閉館した映画館を中心とする、日本の映画館の総合データベースです。管理人「hekikaicinema」のみが編集可能。



三重県の映画館

三重県の映画館の歴史については久保仁『ローカル映画館史』(三重県興行環境衛生同業組合、1989年)が詳しい。ただし愛知県内の公共図書館には蔵書がない。三重県内では三重県立図書館、津市津図書館、四日市市立図書館、松阪市立松阪図書館、鈴鹿市立図書館、亀山市立図書館、名張市立図書館、伊勢市立伊勢図書館、鳥羽市立図書館、志摩市立図書館などが所蔵。つまり、桑名市立中央図書館や伊賀市上野図書館以外の主要館は所蔵している。

2001年12月12日の新聞記事
県内の映画館が大きく様変わりしている。95年に県内に登場した複合型映画館(シネコン)がスクリーン数で7割を占めるまでになった。一方、街中の既存の映画館は次々に閉館に追い込まれている。14日、かつては津市の洋画を独占していた津市八町1丁目の津東映シネマ(松本嘉正支配人)も閉館する予定だ。県内に映画館は14あり、スクリーン数は49.このうち、シネコンは95年に桑名市の「ワーナー・マイカル・シネマズ桑名」が最初で、現在5館。スクリーン数は34ある。ワーナー・マイカル系以外に大手スーパーのオークワ系や東急系もある。津市のワーナー・マイカル・シネマズ津は15日でまる1周年。9月、出資者の大手スーパー、マイカル(大阪市)が民事再生法の適用を申請し、経営続行を危ぶむ問い合わせもあったが、「営業状況は堅調です」(栗谷大輔支配人)。7つのスクリーンは客の入り具合によって毎週入れ替える。1日に封切られた正月映画「ハリー・ポッターと賢者の石」は4つのスクリーンで同時上映している。映写室が一続きになっている利点を生かし、1本のフィルムを滑車でつないで2つの映写機にかけ、隣り合う2つのスクリーンが約1分遅れで上映している。初日だけで約4600人が来場した。隣のスーパー「津サティ」と合わせて駐車場は約1800台収容可能で、一日平均1000人が訪れる。
閉館する津東映シネマは59年開館のしにせだ。県内で唯一の東映直営館。97年の「もののけ姫」では約3500万円の売り上げを記録した。だが98年10月、鈴鹿に、昨年末、津にもシネコンが開館し、直撃を受けた。東映中部支社によると、この夏の「パール・ハーバー」は津東映ワーナー・マイカル・シネマズ津で上映したが、興行収入は津東映の約100万円に対し、マイカルが約2700万円と決定的な差がついた。河村邦彰・東映中部支社社長代理は「この時、撤退せざるを得ないと思った」。既存映画館のスクリーン数は57年には143あったが、テレビやビデオに押され、89年は34に減った。そこへシネコンが追い打ちをかけた。
既存の映画館の中には、シネコンに対抗するためにチケットの値下げを検討するところも出てきている。これまでは配給会社との関係などから、横並びの価格にするのが普通だった。1916(大正5)年開館で県内ではもっとも古い世界館(伊勢市一之木2丁目)の中村比呂誌支配人は「入場料金を安くすることで、いい映画に何度も足を運んでもらいたい」と話している。*1


近年の三重県内の映画館の動向(カッコ内はスクリーン数)
●閉館
95年02月 四日市弥生会館(2)、四日市スカラ座(1)
97年02月 白子ジャスコファミリーシアター(2)
99年02月 鈴鹿MOVIXアイリス(1)
00年12月 津スカラ座(1)
01年04月 津東宝(1)
01年12月 津東映シネマ(2)
●開館
95年04月 ワーナー・マイカル・シネマズ桑名(8)
98年06月 ジストシネマ上野(4)
98年10月 ワーナー・マイカル・シネマズ鈴鹿(7)
00年12月 ワーナー・マイカル・シネマズ津(7)
01年08月 109シネマズ明和(8)*2

1919年(大正8年)に津市に生まれた久保仁は、名古屋市や津市で新聞記者を務め、1953年から津市大門の曙座の支配人を務めた。1957年には三重県環境衛生同業組合の事務局長に就任すると、1967年には曙座が閉館して支配人をやめたものの、組合の事務局長は1989年現在も務めている。1974年から1987年には津市内の映画館で無料配布される月刊映画情報誌『映画仲間』を発行していた。12月1日に久保仁が刊行する『ローカル映画館史』によると、三重県初の映画上映は1897年5月26日に津市の泉座で行われたものであり、日本初の映画上映からわずか3か月後のことだった。地方の映画館の歴史をまとめた本は全国でも珍しいとされる。*3

北勢地方

桑名市

桑名市の映画館
北勢映画界の重鎮であり四日市市の弥生館の館主である鈴木啓吉の指導と協力を得て、製材会社にいた松谷清は1951年に桑名市に一挙に3館を開館させた。1951年4月には旭ビル跡地に三重大劇を、5月には寿町に桑名劇場を、12月には楽天地に楽天地劇場を開館させたのである。1952年には松谷は三重興行KKを設立して代表となった。桑名劇場は1955年に桑名東映に改称している。1958年には松谷は三重興行KKを解散させ、愛知県半田市の大野久吉が3館の経営権を握り、松谷は役員として残った。1959年には桑名市議会議員の黒田正雄が楽天地劇場の経営権を握ったが、1971年3月の再開発で取り壊しとなった。1962年12月には三重大劇が、1965年には桑名東映が、1965年にはセントラルが閉館している。*4

昭和初期には相生町に旭ビルが竣工し、2階に常設映画館の「旭劇場」が開館した。戦後の旭劇場は東方の倉庫を改修して映画を上映していたが、わずか数年で閉館した。1959年現在の桑名市にある映画館は、相生町の「三重大劇」、扇町の「楽天地劇場」、寿町の「桑名東映」(旧桑名劇場)、馬道の「セントラル劇場」の4館のみである。*5
桑名旭劇場/三重大劇場/三重大劇
所在地 : 三重県桑名市相生町(1953年)、三重県桑名市相生町931(1955年・1958年)、三重県桑名市相生町(1960年・1963年)
開館年 : 1951年4月
閉館年 : 1962年12月
1950年の映画館名簿では「桑名旭劇場」。『全国映画館総覧1955』によると1951年4月開館であり鉄筋コンクリート造平屋建。1953年・1955年の映画館名簿では「三重大劇」。1958年の映画館名簿では「三重大劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「三重大劇」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「寺町通り商店街」アーケード北端部東側の広場。

桑名市の八間通が完成すると、1927年夏には寺町堀に3階建ての旭ビルディングが竣工した。1階は理髪店・喫茶店・高島屋ストアーなどであり、2階は旭劇場・旭食堂・玉突場などがあった。地方都市には珍しい近代的なビルであり、桑名市の繁華街の中心的存在だった。映画館の旭劇場では名古屋と同時に封切られた。旭ビルディングは戦災で焼失し、跡地には三重大劇場が開館した。1981年現在の跡地は第三相互銀行桑名支店が建っている。*6

桑名市相生町には娯楽ビルの旭ビルディングがあった。桑名では初の3階建てビルであり、高島屋ストアー、映画館、食堂、玉突場があった。旭ビルディングは戦災で焼失した。1927年の竣工祝賀行事の際の写真、2002年現在の跡地の写真あり。跡地には第三銀行桑名支店があったが、第三銀行は2001年に新築移転したため、2002年現在の旭ビルディング跡地は更地となっている。*7
桑名劇場/桑名東映劇場
所在地 : 三重県桑名市寿町(1953年)、三重県桑名市寿町2-15(1955年)、三重県桑名市寿町15(1958年)、三重県桑名市寿町(1960年・1963年)
開館年 : 1951年5月
閉館年 : 1965年
1950年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧1955』によると1951年5月開館。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「桑名劇場」。1955年に桑名東映劇場に改称。1960年・1963年の映画館名簿では「桑名東映劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「桑名市総合医療センター」立体駐車場。
セントラル シアター/セントラル劇場/桑名セントラル劇場
所在地 : 三重県桑名市馬道1(1953年)、三重県桑名市馬道(1955年)、三重県桑名市馬道1丁目(1958年)、三重県桑名市馬道(1960年)、三重県桑名市馬道1(1963年)、三重県桑名市大字矢田崩(1966年)
開館年 : 1946年7月
閉館年 : 1965年
『全国映画館総覧1955』によると1946年7月開館。1950年・1953年の映画館名簿では「セントラル・シアター」。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「セントラル劇場」。1966年の映画館名簿では「桑名セントラル劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「サンマンションアトレ益生駅前」。
楽天地劇場/桑名楽天地劇場
所在地 : 三重県桑名市楽天地(1953年)、三重県桑名市扇町楽天地(1955年)、三重県桑名市寿町楽天地(1958年)、三重県桑名市楽天地(1960年・1963年)、三重県桑名市寿町楽天地21(1966年・1969年)
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1971年3月
『全国映画館総覧1955』によると1951年12月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「楽天地劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「桑名楽天地劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「サンファーレ北館」(サンマンションアトレ桑名)建物北側。
桑名キネマ/桑名キネマ1・2
所在地 : 三重県桑名市畷町361(1966年・1969年・1976年)、三重県桑名市畷町301(1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1962年7月1日
閉館年 : 1995年9月25日
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「桑名キネマ」。1969年の昭文社桑名市全図(三重県都市地図シリーズ)にも桑名シネマの位置が掲載されている。1973年の住宅地図では「桑名キネマ」。1980年の映画館名簿では「桑名キネマ・キネマ2」(2館)。1980年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造1階部分240席と2階部分100席、経営会社は中映、経営者は川瀬善照、支配人は川瀬善道、邦画と洋画を上映。1983年のゼンリン住宅地図では「桑名キネマ・キネマ2」。1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「桑名キネマ・桑名キネマ2」(2館)。2000年の映画館名簿には掲載されていない。桑名市最後の従来型映画館。跡地は「桑名市子ども・子育て応援センターキラキラ」。最寄駅は近鉄名古屋線・JR関西本線桑名駅。

1962年7月1日、名古屋市の中映株式会社社長である川瀬元一郎が、畷町に桑名キネマを開館させた。1975年6月には火災で焼失したが、複数館の建物を建設して経営を再開した。11月には桑名キネマ1が、12月には桑名キネマが営業を始めた。三重県初の1建物2館のミニシアターだった。*8
ワーナー・マイカル・シネマズ桑名/イオンシネマ桑名
所在地 : 三重県桑名市新西方1丁目35 イオンモール桑名3番街4階
開館年 : 1995年3月24日
閉館年 : 営業中
8スクリーン。東海地方初・三重県初のシネコン。

東海地方初のシネコンは、1995年3月に三重県桑名市に開館した「ワーナー・マイカル・シネマズ桑名」。その後、愛知県豊川市、三重県鈴鹿市などに開館が続いた。岐阜県南部には、柳津町に「シネタウン岐阜」が、真正町に「AMCリバーサイド16真正」が、岐南町に「シネマジャングル」があり、シネコン銀座とも呼ばれる。2000年時点では愛知・岐阜・三重の3県で約20施設のシネコンが存在する。*9

1995年3月24日、桑名市に大型複合商業施設「マイカル桑名」がオープンする。延床面積15万平方メートル、売場総面積6万平方メートルで、全国屈指の大型商業施設とされる。全国初の娯楽遊戯施設「ダイナレックス」、8スクリーンの映画館、ボウリング場なども入る。*10

2015年4月17日、イオン桑名ショッピングセンターがイオンモール桑名としてリニューアルオープンする。1995年3月にマイカル桑名店としてオープンし、のちにイオン桑名となっていた。*11

四日市市

四日市市については四日市市の映画館を参照。

鈴鹿市

鈴鹿市の映画館
1942年の鈴鹿市発足当時、旧神戸町と旧白子町にそれぞれ2館、計4館の映画館があった。神戸町には神戸劇場(大映・新東宝・外映系)と常盤劇場(東宝・松竹・外映系)、白子町には白栄座(東宝・外映系)と中座(松竹・大映系)である。常盤劇場はやがて萱町から矢田部町に移転してスター劇場に改称したが、1967年にはスター劇場が閉館。1965年には白栄座が閉館。1975年には神戸劇場が閉館。1980年には中座が閉館した。1963年に近鉄鈴鹿線が平田町駅まで延長して平田市街地が発展すると、1977年には鈴鹿市唯一の近代的な映画館として平田市街地に名画座・スカラ座が開館した。やがて洋画専門のスカラ座は閉館し、1989年の『鈴鹿市史 第三巻』刊行時点では名画座のみが営業している。*12
常盤座/常盤映画劇場/スター劇場
所在地 : 三重県鈴鹿市神戸町常盤384(1953年)、三重県鈴鹿市神戸町常盤284(1955年)、三重県鈴鹿市神戸町(1960年)、三重県鈴鹿市矢田部町(1963年)
開館年 : 1941年、1953年7月
閉館年 : 1964年3月
『全国映画館総覧1955』によると1953年7月開館。1953年の映画館名簿では「常盤映画劇場」。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「スター劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅は近鉄鈴鹿線鈴鹿市駅。

1953年10月の鈴鹿市にあった「スター劇場」の写真あり。旭ダウ鈴鹿工場の竣工を記念した演奏会の際の写真。「Star」の文字が見える。『きんぴら先生とお嬢さん』、『妻』、『君の名は』の看板が見える。1941年には神戸常磐町に映画館「常磐劇場」が開館した。常磐劇場は鈴鹿市役所の北隣に移転し、スター劇場に改称した。松竹と東宝系の上映館である。1964年に閉館した。*13

開館時期は不明だが、神戸町十日市町の北部には「寿座」のほかに「常盤座」もあり、昭和初期には寿座と競合していた。1941年には映画館に転換した。戦後には「スター劇場」に改称し、鈴鹿市議会議員の猪熊登が経営していた。1964年3月に閉館した。*14
白栄座/白子東映/白子白栄座
所在地 : 三重県鈴鹿市白子町白子6320(1953年)、三重県鈴鹿市白子町白子(1955年)、三重県鈴鹿市白子町(1960年・1963年)、三重県鈴鹿市白子町山中(1966年・1969年)
開館年 : 1942年以前、1949年12月
閉館年 : 1963年? 1969年以後1973年以前?
『全国映画館総覧1955』によると1949年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「白栄座」。1963年の映画館名簿では「白子東映」。1969年・1966年の映画館名簿では「白子白栄座」。1971年の住宅地図では「ハクエイザ」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。近鉄白子駅前から白子漁港に向かう大通りの中ほど。「第三銀行白子支店」のはす向かい。跡地は民家。2軒南東の和菓子店「亀屋」は当時からある。最寄駅は近鉄名古屋線白子駅。

近鉄白子駅の東側には戦前から「白栄座」があった。戦後には「白子東映」に改称し、神戸町の長谷川眞次が経営を行っていた。1963年に閉館した。*15
寿座/神戸劇場/伊勢神戸劇場
所在地 : 三重県鈴鹿市神戸町十日市町79-1(1953年)、三重県鈴鹿市神戸町十日市場79-1(1955年)、三重県鈴鹿市神戸町(1960年)、三重県鈴鹿市十日市町(1963年)、三重県鈴鹿市神戸十日町(1966年・1969年・1973年)
開館年 : 明治末期
閉館年 : 1975年
1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「神戸劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「伊勢神戸劇場」。1971年の住宅地図では「神戸劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。1980年のゼンリン住宅地図では跡地に「三重銀行鈴鹿支店」。現在の跡地は「三重銀行鈴鹿支店」。最寄駅は近鉄鈴鹿線鈴鹿市駅。

明治末期、神戸町十日市町に劇場の「寿座」が開館。戦後には「神戸劇場」に改称し、鈴鹿市議会議長の長谷川眞次が経営していた。1974年7月7日の七夕豪雨で大きな被害を受けて休館し、また都市計画により立ち退きを強いられたため、休館のまま閉館した。*16
中座/白子中座
所在地 : 三重県鈴鹿市白子町(1960年)、三重県鈴鹿市白子町仲町(1963年)、三重県鈴鹿市白子町中町6382(1966年・1969年・1973年)、三重県鈴鹿市白子町中町(1976年・1980年)
開館年 : 1938年
閉館年 : 1980年12月
1950年・1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「中座」。1971年の住宅地図では「中座劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「白子中座」。1980年の映画館名簿では木造2階部分188席、経営者・支配人ともに西野久子、成人映画を上映。1980年のゼンリン住宅地図では「中座劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。現在の跡地は「寺村酒店」北東隣の民家。最寄駅は近鉄名古屋線白子駅。

1938年には白子町中町に中座が開館し、1939年に映画専門館となった。1980年12月に閉館した。*17
鈴鹿名画座/鈴鹿名画座・鈴鹿スカラ座
所在地 : 三重県鈴鹿市平田新町1654(1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1977年
閉館年 : 1992年頃
1976年の映画館名簿には掲載されていない。1980年の映画館名簿では「鈴鹿名画座」。1980年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造1階部分234席、経営会社は常盤興業、経営者は堀きく、支配人は堀秀麿、東宝と洋画を上映。1980年のゼンリン住宅地図では「鈴鹿名画座」。1985年の映画館名簿では「鈴鹿名画座・鈴鹿スカラ座」(2館)。1990年・1992年の映画館名簿では「鈴鹿名画座」。1993年・1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「我流GARU平田店」。最寄駅は近鉄鈴鹿線平田町駅。

