消えた映画館の記憶 - 多治見市の映画館

多治見市

金昇館/笠原映画劇場/笠原劇場
所在地 : 岐阜県土岐郡笠原町(1950年)、岐阜県土岐郡笠原町3139(1953年)、岐阜県土岐郡笠原町(1955年)、岐阜県土岐郡笠原町3139(1958年)、岐阜県土岐郡笠原町神戸(1960年)、岐阜県土岐郡笠原町2898-1(1963年)、岐阜県土岐郡笠原町2898(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1934年
閉館年 : 1969年11月
『全国映画館総覧1955』によると1947年2月開館。1950年の映画館名簿では「金昇館」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「笠原映画劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「笠原劇場」。1969年の住宅地図では「笠原劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が鈴木年栄、支配人が鈴木昭壱、木造1階建冷暖房付、定員145、邦画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。「笠原神明社」の参道入口脇北東隣に映画館の建物が現存。最寄駅はJR中央本線・太多線多治見駅。

1963年1月21日、土岐郡笠原町の「笠原劇場」から出火し、木造2階建てが全焼した。原因は重油ボイラーの過熱とみられる。損害は1850万円。経営は鈴木昭一。*1

1963年1月21日、土岐郡笠原町の「笠原劇場」から出火し、木造2階建て442m2の劇場が全焼した。原因は重油ボイラーの過熱。*2

1970年春、笠原町神戸の「笠原映画館」に多治見のショッピングセンターであるモダンストアが進出して開店する。1969年11月現在は商店街の複数の店舗が増改築を進めているが、これにモダンストアが加わり、急ピッチで近代化が進められている。*3

1969年末から1970年5月までに、多治見税務署管内に11館あった映画館のうち3館が閉館し、近いうちにはさらに1館が閉館する。多治見・土岐・瑞浪・笠原・可児のエリアには1966年から11館の映画館があったが、1969年11月に笠原町の「笠原劇場」が閉館し、1970年2月に多治見市の「多治見日活」が閉館し、1970年4月に多治見市の「榎元座」が閉館した。6月には土岐市の「トキツ大映」も閉館する予定。*4

1926年10月に竣工した笠原町公会堂は800人を収容し、映画や演劇などの催しも行っていたが、本格的な興行には適していなかった。1934年には公会堂の改築を行い、娯楽施設の笠原町金昇館となった。1952年には金昇館が笠原劇場に改称し、娯楽施設であるとともに集会場としても使用された。1963年1月21日には焼失したが、後日に再建された。1966年には笠原劇場が閉館し、施設はスーパーの玉野屋に利用された。*5

1952年には金昇館が笠原劇場として生まれ変わった。テレビの普及とともに寂れ、1966年に閉館となった。笠原劇場の跡地はタマノヤ倉庫となっている。幕が下りているホール内の写真あり。*6
豊岡劇場/多治見文化劇場/多治見日活劇場
所在地 : 岐阜県多治見市本町3丁目(1950年)、岐阜県多治見市本町(1953年・1955年)、岐阜県多治見市本町3丁目(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1923年、1946年6月
閉館年 : 1970年2月28日
『全国映画館総覧1955』によると1946年6月開館。1930年・1936年・1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1947年に豊岡劇場が多治見文化劇場に改称。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「多治見文化劇場」。1960年の多治見市居住者名簿地図では「文化劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「多治見日活劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が太陽企業、支配人が石原勇雄、木造2階建冷暖房付、定員544、日活を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1984年のゼンリン住宅地図では跡地に「ファッションタウンナガセ」。1989年・1995年の住宅地図では「ギャラリエアピタ多治見店」。跡地はながせ通り商店街の有料駐車場。「多治見フランテ」があるブロックの東側のブロック中央部。最寄駅はJR中央本線・太多線多治見駅。

