消えた映画館の記憶 - 飯田市の映画館


飯田市

飯田市の劇場
江戸時代から下伊那では人形芝居や地芝居が盛んだった。明治時代にはたびたび東京の役者が訪れて興行を行っている。1899年には羽場坂の「歌舞伎座」のこけら落とし公演に五代目音羽屋尾上菊五郎一座が訪れ、また主税町の「曙座」の改築祝いには大阪の市川左団次が訪れ、東西の人気役者が同時に飯田の町で興行したことから連日満員だった。1915年には松井須磨子や島村抱月らの一行が訪れ、抱月は「糸の都、芝居の王国、飯田の皆さん」と挨拶した。昭和に入ると市田に「昭和劇場」、阿知に「駒場劇場」、時又に「時又劇場」、下條に「四海座」、新野に「開明座」などが開業した。*1

1927年11月にはトーキー映画が飯田で初公開された。1928年には中山晋平作曲の「龍峡小唄」が発表された。1929年には男性オペラ歌手の藤原義江が、1930年には女性声楽家の関谷敏子が飯田を訪れている。そのころには飯田に「若松座」と「飯田帝国館」が開館しており、下伊那地方では「時又劇場」や「大島劇場」が開館している。*2

明治以来の飯田市街地に設けられた劇場や映画館の分布図あり。このほかに飯田以外の下伊那地方には、松川町大島に「新富座」(1909年開館)、「大島劇場」(1927年開館)、市田に「昭和劇場」(1928年開館、のち「高森会館」)、阿智村に「駒場劇場」(1929年開館)、時又に「時又劇場」(1927年開館)、八幡に「八幡会館」、天竜峡に「龍峡会館」あるいは「天竜峡会館」(戦後開館)、喬木村に「阿島劇場」、下条村北又に「四海座」、阿南町新野に「開明座」があった。さらには和田(南信濃村)、平岡(天龍村)にも劇場があった。*3
飯田市の映画館
太平洋戦争前から飯田市には、「帝国館」や「大松座」など多くの映画館があった。戦後の1949年には洋画専門館として主税町3丁目に「銀星会館」が開館した。1958年8月には映画雑誌『月刊・飯田 映画ノート』が飯田市で創刊されており、「編集後記」には「せまい飯田にも、「常盤」、「中央」、「銀星」の他に1958年9月に開館する「飯田松竹劇場」と4つの映画館をもつことになります。各館で毎週上映される数は沢山です」と述べており、また「毎月の各館の上映目録をまっ先に掲載して、これは『みた方がよいもの』は責任をもって推薦し、それについては詳しい解説をのせる」、「よい映画のための案内をはたす」ものとして誕生したと謳っている。編集責任者は菊池幸子であり、編集委員には池田憲介や高堂正男ら飯田の社会教育関係者も名を連ねている。のちには同人誌『橋』の林俊も参加していた。*4

1947年の飯田大火前、飯田市には下荒町(中央通り1)に「電気館」と「帝国館」が軒を並べていた。古くは「末広座」や「大松座」や「飯田劇場」が映画も上映していた。飯田大火後、電気館跡は「中劇」となり、銀座の角に「常盤劇場」が開館した。さらに主税町には、1950年に洋画を専門とする「銀星会館」が開館した。娯楽に飢えた時代の映画館はいつも満員の盛況だった。とりわけ洋画専門の銀星会館は長らく禁じられてきた外国語と西洋の文化に触れる唯一の機会であり盛況を極めた。やがてテレビが普及し、その後カラーテレビが流行り始めると、映画館から人々の足が遠のき急速に衰退していった。1970年にはついに銀星会館が閉館した。中央通り3丁目にも「松竹劇場」のち「日活劇場」があったが閉館となった。中劇は「千劇」と名を変え、「トキワ劇場」と2館のみが上映をつづけている。写真1は大火復興後の常盤劇場。写真2は復興記念館と常盤劇場。この建物は今はない。写真3は大火後の電気館跡にできた中劇。カラー映画は総天然色といい、いつも満員だった。写真4は洋画専門の銀星会館。西部劇からフランス映画と多くの人々に思い出を残して消えて行った。*5}

国立国会図書館デジタルコレクションで「図書館送信資料」(参加館公開)となっている村沢武夫『伊那の芸能』(伊那史学会、1967年)には、飯田市の「中央劇場」、「常盤劇場」、「銀星会館」、「飯田日活劇場」などが掲載されている。郡部の「大島劇場」、「駒場劇場」、「時又劇場」、「竜峡会館」、「阿島劇場」などが掲載されている。*6
橘亭/若松座/大松座
所在地 : 長野県飯田市
開館年 : 1891年
閉館年 : 1947年4月20日
1947年4月20日の飯田大火で焼失。1954年には跡地に復興記念館が竣工。跡地は「橋南防災センター」。

