年・1980年・1985年)
開館年 : 1922年
閉館年 : 1985年8月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「明治座」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「明治座」。1955年の映画館名簿では経営者が佐藤フネ、支配人が佐藤吉次、木造1階、定員400、混合を上映。1960年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「小千谷明治座」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。1992年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「いろは寿司」北側の駐車場。最寄駅はJR上越線小千谷駅。
1951年の小千谷市にあった映画館「明治座」の写真あり。1981年現在は小千谷市唯一の映画館として健在である。*39
『目で見る十日町・小千谷・魚沼の100年』郷土出版社、1992年、p.52に掲載されている。*40
昭和30年代の「明治座」の写真あり。1887年には孫八町(現・平成)に劇場「茂松座」が開館し、小千谷唯一の劇場だった。1922年には同一地点に「明治座」が新築され、内部は桟敷席で花道もあった。戦後の映画黄金期には椅子席となり、芝居だけでなく映画も上映するようになった。2001年現在の跡地は駐車場になっている。茶郷川を挟んで向かいには「にしき鯉の里」や「サンプラザ」がある。*41
1874年には小千谷初の法人である機会社が設立された。1887年、機会社の建物は小千谷唯一の劇場「明治座」として生まれ変わった。1967年現在の明治座の写真あり。*42
1947年8月、小千谷町の劇場「明治座」で初めてストリップが公開され、町民は目をむいて驚いた。*43
1944年生まれの筆者は小学1年生の時に初めて「明治座」に入り、2階席で『ビルマの竪琴』を鑑賞した。原爆映画『ヒロシマ』が上映された際には、学校から児童全員で歩いて観に行った。中学生の時にはよく友人と一緒に明治座に行ったが、その頃には1階も2階も椅子席になっていた。*44
1985年8月、小千谷市唯一の映画館「明治座」が閉館し、すぐに建物が取り壊された。*45
開館年 : 1922年
閉館年 : 1985年8月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「明治座」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「明治座」。1955年の映画館名簿では経営者が佐藤フネ、支配人が佐藤吉次、木造1階、定員400、混合を上映。1960年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「小千谷明治座」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。1992年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「いろは寿司」北側の駐車場。最寄駅はJR上越線小千谷駅。
1951年の小千谷市にあった映画館「明治座」の写真あり。1981年現在は小千谷市唯一の映画館として健在である。*39
『目で見る十日町・小千谷・魚沼の100年』郷土出版社、1992年、p.52に掲載されている。*40
昭和30年代の「明治座」の写真あり。1887年には孫八町(現・平成)に劇場「茂松座」が開館し、小千谷唯一の劇場だった。1922年には同一地点に「明治座」が新築され、内部は桟敷席で花道もあった。戦後の映画黄金期には椅子席となり、芝居だけでなく映画も上映するようになった。2001年現在の跡地は駐車場になっている。茶郷川を挟んで向かいには「にしき鯉の里」や「サンプラザ」がある。*41
1874年には小千谷初の法人である機会社が設立された。1887年、機会社の建物は小千谷唯一の劇場「明治座」として生まれ変わった。1967年現在の明治座の写真あり。*42
1947年8月、小千谷町の劇場「明治座」で初めてストリップが公開され、町民は目をむいて驚いた。*43
1944年生まれの筆者は小学1年生の時に初めて「明治座」に入り、2階席で『ビルマの竪琴』を鑑賞した。原爆映画『ヒロシマ』が上映された際には、学校から児童全員で歩いて観に行った。中学生の時にはよく友人と一緒に明治座に行ったが、その頃には1階も2階も椅子席になっていた。*44
1985年8月、小千谷市唯一の映画館「明治座」が閉館し、すぐに建物が取り壊された。*45
所在地 : 新潟県南蒲原郡加茂町(1925年・1930年・1934年・1936年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1925年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「中野館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1936年以後1941年以前
1925年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「中野館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県南蒲原郡加茂町(1936年・1941年・1943年)、新潟県南蒲原郡加茂町大字上条(1947年)、新潟県南蒲原郡加茂町(1950年・1953年・1954年)
開館年 : 1935年1月
閉館年 : 1954年頃
『全国映画館総覧 1954』によると1935年1月開館。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「中野館」。1947年の映画館名簿では「加茂中野館」。1950年・1953年・1954年の映画館名簿では「中野館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1935年1月
閉館年 : 1954年頃
『全国映画館総覧 1954』によると1935年1月開館。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「中野館」。1947年の映画館名簿では「加茂中野館」。1950年・1953年・1954年の映画館名簿では「中野館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県加茂市仲町(1958年)、新潟県加茂市加茂町(1960年)、新潟県加茂市仲町755(1963年)、新潟県加茂市仲町(1966年・1967年)
開館年 : 1957年前半
閉館年 : 1967年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「加茂東映」。1966年・1967年の映画館名簿では「加茂東映劇場」。1967年・1969年の住宅地図では「加茂東映」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「北越銀行加茂中央支店」北北東80mにあるスーパー「サンゴマート」の廃墟。最寄駅はJR信越本線加茂駅。
1957年前半のこのほど、加茂市仲町に「加茂東映」が開館した。オープニングは『七つの誓い』と『大江戸喧嘩纏』。椅子席255。経営は渡辺正一。*46
1960年から1963年頃に撮影された、加茂市の仲町通りにあった「加茂東映」の写真あり。加茂東映の社長は渡辺正一。加茂東映の閉館後、スーパーマーケットのサンゴマートが移り、2020年現在も建物が残っている。*47
開館年 : 1957年前半
閉館年 : 1967年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「加茂東映」。1966年・1967年の映画館名簿では「加茂東映劇場」。1967年・1969年の住宅地図では「加茂東映」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「北越銀行加茂中央支店」北北東80mにあるスーパー「サンゴマート」の廃墟。最寄駅はJR信越本線加茂駅。
1957年前半のこのほど、加茂市仲町に「加茂東映」が開館した。オープニングは『七つの誓い』と『大江戸喧嘩纏』。椅子席255。経営は渡辺正一。*46
1960年から1963年頃に撮影された、加茂市の仲町通りにあった「加茂東映」の写真あり。加茂東映の社長は渡辺正一。加茂東映の閉館後、スーパーマーケットのサンゴマートが移り、2020年現在も建物が残っている。*47
所在地 : 新潟県加茂市上条町3513(1960年・1963年)、新潟県加茂市根古屋(1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1968年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「加茂セントラル」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「加茂セントラル劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では発見できず。
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1968年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「加茂セントラル」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「加茂セントラル劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では発見できず。
所在地 : 新潟県南蒲原郡加茂町(1925年・1930年・1936年・1943年)、新潟県南蒲原郡加茂町大字加茂(1947年)、新潟県南蒲原郡加茂町加茂(1950年)、新潟県南蒲原郡加茂町(1953年)、新潟県加茂市本町土手(1955年)、新潟県加茂市加茂町(1958年・1960年)、新潟県加茂市加茂町845(1963年)、新潟県加茂市大字加茂(1966年)、新潟県加茂市加茂845(1973年・1976年・1977年)
開館年 : 1925年以前、1939年
閉館年 : 1977年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1949年12月開館。1925年・1930年の映画館名簿では「加茂座」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「加茂キネマ」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1976年・1977年の映画館名簿では「加茂劇場」。1967年・1969年の住宅地図では「加茂劇場」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「加茂信用金庫本店」北西90mにある道路用地や河川敷。新潟県道9号穀町交差点東すぐ。最寄駅はJR信越本線加茂駅。
1939年頃の「加茂劇場」の写真あり。1935年5月の大火で「加茂座」が焼失し、1939年には加茂座跡地付近に加茂劇場が新築された。映画の興行を主とし、時には演劇の興行も行った。1955年頃の加茂劇場の写真あり。1955年には劇場前を大改修し、上部に喫茶店を開店させた。改修記念で大河内伝次郎主演の『忠臣蔵』を上映した。*48
1977年5月の加茂市にあった映画館「加茂劇場」の写真あり。「加茂劇場」「Kamo Theater」の文字が見える。加茂劇場は1939年に新築され、歌舞伎座のような瓦屋根が特徴だった。道路から見ると建物の右に加茂劇場の入口があり、左に喫茶店のパーラー高原の入口があった。1970年には加茂川の河川改修が開始され、1978年に改修が終了した。加茂劇場は河川改修の障害として取り壊され、跡地は道路や河川敷となっている。*49
1961年頃の加茂市にあった「加茂劇場」の写真あり。加茂川に架かる葵橋のたもとにあった。加茂劇場で上映されたフィルムは車に積み込まれ、新町にあった姉妹劇場の「加茂セントラル」に運ばれた。1962年頃の12月に撮影された加茂劇場の写真あり。『忠臣蔵』の看板が見える。*50
開館年 : 1925年以前、1939年
閉館年 : 1977年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1949年12月開館。1925年・1930年の映画館名簿では「加茂座」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「加茂キネマ」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1976年・1977年の映画館名簿では「加茂劇場」。1967年・1969年の住宅地図では「加茂劇場」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「加茂信用金庫本店」北西90mにある道路用地や河川敷。新潟県道9号穀町交差点東すぐ。最寄駅はJR信越本線加茂駅。
1939年頃の「加茂劇場」の写真あり。1935年5月の大火で「加茂座」が焼失し、1939年には加茂座跡地付近に加茂劇場が新築された。映画の興行を主とし、時には演劇の興行も行った。1955年頃の加茂劇場の写真あり。1955年には劇場前を大改修し、上部に喫茶店を開店させた。改修記念で大河内伝次郎主演の『忠臣蔵』を上映した。*48
1977年5月の加茂市にあった映画館「加茂劇場」の写真あり。「加茂劇場」「Kamo Theater」の文字が見える。加茂劇場は1939年に新築され、歌舞伎座のような瓦屋根が特徴だった。道路から見ると建物の右に加茂劇場の入口があり、左に喫茶店のパーラー高原の入口があった。1970年には加茂川の河川改修が開始され、1978年に改修が終了した。加茂劇場は河川改修の障害として取り壊され、跡地は道路や河川敷となっている。*49
1961年頃の加茂市にあった「加茂劇場」の写真あり。加茂川に架かる葵橋のたもとにあった。加茂劇場で上映されたフィルムは車に積み込まれ、新町にあった姉妹劇場の「加茂セントラル」に運ばれた。1962年頃の12月に撮影された加茂劇場の写真あり。『忠臣蔵』の看板が見える。*50
所在地 : 新潟県加茂市加茂845(1978年)、新潟県加茂市加茂本町762-9(1980年)、新潟県加茂市本町2-11(1985年・1986年・1987年)
開館年 : 1977年頃
閉館年 : 1987年頃
1977年の映画館名簿には掲載されていない。1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「加茂シネマ1・2」(2館)。1986年・1987年の映画館名簿では「加茂シネマ」。1988年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「北越中央銀行加茂支店」北東30mにあるピンク色の3階建てビル。跡地に映画館時代の建物が現存。最寄駅はJR信越本線加茂駅。
開館年 : 1977年頃
閉館年 : 1987年頃
1977年の映画館名簿には掲載されていない。1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「加茂シネマ1・2」(2館)。1986年・1987年の映画館名簿では「加茂シネマ」。1988年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「北越中央銀行加茂支店」北東30mにあるピンク色の3階建てビル。跡地に映画館時代の建物が現存。最寄駅はJR信越本線加茂駅。
所在地 : 新潟県中魚沼郡十日町(1936年・1943年・1947年・1950年・1953年)
開館年 : 大正時代以前(旬街座)、1941年9月(旬街劇場)
閉館年 : 1953年3月7日
『全国映画館総覧 1955』によると1948年7月開館。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「旬街座」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「旬街映画劇場」。1947年の映画館名簿では「十日町旬街劇場」。1950年・1953年の映画館名簿では「旬街劇場」。後継館は十日町松映。跡地は「十日町産業文化発信館いこて」。最寄駅はJR飯山線・北越急行ほくほく線十日町駅。
大正期の十日町にあった「旬街座」の写真あり。中条出身の岩田鹿蔵が興行師を務めた。1953年3月に焼失した。*51
1938年1月1日、中魚沼郡十日町五ノ町岩田の映画館「旬街座」の屋根が積雪1メートルの重さに耐えかねて落下し、約700人の満員の観客のうち69人が死亡、1人が行方不明、22人が重傷、38人が軽傷となった。*52
1941年9月には十日町に常設映画館の「旬街劇場」が開館した。喫煙室や非常口などがあり、1階は(長椅子ではなく)1人1脚だった。戦時中の慰安会と思われる写真あり。*53
1953年3月7日、中魚沼郡十日町五ノ町の映画館「旬街劇場」の暖房用ボイラー室から出火し、映画館の建物が全焼した。約700人の観客がおり、うち10数人が逃げる際に軽傷を負った。この映画館では1937年1月1日に建物が倒壊して死者80人の大災害を出したことがある。*54
1953年3月7日夜、中魚沼郡十日町の「旬街劇場」2階建て150坪が全焼した。損害額は約700万円。『大平原』のプリントが焼失した。支配人は村武正勇。*55
1953年3月7日、中魚沼郡十日町の映画館「旬街劇場」が全焼した。観客は無事だった。*56