吉田初三郎『陶都・多治見を中心とせる名所交通鳥瞰図』多治見商工会、1929年には「榎元座」「多治見館」「豊岡劇場」が描かれている。*7

本町3丁目にあった「豊岡劇場」では、1923年のこけら落とし公演として「義経千本桜」と「美尾谷錣引」(みおのやしころびき)を上演して盛況だった。歌舞伎以外では、演劇・浪曲・活動写真・手品奇術・軽業・操り人形・猿回しなどの興行が行われた。新派劇の「不如帰」や「金色夜叉」、浪曲の「南部坂雪の別れ」や「壺阪霊験記」などが人気だった。素人による歌舞伎や温習会も盛んに行われた。現在の文化会館の役目を果たしていた。戦前の同時期には、「榎元座」や「多治見館」でも活動写真が上映された。戦後の豊岡劇場は「多治見文化劇場」に改称し、主に映画を上映した。邦画も洋画も上映し、石原裕次郎主演の日活作品などは満員となった。テレビの普及や娯楽の多様化などが理由で観客が減少し、1963年に閉館した。大正時代の豊岡劇場の写真あり。2017年現在の豊岡劇場跡地の写真あり。跡地はユニーやアピタのショッピングセンターとなったが、2017年現在はながせ通り商店街の有料駐車場となっている。*8

撮影年不明の多治見にあった「豊岡劇場」(文化劇場)の写真あり。1923年に本町に豊岡劇場として開館し、1947年に文化劇場に改称した。「母もの」というジャンルの『母紅梅・母恋里』などが上映された。テレビの普及などが理由で1963年に閉館した。*9

1952年頃の多治見市本町にあった「豊岡劇場」における演劇の公演の写真あり。豊岡劇場は1923年に開館し、演劇・浪曲・活動写真・西洋手品・軽業など様々な興行を行った。1947年に改装して「文化劇場」に改称し、映画・演劇・歌謡ショーなどが行われた。*10

1937年4月13日には、前年に文楽座から独立した劇団の新義座が、多治見町の「豊岡劇場」で公演を行っている。*11

多治見市本町の喫茶店「木里夢」の宮川博行(61)の祖父は、国鉄多治見駅前で豊岡劇場を経営していた。豊岡劇場は1923年設立であり、舞台の花道や畳の桟敷席などがあった。戦前の多治見駅周辺には豊岡劇場以外にも、豊国座、榎元座、笑栄座などの劇場があった。太平洋戦争終戦直後には映画館に転換し、文化劇場と改称したが、1963年に閉館した。*12

1970年4月末までに、多治見市本町3にある映画館「豊岡劇場」が取り壊される。1923年に芝居小屋として開館し、本町では唯一の娯楽施設として親しまれた。1947年に映画専門館となり、「文化劇場」に改称した。1950年や1956年には近代設備に改装され、1963年に日活の直営館となった。日活との契約が切れたことにより、1970年3月から休館していた。このほどながせショッピ株式会社に買収され、ショッピングデパートが建設されることとなった。*13

1969年末から1970年5月までに、多治見税務署管内に11館あった映画館のうち3館が閉館し、近いうちにはさらに1館が閉館する。多治見・土岐・瑞浪・笠原・可児のエリアには1966年から11館の映画館があったが、1969年11月に笠原町の「笠原劇場」が閉館し、1970年2月に多治見市の「多治見日活」が閉館し、1970年4月に多治見市の「榎元座」が閉館した。6月には土岐市の「トキツ大映」も閉館する予定。*14
榎元座/多治見榎元座/多治見東宝榎元座
所在地 : 岐阜県土岐郡多治見町(1925年・1927年・1930年・1934年・1936年)、岐阜県多治見市(1941年)、岐阜県多治見市金山町(1943年・1947年)、岐阜県多治見市新町2-6(1950年)、岐阜県多治見市新町2-28(1953年・1955年)、岐阜県多治見市新町2-6(1958年・1960年)、岐阜県多治見市新町30(1963年)、岐阜県多治見市新町2-6(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1882年、1933年6月
閉館年 : 1970年4月
『全国映画館総覧1955』によると1933年6月開館。1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「榎元座」。1960年の多治見市居住者名簿地図では「榎本座」(※元ではなく本)。1966年の映画館名簿では「多治見榎元座」。1969年の映画館名簿では「多治見東宝榎元座」。1969年の住宅地図では「榎本座」(※元ではなく本)。1970年の映画館名簿では経営者が中部共栄興行、支配人が荒垣実男、木造1階建冷暖房付、定員374、東宝・洋画を上映。1984年の住宅地図で跡地に「大垣共立銀行多治見支店」。跡地は「大垣共立銀行多治見支店」。最寄駅はJR中央本線・太多線多治見駅。