1928年の『大日本職業別明細図之内』には「電気館」と「若松座」が描かれている。*7

金子常光『飯田を中心とせる下伊那名所大観』、1935年には「大松座」が描かれている。*8

1891年、現在の橋南防災センターの場所に寄席の「橘亭」が開館した。門前へ若松を植えたことからやがて「若松座」と改め、主に新派の演劇を上演していた。1932年には「大松座」に改称し、戦後すぐの1945年12月には「市長公選、在外同胞救済、失業対策の確立、家庭用塩の増配」等の決議をした市民大会が開かれた。1947年4月の飯田大火で焼失した。写真あり。*9

1947年以後1954年以前の「大松座」跡地の写真あり。1947年の飯田大火後、上常盤町や扇町の南側は防火のための緑地帯となり、建物の建設が禁じられた。大松座の経営者は北側に移転し、映画の常設館である「常盤劇場」を開館させた。大火が起こる原因は鼎側から松川を越えて吹き上げる風であるとされ、1954年には防風を兼ねた施設として復興記念館が建てられた。現在は橋南防災センター(橋南公民館)に建て替えられている。*10

飯田市の「若松座」。1891年に吉田定次郎によって建築され、1947年の飯田大火で焼失した。収容人員は500人。木造2階建て、切妻。廻り舞台と本花道を有していた。*11
帝国館/飯田帝国館
所在地 : 長野県下伊那郡飯田町(1930年)、長野県下伊那郡飯田町荒町(1934年)、長野県下伊那郡飯田町下荒町(1936年)、長野県飯田市(1941年)、長野県飯田市飯田(1943年)、長野県飯田市中通り1400(1947年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1947年4月20日
1925年の映画館名簿には掲載されていない。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「帝国館」。1947年の映画館名簿では「飯田帝国館」。1947年4月20日の飯田大火で焼失。1950年の映画館名簿には掲載されていない。
電気館/飯田電気館
所在地 : 長野県下伊那郡飯田町(1925年・1930年)、長野県下伊那郡飯田町荒町(1934年)、長野県下伊那郡飯田町(1936年)、長野県飯田市中央通り(1941年・1943年)、長野県飯田市下荒町1401(1947年)
開館年 : 1928年以前
閉館年 : 1947年4月20日
1925年の映画館名簿では「飯田電気館」。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「電気館」。1947年の映画館名簿では「飯田電気館」。1947年4月20日の飯田大火で焼失。1950年の映画館名簿には掲載されていない。

1928年の『大日本職業別明細図之内』には「電気館」と「若松座」が描かれている。*12
飯田劇場/飯田会館
所在地 : 長野県飯田市常盤町(1941年)、長野県飯田市飯田(1943年)
開館年 : 1925年(飯田劇場)、1938年(飯田会館)
閉館年 : 1947年4月20日
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年の映画館名簿では「飯田会館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1947年4月20日の飯田大火で焼失。1959年の飯田市住宅案内図では跡地に駐車場。1998年の住宅地図では「信南交通バスターミナル」。跡地は「信南交通バスターミナル」。最寄駅はJR飯田線飯田駅。

1925年には「飯田劇場」が開館したが、1932年2月の失火により焼失した。その後株式を募り、1938年3月に「飯田会館」として再建された。1996年現在では信南交通バスターミナルの一角に位置していた。1947年の飯田大火で焼失する前の飯田会館の写真あり。*13

飯田市の「飯田劇場」。1925年に建築され、1947年の飯田大火で焼失した。収容人員は1000人。木造2階建て。廻り舞台を持たなかったが、本花道を有していた。*14

戦前の興行中の劇場「飯田会館」の写真あり。*15
銀星会館/飯田銀星会館
所在地 : 長野県飯田市主税町(1953年)、長野県飯田市主税町3(1955年・1958年・1960年・1963年)、長野県飯田市主税町3-1(1966年・1969年)
開館年 : 1949年12月
閉館年 : 1969年10月
『全国映画館総覧 1955』によると1949年11月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「銀星会館」。1959年の飯田市住宅案内図では「銀星会館」。1966年・1969年の映画館名簿では「飯田銀星会館」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。1990年の住宅地図では跡地に「リンク会館」。跡地は「いいだ会館貸しホール」。最寄駅はJR飯田線飯田駅。

「銀星会館」の写真あり。1949年12月、洋画専門の映画館として飯田市主税町に銀星会館が開館した。1990年現在のリンク会館の場所である。建物の正面にはアメリカの映画製作各社のマークがつけられていたが、やがて外されて「The Ginsei」の文字に代わった。1969年10月に閉館した。*16