昭和20年代の十日町にあった「旬街劇場」の写真あり。「本日正午開場」の文字が見える。1893年に開館した「旬街座」は戦後に「旬街劇場」に改称した。1968年2月、旬街劇場は「十日町娯楽会館」に名を改めた。「十日町娯楽会館」「ゲーム&ビリヤード」などの文字が見える。2002年現在の「十日町娯楽会館」の写真あり。*57
1953年3月7日には十日町の「旬街劇場」が焼失し、同年9月に「十日町松映」が開館した。松映は1968年6月までその建物で営業し、12月30日に「十日町娯楽会館」の建物が竣工した。撮影年不明の十日町松映の写真あり。花輪が見える。*58
開館年 : 大正時代以前(旬街座)、1941年9月(旬街劇場)
閉館年 : 1953年3月7日
『全国映画館総覧 1955』によると1948年7月開館。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「旬街座」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「旬街映画劇場」。1947年の映画館名簿では「十日町旬街劇場」。1950年・1953年の映画館名簿では「旬街劇場」。後継館は十日町松映。跡地は「十日町産業文化発信館いこて」。最寄駅はJR飯山線・北越急行ほくほく線十日町駅。
大正期の十日町にあった「旬街座」の写真あり。中条出身の岩田鹿蔵が興行師を務めた。1953年3月に焼失した。*51
1938年1月1日、中魚沼郡十日町五ノ町岩田の映画館「旬街座」の屋根が積雪1メートルの重さに耐えかねて落下し、約700人の満員の観客のうち69人が死亡、1人が行方不明、22人が重傷、38人が軽傷となった。*52
1941年9月には十日町に常設映画館の「旬街劇場」が開館した。喫煙室や非常口などがあり、1階は(長椅子ではなく)1人1脚だった。戦時中の慰安会と思われる写真あり。*53
1953年3月7日、中魚沼郡十日町五ノ町の映画館「旬街劇場」の暖房用ボイラー室から出火し、映画館の建物が全焼した。約700人の観客がおり、うち10数人が逃げる際に軽傷を負った。この映画館では1937年1月1日に建物が倒壊して死者80人の大災害を出したことがある。*54
1953年3月7日夜、中魚沼郡十日町の「旬街劇場」2階建て150坪が全焼した。損害額は約700万円。『大平原』のプリントが焼失した。支配人は村武正勇。*55
1953年3月7日、中魚沼郡十日町の映画館「旬街劇場」が全焼した。観客は無事だった。*56
昭和20年代の十日町にあった「旬街劇場」の写真あり。「本日正午開場」の文字が見える。1893年に開館した「旬街座」は戦後に「旬街劇場」に改称した。1968年2月、旬街劇場は「十日町娯楽会館」に名を改めた。「十日町娯楽会館」「ゲーム&ビリヤード」などの文字が見える。2002年現在の「十日町娯楽会館」の写真あり。*57
1953年3月7日には十日町の「旬街劇場」が焼失し、同年9月に「十日町松映」が開館した。松映は1968年6月までその建物で営業し、12月30日に「十日町娯楽会館」の建物が竣工した。撮影年不明の十日町松映の写真あり。花輪が見える。*58
所在地 : 新潟県中魚沼郡水沢村土市(1953年・1955年)、新潟県中魚沼郡水沢村馬場1-1452(1958年・1960年)、新潟県中魚沼郡水沢村馬場1-1453(1962年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「土市劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「土市劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県中魚沼郡下条村字上組(1953年・1955年)、新潟県十日町市下条上組785-2(1958年・1960年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1960年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「渡清館」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1960年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「渡清館」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県中魚沼郡中里村3-131-1(1958年)、新潟県中魚沼郡中里村131-1(1960年・1963年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1964年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「大映劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1964年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「大映劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県中魚沼郡千手町(1953年・1955年)、新潟県中魚沼郡川西町(1958年・1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1940年
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1940年開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「千手劇場」。1960年の映画館名簿では「千手町映劇」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「千手映劇」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1940年
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1940年開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「千手劇場」。1960年の映画館名簿では「千手町映劇」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「千手映劇」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県中魚沼郡田沢村字田中(1953年・1955年)、新潟県中魚沼郡中里村(1960年・1963年・1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1932年7月9日
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「田沢劇場」。1960年の映画館名簿では「田沢映画劇場」。1963年の映画館名簿では「田沢映劇」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「田沢映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
1931年頃の田沢村においてフォード製乗用車に乗る「田沢劇場」の宣伝隊の写真あり。*59
1931年度には信濃川発電所の工事が開始され、千手村に統括事務所が、田沢村には工事詰所や宿舎が建てられた。鉄道省職員、建設会社職員、工事従業員などが集まって好景気となり、1932年には田沢村の田沢駅前に「田沢劇場」が開館した。劇場開きは7月9日と10日である。田沢村の商店や飲食店はにぎわいを見せ、村内には18人もの芸妓がいた。*60
開館年 : 1932年7月9日
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「田沢劇場」。1960年の映画館名簿では「田沢映画劇場」。1963年の映画館名簿では「田沢映劇」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「田沢映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
1931年頃の田沢村においてフォード製乗用車に乗る「田沢劇場」の宣伝隊の写真あり。*59
1931年度には信濃川発電所の工事が開始され、千手村に統括事務所が、田沢村には工事詰所や宿舎が建てられた。鉄道省職員、建設会社職員、工事従業員などが集まって好景気となり、1932年には田沢村の田沢駅前に「田沢劇場」が開館した。劇場開きは7月9日と10日である。田沢村の商店や飲食店はにぎわいを見せ、村内には18人もの芸妓がいた。*60
所在地 : 新潟県中魚沼郡十日町(1936年・1941年・1943年)、新潟県中魚沼郡十日町加賀屋108(1950年)、新潟県中魚沼郡十日町(1953年)、新潟県十日町市(1955年)、新潟県十日町市加賀町寅甲108(1960年)、新潟県十日町市加賀町108(1963年)、新潟県十日町市寅甲108(1966年・1969年)、新潟県十日町市加賀町寅甲108(1973年・1976年・1980年・1985年・1988年・1989年)
開館年 : 1930年10月
閉館年 : 1989年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1930年10月開館。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「十日町松竹館」。1941年の映画館名簿では「松竹館」。1943年の映画館名簿では「十日町映劇」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「十日町映劇」。1953年・1955年の映画館名簿では「十日町映画劇場」。1960年の映画館名簿では「十日町映劇」。1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1988年・1989年の映画館名簿では「十日町映画劇場」。1969年の住宅地図では「映劇」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「十日町市民交流センター分じろう」の北西100mにある空き地。最寄駅はJR飯山線・北越急行ほくほく線十日町駅。
開館年 : 1930年10月
閉館年 : 1989年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1930年10月開館。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「十日町松竹館」。1941年の映画館名簿では「松竹館」。1943年の映画館名簿では「十日町映劇」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「十日町映劇」。1953年・1955年の映画館名簿では「十日町映画劇場」。1960年の映画館名簿では「十日町映劇」。1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1988年・1989年の映画館名簿では「十日町映画劇場」。1969年の住宅地図では「映劇」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「十日町市民交流センター分じろう」の北西100mにある空き地。最寄駅はJR飯山線・北越急行ほくほく線十日町駅。
所在地 : 新潟県十日町市五ノ丁(1955年)、新潟県十日町市本町5丁目(1960年・1963年・1966年)、新潟県十日町市本町5丁目(1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1953年9月(十日町松映)、1968年12月30日(ビル化)
閉館年 : 2004年10月23日
Wikipedia : 十日町松竹
前身館は旬街劇場。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「十日町松映」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では後の十日町娯楽会館の場所に「工事中」。1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「十日町松竹」。2004年の中越地震で被災して休館。2010年の映画館名簿には掲載されていない。建物名は十日町娯楽会館。跡地は「十日町産業文化発信館いこて」。最寄駅はJR飯山線・北越急行ほくほく線十日町駅。
昭和20年代の十日町にあった「旬街劇場」の写真あり。「本日正午開場」の文字が見える。1893年に開館した「旬街座」は戦後に「旬街劇場」に改称した。1968年2月、旬街劇場は「十日町娯楽会館」に名を改めた。「十日町娯楽会館」「ゲーム&ビリヤード」などの文字が見える。2002年現在の「十日町娯楽会館」の写真あり。*61
1953年3月7日には十日町の「旬街劇場」が焼失し、同年9月に「十日町松映」が開館した。松映は1968年6月までその建物で営業し、12月30日に「十日町娯楽会館」の建物が竣工した。撮影年不明の十日町松映の写真あり。花輪が見える。*62
開館年 : 1953年9月(十日町松映)、1968年12月30日(ビル化)
閉館年 : 2004年10月23日
Wikipedia : 十日町松竹
前身館は旬街劇場。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「十日町松映」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では後の十日町娯楽会館の場所に「工事中」。1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「十日町松竹」。2004年の中越地震で被災して休館。2010年の映画館名簿には掲載されていない。建物名は十日町娯楽会館。跡地は「十日町産業文化発信館いこて」。最寄駅はJR飯山線・北越急行ほくほく線十日町駅。
昭和20年代の十日町にあった「旬街劇場」の写真あり。「本日正午開場」の文字が見える。1893年に開館した「旬街座」は戦後に「旬街劇場」に改称した。1968年2月、旬街劇場は「十日町娯楽会館」に名を改めた。「十日町娯楽会館」「ゲーム&ビリヤード」などの文字が見える。2002年現在の「十日町娯楽会館」の写真あり。*61
1953年3月7日には十日町の「旬街劇場」が焼失し、同年9月に「十日町松映」が開館した。松映は1968年6月までその建物で営業し、12月30日に「十日町娯楽会館」の建物が竣工した。撮影年不明の十日町松映の写真あり。花輪が見える。*62
所在地 : 新潟県十日町市本町6-1(2010年・2015年・2018年)
開館年 : 2007年12月15日
閉館年 : 2018年3月11日
Wikipedia : 十日町シネマパラダイス
2008年の映画館名簿には掲載されていない。2010年・2015年・2018年の映画館名簿では「十日町シネマパラダイス」。2018年の映画館名簿では経営会社が夢シネマ株式会社、経営者が岡元真弓、支配人が岡元豪平、125席。2020年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「セブンイレブン十日町本町店」。最寄駅はJR飯山線・北越急行ほくほく線十日町駅。
2021年5月2日には東京都青梅市に「シネマネコ」が開館予定だったが、緊急事態宣言の影響で延期されている。建物は旧都立繊維試験場をリノベしたものであり、椅子は2018年に閉館した「十日町シネマパラダイス」から譲り受けたものである。*63
「十日町シネマパラダイス」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*64
2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
開館年 : 2007年12月15日
閉館年 : 2018年3月11日
Wikipedia : 十日町シネマパラダイス
2008年の映画館名簿には掲載されていない。2010年・2015年・2018年の映画館名簿では「十日町シネマパラダイス」。2018年の映画館名簿では経営会社が夢シネマ株式会社、経営者が岡元真弓、支配人が岡元豪平、125席。2020年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「セブンイレブン十日町本町店」。最寄駅はJR飯山線・北越急行ほくほく線十日町駅。
2021年5月2日には東京都青梅市に「シネマネコ」が開館予定だったが、緊急事態宣言の影響で延期されている。建物は旧都立繊維試験場をリノベしたものであり、椅子は2018年に閉館した「十日町シネマパラダイス」から譲り受けたものである。*63
「十日町シネマパラダイス」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*64
2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
所在地 : 新潟県南蒲原郡見附町渡り町(1936年)、新潟県南蒲原郡見附町新町(1941年)、新潟県南蒲原郡見附町(1953年)、新潟県見附市見附町(1958年)
開館年 : 1913年
閉館年 : 1958年頃
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年の映画館名簿では「開盛座」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「開盛座」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「開盛座」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
