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hekikaicinema 2023年04月05日(水) 05:17:29履歴
所在地 : 神奈川県横浜市中区曙町1-8(1953年・1955年・1958年)
開館年 : 1946年8月
閉館年 : 1959年10月9日
『全国映画館総覧 1955』によると1946年8月開館。1953年の映画館名簿では「横浜レアルト劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「横浜レアルト」。1956年の住宅地図では「レアルト映画劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の住宅地図では跡地に「空地」。跡地は「東日本銀行横浜支店」や「斉藤ビル」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1959年10月9日午前1時頃、横浜市曙町1-8の「レアルト劇場」から出火し、760平方メートルを焼いた。宿直員の米倉隆が殉職した。休館中であり、残務整理を行っていた。損害額は調査中。経営は東海興業。*1
1959年10月9日、横浜市中区曙町の「レアルト劇場」が全焼した。原因は不明。*2
1960年5月、横浜市中区曙町1-8の「横浜レアルト」が佐々木興業の経営で再発足する予定。焼失していた。*3
開館年 : 1946年8月
閉館年 : 1959年10月9日
『全国映画館総覧 1955』によると1946年8月開館。1953年の映画館名簿では「横浜レアルト劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「横浜レアルト」。1956年の住宅地図では「レアルト映画劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の住宅地図では跡地に「空地」。跡地は「東日本銀行横浜支店」や「斉藤ビル」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1959年10月9日午前1時頃、横浜市曙町1-8の「レアルト劇場」から出火し、760平方メートルを焼いた。宿直員の米倉隆が殉職した。休館中であり、残務整理を行っていた。損害額は調査中。経営は東海興業。*1
1959年10月9日、横浜市中区曙町の「レアルト劇場」が全焼した。原因は不明。*2
1960年5月、横浜市中区曙町1-8の「横浜レアルト」が佐々木興業の経営で再発足する予定。焼失していた。*3
所在地 : 神奈川県横浜市中区宮川町3-70(1958年・1960年)
開館年 : 1947年3月4日、1955年6月10日
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1953年の映画館名簿では「マッカーサー劇場」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の住宅地図では「吉本映画劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「横浜吉本映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ウインズ横浜A館」建物南東部。最寄駅は京急本線日ノ出町駅。
1955年6月10日、横浜市中区宮川町3-70に「吉本映画劇場」(吉本映劇)が開館した。オープニングは『不良少女モニカ』と『死闘の丘』の二本立て。マッカーサー劇場を改装したものである。定員は750人。シネスコ、スーパースコープ、ビスタビジョン併映館。*4
1949年3月3日の「マツクアーサー劇場」の開場3周年記念写真あり。1946年に野毛に建設され、1947年3月に開館した。マツクアーサー劇場という館名は公募された。(※3周年の1年前である)1948年に開館1周年を祝っている。*5
開館年 : 1947年3月4日、1955年6月10日
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1953年の映画館名簿では「マッカーサー劇場」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の住宅地図では「吉本映画劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「横浜吉本映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ウインズ横浜A館」建物南東部。最寄駅は京急本線日ノ出町駅。
1955年6月10日、横浜市中区宮川町3-70に「吉本映画劇場」(吉本映劇)が開館した。オープニングは『不良少女モニカ』と『死闘の丘』の二本立て。マッカーサー劇場を改装したものである。定員は750人。シネスコ、スーパースコープ、ビスタビジョン併映館。*4
1949年3月3日の「マツクアーサー劇場」の開場3周年記念写真あり。1946年に野毛に建設され、1947年3月に開館した。マツクアーサー劇場という館名は公募された。(※3周年の1年前である)1948年に開館1周年を祝っている。*5
所在地 : 神奈川県横浜市中区本牧町1-10(1953年・1955年・1958年・1960年)
開館年 : 1951年10月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年10月開館。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「本牧劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はタクシー会社「和同交通」。最寄駅はJR根岸線山手駅。
開館年 : 1951年10月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年10月開館。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「本牧劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はタクシー会社「和同交通」。最寄駅はJR根岸線山手駅。
所在地 : 神奈川県横浜市中区野毛町2-73(1953年・1955年・1958年・1960年)
開館年 : 1951年6月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年6月開館。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「野毛劇場」。1956年の住宅地図では「横浜野毛劇場」。1962年の住宅地図では跡地に「パチンコ野毛センター」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はカラオケ店「からおけかふぇ杉の子野毛桜木町店」。最寄駅はJR根岸線桜木町駅。
開館年 : 1951年6月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年6月開館。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「野毛劇場」。1956年の住宅地図では「横浜野毛劇場」。1962年の住宅地図では跡地に「パチンコ野毛センター」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はカラオケ店「からおけかふぇ杉の子野毛桜木町店」。最寄駅はJR根岸線桜木町駅。
所在地 : 神奈川県横浜市中区山下町164(1953年・1955年・1958年・1960年)
開館年 : 1946年12月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「新光映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。広東料理店「同發」の「同發新館ホール」として建物が現存。最寄駅は横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅。
2012年9月29日から横浜市で横浜中華街映画祭が開催される。中華街大通りにある中華料理店同發(どうはつ)新館が会場。高い天井のホールは1960年頃まで「新光映画劇場」という映画館だった。『さらば、わが愛 覇王別姫』や『サンザシの樹の下で』など、中国・台湾・香港の計8本を上映する。*6
開館年 : 1946年12月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「新光映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。広東料理店「同發」の「同發新館ホール」として建物が現存。最寄駅は横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅。
2012年9月29日から横浜市で横浜中華街映画祭が開催される。中華街大通りにある中華料理店同發(どうはつ)新館が会場。高い天井のホールは1960年頃まで「新光映画劇場」という映画館だった。『さらば、わが愛 覇王別姫』や『サンザシの樹の下で』など、中国・台湾・香港の計8本を上映する。*6
所在地 : 神奈川県横浜市中区長者町5-56(1953年・1955年・1958年・1960年)、神奈川県横浜市中区伊勢佐木長者町5-56(1963年)
開館年 : 1947年9月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年9月開館。1953年の映画館名簿では「オリンピア劇場」。1955年の映画館名簿では「ヨコハマ東映」。1956年の住宅地図では「横浜東映」。1958年・1960年の映画館名簿では「横浜第二東映」。1962年の住宅地図では「横浜ニュー東映」。1963年の映画館名簿では「横浜ニュー東映劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は立体駐車場「タイムズステーション横浜長者町」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
開館年 : 1947年9月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年9月開館。1953年の映画館名簿では「オリンピア劇場」。1955年の映画館名簿では「ヨコハマ東映」。1956年の住宅地図では「横浜東映」。1958年・1960年の映画館名簿では「横浜第二東映」。1962年の住宅地図では「横浜ニュー東映」。1963年の映画館名簿では「横浜ニュー東映劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は立体駐車場「タイムズステーション横浜長者町」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
所在地 : 神奈川県横浜市中区長者町7-117(1958年)、神奈川県横浜市中区長者町7-216(1960年・1963年)、神奈川県横浜市中区長者町7-116(1966年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1968年7月
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1962年の住宅地図では「日活シネマ」。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「横浜日活シネマ」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「横浜日活会館」建物北西部。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1968年7月、横浜市の日活直営館「横浜日活」と「横浜シネマ」の2館が建物の総合ビル化のために休館した。1970年5月にはビル工事が完成し、6階と7階で営業を再開する予定。*7
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1968年7月
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1962年の住宅地図では「日活シネマ」。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「横浜日活シネマ」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「横浜日活会館」建物北西部。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1968年7月、横浜市の日活直営館「横浜日活」と「横浜シネマ」の2館が建物の総合ビル化のために休館した。1970年5月にはビル工事が完成し、6階と7階で営業を再開する予定。*7
所在地 : 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町3-96(1953年・1955年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1930年(喜楽座)、1935年11月(横浜日活館)、1945年12月(営業再開)
閉館年 : 1968年7月
『全国映画館総覧 1955』によると1935年11月開館。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「横浜日活映画劇場」。1956年・1962年の住宅地図では「横浜日活」。1966年の映画館名簿では「横浜日活劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は横浜日活会館。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1968年7月、横浜市の日活直営館「横浜日活」と「横浜シネマ」の2館が建物の総合ビル化のために休館した。1970年5月にはビル工事が完成し、6階と7階で営業を再開する予定。*8
開館年 : 1930年(喜楽座)、1935年11月(横浜日活館)、1945年12月(営業再開)
閉館年 : 1968年7月
『全国映画館総覧 1955』によると1935年11月開館。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「横浜日活映画劇場」。1956年・1962年の住宅地図では「横浜日活」。1966年の映画館名簿では「横浜日活劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は横浜日活会館。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1968年7月、横浜市の日活直営館「横浜日活」と「横浜シネマ」の2館が建物の総合ビル化のために休館した。1970年5月にはビル工事が完成し、6階と7階で営業を再開する予定。*8
所在地 : 神奈川県横浜市中区大和町1-9(1958年・1960年)、神奈川県横浜市中区大和町1-8(1963年)、神奈川県横浜市中区大和町1-9(1966年)
開館年 : 1956年12月28日
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「山手金美劇場」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「山手劇場」。1966年の住宅地図では「山手劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「M・S・山手ビル」。最寄駅はJR根岸線山手駅。
1956年12月28日、横浜市中区大和町1-9に「山手金美劇場」が開館した。市電大和町電停近く。鉄筋造1階建て。建坪100坪。定員300。経営は合資会社美須興業、支配人は桜井宏充。*9
開館年 : 1956年12月28日
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「山手金美劇場」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「山手劇場」。1966年の住宅地図では「山手劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「M・S・山手ビル」。最寄駅はJR根岸線山手駅。
1956年12月28日、横浜市中区大和町1-9に「山手金美劇場」が開館した。市電大和町電停近く。鉄筋造1階建て。建坪100坪。定員300。経営は合資会社美須興業、支配人は桜井宏充。*9
所在地 : 神奈川県横浜市中区麦田町3-93(1958年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1957年3月17日
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「麦座」。1966年の映画館名簿では「横浜麦座」。1966年の住宅地図では「麦座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はガソリンスタンド「コスモ石油マリンブルー横浜SS」。最寄駅はJR根岸線山手駅。
1957年3月17日、横浜市中区麦田町3-93に「麦座」が開館した。オープニングは『ピラミッド』と『海賊島』。鉄筋造2階建て一部3階建て。定員480人。総工費2200万円。経営は大和興行。*10
開館年 : 1957年3月17日
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「麦座」。1966年の映画館名簿では「横浜麦座」。1966年の住宅地図では「麦座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はガソリンスタンド「コスモ石油マリンブルー横浜SS」。最寄駅はJR根岸線山手駅。
1957年3月17日、横浜市中区麦田町3-93に「麦座」が開館した。オープニングは『ピラミッド』と『海賊島』。鉄筋造2階建て一部3階建て。定員480人。総工費2200万円。経営は大和興行。*10
所在地 : 神奈川県横浜市中区宮川町3-92(1955年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1954年11月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1954年11月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「日ノ出映画劇場」。1960年の映画館名簿では「日之出東映」。1963年の映画館名簿では「日の出映画劇場」。1965年の住宅地図では「日の出東映」。1966年の映画館名簿では「横浜日の出東映」。1966年の住宅地図では跡地に「空地」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「エクレール横浜一番館」。最寄駅は京急本線日ノ出町駅。
1961年の横浜市中区宮川町にあった「日之出東映」の写真あり。「日之出東映」「東映日活封切豪華3本立」「最低の料金最高の番組」の文字が見える。『でかんしょ風来坊』『鳴門秘帖』『アマゾン無宿 世紀の大魔王』の看板が見える。建物前には2代のパトカーが停まっている。*11
開館年 : 1954年11月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1954年11月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「日ノ出映画劇場」。1960年の映画館名簿では「日之出東映」。1963年の映画館名簿では「日の出映画劇場」。1965年の住宅地図では「日の出東映」。1966年の映画館名簿では「横浜日の出東映」。1966年の住宅地図では跡地に「空地」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「エクレール横浜一番館」。最寄駅は京急本線日ノ出町駅。
1961年の横浜市中区宮川町にあった「日之出東映」の写真あり。「日之出東映」「東映日活封切豪華3本立」「最低の料金最高の番組」の文字が見える。『でかんしょ風来坊』『鳴門秘帖』『アマゾン無宿 世紀の大魔王』の看板が見える。建物前には2代のパトカーが停まっている。*11
所在地 : 神奈川県横浜市中区宮川町3-70(1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1947年5月5日
閉館年 : 1968年頃
Wikipedia : 横浜国際劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1947年5月開館。1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「横浜国際劇場」。1956年・1966年の住宅地図では「横浜国際劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ウインズ横浜A館」建物中央東側。最寄駅は京急本線日ノ出町駅。
開館年 : 1947年5月5日
閉館年 : 1968年頃
Wikipedia : 横浜国際劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1947年5月開館。1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「横浜国際劇場」。1956年・1966年の住宅地図では「横浜国際劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ウインズ横浜A館」建物中央東側。最寄駅は京急本線日ノ出町駅。
所在地 : 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町2-52(1958年・1960年)、神奈川県横浜市中区伊勢佐木町(1963年)、神奈川県横浜市中区伊勢佐木町2-52(1966年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の住宅地図では「読売グリーンホール」。1958年の映画館名簿では「読売グリーンホール」。1960年の映画館名簿では「グリン・ホール」。1962年の住宅地図では「グリーンホール」。1963年の映画館名簿では「グリンホール」。1966年の映画館名簿では「横浜グリーンホール」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「第三泰信ビル」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の住宅地図では「読売グリーンホール」。1958年の映画館名簿では「読売グリーンホール」。1960年の映画館名簿では「グリン・ホール」。1962年の住宅地図では「グリーンホール」。1963年の映画館名簿では「グリンホール」。1966年の映画館名簿では「横浜グリーンホール」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「第三泰信ビル」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
所在地 : 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町2-52(1960年)、神奈川県横浜市中区伊勢佐木町2-51(1963年・1966年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1956年の住宅地図では後の映画館の場所に空白。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「オリオン座」。1962年の住宅地図では「オリオン座」。1966年の映画館名簿では「横浜オリオン座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は駐車場「タイムズ伊勢佐木町第4」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1956年の住宅地図では後の映画館の場所に空白。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「オリオン座」。1962年の住宅地図では「オリオン座」。1966年の映画館名簿では「横浜オリオン座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は駐車場「タイムズ伊勢佐木町第4」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
所在地 : 神奈川県横浜市中区住吉町4-42(1953年・1955年・1960年)、神奈川県横浜市中区住吉町4-43(1963年)、神奈川県横浜市中区住吉町4-42(1966年・1969年)
開館年 : 1935年4月1日
閉館年 : 1969年9月
Wikipedia : 横浜宝塚劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1935年4月開館。1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「横浜宝塚劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1986年9月27日開館の「横浜市市民文化会館関内ホール」。最寄駅はJR根岸線・横浜市営地下鉄ブルーライン関内駅。
開館年 : 1935年4月1日
閉館年 : 1969年9月
Wikipedia : 横浜宝塚劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1935年4月開館。1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「横浜宝塚劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1986年9月27日開館の「横浜市市民文化会館関内ホール」。最寄駅はJR根岸線・横浜市営地下鉄ブルーライン関内駅。
所在地 : 神奈川県横浜市中区曙町1-3(1953年)、神奈川県横浜市中区曙町1-2(1955年)、神奈川県横浜市中区伊勢佐木長者町6-104(1958年)、神奈川県横浜市中区長者町6-104(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1911年12月、1946年12月
閉館年 : 1973年2月22日
Wikipedia : 横浜オデヲン座
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1911年12月オデオン座開館。1942年横浜東亜映画劇場改称。その後横浜松竹映画劇場改称。1945年10月オクタゴンシアター改称。1953年・1955年の映画館名簿では「オデオン座」。1955年11月横浜松竹映画劇場改称。1956年・1962年の住宅地図では「横浜松竹映画劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「横浜松竹映画劇場」。1969年の映画館名簿では「横浜松竹映画劇場・横浜ロキシー劇場」(2館)。1973年の映画館名簿では「横浜松竹映画劇場・横浜ロキシー」(2館)。1973年の映画館名簿では経営会社が松竹、経営者が大谷隆三、松竹の支配人が藤森忠、ロキシーの支配人が落合俊雄、松竹が鉄筋造4階で626席で松竹を上映、ロキシーが鉄筋造2階で298席で洋画STを上映。1975年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ドン・キホーテ伊勢佐木町店」が入る「ニューオデオンビル」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1955年11月、接収されていた「横浜オクタゴン劇場」が返還された。*12
1957年の横浜市中区にあった映画館「オデヲン座」の写真あり。木下惠介も幾歳月』の垂れ幕が見える。戦後の1945年には進駐軍に接収され、進駐軍専用の「オクタゴン劇場」となった。1955年の接収解除で返還され、1955年12月に「横浜松竹映画劇場」となった。*13
1956年7月8日の横浜市の長者町にあった「横浜松竹映画劇場」(元オデオン座)の写真あり。「Shochiku」の文字が見える。『茶の間の時計 愛情の波紋』と『青春の音』の看板が見える。戦後の同館は米軍専用の「オクタゴン劇場」と呼ばれていたが、1955年11月に接収が解除された。*14
「オデオン座」を主題とする書籍に、郷土映画史研究家の丸岡澄夫による『オデヲン座物語』(六崎彰、1975年、1985年再版)がある。*15