吉田初三郎『陶都・多治見を中心とせる名所交通鳥瞰図』多治見商工会、1929年には「榎元座」「多治見館」「豊岡劇場」が描かれている。*15

太平洋戦争後の多治見市において、「榎元座」は娯楽の殿堂であり、1953年にはショールの巻き方が流行した『君の名は』が榎元座で公開された。1958年9月、新町を練歩く榎元座の宣伝隊の写真あり。(吉岡勲・丹羽秀夫(監修)『写真集 思い出のアルバム 多治見』郷土出版社、1984年、p.135))

昭和30年代の多治見市新町にあった「榎元座」の前に建つ男性の写真あり。1882年に芝居小屋として建てられ、昭和に入ると映画も上映した。昭和20年代から30年代の休日には、多治見や笠原の陶磁器工場に就職した若者が殺到した。1970年に閉館した。2009年現在の跡地には大垣共立銀行多治見支店が建っている。*16

1970年4月のこのほど、多治見市新町にある映画館「榎元座」が近く取り壊されることが決まった。大垣共立銀行によって買収され、映画館跡地に多治見支店が建設される。これによって多治見市の映画館は「多治見館」と「多治見東映」の2館のみとなる。*17

1969年末から1970年5月までに、多治見税務署管内に11館あった映画館のうち3館が閉館し、近いうちにはさらに1館が閉館する。多治見・土岐・瑞浪・笠原・可児のエリアには1966年から11館の映画館があったが、1969年11月に笠原町の「笠原劇場」が閉館し、1970年2月に多治見市の「多治見日活」が閉館し、1970年4月に多治見市の「榎元座」が閉館した。6月には土岐市の「トキツ大映」も閉館する予定。1966年には多治見税務署管内全体で計50万人の映画館入場者があったが、1969年には計33万人となっており、この1970年は計20万人にまで落ち込むのではないかとされている。映画衰退の主な原因はテレビの普及であるが、ボウリング人口の上昇も目を見張る。閉館した映画館はショッピングデパートや銀行が買収している。*18

1882年には多治見に劇場の「榎元座」(現・新町)が開館し、旅まわりの一座などが演芸を興行した。1900年に国鉄中央本線が開通すると、1902年には豊岡町に「豊国座」が開館し、また小路町には榎元座に対抗した演劇場「笑栄座」が開館した。大正時代には活動写真が興行の中心となり、1925年には活動写真専門館「キネマ多治見館」(現・錦町)が開館した。太平洋戦争中には多くの館が一時的に閉館した。戦後の榎元座では松竹作品や東映作品を上映し、多治見館では洋画を上映した。榎元座は1970年4月に閉館し、約100年にわたる長い歴史に幕を閉じた。榎元座の外観の写真あり。*19
多治見東映劇場/多治見グランド1・2
所在地 : 岐阜県多治見市栄町1-110(1958年)、岐阜県多治見市栄町1(1960年)、岐阜県多治見市栄町1-110(1963年)、岐阜県多治見市栄町1-3(1966年・1969年・1973年・1976年)、岐阜県多治見市栄町1-37(1980年・1985年・1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1955年12月(多治見東映)、1984年12月22日(多治見グランド)
閉館年 : 2000年1月31日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1976年・1980年・1984年の映画館名簿では「多治見東映劇場」。1960年の多治見市居住者名簿地図では「東映」。1969年の住宅地図では「多治見東映劇場」。1980年・1984年の映画館名簿では経営会社が篠田産業有限会社、経営者が篠田英也、支配人が伊藤進、鉄筋造1階、180席、東映・松竹・にっかつ・洋画を上映。1984年のゼンリン住宅地図では「多治見東映劇場」。1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「多治見グランド1・2」(2館)。1989年・1995年のゼンリン住宅地図では「多治見グランド劇場1・2」。1995年の映画館名簿では経営会社が有限会社篠田産業、経営者が篠田英也、支配人が伊藤進、鉄筋造2階、1が140席、2が140席、いずれも洋画を上映。2000年の映画館名簿では経営会社が有限会社篠田産業、経営者が篠田千代子、支配人が伊藤進、鉄筋造2階、1が140席、2が140席、いずれも洋画を上映。2002年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「林内科クリニック」と「エムハート薬局多治見栄町店」が入っている建物。最寄駅はJR中央本線・太多線多治見駅。かつては映画館の西側を東濃鉄道笠原線が通っていた。

