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hekikaicinema 2026年08月25日(火) 13:09:01履歴
所在地 : 東京都葛飾区本田渉江町35(1962年)
開館年 : 1953年1月
閉館年 : 1962年
跡地は「ライオンズマンション四つ木」。最寄駅は京成押上線四ツ木駅。
1953年に葛飾区四ツ木1-21に「四ツ木銀座映画劇場」が開館した際の記念写真あり。花輪が見える。四ツ木商店街の有志が経営していた。*1
1958年に「四ツ木銀映」前で撮られた商店主の記念写真あり。四ツ木銀映は1962年に閉館し、丸ア百貨店となった。*2
1953年1月、葛飾区四ツ木に3番目の映画館として「四ツ木銀座文化劇場」(四ツ木銀映)が開館した。他の2館は大手映画会社が経営母体だったが、四ツ木銀映は四ツ木銀座商店街の有志が出資して経営された。1962年には3館の中で最も早く閉館し、跡地は丸ア百貨店となった。2006年現在の跡地にはライオンズマンションが建っている。*3
開館年 : 1953年1月
閉館年 : 1962年
跡地は「ライオンズマンション四つ木」。最寄駅は京成押上線四ツ木駅。
1953年に葛飾区四ツ木1-21に「四ツ木銀座映画劇場」が開館した際の記念写真あり。花輪が見える。四ツ木商店街の有志が経営していた。*1
1958年に「四ツ木銀映」前で撮られた商店主の記念写真あり。四ツ木銀映は1962年に閉館し、丸ア百貨店となった。*2
1953年1月、葛飾区四ツ木に3番目の映画館として「四ツ木銀座文化劇場」(四ツ木銀映)が開館した。他の2館は大手映画会社が経営母体だったが、四ツ木銀映は四ツ木銀座商店街の有志が出資して経営された。1962年には3館の中で最も早く閉館し、跡地は丸ア百貨店となった。2006年現在の跡地にはライオンズマンションが建っている。*3
所在地 : 東京都葛飾区堀切町2-34(1962年)
開館年 : 1950年3月
閉館年 : 1962年頃
跡地は「堀切中央児童遊園」南西60mの「小宮マンション」など。最寄駅は京成本線堀切菖蒲園駅。
葛飾区堀切町806の「オリエンタル劇場」。1950年4月開館。定員164。代表者は小宮勝太郎。*4
開館年 : 1950年3月
閉館年 : 1962年頃
跡地は「堀切中央児童遊園」南西60mの「小宮マンション」など。最寄駅は京成本線堀切菖蒲園駅。
葛飾区堀切町806の「オリエンタル劇場」。1950年4月開館。定員164。代表者は小宮勝太郎。*4
所在地 : 東京都葛飾区本田四ツ木町119(1963年)
開館年 : 1925年以前、1950年8月
閉館年 : 1965年
跡地は「東京四木教育学院」北西30mの8軒分の民家。最寄駅は京成押上線四ツ木駅。
1925年、葛飾初の映画館として「四ツ木観音館」(後の四ツ木館)が開館した。映画館前の通りは渋江観音座通りと呼ばれ、葛飾で最もにぎわう商店街となった。*5
葛飾区本田四ツ木町119の「四ツ木映画劇場」。1950年10月開館。定員237。代表者は森本吉太郎。*6
2011年現在の葛飾区域で最も古い映画館は、「四ツ木映画劇場」の前身の「四ツ木観音館」である。1925年7月時点では既に存在しており、正確な開館年は不明であるが、1923年9月の関東大震災以後ではないかとされる。映画館前の通りは渋江観音座通りと呼ばれていた。*7
四ツ木館の前身は観音座であり、ツェッペリン号が東京上空を飛行した1929年8月19日には既に存在していた。東京オリンピック翌年の1965年に閉館した。2006年現在の跡地には民家が建っている。*8
開館年 : 1925年以前、1950年8月
閉館年 : 1965年
跡地は「東京四木教育学院」北西30mの8軒分の民家。最寄駅は京成押上線四ツ木駅。
1925年、葛飾初の映画館として「四ツ木観音館」(後の四ツ木館)が開館した。映画館前の通りは渋江観音座通りと呼ばれ、葛飾で最もにぎわう商店街となった。*5
葛飾区本田四ツ木町119の「四ツ木映画劇場」。1950年10月開館。定員237。代表者は森本吉太郎。*6
