所在地 : 大分県日田市大字庄(1950年)、大分県日田市本庄町(1953年・1955年)、大分県日田市本庄町30(1958年)、大分県日田市本庄町(1959年・1960年・1963年)、大分県日田市本庄町30(1966年)、大分県日田市本庄町3-4(1969年・1970年)
開館年 : 1921年9月15日、1959年頃(建て替え)
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「日田映画劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「日田映劇」。1958年の映画館名簿では「日田映画劇場」。1958年の映画館名簿では経営者・支配人ともに河津玉喜、木造2階暖房付、定員769、東映・日活を上映。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「日田映劇」。1959年の映画館名簿では経営者が穴井助三、支配人が穴井玉喜、木造2階暖房付、定員750、東映・日活を上映。1960年の映画館名簿では経営者が穴井玉喜、支配人が山形政行、鉄筋造2階冷暖房付、定員600、大映を上映。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「日田映画劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が穴井玉喜、支配人が市丸等、鉄筋造2階冷暖房付、定員650、大映・東宝を上映。1971年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1975年の住宅地図では跡地に「パチンコライオン」。1986年の住宅地図では跡地に「家具卸センター秀島日田店」。建物は「天領日田洋酒博物館」として現存。最寄駅はJR久大本線日田駅。
1921年9月15日、「日田劇場」の落成式が開催された。
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1921年、日田町に町営の「日田劇場」が設立された。同年には文化施設として日田公会堂も建設されている。
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1923年、小野忠蔵が日田町長に就任したのを機に日田騒動が起こった。三本松の「日田劇場」(映劇の前身)や日田町公会堂で弾劾演説会などが開催された。
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日田町の穴井愼汪。「日田劇場」の劇場主。義民の穴井六郎右衛門は先祖。1893年、穴井熊蔵の三男として福岡県築上郡山田村に生まれた。1920年には田川郡金田町で炭鉱を経営し、次いで「金田宝城劇場」も経営していたが、その後炭鉱を廃止して劇場に専念した。1933年には日田劇場の経営者となり、1930年代には「大分劇場」も買収した。
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日田郡日田町の穴井愼汪。穴井家は仏門の家である。穴井愼汪は1893年12月1日に生まれて曹洞宗の僧となったが、矛盾を感じて実業界に身を投じ、田川郡で炭鉱を経営した。炭鉱との兼業で劇場を経営しており、炭鉱事業が失敗するとあちこちの劇場の経営者となった。日田町の「日田劇場」は1700人から1800人を収容し、大分市の「大分劇場」は2300人を収容する。日田郡の「大鶴劇場」も経営しており、かつては「千足劇場」も経営していた。元國粹会田川郡支部長、元日田郡染織組合長、元日田郡鮮魚組合長。大日本興浪会顧問、日田郡機械下駄工業組合長。
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1951年、宇野龍頼は日田市に宇野建築事務所を開設した。1958年頃、大分県議会議長の穴井助三から古い劇場建築を建て替える設計を依頼された。鉄筋コンクリート造3階建て、床面積1052.70m2であり、ワンスロープ型で客席約800の劇場だった。美空ひばりや島倉千代子など、多くの俳優や歌手が来館した。2002年現在、建物は別の用途に使用されている。
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昭和初期の日田町本庄町にあった「日田劇場」で行われた日田邦楽研究会主催の演奏会の写真あり。現在の天領日田洋酒博物館付近にあった。
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1951年の日田市本庄町にあった庄手通りと「日田映劇」の写真あり。日田と中津を結ぶ日田往還沿いに形成された商店街である。
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1951年頃の日田市本庄町にあった「日田映劇」の写真あり。1948年に「日田劇場」が映画館化して開館した。幼少期の美空ひばりも訪れている。昭和30年代の日田市には日田映劇、「朝日館」、「世界館」、「娯楽館」、「中央館」など6館の映画館があった。
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1955年の日田市本庄町にあった庄手通りの写真あり。中央のモダンな建物は映画館「日田映劇」であり、通りに上映作品を紹介するアーチがかかっている。
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1962年頃の日田市本庄町にあった「日田映劇」前の庄手通りを行く三本松芸能隊の写真あり。
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昭和40年代前半の日田市本庄町にあった「日田映劇」の写真あり。大正時代開館の「日田劇場」が前身である。2022年現在のこの場所は天領洋酒博物館となっている。
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