見附市の芝居小屋「開盛座」は長い歴史を有する。昭和30年代後半までは順調だったが、昭和30年代末に経営不振に陥り、昭和40年代には建物が積雪で倒壊した。開盛座の写真あり。*65
大正初期の見附にあった芝居小屋「開盛座」の写真あり。「座盛開」の文字が見える。1913年に開館し、中越地方では長岡の「長盛座」に次ぐ設備の立派さだった。こけら落としには六代目尾上菊五郎を招いている。1965年過ぎに積雪で建物が倒壊した。*66
開館年 : 1913年
閉館年 : 1958年頃
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年の映画館名簿では「開盛座」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「開盛座」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「開盛座」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
見附市の芝居小屋「開盛座」は長い歴史を有する。昭和30年代後半までは順調だったが、昭和30年代末に経営不振に陥り、昭和40年代には建物が積雪で倒壊した。開盛座の写真あり。*65
大正初期の見附にあった芝居小屋「開盛座」の写真あり。「座盛開」の文字が見える。1913年に開館し、中越地方では長岡の「長盛座」に次ぐ設備の立派さだった。こけら落としには六代目尾上菊五郎を招いている。1965年過ぎに積雪で建物が倒壊した。*66
所在地 : 新潟県見附市今町(1960年)、新潟県見附市今町1599(1963年・1965年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1965年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「今町東亜劇場」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「今町銀映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
見附市今町には映画館「銀映」があったが、1963年頃に廃業している。*67
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1965年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「今町東亜劇場」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「今町銀映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
見附市今町には映画館「銀映」があったが、1963年頃に廃業している。*67
所在地 : 新潟県南蒲原郡見附町(1930年)、新潟県南蒲原郡見附町新町(1934年・1936年・1941年・1943年)、新潟県南蒲原郡見附町字新町(1947年)、新潟県南蒲原郡見附町(1950年・1953年)、新潟県見附市新町(1955年・1958年)、新潟県見附市新町257(1960年・1963年)、新潟県見附市新町(1966年)、新潟県見附市新町1-17-25(1969年)、新潟県見附市新町1-17-35(1970年)
開館年 : 1925年12月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1925年12月開館。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「見附館」。1947年の映画館名簿では「見附映画劇場」。1950年の映画館名簿では「見附劇場」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「見附映画劇場」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「第四北越銀行見附支店」西60mにある「新町ビル」建物南側。最寄駅はJR信越本線見附駅。
見附市には映画館「見附館」(見附映画劇場)があったが、1970年頃に廃業した。*68
1933年の見附町の織物組合から南を見た写真あり。左の洋館は「見附館」である。*69
開館年 : 1925年12月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1925年12月開館。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「見附館」。1947年の映画館名簿では「見附映画劇場」。1950年の映画館名簿では「見附劇場」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「見附映画劇場」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「第四北越銀行見附支店」西60mにある「新町ビル」建物南側。最寄駅はJR信越本線見附駅。
見附市には映画館「見附館」(見附映画劇場)があったが、1970年頃に廃業した。*68
1933年の見附町の織物組合から南を見た写真あり。左の洋館は「見附館」である。*69
所在地 : 新潟県北魚沼郡守門村須原1375(1959年)、新潟県北魚沼郡守門村(1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1954年5月
閉館年 : 1962年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「新映館」。1960年の映画館名簿では経営者・支配人ともに高橋博、木造2階建て420席、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
1954年5月、守門村の須原駅前に映画館「新映館」が新築開館した。*72
開館年 : 1954年5月
閉館年 : 1962年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「新映館」。1960年の映画館名簿では経営者・支配人ともに高橋博、木造2階建て420席、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
1954年5月、守門村の須原駅前に映画館「新映館」が新築開館した。*72
所在地 : 新潟県北魚沼郡入広瀬村(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1964年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「只見映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では経営者・支配人ともに遠山吉平、木造2階建て250席、邦画・洋画を上映。1963年・1964年の映画館名簿では「只見映劇」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1964年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「只見映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では経営者・支配人ともに遠山吉平、木造2階建て250席、邦画・洋画を上映。1963年・1964年の映画館名簿では「只見映劇」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県北魚沼郡堀之内町(1955年)、新潟県北魚沼郡堀之内町345(1958年・1960年)、新潟県北魚沼郡堀之内町(1963年・1966年・1969年・1970年・1971年・1972年)
開館年 : 1950年4月
閉館年 : 1972年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年4月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「喜楽座」。1960年の映画館名簿では経営者は渡辺ハルノ、支配人は渡辺功、木造2階建て350席、邦画・洋画を上映。1966年・1969年・1970年・1971年・1972年の映画館名簿では「堀之内喜楽座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「皇大神宮」の北東。最寄駅はJR上越線越後堀之内駅。
1924年の『上越北線名勝案内』には「喜楽座」の広告が掲載されている。「諸興行申込所 上越北線堀之内駅 電話52番」「新派 演劇 貸衣装」とある。*73
堀之内町にあった「喜楽座」は1982年に取り壊された。古めかしい建物の竣工年は定かでないが、江戸時代に旅屋だった建物とされ、閉館時点で築150年以上だったとされる。1950年に渡辺昇が建物を購入し、映画・演劇の劇場「喜楽座」を開館させた。*74
開館年 : 1950年4月
閉館年 : 1972年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年4月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「喜楽座」。1960年の映画館名簿では経営者は渡辺ハルノ、支配人は渡辺功、木造2階建て350席、邦画・洋画を上映。1966年・1969年・1970年・1971年・1972年の映画館名簿では「堀之内喜楽座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「皇大神宮」の北東。最寄駅はJR上越線越後堀之内駅。
1924年の『上越北線名勝案内』には「喜楽座」の広告が掲載されている。「諸興行申込所 上越北線堀之内駅 電話52番」「新派 演劇 貸衣装」とある。*73
堀之内町にあった「喜楽座」は1982年に取り壊された。古めかしい建物の竣工年は定かでないが、江戸時代に旅屋だった建物とされ、閉館時点で築150年以上だったとされる。1950年に渡辺昇が建物を購入し、映画・演劇の劇場「喜楽座」を開館させた。*74
所在地 : 新潟県北魚沼郡小出町柳原(1941年)、新潟県北魚沼郡小出町(1950年・1953年)、新潟県北魚沼郡小出町430(1958年)、新潟県北魚沼郡小出町小出島480(1960年)、新潟県北魚沼郡小出町柳原1(1963年)、新潟県北魚沼郡小出町(1966年)、新潟県北魚沼郡小出町柳原(1969年・1973年)、新潟県北魚沼郡小出町柳原428(1976年・1978年・1980年)
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1980年頃
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「柳生館」。1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「小出柳生館」。1953年の映画館名簿では「柳生館」。1954年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「柳生館」。1960年の映画館名簿では経営者が東亜興業、支配人が沢井保、木造2階、定員450、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿では経営者が長谷川英吉、支配人が弦巻昭治、木造2階、定員700、邦画と洋画を上映。1966年の映画館名簿では経営者は東亜興業、支配人は青島幸雄、木造2階、250席、邦画・洋画を上映。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「小出柳生館」。1969年の映画館名簿では経営者・支配人ともに中村吉次郎、木造2階、250席、邦画と洋画を上映。1973年の映画館名簿では経営者・支配人ともに中村吉次郎、木造2階、200席、邦画と洋画を上映。1978年の映画館名簿では経営者が鈴木富士、支配人が深沢作一、鉄筋造1階、200席、邦画と洋画を上映。1980年の映画館名簿では経営者・支配人ともに中村吉次郎、鉄筋造1階、200席、邦画と洋画を上映。1970年代以後の魚野川改修工事と区画整理事業によって1980年頃に柳原から南本町に移転。最寄駅はJR上越線・只見線小出駅。
戦前の北魚沼郡小出町の横町には劇場「昭和館」があり、旅回りの一座の芝居の興行や、映画の上映などを行っていた。柳原の「柳生館」が台頭したことで昭和館は閉館した。昭和50年代までは柳生館が小出町唯一の映画上映館だったが、テレビの普及で観客数が激減したことで閉館した。*75
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1980年頃
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「柳生館」。1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「小出柳生館」。1953年の映画館名簿では「柳生館」。1954年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「柳生館」。1960年の映画館名簿では経営者が東亜興業、支配人が沢井保、木造2階、定員450、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿では経営者が長谷川英吉、支配人が弦巻昭治、木造2階、定員700、邦画と洋画を上映。1966年の映画館名簿では経営者は東亜興業、支配人は青島幸雄、木造2階、250席、邦画・洋画を上映。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「小出柳生館」。1969年の映画館名簿では経営者・支配人ともに中村吉次郎、木造2階、250席、邦画と洋画を上映。1973年の映画館名簿では経営者・支配人ともに中村吉次郎、木造2階、200席、邦画と洋画を上映。1978年の映画館名簿では経営者が鈴木富士、支配人が深沢作一、鉄筋造1階、200席、邦画と洋画を上映。1980年の映画館名簿では経営者・支配人ともに中村吉次郎、鉄筋造1階、200席、邦画と洋画を上映。1970年代以後の魚野川改修工事と区画整理事業によって1980年頃に柳原から南本町に移転。最寄駅はJR上越線・只見線小出駅。
戦前の北魚沼郡小出町の横町には劇場「昭和館」があり、旅回りの一座の芝居の興行や、映画の上映などを行っていた。柳原の「柳生館」が台頭したことで昭和館は閉館した。昭和50年代までは柳生館が小出町唯一の映画上映館だったが、テレビの普及で観客数が激減したことで閉館した。*75
所在地 : 新潟県北魚沼郡小出町大字小出島字浦之島124-28(1981年)、新潟県北魚沼郡小出町南本町3(1982年・1985年・1990年・1992年)、新潟県北魚沼郡小出町小出島124-28(2000年)、新潟県魚沼市小出島124-28(2005年・2007年)
開館年 : 1980年頃
閉館年 : 2007年頃
1970年代以後の魚野川改修工事と区画整理事業によって1980年頃に柳原から南本町に移転。1981年・1982年・1985年・1990年・1992年の映画館名簿では「小出柳生館」。1981年の映画館名簿では経営者が中村吉次郎、支配人が中村高志、鉄筋造1階、90席、邦画・成人映画を上映。1992年の映画館名簿では経営者が中村吉次郎、鉄筋造1階、96席、邦画・洋画を上映。1995年・1998年の映画館名簿には掲載されていない。2000年の映画館名簿では経営会社が柳生館、経営者・支配人ともに中村高志、鉄筋造1階、66席、邦画と洋画を上映、DS/DSR/DDを設置。2000年・2005年・2007年の映画館名簿では「小出柳生館」。2004年の住宅地図では「柳生館 中村高志」。2008年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「柳原寺」南東60mにある民家。2020年までの「魚沼市役所」の東80m。2010年代まで映画館建物が存在していた。読みは「りゅうせいかん」。最寄駅はJR上越線・只見線小出駅。
開館年 : 1980年頃
閉館年 : 2007年頃
1970年代以後の魚野川改修工事と区画整理事業によって1980年頃に柳原から南本町に移転。1981年・1982年・1985年・1990年・1992年の映画館名簿では「小出柳生館」。1981年の映画館名簿では経営者が中村吉次郎、支配人が中村高志、鉄筋造1階、90席、邦画・成人映画を上映。1992年の映画館名簿では経営者が中村吉次郎、鉄筋造1階、96席、邦画・洋画を上映。1995年・1998年の映画館名簿には掲載されていない。2000年の映画館名簿では経営会社が柳生館、経営者・支配人ともに中村高志、鉄筋造1階、66席、邦画と洋画を上映、DS/DSR/DDを設置。2000年・2005年・2007年の映画館名簿では「小出柳生館」。2004年の住宅地図では「柳生館 中村高志」。2008年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「柳原寺」南東60mにある民家。2020年までの「魚沼市役所」の東80m。2010年代まで映画館建物が存在していた。読みは「りゅうせいかん」。最寄駅はJR上越線・只見線小出駅。
所在地 : 新潟県南魚沼郡石打村(1953年・1955年・1957年)
開館年 : 1948年8月
閉館年 : 1957年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1957年の映画館名簿では「偕楽座」。1957年の映画館名簿では経営者が森下房次郎、木造1階、定員180、邦画を上映。1958年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1948年8月