開館年 : 1911年12月、1946年12月
閉館年 : 1973年2月22日
Wikipedia : 横浜オデヲン座
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1911年12月オデオン座開館。1942年横浜東亜映画劇場改称。その後横浜松竹映画劇場改称。1945年10月オクタゴンシアター改称。1953年・1955年の映画館名簿では「オデオン座」。1955年11月横浜松竹映画劇場改称。1956年・1962年の住宅地図では「横浜松竹映画劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「横浜松竹映画劇場」。1969年の映画館名簿では「横浜松竹映画劇場・横浜ロキシー劇場」(2館)。1973年の映画館名簿では「横浜松竹映画劇場・横浜ロキシー」(2館)。1973年の映画館名簿では経営会社が松竹、経営者が大谷隆三、松竹の支配人が藤森忠、ロキシーの支配人が落合俊雄、松竹が鉄筋造4階で626席で松竹を上映、ロキシーが鉄筋造2階で298席で洋画STを上映。1975年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ドン・キホーテ伊勢佐木町店」が入る「ニューオデオンビル」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1955年11月、接収されていた「横浜オクタゴン劇場」が返還された。*12
1957年の横浜市中区にあった映画館「オデヲン座」の写真あり。木下惠介も幾歳月』の垂れ幕が見える。戦後の1945年には進駐軍に接収され、進駐軍専用の「オクタゴン劇場」となった。1955年の接収解除で返還され、1955年12月に「横浜松竹映画劇場」となった。*13
1956年7月8日の横浜市の長者町にあった「横浜松竹映画劇場」(元オデオン座)の写真あり。「Shochiku」の文字が見える。『茶の間の時計 愛情の波紋』と『青春の音』の看板が見える。戦後の同館は米軍専用の「オクタゴン劇場」と呼ばれていたが、1955年11月に接収が解除された。*14
「オデオン座」を主題とする書籍に、郷土映画史研究家の丸岡澄夫による『オデヲン座物語』(六崎彰、1975年、1985年再版)がある。*15
所在地 : 神奈川県横浜市中区曙町1-3(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1980年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の住宅地図では「新東宝映画劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「横浜新東宝」。1962年の住宅地図では「横浜東急映画劇場」。1963年の映画館名簿では「横浜東急」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「横浜東亜劇場」。1974年の住宅地図では「横浜東亜」。1981年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「藤和伊勢佐木町ハイタウン」建物北側。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1961年2月28日、横浜市中区曙町1-3の「横浜新東宝」は東急チェーンの洋画封切館に転向した。*16
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1980年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の住宅地図では「新東宝映画劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「横浜新東宝」。1962年の住宅地図では「横浜東急映画劇場」。1963年の映画館名簿では「横浜東急」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「横浜東亜劇場」。1974年の住宅地図では「横浜東亜」。1981年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「藤和伊勢佐木町ハイタウン」建物北側。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1961年2月28日、横浜市中区曙町1-3の「横浜新東宝」は東急チェーンの洋画封切館に転向した。*16
所在地 : 神奈川県横浜市中区末吉町3-47(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1983年)
開館年 : 1953年12月
閉館年 : 1983年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1955年の映画館名簿では「大勝館」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1983年の映画館名簿では「横浜大勝館」。1974年の住宅地図では「横浜大勝館」。1984年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「トーカン伊勢佐木町キャステール」建物北側。最寄駅は京急本線黄金町駅。
開館年 : 1953年12月
閉館年 : 1983年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1955年の映画館名簿では「大勝館」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1983年の映画館名簿では「横浜大勝館」。1974年の住宅地図では「横浜大勝館」。1984年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「トーカン伊勢佐木町キャステール」建物北側。最寄駅は京急本線黄金町駅。
所在地 : 神奈川県横浜市中区末吉町3-48(1958年・1960年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1988年・1989年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1989年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「千代田劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年の映画館名簿では「横浜千代田劇場」。1974年の住宅地図では「千代田劇場」。1980年・1985年・1988年・1989年の映画館名簿では「千代田劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「リベラル伊勢佐木町」。最寄駅は京急本線黄金町駅。
昭和40年代の横浜市中区にあった映画館「千代田劇場」の写真あり。「横浜封切場」の文字が見える。*17
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1989年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「千代田劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年の映画館名簿では「横浜千代田劇場」。1974年の住宅地図では「千代田劇場」。1980年・1985年・1988年・1989年の映画館名簿では「千代田劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「リベラル伊勢佐木町」。最寄駅は京急本線黄金町駅。
昭和40年代の横浜市中区にあった映画館「千代田劇場」の写真あり。「横浜封切場」の文字が見える。*17
所在地 : 神奈川県横浜市中区若葉町3-51(1955年・1958年)、神奈川県横浜市中区若葉町3-50(1960年・1963年)、神奈川県横浜市中区若葉町3-51(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1952年12月25日
閉館年 : 1989年
Wikipedia : シネマ・ジャック&ベティ
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「名画座」。1958年の映画館名簿では「東映名画座」。1960年・1963年の映画館名簿では「横浜名画座」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「横浜東映名画座」。後継館は「シネマジャック・シネマベティ」。跡地はマンション「ピクセル伊勢佐木町」。最寄駅は京急本線黄金町駅。
1966年の横浜市中区にあった「横浜東映名画座」の写真あり。1952年、進駐軍の接収が解除された若葉町の飛行場跡地に「名画座」として開館した。1989年に閉館した。*18
『キネマ旬報』1976年8月下旬号、689号には、「われらの映画館 108回 横浜東映名画座」が掲載されている。*19
開館年 : 1952年12月25日
閉館年 : 1989年
Wikipedia : シネマ・ジャック&ベティ
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「名画座」。1958年の映画館名簿では「東映名画座」。1960年・1963年の映画館名簿では「横浜名画座」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「横浜東映名画座」。後継館は「シネマジャック・シネマベティ」。跡地はマンション「ピクセル伊勢佐木町」。最寄駅は京急本線黄金町駅。
1966年の横浜市中区にあった「横浜東映名画座」の写真あり。1952年、進駐軍の接収が解除された若葉町の飛行場跡地に「名画座」として開館した。1989年に閉館した。*18
『キネマ旬報』1976年8月下旬号、689号には、「われらの映画館 108回 横浜東映名画座」が掲載されている。*19
所在地 : 神奈川県横浜市中区野毛町3-40(1953年・1955年)、神奈川県横浜市中区野毛町3-140(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1990年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「文化劇場」。1956年の住宅地図では「横浜文化劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「横浜文化劇場」。1966年の住宅地図では「横浜文化劇場」。1990年の映画館名簿では「横浜文化」。1991年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ウインズ横浜B館」建物南西部。最寄駅は京急本線日ノ出町駅。
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1990年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「文化劇場」。1956年の住宅地図では「横浜文化劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「横浜文化劇場」。1966年の住宅地図では「横浜文化劇場」。1990年の映画館名簿では「横浜文化」。1991年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ウインズ横浜B館」建物南西部。最寄駅は京急本線日ノ出町駅。
所在地 : 神奈川県横浜市中区本牧原12-1 マイカル本牧5番街(1990年・1992年・1993年・1994年)
開館年 : 1989年4月30日
閉館年 : 1994年頃
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1992年・1993年の映画館名簿では「シネページ本牧・シネスイッチ本牧」(2館)。1994年の映画館名簿では「シネページ本牧・シネスクエア本牧」(2館)。1995年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅はJR根岸線山手駅。
開館年 : 1989年4月30日
閉館年 : 1994年頃
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1992年・1993年の映画館名簿では「シネページ本牧・シネスイッチ本牧」(2館)。1994年の映画館名簿では「シネページ本牧・シネスクエア本牧」(2館)。1995年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅はJR根岸線山手駅。
所在地 : 神奈川県横浜市中区花咲町2-57(1955年)、神奈川県横浜市中区花咲町2-157(1960年)、神奈川県横浜市中区花咲町2-57(1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年)
開館年 : 1952年12月
閉館年 : 1995年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1960年の映画館名簿では「ヨコハマニュース劇場」。1956年の住宅地図では「ヨコハマニュース劇場」。1963年・1966年の映画館名簿では「ヨコハマ・ニュース劇場」。1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「ヨコハマニュース劇場」。1974年の住宅地図では「ヨコハマニュース劇場」。1990年の映画館名簿では「ヨコハマニュース」。1995年の映画館名簿では「横浜ニュース劇場」。1996年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はコンビニ「ローソンストア100横浜桜木町駅前が入る「ミシナビル」。最寄駅はJR根岸線桜木町駅。
『キネマ旬報』1977年4月下旬号、705号には、「われらの映画館 122回 ヨコハマニュース劇場」が掲載されている。*20
開館年 : 1952年12月
閉館年 : 1995年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1960年の映画館名簿では「ヨコハマニュース劇場」。1956年の住宅地図では「ヨコハマニュース劇場」。1963年・1966年の映画館名簿では「ヨコハマ・ニュース劇場」。1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「ヨコハマニュース劇場」。1974年の住宅地図では「ヨコハマニュース劇場」。1990年の映画館名簿では「ヨコハマニュース」。1995年の映画館名簿では「横浜ニュース劇場」。1996年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はコンビニ「ローソンストア100横浜桜木町駅前が入る「ミシナビル」。最寄駅はJR根岸線桜木町駅。
『キネマ旬報』1977年4月下旬号、705号には、「われらの映画館 122回 ヨコハマニュース劇場」が掲載されている。*20
所在地 : 神奈川県横浜市中区長者町8-119(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・1999年)
開館年 : 1958年1月28日
閉館年 : 1999年頃
1956年の住宅地図では後の映画館の場所に空白。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「横浜大映劇場」。1962年の住宅地図では「横浜大映」。1973年の映画館名簿では「横浜劇場」。1974年の住宅地図では「横浜松竹劇場」。1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「横浜松竹」。1990年・1995年・1998年・1999年の映画館名簿では「横浜松竹・横浜セントラル」(2館)。1998年の映画館名簿では鉄筋造1階、304席と308席、経営会社が清新産業株式会社、横浜松竹は松竹を上映、横浜セントラルは洋画ロードショーを上映。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「キコーナ伊勢佐木店」建物南東部。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1958年1月28日、横浜市長者町に大映封切館「横浜大映劇場」が開館した。オープニングは『春高楼の花の宴』と『有楽町で逢いましょう』の二本立。定員780人。株式組織で運営され、取締役会長には永田雅一、社長には河野義一、取締役支配人には阿部隆が就任した。*21
横浜・伊勢佐木町の「横浜大映」の写真あり。「Yokohama DAIEI」の文字が見える。1階・2階・3階の平面図あり。設計・施工は竹中工務店。*22
開館年 : 1958年1月28日
閉館年 : 1999年頃
1956年の住宅地図では後の映画館の場所に空白。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「横浜大映劇場」。1962年の住宅地図では「横浜大映」。1973年の映画館名簿では「横浜劇場」。1974年の住宅地図では「横浜松竹劇場」。1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「横浜松竹」。1990年・1995年・1998年・1999年の映画館名簿では「横浜松竹・横浜セントラル」(2館)。1998年の映画館名簿では鉄筋造1階、304席と308席、経営会社が清新産業株式会社、横浜松竹は松竹を上映、横浜セントラルは洋画ロードショーを上映。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「キコーナ伊勢佐木店」建物南東部。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1958年1月28日、横浜市長者町に大映封切館「横浜大映劇場」が開館した。オープニングは『春高楼の花の宴』と『有楽町で逢いましょう』の二本立。定員780人。株式組織で運営され、取締役会長には永田雅一、社長には河野義一、取締役支配人には阿部隆が就任した。*21
横浜・伊勢佐木町の「横浜大映」の写真あり。「Yokohama DAIEI」の文字が見える。1階・2階・3階の平面図あり。設計・施工は竹中工務店。*22
所在地 : 神奈川県横浜市中区長者町6-88(1953年・1955年・1958年)、神奈川県横浜市中区伊勢佐木長者町6-88(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年)
開館年 : 1954年3月
閉館年 : 1998年
『全国映画館総覧 1955』によると1954年3月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「横浜松竹映画劇場」。1956年・1962年の住宅地図では「ピカデリーシネマ」。1958年の映画館名簿では「横浜ピカデリー」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「横浜ピカデリー劇場」。1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「横浜ピカデリー」。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「グラン・アルベーラ横濱・関内」建物北側。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1998年7月31日の『神奈川新聞』には「横浜ピカデリー」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*23
開館年 : 1954年3月
閉館年 : 1998年
『全国映画館総覧 1955』によると1954年3月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「横浜松竹映画劇場」。1956年・1962年の住宅地図では「ピカデリーシネマ」。1958年の映画館名簿では「横浜ピカデリー」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「横浜ピカデリー劇場」。1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「横浜ピカデリー」。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「グラン・アルベーラ横濱・関内」建物北側。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1998年7月31日の『神奈川新聞』には「横浜ピカデリー」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*23
所在地 : 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町3-98(1986年・1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1985年7月13日
閉館年 : 2000年7月7日
Wikipedia : 横浜オデヲン座
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1986年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「横浜オデオン座」。1986年の映画館名簿では経営会社が東宝関東興行、経営者が小田龍夫、支配人が緒橋澄夫、鉄筋造9階、150席、洋画を上映。2002年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ドン・キホーテ伊勢佐木町店」が入る「ニューオデオンビル」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1985年7月13日、横浜市中央区伊勢佐木3-98 ファッションプラザに「横浜オデオン座」が開館した。経営は東宝関東興行。*24
横浜市初の常設活動写真館は、1908年12月30日に現在の伊勢佐木町4丁目付近に開館した「Mパテー商会活動電気館」である。1909年には「敷島館」に改称した。1911年には現在の伊勢佐木町1丁目付近に「横浜館」が開館し、フランス映画『ジゴマ』が上映された。1911年12月25日、ドイツ人貿易商のリヒアルド・ウエルデルマンによって、日本初の外国映画上映専門館である「オデヲン座」が開館した。木造2階建ての洋館であり、1階は椅子席、2階はじゅうたん敷席と椅子席だった。スクリーンの前にはオーケストラボックスがあった。ウエルデルマンは欧米で製作されたばかりのフィルムを輸入して上映した。オデオン座に隣接して「又楽館」(ゆうらくかん)が、現在の伊勢佐木町2丁目付近には東映会館の前身である「朝日座」があった。1914年に『オスカーの死』を上映中のオデヲン座の写真あり。1923年9月1日に起こった関東大震災ではオデヲン座も倒壊した。1931年には『モロッコ』が上映され、日本で初めて字幕入りトーキー作品を上映した映画館となった。1936年に鉄筋コンクリート造4階建てで新築されたオデヲン座の写真あり。戦後には進駐軍に接収されて「オクタゴン劇場」となったため、曙町に2階建ての新館を建設した。その後オクタゴン劇場の接収が解除されたため、元の建物を「横浜松竹劇場」として活動を再開した。1973年2月22日には閉館し、跡地に商業ビルを建設するために取り壊された。跡地には9階にオデヲン座が入る商業ビルが建設され、1985年7月13日にこのビルで営業を再開した。郷土映画史研究家の丸岡澄夫は、『オデヲン座物語』(六崎彰、1975年)や『かながわシネマ風土記』(かなしん出版、1993年)などの著書を持つ。*25
開館年 : 1985年7月13日
閉館年 : 2000年7月7日
Wikipedia : 横浜オデヲン座
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1986年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「横浜オデオン座」。1986年の映画館名簿では経営会社が東宝関東興行、経営者が小田龍夫、支配人が緒橋澄夫、鉄筋造9階、150席、洋画を上映。2002年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ドン・キホーテ伊勢佐木町店」が入る「ニューオデオンビル」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1985年7月13日、横浜市中央区伊勢佐木3-98 ファッションプラザに「横浜オデオン座」が開館した。経営は東宝関東興行。*24
横浜市初の常設活動写真館は、1908年12月30日に現在の伊勢佐木町4丁目付近に開館した「Mパテー商会活動電気館」である。1909年には「敷島館」に改称した。1911年には現在の伊勢佐木町1丁目付近に「横浜館」が開館し、フランス映画『ジゴマ』が上映された。1911年12月25日、ドイツ人貿易商のリヒアルド・ウエルデルマンによって、日本初の外国映画上映専門館である「オデヲン座」が開館した。木造2階建ての洋館であり、1階は椅子席、2階はじゅうたん敷席と椅子席だった。スクリーンの前にはオーケストラボックスがあった。ウエルデルマンは欧米で製作されたばかりのフィルムを輸入して上映した。オデオン座に隣接して「又楽館」(ゆうらくかん)が、現在の伊勢佐木町2丁目付近には東映会館の前身である「朝日座」があった。1914年に『オスカーの死』を上映中のオデヲン座の写真あり。1923年9月1日に起こった関東大震災ではオデヲン座も倒壊した。1931年には『モロッコ』が上映され、日本で初めて字幕入りトーキー作品を上映した映画館となった。1936年に鉄筋コンクリート造4階建てで新築されたオデヲン座の写真あり。戦後には進駐軍に接収されて「オクタゴン劇場」となったため、曙町に2階建ての新館を建設した。その後オクタゴン劇場の接収が解除されたため、元の建物を「横浜松竹劇場」として活動を再開した。1973年2月22日には閉館し、跡地に商業ビルを建設するために取り壊された。跡地には9階にオデヲン座が入る商業ビルが建設され、1985年7月13日にこのビルで営業を再開した。郷土映画史研究家の丸岡澄夫は、『オデヲン座物語』(六崎彰、1975年)や『かながわシネマ風土記』(かなしん出版、1993年)などの著書を持つ。*25
所在地 : 神奈川県横浜市中区住吉町5-59(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1956年3月27日
閉館年 : 2001年11月29日
Wikipedia : 横浜東宝会館
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「横浜東宝劇場・横浜スカラ座・東宝シネマ・東宝名画座」(4館)。1966年・1969年の映画館名簿では「横浜東宝劇場・横浜スカラ座・横浜東宝シネマ劇場・横浜東宝名画座」(4館)。1973年の映画館名簿では「横浜東宝劇場・横浜スカラ座・横浜東宝シネマ・横浜東宝名画座」(4館)。1975年の映画館名簿では「横浜東宝劇場・横浜スカラ座・横浜東宝シネマ・横浜東宝名画」(4館)。1978年の映画館名簿では「横浜東宝・横浜スカラ座・横浜東宝シネマ・横浜東宝名画」(4館)。1980年の映画館名簿では「横浜東宝劇場・横浜スカラ座・横浜東宝シネマ・横浜東宝名画座」(4館)。1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「横浜東宝劇場・横浜東宝エルム・横浜東宝シネマ1・2・横浜スカラ座」(5館)。2005年の映画館名簿には掲載されていない。建物名は横浜東宝会館。跡地は「リッチモンドホテル横浜馬車道」。最寄駅はJR根岸線・横浜市営地下鉄ブルーライン関内駅。
1956年3月27日、横浜市中区住吉町に「横浜東宝会館」が開館した。同日には会館内の横浜スカラ座で開場式が行われ、東宝副社長の寺本熊俊、神奈川県知事の内山岩太郎、横浜市長の平沼亮三らが出席した。13時から4館そろって本興行に入った。鉄筋造、地上5階・地下2階建て。延床面積1999坪。4劇場が入っており、1階から3階が「横浜東宝劇場」、4階と5階が「横浜スカラ座」、地下1階と2階は「東宝シネマ」と「東宝名画座」。東宝の子会社である株式会社横浜東宝会館が経営する。*26
1956年頃の横浜市中区の住吉町方面の写真あり。中央奥に「横浜東宝会館」の看板が見える。1956年、住吉町5丁目に横浜東宝会館が開館した。地上4階・地下1階建てのビルである。*27
