消えた映画館の記憶 - 岐阜市の映画館


岐阜市

柳ヶ瀬を中心とする一帯は岐阜市商業経済の中心部である。柳ヶ瀬から日ノ出町や神室町にかけての一帯は興行街であり、「岐阜劇場」、「第一映画劇場」、「衆楽館」、「青雲館」、「自由映画劇場」、「セントラル映画劇場」、「小劇場」、「満鉄会館」、「豊富座」、「金華映画劇場」、「満映画劇場」など10館がひしめく。さらに岐阜市内には「長良映画劇場」、「宝塚館」、「真砂座」、「駅前日本劇場」もあり、人口15,000人に1館の計15館に達している。市民1万5千名に1館の割となっている。*1

岐阜都市圏で開館したシネコン*2
1996年 シネマジャングル(羽島郡岐南町)
2000年 AMCリバーサイドモール(本巣郡真正町)
2000年 シネタウン岐阜(羽島郡柳津町)

柳ケ瀬で閉館した映画館*3
2000年 岐阜ピカデリー
2001年 シネアールイマージュ
2001年 岐阜豊富東映劇場

柳ケ瀬の映画館の観客数は、シネコン進出前の1996年が約30万2000人だったが、2001年には24万2000人と2割減少した。一方でシネコン3施設の2001年の観客数は148万人であり、柳ケ瀬7館の総観客数はシネコンの16%。岐阜市とその周辺のスクリーン数は13から43に増加。封切り率は洋画が22%から46%に増加し、邦画が25%から30%に増加。*4

1896年には神戸市で活動写真が全国初公開され、続いて東京・大阪・京都などでも公開された。1897年7月には岐阜市伊奈波の芝居小屋「国豊座」で自動幻画が公開されており、全国的に早い公開だった。ただし自動幻画がスライドと勘違いされたためか、これまで岐阜県初公開は一般的に1899年とされていた。1912年7月には、岐阜県初の活動写真常設館「電気館」が柳ヶ瀬に開館した。同月に明治天皇が死去したこともあってささやかなオープンであり、同1912年8月10日に興行を開始した。経営は美濃電気軌道株式会社であり、柳ヶ瀬の遊園地「有楽園」の中核施設として開設された。1920年には国豊座の後継館である明治座が伊奈波から柳ヶ瀬に移転し、同年8月には岐阜劇場に改称した。1921年7月には岐阜劇場の向かいに芝居中心の金華劇場が開館した。1928年頃の岐阜市の映画常設館は、美殿館、衆楽館、旭座の3館のみだったが、戦争期までに岐阜劇場、青雲館、衆楽館、美殿館、松竹館、文化ニュース館、小劇場、長良劇場の8館に増えた。1945年7月9日の岐阜空襲では、岐阜市街地の大半の劇場が焼失した。焼け残った松竹館では8月20日頃に営業を再開し、たまたま焼失を免れた岐阜劇場のフィルム格納庫の作品を上映、超満員だった。*5
岐阜土地興行
岐阜市日之出町にある岐阜土地興行は古川鉄男が取締役会長を務める。1924年8月、資本金2千万円で設立された。1929年、岐阜市内の4映画館が合併して新たに発足した。岐阜市内だけでも「松竹館」、「松竹座」、「東亜キネマ」、「演芸館」、「岐阜劇場」などを買収してきた。岐阜県最大の収容力を有する岐阜劇場は、1936年に総工費23万円で鉄筋コンクリート建で完成。岐阜劇場は太平洋戦争で戦災に遭い、また1949年にも火災に遭ったが、その都度、内容と外観を充実させている。岐阜土地興行の直営館は8館であり、岐阜市内5館の1ヶ月の興行収益は6百万円を突破している。*6
劇場名建坪収容人員所在地
岐阜劇場7801,643岐阜市
第一映画劇場3501,278岐阜市
衆楽館220842岐阜市
青雲館235800岐阜市
日本劇場230500岐阜市
那加映画劇場136不明岐阜県那珂町
長浜映画劇場194不明滋賀県長浜市
関自由映画劇場不明不明岐阜県関市

1924年に岐阜土地興業が設立された。それ以前から篠田軍治の実兄の土屋禎一が劇場経営をしており、1920年には篠田も参画している。1929年に経営各館を統合。1954年に篠田が岐阜土地興業の社長となり、1956年に会長となった。篠田は1962年に会長を退いたが、1984年に社長の土屋二郎が死去すると、篠田が社長に復帰して3年間トップを務めた。篠田は1987年に社長を退いて相談役となった。*7

柳ヶ瀬

電気館/三友座/東亜倶楽部
所在地 : 岐阜県岐阜市柳ケ瀬(1927年)、岐阜県岐阜市神田町1(1930年)
開館年 : 1910年
閉館年 : 1929年
1910年電気館として開館。1925年三友座改称。1927年の映画館名簿では「電気館」。1927年東亜倶楽部改称。1930年の映画館名簿では「東亜倶楽部」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「加木鉄帳簿店」など。
旭座
所在地 : 岐阜県岐阜市(1925年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬4丁目(1927年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬町4丁目(1930年)
開館年 : 1894年
閉館年 : 1931年
1894年開館。1925年・1927年・1930年の映画館名簿では「旭座」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はドラッグストア「スギドラッグ柳ケ瀬通店」などが入る「岐阜中日ビル」建物東端部。
文化映画ニュース館
所在地 : 岐阜県岐阜市
開館年 : 1939年6月
閉館年 : 1945年
1939年6月開館。1945年の岐阜空襲で焼失してそのまま閉館。
美殿館
所在地 : 岐阜県岐阜市(1925年)、岐阜県岐阜市若宮町4丁目(1927年・1930年)、岐阜県岐阜市若宮町(1934年)、岐阜県岐阜市若宮町4丁目(1936年)、岐阜県岐阜市若宮町4-8(1941年)、岐阜県岐阜市若宮町(1943年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「美殿館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
岐阜文化映画館
所在地 : 岐阜県岐阜市金町3丁目(1941年)、岐阜県岐阜市金町3(1943年)
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1943年以後1947年以前
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年の映画館名簿では「岐阜文化映画館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
松竹館
所在地 : 岐阜県岐阜市白木町(1927年・1934年・1936年)、岐阜県岐阜市泉町(1941年)、岐阜県岐阜市白木町(1943年・1947年・1949年)
開館年 : 1923年
閉館年 : 1950年
1927年の映画館名簿では「松竹館」。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年・1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「松竹館」。1949年の映画館名簿では「ひかり会館」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「白木町公園」。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1923年開館。1950年閉館。*8

1919年11月、岐阜市役所は白木町から美江寺町に移転した。白木町の市役所跡地には劇場が開館した。昭和初期の写真あり。正面は「松竹館」(洋風の外観)、右は「松竹座」(和風建築)である。*9

1919年11月、岐阜市役所は白木町から美江寺町に移転した。白木町の市役所跡地には劇場の「松竹館」と「松竹座」が開館した。1923年の写真あり。松竹館は映画の、松竹座は芝居の興行を行った。松竹座は戦時中に取り壊されたが、松竹館は1945年の岐阜空襲も免れ、1945年8月19日には早くも営業を再開した。『愛染かつら』は8000人以上の観客を集めた。*10