閉館年 : 1957年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1957年の映画館名簿では「偕楽座」。1957年の映画館名簿では経営者が森下房次郎、木造1階、定員180、邦画を上映。1958年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県南魚沼郡塩沢町(1953年・1955年)、新潟県南魚沼郡塩沢町1516(1957年)
開館年 : 1924年、1948年8月
閉館年 : 1957年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年8月開館。1950年の映画館名簿では「塩沢映劇」。1953年・1955年・1957年の映画館名簿では「塩沢映画劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。
大正初期、塩沢駅に近い塩沢相生町に「鳳座」が建てられた。間口は8間、奥行は13間。もともと繭の販売を行う市場として建てられたこともあり、市場の開設中には芝居などの興行は行われない。近年には「塩沢劇場」に改称した。*76
開館年 : 1924年、1948年8月
閉館年 : 1957年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年8月開館。1950年の映画館名簿では「塩沢映劇」。1953年・1955年・1957年の映画館名簿では「塩沢映画劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。
大正初期、塩沢駅に近い塩沢相生町に「鳳座」が建てられた。間口は8間、奥行は13間。もともと繭の販売を行う市場として建てられたこともあり、市場の開設中には芝居などの興行は行われない。近年には「塩沢劇場」に改称した。*76
所在地 : 新潟県南魚沼郡大巻村五日市(1953年・1955年)、新潟県南魚沼郡六日町大巻(1958年)
開館年 : 1948年8月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「昭和座」。1958年の映画館名簿では「昭和館」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1948年8月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「昭和座」。1958年の映画館名簿では「昭和館」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県南魚沼郡六日町(1959年・1960年・1962年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1962年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「東映寿座」。1960年・1962年の映画館名簿では「東映寺座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1962年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「東映寿座」。1960年・1962年の映画館名簿では「東映寺座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県南魚沼郡大崎村(1955年)、新潟県南魚沼郡大和村大崎(1960年・1962年)
開館年 : 1950年8月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「大崎映画劇場」。1960年・1962年の映画館名簿では「大崎映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1950年8月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「大崎映画劇場」。1960年・1962年の映画館名簿では「大崎映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県南魚沼郡浦佐村(1953年・1955年)、新潟県南魚沼郡大和村浦佐(1958年)、新潟県南魚沼郡大和町浦佐(1963年)
開館年 : 1948年8月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「多聞座」。1958年の映画館名簿では「多聞劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「多聞劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1948年8月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「多聞座」。1958年の映画館名簿では「多聞劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「多聞劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県南魚沼郡石打村(1958年)、新潟県南魚沼郡塩沢町石打172(1960年)、新潟県南魚沼郡塩沢町関(1963年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1964年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「石打劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が関口利夫、支配人が関口茂雄、木造2階建、200席、邦画・洋画を上映。1962年の南魚沼郡住宅明細地図では「石打劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「石打舞子駐在所」北北東100mにある民家。最寄駅はJR上越線石打駅。
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1964年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「石打劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が関口利夫、支配人が関口茂雄、木造2階建、200席、邦画・洋画を上映。1962年の南魚沼郡住宅明細地図では「石打劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「石打舞子駐在所」北北東100mにある民家。最寄駅はJR上越線石打駅。
所在地 : 新潟県南魚沼郡塩沢町(1953年・1955年)、新潟県南魚沼郡塩沢町268(1960年)、新潟県南魚沼郡塩沢町関(1963年)、新潟県南魚沼郡塩沢町(1965年)
開館年 : 1948年8月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「栄盛館」。1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「栄盛座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1948年8月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「栄盛館」。1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「栄盛座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県南魚沼郡六日町(1969年・1973年)、新潟県南魚沼郡六日町大字六日町1478(1976年・1980年)
開館年 : 1968年頃
閉館年 : 1985年頃
1968年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「六日町末広小劇場」。1980年の映画館名簿では「六日町末広座小劇場」。1980年・1983年・1985年の住宅地図では「末広座」の南側に「末広小劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。1986年の住宅地図では跡地に空白。1989年の住宅地図では跡地に「アキヤ」。1994年の住宅地図では跡地に「ダイヤパレス六日町」。跡地は1992年竣工のマンション「ダイアパレス六日町」建物南側。最寄駅はJR上越線六日町駅。
開館年 : 1968年頃
閉館年 : 1985年頃
1968年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「六日町末広小劇場」。1980年の映画館名簿では「六日町末広座小劇場」。1980年・1983年・1985年の住宅地図では「末広座」の南側に「末広小劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。1986年の住宅地図では跡地に空白。1989年の住宅地図では跡地に「アキヤ」。1994年の住宅地図では跡地に「ダイヤパレス六日町」。跡地は1992年竣工のマンション「ダイアパレス六日町」建物南側。最寄駅はJR上越線六日町駅。
所在地 : 新潟県南魚沼郡六日町(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、新潟県南魚沼郡六日町大字六日町1479(1976年・1980年・1985年)
開館年 : 1928年
閉館年 : 1989年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年8月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「末広座」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「六日町末広座」。1980年・1983年・1985年・1986年・1989年の住宅地図では「末広座」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。1994年の住宅地図では跡地に「ダイヤパレス六日町」。跡地は1992年竣工のマンション「ダイアパレス六日町」建物北側。最寄駅はJR上越線六日町駅。
昭和初期の六日町にあった「末広座」の写真あり。「婦人席」や「同伴席」などの文字が見える。1960年頃の末広座の写真あり。富士見通りにあり、映画や芝居を楽しむことができた。2001年現在の末広座の跡地の写真あり。1992年に建設されたマンションが建っている。*77
村松友視は『黄昏のムービー・パレス』で、17ページにわたって六日町末広座についてのエッセイを書いている。1928年に映画も興行する劇場「開扇座」として開館し、やがて末広座に改称した。かつて末広座の建物は合掌造りであり、天井には絵が描かれていたが、村松が訪れる20年ほど前に改修している。2階席にはこたつが用意されており、こたつ代は300円だった。『ベン・ハー』、『サウンド・オブ・ミュージック』、『南極物語』、『日本沈没』、『タワーリング・インフェルノ』、『燃えよドラゴン』、『野麦峠』、『典子は今』などの客入りがよかった。*78
開館年 : 1928年
閉館年 : 1989年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年8月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「末広座」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「六日町末広座」。1980年・1983年・1985年・1986年・1989年の住宅地図では「末広座」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。1994年の住宅地図では跡地に「ダイヤパレス六日町」。跡地は1992年竣工のマンション「ダイアパレス六日町」建物北側。最寄駅はJR上越線六日町駅。
昭和初期の六日町にあった「末広座」の写真あり。「婦人席」や「同伴席」などの文字が見える。1960年頃の末広座の写真あり。富士見通りにあり、映画や芝居を楽しむことができた。2001年現在の末広座の跡地の写真あり。1992年に建設されたマンションが建っている。*77
村松友視は『黄昏のムービー・パレス』で、17ページにわたって六日町末広座についてのエッセイを書いている。1928年に映画も興行する劇場「開扇座」として開館し、やがて末広座に改称した。かつて末広座の建物は合掌造りであり、天井には絵が描かれていたが、村松が訪れる20年ほど前に改修している。2階席にはこたつが用意されており、こたつ代は300円だった。『ベン・ハー』、『サウンド・オブ・ミュージック』、『南極物語』、『日本沈没』、『タワーリング・インフェルノ』、『燃えよドラゴン』、『野麦峠』、『典子は今』などの客入りがよかった。*78
所在地 : 新潟県南魚沼郡塩沢町塩沢1325(1966年・1969年)、新潟県南魚沼郡塩沢町塩沢1325(1973年・1976年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1965年頃
閉館年 : 1990年頃
1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では経営者・支配人ともに荒井正治、木造2階建て400席、東宝・大映・東映・日活を上映。1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「塩沢中央劇場」。1973年・1978年の映画館名簿では経営会社は荒井興行、経営者・支配人ともに荒井正治、木造2階建て300席、邦画と成人映画を上映。1980年の映画館名簿では「塩沢中央」。1983年・1986年・1989年の住宅地図では「塩沢中央劇場」。1985年の映画館名簿では「塩沢中央劇場」。1990年の映画館名簿では「塩沢中央」。1994年の住宅地図では「塩沢中央劇場(荒井)」。1991年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は「青木酒造」西100mに現存。最寄駅はJR上越線塩沢駅。
昭和30年代の「山田映画館」(※塩沢のどの映画館のことか不明)前で撮影された写真あり。塩沢町商工会の人々が仮装しており、清水の次郎長一行、西遊記の一行などの姿が見える。*79
開館年 : 1965年頃
閉館年 : 1990年頃
1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では経営者・支配人ともに荒井正治、木造2階建て400席、東宝・大映・東映・日活を上映。1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「塩沢中央劇場」。1973年・1978年の映画館名簿では経営会社は荒井興行、経営者・支配人ともに荒井正治、木造2階建て300席、邦画と成人映画を上映。1980年の映画館名簿では「塩沢中央」。1983年・1986年・1989年の住宅地図では「塩沢中央劇場」。1985年の映画館名簿では「塩沢中央劇場」。1990年の映画館名簿では「塩沢中央」。1994年の住宅地図では「塩沢中央劇場(荒井)」。1991年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は「青木酒造」西100mに現存。最寄駅はJR上越線塩沢駅。
昭和30年代の「山田映画館」(※塩沢のどの映画館のことか不明)前で撮影された写真あり。塩沢町商工会の人々が仮装しており、清水の次郎長一行、西遊記の一行などの姿が見える。*79
所在地 : 新潟県南魚沼郡六日町大字余川3079(1998年)、新潟県南魚沼郡六日町余川3079(2000年)、新潟県南魚沼市大字余川3079(2005年・2006年)
開館年 : 1996年12月16日
閉館年 : 2006年5月28日
1995年の映画館名簿には掲載されていない。1998年・2000年・2005年・2006年の映画館名簿では「六日町シネマ」。2006年の映画館名簿では経営会社が十日町興業、経営者・支配人ともに村武正継、鉄筋造2階、100席、邦画・洋画を上映。2010年の映画館名簿には掲載されていない。イオン六日町店。建物のイオン六日町店は現存。最寄駅はJR上越線六日町駅。
1996年12月16日、新潟県南魚沼郡六日町にこたつ席付きの映画館が開館した。椅子席150席とスクリーンの間の床部分にカーペットなどを指揮、1メートル四方の電気こたつ4個を並べている。初日は手違いで電気が入っていなかったが、若者が寝転がって鑑賞していた。特別料金は必要ない。十日町には10年ほど前までもこたつ席のある劇場があり、その伝統を受け継いだ。*80
関越自動車道の六日町インターチェンジ近くにはジャスコを核とするショッピングセンターがあり、ジャスコの脇にあるテナント19店舗が入居するコロンバスには、こたつ席付きの映画館がある。*81
開館年 : 1996年12月16日
閉館年 : 2006年5月28日
1995年の映画館名簿には掲載されていない。1998年・2000年・2005年・2006年の映画館名簿では「六日町シネマ」。2006年の映画館名簿では経営会社が十日町興業、経営者・支配人ともに村武正継、鉄筋造2階、100席、邦画・洋画を上映。2010年の映画館名簿には掲載されていない。イオン六日町店。建物のイオン六日町店は現存。最寄駅はJR上越線六日町駅。
1996年12月16日、新潟県南魚沼郡六日町にこたつ席付きの映画館が開館した。椅子席150席とスクリーンの間の床部分にカーペットなどを指揮、1メートル四方の電気こたつ4個を並べている。初日は手違いで電気が入っていなかったが、若者が寝転がって鑑賞していた。特別料金は必要ない。十日町には10年ほど前までもこたつ席のある劇場があり、その伝統を受け継いだ。*80