1958年10月22日、横浜市の「横浜スカラ座」(TY横浜東宝会館)はロードショー劇場として再発足する。オープニングは『野ばら』。ロードショー劇場の「横浜宝塚劇場」はTY封切館に転向する。*28
1959年の住吉町5丁目角にあった馬車道通りの映画館前の写真あり。「東宝劇場」「東宝名画座」「東宝シネマ」「スカラ座」が入っていた。東宝劇場では『私は貝になりたい』と『おしゃべり奥様』を上映している。東宝名画座では『インカ王国の秘宝』を上映している。東宝シネマでは『いたづら』を上映している。スカラ座では『底抜け慰問屋行ったり来たり』を上映している。*29
1964年頃の横浜市中区の馬車道の写真あり。現在の木下商事ビルから馬車道交差点越しに馬車道を眺めている。右奥には1956年開館の「横浜東宝会館」がある。*30
2001年11月30日の『神奈川新聞』には「横浜東宝会館」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*31
2001年11月29日、横浜市中区住吉町5丁目の映画館「横浜東宝会館」が閉館した。1956年3月に開館し、美空ひばりら主演の『ひばり・チエミ・いづみのじゃんけん娘』やソフィア・ローレン主演の『河の女』がオープニング作品だった。ひとつの建物に複数館が入っているのは画期的であり、当時はまだスタジアム形式の座席は珍しかった。*32
開館年 : 1956年3月27日
閉館年 : 2001年11月29日
Wikipedia : 横浜東宝会館
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「横浜東宝劇場・横浜スカラ座・東宝シネマ・東宝名画座」(4館)。1966年・1969年の映画館名簿では「横浜東宝劇場・横浜スカラ座・横浜東宝シネマ劇場・横浜東宝名画座」(4館)。1973年の映画館名簿では「横浜東宝劇場・横浜スカラ座・横浜東宝シネマ・横浜東宝名画座」(4館)。1975年の映画館名簿では「横浜東宝劇場・横浜スカラ座・横浜東宝シネマ・横浜東宝名画」(4館)。1978年の映画館名簿では「横浜東宝・横浜スカラ座・横浜東宝シネマ・横浜東宝名画」(4館)。1980年の映画館名簿では「横浜東宝劇場・横浜スカラ座・横浜東宝シネマ・横浜東宝名画座」(4館)。1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「横浜東宝劇場・横浜東宝エルム・横浜東宝シネマ1・2・横浜スカラ座」(5館)。2005年の映画館名簿には掲載されていない。建物名は横浜東宝会館。跡地は「リッチモンドホテル横浜馬車道」。最寄駅はJR根岸線・横浜市営地下鉄ブルーライン関内駅。
1956年3月27日、横浜市中区住吉町に「横浜東宝会館」が開館した。同日には会館内の横浜スカラ座で開場式が行われ、東宝副社長の寺本熊俊、神奈川県知事の内山岩太郎、横浜市長の平沼亮三らが出席した。13時から4館そろって本興行に入った。鉄筋造、地上5階・地下2階建て。延床面積1999坪。4劇場が入っており、1階から3階が「横浜東宝劇場」、4階と5階が「横浜スカラ座」、地下1階と2階は「東宝シネマ」と「東宝名画座」。東宝の子会社である株式会社横浜東宝会館が経営する。*26
1956年頃の横浜市中区の住吉町方面の写真あり。中央奥に「横浜東宝会館」の看板が見える。1956年、住吉町5丁目に横浜東宝会館が開館した。地上4階・地下1階建てのビルである。*27
1958年10月22日、横浜市の「横浜スカラ座」(TY横浜東宝会館)はロードショー劇場として再発足する。オープニングは『野ばら』。ロードショー劇場の「横浜宝塚劇場」はTY封切館に転向する。*28
1959年の住吉町5丁目角にあった馬車道通りの映画館前の写真あり。「東宝劇場」「東宝名画座」「東宝シネマ」「スカラ座」が入っていた。東宝劇場では『私は貝になりたい』と『おしゃべり奥様』を上映している。東宝名画座では『インカ王国の秘宝』を上映している。東宝シネマでは『いたづら』を上映している。スカラ座では『底抜け慰問屋行ったり来たり』を上映している。*29
1964年頃の横浜市中区の馬車道の写真あり。現在の木下商事ビルから馬車道交差点越しに馬車道を眺めている。右奥には1956年開館の「横浜東宝会館」がある。*30
2001年11月30日の『神奈川新聞』には「横浜東宝会館」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*31
2001年11月29日、横浜市中区住吉町5丁目の映画館「横浜東宝会館」が閉館した。1956年3月に開館し、美空ひばりら主演の『ひばり・チエミ・いづみのじゃんけん娘』やソフィア・ローレン主演の『河の女』がオープニング作品だった。ひとつの建物に複数館が入っているのは画期的であり、当時はまだスタジアム形式の座席は珍しかった。*32
所在地 : 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町3-96(1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1970年
閉館年 : 2002年1月31日
1969年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「横浜日活シネマ」。1980年・1985年の映画館名簿では「横浜にっかつ劇場」。1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「横浜オスカー1・2」(2館)。2005年の映画館名簿には掲載されていない。横浜日活会館4階・6階。横浜日活会館は現存。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1986年10月10日、横浜にっかつ開館6階の旧横浜にっかつ跡地に「横浜オスカー」が開館し、「横浜にっかつ」は同ビル4階に移転開館した。*33
1986年10月10日、横浜市中区伊勢佐木町3-96 横浜にっかつ会館4階に「横浜にっかつ」が開館した。121席。経営はにっかつ。*34
2001年12月17日の『神奈川新聞』には「横浜オスカー」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*35
開館年 : 1970年
閉館年 : 2002年1月31日
1969年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「横浜日活シネマ」。1980年・1985年の映画館名簿では「横浜にっかつ劇場」。1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「横浜オスカー1・2」(2館)。2005年の映画館名簿には掲載されていない。横浜日活会館4階・6階。横浜日活会館は現存。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1986年10月10日、横浜にっかつ開館6階の旧横浜にっかつ跡地に「横浜オスカー」が開館し、「横浜にっかつ」は同ビル4階に移転開館した。*33
1986年10月10日、横浜市中区伊勢佐木町3-96 横浜にっかつ会館4階に「横浜にっかつ」が開館した。121席。経営はにっかつ。*34
2001年12月17日の『神奈川新聞』には「横浜オスカー」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*35
所在地 : 神奈川県横浜市中区宮川町2-36(1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1952年10月16日
閉館年 : 2002年12月
『全国映画館総覧 1955』によると1952年10月開館。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「かもめ座」。1956年の住宅地図では「かもめ座」。1966年の映画館名簿では「横浜かもめ座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「かもめ座」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。2008年解体。跡地は有料駐車場「マストパーキング日の出町」。最寄駅は京急本線日ノ出町駅。
1952年10月16日、横浜市中区宮川町2-36に「かもめ座」が開館した。オープニングは『地獄の英雄』。横浜市唯一の各社名画選択二番館。経営は平古寿次社長の株式会社かもめ座。支配人は平古英一。*36
1952年には横浜市中区の野毛の一角に映画館「かもめ座」が開館した。京急日ノ出町駅を出て狭い路地を大岡川に向かって2ブロック歩いた裏路地の先にあり、伊勢佐木町や野毛町に隣接していた。戦後に伊勢佐木町がアメリカ軍に接収されると、伊勢佐木町から流れてきた飲食店などで一帯がにぎわった。開館当初から洋画二本立て・三本立ての名画座であり、安価で何本も見られるのが人気だった。周辺には労働者向けの宿が点在しており、ピーク時の昭和40年代には西部劇などで観客席がわいた。観客数の減少に加えて建物の老朽化もあり、2002年末に閉館した。閉館から3年後の2005年12月26日、ファンらによってお別れイベントが開催される。*37
2008年3月18日の『神奈川新聞』には「かもめ座」の解体が進んでいるという記事が掲載されている。現物は未確認。*38
開館年 : 1952年10月16日
閉館年 : 2002年12月
『全国映画館総覧 1955』によると1952年10月開館。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「かもめ座」。1956年の住宅地図では「かもめ座」。1966年の映画館名簿では「横浜かもめ座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「かもめ座」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。2008年解体。跡地は有料駐車場「マストパーキング日の出町」。最寄駅は京急本線日ノ出町駅。
1952年10月16日、横浜市中区宮川町2-36に「かもめ座」が開館した。オープニングは『地獄の英雄』。横浜市唯一の各社名画選択二番館。経営は平古寿次社長の株式会社かもめ座。支配人は平古英一。*36
1952年には横浜市中区の野毛の一角に映画館「かもめ座」が開館した。京急日ノ出町駅を出て狭い路地を大岡川に向かって2ブロック歩いた裏路地の先にあり、伊勢佐木町や野毛町に隣接していた。戦後に伊勢佐木町がアメリカ軍に接収されると、伊勢佐木町から流れてきた飲食店などで一帯がにぎわった。開館当初から洋画二本立て・三本立ての名画座であり、安価で何本も見られるのが人気だった。周辺には労働者向けの宿が点在しており、ピーク時の昭和40年代には西部劇などで観客席がわいた。観客数の減少に加えて建物の老朽化もあり、2002年末に閉館した。閉館から3年後の2005年12月26日、ファンらによってお別れイベントが開催される。*37
2008年3月18日の『神奈川新聞』には「かもめ座」の解体が進んでいるという記事が掲載されている。現物は未確認。*38
所在地 : 神奈川県横浜市中区羽衣町2-4-5(1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年・2004年・2005年)
開館年 : 1975年
閉館年 : 2004年1月20日
港町キネマ通り : 関内アカデミー
1975年の映画館名簿には掲載されていない。1978年・1980年の映画館名簿では「関内アカデミー」。1985年の映画館名簿では「関内アカデミー劇場」。1990年・1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「関内アカデミー劇場・関内アカデミー2」(2館)。2004年・2005年の映画館名簿では「関内MGA MOVIE1・2」(2館)。2006年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「福寿ビル」。最寄駅はJR根岸線・横浜市営地下鉄ブルーライン関内駅。
2006年3月3日の『神奈川新聞』には閉館した「関内MGA」跡地にダイニングバーが開店するという記事が掲載されている。現物は未確認。*39
開館年 : 1975年
閉館年 : 2004年1月20日
港町キネマ通り : 関内アカデミー
1975年の映画館名簿には掲載されていない。1978年・1980年の映画館名簿では「関内アカデミー」。1985年の映画館名簿では「関内アカデミー劇場」。1990年・1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「関内アカデミー劇場・関内アカデミー2」(2館)。2004年・2005年の映画館名簿では「関内MGA MOVIE1・2」(2館)。2006年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「福寿ビル」。最寄駅はJR根岸線・横浜市営地下鉄ブルーライン関内駅。
2006年3月3日の『神奈川新聞』には閉館した「関内MGA」跡地にダイニングバーが開店するという記事が掲載されている。現物は未確認。*39
所在地 : 神奈川県横浜市中区若葉町3-50(1955年・1960年・1963年)、神奈川県横浜市中区若葉町3-51(1966年)、神奈川県横浜市中区若葉町3-50(1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1953年12月29日
閉館年 : 2005年2月18日
Wikipedia : 横浜日劇
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「横浜日劇」。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ライオンズ横濱伊勢佐木」。最寄駅は京急本線黄金町駅。
2005年1月16日の『神奈川新聞』には「横浜日劇」が2月をもって閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*40
2005年2月18日をもって、横浜市の映画館「横浜日劇」が閉館する。1957年に開館すると、封切りを終えた作品を二本立て・三本立てで上映してきた。探偵ドラマ『私立探偵 濱マイク』の撮影ロケ地にもなった。2004年には長年にわたって経営してきた中央興業からシティズン・シネマに経営権が譲渡されたが、収入が増えなかったことから閉館が決定した。横浜日劇と向かい合っている「シネマ・ジャック&ベティ」も同時にシティズン・シネマに譲渡されたが、横浜日劇と同時に閉館する。2004年10月には横浜駅西口で中央興業が運営していた「ヨコハマ・シネマ・ソサエティ」が、台風22号で浸水して機材が被害を受けて閉館している。*41
2007年3月17日と3月18日、横浜市中区若葉町3丁目の元映画館「横浜日劇」で最後の上映会が開催される。1950年代に開館し、洋画の二番館として2本立ての上映を行った。船員や船の荷運びを行う沖仲仕が多く訪れた。1990年代には映画『私立探偵濱マイク』のロケ地となり、映画館そのものが名所となった。2005年2月に閉館したが、建物が取り壊されることとなったことから上映会が企画された。ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』が上映される。*42
開館年 : 1953年12月29日
閉館年 : 2005年2月18日
Wikipedia : 横浜日劇
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「横浜日劇」。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ライオンズ横濱伊勢佐木」。最寄駅は京急本線黄金町駅。
2005年1月16日の『神奈川新聞』には「横浜日劇」が2月をもって閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*40
2005年2月18日をもって、横浜市の映画館「横浜日劇」が閉館する。1957年に開館すると、封切りを終えた作品を二本立て・三本立てで上映してきた。探偵ドラマ『私立探偵 濱マイク』の撮影ロケ地にもなった。2004年には長年にわたって経営してきた中央興業からシティズン・シネマに経営権が譲渡されたが、収入が増えなかったことから閉館が決定した。横浜日劇と向かい合っている「シネマ・ジャック&ベティ」も同時にシティズン・シネマに譲渡されたが、横浜日劇と同時に閉館する。2004年10月には横浜駅西口で中央興業が運営していた「ヨコハマ・シネマ・ソサエティ」が、台風22号で浸水して機材が被害を受けて閉館している。*41
2007年3月17日と3月18日、横浜市中区若葉町3丁目の元映画館「横浜日劇」で最後の上映会が開催される。1950年代に開館し、洋画の二番館として2本立ての上映を行った。船員や船の荷運びを行う沖仲仕が多く訪れた。1990年代には映画『私立探偵濱マイク』のロケ地となり、映画館そのものが名所となった。2005年2月に閉館したが、建物が取り壊されることとなったことから上映会が企画された。ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』が上映される。*42
所在地 : 神奈川県横浜市中区長者町131(1947年)、神奈川県横浜市中区伊勢佐木町(1950年)、神奈川県横浜市中区伊勢佐木町4-107(1953年)、神奈川県横浜市中区伊勢佐木町4-109(1955年)、神奈川県横浜市中区伊勢佐木町3-107(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1946年11月、1956年12月
閉館年 : 2006年8月4日
Wikipedia : 伊勢佐木町東映
1947年の映画館名簿では「横浜グランド劇場」。1950年の映画館名簿では「横浜グランド大映」。1953年・1955年の映画館名簿では「横浜グランド劇場」。1956年の住宅地図では「横浜グランド劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「横浜東映劇場」。1962年の住宅地図では「横浜東映映画劇場」。1975年の映画館名簿では「横浜東映」。1978年・1980年の映画館名簿では「横浜東映劇場」。1985年の映画館名簿では「伊勢佐木町東映」。1990年の映画館名簿では「伊勢佐木町東映劇場」。1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「伊勢佐木町東映劇場・伊勢佐木町東映2」(2館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「スーパーハリウッド伊勢佐木」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1957年の横浜市中区にあった「横浜東映劇場」の写真あり。中村錦之助主演作『ゆうれい船』の上映中。右隣にはヨコチクレコード店があった。戦前は「朝日座」として、戦後の1946年11月から「横浜グランド劇場」として営業し、1956年12月に横浜東映劇場となった。*43
東映の直営館を見ると、1972年12月に「金沢東映パラス」と「横浜東映」と「盛岡東映パラス」が開館し、1973年3月に「小倉東映パラス」と「黒崎東映パラス」が開館し、5月に「新宿名画座」が開館し、6月に「福岡グランド」と「浅草名画座」が開館し、7月に「富山東映パラス」が開館した。1972年7月には「鹿児島東映」が閉館し、1973年1月には「岩見沢東映」が閉館し、2月には「八幡東映」が閉館し、3月には「関西東映・関西小劇場」が閉館した。*44
1994年12月23日、伊勢佐木町東映会館2階に37席のビデオシアター「伊勢佐木町東映2」が開館した。東映の直営館としては初のビデオシアターである。*45
2006年7月21日の『神奈川新聞』には「伊勢佐木町東映」が8月4日をもって閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*46
2006年8月5日の『神奈川新聞』には「東映」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*47
2007年9月22日の『神奈川新聞』には「横浜東映会館」が売却されるという記事が掲載されている。現物は未確認。*48
開館年 : 1946年11月、1956年12月
閉館年 : 2006年8月4日
Wikipedia : 伊勢佐木町東映
1947年の映画館名簿では「横浜グランド劇場」。1950年の映画館名簿では「横浜グランド大映」。1953年・1955年の映画館名簿では「横浜グランド劇場」。1956年の住宅地図では「横浜グランド劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「横浜東映劇場」。1962年の住宅地図では「横浜東映映画劇場」。1975年の映画館名簿では「横浜東映」。1978年・1980年の映画館名簿では「横浜東映劇場」。1985年の映画館名簿では「伊勢佐木町東映」。1990年の映画館名簿では「伊勢佐木町東映劇場」。1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「伊勢佐木町東映劇場・伊勢佐木町東映2」(2館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「スーパーハリウッド伊勢佐木」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1957年の横浜市中区にあった「横浜東映劇場」の写真あり。中村錦之助主演作『ゆうれい船』の上映中。右隣にはヨコチクレコード店があった。戦前は「朝日座」として、戦後の1946年11月から「横浜グランド劇場」として営業し、1956年12月に横浜東映劇場となった。*43
東映の直営館を見ると、1972年12月に「金沢東映パラス」と「横浜東映」と「盛岡東映パラス」が開館し、1973年3月に「小倉東映パラス」と「黒崎東映パラス」が開館し、5月に「新宿名画座」が開館し、6月に「福岡グランド」と「浅草名画座」が開館し、7月に「富山東映パラス」が開館した。1972年7月には「鹿児島東映」が閉館し、1973年1月には「岩見沢東映」が閉館し、2月には「八幡東映」が閉館し、3月には「関西東映・関西小劇場」が閉館した。*44
1994年12月23日、伊勢佐木町東映会館2階に37席のビデオシアター「伊勢佐木町東映2」が開館した。東映の直営館としては初のビデオシアターである。*45
2006年7月21日の『神奈川新聞』には「伊勢佐木町東映」が8月4日をもって閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*46
2006年8月5日の『神奈川新聞』には「東映」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*47
2007年9月22日の『神奈川新聞』には「横浜東映会館」が売却されるという記事が掲載されている。現物は未確認。*48
所在地 : 神奈川県横浜市中区本牧原14番1号 マイカル本牧6番街(2000年・2005年)、神奈川県横浜市中区本牧原14番1号(2010年)
開館年 : 1996年6月29日、2004年4月30日(改称)
閉館年 : 2011年1月16日
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年の映画館名簿では「マイカル松竹シネマズ本牧第1館-第8館」(8館)。2005年・2010年の映画館名簿では「MOVIX本牧1-8」(8館)。2015年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅はJR根岸線山手駅。
1996年6月29日、横浜市中区本牧原14-1 マイカル本牧6番街に「マイカル松竹シネマズ本牧」が開館した。8スクリーン計1239席。経営は松竹とニチイの共同出資によるマイカル松竹。*49
1996年6月28日、横浜市中区本牧14-1 マイカル本牧6番街の2階と3階に「マイカル松竹シネマズ本牧」が開館した。8スクリーンを有する。経営は松竹とニチイの共同出資によるマイカル松竹。松竹によるマルチプレックス・シアター(SMT)の第1号店である。*50
1996年6月29日、マイカル松竹によって「マイカル松竹シネマズ本牧」が開館した。*51
2004年4月30日、「マイカル松竹シネマズ本牧」が「MOVIX本牧」に改称した。*52
2017年12月9日と12月10日、横浜市中区の「マイカル松竹シネマズ本牧」で上映会が開催される。1996年に開館し、2011年に閉館した。スクリーンや座席が取り払われているが、ホールは残っていることから、毎年本牧アートプロジェクトが開催されている。*53
開館年 : 1996年6月29日、2004年4月30日(改称)
閉館年 : 2011年1月16日
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年の映画館名簿では「マイカル松竹シネマズ本牧第1館-第8館」(8館)。2005年・2010年の映画館名簿では「MOVIX本牧1-8」(8館)。2015年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅はJR根岸線山手駅。
1996年6月29日、横浜市中区本牧原14-1 マイカル本牧6番街に「マイカル松竹シネマズ本牧」が開館した。8スクリーン計1239席。経営は松竹とニチイの共同出資によるマイカル松竹。*49
1996年6月28日、横浜市中区本牧14-1 マイカル本牧6番街の2階と3階に「マイカル松竹シネマズ本牧」が開館した。8スクリーンを有する。経営は松竹とニチイの共同出資によるマイカル松竹。松竹によるマルチプレックス・シアター(SMT)の第1号店である。*50
1996年6月29日、マイカル松竹によって「マイカル松竹シネマズ本牧」が開館した。*51
2004年4月30日、「マイカル松竹シネマズ本牧」が「MOVIX本牧」に改称した。*52
2017年12月9日と12月10日、横浜市中区の「マイカル松竹シネマズ本牧」で上映会が開催される。1996年に開館し、2011年に閉館した。スクリーンや座席が取り払われているが、ホールは残っていることから、毎年本牧アートプロジェクトが開催されている。*53
所在地 : 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町2-38(1958年・1960年・1963年・1966年)、神奈川県横浜市中区伊勢佐木町2-8-1(1969年)、神奈川県横浜市中区伊勢佐木町2-8(1973年・1975年)、神奈川県横浜市中区伊勢佐木町2-8-1(1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年)
開館年 : 1955年4月20日
閉館年 : 2018年6月1日
Wikipedia : 横浜ニューテアトル
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の住宅地図では「若林洋食器店 地下テアトル横浜」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「テアトル横浜」。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「ニューテアトル」。2000年・2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「横浜ニューテアトル」。2020年の映画館名簿には掲載されていない。若林ビル地下1階。若林ビルは現存。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
2018年6月1日をもって、横浜市中区の映画館「横浜ニューテアトル」が63年の歴史に幕を閉じて閉館する。支配人である長谷川善行(63)の体調不良などが理由。1955年に東京テアトルの直営館「テアトル横浜」として開館し、1972年に長谷川重行が買い取って横浜ニューテアトルとなった。1996年には長谷川善行が後を継いだ。2006年には全国で初めて『ヨコハマメリー』を上映し、連日100人ほどの行列ができた。ドキュメンタリー作品としては異例の6週間のロングラン上映となった。1980年代から90年代には年間約5万人の観客数があったが、ここ5年は年間1万人〜2万人にとどまっていた。2011年には長谷川善行が5か月間入院し、両耳が聞こえにくくなるなどの後遺症が残った。5月27日にはお別れイベントが開催される。片渕須直監督の『この世界の片隅に』と『マイマイ新子と千年の魔法』が上映され、横浜ニューテアトルをよく訪れた片渕監督が同館の思い出を語る。*54
2018年5月26日の『神奈川新聞』には「横浜ニューテアトル」が6月1日をもって閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*55
