所在地 : 福岡県大牟田市(1925年)、福岡県大牟田市大正町(1930年)、福岡県大牟田市大正町1-20(1936年)、福岡県大牟田市大正町1(1943年)、福岡県大牟田市中島町(1947年)、福岡県大牟田市大正町(1950年)、福岡県大牟田市大正町2(1955年)、福岡県大牟田市大正町1-20(1958年・1960年)、福岡県大牟田市大正町1丁目(1963年)、福岡県大牟田市大正町1-20(1966年・1969年・1973年・1975年・1980年・1985年・1988年)
開館年 : 1915年、1940年4月
閉館年 : 1989年4月16日
『全国映画館総覧 1955』によると1940年4月開館。1925年・1930年・1936年・1943年・1947年・1950年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「太陽館」。1963年の映画館名簿では「東宝太陽館」。1965年頃の住宅地図では「太陽館」。1966年・1969年・1973年・1975年・1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「大牟田太陽館」。1979年・1981年・1985年の住宅地図では「太陽館」。1988年の映画館名簿では経営会社が九州共栄興行、経営者が西野文男、支配人が相田誠、木造1階、700席、東宝を上映。1990年の映画館名簿には掲載されていない。2002年取り壊し。跡地は「ケンタッキーフライドチキン 大牟田店」。最寄駅は西鉄天神大牟田線大牟田駅。
1915年10月10日、大牟田町初の活動常設館として、大正町に林田滝十郎が経営する「太陽館」が開館した。1916年6月には泉町に「鎮西館」が開館し、1919年12月9日には大正町に林田が経営する「新世界館」(帝キネ系)が開館した。1920年7月25日には東新町に「朝日館」が開館したが、朝日館は1921年3月22日に寄席の栄座となった。1926年10月時点の大牟田市には、太陽館(松竹・日活系、定員800)、鎮西館(マキノ・ユニバーサル系、定員880)、大天地(東亜・帝キネ系、定員750)の3館があり、三池郡三川町に「世界館」(松竹・東亜系、定員675)があった。1929年4月時点では世界館が「抜天館」に変わっており、三里停留所前の「友楽館」、中島町の「朝日館」、一ノ浦町の「帝国座」を加えた7館となっていた。1939年1月19日、大牟田市で新興映画の封切館だった「大天地」が火災で焼失した。同年7月28日、東宝・洋画封切館の「東宝大天地」として営業を再開した。
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1941年春頃の大牟田市には10館の映画館があった。「東宝大天地」は定員約800であり、東宝の九州第一封切場だった。「太陽館」は松竹系で洋画を併映し、女性客でにぎわった。東新町で松延猪之吉が経営する「日本館」は日活系で文化映画を併映した。「新興中座」は定員618であり、新興映画の封切館かつ文化映画を併映した。「東宝文化ニュース劇場」は生徒の鑑賞が許可された映画館であり、洋画に文化映画とニュースを加えて上映した。「鎮西館」は大都映画に洋画を併映した。三川町で林田寿一が経営する「第二大天地」は東宝と日活を上映した。一ノ浦町で赤星徳樹が経営する「帝国劇場」は新興と松竹を上映した。三川町の「金星映画劇場」は新興と洋画を上映した。
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1942年11月1日、太陽館が「松竹太陽館」、鎮西館が「大牟田松竹映画劇場」に改称して松竹の直営館となった。1945年2月の企業整備令の時点では大牟田市に7館の映画館があった。1945年8月の大牟田空襲では東宝大天地、松竹太陽館、大映中座、三川金星映劇の4館が焼失した。
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1927年に大牟田市にあった「太陽館」の従業員一同の記念写真あり。中央は2代目経営者の林田寿一である。昭和初期の太陽館は松竹と日活系であり、定員は800人だった。1945年の大牟田空襲で焼失した。
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大牟田市で映画館「大天地」と「東映」を経営する小川力平は大牟田商工会議所の会頭も務めている。小川は長崎県南高来郡吾妻村出身であり、高等小学校を卒業しただけで大牟田市にやってくると、40年あまりが経ってすっかり大牟田人である。1948年には大牟田ガスを買収し、1950年には大牟田商工会議所の会頭に就任した。「太陽館」の館主である林田寿一もやはり長崎県出身である。
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1960年6月29日、大牟田市大正町1-20の東宝封切館「太陽館」は場内改装を終えて営業を再開した。経営は林田寿一。
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1989年4月16日をもって、大牟田市大正町の「太陽館」が閉館する。1915年、林田隆社長の祖父である林田滝十郎によって開館した。福岡県では飯塚市と北九州市の劇場に次いで早い常設活動写真館だった。戦前は松竹や東宝の作品を上映したが、1945年7月の空襲で焼失した。1946年に再建され、囲碁は東宝系邦画を上映していた。定員は470。三井石炭鉱業の社宅に近く、多くの鉱員やその家族も訪れた。
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1989年4月16日をもって、大牟田市大正町の「太陽館」が閉館する。ビデオの普及や炭鉱業の不振による人口流出などが理由。林田隆社長。開館は1915年であり、大牟田市で最も古い歴史を有する映画館である。1945年の空襲で焼失したが、1946年に再建され、1964年に現在の姿となった。昭和30年代初頭には475席が満席となって立ち見客も出た。
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1989年4月16日をもって、大牟田市大正町1-20の「太陽館」が閉館する。観客の減少が理由。林田隆社長(65)。1915年、林田隆の祖父が現在地に木造2階建ての劇場を建てた。戦前は松竹映画の専門館だったが、1945年の空襲で焼失した。1946年に木造2階建ての劇場が再建され、東宝映画の専門館として再スタートした。1964年に鉄骨造一部4階建てのビルに改築され、2階以上に475席の映画館が、1階にはパチンコ店や飲食店が入った。1958年頃が大牟田市の映画館の最盛期であり、人口20万人を超えた大牟田市には20館以上の映画館があった。三池炭鉱は24時間の3交代勤務であり、平日昼間でも勤務時間外の鉱員らが行列を作った。テレビやビデオの普及、炭鉱業の斜陽化によって映画産業が衰退し、観客数は10分の1にまで減少した。
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大牟田市の映画館「太陽館」は1989年まで75年間営業した。大正町1丁目地区に再開発計画があったため、約1000平方メートルの土地を利用できないまま固定資産税を払い続けてきたが、計画が頓挫したことで2002年9月中旬から解体を始めた。土地を更地としてコンビニに貸す予定。
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