1922年、衰退の兆しがあった岐阜市北部の発展策として、澤田文治郎らによって岐阜市役所跡地に株式会社松竹座が創立された。演劇場「松竹座」(2009年現在の岐阜県営住宅)と映画館「松竹館」(2009年現在の白木町公園)が建てられた。洋風建築の演劇場の松竹座は3階建てだったが、1945年に強制疎開で取り壊された。*11
大映映画劇場/大映劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市柳ケ瀬町(1947年・1949年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬1丁目(1950年)
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1950年頃
1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1949年の映画館名簿では「大映映画劇場」。1950年の映画館名簿では「大映劇場」。1951年の映画館名簿には掲載されていない。
第一映画劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市日ノ出町(1947年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2丁目(1949年)、岐阜県岐阜市日ノ出町(1950年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2-19(1953年・1955年・1956年)
開館年 : 1943年以後1947年以前
閉館年 : 1956年頃
1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1949年・1950年・1953年・1955年・1956年の映画館名簿では「第一映画劇場」。1957年の映画館名簿には掲載されていない。
セントラル劇場/セントラル映画劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市日ノ出町(1947年)、岐阜県岐阜市神田町4丁目(1949年)、岐阜県岐阜市日ノ出町(1950年)、岐阜県岐阜市神田町4丁目(1953年・1955年)
開館年 : 1946年7月? 1947年?
閉館年 : 1957年
『全国映画館総覧1955』によると1946年7月開館。1947年・1949年の映画館名簿では「セントラル映画劇場」。1950年の映画館名簿では「セントラル劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「セントラル映画劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「岐阜中日ビル」駐車場。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1947年開館。1957年閉館。*12
KBK劇場/平凡劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市柳ケ瀬通5-18(1958年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1958年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「平凡劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「伊藤ビル」。
真砂座/まさご座
所在地 : 岐阜県岐阜市柳ケ瀬通7(1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1947年
閉館年 : 1961年11月頃(ストリップ劇場転換)
Wikipedia : まさご座
1950年・1953年・1955年・1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「真砂座」。1962年の映画館名簿では経営者が玉木喜平、支配人が泉武、木造2階冷暖房付、定員600、洋画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。現在は映画館ではなくストリップ劇場。東海3県で営業を続けている唯一のストリップ劇場。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1956年6月30日の『東海夕刊』に掲載された「真砂座」の広告。7月1日から7月10日に「開館十周年記念特別番組」として「杉村千恵子 大一座四十数名」。幕間として空中サーカス、アクロバット、吉本美代子、吉本恵美子。*13

1963年1月6日の『朝日新聞』岐阜版朝刊には柳ケ瀬のストリップ劇場を紹介する記事が掲載されている。現物は未確認。*14

1968年6月12日の『岐阜日日新聞』に掲載された「ニュー真砂座」の広告。旧まさご座をニュー真砂座と改め、経営陣を一掃して新趣向にて装いも新たに開館する。「ニュー真砂座オープン」「外人超グラマー ローマンリリー嬢来る」「待望ストリップショウ 12日〜15日」とある。*15

1963年頃に現在の建物が開館した。ストリップ劇場は全国でも20館を切り、2018年11月現在では東海地方唯一のストリップ劇場である。インスタグラムなどSNSを駆使して公演情報を発信し、若者や女性の呼び込みに力を入れている。往年とは客層が変化し、純粋に踊りを楽しむ雰囲気がある。出演者・観客・スタッフが一体となってステージを作り上げるのはアイドルのライブと同じである。常連客の「タンバさん」がタンバリンを鳴らし、やはり常連客の「リボンさん」がリボンテープを舞わせる。客席はすり鉢状であり、絨毯の上に靴を脱いで上がる。寝転んでみてもいいし、飲食も自由である。*16

1992年の雑誌『ぎふ文化』には道下淳「赤線地帯とストリップ」という記事が掲載されている。現物は未確認。*17
光映画劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市加納上本町2-17(1958年・1960年)、岐阜県岐阜市加納上本町(1962年)
開館年 : 1956年6月30日
閉館年 : 1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「光映画劇場」。1962年の映画館名簿では経営者は喬木市太郎、支配人は高木修一、木造1階冷暖房付、定員238、東宝・松竹を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図には掲載されていない。跡地は「河合外科・整形外科」。

1956年6月30日、岐阜市加納上本町2-17に「光映画劇場」(光映劇)が開館した。3月下旬に起工していた。木造平屋建、定員270人。上映系統は松竹と東宝の二番。経営は高木市太郎。*18
黒野劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市黒野仲ノ町(1957年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1963年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「黒野劇場」。1962年の映画館名簿では経営者は恩田正雄、支配人は小林定、木造1階暖房付、定員240、邦画を上映。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では発見できず。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「共栄電器」。最寄駅はJR東海道本線岐阜駅。

(※黒野劇場とは異なる劇場の可能性が高い)1987年現在の黒野西町の公民館の場所には「黒野三栄座」があり、芝居や映画などの興行を行っていた。*19
加納劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市加納本町4丁目(1958年)、岐阜県岐阜市加納本町3(1960年)、岐阜県岐阜市加納本町(1963年)、岐阜県岐阜市加納本町3(1964年)
開館年 : 1955年7月14日
閉館年 : 1964年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「加納劇場」。1960年の映画館名簿では鉄筋造1階、定員300、東映・新東宝・日活を上映。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「加納劇場」。1964年の映画館名簿では経営者が大野春道、支配人が大野春一、鉄筋造1階、定員300、日活・大映を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では跡地に「加納パチンコ園」。1970年のマツカサ岐阜市住宅明細地図では跡地に「加納園パチンコ」。1977年の岐阜市住宅精密地図では跡地に「加納園パチンコ」。跡地は「大野春堂加納店」。最寄駅はJR東海道本線・高山本線岐阜駅。

1955年7月14日、岐阜市加納町に「加納劇場」が開館した。邦洋二番館。定員300席。支配人は小野春道。岐阜市の常設館は18館となった。*20
国際劇場/岐阜国際劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市真砂町3-10(1958年)、岐阜県岐阜市新栄町7(1960年)、岐阜県岐阜市真砂町3-10(1963年)、岐阜県岐阜市新栄町7(1966年)
開館年 : 1957年
閉館年 : 1968年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「国際劇場」。1966年の映画館名簿では「岐阜国際劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ワシンビル」。最寄駅はJR東海道本線・高山本線岐阜駅。

1957年開館。1968年閉館。*21

1955年1月30日、岐阜市真砂町13丁目に「国際劇場」が開館した。邦画二番館。鉄筋造2階建て、定員500人。支配人は市八良悟。*22
岐阜セントラル劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市吉津町1-21(1966年・1968年)
開館年 : 1965年頃
閉館年 : 1968年頃
1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1968年の映画館名簿では「岐阜セントラル劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が吉田興業、支配人が松浦由郎、鉄筋造3階冷暖房付、定員268、成人映画を上映。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「岐阜信用金庫本店」建物中央北側。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。
満鉄会館/大映満鉄会館/ニュー東映/岐阜スカラ座(神室町)
所在地 : 岐阜県岐阜市日ノ出町(1947年)、岐阜県岐阜市神室町(1949年・1950年)、岐阜県岐阜市神室町1(1953年)、岐阜県岐阜市神室町1-20(1955年)、岐阜県岐阜市神室町1-5(1958年・1960年・1963年)、岐阜県岐阜市神室町1-4(1966年)
開館年 : 1928年9月、1947年、1960年12月30日
閉館年 : 1968年
『全国映画館総覧1955』によると1928年9月開館。1947年・1949年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「満鉄会館」。1961年大映満鉄会館改称。1961年ニュー東映改称。1963年の映画館名簿では「ニュー東映」。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「ニュー東映」。1963年岐阜スカラ座改称。1966年の映画館名簿では「岐阜スカラ座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2018年時点で工事用地。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1960年9月28日、岐阜市神室町1-5の「満鉄会館」は改築に着工した。1960年内に完成予定である。スタジアム式、鉄筋コンクリート造。経営は古川一男。*23