1984年12月22日、多治見市の多治見東映劇場が映画ビルに生まれ変わって開館する。今年8月から改築のために休館していた。鉄筋造2階建(一部4階建)。1階が「多治見グランド劇場1」、2階が「多治見グランド劇場2」であり、グランド劇場2はドルビーシステムによるステレオ劇場である。*20

1984年12月22日、多治見市栄町の映画館「多治見東映」が「多治見グランド1・2」となって開館する。1965年頃までの東濃地方には5市で12館の映画館があったが、現在は多治見市の2館のみ。多治見東映は1955年から営業しているが、木造モルタルの建物が老朽化した。現在は2館併設の鉄骨造2階建て660m2の建物を新築しており、1階が邦画館、2階が洋画館となる。いずれも170席。建設費は1億3000万円。オープニング作品は邦画館が『Wの悲劇』『天国に一番近い島』の2本立て、洋画館が『ゴースト・バスターズ』。*21

1984年12月21日の『中日新聞』岐阜版朝刊には「多治見グランド1・2」が開館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*22

1985年3月7日の『中日新聞』岐阜版朝刊には「多治見グランド1・2」が開館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*23

「日活劇場」のアーチが架かるながせ商店街の写真あり。*24

2000年1月31日をもって、多治見市栄町1の映画館「多治見グランド劇場」が閉館する。直接の理由は1999年11月に社長の篠田英也が死去したこと。1955年12月、現在地に多治見東映劇場として開館した。当時の多治見市には「多治見館」(現・多治見シネマ)、「榎本座」、「文化劇場」の3館があった。篠田英也の実家は中津川市で4映画館中3館を経営しており、新たに東映専門館を多治見市に開いた形となる。テレビが普及した昭和40年代には榎本座と文化劇場が閉館。東濃3市で9館だった映画館は多治見市内の2館のみとなっていた。1975年頃の観客数の落ち込み、建物の火災などを乗り越え、1984年には1億2000万円かけて多治見グランドとしてリニューアル開館した。」*25

2000年1月31日付の『中日新聞』岐阜県版の「映画案内」には、多治見グランドの欄に「本日限りで休館します」とある。*26
多治見館/多治見大映劇場/多治見大映/多治見シネマ1・2
所在地 : 岐阜県土岐郡多治見町(1927年・1930年・1936年)、岐阜県多治見市白銀町(1943年)、岐阜県多治見市南白銀町(1947年・1950年)、岐阜県多治見市白銀町1(1953年)、岐阜県多治見市白銀町(1955年・1958年)、岐阜県多治見市白銀町1(1960年)、岐阜県多治見市錦町3-6(1963年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2004年)
開館年 : 1924年1月5日
閉館年 : 2004年1月31日
Wikipedia : 多治見シネマ
『全国映画館総覧1955』によると1924年1月開館。1927年・1930年・1936年・1943年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「多治見館」。1960年の多治見市居住者名簿地図では「多治見館」。1969年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「多治見大映劇場」。1980年の映画館名簿では経営会社が大五興行、経営者が荒井清太郎、支配人が山田昭弘、木造1階、300席、東宝・洋画を上映。1984年・1989年のゼンリン住宅地図では「多治見大映」。1990年の映画館名簿では「多治見大映」。1995年・2000年・2004年の映画館名簿では「多治見シネマ・多治見シネマ2」(2館)。1995年・2000年・2004年の映画館名簿では経営会社が大五興行株式会社、経営者・支配人ともに安井勇夫、木造1階、108席・88席、いずれも邦画・洋画を上映。1995年のゼンリン住宅地図では「多治見シネマ」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「新羅神社」南東で「谷口美容室」北側の駐車場。多治見市最後の映画館。最寄駅はJR中央本線・太多線多治見駅。

