消えた映画館の記憶 - 山形市の映画館


山形市

京極座
所在地 : 山形県山形市材木町(1930年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1930年以後1936年以前
1930年の映画館名簿では「京極座」。1936年の映画館名簿には掲載されていない。
第二霞城館
所在地 : 山形県山形市十日町第二公園(1930年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1930年以後1936年以前
1930年の映画館名簿では「第二霞城館」。1936年の映画館名簿には掲載されていない。
松竹映画劇場
所在地 : 山形県山形市旅籠町1046(1941年)、山形県山形市旅籠町(1943年)
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年の映画館名簿では「松竹映画劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
山形演芸館/演芸館/テアトル山形
所在地 : 山形県山形市七日町通り(1925年)、山形県山形市七日町160(1930年・1936年)、山形県山形市七日町(1943年・1947年・1950年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1950年以後1953年以前
1925年・1930年の映画館名簿では「山形演芸館」。1936年・1943年・1947年の映画館名簿では「演芸館」。1950年の映画館名簿では「テアトル山形」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。
鈴蘭映画劇場
所在地 : 山形県山形市香澄町大宝寺210-1(1961年・1963年・1964年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1964年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1963年・1964年の映画館名簿では「鈴蘭映画劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
旭銀座劇場
所在地 : 山形県山形市七日町160(1958年・1960年・1963年)、山形県山形市七日町4-8(1965年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1965年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「旭銀座映劇」。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「旭銀座劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1961年1月、山形市七日町160の洋画館「旭銀座劇場」が第二東映上映館となり、同番地の第二東映上映館「山形銀映」が洋画館に系統を変更した。経営は宮崎健社長の宮崎合名社。*1
紅花劇場
所在地 : 山形県山形市七日町(1943年・1947年・1950年)、山形県山形市七日町160(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、山形県山形市七日町4-8(1965年)
開館年 : 1937年5月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1937年5月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「紅花劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は有料駐車場「タイムズ山形七日町第3」北側。最寄駅はJR山形駅。
北山形映画劇場
所在地 : 山形県山形市宮町2481(1958年・1960年・1963年)、山形県山形市宮町1-3(1965年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1965年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「北山形映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
山形東映パラス/山形東映パラス劇場/山形銀映
所在地 : 山形県山形市七日町160(1953年)、山形県山形市七日町575(1955年)、山形県山形市七日町576(1958年)、山形県山形市七日町160(1960年)、山形県山形市七日町575(1963年)、山形県山形市七日市3-3-34(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1951年7月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1951年7月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「山形銀映」。1963年の映画館名簿では「山形東映パラス」。1966年の映画館名簿では「山形東映パラス劇場」。1969年・1970年の映画館名簿では「山形銀映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1960年3月9日、山形市七日町の「山形銀映」は新東宝との併映で第二東映上映館に転向した。経営は宮崎建。*2

1961年1月、山形市七日町160の洋画館「旭銀座劇場」が第二東映上映館となり、同番地の第二東映上映館「山形銀映」が洋画館に系統を変更した。経営は宮崎健社長の宮崎合名社。*3
千歳座/山形千歳座
所在地 : 山形県山形市十日町(1936年)、山形県山形市香澄町大宝寺(1953年・1955年)、山形県山形市香澄町大宝寺676(1960年)、山形県山形市香澄町(1963年)、山形県山形市香澄町大宝寺(1966年)、山形県山形市十日町4-1-11(1969年・1970年)
開館年 : 1902年、1949年12月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1949年12月開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「千歳座」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「千歳座」。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「山形千歳座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「第二公園」北10mの駐車場。最寄駅はJR山形駅。

1914年8月、山形市の「千歳座」が活動写真常設館となった。*4

時期不明の山形市にあった「千歳座」の写真あり。1902年頃、市南駅前通り新道に設置された第二公園の中に合資会社として建てられた。「旭座」が映画館化すると、千歳座は山形市唯一の芝居小屋となったが、昭和10年代頃には映画の常設館となった。戦後には三流館に転落し、1965年以後の駅前整備事業の際に閉館した。*5
オオヌマ映画劇場
所在地 : 山形県山形市七日町465(1960年)、山形県山形市七日町465-1(1963年)、山形県山形市七日市1-2-30(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1957年1月10日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「オオヌマ映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は百貨店「大沼山形本店」廃墟。最寄駅はJR山形駅。

