所在地 : 兵庫県西宮市津門呉羽町(1960年)、兵庫県西宮市津門呉羽町75(1963年)、兵庫県西宮市津門呉羽町2-24(1966年・1969年・1973年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1995年9月
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「今津阪急文化会館」。1958年の全産業住宅案内図帳では「今津文化劇場」。1961年の住宅地図では「今津文化」。1963年の映画館名簿では「今津文化会館」。1966年の映画館名簿では「西宮今津文化会館」。1969年・1973年・1976年・1978年・1980年の映画館名簿では「今津文化会館」。1969年・1974年・1980年の住宅地図では「今津文化映画館」。1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「今津文化1・2」(2館)。1996年の映画館名簿には掲載されていない。西宮市最後の従来型映画館。跡地はマンション「エステムコート西宮今津」。最寄駅は阪神電鉄阪神本線・阪急電鉄今津線今津駅。
1995年2月12日から、西宮市の映画館「今津文化」が無料の復興映画祭を開始する。『青い山脈』『陽のあたる坂道』『明日は明日の風が吹く』など、石原裕次郎や吉永小百合主演の6本が上映される。12年前に200席だったホールを120席と80席の2つに分けて鉄骨で補強したため、阪神大震災での倒壊は免れた。しかし、300キロ近くある4台の映写機は土台から倒れ、関内も天井版の一部が落ちた。
*17
1995年10月初頭から、西宮市唯一の映画館「今津文化」が取り壊される。阪神大震災で半壊し、同一地点で再建するには約2億円かかるため。最後のイベントは「恐怖劇場」であり、9月第2週まで毎週末に開催される。「今津文化」は終戦直後に開館したとされ、1960年頃には大勢の観客でにぎわった。『禁じられた遊び』の上映時には一日約2000人の観客が訪れ、約200メートル離れた阪神今津駅まで行列ができるほどだった。1960年代半ばから観客が減少し、1970年代前半には成人映画の専門館となった。1980年代以降にはレンタルビデオが普及し、一日に十数人しか観客がいない時期が続いた。
*18
1995年9月11日の『東京新聞』には「今津文化」の閉館を伝える記事が掲載されている。現物は未確認。
*19
1995年12月、西宮市津門呉羽町の映画館「今津文化」が閉館する。西宮市唯一の映画館だった。12月12日から取り壊し作業が行われている。1956年の洋画の二番館として開館し、『風と共に去りぬ』『鳥』『禁じられた遊び』などを上映した。週末には西100mの阪急今津駅まで行列ができることもあったという。1995年1月17日の阪神淡路大震災で半壊したが、2月12日には営業を再開し、入場無料の上映会などを行っていた。震災を機に観客が減少したことで閉館を決定した。
*20
1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生すると、西宮市唯一の映画館「今津文化会館」は全壊した。3代目館主の田中健(52)も左足を骨折したが、西宮市には "半壊" という届けを出し、2月11日に営業を再開した。石原裕次郎や吉永小百合が出演する昭和30年代の日活作品を無料で公開し、連日にわたって被災者で大入り満員となった。しかし採算性などがネックとなって再建することはできず、西宮市から映画館が消えた。震災から8年を迎える2003年1月17日、西宮市にある酒造会社の集客施設「白鷹禄水苑」で、「シネマ・エクスカベイションinにしのみや」の第1回が開催される。今津文化会館が閉館するまでの経緯や、西宮市にあった映画撮影所の東亜キネマなどがビデオで紹介され、西宮の映画の歴史を語るトークショーも開催される。第2回以降は映画が上映される予定である。
*21