日本の映画館の総合データベースです。



横手市

増田劇場
所在地 : 秋田県平鹿郡増田町(1930年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1930年以後1934年以前
1925年の映画館名簿には掲載されていない。1930年の映画館名簿では「増田劇場」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。

増田町初の芝居小屋は「増田座」であるが、開館年や閉館年は不明である。木造2階建てであり、300人から400人を収容した。間口は5間、奥行は15間から16間だった。*1
松竹館
所在地 : 秋田県平鹿郡横手町(1930年)、秋田県平鹿郡横手町田中町(1941年)
開館年 : 1923年10月
閉館年 : 1943年
1925年の映画館名簿には掲載されていない。1930年の映画館名簿では「松竹館」。1934年・1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「松竹館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。

「松竹館」は、1923年10月に鈴木政之助が西前郷(田中町)に建てた映画館。大雄村出身の鈴木政之助は主任弁士でもあり、肥満の体躯からライオンという愛称があった。1943年に閉館した。*2

1923年10月、横手町西前郷に鈴木政之助によって「松竹館」が建てられた。横手町では「阿桜館」に次ぐ活動常設館であり、収容人員は約200人。1943年に閉館して取り壊された。*3

1923年、横手町に鈴木政之助によって「松竹館」が開館した。鈴木はライオンと称する主任弁士でもあった。松竹館は1943年に閉館した。*4

1923年10月、横手町西前郷に鈴木政之助が常設映画館「松竹館」を新築開館した。横手町では「阿桜館」に次いで開館した常設映画館であり、鈴木政之助自身が主任弁士を務めた。太平洋戦争中の1943年に閉館し、建物は取り壊された。*5
大森映画劇場
所在地 : 秋田県平鹿郡大森町(1958年・1960年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1960年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「大森映画劇場」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。

1940年頃、大森町八日町の木工場を改築して「大森映画館」が開館した。約3年で閉館した。*6
中央映画劇場
所在地 : 秋田県平鹿郡雄物川町127(1958年)、秋田県平鹿郡雄物川町37(1960年・1961年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1961年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「中央映画劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
植田劇場
所在地 : 秋田県平鹿郡十文字町植田(1958年・1960年・1961年)
開館年 : 1942年頃
閉館年 : 1961年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「植田劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。

1942年頃、十文字町植田に共同出資で「植田劇場」が建てられた。木造2階建て、約300人収容。浅舞の「白山館」と横手の映画館で用いたフィルムが回ってきた。*7

1947年に十文字町栄町の駅前に映画館「スター座」が開館すると、十文字町では植田や睦合にも映画館が開館した。テレビが普及するなどして植田や睦合の映画館が閉館し、やがてスター座も閉館した。*8
舞鶴劇場/舞鶴白山館
所在地 : 秋田県平鹿郡大森町(1958年・1960年)、秋田県平鹿郡大森町高口(1963年)
開館年 : 大正初期
閉館年 : 1963年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「舞鶴劇場」。1963年の映画館名簿では「舞鶴白山館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

大正初期、大森町五日町の舞鶴公園(大森公園)に菊地某によって「舞鶴劇場」が建てられた。木造2階建てであり、1階が劇場、2階は料理屋の舞鶴屋だった。1935年頃に椅子席となった。1960年頃にはダンスパーティなどにも使用されるようになり、その後閉館した。*9
睦合劇場
所在地 : 秋田県平鹿郡十文字町睦合(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1963年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「睦合劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

1953年、十文字町睦合の小川房治らが「睦合劇場」を建てた。木造2階建てであり、椅子席で200人を収容した。1974年頃に閉館し、第一製作所睦合工場に転用された。*10

1947年に十文字町栄町の駅前に映画館「スター座」が開館すると、十文字町では植田や睦合にも映画館が開館した。テレビが普及するなどして植田や睦合の映画館が閉館し、やがてスター座も閉館した。*11
三星劇場
所在地 : 秋田県横手市金沢町165(1958年)、秋田県横手市金沢町(1960年)、秋田県横手市金沢町165(1963年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1963年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「三星劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

1950年、横手市金沢に渡辺良平(※渡部ではなく渡辺)が自宅を改装して「三ツ星劇場」を開館させた。椅子席300人、立席200人収容。演劇や映画の興行を行い、1958年に閉館した。*12

横手市金沢地区の根小屋には、渡部良平(※渡辺ではなく渡部)が経営する「三星劇場」があり、1955年頃から1970年頃まで映画の上映が行われた。*13
沼館会館/沼館白山館
所在地 : 秋田県平鹿郡雄物川町沼館(1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1964年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「沼館会館」。1963年・1964年の映画館名簿では「沼館白山館」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