1977年12月、近鉄神戸線の終点である鈴鹿市平田町に「鈴鹿名画座」が開館した。長野県飯田市で映画館を経営する堀きくが運営した。1982年10月には2階建てに改装し、2館目として鈴鹿スカラ座を開館させた。1989年現在も営業している。*18
ジャスコファミリーシアター白子1・2
所在地 : 三重県鈴鹿市白子駅前9-20(1995年)、三重県鈴鹿市江島本町26-25 白子ショッピングタウン・サンズ(閉館時)
開館年 : 1990年7月21日
閉館年 : 1997年2月
1990年の映画館名簿には掲載されていない。1995年の映画館名簿では「ジャスコファミリーシアター白子1・2」(2館)。1999年のゼンリン住宅地図では「白子ショッピングタウンサンズ 3階 ジャスコファミリーシアター」。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「白子ショッピングタウン・サンズ」として現存。最寄駅は近鉄名古屋線白子駅。

1990年(平成2年)7月21日、鈴鹿市白子駅前の白子ショッピングタウン・サンズの一角にあるジャスコスポーツクラブ内に、ジャスコファミリーシアター白子のシネマ1とシネマ2が開館する。座席数は75席と104席。邦画は東宝、洋画はUIPから配給を受ける封切館である。ジャスコは「文化に接したいという市民のニーズに応えるため」、また「駐車場がある映画館の必要性を感じるため」に映画事業を行っている。鈴鹿市は人口で三重県第2位の都市(※1990年時点では四日市または津よりも多かったのか?)だが映画館が1館しかなかった。オープニング作品は邦画が『タスマニア物語』、洋画が『バック・トゥ・ザ・フューチャー3』。1989年(昭和63年)秋には津市で1館が閉館し、1990年(平成2年)に入ってから伊勢市で計3館が閉館。現在は三重県で28館となっている。なお、新館の開館は1986年(昭和61年)春の松阪市の2館以来。*19
ドライブインシアターMovix鈴鹿アイリス
所在地 : 三重県鈴鹿市算所1-8-1(1995年・2000年)、三重県鈴鹿市算所1-8-1 鈴鹿アイリス屋上駐車場(閉館時)
開館年 : 1994年3月19日
閉館年 : 2000年2月27日
1990年の映画館名簿には掲載されていない。1995年・2000年の映画館名簿では「ドライブインシアターMovix鈴鹿アイリス」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はスーパーマーケット「ぎゅーとら ラブリー平田店」。最寄駅は近鉄鈴鹿線平田町駅。

1994年3月19日、鈴鹿市のエス・シー・アイリスはショッピングセンターの屋上にドライブインシアター「MOVIX鈴鹿アイリス」を開館させる。縦7.5メートル、横14メートルの大画面で洋画が上映される。19時にショッピングセンターが閉店した後、19時30分からと21時30分から上映を行う。113台を収容する。*20

2000年2月27日、三重県唯一のドライブインシアター「MOVIX鈴鹿アイリス」が閉館する。1998年10月に鈴鹿サティ内に開館したシネコンに客を奪われたのが原因とされる。ドライブインシアターは1994年3月に開館し、水曜日から日曜日の夜間に、100台収容の駐車場の壁面に映像を映して営業していた。*21
ワーナー・マイカル・シネマズ鈴鹿
所在地 : 三重県鈴鹿市南玉垣町 鈴鹿サティ3階
開館年 : 1998年10月23日
閉館年 : 2002年8月31日
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年の映画館名簿では「ワーナー・マイカル・シネマズ鈴鹿1-7」(7館)。2005年の映画館名簿には掲載されていない。ワーナー・マイカル・シネマズ桑名に続いて三重県2館目(ジストシネマ上野を含めると3館目)のシネコン。跡地は「アピタ鈴鹿店」。最寄駅は伊勢鉄道線玉垣駅。

1998年10月23日、鈴鹿市南玉垣町に大型ショッピングセンター「鈴鹿サティ」がオープンする。マイカルによる大型ショッピングセンターは、津市・桑名市に次いで県内3番目。3階には7スクリーン・計1014席の映画館がある。*22

マイカルが会社更生法により経営再建に入ったことで、2002年1月には不採算店舗である鈴鹿サティの閉鎖が決定した。4年前の1998年10月にオープンしたが、開業当初から売り上げは伸び悩んでいた。関連会社が経営する映画館やボウリング場の今後は未定。*23

2002年8月末の閉館を前に、鈴鹿サティの映画館「ワーナー・マイカル・シネマズ鈴鹿」は8月24日から8月31日まで、『スタンド・バイ・ミー』『モンスターズ・インク』『レオン』『ニュー・シネマ・パラダイス』4作品の無料上映を行う。鈴鹿市唯一の映画館だった。*24

2002年8月31日、鈴鹿市の鈴鹿サティが閉店する。マイカルが会社更生法を適用して経営再建中のため。営業期間はわずか4年足らずだった。関連会社が運営する映画館やボウリング場も閉店し、鈴鹿市唯一の映画館がなくなった。*25
ワーナー・マイカル・シネマズ鈴鹿ベルシティ/イオンシネマ鈴鹿
所在地 : 三重県鈴鹿市庄野羽山4-1-2 イオン鈴鹿SCベルシティ(2005年)、三重県鈴鹿市庄野羽山4-1-2 イオンモール鈴鹿ベルシティ(2010年)、三重県鈴鹿市庄野羽山4-1-2 イオンモール鈴鹿内(2015年)
開館年 : 2003年7月12日
閉館年 : 営業中
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2005年・2010年の映画館名簿では「ワーナー・マイカル・シネマズ鈴鹿ベルシティ1-8」(8館)。2015年の映画館名簿では「イオンシネマ鈴鹿ベルシティ1-8」(8館)。最寄駅は近鉄鈴鹿線平田町駅。

2003年夏、ワーナー・マイカルは鈴鹿市庄野羽山のイオン鈴鹿ベルシティに8スクリーンのシネコンを開館させる。同市内には南玉垣町の鈴鹿サティにワーナー・マイカルのシネコンがあったが、2002年8月に閉館していた。ワーナー・マイカルがマイカルグループ以外のショッピングセンターにシネコンを出店させるのは全国初である。スクリーン数は1スクリーン多くなり、座席数は約700席多くなる。*26

2003年7月12日、イオン鈴鹿ベルシティに「ワーナー・マイカル・シネマズ鈴鹿ベルシティ」が開館する。2002年8月には鈴鹿サティに併設されたシネコンが閉館していた。スクリーン数は1つ多い8スクリーンとなり、座席数は656席多い1670席となった。*27

鈴鹿市南玉垣町の鈴鹿サティに併設されていた映画館は、2002年8月に閉館した。2003年7月12日、既存のイオン鈴鹿ベルシティにワーナー・マイカル・シネマズ鈴鹿ベルシティが開館。8スクリーン計1670席であり、三重県最大規模。オープニング作品として『ターミネーター3』など。年間目標観客数は旧館より12万人多い55万人。*28

2003年7月12日に開館。7スクリーンの旧館より1スクリーン多く、1014席だった旧館より656席多い。同社では初めてマイカルグループ以外のショッピングセンターへの出店である。*29

鈴鹿市南玉垣町の鈴鹿サティが2002年8月末で閉店するのにともなって、1998年10月に開館したワーナー・マイカル・シネマズ鈴鹿も閉館する。8月24日から8月31日までフィナーレ特別無料上映会を実施。『スタンド・バイ・ミー』や『モンスターズ・インク』など4作品を2劇場で上映。*30

亀山市

新町座
所在地 : 三重県鈴鹿郡亀山町東町(1936年)、三重県鈴鹿郡亀山町(1950年)、三重県鈴鹿郡亀山町東町695(1953年)、三重県亀山市東町695(1955年)、三重県亀山市本町(1960年・1963年)
開館年 : 1931年12月(劇場として)、1951年(映画館として)
閉館年 : 1964年3月
1936年・1950年・1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「新町座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

当初は大衆演芸場だったが、しばしば映画も上映した。亀山町長を務めた小亀衡一が経営者だった。名称は開館時の所在地が新町だったため。外観の写真、館内の写真あり。*31

1931年12月には亀山市東町(現・本町)に、三重県会議員に当選したばかりの小亀衡一によって劇場「新町座」が開館した。小亀は映画監督の衣笠貞之助(本名は小亀貞之助)の兄である。1951年には映画常設館となった。新町座は1964年3月に閉館した。*32

1955年2月の亀山市東町にあった「新町座」の写真あり。「祝市制実施」の文字が見える。1931年、東町に映画館として新町座が開館した。1955年2月11日から13日まで市制施行を記念する祝賀行事が開催され、無料開放された。*33
亀山劇場
所在地 : 三重県亀山市井尻206-2(1953年・1955年)、三重県亀山市本町(1960年・1963年)、三重県亀山市本町4-299(1966年・1969年)、三重県亀山市本町4-229(1973年・1976年・1980年)
開館年 : 1951年
閉館年 : 1982年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「亀山劇場」。1971年の住宅地図では「亀山劇場」。1973年の住宅地図協会住宅地図では「亀山劇場」。1980年の映画館名簿では木造1階部分160席、経営者・支配人ともに小島邦久、邦画と成人映画を上映。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は民家。

いなべ市

阿下喜劇場
所在地 : 三重県員弁郡北勢町(1956年・1958年)
開館年 : 1916年4月30日(共栄座)、1953年1月4日(阿下喜劇場改称)
閉館年 : 1959年頃
1956年・1958年・1959年の映画館名簿では「阿下喜劇場」。1959年の映画館名簿では経営者が森島浅吉、支配人が伴ふみ子、木造2階建、定員485。1960年の映画館名簿には掲載されていない。森嶋浅吉(森島浅吉)は北勢町議会初代議長を務めた人物。

1916年4月30日、阿下喜に「共栄座」が開館してこけら落とし興行が行われた。1916年8月16日、共栄座で初めて活動写真が上映された。1922年9月16日、共栄座で安来節の素人大会が開催された。1924年10月19日、共栄座で初めてニュース映画が上映された。1933年12月8日、共栄座で初めてトーキー映画が上映された。1946年5月8日、共栄座に大辻四郎一座が来演した。1948年3月28日、共栄座で市川小太夫の本格的歌舞伎が開催された。1949年2月13日、共栄座で阿下喜町民大会が開催され、小学校の敷地問題が話し合われた。1953年、共栄座が「阿下喜劇場」に改称した。*34
梅戸井会館
所在地 : 三重県員弁郡員弁町(1958年・1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1964年頃
1955年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「梅戸井会館」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに小林清、木造2階、定員270、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
北勢文化映劇/北勢文化劇場/北勢文化映画劇場
所在地 : 三重県員弁郡北勢町(1958年・1960年・1963年)、三重県員弁郡北勢町阿下喜(1966年・1968年)
開館年 : 1957年10月5日
閉館年 : 1968年頃
1955年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「北勢文化映劇」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「北勢文化映劇」。1963年の映画館名簿では「北勢文化劇場」。1966年の映画館名簿では経営者が森島浅吉、支配人は掲載なし、木造平屋建、定員250、松竹・大映・東宝・東映を上映。1966年・1968年の映画館名簿では「北勢文化映画劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が森島浅吉、木造平屋建、定員250。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1990年のゼンリン住宅地図では跡地に「小料理 伴」と「阪本憲正」邸。1992年の三共慶進住宅詳細図では跡地に「ジュエリーパート2」と「阪本憲正」邸。森嶋浅吉(森島浅吉)は北勢町議会初代議長を務めた人物。跡地は「相願寺」南西80mにある「放課後児童クラブすきっぷ・きっず」。最寄駅は三岐鉄道北勢線阿下喜駅。北勢スーパーが開店したのは1963年7月11日。

1957年10月5日、阿下喜に「北勢文化映劇」が開館した。*35

桑名郡木曽岬町

映画館名簿によると木曽岬町に映画館は存在しなかったと思われる。

員弁郡東員町

イオンシネマ東員
所在地 : 東員町大字長深字築田510-1 イオンモール東員内(2015年)、三重県員弁郡東員町大字長深字築田510-1 イオンモール東員3階(現在)
開館年 : 2013年11月23日
閉館年 : 営業中
2010年の映画館名簿には掲載されていない。2015年の映画館名簿では「イオンシネマ東員1-10」(10館)。

2013年11月23日、員弁郡東員町に大型ショッピングセンター「イオンモール東員」がオープンする。広域の商圏を想定するイオンモールは三重県4か所目であり12年ぶり。シネコンの「イオンシネマ東員」は10スクリーン・1629席であり、三重県最大級である。ワーナー・マイカルとイオンシネマズが経営統合してから初の出店である。なお、隣接する桑名市のイオン桑名にも8スクリーンのイオンシネマ桑名がある。*36

三重郡菰野町

田光劇場
所在地 : 三重県三重郡朝明村田光(1957年)、三重県三重郡菰野町田光(1958年)、三重県三重郡菰野町(1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1962年頃
1955年・1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「田光劇場」。1962年の映画館名簿では経営者・支配人ともに諸岡治、木造平屋建、定員200。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

昔は現在ほど生活範囲が広くなかったため、田光にはパチンコ屋・映画館・玉突き場といった娯楽施設もあった。*37
菰野劇場/菰野映画劇場
所在地 : 三重県三重郡菰野町(1958年・1960年・1964年・1965年)
開館年 : 1955年以前1958年以前
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「菰野劇場」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「菰野映画劇場」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに岩佐信子、木造1階、定員240、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年のゼンリン住宅地図では跡地に「主婦の店」。1973年・1981年のゼンリン住宅地図では跡地に「ジャスコ菰野店」。1989年のゼンリン住宅地図では跡地に「パチンコクニモリ」。跡地はアメリカンカジュアルショップ「ラハイナ」。最寄駅は近鉄湯の山線菰野駅。

昭和30年代には新しい商店街として旭町通りができ、旭町通りには「菰野映画館」もあった。旭町通りは本町通りの中間点から直角に伸びるバイパスである。1970年には菰野映画館の跡地にジャスコが開店したが、その後ジャスコは広大な敷地を確保できる福村に移った。1997年現在の映画館跡地は輸入品販売店となっている。*38

三重郡朝日町

映画館名簿によると朝日町に映画館は存在しなかったと思われる。

三重郡川越町

映画館名簿によると川越町に映画館は存在しなかったと思われる。

中勢地方

津市

津市については津市の映画館を参照。

松阪市

松阪市の映画館
1938年(昭和13年)の松阪には、映画館として「アサヒ館」(湊町)、「トモエ座」(日野町2丁目)、「神楽座」(愛宕町)の3館、劇場として「松阪劇場」(本町)の1館があった。*39

近頃は松阪市内にある3つの常設映画館の観客数が増加しており、1940年(昭和15年)の松阪市内の映画館欄人員は80万人となった。*40

1973年の商工名鑑には、「アサヒ興業」、「近代興業劇場/近代興業近劇コニー」、「巴映画」が掲載されている。アサヒ興業の所在地は湊町158。近代興業劇場/近代興業近劇コニーの所在地は日野町697。巴映画の所在地は京町9。*41

1981年の商工名鑑には、「アサヒ興業」、「近代興業」、「巴映画」が掲載されている。アサヒ興業の所在地は湊町158、資本金は100万円、従業員は4人、1948年設立。近代興業劇場/近代興業近劇コニーの所在地は日野町14 ベルタウン2階、資本金は300万円、従業員は8人、1955年設立。巴映画の所在地は京町9、資本金は80万円、従業員は7人、1954年設立。*42

1986年の商工名鑑には、「アサヒ興業」、「近代興業」、「巴映画」が掲載されている。アサヒ興業の所在地は湊町153、資本金は100万円、従業員は4人、1935年設立。近代興業劇場/近代興業近劇コニーの所在地は日野町14 ベルタウン2階、資本金は300万円、従業員は6人、1955年設立。巴映画の所在地は京町9、資本金は80万円、従業員は7人、1954年設立。*43
松阪中央劇場/中央劇場
所在地 : 三重県松阪市日野町松信ビル3階(1950年)、三重県松阪市日野町(1953年)
開館年 : 1947年1月
閉館年 : 1954年
1950年の映画館名簿では「松阪中央劇場」。1953年の映画館名簿では「中央劇場」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。

1947年1月、松阪市日野町の角の松信ビル3階に洋画専門館「中央劇場」が開館した。松阪信用組合の直営であり、社員の田中正之が支配人となった。アメリカ映画ブームの時期であり、津市や伊勢市からも観客がやって来た。文化評論家の春山行夫を招いて「アメリカ映画 話の泉」を開催したり、庄司桂一松阪市長を賛助会員として松阪アメリカ映画文化協会を設立するなどしている。松阪信用組合がビルを改築することとなり、中央劇場は1954年に閉館した。*44
粥見劇場
所在地 : 三重県飯南郡飯南町粥見(1958年・1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「粥見劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
松阪座/松阪東映松阪劇場/松阪劇場
所在地 : 三重県松阪市本町(1953年)、三重県松阪市本町60(1955年)、三重県松阪市本町2107(1958年)、三重県松阪市本町(1960年・1963年)
開館年 : 1914年(松阪座)、1952年7月(松阪劇場)
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧1955』によると1952年7月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「松阪劇場」。1958年の映画館名簿では「松阪東映松阪劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「松阪劇場」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1975年のゼンリン住宅地図では跡地に「新日本工業駐車場」。跡地は「ローソン松阪本町店」。

1896年(明治29年)には本町に「相生座」が開館したが、1912年(明治45年)に焼失した。その跡地には1914年(大正3年)に松阪劇場株式会社が設立されて、芝居小屋の「松阪座」が開館した。芝居小屋でありながら映写室の設備もあった。1929年(昭和4年)1月15日の夜には映写技師の不始末によって出火したが、観覧中の消防士らによって消火され、被害は劇映画のフィルム3巻を焼いただけだった。帝国キネマの直営館だった時代もあり、1935年(昭和10年)7月には帝国キネマの新派悲劇『真珠婦人』や『海の彼方へ』を上映した。その後「松阪劇場」に改称し、戦後の1953年(昭和28年)頃は大映専門館としてにぎわっていた。後に松阪市議会議長となる久保賢が支配人を務めた。*45