関越自動車道の六日町インターチェンジ近くにはジャスコを核とするショッピングセンターがあり、ジャスコの脇にあるテナント19店舗が入居するコロンバスには、こたつ席付きの映画館がある。*81
所在地 : 新潟県南魚沼郡湯沢町(1963年・1966年・1968年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1968年頃
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の南魚沼郡住宅明細地図では「東映」。1963年の映画館名簿では「湯沢東映」。1966年・1968年の映画館名簿では「湯沢東映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1983年の住宅地図では跡地に「旅館食堂保よし」。現在の跡地はレストラン「保よし」。最寄駅はJR上越新幹線・上越線越後湯沢駅。
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1968年頃
1962年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の南魚沼郡住宅明細地図では「東映」。1963年の映画館名簿では「湯沢東映」。1966年・1968年の映画館名簿では「湯沢東映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1983年の住宅地図では跡地に「旅館食堂保よし」。現在の跡地はレストラン「保よし」。最寄駅はJR上越新幹線・上越線越後湯沢駅。
所在地 : 新潟県南魚沼郡湯沢村(1953年・1955年)、新潟県南魚沼郡湯沢町2875(1958年)、新潟県南魚沼郡湯沢町2873(1960年)、新潟県南魚沼郡湯沢町(1963年・1969年・1970年)
開館年 : 1948年8月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「旭座」。1962年の南魚沼郡住宅明細地図では発見できず。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1970年の映画館名簿では「湯沢旭座」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1948年8月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「旭座」。1962年の南魚沼郡住宅明細地図では発見できず。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1970年の映画館名簿では「湯沢旭座」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県中魚沼郡下船渡村(1953年・1955年)、新潟県中魚沼郡津南町(1958年・1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1935年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「大割野劇場」。1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「津南劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1935年以前
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「大割野劇場」。1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「津南劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県中魚沼郡津南町大割野(1959年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1973年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「津南映劇」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「津南映画劇場」。1969年の住宅地図では「映劇」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「津南町役場」北西100mの駐車場。最寄駅はJR飯山線津南駅。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1973年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「津南映劇」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「津南映画劇場」。1969年の住宅地図では「映劇」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「津南町役場」北西100mの駐車場。最寄駅はJR飯山線津南駅。
所在地 : 新潟県西頚城郡青海町(1941年)
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1941年以後1943年以前
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「青海キネマ」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1941年以後1943年以前
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「青海キネマ」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県糸魚川市中央区(1959年・1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1962年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「ひかり劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が中央興行、支配人が樋口正雄、木造2階冷暖房付、定員277、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1962年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「ひかり劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が中央興行、支配人が樋口正雄、木造2階冷暖房付、定員277、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県西頸城郡糸魚川町(1941年・1943年)、新潟県西頸城郡糸魚川町大町(1947年)、新潟県西頸城郡糸魚川町(1950年・1953年)、新潟県糸魚川市大町(1955年)、新潟県糸魚川市大字大町127(1958年)、新潟県糸魚川市大町127(1960年・1963年)、新潟県糸魚川市大町(1966年)、新潟県糸魚川市大町198-1(1969年)
開館年 : 1923年1月9日、1937年(建て替え)
閉館年 : 1968年
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「糸魚川劇場」。1943年の映画館名簿では「糸魚川映劇」。1947年の映画館名簿では「糸魚川映画劇場」。1950年の映画館名簿では「糸魚川劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「糸魚川映画劇場」。1958年の映画館名簿では「糸魚川東映」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「糸魚川映画劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「北陸家具」。最寄駅はJR大糸線・えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン糸魚川駅。
1932年の『大日本職業別明細図 第283号』「糸魚川町」には「劇場」が描かれている。*82
明治末期から大正期には西頸城郡にも相次いで劇場や芝居小屋が建設された。下早川村(現・糸魚川市)新町には新富座、大和川村(現・糸魚川市)梶屋敷には大平座が開館。1913年には糸魚川町大町に金楽座が、1923年には同じく糸魚川町大町に糸魚川劇場が開館した。
1950年頃の糸魚川町にあった「糸魚川劇場」の写真あり。「場劇川魚糸」の文字が見える。『情女』や『炎のサロメ』の看板が見える。1923年1月9日に開館し、開館当初は弁士付きで無声映画を上映した。1928年5月にはトーキー映画が登場したが、同年の糸魚川大火で焼失した。1937年に再建され、やがて「糸魚川映画劇場」や「糸魚川東映劇場」に改称した。1953年頃の改装記念写真あり。花輪が見える。内装を含めて全面改装された。1959年頃からテレビが普及したことで観客数が減少し、1968年に閉館した。ボウリング場、パチンコ店、家具店に姿を変えて2007年現在に至っている。2007年現在の跡地の写真あり。「ブラボー」の文字が見える。*83
1928年5月には「糸魚川劇場」で初めてトーキー映画が上映された。糸魚川劇場はやがて「糸魚川映画劇場」、「糸魚川東映劇場」に改称した。1968年閉館とされる。*84
1962年頃の田辺化工機の社史『創業四十年』には、本社所在地を示す地図の中に「糸魚川劇場」が描かれている。*85
開館年 : 1923年1月9日、1937年(建て替え)
閉館年 : 1968年
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「糸魚川劇場」。1943年の映画館名簿では「糸魚川映劇」。1947年の映画館名簿では「糸魚川映画劇場」。1950年の映画館名簿では「糸魚川劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「糸魚川映画劇場」。1958年の映画館名簿では「糸魚川東映」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「糸魚川映画劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「北陸家具」。最寄駅はJR大糸線・えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン糸魚川駅。
1932年の『大日本職業別明細図 第283号』「糸魚川町」には「劇場」が描かれている。*82
明治末期から大正期には西頸城郡にも相次いで劇場や芝居小屋が建設された。下早川村(現・糸魚川市)新町には新富座、大和川村(現・糸魚川市)梶屋敷には大平座が開館。1913年には糸魚川町大町に金楽座が、1923年には同じく糸魚川町大町に糸魚川劇場が開館した。
1950年頃の糸魚川町にあった「糸魚川劇場」の写真あり。「場劇川魚糸」の文字が見える。『情女』や『炎のサロメ』の看板が見える。1923年1月9日に開館し、開館当初は弁士付きで無声映画を上映した。1928年5月にはトーキー映画が登場したが、同年の糸魚川大火で焼失した。1937年に再建され、やがて「糸魚川映画劇場」や「糸魚川東映劇場」に改称した。1953年頃の改装記念写真あり。花輪が見える。内装を含めて全面改装された。1959年頃からテレビが普及したことで観客数が減少し、1968年に閉館した。ボウリング場、パチンコ店、家具店に姿を変えて2007年現在に至っている。2007年現在の跡地の写真あり。「ブラボー」の文字が見える。*83
1928年5月には「糸魚川劇場」で初めてトーキー映画が上映された。糸魚川劇場はやがて「糸魚川映画劇場」、「糸魚川東映劇場」に改称した。1968年閉館とされる。*84
1962年頃の田辺化工機の社史『創業四十年』には、本社所在地を示す地図の中に「糸魚川劇場」が描かれている。*85
所在地 : 新潟県西頚城郡青海町(1936年・1941年・1953年・1955年・1958年)、新潟県西頚城郡青海町1010(1960年)、新潟県西頚城郡青海町(1963年・1966年)
開館年 : 1932年以前、1952年11月23日
閉館年 : 1972年3月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年の映画館名簿では「北斗座」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「北斗座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「中央地区公民館」南西40mの更地。最寄駅はえちごトキめき鉄道日本海ひすいライン青海駅。
1932年の『大日本職業別明細図 第283号』「青海町」には「北斗座」が描かれている。*86
1952年の西頚城郡青海町にあった劇場「北斗座」の開館記念公演の写真あり。電気化学工業(デンカ)はそれまであった劇場「北斗座」を取り壊し、1952年11月に鉄筋コンクリート造で新築した。屋上には電気化学工業のシンボルである軍配印のネオンが輝いている。1952年11月23日から26日まで、ブルースの女王と呼ばれた淡谷のり子の公演が行われた。電気化学工業の劇場だった。民謡歌手の鈴木正夫なども来館している。歌謡・日本舞踊・漫才などの公演が行われ、映画の上映も行われた。1972年3月に劇場から体育館に改修された。2014年11月、老朽化のために取り壊された。*87
開館年 : 1932年以前、1952年11月23日
閉館年 : 1972年3月
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年の映画館名簿では「北斗座」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「北斗座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「中央地区公民館」南西40mの更地。最寄駅はえちごトキめき鉄道日本海ひすいライン青海駅。
1932年の『大日本職業別明細図 第283号』「青海町」には「北斗座」が描かれている。*86
1952年の西頚城郡青海町にあった劇場「北斗座」の開館記念公演の写真あり。電気化学工業(デンカ)はそれまであった劇場「北斗座」を取り壊し、1952年11月に鉄筋コンクリート造で新築した。屋上には電気化学工業のシンボルである軍配印のネオンが輝いている。1952年11月23日から26日まで、ブルースの女王と呼ばれた淡谷のり子の公演が行われた。電気化学工業の劇場だった。民謡歌手の鈴木正夫なども来館している。歌謡・日本舞踊・漫才などの公演が行われ、映画の上映も行われた。1972年3月に劇場から体育館に改修された。2014年11月、老朽化のために取り壊された。*87
所在地 : 新潟県糸魚川市大町135(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1959年
閉館年 : 1972年頃
1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「糸魚川銀座映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1980年の日興住宅地図では跡地に「銀星会館」。跡地は「幸福の科学糸魚川支部」。最寄駅はJR大糸線・えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン糸魚川駅。
1959年の糸魚川市にあった映画館「糸魚川銀座映画劇場」の写真あり。1959年の開館間もない時期の写真。「銀映」と呼ばれた。当時は映画黄金期であり、糸魚川市には銀映のほかに「糸魚川映画劇場」、「中央映画劇場」、「ひかり劇場」があった。*88
1972年5月20日時点で糸魚川市の映画館「糸魚川銀座映画劇場」は「みいちゃん通り」に存在した。*89
『糸魚川市史 昭和編3』には開館時の記念写真が掲載されている。*90
開館年 : 1959年
閉館年 : 1972年頃
1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「糸魚川銀座映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1980年の日興住宅地図では跡地に「銀星会館」。跡地は「幸福の科学糸魚川支部」。最寄駅はJR大糸線・えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン糸魚川駅。
1959年の糸魚川市にあった映画館「糸魚川銀座映画劇場」の写真あり。1959年の開館間もない時期の写真。「銀映」と呼ばれた。当時は映画黄金期であり、糸魚川市には銀映のほかに「糸魚川映画劇場」、「中央映画劇場」、「ひかり劇場」があった。*88
1972年5月20日時点で糸魚川市の映画館「糸魚川銀座映画劇場」は「みいちゃん通り」に存在した。*89
『糸魚川市史 昭和編3』には開館時の記念写真が掲載されている。*90
所在地 : 新潟県糸魚川市中央区大町(1958年)、新潟県糸魚川市中央区(1960年・1963年)、新潟県糸魚川市新屋(1966年)、新潟県糸魚川市中央区(1969年・1973年)、新潟県糸魚川市大町237-27(1976年・1978年・1980年)、新潟県糸魚川市大町1-1-21(1985年・1990年・1992年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1989年5月?