1957年1月10日、山形市七田町の大沼デパート地下に「オオヌマ映画劇場」(オオヌマ映劇)が開館した。定員200人。支配人は大沼善四郎。*6
山形大映劇場/山形スカラ座
所在地 : 山形県山形市旅籠町(1943年)、山形県山形市旅籠町1046(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、山形県山形市旅籠町2-2-24(1966年・1969年・1973年・1974年)
開館年 : 1937年10月
閉館年 : 1974年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1937年10月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「山形大映劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「山形大映劇場」。1953年の映画館名簿では「大映劇場」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「山形大映劇場」。1973年・1974年の映画館名簿では「山形スカラ座」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は商業ビル「カメリアコート」。最寄駅はJR山形駅。

1960年6月いっぱい、山形市旅籠町1046の「山形大映」は館内改築のために休館した。7月1日に営業を再開する予定。経営は大映興行。支配人は橋倉武人。*7
山形文化ホール/山形文化/山形文化劇場
所在地 : 山形県山形市香澄町小鍄29(1960年・1963年)、山形県山形市旅籠町1丁目10番(1964年)、山形県山形市旅籠町1-10(1965年)、山形県山形市旅籠町1-10-30(1966年・1969年・1973年・1975年)、山形県山形市旅籠町2-2-24(1978年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1978年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「山形文化ホール」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「山形文化」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「山形文化劇場」。1978年の映画館名簿では経営者が細矢睦男、支配人が記載なし、鉄筋造地下冷暖房付、210席、東映・松竹・洋画・日活・成人映画を上映。1979年の映画館名簿には掲載されていない。

1960年1月26日、山形市香澄町の「山形文化ホール」は「山形文化」に改称して洋画専門館となった。経営は松原定雄。*8
旭座/山形東映/山形東映劇場
所在地 : 山形県山形市(1925年)、山形県山形市七日町160(1930年・1936年)、山形県山形市七日町(1943年)、山形県山形市七日町160(1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、山形県山形市七日町4-8-42(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年)
開館年 : 1897年頃、1911年頃(建て替え)、1927年(建て替え)、1955年8月31日(建て替え)
閉館年 : 1982年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1944年2月開館。1925年・1930年・1936年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「旭座」。1963年の映画館名簿では「山形東映」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「山形東映劇場」。1982年の映画館名簿では経営会社が東映、経営者が岡田茂、支配人が鈴木義雄、鉄筋造1階、553席、東映を上映。1983年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は有料駐車場「タイムズ山形七日町第3」。最寄駅はJR山形駅。

時期不明の山形市にあった「旭座」の写真あり。1897年頃に七日町花柳街の角に本格的な劇場として開館した。1911年5月の市北大火で全焼したが再建され、1927年の全国博覧会の際に根本的に改築された。戦後には映画常設館となった。*9

1955年8月31日、山形市七日町の「旭座」が開館した。1階を邦画専門館、2階を洋画館とするために4月から大改築を行っていた。鉄筋コンクリート造。定員850人。2階のシネマ旭は9月下旬に開館予定である。シネマ旭はシネスコ劇場であり、横48尺×縦20尺のスクリーンを有する。シネマ旭は定員750人。経営は宮崎合名会社。*10

1961年4月26日、山形市で宮崎合名社が経営する「山形旭座」と「山形銀映」が東映直営館となった。山形旭座は東映を、山形銀映はニュー東映を上映する。*11

1961年7月16日、山形市七日町160の「山形東映旭座」が「山形東映劇場」に改称した。東映直営館。*12
山形みゆき
所在地 : 山形県山形市七日町4-8-42(1977年・1978年・1980年・1982年)
開館年 : 1976年頃
閉館年 : 1982年頃
1976年の映画館名簿には掲載されていない。1977年・1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「山形みゆき」。1982年の映画館名簿では経営会社が旭企画、経営者が宮崎健、支配人が佐藤幸之進、鉄筋造4階、180席、洋画を上映。1983年の映画館名簿には掲載されていない。
山形松竹劇場
所在地 : 山形県山形市香澄町3-1-16(1976年・1977年・1978年)、山形県山形市香澄町3-2-1(1980年・1985年・1988年)
開館年 : 1975年頃
閉館年 : 1988年頃
1975年の映画館名簿には掲載されていない。1976年・1977年・1978年・1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「山形松竹劇場」。1988年の映画館名簿では経営会社が東日本松竹興行、経営者が星野輝夫、支配人が松村嘉勝、鉄筋造5階、260席、松竹を上映。1989年の映画館名簿には掲載されていない。山交ビル5階。建物の「山交ビル」は現存。
山形にっかつ劇場/新山形にっかつ
所在地 : 山形県山形市幸町1-2(1982年・1985年・1990年・1995年・1998年)
開館年 : 1981年11月
閉館年 : 1999年5月1日
1980年の映画館名簿には掲載されていない。1982年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「山形にっかつ劇場」。1998年の映画館名簿では「新山形にっかつ」。1998年の映画館名簿では経営会社が三和商事、経営者・支配人ともに金汝大、鉄筋造地下、119席、成人映画を上映。2000年の映画館名簿には掲載されていない。

