所在地 : 徳島県徳島市蔵本町2-16 平和会館内(1983年・1985年)、徳島県徳島市蔵本町2-17-1 平和会館内(1985年)、徳島県徳島市蔵本町2-17-1 平和会館2階(1990年・1995年・2000年・2005年)、徳島県徳島市蔵本町2-17-1(2010年)
開館年 : 1982年頃
閉館年 : 2009年12月
Wikipedia :
シネアルテ
前身館は徳島平和劇場。1983年・1984年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「アタック平和劇場・平和ドルビー劇場」(2館)。2005年の映画館名簿では経営会社が徳島平和劇場有限会社、経営者・支配人ともに大江俊二、いずれも鉄筋造2階、アタック平和劇場が144席、平和ドルビー劇場が156席、いずれも邦画・洋画を上映。2006年・2008年・2009年の映画館名簿には掲載されていない。2010年の映画館名簿では「シネアルテ」。2010年の映画館名簿では経営会社が三木グループ、経営者・支配人ともに三木稔、鉄筋造1階、65席、邦画・洋画を上映。2012年の映画館名簿には掲載されていない。2019年以後2021年以前建物解体。建物名は平和会館。跡地は「阿波銀行蔵本支店」北北西70mの更地。最寄駅はJR徳島線蔵本駅。
2005年9月16日をもって、徳島市蔵本町2の映画館「徳島平和劇場」が58年の歴史に幕を閉じて閉館した。「平和ドルビー」と「アタック平和」の2スクリーンを有していた。7月には大江俊二社長が死去し、後継者がいないことに加えて、経営も厳しかったことが閉館の理由。1947年に開館し、2度の改築を経て1970年頃に2スクリーンとなった。東京や大阪でしか封切られない芸術系作品を上映したり、映画鑑賞グループに安価で貸し出すなどの取り組みを行っていた。2001年には北島町に複合映画館が開館し、観客は半分以下に減少した。2002年には徳島市の「OSグランド」が、2003年には「徳島東映」が、2004年には「徳島松竹」が相次いで閉館している。平和劇場の閉館によって、徳島県の単独映画館は「徳島ホール」、「徳島東宝・東宝シネマ」、「貞光劇場」の4館のみとなる。
*45
2005年9月をもって、徳島市蔵本町の映画館「徳島平和劇場」(2スクリーン)が約60年の歴史に幕を閉じて閉館した。映画に情熱を燃やしていた社長の後継者がいなかったことが閉館の理由。2002年には徳島市の「OSグランド」が、2003年には「徳島東映」が、2004年には「徳島松竹」が相次いで閉館している。徳島平和劇場の閉館によって、徳島市内の映画館はわずか3館となった。
*46
2008年内にも、徳島市のJR蔵本駅前に映画館「シネアルテ」が開館する。徳島市は全国の県庁所在地で唯一常設の映画館がないとされる。1947年に開館した「徳島平和劇場」(「平和ドルビー」「アタック平和」の2スクリーン)は2005年9月に閉館したが、喫茶店主の三木稔(32)が改装して復活させる。カビが生えていたアタック平和の座席を外し、1人〜3人掛けのソファ約40席を並べた。収容人数は70人。平和ドルビーは傾斜した床を平らにしてカフェに改装し、映画館に先立って2008年11月10日に開店する。当初は「OSグランド」の復活を計画したが、建物の傷みが激しかったため断念していた。
*47
2008年12月23日、徳島市のJR蔵本駅近くに映画館「シネアルテ」が開館する。まずは2週間の予定で『百万円と苦虫女』を1日5回上映する。
*48
2008年12月23日、徳島市蔵本町に映画館「シネアルテ」が開館した。2005年に閉館した映画館の設備を再利用した。初日には蒼井優主演作『百万円と苦虫女』を4回上映した。2009年1月5日からは『トウキョウソナタ』の上映を予定している。
*49
2008年12月23日、徳島市のJR蔵本駅近くに映画館「シネアルテ」が開館した。70席。徳島市内で3店の喫茶店を経営する三木稔が、閉館していた映画館の施設を貸借して営業を再開した。うち1店の喫茶店は「シネアルテ」に隣接している。2006年に徳島ホールが封切り映画の上映を終了したことで、徳島市から常設映画館がなくなっており、前橋市に映画館が開館した2007年からは「全国の県庁所在地で唯一常設映画館がない市」となっていた。
*50
2009年12月をもって、徳島市蔵本町2の映画館「シネアルテ」が閉館した。徳島市唯一の常設映画館だったため、徳島市は奈良市とともに常設映画館がない県庁所在ととなった。2008年12月、「徳島平和劇場」の建物を三木稔が借り、2スクリーンのうち「アタック平和」を改装して開館した。約30本の作品を1日3回〜4回上映した。1回あたりの観客数は多くても5人程度と少なく、2009年11月には予定していた2作品の上映が配給会社の意向で中止となったこともあった。三木稔は広告費や宣伝費を捻出できなかったと語っている。2010年5月現在の跡地は居酒屋として使用されている。
*51