2011年現在の葛飾区域で最も古い映画館は、「四ツ木映画劇場」の前身の「四ツ木観音館」である。1925年7月時点では既に存在しており、正確な開館年は不明であるが、1923年9月の関東大震災以後ではないかとされる。映画館前の通りは渋江観音座通りと呼ばれていた。*7
四ツ木館の前身は観音座であり、ツェッペリン号が東京上空を飛行した1929年8月19日には既に存在していた。東京オリンピック翌年の1965年に閉館した。2006年現在の跡地には民家が建っている。*8
所在地 : 東京都葛飾区高砂町622(1963年)
開館年 : 1929年5月
閉館年 : 1963年頃
跡地は呉服店「ジョイフル恵利ぷりずむ館」。最寄駅は京成本線・京成金町線・北総鉄道北宋線京成高砂駅。
1941年の『大東京区分図三十五区之内 葛飾区詳細図』では「高砂館」。*9
葛飾区高砂町662の「高砂館」。1947年11月開館。定員210。代表者は金津上三郎。*10
1962年9月から1963年9月までに、東京都では神田東映(千代田区)、高輪映画(港区)、神楽坂東映(新宿区)、松竹座(台東区)、入谷金美(台東区)、石原ミリオン(墨田区)、白髭映劇(墨田区)、千田シネマ(江東区)、娯楽館(品川区)、大井映画(品川区)、ユニオン座(目黒区)、久ヶ原ロマン座(大田区)、長原映劇(大田区)、蒲田映劇(大田区)、蒲田銀映(大田区)、蒲田名画座(大田区)、沼袋映劇(中野区)、テアトル中野(中野区)、北映座(豊島区)、巣鴨映劇(豊島区)、巣鴨日活(豊島区)、三島館(荒川区)、荒川大映(荒川区)、志村大映(板橋区)、高砂文化(葛飾区)、新小岩銀映(葛飾区)、平井東映(江戸川区)、八光館(八王子市)、青梅セントラル(青梅市)、調布銀映(調布市)、町田東映(町田市)、月光館(目黒区、演芸場転向)の32館が廃館となった。*11
開館年 : 1929年5月
閉館年 : 1963年頃
跡地は呉服店「ジョイフル恵利ぷりずむ館」。最寄駅は京成本線・京成金町線・北総鉄道北宋線京成高砂駅。
1941年の『大東京区分図三十五区之内 葛飾区詳細図』では「高砂館」。*9
葛飾区高砂町662の「高砂館」。1947年11月開館。定員210。代表者は金津上三郎。*10
1962年9月から1963年9月までに、東京都では神田東映(千代田区)、高輪映画(港区)、神楽坂東映(新宿区)、松竹座(台東区)、入谷金美(台東区)、石原ミリオン(墨田区)、白髭映劇(墨田区)、千田シネマ(江東区)、娯楽館(品川区)、大井映画(品川区)、ユニオン座(目黒区)、久ヶ原ロマン座(大田区)、長原映劇(大田区)、蒲田映劇(大田区)、蒲田銀映(大田区)、蒲田名画座(大田区)、沼袋映劇(中野区)、テアトル中野(中野区)、北映座(豊島区)、巣鴨映劇(豊島区)、巣鴨日活(豊島区)、三島館(荒川区)、荒川大映(荒川区)、志村大映(板橋区)、高砂文化(葛飾区)、新小岩銀映(葛飾区)、平井東映(江戸川区)、八光館(八王子市)、青梅セントラル(青梅市)、調布銀映(調布市)、町田東映(町田市)、月光館(目黒区、演芸場転向)の32館が廃館となった。*11
所在地 : 東京都葛飾区下小松町1290(1963年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1963年頃
跡地は商業ビル「クッターナ新小岩」建物北西端部。最寄駅はJR総武線新小岩駅。
1962年9月から1963年9月までに、東京都ではテアトル三原橋(中央区)、銀座東映(中央区)、牛込名画座(新宿区)、墨田大成館(墨田区)、自由ヶ丘松竹(目黒区)、帝都座(大田区)、コンパル映劇(葛飾区)、新小岩名画座(葛飾区)の8館が休館となった。同期間中には32館が廃館となっている。*12
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1963年頃
跡地は商業ビル「クッターナ新小岩」建物北西端部。最寄駅はJR総武線新小岩駅。
1962年9月から1963年9月までに、東京都ではテアトル三原橋(中央区)、銀座東映(中央区)、牛込名画座(新宿区)、墨田大成館(墨田区)、自由ヶ丘松竹(目黒区)、帝都座(大田区)、コンパル映劇(葛飾区)、新小岩名画座(葛飾区)の8館が休館となった。同期間中には32館が廃館となっている。*12