にっかつの直営劇場の動きを見ると、1978年7月に「黒崎にっかつ」と「郡山にっかつ」が開館し、12月に「福岡にっかつ」が開館し、1979年2月に「尼日栄にっかつ」が開館し、2月に「山形にっかつ」が閉館し、6月に「千葉にっかつ」が開館した。*13

1981年11月、にっかつ直営館「山形にっかつ」が閉館した。*14

1999年5月1日をもって、JR山形駅前の「新山形にっかつ」が閉館した。観客数の減少による経営難が理由。25年ほど前に、現在と同じ商業ビルの地下で日活の直営館として開館した。3本立てを1週間交代で上映し、年間約150本を上映した。119席の館内は立ち見状態だったといい、女優の舞台挨拶ではビルの周りにも観客が押し寄せたという。山形県内の成人映画館は山形市本町2丁目の山形ロマン映劇のみとなった。全国的には最盛期の半分の300館を切ったとされる。*15
山形宝塚劇場/山形宝塚劇場・山形宝塚小劇場/山形宝塚劇場・山形スカラ座/山形宝塚・山形スカラ座
所在地 : 山形県山形市七日町(1960年)、山形県山形市七日町492-3(1963年)、山形県山形市七日町2-7(1966年)、山形県山形市七日町2-7-5(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年)
開館年 : 1959年8月5日
閉館年 : 2003年4月13日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「山形宝塚劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「山形宝塚劇場・山形宝塚小劇場」(2館)。1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「山形宝塚劇場・山形スカラ座」(2館)。2000年・2002年の映画館名簿では「山形宝塚・山形スカラ座」(2館)。2002年の映画館名簿では経営会社が山形産業、経営者が宮崎互、支配人が藤木英司、宝塚劇場が鉄筋造1階で160席、スカラ座が鉄筋造2階で142席、いずれも邦画・洋画を上映。2004年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2010年開業の商業施設「七日町ルルタス」。最寄駅はJR山形駅。

1959年8月5日、山形市に七日町に「山形宝塚劇場」が開館した。東宝系。鉄筋コンクリート造。座席数450。経営者は佐藤久吉。支配人は遠藤栄司。*16

1962年8月上旬、山形市の「山形宝塚劇場」に定員20人の小劇場が開館する。文化映画・PR映画専門。経営はグリーン・ハウス。*17

1962年8月上旬、山形市の「山形宝塚劇場」に定員20人の文化映画・PR映画専門小劇場が開館した。*18

1984年11月16日、東宝東部興行は旧「山形宝塚」と「宝塚小劇場」を2分割し、160席の新「山形宝塚」と160席の「山形宝塚スカラ座」が開館した。*19
山形ニューシネマ/シネプラッサ
所在地 : 山形県山形市七日町3-3-35(1994年・1995年・2000年・2002年・2004年)
開館年 : 1993年頃
閉館年 : 2004年8月
1993年の映画館名簿には掲載されていない。1994年・1995年の映画館名簿では「山形ニューシネマ」。2000年・2002年・2004年の映画館名簿では「シネプラッサ」。2004年の映画館名簿では経営会社が宮崎合名社、経営者が宮崎互、支配人が石塚司、木造1階、50席、邦画・洋画を上映。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「長源寺」東20mにある飲食店「サンキルダ」。最寄駅はJR山形駅。

2004年8月18日の『山形新聞』には8月限りで「シネプラッサ」と「シネマe'ta」が開館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*20
シネマ旭/山形シネマ旭/山形シネマ旭・山形ニューシネマ/山形シネマ旭・山形ニューシネマ旭/山形シネマ旭・山形旭座/山形シネマ旭1・2
所在地 : 山形県山形市七日町160(1960年・1963年)、山形県山形市七日町4-8(1966年)、山形県山形市七日町4-8-42(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1983年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年・2004年・2007年)
開館年 : 1955年
閉館年 : 2007年12月23日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「シネマ旭」。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「山形シネマ旭」。1978年の映画館名簿では「山形シネマ旭・山形ニューシネマ」(2館)。1980年の映画館名簿では「山形シネマ旭・山形ニューシネマ旭」(2館)。1983年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「山形シネマ旭・山形旭座」(2館)。2000年・2002年・2004年の映画館名簿では「山形シネマ旭1・2」(2館)。2004年の映画館名簿では経営会社が宮崎合名社、経営者が宮崎互、支配人が石塚司、1が鉄筋造2階で501席、2が鉄筋造1階で412席、いずれも邦画・洋画を上映。2005年・2006年の映画館名簿には掲載されていない。2007年の映画館名簿では「山形シネマ旭1・2」(2館)。2007年の映画館名簿では経営会社が株式会社ムービー・オン、経営者が吉村和文、支配人が藤木英司、1が鉄筋造2階で350席、2が鉄筋造1階で300席、いずれも邦画・洋画を上映。2008年の映画館名簿には掲載されていない。2013年取り壊し。跡地は有料駐車場「タイムズ山形七日町第3」。最寄駅はJR山形駅。