昭和30年代の松阪市にあった映画館「松劇」の前に並ぶ子供たちの写真あり。先生に引率された多気町立津田小学校の児童である。ディズニー製作のドキュメンタリー『砂漠は生きている』を鑑賞する。中村錦之助主演の『青春航路 海の若人』の看板も見える。*46
紅葉座
所在地 : 三重県松阪市大字小片野(1957年・1958年)、三重県松阪市小片野町(1960年)、三重県松阪市小片野741(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年・1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「紅葉座」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに高橋平次、木造2階冷暖房付、定員418、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
マルキ会館
所在地 : 三重県松阪市東黒部580(1957年・1958年)、三重県松阪市東黒部(1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年・1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「マルキ会館」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに鈴木進、木造1階、定員300、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
中映会館/中央会館/飯南中映会館
所在地 : 三重県飯南郡飯南町(1960年・1963年)、三重県飯南郡飯南町横野(1966年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1966年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「中映会館」。1963年の映画館名簿では「中央会館」。1966年の映画館名簿では「飯南中映会館(休館)」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
スバル座/松阪スバル
所在地 : 三重県松阪市新町1(1953年)、三重県松阪市新町(1960年・1963年)、三重県松阪市新町879(1966年)
開館年 : 1952年7月? 1953年?
閉館年 : 1966年3月4日
『全国映画館総覧1955』によると1952年7月開館。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「スバル座」。1966年の映画館名簿では「松阪スバル」。1967年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。1975年のゼンリン住宅地図では跡地に「ダイカイ配送センター」。現在の跡地は「樹敬寺参拝者用駐車場」。

1953年、松阪市新町に「スバル座」が開館した。阪倉松二郎、後藤次郎らが出資し、「松阪劇場」の支配人である久保賢が移動して支配人となった。洋画・新東宝・東映などの作品を上映した。1966年3月4日に閉館した。*47
いすず会館/松阪松竹映画劇場・いすず会館東劇/いすゞ会館松阪松竹
所在地 : 三重県松阪市湊町298(1953年)、三重県松阪市五十鈴町(1960年・1963年・1966年)、三重県松阪市五十鈴町1(1969年)
開館年 : 1952年9月? 1953年?
閉館年 : 1972年5月19日
1950年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧1955』によると1952年9月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「いすず会館」。1960年・1963年の映画館名簿では「松阪松竹映画劇場・いすず会館東劇」(2館)。1966年・1969年の映画館名簿では「いすゞ会館松阪松竹」。1970年の住宅地図では「松阪松竹 いすず会館 東劇」。1971年の住宅地図協会住宅地図では「松阪松竹 いすず会館 東劇」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1975年のゼンリン住宅地図では跡地に「貸ガレージ」。1984年のゼンリン住宅地図では跡地に空き地。跡地は「林ビル」西隣の空き地。

1951年の松阪大火では五十鈴町の松阪市立第二小学校が焼失した。1953年にはその跡地に、「いすず松竹」と「東劇」の2館体制のいすず会館が開館した。社長の小原茂は後に三重県教育長に就任する人物である。1963年12月7日にはいすず松竹のスクリーン脇から出火し、東劇の一部も焼いている。1964年に営業を再開したが、1972年5月19日に閉館した。*48
国際劇場/松阪日活劇場
所在地 : 三重県松阪市日野町778(1955年)、三重県松阪市日野町(1960年)、三重県松阪市日野町778(1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1954年12月
閉館年 : 1971年9月
『全国映画館総覧1955』によると1954年12月開館。1955年の映画館名簿では「国際劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「松阪日活劇場」。1970年の住宅地図では「松阪日活国際劇場」。1971年の住宅地図協会住宅地図では「松阪日活国際劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1975年のゼンリン住宅地図では跡地に「日野町パーキング有料駐車場」。1984年のゼンリン住宅地図では跡地に「日野パーキング」。跡地は「鯛屋旅館」南東隣の鯛屋旅館駐車場。

1954年、日野町に「国際劇場」が開館した。松阪紡績の専務である山本弘が開館させた。当時としては珍しい鉄筋コンクリート造の2階建てだった。洋画上映館としてスタートし、短期間だが久保賢が支配人を務めた。1956年に日活の直営館となり、1971年9月まで営業した。鉄筋コンクリート造の建物は取り壊され、エレベーター付きの駐車場となった。*49
松阪近劇コニー/近劇コニー
所在地 : 三重県松阪市日野町698(1958年)、三重県松阪市日野町(1960年)、三重県松阪市日野町698(1963年)、三重県松阪市日野町697(1966年・1969年・1973年・1976年)
開館年 : 1958年9月、1980年3月1日(駅前開発で移転)
閉館年 : 1976年以後1980年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「近劇コニー」。1966年・1969年の映画館名簿では「松阪近劇コニー」。1969年の映画館名簿では「近劇コニー」。1971年の住宅地図協会住宅地図では「近劇コニー」。1973年の映画館名簿では「松阪近劇コニー」。1975年のゼンリン住宅地図では「近劇コニー」。1976年の映画館名簿では「近劇コニー」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。1984年・1992年のゼンリン住宅地図では跡地に山口洋品や光喫茶など。

1957年9月に日野町に「近代劇場」が開館すると、1年後の1958年9月には近代劇場の前に「近劇コニー」という小劇場も開館した。椅子席100であり、当時としては異例のミニ劇場だった。1980年3月1日、駅前都市開発によって商店街に新築した。*50
巴劇場/松阪巴映画劇場/巴映画劇場
所在地 : 三重県松阪市京町(1960年)、三重県松阪市京町9(1963年)、三重県松阪市五十鈴町(1966年)、三重県松阪市京町9(1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1933年(映画館化)、1954年10月(巴映画劇場)、1973年8月(ビル化)
閉館年 : 1992年頃
『全国映画館総覧1955』によると1954年10月開館。1955年・1958年の映画館名簿では「巴映画劇場」。1960年の映画館名簿では「巴劇場」。1963年の映画館名簿では「巴映画劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「松阪巴映画劇場」。1970年の住宅地図では「巴劇場」。1971年の住宅地図協会住宅地図では「巴劇場」。1975年のゼンリン住宅地図では「1階松阪生協 2階巴映画劇場」。1976年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「巴映画劇場」。1978年のゼンリン住宅地図では「2階映画劇場」。1980年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造1階部分132席、経営会社は巴工業、経営者は堀盛達、支配人は加藤大亮、洋画を上映。1984年のゼンリン住宅地図では「トモエビル 1階生協ストアーやスナックなど6軒 2階巴映画劇場」。1992年のゼンリン住宅地図では「トモエビル 1階生協ストアーやスナックなど5軒 2階巴映画劇場」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は有料駐車場「TOKAI パーク24 京町愛宕コインパーキング」。南東の「鳴門寿司」は当時から存在する。

1923年(大正12年)、日野町の「中座」は「松竹館」に改称して活動写真常設館となったが、1925年(大正14年)3月8日に焼失した。時期不明だが跡地には浪曲師の巴うの子によって「巴座」が開館し、1933年(昭和8年)には映画館となった。1943年(昭和18年)には東宝が巴座を借りて「松阪東宝劇場」となり、終戦前の劇場統合によって一時的に閉鎖、1945年(昭和20年)11月に営業を再開した。1954年(昭和29年)には館主の堀又市が直接経営するようになり、「巴映画劇場」に改称して東宝作品や洋画などを上映した。1960年(昭和35年)には巴うの子の息子である堀盛達の時代となった。1973年(昭和48年)8月、多角経営のビルに建て替えた。*51
近代劇場/松阪近代劇場
所在地 : 三重県松阪市日野町697(1958年)、三重県松阪市日野町(1960年)、三重県松阪市日野町697(1963年)、三重県松阪市日野町697(1966年・1969年・1973年・1976年)、三重県松阪市日野町(1980年)、三重県松阪市日野町14(1985年・1990年)
開館年 : 1957年9月、1980年3月1日(駅前開発で移転)
閉館年 : 1998年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「近代劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「松阪近代劇場」。1969年の映画館名簿では「近代劇場」。1971年の住宅地図協会住宅地図では「近代劇場」。1973年の映画館名簿では「松阪近代劇場」。1975年のゼンリン住宅地図では「近代劇場」。1976年の映画館名簿では「近代劇場」。1980年の映画館名簿では「松阪近代劇場(建築中)」。1980年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造2階部分168席、経営会社は近代興業、経営者は岡山繁雄、支配人は岡山喜久。1985年・1990年の映画館名簿では「松阪近代劇場」。1984年・1992年のゼンリン住宅地図では「近代劇場」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。2007年に建物が解体された。

1957年9月には日野町に「近代劇場」が開館し、東宝作品は「巴映画劇場」から移動した。経営者は鉄屑商から進出した岡山繁雄。1年後の1958年9月には近代劇場の前に「近劇コニー」という小劇場も開館した。1980年3月1日、駅前都市開発によって商店街に新築した。入口は商店街の2階にあり、168席の小規模劇場だった。事務室にはテレビモニター装置がある先端的な劇場だった。*52

2003年には松阪市観光協会が、松阪駅前の中心商店街であるベルタウン2階にある映画館跡地を多目的ホールとして、市民に対する貸し出しを始めた。映画館跡地は近くの寺院が所有しており、松阪市は年間70万円で借りる契約を結んでいる。入口は商店街の2階にあり、168席の小規模劇場だった。事務室にはテレビモニター装置がある先端的な劇場だった。*53
松阪パールシネマ1・2
所在地 : 三重県松阪市塚本町荒木81-5(1990年・1995年・2000年・2002年)
開館年 : 1986年3月25日
閉館年 : 2002年以後2005年以前
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「松阪パールシネマ1・2」。1992年のゼンリン住宅地図では「松阪パールシネマ1・2」。2002年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造1階部分110席と88席、経営者は松井克己、支配人は岡田義広、邦画と洋画を上映。2005年の映画館名簿には掲載されていない。建物は2013年以後に取り壊され、跡地は2017年竣工のアパート「ニシルカウ」。

1986年3月25日、塚本町の国道23号から脇に入った場所に、広い駐車場を有する「松阪パールシネマ1・2」が開館した。経営者は伊勢市の「伊勢パール劇場」の松井克己であり、深夜興行を行ってマイカー族の取り込みを図った。アーノルド・シュワルツェネガー主演の『コマンドー』とケヴィン・コスナー主演の『ファンタンゴ』がオープニング作品である。松阪パールシネマは時代に流れを読んだ経営方針が一定の成功を収めた。*54
アサヒ館/松阪大映/松阪大映劇場
所在地 : 三重県松阪市湊町152(1953年)、三重県松阪市湊町(1960年)、三重県松阪市湊町152(1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年)、三重県松阪市湊町158(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年)
開館年 : 1940年頃
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 松阪大映劇場
1940年頃にアサヒ館として開館。『全国映画館総覧1955』によると1946年11月開館。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「アサヒ館」。1960年頃に松阪大映劇場に改称。1960年・1963年の映画館名簿では「松阪大映」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「松阪大映劇場」。1970年の住宅地図では「大映 アサヒ館」。1971年の住宅地図協会住宅地図では「大映 アサヒ館」。1975年のゼンリン住宅地図では「松阪大映」。1980年の映画館名簿では木造1階部分300席、経営会社はアサヒ興業、経営者・支配人ともに大久保克己、にっかつと成人映画を上映。1984年のゼンリン住宅地図では「松阪大映」。1992年のゼンリン住宅地図では「松阪大映」。2000年の映画館名簿では木造2階部分250席、経営会社はアサヒ興業、経営者・支配人ともに大久保克己、成人映画を上映。

1935年(昭和10年)10月、松阪市油屋町に「アサヒ館」が開館した。海外航路の船舶理髪師である的場信一が工費1万円で建てた。1階席と2階席があるモダンな劇場だった。無声映画の解説者だった大槻二郎が支配人を務めていたが、戦後には大槻が的場から劇場を買い取り、「松阪大映」に改称した。*55

多気郡多気町

片野橋劇場
所在地 : 三重県多気郡勢和村五ケ谷(1958年)、三重県多気郡勢和村(1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「片野橋劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
相可東映劇場/相可劇場
所在地 : 三重県多気郡多気町相可(1960年)、三重県多気郡多気町(1963年)、三重県多気郡多気町相可168(1964年)、三重県多気郡多気町相可(1965年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「相可劇場」。1960年の映画館名簿では「相可東映劇場」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「相可劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

昭和30年代の「相可座」の写真あり。「相可映画劇場」の文字が見える。相可座と呼ばれていたが、映画全盛期には相可映画劇場といったとされる。大正時代の地図には「クラブ」として掲載され、映画館の裏を下りた先の川沿いの洗濯場はクラブ裏と呼ばれた。大正末期から昭和初期に芝居小屋として開館し、簡易な回り舞台、警察官の臨観席などが設けられていた。映画館になると木製のベンチ席が設置された。2020年現在では建物は存在せず、跡地は畑地となっている。*56

多気郡明和町

109シネマズ明和
所在地 : 三重県多気郡明和町中村1223 イオン明和
開館年 : 2001年8月
閉館年 : 営業中
8スクリーン。ワーナー・マイカル・シネマズ桑名、ワーナー・マイカル・シネマズ鈴鹿、ワーナー・マイカル・シネマズ津に続いて三重県4館目のシネコンである。ジストシネマ上野はシネコンの定義から外れるが、ジストシネマ上野を含めると109シネマズ明和は三重県5館目となる。

多気郡大台町

三瀬谷館
所在地 : 三重県多気郡三瀬谷町佐原(1955年)、三重県多気郡大台町佐原(1957年・1958年)
開館年 : 1951年11月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧1955』によると1951年11月開館。1955年・1957年・1958年の映画館名簿では「三瀬谷館」。1957年の映画館名簿では経営者が清水信男、支配人が内海喜久夫、構造は掲載なし、定員500、映写機はオリオン、発声器はビクター。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
下村座/下村映画劇場
所在地 : 三重県多気郡三瀬谷町佐原(1955年)、三重県多気郡大台町佐原458(1958年)、三重県多気郡大台町(1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1947年2月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧1955』によると1947年2月開館。1955年の映画館名簿では「下村座」。1958年の映画館名簿では「下村映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「下村座」。1960年の映画館名簿では経営者が下村弥輔、支配人が下村伝子、木造2階建、定員300、邦画を上映。1964年・1965年の映画館名簿では「下村映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
荻原座/荻原会館/荻原館
所在地 : 三重県多気郡荻原村江馬410-1(1955年)、三重県多気郡宮川村江馬410-1(1958年)、三重県多気郡宮川村(1960年・1963年)、三重県多気郡大台町荻原(1966年・1969年)
開館年 : 1949年7月
閉館年 : 1969年以後1973年以前
『全国映画館総覧1955』によると1949年7月開館。1955年・1958年の映画館名簿では「荻原館」。1960年の映画館名簿では「荻原座」。1963年の映画館名簿では「荻原会館」。1966年・1969年の映画館名簿では「荻原館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
宮川劇場/三瀬宮川劇場/三瀬谷宮川劇場
所在地 : 三重県多気郡大台町(1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「宮川劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が山本七平、支配人が古川毅、木造2階建、定員380、映写機と発声器は記載なし、邦画を上映。1966年・1968年の映画館名簿では「三瀬宮川劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が古川毅、支配人は記載なし、木造2階建冷暖房付、定員300、映写機はローヤル。1969年の映画館名簿では「三瀬谷宮川劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1974年のゼンリン住宅地図では「映画劇場」。跡地は「JR紀勢本線三瀬谷駅」駅舎から北北西110mにあるガレージ。最寄駅はJR紀勢本線三瀬谷駅。

伊勢志摩地方

伊勢市

伊勢市の映画館
1968年の『伊勢市史』には「現存する映画館」として、「伊勢東映」(曽祢町)、「帝国座」(一之木町)、「ひかり座」(一之木町)、「伊勢シネマ」(一之木町)、「世界館」(一之木町)、「パール劇場」(一之木町)、「いすず東映」(一之木町)の7館が挙げられている。主な閉館した映画館として、「平和松竹」(宮町)、「伊勢劇場」(宮後町)、「有楽座」(大世古町)の3館が挙げられている。*57
松竹館
所在地 : 三重県宇治山田市
開館年 : 1925年頃
閉館年 : 1935年以前
伊勢で3番目に開館した常設映画館として「松竹館」があった。1925年頃に開館したとされ、現在の宮町にあったとされるが、正確な場所は不明である。経営者は活動弁士の甲斐清風と小林信治であり、両者は津市の「松竹館」(後の共楽館)や松阪の「神楽館」なども経営していた。松竹キネマの専門館だったと推測され、牛原虚彦監督作品や栗島すみ子主演作品などが上映された。1935年の三重県の常設映画館一覧には掲載されておらず、長くとも10年の営業期間だったとされる。*58
第二世界館
所在地 : 三重県宇治山田市北町349(1930年)、三重県宇治山田市一ノ木町349(1936年)
開館年 : 1929年
閉館年 : 1954年
1930年・1936年の映画館名簿では「第二世界館」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。

