所在地 : 長野県飯田市中央通り(1953年)、長野県飯田市中央通1(1955年)、長野県飯田市中央通1-5(1958年・1960年・1963年・1964年・1965年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1992年・1995年・1998年・1999年・2000年・2002年・2004年・2005年・2010年・2011年・2012年・2015年・2020年)
開館年 : 1949年7月、1965年頃(2館化)
閉館年 : 営業中
Wikipedia :
飯田センゲキシネマズ
『全国映画館総覧 1955』によると1949年7月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「中央劇場」。1959年の飯田市住宅案内図では「飯田東映 中央劇場」。1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「飯田東映中劇」。1965年の映画館名簿では経営者が松浦慶太郎、支配人が石田正三、木造2階冷暖房付、定員600、東映を上映。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「飯田地下中央劇場・飯田名画座」(2館)。1969年の映画館名簿では経営者が松浦慶太郎、地下中央劇場の支配人が石田正三、名画座の支配人が遠藤昭伍、地下中央劇場が鉄筋造地下冷暖房付で定員320で松竹・大映・東映を上映、名画座が鉄筋造2階冷暖房付で170席で洋画を上映。1975年・1976年・1978年・1980年の映画館名簿では「飯田中央劇場・飯田名画座」(2館)。1980年の映画館名簿では経営会社が中劇総合ビル、経営者が松浦慶太郎、支配人が松浦光芳、中央劇場が鉄筋造地下で270席で松竹・東映・日活を上映、名画座が鉄筋造2階で144席で洋画を上映。1985年・1990年の映画館名簿では「飯田中央劇場1・2」(2館)。1992年の映画館名簿では「飯田千劇1・2」(2館)。1995年・1998年・1999年の映画館名簿では「飯田千劇シアター1・2」(2館)。1999年の映画館名簿では経営会社が有限会社千劇、経営者が松浦正江、支配人が松浦正幸、1が鉄筋造地下で217席、2が鉄筋造2階で168席、3が鉄筋造2階で60席、いずれも邦画・洋画を上映。2000年・2002年・2004年の映画館名簿では「飯田千劇シアター1・2・3」(3館)。2002年の映画館名簿では経営会社が有限会社千劇、経営者が松浦正江、支配人が松浦正幸、1が鉄筋造地下で217席、2が鉄筋造2階で168席、3が鉄筋造2階で60席、いずれも邦画・洋画を上映。2005年・2010年の映画館名簿では「飯田センゲキシネマズ1・2・3」(3館)。2011年・2012年・2015年・2020年の映画館名簿では「飯田センゲキシネマズシネマアウル・飯田センゲキシネマズ1・2・3」(4館)。2011年の映画館名簿では経営会社が有限会社千劇、経営者が松浦正江、支配人が松浦正幸、アウルが鉄筋造1階で87席、1が鉄筋造地下1階で217席、2が鉄筋造2階で115席、3が鉄筋造2階で60席、いずれも邦画・洋画を上映。最寄駅はJR飯田線飯田駅。
1947年の飯田大火前に電気館があった場所には、飯田大火後に中劇が開館した。やがて千劇と改称し、2016年現在はセンゲキシネマズとなっている。昭和30年代前半の中劇時代の写真あり。
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下荒町にある中央通り、1988年現在の「中劇」付近の1947年以前の写真あり。右側に映画の常設館である「電気館」と「帝国館」が並んでいる。1947年の飯田大火後に「中央劇場」が建てられた。
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1962年の飯田市にあった「中央劇場」の写真あり。
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1962年の飯田市にあった「中劇」の食堂の写真あり。映画館の中劇に併設された大衆食堂であり、入口・内部ともに映画ポスターや映画俳優/女優のポスターで飾られていた。
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1966年の人文社「飯田市全図」には「飯田日活」「中央劇場」「銀星会館」「常盤劇場」が描かれている。
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1913年に下伊那郡上飯田町に生まれた鈴木俊平は、1947年に鈴木建築設計事務所を設立した。鈴木建築設計事務所が設計した劇場・映画館・遊戯場としては、飯田市の「常盤劇場」(1960年以前、木造、現存せず)、駒ケ根市の「赤穂キネマ」(1960年、木造、現存せず)、松本市の「松本銀映座」(1960年、RC造、所在不明)、伊那市の「中央劇場」(1960年、RC造、現存せず)、伊那市の「伊那映画劇場」(1960年、RC造、現存)、飯田市の「中央劇場」(1964年、RC造、現存)がある。
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2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。