2018年6月1日をもって、横浜市中区伊勢佐木町の「横浜ニューテアトル」が閉館する。1972年にテアトル横浜がリニューアルし、1996年には長谷川重行から息子の長谷川善行が経営を引き継いだ。長谷川は2011年に脳梗塞で半年間療養しており、体調悪化が閉館の理由。5月27日にはお別れイベントが開催され、片渕須直監督の『この世界の片隅に』と『マイマイ新子と千年の魔法』が上映された。最終上映作品は『ヨコハマメリー』。2006年には全国で最も早く上映し、連日約100人の行列ができた。*56
開館年 : 1955年4月20日
閉館年 : 2018年6月1日
Wikipedia : 横浜ニューテアトル
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の住宅地図では「若林洋食器店 地下テアトル横浜」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「テアトル横浜」。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「ニューテアトル」。2000年・2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「横浜ニューテアトル」。2020年の映画館名簿には掲載されていない。若林ビル地下1階。若林ビルは現存。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
2018年6月1日をもって、横浜市中区の映画館「横浜ニューテアトル」が63年の歴史に幕を閉じて閉館する。支配人である長谷川善行(63)の体調不良などが理由。1955年に東京テアトルの直営館「テアトル横浜」として開館し、1972年に長谷川重行が買い取って横浜ニューテアトルとなった。1996年には長谷川善行が後を継いだ。2006年には全国で初めて『ヨコハマメリー』を上映し、連日100人ほどの行列ができた。ドキュメンタリー作品としては異例の6週間のロングラン上映となった。1980年代から90年代には年間約5万人の観客数があったが、ここ5年は年間1万人〜2万人にとどまっていた。2011年には長谷川善行が5か月間入院し、両耳が聞こえにくくなるなどの後遺症が残った。5月27日にはお別れイベントが開催される。片渕須直監督の『この世界の片隅に』と『マイマイ新子と千年の魔法』が上映され、横浜ニューテアトルをよく訪れた片渕監督が同館の思い出を語る。*54
2018年5月26日の『神奈川新聞』には「横浜ニューテアトル」が6月1日をもって閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*55
2018年6月1日をもって、横浜市中区伊勢佐木町の「横浜ニューテアトル」が閉館する。1972年にテアトル横浜がリニューアルし、1996年には長谷川重行から息子の長谷川善行が経営を引き継いだ。長谷川は2011年に脳梗塞で半年間療養しており、体調悪化が閉館の理由。5月27日にはお別れイベントが開催され、片渕須直監督の『この世界の片隅に』と『マイマイ新子と千年の魔法』が上映された。最終上映作品は『ヨコハマメリー』。2006年には全国で最も早く上映し、連日約100人の行列ができた。*56
所在地 : 神奈川県横浜市中区宮川町2-59(1953年・1955年)、神奈川県横浜市中区宮川町3-59(1960年)、神奈川県横浜市中区宮川町2-59(1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1947年1月、1989年4月29日(建て替え)
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 横浜光音座
『全国映画館総覧 1955』によると1947年1月開館。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「光音座」。1956年の住宅地図では「光音座」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「横浜光音座」。1980年・1985年の映画館名簿では「光音座」。1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「横浜光音座1・2」(2館)。成人映画館。最寄駅は京急本線日ノ出町駅。
1989年4月29日、横浜市中区宮川町2-59に84席の「光音座1」と120席の「光音座2」が開館した。旧光音座の跡地。経営は大蔵映画。*57
横浜市の映画館「光音座」の写真あり。「競馬全レース放映中」の看板が見える。横浜市では珍しい成人映画の専門館である。*58
日ノ出町駅のほうに進むと成人映画館「光音座」がある。1950年代後半に大蔵映画が開館させた映画館である。2スクリーンに分かれており、1はゲイ映画専門館、2はピンク映画専門館である。周辺は戦後間もない時期からゲイバーの密集地であり、現在も野毛にはいくつかのゲイバーがある。光音座の向かいにはストリップ劇場の「横浜ロック座」がある。浅草六期座の系列店であり、2000年に「浜劇」として開館した。1970年代には末吉町3丁目にストリップ劇場「黄金劇場」が開館したが、黄金劇場は2013年に廃業したため、横浜市のストリップ劇場は横浜ロック座のみである。*59
「横浜光音座」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*60
倖田李梨と藤里一郎による写真集『タイガーリリー』には、「石巻パール劇場」(宮城県石巻市)、「宇都宮オークラ」(栃木県宇都宮市)、「新橋ロマン」(東京都港区)、「旧上野オークラ」(東京都台東区)、「横浜光音座」(神奈川県横浜市)「金沢駅前シネマ」(石川県金沢市)、「的場有楽」(広島県広島市)、「前田有楽」(福岡県北九州市)、「首里劇場」(沖縄県那覇市)、が掲載されている。現物は未確認。図書館には基本的に所蔵されていない。*61
開館年 : 1947年1月、1989年4月29日(建て替え)
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 横浜光音座
『全国映画館総覧 1955』によると1947年1月開館。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「光音座」。1956年の住宅地図では「光音座」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「横浜光音座」。1980年・1985年の映画館名簿では「光音座」。1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「横浜光音座1・2」(2館)。成人映画館。最寄駅は京急本線日ノ出町駅。
1989年4月29日、横浜市中区宮川町2-59に84席の「光音座1」と120席の「光音座2」が開館した。旧光音座の跡地。経営は大蔵映画。*57
横浜市の映画館「光音座」の写真あり。「競馬全レース放映中」の看板が見える。横浜市では珍しい成人映画の専門館である。*58
日ノ出町駅のほうに進むと成人映画館「光音座」がある。1950年代後半に大蔵映画が開館させた映画館である。2スクリーンに分かれており、1はゲイ映画専門館、2はピンク映画専門館である。周辺は戦後間もない時期からゲイバーの密集地であり、現在も野毛にはいくつかのゲイバーがある。光音座の向かいにはストリップ劇場の「横浜ロック座」がある。浅草六期座の系列店であり、2000年に「浜劇」として開館した。1970年代には末吉町3丁目にストリップ劇場「黄金劇場」が開館したが、黄金劇場は2013年に廃業したため、横浜市のストリップ劇場は横浜ロック座のみである。*59
「横浜光音座」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*60
倖田李梨と藤里一郎による写真集『タイガーリリー』には、「石巻パール劇場」(宮城県石巻市)、「宇都宮オークラ」(栃木県宇都宮市)、「新橋ロマン」(東京都港区)、「旧上野オークラ」(東京都台東区)、「横浜光音座」(神奈川県横浜市)「金沢駅前シネマ」(石川県金沢市)、「的場有楽」(広島県広島市)、「前田有楽」(福岡県北九州市)、「首里劇場」(沖縄県那覇市)、が掲載されている。現物は未確認。図書館には基本的に所蔵されていない。*61
所在地 : 神奈川県横浜市中区長者町6-95(1960年)、神奈川県横浜市中区長者町6-95 上郎ビル地下(1963年)、神奈川県横浜市中区長者町6-95(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1955年7月8日(横浜花月劇場)、1964年(イセザキシネマ座)、1989年(横浜シネマリン)
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 横浜シネマリン
1960年・1963年の映画館名簿では「横浜花月劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「イセザキシネマ座」。1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「イセザキシネマ」。1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「横浜シネマリン」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1955年7月8日、横浜市中区長者町6-95 上郎ビル地下に「横浜花月劇場」が開館した。オープニングは『月よりの使者』。吉本の直営。定員200人。*62
2014年12月13日、横浜市の伊勢佐木町にある「横浜シネマリン」が再オープンする。運営会社は閉館を決めていたが、自主上映団体である横浜キネマ倶楽部事務局長の八幡温子(58)が運営会社を買収して映画館を存続させた。9月には改装工事を開始し、165席を102席に縮小。上映機材をデジタル化するとともに、35ミリ映写機を2台設置した。八幡は5000万円以上を投じており、本業の不動産賃貸業から資金を回している。もともとはビルの竣工と同時に吉本興業が「花月映画劇場」として開館させ、横浜市内の飲食店経営者が引き継いで「イセザキシネマ座」となると、1986年に現在の経営者に代わった。*63
開館年 : 1955年7月8日(横浜花月劇場)、1964年(イセザキシネマ座)、1989年(横浜シネマリン)
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 横浜シネマリン
1960年・1963年の映画館名簿では「横浜花月劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「イセザキシネマ座」。1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「イセザキシネマ」。1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「横浜シネマリン」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅。
1955年7月8日、横浜市中区長者町6-95 上郎ビル地下に「横浜花月劇場」が開館した。オープニングは『月よりの使者』。吉本の直営。定員200人。*62
2014年12月13日、横浜市の伊勢佐木町にある「横浜シネマリン」が再オープンする。運営会社は閉館を決めていたが、自主上映団体である横浜キネマ倶楽部事務局長の八幡温子(58)が運営会社を買収して映画館を存続させた。9月には改装工事を開始し、165席を102席に縮小。上映機材をデジタル化するとともに、35ミリ映写機を2台設置した。八幡は5000万円以上を投じており、本業の不動産賃貸業から資金を回している。もともとはビルの竣工と同時に吉本興業が「花月映画劇場」として開館させ、横浜市内の飲食店経営者が引き継いで「イセザキシネマ座」となると、1986年に現在の経営者に代わった。*63
所在地 : 神奈川県横浜市中区若葉町3-51(1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1991年12月21日
閉館年 : 営業中
Wikipedia : シネマ・ジャック&ベティ
横浜東映名画座の施設を利用して開館。1992年の映画館名簿では「シネジャック・シネベティ」(2館)。1992年の映画館名簿では経営会社が中央興業、経営者が福寿昌子、支配人が福寿祁久雄、いずれも鉄筋2階、114席と138席、いずれも邦画・洋画を上映。中央興業は関内アカデミー劇場や横浜日劇や西口名画座も経営。1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「シネマ・ジャック」と「シネマ・ベティ」(2館)。ピクセル伊勢佐木町1階。前身館は横浜東映名画座。最寄駅は京急本線黄金町駅。
「シネマ・ジャック&ベティ」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*64
開館年 : 1991年12月21日
閉館年 : 営業中
Wikipedia : シネマ・ジャック&ベティ
横浜東映名画座の施設を利用して開館。1992年の映画館名簿では「シネジャック・シネベティ」(2館)。1992年の映画館名簿では経営会社が中央興業、経営者が福寿昌子、支配人が福寿祁久雄、いずれも鉄筋2階、114席と138席、いずれも邦画・洋画を上映。中央興業は関内アカデミー劇場や横浜日劇や西口名画座も経営。1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「シネマ・ジャック」と「シネマ・ベティ」(2館)。ピクセル伊勢佐木町1階。前身館は横浜東映名画座。最寄駅は京急本線黄金町駅。
「シネマ・ジャック&ベティ」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*64
所在地 : 神奈川県横浜市中区元浜町4-32(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1984年頃
閉館年 : 営業中
1984年の映画館名簿には掲載されていない。1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「県民共済シネマホール」。1985年の映画館名簿では経営会社が県民共済ビル、経営者・支配人ともに記載なし、鉄筋造2階、144席、成人映画を上映。最寄駅は横浜高速鉄道みなとみらい線馬車道駅。
開館年 : 1984年頃
閉館年 : 営業中
1984年の映画館名簿には掲載されていない。1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「県民共済シネマホール」。1985年の映画館名簿では経営会社が県民共済ビル、経営者・支配人ともに記載なし、鉄筋造2階、144席、成人映画を上映。最寄駅は横浜高速鉄道みなとみらい線馬車道駅。
所在地 : 神奈川県横浜市中区新港町11 横浜ワールドポーターズ5階(2000年・2005年)、神奈川県横浜市中区新港2-2-1 横浜ワールドポーターズ5階(2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1999年9月10日
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「ワーナー・マイカル・シネマズみなとみらい1-8」(8館)。2015年・2020年の映画館名簿では「イオンシネマみなとみらい1-8」(8館)。
1999年9月10日、横浜市中区新港町11 横浜ワールドポーダーズ5階に「ワーナー・マイカル・シネマズみなとみらい」が開館した。*65
開館年 : 1999年9月10日
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「ワーナー・マイカル・シネマズみなとみらい1-8」(8館)。2015年・2020年の映画館名簿では「イオンシネマみなとみらい1-8」(8館)。
1999年9月10日、横浜市中区新港町11 横浜ワールドポーダーズ5階に「ワーナー・マイカル・シネマズみなとみらい」が開館した。*65
所在地 : 神奈川県横浜市中区桜木町1-1-7 TOCみなとみらい6階(2015年)、神奈川県横浜市中区桜木町1-1-7 コレットマーレ6階(2020年)
開館年 : 2010年3月19日
閉館年 : 営業中
2010年の映画館名簿には掲載されていない。2015年・2020年の映画館名簿では「横浜ブルク13 シアター1-13」(13館)。最寄駅はJR根岸線桜木町駅。
開館年 : 2010年3月19日
閉館年 : 営業中
2010年の映画館名簿には掲載されていない。2015年・2020年の映画館名簿では「横浜ブルク13 シアター1-13」(13館)。最寄駅はJR根岸線桜木町駅。
所在地 : 神奈川県横浜市西区西前町4-273(1953年・1955年)、神奈川県横浜市西区西前町4-137(1958年)
開館年 : 1951年5月15日
閉館年 : 1959年4月27日
『全国映画館総覧 1955』によると1951年5月開館。1953年の映画館名簿では「藤棚中央劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「藤棚中央映画劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の住宅地図では跡地に「国際中央会館」。跡地は「横浜信用金庫藤棚支店」。最寄駅は相鉄本線西横浜駅。
開館年 : 1951年5月15日
閉館年 : 1959年4月27日
『全国映画館総覧 1955』によると1951年5月開館。1953年の映画館名簿では「藤棚中央劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「藤棚中央映画劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の住宅地図では跡地に「国際中央会館」。跡地は「横浜信用金庫藤棚支店」。最寄駅は相鉄本線西横浜駅。
所在地 : 神奈川県横浜市西区藤棚町1-2(1953年・1955年)、神奈川県横浜市西区藤棚町1-4(1958年・1960年)、神奈川県横浜市西区藤棚町1-14(1963年)
開館年 : 1946年8月
閉館年 : 1965年8月15日
『全国映画館総覧 1955』によると1946年8月開館。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「浜富士館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「横浜ハイコーポ」。最寄駅は相鉄本線西横浜駅。
開館年 : 1946年8月
閉館年 : 1965年8月15日
『全国映画館総覧 1955』によると1946年8月開館。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「浜富士館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「横浜ハイコーポ」。最寄駅は相鉄本線西横浜駅。
所在地 : 神奈川県横浜市西区石崎町1-13(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1969年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「戸部映画劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
横浜西区史編集委員会『横浜西区史』「第三章 演芸場・映画館 第一節 劇場」横浜西区史編集委員会、1995年は横浜市西区にあった映画館に言及している。現物は未確認。*66
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1969年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「戸部映画劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。
横浜西区史編集委員会『横浜西区史』「第三章 演芸場・映画館 第一節 劇場」横浜西区史編集委員会、1995年は横浜市西区にあった映画館に言及している。現物は未確認。*66
所在地 : 神奈川県横浜市西区南幸町1-5-22(19660年)、神奈川県横浜市西区南幸町5-22(1969年)
開館年 : 1963年以後1966年以前
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1960年の住宅地図では「相鉄大映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1966年の住宅地図では「相模松竹映画劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「相鉄日活劇場」。1968年の住宅地図では「相模日活映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「新相鉄ビル」建物南西部。
開館年 : 1963年以後1966年以前
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1960年の住宅地図では「相鉄大映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1966年の住宅地図では「相模松竹映画劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「相鉄日活劇場」。1968年の住宅地図では「相模日活映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「新相鉄ビル」建物南西部。
所在地 : 神奈川県横浜市西区南幸町1-8(1960年)、神奈川県横浜市西区南幸町1-7(1963年)、神奈川県横浜市西区南幸町1-7 B1(1966年・1969年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1971年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「相鉄こども劇場」。1960年の住宅地図では発見できず。1963年の映画館名簿では「相鉄文化劇場」。1964年の住宅地図では「相鉄文化会館 地下1階相鉄日活映画劇場」。1966年の映画館名簿では「相鉄松竹」。1966年・1968年・1970年の住宅地図では「相鉄文化会館 地下1階相鉄文化劇場」。1969年の映画館名簿では「相鉄文化劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「高島屋横浜店」が入る「新相鉄ビル」建物西側と道路。
1963年8月3日、横浜市のアートシアター劇場「相鉄文化」が日活封切館として再発足した。1962年4月29日にアートシアター劇場として発足していた。定員207人。経営は相鉄興業。これによって全国のアートシアター劇場は8館となった。*67
1963年8月3日、「相鉄文化」は営業不振を理由にアート・シアターチェーン(ATG)を脱退し、日活封切館として再発足した。経営は相鉄興業。定員207人。12月には「後楽園アート・シアター」も脱退しており、当初は10館だったATGは8館となった。*68
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1971年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「相鉄こども劇場」。1960年の住宅地図では発見できず。1963年の映画館名簿では「相鉄文化劇場」。1964年の住宅地図では「相鉄文化会館 地下1階相鉄日活映画劇場」。1966年の映画館名簿では「相鉄松竹」。1966年・1968年・1970年の住宅地図では「相鉄文化会館 地下1階相鉄文化劇場」。1969年の映画館名簿では「相鉄文化劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「高島屋横浜店」が入る「新相鉄ビル」建物西側と道路。
1963年8月3日、横浜市のアートシアター劇場「相鉄文化」が日活封切館として再発足した。1962年4月29日にアートシアター劇場として発足していた。定員207人。経営は相鉄興業。これによって全国のアートシアター劇場は8館となった。*67
1963年8月3日、「相鉄文化」は営業不振を理由にアート・シアターチェーン(ATG)を脱退し、日活封切館として再発足した。経営は相鉄興業。定員207人。12月には「後楽園アート・シアター」も脱退しており、当初は10館だったATGは8館となった。*68
所在地 : 神奈川県横浜市西区南幸町1-8(1960年)、神奈川県横浜市西区南幸町1-7(1963年)、神奈川県横浜市西区南幸町1-7 B1(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1957年9月21日
閉館年 : 1971年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「相模名画座」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「相鉄東映劇場」。1960年の住宅地図では「相鉄文化会館 地下1階相鉄東映」。1964年の住宅地図では「相鉄文化会館 地下1階相鉄東映劇場」。1966年・1968年・1970年の住宅地図では「相鉄文化会館 地下1階相鉄東映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「高島屋横浜店」が入る「新相鉄ビル」建物西側と道路。
1957年9月21日、横浜市の横浜駅西口に「相鉄文化会館」が開館した。鉄筋コンクリート造、総建坪3500坪。総工費8億円。相鉄不動産株式会社が建設した。1階と2階が松竹ロードショー館「相模松竹」(定員808人)と商店街、3階が文化教室と商店街、4階が結婚式場、屋上が児童遊園、地下1階と地下2階が洋画特選映画館「相模名画座」(定員500人)と演芸場「相模演芸場」(定員300人)と食堂。*69
開館年 : 1957年9月21日
閉館年 : 1971年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「相模名画座」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「相鉄東映劇場」。1960年の住宅地図では「相鉄文化会館 地下1階相鉄東映」。1964年の住宅地図では「相鉄文化会館 地下1階相鉄東映劇場」。1966年・1968年・1970年の住宅地図では「相鉄文化会館 地下1階相鉄東映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「高島屋横浜店」が入る「新相鉄ビル」建物西側と道路。
1957年9月21日、横浜市の横浜駅西口に「相鉄文化会館」が開館した。鉄筋コンクリート造、総建坪3500坪。総工費8億円。相鉄不動産株式会社が建設した。1階と2階が松竹ロードショー館「相模松竹」(定員808人)と商店街、3階が文化教室と商店街、4階が結婚式場、屋上が児童遊園、地下1階と地下2階が洋画特選映画館「相模名画座」(定員500人)と演芸場「相模演芸場」(定員300人)と食堂。*69
所在地 : 神奈川県横浜市西区南幸町1-7(1958年・1960年)、神奈川県横浜市西区南幸町1-3(1963年)、神奈川県横浜市西区南幸町1-6-7(1966年・1969年)
開館年 : 1957年9月21日
閉館年 : 1971年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の住宅地図では「相鉄映画センタービル劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「相鉄映画劇場」。1960年の住宅地図では「相鉄文化会館 1階相鉄映画劇場」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「相鉄東宝劇場」。1964年・1966年・1968年・1970年の住宅地図では「相鉄文化会館 1階相鉄東宝」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「高島屋横浜店」が入る「新相鉄ビル」建物南東部。
1958年9月19日、横浜市西区南幸町1-7の「相鉄大映」が開館した。相鉄不動産が横浜駅西口に建設中の横浜センター第3期事業計画として完成した。*70
1961年4月29日、横浜市西区南幸町1-7の「相鉄演芸場」が東宝封切館に転向した。経営は相鉄不動産。*71
1962年12月10日、横浜市の「相模松竹」が「相鉄東宝」に移転して「相鉄松竹」に改称した。経営は東日本興行。旧「相模松竹」は相鉄興行によって1500万円で改装されて「相鉄東宝」に改称した。*72
開館年 : 1957年9月21日