「世界館」を経営していた中村亥三郎は、1929年に芝居と映画の「第二世界館」を開館させた。1931年4月には初代中村雁治郎一座を招いた歌舞伎の興行を行った。1946年1月には早くも復興したが、1954年にはパチンコ店に鞍替えした。*59
共楽館
所在地 : 三重県伊勢市宮後町(1957年・1958年・1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1962年頃
1955年・1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「共楽館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は洋服店「アトラクト」や進学塾「アイル」や婦人服店「FLAVOR」などが入る建物。最寄駅はJR・近鉄伊勢市駅。

伊勢市の映画館「共楽館」の正確な開館年は不明だが、「遷宮奉祝映画」と書かれた共楽館のチラシがあり、第59回遷宮があった1953年には営業していたと思われる。当初は新東宝と東映の二番館だったが、後に東宝専門の二番館となった。1958年の第29回伊勢地区統一メーデー協賛映画館チラシにも共楽館が掲載されている。1962年10月の映画案内チラシでは共楽館の名前は確認できない。*60
宮川座
所在地 : 三重県度会郡小俣町2954(1959年・1960年)、三重県度会郡小俣町(1963年)、三重県度会郡小俣町2954(1964年・1965年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1965年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「宮川座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
トキワ劇場
所在地 : 三重県伊勢市曽弥町471(1963年・1964年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1964年頃
1960年・1961年・1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1964年の映画館名簿では「トキワ劇場」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「伊勢進富座」建物南側。最寄駅は近鉄山田線宮町駅。

伊勢市の映画館「伊勢東映」に隣接して「トキワ劇場」があった。営業を開始したのは1960年頃とされる。この年には映画製作会社として第二東映株式会社(1961年にニュー東映に改称)が設立されており、東映系列の廃旧作品数が増加することが予想されたため、伊勢東映がトキワ劇場を設立した。1961年12月にはニュー東映との契約が解消され、それ以後は洋画を中心に上映した。*61
白鳥座/伊勢大映白鳥座
所在地 : 三重県宇治山田市吹上町7(1955年)、三重県伊勢市吹上町7(1958年)、三重県伊勢市吹上町(1960年)、三重県伊勢市吹上町7(1963年・1964年)
開館年 : 1954年4月1日
閉館年 : 1965年5月
1953年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧1955』によると1954年3月開館。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「白鳥座」。1964年の映画館名簿では「伊勢大映白鳥座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2018年開業の「コンフォートホテル伊勢」。最寄駅はJR・近鉄伊勢市駅。

1954年4月1日、宇治山田市吹上町に「白鳥座」が開館した。オープニング作品はコロムビア製作でリタ・ヘイワース主演の『情炎の女サロメ』、ユニバーサル製作でジェームズ・スチュワート主演の『雷名の湾』。館主は三重石炭の社長を辞めてまで映画館を建てた井坂栄一である。小津安二郎とは旧制宇治山田中学校の同級生であり、松阪の「神楽座」で一緒に映画を観ていた仲、映画館の建設時には小津も協力している。後に「伊勢大映」となったが、1965年5月に閉館した。*62

JR・近鉄伊勢市駅に近い現在の吹上1丁目には映画館「白鳥座」があった。世木神社に隣接していた。1954年4月に開館。三重県で初めて冷暖房を完備した映画館だった。経営者の井阪栄一(坂ではなく阪)は旧制宇治山田中学校で小津安二郎と同級生だった。開館当初は洋画の封切館であり、西部劇やアクション映画を上映、時には日活作品を上映した。遅くとも1956年には松竹の封切館となり、小津の作品も上映した。その後は大映の封切館となって「伊勢大映白鳥座」に改称し、勝新太郎主演作品などを上映した。1965年に閉館した。*63
平和座/平和松竹
所在地 : 三重県宇治山田市宮町133(1953年・1955年)、三重県伊勢市宮町133(1958年)、三重県伊勢市宮町(1960年)、三重県伊勢市宮町133(1963年・1964年)
開館年 : 1946年、1950年9月
閉館年 : 1966年
1950年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧1955』によると1950年9月開館。1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「平和座」。1963年・1964年の映画館名簿では「平和松竹」。1964年の住宅地図では「平和座映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1971年の住宅地図では跡地に「専用駐車場」。跡地は「伊勢高柳商店街振興組合駐車場」。最寄駅は近鉄山田線宮町駅。

昭和20年代の「平和座」の写真あり。伊勢市宮町。1949年のアメリカ映画『暴力行為』の看板が見える。戦災で焼失した奥文本館の跡地に洋画専門館として開館したのが平和座である。*64

1946年、宇治山田市宮町に演芸や演劇の専門館として「平和座」が開館した。1951年に洋画専門の映画館となり、アメリカ映画のブームに乗った。1954年夏の『ローマの休日』は劇場を二回りするほどの観客が詰めかけた。しかし伊勢市に3館も洋画系映画館があったため、1958年10月末には自主経営をやめて「平和松竹」(平和劇場)に改称した。館主の小久保久吉は1947年に宇治山田市議会議員となり、1951年に三重県議会議員となり、1960年に三重県議会議長となっている。1965年4月に小久保久吉が亡くなると、その1年後に閉館した。*65

1946年には芝居小屋として「平和座」が開館したが、後に常設映画館となった。基本的には洋画上映館であり、エリア・カザン監督やアルフレッド・ヒッチコック監督の作品が上映されたが、新東宝の作品を上映することもあった。後に自主経営から貸館となり、1960年には松竹の封切館となって「平和松竹」に改称した。「平和劇場」と呼ばれた時代もあった。1966年に閉館した。跡地は宮町1丁目にある高柳商店街の駐車場である。*66

昭和20年代の「松竹館」の写真あり。伊勢市宮町。1950年に松竹が製作した美空ひばり主演作品『とんぼ帰り道中』の看板が見える。(※松竹館が映画館名簿におけるどの映画館か定かでない)*67
山田帝国座/帝国座/伊勢帝国座
所在地 : 三重県宇治山田市一之木町(1930年・1936年・1950年)、三重県宇治山田市一之木町354(1953年)、三重県宇治山田市一之木町345(1955年)、三重県伊勢市一之木町354(1958年)、三重県伊勢市一之木町(1960年)、三重県伊勢市一之木町354(1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1911年10月(帝国座)、1920年(建て替え)
閉館年 : 1972年9月3日
『全国映画館総覧1955』によると1935年10月開館で鉄筋コンクリート造2階建。1930年・1936年の映画館名簿では「帝国座」。1950年の映画館名簿では「山田帝国座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「帝国座」。1966年・1969年の映画館名簿では「伊勢帝国座」。1970年のゼンリン住宅地図では「帝国座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1976年のゼンリン住宅地図では跡地に「三県商事KK」。1983年・1990年のゼンリン住宅地図では跡地に「三県ビル」。現在の跡地は「三県ビル」。最寄駅は近鉄山田線・JR参宮線伊勢市駅。

1915年(大正4年)には宇治山田市初の映画館として「帝国館」が開館した。建物は洋風だった。昭和20年代の帝国館の写真あり。*68

1906年(明治39年)に市制施行して宇治山田市が発足した際、一之木町の現在地には「新北座」があった。1911年(明治44年)10月にはその跡地に「帝国座」が開館し、芝居などの興行を行った。1920年には洋風に改築し、日活直営の映画館となった。*69

1911年、宇治山田市一之木町の「新北座」が改築して「帝国座」となった。1915年には三重県で3番目の活動写真常設館となったが、芝居や演芸の興行も行った。経営者は名古屋市の岡佐商会。1920年に改築して洋風建築となった。太平洋戦争時に焼失したが復興し、「帝国館」と呼ばれた時期もあった。1972年9月3日に閉館した。*70

伊勢で初の常設映画館は「帝国座」である。1892年に開館した芝居小屋の「新北座」が前身であり、1915年には三重県3番目の常設映画館として生まれ変わった。経営者は佐藤太郎と岡崎常太郎が経営する岡佐商会である。当初は日活・帝国キネマ・東亜キネマの専門館であり、サイレント時代には溝口健二作品や阪東妻三郎・大河内伝次郎主演作品などが上映された。1930年の火災で焼失したが、復興すると浦部粂子や入江たか子らの日活スターも来館した。1945年の伊勢空襲でも焼失したが、戦後まもなく復興して東宝の封切館となり、日活や新東宝の作品が上映されることもあった。1972年に閉館した。跡地は一之木2丁目の雑居ビルである。*71
いすず劇場/いすず東映劇場/伊勢いすず東映劇場/伊勢いすず東映
所在地 : 三重県伊勢市一之木町(1960年・1963年)、三重県伊勢市一之木町378(1966年・1969年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1969年
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「いすず劇場」。1963年の映画館名簿では「いすず東映劇場」。1966年の映画館名簿では「伊勢いすず東映劇場」。1969年の映画館名簿では「伊勢いすず東映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

伊勢市新天地には松井克巳による映画館「伊勢シネマ」と「パール劇場」があったが、「いすず劇場」(後のいすず東映、伊勢日活)も開館して3館となった。いすず劇場の館主は寺田光郎であり、伊勢東映の館主だった水野きみの弟である。やがて松井の経営に代わり、1969年に閉館した。*72
松竹ひかり座/伊勢大映劇場/伊勢ひかり座/ひかり座
所在地 : 三重県伊勢市一之木町(1960年)、三重県伊勢市一之木町378(1963年・1966年)、三重県伊勢市一之木町378(1969年)、三重県伊勢市一之木2-16-17(1973年・1976年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1976年以後1980年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「松竹ひかり座」。1963年の映画館名簿では「ひかり座」。1966年の映画館名簿では「伊勢ひかり座」。1969年の映画館名簿では「伊勢大映劇場」。1970年のゼンリン住宅地図では「伊勢にっかつ・ひかり座」。1973年の映画館名簿では「伊勢ひかり座」。1976年の映画館名簿では「ひかり座」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅は近鉄山田線・JR参宮線伊勢市駅。

松本清張の小説『砂の器』には「旭館」という映画館が登場する。1974年には映画版『砂の器』が製作され、ひかり座でもロケが行われた。映画中でもひかり座として登場し、渥美清がひかり座の支配人に扮している。野村芳太郎監督や丹波哲郎らがひかり座のロケに参加している。*73

北新地には「ひかり座」もあったが、1982年にはひかり座が取り壊された。*74
つばめ座/伊勢シネマ
所在地 : 三重県伊勢市一之木町(1960年・1963年)、三重県伊勢市一之木町387(1966年)、三重県伊勢市一之木町378(1969年)、三重県伊勢市一之木2-16-17(1973年・1976年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1955年12月4日(つばめ座)、1959年(伊勢シネマ)
閉館年 : 1987年4月5日
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「伊勢シネマ」。1970年・1976年・1983年のゼンリン住宅地図では「伊勢シネマ」。1980年の映画館名簿では木造平屋建110席、経営者・支配人ともに松井克己、にっかつ・成人映画を上映。1990年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅は近鉄山田線・JR参宮線伊勢市駅。

志摩半島の和具で船大工をしていた松井克巳は、宇治山田市一之木町北新地の遊郭街のそばに寄席小屋「つばめ座」を開館させた。つばめ座は1959年に「伊勢シネマ」となっている。さらに1954年5月1日、つばめ座の隣接地に「山田パール劇場」(伊勢パール劇場)を開館させ、ジョージ・モンゴメリー『タイコンデロガの砦』ほか3本立がオープニング作品となった。8月13日には三重県初のシネマスコープ作品『聖衣』を上映している。後に松井は津市・四日市市・松阪市にも進出している。

1955年12月4日、伊勢市に「ツバメ座」が開館した。東映と新東宝の再映館。木造平屋建、80坪、座席定員135人。*75
山田パール劇場/伊勢パール劇場/パール劇場/パール劇場/伊勢パール3
所在地 : 三重県宇治山田市一ノ木町384(1955年・1958年)、三重県伊勢市一之木町・一之木町318(1963年)、三重県伊勢市一之木町378・387(1966年)、三重県伊勢市一之木町378(1969年)、三重県伊勢市一之木2-16-17(1973年・1976年・1980年・1985年)
開館年 : 1954年5月1日
閉館年 : 1990年以後1992年以前
『全国映画館総覧1955』によると1954年5月開館。1955年・1958年の映画館名簿では「山田パール劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「パール劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「伊勢パール劇場」。1970年・1976年・1983年のゼンリン住宅地図では「パール劇場」。1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「パール劇場」。1980年の映画館名簿では木造平屋建320席、経営者・支配人ともに松井克己、洋画を上映。1990年の映画館名簿では「伊勢パール1・2・3」(3館)。1990年のゼンリン住宅地図では「伊勢パール1・2・3」。1992年・1995年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅は近鉄山田線・JR参宮線伊勢市駅。映画版『砂の器』のロケ地。

志摩半島の和具で船大工をしていた松井克巳は、宇治山田市一之木町北新地の遊郭街のそばに寄席小屋「つばめ座」を開館させた。つばめ座は1959年に「伊勢シネマ」となっている。さらに1954年5月1日、つばめ座の隣接地に「山田パール劇場」(伊勢パール劇場)を開館させ、ジョージ・モンゴメリー『タイコンデロガの砦』ほか3本立がオープニング作品となった。8月13日には三重県初のシネマスコープ作品『聖衣』を上映している。後に松井は津市・四日市市・松阪市にも進出している。松井克巳はいすず劇場とひかり座の跡地に2スクリーンの「伊勢パール1・2」(100席と80席)を建て、1987年4月29日に開館した。*76
伊勢パール1・2
所在地 : 三重県伊勢市一之木2-16-17(1990年)
開館年 : 1987年4月29日
閉館年 : 1990年以後1992年以前
1987年4月29日、松井克巳はいすず劇場とひかり座の跡地に2スクリーンの「伊勢パール1・2」(100席と80席)を建てて開館させた。オープニング作品は『プラトーン』。旧パール劇場は「伊勢パール3」に改称して存続させた。1987年4月5日には「伊勢シネマ」を閉館させた。*77
第一世界館/伊勢第一世界館/伊勢世界館/世界館/世界館・第二世界館/世界館1・2
所在地 : 三重県宇治山田市北町(1930年)、三重県宇治山田市一ノ木町237(1936年)、三重県宇治山田市一之木町(1950年)、三重県宇治山田市一之木町350(1953年・1955年)、三重県伊勢市一之木町350(1958年)、三重県伊勢市一之木町(1960年)、三重県伊勢市一之木町350(1963年・1966年・1969年)、三重県伊勢市一之木2-9-2(1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1916年9月、1968年8月3日(ビル化)
閉館年 : 2003年
Wikipedia : 世界館 (伊勢市)
『全国映画館総覧1955』によると1916年9月開館。1930年・1936年・1950年の映画館名簿では「第一世界館」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「第一世界館」。1966年の映画館名簿では「伊勢第一世界館」。1969年・1973年の映画館名簿では「伊勢世界館」。1970年の住宅地図では「世界館 紙工場」。1976年の映画館名簿では「世界館」。1976年・1983年・1990年のゼンリン住宅地図では「映画 世界館」。1980年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造1階部分400席と100席、経営会社は世界館、経営者・支配人ともに中村比呂誌、世界館は松竹・東宝・洋画を上映、第二世界館は邦画・洋画を上映。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「世界館・第二世界館」(2スクリーン)。1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「世界館1・2」(2館)。2000年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造3階部分350席と130席、経営会社はいずれも世界館、経営者はいずれも中村比呂誌、支配人はいずれも中村元彦、いずれも邦画と洋画を上映。2010年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅は近鉄山田線・JR参宮線伊勢市駅。

1917年(大正6年)に世界館が開館し、1929年(昭和4年)に第二世界館が開館した。戦後は松竹や大映の封切館として人気があった。昭和20年代の世界館の写真あり。1950年の衣笠貞之助監督作品『紅蝙蝠』の看板が見える。*78

かつては浪曲寄席の「蛭子座」があったが、活動写真ブームが到来すると改築して映画館となった。1919年(大正8年)から1920年(大正9年)にはさらに改築し、「世界館」に改称した。1929年(昭和4年)2月には新道に「第二世界館」を開館させ、オリジナルは「第一世界館」に改称した。第一世界館・第二世界館ともに、1945年(昭和20年)には太平洋戦争の空襲で焼失した。*79

宇治山田市一之木町には「蛭座」(えびすざ)があり、明治中期に材木商の中村六次郎(中村比呂誌の祖父)が買収した。1916年には「世界館」に改称し、1929年には「第一世界館」となった。息子の中村亥三郎の時代になると宇治山田市で一番の映画館に君臨した。漫談家の徳川夢声もここで演じている。中村亥三郎は「新鋭機器を導入した三重県初の映画館」と主張する。戦後は大映や松竹の作品を上映した。1968年8月3日、世界館は鉄筋コンクリート造3階建てのビルに改築した。1階は娯楽センター、2階と3階は映画館であり、映画館は1000人を収容する三重県一の大劇場となった。オープニング作品は石原裕次郎主演の『黒部の太陽』。1968年の写真あり。四日市の「弥生館」とともに、老舗として三重県を代表する映画館のひとつである。*80