所在地 : 東京都葛飾区四ツ木2-6-22(1966年)
開館年 : 1950年11月
閉館年 : 1968年
跡地はマンション「グリーンパーク四ツ木」。最寄駅は京成押上線四ツ木駅。
葛飾区四ツ木町125の「四ツ木文化映画劇場」。1946年12月開館。定員275。代表者は森本吉次郎。*13
1951年頃の葛飾区にあった「四ツ木文化劇場」の写真あり。西部劇『渓谷の銃声』と『エノケンの天一坊』の看板が見える。1947年に開館した芝居小屋の平和劇場が前身である。*14
戦前の四ツ木には映画館「四ツ木観音館」(後の四ツ木館)があった。戦後の葛飾区四ツ木には、1950年に「四ツ木文化劇場」、1953年に「四ツ木銀座映画劇場」が開館した。1967年には四ツ木で最後まで残った四ツ木文化劇場も閉館した。*15
1949年末、葛飾区四ツ木に剣劇を行う芝居小屋として「平和劇場」が建てられた。1950年11月には「四ツ木文化劇場」に改称し、映画と剣劇の二本立て興行となると、1952年には映画専門館となった。四ツ木の映画館の中では最も遅くまで営業し、1968年の閉館後には釣り堀となった。2006年現在の跡地にはグリーンパークマンションが建っている。*16
1942年に浅草に生まれた落合信彦(ジャーナリスト)は、昭和30年代に柴又・堀切・四ツ木・立石・お花茶屋などを転々としていた。中学・高校時代には「四ツ木文化劇場」、「立石ミリオン座」、「堀切世界館」などの洋画館に通い、アメリカに留学するために独学で英語を習得した。『カサブランカ』は30回以上も鑑賞し、渡米直前にはまったく字幕を見ずに理解することができた。*17
1951年頃の葛飾区四ツ木2丁目6番地にあった映画館「四ツ木文化劇場」の写真あり。『渓谷の銃声』と『エノケンの天一坊』の看板が見える。芝居小屋「平和劇場」から始まった劇場である。四ツ木には「四ツ木館」や「四ツ木銀映」もあったが、四ツ木文化劇場は3館の中で最も遅く、1967年に閉館した。閉館後には建物が釣堀に使われていたこともある。2015年現在の跡地にはマンションが建っている。*18
開館年 : 1950年11月
閉館年 : 1968年
跡地はマンション「グリーンパーク四ツ木」。最寄駅は京成押上線四ツ木駅。
葛飾区四ツ木町125の「四ツ木文化映画劇場」。1946年12月開館。定員275。代表者は森本吉次郎。*13
1951年頃の葛飾区にあった「四ツ木文化劇場」の写真あり。西部劇『渓谷の銃声』と『エノケンの天一坊』の看板が見える。1947年に開館した芝居小屋の平和劇場が前身である。*14
戦前の四ツ木には映画館「四ツ木観音館」(後の四ツ木館)があった。戦後の葛飾区四ツ木には、1950年に「四ツ木文化劇場」、1953年に「四ツ木銀座映画劇場」が開館した。1967年には四ツ木で最後まで残った四ツ木文化劇場も閉館した。*15
1949年末、葛飾区四ツ木に剣劇を行う芝居小屋として「平和劇場」が建てられた。1950年11月には「四ツ木文化劇場」に改称し、映画と剣劇の二本立て興行となると、1952年には映画専門館となった。四ツ木の映画館の中では最も遅くまで営業し、1968年の閉館後には釣り堀となった。2006年現在の跡地にはグリーンパークマンションが建っている。*16
1942年に浅草に生まれた落合信彦(ジャーナリスト)は、昭和30年代に柴又・堀切・四ツ木・立石・お花茶屋などを転々としていた。中学・高校時代には「四ツ木文化劇場」、「立石ミリオン座」、「堀切世界館」などの洋画館に通い、アメリカに留学するために独学で英語を習得した。『カサブランカ』は30回以上も鑑賞し、渡米直前にはまったく字幕を見ずに理解することができた。*17
1951年頃の葛飾区四ツ木2丁目6番地にあった映画館「四ツ木文化劇場」の写真あり。『渓谷の銃声』と『エノケンの天一坊』の看板が見える。芝居小屋「平和劇場」から始まった劇場である。四ツ木には「四ツ木館」や「四ツ木銀映」もあったが、四ツ木文化劇場は3館の中で最も遅く、1967年に閉館した。閉館後には建物が釣堀に使われていたこともある。2015年現在の跡地にはマンションが建っている。*18