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「中央映画劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が中央興行、支配人が須藤彰、木造2階暖房付、定員350、大映・東宝・新東宝を上映。1963年の映画館名簿では「糸魚川中央映劇」。1966年の映画館名簿では「糸魚川中央映画劇場」。1969年・1973年・1976年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「糸魚川中央劇場」。1980年の日興住宅地図では「中央映画劇場」。1990年・1992年の映画館名簿では「糸魚川中央」。1992年の映画館名簿では経営会社が中央映劇興業、経営者・支配人ともに谷村貴、木造1階、168席、邦画・洋画を上映。1993年の映画館名簿には掲載されていない。糸魚川市最後の映画館。跡地は「JAひすい糸魚川支店」南西50mの駐車場。最寄駅はJR大糸線・えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン糸魚川駅。
映画年鑑には1956年版から1968年版に「中央映画劇場」の名が、1969年版から1984年版に「糸魚川中央劇場」の名がある。1984年から1989年までの動向は不明だが、1989年5月に閉館したとされる。糸魚川市唯一の映画館だったため、1か月の間にアニメ、邦画、成人映画、洋画など様々な映画を上映していた。『日本沈没』(1973年)が上映された際には満員となった。入れ替え制ではなかった。*91
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1989年5月?
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「中央映画劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が中央興行、支配人が須藤彰、木造2階暖房付、定員350、大映・東宝・新東宝を上映。1963年の映画館名簿では「糸魚川中央映劇」。1966年の映画館名簿では「糸魚川中央映画劇場」。1969年・1973年・1976年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「糸魚川中央劇場」。1980年の日興住宅地図では「中央映画劇場」。1990年・1992年の映画館名簿では「糸魚川中央」。1992年の映画館名簿では経営会社が中央映劇興業、経営者・支配人ともに谷村貴、木造1階、168席、邦画・洋画を上映。1993年の映画館名簿には掲載されていない。糸魚川市最後の映画館。跡地は「JAひすい糸魚川支店」南西50mの駐車場。最寄駅はJR大糸線・えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン糸魚川駅。
映画年鑑には1956年版から1968年版に「中央映画劇場」の名が、1969年版から1984年版に「糸魚川中央劇場」の名がある。1984年から1989年までの動向は不明だが、1989年5月に閉館したとされる。糸魚川市唯一の映画館だったため、1か月の間にアニメ、邦画、成人映画、洋画など様々な映画を上映していた。『日本沈没』(1973年)が上映された際には満員となった。入れ替え制ではなかった。*91
所在地 : 新潟県中頸城郡妙高村(1956年・1957年)、新潟県中頸城郡妙高村大字関山(1958年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1958年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年の映画館名簿では「妙高銀映」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1958年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年の映画館名簿では「妙高銀映」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県中頸城郡関山村関山(1953年・1955年)、新潟県中頸城郡妙高村大字関山(1958年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1958年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「武蔵野館」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1958年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「武蔵野館」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県中頸城郡新井町字新井818(1947年)、新潟県中頸城郡新井町大字新井818(1950年)、新潟県中頸城郡新井町(1953年・1955年・1958年)
開館年 : 1921年11月1日、1944年4月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1944年4月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「新井劇場」。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「新井映画劇場」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「新井商工会議所」。えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン新井駅。
1921年には資本金3万円で「新井劇場」が設立された。同年11月1日から11月3日まで、東京・市村座の大谷友右衛門や板東三津五郎など120人を招いて落成記念公演が行われた。「新井劇場」はやがて大改築されて「新井映画劇場」となった。映画人口の減少に合わせて閉館し、跡地には新井商工会議所が建てられた。昭和初期の「新井劇場」の写真あり。「場劇井新」の文字が見える。1935年の「新井映画劇場」の写真あり。「新井映画劇場」の文字や花輪が見える。*92
昭和10年代の新井町にあった「新井映画劇場」開館時の写真あり。「新井劇場」が新装オープンし、名前に"映画"の2文字を加えた。*93
開館年 : 1921年11月1日、1944年4月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1944年4月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「新井劇場」。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「新井映画劇場」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「新井商工会議所」。えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン新井駅。
1921年には資本金3万円で「新井劇場」が設立された。同年11月1日から11月3日まで、東京・市村座の大谷友右衛門や板東三津五郎など120人を招いて落成記念公演が行われた。「新井劇場」はやがて大改築されて「新井映画劇場」となった。映画人口の減少に合わせて閉館し、跡地には新井商工会議所が建てられた。昭和初期の「新井劇場」の写真あり。「場劇井新」の文字が見える。1935年の「新井映画劇場」の写真あり。「新井映画劇場」の文字や花輪が見える。*92
昭和10年代の新井町にあった「新井映画劇場」開館時の写真あり。「新井劇場」が新装オープンし、名前に"映画"の2文字を加えた。*93
所在地 : 新潟県中頸城郡名香山村(1950年)、新潟県中頸城郡名香山村関川(1953年・1955年)、新潟県中頸城郡妙高高原町妙高温泉(1958年・1960年)、新潟県中頸城郡妙高高原町(1963年・1965年)
開館年 : 1946年4月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年4月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「妙高会館」。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「七福シネマ」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1946年4月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年4月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「妙高会館」。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「七福シネマ」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県新井市新井町(1956年)、新潟県新井市東雲町(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)、新潟県新井市東雲町317-1(1976年・1978年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1978年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1976年・1978年の映画館名簿では「新井松竹館」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「アシダニット新井工場」。最寄駅はえちごトキめき鉄道妙高はねうまライン新井駅。
昭和30年代の新井市にあった「松竹映画館」の写真あり。戦後すぐにできたボクシングジムの東洋拳闘クラブ道場は、1953年頃に松竹映画館となった。1964年にはまず「新井劇場」が廃業し、道路拡幅工事の影響で松竹映画館も廃業した。2007年現在の松竹映画館跡地はニット工場となっている。*94
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1978年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1976年・1978年の映画館名簿では「新井松竹館」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「アシダニット新井工場」。最寄駅はえちごトキめき鉄道妙高はねうまライン新井駅。
昭和30年代の新井市にあった「松竹映画館」の写真あり。戦後すぐにできたボクシングジムの東洋拳闘クラブ道場は、1953年頃に松竹映画館となった。1964年にはまず「新井劇場」が廃業し、道路拡幅工事の影響で松竹映画館も廃業した。2007年現在の松竹映画館跡地はニット工場となっている。*94
所在地 : 新潟県佐渡郡両津町(1930年・1934年)、新潟県佐渡郡両津町大字夷(1936年)
開館年 : 1923年頃
閉館年 : 1944年
1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「両津劇場」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
大正時代の両津町谷地(1981年現在の春日町)にあった「両津劇場」の写真あり。両津町には「橋本座」もあった。*95
1922年の両津町にあった「両津劇場」の写真あり。1984年現在の春日町の栄治屋商店の場所。*96
大正から昭和初期の両津町谷地の「両津劇場」で行われた演奏会の写真あり。現在の佐渡市春日町。1923年頃に開館し、1944年まで営業した。*97
1929年の『大日本職業別明細図 第182号』「両津町」には「橋本座」「両津劇場」が描かれている。*98
開館年 : 1923年頃
閉館年 : 1944年
1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「両津劇場」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
大正時代の両津町谷地(1981年現在の春日町)にあった「両津劇場」の写真あり。両津町には「橋本座」もあった。*95
1922年の両津町にあった「両津劇場」の写真あり。1984年現在の春日町の栄治屋商店の場所。*96
大正から昭和初期の両津町谷地の「両津劇場」で行われた演奏会の写真あり。現在の佐渡市春日町。1923年頃に開館し、1944年まで営業した。*97
1929年の『大日本職業別明細図 第182号』「両津町」には「橋本座」「両津劇場」が描かれている。*98
所在地 : 新潟県佐渡郡相川町
開館年 : 1915年
閉館年 : 1948年
各年版の映画館名簿には掲載されていない。映画館ではなく芝居小屋。跡地は「玉泉寺」東北東50mにある駐車場。最寄港は両津港。
1925年の「相川市街略図」には、塩釜社の下に「劇場 相川館」(※相川座ではなく相川館)が描かれている。*99
相川町2丁目裏町にあった常設劇場「相川館」。渡部七十郎によって総工費5000円で建てられた。1915年7月13日に舞台開きが行われ、7月14日から7月20日まではこけら落としとして東京名代歌舞伎劇場の錦座松本錦枝一行が来演した。間口は7間半、奥行は15間。2階建の洋風建築だった。相川唯一の常小屋であり、映画・演劇・浪曲・民謡などの興行が行われた。1948年の火災で焼失した。*100
開館年 : 1915年
閉館年 : 1948年
各年版の映画館名簿には掲載されていない。映画館ではなく芝居小屋。跡地は「玉泉寺」東北東50mにある駐車場。最寄港は両津港。
1925年の「相川市街略図」には、塩釜社の下に「劇場 相川館」(※相川座ではなく相川館)が描かれている。*99
相川町2丁目裏町にあった常設劇場「相川館」。渡部七十郎によって総工費5000円で建てられた。1915年7月13日に舞台開きが行われ、7月14日から7月20日まではこけら落としとして東京名代歌舞伎劇場の錦座松本錦枝一行が来演した。間口は7間半、奥行は15間。2階建の洋風建築だった。相川唯一の常小屋であり、映画・演劇・浪曲・民謡などの興行が行われた。1948年の火災で焼失した。*100
所在地 : 新潟県佐渡郡真野村(1953年・1955年)
開館年 : 1921年10月