1928年に雄勝鉄道沼館駅が開業すると、佐々木某が運送店の倉庫を転用して「旭座」が開館した。ある時日本無産党の演説会が開催された際、1000人以上の群衆が押しかけて2階席が落ち、警察によって使用禁止となった。3年ほどたって解体され、旭座跡地には佐藤周一郎によって「沼館劇場」が建てられたが、1937年冬に隣家の火災で類焼した。1938年春、佐藤周一郎によって沼館劇場跡地に旭座が再建された。1948年に閉館した。*14
白山館(平鹿町)
所在地 : 秋田県平鹿郡浅舞町字浅舞181(1956年)、秋田県平鹿郡平鹿町字浅舞181(1958年)、秋田県平鹿郡平鹿町浅舞(1960年)、秋田県平鹿郡平鹿町浅舞宿館(1963年・1964年)
開館年 : 1918年
閉館年 : 1964年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「白山館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1918年、浅舞町に小原安之助によって「遊楽座」が建てられた。尾上松鶴、川田芳子、阪東玉三郎、栗島すみ子などが来演している。1933年に佐々木義治が経営者となって「白山館」に改称した。*15
阿桜館/横手阿桜館
所在地 : 秋田県平鹿郡横手町(1925年・1930年)、秋田県平鹿郡横手町大町中丁(1934年)、秋田県平鹿郡横手町大町(1936年・1941年・1943年・1946年)、秋田県平鹿郡横手町(1947年・1950年)、秋田県横手市大町仲町29(1953年・1955年・1958年)、秋田県横手市大町(1960年)、秋田県横手市大町中丁19(1963年・1965年)
開館年 : 1918年6月16日、1933年
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1933年開館。1925年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1946年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「阿桜館」。1963年の映画館名簿では「横手阿桜館」。1965年の映画館名簿では「阿桜館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「中の橋」南西50mの「市立横手病院職員専用駐車場」。最寄駅はJR奥羽本線横手駅。

1918年6月16日、横手町大町に湊谷門兵衛によって「阿桜館」が建てられた。隣接地には同時期に湊谷によって鶴の湯が新築されており、阿桜館は鶴の湯のついでに建てられたものである。中の橋のたもとにあり、横手公園に近かった。建設費は1万5000円。木造2階建て、約400人収容。鶴の湯の2階には食堂の旭館があり、旭館と阿桜館は渡り廊下で結ばれていた。1923年に「松竹館」が開館すると、横手町には阿桜館、「横手劇場」、松竹館が三つ巴で競合した。その後経営者は佐藤ブン、その息子の佐藤清助と代わり、1937年に佐藤清助が戦死すると妻の佐藤ミヨが経営者となった。戦後には改装して椅子席となり、観客の行列が中の橋の向こう側まで続くことも珍しくなかった。1949年12月には佐藤ミヨが駅前に「第一劇場」を新築し、駅前が急速に発展することとなった。阿桜館は1959年頃に閉館した。*16

1918年、横手町に湊谷門兵衛によって活動常設館「阿桜館」が建てられた。開館時はサイレント映画を上映しており、主任弁士は屋代南洋だった。1937年には阿桜館の経営権が佐藤ミヨに移った。テレビ放送に推されて映画館の客入りが悪くなると、阿桜館は1959年に閉館した。*17

「阿桜館」(あざくらかん)は、1918年に湊谷門兵衛によって建てられた活動写真館。大町中丁の中の橋通りにあった。1937年には佐藤ミヨが経営者となり、戦前には横手町唯一の常設映画館だった。1949年に閉館した。*18

1918年6月16日、実業家の湊谷門兵衛が鶴の湯の隣接地に映画常設館「阿桜館」を新築開館した。主任弁士は仙台市の「オリオン座」にいた屋代南洋である。1937年頃には佐藤ミヨが経営者となった。戦後、佐藤ミヨは駅前にも映画館の建設を計画し、1949年12月には「第一劇場」を開館させた。1955年8月30日、馬口労町の自宅を2000万円で改築してシネマスコープ劇場「横手国際劇場」を開館させた。1956年8月には「横手東映」も新築開館させ、佐藤ミヨは4館の経営者となった。佐藤ミヨの息子である佐藤毅は第一興行有限会社を設立し、1962年11月1日には第一劇場を鉄筋耐火建築に建て替えた。その後、横手東映と第一劇場は館名を交換している。*19