1960年12月30日の『岐阜日日新聞』には「大映満鉄会館」が開館するという広告が掲載されている。「本30日新築開館 皆様に愛される娯楽建築美を総合したデラックス劇場」「大映満鉄会館 完全暖房 大映映画ロードショウ劇場」などとある。12月30日から若尾文子主演の『銀座っ子物語』と市川雷蔵主演の『花くらべ狸道中』を上映し、1月3日から山本富士子主演の『女は夜化粧する』と京マチ子主演の『婚期』を上映する。*24
満映劇場/満映画劇場/岐阜日活/岐阜日活劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市日ノ出町2丁目(1949年)、岐阜県岐阜市日ノ出町1(1953年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2丁目(1955年)、岐阜県岐阜市日ノ出町1-21(1958年)、岐阜県岐阜市日ノ出町1-22(1960年)、岐阜県岐阜市日の出町1-21(1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1946年2月
閉館年 : 1971年
『全国映画館総覧1955』によると1946年2月開館。1946年に満映映画劇場として開館。1949年の映画館名簿では「満映画劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「満映画劇場」。1955年の映画館名簿では「満映劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「満映画劇場」。1961年に岐阜日活に改称。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「満映」。1963年の映画館名簿では「岐阜日活」。1967年の岐阜市住宅地図では「岐阜日活」。1966年・1969年の映画館名簿では「岐阜日活劇場」。1969年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「岐阜日活」。1973年のマツカサの住宅地図では「岐阜日活」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2002年に閉店した「長崎屋岐阜店」の建物廃墟南東部。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

岐阜市日之出町、柳ヶ瀬の中心部にある満映画劇場は古川一男が代表を務める。岐阜県最大の規模を有し、設備も豪華である。1946年4月、古川がいち早く開館させた。1949年4月には火災に遭ったが、同年11月には鉄筋コンクリート造で地階・一階・二階・中二階を持つ411坪、定員1,200人の近代的建築として復興した。『建築文化』1951年5月号にも、歌舞伎座や明治座などとともに近代劇場として掲載されている。演劇舞台設備をはじめ、照明装置も完備し、ローヤルL型最新水冷式映写機、ローヤル製最新切換付アンプ・デラックなどの設備を有している。映画のほかにも、東西の一流芸能人による興行を行っている。*25

岐阜小劇場/岐阜大映劇場(初代)/名画小劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市日ノ出町1丁目(1936年)、岐阜県岐阜市日ノ出町(1941年)、岐阜県岐阜市日ノ出町1(1943年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬町(1947年)、岐阜県岐阜市日ノ出町1丁目(1949年)、岐阜県岐阜市日ノ出町1-32(1950年)、岐阜県岐阜市日ノ出町1(1953年)、岐阜県岐阜市日ノ出町1丁目(1955年)、岐阜県岐阜市日ノ出町1-22(1958年・1960年)、岐阜県岐阜市日の出町1-23(1963年)、岐阜県岐阜市日の出町1-33(1966年)、岐阜県岐阜市日の出町1-23(1969年)
開館年 : 1934年
閉館年 : 1972年4月30日
『全国映画館総覧1955』によると1945年10月開館。1934年に岐阜小劇場として開館。1936年・1941年・1943年・1947年・1949年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「岐阜小劇場」。1961年岐阜大映に改称。1963年の映画館名簿では「岐阜大映劇場」。1966年名画小劇場に改称。1966年・1969年の映画館名簿では「岐阜小劇場」。1967年の岐阜市住宅地図では「小劇場」。1969年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「名映小劇場」。1973年のマツカサの住宅地図では「名映小劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2002年に閉店した「長崎屋岐阜店」の建物廃墟南西部。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1972年4月30日、火災で焼失してそのまま閉館した。*26
岐阜大映劇場(2代)/グランド松竹
所在地 : 岐阜県岐阜市日の出町1-22(1966年・1969年)
開館年 : 1966年
閉館年 : 1972年4月30日
1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「ギフ大映」。1966年に岐阜大映劇場として開館。1966年・1969年の映画館名簿では「岐阜大映劇場」。1967年の岐阜市住宅地図では「岐阜大映」。1969年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「岐阜大映」。1970年にグランド松竹に改称。1973年のマツカサの住宅地図では「岐阜大映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2002年に閉店した「長崎屋岐阜店」の建物廃墟北西部。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1972年4月30日に火災で焼失してそのまま閉館した。*27
長良小劇場/長良映画劇場/岐阜百万弗劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市長良南町(1947年)、岐阜県岐阜市長良橋畔(1949年)、岐阜県岐阜市長良南町(1950年・1953年・1955年・1958年)、岐阜県岐阜市長良菊水町(1960年・1963年)、岐阜県岐阜市長良菊水町1-2(1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1946年4月
閉館年 : 1973年頃
『全国映画館総覧1955』によると1946年4月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「長良小劇場」。1949年・1950年の映画館名簿では「長良映画劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「長良小劇場」。1958年の映画館名簿では「長良劇場」。1960年の映画館名簿では「長良映画劇場」。1963年の映画館名簿では「長良劇場」。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「長良劇場」。1966年の映画館名簿では「長良映画劇場」。1967年の岐阜市住宅地図では「百万弗劇場」。1969年・1973年の映画館名簿では「岐阜百万弗劇場」。1970年・1973年のマツカサの住宅地図では「100万弗劇場」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。1977年の岐阜市精密住宅地図では跡地に「100万弗駐車場」。跡地は「岐阜信用金庫長良支店」北の「ニハオ」。
岐阜劇場/東映岐阜劇場/岐阜東映劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市日之出町2丁目(1936年)、岐阜県岐阜市日之出町(1941年)、岐阜県岐阜市日之出町1(1943年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬町(1947年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2丁目(1949年)、岐阜県岐阜市日ノ出町(1950年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2-25(1953年・1955年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2-35(1958年・1960年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2-25(1963年・1966年・1969年)、岐阜県岐阜市吉野町2-25(1973年)
開館年 : 1921年
閉館年 : 1973年5月
『全国映画館総覧1955』によると1946年3月開館。1921年に岐阜劇場が開館。1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「岐阜劇場」。1961年に東映岐阜劇場に改称。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「東映岐阜劇場」。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「岐阜劇場」。1967年の岐阜市住宅地図では「岐阜劇場」。1969年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「岐阜劇場」。1973年のマツカサの住宅地図では「岐阜劇場」。1973年の映画館名簿では「岐阜東映劇場」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「岐阜タカシマヤ」建物南東部。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1973年5月に閉館した。*28
丸越シネマスコープ劇場/丸越シネスコ劇場/岐阜丸越劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市神田町6-7(1958年)、岐阜県岐阜市神田町8(1960年)、岐阜県岐阜市神田町6-7(1963年)、岐阜県岐阜市神田町6-10(1966年・1969年・1973年・1975年)
開館年 : 1955年
閉館年 : 1975年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「丸越シネマスコープ劇場」。1963年の映画館名簿では「丸越シネスコ劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「岐阜丸越劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「岐阜信用金庫本店」建物入口前の屋外部分。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1955年開館。1975年閉館。*29
自由映画劇場/岐阜自由映画劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市金町(1947年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2丁目(1949年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2(1953年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2丁目(1955年・1958年・1960年)、岐阜県岐阜市日の出町2-15(1963年)、岐阜県岐阜市日の出町2-5(1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1946年、1952年12月
閉館年 : 1974年
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1949年の映画館名簿では「自由映画劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「自由映画劇場」。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「自由劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「岐阜自由映画劇場」。1967年の岐阜市住宅地図では「自由映画劇場」。1969年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「自由映画劇場」。1973年のマツカサの住宅地図では「自由映画劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は質屋「ベストフレンド岐阜柳ヶ瀬店」など。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1946年開館。1974年閉館。自由映画劇場という名称は知名度があったため、1974年以降は西50mにあるニュー衆楽に引き継がれた。*30
日本劇場/岐阜日本劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市吉野町4丁目(1955年・1958年・1960年)、岐阜県岐阜市吉野町4(1963年)、岐阜県岐阜市吉野町4-9(1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年)
開館年 : 1952年12月20日
閉館年 : 1981年3月
『全国映画館総覧1955』によると1953年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「日本劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年の映画館名簿では「岐阜日本劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の住宅地図ではかっこ付きで「日本劇場」。跡地は「河合塾岐阜校」。最寄駅はJR東海道本線・高山本線岐阜駅と名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1952年12月20日、岐阜市の岐阜駅前に松竹封切館「日本劇場」が開館した。岐阜商工奨励館の南隣。鉄筋造3階建て。定員は1階が500、2階が200。総工費2500万円。経営者は薬品問屋の小森小十郎。岐阜土地興業が業務を受け持ち、「衆楽館」支配人の藤戸英男が日本劇場支配人に転任する。*31