後に映画監督となる小津安二郎は、1916年(大正5年)から宇治山田市(現・伊勢市)に下宿して三重県立第四中学校(現・三重県立宇治山田高校)に通った。同年に開館した映画館「世界館」に通ううちに映画に魅了された。小津の出身地である松阪市には、まだ映画館が存在しなかった。*81
進富映画劇場/伊勢東映新富劇場/伊勢東映劇場/伊勢東映劇場・伊勢ロマン劇場/伊勢レック1・2/伊勢エクラン1・2/進富座/進富座1・2
所在地 : 三重県宇治山田市曽祢町471(1955年)、三重県伊勢市曽祢町471(1958年)、三重県伊勢市曽祢町(1960年)、三重県伊勢市曽祢町471(1963年・1966年・1969年)、三重県伊勢市曽祢2-8-7(1973年・1976年・1980年・1985年・1990年)、三重県伊勢市曽祢2-8-27(1995年)、三重県伊勢市曽祢2-8-7(2000年)、三重県伊勢市曽祢2-8-27(2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1927年(芝居小屋として)、1953年3月(映画館として)、1980年12月20日(建て替え)、2002年7月6日(進富座)
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 伊勢進富座
1953年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧1955』によると1953年3月開館。1953年には進富映画劇場に改称して映画館化。1955年の映画館名簿では「進富映画劇場」。1956年には伊勢東映に改称。1958年の映画館名簿では「伊勢東映新富劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「伊勢東映劇場」。1970年・1976年・1983年のゼンリン住宅地図では「伊勢東映劇場」。1980年の映画館名簿では木造1階部分390席、経営者は水野きみ、支配人は土村建平、東映を上映。1982年には本館横に伊勢ロマン劇場を開館して2スクリーン化。1983年にはレックに改称。1985年・1990年の映画館名簿では「伊勢レック機Ν供廖2館)。1990年のゼンリン住宅地図では「伊勢東映劇場・レック1・2」。1995年の映画館名簿では「伊勢レック1・2」(2館)。1997年には伊勢エクランに改称。2000年の映画館名簿では「伊勢エクラン1・2」(2館)。2000年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造1階部分156席と80席、経営会社はいずれも世界館、経営者はいずれも中村比呂誌、支配人はいずれも中村元彦、いずれも邦画と洋画を上映。2002年7月6日に本館のみ進富座として営業を開始。2005年の映画館名簿では「進富座」。2006年4月1日に進富座別館の営業を開始。2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「進富座本館・別館」(2館)。最寄駅は近鉄山田線宮町駅。

「伊勢進富座」を主題とする書籍として、水野昌光・登重樹『シネマ・スクエア・レックをもう一度』新風舎、2002年がある。

「伊勢進富座」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*82

1906年(明治39年)の曽祢町(現・新町)には新福座があったが、1909年(明治42年)1月に焼失した。跡地に新富座を開館させ、芝居の興行を行っていたが、1945年(昭和20年)には太平洋戦争の空襲で焼失した。1953年(昭和28年)3月には進富映画劇場として再建し、主として映画を上映する劇場となった。後に伊勢東映に改称し、『伊勢市史』が刊行された1968年(昭和43年)時点では伊勢東映として営業中。*83

鳥羽市

大漁座
所在地 : 三重県鳥羽市神島
開館年 : 不明
閉館年 : 不明
映画館ではなく舞台。伊勢湾口に浮かぶ神島にあった。1967年の『鳥羽市住居表示案内図』では「大漁座」。跡地は「神島保育所」のグラウンドだと思われるが、『鳥羽市住居表示案内図』の地図がずさんなため正確な場所を判断できず。『三重県史 別編 民俗』の第5章には「神島町の舞台(大漁座)」の図が掲載されているらしい。
桃取文化センター
所在地 : 三重県鳥羽市桃取町248(1964年・1965年)
開館年 : 1963年頃
閉館年 : 1965年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1965年の映画館名簿では「桃取文化センター」。1964年の映画館名簿では経営者が尾崎楠太郎、支配人が尾崎多嘉子、木造平屋建、定員150、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。答志島の桃取地区。
安盛座/答志劇場/答志東映劇場
所在地 : 三重県鳥羽市答志町(1956年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年の映画館名簿では「安盛座」。1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「答志劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が浜口与作、木造平屋建、定員120、邦画を上映。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「答志東映劇場」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに稲沢文雄、木造平屋建、定員200、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の『鳥羽市住居表示案内図』では「答志劇場 稲葉文雄」。跡地は「民宿旅館しま」南東の民家。答志島の答志地区。

1955年度の鳥羽市勢要覧には劇場として6館が掲載されている。「映画演劇」の館として「朝日座」(鳥羽町)、「鳥羽劇場」(鳥羽町)、「答志座」(答志町)、「中央劇場」(答志)、「美浜座」(相差町)の5館が、「演劇」の館として「相生座」(相差町)の1館がある。*84
答志中央劇場
所在地 : 三重県鳥羽市答志町(1960年・1963年・1964年・1965年頃)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1965年頃
1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年・1962年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「答志中央劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が浜崎みつえ、木造平屋建、定員100、邦画を上映。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに浜崎みつえ、木造平屋建、定員100、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の『鳥羽市住居表示案内図』では「中央劇場 浜崎ミツエ 石黒」。跡地は食料雑貨店「八百安」。答志島の答志地区。

1955年度の鳥羽市勢要覧には劇場として6館が掲載されている。「映画演劇」の館として「朝日座」(鳥羽町)、「鳥羽劇場」(鳥羽町)、「答志座」(答志町)、「中央劇場」(答志)、「美浜座」(相差町)の5館が、「演劇」の館として「相生座」(相差町)の1館がある。*85
志摩劇場/鳥羽東映/鳥羽東映劇場
所在地 : 三重県志摩郡鳥羽町鳥羽(1953年・1955年)、三重県鳥羽市鳥羽町(1958年・1960年・1963年)、三重県鳥羽市鳥羽町1529(1966年)
開館年 : 1952年7月
閉館年 : 1966年
『全国映画館総覧1955』によると1952年7月開館。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「志摩劇場」。1960年の映画館名簿では「鳥羽東映劇場」。1963年の映画館名簿では「鳥羽東映」。1963年の産業住宅案内図帖では「鳥羽東映」。1966年の映画館名簿では「鳥羽東映劇場」。1967年の鳥羽市住居表示案内図では「鳥羽東映」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では跡地に「スーパーマーケット風車の店 主婦の店鳥羽店」。跡地は「金胎寺」北側にあるアパート「フォーブルコスモ」。最寄駅は近鉄志摩線中ノ郷駅。

1952年(昭和27年)には籾山氏によって「志摩劇場」が開館し、やがて「鳥羽東映」に改称している。鳥羽市街地には芝居劇場の「朝日座」もあった。志摩劇場は1966年(昭和41年)に閉館。跡地はスーパー風車のある「主婦の店」に改装されたが、2002年現在は跡地にアパート「フォーブルコスモ」が建っている。*86

1954年(昭和29年)の「志摩劇場」の写真あり。「鳥羽東映」という通称でも呼ばれた。映画最盛期の鳥羽には「朝日座」と志摩劇場の2館があった。志摩劇場は1966年(昭和41年)に閉館し、朝日座は1972年(昭和47年)に閉館した。*87

1955年度の鳥羽市勢要覧には劇場として6館が掲載されている。「映画演劇」の館として「朝日座」(鳥羽町)、「鳥羽劇場」(鳥羽町)、「答志座」(答志町)、「中央劇場」(答志)、「美浜座」(相差町)の5館が、「演劇」の館として「相生座」(相差町)の1館がある。*88
扇座/朝日座/鳥羽朝日座
所在地 : 三重県志摩郡鳥羽町大里(1936年)、三重県志摩郡鳥羽町(1953年・1955年)、三重県鳥羽市鳥羽町1930(1958年)、三重県鳥羽市鳥羽町(1960年)、三重県鳥羽市鳥羽町1933(1963年)、三重県鳥羽市鳥羽町1930(1966年・1969年)
開館年 : 1928年(扇座)、1929年(朝日座)
閉館年 : 1972年
1936年の映画館名簿では「朝日座」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「朝日座」。1963年の産業住宅案内図帖では「朝日座」。1966年・1969年の映画館名簿では「鳥羽朝日座」。1967年の鳥羽市住居表示案内図では「朝日座」。1972年のゼンリン住宅地図では「朝日座」。跡地は「江戸川乱歩館」(鳥羽みなとまち文学館)の南西110mにある民家。大里通りにある高山畳店の角から南に入る。最寄駅は近鉄鳥羽線・JR参宮線鳥羽駅または近鉄志摩線中ノ郷駅。

昭和初期の鳥羽に3館あった映画館の中心だったのが朝日座。歌舞伎も上演した。*89

1955年度の鳥羽市勢要覧には劇場として6館が掲載されている。「映画演劇」の館として「朝日座」(鳥羽町)、「鳥羽劇場」(鳥羽町)、「答志座」(答志町)、「中央劇場」(答志)、「美浜座」(相差町)の5館が、「演劇」の館として「相生座」(相差町)の1館がある。*90

1972年には映画館の「朝日座」が閉館した。*91

1928年には中世古松之助などが、閉業中の扇座を改装して扇座を新装開館させた。1929年には朝日座に改称。開館当初は歌舞伎などの興行が中心だったが、1935年頃から映画の上映が多くなった。1972年に閉館した。1955年頃の写真あり。*92

志摩市

モナミ映画劇場/モナミ劇場
所在地 : 三重県志摩郡鵜方町1638(1955年)、三重県志摩郡阿児町鵜方(1956年・1957年・1958年)
開館年 : 1954年9月
閉館年 : 1958年頃
1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「モナミ映画劇場」。1956年・1957年・1958年の映画館名簿では「モナミ劇場」。1958年の映画館名簿では経営者・支配人ともに西岡貞実、木造1階、定員255。1959年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。
東海劇場
所在地 : 三重県志摩郡甲賀村(1955年)、三重県志摩郡阿児町甲賀(1959年・1960年)
開館年 : 1953年12月
閉館年 : 1960年頃
『全国映画館総覧1955』によると1953年12月開館。1955年の映画館名簿では「東海劇場」。1956年・1957年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「東海劇場」。1960年の映画館名簿では経営者・支配人ともに城山甚一、東宝・大映を上映。1961年・1962年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の産業住宅案内図帳(※伊勢河崎商人館が所蔵)では「甲志劇場」。跡地は「甲賀郵便局」すぐ北の「民宿あすなろ」。
シマキネマ有楽館/有楽館
所在地 : 三重県志摩郡鵜方町(1955年)、三重県志摩郡阿児町鵜方(1958年・1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1946年4月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧1955』によると1946年4月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「シマキネマ有楽館」。1958年の映画館名簿では「有楽館」。1960年の映画館名簿では経営者・支配人ともに中井安蔵、木造2階建冷暖房付、定員1000、洋画を上映。1000席は市部も含めて三重県最大であり、冷暖房付きは当時の郡部としては異例。1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「友楽館」(有ではなく友)。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅地図では跡地に「ひまわり保育園 芸妓置ヤ初波」。1977年の住宅地図では跡地に「ひまわり園 (有)共栄建設鵜方事務所」。跡地は「横山第3号踏切」北東の建物。最寄駅は近鉄志摩線鵜方駅。
磯部座
所在地 : 三重県志摩郡磯部町迫間(1959年・1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1962年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「磯部座」。1960年の映画館名簿では経営者・支配人ともに山下啓也、木造平屋建、定員189、東宝・新東宝・日活を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の産業住宅案内図帳(※伊勢河崎商人館が所蔵)では「磯部座」。跡地は「磯部青果市場」敷地。最寄駅は近鉄志摩線志摩磯部駅。
寿座
所在地 : 三重県志摩郡波切町(1950年)、三重県志摩郡大王町波切744(1958年)、三重県志摩郡大王町(1960年・1961年・1962年)、三重県志摩郡大王町波切(1963年・1965年)
開館年 : 1950年以前
閉館年 : 1965年ころ
1950年の映画館名簿では「寿座」。1953年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1961年・1962年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「寿座」。1960年の映画館名簿では経営者・支配人ともに天白英機、木造2階建、定員550、松竹・大映・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1968年のゼンリン住宅地図では「寿座」。1977年の住宅地図では跡地に「パチンコハワイ(夏山世弘)」「駐車場」「アオキ家具店」。跡地は「天理教崎島分教会」東南東130mにある民家。
船越劇場
所在地 : 三重県志摩郡大王町船越(1960年・1961年・1962年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1965年頃
1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年・1962年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「船越劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が中山楠之丞、支配人が三橋宗利、木造平屋建、定員110、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1977年の住宅地図では跡地に「橋爪忠」邸。跡地は「船越神社」社殿の東130mにある空き地。
鵜方映画劇場/中央劇場/鵜方中央劇場
所在地 : 三重県志摩郡阿児町鵜方(1957年・1958年・1959年・1960年)、三重県志摩郡阿児町(1963年・1964年)、三重県志摩郡阿児町鵜方(1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1968年頃
1955年・1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「鵜方映画劇場」。1958年・1959年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「中央劇場」。1960年の映画館名簿では経営者・支配人ともに中井宗五郎、木造平屋建、定員185、邦画を上映。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「鵜方中央劇場」。1964年の産業住宅案内図帳(※伊勢河崎商人館が所蔵)では「劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が前田竜一、木造平屋建冷暖房付、定員200、東宝・東映を上映。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ファミリーマート志摩鵜方駅西店」。最寄駅は近鉄志摩線鵜方駅。
大王東映/大王劇場
所在地 : 三重県志摩郡大王町波切(1956年1958年)、三重県志摩郡大王町(1960年・1961年・1962年・1963年)、三重県志摩郡大王町波切268(1966年・1968年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1968年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年の映画館名簿では「大王劇場」。1960年・1961年・1962年・1963年の映画館名簿では「大王東映」。1966年・1968年の映画館名簿では「大王劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が林正祐、木造平屋建、定員200、松竹・東映を上映。1968年のゼンリン住宅地図(※鳥羽市立図書館が所蔵)では「大王劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では「大王劇場」。1977年の住宅地図では跡地に「駐車場」。跡地は「天理教崎島分教会」南東70mにある民家。
安乗劇場
所在地 : 三重県志摩郡阿児町安乗(1957年)、三重県志摩郡阿児町安乗628(1958年)、三重県志摩郡阿児町安乗(1960年・1963年・1966年・1968年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1968年頃
1955年・1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「安乗劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が中野定司、木造平屋建、定員60、邦画・成人映画を上映。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では「安乗劇場」。跡地は「安乗神社」西140mにある公衆トイレ西側の建物。
浜島座
所在地 : 三重県志摩郡浜島町(1950年・1959年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1901年
閉館年 : 1968年
1950年の映画館名簿では「浜島座」。1953年・1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「浜島座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1972年の住宅地図では跡地に「辻村弘大」邸。1980年のゼンリン住宅地図では跡地に「浜島町診療所」。跡地は2004年竣工の浜島集客交流拠点施設「わんさわんさ」。「わんさわんさ」は2016年12月から休館中だが2019年3月時点で建物は現存。

明治維新後には浜島にあった屋外舞台が取り壊され、村人の娯楽の場がなくなっていた。岩崎の埋め立てで浜島に入港する船舶が増えつつあったことから、1899年(明治32年)に有志によって字岩崎の海岸近くに浜島座が建設された。木造切妻造瓦葺き、2階建て。舞台上には廻り舞台があり、1階客席の両側に花道があり、2階には桟敷席があった。設計は伊勢市の新富座(当時の名称は進富座ではなく新富座)を参考にしたとされる。こけら落とし公演として、大阪の三桝源五郎一座が6日間興行している。娯楽施設や公会堂としての役割を果たした。戦後には映画上映がほとんどとなり、稀に演劇も上演された。昭和40年代にはテレビの普及で観客数が激減して閉館した。浜島町文化財調査委員会は民俗資料としての保存を検討し、三重県教育委員会文化課に調査を依頼した。費用面で保存が困難だったことから、愛知県犬山市の明治村への寄贈も検討されたが、移転費用の問題で寄贈は見送られた。その後、1970年(昭和45年)夏に建物が取り壊された。なお、戦時中の1945年7月に浜島航空基地が襲撃された際には浜島座に関する記録が焼失している。*93

浜島座は奥志摩地方最古の本格的劇場であるが、1968年(昭和43年)に閉館した。*94

1969年(昭和44年)の浜島座の写真あり。木造2階建て、切妻屋根。1901年(明治34年)に芝居小屋として建設された。舞台中央部には回り舞台があり、1階は桝仕切りの座席、2階席もあった。1970年(昭和45年)7月21日、跡地に浜島町国民健康保険診療所が完成した。1988年(昭和63年)の浜島町立診療所(旧浜島座付近)の写真あり。*95
平和劇場/浜島平和劇場
所在地 : 三重県志摩郡浜島町(1960年・1963年)、三重県志摩郡浜島町1971(1966年・1969年)
開館年 : 1953年12月24日
閉館年 : 1970年12月
1960年・1963年の映画館名簿では「平和劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「浜島平和劇場」。1972年のゼンリン住宅地図では「平和劇場」。1980年のゼンリン住宅地図では跡地に「ソーコ」。跡地はスーパー「サンパール浜島店」(閉店済。2019年3月時点で建物は現存)。浜島本町通商店街にある。「公文式浜島教室」や「イネ屋商店」の向かい、銭湯「善代湯」の2軒西。

1955年(昭和30年)の浜島平和劇場の写真あり。『赤線基地』の看板が見える。1965年(昭和40年)頃から観客数の減少が顕著であり、1970年(昭和45年)に閉館した。*96

1953年(昭和28年)には浜島町に平和劇場が落成。1955年(昭和30年)頃の平和劇場前でメンコ遊びをする子どもたちの写真あり。*97

1953年(昭和28年)12月24日、丸山地区に平和劇場が開館した。1965年(昭和40年)頃から観客数が減少し、1970年(昭和45年)12月に閉館した。1953年(昭和28年)の開館時の写真、1955年(昭和30年)の写真、1970年(昭和45年)の館内の写真あり。2階席や2階桟敷席が見える。1976年(昭和51年)9月3日、映画館の建物を改修してスーパーマーケットが開店した。開店時の写真あり。1988年(昭和63年)3月12日にはスーパーマーケットが全焼したが、1989年(平成元年)7月29日には同一地点に新築して営業を再開した。火災前の1987年(昭和62年)の写真、再建後の1989年(平成元年)の写真あり。*98