1950年には主税町に洋画を専門とする銀星会館が開館した。銀星会館は1970年に閉館した。*17

1966年の人文社「飯田市全図」には「飯田日活」「中央劇場」「銀星会館」「常盤劇場」が描かれている。*18
飯田松竹劇場/飯田日活劇場
所在地 : 長野県飯田市中央通(1959年)、長野県飯田市中央通4(1960年)、長野県飯田市中央通4-2(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1970年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「飯田松竹劇場」。1959年の飯田市住宅案内図では「飯田松竹劇場」。1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「飯田日活劇場」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は古着屋「アンダー7丘の上」などが入る「ガーデンズプラザ」。最寄駅はJR飯田線飯田駅。

1961年3月1日、飯田市中央通1丁目の「飯田松竹劇場」が60番目の日活直営館となって「飯田日活劇場」に改称した。経営する前田英俊と日活との間に3年間の賃借契約が結ばれた。経営は傍系の太陽企業。*19

1966年の人文社「飯田市全図」には「飯田日活」「中央劇場」「銀星会館」「常盤劇場」が描かれている。*20
中央劇場/飯田東映中劇/飯田地下中央劇場・飯田名画座/飯田中央劇場・飯田名画座/飯田中央劇場1・2/飯田千劇シアター1・2/飯田千劇シアター1・2・3/飯田センゲキシネマズ1・2・3/飯田センゲキシネマズ シネマアウル・飯田センゲキシネマズ1・2・3
所在地 : 長野県飯田市中央通り(1953年)、長野県飯田市中央通1(1955年)、長野県飯田市中央通1-5(1958年・1960年・1963年・1964年・1965年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1992年・1995年・1998年・1999年・2000年・2002年・2004年・2005年・2010年・2011年・2012年・2015年・2020年)
開館年 : 1949年7月、1965年頃(2館化)
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 飯田センゲキシネマズ
『全国映画館総覧 1955』によると1949年7月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「中央劇場」。1959年の飯田市住宅案内図では「飯田東映 中央劇場」。1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「飯田東映中劇」。1965年の映画館名簿では経営者が松浦慶太郎、支配人が石田正三、木造2階冷暖房付、定員600、東映を上映。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「飯田地下中央劇場・飯田名画座」(2館)。1969年の映画館名簿では経営者が松浦慶太郎、地下中央劇場の支配人が石田正三、名画座の支配人が遠藤昭伍、地下中央劇場が鉄筋造地下冷暖房付で定員320で松竹・大映・東映を上映、名画座が鉄筋造2階冷暖房付で170席で洋画を上映。1975年・1976年・1978年・1980年の映画館名簿では「飯田中央劇場・飯田名画座」(2館)。1980年の映画館名簿では経営会社が中劇総合ビル、経営者が松浦慶太郎、支配人が松浦光芳、中央劇場が鉄筋造地下で270席で松竹・東映・日活を上映、名画座が鉄筋造2階で144席で洋画を上映。1985年・1990年の映画館名簿では「飯田中央劇場1・2」(2館)。1992年の映画館名簿では「飯田千劇1・2」(2館)。1995年・1998年・1999年の映画館名簿では「飯田千劇シアター1・2」(2館)。1999年の映画館名簿では経営会社が有限会社千劇、経営者が松浦正江、支配人が松浦正幸、1が鉄筋造地下で217席、2が鉄筋造2階で168席、3が鉄筋造2階で60席、いずれも邦画・洋画を上映。2000年・2002年・2004年の映画館名簿では「飯田千劇シアター1・2・3」(3館)。2002年の映画館名簿では経営会社が有限会社千劇、経営者が松浦正江、支配人が松浦正幸、1が鉄筋造地下で217席、2が鉄筋造2階で168席、3が鉄筋造2階で60席、いずれも邦画・洋画を上映。2005年・2010年の映画館名簿では「飯田センゲキシネマズ1・2・3」(3館)。2011年・2012年・2015年・2020年の映画館名簿では「飯田センゲキシネマズシネマアウル・飯田センゲキシネマズ1・2・3」(4館)。2011年の映画館名簿では経営会社が有限会社千劇、経営者が松浦正江、支配人が松浦正幸、アウルが鉄筋造1階で87席、1が鉄筋造地下1階で217席、2が鉄筋造2階で115席、3が鉄筋造2階で60席、いずれも邦画・洋画を上映。最寄駅はJR飯田線飯田駅。