1905年の日露戦争後、横手町の春光寺で活動大写真を映写した記録がある。その後は「改著座」などで活動写真の興行が行われた。1918年6月、湊谷門兵衛によって横手町初の活動写真館「阿桜館」が建てられた。*20
横手劇場/横手映画劇場
所在地 : 秋田県平鹿郡横手町柳町(1934年・1936年)、秋田県平鹿郡横手町(1950年)、秋田県横手市柳町22(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1919年8月21日、1948年12月
閉館年 : 1965年
『全国映画館総覧 1955』によると1948年12月開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年の映画館名簿では「横手劇場」。1941年・1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「横手映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「光専寺」北西50mの月極駐車場「四町駐車場」。最寄駅はJR奥羽本線横手駅。

1904年、横手町柳町の戸長役場跡地の郷有地に「改著座」(かいちょうざ)が建てられた。木造平屋建てであり、700人から800人を収容した。1918年11月には株式会社が設立されると、1919年には老朽化によって改著座が取り壊され、8月21日には跡地に「横手劇場」が建てられた。こけら落としには東京歌舞伎の澤村訥子一座が来演した。木造2階建て、間口5間、奥行16間であり、3階には映写室があった。1947年には常設映画館となって「横手映画劇場」に改称した。オープニングには『王将』を上映し、行列が田中町まで続いたという。1965年3月の豪雪で屋根が落ちたことで閉館した。*21

「映劇」(横手映画劇場)は、横手市中央町5番45号にあった映画館。1904年、大水戸町・田中町・柳町・馬口労町の四町の共有地に芝居小屋「改著座」が建てられた。1918年には資本金1万7500円の株式会社横手劇場が設立され、川上勝淑が社長に就任した。「横手劇場」のこけら落としは澤村訥子一座である。1947年には鶴田耕章が借り受けて映画専門館「横手映画劇場」に改称した。1965年の豪雪で屋根が落ちたことで廃館となった。1984年現在の跡地は市民市場となっている。*22

1947年、横手町の「横手劇場」を鶴田耕章が譲り受けて映画専門館とし、「横手映画劇場」(映劇)と呼ばれるようになった。多い時で10人程度しか観客が入らなくなっていた1965年、豪雪によって屋根が落ちたことで閉館した。1981年現在の跡地は市民市場となっている。*23

1957年頃の横手市にあった「映劇」の写真あり。『愛染かつら』や『江梨子』の看板が見える。1905年に芝居小屋「改著座」(阿桜座)が建てられ、1919年に改築して「横手劇場」となった。1944年には本格的映画館「横手映劇」となったが、テレビの普及や大雪の被害などで閉館した。1980年現在の跡地は市民市場となっている。*24

1965年の横手市にあった「横手映劇」の写真あり。77年ぶりの大雪で積雪が屋根の高さに達し、横手映劇の屋根は倒壊した。1904年に芝居小屋として建てられ、1919年に改築して「横手劇場」となった。1944年に本格的な映画館の横手映劇となった。やがて跡地は市民市場となった。*25
横手国際劇場
所在地 : 秋田県横手市馬喰町19(1958年)、秋田県横手市馬口労町(1960年)、秋田県横手市馬口労町19(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1955年8月30日
閉館年 : 1967年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「横手国際劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

「国際劇場」は、1955年に横手市中央町六番に建てられた映画館。経営者は佐藤ミヨであり、自宅である芸者置屋の常盤屋を改築して映画館とした。1967年に閉館した。*26

1955年8月30日、佐藤毅は横手市馬口労町の自宅を改築して「横手国際」を開館させた。総工費は2000万円であり、250万円のシネマスコープを設置した。鉄筋コンクリート造の建物であり、350人を収容した。1967年に閉館した。*27

1955年8月30日、佐藤ミヨは馬口労町の自宅を2000万円で改築してシネマスコープ劇場「横手国際劇場」を開館させた。1956年8月には「横手東映」も新築開館させ、佐藤ミヨは4館の経営者となった。*28

1949年には横手町に佐藤ミヨによって「第一劇場」が開館し、1955年には同じく佐藤ミヨによって「国際劇場」が開館し、1956年には同じく佐藤ミヨによって「横手東映」が開館した。後に第一劇場と横手東映は館名を取り換えている。1967年には国際劇場が閉館した。*29
横手東映/横手東映劇場
所在地 : 秋田県横手市横手駅前(1958年・1960年・1963年)、秋田県横手市下飛瀬20(1966年・1969年)、秋田県横手市駅前町2-10(1973年・1975年・1976年)
開館年 : 1956年8月
閉館年 : 1976年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「横手東映」。1960年の映画館名簿では経営者が鈴木千代吉、支配人が佐藤毅、木造2階暖房付、定員310、東映を上映、電話が横手10。1961年頃の住宅地図では「横手東映」。1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年の映画館名簿では「横手東映劇場」。1963年の映画館名簿では経営者が佐藤毅、支配人が村山栄亮、鉄筋造1階暖房付、定員350、東映を上映、電話が横手10。1977年の映画館名簿には掲載されていない。1981年の住宅地図では跡地に「ジャスコ」。跡地は「横手バスターミナル」。最寄駅はJR奥羽本線横手駅。