ありそ俳句会の運営を担う井上博暁は、20歳だった1953年(昭和28年)2月に同会に入会した。入会当時の井上は御座村立御座小学校に勤務する教員であり、井上の生家は浜島平和劇場を経営していた。*99
和具劇場
所在地 : 三重県志摩郡和具町(1950年)、三重県志摩郡志摩町和具(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1950年以前
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1950年の映画館名簿では「和具劇場」。1953年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「和具劇場」。1972年の住宅地図には掲載されていない。1973年の映画館名簿には掲載されていない。志摩市立図書館でレファレンスしたところ、映画館の場所について知っている職員の記憶で和具パール劇場の場所が判明。職員の記憶によると日活作品を上映していた。跡地は「白帆堂」南側にある鍋島医院駐車場。向かいに和具パール劇場があった。

志摩町史編纂委員会『志摩町史』志摩町、2004年、pp.570-571には映画館の歴史について書かれているが、「和具パール劇場」や「和具劇場」を含めて具体的な館名は登場しない。*100
パール劇場/パール東映/和具パール劇場
所在地 : 三重県志摩郡和具町(1955年)、三重県志摩郡志摩町和具(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年)
開館年 : 1952年7月
閉館年 : 1985年以後1990年以前
『全国映画館総覧1955』によると1952年7月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「和具パール劇場」。1958年の映画館名簿では「パール東映」。1960年の映画館名簿では「パール劇場」。1963年の映画館名簿では「パール東映」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「和具パール劇場」。1972年のゼンリン住宅地図には掲載されていないが理由は不明。1980年のゼンリン住宅地図では「東宝パール」。1980年の映画館名簿では木造1階部分200席、経営者・支配人ともに松井博巳、邦画と洋画と成人映画を上映。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ヤダヤ商店」南側の空き地であり向かいに和具劇場があった。

志摩町史編纂委員会『志摩町史』志摩町、2004年、pp.570-571には映画館の歴史について書かれているが、「和具パール劇場」や「和具劇場」を含めて具体的な館名は登場しない。*101

1963年(昭和38年)頃の和具パール劇場の写真あり。萬屋錦之介主演の『男一匹道中記』、中村登監督作『続・愛染かつら』のポスターが見える。*102
志摩国際劇場
所在地 : 三重県志摩郡阿児町鵜方(1959年・1960年・1963年)、三重県志摩郡阿児町鵜方2070(1966年・1969年)、三重県志摩郡阿児町鵜方(1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2008年)
開館年 : 1953年、1967年8月(建て替え)
閉館年 : 2008年頃
1958年の映画館名簿では阿児町鵜方にモナミ劇場があるが別施設だと思われる。1960年の映画館名簿では経営者・支配人ともに前田稲太郎、木造2階建、定員300、松竹・東映・大映を上映。1959年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2008年の映画館名簿では「志摩国際劇場」。1968年・1972年のゼンリン住宅地図では「国際劇場」。1977年・1980年・1995年のゼンリン住宅地図では「鵜方国際劇場」(※志摩国際劇場ではない)。1980年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造2階部分120席、経営者・支配人ともに前田稲太郎、邦画と成人映画を上映。2000年・2008年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造2階部分100席、経営会社は合名会社志摩国際劇場、経営者・支配人ともに前田寿、邦画と洋画を上映。2007年の住宅地図では「鵜方国際劇場」。2009年・2010年の映画館名簿には掲載されていない。2009年の住宅地図では跡地に「空白」。志摩市最後の映画館。近鉄志摩線鵜方駅西側の踏切のすぐ北東の建物。「中華あこや」の南側の建物。2021年2月時点で建物は現存。

1953年、前田稲太郎はパン屋から転向して映画館の経営を始めた。鵜方町には3館の映画館があったが、「志摩国際劇場」の前田が最も熱心だった。1967年8月には古い建物を取り壊し、映画が不況の時代ではあったが新築開館した。1989年現在は志摩唯一の映画館であるが、前田は65歳の現在も「多角経営で頑張りたい」としている。*103

1990年8月26日には阿児町商工会の30周年企画の第1弾として、国際劇場で子ども映画会が開催され、『魔女の宅急便』が無料上映された。*104

度会郡玉城町

田丸東映/田丸劇場
所在地 : 三重県度会郡玉城町佐田(1960年・1963年)、三重県度会郡玉城町田丸(1966年・1968年)
開館年 : 1958年
閉館年 : 1968年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「田丸東映」。1966年・1968年の映画館名簿では「田丸劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が藤村武司、支配人が藤村耕三、木造平屋建、定員200。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

1880年(明治13年)には新田町の芝居小屋が勝田町に移築されたが、台風で倒壊した。殿町の若狭屋の南には活動写真の劇場があった。昭和初期には大手町の会所前に「大手座」が開館し、田舎芝居の公演や活動写真が上映された。戦後には大手座が伊勢市の駅裏に移築されている。戦後の国鉄田丸駅前には、山川製粉工場を改修して映画館が開館した。また、1958年(昭和33年)には田丸駅前の農協倉庫の東に、勝田町の藤村耕三によって映画館「田丸劇場」が開館した。テレビの普及にともなって、田丸劇場は10年ほどで閉館した。*105

度会郡度会町

映画館名簿によると度会町に映画館は存在しなかったと思われる。

度会郡大紀町

春風劇場
所在地 : 三重県度会郡錦町69(1958年)、三重県度会郡紀勢町錦(1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1958年以前
閉館年 : 1965年頃
1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「春風劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

紀勢町の映画館としては「春風亭」と「潮座」の2館があり、春風亭は後に「春風座」に改称した。潮座は寺の下あたりにあり、テレビが入ってくる昭和30年代まで営業していた。当地に初めて白黒テレビが入ってきたのは1959年(昭和34年)頃である。*106
大宮映画劇場/滝原映画劇場
所在地 : 三重県度会郡大宮町滝原(1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1964年頃
1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「大宮映画劇場」。1964年の映画館名簿では「滝原映画劇場」。1964年の映画館名簿では経営者が吉田一栄、支配人が島岡正蔵、木造2階建暖房付、定員300、大映・松竹を上映。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。
頓登座/頓登宝映劇/頓登映劇/とんど座
所在地 : 三重県度会郡滝原町野後(1953年)、三重県度会郡大宮町滝原(1958年・1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1953年以前
閉館年 : 1965年頃
1953年の映画館名簿では「頓登座」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「頓登座」。1963年の映画館名簿では「頓登宝映劇」。1964年の映画館名簿では「頓登映劇」。1964年の映画館名簿では経営者が吉田一栄、支配人が島岡正義、木造2階建冷暖房付、定員316、邦画・洋画を上映。1965年の映画館名簿では「とんど座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
阿曽東映
所在地 : 三重県度会郡大宮町阿曽(1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1965年頃
1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「阿曽東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
うしを座/潮座/錦潮座
所在地 : 三重県北牟婁郡錦町265(1953年)、三重県北牟婁郡錦町(1955年・1958年)、三重県度会郡紀勢町錦(1960年・1963年・1966年・1968年)
開館年 : 1946年10月
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧1955』によると1946年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「うしを座」。1955年・1958年の映画館名簿では「潮座」。1960年の映画館名簿では「うしを座」。1963年の映画館名簿では「潮座」。1966年・1968年の映画館名簿では「錦潮座」。1968年の映画館名簿では経営者が谷口武市、支配人が谷口幸保、木造2階建て暖房付、定員200。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

紀勢町の映画館としては「春風亭」と「潮座」の2館があり、春風亭は後に「春風座」に改称した。潮座は寺の下あたりにあり、テレビが入ってくる昭和30年代まで営業していた。当地に初めて白黒テレビが入ってきたのは1959年(昭和34年)頃である。*107
柏崎劇場
所在地 : 三重県度会郡紀勢町(1960年・1963年)、三重県度会郡紀勢町柏崎(1966年・1968年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1968年頃
1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「柏崎劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

度会郡南伊勢町

神前会館
所在地 : 三重県度会郡南島町(1959年・1960年)、三重県度会郡南島町神前(1963年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1963年頃
1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「神前会館」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。
贄会館
所在地 : 三重県度会郡南島町贄浦(1960年・1963年)
開館年 : 1958年以前
閉館年 : 1963年頃
1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「贄会館」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。
繫栄館
所在地 : 三重県度会郡南勢町伊勢路(1965年)
開館年 : 1963年以後1965年以前
閉館年 : 1965年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の映画館名簿では「繁栄館」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに奥村豊治、木造1階、定員400、日活・大映・東宝を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
佐八屋劇場
所在地 : 三重県度会郡南勢町宿田曽(1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1965年頃
1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「佐八屋劇場」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに久保佐八、木造2階建、定員300、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
南島劇場
所在地 : 三重県度会郡南島町(1956年)、三重県度会郡南島町贄浦(1958年・1960年)、三重県度会郡南島町(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「南島劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
中島劇場/中島映画劇場
所在地 : 三重県度会郡南島町阿曽浦(1956年)、三重県度会郡南島町阿曽(1958年)、三重県度会郡南島町(1960年)、三重県度会郡南島町阿曽浦(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「中島劇場」。1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「中島映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
善屋座/田曽善屋座
所在地 : 三重県度会郡南勢町田曽浦(1960年・1963年)、三重県度会郡南勢町田曽(1966年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1966年頃
1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「善屋座」。1963年の映画館名簿によると経営者と支配人はともに山本善昭、木造平屋建て、収容人員不明。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「田曽善屋座(休館)」。1966年の映画館名簿では経営者が山本善昭、支配人は掲載なし、木造平屋建、定員108。1967年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。1974年のゼンリン住宅地図では「善屋座劇場」。2004年時点で建物が現存。
南勢東映/南勢劇場
所在地 : 三重県度会郡南勢町(1960年)、三重県度会郡南勢町五ヶ所浦(1963年・1964年)、三重県度会郡南勢町五ヶ所(1966年・1969年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「南勢東映」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「南勢劇場」。1966年の映画館名簿では経営者が山本勲、支配人は掲載なし、木造平屋建、定員150、松竹・東映・混合を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1974年のゼンリン住宅地図では跡地に「元南勢劇場」。現在の跡地は1976年頃竣工の「南伊勢町商工会館」。

昭和50年代に入って、中西万寿治が南勢町商工会の会長に就任した。1976年9月には南勢町商工会内に婦人部が結成された。中西が会長に就任して2年目には、五ヶ所浦の一角に待望の商工会館が竣工した。*108
五ヶ所劇場
所在地 : 三重県度会郡南勢町五ヶ所(1959年)、三重県度会郡南勢町(1960年・1963年)、三重県度会郡南勢町五ヶ所(1966年・1969年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「五ヶ所劇場」。1966年の映画館名簿では経営者が西浜英夫、支配人は掲載なし、木造2階建、定員150、東宝・日活を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1974年のゼンリン住宅地図では跡地に「元五ヶ所劇場」。1980年時点では建物が現存していた。跡地は「五ヶ所児童公園」西側の空き地。

1980年(昭和55年)時点では「五ヶ所劇場」の建物が残っていた。*109

伊賀地方

伊賀市

伊賀市の映画館
1961年現在の上野市には、上野日活、上野映劇、上野東映劇場、上野松竹劇場、US劇場と、市内に5つの劇場がある。*110
広栄座
所在地 : 三重県阿山郡上野町丸之内
開館年 : 1919年
閉館年 : 1942年頃
現在の「上野郵便局」東側。「廣栄座」とも。

1919年(大正8年)8月、上野町丸之内に実業家の広栄太郎によって広栄座が開館した。広栄太郎は奈良県山辺郡出身であり、上野では外堀の埋め立てに尽力した。広栄座を開館させたのは埋立地の繁栄を図るためである。芝居のある日には近隣の村落から観客が詰めかけた。広栄座は1942年頃に閉館した。*111

明治中期には天神の北裏の一角に菅原座があったが、明治31-32年頃に焼失した。その跡地には大江座が開館したが、明治41-42年頃に焼失した。その後、京屋の北向側に広栄座が開館したが、太平洋戦争中に閉館した。*112

伊賀市上野丸之内。1927年の写真あり。実業家の廣栄太郎によって1919年(大正8年)に開館した。現在の上野郵便局東側。*113
佐那具劇場
所在地 : 三重県上野市佐那具町(1959年)、三重県上野市佐那具(1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1962年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「佐那具劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
相生館/上野日活劇場
所在地 : 三重県上野市相生町2831(1953年・1955年)、三重県上野市相生町(1960年)
開館年 : 1920年
閉館年 : 1961年以後1963年以前
1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「相生館」。1960年の映画館名簿では「上野日活劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2020年竣工のアパート「グランプレアデス」。最寄駅は伊賀鉄道上野市駅または広小路駅。

1920年(大正9年)に相生館が創設され、1958年に日活の直営館となった。*114

伊賀市上野相生町。1927年の「相生館」の写真あり。実業家の廣栄太郎によって1920年(大正9年)に開館した。後に映画館の「上野日活劇場」となり、旭座とともに上野市を代表する映画館となった。*115
旭座/上野大映劇場/上野大映
所在地 : 三重県上野市忍町2520(1953年・1955年)、三重県上野市忍町(1960年)、三重県上野市忍町2520(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1883年(劇場として)、1921年(映画館に転換)
閉館年 : 1965年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「旭座」。1960年の映画館名簿では「上野大映劇場」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「上野大映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「森川病院」駐車場。最寄駅は伊賀鉄道上野市駅または広小路駅。

伊賀地域でもっとも早く建てられた劇場である旭座は、1883年(明治16年)10月に新築落成して興行を開始した。こけら落とし公演には関西から役者を招いたという。旭座は演説会の会場にもなり、1893年7月には総理大臣の板垣退助一行が上野を訪れて旭座で演説を行った。1905年(明治38年)1月には日露戦争における旅順陥落の祝賀会が上野公儀会によって開催された。1913年(大正2年)4月には尾崎行雄らによる憲政擁護の大演説会が開催された。その後活動写真の普及すると、1921年(大正10年)には旭座が常設の映画館となった。1925年(大正14年)には時代劇の『国定忠治』や『鞍馬天狗』、現代劇の『クロスワード成金』や『神田の下宿』、洋画の『世界になる女』などを上映した。1930年(昭和5年)には相生町の相生館と提携し、日活・松竹の作品を交互に上映した。*116

明治10年代頃には忍町に旭座が創設された。明治末期には建物の老朽化のために改装し、さらに太平洋戦争後にも大改築されて上野大映となった。*117

伊賀市上野忍町。1927年の写真あり。1883年(明治16年)10月に竣工し、上野でもっとも早くに興行を開始した劇場。こけら落とし公演には関西から役者を招いた。後に映画館の「上野大映劇場」となった。*118
上野東映劇場/伊賀上野東映劇場
所在地 : 三重県上野市忍町(1960年)、三重県上野市忍町2615(1963年)、三重県上野市元町391(1966年・1969年・1973年)、三重県上野市忍町2615(1976年・1977年)
開館年 : 1955年8月1日
閉館年 : 1977年頃
1960年・1963年の映画館名簿では「上野東映劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「伊賀上野東映劇場」。1969年・1972年・1976年のゼンリン住宅地図では「上野東映」。1976年・1977年の映画館名簿では「上野東映劇場」。1978年・1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「喫茶みのむし」南東の駐車場。南西の「横山化粧品店」や北西の「川本リハツ」は当時から存在する。最寄駅は伊賀鉄道広小路駅または茅町駅。

1955年(昭和30年)8月1日には上野市忍町に、東映の直営館である「上野東映劇場」が開館した。*119
伊賀上野US劇場/US劇場
所在地 : 三重県上野市丸の内町(1963年)、三重県上野市丸ノ内23(1966年・1969年)、三重県上野市丸の内36-1(1973年・1976年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1985年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「US劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「伊賀上野US劇場」。1973年・1976年の映画館名簿では「US劇場」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅は伊賀鉄道上野市駅。跡地は「ハイトピア伊賀」北側の上野市駅前広場やバス乗り場。

1958年には上野市駅前に4階建ての上野市産業会館がオープン。3階の上野文化ホールは1985年頃まで映画館であり、『ベン・ハー』など洋画・邦画を問わず上映した。4階には1958年製フィルム式映写機が置かれている。2012年3月31日で閉鎖され、建物を取り壊したうえで、跡地には「ハイトピア伊賀」がオープンする予定。*120
上野映劇/伊賀上野映画劇場・伊賀上野US劇場/上野映画劇場
所在地 : 三重県上野市丸ノ内(1960年)、三重県上野市丸の内町23(1963年)、三重県上野市丸ノ内23(1966年・1969年)、三重県上野市丸の内23(1973年・1976年・1980年・1985年)、三重県上野市丸之内23新天地(1990年)
開館年 : 1951年4月
閉館年 : 1990年
Wikipedia : 上野映画劇場
『全国映画館総覧1955』によると1951年4月開館。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「上野映画劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「伊賀上野映画劇場・伊賀上野US劇場」(2館)。1969年・1972年・1976年のゼンリン住宅地図では「上野映画劇場」。1973年・1976年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「上野映画劇場」。1980年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造3階部分103席、経営会社は角商事、経営者・支配人ともに角舎利、邦画と洋画を上映。1995年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅は伊賀鉄道上野市駅。3階に映画館があった「新天地映劇ビル」は現存。