1947年の飯田大火前に電気館があった場所には、飯田大火後に中劇が開館した。やがて千劇と改称し、2016年現在はセンゲキシネマズとなっている。昭和30年代前半の中劇時代の写真あり。*21

下荒町にある中央通り、1988年現在の「中劇」付近の1947年以前の写真あり。右側に映画の常設館である「電気館」と「帝国館」が並んでいる。1947年の飯田大火後に「中央劇場」が建てられた。*22

1962年の飯田市にあった「中央劇場」の写真あり。*23

1962年の飯田市にあった「中劇」の食堂の写真あり。映画館の中劇に併設された大衆食堂であり、入口・内部ともに映画ポスターや映画俳優/女優のポスターで飾られていた。*24

1966年の人文社「飯田市全図」には「飯田日活」「中央劇場」「銀星会館」「常盤劇場」が描かれている。*25

1913年に下伊那郡上飯田町に生まれた鈴木俊平は、1947年に鈴木建築設計事務所を設立した。鈴木建築設計事務所が設計した劇場・映画館・遊戯場としては、飯田市の「常盤劇場」(1960年以前、木造、現存せず)、駒ケ根市の「赤穂キネマ」(1960年、木造、現存せず)、松本市の「松本銀映座」(1960年、RC造、所在不明)、伊那市の「中央劇場」(1960年、RC造、現存せず)、伊那市の「伊那映画劇場」(1960年、RC造、現存)、飯田市の「中央劇場」(1964年、RC造、現存)がある。*26

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
常盤劇場/飯田常盤劇場1号館・2号館/飯田常盤劇場/飯田常盤劇場1・2・3
所在地 : 長野県飯田市下荒町1154(1950年)、長野県飯田市銀座通り(1953年)、長野県飯田市銀座5-2(1955年)、長野県飯田市銀座町(1958年)、長野県飯田市銀座5-2(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1974年・1975年・1978年・1980年・1981年・1982年・1985年・1987年・1988年・1990年・1995年・1998年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1948年12月、1974年頃?(建て替え)、1999年頃(3館化)
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 飯田トキワ劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1948年12月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「飯田常盤劇場」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「常盤劇場」。1959年の飯田市住宅案内図では「常盤劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「飯田常盤劇場」。1973年の映画館名簿では経営者が堀きく、支配人が星合恒世、木造2階暖房付、752席、洋画を上映。1974年の映画館名簿には掲載されていない。1975年・1976年・1978年・1980年・1981年の映画館名簿では「飯田常盤劇場1号館・2号館」(2館)。1975年の映画館名簿では経営会社が常盤劇場、経営者が堀きく、支配人が堀貞子、鉄筋造2階冷暖房付、1号館が250席で洋画を上映、2号館が150席で洋画を上映。1981年の映画館名簿では経営会社が常盤劇場、経営者が堀きく、支配人が堀恒世、鉄筋造2階、1号館が180席で東宝を上映、2号館が150席で洋画を上映。1982年・1985年・1986年・1988年・1990年・1995年・1998年・1999年の映画館名簿では「飯田常盤劇場」。1982年の映画館名簿では経営会社が有限会社常盤興業、経営者が堀恒世、支配人が代田秋弘、鉄筋造1階、165席、東宝・洋画を上映。2000年・2005年・2010年・2015年・2018年・2020年の映画館名簿では「飯田常盤劇場1・2・3」(3館)。2020年の映画館名簿では経営会社が有限会社常盤興業、経営者が堀秀麿、支配人が堀貴子、1が140席、2が90席、3が40席。飯田トキワ劇場とも呼ばれる。最寄駅はJR飯田線飯田駅。

1913年に下伊那郡上飯田町に生まれた鈴木俊平は、1947年に鈴木建築設計事務所を設立した。鈴木建築設計事務所が設計した劇場・映画館・遊戯場としては、飯田市の「常盤劇場」(1960年以前、木造、現存せず)、駒ケ根市の「赤穂キネマ」(1960年、木造、現存せず)、松本市の「松本銀映座」(1960年、RC造、所在不明)、伊那市の「中央劇場」(1960年、RC造、現存せず)、伊那市の「伊那映画劇場」(1960年、RC造、現存)、飯田市の「中央劇場」(1964年、RC造、現存)がある。*27

昭和30年代の「常盤劇場」の前の写真あり。常磐町を信南交通の旧型バスが走っている。まだ道路に横断歩道はなく、和服姿の市民もちらほらと見える。*28

1966年の人文社「飯田市全図」には「飯田日活」「中央劇場」「銀星会館」「常盤劇場」が描かれている。*29

「トキワ劇場」に言及している書籍として、大屋尚浩『日本懐かし映画館大全』辰巳出版、2017年がある。*30

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。