2007年12月2日の『河北新報』には「シネマ旭」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*21

2007年12月11日の『山形新聞』には12月23日をもって「シネマ旭」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*22

2007年12月16日の『河北新報』には12月23日をもって「シネマ旭」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*23

山形市にある「山形シネマ旭」の写真あり。『アイ・ラブ・トラブル』の看板が見える。「ASAHIZA」の文字が見える。*24
山形フォーラム1・2
所在地 : 山形県山形市大手町4-3(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1984年7月25日
閉館年 : 2005年頃
1982年の映画館名簿には掲載されていない。1985年・1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「山形フォーラム1・2」(2館)。2005年の映画館名簿では経営会社がフォーラムマルチプレックスシアターズ、経営者が長澤裕二、支配人が長澤英子、1が鉄筋造1階で88席、2が鉄筋造3階で48席、いずれも洋画を上映。2006年の映画館名簿には掲載されていない。後継館はフォーラム山形。
山形シネアート1・2/山形ヌーベルF1・F2/シネマイータ1・2
所在地 : 山形県山形市七日町2-7-2(1990年・1995年・2000年・2005年・2006年)
開館年 : 1986年3月15日
閉館年 : 2006年頃
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年の映画館名簿では「山形シネアート1・2」(2館)。1995年・2000年の映画館名簿では「山形ヌーベルF1・F2」(2館)。2005年・2006年の映画館名簿では「シネマイータ1・2」(2館)。2006年の映画館名簿では経営会社が株式会社ムービー・オン、経営者が塩野昭、支配人が飯野昇悦、いずれも鉄筋造5階、120席と80席、いずれも邦画・洋画を上映。2007年の映画館名簿には掲載されていない。複合商業施設のセブンプラザ5階。跡地は高層マンション「デュオヒルズ山形七日町タワー」。最寄駅はJR山形駅。

1986年3月15日、山形市七日町 セゾンプラザ5階に「山形シネアート1・2」が開館した。経営は東日本へラルド。*25

2001年3月30日をもって、山形市七日町の映画館「ヌーベルF」が閉館する。2000年12月には山形駅西口に同じ経営者で6スクリーンの「ソラリス」が開館し、観客が流れていた。1986年に商業ビルのセブンプラザ5階に開館し、1990年にはフォーラム運営委員会が買い取った。1998年末に米沢市に「ワーナー・マイカル・シネマズ米沢」が開館するまでは山形県屈指の設備を誇る映画館であり、年間7万-10万人を動員してきた。定員144人と99人の2スクリーンを有する。*26

2001年7月3日の『山形新聞』には、山形市の「ヌーベルF」跡地に「シネマe'ta」が開館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*27

2004年8月18日の『山形新聞』には8月限りで「シネプラッサ」と「シネマe'ta」が開館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*28

2006年11月15日の『山形新聞』には「イータ」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*29
第一霞城館/革新霞城館/山形霞城館/霞城館/山形日活劇場/山形シネマプラザ/山形ミューズ1・2/ミューズ1・2
所在地 : 山形県山形市七日町161(1925年・1930年・1936年)、山形県山形市七日町(1943年・1947年)、山形県山形市七日町161(1950年)、山形県山形市七日町160(1953年)、山形県山形市七日町575(1955年)、山形県山形市七日町161(1958年・1960年)、山形県山形市七日町160(1963年)、山形県山形市七日市3-3-41(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年)、山形県山形市七日町3-3-14(1985年・1990年・1995年・2000年)、山形県山形市七日町3-3-41(2005年・2008年)
開館年 : 1914年9月、1943年7月
閉館年 : 2008年9月30日
『全国映画館総覧 1955』によると1943年7月開館。1925年の映画館名簿では「霞城座」。1930年の映画館名簿では「第一霞城館」。1936年の映画館名簿では「革新霞城館」。1943年・1947年の映画館名簿では「霞城館」。1950年の映画館名簿では「山形霞城館」。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「霞城館」。1963年の映画館名簿では「山形日活」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「山形日活劇場」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「山形シネマプラザ」。1995年の映画館名簿では「山形ミューズ1・2」(2館)。2000年・2005年・2008年の映画館名簿では「ミューズ1・2」(2館)。2008年の映画館名簿では経営会社が株式会社ムービー・オン、経営者が吉村和文、支配人が藤木英司、いずれも鉄筋造1階、119席と80席、いずれも邦画・洋画を上映。2010年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「カラオケBanBan山形七日町店」。最寄駅はJR山形駅。

