所在地 : 和歌山県和歌山市元寺町1(1943年)、和歌山県和歌山市築地(1947年)、和歌山県和歌山市元寺町(1950年)、和歌山県和歌山市元寺町1(1953年)、和歌山県和歌山市元寺町1-15(1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年・1990年)、和歌山県和歌山市元寺町1-13(1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1938年、1957年8月28日(建て替え)
閉館年 : 2005年8月31日
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「文化ニュース館」。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「築地映画劇場」。1959年の和歌山市住宅案内図では「築映」。1966年の住宅地図では「松竹築地映画劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「和歌山築地映画劇場」。1978年のゼンリン住宅地図では「松竹築地映画劇場」。1980年・1985年の映画館名簿では「松竹築映・築映ピカデリー・築映文化ホール」(3館)。1989年の住宅地図では「築映ピカデリー 松竹築映 築映文化ホール シネマプラザ デイリークイン」。1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「シネマプラザ築映1-4」(4館)。2002年の住宅地図では「シネマプラザ築映」。2006年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は和歌川に架かる雑賀橋北西の「松本駐車場」。最寄駅はJR和歌山駅または南海電鉄和歌山市駅。
1937年に元寺町1丁目の雑賀橋西詰に「文化ニュース館」が開館した際の写真あり。日中戦争の影響もあり、市民に戦争ニュースを提供する文化ニュース館が開館した。格安の料金で文化映画を併映していた。
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1951年の「築映」の写真あり。淡島千景主演の松竹作品『自由学校』のポスターが見える。1937年から「文化ニュース館」として親しまれていたが、1951年頃に築映に改称した。
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1957年8月28日、和歌山市元寺町の「築地映画劇場」が開館した。オープニングは『大忠臣蔵』。工費6000万円で改築中だった。大谷竹次郎松竹会長、小野真次和歌山県知事などが列席し、俳優の大木実が舞台挨拶を行った。鉄骨鉄筋コンクリート造3階建て。座席数1028席。スクリーンは38尺×17尺。経営は井谷長治。
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1957年8月に生まれ変わった「松竹築地映画劇場」の写真あり。
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1967年頃の和歌山市にあった「築地映画劇場」の写真あり。『紀ノ川』の看板が見える。手前は住吉神社の垣根。住吉神社は界隈の商店主らを氏子としていた。
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1977年の和歌山市にあった「帝国座」と「築映」の写真あり。雑賀橋を挟んで2館があり、界隈の喫茶店・本屋・カレー屋などで時間を潰せた。帝国座には『八甲田山』の看板が、築映には『泣きながら笑う日』や『かあちゃんしぐのいやだ』の看板が見える。
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2005年8月末、和歌山市元寺町1の映画館「シネマプラザ築映」が閉館する。2005年2月末には同じくぶらくり丁の映画館「和歌山東映シネマ」が閉館したばかりだった。シネマプラザ築映の閉館によってぶらくり丁から映画館が姿を消す。1938年にニュース映画専門館「文化ニュース館」として開館し、太平洋戦争の戦況を伝えるニュース映画などを上映していた。1945年には空襲で焼失したが、1946年には再建されて「築地映画劇場」として再開館した。1979年には3スクリーンの映画複合施設としてリニューアル開館し、現在の名称となった。約40年前の映画全盛期には、ぶらくり丁だけで映画館が5館以上あった。「中ぶらくり丁の築映」として親しまれた。1998年には百貨店の大丸が、2001年には老舗百貨店の丸正が閉店して市街地中心部の空洞化が進み、2004年12月には郊外に10スクリーンを有する「ジストシネマ10」が開館していた。8月20日からは最終上映作品として、戦争を題材とするアニメ映画『ガラスのうさぎ』を上映する。戦後すぐの築地映画劇場の写真あり。
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2005年8月31日、和歌山市のぶらくり丁にある映画館「シネマプラザ築映」が閉館する。1938年にニュース映画を上映する「文化ニュース館」として開館したが、太平洋戦争の戦災で焼失した。1946年に「築地映画劇場」として再建され、1979年に複合映画施設「シネマプラザ築映」としてリニューアルした。和歌山県出身の監督が製作した作品や和歌山県出身の俳優が出演した作品を積極的に上映し、2004年には高野山でロケが行われた『娘道成寺 蛇炎の恋』を上映した。また、小学校や公民館などでの移動上映会を開催するなど、地域密着型の映画館として知られた。2004年12月には郊外に10スクリーンのシネコンが開館し、売上高は3分の1にまで減少していた。最終日の8月31日には「さよなら! シネマプラザ築映 ファンの集い」を開催し、落語家の桂枝曽丸などが思い出を語り合う。
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1938年、「文化ニュース館」として現在地の雑賀橋たもとに開館。太平洋戦争の空襲で被災したが、1946年に「築地映画劇場」として再建。1979年には和歌山県初の名画専門館を併せ持つ3スクリーンの映画複合施設「シネマプラザ築映」としてリニューアル開館。1989年には4スクリーン化。ぶらくり丁にはシネマプラザ築映のほかに、帝国座、東映シネマもあり、3施設7スクリーンで年間20万人を動員してきた。2003年には帝国座が閉館し、帝国館を借り受けてシネマプラザ築映5としたが、2004年9月にはシネマプラザ築映5を契約満了で閉館させた。2005年2月には東映シネマが閉館し、ぶらくり丁の映画館はシネマプラザ築映1・2・3・4だけとなった。2004年には大阪府泉南市と和歌山市郊外にシネコンが相次いで開館したことで、シネマプラザ築映の観客数は1/3にまで減少した。1スクリーンを閉館させたが好転せず、全館閉館となった。
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2005年8月31日、和歌山市の映画館「築地映画劇場」が閉館する。1938年に文化ニュース館として開館。1945年には戦災で焼失したが、1946年に築地映画劇場として再開した。1979年には1スクリーンから3スクリーンに。2004年の観客数は約16万人だったが、近年は1/3にまで減少していた。
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