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1921年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「新盛座」。1955年の映画館名簿では経営者・支配人ともに記載なし、構造が記載なし、定員が記載なし、混合を上映。1956年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「尾畑酒造」東北東180mの駐車場。最寄港は両津港。
真野町新町の観音小路には常設劇場「新盛座」があった。大正初期に建てられた。1983年現在は存在しない。*101
『写真アルバム 佐渡の昭和』は1957年の真野新町にあった「新盛座」に言及している。現物は未確認。*102
開館年 : 1921年10月
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1921年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「新盛座」。1955年の映画館名簿では経営者・支配人ともに記載なし、構造が記載なし、定員が記載なし、混合を上映。1956年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「尾畑酒造」東北東180mの駐車場。最寄港は両津港。
真野町新町の観音小路には常設劇場「新盛座」があった。大正初期に建てられた。1983年現在は存在しない。*101
『写真アルバム 佐渡の昭和』は1957年の真野新町にあった「新盛座」に言及している。現物は未確認。*102
所在地 : 新潟県佐渡郡新穂村(1953年・1955年)
開館年 : 1919年4月
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1919年4月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「開盛座」。1955年の映画館名簿では経営者が伊藤清右衛門、支配人が伊藤博、構造が記載なし、定員が記載なし、混合を上映。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1919年4月
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1919年4月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「開盛座」。1955年の映画館名簿では経営者が伊藤清右衛門、支配人が伊藤博、構造が記載なし、定員が記載なし、混合を上映。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県佐渡郡金沢村(1953年)、新潟県佐渡郡金沢村千種331(1955年)
開館年 : 1934年8月
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1934年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「金沢座」。1955年の映画館名簿では経営者が中塚孝一、支配人が記載なし、木造2階、定員が記載なし、混合を上映。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1934年8月
閉館年 : 1955年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1934年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「金沢座」。1955年の映画館名簿では経営者が中塚孝一、支配人が記載なし、木造2階、定員が記載なし、混合を上映。1956年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県佐渡郡小木町510(1959年・1960年)、新潟県佐渡郡小木町(1961年)
開館年 : 1881年
閉館年 : 1961年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「琴平座」。1961年の映画館名簿では経営者が記載なし、支配人が吉沢芳次郎、木造2階、定員300、上映系統が記載なし。1962年の映画館名簿には掲載されていない。1968年3月解体。
1951年の小木町の「琴平座」で行われた小木洋裁学院第1回ファッションショーの写真あり。*103
1962年現在、小木町の「琴平座」には佐渡島唯一の廻り舞台が現存している。1881年、小木町内から琴平神社隣接地に移築された。建物は梁間6間、桁行12間。館主は一柳幸吉。*104
1968年に琴平座主の一柳幸吉が死去したことで、同年3月には小木町の「琴平座」(小木の舞台)が解体された。琴平宮隣接地にあった。間口7.5間、奥行12.5間の芝居小屋であり、舞台は間口6間、奥行4間。廻り舞台の直径は3.5間。*105
開館年 : 1881年
閉館年 : 1961年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「琴平座」。1961年の映画館名簿では経営者が記載なし、支配人が吉沢芳次郎、木造2階、定員300、上映系統が記載なし。1962年の映画館名簿には掲載されていない。1968年3月解体。
1951年の小木町の「琴平座」で行われた小木洋裁学院第1回ファッションショーの写真あり。*103
1962年現在、小木町の「琴平座」には佐渡島唯一の廻り舞台が現存している。1881年、小木町内から琴平神社隣接地に移築された。建物は梁間6間、桁行12間。館主は一柳幸吉。*104
1968年に琴平座主の一柳幸吉が死去したことで、同年3月には小木町の「琴平座」(小木の舞台)が解体された。琴平宮隣接地にあった。間口7.5間、奥行12.5間の芝居小屋であり、舞台は間口6間、奥行4間。廻り舞台の直径は3.5間。*105
所在地 : 新潟県佐渡郡畑野村(1953年)、新潟県佐渡郡畑野村畑野39(1955年)、新潟県佐渡郡畑野村畑町39(1958年・1960年)、新潟県佐渡郡畑野町39(1963年・1964年)
開館年 : 1921年10月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1921年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「千歳座」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに奥田庄一郎、木造2階、定員350、上映系統が記載なし。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1921年10月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1921年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「千歳座」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに奥田庄一郎、木造2階、定員350、上映系統が記載なし。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 新潟県佐渡郡(1953年)、新潟県佐渡郡河原町(1955年)、新潟県佐渡郡佐和田町字河原田(1958年)、新潟県佐渡郡佐和田町河原田諏訪町(1960年)、新潟県佐渡郡佐和田町大字河原田諏訪町(1961年)、新潟県佐渡郡佐和田町字河原町(1962年)、新潟県佐渡郡佐和田町(1963年)、新潟県佐渡郡佐和田町大字河原田(1964年)、新潟県佐渡郡佐和田町(1965年)
開館年 : 1921年4月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1921年4月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「入江座」。1961年・1962年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「佐和田劇場」。1964年の映画館名簿では経営者が橋本圭三、支配人が記載なし、木造2階、定員500、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
かつて佐和田町にあった娯楽の殿堂「入江座」の写真あり。*106
1957年頃の佐渡郡佐和田町にあった「入江座」の写真あり。「松竹契約三十周年記念」の文字や花輪が見える。1957年公開の『喜びも悲しみも幾歳月』も看板が見える。1897年頃に橋本新平が河原田に開館させた活動写真館が入江座の始まりだという。入江座は1960年頃まで繁昌したが、テレビの普及で観客が減少して閉館した。*107
1922年12月の『佐渡日報』には「入江座」という座名がみられる。2代目橋本新平は佐和田町の諏訪町海方の裏に劇場「入江座」を建て、映画や芝居、各種興行を行った。入江小路の突き当りである。*108
1929年の『大日本職業別明細図 第182号』「河原田町」には「入江座」が描かれている。*109
昭和20年代の河原田町にあった「入江座」を訪れた松竹スターの佐野周二らの記念写真あり。1907年頃に「さかえ座」として創立し、大正期に入江座に改称した。映画、浪曲、芝居などの興行が行われた。*110
『佐渡ジャーナル』2020年1月号には出山正「私の望郷録 6 記憶に残る文芸作品と佐和田劇場」が掲載されている。現物は未確認。*111
開館年 : 1921年4月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1921年4月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「入江座」。1961年・1962年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「佐和田劇場」。1964年の映画館名簿では経営者が橋本圭三、支配人が記載なし、木造2階、定員500、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
かつて佐和田町にあった娯楽の殿堂「入江座」の写真あり。*106
1957年頃の佐渡郡佐和田町にあった「入江座」の写真あり。「松竹契約三十周年記念」の文字や花輪が見える。1957年公開の『喜びも悲しみも幾歳月』も看板が見える。1897年頃に橋本新平が河原田に開館させた活動写真館が入江座の始まりだという。入江座は1960年頃まで繁昌したが、テレビの普及で観客が減少して閉館した。*107
1922年12月の『佐渡日報』には「入江座」という座名がみられる。2代目橋本新平は佐和田町の諏訪町海方の裏に劇場「入江座」を建て、映画や芝居、各種興行を行った。入江小路の突き当りである。*108
1929年の『大日本職業別明細図 第182号』「河原田町」には「入江座」が描かれている。*109
昭和20年代の河原田町にあった「入江座」を訪れた松竹スターの佐野周二らの記念写真あり。1907年頃に「さかえ座」として創立し、大正期に入江座に改称した。映画、浪曲、芝居などの興行が行われた。*110
『佐渡ジャーナル』2020年1月号には出山正「私の望郷録 6 記憶に残る文芸作品と佐和田劇場」が掲載されている。現物は未確認。*111
所在地 : 新潟県佐渡郡相川町(1952年・1953年・1955年)、新潟県佐渡郡相川町羽田(1958年)、新潟県佐渡郡相川町大字羽田町(1960年)、新潟県佐渡郡相川町字羽田40(1961年)、新潟県佐渡郡相川町(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1949年7月
閉館年 : 1967年7月
『全国映画館総覧 1955』によると1949年7月開館。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年の映画館名簿では「相川館」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「相川劇場」。1955年の映画館名簿では経営者が中塚孝一、支配人が記載なし、木造2階、定員250、混合を上映。1964年の映画館名簿では経営者が伏見喜市、支配人が伏見桂也、木造2階、定員500、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「相川郵便局」南西30mの「NTT東日本相川電話交換所」廃墟。最寄港は両津港。
1953年、佐渡おけさで知られる民謡歌手の村田文三は、相川町名誉町民第1号に推挙された。1955年11月3日には新潟県文化功労者に推挙された。1956年8月10日に死去し、8月19日には「相川劇場」で葬儀が行われた。*112
1955年12月、相川町議会で町有の「相川劇場」を業者に売却する町長提案が否決された。*113
1956年3月14日の相川町議会において、相川公民館(劇場)がきよせ興行社の伏見喜市に400万円で売却する決議がなされ、3月16日に売買契約が完了した。きよせ興行社にとっては念願の劇場経営であり、3月31日に相川劇場の開館式が行われた。*114
1968年から1969年にかけて、佐渡の「相川劇場」や村上市の「村上銀映」が閉館したが、十日町市に「松竹会館」が竣工し、新津市にも70ミリ劇場が竣工した。*115
1967年7月、相川町にあった娯楽施設「相川劇場」が閉鎖された。1968年12月、新潟県が建設して相川町が管理する佐渡会館が完成した。1970年3月、相川電報電話局が完成した。*116
開館年 : 1949年7月
閉館年 : 1967年7月
『全国映画館総覧 1955』によると1949年7月開館。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年の映画館名簿では「相川館」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「相川劇場」。1955年の映画館名簿では経営者が中塚孝一、支配人が記載なし、木造2階、定員250、混合を上映。1964年の映画館名簿では経営者が伏見喜市、支配人が伏見桂也、木造2階、定員500、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「相川郵便局」南西30mの「NTT東日本相川電話交換所」廃墟。最寄港は両津港。
1953年、佐渡おけさで知られる民謡歌手の村田文三は、相川町名誉町民第1号に推挙された。1955年11月3日には新潟県文化功労者に推挙された。1956年8月10日に死去し、8月19日には「相川劇場」で葬儀が行われた。*112
1955年12月、相川町議会で町有の「相川劇場」を業者に売却する町長提案が否決された。*113