松竹映画専門館「上野映劇」。佐田啓二主演の『集金旅行』のポスターが写った1957年(昭和32年)頃の写真あり。オマケ上映の1本として1949年(昭和24年)封切りの『青い山脈』。*121
ジストシネマ上野/ジストシネマ伊賀上野
所在地 : 三重県上野市小田町256-1 ジョイシティ上野店内(2000年)、三重県伊賀市織田町256-1 ジョイシティ伊賀上野店(2005年・2010年・2015年)
開館年 : 1998年6月
閉館年 : 2018年2月20日
Wikipedia : ジストシネマ伊賀上野
2000年の映画館名簿では「ジストシネマ上野1-4」(4館)。2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「ジストシネマ伊賀上野1-4」(4館)。5スクリーン以上というシネコンの定義には当てはまらないが、ワーナー・マイカル・シネマズ桑名に次いで三重県で2番目に開館したシネコン的映画館。跡地は2019年10月22日開店の「ぎゅーとらラブリー伊賀小田店」南区画。最寄駅は伊賀鉄道上野市駅。

運営は和歌山市に本社を置くオークワのグループ会社であり、1998年6月の開館時から4スクリーンだった。映画館が入る商業施設「オークワ ジョイシティ伊賀上野店」の閉店にともなって2018年2月20日に閉館した。伊賀地域で唯一の映画館だった。*122

1998年6月、上野市(現・伊賀市)に開館。開館当初から閉館時まで伊賀地域唯一の映画館であり、開館当時は伊賀地域に8年ぶりに映画館が復活したことで話題となった。*123

上野市出身の呉美保(オミポ)監督作品や伊賀忍者に関する作品を上映するなど、地域に根ざした運営が特色だった。閉館前には、伊賀市を舞台にした『忍びの国』や伊賀市がロケ地となった『娚の一生』をリバイバル上映した。伊賀地域の伊賀市・名張市のほかに、京都府や奈良県からも観客を集めた。関係者によると後継館の具体的な計画はない。*124

名張市

銀映座/名張銀映座/名張松竹
所在地 : 三重県名賀郡名張町平尾(1953年)、三重県名張市栄町(1960年)
開館年 : 1952年
閉館年 : 1962年
『全国映画館総覧1955』によると1951年10月開館。1953年の映画館名簿では「銀映座」。1955年の映画館名簿では「名張銀映座」。1960年の映画館名簿では「名張松竹」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

名張市栄町にあった「名張松竹」。1952年(昭和27年)の開館記念写真あり。名張市では「名張映画劇場」の次に開館。やがて「名張松竹」に改称して松竹専門館となったが、1962年(昭和37年)に閉館。*125

名張市栄町にあった「名張松竹」。1952年(昭和27年)の開館記念写真あり。『目で見る伊賀の100年』と同じ写真。名張駅に近かった。1962年(昭和37年)に閉館。*126
鶯座/名張映画劇場/名張第一東映/名張東映/名張東映劇場
所在地 : 三重県名賀郡名張町平本町(1936年)、三重県名賀郡名張町(1950年)、三重県名賀郡名張町391(1953年)、三重県名張市元町(1960年・1963年)
開館年 : 1936年以前
閉館年 : 1966年7月
1936年・1950年の映画館名簿では「鶯座」。『全国映画館総覧1955』によると1953年3月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「名張映画劇場」。1960年の映画館名簿では「名張第一東映」。1963年の映画館名簿では「名張東映」。1966年の映画館名簿では「名張東映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

名張市元町の「名張東映」の前身は「鶯座」(うぐいすざ)という芝居小屋。1350席で三重県下有数の大劇場であり、舞台や花道もあった。やがて映画館に改修され、秋祭りや八日えびす祭の際には満員となった。小中学生が先生に連れられてくることもあった。名張には「名張映画劇場」のほかに、中町と駅前にも映画館があった。昭和30年代の写真あり。*127

「『鶯座』では東映の作品が上映された。建物は戦前の建築であり、『名張大映』よりも大きかった。1966年には建物が公設市場に転用され、現在は丸福精肉店の駐車場となっているが、公設市場時代の床面のコンクリートは駐車場にうっすらと残っている。丸福精肉店は公設市場内の一店舗だったが、やがて敷地を買い取って独立店舗となった。丸福精肉店の2階建て部分はかつての映画館前広場であり、平屋建て部分は映画館の建物の入口に相当する。丸福精肉店の南東にある民家の北半分くらいに映画館の建物があった。現在は空き地になっている場所辺りには、映画館で働いていた方が住んでいた。『鶯座』や公設市場の鬼瓦の片方は現在も保管している。自分が小学生の時には『名張大映』にも観に行ったことがある」丸福精肉店の店主(60代?)
名張大映/名張大映劇場
所在地 : 三重県名張市中町(1960年)、三重県名張市中町通351(1963年)、三重県名張市仲町通351(1966年)、三重県名張市仲田通351(1969年)
開館年 : 1957年
閉館年 : 1973年1月
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「名張大映」。1966年・1969年の映画館名簿では「名張大映劇場」。1969年のゼンリン住宅地図では「名張大映劇場」。1972年のゼンリン住宅地図では跡地に「アキヤ」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「上杉生花店」や「パチンコジャンボ」南西の駐車場。西隣の「菱田染工場」は当時から存在する。

名張市中町の「名張大映」は、名張3番目の映画館として1957年に開館。1966年には名張唯一の映画館となったが、1973年1月に閉館。館主の梅田義守は映写機2台を市民会館に寄贈した。1968年の写真あり。*128

東紀州地方

尾鷲市

尾鷲市の映画館
かつて尾鷲市には4館の映画館があった。芝居小屋から常設映画館となった大盛座は1964年7月に閉館。尾鷲東宝劇場は短期間の営業であり、1950年から1955年2月まで開館した。大正時代からの老舗映画館である大鷲館は洋風建築であり、1925年から1964年4月まで開館した。1955年4月1日には栄町にロマン座が開館し、最後まで上映を続けたが、1986年6月1日に閉館し、紀北地域から映画館が消滅した。長島(紀伊長島町)、相賀(海山町)、九鬼(尾鷲市)、賀田(尾鷲市)などにも映画館があった。2004年時点でもロマン座の建物は尾鷲市の商店街に残っている。1階に367席、2階に167席、計500席を有する。2004年1月31日と2月1日にはロマン座シネマ倶楽部が見学会を開催し、計150人が入館した。6月には尾鷲市市制施行50周年記念事業もかねて第1回上映会を開催し、石原裕次郎主演『嵐を呼ぶ男』を上映。8月28日と29日には第2回上映会を開催する予定であり、『ホテル・ハイビスカス』を上映する。現在の尾鷲市から最寄りの映画館は、松阪市・伊勢市・明和町・和歌山県新宮市などであるが、往復3時間以上かかる。*129
尾鷲劇場
所在地 : 三重県北牟婁郡尾鷲町(1950年)、三重県北牟婁郡尾鷲町南浦18(1953年)
開館年 : 1941年
閉館年 : 1959年
『全国映画館総覧1955』によると1941年開館。1950年の映画館名簿では「尾鷲東宝劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「尾鷲東宝」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。

1941年には尾鷲市林町に「尾鷲劇場」(尾鷲東宝)が開館した。1959年に閉館した。*130

1938年1月、尾鷲町に「東宝劇場」が建つ。*131
大盛座
所在地 : 三重県北牟婁郡尾鷲町(1930年)、三重県尾鷲市今町223(1958年)、三重県尾鷲市中井浦(1960年)、三重県尾鷲市中井町223(1963年)
開館年 : 1893年
閉館年 : 1964年7月
1930年の映画館名簿では「大盛座」。1936年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「大盛座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は定食屋「はまや」。最寄駅はJR紀勢本線尾鷲駅。

記憶を元にした1912年(大正元年)から1921年(大正10年)頃の尾鷲市街地の地図あり。尾鷲市の今町通りには「大盛座」という劇場があり、演劇を主に様々な興行が行われていた。建物の前はちょっとした広場になっており、のぼりや看板を立てるために鉄柵があった。今町は当時から宿屋や料亭が立ち並んでおり、夜間でも比較的人通りが多かった。大盛座の舞台幕は町内の各商店が掲載された広告幕だった。*132

1893年(明治26年)、尾鷲町今町(栄町)に「大盛座」が開館した。建築は舞台だけであり、客席は青天井となっており、周囲にはよしずが張ってあった。1901年(明治34年)には木造で200坪の劇場が建設された。この地域では最も大きな建築物であり、志摩地方から毎月のように人形芝居が訪れた。1923年(大正12年)から1924年(大正13年)頃には活動写真も上映するようになった。戦後には大鷲館の経営者である土井正通に経営が移ったが、1964年(昭和39年)に閉館した。*133
磐館
所在地 : 三重県尾鷲市九鬼町93(1955年・1958年)、三重県尾鷲市九鬼町(1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1954年5月
閉館年 : 1965年頃
1953年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧1955』によると1954年5月開館。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「磐館」。1965年の映画館名簿では経営者が中村国助、支配人が須田真一郎、木造2階冷暖房付、定員350、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「九鬼郵便局」。最寄駅はJR紀勢本線九鬼駅。
寿座/尾鷲寿座
所在地 : 三重県尾鷲市賀田町(1960年・1963年・1966年・1967年)
開館年 : 1957年1月
閉館年 : 1967年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「寿座」。1966年・1967年の映画館名簿では「尾鷲寿座」。1968年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。「賀田郵便局」から南西50mに映画館の建物が現存。最寄駅はJR紀勢本線賀田駅。

1957年1月、尾鷲市賀田に劇場「寿座」が建った。*134
喜楽館/尾鷲喜楽館
所在地 : 三重県尾鷲市賀田町(1960年・1963年・1966年・1968年)
開館年 : 1956年11月
閉館年 : 1968年頃
1960年・1963年の映画館名簿では「喜楽館」。1966年・1968年の映画館名簿では「尾鷲喜楽館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「賀田郵便局」南西30mにある空き地。最寄駅はJR紀勢本線賀田駅。

1956年11月、尾鷲市賀田に劇場「喜楽館」が建った。*135
日の出座/日の出東映/九鬼日之出東映劇場
所在地 : 三重県尾鷲市九鬼町(1958年・1960年・1963年・1965年・1966年・1968年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1968年頃
1955年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「日の出座」。1965年の映画館名簿では「日の出東映」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに尾崎荘右衛門、木造2階、定員250、邦画を上映。1966年・1968年の映画館名簿では「九鬼日之出東映劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が尾崎荘右衛門、木造平屋建、定員200。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1978年の住宅地図では跡地に「九鬼スーパー」。跡地は「九鬼郵便局」の南東120mにある民家。最寄駅はJR紀勢本線九鬼駅。
大鷲館/大鷲座/尾鷲大鷲座
所在地 : 三重県北牟婁郡尾鷲町(1930年・1936年・1950年)、三重県北牟婁郡尾鷲町南浦450(1953年)、三重県尾鷲市中井町23(1958年)、三重県尾鷲市中井浦(1960年)、三重県尾鷲市中井町23(1963年)、三重県尾鷲市中井町1-13(1966年・1969年)
開館年 : 1925年
閉館年 : 1970年5月10日
『全国映画館総覧1955』によると1926年5月開館。1930年・1936年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「大鷲館」。1960年・1963年の映画館名簿では「大鷲座」。1966年・1969年の映画館名簿では「尾鷲大鷲座」。1971年の住宅地図協会住宅地図では「大鷲館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1978年・1980年・1985年のゼンリン住宅地図では跡地に「尾鷲主婦の店栄町店」。読み方は「たいしゅうかん」。館名に由来する大鷲館通りがある。跡地は「ドラッグセイムス尾鷲栄店」。最寄駅はJR紀勢本線尾鷲駅。

昭和初期の「大鷲館」の写真あり。1925年に常設映画館として開館し、吉野の村々からも徒歩でやって来る観客がいた。*136

1970年(昭和45年)5月10日には45年間親しまれてきた映画館の大鷲館が閉館し、6月28日に「おもちゃと人形の店大鷲館」に生まれ変わった。*137

1970年(昭和45年)5月10日、大鷲館が45年間の歴史に幕を閉じて閉館した。同年6月28日には「おもちゃと人形の店大鷲館」となった。おもちゃ店時代の1972年(昭和47年)頃の写真あり。*138

1925年(大正14年)には尾鷲初の映画館として「大鷲館」が開館。現在の尾鷲市中井町にあった。松竹・大映・東映の第一封切館であり、東京や大阪と同日に公開された。「大鷲活動写真館」とも呼ばれた。大正末期の写真あり。*139

1925年には活動写真の常設館として「大鷲館」が開館した。奈良県北山村(※このような自治体は存在しない。奈良県上北山村、奈良県下北山村、和歌山県北山村のいずれのことか不明)から峠を越えて訪れた観客がいるという話も残っている。1953年には大鷲館の前の道路が舗装され、1955年にはネオンアーチを有する大鷲館通りとなった。大鷲館の経営者である土井正通は、やがて「大盛座」と「ロマン座」も傘下に収めたが、1964年の大盛座に続いて1970年5月26日には大鷲館を閉館させた。*140

1953年12月、大鷲館通りの舗装が完成する。1956年1月31日、大鷲館通りにネオン灯が完成する。*141

1973年の尾鷲市栄町にあった映画館「大鷲館」の写真あり。1925年に尾鷲初の映画館として開館した。1970年に閉館し、おもちゃと人形の店に生まれ変わった。1958年、「大鷲館」の西側にスーパーマーケットの主婦の店尾鷲店が開店した。1968年頃の主婦の店の写真あり。*142

大正末期から昭和初期の大鷲館通りの写真あり。1925年に大鷲館が開館すると、大鷲館通りが繁華街として発展した。大鷲館の前の木の下は待ち合わせ場所としても使用された。*143
ロマン座/尾鷲ロマン座
所在地 : 三重県尾鷲市中井浦238(1958年)、三重県尾鷲市中井浦(1960年)、三重県尾鷲市中井町238(1963年)、三重県尾鷲市栄町6-17(1966年・1969年・1973年・1976年)、三重県尾鷲市中井町1-13(1980年)、三重県尾鷲市栄町6-17(1985年)
開館年 : 1955年4月1日
閉館年 : 1986年6月1日
1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「ロマン座」。1966年・1969年の映画館名簿では「尾鷲ロマン座」。1971年の住宅地図協会住宅地図では「ロマン座」。1976年・1980年の映画館名簿では「ロマン座」。1978年のゼンリン住宅地図では「映 ロマン座」。1980年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造1階部分394席、経営会社は大鷲館、代表・支配人ともに土井正通、邦画と洋画を上映。1980年・1985年のゼンリン住宅地図では「映画 ロマン座」。1985年の映画館名簿では「尾鷲ロマン座」。尾鷲市最後の映画館。2014年時点で映画館の建物は現存している。最寄駅はJR紀勢本線尾鷲駅。

1986年(昭和61年)には三重県尾鷲市に最後まで残った映画館「ロマン座」が閉館した。2004年(平成16年)には市民ら十数人が「ロマン座シネマ倶楽部」を結成。同年6月から商店街の空き店舗を活用して、2カ月に一度の頻度で自主上映会を開催している。*144

尾鷲市栄町の「尾鷲ロマン座」は1955年(昭和30年)に開館し、最盛期には北牟婁郡海山町や北牟婁郡紀伊長島町からも観客を集めた。1986年(昭和61年)6月1日に閉館した。2004年(平成16年)1月上旬に「ロマン座シネマ倶楽部」が発足。閉館から17年を経た同年時点では建物はやや傷んでいるものの、スクリーンの状態は良好。2004年1月31日と2月1日には見学会を開催し、映画最盛期の街の様子を写した写真を展示する。*145

1986年には尾鷲ロマン座が閉館。2003年末頃には市民有志が『ロマン座』シネマ倶楽部を立ち上げ、清掃を行った後、2004年1月31日と2月1日には館内の見学会を行った。スクリーンは良好な状態で保存されており、映画の上映を目指している。*146

2007年4月20日・21日の例会をもって、尾鷲市の自主上映会「ロマン座シネマ倶楽部」が活動を休止する。2004年6月から商店街の空き店舗で活動を開始し、月1回程度の上映会を開催していた。徐々に客数が減少し、活動の休止を決定した。*147

「大鷲館」の経営者である土井正通は「大盛座」や「ロマン座」も傘下に収めたが、1964年には大盛座、1970年5月26日には大鷲館、1987年5月末には最後に残っていたロマン座も閉館させ、尾鷲市から映画館がなくなった。*148

土井正通は大鷲館や尾鷲ロマン座の館主を務めた人物。1909年生まれ。1934年に東京帝国大学を卒業し、日清紡績に入社した。重役候補は確実とされていたが、大鷲館・酒屋・質屋を経営していた父の土井隆の跡を継ぐために帰郷した。尾鷲商工会議所の会頭、三重県教育委員などを歴任した。晩年は病気がちとなり、「ロマン座だけは死ぬまで閉鎖しない」と語っていたが、死去の1年前に家族の手で閉館した。1988年7月28日に78歳で死去した。*149

1973年の尾鷲市栄町にあった映画館「ロマン座」の写真あり。1955年に駅前商店街に開館した。邦画・洋画のどちらも上映していた。紀北地域の映画館では最も遅くまで営業していたが、1986年に閉館した。*150

熊野市

熊野市の映画館
熊野市の記念通りは、1940年(昭和15年)の皇紀二千六百年を記念して南牟婁郡木本町の勤労奉仕で造成された。JR熊野市駅の東側にある水田を埋め立てたが、造成当時は何もなかった。戦後には商店が並び始め、昭和30年代には映画館が数軒あった。1990年には記念通り商店街振興組合が『記念通り五十年誌』を出版した。*151