所在地 : 東京都葛飾区堀切町2-28(1968年)
開館年 : 1939年6月
閉館年 : 1968年頃
跡地はマンション「エヴァーグリーン堀切菖蒲園」。最寄駅は京成本線堀切駅。
葛飾区小谷野町293の「堀切映画劇場」。1950年1月開館。定員250。代表者は大石勇次。*19
開館年 : 1939年6月
閉館年 : 1968年頃
跡地はマンション「エヴァーグリーン堀切菖蒲園」。最寄駅は京成本線堀切駅。
葛飾区小谷野町293の「堀切映画劇場」。1950年1月開館。定員250。代表者は大石勇次。*19
所在地 : 東京都葛飾区堀切町4-55-16(1969年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1969年頃
跡地は「朝日プラザ堀切菖蒲園」建物南東部。最寄駅は京成本線堀切駅。
1942年に浅草に生まれた落合信彦(ジャーナリスト)は、昭和30年代に柴又・堀切・四ツ木・立石・お花茶屋などを転々としていた。中学・高校時代には「四ツ木文化劇場」、「立石ミリオン座」、「堀切世界館」などの洋画館に通い、アメリカに留学するために独学で英語を習得した。『カサブランカ』は30回以上も鑑賞し、渡米直前にはまったく字幕を見ずに理解することができた。*20
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1969年頃
跡地は「朝日プラザ堀切菖蒲園」建物南東部。最寄駅は京成本線堀切駅。
1942年に浅草に生まれた落合信彦(ジャーナリスト)は、昭和30年代に柴又・堀切・四ツ木・立石・お花茶屋などを転々としていた。中学・高校時代には「四ツ木文化劇場」、「立石ミリオン座」、「堀切世界館」などの洋画館に通い、アメリカに留学するために独学で英語を習得した。『カサブランカ』は30回以上も鑑賞し、渡米直前にはまったく字幕を見ずに理解することができた。*20
所在地 : 東京都葛飾区亀有町5-48-1(1970年)
開館年 : 1949年5月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
跡地はマンション「ブランズ亀有」。最寄駅はJR常磐線亀有駅。
葛飾区亀有町6-74の「日立映画劇場」。1950年8月開館。定員243。代表者は渡辺二郎。*21
開館年 : 1949年5月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
跡地はマンション「ブランズ亀有」。最寄駅はJR常磐線亀有駅。
葛飾区亀有町6-74の「日立映画劇場」。1950年8月開館。定員243。代表者は渡辺二郎。*21
所在地 : 東京都葛飾区新小岩1-44-2(1970年)
開館年 : 1953年6月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
跡地は商業ビル「VORT新小岩」。最寄駅はJR総武本線新小岩駅。
1962年9月から1963年9月までに、東京都では神田東映(千代田区)、高輪映画(港区)、神楽坂東映(新宿区)、松竹座(台東区)、入谷金美(台東区)、石原ミリオン(墨田区)、白髭映劇(墨田区)、千田シネマ(江東区)、娯楽館(品川区)、大井映画(品川区)、ユニオン座(目黒区)、久ヶ原ロマン座(大田区)、長原映劇(大田区)、蒲田映劇(大田区)、蒲田銀映(大田区)、蒲田名画座(大田区)、沼袋映劇(中野区)、テアトル中野(中野区)、北映座(豊島区)、巣鴨映劇(豊島区)、巣鴨日活(豊島区)、三島館(荒川区)、荒川大映(荒川区)、志村大映(板橋区)、高砂文化(葛飾区)、新小岩銀映(葛飾区)、平井東映(江戸川区)、八光館(八王子市)、青梅セントラル(青梅市)、調布銀映(調布市)、町田東映(町田市)、月光館(目黒区、演芸場転向)の32館が廃館となった。*22
開館年 : 1953年6月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