1952年12月、国鉄岐阜駅近くに「日本劇場」が開館。座席数は350席だった。洋画を中心に上映し、「洋画の日劇」と呼ばれた。1981年3月に閉館した。2018年には羽島市映画資料館の近藤良一館長が、日本劇場で28年間に上映された2826作品をリスト化して展示した。*32

1952年12月20日、国鉄岐阜駅前に松竹系の封切館「日本劇場」が開館する。館主は小森小十郎、経営は岐阜土地興業、支配人は藤戸英男。鉄筋コンクリート造3階建て。椅子固定座席700席、収容人員約1500人。12月20日は招待披露会を開催し、西川三房門下の「三番●」を上演し、映画『情火』と『娘の晴着』を上映する。一般公開は12月21日からである。建物入口とホール内の写真あり。*33
東海東映劇場/岐阜東海劇場/東海映画劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市金津園加納愛宕町(1955年)、岐阜県岐阜市加納愛宕町19(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年)
開館年 : 1954年12月
閉館年 : 1992年
『全国映画館総覧1955』によると1954年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「東海映画劇場」。1963年の映画館名簿では「東海東映劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「岐阜東海東映劇場」。1973年・1975年・1976年・1978年・1980年の映画館名簿では「岐阜東海劇場」。1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「岐阜東海映画劇場」。跡地は「特別養護老人ホームナーシングケア加納・有料老人ホームファミリーコート加納」。最寄駅はJR東海道本線・高山本線岐阜駅。

1954年1月に『笛吹童子』が公開されたのと同時期に、加納愛宕町に映画館「東海劇場」が開館した。東映・松竹・東宝の封切り作品が各館で上映された後に上映する三番館であり、入場料は子ども10円、大人30円という安さだった。経営は隣接する東海製氷であり、夏季は壁面に冷水を循環させる冷房が効いていた。それからしばらくし、新栄町に「国際劇場」が開館した。やはり子ども10円、大人30円の三番館であり、大映・新東宝・日活作品を上映した。この2館で邦画6会社すべてを鑑賞できることとなった。*34

1962年2月26日付『中日新聞』には岐阜市加納の映画館が火災で全焼したとする記事が掲載されている。館名は不明。現物は未確認。*35
岐阜ニュース劇場/新岐阜ニュース劇場/新岐阜シネマ
所在地 : 岐阜県岐阜市長住町5-6(1960年)、岐阜県岐阜市長住町2-6(1963年)、岐阜県岐阜市長住町2-5(1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1959年
閉館年 : 1992年
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「新岐阜ニュース劇場」。1963年・1966年の映画館名簿では「岐阜ニュース劇場」。1969年・1973年・1975年・1976年・1978年の映画館名簿では「新岐阜ニュース劇場」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「新岐阜シネマ」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。地下にニュース劇場があった「新岐阜ビル」の建物は現存。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1959年に新岐阜ニュース劇場として開館。1972年に新岐阜シネマに改称。1992年に閉館。*36
岐阜東宝・地下劇場/岐阜東宝劇場・岐阜松竹地下劇場/岐阜東宝劇場・岐阜松竹劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市日の出町1-19(1958年)、岐阜県岐阜市日の出町2-19(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1956年6月28日
閉館年 : 1993年1月31日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「岐阜東宝・地下劇場」(2館)。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「岐阜東宝」。1966年の映画館名簿では「岐阜東宝劇場・岐阜地下劇場」(2館)。1967年の岐阜市住宅地図では「岐阜東宝」。1969年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「岐阜東宝(地下劇場)」。1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年の映画館名簿では「岐阜東宝劇場・岐阜松竹地下劇場」(2館)。1973年のマツカサの住宅地図では「岐阜東宝(地下劇場)」。1977年の岐阜市住宅精密地図では「岐阜東宝 土地興旅行社 土地興商事」。1980年の岐阜市住宅精密地図では「岐阜東宝・松竹 土地興旅行社 土地興商事」。1984年・1989年のゼンリン住宅地図では「地下1階 岐阜松竹 岐阜東宝」。1985年・1990年の映画館名簿では「岐阜東宝劇場・岐阜松竹劇場」(2館)。1995年の映画館名簿には掲載されていない。後継館はCINEX。跡地はCINEXビル。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1956年6月24日の『岐阜タイムス』の映画上映案内。土地興行チェーンの欄には岐劇、ギフ東宝、地下劇場、衆楽、ギフ東映、日劇の6館が掲載されており、「ギフ東宝」は「愈々28日開場 全館完全冷房」、「地下劇場」は「愈々28日開場 全館完全冷房」とある。*37

1956年6月25日の『岐阜タイムス』には「岐阜東宝 愈々堂々28日開場」という広告が掲載されている。6月28日には竣工披露超豪華2本立として1日限りで『白夫人の妖恋』と『与太者と若旦那』が上映され、東宝スターの八千草薫、根岸明美、青山京子、山田真二、磯村みどりが挨拶を行う。*38

1956年6月27日の『岐阜タイムス』には「堂々28日開場 岐阜東宝並に地下劇場」という広告が掲載されている。6月28日には開場披露特別豪華番組として1日限りで『白夫人の妖恋』と『与太者と若旦那』が上映され、東宝スターの八千草薫、根岸明美、青山京子、山田真二、磯村みどりが挨拶を行う。6月29日からは『森繁よ何処へ行く』と『与太者と若旦那』が上映される。*39

1956年6月28日の『岐阜タイムス』には「岐阜東宝 地下劇場 本28日開場」という広告が掲載されている。6月28日には竣工披露超豪華2本立として1日限りで『白夫人の妖恋』と『与太者と若旦那』が上映される。東宝スターの八千草薫、根岸明美、青山京子、山田真二、磯村みどりが挨拶を行う。第1回は12時30分、第2回は16時15分、第3階回は20時5分。*40

1956年6月、岐阜土地興行が岐阜東宝と岐阜松竹の2館を開館させた。岐阜東宝のこけら落としは東宝の『白夫人の妖恋』。八千草薫と山田真二が舞台挨拶を行った。岐阜松竹はニュース映画館としてのスタートだった。岐阜東宝では『ゴジラ』や『男はつらいよ』シリーズなどの人気作を上映。劇場通りという通りの名前の由来となった。新たに地下1階・地上8階建ての映画館の建設を計画しており、5階から8階を映画館とする予定。1974年に岐阜東宝で上映した『日本沈没』はその大迫力に貧血で倒れる観客が続出し、何度も救急車が呼ばれた。岐阜市出身の映画監督である神山征次郎は18歳まで岐阜にいたが、「隣の喫茶店でお茶を飲んで映画を観るのがデートの定番じゃったわい」と語る。「わしのデビュー作は地下の松竹で上映させてもらったんじゃよ」。岐阜市長良児童センター長の内藤紀男は「(岐阜)東宝といえば『社長シリーズ』『ゴジラ』『七人の侍』。(岐阜)松竹といえば名監督小津安二郎の作品と、イメージがすぐ結びつくくらいインパクトのある映画館だった」と語る。*41