1912年1月13日、山形市の「霞城館」が毎月1回の活動写真の興行を開始した。1914年9月、霞城館が活動写真常設館となった。*30

大正時代の山形市七日町にあった「霞城館」の写真あり。1906年には山形市で初めて活動写真が上映された。1914年の山形市には霞城館と「千歳館」の2館の常設映画館があった。*31

1959年8月9日、山形市に宮崎合名社による東宝封切館「山形宝塚劇場」が開館する。これに伴い、「霞城館」は日活封切館に、「銀映」は新東宝封切と東映・東宝二番館に、「千歳座」は松竹・日活・大映二番館と東映三番館に転向した。*32

1961年4月19日、山形市七日町160の「霞城館」が「山形日活」に改称した。経営の宮崎健と日活の間で契約が成立し、日活の63番目の直営館となった。経営は傍系の太陽企業。八戸日活の支配人である中野成夫が支配人に就任した。*33
山形駅前ロマン映劇/山形駅前ロマン劇場/山形ロマン映劇
所在地 : 山形県山形市香澄町1-15-16(1979年・1980年・1985年)、山形県山形市本町2-1-5(1986年)、山形県山形市本町2-1-50(1988年・1990年・1995年・2000年・2005年・2008年・2009年)
開館年 : 1978年頃
閉館年 : 2009年頃
1978年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の映画館名簿では「山形駅前ロマン映劇」。1980年・1985年の映画館名簿では「山形駅前ロマン劇場」。1986年・1988年・1990年・1995年・2000年・2005年・2008年・2009年の映画館名簿では「山形ロマン映劇」。2008年の映画館名簿では経営会社が有限会社山形駅前ロマン、経営者・支配人が細矢トミ子、鉄筋造1階、48席、成人映画を上映。2010年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は「山形歯科専門学校」北北東50mに現存。最寄駅はJR山形駅。
ソラリス
所在地 : 山形県山形市城南1-16-1 霞城セントラルB1・2(2002年・2005年)、山形県山形市城南町1-1-1 霞城セントラルB1・2(2008年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 2000年12月
閉館年 : 営業中
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2002年・2005年・2008年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「ソラリス1-6」(6館)。2002年の映画館名簿では経営会社がフォーラムマルチプレックスシアターズ、経営者が長澤裕二、支配人が横倉司。最寄駅はJR山形駅。

2000年12月下旬、山形市城南1-16-1 霞城セントラル地下1階・地下2階に「ソラリス」が開館した。山形市初のマルチプレックスシアターズ。経営はフォーラム運営委員会とフォーラムマルチプレックスシアターズ。*34
フォーラム山形
所在地 : 山形県山形市香澄町2-8-1(2006年・2008年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 2005年4月
閉館年 : 営業中
前身館は山形フォーラム1・2。2006年・2008年の映画館名簿では「山形フォーラム1-5」(5館)。2006年の映画館名簿では経営会社がフォーラムマルチプレックスシアターズ、経営者が長澤裕二、支配人が須藤真司。2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「フォーラム山形1-5」(5館)。最寄駅はJR山形駅。
MOVIE ON やまがた
所在地 : 山形県山形市嶋北1-2-2(2010年)、山形県山形市嶋北1-2-2 嶋グランガーデン(2015年・2020年)
開館年 : 2008年4月26日
閉館年 : 営業中
Wikipedia : ムービーオン
2008年の映画館名簿には掲載されていない。2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「MOVIE ON やまがた1-10」(10館)。2010年の映画館名簿では経営会社が株式会社MOVIE ON、経営者が吉村和文、支配人が藤木英司。最寄駅はJR奥羽本線羽前千歳駅。

2006年夏をめどに、山形市嶋地区の再開発地域にシネコンが開館する予定。12スクリーン約2500席を予定しており、12スクリーン計2441席の「MOVIX利府」を上回って東北最大の映画館となる予定である。山形市で映画館を経営するMOVIE ONが運営する。山形市のほかに寒河江市や天童市などからも集客する。*35