跡地は商業ビル「VORT新小岩」。最寄駅はJR総武本線新小岩駅。
1962年9月から1963年9月までに、東京都では神田東映(千代田区)、高輪映画(港区)、神楽坂東映(新宿区)、松竹座(台東区)、入谷金美(台東区)、石原ミリオン(墨田区)、白髭映劇(墨田区)、千田シネマ(江東区)、娯楽館(品川区)、大井映画(品川区)、ユニオン座(目黒区)、久ヶ原ロマン座(大田区)、長原映劇(大田区)、蒲田映劇(大田区)、蒲田銀映(大田区)、蒲田名画座(大田区)、沼袋映劇(中野区)、テアトル中野(中野区)、北映座(豊島区)、巣鴨映劇(豊島区)、巣鴨日活(豊島区)、三島館(荒川区)、荒川大映(荒川区)、志村大映(板橋区)、高砂文化(葛飾区)、新小岩銀映(葛飾区)、平井東映(江戸川区)、八光館(八王子市)、青梅セントラル(青梅市)、調布銀映(調布市)、町田東映(町田市)、月光館(目黒区、演芸場転向)の32館が廃館となった。*22
所在地 : 東京都葛飾区新小岩1-44-2(1970年)
開館年 : 1951年9月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
跡地は商業ビル「クッターナ新小岩」建物中央東部。最寄駅はJR総武本線新小岩駅。
葛飾区下小松町1290の「コンパル映画劇場」。1950年6月開館。定員306。代表者は吉谷武徳。*23
1962年9月から1963年9月までに、東京都ではテアトル三原橋(中央区)、銀座東映(中央区)、牛込名画座(新宿区)、墨田大成館(墨田区)、自由ヶ丘松竹(目黒区)、帝都座(大田区)、コンパル映劇(葛飾区)、新小岩名画座(葛飾区)の8館が休館となった。同期間中には32館が廃館となっている。*24
開館年 : 1951年9月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
跡地は商業ビル「クッターナ新小岩」建物中央東部。最寄駅はJR総武本線新小岩駅。
葛飾区下小松町1290の「コンパル映画劇場」。1950年6月開館。定員306。代表者は吉谷武徳。*23
1962年9月から1963年9月までに、東京都ではテアトル三原橋(中央区)、銀座東映(中央区)、牛込名画座(新宿区)、墨田大成館(墨田区)、自由ヶ丘松竹(目黒区)、帝都座(大田区)、コンパル映劇(葛飾区)、新小岩名画座(葛飾区)の8館が休館となった。同期間中には32館が廃館となっている。*24
所在地 : 東京都葛飾区立石1-21-6(1975年)
開館年 : 1938年5月1日
閉館年 : 1975年頃
跡地は「立石一丁目児童遊園」。最寄駅は京成押上線京成立石駅。
1938年5月、葛飾区初の映画館が開館した。1968年現在の「立石日本館」である。*25
1938年5月1日、葛飾区初の映画館(立石日本館)が開館した。*26
葛飾区本田立石町239の「立石富士館」。1938年3月開館。定員350。代表者は松田圭右。*27
戦前の葛飾区には「金町松竹館」「四ツ木映画劇場」「東宝高砂館」「立石富士館」「堀切映画劇場」「亀有会館」の6館の映画館があった。『増補葛飾区史 年表』によると葛飾区初の映画館は1938年5月に開館した立石富士館である。一方で、『映画便覧 昭和29年版』によると、1928年10月設立の金町松竹館、1929年設立の四ツ木映画劇場、1929年5月設立の東宝高砂館のほうが設立が早い。*28
開館年 : 1938年5月1日
閉館年 : 1975年頃
跡地は「立石一丁目児童遊園」。最寄駅は京成押上線京成立石駅。
1938年5月、葛飾区初の映画館が開館した。1968年現在の「立石日本館」である。*25
1938年5月1日、葛飾区初の映画館(立石日本館)が開館した。*26
葛飾区本田立石町239の「立石富士館」。1938年3月開館。定員350。代表者は松田圭右。*27
戦前の葛飾区には「金町松竹館」「四ツ木映画劇場」「東宝高砂館」「立石富士館」「堀切映画劇場」「亀有会館」の6館の映画館があった。『増補葛飾区史 年表』によると葛飾区初の映画館は1938年5月に開館した立石富士館である。一方で、『映画便覧 昭和29年版』によると、1928年10月設立の金町松竹館、1929年設立の四ツ木映画劇場、1929年5月設立の東宝高砂館のほうが設立が早い。*28