閉館年 : 1971年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の住宅地図では「相鉄映画センタービル劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「相鉄映画劇場」。1960年の住宅地図では「相鉄文化会館 1階相鉄映画劇場」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「相鉄東宝劇場」。1964年・1966年・1968年・1970年の住宅地図では「相鉄文化会館 1階相鉄東宝」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「高島屋横浜店」が入る「新相鉄ビル」建物南東部。
1958年9月19日、横浜市西区南幸町1-7の「相鉄大映」が開館した。相鉄不動産が横浜駅西口に建設中の横浜センター第3期事業計画として完成した。*70
1961年4月29日、横浜市西区南幸町1-7の「相鉄演芸場」が東宝封切館に転向した。経営は相鉄不動産。*71
1962年12月10日、横浜市の「相模松竹」が「相鉄東宝」に移転して「相鉄松竹」に改称した。経営は東日本興行。旧「相模松竹」は相鉄興行によって1500万円で改装されて「相鉄東宝」に改称した。*72
所在地 : 神奈川県横浜市西区南幸町1-7(1958年)、神奈川県横浜市西区南幸町1-8(1960年)、神奈川県横浜市西区南幸町1-7(1963年)、神奈川県横浜市西区南幸町1-7-1(1966年・1969年)
開館年 : 1957年9月21日
閉館年 : 1971年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「相模松竹」。1960年の住宅地図では「相鉄文化会館 1階相模松竹」。1964年・1966年・1968年・1970年の住宅地図では「相鉄文化会館 1階相鉄映画劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「相鉄映画劇場」。1966年の住宅地図では「相鉄映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「高島屋横浜店」が入る「新相鉄ビル」建物西側。
1957年9月21日、横浜市の横浜駅西口に「相鉄文化会館」が開館した。鉄筋コンクリート造、総建坪3500坪。総工費8億円。相鉄不動産株式会社が建設した。1階と2階が松竹ロードショー館「相模松竹」(定員808人)と商店街、3階が文化教室と商店街、4階が結婚式場、屋上が児童遊園、地下1階と地下2階が洋画特選映画館「相模名画座」(定員500人)と演芸場「相模演芸場」(定員300人)と食堂。*73
開館年 : 1957年9月21日
閉館年 : 1971年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「相模松竹」。1960年の住宅地図では「相鉄文化会館 1階相模松竹」。1964年・1966年・1968年・1970年の住宅地図では「相鉄文化会館 1階相鉄映画劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「相鉄映画劇場」。1966年の住宅地図では「相鉄映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「高島屋横浜店」が入る「新相鉄ビル」建物西側。
1957年9月21日、横浜市の横浜駅西口に「相鉄文化会館」が開館した。鉄筋コンクリート造、総建坪3500坪。総工費8億円。相鉄不動産株式会社が建設した。1階と2階が松竹ロードショー館「相模松竹」(定員808人)と商店街、3階が文化教室と商店街、4階が結婚式場、屋上が児童遊園、地下1階と地下2階が洋画特選映画館「相模名画座」(定員500人)と演芸場「相模演芸場」(定員300人)と食堂。*73
所在地 : 神奈川県横浜市西区南幸町1-7(1958年・1960年・1963年)、神奈川県横浜市西区南幸町1-7 B1(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1957年9月21日
閉館年 : 1971年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「相鉄地下劇場」。1960年の住宅地図では発見できず。1964年の住宅地図では「相鉄地下劇場」。1966年・1968年の住宅地図では「相鉄地下映画劇場」。1970年の住宅地図では発見できず。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「高島屋横浜店」が入る「新相鉄ビル」建物西側と道路。
開館年 : 1957年9月21日
閉館年 : 1971年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「相鉄地下劇場」。1960年の住宅地図では発見できず。1964年の住宅地図では「相鉄地下劇場」。1966年・1968年の住宅地図では「相鉄地下映画劇場」。1970年の住宅地図では発見できず。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「高島屋横浜店」が入る「新相鉄ビル」建物西側と道路。
所在地 : 神奈川県横浜市西区南幸町1-3-17(1973年・1975年・1978年)、神奈川県横浜市西区北幸町1-13-7(1980年)、神奈川県横浜市西区北幸町1-3-23(1985年・1988年)
開館年 : 1971年3月5日
閉館年 : 1988年11月7日
1970年の映画館名簿には掲載されていない。1972年の住宅地図では「相鉄ムービル 1階相鉄東宝劇場 相鉄名作劇場 相鉄東映劇場 3階相鉄映画劇場 相鉄文化劇場」。1973年の映画館名簿では「相鉄東宝劇場・相鉄映画劇場・相鉄東映劇場・相鉄文化劇場・相鉄地下劇場・相鉄名作劇場」(6館)。1975年の映画館名簿では「相鉄東宝劇場・相鉄映画劇場・相鉄東映劇場・相鉄文化劇場・相鉄名作劇場」(5館)。1978年・1980年の映画館名簿では「相鉄東宝劇場・相鉄映画劇場・相鉄国際劇場・相鉄文化劇場・相鉄中央劇場」(5館)。1985年・1988年の映画館名簿では「相鉄東宝・相鉄映画・相鉄国際・相鉄文化・相鉄中央」(5館)。1990年の映画館名簿には掲載されていない。5スクリーンの複合映画館。跡地はホテル「横浜ベイシェラトンホテル&タワーズ」。
開館年 : 1971年3月5日
閉館年 : 1988年11月7日
1970年の映画館名簿には掲載されていない。1972年の住宅地図では「相鉄ムービル 1階相鉄東宝劇場 相鉄名作劇場 相鉄東映劇場 3階相鉄映画劇場 相鉄文化劇場」。1973年の映画館名簿では「相鉄東宝劇場・相鉄映画劇場・相鉄東映劇場・相鉄文化劇場・相鉄地下劇場・相鉄名作劇場」(6館)。1975年の映画館名簿では「相鉄東宝劇場・相鉄映画劇場・相鉄東映劇場・相鉄文化劇場・相鉄名作劇場」(5館)。1978年・1980年の映画館名簿では「相鉄東宝劇場・相鉄映画劇場・相鉄国際劇場・相鉄文化劇場・相鉄中央劇場」(5館)。1985年・1988年の映画館名簿では「相鉄東宝・相鉄映画・相鉄国際・相鉄文化・相鉄中央」(5館)。1990年の映画館名簿には掲載されていない。5スクリーンの複合映画館。跡地はホテル「横浜ベイシェラトンホテル&タワーズ」。
所在地 : 神奈川県横浜市西区浅間町5-412(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年)、神奈川県横浜市西区浅間町5-389(1973年)、神奈川県横浜市西区浅間町5-389-2(1975年・1978年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1954年4月14日
閉館年 : 1990年11月30日
『全国映画館総覧 1955』によると1954年4月開館。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「ライオン座」。1960年・1963年・1974年の住宅地図では「ライオン座」。1966年・1969年の映画館名簿では「横浜ライオン座」。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「ライオン座」。1990年の映画館名簿では「洪福寺ライオン座」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「セブンイレブン横浜浅間町5丁目店」があるマンション「ナイスアーバン横浜天王町」。
1954年春のこのほど、横浜市浅間町5丁目に「ライオン座」が開館した。洋画各社の上映館。経営者は北原イト、支配人は村上一雄。木造2階建て、定員240。*74
田中小実昌『コミマサ・シネマ・ツアー』早川書房、1990年で言及されている。現物は未確認。*75
開館年 : 1954年4月14日
閉館年 : 1990年11月30日
『全国映画館総覧 1955』によると1954年4月開館。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「ライオン座」。1960年・1963年・1974年の住宅地図では「ライオン座」。1966年・1969年の映画館名簿では「横浜ライオン座」。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「ライオン座」。1990年の映画館名簿では「洪福寺ライオン座」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「セブンイレブン横浜浅間町5丁目店」があるマンション「ナイスアーバン横浜天王町」。
1954年春のこのほど、横浜市浅間町5丁目に「ライオン座」が開館した。洋画各社の上映館。経営者は北原イト、支配人は村上一雄。木造2階建て、定員240。*74
田中小実昌『コミマサ・シネマ・ツアー』早川書房、1990年で言及されている。現物は未確認。*75
所在地 : 神奈川県横浜市西区高島2-18-1 横浜そごう5階(1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1985年9月30日
閉館年 : 2002年1月7日
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「テアトルキッズ」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1985年9月30日
閉館年 : 2002年1月7日
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「テアトルキッズ」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 神奈川県横浜市西区南幸1-10-1(1962年)、神奈川県横浜市西区南幸1-10(1963年)、神奈川県横浜市西区南幸1-10-18(1966年)、神奈川県横浜市西区南幸1-10-8(1969年)、神奈川県横浜市西区南幸1-10-1(1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年)、神奈川県横浜市西区南幸1-10-18(2002年・2004年)
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 2004年11月20日
1960年の住宅地図では後の映画館の場所に「建設中(中山ビル)」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「横浜西口名画座」。1962年の映画館名簿では経営者が福寿仲次、支配人が難波辰雄、鉄筋造地下冷暖房付、178席、洋画を上映。1964年・1966年・1968年・1970年・1972年の住宅地図では「中山ビル 地階地下劇場名画座」。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「西口名画座」。2002年の映画館名簿では経営会社が中央興業、経営者が福寿昌子、支配人が杉野匡、鉄筋造地下、91席、邦画・洋画を上映。2004年の映画館名簿では「ヨコハマ・シネマ・ソサエティー」。2004年の映画館名簿では経営会社が中央興業、経営者が福寿誠、支配人が難波辰雄、鉄筋造地下、120席、邦画・洋画を上映。2005年の映画館名簿には掲載されていない。中山ビル地下1階。中山ビルは現存。
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 2004年11月20日
1960年の住宅地図では後の映画館の場所に「建設中(中山ビル)」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「横浜西口名画座」。1962年の映画館名簿では経営者が福寿仲次、支配人が難波辰雄、鉄筋造地下冷暖房付、178席、洋画を上映。1964年・1966年・1968年・1970年・1972年の住宅地図では「中山ビル 地階地下劇場名画座」。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「西口名画座」。2002年の映画館名簿では経営会社が中央興業、経営者が福寿昌子、支配人が杉野匡、鉄筋造地下、91席、邦画・洋画を上映。2004年の映画館名簿では「ヨコハマ・シネマ・ソサエティー」。2004年の映画館名簿では経営会社が中央興業、経営者が福寿誠、支配人が難波辰雄、鉄筋造地下、120席、邦画・洋画を上映。2005年の映画館名簿には掲載されていない。中山ビル地下1階。中山ビルは現存。
所在地 : 神奈川県横浜市西区南幸2-1-7(1984年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年)
開館年 : 1983年頃
閉館年 : 2010年1月
1983年の映画館名簿には掲載されていない。1984年の映画館名簿では「西口シネポート21」。1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「よこはま西口にっかつ」。2015年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1983年頃
閉館年 : 2010年1月
1983年の映画館名簿には掲載されていない。1984年の映画館名簿では「西口シネポート21」。1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「よこはま西口にっかつ」。2015年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 神奈川県横浜市西区高島1-3-2 GENTO YOKOHAMA内(2005年)、神奈川県横浜市西区みなとみらい5-1-2 GENTO YOKOHAMA内(2010年・2015年)
開館年 : 2004年11月25日
閉館年 : 2015年1月25日
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「109シネマズMM横浜1-11」(11館)。2020年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 2004年11月25日
閉館年 : 2015年1月25日
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「109シネマズMM横浜1-11」(11館)。2020年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 神奈川県横浜市西区みなとみらい5-3-1 フィルミー内2階(2010年・2015年)
開館年 : 2008年2月14日
閉館年 : 2017年12月2日
Wikipedia : ブリリア・ショートショートシアター
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年・2015年の映画館名簿では「ブリリアショートショートシアター」。2020年の映画館名簿には掲載されていない。
2017年12月2日をもって、横浜市西区みなとみらい5丁目の映画館「ブリリア ショートショートシアター」が閉館する。俳優の別所哲也によって、2008年2月に短編映画専門映画館として開館した。3000本を超える短編映画を上映し、観客数は10年間で26万人以上を記録した。建物の賃貸借契約が完了となることが閉館の理由。2018年2月からはインターネット上の仮想映画館「ブリリア ショートショートシアター オンライン」として再出発する。*76
開館年 : 2008年2月14日
閉館年 : 2017年12月2日
Wikipedia : ブリリア・ショートショートシアター
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年・2015年の映画館名簿では「ブリリアショートショートシアター」。2020年の映画館名簿には掲載されていない。
2017年12月2日をもって、横浜市西区みなとみらい5丁目の映画館「ブリリア ショートショートシアター」が閉館する。俳優の別所哲也によって、2008年2月に短編映画専門映画館として開館した。3000本を超える短編映画を上映し、観客数は10年間で26万人以上を記録した。建物の賃貸借契約が完了となることが閉館の理由。2018年2月からはインターネット上の仮想映画館「ブリリア ショートショートシアター オンライン」として再出発する。*76
所在地 : 神奈川県横浜市西区南幸2-1-22(1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年)、神奈川県横浜市西区南幸2-1-22 相鉄ムービル4階(2020年)
開館年 : 1988年11月12日
閉館年 : 営業中
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「相鉄ムービル1-5」(5館)。2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「ムービル1-5」(5館)。
1988年11月12日、横浜駅西口の南幸橋脇に映画館ビル「相鉄ムービル」が開館する。旧相鉄本社ビル跡地一帯の再開発によって、約40億円が投じられて鉄骨鉄筋コンクリート造6階建てのビルが建設された。現行の相鉄ムービル内の5館が移転するほか、演劇小劇場・相鉄本多劇場・ライブハウス・ジャズバーなども入る。映画館は2階と4階にあり、座席数は306席から598席。*77
開館年 : 1988年11月12日
閉館年 : 営業中
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「相鉄ムービル1-5」(5館)。2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「ムービル1-5」(5館)。
1988年11月12日、横浜駅西口の南幸橋脇に映画館ビル「相鉄ムービル」が開館する。旧相鉄本社ビル跡地一帯の再開発によって、約40億円が投じられて鉄骨鉄筋コンクリート造6階建てのビルが建設された。現行の相鉄ムービル内の5館が移転するほか、演劇小劇場・相鉄本多劇場・ライブハウス・ジャズバーなども入る。映画館は2階と4階にあり、座席数は306席から598席。*77
所在地 : 神奈川県横浜市西区中央2-1-8 岩崎ビル2階(2020年)
開館年 : 2015年2月7日
閉館年 : 営業中
Wikipedia : シネマノヴェチェント
2015年の映画館名簿には掲載されていない。2020年の映画館名簿では「シネマノヴェチェント」。1スクリーン28席のミニシアター。
開館年 : 2015年2月7日
閉館年 : 営業中
Wikipedia : シネマノヴェチェント
2015年の映画館名簿には掲載されていない。2020年の映画館名簿では「シネマノヴェチェント」。1スクリーン28席のミニシアター。
所在地 : 神奈川県横浜市西区みなとみらい4-7-1 みなとみらいミッドスクエア2階(2020年)
開館年 : 2019年4月12日
閉館年 : 営業中
2015年の映画館名簿には掲載されていない。2020年の映画館名簿では「kino cinema 横浜みなとみらい1・2・3」(3館)。
開館年 : 2019年4月12日
閉館年 : 営業中
2015年の映画館名簿には掲載されていない。2020年の映画館名簿では「kino cinema 横浜みなとみらい1・2・3」(3館)。
所在地 : 神奈川県横浜市南区弘明寺町259(1955年・1960年)
開館年 : 1952年11月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年11月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「スバル座」。1958年の映画館名簿では「日活スバル座」。1960年の映画館名簿では「東宝スバル座」。1960年の住宅地図では「東宝スバル座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の住宅地図では跡地に「長崎屋横浜店」。跡地はドラッグストア「クリエイトSD弘明寺観音通り店」が入る「GM2ビル」。最寄駅は京急本線弘明寺駅。
戦後、横浜市南区の観音様近くのアーケードを出た辺りには映画館「スバル座」があった。*78
開館年 : 1952年11月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年11月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「スバル座」。1958年の映画館名簿では「日活スバル座」。1960年の映画館名簿では「東宝スバル座」。1960年の住宅地図では「東宝スバル座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の住宅地図では跡地に「長崎屋横浜店」。跡地はドラッグストア「クリエイトSD弘明寺観音通り店」が入る「GM2ビル」。最寄駅は京急本線弘明寺駅。
戦後、横浜市南区の観音様近くのアーケードを出た辺りには映画館「スバル座」があった。*78
所在地 : 神奈川県横浜市南区井土ヶ谷中町129(1958年)、神奈川県横浜市南区井土ヶ谷町129(1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「金港映画劇場」。1959年の映画館名簿では「金港劇場」。1960年の映画館名簿では「中座」。1960年の住宅地図では「中座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の住宅地図では跡地に「工事中」。跡地はマンション「パークアクシス横浜井土ヶ谷」建物南側。最寄駅は京急本線井土ヶ谷駅。
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「金港映画劇場」。1959年の映画館名簿では「金港劇場」。1960年の映画館名簿では「中座」。1960年の住宅地図では「中座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の住宅地図では跡地に「工事中」。跡地はマンション「パークアクシス横浜井土ヶ谷」建物南側。最寄駅は京急本線井土ヶ谷駅。
所在地 : 神奈川県横浜市南区井土ヶ谷中町129(1955年・1958年)、神奈川県横浜市南区井土ヶ谷町129(1960年)
開館年 : 1953年11月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』では1953年11月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「横浜百万弗劇場」。1958年の映画館名簿では「百万弗映画劇場」。1959年の映画館名簿では「百万弗劇場」。1960年の映画館名簿では「南座東映」。1960年の住宅地図では「南座東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の住宅地図では跡地に「工事中」。跡地はマンション「パークアクシス横浜井土ヶ谷」建物北側。最寄駅は京急本線井土ヶ谷駅。
戦後、横浜市南区井土ヶ谷中町には映画館「百万弗劇場」(百万ドル劇場)があった。*79
開館年 : 1953年11月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』では1953年11月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「横浜百万弗劇場」。1958年の映画館名簿では「百万弗映画劇場」。1959年の映画館名簿では「百万弗劇場」。1960年の映画館名簿では「南座東映」。1960年の住宅地図では「南座東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の住宅地図では跡地に「工事中」。跡地はマンション「パークアクシス横浜井土ヶ谷」建物北側。最寄駅は京急本線井土ヶ谷駅。
戦後、横浜市南区井土ヶ谷中町には映画館「百万弗劇場」(百万ドル劇場)があった。*79
所在地 : 神奈川県横浜市南区中島町4-84(1953年・1955年・1960年・1963年)
開館年 : 1950年8月、1959年3月4日
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』では1950年8月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「東亜劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「弘明寺劇場」。1963年の映画館名簿では「ひばり座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1962年から2017年までの跡地は「ピアゴ弘明寺店」。跡地は2020年竣工のマンション「クレヴィア横濱弘明寺」。
1959年3月4日、横浜市南区中島町4-84で休館していた「横浜ひばり座」が興和商事株式会社の経営となって開館した。松竹・新東宝・日活の併映館。*80
1960年12月18日、横浜市南区弘明寺町の「横浜ひばり座」が洋画二番館となって「横浜メトロ」に改称した。社長は笠原宏。*81
戦後、横浜市南区の弘明寺には映画館「東亜劇場」が開館した。2003年現在の跡地にはスーパーのユニーが建っている。*82
開館年 : 1950年8月、1959年3月4日
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』では1950年8月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「東亜劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「弘明寺劇場」。1963年の映画館名簿では「ひばり座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1962年から2017年までの跡地は「ピアゴ弘明寺店」。跡地は2020年竣工のマンション「クレヴィア横濱弘明寺」。
1959年3月4日、横浜市南区中島町4-84で休館していた「横浜ひばり座」が興和商事株式会社の経営となって開館した。松竹・新東宝・日活の併映館。*80
1960年12月18日、横浜市南区弘明寺町の「横浜ひばり座」が洋画二番館となって「横浜メトロ」に改称した。社長は笠原宏。*81
戦後、横浜市南区の弘明寺には映画館「東亜劇場」が開館した。2003年現在の跡地にはスーパーのユニーが建っている。*82
所在地 : 神奈川県横浜市南区南吉田町2-17(1955年・1960年)、神奈川県横浜市南区南吉田2-17(1963年・1966年)
開館年 : 1953年11月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1953年11月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「金美東映劇場」。1966年の住宅地図では「金美東映」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ヴォーガコルテ横濱吉野町」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン吉野町駅。
戦前の横浜市南区南吉田町2丁目には映画館「金美館」があった。「オデオン座」の直営館であり、オデオン座で上映された作品が数か月後に上映される二番館だった。六ツ川や永田などに住む者が出てくる町といえば吉野町であり、買い物のついでに金美館で映画を見ることを楽しみにしていた。洋画と邦画の二本立てであり、鞍馬天狗シリーズやエノケンの喜劇などが上映された。戦時中には洋画の上映が禁じられ、地回りの歌舞伎を上演する芝居小屋「金美劇場」となった。戦時中の金美劇場の前には銭湯の福井湯があった。戦後には福井湯跡地に映画館「金美東映」として復活した。*83