1993年2月1日の『岐阜日日新聞』の映画上映案内。「ギフ東宝」の欄には「本日限」で『ゴジラvsモスラ』、「ギフ松竹」の欄には「本日限」で『男はつらいよ 寅次郎の青春』と『釣りバカ日誌5』。*42
柳ケ瀬劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市柳ケ瀬通7(1964年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬通7-4(1966年・1969年・1970年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年)
開館年 : 1964年、1970年5月1日(ビル化)
閉館年 : 1995年
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1966年・1969年・1970年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「柳ケ瀬劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が玉木興業、支配人が玉木基雄、木造1階冷暖房付、定員224、邦画を上映。1973年の映画館名簿では経営会社は玉木興業、経営者・支配人ともに玉城喜義、鉄筋造5階、300席、邦画を上映。1980年の映画館名簿では経営会社は名商エンタープライズ、経営者が戸倉繁、支配人が近藤津郎、鉄筋造1階、198席、洋画・成人映画を上映。1996年の映画館名簿には掲載されていない。「柳ケ瀬観光ビル」(ヤナカンビル)は現存。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1964年開館。1971年には同一地点に「ヤナカンビル」を新築して入居。1995年閉館。*43

1970年4月30日の『岐阜日日新聞』には柳ヶ瀬観光ビル(通称ヤナカン)が誕生するという広告が掲載されている。「5月1日オープン 総合娯楽センター 柳ケ瀬観光ビル誕生」とある。1階は「柳ケ瀬劇場」とゲームコーナー、2階は麻雀センター 柳元荘、3階はサントリー広場 スリーコイン3が入る。柳ケ瀬劇場の開館番組は『任侠興亡史 組長と代貸』『昭和残侠伝 人斬り唐獅子』『男はつらいよ フーテンの寅』である。*44
岐阜日活/岐阜グランド劇場/グランド大映/テアトル岐阜/満映ピカデリー/岐阜ピカデリー
所在地 : 岐阜県岐阜市日の出町1-17(1958年・1960年)、岐阜県岐阜市日の出町1-22(1963年)、岐阜県岐阜市日の出町1-17(1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1955年
閉館年 : 2001年1月31日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「岐阜日活」。1963年の映画館名簿では「グランド劇場」。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「グランド劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「テアトル岐阜」。1967年の岐阜市住宅地図では「テアトル岐阜」。1969年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「テアトル岐阜」。1973年のマツカサの住宅地図では「ユニー(ほていや)」でありテアトル岐阜は掲載されていない。1975年・1976年・1978年・1980年の映画館名簿では「満映ピカデリー」。1977年の岐阜市住宅精密地図では「ファッションファイブアネックス 2階ピカデリー」。1980年の岐阜市住宅精密地図では「靴のマルトミ 2階ピカデリー」。1984年のゼンリン住宅地図では「マクドナルド 2階ピカデリー映画」。1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「岐阜ピカデリー」。1989年のゼンリン住宅地図では「マクドナルド 2階岐阜ピカデリー映画」。1995年のゼンリン住宅地図では「1階マクドナルド 2階岐阜ピカデリー映画」。2000年のゼンリン住宅地図では「1階マクドナルド岐阜近鉄店 2階岐阜ピカデリー映画」。2000年の映画館名簿では経営会社が岐阜ピカデリー、経営者が加藤潤一、支配人が広原寿一、鉄筋造2階、246席、洋画を上映。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「クラブG」。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1955年に岐阜日活映画劇場として開館。1961年に岐阜グランド劇場に改称。1961年にグランド大映に改称。1964年にテアトル岐阜に改称。1974年に満映ピカデリーに改称。1984年に岐阜ピカデリーに改称。2001年1月31日閉館。*45

1956年に岐阜日活として開館。1980年代に名古屋市の洋画配給会社の傘下に入って洋画封切館となり、1983年の高倉健主演『南極物語』は連日満員となり、入れ替え時に非常口を開放したほどだった。1990年代後半のシネコン進出の波を受け、シネコンと上映作品が重複するピカデリーの客足は鈍った。2001年1月13日から「さよならフェスティバル」と題して『風と共に去りぬ』などの名作を上映し、1月31日をもって閉館する。*46

2003年末に建物が岐阜ピカデリーから不動産会社の野々垣産業の手に渡った。岐阜ピカデリー跡地に2004年7月末にイベントホール「club-G」が開館する。映画館の音響装置をライブ用に転用。スクリーンはそのまま残す。座席はすべて取り除いて立ち見とし、400-500人をスタンディングで収容可能に。可動式のいすも150席ある。後方にはドリンクカウンターを設置。*47
シネアールイマージュ
所在地 : 岐阜県岐阜市柳ヶ瀬通1-10(1995年・2000年)
開館年 : 1991年11月22日
閉館年 : 2001年8月31日
1977年の岐阜市住宅精密地図では後の近鉄アミコの場所に「柳ヶ瀬ビル」。1989年のゼンリン住宅地図ではイマージュと同一ビルで「近鉄アミコ」であり4階には「喫茶うらら」と「白木」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。1995年・2000年の映画館名簿では「シネアールイマージュ」。1995年・2000年のゼンリン住宅地図では「イマージュ 4階 シネマ イマージュ」。2000年の映画館名簿では経営会社がグローバルエンターテイメント、経営者が辻英二、支配人が多田昭代、鉄筋造4階、74席、洋画を上映。跡地は「オアシス柳ケ瀬ビル」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1991年11月にアート系ミニシアターとして開館。岐阜県では一般上映されにくいアート系の作品を隔月で「ナイトシアター」として上映し、固定客をつかむなど人気を集めている。1996年11月には開館5周年を迎え、11月23日からは『天使の涙』(ウォン・カーウァイ監督)、『愛のめぐりあい』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督)、『キッズ・リターン』(北野武監督)の3作品を1週間ずつ記念上映する。*48

岐阜市柳ケ瀬通のシアターペルルが1991年11月22日に新劇場の「シネアール・イマージュ」を開館させる。場所はシアターペルルの東隣。ファッションビル「イマージュ」(旧近鉄アミコ)の4階。74席。11月22日から12月6日までの上映作品は『エンジェル・アット・マイ・テーブル』。12月7日から1月3日は『おしゃれ泥棒』と『いつも二人で』と『暗くなるまで待って』のオードリー・ヘップバーン主演3作品。11月22日には開館記念イベントとして室井滋のサイン会やトークショーなどを開催。*49

ペルル直営。ファッションビル「イマージュ」の改装に合わせて6000万円を投じて開館した。高級素材を用いた大き目のソファ席が74席。ロビーではコーヒーの無料サービス。*50

11月28日から12月18日まで、オードリー・ヘップバーンの『麗しのサブリナ』、エリザベス・テーラーの『陽のあたる場所』、イングヂッロ・バーグマンの『カサブランカ』を上映。カサブランカは岐阜市初のニュープリント版の上映。*51

1993年5月29日から上映する『ロレンツォのオイル 命の詩』の午前中の入場者にコーヒーとチーズケーキのモーニングサービスを提供。コーヒーとチーズケーキは好きなだけ食べることができる。平日のみ。*52

1993年8月から、午後7時以降に上映するナイトシアターを開催。偶数月の第二水曜・木曜。第1回は8月18日・19日のビクトル・エリセ監督作『マルメロの陽光』。スペインの画家であるアントニオ・ロペスを題材としている。*53