吉田初三郎『陶都・多治見を中心とせる名所交通鳥瞰図』多治見商工会、1929年には「榎元座」「多治見館」「豊岡劇場」が描かれている。*27

1925年の多治見にあった活動写真専門館「多治見館」の写真あり。洋風のファサードが見える。戦後には『路傍の石』や『風と共に去りぬ』などが上映された。*28

1931年頃の写真あり。空前のヒットとなった黒沢明監督作『七人の侍』を上映中の「多治見館」。*29

多治見には明治時代から「榎元座」があり、その他にはかつて本町通にあった「文化劇場」、1984年現在も営業中の「多治見館」がある。*30

2004年1月31日をもって、多治見市錦町の映画館「多治見シネマ」が閉館する。東濃地方最後の映画館だった。レンタルビデオやDVDの普及などで客を奪われた。1925年に「キネマ多治見館」として設立され、戦後の映画黄金期には「大映多治見」の名称で流行の喜劇シリーズなどを上映した。テレビの隆盛に伴う映画の衰退の中で、多治見市では老舗の「榎元座」、「文化劇場」が相次いで閉館していた。1970年代の多治見シネマは山口百恵主演の青春映画がヒットするなどしたが、1980年代後半からはビデオの普及で経営が悪化した。1990年には愛知県を中心にアミューズメント施設を運営するコロナグループ(本社愛知県小牧市)の傘下に入った。効率化のために館内を「多治見シネマ1・2」の2館に分け、カラオケも併設するなどして再出発を図ったが、駐車場の狭さが難点となった。往年には一日500人以上だった来場者が近年は80人前後にまで落ち込んだ。1年ほど前から閉館が検討され、昨年秋ごろに正式に決まった。最終日の上映作品は『ラスト・サムライ』『ファインディングニモ』『マトリックス3』である。閉館イベントは特に予定していない。*31

東濃地域唯一の映画館である多治見市錦町の「多治見シネマ」は、複合映画館(シネコン)が台頭したことによる経営難のために、2004年1月いっぱいで休館する。再開のめどは立っていない。多治見シネマは120席と110席の2スクリーンに加えてカラオケ施設がある。1990年4月からは愛知県内を中心にシネマコンプレックスを展開するコロナグループの関連会社が運営している。設立は古く、「多治見館」「多治見大映劇場」を経て、現在の多治見シネマとなった。コロナグループは1年ほど前から休館についての検討を始め、2003年秋に休館を決定した。映画「タイタニック」を上映した1998年1月の観客数は約1万5000人だったが、2003年10月は約2200人にまで落ち込んでいた。中津川市方面から足を運ぶ観客もいた。*32

2004年1月31日には多治見市の映画館「多治見シネマ」が閉館し、東濃地域から映画館がなくなった。このため、2004年4月6日からは岐阜新聞東濃版に愛知県小牧市の小牧シネマワールドの上映時間情報が掲載される。*33

2004年1月31日に多治見市錦町3丁目の多治見シネマが休館した。シネコンが主流になったことや、レンタルビデオの普及で客を奪われ、採算が合わなくなったため。東濃地方最後の映画館だった。1カ月の観客数は2000人を切る状態だった。建物や駐車場は借り物であるため、赤字が続いていた。120席と108席の2スクリーン。カラオケ店も併設していた。運営はコロナグループの関連会社である大五興行。大正末期に活動写真の常設館「キネマ多治見館」として開館。戦中には休館した。1950年代には『七人の侍』などを上映。その後は多治見大映に改称して大映作品を上映した。1990年にはコロナグループの傘下に入り、多治見シネマに改称した。全盛期の昭和30年代には、東濃地方だけで約20館の映画館があった。*34

多治見シネマのある錦町は土岐川の南側であり、昔からの旧市街である。映画館はすでに閉館しており、戦前の建築と思われるセセッション風のデザインの建物にはテナント募集の看板が出ていた。*35

多治見温泉(銭湯)の南側にある新羅神社の脇には映画館「多治見シネマ」さんがあった。2004年頃に閉館したらしく、2006年時点でも建物はそのままだった。*36