開館年 : 1953年11月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1953年11月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「金美東映劇場」。1966年の住宅地図では「金美東映」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ヴォーガコルテ横濱吉野町」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン吉野町駅。
戦前の横浜市南区南吉田町2丁目には映画館「金美館」があった。「オデオン座」の直営館であり、オデオン座で上映された作品が数か月後に上映される二番館だった。六ツ川や永田などに住む者が出てくる町といえば吉野町であり、買い物のついでに金美館で映画を見ることを楽しみにしていた。洋画と邦画の二本立てであり、鞍馬天狗シリーズやエノケンの喜劇などが上映された。戦時中には洋画の上映が禁じられ、地回りの歌舞伎を上演する芝居小屋「金美劇場」となった。戦時中の金美劇場の前には銭湯の福井湯があった。戦後には福井湯跡地に映画館「金美東映」として復活した。*83
所在地 : 神奈川県横浜市南区万世町2-37(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「三吉東映」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「三吉映画劇場」。1960年の住宅地図では「三吉劇場」。1964年の住宅地図では「三吉東映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。後継施設は三吉演芸場。跡地は「三吉演芸場」が入るマンション「レ・シェーナ」。
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「三吉東映」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「三吉映画劇場」。1960年の住宅地図では「三吉劇場」。1964年の住宅地図では「三吉東映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。後継施設は三吉演芸場。跡地は「三吉演芸場」が入るマンション「レ・シェーナ」。
所在地 : 神奈川県横浜市南区中島町2-27(1953年・1955年・1960年・1963年)、神奈川県横浜市南区中島町(1966年)、神奈川県横浜市南区中島町2-27(1969年・1970年)
開館年 : 1946年5月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1946年5月開館。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「春風座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「横浜春風座」。1969年の住宅地図では「春風座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「Gsハイム蒔田」。
戦後、横浜市南区井土ヶ谷の鶴巻橋の近くには、映画館「ニュー浅草」が開館した。後にはストリップ劇場「春風座」となった。*84
開館年 : 1946年5月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1946年5月開館。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「春風座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「横浜春風座」。1969年の住宅地図では「春風座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「Gsハイム蒔田」。
戦後、横浜市南区井土ヶ谷の鶴巻橋の近くには、映画館「ニュー浅草」が開館した。後にはストリップ劇場「春風座」となった。*84
所在地 : 神奈川県横浜市南区弘明寺町144(1955年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1979年)
開館年 : 1953年11月17日
閉館年 : 1979年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年11月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「有楽座」。1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1979年の映画館名簿では「弘明寺有楽座」。1969年の住宅地図では「有楽座」。1979年の映画館名簿では経営会社が銀映、経営者が吉山一二、支配人が赤沢忠成、木造2階冷暖房付、280席、邦画を上映。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は衣料品店「柳屋弘明寺2号店」が入る「水谷ビル」建物北側。
1953年11月17日、横浜市南区弘明寺2に「有楽座」が開館した。オープニングは新東宝『一等女房と三等亭主』。系統は新東宝封切と大映二番館の二本立。経営は内海武雄社長の銀映株式会社。*85
戦後、横浜市南区の観音橋のたもとには芝居小屋「銀星座」が開館した。後に映画館「有楽座」となった。*86
『キネマ旬報』1976年2月下旬号、676号には、「われらの映画館 96回 弘明寺有楽座」が掲載されている。*87
開館年 : 1953年11月17日
閉館年 : 1979年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年11月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「有楽座」。1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1979年の映画館名簿では「弘明寺有楽座」。1969年の住宅地図では「有楽座」。1979年の映画館名簿では経営会社が銀映、経営者が吉山一二、支配人が赤沢忠成、木造2階冷暖房付、280席、邦画を上映。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は衣料品店「柳屋弘明寺2号店」が入る「水谷ビル」建物北側。
1953年11月17日、横浜市南区弘明寺2に「有楽座」が開館した。オープニングは新東宝『一等女房と三等亭主』。系統は新東宝封切と大映二番館の二本立。経営は内海武雄社長の銀映株式会社。*85
戦後、横浜市南区の観音橋のたもとには芝居小屋「銀星座」が開館した。後に映画館「有楽座」となった。*86
『キネマ旬報』1976年2月下旬号、676号には、「われらの映画館 96回 弘明寺有楽座」が掲載されている。*87
所在地 : 神奈川県横浜市南区真金町2-12(1953年・1955年・1960年)、神奈川県横浜市南区真金町1-12(1963年)、神奈川県横浜市南区真金町2-12(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年)
開館年 : 1946年12月
閉館年 : 1986年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「横浜銀座」。1966年の住宅地図では「横浜銀座」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年の映画館名簿では「横浜映画劇場」。1987年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はスーパーマーケット「まいばすけっと横浜橋店」西の「千万喜商会管理貸駐車場」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン阪東橋駅。
戦後、横浜市南区の横浜橋通商店街には映画館「横浜銀座」が開館した。通称はヨコギン。*88
開館年 : 1946年12月
閉館年 : 1986年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「横浜銀座」。1966年の住宅地図では「横浜銀座」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年の映画館名簿では「横浜映画劇場」。1987年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はスーパーマーケット「まいばすけっと横浜橋店」西の「千万喜商会管理貸駐車場」。最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン阪東橋駅。
戦後、横浜市南区の横浜橋通商店街には映画館「横浜銀座」が開館した。通称はヨコギン。*88
所在地 : 神奈川県横浜市神奈川区大口通28(1960年・1963年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1957年の住宅地図では「第一センター 2階 大口通中央第一劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「大口第一劇場」。1962年の住宅地図では跡地に「パチンコ平和楼遊技場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「おおぐち通り整形外科」や「アーバン薬局」が入る「横浜大口アーバンビル」。
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1957年の住宅地図では「第一センター 2階 大口通中央第一劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「大口第一劇場」。1962年の住宅地図では跡地に「パチンコ平和楼遊技場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「おおぐち通り整形外科」や「アーバン薬局」が入る「横浜大口アーバンビル」。
所在地 : 神奈川県横浜市神奈川区大口仲町11(1950年・1953年・1955年)、神奈川県横浜市神奈川区大口仲町25(1958年)、神奈川県横浜市神奈川区大口仲町11(1960年・1963年)、神奈川県横浜市神奈川区大口仲町25(1966年・1969年)
開館年 : 1947年7月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年7月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「子安曙劇場」。1968年の住宅地図では「子安曙映画劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はドラッグストア「クリエイトS・D 横浜大口仲町店」。
開館年 : 1947年7月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年7月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「子安曙劇場」。1968年の住宅地図では「子安曙映画劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はドラッグストア「クリエイトS・D 横浜大口仲町店」。
所在地 : 神奈川県横浜市神奈川区大口通127(1953年・1955年)、神奈川県横浜市神奈川区大口通130(1958年)、神奈川県横浜市神奈川区大口通127(1960年・1963年)、神奈川県横浜市神奈川区大口通130-2(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「大口映画劇場」。1968年の住宅地図では「大口映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「横浜信用金庫大口支店」。
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「大口映画劇場」。1968年の住宅地図では「大口映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「横浜信用金庫大口支店」。
所在地 : 神奈川県横浜市神奈川区白楽124(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、神奈川県横浜市神奈川区白楽町124(1966年)、神奈川県横浜市神奈川区白楽124(1969年・1970年)
開館年 : 1951年5月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年5月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「白鳥座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「横浜白鳥座」。1968年の住宅地図では「白鳥座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「静岡銀行白楽支店」。
1955年の神奈川区にあった映画館「白鳥座」の写真あり。「Movie HAKUCHOZA」「白鳥座」の文字が見える。『ロミオとジュリエット』の看板が見える。白楽西口駅前にあった。*89
1972年頃の横浜市神奈川区にあった映画館「紅座」と「白鳥座」の上映作品看板あり。いずれも東急東横線白楽駅近くにあった。*90
開館年 : 1951年5月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年5月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「白鳥座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「横浜白鳥座」。1968年の住宅地図では「白鳥座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「静岡銀行白楽支店」。
1955年の神奈川区にあった映画館「白鳥座」の写真あり。「Movie HAKUCHOZA」「白鳥座」の文字が見える。『ロミオとジュリエット』の看板が見える。白楽西口駅前にあった。*89
1972年頃の横浜市神奈川区にあった映画館「紅座」と「白鳥座」の上映作品看板あり。いずれも東急東横線白楽駅近くにあった。*90
所在地 : 神奈川県横浜市神奈川区反町6(1960年・1963年)、神奈川県横浜市神奈川区反町1-5(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1979年)
開館年 : 1950年4月
閉館年 : 1979年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年4月開館。1960年の映画館名簿では「反町東映劇場」。1963年の映画館名簿では「反ノ町東映劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・19779年の映画館名簿では「反町東映劇場」。1968年の住宅地図では「反町東映」。1979年の映画館名簿では経営者が山本武子、支配人が佐藤公義、木造1階冷暖房付、350席、成人映画を上映。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「トップパルケ反町店」が入る「トーカンマンション反町佐藤ビル」。
開館年 : 1950年4月
閉館年 : 1979年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年4月開館。1960年の映画館名簿では「反町東映劇場」。1963年の映画館名簿では「反ノ町東映劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・19779年の映画館名簿では「反町東映劇場」。1968年の住宅地図では「反町東映」。1979年の映画館名簿では経営者が山本武子、支配人が佐藤公義、木造1階冷暖房付、350席、成人映画を上映。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「トップパルケ反町店」が入る「トーカンマンション反町佐藤ビル」。
所在地 : 神奈川県横浜市神奈川区反町33(1960年・1963年)、神奈川県横浜市神奈川区反町2-14(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1987年)
開館年 : 1951年1月
閉館年 : 1987年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年1月開館。1960年の映画館名簿では「ロマン座」。1963年の映画館名簿では「反町ロマンス座」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「反町ロマン座」。1968年の住宅地図では「ロマン座」。1975年の映画館名簿では「反町ロマン」。1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「反町ロマン座」。1987年の映画館名簿では「反町ロマン」。1988年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「佐川印刷横浜支店」。
開館年 : 1951年1月
閉館年 : 1987年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年1月開館。1960年の映画館名簿では「ロマン座」。1963年の映画館名簿では「反町ロマンス座」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「反町ロマン座」。1968年の住宅地図では「ロマン座」。1975年の映画館名簿では「反町ロマン」。1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「反町ロマン座」。1987年の映画館名簿では「反町ロマン」。1988年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「佐川印刷横浜支店」。
所在地 : 神奈川県横浜市神奈川区六角橋81(1955年)、神奈川県横浜市神奈川区六角橋町81(1960年・1963年)、神奈川県横浜市神奈川区六角橋1-1(1966年)、神奈川県横浜市神奈川区六角橋1-1-10(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1953年以前(六角橋会館)、1954年12月(紅座)
閉館年 : 1990年9月17日
『全国映画館総覧 1955』によると改築休館。1955年の映画館名簿では「六角橋会館(改築休館)1954年12月開館予定」。1960年・1963年の映画館名簿では「紅座」。1966年の映画館名簿では「横浜紅座」。1968年の住宅地図では「紅座」。1969年の映画館名簿では「横浜べにざ」。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「紅座」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「サンライズプラザ」(2020年5月31日閉店)建物廃墟北東部。
1972年頃の横浜市神奈川区にあった映画館「紅座」と「白鳥座」の上映作品看板あり。いずれも東急東横線白楽駅近くにあった。*91
開館年 : 1953年以前(六角橋会館)、1954年12月(紅座)
閉館年 : 1990年9月17日
『全国映画館総覧 1955』によると改築休館。1955年の映画館名簿では「六角橋会館(改築休館)1954年12月開館予定」。1960年・1963年の映画館名簿では「紅座」。1966年の映画館名簿では「横浜紅座」。1968年の住宅地図では「紅座」。1969年の映画館名簿では「横浜べにざ」。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「紅座」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「サンライズプラザ」(2020年5月31日閉店)建物廃墟北東部。
1972年頃の横浜市神奈川区にあった映画館「紅座」と「白鳥座」の上映作品看板あり。いずれも東急東横線白楽駅近くにあった。*91
所在地 : 神奈川県横浜市神奈川区鶴屋町1-3(1973年)、神奈川県横浜市神奈川区鶴屋町1-6(1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1970年以後1973年以前
閉館年 : 2007年5月
1970年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1975年の映画館名簿では「西口シネマ」。1974年の住宅地図では「1階西口麻雀荘 2階西口シネマ」。1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「西口シネマ・西口ニューシネマ」(2館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大橋ボクシングジム」南50mの工事用地。
開館年 : 1970年以後1973年以前
閉館年 : 2007年5月
1970年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1975年の映画館名簿では「西口シネマ」。1974年の住宅地図では「1階西口麻雀荘 2階西口シネマ」。1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「西口シネマ・西口ニューシネマ」(2館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大橋ボクシングジム」南50mの工事用地。
所在地 : 神奈川県横浜市鶴見町679(1955年・1958年・1959年)
開館年 : 1951年7月
閉館年 : 1959年頃
『全国映画館総覧 1955』では1951年7月開館。1955年の映画館名簿では「ロマンス座」。1958年・1959年の映画館名簿では「鶴見ロマンス座」。1958年・1961年の住宅地図では「ロマンス座」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ドミール鶴見」。最寄駅はJR東海道線鶴見駅。
1956年1月7日に鶴見の佃野商店街を回る鶴見鳶職組合の写真あり。毎年1月7日に行っていた出初式の様子である。背後は映画館「ロマンス座」。*92
開館年 : 1951年7月
閉館年 : 1959年頃
『全国映画館総覧 1955』では1951年7月開館。1955年の映画館名簿では「ロマンス座」。1958年・1959年の映画館名簿では「鶴見ロマンス座」。1958年・1961年の住宅地図では「ロマンス座」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ドミール鶴見」。最寄駅はJR東海道線鶴見駅。
1956年1月7日に鶴見の佃野商店街を回る鶴見鳶職組合の写真あり。毎年1月7日に行っていた出初式の様子である。背後は映画館「ロマンス座」。*92
所在地 : 神奈川県横浜市鶴見町675(1955年・1958年・1959年)
開館年 : 1948年3月
閉館年 : 1959年頃
『全国映画館総覧 1955』では1948年3月開館。1955年・1958年・1959年の映画館名簿では「鶴見レアルト劇場」。1958年・1961年の住宅地図では「鶴見レアルト劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「金時鶴見ホール」。最寄駅はJR東海道線鶴見駅。
1959年12月28日、横浜市鶴見区鶴見町679の「鶴見レアルト」と「鶴見ロマンス座」が佐々木興業の経営として再発足した。鶴見レアルトは東宝封切館、鶴見ロマンス座は松竹・東映・新東宝・大映の再映館。*93
1955年頃の鶴見の佃野商店街にあった映画館「レアルト」の写真あり。「レアルト」の文字が見える。*94
時期不明の「レアルト劇場」の写真あり。1947年2月に佃野町に開館し、映画・演劇・コンサートなどに使用された。レアールつくのという商店街の名称はレアルト劇場に由来している。*95
開館年 : 1948年3月
閉館年 : 1959年頃
『全国映画館総覧 1955』では1948年3月開館。1955年・1958年・1959年の映画館名簿では「鶴見レアルト劇場」。1958年・1961年の住宅地図では「鶴見レアルト劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「金時鶴見ホール」。最寄駅はJR東海道線鶴見駅。
1959年12月28日、横浜市鶴見区鶴見町679の「鶴見レアルト」と「鶴見ロマンス座」が佐々木興業の経営として再発足した。鶴見レアルトは東宝封切館、鶴見ロマンス座は松竹・東映・新東宝・大映の再映館。*93
1955年頃の鶴見の佃野商店街にあった映画館「レアルト」の写真あり。「レアルト」の文字が見える。*94
時期不明の「レアルト劇場」の写真あり。1947年2月に佃野町に開館し、映画・演劇・コンサートなどに使用された。レアールつくのという商店街の名称はレアルト劇場に由来している。*95
所在地 : 神奈川県横浜市鶴見区潮田本町通4-178(1953年・1958年)、神奈川県横浜市鶴見区本町通4-178(1960年)
開館年 : 1947年4月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1947年4月開館。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「第二鶴見映画劇場」。1961年の住宅地図では「第二鶴映映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「クオス横浜鶴見プライムレジデンス」。最寄駅はJR鶴見線弁天橋駅。
開館年 : 1947年4月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1947年4月開館。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「第二鶴見映画劇場」。1961年の住宅地図では「第二鶴映映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「クオス横浜鶴見プライムレジデンス」。最寄駅はJR鶴見線弁天橋駅。
所在地 : 神奈川県横浜市鶴見区生麦町1061(1955年・1958年・1960年)
開館年 : 1925年
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』では1925年開館。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「千代田館」。1958年の住宅地図では「千代田館」。1961年の住宅地図では跡地に「五十嵐重広」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「生麦交番」南西60mの建物。最寄駅は京急本線花月総持寺駅。
開館年 : 1925年
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』では1925年開館。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「千代田館」。1958年の住宅地図では「千代田館」。1961年の住宅地図では跡地に「五十嵐重広」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「生麦交番」南西60mの建物。最寄駅は京急本線花月総持寺駅。
所在地 : 神奈川県横浜市鶴見区矢向町149(1960年)、神奈川県横浜市鶴見区鶴見町149(1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「銀映座」。1958年・1963年の住宅地図では「銀映座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はスーパー「食品館あおば矢向駅前店」建物北側。最寄駅はJR南武線矢向駅。
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「銀映座」。1958年・1963年の住宅地図では「銀映座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はスーパー「食品館あおば矢向駅前店」建物北側。最寄駅はJR南武線矢向駅。