「横手東映」は、1956年に横手駅前町に開館した映画館。この頃は東映の全盛期であり、日本各地に東映の名を冠した映画館が誕生した。1975年頃に閉館した。*30

戦後、佐藤ミヨは駅前にも映画館の建設を計画し、1949年12月には横手駅前に「第一劇場」を開館させた。1955年8月30日、馬口労町の自宅を2000万円で改築してシネマスコープ劇場「横手国際劇場」を開館させた。1956年8月には第一劇場の反対側の富士見町通りに「横手東映」も新築開館させ、佐藤ミヨは4館の経営者となった。佐藤ミヨの息子である佐藤毅は第一興行有限会社を設立し、1962年11月1日には第一劇場を鉄筋耐火建築に建て替えた。その後、横手東映と第一劇場は館名を交換している。*31

1956年6月、横手市の横手駅前に佐藤毅によって「横手東映」が建てられた。木造モルタル平屋建一部2階建、椅子席300人収容。後に「横手第一劇場」に改称した。*32

1956年頃、横手市の「第一劇場」が1区から3区に移転したことで、第一劇場の跡地に「横手東映」が開館した。第一劇場の旧所在地は1区の羽後バス到着ホーム付近であり、新所在地は3区の北都銀行横手駅前支店付近である。横手東映は1975年頃に閉館し、その後第一劇場も閉館した。1976年6月には都市計画によって横手東映の建物が取り壊された。*33

『横手駅前地域のあゆみ』には住宅地図「昭和36年ころの駅前地域」が掲載されており、「横手東映」と「第一映画館」が描かれている。*34
横手日活第一劇場/横手第一劇場
所在地 : 秋田県横手市駅前(1953年)、秋田県横手市横手駅前(1955年・1958年・1960年・1963年)、秋田県横手市下飛瀬10(1966年・1969年)、秋田県横手市駅前町1-12(1973年・1975年・1978年・1980年・1981年)
開館年 : 1949年12月、1956年頃(移転)
閉館年 : 1981年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「横手第一劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が鈴木千代吉、支配人が佐藤毅、木造2階暖房付、定員293、松竹・洋画を上映、電話が横手955。1963年の映画館名簿では経営者が佐藤毅、支配人が村山栄亮、木造1階暖房付、定員350、洋画を上映、電話が横手955。1966年・1969年の映画館名簿では「横手日活第一劇場」。1973年・1975年・1978年・1980年・1981年の映画館名簿では「横手第一劇場」。1981年の住宅地図では「第一映画館 サッポロラーメンどさん子」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「北都銀行横手支店」。最寄駅はJR奥羽本線横手駅。

「横手第一劇場」は、1949年に駅前町に建てられた映画館。経営者は佐藤ミヨ。テレビの普及によって映画観客数が減少し、1981年に横手第一劇場が閉館したことで、横手市から映画館がなくなった。*35

1949年12月、横手駅前の下飛瀬に「阿桜館」経営者の佐藤ミヨによって「第一劇場」が建てられた。木造モルタル平屋建一部2階建であり、椅子席350人収容。1962年2月に火災で全焼すると、同年11月1日に鉄骨鉄筋コンクリート造で再建され、佐藤ミヨの息子の佐藤毅が経営者となった。1965年頃には「横手東映」に改称し、オープニングには梅宮辰夫が来館した。*36

戦後、佐藤ミヨは駅前にも映画館の建設を計画し、1949年12月には横手駅前に「第一劇場」を開館させた。1955年8月30日、馬口労町の自宅を2000万円で改築してシネマスコープ劇場「横手国際劇場」を開館させた。1956年8月には第一劇場の反対側の富士見町通りに「横手東映」も新築開館させ、佐藤ミヨは4館の経営者となった。佐藤ミヨの息子である佐藤毅は第一興行有限会社を設立し、1962年11月1日には第一劇場を鉄筋耐火建築に建て替えた。その後、横手東映と第一劇場は館名を交換している。*37