1991年11月にシアターペルルの姉妹館として開館。2001年6月には入居する柳ケ瀬ビルが岐阜地方裁判所に破産申請し、同所での営業が困難となったため、8月末をもってやむなく閉館する。20-30代の女性(ヤングミセス層)が客層。*54
岐阜豊富館/豊富館/岐阜豊富東映/岐阜豊富劇場/岐阜豊富東映劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市柳ケ瀬町4(1953年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬1丁目(1955年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬通1丁目(1958年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬通1-2(1960年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬1-5(1963年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬通1-2(1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1906年、1946年3月
閉館年 : 2002年9月13日
Wikipedia : 豊富座
『全国映画館総覧1955』によると1946年3月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「豊富座」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「豊富館」。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「豊富館」。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「岐阜豊富館」。1967年の岐阜市住宅地図には掲載されていない。1969年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「豊富館」。1973年のマツカサの住宅地図では「豊富館 2階中京企画」。1976年の映画館名簿では「豊富館」。1977年・1980年の岐阜市住宅精密地図では「豊富館」。1978年の映画館名簿では「岐阜豊富東映劇場」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「岐阜豊富東映」。1984年・1989年のゼンリン住宅地図では「近鉄別館 岐阜豊富東映」。1995年の映画館名簿では「岐阜豊富劇場」。2000年の映画館名簿では「岐阜豊富東映劇場」。2000年のゼンリン住宅地図では「岐阜豊富東映 ダイソー」。2000年の映画館名簿では経営会社が東映、経営者が高岩淡、支配人が中村重信、鉄筋造1階、267席、東映を上映。跡地はドラッグストア「スギドラッグ柳ケ瀬通店」などが入る「岐阜中日ビル」北20mの空き地。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1976年6月19日、岐阜市柳ケ瀬通の映画館「豊富館」が「岐阜豊富東映」に社名を変更し、岐阜市唯一の東映封切館となった。これを記念して、当日14時から東映女優の橘麻紀と美濃市出身の歌手市原まゆみが舞台挨拶とサイン会を行った。この日には『脱走遊戯』と『戦後猟奇犯罪史』が封切られた。*55

2002年、岐阜市の柳ケ瀬商店街にある映画館「豊富東映劇場」(とよとみとうえい)が閉館する。1906年、旧・岐阜近鉄百貨店の跡地前に芝居小屋として開館し、戦後には映画館に転換した。*56

2002年9月13日をもって「岐阜豊富東映劇場」は閉館する予定。近年に岐阜市郊外に相次いで開館したシネコンの影響。旅館を経営していた江崎氏が1906年に芝居小屋の豊富座を設立し、1945年頃に映画館に転換。定員は280人、座席は267席。1980年代初頭の全盛期には1日1700人以上の観客があり、切符売り場から神田町通りまで行列ができたことも。東映中部支社との契約が切れるのを機に閉館を決意。なお、東映中部支社は名古屋市の直営館の名古屋東映も9月13日に閉館させる。*57

2001年に閉館した映画館「豊富東映劇場」を改装し、2007年12月8日に大衆演劇の常設劇場「豊富座」が開館する。東海地方を拠点とする劇団「葵一門」の拠点となる予定であり、葵一門以外の劇団も出演する。改装で舞台部分を広げ、花道を設置した。*58

2011年7月1日、柳ケ瀬の豊富座が神田町の岐阜メルサファッション館に移転して、ぎふ葵劇場として開館する。191席の豊富座から、客席数300席の大型劇場に生まれ変わる。8階の旧音楽ホールを改装。豊富座は6月末で閉館。*59

2011年7月1日、ぎふ葵劇場が開館する。客席数は300席であり、大衆演劇の常設劇場としては全国屈指の規模。開館記念式典には細江茂光岐阜市長や代議士が出席。開館記念公演の一部には早乙女太一も出演。*60
柳ヶ瀬座/金華劇場/金華映画劇場/岐阜金華劇場/金華ロマン劇場/シアターペルル
所在地 : 岐阜県岐阜市柳ケ瀬町(1949年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬通(1950年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬町3(1953年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬3丁目(1955年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬2丁目(1958年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬通2(1960年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬2(1963年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬通2-1(1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1945年、1956年7月15日(金華劇場)、1987年11月20日(シアターペルル)
閉館年 : 2005年12月2日
Wikipedia : シアターペルル
『全国映画館総覧1955』によると1947年8月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年の映画館名簿では「金華ニュース劇場」。1950年の映画館名簿では「金華劇場」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「金華映画劇場」。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「金華映画」。1966年・1969年の映画館名簿では「岐阜金華劇場」。1967年の岐阜市住宅地図では「金華映劇」。1969年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「金華映画劇場」。1973年のマツカサの住宅地図では「金華映画劇場」。1973年の映画館名簿では「岐阜金華映画劇場」。1975年・1976年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「金華ロマン劇場」。1977年の岐阜市住宅精密地図では「金華ロマン劇場」。1980年の岐阜市住宅精密地図では「リバーサイド柳ケ瀬 4階金華ロマン劇場」。1984年のゼンリン住宅地図では「リバーサイド柳ケ瀬」であり金華ロマン劇場は掲載されていない。1989年のゼンリン住宅地図では「Perle シアターペルル」。1990年・1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「シアターペルル」。1995年・2000年のゼンリン住宅地図では「ペルルビル 4階 シアターペルル」。2000年の映画館名簿では経営会社がグローバルエンターテイメント、経営者が辻英二、支配人が多田昭代、鉄筋造4階、139席、洋画を上映。跡地は「オアシス柳ケ瀬ビル」。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1956年7月15日、岐阜市に「金華劇場」が開館した。支配人は辻喜久雄。*61

1987年、柳ケ瀬の中心部にあるビルの4階に、139席の映画館として「シアターペルル」が開館。ロードショー作品と単館系作品の双方を上映してきた。しかしシネマコンプレックスの隆盛で客足が伸び悩んだことから、2001年8月には単館系専門の映画館にリニューアルされた。岐阜県で初となる単館系専門の映画館である。8月25日からはアート系アメリカ映画『彼女を見ればわかること』が上映され、若い女性の人気を得た。*62

昔から柳ケ瀬は「映画の町」だったが、映画産業が斜陽化するにつれて各映画館の観客数も減少しているが、「シネアール・イマージュ」(1991年開館・74席)と「シアター・ペルル」(1987年開館・75席)はアート系作品で女性客を中心に支持を集めている。双方とも中嶋屋が運営している。1992年のシアター・ペルルの売り上げは、前年比20%増加。館内での飲食を原則禁止とし、その代わりにロビーでコーヒーのサービスをするなど、雰囲気作りに気を使っている。*63

1986年に開館。良質な映画を上映するミニシアターの先駆け的存在、全国的にも珍しいミニシアターだった。2005年12月2日をもって閉館。入居するペルルビルを含めた再開発事業が進んでいるため。*64
衆楽館/岐阜衆楽70ミリ大劇場・岐阜ニュー衆楽館/岐阜衆楽70ミリ大劇場・岐阜ニュー衆楽/衆楽70ミリ劇場・岐阜自由映画劇場/衆楽70ミリ劇場・自由劇場/衆楽1・衆楽2
所在地 : 岐阜県岐阜市(1925年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬2丁目(1927年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬町2丁目(1930年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬町(1934年)、岐阜県岐阜市日之出町2丁目(1936年)、岐阜県岐阜市日之出町2-17(1941年)、岐阜県岐阜市柳町(1943年)、岐阜県岐阜市(1947年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2丁目(1949年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2(1950年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2-15(1953年・1955年)、岐阜県岐阜市日ノ出町1-15(1958年・1960年)、岐阜県岐阜市日の出町3-15(1963年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2-15(1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1920年、1955年4月3日(建て替え)
閉館年 : 2006年4月10日
『全国映画館総覧1955』によると1945年2月開館。1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「衆楽館」。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「衆楽館」。1966年の映画館名簿では「岐阜衆楽70ミリ大劇場・岐阜ニュー衆楽」(2館)。1967年の岐阜市住宅地図では「衆楽館」。1969年の映画館名簿では「岐阜衆楽70ミリ大劇場・岐阜ニュー衆楽館」(2館)。1969年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「ニュー衆楽館」。1973年の映画館名簿では「岐阜衆楽70ミリ劇場・岐阜ニュー衆楽」(2館)。1973年のマツカサの住宅地図では「ニュー衆楽館」。1975年の映画館名簿では「岐阜衆楽70ミリ劇場・岐阜自由映画劇場」(2館)。1976年の映画館名簿では「衆楽70ミリ劇場・岐阜自由映画劇場」(2館)。1978年の映画館名簿では「岐阜衆楽70ミリ劇場・岐阜自由映画劇場」(2館)。1980年の映画館名簿では「衆楽70ミリ劇場・岐阜自由映画劇場」(2館)。1977年の岐阜市住宅精密地図では「ニュー衆楽館 自由劇場」。1980年の岐阜市住宅精密地図では「衆楽70ミリ 自由劇場」。1984年・1989年のゼンリン住宅地図では「自由劇場 衆楽70ミリ劇場」。1985年の映画館名簿では「衆楽70ミリ劇場・自由映画劇場」(2館)。1990年の映画館名簿では「衆楽70ミリ劇場・自由劇場」(2館)。1995年の映画館名簿では「衆楽劇場・自由劇場」(2館)。2000年・2005年の映画館名簿では「衆楽1・衆楽2」(2館)。2000年の映画館名簿では経営会社が岐阜土地興業、経営者が篠田元弘、支配人が藤田共治、鉄筋造2階、442席、邦画と洋画を上映。2000年のゼンリン住宅地図では「自由劇場 衆楽劇場」。跡地は「無印良品岐阜高島屋店」が入る「岐阜高島屋別館」。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1955年4月3日、岐阜市の「岐阜衆楽館」が開館した。開館番組はMGM『皇太子の初恋』。2月1日から工費3500万円で本格的大改築を行っていた。鉄骨鉄筋造、3階建て。冷暖房完備。椅子席850。シネスコ設備を完備。*65