1956年3月14日の相川町議会において、相川公民館(劇場)がきよせ興行社の伏見喜市に400万円で売却する決議がなされ、3月16日に売買契約が完了した。きよせ興行社にとっては念願の劇場経営であり、3月31日に相川劇場の開館式が行われた。*114
1968年から1969年にかけて、佐渡の「相川劇場」や村上市の「村上銀映」が閉館したが、十日町市に「松竹会館」が竣工し、新津市にも70ミリ劇場が竣工した。*115
1967年7月、相川町にあった娯楽施設「相川劇場」が閉鎖された。1968年12月、新潟県が建設して相川町が管理する佐渡会館が完成した。1970年3月、相川電報電話局が完成した。*116
所在地 : 新潟県佐渡郡両津町夷町(1930年・1934年)、新潟県佐渡郡両津町大字夷(1936年)、新潟県佐渡郡両津町(1941年)、新潟県佐渡郡両津町夷(1953年・1955年)、新潟県両津市夷町224(1958年・1960年・1963年)、新潟県両津市夷224(1964年)、新潟県両津市夷町(1966年)、新潟県両津市夷(1969年)
開館年 : 1913年5月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1913年5月開館。1930年・1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「橋本座」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「橋本座」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに橋本喜一、木造2階冷暖房付、定員1160、東宝・洋画を上映。1966年・1969年の映画館名簿では「両津橋本座」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「両津郵便局」南西60mにある「ホテル東宝」廃墟。最寄港は両津港。
1918年現在の両津町夷町神明町には劇場「橋本座」がある。演劇に加えて義太夫や浪花節の興行なども行われている。*117
1929年の『大日本職業別明細図 第182号』「両津町」には「橋本座」「両津劇場」が描かれている。*118
1964年現在の佐渡島にある常設興行場には、両津市夷の「橋本座」(定員585)、両津市夷の「両津会館」(定員548)、相川町羽田の「相川劇場」(定員576)の3館がある。*119
昭和初期の両津町の「両津橋本座」で行われた演説会の写真あり。*120
昭和30年代まで、両津町には「橋本座」と「両津会館」という劇場・映画館があった。テレビの普及の結果、橋本座はホテルに転身した。両津会館は昭和50年代後半まで営業を続けた。*121
『佐渡ジャーナル』2021年4月号には出山正「私の望郷録11 昭和33年追憶 橋本座・笛吹き童子・チャンバラごっこ」が掲載されている。現物は未確認。*122
開館年 : 1913年5月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1913年5月開館。1930年・1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「橋本座」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「橋本座」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに橋本喜一、木造2階冷暖房付、定員1160、東宝・洋画を上映。1966年・1969年の映画館名簿では「両津橋本座」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「両津郵便局」南西60mにある「ホテル東宝」廃墟。最寄港は両津港。
1918年現在の両津町夷町神明町には劇場「橋本座」がある。演劇に加えて義太夫や浪花節の興行なども行われている。*117
1929年の『大日本職業別明細図 第182号』「両津町」には「橋本座」「両津劇場」が描かれている。*118
1964年現在の佐渡島にある常設興行場には、両津市夷の「橋本座」(定員585)、両津市夷の「両津会館」(定員548)、相川町羽田の「相川劇場」(定員576)の3館がある。*119
昭和初期の両津町の「両津橋本座」で行われた演説会の写真あり。*120
昭和30年代まで、両津町には「橋本座」と「両津会館」という劇場・映画館があった。テレビの普及の結果、橋本座はホテルに転身した。両津会館は昭和50年代後半まで営業を続けた。*121
『佐渡ジャーナル』2021年4月号には出山正「私の望郷録11 昭和33年追憶 橋本座・笛吹き童子・チャンバラごっこ」が掲載されている。現物は未確認。*122
所在地 : 新潟県両津市夷町316(1958年・1960年)、新潟県両津市夷町326(1963年)、新潟県両津市夷町316(1966年)、新潟県両津市夷316(1969年・1973年・1976年・1980年)
開館年 : 1957年6月15日
閉館年 : 1984年6月初頭頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「両津会館」。1980年の住宅地図では「両津会館」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「正覚寺」南東30mにある2002年竣工のマンション「NEXT1」。最寄港は両津港。
両津市夷には「両津会館」があった。『映画年鑑』には1958年から1984年まで掲載されている。1984年の初夏頃に閉館し、最後の作品は佐藤純弥監督の『空海』だった。*123
この1979年から、「両津会館」は長期にわたって貸館となる予定。*124
1979年内にも、「両津会館」が閉館する予定。建物をテナントに貸すこととし、借り手が見つかり次第閉館となる。両津会館は1957年6月15日に開館した。鉄筋造一部3階建て、延床面積792平方メートル。観客席400。邦画と洋画を上映する常設映画館である。*125
『月刊佐渡国』1984年5月号における「両津会館」の上映作品紹介。4月28日から5月11日は『里見八犬伝』と『ドラゴン危機一発』。5月12日から6月3日は『空海』。毎日13時から開演。1日3回上映。1984年6月号には両津会館の上映作品の紹介が掲載されていない。*126
『月刊佐渡国』1984年7月号。佐渡唯一の映画館である「両津会館」が閉館した。*127
観光旅館組合は佐渡おけさや鬼太鼓などの郷土芸能を披露するためのおけさ会館を手放した。今後は夷新にある元映画館の「両津会館」を手入れして使う予定。両津市観光協会を運営主体とし、1985年4月1日の開館を目指している。*128
1985年3月、郷土芸能の披露の場として「両津会館」が新装された。*129
開館年 : 1957年6月15日
閉館年 : 1984年6月初頭頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「両津会館」。1980年の住宅地図では「両津会館」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「正覚寺」南東30mにある2002年竣工のマンション「NEXT1」。最寄港は両津港。
両津市夷には「両津会館」があった。『映画年鑑』には1958年から1984年まで掲載されている。1984年の初夏頃に閉館し、最後の作品は佐藤純弥監督の『空海』だった。*123
この1979年から、「両津会館」は長期にわたって貸館となる予定。*124
1979年内にも、「両津会館」が閉館する予定。建物をテナントに貸すこととし、借り手が見つかり次第閉館となる。両津会館は1957年6月15日に開館した。鉄筋造一部3階建て、延床面積792平方メートル。観客席400。邦画と洋画を上映する常設映画館である。*125
『月刊佐渡国』1984年5月号における「両津会館」の上映作品紹介。4月28日から5月11日は『里見八犬伝』と『ドラゴン危機一発』。5月12日から6月3日は『空海』。毎日13時から開演。1日3回上映。1984年6月号には両津会館の上映作品の紹介が掲載されていない。*126
『月刊佐渡国』1984年7月号。佐渡唯一の映画館である「両津会館」が閉館した。*127
観光旅館組合は佐渡おけさや鬼太鼓などの郷土芸能を披露するためのおけさ会館を手放した。今後は夷新にある元映画館の「両津会館」を手入れして使う予定。両津市観光協会を運営主体とし、1985年4月1日の開館を目指している。*128
1985年3月、郷土芸能の披露の場として「両津会館」が新装された。*129
所在地 : 新潟県佐渡市相川上京町11
開館年 : 2017年4月1日
閉館年 : 営業中
映画館名簿には掲載されていない。最寄港は両津港。
2017年4月2日、映画館のない佐渡島にシネマカフェ「ガシマシネマ」がオープンする予定である。福島県出身の堀田弥生(40)は新潟大学在学中に映画館「シネ・ウインド」でアルバイトし、大学卒業後には東京・東中野の映画館で10年近く勤務した。2010年には家族で佐渡島に移住し、行きつけのカフェの閉店を機に映画館の開館を思い立った。佐渡金山跡に近い木造平屋建の旧鉱山長住宅を改修し、板張りの和室に約20席と幅3.6mのスクリーンを設置した。週末に映画を上映し、料金は大人1000円。佐渡島には大正時代から昭和時代に約10館の映画館があったが、1980年代には映画館がなくなっていた。*130
2017年4月1日、佐渡市相川地区の京町通里の一角にシネマカフェ「ガシマシネマ」が開館した。佐渡金山の鉱山住宅だった建物を利用している。木造の住宅を改修し、幅3.6メートルのスクリーンが設置されている。4月1日には開館記念イベントが開催され、新潟シネ・ウインドの齋藤正行代表らが駆け付けた。4月2日には上映第1弾として、アレハンドロ・ホドロフスキー監督のドキュメンタリー映画『ホドロフスキーのDUNE』を上映した。4月16日、4月23日にはホドロフスキー監督の自伝的作品『リアリティのダンス』を上映する。*131
2017年4月、佐渡島の佐渡金山跡近くのカフェを利用してシネマカフェが開館した。毎週日曜に映画を上映し、平日はブックカフェとして営業する。41歳の堀田弥生は福島県出身であり、大学卒業後には東京・東中野の映画館で10年近く働いた。2010年に佐渡に移住し、1年がかりで建物を改装した。約20席、約3.6メートルのスクリーンを有する。5月には新潟が舞台のドキュメンタリー映画を上映し、満席になった回もあった。*132
1980年代には新潟県の佐渡島から映画館がなくなった。2017年4月には佐渡島に、週末に映画を上映するシネマカフェが開館した。堀田弥生は福島県出身であり、東京都の東中野にある映画館で10年近く働いた。2010年には家族4人で佐渡島に移住。佐渡金山跡近くのカフェは行きつけの店だったが、このカフェが閉店すると知ると、映画館に改装しようと思い立った。かつて鉱山長が暮らした建物である。昭和初期に建てられた木造平屋建てのカフェを改装し、約20の座席と横幅3.6メートルのスクリーンを設置した。ガシマシネマという名称は佐渡島(さどがしま)に由来する。毎週日曜日に上映を行っており、料金は大人1000円。平日は映画に関連する本を集めたカフェとして運営している。*133
開館年 : 2017年4月1日
閉館年 : 営業中
映画館名簿には掲載されていない。最寄港は両津港。
2017年4月2日、映画館のない佐渡島にシネマカフェ「ガシマシネマ」がオープンする予定である。福島県出身の堀田弥生(40)は新潟大学在学中に映画館「シネ・ウインド」でアルバイトし、大学卒業後には東京・東中野の映画館で10年近く勤務した。2010年には家族で佐渡島に移住し、行きつけのカフェの閉店を機に映画館の開館を思い立った。佐渡金山跡に近い木造平屋建の旧鉱山長住宅を改修し、板張りの和室に約20席と幅3.6mのスクリーンを設置した。週末に映画を上映し、料金は大人1000円。佐渡島には大正時代から昭和時代に約10館の映画館があったが、1980年代には映画館がなくなっていた。*130
2017年4月1日、佐渡市相川地区の京町通里の一角にシネマカフェ「ガシマシネマ」が開館した。佐渡金山の鉱山住宅だった建物を利用している。木造の住宅を改修し、幅3.6メートルのスクリーンが設置されている。4月1日には開館記念イベントが開催され、新潟シネ・ウインドの齋藤正行代表らが駆け付けた。4月2日には上映第1弾として、アレハンドロ・ホドロフスキー監督のドキュメンタリー映画『ホドロフスキーのDUNE』を上映した。4月16日、4月23日にはホドロフスキー監督の自伝的作品『リアリティのダンス』を上映する。*131
2017年4月、佐渡島の佐渡金山跡近くのカフェを利用してシネマカフェが開館した。毎週日曜に映画を上映し、平日はブックカフェとして営業する。41歳の堀田弥生は福島県出身であり、大学卒業後には東京・東中野の映画館で10年近く働いた。2010年に佐渡に移住し、1年がかりで建物を改装した。約20席、約3.6メートルのスクリーンを有する。5月には新潟が舞台のドキュメンタリー映画を上映し、満席になった回もあった。*132
1980年代には新潟県の佐渡島から映画館がなくなった。2017年4月には佐渡島に、週末に映画を上映するシネマカフェが開館した。堀田弥生は福島県出身であり、東京都の東中野にある映画館で10年近く働いた。2010年には家族4人で佐渡島に移住。佐渡金山跡近くのカフェは行きつけの店だったが、このカフェが閉店すると知ると、映画館に改装しようと思い立った。かつて鉱山長が暮らした建物である。昭和初期に建てられた木造平屋建てのカフェを改装し、約20の座席と横幅3.6メートルのスクリーンを設置した。ガシマシネマという名称は佐渡島(さどがしま)に由来する。毎週日曜日に上映を行っており、料金は大人1000円。平日は映画に関連する本を集めたカフェとして運営している。*133

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続けての書き込みすみません。思い出しました。日劇は東光商事でした。とすると新潟刑務所の近くにあった東光映劇と関係があるのかもしれませんね。
そうそう礎不動産は発祥は万代島の礎町です。初代は自転車店だったそうです。白いサルーンクラスのベンツに乗ってバネライをしてるる人に聞きました(笑)。
沼垂の映画館についてです。中央〜は現在の栗の木バイパスの交差点に位置するローソンの場所です。経営は万代町の立石網店。日劇は長い間、融資会社が運営していました。ライフが廃業してから六本木の映画会社の作品をかけてましたが。間に普通の映画を挟んで、ロメロのゾンビとか紅の拳銃とかマッケンナの黄金とか見ました。廃業の一因は音が。磁気が再生できず、設備投資もできず苦労してました。港座は。知ってる人が技師さんだったので木戸賃なしで入れてもらいましたね。