所在地 : 神奈川県横浜市鶴見区生麦町47(1958年・1960年)
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1955年・1958年の映画館名簿では「生麦会館」。1958年の住宅地図では「富士館」。1960年の映画館名簿では「富士館」。1961年の住宅地図では「生麦富士館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「横浜信用金庫生麦支店」南西60mの「生麦駅自転車駐車場」。最寄駅は京急本線生麦駅。
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1955年・1958年の映画館名簿では「生麦会館」。1958年の住宅地図では「富士館」。1960年の映画館名簿では「富士館」。1961年の住宅地図では「生麦富士館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「横浜信用金庫生麦支店」南西60mの「生麦駅自転車駐車場」。最寄駅は京急本線生麦駅。
所在地 : 神奈川県横浜市鶴見区潮田仲通3-188(1958年)、神奈川県横浜市鶴見区仲通3-188(1960年・1963年)
開館年 : 1952年9月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年9月開館。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「第三鶴見映画劇場」。1961年の住宅地図では「第三鶴映映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「おきなわ物産センター」が入る「おきつる青少年育成会館」。最寄駅はJR鶴見線浅野駅。
開館年 : 1952年9月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年9月開館。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「第三鶴見映画劇場」。1961年の住宅地図では「第三鶴映映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「おきなわ物産センター」が入る「おきつる青少年育成会館」。最寄駅はJR鶴見線浅野駅。
所在地 : 神奈川県横浜市鶴見区鶴見町1035(1958年・1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「つるみニュース劇場」。1958年の住宅地図では「鶴見ニュース映画劇場」。1961年の住宅地図では跡地に「パチンコダイマル遊技場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「リボンハーツベルロード店」が入る「渡辺ビル」。最寄駅は京急本線京急鶴見駅。
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「つるみニュース劇場」。1958年の住宅地図では「鶴見ニュース映画劇場」。1961年の住宅地図では跡地に「パチンコダイマル遊技場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「リボンハーツベルロード店」が入る「渡辺ビル」。最寄駅は京急本線京急鶴見駅。
所在地 : 神奈川県横浜市鶴見区下末吉町490(1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「末吉映画劇場」。1966年の住宅地図では「末吉映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「パレスコスゲ」西40mにある4軒分の民家。
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「末吉映画劇場」。1966年の住宅地図では「末吉映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「パレスコスゲ」西40mにある4軒分の民家。
所在地 : 神奈川県横浜市鶴見区生麦町988(1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1950年3月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1950年3月開館。1958年の住宅地図では「旭映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「旭映画劇場」。1961年の住宅地図では「鶴見東映」。1966年の映画館名簿では「鶴見東映劇場」。1966年の住宅地図では「鶴見東映」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「花月園駅前公園」南東の路地や6軒分の飲食店。最寄駅は京急本線花月総持寺駅。
開館年 : 1950年3月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1950年3月開館。1958年の住宅地図では「旭映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「旭映画劇場」。1961年の住宅地図では「鶴見東映」。1966年の映画館名簿では「鶴見東映劇場」。1966年の住宅地図では「鶴見東映」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「花月園駅前公園」南東の路地や6軒分の飲食店。最寄駅は京急本線花月総持寺駅。
所在地 : 神奈川県横浜市鶴見区本町通4-180(1960年)、神奈川県横浜市鶴見区潮田本町通4-180(1963年)、神奈川県横浜市鶴見区本町通4-180(1966年)、神奈川県横浜市鶴見区本町通4-171(1969年・1970年)
開館年 : 1946年10月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1946年10月開館。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「第一鶴見映画劇場」。1966年の住宅地図では「第一鶴映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ライオンズマンション鶴見本町通り」。
開館年 : 1946年10月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1946年10月開館。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「第一鶴見映画劇場」。1966年の住宅地図では「第一鶴映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ライオンズマンション鶴見本町通り」。
所在地 : 神奈川県横浜市鶴見区仲通1-22(1960年・1963年・1966年・1969年)、神奈川県横浜市鶴見区仲通1-54(1973年)、神奈川県横浜市鶴見区仲通1-54-2(1975年・1976年・1978年・1979年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1979年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1979年の映画館名簿では「鶴見中央劇場」。1974年の住宅地図では「鶴見中央劇場」。1979年の映画館名簿では経営会社が京浜興業、経営者が森井貞次、支配人が工藤敏弘、鉄筋造1階冷暖房付、250席、邦画・成人映画を上映。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「アネックス鶴見第二」。最寄駅はJR鶴見線弁天橋駅。
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1979年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1979年の映画館名簿では「鶴見中央劇場」。1974年の住宅地図では「鶴見中央劇場」。1979年の映画館名簿では経営会社が京浜興業、経営者が森井貞次、支配人が工藤敏弘、鉄筋造1階冷暖房付、250席、邦画・成人映画を上映。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「アネックス鶴見第二」。最寄駅はJR鶴見線弁天橋駅。
所在地 : 神奈川県横浜市鶴見区鶴見町388(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年)、神奈川県横浜市鶴見区豊岡町29-4(1980年)
開館年 : 1951年3月
閉館年 : 1981年4月
『全国映画館総覧 1955』によると1951年3月開館。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「京浜映画劇場」。1974年の住宅地図では「京浜映画劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「横浜信用金庫鶴見支店」南東70mにある「けいしん月極駐車場」。
開館年 : 1951年3月
閉館年 : 1981年4月
『全国映画館総覧 1955』によると1951年3月開館。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「京浜映画劇場」。1974年の住宅地図では「京浜映画劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「横浜信用金庫鶴見支店」南東70mにある「けいしん月極駐車場」。
所在地 : 神奈川県横浜市鶴見区鶴見町1019(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1974年・1975年・1978年・1980年・1982年・1985年・1990年)、神奈川県横浜市鶴見区鶴見町4-13-1(1995年)、神奈川県横浜市鶴見区鶴見中央4-13-1(2000年)
開館年 : 1953年12月
閉館年 : 2001年6月18日
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「鶴見文化劇場」。1958年・1961年の住宅地図(※区画整理前)では「鶴見文化映画劇場」。1973年の映画館名簿では経営会社が協和、経営者が名和幸夫、支配人が鈴木幸次郎、木造1階冷暖房付、305席、洋画を上映。1974年の映画館名簿では経営会社が協和興業、経営者が名和幸夫、支配人が鈴木幸次郎、木造1階冷暖房付、280席、洋画を上映。1975年の映画館名簿では経営会社が協和興業、経営者が名和幸夫、支配人が鈴木幸次郎、木造1階冷暖房付、260席、洋画を上映。1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「鶴見文化」。2000年の映画館名簿では「鶴見文化劇場」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2018年竣工のマンション「エクセレントシティ横浜鶴見」。最寄駅は京急本線京急鶴見駅。
『キネマ旬報』1976年7月下旬号、687号には、「われらの映画館 106回 鶴見文化劇場」が掲載されている。*96
開館年 : 1953年12月
閉館年 : 2001年6月18日
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「鶴見文化劇場」。1958年・1961年の住宅地図(※区画整理前)では「鶴見文化映画劇場」。1973年の映画館名簿では経営会社が協和、経営者が名和幸夫、支配人が鈴木幸次郎、木造1階冷暖房付、305席、洋画を上映。1974年の映画館名簿では経営会社が協和興業、経営者が名和幸夫、支配人が鈴木幸次郎、木造1階冷暖房付、280席、洋画を上映。1975年の映画館名簿では経営会社が協和興業、経営者が名和幸夫、支配人が鈴木幸次郎、木造1階冷暖房付、260席、洋画を上映。1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「鶴見文化」。2000年の映画館名簿では「鶴見文化劇場」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2018年竣工のマンション「エクセレントシティ横浜鶴見」。最寄駅は京急本線京急鶴見駅。
『キネマ旬報』1976年7月下旬号、687号には、「われらの映画館 106回 鶴見文化劇場」が掲載されている。*96
所在地 : 神奈川県横浜市保土ケ谷区保土ケ谷1-5(1953年)、神奈川県横浜市保土ケ谷区保土ケ谷町1-5(1955年・1960年・1961年)
開館年 : 1946年6月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年6月開館。1953年・1955年・1960年・1961年の映画館名簿では「保土ケ谷文化劇場」。1960年の住宅地図では「保土ヶ谷文化劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の住宅地図では跡地に空白。跡地はドラッグストア「クリエイト横浜保土ヶ谷橋店」。
開館年 : 1946年6月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年6月開館。1953年・1955年・1960年・1961年の映画館名簿では「保土ケ谷文化劇場」。1960年の住宅地図では「保土ヶ谷文化劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の住宅地図では跡地に空白。跡地はドラッグストア「クリエイト横浜保土ヶ谷橋店」。
所在地 : 神奈川県横浜市保土ケ谷区天王町1-64(1958年・1960年)
開館年 : 1956年6月23日
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「保土ケ谷東映」。1960年・1963年の住宅地図では「保土ケ谷東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「クリエイトSD保土ヶ谷洪福寺店」建物中央部。
1956年6月23日、横浜市保土ケ谷区天王町1-67に「保土ケ谷東映」が開館した。オープニングは『満月あばれ笠』と『江戸三国志』。総工費1700万円で2月に着工していた。定員305人。経営は中本吉太郎社長の中本興行。支配人は中本清一。*97
開館年 : 1956年6月23日
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「保土ケ谷東映」。1960年・1963年の住宅地図では「保土ケ谷東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「クリエイトSD保土ヶ谷洪福寺店」建物中央部。
1956年6月23日、横浜市保土ケ谷区天王町1-67に「保土ケ谷東映」が開館した。オープニングは『満月あばれ笠』と『江戸三国志』。総工費1700万円で2月に着工していた。定員305人。経営は中本吉太郎社長の中本興行。支配人は中本清一。*97
所在地 : 神奈川県横浜市保土ケ谷区帷子町2-79(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年)
開館年 : 1957年9月18日
閉館年 : 1978年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「ドラゴン座」。1969年の映画館名簿では「保土谷ドラゴン座」。1973年の映画館名簿では「保土ケ谷ドラゴン座」。1974年の住宅地図では「ドラゴン座」。1975年・1978年の映画館名簿では「ドラゴン座」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ライオンズマンション保土ケ谷ステーションプラザ」西すぐの英語学校「Lyceum of Alternative Education」。
1957年9月18日、横浜市保土ケ谷区帷子町2-79に「ドラゴン座」が開館した。保土ケ谷駅前に建設中だった。経営は中村トキ代表の株式会社保土ケ谷文化。定員360人。*98
開館年 : 1957年9月18日
閉館年 : 1978年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「ドラゴン座」。1969年の映画館名簿では「保土谷ドラゴン座」。1973年の映画館名簿では「保土ケ谷ドラゴン座」。1974年の住宅地図では「ドラゴン座」。1975年・1978年の映画館名簿では「ドラゴン座」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ライオンズマンション保土ケ谷ステーションプラザ」西すぐの英語学校「Lyceum of Alternative Education」。
1957年9月18日、横浜市保土ケ谷区帷子町2-79に「ドラゴン座」が開館した。保土ケ谷駅前に建設中だった。経営は中村トキ代表の株式会社保土ケ谷文化。定員360人。*98
所在地 : 神奈川県横浜市保土ケ谷区天王町2-119(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)、神奈川県横浜市保土ケ谷区天王町2-67-2(1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1920年、1950年6月
閉館年 : 1990年4月
『全国映画館総覧 1955』によると1950年6月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「永楽館」。1958年の映画館名簿では「保土谷日活」。1958年・1963年の住宅地図では「永楽館」。1960年・1963年の映画館名簿では「永楽館」。1960年の映画館名簿では経営者が中本興行、支配人が高沢範、木造2階、定員400、日活・新東宝を上映。1966年の映画館名簿では「保土谷日活永楽館」。1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「保土ケ谷すばる座」。1969年の映画館名簿では経営者が川代興行、支配人が長谷川重行、木造1階冷暖房付、定員234、日活・洋画を上映。1973年の映画館名簿では経営会社がカワダイ、経営者が長谷川重行、支配人が石野晃郎、木造1階冷暖房付、定員180、洋画・日活・松竹を上映。1974年の住宅地図では「すばる座」。1990年の映画館名簿では経営会社がカワダイ、経営者・支配人ともに長谷川重行、木造1階、180席、にっかつ・成人映画を上映。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1991年竣工のマンション「サテライトヴィラ天王町1」。最寄駅は相鉄本線天王町駅。
紡績工場の休業日には、映画館「永楽館」に女子工員が押し掛けた。永楽館は1920年に日活系の映画館として開館した。永楽館で活動写真を見て、ナンキンそばを食べて、今川焼をおみやげにするのが保土ケ谷の住人の定番だった。戦後に永楽館が開館した際の記念写真あり。「Eirakukan」の文字が見える。「新東宝映画」「SHIN TOHO」の文字が見える。岡晴夫の『憧れのハワイ航路』、高峰秀子の『処女室』の看板が見える。*99
開館年 : 1920年、1950年6月
閉館年 : 1990年4月
『全国映画館総覧 1955』によると1950年6月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「永楽館」。1958年の映画館名簿では「保土谷日活」。1958年・1963年の住宅地図では「永楽館」。1960年・1963年の映画館名簿では「永楽館」。1960年の映画館名簿では経営者が中本興行、支配人が高沢範、木造2階、定員400、日活・新東宝を上映。1966年の映画館名簿では「保土谷日活永楽館」。1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「保土ケ谷すばる座」。1969年の映画館名簿では経営者が川代興行、支配人が長谷川重行、木造1階冷暖房付、定員234、日活・洋画を上映。1973年の映画館名簿では経営会社がカワダイ、経営者が長谷川重行、支配人が石野晃郎、木造1階冷暖房付、定員180、洋画・日活・松竹を上映。1974年の住宅地図では「すばる座」。1990年の映画館名簿では経営会社がカワダイ、経営者・支配人ともに長谷川重行、木造1階、180席、にっかつ・成人映画を上映。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1991年竣工のマンション「サテライトヴィラ天王町1」。最寄駅は相鉄本線天王町駅。
紡績工場の休業日には、映画館「永楽館」に女子工員が押し掛けた。永楽館は1920年に日活系の映画館として開館した。永楽館で活動写真を見て、ナンキンそばを食べて、今川焼をおみやげにするのが保土ケ谷の住人の定番だった。戦後に永楽館が開館した際の記念写真あり。「Eirakukan」の文字が見える。「新東宝映画」「SHIN TOHO」の文字が見える。岡晴夫の『憧れのハワイ航路』、高峰秀子の『処女室』の看板が見える。*99
所在地 : 神奈川県横浜市保土ケ谷区天王町1-6-2(1995年)
開館年 : 1991年10月15日
閉館年 : 1996年4月
1990年の映画館名簿には掲載されていない。1995年の映画館名簿では「天王町シネパック」。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1991年竣工のマンション「サテライトヴィラ天王町1」。最寄駅は相鉄本線天王町駅。
「特集 横浜映画館物語」『横浜市立図書館情報』第24号に掲載されている。現物は未確認。*100
開館年 : 1991年10月15日
閉館年 : 1996年4月
1990年の映画館名簿には掲載されていない。1995年の映画館名簿では「天王町シネパック」。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1991年竣工のマンション「サテライトヴィラ天王町1」。最寄駅は相鉄本線天王町駅。
「特集 横浜映画館物語」『横浜市立図書館情報』第24号に掲載されている。現物は未確認。*100
所在地 : 神奈川県横浜市戸塚区戸塚町64(1969年・1973年)
開館年 : 1966年以後1969年以前
閉館年 : 1973年頃
1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1973年の映画館名簿では「テアトル戸塚」。1974年の住宅地図では「テアトル戸塚」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三菱UFJ銀行戸塚支店」西の「加藤ビル」付近。閉館後の土地区画整理事業で道路区割りは大幅に変化しているので参考程度に。
開館年 : 1966年以後1969年以前
閉館年 : 1973年頃
1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1973年の映画館名簿では「テアトル戸塚」。1974年の住宅地図では「テアトル戸塚」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三菱UFJ銀行戸塚支店」西の「加藤ビル」付近。閉館後の土地区画整理事業で道路区割りは大幅に変化しているので参考程度に。
所在地 : 神奈川県横浜市戸塚区戸塚町92(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1982年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1982年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「戸塚松竹映画劇場」。1983年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三菱UFJ銀行戸塚支店」付近。閉館後の土地区画整理事業で道路区割りは大幅に変化しているので参考程度に。
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1982年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「戸塚松竹映画劇場」。1983年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三菱UFJ銀行戸塚支店」付近。閉館後の土地区画整理事業で道路区割りは大幅に変化しているので参考程度に。
所在地 : 神奈川県横浜市戸塚区戸塚町36(1953年・1955年)、神奈川県横浜市戸塚区戸塚町126(1960年・1963年)、神奈川県横浜市戸塚区戸塚町36(1966年)、神奈川県横浜市戸塚区戸塚町35(1969年)、神奈川県横浜市戸塚区戸塚町36(1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1982年・1984年)
開館年 : 1937年10月
閉館年 : 1984年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1937年10月開館。1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「戸塚劇場」。1973年・1975年・1976年・1978年の映画館名簿では「東映会館」。1974年の住宅地図では「東映」。1980年・1982年・1984年の映画館名簿では「戸塚シネマ」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はホテル「相鉄フレッサイン横浜戸塚」西の道路付近。閉館後の土地区画整理事業で道路区割りは大幅に変化しているので参考程度に。
開館年 : 1937年10月
閉館年 : 1984年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1937年10月開館。1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「戸塚劇場」。1973年・1975年・1976年・1978年の映画館名簿では「東映会館」。1974年の住宅地図では「東映」。1980年・1982年・1984年の映画館名簿では「戸塚シネマ」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はホテル「相鉄フレッサイン横浜戸塚」西の道路付近。閉館後の土地区画整理事業で道路区割りは大幅に変化しているので参考程度に。
所在地 : 神奈川県横浜市戸塚区吉田町884(1985年・1988年)
開館年 : 1984年頃
閉館年 : 1988年頃
1984年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の映画館名簿では「ダイエー戸塚ピット」。1988年の映画館名簿では「ダイエー戸塚PIT」。1989年の映画館名簿には掲載されていない。ドライブインシアター。
開館年 : 1984年頃
閉館年 : 1988年頃
1984年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の映画館名簿では「ダイエー戸塚ピット」。1988年の映画館名簿では「ダイエー戸塚PIT」。1989年の映画館名簿には掲載されていない。ドライブインシアター。
所在地 : 神奈川県横浜市戸塚区俣野町700(1975年・1978年・1980年・1985年・1988年)
開館年 : 1974年頃
閉館年 : 1989年頃
1974年の映画館名簿には掲載されていない。1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1988年・1989年の映画館名簿では「ドリーム名画座」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1974年頃
閉館年 : 1989年頃
1974年の映画館名簿には掲載されていない。1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1988年・1989年の映画館名簿では「ドリーム名画座」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 神奈川県横浜市戸塚区俣野町700 ドリームランド駐車場(1995年)、神奈川県横浜市戸塚区俣野町700 横浜ドリームランド駐車場(2000年・2001年)
開館年 : 1994年7月1日
閉館年 : 2001年頃