1920年に衆楽館として開館。1945年に木造で再建。1954年に鉄筋コンクリート造化。1965年に衆楽70ミリ劇場に改称。1999年に衆楽1に改称。2006年閉館。*66

1964年に衆楽を改築して2館化しニュー衆楽として開館。1975年には東50mにあった劇場の名を冠して自由劇場に改称。1999年に衆楽2に改称。2000年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造1階部分180席、経営会社は岐阜土地興業、経営者は篠田元弘、支配人は藤田共治、邦画と洋画を上映。2006年閉館。跡地は「岐阜高島屋別館無印良品岐阜高島屋店」。*67

岐阜市日ノ出町の「自由劇場」は洋画の封切館として親しまれていたが、1999年3月6日の改装オープンを機に名称を「衆楽2」に改称する。自由劇場は岐阜市内に映画館7館を持つ岐阜土地興行が経営しており、柳ケ瀬商店街の一角にある鉄筋3階建てビルの1階にある。2階は「衆楽劇場」が入っている。戦前の自由劇場は、現在の高島屋岐阜店の北東にあった。1945年7月の岐阜空襲で焼失したが、約8か月後にバラック建てで再開館し、洋画の封切館として知られた。この映画館は1974年に閉館となったが、現在の自由劇場の場所にあった映画館を自由劇場に改称し、名前を引き継いだ。改装オープンを機に、座席数は224席から180席に削減され、音響設備の充実化が図られた。*68

2006年4月3日、岐阜土地興行の篠田元弘社長は「衆楽館」を今月10日に閉館することと発表した。衆楽館は岐阜高島屋に隣接しており、跡地には商業施設を新築して年内に開業する予定。衆楽館は1920年に開館した老舗であり、終戦後にはいち早く復興した。一日8000人の観客を集めた時期もあり、柳ヶ瀬の隆盛を誇る場所の一つである。1982年に上映した『E.T.』は3か月間で観客10万人を集めた。郊外のシネマコンプレックス(シネコン)に押されて観客数は伸び悩み、近年は3分の1ほどに客足が落ちていた。閉館の理由には観客数の低迷に加えて老朽化もある。4月8日から4月10日までは、かつて上映した映画を中心にした特別上映会を開催する。料金は500円。上映スケジュールは8日が『クレーマークレーマー』『荒馬と女』、9日に『未知との遭遇』『裸足の伯爵夫人』。*69

2006年4月3日、岐阜土地興行は「衆楽」の4月10日限りでの閉館を発表した。4月11日にも解体に着手する。2005年10月に岐阜高島屋がリニューアルすると、岐阜高島屋の売上高は前年比10%と好調を維持していたため、岐阜土地興行は岐阜高島屋の北出入口すぐ向かいにある「衆楽」の建て替えを決断した。上映スケジュールは8日が『クレーマークレーマー』『荒馬と女』、9日に『未知との遭遇』『裸足の伯爵夫人』、10日に『ゴッドファーザー』『雨に唄えば』。*70

2006年4月10日をもって、岐阜市の映画館「衆楽館」が閉館する。岐阜土地興行が発表した。岐阜市郊外に複数のシネコンが開館し、客足の伸び悩みが著しいことが理由。衆楽館は1920年に開館した。ここ数年は観客数が最盛期の3分の1ほどに落ち込んでいた。*71

2006年4月10日、岐阜市の柳ケ瀬商店街にある映画館「衆楽館」が閉館する。運営は岐阜土地興業。1920年に開館し、太平洋戦争の戦災で焼失したが、1945年8月19日にはバラック建てで営業を再開した。1955年に現在の建物を開館させたが、約50年が経過して老朽化が進行していた。観客数は20年前の3分の1だという。跡地には2006年中に2階建ての商業施設を建設する。*72
朝日映画劇場/岐阜朝日劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市柳ケ瀬7-7(1958年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬通7(1960年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬7-7(1963年)、岐阜県岐阜市柳ケ瀬通7-7(1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1954年11月21日、1979年12月5日(ビル化)
閉館年 : 営業中
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「朝日映画劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「岐阜朝日映画劇場」。1973年・1975年・1976年・1978年の映画館名簿では「岐阜朝日劇場」。1980年の映画館名簿では「岐阜朝日劇場(建築中)」。1970年の映画館名簿では経営者が玉木興業、支配人が玉木基雄、木造1階冷暖房付、定員224、邦画を上映。1978年の映画館名簿では経営会社が玉木興業、経営者・支配人ともに玉木喜義、鉄筋2階冷暖房付、定員230、成人映画を上映。1980年の映画館名簿では経営会社は玉木興業、経営者・支配人ともに玉木喜義、建築中。1982年の映画館名簿では経営会社は玉木興業、経営者・支配人ともに玉木喜義、鉄筋造1階、230席、成人映画を上映。1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「岐阜朝日劇場」。2000年の映画館名簿では経営会社が玉木興業、経営者・支配人ともに玉木喜義、鉄筋造1階、98席、成人映画を上映。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1954年11月20日の『東海夕刊』には「朝日映画」の広告が掲載されている。リタ・ヘイワーズ主演の『情熱の女サロメ』とタイロン・パワー主演の『荒野の襲撃』を上映している。「開館21日」「豪華2本立で50円」「マサゴ座前」とある。*73

1979年12月5日の『岐阜日日新聞』には西柳ヶ瀬にビジネスホテルアサヒが開業するという広告が掲載されている。同時に「朝日劇場」が開館する。*74

1979年12月5日の『岐阜日日新聞』には「朝日劇場」の広告が掲載されている。『にっぽん昔ばなし 夜這い』『団地妻のけぞり』『ワイセツ? 看護婦寮』を上映している。「オープン特別記念番組!(粗品進呈)」「新しい感覚! 新しい設備のミニ劇場!!」「西柳ヶ瀬通(ヤナカンビル前)」とある。*75