三重県南牟婁郡紀和町は瀞峡(どろきょう)や布引の滝で知られ、1978年閉山の紀州鉱で栄えた町である。戦後には人口が1万人を超え、2館の映画館があった。1996年時点の人口は約1900人。*152
紀州会館
所在地 : 三重県南牟婁郡入鹿村石原産業紀州鉱業所(1953年)、三重県南牟婁郡紀和町板屋(1958年)、三重県南牟婁郡紀和町(1960年・1963年・1964年)、三重県南牟婁郡紀和町板屋(1965年)
開館年 : 1943年以前
閉館年 : 1965年頃
1953年の映画館名簿では「紀州会館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「紀州会館」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに赤井一二、木造1階冷暖房付、定員600、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
惣房会館
所在地 : 三重県南牟婁郡上川村湯枝川石原産業紀州鉱業所(1953年)、三重県南牟婁郡紀和町楊枝川(1958年)、三重県南牟婁郡紀和町(1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1953年以前
閉館年 : 1965年頃
1953年の映画館名簿では「惣房会館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「惣房会館」。1965年の映画館名簿では経営者が石原産業、支配人が赤井一二、木造1階、定員345、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
入鹿銀映
所在地 : 三重県南牟婁郡紀和町板屋(1956年・1958年)、三重県南牟婁郡紀和町(1960年)、三重県南牟婁郡紀和町板屋389-3(1963年)、三重県南牟婁郡紀和町板屋(1964年・1965年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「入鹿銀映」。1965年の映画館名簿では経営者が大谷定臣、支配人が大谷百代、木造1階、定員280、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
丸山映画劇場/熊野丸山映画劇場
所在地 : 三重県熊野市木本町(1960年・1963年)、三重県熊野市木本町丸山(1966年)
開館年 : 1956年
閉館年 : 1966年
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「丸山映画劇場」。1966年の映画館名簿では「熊野丸山映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の住宅地図では跡地に「伊東アパート」や「木本プロパン」。跡地は「あい眼科リハビリクリニック」。最寄駅はJR紀勢本線熊野市駅。

植木某は「昭和館」を伊藤為次郎に渡した後、丸山町で「丸山映画劇場」(丸映)を経営していたが、この映画館も後に伊藤為次郎の経営に代わった。*153

1956年、「紀南映画劇場」の経営者だった人物は熊野市駅前に「丸山映画劇場」を開館させたが、「明治座」との競争に敗れ、わずかのうちに明治座の伊東為次郎の経営に移った。1966年には丸山映画劇場が閉館し、跡地はアパートとなった。*154
新鹿劇場
所在地 : 三重県熊野市新鹿町(1958年・1960年・1963年・1966年・1968年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1968年頃
1955年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「新鹿劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が伊東為次郎、支配人が伊東文夫、木造平屋建、定員200。1969年の映画館名簿には掲載されていない。「新鹿郵便局」北北東20mに映画館の建物が現存。最寄駅はJR紀勢本線新鹿駅。
朝日館/昭和館/紀南映画劇場/新明治座/熊野明治座
所在地 : 三重県南牟婁郡木本町(1950年・1953年)、三重県熊野市木本町668(1955年)、三重県熊野市木本町667(1958年)、三重県熊野市木本町(1963年)、三重県熊野市木本町栄町(1966年・1969年)
開館年 : 1941年以前
閉館年 : 1970年2月1日
『全国映画館総覧1955』によると1945年8月開館。1950年の映画館名簿では「朝日館」。1953年・1955年の映画館名簿では「紀南映画劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「新明治座」。1966年・1969年の映画館名簿では「熊野明治座」。1970年の住宅地図では「新明治座映画」。1973年の住宅地図協会住宅地図では「新明治座映画」。1990年の住宅地図では跡地に「南紀アパレル」。跡地は記念通りの「スナック菲菲」の角から北西に70mの空き地。2軒南東の「ヤマト酒店」(当時は倭酒店)は1970年代前半当時から存在する。

戦前の木本新開地には、速水広信が経営する「朝日館」があった。戦後には経営者が植木某となって「昭和館」に改称し、やがて経営者が「明治座」の伊藤為次郎(※伊東ではなく伊藤)に代わった。*155

1941年時点では、木本新開地の「朝日館」(朝日座)が熊野市唯一の常設映画館だった。やがて和歌山県の人物が経営者となって「昭和館」に改称したり、1952年には「紀南映画劇場」に改称したが、やがて「明治座」の伊東為次郎(※伊藤ではなく伊東)が買い取って「新明治座」に改称した。1970年2月1日に閉館した。*156
木本明治座/明治座/熊野東映/熊野東映劇場
所在地 : 三重県南牟婁郡木本町577-1(1936年)、三重県南牟婁郡木本町577(1950年・1953年)、三重県南牟婁郡木本町(1955年)、三重県熊野市木本町(1958年・1960年・1963年)、三重県熊野市木本町栄町(1966年)、三重県熊野市木本町記念通(1969年)
開館年 : 1899年2月17日
閉館年 : 1972年9月
『全国映画館総覧1955』によると1899年1月開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「明治座」。1950年の映画館名簿では「木本明治座」。1953年・1955年の映画館名簿では「明治座」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「熊野東映」。1966年・1969年の映画館名簿では「熊野東映劇場」。1970年の住宅地図では「熊野東映」。1973年の住宅地図協会住宅地図では「熊野東映」。映画館時代の建物が現存し、跡地は「いこらい広場」(熊野市記念通商店街振興組合事務所)など複数の店舗。

1899年(明治32年)2月17日、地元有力者の共同出資で「明治座」が開館し、坂東蓑助一座または7代坂東三津五郎一座を招いてこけら落とし公演を行った。1924年(大正13年)からは伊東為次郎が経営。紀南地方唯一の芝居小屋だった。戦後には舞台よりも映画に力を入れ、紀南地方の仮設館(常設ではない館)にもフィルムを提供した。終戦直後の明治座は、「アメリカ座」や「木本映画劇場」という名称だった時期もある。1950年には旧来の小屋を改修して椅子席とし、1957年には「熊野東映」に改称した。大映や東映の黄金期には、紀南地方随一の劇場として人気があった。1972年9月に閉館し、経営者の伊東は映画業界から去った。*157

1926年(大正15年)1月2日22時頃、木本町栄町の「明治座」で朝鮮人労働者が日本人に日本刀で切られて死去する木本事件が起こった。

1954年(昭和29年)の「明治座」の写真あり。「明治座映劇」や「映画は明治座」の看板が見える。木本町には明治座と「紀南映画劇場」があったが、テレビの普及で姿を消した。1994年(平成6年)現在の明治座跡地にはアパートが建っている。*158

1955年頃の「木本映画劇場」(明治座)の写真あり。1899年(明治32年)2月17日に劇場「明治座」が開館し、坂東蓑助一座を迎えてこけら落とし公演を行った。栃尾九兵衛・奥川吉三郎・前川佐々衛門・前川恭二・斉藤均治・西田芳太郎・西村繁之助各氏の共同出資。大正末年頃には親地町の岡崎与一が経営しており、戦後には伊藤為次郎が経営していた。戦後の明治座は「アメリカ劇場」や「木本映画劇場」と呼んだ時期もあったが、その後は「熊野東映」として親しまれた。伊藤為次郎は根っからの興行人であり、木本花火の際には映画館を無料宿泊所として開放したり、老人クラブを招待して浪曲や映画の興行を行った。*159

1954年(昭和29年)11月には木本町など1町7村が合併して熊野市が誕生した。1955年(昭和30年)1月には「明治座」で市制施行記念式が開催された。*160

伊東為次郎は館主。1899年に三重県津市一身田に生まれ、若い頃に東紀州にやってくると25歳だった1924年に興行師となり、すらりとした着流しの姿が芝居役者を思わせる男前であり、やくざな興行界にあって珍しく堅気な性格だった。老人を招待する慈善興業を行ったり、利益の一部を熊野大花火に寄進するなどしている。映画業界が斜陽産業となり、赤字になっても熊野東映劇場を営業し続けたが、家族の意見に従って閉館させ、記念通り商店街沿いの敷地を名店街「トーエイプラザ」とした。1974年9月17日にはトーエイプラザの開業祝賀会が行われ、坪田誠尾鷲市長、山下三重県議会議員、森下尾鷲市議会議長らが列席した。

北牟婁郡紀北町

紀北町の映画館
年不明だが「大洋館」と「中央映画劇場」の写真あり。戦後には大衆娯楽の王様として映画があった。戦前から北牟婁郡長島町(紀伊長島)にあった松本の「長島劇場」、平岩町の「歌舞伎座」には連日満員の観客が詰めかけた。1951年(昭和26年)には東長島の中州に「中央劇場」が開館した。中央劇場では主として洋画が上映され、紀北では珍しい洋画専門館だった。1952年(昭和27年)には新町に「三河劇場」が開館し、人口約1万5000人の紀伊長島町に4館もの常設映画館があった。1958年(昭和33年)には松本の浜口熊嶽邸跡地に「大洋館」が開館し、大洋館が最後に新設された映画館となった。二本立て・三本立ての粗製乱造による品質の低下、テレビ時代の到来、レジャーの多様化などが理由で、昭和30年代後半には映画人気に陰りが見えた。歌舞伎座、長島劇場、中央劇場、三河劇場、大洋館と相前後して閉館し、跡地はスーパーや駐車場に転換された。紀伊長島における映画の時代は昭和40年代後半には完全に終息した。*161
歌舞伎座
所在地 : 三重県北牟婁郡長島町(1950年)
開館年 : 1950年以前
閉館年 : 1950年以後1953年以前
1950年の映画館名簿では「歌舞伎座」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。
長島座/長島映画劇場
所在地 : 三重県北牟婁郡長島町(1950年)、三重県北牟婁郡長島町松本420-4(1953年)、三重県北牟婁郡長島町(1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1931年秋
閉館年 : 1965年頃
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「長島座」と「長島映画劇場」の双方が掲載されているが重複と判断している。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「長島映画劇場」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに浜口安平、木造2階建、定員500、邦画を上映。浜口安平は長島映画劇場と大洋館の2館を経営していた。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「森林組合おわせ紀伊長島事務所」南東の空き地。最寄駅はJR紀勢本線紀伊長島駅。

1931年(昭和6年)秋、北牟婁郡長島町の松本通りにある「大正座」跡地に洋館造りの「長島座」が竣工した。1939年(昭和14年)には「歌舞伎座」、戦後の1951年(昭和26年)には「中央劇場」、1952年(昭和27年)には「三河劇場」、1958年(昭和33年)には「大洋館」が開館し、長島町にはピーク時に5館もの映画館があった。竣工時の長島座の写真あり。*162

紀伊長島の松本通りには、映画館「長島座」があった。飲み屋が多かったため夜は歓楽街となり、「長島の上海」とも呼ばれた。1961年(昭和36年)頃の松本通りの写真あり。長島座は写っていないと思われる。*163

昭和中期は映画館の全盛期だった。北牟婁郡長島町には「長島座」、「大洋館」、「三河劇場」、「中央劇場」の4映画館があり、映画が終わることの新町通りは家に帰る観客でにぎわった。昭和初期の長島座、昭和中期の大洋館、昭和中期の中央劇場の写真あり。*164
昭和館
所在地 : 三重県北牟婁郡海山町島勝(1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1965年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「昭和館」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに世古宇平、木造2階、定員200、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
海山館
所在地 : 三重県北牟婁郡海山町上里(1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1965年
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「海山館」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに岡本謙二、木造1階、定員200、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
旭座
所在地 : 三重県北牟婁郡海山町(1950年・1953年)、三重県北牟婁郡海山町引本浦(1958年)、三重県北牟婁郡海山町(1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1950年以前
閉館年 : 1965年頃
1950年・1953年の映画館名簿では「旭座」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「旭座」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに浜田俊作、木造2階、定員450、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1965年(昭和40年)には海山町引本の映画館「旭座」が取り壊され、1966年(昭和41年)には海山町相賀の映画館「相生座」が休館状態となった。相生座は1971年(昭和46年)に取り壊された。*165
相生座/相生館
所在地 : 三重県北牟婁郡相賀町(1950年)、三重県北牟婁郡海山町海山(1958年)、三重県北牟婁郡海山町(1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1929年6月
閉館年 : 1966年頃
1950年の映画館名簿では「相生座」。1953年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「相生館」。1965年の映画館名簿では経営者が浜田俊作、支配人が奥村豊稔、木造2階、定員850、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の住宅地図では「映 相生座」。跡地は「相賀児童公園」。最寄駅はJR紀勢本線相賀駅。

1929年6月、北牟婁郡相賀町に映画館「相生座」が開館した。こけら落としは岩井粂三郎・市川市十郎一座。開館時の写真あり。*166

1965年(昭和40年)には海山町引本の映画館「旭座」が取り壊され、1966年(昭和41年)には海山町相賀の映画館「相生座」が休館状態となった。相生座は1971年(昭和46年)に取り壊された。*167
三河劇場/長島三河劇場
所在地 : 三重県北牟婁郡長島町(1956年)、三重県北牟婁郡長島町955(1958年)、三重県北牟婁郡長島町(1960年)、三重県北牟婁郡長島町新町(1963年)、三重県北牟婁郡長島町(1966年)、三重県北牟婁郡長島町新田(1968年)
開館年 : 1952年
閉館年 : 1968年頃
1953年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「三河劇場」。1962年の映画館名簿では経営者が酒井重一、支配人が西田伝蔵、木造2階建。1966年・1968年の映画館名簿では「長島三河劇場」。1968年の映画館名簿では経営者・支配人ともに酒井正男、木造2階建暖房付、定員250。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「紀北町長島多目的会館」北東100mにあるガレージ。最寄駅はJR紀勢本線紀伊長島駅。
大洋館/長島大洋館
所在地 : 三重県北牟婁郡長島町(1960年・1963年)、三重県北牟婁郡長島町新田(1966年・1969年)
開館年 : 1958年
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「大洋館」。1966年・1969年の映画館名簿では「長島大洋館」。1968年の映画館名簿では経営者が浜口安平、支配人は掲載なし、木造2階建暖房付、定員350。浜口安平は長島映画劇場と大洋館の2館を経営していた。1970年のゼンリン住宅地図では「大洋館(浜口)」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「濱口熊嶽邸跡」北側の駐車場。最寄駅はJR紀勢本線紀伊長島駅。

昭和中期は映画館の全盛期だった。北牟婁郡長島町には「長島座」、「大洋館」、「三河劇場」、「中央劇場」の4映画館があり、映画が終わることの新町通りは家に帰る観客でにぎわった。昭和初期の長島座、昭和中期の大洋館、昭和中期の中央劇場の写真あり。*168
中央劇場/長島中央劇場
所在地 : 三重県北牟婁郡長島町中州(1955年)、三重県北牟婁郡長島町33-12(1958年)、三重県北牟婁郡長島町33-3(1960年)、三重県北牟婁郡長島町(1963年)、三重県北牟婁郡長島町新田(1966年)、三重県北牟婁郡長島町(1969年)
開館年 : 1950年10月? 1951年?
閉館年 : 1969年以後1973年以前
『全国映画館総覧1955』によると1950年10月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年の映画館名簿では「長島中央劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「長島中央劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が玉津大門、支配人は掲載なし、木造平屋建、定員200、洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は赤羽川に架かる長島橋東詰の「長島ショッピ―中州店」旧店舗の廃墟。最寄駅はJR紀勢本線紀伊長島駅。

昭和中期は映画館の全盛期だった。北牟婁郡長島町には「長島座」、「大洋館」、「三河劇場」、「中央劇場」の4映画館があり、映画が終わることの新町通りは家に帰る観客でにぎわった。昭和初期の長島座、昭和中期の大洋館、昭和中期の中央劇場の写真あり。*169

南牟婁郡御浜町

尾呂志会館
所在地 : 三重県南牟婁郡御浜町(1958年・1960年)、三重県南牟婁郡御浜町尾呂志(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「尾呂志会館」。1965年の映画館名簿では経営者が小芝弘孝、支配人が小芝満彦、木造2階、定員250、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
阿田和映画劇場/阿田和映劇/阿田和劇場
所在地 : 三重県南牟婁郡阿田和町(1953年・1955年)、三重県南牟婁郡御浜町(1960年)、三重県南牟婁郡御浜町阿田和(1963年・1965年)、三重県南牟婁郡御浜町(1966年・1968年)
開館年 : 1951年11月
閉館年 : 1968年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧1955』によると1951年11月開館。1953年の映画館名簿では「阿田和映画劇場」。1955年の映画館名簿では「阿田和劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「阿田和映画劇場」。1965年の映画館名簿では「阿田和映劇」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに宇井辰夫、木造1階、定員220、邦画・洋画を上映。1966年・1968年の映画館名簿では「阿田和劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「新宮信用金庫御浜支店」北北東20mにある駐車場。最寄駅はJR紀勢本線阿田和駅。

南牟婁郡紀宝町

映画館名簿によると紀宝町に映画館は存在しなかったと思われる。

このページへのコメント

三重県の四日市川島町に300人規模の川島劇場?と言う映画館があったそうです。川島紡績の中にあったそうですがどんな劇場だったのか気になります。情報がありましたら是非教えてください。

0
Posted by 小林 2020年07月20日(月) 21:22:37 返信

亀山劇場は1982年までは現存していました。
いまは駐車場になってます。

2
Posted by くまごろ 2019年06月18日(火) 13:54:01 返信数(1) 返信

貴重な情報をありがとうございます!

0
Posted by  hekikaicinema hekikaicinema 2019年10月18日(金) 21:33:35

コメントをかく


利用規約をご確認のうえご記入下さい

Menu

目次

管理人/副管理人のみ編集できます