1992年の映画館名簿には掲載されていない。1995年・2000年・2001年の映画館名簿では「ドライブインシアターMovix横浜」。1998年の映画館名簿では150台、経営会社が松竹シネファイジャパン、経営者が三上哲男、支配人が寺尾拓、洋画を上映。2002年の映画館名簿には掲載されていない。
1994年7月1日、横浜市の横浜ドリームランドに隣接する駐車場にドライブインシアター「MOVIX横浜」が開館する。運営は松竹シネ・ファイジャパンであり、直営館とフランチャイズ館を合わせてMOVIXは13か所目である。収容台数は150台。スクリーンは横16メートル×縦8メートル。一日に2回上映する。最初の2週間は『マイ・ライフ』を、続いて『ペリカン文書』を上映する。*101
開館年 : 1994年7月1日
閉館年 : 2001年頃
1992年の映画館名簿には掲載されていない。1995年・2000年・2001年の映画館名簿では「ドライブインシアターMovix横浜」。1998年の映画館名簿では150台、経営会社が松竹シネファイジャパン、経営者が三上哲男、支配人が寺尾拓、洋画を上映。2002年の映画館名簿には掲載されていない。
1994年7月1日、横浜市の横浜ドリームランドに隣接する駐車場にドライブインシアター「MOVIX横浜」が開館する。運営は松竹シネ・ファイジャパンであり、直営館とフランチャイズ館を合わせてMOVIXは13か所目である。収容台数は150台。スクリーンは横16メートル×縦8メートル。一日に2回上映する。最初の2週間は『マイ・ライフ』を、続いて『ペリカン文書』を上映する。*101
所在地 : 神奈川県横浜市戸塚区阿久和4618(1960年)、神奈川県横浜市戸塚区阿久和町4618(1963年)※瀬谷区の発足は1969年
開館年 : 1954年
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「三境すばる座」。1963年の映画館名簿では「三ツ境すばる座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ライオンズマンション三ツ境」。
開館年 : 1954年
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「三境すばる座」。1963年の映画館名簿では「三ツ境すばる座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ライオンズマンション三ツ境」。
所在地 : 神奈川県横浜市南区上大岡町270(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)※港南区の発足は1969年
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1969年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「港南東映」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「港南映画劇場」。1964年の住宅地図では「港南東映劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は大規模商業施設「ウィング上大岡建物」北西部。
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1969年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「港南東映」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「港南映画劇場」。1964年の住宅地図では「港南東映劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は大規模商業施設「ウィング上大岡建物」北西部。
所在地 : 神奈川県横浜市港南区港南台3-1-3(1990年・1995年)、神奈川県横浜市港南区港南台3-3-1(2000年)、神奈川県横浜市港南区港南台3-3-1 港南台214ビル3階(2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1987年9月15日
閉館年 : 営業中
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「港南台シネサロン part1・part2」(2館)。
1987年9月15日、横浜市港南区の港南台センターに横浜市初のビデオシアターが開館する。港南台センターを管理運営する日本市街地開発が運営。最近封切られた邦画と洋画の名作を上映する。
開館年 : 1987年9月15日
閉館年 : 営業中
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「港南台シネサロン part1・part2」(2館)。
1987年9月15日、横浜市港南区の港南台センターに横浜市初のビデオシアターが開館する。港南台センターを管理運営する日本市街地開発が運営。最近封切られた邦画と洋画の名作を上映する。
所在地 : 神奈川県横浜市港南区上大岡西1-18-5 mioka3階(2015年・2020年)
開館年 : 2010年4月16日
閉館年 : 営業中
2010年の映画館名簿には掲載されていない。2015年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズ上大岡1-9」(9館)。
開館年 : 2010年4月16日
閉館年 : 営業中
2010年の映画館名簿には掲載されていない。2015年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズ上大岡1-9」(9館)。
磯子区の映画館・芝居小屋として、「アテネ劇場」「映画座」「根岸シネマ」「杉田東映」「東洋劇場」「杉田劇場」の6館があった。アテネ劇場の場所は葦名橋、開館期間は1946年〜1950年頃、定員は280。映画座の場所は根岸橋、開館期間は1952年〜1959年、定員は332。根岸シネマの場所は根岸橋、開館期間は1954年〜1960年、定員は290。杉田東映の場所は聖天橋、開館期間は1953年〜1965年、定員は350。東洋劇場の場所は京急杉田駅前、開館期間は1948年〜1960年、定員は320。杉田劇場の場所は杉田新浜、開館期間は1946年〜1950年、定員は300。(※閉館時期はかなり不正確だと思われる)*102
所在地 : 神奈川県横浜市磯子区丸山町7(1960年・1963年)
開館年 : 1954年12月
閉館年 : 1960年5月
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「根岸シネマ」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「横浜信用金庫根岸橋支店」西北西50mにある民家数軒。
1954年暮れ、「根岸シネマ」が開館した。時期不明の根岸シネマの写真あり。大映の作品を軸として、新東宝や日活を付けた2本立てや3本立てだった。岩瀬商店街の客寄せの意味合いもあったが、テレビが急速に普及したため、1960年5月に閉館した。1993年現在の跡地にはガソリンスタンドが建っている。*103
開館年 : 1954年12月
閉館年 : 1960年5月
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「根岸シネマ」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「横浜信用金庫根岸橋支店」西北西50mにある民家数軒。
1954年暮れ、「根岸シネマ」が開館した。時期不明の根岸シネマの写真あり。大映の作品を軸として、新東宝や日活を付けた2本立てや3本立てだった。岩瀬商店街の客寄せの意味合いもあったが、テレビが急速に普及したため、1960年5月に閉館した。1993年現在の跡地にはガソリンスタンドが建っている。*103
所在地 : 神奈川県横浜市磯子区杉田町148(1953年・1955年・1960年・1963年)
開館年 : 1950年7月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1950年7月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「東洋劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1950年7月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1950年7月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「東洋劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 神奈川県横浜市磯子区磯子杉田町27(1958年)、神奈川県横浜市磯子区杉田町27(1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1957年5月15日
閉館年 : 1965年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「杉田東映」。1966年の映画館名簿では「杉田東映劇場」。1967年の住宅地図では「杉田東映」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「デイズ新杉田店」。
1955年頃の磯子にあった映画館「杉田東映」の写真あり。杉田聖天橋の脇にあった。*104
1957年5月15日、横浜市磯子区杉田町27に建設中だった「杉田東映」が開館した。館主は嶋崎健次、支配人は岡部貞次郎。*105
開館年 : 1957年5月15日
閉館年 : 1965年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「杉田東映」。1966年の映画館名簿では「杉田東映劇場」。1967年の住宅地図では「杉田東映」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「デイズ新杉田店」。
1955年頃の磯子にあった映画館「杉田東映」の写真あり。杉田聖天橋の脇にあった。*104
1957年5月15日、横浜市磯子区杉田町27に建設中だった「杉田東映」が開館した。館主は嶋崎健次、支配人は岡部貞次郎。*105
所在地 : 神奈川県横浜市磯子区浜1678(1953年)、神奈川県横浜市磯子区磯子町浜1687(1955年)、神奈川県横浜市磯子区浜1687(1960年)、神奈川県横浜市磯子区磯子町浜1687(1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1946年9月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年9月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「アテネ劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「アテネ劇場」。1963年の住宅地図では「アテネ劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「磯子映画劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ナイスアーバン磯子」建物北東部。
「アテネ劇場」は木造の市場を改造した芝居小屋だった。取り壊し前の写真あり。当初は「磯子劇場」と呼ばれており、1946年9月には美空ひばりが初舞台を踏んだ。やがて映画を上映するようになり、一時期は作家の北林透馬が支配人をしていた。*106
開館年 : 1946年9月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年9月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「アテネ劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「アテネ劇場」。1963年の住宅地図では「アテネ劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「磯子映画劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ナイスアーバン磯子」建物北東部。
「アテネ劇場」は木造の市場を改造した芝居小屋だった。取り壊し前の写真あり。当初は「磯子劇場」と呼ばれており、1946年9月には美空ひばりが初舞台を踏んだ。やがて映画を上映するようになり、一時期は作家の北林透馬が支配人をしていた。*106
所在地 : 神奈川県横浜市磯子区丸山町7(1955年・1958年・1960年・1963年)、神奈川県横浜市磯子区丸山町2-5-1(1966年)、神奈川県横浜市磯子区丸山2-5-15(1969年)、神奈川県横浜市磯子区丸山2-5-1(1973年)、神奈川県横浜市磯子区丸山町2-5-1(1975年)、神奈川県横浜市磯子区丸山2-5-1(1976年・1977年)
開館年 : 1952年12月
閉館年 : 1977年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「映画座」。1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1977年の映画館名簿では「横浜根岸映画座」。1967年の住宅地図では「映画座」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「静岡中央銀行横浜支店」。
1952年、磯子区丸山2丁目の根岸橋の脇に「映画座」が開館した。かつて宇佐美サーカスが興行した場所である。1993年現在の跡地にはよこしんのビルが建っている。*107
開館年 : 1952年12月
閉館年 : 1977年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「映画座」。1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1977年の映画館名簿では「横浜根岸映画座」。1967年の住宅地図では「映画座」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「静岡中央銀行横浜支店」。
1952年、磯子区丸山2丁目の根岸橋の脇に「映画座」が開館した。かつて宇佐美サーカスが興行した場所である。1993年現在の跡地にはよこしんのビルが建っている。*107
所在地 : 神奈川県横浜市金沢区谷津町356(1955年)、神奈川県横浜市金沢区谷津町361(1958年・1960年・1963年)、神奈川県横浜市金沢区谷津町351(1966年)、神奈川県横浜市金沢区谷津町365(1969年・1973年・1975年・1976年・1978年)
開館年 : 1952年10月
閉館年 : 1979年2月15日
『全国映画館総覧 1955』によると1952年10月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「キリン座」。1958年の映画館名簿では「金沢キリン座」。1960年・1963年の映画館名簿では「キリン座」。1966年・1969年・1973年・1975年・1976年の映画館名簿では「金沢キリン座」。1973年の住宅地図では「キリン座」。1978年の映画館名簿では「金沢グリーン座」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「谷津公園」すぐ南の「KHメディカルビル」。最寄駅は京急本線金沢文庫駅。
1958年12月、横浜市金沢区の「キリン座」や南区の「港南劇場」など3館を経営する中村清が公文書棄損の疑いで金沢警察署に逮捕された。1955年頃から1958年末までキリン座の切符を二重売りし、多額の脱税をはたらいていた。税務署が調査に訪れた際には女性事務員に書類の盗み出しを指示し、さらにこの事務員に脱税の罪をかぶせた。*108
1979年2月15日午後9時40分頃、横浜市金沢区谷津町の映画館「グリーン座」から出火し、木造平屋建ての映画館が全焼、隣接する田島酒店など3棟が半焼した。観客席の石油ストーブの煙突が過熱して壁に燃え移ったとされる。非番だったグリーン座の従業員が火事を知って駆け付け、消火を試みたが焼死した。経営者は堀越清一。*109
開館年 : 1952年10月
閉館年 : 1979年2月15日
『全国映画館総覧 1955』によると1952年10月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「キリン座」。1958年の映画館名簿では「金沢キリン座」。1960年・1963年の映画館名簿では「キリン座」。1966年・1969年・1973年・1975年・1976年の映画館名簿では「金沢キリン座」。1973年の住宅地図では「キリン座」。1978年の映画館名簿では「金沢グリーン座」。1979年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「谷津公園」すぐ南の「KHメディカルビル」。最寄駅は京急本線金沢文庫駅。
1958年12月、横浜市金沢区の「キリン座」や南区の「港南劇場」など3館を経営する中村清が公文書棄損の疑いで金沢警察署に逮捕された。1955年頃から1958年末までキリン座の切符を二重売りし、多額の脱税をはたらいていた。税務署が調査に訪れた際には女性事務員に書類の盗み出しを指示し、さらにこの事務員に脱税の罪をかぶせた。*108
1979年2月15日午後9時40分頃、横浜市金沢区谷津町の映画館「グリーン座」から出火し、木造平屋建ての映画館が全焼、隣接する田島酒店など3棟が半焼した。観客席の石油ストーブの煙突が過熱して壁に燃え移ったとされる。非番だったグリーン座の従業員が火事を知って駆け付け、消火を試みたが焼死した。経営者は堀越清一。*109
所在地 : 神奈川県横浜市金沢区六浦町4516(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年)、神奈川県横浜市金沢区六浦町4514(1969年)、神奈川県横浜市金沢区六浦町4514-12(1973年・1975年・1976年・1978年・1980年)、神奈川県横浜市金沢区瀬戸2-5(1985年・1987年)
開館年 : 1950年12月
閉館年 : 1987年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「金沢シネマ」。1963年の住宅地図では「金沢シネマ」。1969年・1973年の映画館名簿では「八景洋画劇場」。1975年・1976年・1978年の映画館名簿では「八景中央劇場」。1980年・1985年の映画館名簿では「八景アポロ座」。1987年の映画館名簿では「八景アポロ」。1988年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「クレヴィア金沢八景THE BAY」建物南西部。最寄駅は京急本線金沢八景駅。
開館年 : 1950年12月
閉館年 : 1987年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「金沢シネマ」。1963年の住宅地図では「金沢シネマ」。1969年・1973年の映画館名簿では「八景洋画劇場」。1975年・1976年・1978年の映画館名簿では「八景中央劇場」。1980年・1985年の映画館名簿では「八景アポロ座」。1987年の映画館名簿では「八景アポロ」。1988年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「クレヴィア金沢八景THE BAY」建物南西部。最寄駅は京急本線金沢八景駅。
所在地 : 神奈川県横浜市港北区南綱島876(1953年・1955年)、神奈川県横浜市港北区南綱島町876(1958年)、神奈川県横浜市港北区南綱島876(1960年・1963年)、神奈川県横浜市港北区南綱島町876(1966年)
開館年 : 1947年5月
閉館年 : 1966年(移転)
『全国映画館総覧 1955』によると1947年5月開館。1953年の映画館名簿では「綱島クラブ」。1955年・1958年の映画館名簿では「綱島クラブ映画劇場」。1960年の映画館名簿では「綱島クラブ」。1963年の映画館名簿では「綱島クラブ映画劇場」。1966年の映画館名簿では「綱島クラブ」。1964年の住宅地図では「綱島クラブ」。1966年の住宅地図では跡地に「パチンコラスベガス」。1966年に綱島駅東口から西口の綱島中央劇場跡地に移転。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三菱UFJ銀行綱島支店」。
開館年 : 1947年5月
閉館年 : 1966年(移転)
『全国映画館総覧 1955』によると1947年5月開館。1953年の映画館名簿では「綱島クラブ」。1955年・1958年の映画館名簿では「綱島クラブ映画劇場」。1960年の映画館名簿では「綱島クラブ」。1963年の映画館名簿では「綱島クラブ映画劇場」。1966年の映画館名簿では「綱島クラブ」。1964年の住宅地図では「綱島クラブ」。1966年の住宅地図では跡地に「パチンコラスベガス」。1966年に綱島駅東口から西口の綱島中央劇場跡地に移転。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三菱UFJ銀行綱島支店」。
所在地 : 神奈川県横浜市港北区南綱島町(1966年)、神奈川県横浜市港北区南綱島374(1969年)、神奈川県横浜市港北区南綱島町374(1973年)、神奈川県横浜市港北区綱島西2-7-24(1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1963年以後1966年以前(綱島中央劇場)、1968年(綱島クラブ)
閉館年 : 2005年5月
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「綱島中央劇場」。1968年に綱島駅東口から綱島クラブが綱島中央劇場跡地に移転。1969年の映画館名簿では「綱島クラブ」。1973年の映画館名簿では「綱島クラブ映画劇場」。1975年・1976年・1978年の映画館名簿では「綱島映画」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「綱島映画劇場」。1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「綱島映画」。2010年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1963年以後1966年以前(綱島中央劇場)、1968年(綱島クラブ)
閉館年 : 2005年5月
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「綱島中央劇場」。1968年に綱島駅東口から綱島クラブが綱島中央劇場跡地に移転。1969年の映画館名簿では「綱島クラブ」。1973年の映画館名簿では「綱島クラブ映画劇場」。1975年・1976年・1978年の映画館名簿では「綱島映画」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「綱島映画劇場」。1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「綱島映画」。2010年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 神奈川県横浜市都筑区茅ケ崎中央5-1 港北東急百貨店SC(2000年)、神奈川県横浜市都筑区茅ケ崎中央5-1 港北東急百貨店SC 6階(2005年)、神奈川県横浜市都筑区茅ケ崎中央5-1 港北東急百貨店SC(2010年)、神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎中央5-1 港北TOKYUS.C.6階(2015年・2020年)
開館年 : 1998年4月25日
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「109シネマズ港北1-7」(7館)。
1998年4月25日、横浜市都筑区茅ケ崎中央5-1 港北東急百貨店SC 6階に7スクリーンの「109シネマズ港北」が開館した。経営は東急レクリエーション。*110
開館年 : 1998年4月25日
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「109シネマズ港北1-7」(7館)。
1998年4月25日、横浜市都筑区茅ケ崎中央5-1 港北東急百貨店SC 6階に7スクリーンの「109シネマズ港北」が開館した。経営は東急レクリエーション。*110
所在地 : 神奈川県横浜市都筑区池辺町4035-1(2010年)、神奈川県横浜市都筑区池辺町4035-1 ららぽーと横浜3階(2015年・2020年)
開館年 : 2007年3月15日
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズららぽーと横浜1-12・プレミア」(13館)。
開館年 : 2007年3月15日
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズららぽーと横浜1-12・プレミア」(13館)。
所在地 : 神奈川県横浜市都筑区中川中央1-25-1 ノースポート・モール内(2010年・2015年)、神奈川県横浜市都筑区中川中央1-25-1 ノースポート・モール7階(2020年)
開館年 : 2007年4月21日、2013年7月(改称)
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年の映画館名簿では「ワーナー・マイカル・シネマズ港北ニュータウン1-12」(12館)。2015年・2020年の映画館名簿では「イオンシネマ港北ニュータウン1-12」(12館)。
開館年 : 2007年4月21日、2013年7月(改称)
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年の映画館名簿では「ワーナー・マイカル・シネマズ港北ニュータウン1-12」(12館)。2015年・2020年の映画館名簿では「イオンシネマ港北ニュータウン1-12」(12館)。
所在地 : 神奈川県横浜市港北区台村町(1958年・1960年)、神奈川県横浜市港北区台村町329(1966年)※緑区の発足は1969年
開館年 : 1958年7月5日
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「中山映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の住宅地図では「ゆたか劇場」。1966年の映画館名簿では「ゆたか映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「パチンコニューゆたかホール」。最寄駅はJR横浜線・横浜市営地下鉄グリーンライン中山駅。
1958年7月5日、横浜市港北区台村390に「中山劇場」が開館した。オープニングは『鶯城の花嫁』と『嵐を呼ぶ男』。鉄筋造2階建て。定員272人。経営は坂根啓吉社長の株式会社中山劇場。*111
1964年の横浜市にあった「ゆたか劇場」の1周年記念写真あり。勝新太郎主演『座頭市あばれ凧』のポスターが見える。国鉄中山駅前の中山商店街にあり、中山地区では唯一の映画館だった。*112
開館年 : 1958年7月5日
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「中山映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の住宅地図では「ゆたか劇場」。1966年の映画館名簿では「ゆたか映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「パチンコニューゆたかホール」。最寄駅はJR横浜線・横浜市営地下鉄グリーンライン中山駅。
1958年7月5日、横浜市港北区台村390に「中山劇場」が開館した。オープニングは『鶯城の花嫁』と『嵐を呼ぶ男』。鉄筋造2階建て。定員272人。経営は坂根啓吉社長の株式会社中山劇場。*111
1964年の横浜市にあった「ゆたか劇場」の1周年記念写真あり。勝新太郎主演『座頭市あばれ凧』のポスターが見える。国鉄中山駅前の中山商店街にあり、中山地区では唯一の映画館だった。*112
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いつ閉館したかなどの情報はありませんが
40年ほど前に大船駅の仲通り商店街にオリオン座がありました。
手書きの映画看板の職人さんの仕事をよく眺めていました。
「神奈川県の映画館」のページに(「オリオン座」ではなく)「大船オデオン座」について記しています。