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
演技座/青雲館/岐阜松竹/スカラ座/岐阜東映/ロイヤル劇場
所在地 : 岐阜県岐阜市柳ケ瀬町(1930年)、岐阜県岐阜市日之出町(1934年・1936年・1941年)、岐阜県岐阜市日之出町1(1943年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2丁目(1949年)、岐阜県岐阜市日ノ出町(1950年)、岐阜県岐阜市日ノ出町1-20(1953年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2-15(1955年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2(1958年・1960年)、岐阜県岐阜市日ノ出町2-10(1963年)、岐阜県岐阜市日の出町1-20(1966年・1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年)、岐阜県岐阜市日の出町1-20-1(1985年)、岐阜県岐阜市日の出町1-20(1990年・1995年・2000年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1926年、1955年11月23日、1977年12月17日(ビル化)
閉館年 : 営業中
Wikipedia : ロイヤル劇場
『全国映画館総覧1955』によると1948年5月開館。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「青雲館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「青雲館」。1958年・1960年の映画館名簿では「岐阜東映」。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「岐阜松竹」。1963年・1966年の映画館名簿では「岐阜松竹」。1967年の岐阜市住宅地図では「スカラ座」。1969年・1973年の映画館名簿では「岐阜スカラ座」。1969年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「スカラ座」。1973年のマツカサの住宅地図では「スカラ座」。1975年の映画館名簿では「岐阜東映」。1976年の映画館名簿では「岐阜東映劇場」。1976年の映画館名簿では経営会社は岐阜土地興業、経営者は土屋二郎、支配人は渡辺照雄、鉄筋造2階冷暖房付、477席、東映を上映。1977年の岐阜市住宅精密地図では「岐阜東映」。1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「ロイヤル劇場」。1978年の映画館名簿では経営会社は岐阜土地興業、経営者は土屋二郎、支配人は記載なし、鉄筋造4階冷暖房付、300席、洋画を上映。2000年の映画館名簿では経営会社は岐阜土地興業、経営者は篠田元弘、支配人は村瀬裕司、鉄筋造4階、300席、邦画と洋画を上映。柳ヶ瀬ロイヤルビル4階。建物は2017年にロイヤル40としてリニューアルオープン。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1955年11月23日、岐阜市の「青雲館」が改築されて「岐阜東映劇場」として開館した。鉄筋造3階建て、定員700人、冷暖房完備。経営者は岐阜土地興行、支配人は安藤貞一。*76

1955年11月22日の『岐阜タイムス』朝刊には、11月23日に「岐阜東映青雲館」が開館するという広告が掲載されている。竣工披露は市川右太衛門主演の『薩摩飛脚』と片岡千恵蔵主演の『荒獅子判官』。11月23日には片岡千恵蔵、植木千恵、植木基晴、月形龍之介、長谷川裕美子、三笠ひろ子らが舞台挨拶を行う。鉄骨鉄筋コンクリート造3階建て。冷暖房通風など近代設備を有する。*77

1955年11月23日の『中日新聞』岐阜版朝刊には「岐阜東映青雲館」が開館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*78

1926年に青雲館として開館。1945年に演技座に改称。『全国映画館総覧1955』によると1948年5月開館。1948年に青雲館に改称。1955年に岐阜東映に改称。1961年に岐阜松竹に改称。1968年にスカラ座に改称。1972年に岐阜東映に改称。1977年にロイヤル劇場に改称。*79

1955年11月23日、岐阜市に「岐阜東映劇場」が開館した。8月中旬に改築に着手しており、「青雲館」から改称された。鉄筋造3階建、冷暖房完備、定員700人。*80

1977年12月17日、岐阜市柳ケ瀬のロイヤルプラザ4階に洋画ロードショー館「ロイヤル劇場」が開館する。開場記念番組は『007 私を愛したスパイ』であり、会館当日はオールナイト上映を行う。先着2000人に粗品を進呈する。1階はロイヤルプラザ、2階はくつろぎのフロアー、3階はロイヤルホールである。*81

岐阜市柳ヶ瀬商店街のロイヤル劇場ビルには、長らく映画館と喫茶店以外には数店舗が入るのみだった。しかし、この約2年間で新たに10店舗が入居し、2018年9月には開いていた12区画がすべて埋まることとなった。ビルは5階建てであり、1階と2階がテナント、3階が貸しホール、4階が映画館、5階が屋上。2017年3月にアパレルブランド「ブルーブルー岐阜」が入居すると、同店の集客力が話題を呼んで、飲食店、服飾雑貨店、家具店、ドライフラワー店などの入居が相次いだ。*82

「岐阜ロイヤル劇場」に言及している書籍として、大屋尚浩『日本懐かし映画館大全』辰巳出版、2017年がある。*83

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
CINEX1・2・3・4
所在地 : 岐阜県岐阜市日の出町2-20 シネックス(1996年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1995年3月22日
閉館年 : 営業中
Wikipedia : CINEX
1995年の映画館名簿には掲載されていない。1995年のゼンリン住宅地図では後の映画館の場所に「建築中(岐阜松竹)(岐阜東宝)」。1996年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「CINEX1・2・3・4」(4館)。前身館は岐阜東宝劇場・岐阜松竹地下劇場。最寄駅は名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅。

1995年3月22日に開館。総工費約30億円。地下1階・地上8階建て。延べ床面積は5700平方メートル。*84

1995年3月22日、岐阜市の柳ケ瀬地区に「CINEX」が開館する。映画館を核とし、アミューズメント施設、イタリア料理店、カラオケ店などを集約した複合商業ビル。地下1階・地上8階建てのビル。5階から8階に映画館「CINEX」が入る。経営は岐阜土地興業。この土地には「岐阜東宝」と喫茶店があったが、1991年3月に喫茶店が火災で焼失し、1992年1月には岐阜東宝が閉館。岐阜土地興業と岐阜市が共同で優良再開発建築物整備促進事業を進めた。*85

1995年3月22日、地下1階・地上8階建ての複合レジャービル「シネックス」が開館。映画館経営の岐阜土地興行と喫茶店経営の粥川商会が約30億円で共同建設。5階から7階には4館の映画館があるが、4館がそろうのは岐阜県で初めて。69席から292席の中小規模館でありる。1階から3階はアミューズメント施設「ギーゴ」。1階は喫茶店とハンバーガーショップ。地下はイタリア料理店と台湾料理店。4映画館で年間40万人の利用を見込む。*86

1995年3月22日、岐阜土地興業によって「CINEX1・2・3・4」が開館した。4スクリーン計643席。*87

岐阜東宝と岐阜松竹の2館を取り壊して、1995年3月22日に開館したシネックス。開館後3か月時点では観客数が3割増となった。4スクリーン643席にくわえて、飲食店、カラオケスペース、ゲームセンターなどを加えたアミューズメントビル。岐阜県で初めて車いすスペースを設置。*88
シネタウン岐阜/TOHOシネマズ岐阜
所在地 : 岐阜県羽島郡柳津町丸野3丁目3(2002年)、岐阜県羽島郡柳津町丸野3-3-6(2004年・2005年)、岐阜県岐阜市丸野3-3-6(2010年)、岐阜県岐阜市柳津町丸野3-3-6(2015年)、岐阜県岐阜市柳津町丸野3-3-6 カラフルタウン岐阜2階(2020年)
開館年 : 2000年11月10日
閉館年 : 営業中
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2002年・2004年の映画館名簿では「シネタウン岐阜1-10」(10館)。2004年11月11日TOHOシネマズ岐阜改称。2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズ岐阜1-10」(10館)。最寄駅は名鉄竹鼻線柳津駅。

2000年11月10日、羽島郡柳津町丸野3-3-6 カラフルタウン岐阜に「シネタウン岐阜」が開館した。10スクリーンを有する。*89

2000年11月10日、岐阜県羽島郡柳津町のカラフルタウン岐阜に、東宝系シネコン「シネタウン岐阜」が開館した。10スクリーン。イトーヨーカドーなどのショッピングモールに併設されている。駐車場は3000台分。名鉄羽島線柳津駅から徒歩8分。*90

2005年10月29日から12月16日にはTOHOシネマズ岐阜で、美濃市が舞台の「ミラクルバナナ」を上映。愛知・岐阜両県の上映館8館では観客動員数が最多となっており、12月4日時点で4021人の観客を集めている。錦織良成監督、小山田サユリ主演。先行上映では錦織監督と出演者らがTOHOシネマズぎふで舞台挨拶を行った。*91