所在地 : 東京都葛飾区金町6-7-9(1979年)
開館年 : 1928年10月
閉館年 : 1979年頃
跡地はマンション「ユタカキャピタル金町」。最寄駅はJR常磐線金町駅。
1941年の『大東京区分図三十五区之内 葛飾区詳細図』では「松竹館」。*29
葛飾区金町4-1693の「金町映画劇場」。1940年1月開館。定員270。代表者は森本吉太郎。*30
「金町松竹館」の前身は「金町演芸館」である。1926年の映画館名簿には掲載されておらず、1928年の映画館名簿には掲載されている。1926年11月発行の東京演芸場組合員名簿には金町演芸場として掲載されており、当初は映画館ではなく寄席だった。*31
開館年 : 1928年10月
閉館年 : 1979年頃
跡地はマンション「ユタカキャピタル金町」。最寄駅はJR常磐線金町駅。
1941年の『大東京区分図三十五区之内 葛飾区詳細図』では「松竹館」。*29
葛飾区金町4-1693の「金町映画劇場」。1940年1月開館。定員270。代表者は森本吉太郎。*30
「金町松竹館」の前身は「金町演芸館」である。1926年の映画館名簿には掲載されておらず、1928年の映画館名簿には掲載されている。1926年11月発行の東京演芸場組合員名簿には金町演芸場として掲載されており、当初は映画館ではなく寄席だった。*31
所在地 : 東京都葛飾区新小岩2-1-23(1981年)
開館年 : 1947年1月、1951年9月
閉館年 : 1981年頃
跡地は「ソフトタウン新小岩」。最寄駅はJR総武本線新小岩駅。
葛飾区下小松町876の「新小岩映画劇場」。1947年1月開館。定員234。代表者は深野福次郎。*32
開館年 : 1947年1月、1951年9月
閉館年 : 1981年頃
跡地は「ソフトタウン新小岩」。最寄駅はJR総武本線新小岩駅。
葛飾区下小松町876の「新小岩映画劇場」。1947年1月開館。定員234。代表者は深野福次郎。*32
所在地 : 東京都葛飾区堀切3-10-3(1982年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1982年頃
跡地は「葛飾区立堀切地区センター」南東60mの駐車場。最寄駅は京成本線堀切駅。
昭和40年代の葛飾区堀切地区にあった映画館「堀切文映」の写真あり。戦前の堀切地区には「堀切映画劇場」があり、その後堀切小学校近くに「オリエンタル劇場」が開館し、京成堀切菖蒲園駅の前に「世界館」と「日本館」が開館したが、昭和40年代にはすべて廃館となった。堀切地区から水戸橋を渡った先の小菅地区には「小菅映画劇場」があった。*33
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1982年頃
跡地は「葛飾区立堀切地区センター」南東60mの駐車場。最寄駅は京成本線堀切駅。
昭和40年代の葛飾区堀切地区にあった映画館「堀切文映」の写真あり。戦前の堀切地区には「堀切映画劇場」があり、その後堀切小学校近くに「オリエンタル劇場」が開館し、京成堀切菖蒲園駅の前に「世界館」と「日本館」が開館したが、昭和40年代にはすべて廃館となった。堀切地区から水戸橋を渡った先の小菅地区には「小菅映画劇場」があった。*33
所在地 : 東京都葛飾区立石1-22-11(1995年)
開館年 : 1937年5月
閉館年 : 1995年頃
跡地は「ライオンズステーションプラザ立石」。最寄駅は京成押上線京成立石駅。
1942年に浅草に生まれた落合信彦(ジャーナリスト)は、昭和30年代に柴又・堀切・四ツ木・立石・お花茶屋などを転々としていた。中学・高校時代には「四ツ木文化劇場」、「立石ミリオン座」、「堀切世界館」などの洋画館に通い、アメリカに留学するために独学で英語を習得した。『カサブランカ』は30回以上も鑑賞し、渡米直前にはまったく字幕を見ずに理解することができた。*34