1949年、横手市の横手駅前に「第一劇場」が開館した。横手駅前に初めて開館した映画館であり、郵便局と平沢旅館に挟まれていた。1956年頃、第一劇場が1区から3区に移転したことで、第一劇場の跡地に「横手東映」が開館した。第一劇場の旧所在地は1区の羽後バス到着ホーム付近であり、新所在地は3区の北都銀行横手駅前支店付近である。横手東映は1975年頃に閉館し、その後第一劇場も閉館した。1981年、第一劇場が閉館して虜wされた。*38

『横手駅前地域のあゆみ』には住宅地図「昭和36年ころの駅前地域」が掲載されており、「横手東映」と「第一映画館」が描かれている。*39
昭和館/増田昭和館
所在地 : 秋田県平鹿郡増田町字田町(1930年)、秋田県平鹿郡増田町田町(1934年・1936年)、秋田県平鹿郡増田町(1943年)、秋田県平鹿郡増田町増田字田町(1946年)、秋田県平鹿郡増田町(1947年・1950年)、秋田県平鹿郡増田町田町120-7(1953年・1955年)、秋田県平鹿郡増田町田町120-6(1958年・1960年)、秋田県平鹿郡増田町字田町(1963年)、秋田県平鹿郡増田町田町127(1966年・1969年)、秋田県平鹿郡増田町田町(1973年)、秋田県平鹿郡増田町田町28(1975年・1978年・1980年・1982年)
開館年 : 1931年頃
閉館年 : 1982年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1925年の映画館名簿には掲載されていない。1930年の映画館名簿では「昭和座」。1934年・1936年の映画館名簿では「昭和館」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1946年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「昭和館」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「増田昭和館」。1982年の映画館名簿では経営者・支配人ともに高野昭男、木造1階、200席、邦画・洋画・成人映画を上映。1983年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の住宅地図では「昭和館」。跡地は「佐藤養助漆蔵資料館」北北西110mの建物。最寄駅はJR奥羽本線十文字駅。

1931年3月19日午前3時20分、増田町の「増田昭和館」から出火し、4時20分に鎮火した。損害額5000円。*40

1931年3月19日、増田町の「増田昭和館」から出火した。*41

1931年頃、増田町田町に高野昭男によって映画常設館「昭和館」が建てられた。木造モルタル2階建であり、収容人員は1階が250人、2階が150人だった。*42
スタア座/十文字スター/十文字スター座
所在地 : 秋田県平鹿郡十文字町(1947年・1950年)、秋田県平鹿郡十文字町本町1(1953年)、秋田県平鹿郡十文字町東町1(1955年)、秋田県平鹿郡十文字町本町1(1958年・1960年)、秋田県平鹿郡十文字町1(1963年)、秋田県平鹿郡十文字町本町1-1(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1984年)
開館年 : 1946年8月
閉館年 : 1984年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年8月開館。1947年の映画館名簿では「スタア座」。1950年の映画館名簿では「スター座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「スタア座」。1966年の映画館名簿では「十文字スター座」。1969年の映画館名簿では「十文字スター」。1973年の映画館名簿では「十文字スター座」。1975年・1978年の映画館名簿では「十文字スター」。1980年・1982年の映画館名簿では「十文字スター座」。1982年の映画館名簿では経営者が佐藤千恵子、支配人が佐藤元、木造1階、300席、邦画・洋画を上映。1984年の映画館名簿では「十文字スタア座」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の住宅地図では現在の「北都銀行十文字支店」の場所に「マルシメ十文字店」があるが関連は不明。

1947年、十文字町に常設映画館「スター座」が開館した。*43

1946年5月、十文字町本町に佐藤忠治によって「スタア座」が建てられた。木造モルタル平屋建一部2階建の建物であり、椅子席で250人を収容した。間口7間、奥行15間。1957年に佐藤忠治が死去すると、妻の佐藤千恵子が経営者となった。1960年に改築し、1976年現在も営業中である。*44

1947年、十文字町栄町の駅前交差点付近に常設映画館「スター座」が設立された。娯楽が乏しい時代であり、交通の便が良いことから賑わった。その後、十文字町では植田や睦合にも映画館が開館した。テレビが普及するなどして植田や睦合の映画館が閉館し、やがてスター座も閉館した。*45

1947年、十文字駅前の交差点付近に「スタア座」が開館した。昭和30年代の十文字町にはスタア座、「植田劇場」、「睦合劇場」の3館、横手市・平鹿郡には計15館、秋田県内には計125館の映画館があった。*46

十文字スタア座に言及している雑誌記事として、「われらの映画館 十文字スタア座」『キネマ旬報』1976年6月上旬号がある。*47

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