所在地 : 神奈川県足柄下郡小田原町万年4-660(1925年)、神奈川県足柄下郡小田原町万年4丁目(1927年・1930年)、神奈川県足柄下郡小田原町万年4-660(1936年)、神奈川県小田原市万年町(1941年・1943年)、神奈川県小田原市万年町4-695(1947年)、神奈川県小田原市万年町(1950年)、神奈川県小田原市万年町4-66(1953年)、神奈川県小田原市万年4-660(1960年)、神奈川県小田原市本町2-5-4(1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1981年)
開館年 : 1923年12月、1953年12月、1973年4月(2館化)
閉館年 : 1981年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1925年・1927年・1930年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「復興館」。1947年・1950年の映画館名簿では「小田原復興館」。1953年の映画館名簿では「復興館」。1955年の映画館名簿では「国際劇場」。1960年の映画館名簿では「小田原国際劇場」。1969年・1973年の映画館名簿では「小田原日活国際劇場」。1975年・1976年の映画館名簿では「小田原松竹国際劇場・小田原日活ロマン劇場」(2館)。1978年の映画館名簿では「小田原国際劇場・小田原日活ロマン劇場」(2館)。1980年・1981年の映画館名簿では「小田原国際劇場・小田原にっかつ劇場」(2館)。1982年の映画館名簿には掲載されていない。1988年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は葬儀場「ファミリーホール小田原」。最寄駅はJR東海道線小田原駅。
時期不明の小田原市にあった映画館「復興館」の写真あり。1923年12月、万年4丁目の国道交差点付近に開館した。日活の現代劇や松竹の時代劇を上映した。1945年の戦災では「富貴座」とともに焼失したが、同年12月に再建された。その後は「国際劇場」や「小田原日活」に改称した。
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1938年から1939年頃の小田原市にあった「復興館」の写真あり。旧青物町の国道交差点に近かった。1923年9月の関東大震災後に建てられたことが名称の由来である。1945年には戦災で焼失したが、その後復興して松竹の時代劇や日活の現代劇を上映した。平成に入って廃館となった。
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1923年9月1日の関東大震災からの復興を願って、同年に日活作品の上映館として「復興館」が開館した。1953年には建物を建て替え、「国際劇場」に改称して大映と東映作品の上映館となった。1960年には「小田原日活」に改称して再び日活作品の上映館となった。小田原東映と同じく2000年に閉館した。東海道と青物町商店街が交わる国際通り交差点の角にあった。1967年の写真あり。当時の青物町商店街の入口にはアーチが架けられており、現在の東海道に架かる歩道橋はまだないように見える。
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日活の直営館を見ると、1972年11月に「梅田日活ロマン」が開館し、1973年2月に「浜松日活」が開館し、4月に「小田原ロマン」が開館し、5月に「水戸ロマン」が開館した。1972年7月には「久留米日活」が閉館し、12月には「浜松スカラ座」と「浜松日活」が閉館し、1973年3月には「大牟田日活」が閉館し、5月には「大垣日活」が閉館した。
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1956年の『小田原商工名鑑』には映画館として「ロマンス座」「(有)小田原東宝館」「(有)小田原銀映座」「小田原国際劇場」「(株)中央劇場」「富貴座」「オリオン座」「国府津ロマンス座」の8館が、劇場として「御幸座」の1館が掲載されている。小田原国際劇場の経営者は角田久五郎、所在地は万年4-660。
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戦前の小田原市には宮小路の「富貴座」(幸1丁目)、青物町の「復興館」(幸1丁目)、緑町の「東宝館」(緑1丁目)の3館の映画館があった。1945年8月15日未明に行われた空襲で富貴座と復興館は焼失したが、両館とも戦後まもなく建物が再建された。1946年9月、幸2丁目に「オリオン座」が開館した。オリオン座では戦後の小田原市で初のストリップショーも開催された。1953年には復興館が「小田原国際劇場」に改称した。その後、「小田原東映劇場」(本町2-7)、「中央劇場」(本町2-9)も開館した。
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