開館年 : 1937年5月
閉館年 : 1995年頃
跡地は「ライオンズステーションプラザ立石」。最寄駅は京成押上線京成立石駅。
1942年に浅草に生まれた落合信彦(ジャーナリスト)は、昭和30年代に柴又・堀切・四ツ木・立石・お花茶屋などを転々としていた。中学・高校時代には「四ツ木文化劇場」、「立石ミリオン座」、「堀切世界館」などの洋画館に通い、アメリカに留学するために独学で英語を習得した。『カサブランカ』は30回以上も鑑賞し、渡米直前にはまったく字幕を見ずに理解することができた。*34
所在地 : 東京都葛飾区亀有2-63-7(1998年)
開館年 : 1939年8月、1983年(成人映画館化)
閉館年 : 1999年2月28日
跡地はマンション「コスモ亀有シティフォルム」。最寄駅はJR常磐線亀有駅。
葛飾区亀有町2-939の「亀有会館」。1941年3月開館。定員240。代表者は今井秀夫。*35
戦前の葛飾区には映画館「亀有会館」があり、戦後には「亀有東映」となった。1980年には亀有東映が「亀有名画座」に改称した。葛飾名画座は葛飾区最期の映画館だったが、1999年に閉館した。*36
葛飾区にある「亀有名画座」の写真あり。1941年に開館し、1999年2月28日に閉館した。*37
1941年には葛飾区に「亀有名画座」が開館した。アリオ亀有の場所にあった日本紙業亀有工場の従業員などが客だった。東映の封切館からやがて名画座となり、1983年には成人映画館に転向した。ピンク大賞の授賞式会場としても用いられた。成人映画館ではあったが商店街に溶け込んでおり、春休みや夏休みには東映まんがまつりが開催された。。1999年に閉館した。*38
葛飾区亀有2-63-7の「亀有名画座」。1999年2月29日をもって閉館した。最終上映作品は「成人映画名作特集」。料金は一般1200円。224人収容。木造平屋建て。*39
亀有名画座に言及している雑誌記事として、「TEMPO ステージ&スクリーン ついに閉館、ポルノの殿堂『亀有名画座』」『週刊新潮』1999年2月11日がある。現物は未確認。*40
亀有名画座に言及している雑誌記事として、「デキゴトロジー ポルノの殿堂ピンクの牙城 才能を育てた『亀有名画座』 惜しまれつつもついに閉館」『週刊朝日』1999年3月19日がある。現物は未確認。*41
開館年 : 1939年8月、1983年(成人映画館化)
閉館年 : 1999年2月28日
跡地はマンション「コスモ亀有シティフォルム」。最寄駅はJR常磐線亀有駅。
葛飾区亀有町2-939の「亀有会館」。1941年3月開館。定員240。代表者は今井秀夫。*35
戦前の葛飾区には映画館「亀有会館」があり、戦後には「亀有東映」となった。1980年には亀有東映が「亀有名画座」に改称した。葛飾名画座は葛飾区最期の映画館だったが、1999年に閉館した。*36
葛飾区にある「亀有名画座」の写真あり。1941年に開館し、1999年2月28日に閉館した。*37
1941年には葛飾区に「亀有名画座」が開館した。アリオ亀有の場所にあった日本紙業亀有工場の従業員などが客だった。東映の封切館からやがて名画座となり、1983年には成人映画館に転向した。ピンク大賞の授賞式会場としても用いられた。成人映画館ではあったが商店街に溶け込んでおり、春休みや夏休みには東映まんがまつりが開催された。。1999年に閉館した。*38
葛飾区亀有2-63-7の「亀有名画座」。1999年2月29日をもって閉館した。最終上映作品は「成人映画名作特集」。料金は一般1200円。224人収容。木造平屋建て。*39
亀有名画座に言及している雑誌記事として、「TEMPO ステージ&スクリーン ついに閉館、ポルノの殿堂『亀有名画座』」『週刊新潮』1999年2月11日がある。現物は未確認。*40
亀有名画座に言及している雑誌記事として、「デキゴトロジー ポルノの殿堂ピンクの牙城 才能を育てた『亀有名画座』 惜しまれつつもついに閉館」『週刊朝日』1999年3月19日がある。現物は未確認。*41

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